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カール・ギュツラフ(1803~51)広東で中国伝道の為に聖書翻訳に励んでいたモリソン(1782~1834)の志を継承し、日本伝道にその生涯をかけました。「ハジマリニ カシコイモノ ゴザル」で始まるギュツラフの「約翰福音之傳」(ヨハネ福音書)。辞書もない大変な環境にありながらも、日本人に福音のメッセージを伝えたいと願い、日本語訳を試みた神のしもべの涙ぐましい努力の跡をここに見ることができます。参照



Bible2 sumutoko com
(「ハジマリニ カシコイモノ ゴザル」 source


未信者だった大学時代に、私は一度クリスチャンの級友に誘われ、三鷹市にあるプロテスタント教会を見学しに行ったことがありました。

礼拝後、友人が「きぬちゃん、なんか疑問があったら、先生に訊きにいったらいいよ」と言ってくれたので、私は思い切って牧師室の戸をノックし、この先生にいくつか質問をしてみました。

その中の一つが翻訳聖書のことでした。「先生。キリスト教は、イスラム教と違い、聖典を翻訳することを許可していますよね?でも、キリスト教の翻訳聖書は数多くの種類があり、しかも互いにしっかりとは一致していないと聞いています。そうでありながら、キリスト教徒はどうしてそれを『聖典』とみなしているのでしょう。」

残念ながらその時、この先生がどうお答えになったのか覚えていません。もしかしたら、その答えに納得できなかったから早々に忘れてしまったのかもしれません(笑)。

しかしその後、何年かして救われた後、私はその回答を直接神様からいただきました。

私はソウルに留学中、ある敬虔な姉妹を通して福音を聞き救われたのですが、この姉妹は、(日本滞在の経験がないにもかかわらず)日本人の救いを日々祈り、独学で完璧に日本語をマスターしておられたのです。

ですから、私は海外にいたにもかかわらず、自分の母国語で福音を聞き、聖書の学びをし、そしてイエス・キリストを信じる恵みにあずかりました。

さらにその後、ギリシャに遣わされることになり、国立アテネ大学文学部でギリシャ語の歴史を学ぶ機会が与えられたのですが、そこで知ったのが、新約聖書のコイネー・ギリシャ語というのは、当時の教養人たちの使っていた「格式高い」擬古文ではなく、一般の人たちが使っていた自然でシンプルな民衆語であったということでした。

また紀元前三世紀中頃から前一世紀の間にエジプトで翻訳された、七十人訳聖書のギリシャ語も、新約と同じ文体(コイネー)で書かれていたということを知りました。

アテネ大の文学部には、ギリシャ古典文化・ヒューマニズムに対する強烈な誇りと自負心が建物中に漂っているように感じられました。

そのためか、コイネーで書かれた新約聖書などは、プラトン等の古典作品に比べ、はるかに「文学的に価値の劣る書」としてみなされているようでした。

22 ユダヤ人はしるしを要求し、ギリシヤ人は知恵を追及します
23 しかし、私たちは十字架につけられたキリストを宣べ伝えるのです。ユダヤ人にとってはつまずき、異邦人にとっては愚かでしょうが、
24 しかし、ユダヤ人であってもギリシヤ人であっても、召された者にとっては、キリストは神の力、神の知恵なのです。1コリント1:22-24



このように「ことばの知恵」によらず、ガリラヤの漁師たちという「この世の取るに足りない者や見下されている者」を神はお選びになり、当時の知者がさげすんでいた民衆語で福音が伝えられたという事実は私の心に深い感動を与えました。

これは、神の御前でだれをも誇らせないためです。1コリント1:29



この事実はまた、「〈聖なる言語〉を独占しようとする人間的高慢」に対する、神による永遠の「ハンマー」であり警告だと思います。

中世の教会は、聖書が民衆の言葉に訳されるのを「剣」と「火」をもって阻止しようとしましたが、それを止めることはできませんでした。

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(聖書を英語に翻訳したために処刑されたウィリアム・ティンダル)

このように、地の果てに住むすべての国民を救う計画を天地創造の前から備え、御子イエスの全人類の贖罪の死を通して実行し、聖霊の力によってキリストの証人を送り出した主なる神が、各地の言語の違いに戸惑い、聖書翻訳の問題でその「救いの光」を覆い隠してしまうことなどあるだろうか。

二千年前に使われていたヘブライ語やギリシャ語の中に、その恵みの啓示を閉じ込めておこうとするだろうか。

むしろ「全世界に出て行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えよ」と命じた神は、全世界に住む人々がそれぞれの母国語で生ける神と個人的な交わりをすることを選ばれたのである。

アッカド語を話していたアブラハムに個人的に語りかけていた主なる神は、日本語を話すあなたの心に日本語の聖書を通して語りかけることができる方であり、あなたが祈りの中に日本語で「神様、私を助けてください」と叫べば、その祈りに答えてくださる方である。

そしてたとえあなたの祈りが言葉にならない魂のうめきであったとしても、それさえも受け止め、祈りの中で共にいてくださる方である。

―「『全世界に出て行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えよ』と命じた神」より一部抜粋 (ココ




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祈り)
天のお父様、あなたのみ言葉が私たち日本人の心に届くまでに、数えきれない神のしもべの血が流されてきたことを覚えます。多くの人々の尊い犠牲の上に、今の日本語訳聖書があることを改めて心に刻みたいと思います。聖書翻訳というこの壮大な歴史に、あなたが主権的に介入されてきたことを信じ、感謝します。

「非常に熱心にみことばを聞き、はたしてそのとおりかどうかと毎日聖書を調べた」ベレヤの信者たちのように(使徒17:11)私たちも日々熱心にみことばを読み、そこからあなたの命のメッセージをいただくことができますように。イエス・キリストの御名を通してお祈りします。アーメン。






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先日、あるクリスチャンの方の書いた聖書写本に関する文章を読む機会がありました。内容もさることながら、私はその先生のみことばに対する真剣な姿勢に感銘を受けました。

私たちの信仰の土台となっている聖書は、歴代、こういった真摯なクリスチャンたちによって大切に保存され、翻訳されてきました。

私はこの方の文章を読んでいて、「自分のみことばに対する姿勢はまだまだ生ぬるいなあ」と反省させられました。時々、聖書を読んでいて、「あれっ。ここはどうしてこう書いてあるんだろう?」と疑問に思うことがあっても、日々のいそがしさの中で、それ以上何も考えず、調べもしないことが多いのです。

でも自分の家の台所にゴキブリが一匹でも出現しようものなら、もう大騒ぎです。すぐにゴキブリ駆除のために対策を練ります。自分の家の土台や環境にはこれほど神経を使うのに、どうして信仰の土台である聖書にはこれほど無関心なのだろう?

