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新しいブログは、
巡礼者の小道です。
よろしくお願いいたします。
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Mission Timothéeの賛美について、さなえさんに記事を書いてくださるようお願いしたところ、快く引き受けてくださいました。ありがとうございます。とてもすばらしい内容です。ぜひお読みください。




力と清さ
Mission Timothéeの賛美の霊性



このブログで以前紹介されたカロリーヌさんは現在、フランスに多くの枝教会を持つMission Timothéeの教会に通われています。

20歳で信仰を与えられる以前から、賛美歌がとても好きだった私は、現在でも時間があるとyoutubeなどで世界中の教会で歌われる様々な言語の賛美を聞いています。

きぬこさんとカロリーヌさんを通してMission TimothéeのHPにあるオリジナルの賛美曲を教えて貰ったのですが、後でHPのトップからHymns→Liste des chantsを開くと、彼らの教会で歌われる賛美が26ページに渡って紹介されており、多くの楽曲の音源を聞くことが出来るのが分かりました。

三角の再生の印のある曲のタイトルをクリックすると、音源を聞くことの出来る画面に切り替わります。またPartitionという部分をクリックすると楽譜が表示されます。

全てではありませんが、多くのオリジナル賛美の楽譜が現在アップされています。

何度もこのサイトを訪問しているのですが、楽譜などのコンテンツが少しずつ増えていて、この教会が賛美を大切なものと位置づけ、伝道のために積極的に分かち合いをしようとしているのが伺えます。

カロリーヌさんによると、韓国のある教会からも「礼拝でMission Timothéeの賛美を歌いたい」との声が届いているそうです。

海外の多くの教会が伝道のためにyoutubeにチャンネルを持っています。Mission Timothéeのチャンネルもあるのではと探してみると、多くの賛美がアップされている事が分かりました。

映像を見る事で、さらにこの教会の賛美に関するポリシーを窺い知る事が出来ました。彼らの賛美の顕著な特徴として、次のようなものが挙げられると思います。

① 賛美者の声と生楽器による演奏
② 現代音楽とは異なる、新しいけれど素朴な賛美
③ 力と清さ、信仰の証としての賛美



現在欧米の多くの教会では電子楽器やバンド演奏を積極的に取り入れ、非常に現代的なCCMを礼拝賛美として採用しています。

特に人数の多い教会ではその傾向が顕著であると言われますが、Mission Timothéeの賛美の奏楽は(私の見る限り)全て生楽器で行われ、どの曲も賛美者の声が主体となるような控えめなアレンジが施されています。

曲によってはリードパートを歌うソリストのような方々はおられますが、一人のワーシップリーダーが大々的に歌い上げるのではなく、大勢の賛美者たちが一緒に歌うというスタイルが取られており、個人や奏楽者が目立つのを避け、あくまで「共に賛美を捧げる」というスタンスであるのが伝わってきます。

彼らオリジナルの新しい賛美も数多く歌われているのですが、どの楽曲にも現代的なCCMにしばしば見られるような派手な音楽的装飾や難解なメロディ展開がなく、楽譜を見ても、オルガンでそのまま弾くことの出来るような素朴なアレンジのものばかりでした。

新しい賛美を追求しつつも、現代的CCMの問題点として挙げられる「音楽的趣向を凝らすことで、霊性や内容の乏しさが覆い隠される」というリスクを極力排除しようとする意図が感じられます。

古典的な賛美曲や、有名なメロディにフランス語の詩を載せた賛美も好んで取り上げられています。


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教会や屋外コンサートで賛美を歌う彼らの映像を最初に見た時、「何かが違う」と感じる部分がありました。

すぐには気がつかなかったのですが、それは彼らの服装や髪形でした。全員がシンプルで慎ましい服装。

男性は短髪・女性は長髪。強制されての事ではないのでしょうが、これは海外のクワイアでも珍しいのではないかと感じました。

教会での短髪の女性は現代では全く珍しくありませんが、海外の教会の映像を見ると、長髪の男性もちらほら見受けられます。

前記事でこの教会が聖書的男性像・女性像を積極的に教えているとお聞きし、彼らの服装や髪形にもその教えが反映されているのかも知れないと感じました。

「新しい歌を主に向かって歌え」聖書には何度もこの言葉が出てきます。リスクを恐れて古い曲しか認めないというあり方は、賛美に大きな制限を加えてしまうでしょう。

Mission Timothéeは新しい曲を生み出し、様々な楽曲を取り上げつつも、現代CCMに多く見られるあり方とは異なる方法論を選んでいます。

多くの教会で豊かな賛美が求められています。

彼らの素朴で霊性豊かな賛美には、私たちも多くを学べる大きな可能性が秘められていると思います。以下はYoutubeにアップされている彼らの賛美の映像の一部です。


↓ヨハネの福音書13章34節の「私があなた方を愛したように、あなた方も愛し合いなさい。」などの4箇所の新約聖書からの御言葉がそのまま歌われています。
タイトルは「イエス・キリストは言われた」という意味です。




↓非常に感動的なメロディと内容の曲です。救われた感謝と「私の人生を捧げます。」という神への応答が歌われています。




↓アンドゥーズでの野外コンサートでの様子




下の映像はクリスマスマーケットでの演奏です。
非常にフランス的なメロディの楽曲も聴かれます。



↓彼らの賛美がダイジェストで紹介されています。約53分、音源のみ。





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かぶり物?祈りのベール??

何のこと?あなた、もしかしてカトリック?

いいえ、私はカトリックではありません。私は聖書信仰のクリスチャンです。

そして、今回、お証ししようと思っているのは、Ⅰコリント11章に書いてあるかぶり物(headcovering)についてです。

表題に、My headcovering journeyと書いたのには理由があります。

それは私にとってまさしく「旅路」と表現することのできるものです。

この旅は完成したわけでも、終わったわけでもありません。私は、自分の臆病さ、弱さによろめいたりしながらも、現在進行形で前に進んでいこうとしています。

これから書くのは、葛藤も恥も含めた、私の精神の歩みの記録です。

☆☆
ことの始まり

7、8年前にさかのぼりますが、私は新約聖書を通読していました。Ⅰコリント11章にさしかかり、

しかし、女が、祈りや預言をするとき、頭にかぶり物を着けていなかったら、自分の頭をはずかしめることになります、、、(11:5)。

の節を読んだ時、突然、「えっ?ちょっと待って。」と思いました。

〈私、祈る時、頭に何も着けていないけど、これって、どうなんだろう?〉

今まで何十回もこの箇所を読んだことがあったはずなのに、その疑問が湧いたのはその時がはじめてでした。

〈でも、私の尊敬する姉妹たちは誰もかぶり物とかベールなんて着けていない。おそらく、この節の背景には、私みたいな若者が知らないような深い事情があるんだろう。うん、きっとそうにちがいない。〉

