その後何が起こったのか――エピローグ 

フェリクス・マンツの溺死刑が行われた翌年、彼が自らの死をもって証ししたその信仰は、スイス全体ばかりでなく、近隣諸国まで拡がっていった。そしてついにそれは北方のオランダとベルギーの低地にまで達したのである。ほぼ全地域において、アナバプテストは迫害に直面し、殉教者の数は増す一方であった。

しかし、運動の誕生地であるチューリッヒ市自体、そしてゾリコン近郊では、教会が再び回復することはなかった。

ヤコブ・ホッティンガー翁について言うと、彼は、ツヴィングリの国教会を非難したかどで、もう数回、投獄を経験した。

しかし驚くべきことに、マンツの死後6カ月経った、1527年の6月、五人の元ゾリコン・アナバプテストが、投獄されている二人の囚人に話をしに、グリューニンゲンまで足を運んだのである。投獄されていたヤコブ・ファルクとヘイニ・レイマンに対し、再洗礼のかどで、死刑判決が出されようとしていた。ゾリコンからの五名――ヤコブ、ヘイニー、ウリ・ホッティンガー、キーナスト、ヤコブ・ウンホルツ――は、自分たち自身は転向していながら、牢にいる二人の指導者には、死に至るまで忠実であるよう激励したのである。

一方、グリューニンゲンでは、厳しい迫害にもかかわらず、長年にわたって、運動は強固さを保ち続けていた。1528年9月5日、ヤコブ・ファルクとヘイニ・レイマンはチューリッヒにて溺死刑に処された。つづく数年の間に、グリューニンゲン出身のもう三人の指導者たちが処刑された。

しかし、ゾリコンからはただの一人もアナバプテスト殉教者がでなかった。

ゲオルグ・ブラウロックは鞭打ち刑を受け、チューリッヒから追放された後、ベルン州で伝道を続けた。その地で彼は幾つかの公開討論に参加した。ウルリッヒ・ツヴィングリは1528年1月に行われた討論会に参加するため、チューリッヒからやって来たが、ブラウロックおよびベルンの信者たちを説伏することはできなかった。その後すぐに、ブラウロックはベルン州から追放された。

このベルン州――特にエンメンタルと呼ばれる農業を営む渓谷地――において、アナバプテストの信仰は、最大かつ、後世にまでも残る実を結んだ。エンメンタルから多くの難民がヨーロッパの他地域に避難し、後にはアメリカに渡った。それゆえ、今日、アーミッシュおよびメノナイト信者の大部分は、歴史的遺産をこの渓谷にたどることができるといえよう。

ベルン州から、ブラウロックは新たな場所に向かった。彼は数カ月の間に、四つの異なる州から公的に追放処分を受けており、どこに行っても彼は追われる身であった。ついに彼はスイスを離れ、オーストリアのチロル地方に移り、そこで彼の生涯中でも最も実り多い働きを始めたのである。

1529年9月、その地で、ゲオルグ・ブラウロックは、惨たらしい拷問と数週間に渡る獄中生活の後、ハンス・ランゲゲルという名の兄弟と共に、焚刑に処された。ブラウロックは最後まで信仰に固く立ち、確信に満ちており、死ぬ直前まで人々に聖書の御言葉を説き続けた。

このようにして、アナバプテスト運動の誕生から四年弱の間に、最も影響力をもった三人の指導者たちが死んだのである。

ゾリコンにおける傑出した初期指導者の一人であった、ヨハン・ブロトゥリーは、1525年初旬に、チューリッヒを離れ、シャフハウゼン州のハラウで忠実に奉仕を続けた。この地において彼は目覚ましい成功をおさめ、多くの村人が洗礼を受けるにいたった。1528年、彼は焚刑に処されたが、The Martyrs’ Mirror (『殉教者の鏡』)という本の中には、彼の殉教の記録が記されている。なお、『殉教者の鏡』の中では、ヨハン・ブロトゥリーの名はHans Pretleと記されている。

一方、ウィルヘルム・ロイブリーンもまた福音のメッセージを広めた。ワルドシュトで、フープマイアー博士に洗礼を授けたのは他ならぬロイブリーンであり、ホルブの教会を導かせるべく後に、あの高潔なミカエル・サトゥラーを任命したのも、彼であった。

ロイブリーンは獄中にいる間に信仰告白文を書いた。その中で彼はこう書いている。「我々の経験から言えることは、あなたがたの説教者たちはお粗末な大工のようだということです。というのも、確かに彼らは教皇の教会を打ち倒しはしましたが、キリスト者としての秩序をもった教会はまだ建て上げるにいたっていないからです。それゆえ、彼らの召しは神よりのものではなく、神聖なものでもなく、あくまで地上的なものだということです。」

しかし、ウィリアム・ロイブリーンは殉教者としての死をもって信仰を全うしたわけではなかった。その反対に、後になって、彼はアナバプテストの信仰を離れ、「嘘つきで、不誠実かつ裏切り者のアナニヤ」として破門されたのである。お金に対する愛着が彼の失墜の原因だったらしい。彼はその後カトリック教会に戻ったとされており、心身ともに衰弱する中、80歳近い高齢で亡くなった。

コンラード・グレーベルの未亡人バーバラは夫の死後数年して、再婚した。コンラードの三人の子どもの内、結婚する年齢まで生き残ったのは、ヨシュア一人であった。ヨシュアは父の親戚に引き取られ、ツヴィングリの改革派信仰の家庭で育てられた。コンラード・グレーベルの孫コンラードは、1624年市の財務担当官となり、この孫の孫は(彼も名をコンラードといった)1669年、市長になった。1954年、子孫にあたるハンス・フォン・グレーベルは、チューリッヒにあるグロスミュンスター教会の牧師を務めた。

さて、スイスの有名な宗教改革者ウルリッヒ・ツヴィングリは、フェリクス・マンツの死後、引き続き政治的影響力を増し加えていった。チューリッヒ市民によって選任される二百人大参事会は、――ツヴィングリを主要メンバーとする――秘密評議会によってますます支配を受けるようになった。

ツヴィングリの計画は野望に満ちたものであった。彼は従来のスイス同盟を破棄し、それに代わって、オーストリアからデンマークにひろがり、フランスをも含めた新しく強力な連合国を形成しようともくろんでいた。1529年、ツヴィングリは、スイス国家を再形成する時期がきたと判断した。チューリッヒは戦争の用意ができていた。そしてツヴィングリの軍隊は大胆不敵にも、スイスの北東地域の大半を奪取したのである。――敵は戦いを交えることなく、降伏した。

しかし1531年は、ツヴィングリおよびチューリッヒにとって、厄年となった。カトリックの五州が連合して、コッぺルの戦場にてチューリッヒと戦ったのである。数の上で一対四と劣勢だったため、ツヴィングリ卿自身、カトリック軍に対し自軍を率い、戦った。

その結果、チューリッヒは惨敗した。戦が終わるまでに、五百人以上のチューリッヒ市民が戦場に倒れた。その中にはウルリッヒ・ツヴィングリも含まれていた。彼は怪我をして梨の木の下に横たわっているところを、敵に襲われ、――ツヴィングリだと知られる前に――殺されたのだった。

その日ツヴィングリと共に戦死した者の中には、チューリッヒ参事会の議員26名、また25名以上もの牧師が含まれていた。ゾリコン教会のニコラス・ビレター牧師もその一人であった。

当戦場には他に三名の死体が横たわっていたのだが、その名は我々にとって興味深いものである。すなわち、キーナスト、ヘイニー・ホッティンガー、ハンス・ミューラーである。元ゾリコン・アナバプテストであった三人は、ウルリッヒ・ツヴィングリおよびビレター牧師と共に、戦いのさなか死んでいったのである。

青年伝道者マルクス・ボシャートについて、そしてその後彼がどうなったかについては、歴史は沈黙を保っている。
このようにして、ゾリコン集会という、初のアナバプテスト教会の物語は幕を閉じることとなったのである。


                  ――終わり――

第三十ニ章
   フェリクス・マンツの殉教


コンラート・グレーベルは死んだ。そしてフェリクス・マンツとゲオルグ・ブラウロックは州を離れ、どこか遠くで奉仕していた。

こういう状況下にあって、ゾリコンの教会は、新たな停滞期を迎えていた。かつてのメンバーの中には、――その中には何人か指導者もいた――は、ツヴィングリ卿およびチューリッヒの権威筋に不従順であったのは自らの誤りであったと公言する者たちもでてきた。彼らはビレター牧師率いる国教会の活動に加わり、ツヴィングリの推し進める改革の忠実な支持者となった。

しかしゾリコン村の数人の心には、自由な教会を建て上げる、という夢とビジョンが今なお、くすぶっていた。ホッティンガー爺とマルクス・ボシャートもそういった人々の中に含まれていた。彼らの心の炎は消えていなかった。しかしもう長い間、その火は目に見える形で燃え上がってはいなかったのである。

マルクスは今でも時々、良心の呵責に苦しむことがあった。しかしその葛藤は時を経るごとに、稀になっていき、かつその激しさも前ほどではなくなっていった。

「もうこれ以上御霊を消してはならない」とフェリクス・マンツは警告していた。しかしマルクスはその御霊の招きに自らを従わせることができずにいた。そうできるものなら、そうしたかった。でも、代価はあまりにも高かった。

グリューニンゲンにおけるアナバプテスト教会は、今も成長し続けていたが、妨害にもまた悩まされていた。溺死刑という脅しが功をなし、幾人かのメンバーは恐れをなして信仰から離れていった。

義兄アルボガスト・フィンステルバッハからは長い間、音沙汰がなかったが、彼の知る限り、アルボガストは洗礼を受けてはいなかった。

ベルゲル行政官は、相変わらず、警戒態勢を崩してはおらず、断固とした態度でのぞんでいた。徐々に彼は、自分に忠実な者たちの間に人脈を築き上げていった。そしてそういった者たちは、自分たちの地区に何か少しでも異変があることを嗅ぎつけるや、彼に通報していた。

こうして、12月の初週、グリューニゲンに忍び込んでいたフェリクス・マンツとゲオルグ・ブラウロックは、――森の中で、伝道集会を始めようとしていた矢先に――、当局の奇襲を受けたのであった。そして二人とも捕えられ、ヨルグ・ベルゲルは大喜びで、彼らを手錠にかけ、城へと連行していった。

この知らせは瞬く間に丘陵地域およびチューリッヒ市一帯に拡がっていった。そしてそこからゾリコンにも流れてきたのであった。知らせを聞いたマルクスは、うちひしがれた。今度という今度は、もう逃げられないだろう。

ヤコブ・グレーベル議員が葬り去られた今、二人の溺死刑をくいとめる、人間的砦は何も残っていなかった。指令書にははっきりと明示されていた――誰であれ、人に洗礼を施し、もしくは自ら洗礼を受けるに至った者は、容赦なく、溺死刑に処される、と。

マンツとブラウロックはこの指令書が発布されたことも知っていた。そしてそれにもかかわらず、以前と同様、あくまで伝道を続けていったのであった。牢獄からの脱出後、二週間以内に、フェリクス・マンツはエンブラッフのある女性を信仰に導き、彼女に洗礼を施していた。

マルクスは落胆してしまった。「どうして彼らはチューリッヒの外にとどまらなかったんだろう。」彼は妻に言った。「ベルゲルが彼らを捕えようと罠をしかけているって分かっていたはずなのに、、、」

「たぶん、他の州も、彼らにとっては安全じゃなかったのかもしれないわ。」レグラはやさしく言った。「それに、『自分たちはグリューニゲンで必要とされている』って二人は感じていたんじゃないかしら。もし、そうじゃなかったら、こういう危険は冒さなかったと思うわ。」

☆☆☆

十日後、二人の囚人は、グリューニゲンの城からチューリッヒの監獄へと移送された。今回、二人の収容されたのは、ウェレンベルグのリンマット河の真ん中に位置している、州刑務所だった。四方が水で囲まれていたため、前回の魔女塔より、さらに脱獄は難しくなった。

rathausbridge Limmat River
(↑現在のリンマット河)

こうしてクリスマスは静かに過ぎていった。しかし1527年が明けてすぐ、「マンツとブラウロックが間もなく処罰される」という知らせがゾリコンに入ってきた。ホッティンガー爺は1月4日の夜、ボシャート家にやってきた。

「明日、参事会は決定を出すそうだ。わしと一緒にチューリッヒに行く気はないかい。」

二人が死ぬのを見物しに行くだって!マルクスはそう考えただけでもぞっとしたが、それでも、行きたいという思い、そして参事会がマンツとブラウロックに判決を下すその場に居合わせたいという思いを抑えることはできなかった。

そうして彼は言った。「うん、僕も行くよ。」

☆☆☆

爺さんとマルクスはチューリッヒ市内に午前中のうちに着いた。いつもの土曜日と同じように、商いは平常通り行われていた。しかし、あちこちで人々はささやき合い、ちらちらと辺りを見回していた。参事会が開廷中であること、そして今日ついに、フェリクス・マンツとゲオルグ・ブラウロックの運命が決まるということを皆知っていた。

「何か食べ物を買いに行こう。」数時間後、爺さんが提案した。そう言いながら、彼は、冬の雲層を通して頭上にみえる、おぼろげな太陽を見上げた。もうお昼を過ぎていた。

「お腹はすいてないよ。」
「そうさな、考えてみれば、わしも腹はすいとらんわい。」議事堂わきのベンチに再び腰を下ろしながら、爺さんは言った。

こうして彼らはさらに一時間待ったが、議事堂の戸はまだ閉まったままだった。二百人の議員から成る大参事会が、長時間にわたり開かれているのであった。

午後二時ごろになって、議事堂の戸がついに開かれ、二人の役人が出てきた。それから再び戸は閉められた。役人たちは大急ぎで議事堂の裏手にまわり、そこからボートに乗り込み、ウェレンベルグ刑務所の方に漕いでいった。遠方にあるウェレンベルグは、霧に包まれ、部分的に隠れていた。

「あの役人たちは、囚人の所へ向かっていったんだ。」爺さんは言った。

確かに、爺さんの言った通り、まもなく、彼らは戻ってきた。「でも、囚人の姿は一人しかみえない。」マルクスは言った。「一度に一人ずつ引き連れてくるんだろうか。」
「さあ、わからん。」

ボートは近づいてきた。そして爺さんとマルクスは、乗っている囚人がフェリクス・マンツであることを認めた。彼は手を鎖でつながれ、二人の漕ぎ手の間に座っていた。役人たちはボートを岸につけ、囚人を立ち上がらせた。人々があらゆる方向から走り寄ってき、みるみるうちに、群衆の数は増していった。

すぐにも判決文が読み上げられる、という噂が流れた。この時を待っていた人々は自分の仕事をほっぽり出して、見物にやって来た。

戸が再び開き、議員たちが列をなし、厳かに外に出てきた。囚人は魚市場近くの橋の所に連れて行かれた。そして参事会と群衆はそれに続いた。

マルクスと爺さんはよく見える場所を確保しようと、魚市場の人ごみをかき分け、前に進んでいった。囚人は木製の踏み台に立たされており、二人の看守が両側に立っていた。手に書類を握り締めた議長が、踏み台によじ登り、「静粛に」と呼びかけた。

群衆の数は膨らむ一方だった。橋の入り口も、河と並んで走っている街道も群衆で完全にふさがれていた。議長が再び話し出したが、その声は風や、人々のガヤガヤ言う声にかき消されてしまった。

誰かが鐘を鳴らし、ようやく群衆は静かになった。

議長は、手元の書類を読み上げ始めた。マルクスは一言も聞き漏らすまいと、熱心に耳を傾けた。

諸君の前に立っている、このフェリクス・マンツは、キリスト教の秩序と慣習に反し、アナバプテスト運動の誤謬に身を投じ、他の者にも同様のことを教えた。この者こそ、この集団のまがいなき指導者であり、扇動者である。」ここで朗読者は咳払いをし、また続けた。

それゆえ、我々の君主、市長、参事会、そしてチューリッヒ二百人会として知られている大参事会は、――新旧約聖書の言葉を引きつつ、真実なる神の言葉によって――再洗礼は許されない行為であることを、フェリクス・マンツおよび他の者たちを教え、警告を与えてきた。


議長はゆっくり厳かに読み進めていった。書面には、――アナバプテスト運動を根絶するためのあらゆる努力がなされたにもかかわらず、不成功に終わったこと。誰であれ洗礼を授け続ける者は、溺死刑に処される旨を警告した、昨年3月の指令書のこと――が記されていた。

さらに、――フェリクス・マンツはこれら全てを知っていながらも、自分の信条に固執しつづけ、州全体に動揺と不一致を引き起こした。この男は人々の間に分裂を起こし、罪がないと自認する者だけが所属することのできるという教会を形成しようとした。

また彼は「キリスト者が武力行使をしたり、為政者ないし政府の要職に就いたり、人を死刑にしたりすることは許されていない」と言い、そのような事を公然と教えていた。

 ――なお脱獄後14日目に、彼はエンブラッフの、とある女に教示を与え、信仰のことを説き、その後、この女に洗礼を施した。さらに、「もし今日誰かが自分の所にやって来て、教えを請い、かつ洗礼を求めるなら、私はそのような人を拒むことはできない。私はその人に教え、洗礼を施すだろう」と大胆にも言った。

群衆は、結論がどうなるのかを知りたく、次第に落ち着かなくなってきた。参事会の判決文には多くのことが書かれていたが、ついに山場にさしかかってきたことがマルクスにも分かった。

この者の扇動的なやり方、キリスト教の教会からの逸脱、そして自己流の分派を起こした事、、、以上の理由によって」と朗読者は続けた。

マンツは死刑執行人の手に引き渡されなければならない。執行人はこの者の手を縛り、ボートに乗せ、河の真ん中にある小屋に連れていき、そこで両手を膝の下に固定させ、さらに膝と両腕の間に棒を取り付ける。

そうしておいて、この者を水中に押しやり、死亡させることとする。そうして、この者は法と正義との贖いをしなければならない、、、なお、この者の財産はわが政府の没収するところとなる。


これらの判決文の重みが、集った市民の上にのしかかった。マルクスはこうなる事を予測していたのだが、実際にそれが現実となってみると、理解がむずかしかった。彼は爺さんに話しかけようとしたのだが、群衆の中に彼を見つけることができなかった。

人々は一斉に話し始めた。憤慨した声もあったが、ほとんどの人は口をつぐみ、怯えていた。

「溺死刑だってよ!」マルクスの近くにいた誰かがつぶやいた。「ちぇ、女々しい死に方じゃないか。」
「なあに、彼はいつも水が好きだったんじゃないか。」他の声が叫んだ。「だから、参事会さまが、この際、この洗礼者の愛してやまない水を彼にたっぷりあげようっていうわけさ。」

マルクス・ボシャートの頬に涙が流れ落ちた。彼は気丈な男であったが、どうにも涙を止めることができなかった。こんなやり方で、フェリクス・マンツの崇高な人生が終わってしまうなんて、こんな不名誉なことがあるだろうか。

マンツはまだ年のいかない青年であったが、台の上に立ち、頭を垂れて祈っていた。過去二年間に渡る重圧と苦しみによって、28歳の彼は、実際の年齢よりも年老いてみえた。

判決文が読み上げられた今、もう猶予はなかった。死刑囚は踏み台から引き下ろされ、二人の看守が、あらかじめこの時のために岸につないであってボートのある波止場に彼を引いていった。

人々は囚人のすぐ後に、そして四方に押し寄せた。と突然、フェリクス・マンツは群衆に語り始めた。「主のために苦しむに値する者とされたことを感謝し、神を誉め称える。」彼は大声で言った。

「キリストご自身が、――主に従う者は義のため、迫害の苦しみに甘んじなければならない――とおっしゃった。しもべはその主人のまさるものではない。よって、もしこれが私に対する主の御心であるなら、私はすすんで主のために苦しみを受けたい。」

ツヴィングリ陣営の牧師が二人、囚人の傍にいそぎ、彼を黙らせようとした。しかしマンツは口を閉ざさなかった。「我々が教え、実践してきたこの洗礼こそ、イエス・キリストおよび聖書の教える洗礼であることを、今日、私は、自分の死をもって証しする。」

マルクスは完全に爺さんとはぐれてしまった。彼はマンツの話す一語一語を聞こうと、人をかき分け彼の方に近づいた。牧師たちはマンツを黙らせようとしており、その内の一人はこんな事を言っていた。「馬鹿な自論を撤回せよ。いま撤回するなら、お前のいのちはまだ救われるかもしれない。」

しかしマンツは自らの信仰ゆえに、死ぬ覚悟が完全にできていた。

その時、低いがはっきりした一人の女の声が、囚人の耳に届いた。「フェリクス、ごらん。しっかり立って、最後まで忠実でいるのよ。今くじけちゃだめ。栄冠を受ける時がもうそこまできているんだから。」

マルクスは誰が話しているのかと一面の人の顔を見まわした。――それはフェリクス・マンツの母であった。

やがて囚人はボートに乗せられた。ボートが積み荷をのせて岸から離れると、人々は波止場に押し寄せた。ボートの船首は黒みがかった水を、まるで剣でするように切り分けていった。舵取りが、河の真ん中にある漁業用の小屋に向けて、舵を切った。

群衆はもっとよく見ようと、岸の周辺に、四方八方散っていった。マルクスはホッティンガー爺を一瞬見つけたが、爺さんの広い背中は再び、人の波にかき消されてしまった。

フェリクスの母親は、河の向こうにいる息子に向かって、雄々しく声をかけつづけ、死にいたるまで忠実であり続けるよう必死に懇願していた。

ボートは、河の中に柱を立てて造られた小屋についた。人々は静かに、囚人の両手が膝の下に縛られるのを見守っていた。カモメが魚を求めて、ボートの頭上に急降下してきた。雲が太陽の前にただよい、黒ずんだ水面に影を投げかけていた。マルクスは身を震わせた。

ふと気がつくと、爺さんが隣にいて、彼の肩をつかんでいた。こうして二人は共にこの光景をみつめた。処刑の準備は整い、死刑執行人は、指令に従い、彼を水の中に押し出そうとしていた。

窮屈にかがんだ姿勢ではあったが、フェリクス・マンツはそれでも頭を上げ、岸辺にいる群衆に顔を向けた。そして勝利に満ちた大きな声で、彼は叫んだ。「父よ。わが霊を御手にゆだねます。」

そうして事はなされた。フェリクス・マンツの体は氷水の底に消えていった。役人たちは立ち、彼の沈んだ場所を見つめていた。マルクスはこの光景から目をそらし、むせび泣きながら、市内の方向へヨロヨロと歩いていった。爺さんは彼の後ろからついてきた。

魚市場、そして議事堂の方向へと、二人は静かに歩いていった。それぞれの頭は煩悶する思いでいっぱいだった。時は午後3時を打った。

呆然としながらも、あの光景がマルクスの脳裏に何度も何度も浮かんできた。

しかし、その中にあって、他の何にもまして際立っていたのは、囚人の不屈の魂であった。フェリクス・マンツは、打ちのめされ、おびえ切った犯罪人としてではなく、喜びと確信に満ちた勝利の人として死んでいった。

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(↑フェリクス・マンツの殉教を記録する石碑。リンマット河沿いに設置されている。)


爺さんはハアハア息をしていた。「マルクス、そんなに速く行かんでくれ」と彼は頼んだ。自分がそんなに速く歩いていたとは気がつかなかった、とマルクスは足取りをゆるめた。こうして二人は魚市場に近づいた。

ふとマルクスは目を上げた。市場には新たな人だかりができていた。何だろうと思い、マルクスは人々の頭越しに背伸びして見てみた。――とそこに堂々と立っているゲオルグ・ブラウロックの姿を認めたのだった。

「来て。」爺さんの手を取りながら、マルクスは言った。「ブラウロックの判決文が今読み上げられているんだ。僕はほとんど彼のことを忘れてしまっていたよ。」

フール州出身の熱血漢であるこの伝道者もまた、彼の相棒と同じように、溺死させられてしまうのだろうか。彼の茫然とした頭では、これ以外の道はないように思えた。しかし、そうだとしたら、なぜ二人は同時に処刑されなかったのだろう。

マルクスは、判決文の読み上げる声が充分に聞こえる所まで近づいていって耳をすませた。「執行人は彼の両手を縛り、腰のところまで服を脱がせなければならない、、、」言葉はすべて聞きとれたが、マルクスは肘で押し分けならが、さらに近づいていった。

「、、、そしてこの者は市から追放されなければならない。追放される際、彼は魚市場通りからニーデルドルフ市門を通過するのであるが、途中、血が出るまで鞭で打たれ続けなければならない。」

マルクスは吐き気を催し、気が遠くなる思いだった。一日のうちで、もうこんな惨たらしいことはこれ以上耐えられそうもなかった。爺さんについてくるように合図すると、彼はささやいた。

「ニーデルドルフ市門のところまで下っていこう。ゲオルグがあそこにたどりついた時に、彼を助けることができるかもしれない。彼が打たれるのをみるに忍びないんだ。」

こうして二人は歩き始めた。議員の言葉が彼らの背後から聞こえてきた。「、、、そしてこの者は二度と戻ってきてはならない。仮に戻ってくるなら、――それがいつであるかに関係なく――この者は捕えられ、フェリクス・マンツと同様、溺死刑に処される。したがって、本人はこの事をしかと覚えておくように、、、」

話している議員との距離ができるにつれ、声はやがて消えていった。しかし別の言葉がマルクスの脳裏に、雷のようにとどろいた。

「御霊を消してはいけない、マルクス。御霊を消してはいけない!」なぜ今この言葉が思い出されてきたのだろう。もう八カ月も前に語られた言葉なのに。

マルクスは自分がどこに向かっているのかも分からないまま、つまずいてしまった。でも、一体どうやって御霊に従うことができるのだろう。いかにして自分の良心に忠実であり続けることができるのだろうか。

そうする事は、すなわち自分の命をもって代価を払うことを意味した。フェリクス・マンツの人生がそれを物語っていた。彼は御霊を消さなかった。そしてそれゆえ、死んでいったのである。暗く凍てつく水、深い水の中へ、、、マルクスにはこれ以上進む力がなくなり、座り込んでしまった。

ヤコブ・ホッティンガーはハアハアと息をし、孫の横に腰を下ろした。彼は自分の精神的な高まりが原因でこうなってしまったことを恥じた。失神などしてはならなかった。彼はがくりと頭を垂れた。

その後、どれくらいその場に座っていたのか、マルクスは分からなかった。ただ自分たちが市門のどこか近くにいるに違いないということは分かっていた。気分が落ち着いてくると、彼は頭を上げて、周囲を見回した。

爺さんが言っていた。「当局は、今回に限って、ブラウロックをこのような形で去らせることにしたんだ。というのも、彼はこの州の者じゃないからね。でも、もし彼がまた戻ってくるようなことをしたら、その暁には、、、」

ちょうどその時、叫び声が耳に入ってきた。マルクスは声のする方をじっと見た。――ゲオルグ・ブラウロックがこちらに向かって走ってきていたのだ!