マルコ16章の9-20節のところがカッコでくくられているのにはかなり前から気づいていて、「どうしてなんだろう?」と疑問に思っていましたが、そのままになっていました。

でも考えてみれば、これはかなり大ごとだと思うのです。ある聖書の箇所がカッコでくくられ、下の方の註欄に、「*異本 9-20節を欠くものがある」と書いてある。ということは、この箇所は、本物の神の言葉かもしれないし、そうじゃないかもしれないということになります。でもそういうあやふやな思いでマルコ16章を読んでも、御言葉は力強く私の心に入り込んできません。

それで今回、奮起してこの箇所について調べてみることにしました。そして結果的にやっぱり調べてよかったと思いました。下に挙げる文章はテキサス州の牧師先生の書かれた記事です。

「何々写本」などちょっと専門的な言葉も出てきますが、がんばって最後まで読んでみてください。この記事を読み終わる頃には、あなたは私と共に、「ハレルヤ!あなたのみことばはとこしえに変わりません」と主を賛美していることでしょう。

それではご一緒に、マルコ16章9-20節について考えていきましょう。

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(↑マルコ)

(Kyle.P, Is Mark 16:9-20 Inspired?)

マルコの福音書の終わりの章のところがカッコでくくられていたり、「もっとも信ぴょう性のある古い写本やその他の古代の証言には、マルコ16:9-20は存在していない」というような註を目にして、とまどったり、「えっ、どうして?」と疑問に思ったりしている方は少なくありません i。

そういう注解書きははたして正確なものなのでしょうか。この箇所の信ぴょう性や霊感に疑問をもつべきなのでしょうか。

こういった問いに答えるべく、注目に値する三つの証拠が挙げられると思います。1)ギリシア語写本、2)古代訳、3)古代著述家による証言、です。

1.ギリシア語写本

マルコ16:9-20は存在しないという主張は、主として、以下に挙げる二つのギリシア新約聖書の写本(四世紀)が基になっています。その二つとは、バチカン写本、およびシナイ写本です。

前者の写本は、少なくとも1475年以来、バチカン図書館の目録の中に記載されています。

一方、二番目のシナイ写本は、著名なギリシア語学者であったコンスタンティン・ティッシェンドルフによって1844年発見されました。彼はこの写本をシナイ砂漠にある修道院の中で見つけたのですが、なんとその写本は今にも焼却されようとしていたのです!

St Catherines monastery
(↑シナイ写本が見つかった聖カテリーナ修道院)

バチカン写本もシナイ写本も、マルコの福音書は8節のところで終わっています。ティッシェンドルフ氏によるこの発見以後、「もともとのマルコの福音書は8節までだったんだ」とある学者たちは強く主張してきました。

ということはこの箇所は本物でないってことなんでしょうか?とんでもありません!

シナイ写本もバチカン写本もこの箇所が書かれるべきマルコの福音書の終わりにちゃんと空欄が開けてあるのです。シナイ写本はほ一段ぜんぶに渡って空欄となっており、バチカン写本は一段半近く、空白となっているのです。

image002 THE ENDING OF MARK IN CODEX SINAITICUS
(↑シナイ写本;空欄の部分がみえますか?)

ここから、書記者は何かが欠けているのは認識していたものの、手元にその完全なセクションの写しがなかったということが予想できるわけです。

The ending of Mark in Codex Vaticanus
(↑バチカン写本;ここにもちゃんと空欄があります!)

でもここで百歩譲ってこういった写本がマルコの福音書の本来の終わり方なのだと仮定しましょう。

そうすると、9-20節の存在を立証するようなそれ以前の証拠はどこにもないということになります。しかし今からご一緒にみていきますが、実際はそうじゃないのです。

これまで保存されてきたギリシア語新約聖書写本は実に5000を超えます。「シナイ写本とバチカン写本が新約聖書の最古の写本なのだ」という誤った主張がよくなされますが、それは違います。

多くのパピルスの断片が存在し、それらはこれらの写本よりも古いものです。そういったパピルス断片の中で最も重要なものは、シェスター・ベッティ・パピルスです(P45)。これは福音書と使徒の働きを含む2世紀もしくは3世紀の写本です。

残念なことにこの古代パピルスはマルコ4章以前および12章以降が破損しています。つまり、マルコの福音書の終わり方がどうであったのか、このパピルスからはうかがい知ることができないのです。

しかしこれまで保存されてきた写本の大部分にはマルコ16:9-20がちゃんと含まれています。そういった写本の中にはバチカン写本やシナイ写本よりほんのわずか後に作成されたものもあります。

例えば、1627年、正教会のコンスタンティヌーポリ総主教キリロス・ルカリスによってチャールズ1世に献呈したアレクサンドリア写本(5世紀の写本)にはこの箇所が含まれています。

宗教改革者セオドール・ベザがフランスの修道院で見つけ、1581年、ケンブリッジ図書館に寄贈されたベザ写本(5-6世紀の写本)には、ギリシア語、ラテン語の両方で、この箇所が記入されています。

Codex Bezae
(↑ベザ写本)

この箇所はまたエフライム写本(5世紀)や、ワシントン写本(4-5世紀)の中にも存在しますii。

この箇所を含む二、三の写本の中には、「いくつかの写しには16:9-20がなかった」ということを指摘している編註が加えられているものもあります。

しかし、これは写本の伝統の中で、省略というのが存在していた事実を確認するものにすぎません。つまりこの箇所の権威や独自性について何ら立証するものではないのです。

二つの写本(しかもそれらの写本自体、その箇所の空欄をちゃんと残してあるのです)に9-20節がないからといって、他の全ての写本に含まれているこの箇所を拒絶してしまっていいのでしょうか。

2.古代訳

新約聖書本文の伝達史において、その非常に早い時期から、ギリシア語原語は、福音の伝播した地域のさまざまな言語に訳されていきました。

ということは、仮に誤謬や省略の含まれている写本が訳された場合、そういった誤りは当然、翻訳の上にも浮かび上がってくるはずです。そのようなものとして、(シナイ写本やバチカン写本における)古代訳は例によって、8節で終わっています。

ブルース・メツガーは、著書『新約聖書の本文研究(A Textual Commentary on the Greek New Testament)』の中で、そのような訳として、古ラテン語写本(Bobiensis)、古シリア語シナイ写本、約100のアルメニア語写本、二つの最古のグルジア語写本(紀元897年および913年に書かれたもの)(122-23)。またこの箇所の欠けているコプト語写本も一つあります。