それで、その後は特に考えず、次の12章に移っていきました。

でも、数カ月して、通読の箇所が再び1コリント11章に巡ってきた時、今度は、前回にも増してすっきりしないものを感じました。

普通に読めば、この箇所でパウロは、「姉妹たち。祈る時や預言をする時は、頭にかぶり物を着けなさい。」と言っているように確かに思えるのです。

でも、そうであるはずがないのです。

だって、こんなにたくさん聖書に通じた牧師先生やクリスチャンがいるのです。その人たちがかぶり物のことを教えていないのだから、やっぱり、そうであるはずがない、、、のです。

でも、パウロの言っていることはなぜかストレートに聞こえる、、、、

そう思うと、だんだん不安になってきました。それで、注解書の先生方は何と言っておられるか、それを読んでみようと思いました。

そうして注解書をひもといてみると、

「当時のコリントでは、売春婦だけがベールをかぶらずに外を行き来していた。パウロはコリントの姉妹たちがこういった売春婦たちに間違われることを懸念し、かぶり物を着けるように指導していた。」

というような説明がしてありました。

〈あっ、そうなんだ。じゃあ、これはコリントの姉妹たちだけに向けられた掟で、私はこの御言葉には従わなくていいってことなんだ。ああ、安心した。〉

そうして私の良心はとりあえずなだめられました。

☆☆

その後、ある時期、私は、どのような論法で人々が、聖書が×(バツ)と言っていることを○(マル)とあえて主張しているのか(例えば、ジェンダー問題)調べていました。

調べていくと、そこには共通したパターンがあることに気が付きました。そのパターンとは、

1)原典のギリシア語をいじる。(つまり再解釈する。)

2)「当時の文化は、、、」と言って、聖書の原理を「文化論」に切り替える手法でした。

実際、さらに調べていくと、「当時の文化は、、」という説明には、史実に乏しいフィクションがかったものが多くあることに気づきました。

〈えっ、じゃあ、Ⅰコリント11章のあの文化背景の説明はどうなんだろう?鵜呑みにしちゃったけど、あれは果たして信ぴょう性のあるものだったんだろうか?〉

一応、おさまっていた心の波が再び荒れ始めました。

探究はじまる

こうして再び私は1コリント11章をじっくり読み始めました。

しかし、あなたがたに次のことを知っていただきたいのです。すべての男のかしらはキリストであり、女のかしらは男であり、キリストのかしらは神です。(3節)

男はかぶり物を着けるべきではありません。男は神の似姿であり、神の栄光の現われだからです。女は男の栄光の現われです。(7節)、、、


〈ちょっと待って。やっぱりこれって、コリント文化うんぬんの問題じゃないよね。パウロは、創造の秩序のことを言っている。その最大の証拠に、10節では、

ですから、女は頭に権威のしるしをかぶるべきです。それも御使いたちのためにです

って書いてあるじゃない。それにこのセクションには一言だって『文化』という言葉が書かれていない。うーん、どうやらここも文化論で片づけることのできない箇所らしい。。。〉

また、「コリントの売春婦云々」説も、いったい何を源泉資料に主張されているのか、掘り下げてみました。

そして、19世紀の注解者アダム・クラーク氏が、最初にこの説を唱えはじめたということを突き止めました。(Adam Clarke’s Bible Commentary, http://www.godrules.net/library/clarke/clarke1cor11.htm.)。

でも、不思議なことにアダム・クラークはその説をどんな一次資料から導きだしたのか明らかにしていませんでした。

さらに探究していく中で分かったのは、神殿娼婦制度のあった古代のコリント市は、紀元前146年に破壊されていたということでした。(Shipley,G. The Greek World After Alexander 323-30BC. London:Rontledge, p.384-385)

ユリウス・カエサルがその後、100年後に、コリントをローマ帝国の都市として再建しましたが、Ⅰコリント人への手紙が書かれた時期は、すでに神殿娼婦制度が廃止されて200年余り経っていたのです。

また、アレクサンドリアのクレメンスやテルトゥリアヌスといった初代クリスチャンの著作を読みはじめると、さらにいろいろなことが分かってきました。

一番目に、かぶり物の慣習は、コリントに限定された地域的なものではなく、ヨーロッパ、北アフリカ、中東にまたがった初代教会全体で守られていたものだったということ。

二番目に、「コリントでは当時、売春婦が、、、」という説を唱えている人は初代クリスチャン著作家の中に誰もいないこと。

(興味のある方は、このエッセーの終わりに、かぶり物に関する初代クリスチャン著作の出典を挙げておきますので、直接、オンラインで読んでみてください。)

発見したのはそれだけではありませんでした。

クリスチャン女性は、1世紀からつい最近(1960年頃)まで、実に1900年以上に渡って、御言葉通りにかぶり物を着けていたのです。(ココをクリックすると歴代のクリスチャン女性の絵や写真をみることができます。)

しかしフェミニズム運動の勃興と共に、かぶり物の慣習も消えていきました。そしてⅠコリント11章はいわゆるpolitically incorrectな章として敬遠されるようになっていったのです。

葛藤のはじまり

でも、こういうことが明らかになっていけばいくほど、私の心は複雑になっていきました。

聖書の真理を探究することはいいことです。

でも、発見した真理を実際に生きなければ、その真理は頭だけの知識で終わってしまいます。そして頭だけの聖書知識は、人を高慢にし、偽善者にします。

〈え、、でも、私が、教会でかぶり物?そんなことできない、、、人の目がこわいし、恥ずかしい。〉

〈右を向いても、左を向いても、かぶり物を着けている姉妹なんていない。たった一人で始めるなんてそんな勇気、私にはない。神さま、どうかこれだけは勘弁してください。〉

でも、歴史小説「チューリッヒ丘を駆け抜けた情熱」を翻訳しながら、私は主人公のボシャート青年の内的葛藤がわが事のように感じました。

彼は当時、バプテスマの問題で決断の岐路に立たされていました。

自分の信じることを公にすることは勇気がいります。16世紀のあの当時、信仰によるバプテスマを受けた人は、拷問や死刑を覚悟しなければなりませんでした。

それに比べれば、私の葛藤など小さなものです。火あぶりにされるわけでもありません。ただ祈る時に頭をスカーフか帽子でおおうだけの話です。

それなのに、情けない話ですが、私は人目が気になって仕方がありませんでした。

互いの栄誉は受けても、唯一の神からの栄誉を求めないあなたがたは、どうして信じることができますか。ヨハネ5:44

決心

でもついに、ある時点で、私は神さまの前に一人で立ちました。

〈主よ。あなたは私が人一倍、臆病者だということをご存知です。正直、今この瞬間にも、私の肉は、いやだー、と叫んでいます。

私は、あなたの御言葉に従うよりも、自分の安全ゾーンで、ぬくぬくと生きていきたいと思う時が多々あることを告白します。

でも私はあなたの恵みにより、Ⅰコリント11章のすばらしい真理を垣間見ることが許されました。そして、この60年余り、この聖書的真理がないがしろにされている事実にも気がつきました。