この大男は腰までむき出しで、縛られた両手を前に、よろめきながら走ってきた。

彼の真後ろには、鞭を振り上げた官憲たちが続き、全力で彼を鞭打っていた。ブラウロックは鞭打ちを避けようと、こちら側に、あちら側にと絶えず身をかわしていた。しかし何といっても官憲の数はあまりに多く、どんどん打ってくるので、とてもかわし切れるものではなかった。

「ああ、彼はこのまま打ち殺されてしまう!」飛び起きながら、マルクスは叫んだ。

彼らが二人の方にどんどん迫ってき、走りすぎる中、マルクスは執行人たちに、慈悲を願った。しかし、気の狂った者を見るかのように彼らはそんな彼を一瞥しただけだった。これはあくまで彼らの職務であり、彼らは、手ぬかりなく職務を遂行するよう言い渡されていたのだ。

見物人の一行がハアハアと肩で息をしながら、こちらに走ってきていた。マルクスと爺さんもニーデルドルフ市門を目指していたため、この一行よりも先に着こうと歩みを早めた。

ついにゲオルグ・ブラウロックは無事、門を通過した。鞭打ちの官憲たちの及ぶ範囲はここまでで、この門を越えては、何もできなかったのだ。ブラウロックは、門のすぐ外の地面にくずれこんだ。

それを見たマルクスは、この怪我人の方へと急いだ。真っ赤に腫れあがったむち打ちの跡が、彼の筋骨たくましい背中を交差していた。そしていくつかの強打によって皮膚が切れ、そこから血が流れ出ていた。

こうしてマルクスと爺さんも市門を通り抜けたのだが、ブラウロックは片膝で自分の体を起こし、ちょうど立ちあがったところだった。彼は二人の方を振り向き、そしてニコッと笑った。マルクスは自分の目を疑った。

しかしまた、この笑顔には、フェリクス・マンツが処刑前に語ったあの印象深い言葉と相つながるものがあった。この微笑もまた、ある意味、内なる勝利を物語っていたのである。

「僕は大丈夫だ。」ブラウロックは二人を安心させた。

それから、爺さんやマルクス、そして集まっていた群衆が見守る中、ゲオルグ・ブラウロックは風変わりな事をした。意図的に彼は自分の靴を脱ぎ、チューリッヒ市の方向に向かって、足のちりを払い落したのである。(マタイ10章14節参照。訳者註。)ゲオルグ・ブラウロックが二度と、この市に戻ってこないであろうことをマルクスは心に感じた。

その後、マルクスは上着を脱ぎ、背中があざだらけのゲオルグに渡した。風は冷たかった。ブラウロックは喜んで上着を受け取り、身につけた。それから彼は――チューリッヒおよび、彼が平安のうちに信仰に生きることを許そうとしない当局の人々から離れ――、どこか遠い場所に向かって、道を下り始めたのだった。

☆☆☆

マルクス・ボシャートはゆっくりと家に向かって歩いていった。

彼の前方には湖畔の静かな小村、ゾリコンがひろがっていた。思い出の詰まったゾリコン。ゾリコン――ここで僕は生まれ、成長し、陽気な生活を送り、そして結婚した。

ゾリコン――ここで僕は自分の罪を自覚し、聖書を学び、信仰にのっとって洗礼を受けた。そしてここで僕は、奉仕者として、また兄弟たちに説教する者としての任命を受けた。

ゾリコン――ここでアナバプテストの炎が、赤々と、将来の見通しも明るく、燃え上がった。しかし結局、迫害の重圧に押され、炎は消えてしまった。

レグラも赤ん坊コンラートもゾリコンにいて、僕の帰りを今か今かと待っていてくれる。

そして彼の後方にはチューリッヒがひろがっていた。――二百人から成る大参事会のチューリッヒ、そしてツヴィングリの都市。コンラート・グレーベルが「地上のふるさと」と呼んだ街。そしてフェリクス・マンツの生まれ育った街。しかし、グレーベルは死に、マンツもまた死んだ。

二人はチューリッヒ当局の手にかかって殺されたのだった。

しかし、彼らは無駄に死んでいったわけではなかった。彼らは正しい選択をしたのだとマルクスは確信していた。

チューリッヒを離れ、よたよたと足を引きずりながら歩み去って行った、あの大男ブラウロックの背中の傷あと――あの傷あとは、意味のないものではなかった。

救い主イエス・キリスト、そして聖書の御言葉に対する信仰――それがこれらの苦しみをもたらしたのであった。

そしてそのような信仰は、全世界よりも、そして、あらゆる栄誉や人々の称賛よりも、さらには平和な家、妻、子ども、ブドウ園よりも、より一層価値あるものだった。

でも、、、でも、、、でも、、、

「これ以上御霊を消してはいけない、マルクス。君はもう長いこと御霊を消してしまっている。」かつてこの言葉は頻繁に彼の脳裏をかすめていた。そして今またそれは彼に語っていた。

マルクス・ボシャートは今や未来に直面していた。

一方には、ブドウの収穫、家庭生活、友人や愛する人々のいるゾリコンがあった。そしてもう一方には、監獄と溺死刑、むち打ちの待つチューリッヒがあった。

僕はどちらを選ぶのだろう。マルクス・ボシャートは自分に問いかけた。

第三十一章
   再び脱獄、そしてコンラートの死


何か胸騒ぎがして、マルクスは目を閉じ、眠ることができなかった。傍らでは、レグラと赤ん坊がすやすやと寝入っていた。おそらく、今晩の興奮で寝付けないのだろう。マルクスは、ルドルフ・ホッティンガーが語った獄中生活のことを思い巡らしていた。

マルクスにとって――ゾリコン出身の者が誰ひとりとして獄中生活に耐えられなかった――その事が彼の心を煩わせた。結局、いつもゾリコンの村人たちは転向してきた。それに比べ、他の州のアナバプテスト信者は実にしっかりしていた。彼らは信仰を否んだりしていなかった。それなのに、これまでのところ、ゾリコンの囚人は皆、いやいやながらではあれ、とにかく相手の条件を飲み、中途半端な約束をさせられた上で、釈放されていた。

しばしの間、マルクスはヨハン・ブロトゥリー――マルクスの心に幼児洗礼に関する疑問をはじめて植えた牧師――のことを思い出していた。ブロトゥリーこそ、重圧がひどくのしかかってきた時でも屈しない唯一の人だった。マルクスはその事に関し、確信があった。でも、ヨハン・ブロトゥリーもやはりゾリコンの生まれではなかった。おそらくそうだからこそ、彼の信仰は強いのかもしれない。

みぞれがカタカタと家に打ち付けているなか、マルクスは、未だにあの冷たい魔女塔に閉じ込められている囚人たちのことを思い、彼らが不憫でならなかった。
ゾリコンのホッティンガー家の者たちは、暖炉のそばで家族とだんらんしている。しかしその一方で、イエス・キリストにある信仰を否まなかった囚人たちは、――今も塔の中におり、おそらく寒さに震え、わらの中でお互いに身を寄せ合っていることだろう。

ええい、とマルクスはこういった考えを締め出そうとした。もう寝なくては。そうじゃないと、明日の仕事が手につかなくなってしまう。もうすでに夜半を過ぎている。彼はあくびをしながら、体を伸ばし、あれこれ考えまいとした。

でもダメだった。いろんな思いが彼の頭の中を駆け巡りつづけた。――石造りの高い四角の塔、狭く仕切られた窓。そして、窓にはみぞれが冷ややかなリズムで打ちつけていた。次に彼の脳裏には、獄中生活を語るルドルフ・ホッティンガーの苦悩に満ちた顔が浮かんだ。乾パンと水。床の上のわら。軒のまわりをキーキー金切り声をあげながら吹きすさぶ風。マルクスは羊毛のかけ布団を顎の下にぎゅっと引き寄せた。

と、その時、戸口の方で音がした。最初は小さな音だったが、次第にはっきりしてきた。「変な風だな」とマルクスは思い、寝返りを打った。「いや、待てよ。これは風の音なんかじゃない。」

そう、それは誰かが戸を叩いている音だった。誰かが家に入れてもらいたくて玄関口に立っているのだ。こんな時間に、それもこんな悪天候の中にやって来るとは、いったい誰だろう。マルクスはベッドから飛び出した。彼は廊下を通って玄関へと素足のまま急いだが、足の裏は寒さにヒリヒリした。

彼はすばやく戸を開いた。風とみぞれがもろに彼の顔に吹き付けてきた。一瞬、彼は外の暗闇の中に誰をも見出さなかった。「なんだ、夢だったにちがいない。」
 しかし次の瞬間、二つの影が夜の暗闇からすっと現れ、すばやく玄関の間に滑り込んできた。マルクスは驚愕した。こんなことがありえようか。フェリクス・マンツとゲオルグ・ブラウロックのはずがないではないか!いや、しかし目の前にいるのはまがう方なく、彼ら二人であった。彼は戸を閉めた。

薄暗い灯りの下で、二人がブルブルと体を震わせているのがみえ、歯のガチガチ鳴る音も聞こえた。ちゅうちょなく、マルクスは二人を暖炉のある客間に連れていった。そして下火になっていた暖炉に火をくべた。炎はパチパチと燃え始め、やがて部屋全体が暖炉の火で明るくなった。

そうして初めて、マルクスは、マンツとブラウロックが凍雨でずぶぬれになっているのに気付いた。それに二人とも上着を着ていなかった。ブラウロックの服は肩のところで破れており、そこから血がにじんでいた。

マルクスはよろめきながら寝室に駆け込み、レグラを起こした。「二人に何か温かい食事を作ってあげておくれ。」そして彼は二人のところに戻っていった。

暖炉の火はさらに燃え盛り、その熱で二人の震えはおさまっていった。マルクスは押し入れからシャツを二枚探し出し、マンツとブラウロックに差し出した。二人はすぐさま着替え、その結果、だいぶ心地良くなったようだった。

「ど、、、どうやって監獄から出てきたの?」マルクスは尋ねた。
ゲオルグ・ブラウロックの目は輝き、彼の顔には笑みがこぼれた。「なんだか僕たちの周りには、不思議な仲間がいるようなんだ。実をいうと、僕たちも、君と同じくらい、驚いているんだ。」

そして彼はすぐに説明をはじめた。「数日前に、僕たちは鍵の掛かっていない窓があるのに気づいたんだ。――塔の上の方にね。でも、僕たちはてんで注意を払っていなかった。というのも、まず、自分たちは死ぬまで獄中にとどまるって覚悟を決めていたからね。それに、仮に逃げたかったとしても、窓から下に降りる方法がなかったし、仮に降りることができたとしても、跳ね橋を渡る方法がなかった。ところが、今夜、例の不思議な友人たちの介添えで、ロープが僕たちの目の前に降ろされてきたんだ。さらに驚くべきことに、跳ね橋はちゃんと下におりていて、門にも鍵がかかっていなかった。それで、僕たちは一人ずつ窓台によじ登り、ロープをつたって下に降り、橋を渡って、自由の身となったんだ。」

「話はそう簡単じゃなかったよ。」マンツは訂正した。「何人かは少しケガをしたし、降りる際に、壁にバンとぶつかりもした。シャツが破れた人たちもいた。」そう言って彼はブラウロックを見た。「そういった問題に加え、どこへ行けばよいのか、こんな短時間の間に、誰ひとり決めることができなかったんだ。」

「それもそうで、三十分前には、暗い嵐の吹きすさぶ外の世界に逃亡するなんて、誰も夢にも思っていなかったんだから。」ブラウロックは言った。
「ゲオルグは、『みんなで海を渡って、アメリカ大陸の原住民の所へ行って、彼らと一緒に暮らそう』とまで言っていた。おそらく原住民は僕たちを歓迎してくれるだろうからって」とフェリクス・マンツは言った。「でも彼は本気じゃなかったと思う。」
「まあね」とゲオルグは認めた。
「この先、どこに行く予定なの。」マルクスは訊いてみた。
「そうだな。まだ本決まりではないが、そろそろ出発しようと思っている。ここに立ち寄った理由は見ての通り、僕たちは寒さでほとんど凍死しそうだった、、、それにもっと服が必要だったんだ。」

「上着やあたたかい服をもっと持ってくるよ。」すぐにマルクスは申し出た。「遠慮なく使ってほしい。なにか役に立てれば本当にうれしいよ。」

二人の必要品をそろえるのに、レグラも来て、加勢してくれた。二人の訪問者はすぐに支度ができ、――より安全な場所へ避難すべく――再び夜の闇路へと突き進んでいく用意ができた。

いとまを告げる中、フェリクスは口をつぐんだ。何か言いたい事があるらしかった。「ここゾリコンの教会がつまずいてしまったと聞いて、僕の心は痛い。」彼はマルクスに言った。「これほど悲しいことはなかった。でも、もしや今でもまだ遅くないのかもしれない。御霊は今も嘆願しておられると僕は信じている、、、」

ゲオルグ・ブラウロックが言葉を挟んだ。「マルクス。」ありったけの思いを込めて彼は言った。「今日、弟子であることの代価は非常に高い。しかし、天にある栄冠はそれだけの価値をそなえている。そして最後まで忠実であり続ける者が救われるんだ。」
フェリクス・マンツは再び、助言して言った。「たしかに今まだ御霊は嘆願しておられるが、それが今後も続くとはかぎらない。御霊を消してはならない、マルクス。これ以上御霊を消してはいけない。」

二人は闇夜に歩み出した。ややあってゲオルグ・ブラウロックが振り返った。「最後にもう一つ。ホッティンガー家の者たちは家に帰ってきたのかい。」
「ええ。」
「彼らはあともう数時間待っていればよかったのに。そうしたら、清い良心をもって自由の身となることができたろうに。」

こうして二人は暗闇にすいこまれていったが、ブラウロックの言葉は今も空中に漂っているかのようであった。自由!いったいどういう意味なんだろう、とマルクスは思った。今晩見たフェリクス・マンツとゲオルグ・ブラウロックははたして自由な人間だったろうか。――隠れ家を求めて、嵐の中を急いで去っていた彼らが。

その一方でルドルフ・ホッティンガーと息子ウリはどうだろう。彼らは自由な人間だといえるだろうか。彼らの苦悶に満ちた表情をマルクスは未だに覚えていたし、彼らの心情がマルクスには自分の経験からよく理解できた。

ホッティンガーの人々は逮捕される恐れなく、朝起きることができるだろう。しかし真の意味で、彼らには自由があるのだろうか。たった今闇夜に消えて行った二人は、魂において自由であり、良心の呵責からも自由であった。これもまた、自由といえよう。いや、おそらくこちらの方がより大きな自由なのかもしれない。

☆☆☆

マルクスとレグラはこの深夜の訪問客について一切誰にも言わないように気をつけていた。一つには、彼らを助けたという事自体、重大な犯罪行為とみなされ、それが発覚したなら、マルクスの投獄は確実だったからである。それに、二人がゾリコンにいたということが当局の知るところとなれば、逃亡の形跡を残すことになり、それによって彼らをさらなる危険に陥れることになりかねなかったからである。

二人は迅速に州を脱出しただろうとマルクスはにらんでいた。「コンラード・グレーベルはどこに行ったのだろう」と彼は思った。フェリクスの言ったところによれば、コンラードの健康状態はさらに悪化しており、長い獄中生活によって極度に衰弱している、とのことであった。彼はいったいどこに逃げたというのだろう。

マルクスはコンラードのことを気の毒に思った。――距離的な意味だけでなく、信仰の上でも、妻と子どもたちから引き離されている彼のことが。それに加え、コンラードは親からも勘当されていた。しかしコンラード・グレーベルは地上の家庭や幸せ以上に価値あるものを持していた。そう、それは内なる平安、そして――福音宣教を通し、神の御心を行っているのだ――という確信であった。

☆☆☆

その後何カ月もの間、アナバプテストの指導者たちについての音沙汰はなかった。しかしさまざまな証言から明らかだったのは、彼らが州を脱出し、どこか他の地域で福音伝道に従事しているということだった。

やがて春は過ぎ去り、夏となった。そしてあたたかい気候と共に、グリューニンゲンには再び霊的覚醒がもたらされた。かつて意気消沈していた兄弟たちは再び新たな希望と勇気を得た。こうして夏の間、――安全を確保するべく――さらなる秘密裏のうちに、彼らは集った。兄弟たちは畑や森の中、また時には洞窟の中で集会をもった。また時には、街道からかなり奥まった所にある農夫の納屋の中に集まった。

六月の下旬になって、――フェリクス・マンツとゲオルグ・ブラウロックがグリューニンゲンに戻って来ていて、そこで伝道している――という噂がゾリコンに流れてきた。マルクスは彼らを探し出し、話がしたくてたまらなかった。そしてフェリクス・マンツが別れ際に言った言葉――「まだ手遅れではないのかもしれない、マルクス。でもこれ以上、御霊を消してはいけない」――の意味を尋ねたかった。そう、あの日以来、この言葉はマルクスの脳裏から離れなかったのである。

しかしその後、二人がグリューニンゲンの地区を再び離れた、という知らせが入ってきた。聞くところによれば、彼らはあちこちを転々とし、一日かそこらの滞在中に、その地にいる兄弟たちを激励し、その後、また移動をつづけているとのことであった。それゆえ、当局が彼らの存在に気付いた時には、二人はすでにその地を去った後だった。

また同じ時期に、ホッティンガー爺が、小さな小冊子をマルクスに手渡した。「人に見つからないように大事に隠し持っておれ」と彼は警告した。「これを所持しているのが発見されたなら、大ごとだからな。」

マルクスはいそいで家に戻ると、戸の閉まる部屋に入った。そして誰ものぞいていないことを確認すると、例の小冊子を開いた。一目でそれは、洗礼に関するコンラード・グレーベルの――獄中で書き上げた――作品であることが分かった。そうか、危険を承知で、このトラクト冊子を印刷してくれる出版社がついに見つかったんだな、とマルクスは思った。
「これを読み終わったら、次の人に回してくれ」と爺さんは提案していた。

マルクスは小冊子を慎重に読み進めていった。そこには、コンラードの説教で語られていたのを同じ教えが盛り込まれていた。
グリューニンゲンでコンラード・グレーベルと過ごした、あの忘れがたい数週間から、一年が経過していた。この一年、コンラードは変わっていなかった。彼は同じメッセージを語り続け、今も、自分の命の危険を冒して、福音を宣べ伝えていた。

「それに比べて、、、僕は変わってしまった!」マルクスはそう認めざるをえなかった。「僕は、もはや一年前のような、イエス・キリストの弟子ではない。ぼ、、、ぼくは、御霊を消してしまったんだ。」
この現実を前に、彼は厳粛になり、かつ恐れおののいた。彼はがくりと頭を垂れ、手で頭を抱えた。「ああ、主よ」と彼は叫んだ。「もう手遅れでしょうか。」

☆☆☆

「コンラード・グレーベル死去」

八月、衝撃的な知らせがゾリコンに届いた。
報告によれば、コンラードはグリソンズ州、マイエンフェルドにある妹の家に身を寄せていたらしかった。そしてそこにいる間に、ペスト菌に侵されたのであった。すでに獄中生活で衰弱していた彼の体は、この病にとても太刀打ちできなかったのである。

マルクスは友コンラードの死を深く悼んだ。スイスの至る所で悪戦苦闘しているアナバプテストの教会は今後どうなっていくのだろう。その第一人者が死んでしまったのである。

「少なくともマンツとブラウロックがまだ活動している。」マルクスはレグラに言った。「彼らが指揮をとってくれるだろう。そして神は、コンラード兄弟にかわる他の兄弟たちを起こしてくださるかもしれない。」
「そうかもしれないわ。」レグラは同意した。「でも。フェリクスや、ゲオルグ・ブラウロックが再びチューリッヒに戻ってきて、そして捕まったら一体どうなるかは、あなたも知っているでしょう。」

「ああ、知ってるよ。」不安げにマルクスは言った。「参事会は、彼らを溺死刑に処すって宣言している。でも、一つ、慰められることもある。そういった極刑を望んでいない有力議員が、参事会の中にいるんだ。」
「誰の事を言っているの?ヤコブ・グレーベル議員のこと?」
「そうだ。彼を差し置いて、他に誰がいよう。ツヴィングリはこの状態をあまりおもしろく思っていないようだ。三月のあの夜、マンツとブラウロックが牢獄を脱走して、ここに立ち寄ったのを覚えているだろう?あれに関しても、ツヴィングリは、ヤコブ・グレーベルおよび仲間たちのたくらみだったって、非難しているんだ。」

「じゃあ、ツヴィングリ卿といえども、いつも自分の思い通りにすることはできないわけね。」レグラは考え考え言った。
「ああ、完全にはね。少なくともヤコブ・グレーベルが参事会にいる間はだ。なんといってもグレーベル議員は皆に好かれ、尊敬されているからね。彼の影響力はたいしたものだよ。」

☆☆☆

――ヤコブ・グレーベル議員はチューリッヒで影響力のある人物だ――とマルクスは言ったが、それはある意味正しかった。しかし、それに関し、ウルリッヒ・ツヴィングリ卿が何もできないでいると考えた彼の見方は甘かった、といえた。

ヤコブ・グレーベルは全くもってアナバプテストではなかったが、彼は、人間には各々良心の自由が与えられている、ということを堅く信じていた。そして何を信じるべきか政府にとやかく指図されるべきではないと考えていた。それゆえ、彼は、何を信じているか、という事で、誰かを迫害することに反対の意を唱えていた。またヤコブ・グレーベルは勇敢な人物でもあった。ある時など彼はウルリッヒ・ツヴィングリにこう言った。「いっそのこと福音伝道に専念したらどうですか。そして、これ以上政治にからんでくるのをおやめになったら。」

しかしツヴィングリ卿に負けがあってはならないのだった。彼は明確に物事をみていた。――自分流の教会改革を成功させるには、アナバプテストの連中を自分のコントロール下に治めなくてはならない。そしてアナバプテストに対処するためには、参事会は一つにまとまっていなくてはならない、と。そういう訳で、ヤコブ・グレーベルとその周辺の人々をなんとか片づけなくてはならなかったのである。