メツガーの言及は多少明確化される必要があるでしょう。4世紀もしくは5世紀の古ラテン語写本(Bobiensis)の中に9-20節が含まれていないのは確かです。

しかしこの写本には8節以降、独自の短い結句が書かれているのです。これはさらなる正確さを反映したものでしょうか。それとも一貫性の欠如を示す証拠となるものでしょうか。

ヒエロニムスは当時のラテン語本文のことについて、「写しとほぼ同じくらい、多くの本文の形式が存在する」といっていますiii。

こういう理由もあって、ラテン語世界の人々のための「欽定訳版」であるラテン語ウルガタ聖書がうみだされることになったのです。

印刷機や本文の写真などなかった時代、写本を作る過程で、人間のミスや改変などはいつもあったのです。しかしだからといって、神様の言葉が失われたわけではありません。

イエス様はおっしゃいました。「この天地は滅び去ります。しかし、わたしのことばは決して滅びることがありません」(マタイ24:35)。要は、ミスや改変は起こり得る。だから本文の保存にあたっては、注意と比較作業が必要だということです。

ギリシア語写本の大多数がマルコ16:9-20を保存しているように、古代訳の大多数もこの箇所を含んでいます。

その中には古シリア語のペシタ訳(2―3世紀)、サヒディック・コプト語訳(2-3世紀)、古ラテン語訳の大多数(2-4世紀)、ラテン語ウルガタ聖書(4-5世紀)、ゴート語写本(4世紀、ただしこれは12節の半ばが破損しています)、多くのアルメニア語写本(5世紀)、エチオピア語写本(5世紀)が挙げられます。

もしマルコ16:9-20の信ぴょう性およびその霊感を疑問視するというのなら、私たちは何世紀にわたりなされてきた学者たちや翻訳者たちの努力を無視し去らねばならないことになります。

GOSPEL ACCORDING TO ST MARK

こういった人々は心からこれが神の霊感を受けし御言葉だということを信じつつ、念入りに本文を比較し、調べてきたのです。こんなにも簡単に彼らの学究の成果を捨て去ってしまってもいいものでしょうか。

3.古代著述家の証言

これまでみてきましたように、非常に早い時期に、マルコの福音書の末尾に関する本文の問題が持ち上がっていたこと、これは明らかです。

問題は、はたしてこれが写本における誤謬ないしは元々の本文の改変を反映しているのかどうかという点にあります。そして4世紀という早い時期にすでに、この箇所を欠いている写本の存在に気づいていた宗教著作家たちがいたことが確認されています。

「復活の出来事の記述に関し、マタイとマルコの福音書をいかに調和させるか」ということについて、二人の著述家(4世紀)が書簡の中で言及しています。

両者とも、「答えは、ここの言葉をオリジナルとみるか否かによる」と答えています。

まず、歴史家エウセビウス(4世紀前半)は、『マリヌスへの質問』の中で次のように書いています。「(8節の後)マルコの福音書のほとんど全ての写本は、これらの言葉でもって終わっています」(1)。

さらに、「その後につづく箇所(つまり9-20節)はいくつかの写本の中にまれにみられるが、全ての中に含まれているわけではない」(1)と言っています。

次に、4世紀の聖書学者であったヒエロニムスですが、彼は『ヘディビアへの手紙』の中で、マルコ16:9-20は、「いくつかの福音書の写本の中に含まれているが、ギリシアにあるほとんど全ての本は、この箇所を含んでいない」(Question 3)と言っています。

St Jerome InHisStudy
(↑ヒエロ二ムス)

エウセビウスにしてもヒエロニムスにしても、ここで9-20節の信ぴょう性をとやかく否定しているのではなく、あくまでその当時、この箇所が争点となっていたという事実を認めているにすぎないのです。

ヒエロニムスの言葉を、9-20節の信ぴょう性を否定したものと捉えることはもちろんできません。なぜなら、彼自身、この箇所を引用しているからです。

『ペラギウスへの反駁』の中で彼はマルコ16:14の御言葉を用い、使徒たちでさえ不信仰とかたくなな心に陥っていたことに言及しています(Ⅱ.15)。

ヒエロニムスはこれらの箇所を、自分の作成したラテン語ウルガタ聖書の中にも入れているのです。これは重要です。

なぜなら、ヒエロニムスは『マルセラへの手紙』の中で、「(ラテン語本文の信頼性に欠けた形式ゆえ)、ギリシア語オリジナルーそこから翻訳されたということは何びとも否定しませんーに立ち帰りたいと願いました」と述べているからです(27.1)。

ヒエロニムスはマルコ16:9-20を含むギリシア語本文を別に見つけたのでしょうか。それともその箇所が欠けている写本は欠陥があると認識していたのでしょうか。

古代の著述家が、「この箇所は本物である」と支持していたことが圧倒的に立証されています。

ヒエロニムスとエウセビウスの同時代人たちがこの箇所を権威ある聖句として用いていただけでなく、シナイ写本・バチカン写本・その他の翻訳聖書より前の写本も同様に、この箇所を入れているのです!

これに関する議論の余地のない最古の例は、それは2世紀のエイレナイオスの著作にみることができます。『異端論駁』の中で、エイレナイオスは「福音書の終わりにマルコはこう言っています。『主イエスは、彼らにこう話されて後、天に上げられて神の右の座に着かれた』」(Ⅲ.10.5)と述べています。

ここでエイレナイオスは19節を引用しているだけでなく、これは福音書の末尾にくるものであるとも言及しているのです。新約聖書が完成してすぐの世代人(=エイレナイオス)がこれを引用しているのに、この本文の信ぴょう性に疑問をさしはさむことなどできるでしょうか。

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(↑エイレナイオス)

それだけでなく、通観福音書であるディアテサロンを作成したタティアノス(2世紀)もこの箇所を含めています。

また多くの初代クリスチャン著述家は、マルコ16:18の毒を飲んでもクリスチャンは害されないという主の言葉に言及しています。それは例えば、パピアス(紀元110年、エウセビウスの『教会史』(Ⅲ.39))、テルトゥリアヌス(紀元212年、『蠍』(15))、ヒッポリュトス(『使徒伝承』(36.1))などです。

4世紀、マルコ福音書の末尾の問題は周知のことだったと思われますが、ほとんどの人はこの本文を神の霊感を受けし、疑問の余地のない御言葉であると理解していました。

アンブロシウス(337-397)もアウグスティヌス(354-430)もひんぱんにマルコ16:9-20を引用しています。アウグスティヌスは、『福音書の調和』の中で、マルコ16:12について大々的にコメントしています(III. 24.69)。