ただ私にはそれを実行する勇気がありません。でも、このままだと私は偽善者になります。

主よ、あなたの御言葉に従い、今後、かぶり物を着けたいと願っています。どうか、私の意志が揺らぐことのないよう私を支えてください。〉

「人の目によく映りたい」という願望が十字架につけられる体験

礼拝の時や祈りの時に、かぶり物を着け始めてしばらく経った後、私はある姉妹から、「P宣教師の奥さんが、あなたがベールを着け始めたとか何とか言って陰口を叩いていたよ。」と聞き、私は縮みあがってしまいました。

〈ああ、やっぱり、今どき、かぶり物を着けるなんて変なのかな?私は頭がおかしくなったのだろうか。〉

また、ある晩、某国出身の牧師夫妻の家に招かれました。

帰る前に、皆で祈りましょうと牧師がおっしゃったので、私は誰にも見えないようにコソコソとバッグからベールを取り出し、皆が目をつぶった頃合いを見計らって、ひそかにベールを着けようと思っていました。

ところが、この牧師はめざとく私の手に握られていたベールを発見し、「はっ?ベール?!」とすっとんきょうな声を挙げました。

そして、「変な姉妹だね、この人は。」というような目つきで、隣りに座っていた奥さんと目配せを交わしました。

私の顔は恥ずかしさで火のように真っ赤になり、どっと涙がこみ上げてきました。

とてもこの道を一人で進んで行けそうにありませんでした。

かといって、他の場所で祈る時に人を恐れてかぶり物を着けないのは、証し人として一貫性に欠けており、自分の良心にかけてもそういった日和見的行為はできませんでした。

祈りのベールが私の人生にもたらした祝福

その後も4年以上、私は一人でかぶり物を着けて祈っていました。一人でしたが、でも、私は今までよりもずっと、祈りの中で主を近くに感じることができるようになりました。

ベールを着けて祈ると、神>キリスト>男>女(Ⅰコリ11:3)という天において定められた美しい創造の秩序の中に自分が置かれていることをもっとリアルに感じ、その認識は私の魂に深い落ち着きと安心感をもたらしました。

ベール自体は象徴にすぎません。ですが、それが従順を伴う信仰と結びついた時に、神さまは私たち姉妹の魂にすばらしい霊的祝福を与えてくださるのです。

例えばそれは、神さまに(そして夫に)愛され、守られているというしあわせ感です。

☆☆

2年前、主は一人の姉妹を他の大陸から数日アテネに遣わしてくださいました。

この姉妹は、御霊に満ち、輝いていました。もう20年以上もかぶり物を着けて祈っていると聞きました。また、この姉妹が夫を心から尊敬し、夫が姉妹を愛するその姿に深く感動しました。

またそれ以後、世界各地にいる、いろんな教団教派の姉妹たちに主は私を出会わせてくださいました。

かぶり物に関する彼女たちの証しをたくさん読みましたが、自分と同じような経緯をたどった人が多いことに驚きました。

人種、年齢、教派を超え、世界各地で同じ御言葉が、人々の心に働きかけ、現在、多くの姉妹が、同じような「旅路」を歩み始めていることを知り感動を覚えました。(次号では、その中の三人の姉妹の証しをご紹介します。)

日本にも、その「旅路」へと導かれている(あるいは導かれつつある)姉妹がいるかと思います。私はそういう姉妹の方々に言いたいです。「あなたは一人じゃない」と。

神さまはあなたと共におられます。そしてこの旅を共に歩む同志をも、時にかなって与えてくださいます。

ひるまず、くじけず、ご一緒にこの道を歩んでいきましょう。


付録1)
(↓マルティン・ルターの奥さん:Snood式のかぶり物を着けています。)
Katerica Luther Snood

(↓ジョン・ウェスレーのお母さんスザンナ:ボンネットのかぶり物)
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(↓モラヴィア教会の姉妹)
moravian woman

(↓アメリカ植民地時代のクリスチャン女性:ボンネットのかぶり物)
colonial american woman 2

(↓救世軍のキャサリン・ブース婦人:ボンネットのかぶり物)
Catharine Booth

(↓クウェーカ―の姉妹:ボンネット)
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(↓インドのクリスチャン姉妹:サリーによるかぶり物)
Indian Christian sisters

(↓東ヨーロッパのクリスチャン姉妹:ベール)
eastern europe

(↓1943年 ルター派教会の姉妹:帽子のかぶり物)
1943-Lutherans (1)

(↓1940年代 オランダ改革派教会の姉妹:帽子のかぶり物)
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(↓アフリカ系アメリカ人教会の姉妹)
african church

(↓メノナイト教会の姉妹たち)
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(↓ペンテコステ教会の姉妹たち)
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(↓サビナ・ウルムブランド、ルーマニア/ルター派:スカーフのかぶり物)
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(↓ロシア正教会の姉妹たち)
RUSSIAN ORTHODOX


付録2)かぶり物についてのクリスチャン・サイト

The Headcovering Directory(←教えや、証し、かぶり物オンラインショップなど、有益な情報もりだくさん。)
The Headcovering Movement(←改革派のクリスチャンが中心ですが、他の教派の方々もたくさんいます。このサイトの特徴は、20-30代の若い姉妹たちの参加が非常に多いという点にあるように思います。教え、証し、リンク集、ブログなどなど。)
祈りのためのかぶり物 1コリント11:1-16 (日本語で分かりやすく説明してあります。)
Let Her Be Veiled(←かぶり物に関する電子書籍です。無料で読めます!)
Headcovering book by K.P.Yohannan(宣教団体Gospel for Asiaの創始者ヨハナン氏による電子書籍です。この本も最近、無料で読めるようになりました!)
Is the Headcovering for Today?(←若いアメリカ人の兄弟がとっても分かりやすく説明してくださっています。)
Headcovering Customs in the Ancient World
Images of Head Covering During Worship
Woman Will You Cover Your Head?

付録3)かぶり物についての、初代クリスチャン著述家の文章
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①ヘルマス, Ante Nicene Fathers(=ANF), vol.2.p18.
②アレクサンドリアのクレメンス, ANF, vol.2. p264-266,290,578.
③テルトゥリアヌス ANF,vol.3.p95-96, 102,687-689, 286,445/ vol.4.p27-29, 33-35,37.
Apostolic Constitution ANF, vol.7, p395, Vol.3.p687-689.

headcovering and piano

付録4)文献案内
Warren Henderson, Glories Seen&Unseen, A Study of Head Covering, 2007
David Bercot, What the Early Christians Believed About the Head Covering (CD), Scroll Publishing Co.
David Phillips, Headcovering Throughout Christian History: The Church's Response to 1 Corinthians 11:2-16 (Covered Glory) [Kindle Edition]














(Kyle P, How to Choose a Bible Translation 快く日本語訳の許可を与えてくださった米国テキサス州オルセン・パーク教会のカイル師にこの場をかりてお礼申し上げます。)

満開のエゴノキ

はじめに
去る2007年、私たちは「いかにして聖書を手にしたのか(How we got the Bible)」というシリーズで学び会をしてきました。なぜ訳がそれぞれ異なるのかということを理解するにあたり、このシリーズはいわば下準備をしてくれたといえましょう。