こうして高圧的なやり方で、ヤコブ・グレーベル議員は逮捕され、政治的犯罪のかどで告訴された。そして11名から成る特別委員会が、陪審員として任命されたのである。恐怖におののき、町全体がこの成り行きを見守った。数日間というもの、チューリヒの市門は閉ざされ、異常な緊張状態にあった。

ツヴィングリの強い要求により、ヤコブ・グレーベルに死刑判決が言い渡された。事の成り行きが信じられないままに、この白髪老人は、処刑場に引いて行かれ、すぐさま首をはねられた。

こうしてウルリヒ・ツヴィングリは自分がただ者ではないことを世に実証したのであった。反対勢力は、恐怖でちぢみあがった。今や、彼は、自分流の教会企画を心おきなく推し進めることができ、しかもこの先、参事会から疑問の声が挙がることも皆無だといってよかった。アナバプテストを対処するにあたっての道はこれで明確になった。

こうして舞台は整い、今や、チューリッヒ全体が、アナバプテスト指導者の逮捕を固唾をのんで待っていた。

第三十章
   迫りくる迫害の嵐


チューリッヒでの一大討論会が終わって一カ月もすると、本格的な冬に入った。

風の激しいある午後、ふいに戸口に旧友ウリッヒ・ライヘネールが現れ、マルクスは驚いた。二人はあの日――マルクスの出頭命令をたずさえ、ウリッヒがフィンステルバッハの家にやってきた日――以来、会っていなかった。

「さあ、寒い中、立ってないで、中に入って」とマルクスは彼を家に招き入れた。「今晩は、ぜひともうちで夕食を食べていっておくれよ。」

それに対し、ライヘネールは全く遠慮する様子なく、どっかりと腰をおろした。「グリューニンゲンから来たんだ」と彼は説明した。「それで正直にいうと、僕はもうくたくたで、体もかじかんでいる。あったかい食事にありつけるなら、実にありがたいね。」

しかし、彼の来た本当の理由は、何か話すためであることをマルクスは知っていた。

「グリューニンゲンは、まだ混乱をきわめているよ。」ウリッヒは話し始めた。
「あわれなベルゲル行政官は、心労でかなり参っているよ。夜もほとんど眠れないらしい。」

「それじゃあ、討論会を開催したけど事態が良くなったわけじゃないんだね」とマルクスは尋ねた。レグラが入ってきて、赤ん坊をひざに、腰をおろした。

「そう、良くはなっていない。当然ながら、アナバプテスト信者は満足おらず、参事会のやり方が不公平だったって言っている。」
「でも、、、兄弟たち、、、つまりアナバプテスト信者の数は今も増えていると思うかい。」

「もちろんだ!洗礼は未だに執り行われている。もっとも、ごくごく秘密裏にね。集会も開かれているけど、たいてい、見つからないように、夜間、丘の背後で行われているよ。」

「それに対して、ベルゲルはどういう対応をしているの。」マルクスは訊いた。

「うん、彼はアナバステストを片っぱしから捕えていて、牢城は囚人でほぼ満員状態だ。先週のある一日、彼は新しく裁判を開き、一人一人、牢から引っ張り出してきたよ。でも転向したのはその内でたったの13人だった。残りの90人は相変わらず、服従する気がない。」

「そういう情報をいったいどこから手に入れているの。」レグラは尋ねた。
ライヘネールはいたずらっぽく笑った。「コネですよ。ちなみに僕は昨夜、城内で寝たんですよ。」

「えっー、本当に!」マルクスもレグラもびっくりして叫んだ。

「そう、ライヘネールは僕のことをかなり買ってくれているんだ。まあ、彼は人を見る目があるってところかな。」ライヘネールは得意そうに胸を張って見せた。

「でも、君は、囚人を捕まえたりはしていないんだろうね。」友の方をじっと見ながら、マルクスは言った。
「いや、そういうわけじゃない。僕は、両陣営の友とつながりのある、いわゆる仲立ち屋だから。」彼は笑った。

でもマルクスにとって、それは冗談ではなかった。「君のいる立場って、かなり恥ずべきものじゃないだろうか。」彼は冷ややかに尋ねた。

「待って、そういう目で僕を見ないでくれよ」とライヘネールは反論した。「そういう君こそ、どっちの側に立っているんだ、マルクス・ボシャート。まずそれを僕に言ってくれ。」

マルクスはたじろいだ。どう答えてよいか分からなかったし、今はウリッヒに自分の気持ちを打ち明けない方が賢明なような気がした。

「昨晩、僕はベルゲル行政官と話したけど、彼はかなり参っている様子だった。

彼は僕に、『毎日、法廷を開くのは無理だ。でも、事態を処理するためには、そうせざるをえない。アナバプテストの連中の頑固さのせいで、白髪が増えていく一方だよ』と言っていた。彼は、非合法の集会にいったかどで、義理の弟さえも尋問しなきゃならなかったらしい。」

「ということは、指導者たちを投獄したところで、何ら解決にはならなかったってことだな。」

「そう。この運動の拡がる速度を落とすことはできるかもしれないけど、止めることはできないよ。」ライヘネールは同意した。
「この問題は結局、どういう風に落ち着くのかしら。」レグラはつぶやいた。
赤ん坊がクックといって喜んだ。

「どういう風に落ち着くか、ですか?」ウリッヒ・ライヘネールはためらうことなく答えた。

「この洗礼騒ぎのことを皆が忘れてしまうまでは、どこにも落ち着きはしませんよ。皆がこの件をすっかり忘れる、これしか問題解決の方法はありませんよ。アナバプテストはここらへんの現実をわきまえた方がいいと思います。」

「でも、この運動は成長しているんだ。」マルクスは反論した。

「グリューニンゲンをごらんよ。あそこじゃ、たいした騒ぎだ。大半の人は洗礼を受けたか、あるいはアナバプテスト支持者ときている。もしもかなりの人が、、」

「そういう可能性はゼロだね」とライヘネールは言った。

「そこまで数が増える前に、参事会は何らかの手立てを打つに決まっている。もしアナバプテストが全く武力を行使しないのであれば、数が増えたところで、何の益があるだろう。

銃を持った一人は、――応戦するのは正しいことじゃないと信じている――百人を支配することができる。だから、たとえ州の大部分がアナバプテストになったところで、何も事態は変わらないって僕はみているね。」

「まあ、そうだろうな。」力なくマルクスは認めた。

「でも、武力行使のことが念頭にあったわけじゃないんだ。いや、決してそういうつもりで言ったんじゃない。僕の考えていたのは、『もし、人々がツヴィングリについてきていないのに気がついたら、彼はあるいは方針を変えるかもしれない』ってことだったんだ。」

「そんな事あるわけない!」ウリッヒはうなるように言った。

☆☆☆

冬は相変わらず続いていた。チューリッヒ州にあれほどの激動をもたらした1525年という年は暮れ、1526年が新しく幕を開けた。一月の末が近づくにつれ、マルクスとレグラは、前の年に起こった出来事を思い出さざるをえなかった。

――最初の洗礼が執り行われ、教会の土台が据えられた、二月のあの興奮に満ちた週。牢での九日間。そしてゾリコンの農民たちの釈放後に起こった霊的覚醒の日々、、、

一年という間に、本当にいろんな事が起こった。

しかし今や、三人の指導者たちはいずれも獄中におり、釈放される見込みはまずないといってよかった。ゾリコン村の冬は、おおよそ静かだった。

唯一の例外は、ホッティンガー家の者が四人逮捕された日であった。どういう訳で捕まったのか、マルクスには見当がつかなかった。しかし聞くところによると、村役人ウェストがチューリッヒに通報したとのことであった。――この四人が未だに心の中ではアナバプテストなのではないかとウェストは疑ったのだった。

そういうことをしたために、村の中での彼の人気はさらに落ちてしまった。

マルクス自身も、幼児洗礼に反対するような言葉は一切誰にも言わないのが唯一の安全策だということを悟り始めていた。この題目はすでに御法度となっていたのだ。

官憲たちが家に来た時、爺さんは家を留守にしていた。マーガレットは捕えられ、彼女の兄弟であるルドルフとヘイニー、それからルドルフの息子ウリも逮捕された。

伝えられたところでは、彼らは塔の中の獄に監禁され、裁判を控えているのだという。同じ塔には、グリューニンゲンを始め、各州から連れてこられた囚人たちがいるともきいた。

日は経っていったが、チューリッヒからは何の音沙汰もなかった。ゾリコンでは何カ月かぶりに、静けさと安穏が村に戻っていた。チューリッヒ湖を横切る風は、丘陵に吹きつけ、雪の結晶は空を舞っていた。晴れ渡った日には、日光が明るくキラキラと輝いていた。

マルクスは、薪用に木を切り、それをそりに載せて、森林に被われた丘陵の下へ運んでいった。刺すような寒さのせいで、彼の足取りは弾んだが、心が弾むことは決してなかった。

「現状下では、これが僕たちにできる最善のことだ。」良心をなだめようと、彼はこう言って、何度も何度も自分に言い聞かせるのだった。

「僕たちが心の中ではどんなに信仰をもっているか神は御存じだし、もしかしたら、いつの日か再び、自分たちの信仰を公に出せるようになるかもしれない。」

ゾリコンではすべてが平常であったが、グリューニンゲンでは問題が増大していた。そのためチューリッヒの参事会は、一刻も怠ける余裕などなかった。ベルゲル行政官からの手紙にはこう書いてあった。

「この連中をおだてたり、なだめすかしたりすればするほど、そして彼らに寛大であればあるほど、事態はますます悪化するように思われます。従って、今こそ、真剣かつ断固とした手立てを打つ時がきているのです。我々は寛容策をもって対応してきましたが、それは功をなしませんでした。」

その結果、ツヴィングリの提案で、参事会はアナバプテストに対する、より強硬な新政策を打ち出すことにした。今回の政策は、けっして生半可なものではなかった。

――つまり、これ以後、誰であれ、人に洗礼を施した疑いのある者は、情け容赦なく、またさらなる裁判もなく、溺死刑に処される。よって何びとも心すべし、と。

こうした厳しい新政策に沿って、コンラート・グレーベル、フェリクス・マンツ、ゲオルグ・ブラウロックは再審を受けるべく、牢から引っ張り出された。六か月に渡る獄中生活で青ざめ、やせ衰えた三人は、尋問に答え、宣告を待った。

「これらの者たちは、強情に、誤った教えに固執して離れないため」と新判決が言い渡された。「新塔に戻された後、食物としては水とパンより他一切彼らに与えてはならない。また寝具としてはわらのみが供給される。

また彼らに給仕する看守は、誓いをした上で、誰をも面会に来させてはならない。死に、朽ち果てるまで彼らはこの獄中にとどまるべし。病の際にも、誰といえども、刑務所を変更する権利を持さない。」

他の者へのしかるべき警告とするべく、この判決文は、州内の村々に伝達され、人々の前で読み上げられた。そして新たな法令が告知された。兄弟たちに対するこのような過酷な政策が打ち出されたことを聞いたマルクスは、恐ろしさに身を震わせた。

何よりもマルクスを恐れおののかせたのは、ゾリコンのホッティンガー家の四人も、指導者たちと同じ判決を受け、例の塔に投獄された、ということだった。

しかし、もし彼が、――ウルリッヒ・ツヴィングリがセイント・ガルの友ヴァディアンに宛てて書いた手紙を読んだとしたら――、さらに恐怖で縮みあがっていたにちがいない。それにはこうしたためてあった。

「誉れ高き市長閣下。今日今しがた、二百人から成る参事会はアナバプテストの首謀者どもを再度、牢塔に入れることに決定しました。そこの獄中で、彼らは死ぬまで、もしくは、助命を請うてくるまで、パンと水だけで捨て置かれます。

さらに、今後、誰であれ洗礼を受けた者は、水の下に完全に沈んでもらうこと(=溺死刑)で合意がなされました!この判決案はすでに可決されました。

こうして、長い忍耐の期間は終わりを告げたのです。あなたのお義父様ヤコブ・グレーベルは、参事会に寛大な措置を取るようにと働いておられましたが、それも無駄に終わりましたね。」


☆☆☆

3月21日。凍てつく塔の監房での二週間――パンと水だけがあてがわれていた――を経て、ホッティンガー家の者たちはゾリコンに戻ってきた。

マルクスはこの知らせをきくや、すぐさま彼らに会いに行った。ホッティンガーの家に入ると、六人の子持ちのルドルフは、一人の子をひざに乗せていた。

喜びと悲しさの入り混じった表情――マルクスはこの心情が非常によく理解できた――が未だにルドルフの顔に残っていた。そう、彼は再び家族と共に過ごせることを喜んでいたが、その一方で、そうするために自らの信仰を否んでしまったことを内的に恥じていたのである。

「他の囚人たちのことも話しておくれよ。」マルクスは言った。「彼らの姿勢は今も変わっていない?」

ルドルフの顔は曇った。ああ、彼は自分の経験を話したくないのだな、とマルクスはすぐに気付いた。しかし、マルクスの度重なる質問に根負けしたのか、ルドルフはとうとう話し始めた。

「一つの監房に僕たち14人が収容されていた。寒い夜なんかは、お互いにぴったりと身を寄せ合うことでしか、温まるすべがなかった。

「マーガレット叔母の他に女性の囚人もいたかい。」マルクスは尋ねた。
「ああ、6人もいたよ。」ルドルフは答えた。「その内の一人はフェリクスの母親だった。彼女はあの状況下でも平安のうちにいた、とマーガッレットは言っていた。」

「女性は、男性と同じような残酷な待遇を受けたわけじゃないよね。まさか、そんなことはないだろう。」
「いや、同じだった。全く同様の待遇を受けていた。」

「それから三人の指導者たち、、、か、かれらは、、、飢えやら寒さやらで、うちひしがれているようなことはないよね?ね、そうだろう?」マルクスはこわごわとやっとの思いで訊いた。

ルドルフの長男である、十代後半になるひょろりとしたウリが部屋に入ってきていた。そして「いいや、全く、そんなことはなかった」と答えた。

ルドルフはさらに説明を加えた。「コンラートは何か書き物をしていて、他の二人は彼を助けていた。三人とも御言葉を僕たちに読み、説明してくれ、そして最後まで忠実であるようにと励ましてくれたんだ。」

「じゃあ、ど、、、どうして降参してしまったの。」

「もうあれ以上我慢できなかった。」ほとんど怒ったように、ルドルフは叫んだ。「あまりに悲惨な環境で、、、それに妻や子供たちが恋しくてたまらなかったんだ。」彼の目には涙がいっぱいたまっていた。

「最初のうちは、まだ耐えやすかったんだ」と息子が言った。「僕たちは努めて前向きに物事を考えようとしていた。――キリストの御名のゆえに苦しみを受けているんだってね。そしてそこに一致と連帯感があったんだ。でも、、、それから、、、それから、、、」

マルクスは、同情しながら、次の言葉を待った。

「それから後、僕たちはぼそぼそと転向の可能性について話し始めた。それで残りの仲間たちは皆かなり動揺し、僕たちを叱咤した。そのせいで、僕たちにはひとときも休まる時がなかった。」そう語る彼の顔には、当時の精神的緊張の形跡がみてとれた。

「でも、、、三人の指導者たちはこれから先も信仰を否むようなことはないって君は思っているんだろう?」マルクスは尋ねた。これはぜひとも訊かねばならない問いだった。

ルドルフは答えた。

「ああ、あの人たちはぜったいにへこたれないよ。彼らは、死ぬまであのひどい牢獄にとどまり続ける決死の覚悟ができている。それに彼らの余命も、そう長いことはないと思う。というのも、ああいう悲惨きわまる環境に置かれては、どんなに屈強な男でも病んでしまう。そして、三人はすでに冬の間中ずっとあそこにいるんだからね。」

こうしてマルクスはいとまを告げた。外に出ると、激しい凍雨が打ちつけていた。用心しながらマルクスは丘を下っていった。湖の上には灰色の空がひろがっており、風はますます強く吹きつけていた。今晩は嵐になるにちがいない。

その日の晩、寝る前に、マルクスは家畜の様子をみに小屋の方に歩いていった。風が強く打ちつけ、どこもかしこも氷で表面がキラキラ光っていた。「今晩、塔のあの監房は、さぞかし冷え込むだろう。」彼はつぶやいた。

しかしその塔の中で、その時、実際何が起こっていたのか、マルクスには知るよしもなかった。

第ニ十九章
   第三回公開討論会とその結末



ぶどうは収穫できるほど熟れていた。ここ数週間、日曜を除いて、マルクスは一日も欠かさずブドウ園で働いていた。レグラも手伝いに来てくれていた。彼女は赤ん坊を寝かせる箱をこしらえ、寒い日には毛布で暖かくくるんだ。

ブドウの収穫にいそしみつつも、マルクスの思いはしばし遠くへ及んでいた。

グリューニンゲンからの便りによれば、フェリクス・マンツはいまもまだそこにおり、丘の後ろ手にある農家の家々に潜伏しているとのことであった。ヨルグ・ベルゲルはマンツを捕えようと、数人の官憲を手配していた。

――チューリッヒ参事会が特別指名手配の指示を出していたからである。しかしこれまでのところ、ベルゲル捜査班はマンツを捕えることができないでいた。

地元の人々は、マンツの居場所を訊かれるたびに、しらばくれて、複雑な道案内をするのだった。それで官憲たちはいつも路頭に迷ってしまうのだった。そしてようやくその場所を見つけた頃には、隠れ家はすでにもぬけの殻となっていた。

一方、コンラート・グレーベルとゲオルグ・ブラウロックは、さらに厳重な監視の元に置かれるべきだとして、チューリッヒに移送されていた。

グリューニゲン城は安全とはいえないとベルゲルが懸念したからだった。この地区には二人の友人や支援者たちが大勢いたため、彼らが逃亡の手助けをする可能性があったのだ。

そんな中、ある日、マルクスは「グリューニゲンで洗礼に関する公開討論の話がもちあがっている」という噂を聞いた。

それによれば、ヨルグ・ベルゲル行政官もそれに賛成しており、三回目となる、アナバプテストとの討論会の開催を求める文書を参事会に提出したということだった。こういった討論会を通して、兄弟たちの誤りが立証されることを、ベルゲルは望んでいたのであった。

「兄弟たちは全員、討論会に来なければならないって行政官は考えているらしいんだ。」並んでブドウを摘み取りながら、マルクスは妻に言った。

「でもまあ、あくまで参事会が開催に賛同すればの話だけれどね。ベルゲルとしては、再び地元の人々を落ち着かせるためにも、この件に早くケリをつけたいって考えているわけだ。ツヴィングリなら必ず、農民どもに、自説の正しさを立証することができるって、ベルゲルは確信しているんだ。」

「でも話はそう簡単じゃないはずよね、そうでしょう」とレグラは訊いた。

「うん、僕もそう思う。」マルクスは答えた。「実際、ベルゲル行政官に引けを取らない位、グリューニゲンの兄弟たちも、開催を熱望しているんだ。いや、それどころか、もともと、開催を要求したのは彼らの方だった。正当で、公平な討論会が開かれることによって、真理が誰の目にも示され、もしかしたら参事会でさえも納得するようになるかもしれないって、兄弟たちは考えているんだ。」

「あなたはどう考えていて。」

「そうだな。討論会自体は名案だと思うよ」とマルクスは言った。「もしグレーベルとマンツに自分の見解を自由に述べることが許されるなら、真理を探究している者に、その真偽が明らかに示されると思う。でも、問題はだ、、、」マルクスはためらった。

「何?」

「問題は、、、過去二回の討論会ではいずれも、兄弟たちに、自分たちの信仰について説明する自由が与えられなかった、ということだ。兄弟たちが口を開くや、話は中断させられ、ツヴィングリ陣営の誰かが彼らに反論してきた。今回も結局はそういう風になってしまうんじゃないかと思う。でも、やってみるだけの価値はあるだろう。爺さんはどう考えているかな。」

その日の晩、マルクスは歩いてホッティンガー爺の家を訪れ、二人は討論会の可能性について話し合った。途中、リッチ・ホッティンガーも話の輪に加わった。

「討論会要請の嘆願書をチューリッヒ参事会にしたためるべきだと僕は思う」とますます熱が入ってきたリッチが言った。

それがはたして賢明なことなのかどうか爺さんは確信が持てないでいた。しかしマルクスがそれに賛成しているということを知ると、爺さんは同意した。

「お前たち二人が文書をしたためたらどうだろう。そしてそれを皆に見てもらって、意見や賛否のほどを訊いてみたら」と爺さんは助言した。
そういったわけで、マルクスは文書作成を手助けすることになった。

慈愛深い市長殿ならびに議員閣下。あなたの臣下である、我々ゾリコンの兄弟姉妹は、あなたがたの知恵に自らを委ねます、、、神の御言葉があなたがたを治め、御言葉自らが、あなたがたの裁き主となりますように。

と申しますのも、人間が聖書の言葉を裁くのは、正しからぬことだと思うからです。――聖書は、神御自身が語られた言葉であります。我共の願いは、偏見や、人間的理屈にとらわれることなく、聖く、真実で、純粋な神の言葉から直接、教えをいただくことです。ですから、聖書に記されていない事には、どんなことがあろうとも決して、関わり合いをもちたくないのです。

慈悲深き議員閣下。我々はここに謹んで、公開討論会の開催を、嘆願いたします。――聖書から直接教えを受けたいと望む者は誰であれ、集うことができる会を、です。

そして、聖書的な真理であると示されるものに対し、――それが幼児洗礼であるのか、再洗礼であるのかにかかわらず――我々は進んでそれを受け入れ、信じるつもりであります。神さまが皆さまと共におられますように。アーメン。
       ゾリコン在住のアナバプテストおよび奉仕者一同


この嘆願書は、かつてのゾリコン・アナバプテスト教会のメンバーだった人々の間で回し読みされた。その後、それは参事会に送られた。

参事会がゾリコンの人々の言う事などに耳を貸すだろうか、と、マルクスはあまり期待が持てなかった。しかし、もしベルゲル行政官と、グリューニンゲン・アナバプテストの両方がすでに討論会開催を要請しているのだとしたら、僕たちの文書もあるいは役に立つかもしれない、と彼は思った。

十月の終わる前に、チューリッヒが実際に討論会を予定しているという知らせが入ってきた。それによると、今回の討論会は、徹底したものになる。よって、これ以降、さらなる討論会を開く必要はもう決してなくなるだろう、と。

アナバプテストの兄弟たちに対しては、ぜひ来て、聖書が実際には何と教えているのかをきき、学ぶよう、そして洗礼に関し、どちらが神の前に正しいのかを見極めるよう奨励していた。

公開討論会の開催日時は、11月6日ということに決定した。この告示はスイス全国に発布され、全国から人々がチューリッヒに向かおうとしていた。しかし、興奮の中心はなんといっても、チューリッヒ市、グリューニンゲン、ゾリコンにあり、人々は大いに沸き立っていた。

☆☆☆

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討論会開催前に、フェリクス・マンツは再度、捕えられた。

その後、彼は塔の中に連行され、グレーベルおよびブラウロックと共に牢につながれた。三人の指導者が共に投獄されたのは、これが初めてだった。

そしてこの三人は、討論会の目的にあわせ、議論に参加すべく、参事会の議事堂に連れてこられることになっていた。

1525年11月6日、月曜の朝、マルクス・ボシャートは、ゾリコンの多くの仲間と共に、チューリッヒに徒歩で向かった。一行が到着した頃には、議事堂はぎゅうぎゅう詰めで、外にも人が群がっていた。

しばらくして告知がなされた。議事堂にはこれだけ大勢の参加者を受け入れるスペースがないため、会場を、近くにあるグロスミュンスター教会に移すことにするということだった。

その後、あわただしく本や椅子や家具などが教会堂まで運ばれ、人々も移り始めた。

マルクスは群衆と共に進んだが、前の人のかかとを踏まないように、ゆっくりと小刻みに歩いて行った。前方には、高くそびえたつアーチ型の戸口が見え、そこからどんどん人が入って行った。中に入ると、案内係に席を案内してもらい、マルクスは着席した。講壇の上では、係の人々が大慌てでテーブル席を整えていた。

アナバプテストの指導者たちは、一方の側のテーブルに座り、反対側の席には論敵であるツヴィングリの陣営が座ることになっていた。そして両テーブルの脇にはいずれも議員や高官たちの席が用意されてあった。秘書官たちは任務をひかえ、インクだめをインクで満たし、羽ペンを手入れしていた。