これは特に注目に値します。というのも、アウグスティヌスは著書の中で、ギリシア語本文の価値についてこれを非常に強調しているからです。

『キリスト教教理についてOn Christian Doctrine』の中で彼はこう言っています。

「新約聖書内の諸書についてですが、もう一度言います。ラテン語本文の多様性に混乱を覚えたなら、私たちはもちろんギリシア語本文に立ち戻らなければならないのです。――特に、より学識があり、研究が進められている教会で使用されているギリシア語本文を」(II.15, 22)。

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(↑アウグスティヌス)

アウグスティヌスは、エウセビウスやヒエロニムスが知らないような(マルコ16:9-20の含まれている)ギリシア語本文をよく知っていたということなのでしょうか。

同じ時期に、ヨハネス・クリュソストモス(347-407)は、説教集38巻にある『1コリント人への手紙について』(5; 1 Corinthians 15:8)の中でマルコ16:9について言及しています。

また最後に、マカリウス・マグネス(紀元400)は著書Apocriticusの中で、ある聖句に関し異邦人から受けた質問に答える形で、マルコ16:17-18に言及しています(III.16 and 24)。

5世紀以降になると、この箇所の引用は非常にひんぱんになり、枚挙にいとまがありません。

結論

マルコの福音書本文の写しや複写について、初代キリスト教の歴史のある時点で、「マルコ19:9-20がはたして本文に含まれるのか否か」という問題が起こったことは確かです。

そしてそれは、それ以降、訳された写本や翻訳に影響を与えました。

とはいっても、新約聖書正典が決まってすぐ次の世代人であったエイレナイオスはこの箇所を引用し、これを「(マルコの)福音書の終わりにある」と主張しているのです。

それに加え、数々の写本、翻訳、古代の証言等、圧倒的な証拠があります。そこから導き出される結論として、この箇所は、聖霊によって霊感を受けた御言葉(Ⅱテモテ3:16)として、マルコの福音書元来の本文中に存在していた――そのことに疑問の余地はないでしょう。



i 新国際訳聖書(NIV)は9-20節の訳の前に、この註を挿入しています。本記事で表明しているように、こういった発言は、全ての証拠をないがしろにしています。

ii ワシントン写本は9-20節を含んではいますが、同時に付け加えられた語句もあります。これは改変を反映しているかもしれませんが、一方において、この箇所が含まれているという事実は、その存在を証言するものとして受け取ることができます。

iii 『四福音書へのはしがき』より。これはラテン語ウルガタ聖書の作成に関連して、ダマスス教皇に宛てて書かれたものです。

〔出典:Pope, Kyle. "Is Mark 16:9-20 Inspired?" Biblical Insights 9.8 (August 2009): 22-23 〕

mark 16 in koine greek





(Kyle P, How to Choose a Bible Translation 快く日本語訳の許可を与えてくださった米国テキサス州オルセン・パーク教会のカイル師にこの場をかりてお礼申し上げます。)

満開のエゴノキ

はじめに
去る2007年、私たちは「いかにして聖書を手にしたのか(How we got the Bible)」というシリーズで学び会をしてきました。なぜ訳がそれぞれ異なるのかということを理解するにあたり、このシリーズはいわば下準備をしてくれたといえましょう。

底本(Textual Basis)

前回のシリーズで取り扱ってきた要点の一つとして、各翻訳の背後に存在する底本のことが挙げられます。つまり、昨今発見された聖書写本に、どれだけの比重がかけられているかということです。

もしある写本が、他と異なっているとしましょう。その場合、この写本はオリジナルにより近いと結論づけるべきなのでしょうか。

それとも歴史を通して保存され続けてきた標準テクストの方がオリジナルに近いという見方をすべきなのでしょうか。

もし新約聖書の翻訳が、昨今発見された写本に、より比重を置いているのなら、こういった翻訳は、底本として「クリティカル・テクスト」を用いているということができます。

その一方、ある翻訳が、歴史を通じて保存されてきた標準テクストにより依拠しているなら、これは底本として「受け入れられてきたテクスト(Textus Receptus)」を用いている、ということになります。

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なぜそれぞれの翻訳聖書に違いがあるのか

A 言語における違い(Differences in language

言語というものは、さまざまな方法で、さまざまなことを伝達します。慣用的な表現などはある特定の言語のみに見出される場合があります。

そういった独自の表現を、いったいどのようにして他の言語に言いかえることができるのでしょうか。たとい同じ言語内であっても、時の変遷とともに、ことばの意味が変化することもありえます。

B 底本における違い(A different textual basis

ある翻訳聖書が、昨今発見された写本に依拠しているのであれば、相違は起こります。

ある一語がつけ加わることもあれば、省略されることもあります。スペリングが異なっている場合もあります。ある写本では「キリスト」と記されている箇所が、別の写本では、「イエス」と記されていることもありえます。

注)ただし、こういった相違を、聖書本文の信頼性を疑わせるようなものとして考えてはなりません。相違の99%は、語順とかスペリング、同義的な言葉におけるささいな違いにすぎないのです。

C 教理的見解の違い(Different doctrinal perspectives

どんなに避けようとしても、私たちの持っている信仰体系が翻訳におよぼす影響を完全に抜き去ることはできません。

例えば、私が何かを翻訳しているとします。その中で、幾通りかの方法で表現できるような箇所に出くわします。

その際、一つの表現は私の信仰体系を裏付けるようなものであり、もう一つは、そうでないとします。この場合、私は前者の表現を選ぶ可能性がきわめて高いといえるでしょう。

D 翻訳のスタイル(Style of translation

今日の学びでは、この領域に焦点を当てたいと思っています。ご一緒に英語の翻訳聖書を調べていき、いかにそれぞれの翻訳哲学が、翻訳文に影響を与えているかということを考察していきたいと思います。

さまざまな翻訳スタイル

① パラフレーズ(意訳)

パラフレーズとは、「para(ギリシア語で「かたわらに」、の意)+phrase(言う、指摘する)」という語で構成されており、あるテクストを要約すること、もしくは、自分独自の言葉で言いかえることを意味します。

• あらゆる説教は、パラフレーズであるということができます。説教者は、自分の理解にしたがって、自分自身の言葉で、聖書のテクストを説明しなければなりません。

• Ⅰコリント2:9において、パウロは(聖霊の導きを通して)イザヤ64:4-5を意訳しました。

• タルグムと呼ばれる古代のユダヤ文献は、旧約諸書の解釈ないしはパラフレーズです。

• その働きにより欽定訳聖書(KJV)の礎石を築いたギリシア語学者エラスムスは、新訳聖書を意訳しました。

パラフレーズは厳密な意味で、翻訳ではありません。というのも、ある言語の語句や考えそのものを、他言語に移すという意図がそこにはないからです。にもかかわらず、このメソッドは、聖書および世俗テクストの翻訳に用いられています。

それ自体に罪があるということではありません。しかしながら、数ある翻訳スタイルのうちでも、このメソッドは、偏見、解釈ミス、あからさまな間違いに最もさらされやすいものであるといえます。

なぜなら、これはあくまで<神の言葉>に関する<人間の言葉>であり、<神の言葉>そのものではないからです。

現在、パラフレーズ聖書の代表的なものは以下の二つです。

A. The Living Bible (リビングバイブル、別名 The Book, The Way). (Kenneth Taylor著. Wheaton, IL: Tyndale House Pub. 1971)

The Living Bible 1971

テイラー氏はバプテスト派の信者の方であり、自分の子どもたちに聖書を説明しようと意訳しはじめたのが最初のきっかけでした。やがてそれは聖書全巻を網羅するにいたりました。テイラー氏は保守的信仰の立場をとっておられますが、氏の意訳の多くは、彼のカルヴァン主義思想を反映しています。

1. 詩篇51:5 “But I was born a sinner, yes, from the moment my mother conceived me.