底本(Textual Basis)

前回のシリーズで取り扱ってきた要点の一つとして、各翻訳の背後に存在する底本のことが挙げられます。つまり、昨今発見された聖書写本に、どれだけの比重がかけられているかということです。

もしある写本が、他と異なっているとしましょう。その場合、この写本はオリジナルにより近いと結論づけるべきなのでしょうか。

それとも歴史を通して保存され続けてきた標準テクストの方がオリジナルに近いという見方をすべきなのでしょうか。

もし新約聖書の翻訳が、昨今発見された写本に、より比重を置いているのなら、こういった翻訳は、底本として「クリティカル・テクスト」を用いているということができます。

その一方、ある翻訳が、歴史を通じて保存されてきた標準テクストにより依拠しているなら、これは底本として「受け入れられてきたテクスト(Textus Receptus)」を用いている、ということになります。

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なぜそれぞれの翻訳聖書に違いがあるのか

A 言語における違い(Differences in language

言語というものは、さまざまな方法で、さまざまなことを伝達します。慣用的な表現などはある特定の言語のみに見出される場合があります。

そういった独自の表現を、いったいどのようにして他の言語に言いかえることができるのでしょうか。たとい同じ言語内であっても、時の変遷とともに、ことばの意味が変化することもありえます。

B 底本における違い(A different textual basis

ある翻訳聖書が、昨今発見された写本に依拠しているのであれば、相違は起こります。

ある一語がつけ加わることもあれば、省略されることもあります。スペリングが異なっている場合もあります。ある写本では「キリスト」と記されている箇所が、別の写本では、「イエス」と記されていることもありえます。

注)ただし、こういった相違を、聖書本文の信頼性を疑わせるようなものとして考えてはなりません。相違の99%は、語順とかスペリング、同義的な言葉におけるささいな違いにすぎないのです。

C 教理的見解の違い(Different doctrinal perspectives

どんなに避けようとしても、私たちの持っている信仰体系が翻訳におよぼす影響を完全に抜き去ることはできません。

例えば、私が何かを翻訳しているとします。その中で、幾通りかの方法で表現できるような箇所に出くわします。

その際、一つの表現は私の信仰体系を裏付けるようなものであり、もう一つは、そうでないとします。この場合、私は前者の表現を選ぶ可能性がきわめて高いといえるでしょう。

D 翻訳のスタイル(Style of translation

今日の学びでは、この領域に焦点を当てたいと思っています。ご一緒に英語の翻訳聖書を調べていき、いかにそれぞれの翻訳哲学が、翻訳文に影響を与えているかということを考察していきたいと思います。

さまざまな翻訳スタイル

① パラフレーズ(意訳)

パラフレーズとは、「para(ギリシア語で「かたわらに」、の意)+phrase(言う、指摘する)」という語で構成されており、あるテクストを要約すること、もしくは、自分独自の言葉で言いかえることを意味します。

• あらゆる説教は、パラフレーズであるということができます。説教者は、自分の理解にしたがって、自分自身の言葉で、聖書のテクストを説明しなければなりません。

• Ⅰコリント2:9において、パウロは(聖霊の導きを通して)イザヤ64:4-5を意訳しました。

• タルグムと呼ばれる古代のユダヤ文献は、旧約諸書の解釈ないしはパラフレーズです。

• その働きにより欽定訳聖書(KJV)の礎石を築いたギリシア語学者エラスムスは、新訳聖書を意訳しました。

パラフレーズは厳密な意味で、翻訳ではありません。というのも、ある言語の語句や考えそのものを、他言語に移すという意図がそこにはないからです。にもかかわらず、このメソッドは、聖書および世俗テクストの翻訳に用いられています。

それ自体に罪があるということではありません。しかしながら、数ある翻訳スタイルのうちでも、このメソッドは、偏見、解釈ミス、あからさまな間違いに最もさらされやすいものであるといえます。

なぜなら、これはあくまで<神の言葉>に関する<人間の言葉>であり、<神の言葉>そのものではないからです。

現在、パラフレーズ聖書の代表的なものは以下の二つです。

A. The Living Bible (リビングバイブル、別名 The Book, The Way). (Kenneth Taylor著. Wheaton, IL: Tyndale House Pub. 1971)

The Living Bible 1971

テイラー氏はバプテスト派の信者の方であり、自分の子どもたちに聖書を説明しようと意訳しはじめたのが最初のきっかけでした。やがてそれは聖書全巻を網羅するにいたりました。テイラー氏は保守的信仰の立場をとっておられますが、氏の意訳の多くは、彼のカルヴァン主義思想を反映しています。

1. 詩篇51:5 “But I was born a sinner, yes, from the moment my mother conceived me.

(見よ、わたしは不義のなかに生まれました。わたしの母は罪のうちにわたしをみごもりました。【口語訳】/ ああ、私は咎ある者として生まれ、罪ある者として母は私をみごもりました。【新改訳】/あなたに背いたことをわたしは知っています。わたしの罪は常にあなたの前に置かれています。【新共同訳】)”

ヘブライ語では「私は罪の中に生み出され(I was brought forth in sin)」と言っていますが、ここでいっている罪が彼自身のものなのか、母のものなのか、それともこの世界全体の罪なのか、明確には述べていません。

聖書は継承された罪というものについては教えていません(エゼ18:20)。同じような見解が以下の例にも表れています。

2. ローマ5:12 “When Adam sinned, sin entered the entire human race. His sin spread death throughout all the world, so everything began to grow old and die, for all sinned.”

(このようなわけで、ひとりの人によって、罪がこの世にはいり、また罪によって死がはいってきたように、こうして、すべての人が罪を犯したので、死が全人類にはいり込んだのである。【口語訳】)

ギリシア語では、「一人の人を通して罪が世界に入り、死(→肉体的な死ではなく、霊的死)」が「すべての人に広がった。なぜならすべての人が罪を犯したからです」と言っています。(ちなみに、この箇所は、ローマ3:23の「罪」と同様の使われ方をしています。)

罪が「世界world」に入ったというのと、「人類human race」に入ったというのは異なるのです。

B. The Message. (メッセージ・バイブル、Eugene Peterson著. Colorado Springs: NavPress Pub. Group. 1993).

The Message Bible

(元)長老派教会の説教者であり、ブリティッシュ・コロンビアのリージェント・カレッジの教授であるピーターソン氏は、伝道用にと、節の区切りなしのパラフレーズ聖書を独自に作りました。

上記のリビングバイブルに比べると、ずっと保守性に欠け、原典とはまったく無関係の現代的慣用句が盛り込まれています。

ーマタイ9:23で、彼は「笛吹く者たち」および「騒いでいる群衆」を「オーブン鍋を持ってきた隣人たち」と書き変えています。

ー使徒2:41「三千人ほどが弟子に加えられた」のところを、ピーターソン氏は、「“they were baptized and were signed up. ”彼らはバプテスマを受け、(教会員として)登録された」と書いています。