討論会はなかなか始まらないだろうと初めからマルクスはにらんでいた。グロスミュンスター教会への移動で、すでに開会式は遅れていた。ようやく始まったと思いきや、マルクスには見覚えのない議員の何人かが、演説を始めた。

――現在の混乱期を振り返りつつ、彼らは、『ツヴィングリが教会のために、いかに偉大な事を成し遂げたか、彼がいかに反対する者たちに大いなる愛と忍耐を示したか、そして三回目に当たる本討論会を開くにあたり、彼がいかに平和的に、反対者たちにその誤りを示そうとしているか』等、えんえんと一時間余りも話し続けた。

お昼近くになってようやく、討論会は幕を開けた。まずツヴィングリ卿が洗礼について長々と演説をした。「確かに、幼児に洗礼を授けよという、直接の掟は聖書にはありません」と彼は認めた。

「しかし新約聖書を読むと、洗礼を受けた幾つかの家族の例をみることができます――ステファノの一家、ルデアの一家、そしてピリピの看守の一家など――。こういった所帯が成人だけで構成されていたと考えるのは荒唐無稽です。その中には子供や赤ん坊もいたにちがいありません。」

「それに加えて」とツヴィングリは説明を続けた。

「イエスご自身が仰せられたではありませんか。『子供たちを、わたしのところに来させなさい。神の国は、このような者たちのものです』と。御国の子供として、彼らは洗礼を受ける権利があるのです。誰がそれを禁じることができるでしょう。」

ツヴィングリの説明は続いた。――曰く、イエス・キリストの新しい契約の下、いかにして洗礼が、従来の割礼の儀式に取って代わったか。イスラエルの男児が、神の国の一員であることの印に、割礼を受けたように、キリスト教徒の子供たちは、洗礼を受けることによって、神の選民としての一員になるのだ、と。

チューリッヒのこの有名牧師が演説を終える頃には、すでに昼食休憩の時間となっていた。午後の集会では、アナバプテストも自分たちの見解を述べる機会が与えられると、議長は請け合った。

この大聖堂にはおそらく千人もの人々がいた。これだけ大勢の見知らぬ人に囲まれ、マルクスは戸惑いを覚えた。彼は少しずつ玄関口に向かい、ポーチに座って、レグラの作ってくれたお弁当を食べ始めた。どこにもかしこにも人がいて、互いに話し合っていた。マルクスは耳を傾けた。

「これでツヴィングリは大勝利を収めるお膳立てをしたわけだ。」頬を膨らませ、自分の周りに立っている人々を澄まし気に見渡しながら、一人のめかしこんだ男が得意げに言っていた。

「この討論会は徹頭徹尾、公平なものだよ。もう金輪際、アナバプテストの連中は、『俺たちはだまされた』なんて言い訳できなくなるだろう。

ツヴィングリは主宰者として他の州の第一人者たちを招致し、それに、討論の様子をよく見るようにって、偏見のない農民たちを十二名、グニューニゲン村から選任したんだ。いやあ、まったくツヴィングリという人は、偉人だよ。でも彼はアナバプテストの連中に慈悲深すぎるように僕には思えるね。僕ならここまで忍耐深くはできない。」

「お前さんは、連中の事をよく知っているのかい?」話を合わせようと、一人のさえない小男が尋ねた。

「ああ、知ってるとも、かなりね。あいつらは、いつも騒動を起こしている、扇動家の一団だよ。もし、連中が、聖書の言うような『平和をつくる者』だったら、あちこち行き回って、弟を兄に、息子を父に敵対させるようなことはしないはずだ。

それに奴らは、自分たちが他より優れているって思っているんだ。いや、それどころか、自分たちには罪がないとまで豪語しているんだ――お清い再洗礼者ですってね、ちぇっ!」

「でも、連中がかなり敬虔な生活をしているってことは、お前さんも認めるだろう。」三番目の男が思い切って訊いた。

「単なる上っ面だけだよ。ああ、そうだとも。」最初の男が論じた。

「心の奥底ではね、奴らはよからぬ事を企んでいるんだ。本当だとも。」そして彼は声をひそめた。「あの連中はね、ひとたび優勢になるや、政府を打倒しようと待ち構えているんだ。奴らは政府の存在自体、全く認めていないし、武力行使は間違っているって言っているのを聞いたことがあるんだ。」

マルクスは今にも会話の中に飛び込んでいって、政府に関する、兄弟たちの本当の見解を説明したかった。

――つまり、僕たちの言う、『政府の職に就くことができず、いかなる状況下でも武力を用いることができない人々』というのは、あくまで『キリスト信者』のことを指しているのであって、市民全般を指しているのではない、と。しかし最初の男はまたもや話し始めていた。

「連中は、聖書の一字一句を馬鹿みたいにそのまま、受け取っているんだ。そう、今朝も誰かが言っていたけど、セイント・ガルで、奴らは『あなたがたも子供たちのようにならない限り、決して天の御国には、入れません』という節句を読んだんだとさ。

それで、彼らはどうしたかというと、地面にしゃがみ、手やひざでハイハイ歩きしながら、玩具で遊んだんだって――小さな子供のようになろうってね。」こういうと彼は頭をのけぞらせ、けたたましく笑った。その場で聞いていた人たちは、礼儀上、笑みを浮かべはしたが、誰も笑いには加わらなかった。

マルクスにはもう十分だった。それで彼は外に出ようとした。しかしその時、例のおしゃべり屋がまた新しい話を始めたのだった。マルクスはその場を離れることができなかった。

「こういった再洗礼派の連中の正体を明かしてやろうか。奴らはね、ただ単にスリルを求めている暇人の集まりなんだ。洗礼を受けるとすごく気持ちいいし、聖くなったような気分になるって。

そうそう、ツヴィングリがこう言っているのを立ち聞きしたことがあるよ。『もし洗礼が連中をそんなに良い気持ちにさせるなら、いっそのこと、何度も何度も洗礼を受けたらいい。受けるたびに、悪魔は連中に近づくんだ』と。」
そして男は再び笑った。

マルクスは早足で立ち去り、外に出た。もし誰かが、兄弟たちのことを笑い物にし、デマをこしらえたかったら、そうするがいい。でもマルクスは彼らの真実をよりよく知っていた。こういう根も葉もない噂話に腹を立てるようであってはならない。

狭い通りに吹き寄せた風に、マルクスは震えた。頭上にはどんよりした空があった。もうすぐ雪か、氷雨が降るかもしれなかった。もう冬がそこまで来ていた。

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午後の集会で初めて、兄弟たちに発言する機会が与えられた。まずコンラート・グレーベルが話した。彼は新約聖書の中から、「人々が信仰を持ったゆえに洗礼を受けた」という例を次から次へと挙げ、いつも洗礼に先だって、信仰がまず存在していたことを述べた。

「今朝ツヴィングリ卿が述べた、――全所帯がこぞって洗礼を受けた――という点についてですが、そういった家に果たして赤ん坊がいたのかどうか、私には不明です。

それに仮にいたとしても、そういった赤ん坊は、洗礼を受けた者のうちには数えられていなかったと私は確信しています。また、ツヴィングリ卿は、ピリピにいた看守の家族について言及しました。さて、聖書はその事に関して何と言っているでしょう。」

そう言って、コンラート・グレーベルは新約聖書を開いた。「以下はパウロとシラスが看守に言った言葉です。『主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます。』そして、看守とその家の者全部に主の言葉を語った、と。」

「ツヴィングリ卿にお尋ねします」とコンラートは挑んだ。

「パウロとシラスはここで主の言葉を赤ん坊たちに語っていたのでしょうか。もちろん、否です!パウロとシラスは、御言葉を説き明かしてあげた人々に、洗礼を施してあげたのです!

少し後の箇所には、看守が『全家族そろって神を信じた』と書いてあります。ここ看守の家で洗礼を受けた人々が、まず信仰を持ったことは、明白です。そして言及された他の所帯についても事情は同じであったと考えるのが理に適っているといえます。」

次にフェリクス・マンツが発言した。

「ツヴィングリ卿は、『子供たちを、わたしのところに来させなさい。神の国は、このような者たちのものです』という主の御言葉を引用しました。子供たちは御国の成員に含まれているので、子供たちに洗礼を施したい、そうツヴィングリ卿はお考えです。しかし、なぜそうする必要があるのでしょうか。

この点について、我々は次のように考えています。つまり、子供たちは神の前に純真な存在であり、従って、洗礼は彼らにとっては無意味な象徴なのです。子供たちはまず成長し、自らの罪深さを自覚するようになる必要があります。

そうした後、悔い改め、信仰を持って神を呼び求めることができるようになるのです。そうやってはじめて、洗礼は彼らにとって相応しい儀式――御霊によって新生し、キリストにあって新しく造られた者であることを証しするもの――となるのです。それゆえ、使徒ペテロは洗礼のことを、『正しい良心の神への誓い』と言っているのです。」

その時、ツヴィングリの右腕であるレオ・ユッドが口をはさんだ。

「しかしイスラエルでは子供たちは八日目に割礼を受けた。――この事は、私にとって、重要な意味を持っている。もし新生児が、物心つかない前に割礼を受けてよいのであるなら、洗礼を受けてもかまわないではないか。」

今度はコンラード・グレーベルが立ち上がった。「両者には違いがあります」と彼は大声で言った。「それも、かなり大きな違いです。あなたは割礼の目的を勘違いしておられる。

割礼は、単に、我々の先祖アブラハムと結ばれた神の契約のしるしに過ぎなかったのです。そしてその中で、主は、救い主がアブラハムの子孫から出るということを約束なさったのです。その契約はイエス・キリストにおいて成就されました。」

「割礼は、幼児洗礼の型や象徴ではありません。」コンラートは続けて言った。

「そうではなく、割礼は――人の手によらない霊的な割礼、およびキリストによる新生――の型であり、象徴であるのです。それゆえ、パウロはこう書いています。『キリストにあって、あなたがたは人の手によらない割礼を受けました。肉のからだを脱ぎ捨て、キリストの割礼を受けたのです。』

では、キリストの割礼を受けるのは果たして誰なのでしょう。信者ではありませんか。肉のからだを脱ぎ捨て、キリストの割礼を受けたのは誰でしょう。これもやはり信者ではありませんか。

まことに、それは神の言葉を聞いて信じた人のことを指しているのであって、幼い、未成熟な子供たちのことではない。そうです、断じて、そうではないのです。」

こう言ってコンラート・グレーベルは座ったが、今度は、ゲオルグ・ブラウロックが立ち、話し出した。「我々を救うのはキリストであって、儀式ではない、ましてや幼児洗礼など論外である。」彼は言った。

「御子を通しての他、誰も御父のもとへ行くことはできない。イエスは仰せられた。『わたしは門である』そして『羊の囲いに門からはいらないで、ほかの所を乗り越えて来る者は、盗人で強盗だ』と。それゆえ、、、」とブラウロックは言葉を切り、意図的にツヴィングリのテーブルの方をじろりと見て言った。

「それゆえ、幼児洗礼を施す者は皆、盗人であり、強盗である。」

そしてすぐにブラウロックは続けた。

「『子供たちは神の御約束の下にいる。よって、いったい誰が彼らへの洗礼を拒むことができよう』と言っている者たちへの回答として、我々は次のように答える。

――つまり、我々は子供たちが御約束の下にいるということをはじめから承知しているのだと。というのもキリスト自身がこうおっしゃっているからだ。『神の国は、このような者たちのものです』と。

そうであるのに、なぜ彼らはなおも幼児に洗礼を授けようとするのか。幼児洗礼というのは、神の御言葉の内に育った植物ではない。よって、取り除かれる必要がある。

しかしこれを支持する者たちは、他の道や戸口を見つけ出そうと躍起になっている。よって、こういう者たちは、盗人であり、キリストを殺す者なのである。」

ツヴィングリは何か発言したいようなそぶりをみせたが、ブラウロックは続けて言った。

「洗礼というのは、神の御子に献身し、悪より離れた信者に属するものであることを、皆しかと知らなければならない。また、こういった信者は御霊の実――愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制――を結んでいるのである。そして、この内に歩む者こそ、キリストの教会であり、キリストのからだであり、キリスト信者の教会なのである。

我々が望み、また確信しているのは、我々はその真の教会の内にいるということである。しかしツヴィングリ卿および参事会は、我々をそういった真の教会から追い出し、異質な教会に無理に押し込もうとしている。

彼らは、聖書からの立証もないまま、キリストにある本物の洗礼の事を、《再洗礼》といってまがい物呼ばわりしている。しかし願わくば、我々の行っているこの洗礼こそが、キリストにある真の洗礼であらんことを。よって、これらの事から言えるのは、幼児洗礼こそ逆に《再洗礼》であるということである。」

ゲオルグ・ブラウロックの息は切れた。彼は妨害されることなしに、言うべき事は全て言ってしまおうと決意していたので、自然、早口になっていた。言い終わると、彼は満足して腰を下ろした。

討論会はこれから活気を帯びてくるぞ、とマルクス・ボシャートは思った。

そして実際、その通りだった。午後の間ずっと、言葉は飛び交い、両陣営は相手方を説伏しようとしていた。時折、議論は混とんとしたものになり、その度に、議長が、「静粛に」と小槌をたたいた。

こうして三日間、討論会は続いた。水曜までには群衆の数も減ってきていた。両陣営とも、自分の見解を譲ろうとしなかったので、聴衆は飽き飽きし始めていたのだ。

大半の聴衆と同様、マルクスもこの討論会の結末が何であるかを知っていた。彼は個人的に思った。――アナバプテストの指導者たちは、自分たちの見解を立派に表明したし、偏見なき心で物事をみる人なら誰でも、彼らの信仰は聖書から出ているということが分かるだろう、と。

しかし、そうだからといって、ツヴィングリ陣営にすでに渡されている勝利をどうこうすることはできないのだった。

そう、ツヴィングリが勝つというのは、既定の結論だった。彼は初めから勝つようになっていたのである。

アナバプテストが正しく、ツヴィングリはこの間ずっと誤っていたと想像することですら――こういう考え自体が、馬鹿げたものだった。そんな屈辱的な告白は、ただ混乱と秩序の乱れを引き起こすだけだった。

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そして皆の予測通り、ツヴィングリは勝利を収めたのだった。

主宰した裁判官および参事会は、兄弟たちに対し、「――今となっては公に立証されるところとなった――誤った教えをすみやかに捨て、国の法を遵守するよう」厳かに警告した。

マルクス・ボシャートは、意気消沈して、水曜の夜、家路に就いた。この三日間を通し、さまざまな事柄の是非は、彼の内でさらに明らかになった。しかし参事会の方針に何ら変化は起こされなかった。兄弟たちが聖書の真理に忠実であることは、彼にとってさらに確実なものとなった。

しかし、――ゾリコンの一介のブドウ作り農夫にすぎない彼が、この真理に生きることは、日を追うごとにさらに厳しいものになっていた。いや、もう不可能に近い、と彼は思った。

参事会側に、再洗礼者たちに対しての措置をやわらげる気配はなかった。それどころか、彼らの態度は急激に悪化していっており、それは誰の目にも明らかだった。

そう、彼らによれば、アナバプテスト主義はチューリッヒ州から徹底的に一掃されなければならないのだ。ツヴィングリ卿はいかなる例外をも許さなかった。彼にとり、チューリッヒは、分派した人々の住む地ではありえなかったのである。

獄中生活の記憶は、マルクスの脳裏に生々しく、そして痛烈なものとして残っていた。それゆえ、現状下において、彼のできることといったら、じっと待って様子を見る、ということしかなかった。獄中にいる三人の指導者たちが今後どうなるのか、様子をみようと彼は思った。

討論会が終わった後、三人は魔女塔に連れ戻されていった。

第ニ十八章
   コンラート、マンツ、ブラウロック、決死の伝道集会を行なう



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赤ん坊の洗礼後、マルクスとレグラは、自分たちの生活が――1年前とほとんど変わらない――元の日常に戻ったのを感じた。初めのうち、村の教会にまた戻って、ビレター牧師の説教を聴くのは変な感じがしていたが、次第にそれにも慣れ、また昔の時と同じようになった。

週を経るごとに、マルクスの良心の呵責は、前ほど執拗ではなくなっていった。マルクスは自分の思いをできるだけブドウの収穫に向けようと努め、――今まであったこと、そして今も自分の胸にくすぶっているかもしれないこと――から、あえて目をそらそうとした。

それでも時々、日常生活のふとした事がきっかけで、夏の間の伝道、兄弟たちとの親密なクリスチャンとしての交わり、教会のビジョンのことなどを思い出すことがあった。

そうすると、良心が再びうずき始め、マルクスはみじめな気持になった。沈黙を保つことにした事で、自分は神に、そして聖霊に対して罪を犯したのだろうか。もちろん、神は理解してくださるだろう、そして自分の弱さを大目に見てくださるだろう。

しかしグリューニゲンから時折は入ってくる知らせ――アナバプテスト運動の成長している様子や、そこで多くの人々が洗礼を受けている――といった便りほどマルクスの心をかき立てるものはなかった。

ゾリコンではすでに日が沈んでしまったのかもしれないが、グリューニゲンでは日光がまださんさんと輝いていた。

マルクスはグリューニゲンに行きたくて仕方がなかった。――そこで兄弟たちと共に礼拝を捧げ、コンラート・グレーベルの説教を聴きたかった。

しかし彼は躊躇した。というのも、自分がグリューニゲンに赴くなら、チューリッヒとの間で問題が起こるのではないかという懸念があったからだ。しかしそれ以上に彼をとどまらせている深い理由があった。そう、彼はコンラート・グレーベルに合わせる顔がないと思っていたのである。

「とはいえ、いい機会が訪れ次第すぐに、僕は向こうに行こうと思っている。」マルクスは妻に話していた。

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その機会は十月の初めに訪れた。

その月の七日目のことであったが、予期せぬことが起こったのだった。なんとフェリクス・マンツが釈放されたのだ!その知らせはすぐにゾリコンに入ってきた。

ある人の言うところによれば、参事会のある有力な一派がアナバプテストに対してより寛大な処置を取るよう取り計らったという。この一派は他ならぬヤコブ・グレーベル議員――コンラート・グレーベルの父親――に率いられていた。

マルクスは驚き、そして歓喜した。彼の心は希望でふくらんだ。
「ねえ、聞いたかい?」家に駆けこみながら、彼はレグラに叫んで言った。

「フェリクス・マンツが釈放されたんだって。そして聞くところによれば、彼はグレーベルに合流するため、グリューニゲンに行ったらしい。」

それを聞いたレグラもある程度は興奮していたが、しかし夫ほどではなかった。
「そ、、、それが私たちにとって何か意味を持つのかしら。何か影響があるのかしら。」

「あるかもしれない。もしかしたら、グリューニゲンの兄弟たちは、僕たちが挫折してしまった点を、うまく乗り越えてくれるかもしれない。それに参事会は僕たちに対するより、彼らに対して、もっと寛容であるしね。」

レグラはまだ腑に落ちない顔をしていた。「でもグリューニゲンは私たちの村よりチューリッヒから離れているわ。そのせいで、参事会は措置により時間がかかるんじゃないかしら。」

「でもフェリクス・マンツは釈放されたんだ!信じられないよ。」

「もしかしたら、参事会はマンツにもう一度機会を与えたいだけなのかもしれないわよ。もし彼が今後も説教や洗礼式を続けるなら、それこそ参事会に、彼を処刑する口実を与えてしまうことになるじゃない。」

「レグラ!」マルクスは彼女を叱った。

「物事をそういう風にいつも悪くとるもんじゃない。参事会議員の内の何人かは兄弟たちに対し、より寛容な姿勢をみせているってことを僕はかなり前から知っているんだ。

ヤコブ・グレーベル議員はアナバプテストじゃなく、息子のしている事に反対もしているけど、彼は『火あぶり刑や打首刑を行ったって、参事会にとって何の得るところがあろうか』と言って反対しているんだ。そしてだ、ヤコブ・グレーベル議員はね、影響力のある人物なんだ。」

レグラは、夕食の準備のためニンジンを洗いながら、黙々と仕事を続けていた。

マルクスは続けて言った。「明日は日曜だ。明日グリューニゲンに行って、様子を見てこようかと思う。今向こうで何が起こっているのかすごく知りたいんだ。馬に乗って、朝早く出発すれば、向こうに遅くならないうちに着けるだろう。グレーベルもマンツもあそこにいる、それにおそらくブラウロックも、、、」

「でも危なくないの。」レグラは尋ねた。
「いや、大したことはないよ。それに少々の危険を冒したって行くだけの価値はあるよ。」

☆☆☆

翌朝、マルクスは馬に乗って着々とヒンウィル村へ向かっていったが、低地の牧草地には白霜の筋が残っていた。丘の斜面のモクマオウの木々は紅葉していた。リスは木をちょこちょこ上り下りし、口にドングリをくわえて、石垣の間を走り回っていた。

朝の新鮮な冷気で、馬は力を得、元気に走った。紅葉に敷き詰められた丘の道を、上に下に走っていったが、時には、急にガクンと大きく揺れることもあった。それで馬を急かせる必要は全くといっていいほどなかった。

ゴボゴボいう山の泉に近づくと、マルクスは馬を止めた。そこで馬は頭をかがめ、水を飲んだ。マルクスは馬から降り、自分も水を飲んだ。それから彼は再び馬に乗り、岸を駆けのぼって進んで行った。

ヒンウィル村に近づくと、道は村に向かう男女でごったがえしていた。大部分は徒歩だったが、中には馬に乗っている者もいた。農民たちの集団の横を通り過ぎながら、マルクスは彼らに会釈した。

村はもう、そう遠くないようだった。馬を御して角を曲がると、別の集団がみえた。背の高い男がすぐにマルクスの注意を引いた。この男の歩き方には何かしら見慣れたものがあった。あ、あれはゲオルグ・ブラウロックだ!