(見よ、わたしは不義のなかに生まれました。わたしの母は罪のうちにわたしをみごもりました。【口語訳】/ ああ、私は咎ある者として生まれ、罪ある者として母は私をみごもりました。【新改訳】/あなたに背いたことをわたしは知っています。わたしの罪は常にあなたの前に置かれています。【新共同訳】)”

ヘブライ語では「私は罪の中に生み出され(I was brought forth in sin)」と言っていますが、ここでいっている罪が彼自身のものなのか、母のものなのか、それともこの世界全体の罪なのか、明確には述べていません。

聖書は継承された罪というものについては教えていません(エゼ18:20)。同じような見解が以下の例にも表れています。

2. ローマ5:12 “When Adam sinned, sin entered the entire human race. His sin spread death throughout all the world, so everything began to grow old and die, for all sinned.”

(このようなわけで、ひとりの人によって、罪がこの世にはいり、また罪によって死がはいってきたように、こうして、すべての人が罪を犯したので、死が全人類にはいり込んだのである。【口語訳】)

ギリシア語では、「一人の人を通して罪が世界に入り、死(→肉体的な死ではなく、霊的死)」が「すべての人に広がった。なぜならすべての人が罪を犯したからです」と言っています。(ちなみに、この箇所は、ローマ3:23の「罪」と同様の使われ方をしています。)

罪が「世界world」に入ったというのと、「人類human race」に入ったというのは異なるのです。

B. The Message. (メッセージ・バイブル、Eugene Peterson著. Colorado Springs: NavPress Pub. Group. 1993).

The Message Bible

(元)長老派教会の説教者であり、ブリティッシュ・コロンビアのリージェント・カレッジの教授であるピーターソン氏は、伝道用にと、節の区切りなしのパラフレーズ聖書を独自に作りました。

上記のリビングバイブルに比べると、ずっと保守性に欠け、原典とはまったく無関係の現代的慣用句が盛り込まれています。

1. マタイ9:23で、彼は「笛吹く者たち」および「騒いでいる群衆」を「オーブン鍋を持ってきた隣人たち」と書き変えています。

2. 使徒2:41「三千人ほどが弟子に加えられた」のところを、ピーターソン氏は、「“they were baptized and were signed up. ”彼らはバプテスマを受け、(教会員として)登録された」と書いています。

福音に従うにあたり、メンバーとして登録しなければならないという教えはいったい聖書のどこにあるのでしょうか。

こういった例は、別に悪気があって書かれたものではありませんが、それにしてもパラフレーズが誤りを助長するというのは確かです。

3. マタイ16:18はピーターソン訳では、「“You are Peter, a rock. This is the rock on which I will put together my church.”」となっています。(あなたはペテロです。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てます【新改訳】)。

ペテロに関して、ローマ・カトリック教会が信じていることはまさにこれなのです。つまり、ペテロが最初の「教皇」なのだと。ピーターソン訳が明らかにすることができなかった点は、つまり、イエスが「岩」を表すにあたって、二つの異なった単語(ペトロスとペトラ)を用いておられたということです。

そしてそれによって、教会の建て上げは、ペテロその人ではなく、あくまでペテロのなした告白の上に成り立っているということをイエスは言っておられるのです。

4. またピーターソン氏はエペソ2:8「“Saving is all his idea, and all his work. All we do is trust him enough to let him do it.”」で、カルヴァン主義の傾向を明らかにしています。

こういった背後の事情を知らない人は、このような言葉を読んで、「救いは信仰のみによる。」さらには「信仰というのは神が人に押し付けるもの。」という理解を持ちかねません。

C. 聖書に関する人間の意見を参考にする上でパラフレーズ訳を用いることは可能ですが、聖書そのものとして用いることは決してすべきではありません。

② インターライナー式翻訳(行間訳文 Interlinear Translation

パラフレーズ訳が一つの極だとすると、その反対の極は、インターライナー式翻訳ということになると思います。

インタ―ライナー聖書は、原語一語一語の下に、英語の逐語訳を載せています。そして可能な限り、言語一語の下に、対応する英語一語がくるようになっています。このアプローチの難点は、、、

1. 原典の一語を、一語だけで翻訳できるとは限らない。(二語以上必要な場合もある。)
2. 語順というのは、各言語間でかなりの相違がある。
3. 原文には、英語の中に該当するものが存在せず、訳しようがないもの(例 文法標識)がある。

こういった問題点ゆえに、インターライナー式聖書は、聖書勉強の良い助けにはなっても、教えたり、読んだり、説教したりする際に用いるにはあまりに使い勝手が悪い代物だといえます。

一番入手しやすいインターライナー式聖書は、The Interlinear Bible(Jay P. Green著. Grand Rapids: Baker Book House, 1982)でしょう。著者グリーン氏は、新約聖書の底本に、「受け入れられてきたテクスト(Textus Receptus)」を用いています。

最近の版ではさらに、各原語の下にストロング式の番号振りをしています。

さて、今までパラフレーズ式、インターライナー式とみてきましたが、次に考察してみようと思うのは、これです。

③ “Dynamic Equivalence(ダイナミック等価翻訳)” (thought for thought).