福音に従うにあたり、メンバーとして登録しなければならないという教えはいったい聖書のどこにあるのでしょうか。こういった例は、別に悪気があって書かれたものではありませんが、それにしてもパラフレーズが誤りを助長するというのは確かです。

ーまたピーターソン氏はエペソ2:8「“Saving is all his idea, and all his work. All we do is trust him enough to let him do it.”」で、カルヴァン主義の傾向を明らかにしています。

こういった背後の事情を知らない人は、このような言葉を読んで、「救いは信仰のみによる。」さらには「信仰というのは神が人に押し付けるもの。」という理解を持ちかねません。

C. 聖書に関する人間の意見を参考にする上でパラフレーズ訳を用いることは可能ですが、聖書そのものとして用いることは決してすべきではありません。

② インターライナー式翻訳(行間訳文 Interlinear Translation

パラフレーズ訳が一つの極だとすると、その反対の極は、インターライナー式翻訳ということになると思います。

インタ―ライナー聖書は、原語一語一語の下に、英語の逐語訳を載せています。そして可能な限り、言語一語の下に、対応する英語一語がくるようになっています。このアプローチの難点は、、、

1. 原典の一語を、一語だけで翻訳できるとは限らない。(二語以上必要な場合もある。)
2. 語順というのは、各言語間でかなりの相違がある。
3. 原文には、英語の中に該当するものが存在せず、訳しようがないもの(例 文法標識)がある。

こういった問題点ゆえに、インターライナー式聖書は、聖書勉強の良い助けにはなっても、教えたり、読んだり、説教したりする際に用いるにはあまりに使い勝手が悪い代物だといえます。

一番入手しやすいインターライナー式聖書は、The Interlinear Bible(Jay P. Green著. Grand Rapids: Baker Book House, 1982)でしょう。著者グリーン氏は、新約聖書の底本に、「受け入れられてきたテクスト(Textus Receptus)」を用いています。

最近の版ではさらに、各原語の下にストロング式の番号振りをしています。

さて、今までパラフレーズ式、インターライナー式とみてきましたが、次に考察してみようと思うのは、これです。

③ “Dynamic Equivalence(ダイナミック等価翻訳)” (thought for thought).

パラフレーズとは少々意を異にするのが、「ダイナミック等価翻訳」ないしは「thought for thought」翻訳として知られるアプローチ方法です。

このアプローチは、パラフレーズ訳に比べて原語での実際の文献に、より依拠しているのですが、意味(もしくは『これが意味しているところだ』と翻訳者が信じるところの意味)を表す際に、より柔軟性をゆるしています。

実際、あらゆる翻訳にはこういった要素が含まれているのです。

例えば、Ⅱヨハネ2:12「あなたがたのところに行って、顔を合わせて語りたいと思います。」という箇所ですが、ギリシア語の原語では「顔を合わせて」ではなく「口を合わせてστόμα πρὸς στόμα」という表現になっています。

こういった点に関し、どこまで柔軟性の幅をきかせるかという翻訳者の判断によって、翻訳は、パラフレーズの方に接近したり、逆に遠ざかったりするのです。

翻訳者が訳に柔軟性をゆるせばゆるすほど、テクストは偏見、解釈ミス、誤りを犯す可能性にさらされやすくなるのです。

ではまず、このアプローチの中でもかなり極端な例から始めて、その後、徐々に逐語訳に近いアプローチの例をみていくことにしましょう。

A. The Voice New Testament. (ヴォイス新約聖書 Nashville: Thomas Nelson Pub. 2008.)

The voice new testament

多くのダイナミック等価翻訳の抱えている問題の一つは、聴衆を惹きつけんがために人間的な仕掛けに頼っていることです。比較的最近出版された『ヴォイス聖書』は、新約本文を、脚本式フォーマットで提示しています。

1. 「キリスト」のところを「解放王(“Liberating King”)」という単語に置き換えています。

2. 「バプテスマ」の代わりに、「儀式的洗い(“ceremonial washing”)」という言葉を使っています。

そしてこの語が出てくるたびに、その下に脚注をつけ、「文字通りの意味は、『浸す(“immerse”)』だ」と記しています。たしかに、バプテスマは浸礼ですが、バプテスマのことを「儀式的洗い」と呼んだからといって、それに関する誤解が解けるわけではありません。

3. この聖書はパラフレーズ訳を自称しているわけではありませんが、聖書本文にあまりにもたくさんの注釈を取り入れているために、事実上、パラフレーズ訳となっています。

例えば、翻訳者が語句を挿入する際、ふつう、イタリック体が使われるのですが、以下にあげる例をみてください。

使徒20:7 “The Sunday night before our Monday departure, we gathered to celebrate the breaking of bread. Many wondrous events happened as Paul traveled, ministering among the churches. One evening a most unusual event occurred.”

(→月曜日の出発前である日曜の夜に、私たちはパンを裂いて祝うために集まった。パウロが諸教会の間を奉仕しつつ旅する中で、多くの驚くべきことが起こったある夜、もっとも尋常でない出来事が起こったのだ。) 

なんと、まるごと二文が、イタリック体で挿入されているのです!これはもう、翻訳ではなく、注解書です!

B. The Amplified Bible. ( アンプリファイド・バイブルFrancis E. Siewert編 (他12 人の学者)。Lockman Foundation. Grand Rapids: Zondervan Pub. 1965. )

The Amplified Bible


この訳は、原語の中の、ある文法構造の中にみられる微妙なニュアンスを明確にしようという目的で生み出されました。これには有用な点もあります。例えば、、、

1. マタイ 18:18: “Truly I tell you, whatever you forbid and declare to be improper and unlawful on earth must be what is already forbidden in heaven(ἔσται δεδεμένα), and whatever you permit and declare proper and lawful on earth must be what is already permitted in heaven(ἔσται λελυμένα).”

ここではεἰμίの未来形+完了分詞が使われているのですが、この英訳はそういった細かいニュアンスをうまく訳出しています。しかし、あまりに注釈が多くなっている箇所もあります。例えば、、、

2. 詩篇51:5: “Behold, I was brought forth in [a state of] iniquity; my mother was sinful who conceived me [and I too am sinful].”

(わたしの母は罪のうちにわたしをみごもりました、という原文だけでなく、その後につづくカッコの中に〔そして私もまた罪深いのです〕という一文が挿入されています。)

3. 1 ペテロ 3:21: “And baptism, which is a figure [of their deliverance], does now also save you [from inward questionings and fears], not by the removing of outward body filth [bathing], but by [providing you with] the answer of a good and clear conscience (inward cleanness and peace) before God [because you are demonstrating what you believe to be yours] through the resurrection of Jesus Christ.”

(→そして〔彼らの解放を〕象徴するバプテスマは、今やあなたがたをも〔内的問いや恐れから〕救うのであって、からだの汚れ〔入浴〕を除くことではなく、明らかな良心〔内なる聖潔さおよび平安〕を、イエス・キリストの復活を通して〔なぜならあなた自身のものであると信じていることを表しているから〕神に願い求めているのである。)

〔〕の中は、一見、聖書本文に存在する語句であるようにみえますが、実際はそうではないのです。こうなると、一種の教派用【注解書】になってしまいます。

B. 主要な海外聖書翻訳協会である、The American (and United) Bible Societyは以下に挙げる二つのダイナミック等価翻訳を出版しました。

The Good News Bible (グッド・ニュース・バイブル、別称 Today’s English Version). Robert Bratcher (新約担当) and six others (旧約担当). New York: American Bible Society, 1976.