馬を急がせ、マルクスはすぐにこの集団に追い付いた。そう、確かにそれはブラウロックだった。マルクスは皆と一緒に話そうと、馬から飛び降り、勒でもって馬を引いていった。

ゲオルグ・ブラウロックは一目でマルクスを見分けた。

歩みを進めながら、ブラウロックはこの日の予定について話した。

「今日は後にまでも記憶に残る日曜になるだろう」と彼は断言した。「コンラートとマンツは村のどこか向こう側にある牧草地で今朝、野外集会を開くと皆に呼び掛けている。二人がそこで集会を開く間に、僕はヒンウィルの教会堂で少し話をするつもりだ。」

これを聞いてすぐにマルクス・ボシャートは、例の日曜日――うららかな春の日だった――にゲオルグ・ブラウロックとゾリコンの教会に行ったことを思い出した。あの日の記憶は心地よいものではなかった。

ゲオルグ・ブラウロックはそんなマルクスの不安を和らげようとするかのように重ねて言った。

「ゾリコンの教会で説教しようとした時とは状況が違うんだ。ここの人々はこぞって僕たちの教えに好意的なんだ。それにこれまでのところ、僕たちの働きを阻止しようという行政官側の動きもほとんどなかった。もし急げば、牧師が到着する前に向こうに着ける。それも僕たちにとって好都合だ。」

マルクス・ボシャートはその件に関し、大丈夫だろうかという不安感を完全には払しょくできないでいたが、とりあえず黙って、様子をみてみることにした。

彼らは村に入っていった。村教会のドーンドーンという鐘の音がきこえてきた。――ヒンウィルおよび周辺の人々に礼拝の時間を知らせているのであった。マルクスはあえて歩みを緩め、人々の後ろから教会に向かった。

彼は馬をつないだ。ブラウロックはすでに教会の中に入っていた。ためらいつつマルクスは戸の方へ歩いていった。ヒンウィルでは彼はよそ者であったが、それでもあちこちになじみの顔――六月にコンラート・グレーベルとここに伝道に来た時に出会った人々――をみつけた。

何人かは彼に気付き、会釈してきた。皆、親切だった。人々の心はすでに期待感に沸き立っており、マルクスは、「ブラウロックは前もって自分のやろうとしている事を予告しておいたのだろうか」と思った。

これは普通の日曜礼拝の集まり方とはわけが違う――会堂に入ってすぐに、マルクスはこう察した。まだ早い時間だったが、教会堂はすでに満員で、さらに人々が入ってこようとしていた。空席が見つからなかったので、マルクスは壁際に立った。辺りを見渡してみたが、牧師のハンス・ブレンワルドはどこにも見当たらなかった。

と、気がつくと、ゲオルグ・ブラウロックが説教壇に立って、話し始めた。彼の堂々とした体格とよく鳴り響く声は、会衆の注意を引いた。ヒンウィルの教会堂はシーンと静まり返った。

「この会堂は誰のものか?」ブラウロックは大声で言った。「ここは、神の御言葉の説かれる神の家であるか?もしそうなら、私は主の御言葉を宣べ伝えるべく、御父から遣わされ、ここに立っている。」

そう前置きしておいて、ブラウロックは説教を始めた。マルクスは熱心に聴いた。この大男はもとよりすばらしい説教者であったが、今日はまた格別だった。火のような言葉と情熱の限りを尽くして、彼はヒンウィルの人々に、罪を悔い改め、義なる神の怒りから逃れるよう警告した。

マルクスは、会堂の片方の側に立っていた。と、会堂の後方で何やら少しざわめく音がしたような気がした。振り向いた彼の目に見えたのは、牧師の姿だった。

牧師は今しがた到着したものとみえ、戸の内側に立っていた。ブレンワルド牧師はどういう行動に出るだろう。一瞬、牧師は会衆と共に、この雄弁な説教者のメッセージにわれ知らず引き込まれたようだった。

講壇からは言葉がよどみなくあふれ出ていた。会衆は静まりかえり、じーっと説教に耳を傾けていた。

やがてブラウロックは洗礼について話し始めた。大胆にも、彼は幼児洗礼のことを「悪魔のこしらえた巧妙なでっちあげだ」と言って論駁した。まだ物心のつかない赤ん坊に洗礼を授けなさいなどと述べている箇所は聖書のどこにもない、と彼は言った。そうではなく、洗礼というものは常に、《信じる》という行為に結びついているのだ、と。

ブレンワルド牧師がどんな反応をしているのだろうかと、マルクスは後方をちらっと見た。牧師はかなり動揺しているようだった。ブラウロックが息を継ぐ合間に、ブレンワルドは手を上げ、声を出した。

ゲオルグ・ブラウロックの説教はまだ終わっていなかった。彼は牧師の声に気付き、ブレンワルド牧師に質問を投げかけた。「あなたは幼児洗礼を擁護し、それを正しいとするのか。」彼は強い口調で尋ねた。

「そうだとも!」ブレンワルドも叫び返した。
「それなら、あなたは反キリストであり、人々を惑わしているのだ!」ブラウロックは強い口調で言った。

しばしの間、会衆は驚愕していたが、その後、ざわざわし始めた。でっぷり肥った男が牧師と何やら話し合っていたが、この男は断固とした様子で、群衆を押しのけ、前方に進んでいった。村役人に違いない、とマルクスは思った。この男のやろうとしている事は明白だった。彼はブラロックを逮捕するつもりなのだった。

人々はいやいやながら道を譲った。「同胞市民の方々に協力をお願いする。」役人は叫んだ。

しかし彼の受け取った答えは、反対の意を表するつぶやき声だけだった。
「この人を逮捕する権限があなたにあるのか?」誰かが叫んだ。

もう一つの声もそれに加わった。「そうだ、言ってくれ。彼を逮捕する権限があるのか?」

村役人は歩みを止めた。彼は額から汗をぬぐった。彼を囲んでいる二百人近い村人の間で、自分を助けてくれる者はただの一人もいないのか。人々の同情がゲオルグ・ブラウロックに寄せられているのは明らかだった。

村役人は動揺し始めた。急いで彼は回れ右をした。こぶしを打ちながら、彼は人々の間をかき分け、牧師の所に戻った。二人は一言、二言、言葉を交わすと、共に教会から出て行った。

ブラウロックは少し待ったが、その後、前よりも静かな口調で、再び説教を始めた。説教は、ブレンワルド牧師によって中断させられた箇所から、再開した。

牧師と村役人はどこに行ったのだろう。それは言わずとも明らかだった。二人は馬に乗って、五マイル離れた所にあるグリューニゲンの行政官のいる城へ援助を求めに行ったにちがいなかった。

もしそうだとすると、彼らは一時間以内に、ベルゲル行政官を引き連れて戻ってくるだろう。ブラウロックはその時までに集会を終わらせ、安全な場所に逃げることができるだろう。うん、きっとそうに違いない。

しかし相も変わらずゲオルグ・ブラウロックは御言葉を説き続けていた。そして聴衆は熱心に聴いていた。教える必要のあることが山ほどあったのである。

マルクスの不安はさらに募ってきた。ベルゲルは今にも現れかねないのに、依然として礼拝は続けられていた。

しかしついに、馬の足音が聞こえてきて、それはどんどん教会に近づいてきた。「ゲオルグ、命がけで逃げろ!」マルクスは叫びたかった。しかし言葉は一言も出てこなかった。ブラウロックは説教を続けていた。

今や行政官は戸口に立った。彼の傍には助手がおり、この二人の後ろには牧師と村役人がいた。ベルゲル行政官は、剣を高くふりかざした。説教は止んだ。

会堂はぎゅうぎゅう詰めだったため、この群衆を押し分けて前方に進んでいくのはとうてい無理だと行政官は見て取った。それで彼はより手ごろな方法を選んだ。「おい、前の方にいるお前たち」と彼は会衆に命じた。「あの詐欺師に手をかけろ。」

誰も動かなかった。会堂にはますます緊張が高まっていった。

ベルゲルの顔は怒りで真っ赤になった。「私はお前たちに命じているんだ。」彼は再び叫んだ。「あの男を捕まえろ。」

前方にいる、痩せた、しかし風格のある老人が答えた。「キリスト教徒として、我々が誰かを捕まえたり、暴力に訴えたりするのは、正しい事とは思えません。あなたがたには、ちゃんと部下がいるわけですし、それはあなたがたの責務で、私どものすべきことではありません。」

ベルゲル行政官はもう何も言わなかった。彼は戸口の所で待とうと後ろに下がった。

礼拝はすでに三時間近く続いていたため、ブラウロックはついに集会を閉じた。人々は列をなして後方の戸に向かい始めた。マルクスも外に出た。しかしそのまま家に帰ろうとしている人はほとんどいなかった。皆ブラウロックがどうなるのかと見守っていた。

会堂ががらんとなるや、行政官と助手は前方につかつかと進み、説教者を逮捕した。彼らがブラウロックの手を鎖でつなぎ、外に連れ出すのがマルクスにも見えた。てきぱきとベルゲルは、囚人に、助手の馬に乗るよう指図した。助手はブラウロックの脇を歩いたが、彼の持つ長い剣はほとんど地を引きずらんばかりだった。

ヒンウィルの街道を通り抜け、行列は進み出した。囚人の、牢城までの道のりは、孤独なものではなかった。大勢の人々が行政官たちの馬の後に続き、こうして彼らは町を抜け、田舎道を抜け、ブラウロックの後についていった。マルクスは自分もついていこうと決心した。

彼は行政官と囚人の方へもっと近づこうと前の方に押し進んだ。ブラウロックは背筋をまっすぐにして馬に乗っており、時折、彼の後についてきている人々に話しかけていた。近づくにつれ、ブラウロックがこう言っている声が聞こえてきた。「パウロとシラスが獄中で鎖につながれていた時、二人は主に賛美を歌ったんだ。」

そう言って、囚人は声高らかに讃美歌を歌い始めた。ほとんどの歌詞がマルクスにも聞きとれた。

     「やがて神は正しい裁きをなさりたもう。
     何人といえども、それを覆すことはできぬ。
     神の御心を無視する罪びとは、
     主の正しくも恐ろしい裁きを聞こうぞ。

     汝は慈愛に満ちておられる、ああ、神よ。
     汝はすばらしく、我々に対して
     まことに寛大であられる。

     この地で汝の御心に従う者を
     汝は御自分の子となしてくださる。

     キリストの内にあって我々は感謝の思いにあふれ、
     汝を褒め称える。
     汝は我々のいのちを永らえてくださり、
     すべての悪より我々を守り給う。」


街道を下るにつれ、人々はさらに押し寄せてき、馬や御者にぴったりと寄り添いながら道を進んだ。そして讃美歌は続いた。一行がべッツホルツという所に近づくと、マルクスは驚いて顔を上げた。なんと目の前の牧草地に、さらに大勢の人々が集まっていたのである。

「あれはグレーベルとマンツだ。」人々は口ぐちにささやいた。そうか、これが予定されていた午後の野外集会だったのだ。はからずも、行政官の一行はこれに遭遇したのだった。

集会はまだ始まっていないようだった。ベルゲル行政官はこの光景を一瞥し、すぐさま状況を把握した。彼は向こうの、より大規模な人々の群れに向かって、馬を急がせた。こうしてすぐに、二つの群れは一つに溶け合った。

行政官は「静粛に!」と注意を促した。皆、彼の方を向いた。

「わが州の法の名の下に、命ずる。」ベルゲルは告げた。「今日の午後、ここでいかなる説教ないし洗礼式が行われることを禁じる。ただちに集会を解散し、各自は家に戻るように。」

マルクスはコンラート・グレーベルを見つけた。コンラートの横にはフェリクス・マンツ――長い獄中生活のため青ざめていた――が立っていた。

グレーベルは行政官の近くに歩み寄り、話せる距離まで近づくや、大声で言った。

「洗礼に関し、私たちは誰をも強制しません。しかし、もし誰かが私たちの所にきて、それを望むなら、彼を退けることは、自分たちにはできません。そして誰かが神の御言葉から、私たちに、より良い方法を示してくれるまで、私たちはこれを続行していくつもりです。」

ベルゲルは返答しなかった。自分の下した命令に人々が従うのかどうかと、彼は群衆をざっと見渡した。しかし彼の言ったことを誰一人きかなかったようだった。というのも、人々の去る気配は全くなかったからである。それどころか、フェリクス・マンツの指示に従い、人々は彼の前に集まり、芝生の上に腰を下ろし始めた。

コンラート・グレーベルはベルゲル行政官の元を離れ、マンツの所に戻っていった。そして説教を始めようとしていた。

行政官は――多くの男女に囲まれていたにもかかわらず――ひどく孤独で置いてけぼりにされたような気がした。我こそはこの地区の長官であり、人が投獄されるのも、釈放されるのも自分の言葉一つにかかっているのだ。それなのに今日、自分は完全に無視された状態にある。

グリューニゲンの農民たちはあえて行政官に不服従の態度をみせていた。コンラート・グレーベルとフェリクス・マンツはといえば、やるなと命じた行政官の面前で、落ち着いて説教や洗礼式の準備を始めていた。

この騒ぎのさなか、馬の上の囚人ブラウロックはほとんど忘れられていた。彼は同胞の兄弟たちに呼びかけ、二人は大声で彼に激励の言葉を送った。

ヨルグ・ベルゲルはえいっと馬を急がせた。彼の顔はこわばっており、群衆の間を抜け、道を抜けて近郊の村に向かう彼の動向には、ある決意のようなものが感じられた。二番目の馬にまたがっていたゲオルグ・ブラウロックは、両手を縛られていたため、体で鞍にしがみついた。

こうしてマルクス・ボシャートとヒンウィルからやって来た人々は、この日、二番目のアナバプテストの説教を聴こうと腰を下ろした。

neustadtgasse Felix born and raised
(↑フェリクス・マンツの生まれ育った通りです。グロスミュンスター教会の近くにあります。マンツたちの聖書研究会もここで始まりました。)

☆☆☆

こうして集会は始まった。

コンラート・グレーベルが最初に説教し、その次にフェリクス・マンツが説教したが、マルクスはヨルグ・ベルゲルのことも、囚人のこともほとんど忘れて一心に聴き入った。昼さがりであったが、豊かな霊的祝福が礼拝者の間に流れていた。

説教を聴きながら、マルクスは心の中で、「これこそ真理だ」と認めずにはいられなかった。自らも聖書の学びをしていたため、彼は、この説教が新約聖書から直接語られているものであることが分かった。

グレーベルは敵を愛することについて語っていた。「キリスト教徒は善をもって悪に答えるのだ」と彼は言った。

迫害の最中にあっても喜んでいなさいという事を語った際に、彼はゲオルグ・ブラウロックの名前を挙げ、彼が獄にあっても忠実であり続け、くじけることのないよう祈りましょうと会衆に呼び掛けた。

マルクスは三か月前の自分の獄中生活のことと、その結末を思った。激しい後悔の涙があふれ、頬をつたって流れ落ちた。

とその時、「やって来たぞ!」という叫び声が起こった。マルクスは見上げた。

――馬に乗った五、六人の官憲たちが、銃や剣を片手に、群衆を包囲し、説教者たちの立っている座の中心に突き進もうとしていた。叫び声を挙げながら、馬に乗った官憲たちは前進してきた。人々は彼らの前に追い散らされた。

「あいつだ。奴を捕えよ!」コンラート・グレーベルの方を指さしながら、官憲の一人が叫んだ。

一瞬にしてグレーベルは捕縛された。彼の両手は後ろ手に固く縛られた。騎手たちは群衆の中にフェリクス・マンツを見つけ出そうとしたが、彼の姿はすでにどこにもなかった。

フェリクスのことでマルクスはほっとした。なにしろ、フェリクスはつい昨日釈放されたばかりなのだから。しかし今日起こったことを思った時、彼の心は沈んだ。グレーベルもブラウロックも囚人となってしまった。

――もしや今後、チューリッヒは兄弟たちに対し、もっと寛容な処置を取るようになるのではないか――という彼の望みはこなごなに砕けてしまった。

行政官のおこなったことは明白だった。近郊の村オティコンで、彼は自分に忠実な男たちをかき集め、アナバプテストの指導者たちを捕まえるべく、彼らをこちらに送り出したのだった。

コンラート・グレーベルはグリューニンゲンの城内にある牢獄へ連行されるべく、馬に乗せられた。こうして一日のうちに二回も、マルクスは自分たちの指導者が牢獄へと引かれていくのを目撃したのだった。

打ちひしがれ、また疲れ切って、彼はヒンウィルの方へ戻って行った。彼の感情はほぼ限界点にまできていた。説教を聴いたことで、「何が正しい事で、僕はいったい何をなすべきか」という彼自身の魂の葛藤が新たに呼び起こされたのだった。

あれほどまでに多くの人々が救いを求めているという驚異的な現実を目の当たりにし、彼は感動した。しかしその一方で、そのうちでどれだけの人がツヴィングリおよび参事会に立ち向かい、最後まで忠実であり続けられるだろうかと思った。

彼の馬はヒンウィルにおいてきてあった。村に着いた頃には太陽はだいぶ沈んでいた。少なくとも馬は休息をとり、家までの距離を走るに充分、元気になっていた。長い道のりであったが、幸い、今夜はほぼ満月で、気候も良かった。

一時間後、家に向かいつつあったマルクスは、途中、グリューニゲンの町を通過した。町はずれには、高く古びた城がそびえ立っていた。そして、その城は、前方の西空を背景に浮かび上がっていた。

太陽はすでに丘の向こう側に沈んでしまっていたが、光の筋はまだ残っていた。マルクスの後ろには、まん丸い月がのぼっていた。

ほの暗さの中で、城は不気味なほど巨大にみえた。マルクスは馬を止め、かなり長い間、石とモルタルでできた城壁を見つめていた。父親が行政官だったコンラート・グレーベルはこの城の中で、なんの屈託もない少年時代を過ごしていたのだった。

そのコンラートが今、城のどこか奥まった所にある、暗い独房の中に閉じ込められているのだ。その隣の独房には、おそらく、ブラウロックがいることだろう。

去ろうとしたマルクスは、城の正面側の部屋から光がこうこうと洩れているのに気付いた。そこはベルゲル行政官の公務室にちがいない。

ものうげに、マルクスは馬に触れた。馬はゆっくりとしたペースで走り始めた。

マルクス・ボシャートは最後にもう一度城の方を振り返った。だが、今、城の中で実際、何が起きていたのか、それは彼の知るところではなかった。

――そう、ヨルグ・ベルゲルはまさにこの瞬間、チューリッヒの上司宛に手紙をしたためていたのだった。そして、今日、ヒンウィル教会で起こったこと、グレーベルおよびブラウロックの逮捕のことなど一部始終を書き記したのだった。

「まことに、格別な一日でありました」とベルゲル行政官は手紙を締めくくった。

第ニ十七章
   つぶされた希望


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帰ってきた夫をみて、レグラは驚き、そして大喜びした。彼女は赤ん坊を腕に抱きながら、ベッドに横たわっていた。こんなに美しい妻をみたことがない、とマルクスは思った。

彼はベッドの傍に腰をおろし、わが息子を見た。赤ん坊は静かに寝入っていた。

「抱っこしてみたい?」毛布にくるまれた小さな赤子をマルクスの方にさし出しながら、レグラは尋ねた。

「うん、でも今はダメだよ。」マルクスは言った。「牢獄から出てきたばかりで、僕の体は汚れているから。まずお風呂に入らなきゃ。それから、小さなコンラード坊やを抱っこするとしよう。」

レグラは夫に微笑みかけた。

その晩、マルクスがシャワーを浴び、清潔な服に着替えた後、レグラは言った。「どうやって牢から出てきたのか、教えてちょうだい、マルクス。」

でも彼は返事を拒んだ。
「また今度言うよ。」彼は約束した。「でも今晩は、どうか勘弁してくれ。僕には言えない。ねえ、それはそうと、僕の留守中、家はどうだった?」

こうして二人は夜遅くまで語り合い、そうして後、マルクスは寝床についた。粗末な牢獄のベッドとはなんという違いだろう!再び自分のベッドで寝ることができる!わが家とはなんといいものだろう。

しかし、どんなに眠ろうとしても、マルクスは眠ることができなかった。この数時間というもの、神経を高ぶらせるような出来事があまりにたくさん起こったため、彼の気は立っていたのである。

それに加え、頭痛もした。それはなにか重い荷が彼をぐいぐい圧迫しているかのような痛さであった。

この重荷というのは、重苦しく、煩悶する感情であって、――喜ぶ妻と赤ん坊のことにしばし思いを寄せていたにもかかわらず――、依然として、彼の心から消え去らなかった。それはマルクスに絡みつき、片時も忘れることのできないものであった。

チューリッヒ湖の向こうでは、暗雲が垂れこめてきていた。雷のゴロゴロという音がマルクスにもきこえた。黒雲がゾリコンにたちこめるにつれ、稲妻の閃光はどんどん明るくなり、その頻度も数を増していった。

マルクスは寝がえりをうった。獄中でも、眠れない夜はあったが、それは今夜のようなものとは種を異にしていた。――彼は、ゲオルグ・ブラウロックがわが家に宿泊した晩に体験した苦悶のことを思い出していた。

そして洗礼を受ける決意をしたことで、いかにして最終的に平安を得たかを。あの時は、善悪を巡っての葛藤があった。しかし今夜はそのような葛藤は存在せず、あるのはただ重くのしかかる荷で、それがベッドに横たわる彼を窒息させようとしていた。

ああ、あの平安をもう一度得ることができたら!

嵐はごうごうと村を襲っていた。暴風が外の木々を激しく打ちつけている音がきこえ、屋根は雨水であふれかえっていた。下の湖岸では、荒波が漁師たちの波止場を強打していた。

稲妻の白い光線が一瞬、闇を切り裂いたかと思うと、次の瞬間には、耳をつんざくような雷鳴がそれに続いた。

まんじりともせず、マルクスは、ベッドの上で寝がえりをうち続けた。丘の斜面にあるブドウ園一帯が、暴雨によりかなり浸食されてしまっただろう。雷鳴は東の方に消えていったが、バタバタ打ちつける雨の音は続いていた。ようやくマルクスは眠りについた。

☆☆☆

翌朝、マルクスは半病人のような状態で目を覚ました。獄中での過酷な日々、粗末な食べ物、精神的ストレス――それらが全て原因していた。マルクスは自分が衰弱しているのを感じた。目まいがし、熱もあるようだった。ブドウ園に行く予定であったが、まずは休養をとるべきだと思った。

しかし午後に彼はブドウ園に歩いていった。彼の足取りは初子が産まれたばかりの若い父親というよりはむしろ、老人を思わせるものだった。自分は痩せたのだ、と彼は思った。

マルクスはブドウの木々を見て回った。やらなければならない仕事の量の多さを見て取った彼は一瞬たじろいだ。しかしほとんど顧みられてこなかった割に、ブドウはまずまず育っていた。雇い人ヴァレンティンは夏が始まるや追放され、その後、マルクス自身、二週間、グリューニゲンに行っていた。

そして、さらに一カ月の投獄期間がそれに続いたわけだった。身重でありながら、レグラは本当によくがんばってくれた、とマルクスは思った。実際、数日前に彼女が立ち働いていた形跡が今もって見受けられた。

「僕は家を守らなければならない、そして家庭の責任を果たさなければ。」マルクスは厳かに自分に言い聞かせた。

この間、妻が一人で家の仕事をこなさなければならなかったことに対し、少し羞恥心を感じざるをえなかった。とはいえ、たとい家にいたところで、どのくらい役立っていたかは彼にもよく分からなかった。

昨晩の嵐のせいで、土地が浸食されていたが、被害自体は小さかった。こうして彼がブドウ園を歩き回っているうちに、一本のブドウの木の下に打ちつけられている白い杭がはたと彼の目にとまった。

――そうだ、傷んでいた枝に印をつけておこうとしてレグラと一緒に、ここに差し込んでおいたものだった。彼はこの枝をよく調べようと、枝葉をかきわけた。

「ああ、かなり傷んでいる。」誰も聞いている人はいないにもかかわらず、彼は大声で叫んだ。枝は折れ、一片の樹皮でかろうじて垂れ下がっているような状態であるのは一目瞭然だった。昨晩の強風でやられたのだった。マルクスはそっと枝を手に取ると、念入りに調べ始めた。

葉は青々としていたはずだった。できたばかりの、小さく緑がかったぶどうの房さえ以前見かけたが、今や葉は枯れかけていた。枝は木から切り離されてしまっていた。そして、いのちを与える甘い樹液は、もはや葉の先に流れていかなかった。そう、枝は枯れていたのだ。

でもブドウの木は他にもごまんとあるじゃないか。その中の枝の一本が枯れたからってどうだというのだ――とマルクスは自分を叱った。しかし、にもかかわらず、彼の脳裏からは枯れた枝のことが離れなかった。そう、あの枝は単に一本の枝以上の意味を有していた。それはある象徴だった。

マルクスはこういった考えを頭から振り払おうとしたが、だめだった。自分、マルクス・ボシャートはイエス・キリストというブドウの木につながる枝だった。

しかしこの枝はポキンと折れ――迫害という名の嵐によって、木から切り離されてしまったのだ。そして実り始めていた果実は、風や日照りで台無しになってしまった。

良心の呵責と苦悶に耐えかね、マルクスはブドウの木々の間にひざまずいた。「もし、私があなたに対して罪を犯したのでしたら、赦してください、主よ。」そうして彼は泣いた。

しかし、憐れみと赦しを求めた切実な祈りもむなしく、彼の求めてやまなかった平安はついに戻ってこなかった。

マルクスは立ち上がり、ゆっくりと家路についた。ホッティンガー爺やコンラート・グレーベル等、誰でもいいから、自分の失ってしまった平安を取り戻すのに助力してくれる人と話がしたくてたまらなかった。

しかし日はだいぶ傾いており、おまけに彼はめまいを感じていた。自分は病気に違いないと彼は思った。おそらく明日の朝、爺さんの家に行き、キリスト者としてのあり方や、教会を建て上げること、実を結ぶ枝となること等について、爺さんとじっくり話すことができるだろう。

☆☆☆

しかし翌日の朝、マルクスが病気であることは疑いようもなくなった。熱で、頬や額は真っ赤にほてっていたが、その一方で、呵責に苦しむ良心の重さに、彼の心は焼けんばかりであった。

レグラは動揺していた。彼女自身、まだ体が元に戻っておらず、夫の看病ができなかったのである。そこで、姉であるフリードリーの妻が来てくれ、二人は誰か助けてくれる人はいないかと互いに話し合っていた。

シュマッヘル夫人は、マーガレット・ホッティンガーを勧めた。マーガレットはホッティンガー爺の末娘で、マルクスの叔母にあたった。マーガレットは初夏に洗礼を受けており、二十代の敬虔な信者であった。

こうしてマーガレットが来ることになったのだが、彼女は病人の介抱に、そして産婦と新生児との世話に一生けん命だった。彼女は手際が良く、しかも働き者だった。

マルクスの熱は三日間下がらなかった。その間、ホッティンガー爺さんが見舞いに来てくれたのだが、マルクスはあまりに弱っていて、自分の胸の内の重荷を爺さんに打ち明けることができなかった。

そんな中――マルクスはまだ病に伏していた――、チューリッヒ参事会はゾリコンに官憲を遣わし、指導的立場についている兄弟たちのうち三人を逮捕しに来たのだった。その内の一人は他ならぬ爺さんだった。