パラフレーズとは少々意を異にするのが、「ダイナミック等価翻訳」ないしは「thought for thought」翻訳として知られるアプローチ方法です。

このアプローチは、パラフレーズ訳に比べて原語での実際の文献に、より依拠しているのですが、意味(もしくは『これが意味しているところだ』と翻訳者が信じるところの意味)を表す際に、より柔軟性をゆるしています。

実際、あらゆる翻訳にはこういった要素が含まれているのです。

例えば、Ⅱヨハネ2:12「あなたがたのところに行って、顔を合わせて語りたいと思います。」という箇所ですが、ギリシア語の原語では「顔を合わせて」ではなく「口を合わせてστόμα πρὸς στόμα」という表現になっています。

こういった点に関し、どこまで柔軟性の幅をきかせるかという翻訳者の判断によって、翻訳は、パラフレーズの方に接近したり、逆に遠ざかったりするのです。

翻訳者が訳に柔軟性をゆるせばゆるすほど、テクストは偏見、解釈ミス、誤りを犯す可能性にさらされやすくなるのです。

ではまず、このアプローチの中でもかなり極端な例から始めて、その後、徐々に逐語訳に近いアプローチの例をみていくことにしましょう。

A. The Voice New Testament. (ヴォイス新約聖書 Nashville: Thomas Nelson Pub. 2008.)

The voice new testament

多くのダイナミック等価翻訳の抱えている問題の一つは、聴衆を惹きつけんがために人間的な仕掛けに頼っていることです。比較的最近出版された『ヴォイス聖書』は、新約本文を、脚本式フォーマットで提示しています。

1. 「キリスト」のところを「解放王(“Liberating King”)」という単語に置き換えています。

2. 「バプテスマ」の代わりに、「儀式的洗い(“ceremonial washing”)」という言葉を使っています。

そしてこの語が出てくるたびに、その下に脚注をつけ、「文字通りの意味は、『浸す(“immerse”)』だ」と記しています。たしかに、バプテスマは浸礼ですが、バプテスマのことを「儀式的洗い」と呼んだからといって、それに関する誤解が解けるわけではありません。

3. この聖書はパラフレーズ訳を自称しているわけではありませんが、聖書本文にあまりにもたくさんの注釈を取り入れているために、事実上、パラフレーズ訳となっています。

例えば、翻訳者が語句を挿入する際、ふつう、イタリック体が使われるのですが、以下にあげる例をみてください。

使徒20:7 “The Sunday night before our Monday departure, we gathered to celebrate the breaking of bread. Many wondrous events happened as Paul traveled, ministering among the churches. One evening a most unusual event occurred.”

(→月曜日の出発前である日曜の夜に、私たちはパンを裂いて祝うために集まった。パウロが諸教会の間を奉仕しつつ旅する中で、多くの驚くべきことが起こったある夜、もっとも尋常でない出来事が起こったのだ。) 

なんと、まるごと二文が、イタリック体で挿入されているのです!これはもう、翻訳ではなく、注解書です!

B. The Amplified Bible. ( アンプリファイド・バイブルFrancis E. Siewert編 (他12 人の学者)。Lockman Foundation. Grand Rapids: Zondervan Pub. 1965. )

The Amplified Bible


この訳は、原語の中の、ある文法構造の中にみられる微妙なニュアンスを明確にしようという目的で生み出されました。これには有用な点もあります。例えば、、、

1. マタイ 18:18: “Truly I tell you, whatever you forbid and declare to be improper and unlawful on earth must be what is already forbidden in heaven(ἔσται δεδεμένα), and whatever you permit and declare proper and lawful on earth must be what is already permitted in heaven(ἔσται λελυμένα).”

ここではεἰμίの未来形+完了分詞が使われているのですが、この英訳はそういった細かいニュアンスをうまく訳出しています。しかし、あまりに注釈が多くなっている箇所もあります。例えば、、、

2. 詩篇51:5: “Behold, I was brought forth in [a state of] iniquity; my mother was sinful who conceived me [and I too am sinful].”

(わたしの母は罪のうちにわたしをみごもりました、という原文だけでなく、その後につづくカッコの中に〔そして私もまた罪深いのです〕という一文が挿入されています。)

3. 1 ペテロ 3:21: “And baptism, which is a figure [of their deliverance], does now also save you [from inward questionings and fears], not by the removing of outward body filth [bathing], but by [providing you with] the answer of a good and clear conscience (inward cleanness and peace) before God [because you are demonstrating what you believe to be yours] through the resurrection of Jesus Christ.”

(→そして〔彼らの解放を〕象徴するバプテスマは、今やあなたがたをも〔内的問いや恐れから〕救うのであって、からだの汚れ〔入浴〕を除くことではなく、明らかな良心〔内なる聖潔さおよび平安〕を、イエス・キリストの復活を通して〔なぜならあなた自身のものであると信じていることを表しているから〕神に願い求めているのである。)

〔〕の中は、一見、聖書本文に存在する語句であるようにみえますが、実際はそうではないのです。こうなると、一種の教派用【注解書】になってしまいます。

B. 主要な海外聖書翻訳協会である、The American (and United) Bible Societyは以下に挙げる二つのダイナミック等価翻訳を出版しました。

The Good News Bible (グッド・ニュース・バイブル、別称 Today’s English Version). Robert Bratcher (新約担当) and six others (旧約担当). New York: American Bible Society, 1976.

The Good News Bible

この訳は、小学校6年生程度の読解レベルで書かれており、広範囲にわたって、翻訳よりもむしろ解釈がなされています。
例えば、使徒20:7では“On Saturday evening we gathered together for the fellowship meal.”とありますが、原典には「安息日のはじめ」と書かれてあります。

またこれを「交わりの食事」と呼ぶことで、クリスチャンが完全な食事と主の晩餐をいっしょにしていたかのような印象を与えています。実際、Ⅰコリント11:17-34でそのことは非難されているのです。

The Contemporary English Version. (現代英語版 New York: American Bible Society, 1995. )

The contemporary English version

この訳を仕上げるに当たり、①のグッド・ニュース訳(TEV)よりも多くの翻訳者が起用されましたが、依然として子どもの読解力レベルを目指すにとどまっています。

この訳は、フェミニスト側からの増大する圧力に屈する形で、聖書の中で性別が明記してある箇所を削除してしまいました。

• エペソ5:22「自分の夫に従いなさい(submit)」という、妻に対する掟の部分が「夫を第一に置きなさい」と書き換えられました。

• Ⅰコリント11:10かぶり物に関してパウロが言及している箇所ですが、「権威のしるし」が、「彼女の権威のしるし」と書き換えられました。

• Ⅰテモテ3:3および3:12。本来、「ひとりの妻の夫」に制限されている教会の役職が、「結婚生活において誠実な者(faithful in marriage)」に開かれていると書き換えられました。

しかし聖書本文ではそんなことは言っていません。これは聖句の改ざんです。

C. New Living Translation. (新リビング訳 Wheaton, IL: Tyndale House Pub. 1996 (2004年改訂版).)

New Living Translation

1996年、テンダル出版社は、マーク・テイラー氏(ケネス・テイラー氏の息子)の指導下、New Living Translationという名の新訳を出版しました。この新訳では、従来のリビングバイブルの読みやすさを保持しつつも、パラフレーズ訳だという汚名を晴らそうとしています。

1. 初版当初、そういった努力により、ある程度、この訳は成功した感がありました。

しかし2004年、テンダル出版社は新リビング訳(NLT)の改訂版を出しました。残念なことに、この改訂版は(場合によっては)、元々のリビングバイブルよりもさらにパラフレーズ化してしまったと言えます。

2. 元来のリビングバイブル(LB)も1996年度版の新リビング訳も、使2:38の箇所をかなり文字通り書き記していました。そのどちらも、バプテスマを「罪のゆるし」と述べています。

しかし、2004年の新リビング訳改訂版では、もはやパラフレーズの域を超え、独自の偏った注釈を聖書本文に入れ込んでいます。

この訳の中でなんとペテロは人々にこう命じているのです。「罪の赦しを受けたということを示すために、イエス・キリストの御名によってバプテスマを受けなさい。」

これは、いくらなんでもひどすぎます!