The Good News Bible

この訳は、小学校6年生程度の読解レベルで書かれており、広範囲にわたって、翻訳よりもむしろ解釈がなされています。
例えば、使徒20:7では“On Saturday evening we gathered together for the fellowship meal.”とありますが、原典には「安息日のはじめ」と書かれてあります。

またこれを「交わりの食事」と呼ぶことで、クリスチャンが完全な食事と主の晩餐をいっしょにしていたかのような印象を与えています。実際、Ⅰコリント11:17-34でそのことは非難されているのです。

The Contemporary English Version. (現代英語版 New York: American Bible Society, 1995. )

The contemporary English version

この訳を仕上げるに当たり、①のグッド・ニュース訳(TEV)よりも多くの翻訳者が起用されましたが、依然として子どもの読解力レベルを目指すにとどまっています。

この訳は、フェミニスト側からの増大する圧力に屈する形で、聖書の中で性別が明記してある箇所を削除してしまいました。

• エペソ5:22「自分の夫に従いなさい(submit)」という、妻に対する掟の部分が「夫を第一に置きなさい」と書き換えられました。

• Ⅰコリント11:10かぶり物に関してパウロが言及している箇所ですが、「権威のしるし」が、「彼女の権威のしるし」と書き換えられました。

• Ⅰテモテ3:3および3:12。本来、「ひとりの妻の夫」に制限されている教会の役職が、「結婚生活において誠実な者(faithful in marriage)」に開かれていると書き換えられました。

しかし聖書本文ではそんなことは言っていません。これは聖句の改ざんです。

C. New Living Translation. (新リビング訳 Wheaton, IL: Tyndale House Pub. 1996 (2004年改訂版).)

New Living Translation

1996年、テンダル出版社は、マーク・テイラー氏(ケネス・テイラー氏の息子)の指導下、New Living Translationという名の新訳を出版しました。この新訳では、従来のリビングバイブルの読みやすさを保持しつつも、パラフレーズ訳だという汚名を晴らそうとしています。

1. 初版当初、そういった努力により、ある程度、この訳は成功した感がありました。

しかし2004年、テンダル出版社は新リビング訳(NLT)の改訂版を出しました。残念なことに、この改訂版は(場合によっては)、元々のリビングバイブルよりもさらにパラフレーズ化してしまったと言えます。

2. 元来のリビングバイブル(LB)も1996年度版の新リビング訳も、使2:38の箇所をかなり文字通り書き記していました。そのどちらも、バプテスマを「罪のゆるし」と述べています。

しかし、2004年の新リビング訳改訂版では、もはやパラフレーズの域を超え、独自の偏った注釈を聖書本文に入れ込んでいます。

この訳の中でなんとペテロは人々にこう命じているのです。「罪の赦しを受けたということを示すために、イエス・キリストの御名によってバプテスマを受けなさい。」

これは、いくらなんでもひどすぎます!

D. Holman Christian Standard Bible. (ホルマン・クリスチャン標準訳 Nashville: Holman Bible Publishers, 2004. )

Holman Christian Standard Bible

ダイナミック等価翻訳のもたらす偏見や誤訳の危険性を考慮し、ある人々は「逐語訳“word-for-word”」と「意訳“thought-for-thought”」の間のバランスを取ろうとし始めました。

南部バプテスト・コンヴェンションの影響下、ホルマン出版社はいわゆる「最適等価“optimal equivalence”」式の翻訳聖書を発行しました。しかし実際には、依然として教派的偏見が訳の中に現れているのが現状です。

1. 詩 51:5: “Indeed, I was guilty [when I] was born; I was sinful when my mother conceived me.”

人が「罪ある者」として生まれるとは、聖書は教えていません。その少し前の詩篇22:10を、この訳は“I was given over to You at birth; You have been my God from my mother’s womb”と言っています。

いったいどうして、ダビデは「罪ある者」でありつつ、同時に神に「ゆだねられた」者であることがありえるでしょうか?

2. 使徒 22:16: “And now, why delay? Get up and be baptized, and wash away your sins by calling on His name.(→御名を呼ぶことによって、自分の罪を洗い流しなさい。)”

主の御名を呼ぶことは、単に言葉を発すること以上の意味があります。それは全きコミットメント(ローマ10:13参照)なのです。しかし、多くの教派では、これは祈りであり、「御名を呼ぶ」ことによって人は救われると教えています。

E. The New International Version. (新国際訳 International Bible Society. Grand Rapids: Zondervan Pub. 1978.)

NIV Bible

これは米国のプロテスタントの間で最も人気のある翻訳聖書となっています。

この訳は「受け入れられたテクスト(Textus Receptus)」を完全に拒んだわけではありませんが、ギリシア語新約聖書のクリティカル・バージョンにかなり比重を置いています。

この聖書は、さまざまな教派的見解を持つ翻訳者たちによって仕上げられた翻訳だという売り込みに一応なっていますが、実際には、かなりカルヴァン主義の色彩が強い翻訳です。

1. ローマ 8:5: “Those who live according to the sinful nature have their minds set on what that nature desires…”
ギリシア語σάρξ(sarx)は単に「肉」を意味します。ここで「肉flesh」を「罪深い性質sinful nature」と言い変えているのは、カルヴァン神学の全的堕落(Total Depravity)教義を反映したものです。

イエスさまは人類と同じ肉(sarx)をお持ちになりましたが、主には「罪深い性質」はありませんでした(ヘブル2:14参照)。

2. 新国際訳(NIV)委員会は、ここ数十年に渡り、ジェンダー中立語(gender-neutral language)をめぐっての論争に巻き込まれてしまっています。

1996年、NIV訳委員会は、〈男女包括用語版〉聖書(“inclusive language edition”)を発行しましたが、多くの米国クリスチャン指導者によって反対に遭いました。

• 詩篇8:4は元々新国際訳では“What is man that you are mindful of him, the son of man that you care for him?” となっていました。

• しかし1994年発行の子ども向け聖書New International Reader’s Editionでは、“What is a human being that you think about him? What is a son of man that you take care of him?”と言いかえられています。

• 2005年発行のToday’s New International Version に至っては、ついに性別区別の聖書箇所がことごとく姿を消しました。“What are mere mortals that you are mindful of them, human beings that you care for them?” (TNIV)

この箇所をみる限りにおいては、それほど害毒があるようには見えないかもしれません。しかしそこには、原文には存在している、性の区別、役割、言及といったものを拒絶しようという、ある意志が働いているのです。

なぜそうするかというと、現代の偏向や好みにおべっかを使おうとしているからです。しかし、私たち人間に、神の言葉を改ざんする権利はありません!