「父がこの先、生きて釈放されることはないと思います。」マーガレットは言った。「父は去り際に、『今度こそ、信仰のために死ぬ覚悟ができている』と母に話していました。」

もう二人の囚人は、それぞれリッチ・ホッティンガーとヨルグ・シャドであった。

☆☆☆

マルクスは、三人の囚人が己の信仰に忠実であり続け、自分のように挫折するようなことがないようにと切に願った。
しかし決断を迫られているのは、獄中にいる三人だけじゃないのだということを彼はすぐに思い知らされたのだった。

病が回復し、ブドウ園に再び行けるようになった日のことであったが、マルクスは道端で村役人ウェストに出会った。

「お前さんは父親になったってな、マルクス。」ウェストはにこりともせずに言った。
「はい。神様が僕たちに元気な男の子を授けてくださいました。」

「で、子供に洗礼を受けさせるために教会に連れていったのかい。」
「いいえ。まだです。」

「法律は何といっているか君は知っているだろう、マルクス。それに君は法を遵守するって約束もしたしな。いつ赤ん坊は八日目を迎えるんだ。」
「月曜です。」

「それでは、月曜の夜までに、子供は洗礼を受けねばならない。」
マルクスは口をつぐんだ。そしてその場に落ち着かなく立ち続けていた。

「おい。何か言いたいことはあるか。」
「いいえ、ありません。」マルクスはどもりながら言った。彼はあたかも急ぎの用事があるかのように、去りかけた。

「じゃあな、マルクス。」そう言うと、村役人は湖の方角に向かって道を下っていった。

マルクスは打ちひしがれる思いで畑の方に急いだ。ここにまた、下さらねばならない重大な決断が立ちふさがっていた。それがいつかは来るということを彼は知っていたはずだった。

正しい道を選び取ることは、つまり――投獄と苦しみ、持てる一切合財の喪失――を意味した。その一方で、誤りの道を選ぶなら、表面的な平安は得られるかもしれないが、内面的には拷問を受けるに等しかった。

どうしてこういう風にしかなりえないのだろうか。いつも、そこには魂の葛藤があるように思えた。自分の心はこの葛藤によってバラバラになってしまうんじゃないかとマルクスは恐れた。

洗礼のために、わが子をビレター牧師の所に連れていくべきだろうか。そうはしたくない。「それは間違っている!」と彼の良心は叫んでいた。

しかし他に何ができるというのだろう。今となっては、もう取り返しがつかなかった。彼は百ポンドの保釈金をもって、今後従順な市民となり、政府ともめ事を起こさないという約束をしてしまっていた。

いったい、この約束は何か意味を持つのだろうか。もちろん、そうであった。というのも、キリスト者には約束を忠実に守る義務があり、それを破ったりしてはならないからだった。彼の言葉は軽々しく発せられたものではなかった。それならば、どうして約束をした直後に、それを破ったりできようか。いや、彼にはできなかった。

マルクスの体調はまだ元に戻っていなかった。すぐに発汗し、昼前にはもうぐったり疲れ切ってしまった。それで彼は家路に向かったのだが、帰りながら、彼は、レグラが赤ん坊コンラートの洗礼のことで何と言うだろうかと考えていた。

もちろん彼女は――夫は自分たちにとって何が最善かを知っているという確信があったので――何であれ僕の決断することに同意するだろう。とにもかくにも月曜までの三日間のうちに、洗礼を受けさせるか否かの決断を下さなければならないのだった。

しかし、驚いたことに、当のレグラは、赤ん坊に洗礼を受けさせるべきじゃないと考えていた。「休養している間に、私なりにいろいろ考えてみたの」と彼女は言った。「そしてマーガレット叔母さんと私はその事を話し合ったわ。で、叔母さんも私も、赤ん坊のコンラードは洗礼を受けるべきじゃないって思っているの。」

「僕もそう思っているよ。」重苦しくマルクスは言った。

「でもこの件に関して、僕たちに選択の余地はあるだろうか。ウェストは今朝僕に、『赤ん坊は月曜までに是が非でも洗礼を受けなければならない』って言ってきた。獄中での約束があるので、僕たちは窮地に追い詰められているんだ。ああ、今爺さんと話すことができたらなあ、、、」

「お爺さんは、私たちが赤ん坊に洗礼を受けさせることにぜったい反対なさるって、マーガレットは言っているわ。」

☆☆☆

しかし、土曜日の午後、こともあろうに、三人の囚人が再びゾリコンに戻ってきたのだ。マルクスはその知らせを聞いた時、喜ぶべきなのか、悲しむべきなのか分からなかった。

爺さんをはじめ、二人の奉仕者が自分たちの所に戻ってきたのは結構なことだったが、でも、どういう条件で彼らは釈放されたのだろう。マルクスはそれが知りたくてたまらなかった。

そうこうするうち、一人の村人がマルクスの所にやってきた。今晩、ヘイニー・ホッティンガーの家で開かれる集会に出席するように、との伝達だった。そしてマルクスは、今晩そこでいくつかの決定がなされるとの爺さんの言伝も聞いた。

こうしてマルクスは出かけたが、レグラは赤ん坊と家に残っていた。ヘイニーの家の方に向かい、丘を登りながら、マルクスは考えた。爺さんはどんな事を言うつもりだろう。ゾリコンの教会の今後についてどんな決定を下したのだろうか、と。

ヘイニーの家に入ると、そこはもうほぼ満員だった。彼は腰をおろし、頭の中で集まっている人の数を数えたが、総勢三十人はいた。指導者や信者のほとんどはそこに集っていた。今晩、今後どうするかについての決定がなされるのだろう。マルクスは集会が始まるのを待っていた。

しばらくして、爺さんが立ち上がり、会衆に向き合った。爺さんはマルクスがこれまで見たことがないほど老いてみえた。――顔のしわは、灯りの下でくっきり浮き彫りにされており、白髪混じりだった顎ひげは、今やほとんど真っ白だった。

「このような形で信者の皆さんと共に集まるのは、これで最後になるかもしれません。」おぼつかない声で爺さんは話し始めた。

振り返ってみると、――最初の者が洗礼を受け、神をお喜ばせするべく、ここゾリコンに教会を建てようと願った――あの時から、まだ八カ月と経っていないのであります。

苦しい八カ月でしたが、にもかかわらず、我々には感謝できることが多くありました。主の御霊が我々と共にあり、我々の取っている経路は正しいのだと、確信していました。しかし、、、」爺さんの声は詰まった。

しかし、夏がやって来、時が経つにつれ、我々独自の教会を持つことは、現時点では不可能であることが、さらに明らかになってきたように私には思われました。おそらくいつの日かそれは可能なのかもしれません。

でも今の時点では、我々に敵対する勢力はあまりに強いのです。払うべき代価も、我々の力量を越えています。私は、、、私はもう諦めようと思っています。」こう言うと、ホッティンガー爺は頭を垂れ、むせび泣き始めた。

前に立つ老人の泣き声の他、部屋は死んだように静まりかえっていた。部屋にいる多くの人々の頬にも涙が流れていた。
しばらくしてヤコブ爺はやや落ち着きを取り戻し、リッチ・ホッティンガーに話すよう合図した。

リッチは立ち上がった。「今回、獄中でどんな事が起こったのかと、おそらく皆さん考えていることでしょう。」静かに彼は言った。「まったく根も葉もないことで私は告発を受けました。噂がたち、それによれば、我々は『罪を犯すことなく生きることができる』と主張しているというのです。

「この噂には尾ひれがつき、しまいには、私が『殺人や、姦淫、盗みでさえも罪ではない』と発言したといわれる有様でした。我々がやめるよう教えてきた、そういう罪を、我々が逆に奨励していると言われようとは!こういった罪は我々の教会に入り込む余地がなく、我々はいつも罪と戦ってきました。

しかし、こともあろうに、自分たちがやめるよう徹底して教えてきた、まさにそういう罪のことで、告発を受けたのです。」リッチは鼻をかんだ。

「私もヤコブ爺と同じ意見です」と彼は続けた。

「新約聖書が説いている教会を建て上げられるようになる後の日まで、我々は待つべきだと思います。現在、我々に敵対する勢力はあまりにも強いのです。ツヴィングリに反旗を上げるのは、自滅行為も同然です。

今、自分たちにできる最善のことといったら、良きキリスト教徒としての生活をし、当分の間、ビレター牧師の礼拝に出席し、とりあえずの平安を保つということではないかと思います。もしかしたらいつの日か、信者で構成された教会を建て上げ、自分たちの信仰に生きることができるかもしれません。」そう言って、リッチは着席した。

「ヨルグ・シャド。」ホッティンガー爺は、獄中にいたもう一人の奉仕者の方を向いた。

シャドはいつものように、抑揚のある声でそそくさと話し始めた。

「二人の言った通りだと思います。こうやって自分たちを潰されるがままにしていたって何の得るところがあるでしょう。村の教会堂で四十人の人々に洗礼を施したあの日――去年の春でしたが――、我々の信仰はゾリコンにたちまち広がり、誰もそれを止めることはできないように思われました。

しかしその日から今日に至るまで、我々は厳しい現実に直面し続けてきました。二回目に投獄された時以来、我々に勝ち目はないように、自分には思われました。我々を縛るロープはどんどんきつくなっていきました。

我々は一挙一動、監視され、リッチ兄弟が言ったように、今や我々は、まったく根も葉もないことで責められているのです。だから私の場合も同様で、まったく身に覚えのないことで告発を受けたのです。」

爺さんは再び話し始めた。

「私の人生の中でも、こんな悲しい日はなかったように思います。一週間前に逮捕された際、たとえ自分の命を失うようなことになっても、信仰に忠実であろうと決心していました。しかし獄中で、私はいろいろと考え直してみました。そして今、そういう考えを持っていたこと自体そもそも間違っていたのだと分かりました。」

爺さんは咳払いをした。「実際、ツヴィングリは洗礼に関する彼の理解を聖書からはっきりと示してくれたのです。それで私は、『彼は正しいのではないか。そしてもしかしたら私たちの方こそ、この間ずっと間違っていたのではないか』と考えるようになったのです。

そこで私は自分の影響力を用いて、今後洗礼問題に関し、ゾリコンで問題が起こらないよう努めると約束したのです。」

マルクスは自分の耳を疑った。爺さんは本当に転向したのだろうか。洗礼は信じた者のみに限るのであって、まだ自分で考えることのできない赤ん坊に授けるべきではないことを、爺さんは早晩、再び悟るに違いない。マルクスは魂の底まで揺さぶられる思いがした。

「それじゃあ、今後、ビレター牧師の礼拝に出席するのでしょうか。」誰かが尋ねた。

爺さんは答えた。「それについては今後話し合うこととしましょう。ご存知のように、今回、これが私に対して投げかけられた主たる非難でした。――私は国教会に出席せず、他の者をもはばんでいる、と。私に国教会への参加を強要することだけは堪忍してほしいと当局に言いました。

というのも、神の真理があそこで語られているという確信が私にはないからです。しかし彼らは我々が出席すべきだと言い張りました。そして私に言ったのです。『もし牧師が聖書に反する教えをした時には、礼拝後に、彼の所に話しに行くように』と。しぶしぶ私はこれに同意しました。皆さんはどう思いますか。」

マルクスは自分の考えをまとめ、整理することができなかった。

釈放されてからというもの、彼の良心は一時も休まることがなかった。頭の中がいろいろな考えで一杯で、夜更けまで眠れない夜も多くあった。良心の呵責は常に彼を苦しめた。――時にはひどく、時にはやや穏やかに――、しかしそれはいつも彼にまとわりついて離れなかった。

今や彼はどう考えてよいのか途方に暮れていた。レグラと彼が赤ん坊に洗礼を受けさせないことで同意した時、彼の中での精神的混乱はいくぶんおさまったように思えた。しかし何という事であろう!もしゾリコンの信者がこぞって諦めるなら、自分だって諦めないわけにはいかないだろう。それに自分には参事会に対する約束もあった。そして百ポンドという保釈金も。

最前列から始まって、一人ひとり、集まった信者は、今後の身の振り方について自分の意見を述べた。一人一人、爺さんの提案――集会を中止すること、国教会に通うこと、従順かつ静かにすること――に同意するのをマルクスは聞いた。

ついにマルクスの番になった。「ぼ、、、ぼ、、、ぼくは、わかり、、ません。」頭がくらくらしていた。マルクスは頭を垂れた。

まだ病がまだ完全には回復していないのかもしれなかった。「分かりません。」

爺さんの声はやさしかった。「我々が教会として、沈黙を保つということに、同意してくれるかい、マルクス。」

沈黙を保つ!沈黙を保つだって!この言葉自体がマルクスの苦悶する脳裏にガンガンと響き渡った。しかし皆自分の答えを待っていた。決めなければならない、何か言わなければならない。「け、、、、けっこうです。」

マルクスの隣に座っていたフリードリー・シュマッヘルが何かを言っていた。でもマルクスはほとんど聞いていなかった。質問は続き、やがて皆自分の意見を述べた。その後集会は終わり、マルクスは家路についていた。彼は額に手を当ててみた。また熱がぶりかえしてきたのだろうか。

レグラはもう寝ているだろう。もしまだ起きていたら、すぐに彼女に話そうと思った。でももし寝ていたら、朝まで待って、話すとしよう。

――そう、明日赤ん坊のコンラート・ボシャートは洗礼を受けるのだ、と。

第ニ十六章
   二度目の獄中生活


bird 2

牢獄での日々はのろのろと過ぎていった。

独房の中では、考える時間はいくらでもあった。実際、考えること以外、他にすることは何もなかったのだ。こうやって一週間が過ぎていった。レグラは家で何をしているだろう、とマルクスは思った。自分が牢に入れられたという知らせを彼女は受け取ったに違いない。

コンラート・グレーベルの憶測は正しかった、とマルクスは思った。安全通行証なしにチューリッヒにやって来たことは、あたかも餌をつけた罠の中に自分から踏み込んでいったようなものであった。

もし自分がこちらに来ていなかったら、いったいどうなっていただろう、とマルクスは何度も何度も考えた。自分の知る限り、コンラート・グレーベルは今もって自由の身であり、グリューニゲンで伝道を続けているはずであった。

ああ、グリューニゲンでグレーベルと共に奉仕したあの数週間!マルクスは幾度となく、その事を思い出した。グリューニゲンに行ってよかった、と彼は思った。――それがために、実刑判決を受けるはめになってしまったけれども。

牢の中の日々には、ほとんど何の変化もないため、時間の経過を追うことがマルクスには難しく感じられた。

しかしそんなある日、訪問者がやって来た。ウリッヒ・ツヴィングリ卿が彼に会いにやって来たのである。そして彼と共に三人――おそらく参事会の議員たちであろう――が随行していた。その内の一人はペンと紙、そしてインク壺を持ってきていた。

ツヴィングリは上機嫌であったが、マルクスにはすぐにその理由が分かった。

「君と話をしに来たんだ。」ツヴィングリは話し始めた。「獄中生活にも飽き飽きしているだろうね。そろそろゾリコンの家に戻って、向こうで忠実な市民として生きていきたくはないかね。」

マルクスは頭を垂れた。確かにそうだった、僕は獄中生活にうんざりしていた!

ツヴィングリ卿はそれに対する返事を期待してもいなければ、待ってもいなかった。

「私はね。グリューニゲンでの小さな反乱はもう長いこと続かないって確信している。もっともっと多くの州が今や協力して、こういった過激派を払しょくしようとしているんだ。」彼はポケットから一枚の紙を取り出し、それをマルクスの前で振ってみせた。

ちょうどその時、三人の囚人を連れて、看守が入って来た。キーナストとフリードリー・シュマッヘルはマルクスの脇の長椅子に腰を下ろした。オーゲンフューズは壁によりかかって立っていた。

ツヴィングリは例の紙を再び振ってみせた。「これはフール州参事会からの手紙なんだ。」彼は説明した。「向こうの参事会も私たちに協力してくれ、一人の囚人――君たちも知っている人だが――をここチューリッヒに送り返してくれた。この人物は向こうでとんだ騒ぎを起こしていてね。それでフール州参事会は彼を捕え、彼の戸籍地であるここチューリッヒに送り返してきたんだ。」

ツヴィングリは誰のことを言っているのだろう。この囚人とは、フェリクス・マンツにちがいないと、マルクスは確信に近いものを感じた。

ツヴィングリの顔は曇り、笑みは消えた。

「しかし今、この囚人に関する決定はここチューリッヒ参事会の下す判断にかかっている。他の州も倣うようにと、我々はこれまで模範を示してきた。そして今後も、模範を示し続けていかざるをえないようだ。

フェリクス・マンツのような過激分子を、もう二度と自由の身にするわけにはいかない。そう、彼は厳重に罰せられねばならない。――そうすれば、我々の州であれ、フール州であれ、今後、彼はもう問題を引き起こすことができなくなるからね。」

マルクスは忙しく頭を働かせていた。ツヴィングリの魂胆は何なのか。自分たちを脅そうとしているのか。それとも、自分たちの決断を助けるため、ただ単に事実を列挙しているだけなのか。オーゲンフューズはしかめ面で、神経質に両手を擦り合わせていた。

ツヴィングリは彼に向き直り、言った。「オーゲンフューズ、君は自分の過ちを認めたね。ここで公にそれを言いたくはないかね。そしたら、君を釈放してあげるよ。」

壁によりかかっていた彼は咳払いをした。「私は『ツヴィングリ卿は、著書の中で十ヵ所嘘を書いている』と発言しましたが、それは私の誤りでした。」彼の声は低く、弱々しかった。「参事会閣下の正しいと思われるところに従って、私のことを取り扱ってくださいますよう、お願いします。」

「それじゃあ、私が頼んであげよう。」ツヴィングリは申し出た。「君は実によく我々に協力してくれたから、参事会は、君に罰金やその他の懲罰を科すことなく、君を釈放してくれるだろう。」

そう言いながら、ウルリッヒ・ツヴィングリは――長椅子に座っている三人の中では最年長の――キーナストの方を向いた。「キーナスト」と彼は呼びかけた。

「君にも同じことを勧めるよ。そうすれば、この先、苦労しなくて済むからね。参事会の意思に反する一切の活動をやめると、約束してくれるかい。」

キーナストは背筋をしゃんと伸ばし、答えた。「すみません、ツヴィングリ卿。私はそういった類の約束をすることができません。というのも、神が今後私を通してどんな事を成し遂げようとしておられるのか、私には知るよしがないからです。」

「結構なことだ。」議員の一人がピシャリと言い返した。「お前さんがそう思っているなら、ここの牢獄にいて、その事についてもっと考えるがいい。じきに考え直すだろうから。」

フリードリー・シュマッヘルも降参することを拒んだ。彼は言った。「私は洗礼を受けましたが、洗礼が神の御心に反しているとは思えないのです。それで私はこのままいこうと思います。」

「それなら、お前も獄中に居続けるんだな」と議員は言った。

マルクスは自分の番を待っていた。「僕が説教者なので、――そして自分が一番初めに話すと、他の者たちに影響を与えるのではないかと懸念した結果――、彼らはあえて僕を一番後回しにしたのではないか」とマルクスは思った。

「マルクス・ボシャート。」ツヴィングリは言った。「君は公然と説教し、かなりの騒動を引き起こしてきた。しかしもし君が今後一切、こういった事から手を引くと約束するなら、全ては許されるだろう。」

「ダメです。」マルクスは首を振った。

ツヴィングリの声は冷ややかになった。「選択は君しだいだ。もしこのまま獄中にとどまり続けたいのなら、そのことで我々を責めないでくれたまえ。しかしこれだけは言っておこう。もし君が我々と協力しないつもりなら、我々はこの先、君を、長い、長い間、牢に閉じ込めることになる、と。」

「私はこの点に関し、神の前に、何も悪い事を行っていません。よって、懺悔しえないのです。」マルクスは毅然として言った。「神の言葉に従うのは、犯罪ではありません。」

マルクスが己の信仰を撤回するつもりがないのを見て取ると、ウルリッヒ・ツヴィングリは手法を変えてきた。「コンラード・グレーベルのこと、彼のグリューニンゲンでの活動のことを話してくれるかい?」彼は言った。

「コンラートと私はかつて、福音の働きにおける最良の仲間だった。今でもそうだったらどんなによかっただろう!彼は、――帝国法においても、市民法においても、神聖法においても――自分に対する公正な取り扱いがされていない、そう言って不平を漏らしていると聞いた。それは本当かい。」

マルクスはうなずいた。「はい、ヒンウィルで、彼がそう言ったのを私は聞きました。私は彼をたしなめたのですが、コンラードは『それが真実なのだ』と言いました。」

「もう一つ別のことを聞かせてくれ。」ツヴィングリは身を乗り出し、声を低めて言った。

「私が説教中に、『農民どもは射殺されてしかるべきだ。奴らを市の門前に立たせ、奴らに向け銃を構え、彼らを打ちのめせ。もし我々が過激派リーダー六、七人の頭を切り落とすなら、残りの者たちは正気にかえるだろう』と発言した――そんな風にコンラートは言っていたかい。そんな事を言って、私を糾弾していたかい。」

マルクスは驚いて顔を上げた。「いいえ、そんな事聞きませんでした。」

「コンラートはそんな事を言って、私を非難しているという噂が流れているんだ。」そう言うウルリッヒ・ツヴィングリは、不快感を隠すことができなかった。

「でも、、、グレーベルがいつ、そんな発言をしたんですか。」
「ヒンウィルでだ。昼食の席で。」ツヴィングリは答えた。

「でも私たちは、、、あの日曜日、ヒンウィルで昼食の席につく暇さえなかったんです」とマルクスは言った。「歩きながら、少し何かを食べ、それから急いでバレッツウィルに向かいました。それは根も葉もない噂です。あの日、グレーベルはそんな事言っていませんでした。」

「それなら、別の日に、言ったのだろう。」ツヴィングリは立ち上がり、戸口の方に向かった。「君たちにはまた会う必要があるからな。」廊下に出て行きながら、彼は囚人たちにそう伝えた。

☆☆☆

翌日の朝、仕立屋のハンス・オーゲンフューズは釈放された。残されたゾリコンの三人は、自分たちも外に出て、家に帰りたいと願わずにはいられなかった。でも三人はツヴィングリに降参するつもりはなかった。

特にマルクス・ボシャートは、――ツヴィングリが言ったように、獄中生活が長い、長い期間に渡って続くようなことになったとしても――信仰に忠実であり続けようと心に決めていた。

「もし僕たちの信仰に土台があるのだとしたら、、、」三人がそれぞれの独房に連れて行かれる前に、マルクスは二人にささやいた。「人に従うより、神に従う方が良いということを肝に銘じておくべきだ。コンラート・グレーベルは、ゾリコンの兄弟たちの不忠実さにかなり失望していた。」

しかし何週間も経ち、獄中での一カ月が終わる頃には、マルクスの心は、疑いや、――牢獄を出て、家に帰り、レグラに再会したいという――抑えきれない願望にますます悩まされるようになっていた。

ある日などは、彼は孤独感にさいなまれながら、何時間も座っていた。――聞こえてくるのは、夏の太陽の下、外でさえずっている小鳥の声だけだった。妻と過ごしたブドウ園での楽しい日々が思い出された。

サラサラした土と暖かい太陽の降り注ぐ中、二人は共に働いていたのだ。石灰をまいたばかりの家畜小屋の甘い香り、そして寒い冬の朝、乳搾りをする楽しさ、、、そんな事も思い出された。そう、マルクス・ボシャートはホームシックにかかっていたのだ。

望郷の念に加え、新たな心配も生じていた。赤ちゃんが生まれてきた時、自分がレグラのそばにいなかったら、いったい彼女はどうなるのだろう。そして赤ん坊は。

赤ん坊に洗礼を施せという、村役人ウェストの脅しに、レグラは屈してしまうのだろうか。実際、夏の間に、ゾリコンの兄弟数人が、――幼児洗礼は聖書的ではないと知っているにもかかわらず――、生まれてきた自分の子供に洗礼を受けさせていた。

わが子に洗礼を授けないことは、そのまま罰金徴収や投獄につながった。そのため、単にこれら一切をあきらめ、牧師がわが子に洗礼を授けるがままにすることはむしろ容易なことであった。