D. Holman Christian Standard Bible. (ホルマン・クリスチャン標準訳 Nashville: Holman Bible Publishers, 2004. )

Holman Christian Standard Bible

ダイナミック等価翻訳のもたらす偏見や誤訳の危険性を考慮し、ある人々は「逐語訳“word-for-word”」と「意訳“thought-for-thought”」の間のバランスを取ろうとし始めました。

南部バプテスト・コンヴェンションの影響下、ホルマン出版社はいわゆる「最適等価“optimal equivalence”」式の翻訳聖書を発行しました。しかし実際には、依然として教派的偏見が訳の中に現れているのが現状です。

1. 詩 51:5: “Indeed, I was guilty [when I] was born; I was sinful when my mother conceived me.”

人が「罪ある者」として生まれるとは、聖書は教えていません。その少し前の詩篇22:10を、この訳は“I was given over to You at birth; You have been my God from my mother’s womb”と言っています。

いったいどうして、ダビデは「罪ある者」でありつつ、同時に神に「ゆだねられた」者であることがありえるでしょうか?

2. 使徒 22:16: “And now, why delay? Get up and be baptized, and wash away your sins by calling on His name.(→御名を呼ぶことによって、自分の罪を洗い流しなさい。)”

主の御名を呼ぶことは、単に言葉を発すること以上の意味があります。それは全きコミットメント(ローマ10:13参照)なのです。しかし、多くの教派では、これは祈りであり、「御名を呼ぶ」ことによって人は救われると教えています。

E. The New International Version. (新国際訳 International Bible Society. Grand Rapids: Zondervan Pub. 1978.)

NIV Bible

これは米国のプロテスタントの間で最も人気のある翻訳聖書となっています。

この訳は「受け入れられたテクスト(Textus Receptus)」を完全に拒んだわけではありませんが、ギリシア語新約聖書のクリティカル・バージョンにかなり比重を置いています。

この聖書は、さまざまな教派的見解を持つ翻訳者たちによって仕上げられた翻訳だという売り込みに一応なっていますが、実際には、かなりカルヴァン主義の色彩が強い翻訳です。

1. ローマ 8:5: “Those who live according to the sinful nature have their minds set on what that nature desires…”
ギリシア語σάρξ(sarx)は単に「肉」を意味します。ここで「肉flesh」を「罪深い性質sinful nature」と言い変えているのは、カルヴァン神学の全的堕落(Total Depravity)教義を反映したものです。

イエスさまは人類と同じ肉(sarx)をお持ちになりましたが、主には「罪深い性質」はありませんでした(ヘブル2:14参照)。

2. 新国際訳(NIV)委員会は、ここ数十年に渡り、ジェンダー中立語(gender-neutral language)をめぐっての論争に巻き込まれてしまっています。

1996年、NIV訳委員会は、〈男女包括用語版〉聖書(“inclusive language edition”)を発行しましたが、多くの米国クリスチャン指導者によって反対に遭いました。

• 詩篇8:4は元々新国際訳では“What is man that you are mindful of him, the son of man that you care for him?” となっていました。

• しかし1994年発行の子ども向け聖書New International Reader’s Editionでは、“What is a human being that you think about him? What is a son of man that you take care of him?”と言いかえられています。

• 2005年発行のToday’s New International Version に至っては、ついに性別区別の聖書箇所がことごとく姿を消しました。“What are mere mortals that you are mindful of them, human beings that you care for them?” (TNIV)

この箇所をみる限りにおいては、それほど害毒があるようには見えないかもしれません。しかしそこには、原文には存在している、性の区別、役割、言及といったものを拒絶しようという、ある意志が働いているのです。

なぜそうするかというと、現代の偏向や好みにおべっかを使おうとしているからです。しかし、私たち人間に、神の言葉を改ざんする権利はありません!

F. The Dangers of Dynamic Equivalent Translation. ダイナミック等価翻訳の危険性

レランド・ライケン(Leland Ryken)は著書Choosing a Bibleの中で、「ダイナミック等価翻訳のもたらす5つの否定的影響」について言及しています。

その5つの否定的影響とは、1)翻訳の中での勝手な変更 2)聖書本文の不安定化 3)聖書が「意味」していることvs.聖書が言っていること 4)私たちが期待すべきことに至らないこと 5)論理的かつ言語学的な不可能性、です。

この章の中で著者は次のようなことを言っています。

1. ダイナミック等価の翻訳者たちは、自分たちには、無知な読者のために解釈の決定をしてあげるという任務があると考えています。

例えば、ユージン・ナイダは「一般読者は、翻訳者と比べると、いくつか複数の意味を持つような単語について、正しい解釈をするという能力がはるかに乏しい。一方、翻訳者は、不明瞭な聖句について最良の学的判断をすることができるのです。」

しかし、もしそれが本当なら、なぜ、信頼のおける優れた知識を持っているとされている当の翻訳者たちの間に、見解の一致がないのでしょうか。

ダイナミック等価の翻訳者たちは、聖書を読んでいる一般読者が、原文をよりよく理解することができるよう導くのではなく、むしろその反対に、さまざまな聖句を多種多様に訳すことで、かえって読者を混乱に陥れているのです。」(15)

2. レイ・ヴァン・レウウェン(Ray Van Leeuwen)は、「我々は本当に他の翻訳聖書を必要としている(“We Really Do Need Another Translation”)」という論文の中で、ダイナミック等価の翻訳者たちが、聖書本文の中の実際の語句を取り去ってしまっていることに言及しつつ、このように言っています。

「聖書が何と言っているか不明瞭なら、聖書が何を意味しているかを知るのはさらに難しいことといえます、、、

〔機能的等価〕翻訳(すなわち現代の翻訳聖書の大半)の問題は、こういった翻訳により、読者が、もはや聖書的意味を察することができなくなっていることです。

なぜなら、彼ら翻訳者が、聖書が言っていることに変更を加えてしまったからです。」(17)

まさにその通りだと思います!