F. The Dangers of Dynamic Equivalent Translation. ダイナミック等価翻訳の危険性

レランド・ライケン(Leland Ryken)は著書Choosing a Bibleの中で、「ダイナミック等価翻訳のもたらす5つの否定的影響」について言及しています。

その5つの否定的影響とは、1)翻訳の中での勝手な変更 2)聖書本文の不安定化 3)聖書が「意味」していることvs.聖書が言っていること 4)私たちが期待すべきことに至らないこと 5)論理的かつ言語学的な不可能性、です。

この章の中で著者は次のようなことを言っています。

1. ダイナミック等価の翻訳者たちは、自分たちには、無知な読者のために解釈の決定をしてあげるという任務があると考えています。

例えば、ユージン・ナイダは「一般読者は、翻訳者と比べると、いくつか複数の意味を持つような単語について、正しい解釈をするという能力がはるかに乏しい。一方、翻訳者は、不明瞭な聖句について最良の学的判断をすることができるのです。」

しかし、もしそれが本当なら、なぜ、信頼のおける優れた知識を持っているとされている当の翻訳者たちの間に、見解の一致がないのでしょうか。

ダイナミック等価の翻訳者たちは、聖書を読んでいる一般読者が、原文をよりよく理解することができるよう導くのではなく、むしろその反対に、さまざまな聖句を多種多様に訳すことで、かえって読者を混乱に陥れているのです。」(15)

2. レイ・ヴァン・レウウェン(Ray Van Leeuwen)は、「我々は本当に他の翻訳聖書を必要としている(“We Really Do Need Another Translation”)」という論文の中で、ダイナミック等価の翻訳者たちが、聖書本文の中の実際の語句を取り去ってしまっていることに言及しつつ、このように言っています。

「聖書が何と言っているか不明瞭なら、聖書が何を意味しているかを知るのはさらに難しいことといえます、、、

〔機能的等価〕翻訳(すなわち現代の翻訳聖書の大半)の問題は、こういった翻訳により、読者が、もはや聖書的意味を察することができなくなっていることです。

なぜなら、彼ら翻訳者が、聖書が言っていることに変更を加えてしまったからです。」(17)

まさにその通りだと思います!

こういった偏見、誤訳、誤りの危険ゆえに、ダイナミック等価翻訳の聖書は、教えたり、説教したり、公の場で読み上げたり、もしくは聖書勉強の主要テクストとして用いるべきではないでしょう。

④“Formal Equivalence(フォーマル等価翻訳)” (word for word)

フォーマル等価(もしくは逐語)翻訳というのは、原文の実際的内容を表しつつも、インターライナー式翻訳のぎこちなさを克服しようとつとめている訳のことです。

語句が明瞭な箇所ではできる限り、逐語的等価が行なわれていますが、それは原文の内容に沿って行なわれています。

本文がこの一致をどれくらい保っているかという度合いによって、パラフレーズとインターライナーを左右にのせた天びんは上に下に動くのです。

もちろん完璧な翻訳というのはありませんが、それでもフォーマル等価の路線で翻訳を進めていこうとしている訳は、偏見や誤訳、あきらかな間違いなどに陥りにくいということができます。

前回の学び会(“How We Got the Bible”)ではどのような経過で、欽定訳聖書が発行されたかということについて考察しました。近年、欽定訳より前の時代の翻訳に新しい関心が集まっていますが、まずは、欽定訳からみていくことにしましょう。

A. King James Version (欽定訳 Authorized Version).

King James Version

欽定訳は、1611年に、ジェームズ1世の権威の下、64名の学者によって作られた聖書です。1873年、英国国教会は、改訂版を出しましたが、それが現在一般に使われているものです。

欽定訳が、史上もっとも影響力のあった(ある)英語聖書であることは周知の事実です。

この訳は、新約では「受け入れられてきたテクスト」をベースに置き、セクト主義的注釈やウルガタ聖書への過度な依拠を避けつつ、ウィリアム・テンダル等の初期翻訳の上に完成させました。

今でも数え切れないほどの聖書勉強資料の基礎となっており、またキリスト教用語(英語)を形成するのに貢献してきました。この訳は、原語の内容および基本構造を保つ、すばらしい逐語訳聖書です。しかしそこには独自の問題もあります。

1. 一貫してハデスやシェオルを「“hell”地獄」と訳しています。

使2:31“…of the resurrection of Christ, that his soul was not left in hell…(→キリストの復活について、、彼は地獄に捨てて置かれず、、)” 

ギリシア語のハデスは、最後の審判のことを言っているのではなく、審判に先立つ死者の場所(黄泉、冥府)を指しています(黙20:13-14参照)。

2. 時代錯誤的な名称や表現が時折使われています。

使12:4“…intending after Easter to bring him forth to the people.(→復活祭の後に、民の前に引き出す)”

ギリシア語のπάσχα(pascha)は、ユダヤの過越の祭りのことを指しているのであって、キリストの死を覚えるために新約以後できた復活祭のことではないのです。

3. 不確かな聖句が含まれています。1 ヨハネ 5:7 (いわゆるJohnannine Comma) :

“For there are three that bear record in heaven, the Father, the Word, and the Holy Ghost: and these three are one.”(←この句は口語訳にも新共同訳にも新改訳にも含まれていません。訳者註)

この句は新約聖書で説かれている真理を反映したものではありますが、(11世紀以前の)ギリシア語写本にも存在していない句です。

これはエラスムスのギリシア語新約聖書の第一版にはなく、後代の写本(おそらくラテン語聖書から挿入されたと思われます)が彼の元に持ってこられて後はじめて挿入されました。

4. 最初に発行されて以来、400年の歳月が経つうちに、意味が変わってしまった言葉が今も使われています。例えば、ルイス・フォスターは著書Selecting a Translation of the Bibleの中で以下のような言葉を挙げています。

もはや使われていない言葉(廃語)
Carriages (使徒 21:15) は手荷物を意味します。
Script (マルコ 6:8) は財布もしくはカバンを意味します。
Fetched a compass (使徒28:13)は船で回ることを意味します。

意味の変わってしまった言葉
Letteth (2 テ2:7) 「制限する」
Prevent (1 テサ4:15) 「先行する」
Charger (マルコ6:25) 「大皿」
Conversation (ヤコブ 3:13) 「行ない」

私の書棚には、『欽定訳聖書のことば』という本があるのですが、これは実質的な事典であり、現代の英語読者のために中世英語の意味を説き明かしています。

こういう事典が必要とされるような欽定訳の難解さは、教えたり、説教したり、個人的な学びをする上で深刻な妨げとなります。

こういった問題を解決すべく、欽定訳の現代語バージョンが数多く、出版されました。その中でももっとも有名なものが次にあげる新欽定訳です。

5. The New King James Version. (新欽定訳 Nashville: Thomas Nelson Pub. , 1982. )

New King James Version

この訳はもはや使われなくなった言葉や表現を排除しつつも、欽定訳のスタイルや流れを保っています。これは旧来の欽定訳にかなり近いので、読者は混乱することなく、欽定訳にベースを置いた補助教材などを使うことができます。