レグラも泣き寝入りするのだろうか。それとも、教会の皆で同意したように、あくまで信仰にとどまり、幼児洗礼を拒むだろうか。

何時間も何時間も、何もすることなく牢の中にいるのは耐え難かった。もし新約聖書を持参してきていれば、何かしら価値あることができたはずだった。

しかし、腰を下ろし、立ち上がり、狭い独房の中を歩き、また腰を下ろし、考え、立ち上がり、歩き、腰を下ろす、、、何の日課もなく、あるのはただ空虚な、いつ終わるともしれない日々だった。

フェリクス・マンツと話せたらどんなにいいだろうと思った。フェリクスなら、僕の気落ちしている心を引き立て、勇気と信仰が与えられるよう鼓舞してくれたにちがいない。でもそれは所詮、無理な話だった。フェリクスは、ウェレンベルグの古い牢獄にいたからである。

キーナストやフリードリー・シュマッヘルと話せたら、それも励みになったはずだ。でも看守は三人の囚人が互いに話せないよう、厳重に見張っていた。人との唯一の接触は、おかゆと水を一日に二回運んでくる守衛とだけだった。

ある朝、気がついてみると、マルクスは、自由の身となった自分のことをうっとりと心に思い描いていた。彼は愕然とした。こういった楽しい期待を前に、自分の決心がぐらぐらしてきているのを感じた。

これまで、釈放のため、己の信仰を否むことなど、一度だって真剣に考えたことはなかった。しかし突如として、暗い、じめじめした独房での、わびしく、むなしい未来が耐え難くなった。もうこれ以上耐えられないと思った。もしここから出られないなら、しまいに自分は発狂してしまうんじゃないかと彼は恐れた。

ここから出るためには何をする必要があるんだろう。――その答えはきわめて単純なものだった。自分が間違っていたということを認め、今後、善きツヴィングリ主義者になり、兄弟たちのことなど忘れ去ります、ということを約束しさえすればよいのだった。

あとは、罰金と、投獄にかかった費用を支払わなければならないだろう。おそらくこういった約束を裏付けるための保釈金も必要になるだろう。

いや、ダメだ!そんな事はできない。間違ったことはしていないのに、どうして「私が間違っていました」などと言う事ができるだろう。

兄弟たちの教えは聖書の教えであり、新約聖書に倣って教会を建て上げることが、――それが政府のお気に召さないという理由だけで――誤りとみなされるなんてありえないことだった。

マルクスは自分が学んだ聖書の御言葉を思い出そうとした。今朝も、聖書の教えを思い出すことで、彼は信仰を撤回してしまいたいという誘惑に再び打ち勝つことができた。使徒たちも同じような問題に直面していたのだ、とマルクスは思った。

彼らは、政府のご機嫌をとろうとせんがばかりに、神の御心を放り出すようなことはしなかった。いつも、そこにはまず、神に対する従順があり、その次に、――神の御心と対立しない全てのことにおいて――、政府に対する従順があったのだ。

コンラート・グレーベルもその点に関し、確信を持っていた。彼曰く、この世のあらゆる事柄に関して、キリスト教徒は政府に従い、敬意を払い、為政者のために祈るべきである、と。

しかし宗教的な事柄については、あくまで教会が取り扱うべきであって、政府が干渉すべきではない。それゆえに、忠誠を誓う上で、両者間に衝突が起こるのである。人間の作った法律が神の法律と食い違う場合、人よりはむしろ神に従うことが正しいのだ、と。

その夜、床につきながら、マルクスは落ち着かなかった。たとえ、数分のことであったが、転向について真剣に考えてしまったことを彼は恥じた。しかし、羞恥心以上に、彼を恐れさせたのは、――次に襲ってくる誘惑は今以上に激しいものになるのではないか、もしくは、自分はさらに弱くなってしまうのではないか――という懸念であった。

☆☆☆

転向への恐れや誘惑があることへの自覚があったにもかかわらず、マルクスは自分がどんどん弱くなっていくのを感じた。

レグラは自分を必要としているだろう。もしかしたら、今この時にも彼女は初めての子供を出産したかもしれなかった。父親になるというのはどんなものだろう。そしてレグラが母親になるというのは。

でも、もしかしたら、レグラは出産中に死んでしまうかもしれない。それは稀なことではなかった。過去五年間に、自分が知っているだけでも、五人の若い妊婦が出産中に死亡していた。それはいずれもゾリコンや近郊の村でのことだった。レグラが死ぬかもしれないという想像はマルクスを震えさせた。

これは本当に耐えるに価値あるものなのだろうか。――聖書を理解する上での異なった見解ゆえに、こうやって牢に閉じ込められているというのは。ツヴィングリの教会でそれなりによい人生を送り、平和のうちに過ごすというのも、案外ありえるんじゃないだろうか。

八月の初めの週のことであった。一日中こういった魂の葛藤を経たのち、ふと見上げると、牢の戸のかんぬきが外され、ウルリッヒ・ツヴィングリが入ってきた。

ツヴィングリは例によって、いつもの議論を始めた。が、今やもう、議論する力はマルクスに残っていなかった。疲れ切り、病んでいたマルクスは、頭を垂れ、彼の話をきいていた。

「こういった牢の中で、君の人生を無駄にするというのは馬鹿げたことだよ。」ツヴィングリ卿は言った。

「もしこの獄中生活によって、何か得るものがあるんだったら、私だって、君を止めようとはしなかっただろう。でも、こうやって片意地を張り続けた結果、いったい何が得られるというんだい。

君がこの先粘ったところで、そこには全く希望がない。ゾリコンからの、あの二人の仲間はもう家に帰ろうとしている。だから君も彼らと一緒に帰るべきだ。奥さんもさぞかし君の帰りを待っているだろうねえ、そうじゃないかい。どうしてこんな所で衰弱していっていいものだろうか。」

マルクスは必死に、こうした恐ろしい言葉の攻撃に抗おうとしていた。

ツヴィングリの口から出てくるこうした言葉ははじめて聞くものではなかった。というのも、ここ数日の間、彼は自分自身の心の内に、まさにこうした言葉を聞いていたのであり、――これらは、《試みる者》であるサタン自身から来ているものだ――と知っていた彼は、それらに対して必死に戦っていたのである。

でももう、彼には力が残っていなかった。だから、彼はそういった言葉が次から次へと自分の上に降りかかるがままにしておいた。

「村の教会でキリスト教徒として生きていくことはできないと思うのかい?」ツヴィングリは尋ねた。「いや、君ならできる。それに我々は君のような人材を必要としているのだ。

我々は、罪や悪を回避し、ひたむきに主に仕えようとしている君のような若者を必要としているのだ。毎週日曜に教会に行き、ビレター牧師の説教を聴くことは、こんな監獄で朽ち果てていくより良いに決まっている。もしこんな所に留まり続けるなら、君は神への信仰もろとも失ってしまうことになるだろう。」

マルクスは目を閉じ、いつまでも続くこうした甘言の声を心の内から締め出そうとしていた。でも、もう駄目だった。言葉は彼の内にしみ込んでいった。

「私はね、君やコンラート・グレーベル、フェリクス・マンツと同じように、改革賛成派なんだよ。でも改革は一日にしてならず、だ。この種のことは時間を要するんだ。人々を扱う際にね、向上というのは、徐々に実現されるべきものなんだ。

「ほら、ミサ廃止のために、ここチューリッヒで我々はどれだけ忍耐し続けただろう。でも、今やついに、ミサは全教会から駆逐された。

でももし私が二年前、『ミサはただちに廃止されるべきだ』って主張していたら、どうなっていたと思うかい。参事会からは拒絶され、今日、教会はいまだにミサを執り行っていただろう。そして私も君のように獄中にいたかもしれない。分かるかい。」

マルクスはそれが理解できたが、それでいてやはり合点がいかなかった。ツヴィングリのやり方は本当により良いものなのだろうか――胸算用をし、時機を待ち、妥協しつつ、――ここから少し、あそこから少しといったように地を固めていくというやり方が。

そして、州に生まれた赤ん坊に全員、洗礼を施し、そうしておいて後、教えと説教によって、彼らをキリスト教徒にしたてていくというやり方が。それに教会が、参事会及びその国家権力ないし武力を後ろ盾に、扱いにくい非国教徒を始末するというのは、はたしてより良いやり方なのだろうか。これが聖書的やり方なのだろうか。

彼の内の何かが叫んでいた。「いや、違う。これは聖書的な教会のあり方じゃない」と。でもマルクスはすでに、どれが聖書的やり方で、どれがそうじゃないのかという一連の事がもはやどうでもいいことのように思われる、そんな段階にまできていた。

「ああ、天にいます主よ。あなたの御心を行わせたまえ」と彼は祈ろうとした。しかしその祈りも声に出ないまま、地に落ちてしまった。

今やツヴィングリは話をクライマックスに導こうとしていた。彼の声は感じのよいものであったが、にもかかわらず、そこには間違いようのない権威の響きがともなっていた。

「ゾリコンからある知らせが届いたんだ。今日、君の所にきたのもそれが理由だった。君がさぞかし興味を示すだろうと思ってね。実は、君の奥さんが昨晩、男児を出産したんだ。もし君が書類にサインし、罰金を払うなら、今晩にも、君は家に帰り、奥さんや息子に会えるんだがなあ。私が参事会とうまく取り計らってあげるよ。」

マルクスは関心をもって頭を上げた。「な、、、なにが、、、、条件なんですか。」

「参事会は君に対して寛大でありたいと言っている。それで君の罰金は一銀貨となるだろう。しかし、この先一切説教しないし、教えもしないということを条件に、百ポンドの保釈金に署名しなければならない。」

放心状態のマルクスは、物事をきちんと考えることができなかった。百ポンド!それは一財産にも値する金額だ。でも実際、支払う必要はないのだ。あくまで保釈金にすぎないのだから。約束を破らない限り、そんな高額なお金を払う必要はないのだ。もし約束を破らないのだったら、、、

「署名する気はあるかね。」問いは簡潔だった。

レグラの顔がマルクスの脳裏にちらついた。そしてもっと小さな顔、――姿かたちははっきりとしていないけれど――、ちいさな赤ん坊の顔が浮かんだ。

「家に帰る用意はできたかね。ただ一言返事してくれればいい。」

ゆっくりとマルクスはうなずいた。

第ニ十五章
   コンラートとボシャート、参事会に召喚される




水曜日のお昼、馬に乗った一人の御者がフィンテルバッハの家に到着した。彼は馬から降り、馬をつなぎ、家の方に向かった。

「えっ、またもや、ウリッヒ・ライヘナールじゃないか!」戸口から外をのぞき見ながら、マルクスは叫んだ。コンラート・グレーベルはちょうどその時、新約聖書から一ヶ所読み上げ、それをアルボガストに説明し始めたところだった。

今回、どんな知らせを持ってきたのだろうかとウリッヒの表情をうかがいながら、マルクスは彼と握手した。

「吉報それとも悪い知らせ?」マルクスはおそるおそる尋ねた。
ライヘナールはポケットから一枚の封を取り出した。マルクスには一目で、それが参事会の公証印のしてある書類であることがわかった。

「これだよ、マルクス。でも中に何が書いてあるのかは分からないんだ」と、この若い使者は謝った。「悪い知らせじゃないことを祈るよ。」

「参事会からの通達であるなら、吉報であるわけがないよ。」封を見ながら、マルクスは言った。封には、「コンラート・グレーベルおよびマルクス・ボシャート宛」と記してあった。「さあ、中に入って、封を切ろう。コンラート・グレーベルは中にいる。」マルクスは自分の手が震えているのを感じた。

彼は通達書をコンラートに手渡した。コンラートはおごそかに封を切り、黙読し始めた。読み終わると、それをマルクスに渡した。

「何についてだい。」アルボガストは訊いた。
「僕たち二人に、土曜の朝、出廷せよと召喚しているんだ。」コンラートは説明した。

「ああ、すまない。」ウリッヒ・ライヘナールは叫んだ。「自分の友に、悪い知らせをもたらしてしまった。」

「君にはそうするより仕方がなかったんだよ。」友ウリッヒをなぐさめようとしてマルクスは言った。「心配しないでいい。彼らはまだ僕たちを捕えはしないよ。ただ尋問したいだけなんだと思う。」

「何について?」ウリッヒは尋ねた。

コンラート・グレーベルは答えた。

「僕たちの発言についてだと思う。洗礼について記したツヴィングリ卿の本の中には虚偽があると、マルクスも僕も発言した。――実際、この件に関しては、疑いの余地がないんだ。でも、公の場で発言すべきじゃなかったのかもしれない。」

彼はぐったりと椅子に座り、両手に頭をうずめ、考え込んでいた。

「でも、いったい誰が僕たちのことを通報したんだろう。」マルクスは尋ねた。
「『壁に耳あり』とはこの事で、ツヴィングリ卿のスパイは至る所にひそんでいる。」

マルクスは立ち上がり、部屋の中を歩きまわった。首の後ろの当たりが急にほてってきた。そして顔面から汗がドッと吹き出てきた。

この出頭命令が意味するところは何だろう。これをもって、グリューニンゲン地区での伝道に終止符が打たれるのだろうか。もしくは、新しい実刑判決が出されようとしているのだろうか。

「土曜日、、、」マルクスは、なかば自分に言い聞かせるように言った。「三日後か。僕たちはどうすべきなんだろう、コンラード。」
「一つ確かなことは」とコンラートは答えた。「もしもチューリッヒにひょこひょこ出ていくなら、僕たちは彼らの仕掛けた罠に見事にひっかかるだろうってことだ。」

「でも、、、でも、コンラート。もし行かなかったら、彼らは僕たちの逮捕令状を出し、ともかくいつか逮捕されることになってしまう。そうなると、ゾリコンの自宅にさえ戻れなくなってしまう。村役人のウェストが僕を逮捕するだろうから。」

「それはもっともだ。」コンラートは同意した。

「それなら、いっそのことチューリッヒに行って、尋問を受ける方が良くないだろうか」とマルクスは衝動的に尋ねた。
「それは自ら、牢のただ中に入っていくような行為だ。」

マルクスは椅子にぐったりと座り込んだが、じっと座っていることなどできなかった。

グレーベルは一つの提案をした。「一つ自分たちにできることがある」と彼は言った。

「安全通行証を申請するんだ。――チューリッヒへの行き帰りの両方ともだ。もしそれが与えられるなら、僕は行こうと思うが、それ無しには、おそらく行かないだろう。でもまあ、これは性急に決めるべき類のものではない。今晩、祈り、一晩寝て、それから明日の朝、どうすべきか決めよう。」

「えーと、、、何か僕にお手伝いできることがあるかな」とライヘナールが申し出た。「参事会に返答のメッセージを持っていくことができると思う。」

「もし君が明日まで待てるようだったらいいのだけれど、、、」グレーベルは言った。
ライヘナールは首を振った。「今晩、戻らなきゃならないんだ。」

「気にしなくていいよ、ウリッヒ。」マルクスは彼をなぐさめた。

「こういう事態になったからには、明日ゾリコンの家に戻ろうと思う。安全通行証の申請書をそこまで僕が持参していったら、後は友人たちが喜んで僕のためにチューリッヒまで持っていってくれると思う。」

こうして話がまとまると、ウリッヒ・ライヘナールは一礼をし、戸口から出て行った。

「待ってくれ。」馬に乗ろうとしていたライヘナールの所に走っていきながら、マルクスは叫んだ。「もし負担にならなければなんだけど、、、できたら、ゾリコンに寄って、妻に伝言をしてほしいんだ。『明日家に帰るつもりだ』って。」

使者は太陽を見た。「寄れると思う。まだ時間に余裕があるから。じゃあ、今すぐ、まっすぐにゾリコンに向かうよ。」

こうしてすぐさま彼は出発した。馬は元気に駆け、砂埃が舞い上がった。マルクスは手を振り、ライヘナールもあいさつを返した。

☆☆☆

レグラ・ボシャートは馬が遠くからこちらに近づいてくるのをみた。マルクスはまだ帰らないかしらと、一日に何百回も彼女は街道の方をのぞき込んでいた。

すでに辺りは暗くなっており、誰が乗っているのかはっきり見分けることができなかった。しかしマルクスでないことは確かだった。というのも、この御者は夫ほどまっすぐに、鞍の上に腰かけていなかったから。

ウリッヒ・ライへナールはこの知らせをボシャート夫人に伝えるのを恐れていた。でも、マルクスにそうしてくれと頼まれたからには、伝えなければならなかった。

レグラは、汗まみれの馬から降りてきた彼をいぶかしげに見た。雌馬は疲れ切って、鼻をだらんと地面近くまで垂らしていた。
「ど、、、どこに行っていたの?」レグラは尋ねた。訊かずとも、馬がチューリヒより遠い所から駆けてきたことは一目瞭然だった。

「午後、オベルウィンテルスールからずっと駆けて来たんです。」
「マルクスとお話になったの?彼は元気にしていて?」矢継ぎ早に質問が飛んできた。

「『明日家に戻るつもりだ』ということをあなたにお伝えするよう、伝言を預かってきました。」
レグラの顔は輝いたが、ライヘナールの表情をみた彼女の顔からは笑みが消えた。「な、、、なにか他にも知らせがあって?」

「あります。」延ばし延ばしにしたところで意味がない、知らせてあげた方がいい、とウリッヒは判断した。「土曜日、彼はチューリッヒに召喚されています。そこでいくつかの尋問に答えるためです。コンラート・グレーベルも同様です。」

「まあ。」レグラは両手で口をおさえた。

「でも、私があなたでしたら、心配なぞしませんね。コンラート・グレーベルは賢い人でして、ぬけぬけと罠にひっかかりに行くようなことはないでしょう。安全に行けるように、何らかの手立てを打つでしょうし、そうでなかったら、行かないと思います。」

「行かない?」レグラは驚いた。「でも二人は行かなくてはいけないんでしょう。参事会がそう命じたからには。」

「そこら辺はまだはっきりしていません。あっ、すみませんが、そろそろ、おいとまさせてください。チューリッヒに今晩着くためには、もう発たなければなりません。」

「あらまあ、でもどうか今晩ここに泊っていってくださいな」とレグラは言った。「もう遅いですし、それに、あのかわいそうな馬は一日分以上の距離を走ってきたと思いますわ。」

実は、ウリッヒ・ライヘナールもくたくたに疲れ切っていた。それに夕食のおいしそうな匂いもただよってきた。そんなこんなで、彼は意外にあっさりとその提案を受け入れた。彼は家を回って、馬を裏の馬小屋に連れて行き、鞍をはずしてやり、餌をやった。ルディー・トーマンもちょうど小屋から出てくるところだった。こうして二人はそろって夕食を食べに家に入っていった。

☆☆☆

ウリッヒ・ライヘナールは急にガクンと飛び起きた。何かの音で彼は起こされたのだったが、何の音だったのか分からなかった。と、また音がした。彼の寝台から三メートルと離れていない所にある戸をコツコツ叩く音だった。それは弱い音だったが、にもかかわらず非常に執拗な叩き方だった。

こんな夜中に、いったい誰だろう。ウリッヒは目をこすり、考えようとした。

しばらくして、ウリッヒはぶっきらぼうに言った。「何の用ですか。」

「マルクス!マルクス、お前かい。」外から切迫した声がきこえてきた。

すぐにウリッヒは状況を把握した。暗がりの中で、誰かが自分のことをマルクスだと勘違いしたのだろう。もしくは、馬を見たのかもしれない。今戸を叩いている人は誰であれ、マルクスが家に戻ったと勘違いしたのだ。ウリッヒはこの声に聞き覚えがなかった。

「マルクスはまだ、何キロも離れたオベルウィンテルスールにいる」と彼は言おうとしたのだが、彼が口を開く前に、外にいる男はすでに話し始めていた。

「マルクス!」しわがれたささやき声が聞こえてきた。「ゾリコンにとどまるな。今すぐに逃げろ。官憲がお前を逮捕しにここに向かっている。何をするにしても、まずここから逃げろ。」

そうして足音が暗闇の中に遠ざかっていき、再び全ては静かになった。やがて、ウリッヒ・ライヘナールは再び眠りに落ちていった。

☆☆☆

木曜日の朝早く、コンラート・グレーベルは参事会宛てに請願書をしたためた。そしてその中で、彼自身とマルクス・ボシャートのための安全通行証を発行してくれるよう要請した。彼はふさわしい言葉を吟味していた。

   「誉れ高く、賢明にして、憐れみ深い、親愛なる市長殿、ならびに参事会の議員閣下。
「わたくしども、コンラート・グレーベルとマルクス・ボシャートは、貴殿の書簡および召喚状をうけたまわり、拝読、理解   いたしました。

慈愛深い議員閣下、このことにつきまして、一つ嘆願させていただきたく存じます。今週の土曜日に参事会の法廷に出廷する際、また出廷後、家や家族の元に戻る際の、安全通行証を発行していただきたいのでございます。

もしも、この嘆願が聞き入れられましたら、わたしどもは出廷するつもりです。しかしもしも、それが叶わないのでしたら、わたくしどもには、――神の御心として示されない限り――、出廷しない、正当かつキリスト者としての理由があるように感じております。

「安全通行証は、ゾリコンのルディー・トーマン宅に送付してくだされば幸いと存じます。その受け取りを通し、わたくしどもは、危害を受けることなく、出廷し、また戻ることができるということを確認できる次第であります、、、

「以上でございます。わたくしどもといたしましては、地上のあらゆる法律ないし法令下、閣下にお仕えし、服従できるのであれば、心からそうさせていただきたいと願っております。

わたしどもの拙文により、お気を悪くされることのないよう、また、わたしどもの意図を誤解されませんよう、お願い申し上げます。神が、御心により、平安をもって私たち全てを守ってくださいますように。
                       
   1525年、聖ウリッヒの祝祭日の木曜。

          閣下の従順にして熱心な市民かつ従僕である、
           コンラート・グレーベルとマルクス・ボシャート。」


☆☆☆

マルクス・ボシャートは木曜の夜までゾリコンに入らなかった。日が暮れてから村に入る方が安全だと判断したからだった。
彼が家に近づくと、レグラが駆けだしてきた。

「僕だってことがどうして分かったんだい?」彼はレグラをからかった。「暗くてよく見えないのに。」
「あら、マルクス、あなたの足音くらい知ってるわ。」彼の帰郷に喜びを隠しきれず、彼女は答えた。

マルクスも妙に心が浮き立つのを感じた。やっぱりわが家はいい。そして、かわいらしい若妻に迎えられ、自分を待っている玉ねぎスープの香ばしい匂いを嗅ぐのは。コンラート・グレーベルとの伝道集会の様子や、新しい信仰がグリューニンゲンで炎のように拡がっている様子など、レグラに話したいことは山ほどあった。

「たしかにツヴィングリはここゾリコンの兄弟たちの魂をくじいているかもしれない。でも、レグラ。確かなことはね、グリューニンゲンの教会を阻止するのは、ここ以上にずっと大変だってことさ。ここの信者はほんの何十世帯にすぎない。でも向こうじゃ今、村全体がこぞって洗礼を受けようとしている勢いだ。」

「どうしてコンラートはあなたと一緒に来なかったの?」レグラは尋ねた。「彼も来るんじゃないかって思っていたわ。」

「彼は危険がある中をここまでに来る状態にはなかった。もちろん、彼には大きな危険が伴っているからね。なにしろ彼は指名手配中の人物だ。」

すでにレグラの顔からは完全に笑みが消えていた。「でも、あ、、、あなた、参事会があなたに安全通行証を発行してくれるって思わないこと?」

「コンラートはそう思っていない。でも、嘆願する分には損害はないしね。明日の朝一番に、誰かに頼んで、嘆願書を参事会まで持っていってもらうよ。明日の夕方までには返答が戻ってくるはずだ。」

「いくらなんでも参事会は、それくらいのことはしてくれるでしょう。」期待するように、レグラはつぶやいた。「そうでなくては公平じゃないわ。」

「僕も同じことを考えていた。もし参事会が僕たちに安全を保証するなら、コンラートはチューリッヒに行くつもりだって言ってた。でももしそうじゃないなら、当局は彼を逮捕するに違いないって。コンラートは自ら彼らの手中に陥るようなことはしないつもりだ。」

心配そうなレグラの顔が今や恐怖にこわばった表情へと変化していた。「で、、、でも、マルクス。それもこれも巧みな罠で、あなたはその罠に自らはまりに行くんじゃないかしら。」

「いや、そうは思わないよ。」マルクスは危険は全くないということを妻に信じさせようと、力強く言ってのけた。だが、実のところ、彼自身、不安な思いでいたのだった。

「僕たちはただ単に尋問を受けるために召喚されているんだ。それだけだよ。最近は、けっこう多くの良き市民が召喚されているけど、皆夕方には、家に戻ってきている。もちろん、コンラート・グレーベルのような人物は別だよ。彼の場合、安全通行証なしで行くのは安全ではない――それは僕も認める。」