• 新欽定訳(NKJV)も完璧ではありません。この聖書にも例のⅠヨハネ5:7の句が含まれています。

• 新欽定訳が「受け入れられてきたテクスト(Textus Receptus)」を使用していることを「弱点」とみなす人がいます。しかしある写本が古ければ古いほど、原本に近いのだと決めつけるのは、ちょっと早計だと思います。

それだと不備があったり、もしくは改造された写本も、正確な写本と同様の取り扱いを受けることになります。これは危険な想定だと思います。

• 新欽定訳は、最近の写本発見から引き出される妥当な証拠をことごとく、下の脚注部分に書き出しています。

• 新欽定訳は、欽定訳の語彙、影響を保ちつつも、原本の語句および構造に直接対応するような現代英語を使っています。逐語訳で、尚且つ、ぎこちない文体ではありません。原本の内容を保持しつつも読みやすいです。

B. American Standard Version 1901. (アメリカ標準版)

American Standard Version

これは、欽定訳の改訂として、19世紀の写本発見を取り入れた初の米国翻訳聖書です。

これはかつてないほど、厳格な逐語訳であり、いくぶん文体としてはぎこちなさがあるほどです。

それまでは慣例として神をあらわすヘブライ語の名はLORDと訳されてきましたが、この聖書ではJehovahと言及されています。

二人称単数、複数を区別すべく、“theeなんじ” “yeなんじら” という古英語を保持しています。20世紀、広範囲に渡り、多くの信者が、この聖書を使用しました。

最近は入手するのがむずかしくなってきました。現在、この訳を出版しているのはスター聖書出版社だけです。しかしインターネットでは容易に見つけることができます。

1. New American Standard Bible. (新アメリカ標準訳聖書 Lockman Foundation.1971, 1995年改訂.)

New American Standard Bible

上記のアメリカ標準版(ASV)の文体のぎこちなさを克服し、さらにアメリカ標準版が発行された後に発見された写本も考慮にいれ用いるべく、新アメリカ標準版は発行されました。

厳格な逐語訳でありながらも、現代の語彙も取り入れることでアメリカ標準版(ASV)よりも読みやすくなっています。

• この訳は非常にすぐれた訳ですが、「受け入れられてきたテクスト」のいくつかは脚注に移されました。

C. Revised Standard.( 改定標準訳 Nashville: Thomas Nelson Pub. 1952. )

Revised Standard

この訳は、NCC(キリスト教協議会)の影響を受けたリベラル派の学者たちによって作られた、テンダル‐欽定訳‐アメリカ標準版路線の初の改訂版です。

こういった学者たちは、聖書が神の霊感をもって書かれた書であるという見解をもっていません。

マタイの福音書の注解書を書いた福音伝道者H・レオ・ボレスは、この翻訳委員会に参加を求められましたが、一回目の会合の後、参加を辞退しました。

この訳のリベラル主義は、例えばイザヤ7:14などにはっきり出ています。(マタイ1:23で引用されている)処女降誕の預言を認めず、次のように言っています。

Therefore the Lord himself will give you a sign. Behold, a young woman(←若い女性がみごもる、となっています。) shall conceive and bear a son, and shall call his name Imman'u-el.”

1. New Revised Standard Version. (新改定標準版)

New revised Standard version

1989年、NCC(キリスト教協議会)は、改定標準版以降に発見された写本を考慮に入れ、上記の改定標準訳(RSV)聖書の改訂版を出版しました。

イザヤ7:14「若い女性」にみられるようなRSV聖書のリベラル的要素を保持し、さらにダイナミック等価翻訳の方向へ近づきました。――神に関しては依然として男性言及を保持しつつも、人間に対しては、ジェンダー中立語を取り込みました。

D. English Standard Version. (英語標準版Standard Bible Society. Wheaton, IL: Crossway Books and Bibles, 2001. )

English Standard Version

この訳は、みずから「原本に対して透明」であるよう心掛けつつ、「本質的に逐語訳である」と表現しているように、最新の逐語訳聖書です。

1. 英語標準版(ESV)は、前述の新アメリカ標準版聖書と非常に似通っています。同じ底本を使い、原文に一語一語対応するような保守性を保持しています。

2. 「ジェンダー中立語を本文に入れろ」という圧力に対し、意図的に抵抗しています。

3. 英語標準版の編集者たちは、翻訳者によって挿入された言葉をイタリック体で表すという従来の慣習に従わないという不幸な決定をしてしまいました。これにより、読者は、ある語や句が実際には原文に存在しないのに、それを存在しているものであるかのように思い込んでしまう可能性があります。

例えば、ローマ8:5 “For those who live according to the flesh set their minds on the things of the flesh, but those who live according to the Spirit set their minds on the things of the Spirit.”

これは正確な訳ですが、“set their minds on”という表現が重複しています。(ギリシア語原文では重複していません。)もしこれがイタリック体で書いてあれば、そこらへんがクリアーになっていたと思います。

4. ESV聖書は少々、言葉の選択に一貫性がないところがあります。

例えば、マタイ16:18では、hadesを不正確にも「地獄」と訳していますが、使2:31、ルカ16:23などではちゃんとハデスと訳しているのです。

とはいえ、ESV聖書は、論争中の聖句などに偏見に基づいた訳語を当てることなどは避け、あくまで原文の内容に細心の注意と敬意を払っています。

≪結論≫

翻訳というのはなかなか難しい問題です。もし聖書を学ぶすべての方がコイネー・ギリシア語と聖書ヘブライ語を学ぶことができたら、それにこしたことはありません。しかしそれは現実にはありえないことです。

自分の聖書を選ぶに当たって、聖書を学ぶ者は細心の注意をはらう必要がありますが、だからといって、神の御言葉が平易さの中では理解しえないと考えるのは間違っています。

最もひどい翻訳聖書であったとしても、依然としてこの平易さより来る力を宿しているのです。

パラフレーズ訳や「ダイナミック等価」翻訳が、聖書本文にもたらすかもしれない偏見、誤訳、誤りといった危険性ゆえ、そういった訳の聖書は、学びや教え、説教、もしくは公の場での使用には決して使うべきではありません。

フォーマル等価翻訳聖書の中では、Revised Standard(改定基準版)およびNew Revised Standard(新改定基準版)は聖書の霊感やジェンダーの区別といった領域で、あまりにリベラル色が強いといえましょう。

English Standard Version(英語標準版)は、翻訳者の挿入であることを示すイタリック体があったらさらに良かっただろうと思いますが、それでも、欽定訳、アメリカ標準訳、新アメリカ標準訳、新欽定訳と並んで、学びや読解、説教、教えといった用途に用いることのできるすぐれた訳であることは確かです。

私の個人的見解では、「受け入れられてきたテクスト」を保持しつつ、脚注には異本を記している新欽定訳(NKJV)が、現在入手できる、もっとも有益なフォーマル等価翻訳であると思います。

2010年 カイル・ポープ
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