「それじゃあ、つまり、、、つまり、たとえ安全通行証が送付されてこなくても、コンラートがあなたと一緒に行かなくても、あなたは土曜日に行くってことなの?」

「でもそれ以外に選択肢があると思う?」少々ぶっきらぼうにマルクスは言った。「もし僕が出頭しなかったら、彼らは――僕を逮捕し、投獄する――全権を握ることになってしまう。山シカのように駆り出されるのは嫌だ。」

レグラはしばらくの間黙っていた。彼女は考えていた。そして手を伸ばし、マルクスの手を取った。「わ、、、わたしたち、どこか安全な場所に避難できないかしら、マルクス。」彼女は懇願していた。「ほら、ブロトゥリー夫妻のいる、ハラウなんかに。」

「そして家もブドウ園も失ってしまうのかい、レグラ。いや、まだ状況はそこまで深刻じゃないよ。それに、ブロトゥリーの所がここよりもっと安全だという確証もない。コンラートによれば、僕たちはどこにおいても、つまはじきされ、スイスのどこの州でも、迫害が僕たちを待ち受けているって。」

マルクスは指でトントンと膝を叩いていた。妻はいまだに動揺しており、実際、危険について話しながら、マルクス自身も、何か嫌な予感に襲われ始めていた。でもそれをレグラには言いたくなかった。この予感は刹那的なものにすぎない。自分はあくまでも勇気をもち、妻を安心させてあげなければならない。

「ごらん。それについて祈ろう。そしたら、明日の午後には、僕たちの申請した通行証を配達人が届けにきてくれるだろうし、僕は安全に、チューリッヒに行けるだろうよ。」

☆☆☆

しかし何事も起こらないまま、金曜日は過ぎてしまった。そして結局誰も、ルディー・トーマンの家に安全通行証を配達しに来なかった。しかし、この日、マルクスは、かなり励まされる知らせを受けた。そう、少なくとも一人っきりでチューリッヒに行く必要がないということが分かったのだ。

――マルクスがブドウの状態をみていたところに、フリードリー・シュマッヘルが急いでやってきた。

「たった今、君が家にいるって聞いたんだ。」そう言うフリードリーの丸顔は紅潮しており、汗びっしょりだった。「午後、チューリッヒにいて、少し前に帰宅したんだ。で、明日もチューリッヒに行かなきゃならない。」

「君が?どうして、フリードリー?」
「君と同じ理由で、だよ。」おずおずとフリードリーは言った。「ツヴィングリの著書についてコメントしたんだけど、ちょうどその時、悪い連中がそれを聞いていたらしいんだ。で、彼らに告げ口されたのさ。」

「それじゃあ、僕は一人で行かなくてもいいんだ。」マルクスはほっとした。
「僕たちだけじゃない。他にも二人いるんだ。」

「え、本当に!誰。」
「キーナストだ。」

すぐにマルクスは、キーナストとシャフハウゼン州まで旅したことを思い出した。あのおとなしいキーナストがツヴィングリの本についていったいどんなコメントをしたのかと、マルクスには不思議でならなかった。

「そしてもう一人は、仕立屋のオーゲンフューズだ。僕自身、『ツヴィングリはゆうに十ヵ所嘘を書いている』って彼が発言したのを聞いたからね。彼が尋問に呼び出されるのも無理はないよ。」

「僕たち皆、一緒に発つのかな。」マルクスは訊いてみた。
「そうした方がよくないかい。もっとも、後の二人が僕たちを一緒に行きたかったらの話だけど。」

☆☆☆

こうして土曜日の早朝、ゾリコンの四人は、チューリッヒにいざ発とうとしていた。他の三人はもう外で待っていたが、マルクスはレグラにいとまをつげようと、まだ家の中にいた。

「夕方には戻ってくるよ。だから心配しないで。フリードリーの奥さんが午後、うちに来るって、彼が言っていた。だから僕たちが戻ってくるまで、君たちはここで一緒に待っていればいいよ。」

しかしレグラはそれほどたやすく納得しなかった。「あ、、、、あの人たちは、あなたを家に帰さないって思うの。」彼女は涙をおさえることもできず、こう言った。

マルクスはやさしく彼女に口づけすると、出発した。

☆☆☆

それぞれの夫を待ちわびる妻たちにとって、時間はいつまでも過ぎてくれないように感じられた。レグラは姉さんに話す話題を考え出そうとしたが、その度、思いは――今まさに、チューリッヒ参事会に出頭しつつある――マルクスと他の兄弟たちのところへ戻ってくるのだった。彼女は何度も心の中で、彼らのために祈った。

「繕い物を外に持ち出しましょうよ。あそこからなら、チューリッヒにつづく街道が見えるから。日の入りまでには、まだ一時間あるわ」と、レグラは提案した。

こうして二人の姉妹は、家の前に腰かけをそなえた。日中の暑さは、チューリッヒ湖沖からの疾風に吹き飛ばされていた。小さな村は、何もかも平安で、静かだった。

子供が数人、笑ったり、素足でほこりを蹴ったりしながら、走りすぎていった。牛の荷押し車がギーギー音をきしらせながら道をやって来、ゆっくりと通り過ぎていった。そして手押し車が通り過ぎた後も、干し草の山の甘い香りがあたりに残っていた。

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日は暮れてきた。レグラは心配そうにチューリッヒ市の方に通じる街道を見詰めていた。彼女の見る限り、人影はなかった。
「うちの人たちは今晩戻ってくるかしら。」フリードリーの妻は訊いた。

「ううん、戻ってこないと思う。」レグラは言いきった。

もう一時間、二人はオロオロと待ち続けたが、結局誰も現れなかった。とうとうシュマッヘル夫人は家に戻ることにした。というのも、子供たちの寝る時間が近づいていたからだ。

「あの人たち、行くべきじゃなかったのよ。」レグラは言った。「行くべきじゃないって、マルクスにもっと強く言っておけばよかった。」

「でも戻ってくるかもしれない。そうじゃない?」沈みつつある望みに必死にしがみつきながら、フリードリーの妻は尋ねた。
「不可能じゃないわ、でもその可能性は低いって思う。」

姉さんが、通りを歩いて家に帰っていくと、レグラ・ボシャートは家に入った。父親は居間で何かを修理していたが、彼が同情している気配はほとんどなかった。

これこそ、彼女のまさに恐れていたことだった。――マルクスはまたもや牢に入れられたに違いない、と。

第ニ十四章
   洗礼問題をめぐっての 人々の反応


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マルクス・ボシャートはかなり驚いた。――というのも、友であるウリッヒ・ライへナールが、自分たちの宿泊場所へやって来たからである。その日、マルクスとコンラート・グレーベルはバレッツウィル近くに宿泊していた。

「いったいどうしたんだい。」駆けつけながら、マルクスは尋ねた。「故郷で何か良くないことが起こったんじゃないだろうね。」

ライへナールはご機嫌だった。「いいえ、そんなことはないと思うよ。ただ君たちが元気にしているかなと思って、、、」
「でも、どうやって僕たちがここにいるって分かったんだい。」

「調べたんだ。」
ライへナールの言葉にもかかわらず、――彼がバレッツウィルまでわざわざやって来たのには、単なる好奇心以上の何かがあったにちがいない――とマルクスは思った。一時間ほど話した後、若いウリッヒはポケットから一通の手紙を取り出した。

誰からだろうか。レグラが僕に帰ってきてほしいと書いてきたのだろうか。何か起こったのだろうか。手紙の方に手を伸ばしながら、さまざまな思いがマルクスの頭の中を駆け巡った。

ライへナールはからかうように、手紙を高く掲げた。「えっへん。私は諸王にも仕え、農夫にも仕える、誉れ高き使者である!しかし、私だって、めしを食わなくちゃならない。この手紙の運び賃を誰が払ってくれるのかな。」

マルクスはじれったくなってきた。でも、こうやって彼が手紙のことで冗談を言えるくらいであるから、不吉な知らせであることはまずないであろう。

「もし手紙が僕宛なら、読ませてくれ」とマルクスは食い下がった。「お前さんがすでに報酬を受けているっていうことくらい分かっているんだから。」

ライヘナールは笑ったが、ややあって彼の表情は真面目になった。「冗談を言ってごめん」と彼は言った。「この手紙を君に届けるようにって、君のご両親が僕に報酬をくださったんだ。」

マルクスの口はぽかんと開いた。「そ、それじゃ、、、これは僕の両親から?」
「そう。」ライへナールは、やっとのことでマルクスに手紙を手渡した。彼は封を切り、読み始めた。

『息子マルクスへ。
頼むから、我々の言う事をきいてほしい。すぐにゾリコンに戻ってきなさい。

あの放浪男グレーベルと、国中をふらつき回るような、はしたないまねはやめなさい。お前の責務は、妻との家庭生活である。お前だって、そのくらい分かっているだろう。我々は本気で言っているんだからな。
               お前の父と母より』


マルクスは手紙を折りたたみ、ポケットに入れた。胸がはげしく動悸しており、彼の息づかいは荒かった。両親からの手紙により彼の心は傷つき、その傷みを隠すことができなかった。

ウリッヒ・ライヘナールも鈍感ではなかった。彼はあえて顔をそむけ、二羽のヒメコンドルがのらりくらりと、西の空を旋回しているのをじっと見詰めていた。

ようやく、マルクスは口を開いた。「今からゾリコンに戻るつもりかい。」また勇気が湧いてきていた。

「そうするつもりだけど、どうして、マルクス。」

「じゃあ、両親に、手紙が届いたことと、それから、今週末、とにかく家に戻るつもりなので、その時に話しましょう、って伝えてくれるかな。」
「伝えておくよ。」馬を押しながら、ライヘナールは約束した。

「も、もしも、、、負担じゃなかったら、レグラに、君が僕と話したってこと、それから、自分が元気にしていることを伝えてほしい。そ、そして、、、ここに来たことを後悔していないって彼女に言ってほしい。」

☆☆☆

二日後、マルクスはドゥーンテンに向かう途上にあった。そこの牧師とさらに話し合うためだった。コンラートは他に用事があり、同行できなかったため、マルクスは一人で行った。日中の暑さを避けるため、彼は朝早くに出発した。

今回の訪問の目的は、日曜日に議論した内容に関し、牧師がどこまで真剣なのかを見極めるためだった。

ツィング牧師を個人的に知る何人かの人の言うところによれば、――この牧師はお人よしだが、自分の信仰をいざ実行に移すとなると、がぜん意志が弱くなる――とのことであった。マルクスは今回そこらへんの真相を探るつもりであった。

こうして彼はドゥーンテンに着き、牧師館の玄関の方へ歩いていった。召使とみえる女が、彼を家の中に招き入れ、居間の椅子の所に案内した。「牧師様は、現在接客中でございますが、まもなく出ていらっしゃいます」と彼女はマルクスに言った。そうして女は庭仕事に戻っていった。

マルクスが椅子に腰かけるや、隣の部屋から声が聞こえてきた。
話している人の声は真剣そのものであり、声は上ずっていた。「先生、僕が幼児期に受けた洗礼は、まことの洗礼だったのか否か――、今日はそのことを知るために、ここにうかがいました。」

答える牧師の声は低かったが、それでも壁のこちら側によく聞こえてきた。

「前にも言った通り、私は幼児洗礼に関し、それをあるがままの状態で諦観しなくてはならないと考えている。だから、それが正しいとも間違っているとも言えないのだ。」

「でも、先生は靴工に『幼児が洗礼を受けなければならないなどと、聖書には一言も書いていない』っておっしゃったのではありませんか。」

「確かにそうだ。もし我々が、キリストが始められたように、そして初代教会でなされていたように洗礼を施そうと思うなら、成長し、自分で信仰を持てる年齢になるまで洗礼を施してはならないことになる。『赤ん坊に洗礼を施せ』と書いている箇所は、聖書のどこにもない。

しかし一方で、『赤ん坊に洗礼を施すな』と命じている箇所が存在していないことも、また然りである。だから私は言っているのだ。――幼児洗礼は正しいとも間違っているともいえない。」

マルクスは立ち聞きせずにはいられなかった。二人のうち一人はしきりに部屋の中を行ったり来たりしていた。おそらく訪問者の足音だろう。この訪問者は、牧師の答えに満足していないようだった。

「聞いてください。」男が再び話し始めた。「私は白黒はっきりした答えを得たいんです。日曜日、ヒンウィルに行き、グレーベルの説教を聴いたんですが、その日以来ずっと眠れずにいるんです。」

「私は自分の知っていることしか君に話せないよ。」

「もしあなたが、私に真実を語っていないのなら、神はその血の責任をあなたに問わなくてはならなくなりますよ」と訪問者の声が再び返ってきたが、それはほとんど苦悶の叫びに近かった。

牧師は答えたが、その声にはいらだちの響きがあった。

「君の言うことは正しい。」ツィング牧師は認めた。「もし私が神の御心を知りながらも、君にそれを告げないなら、私は本当に神の前に責任を負うことになる。しかし、今までのところ、それがはたして正しいのか、それとも間違っているのか、私はまだ、はっきりした確信にいたっていないのだ。もし知っていたら、君に言っただろう。

それにだ、私が何もかも知っているなどと思う必要はないのだよ、君。全てを知っているような者は、この地上に一人だっていない。そして自分の無知を告白することを私は恥じていないのだ。」

「そうでありながら、あなたはご自分のことを羊の牧者だと言っておられる!」訪問者は怒気を込めて言い放った。「狼が何匹も群れの中にいるんです。私たちを守るのはあなたの責務じゃありませんか。」

「狼がいるようには思えないが。」
「もし狼がいないのなら」とすぐに言葉が返ってきた。「それなら、グレーベルの説いている洗礼は正しいにちがいない。そして幼児洗礼は間違っているんだ。」

「何度も言っているように、私はそれが正しいのか間違っているのか分からないのだ。」牧師は言った。

「そうでありながら、あなたは依然として赤ん坊に洗礼を施し続けるつもりなんですか。」

「ああ、そうするつもりだ、もちろん。もし私が幼児洗礼をやめるなら、トラブルと反発を招くのみだ。もし『幼児洗礼を施行すべきではない』というのが神の御心なら、神は秩序ある方法で、それを可能な状態にせしめてくださるだろう。」

隣の部屋から足音が再び聞こえてきた。マルクスは訪問者の次なる言葉を待っていた。

「もう一つお聞かせください、先生。」
「何だね」とツィングは尋ねた。

「仮にチューリッヒの権威者たち――あなたは彼らに返答義務がある――が存在しないとしましょう。そして返答の義務が、唯一神にだけ向けられるものとしたなら、あなたは幼児に洗礼を施しますか、それとも施しませんか。」

「その場合」と牧師は、苦もなく言った。「私は洗礼を施さないでしょう。」

「それなら、あなたは幼児洗礼が神の命じられたものではないということを知っているにもかかわらず、依然としてそれを続けるということですか。」

「現在の状況にあっては、私は続けていくつもりだ。というのも、もし私が幼児洗礼をやめたら、自分の同僚たちの怒りを招いてしまう。そして怒りを招くようなことは避けるよう、御言葉も教えている。」

マルクスにはもう充分だった。彼は音を立てないようにそっーと立ち上がり、忍び足でドアの方に行き、外に滑り出た。ドゥーンテンに来た目的は、この村にアナバプテストの教会を建て上げることに関して、牧師がどう思っているかを知ることにあった。

牧師の訪問客によって出された問いにより、マルクスの知りたかったことは――おそらく、牧師との個人的話し合いを通してよりもずっと――明らかになった。もう戻った方がいいだろうとマルクスは判断した。

女給仕は庭で雑草取りをしていた。マルクスは手振りで彼女に近くに来るよう合図した。
彼女はけげんな表情をたたえて、やって来た。

「牧師先生はまだ接客中です。」マルクスは説明した。「友コンラート・グレーベルと僕は御心なら、またドゥーンテンに来るつもりです。その時、牧師先生ともお話できると思います。」

「もうお待ちになりませんか。」
「いいえ、もう帰ろうと思います。私がここに来ていたことを先生に伝えてください。ゾリコンのマルクス・ボシャートが来ていたと。僕のことは知っておられるはずです。」

「お伝えしておきます。」
「それでは。」

☆☆☆

再び北の方に向かいながら、彼の思いは複雑だった。助けを求めて来ていたあの男に対し、ツィング牧師は明確な答えをしてあげなかった。そのことはマルクスを悲しませた。

牧師は、『怒りを招くようなことは避けたい』と言っていた。しかし、神の御前において、その言葉の真に意味するところは何であろうか。

一人の人間が、神の御心を知りたいという切実な思いで、牧師のところに相談に来ていた。牧師は聖書が何と教えているのか知っていながらも、人への恐れから、それを実行するようにこの村人に助言することができなかった。

この事自体、真理を探し求めている人に対する侮辱行為ではないだろうか。――そして、この人の、神への奉仕を阻むつまずきの石ではないだろうか。

牧師はその意思とは裏腹に、怒りを挑発するようなことをしてしまったのではないかとマルクス・ボシャートは憂いた。あの訪問客の名前を訊いておけばよかったとマルクスは思った。コンラート・グレーベルはきっと彼と話をしたいにちがいない。

歩みを進めていくうちに、レグラのいない寂寥感の波がマルクスを襲った。家を離れてまだ一週間と経っていなかったが、彼にはずっと長く感じられた。

コンラート・グレーベルとの日々は満ち足りていた。――誰であれ、耳を傾ける者に二人は福音を説き、教えていた。そして週の大部分、二人はあちこちの家を訪問し、キリストにある敬虔な生活を望んでいる魂を探し求めていた。

グリューニゲンに来たことをマルクスは喜ばしく思っていた。今までの人生で、これほど満ち満ちた体験をしたことはなかったし、神の望まれることをこのように実践したこともなかった。二、三の洗礼式もあり、大いに励まされる応答もあった。

妻と離れ離れになっているのはつらかった。また、自分のしていることに両親がこれほどまでに強く反対していることを思った時、彼の心は痛んだ。今度、一時帰省する際、両親の所へ行き、もう一度説明してみよう、と彼は思った。

しかし、帰省前にまず、義兄アルボガスト・フィンステルバッハに会いにオベルウィンステルスールへ行くことになっていた。コンラートがそうするよう勧めていたのである。

☆☆☆

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マルクスがドゥーンテンからかなり早く戻ってきたため、コンラート・グレーベルは「今夜のうちにオベルウィンステルスールに行こう」と言った。「馬を二頭、賃りよう。僕には遠すぎて歩けないんだ。」

それで、その晩、二人はアルボガスト・フィンステルバッハ――赤髭で赤い髪の義兄――の家を訪問した。フィンステルバッハ夫人はゾリコンにいる親戚のことをいろいろ訊いてきた。そしてレグラはどうして来なかったのかと。

一同は夜更けまで話した。アルボガストは以前、チューリッヒ当局に対する農民一揆に関わったことがあった。コンラートは、さらなる真理にアルボガストの目が開かれるよう、今晩彼を助けようとしていた。

「君のツヴィングリに対する態度はおそらく正しいだろう」とコンラートは言った。

「だが、君は人間的な見方でもってそれに取り組んでいる。僕が何より気遣っているのは、人々に神の御心を知らせることなんだ。――それによって、彼らが罪から離れ、神の国の民として新生できるように、と。

君の抱いている懸念は、あくまで地上的なものであり、地に属するものだ。君や農民たちに必要なのは、神の民であることが何を意味するのか、神の教会を建て上げることが何を意味するのか――、それらに対するビジョンなんだ。」

赤髭をかきながら、アルボガストは丁重に聴いていた。コンラートは続けて言った。

「君は復活祭の時に、僕にこう訊いたね。『洗礼を受けるために人は何をすべきなのか』と。そして僕は言った。『まず、不品行、ギャンブル、飲酒、高利貸しをやめなければならない』と。今回、君に同じ質問をしていいかい、アルボガスト。つまり、今言ったような悪行をすでに断ち切ったかって。」

大きな赤毛の男は、椅子の上でもじもじしていた。彼は視線を落とした。「いや」と彼は告白した。彼の声は真面目だった。「ま、まだです。」

「僕の言わんとしていることが分かるかな。」グレーベルは尋ねた。こう言う彼の口調は決して冷たいものではなかった。

「君は今後もチューリッヒに対し抗議運動を起こし、その結果、より多くの自由を得ることができるかもしれない。でも、それは神の前にあって、君たちをより良い人間にはしない。必要なのは、僕たちの心が変えられることであって、政府が変わることじゃないんだ。」

マルクスは言葉をはさんだ。「お義兄さん。」アルボガストを見ながら、彼は言った。

「真のキリスト者であり続けるのは容易なことではありません。そしてそれは肉にとっても、心地よいことではないのです。というのも、そこには危険、困難、迫害が伴うからです。でも、僕が学んできた経験からいうと、人生の中で、清い良心を持ち、神の仕えること以上に、深い喜びは存在しないということです。先週、僕は今まで以上に、その事を体得しました。」

マルクスが自分自身の話をしたことを、アルボガストは喜んでいる風だった。重圧感を感じるグレーベルの話よりも、彼にとってはマルクスの話の方がましだった。

話題をさらにはずそうと、アルボガストはこう尋ねた。「でも、そ、、、そこまで極端である必要があるんだろうか。命の危険を冒すことなく、神のために生きることは不可能なのだろうか。」

コンラートはため息を吐いた。「アルボガスト。これは大きな問題だ。イエスはおっしゃった。『わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしい者ではない。また、わたしよりも息子や娘を愛する者は、わたしにふさわしい者ではない。自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、わたしにふさわしい者ではない』と。」

「こういう言葉もかなり極端に思える。そうじゃないかい?」コンラートは締めくくった。

「でもまさにこれこそ、僕たちが直面する必要のある事実なんだ。神に正しく仕えるためには、全身全霊で臨まなければならない。そして初代キリスト教徒のように、進んで主に従う志がなければならない――たとえそれによって命を失うようなことがあっても、だ。」

「それを本当に本気で言っているの?」信じられないといった風に、アルボガストは尋ねた。「仮にチューリッヒ参事会が、君を処刑するといって脅し、君も、彼らの脅迫は決して口先だけのものではないことを知っているとして、、、、そういう場合、彼らが君を殺す前に、自分の信仰を放棄したいと思わないかい?」

それに対し、コンラートは熱を込めて答えた。

「ステファノは、石を投げ付けられ始めた時、はたして自分の信仰を放棄しただろうか。ペテロは牢獄に放り込まれた時――それもヘロデ王が剣で実際ヤコブを殺害した後――、自分の信仰を放棄しただろうか。パウロは、自分の歩む信仰の道が険しくなってきた時、もうだめだと言って、あきらめてしまっただろうか。否!彼らは皆、神の助けを得、忠実であり続けた――そう、死に至るまで。」

アルボガストは首を振った。「たしかに一介の老人なら、なるほど理解できなくもない。でも僕や、ここにいるマルクスのような若者となると、、、」彼の言葉は途切れた。

「その事に関し、僕には確信がある。」グレーベルは真剣に言った。

「何カ月、もしくは何年も過ぎないうちに、ここチューリッヒのただ中で、信仰ゆえの血が流されることになるだろう。ツヴィングリは己の政策を変更するようには思えない。そんな状況の中、もし僕たちが信仰に固く立ち続けようとするなら――そうなるよう望んでいるし、祈ってもいるが――、この先、迫害と殉教以外に、僕たちは何か他のものを期待することができるだろうか。」

三人はそれぞれ物思いにふけりながら、黙って座っていた。

ようやくマルクスが言った。「今朝ドゥーンテンにいた時、ベルゲル行政官が僕たちの居所を探しているって聞いたんだ。どうやら、彼は僕たちが今週の日曜日、ゴソウで説教する予定だっていうことをかぎつけたみたいだ。僕たちを逮捕しようと彼はゴソウで待ち伏せするだろうか。」

「それはかなりありうることだな。」コンラートは言った。「ヨルグ・ベルゲルは物事を成り行きに任せるような男じゃない。もし彼が僕たちを捕えようと決心しているなら、彼を避けるのがまず得策だと思う。でもこんなに早く、彼は僕たちを妨害するだろうか、、、」

「でも今週の日曜日、どうなるんだろう。計画を変更すべきなんだろうか、コンラート。」マルクスは尋ねた。
「数日様子をみて、それから決断しようじゃないか」とグレーベルは提案した。

しかし実際、すでにその時、彼らに対する決定は下されていたのである。――そう、ちょうどその日、チューリッヒ参事会により、決議が出されていたのだ。