こういった偏見、誤訳、誤りの危険ゆえに、ダイナミック等価翻訳の聖書は、教えたり、説教したり、公の場で読み上げたり、もしくは聖書勉強の主要テクストとして用いるべきではないでしょう。

④“Formal Equivalence(フォーマル等価翻訳)” (word for word)

フォーマル等価(もしくは逐語)翻訳というのは、原文の実際的内容を表しつつも、インターライナー式翻訳のぎこちなさを克服しようとつとめている訳のことです。

語句が明瞭な箇所ではできる限り、逐語的等価が行なわれていますが、それは原文の内容に沿って行なわれています。

本文がこの一致をどれくらい保っているかという度合いによって、パラフレーズとインターライナーを左右にのせた天びんは上に下に動くのです。

もちろん完璧な翻訳というのはありませんが、それでもフォーマル等価の路線で翻訳を進めていこうとしている訳は、偏見や誤訳、あきらかな間違いなどに陥りにくいということができます。

前回の学び会(“How We Got the Bible”)ではどのような経過で、欽定訳聖書が発行されたかということについて考察しました。近年、欽定訳より前の時代の翻訳に新しい関心が集まっていますが、まずは、欽定訳からみていくことにしましょう。

A. King James Version (欽定訳 Authorized Version).

King James Version

欽定訳は、1611年に、ジェームズ1世の権威の下、64名の学者によって作られた聖書です。1873年、英国国教会は、改訂版を出しましたが、それが現在一般に使われているものです。

欽定訳が、史上もっとも影響力のあった(ある)英語聖書であることは周知の事実です。

この訳は、新約では「受け入れられてきたテクスト」をベースに置き、セクト主義的注釈やウルガタ聖書への過度な依拠を避けつつ、ウィリアム・テンダル等の初期翻訳の上に完成させました。

今でも数え切れないほどの聖書勉強資料の基礎となっており、またキリスト教用語(英語)を形成するのに貢献してきました。この訳は、原語の内容および基本構造を保つ、すばらしい逐語訳聖書です。しかしそこには独自の問題もあります。

1. 一貫してハデスやシェオルを「“hell”地獄」と訳しています。

使2:31“…of the resurrection of Christ, that his soul was not left in hell…(→キリストの復活について、、彼は地獄に捨てて置かれず、、)” 

ギリシア語のハデスは、最後の審判のことを言っているのではなく、審判に先立つ死者の場所(黄泉、冥府)を指しています(黙20:13-14参照)。

2. 時代錯誤的な名称や表現が時折使われています。

使12:4“…intending after Easter to bring him forth to the people.(→復活祭の後に、民の前に引き出す)”

ギリシア語のπάσχα(pascha)は、ユダヤの過越の祭りのことを指しているのであって、キリストの死を覚えるために新約以後できた復活祭のことではないのです。

3. 不確かな聖句が含まれています。1 ヨハネ 5:7 (いわゆるJohnannine Comma) :

“For there are three that bear record in heaven, the Father, the Word, and the Holy Ghost: and these three are one.”(←この句は口語訳にも新共同訳にも新改訳にも含まれていません。訳者註)

この句は新約聖書で説かれている真理を反映したものではありますが、(11世紀以前の)ギリシア語写本にも存在していない句です。

これはエラスムスのギリシア語新約聖書の第一版にはなく、後代の写本(おそらくラテン語聖書から挿入されたと思われます)が彼の元に持ってこられて後はじめて挿入されました。

4. 最初に発行されて以来、400年の歳月が経つうちに、意味が変わってしまった言葉が今も使われています。例えば、ルイス・フォスターは著書Selecting a Translation of the Bibleの中で以下のような言葉を挙げています。

もはや使われていない言葉(廃語)
Carriages (使徒 21:15) は手荷物を意味します。
Script (マルコ 6:8) は財布もしくはカバンを意味します。
Fetched a compass (使徒28:13)は船で回ることを意味します。

意味の変わってしまった言葉
Letteth (2 テ2:7) 「制限する」
Prevent (1 テサ4:15) 「先行する」
Charger (マルコ6:25) 「大皿」
Conversation (ヤコブ 3:13) 「行ない」

私の書棚には、『欽定訳聖書のことば』という本があるのですが、これは実質的な事典であり、現代の英語読者のために中世英語の意味を説き明かしています。

こういう事典が必要とされるような欽定訳の難解さは、教えたり、説教したり、個人的な学びをする上で深刻な妨げとなります。

こういった問題を解決すべく、欽定訳の現代語バージョンが数多く、出版されました。その中でももっとも有名なものが次にあげる新欽定訳です。

5. The New King James Version. (新欽定訳 Nashville: Thomas Nelson Pub. , 1982. )

New King James Version

この訳はもはや使われなくなった言葉や表現を排除しつつも、欽定訳のスタイルや流れを保っています。これは旧来の欽定訳にかなり近いので、読者は混乱することなく、欽定訳にベースを置いた補助教材などを使うことができます。

• 新欽定訳(NKJV)も完璧ではありません。この聖書にも例のⅠヨハネ5:7の句が含まれています。

• 新欽定訳が「受け入れられてきたテクスト(Textus Receptus)」を使用していることを「弱点」とみなす人がいます。しかしある写本が古ければ古いほど、原本に近いのだと決めつけるのは、ちょっと早計だと思います。

それだと不備があったり、もしくは改造された写本も、正確な写本と同様の取り扱いを受けることになります。これは危険な想定だと思います。

• 新欽定訳は、最近の写本発見から引き出される妥当な証拠をことごとく、下の脚注部分に書き出しています。

• 新欽定訳は、欽定訳の語彙、影響を保ちつつも、原本の語句および構造に直接対応するような現代英語を使っています。逐語訳で、尚且つ、ぎこちない文体ではありません。原本の内容を保持しつつも読みやすいです。

B. American Standard Version 1901. (アメリカ標準版)

American Standard Version

これは、欽定訳の改訂として、19世紀の写本発見を取り入れた初の米国翻訳聖書です。

これはかつてないほど、厳格な逐語訳であり、いくぶん文体としてはぎこちなさがあるほどです。

それまでは慣例として神をあらわすヘブライ語の名はLORDと訳されてきましたが、この聖書ではJehovahと言及されています。

二人称単数、複数を区別すべく、“theeなんじ” “yeなんじら” という古英語を保持しています。20世紀、広範囲に渡り、多くの信者が、この聖書を使用しました。

最近は入手するのがむずかしくなってきました。現在、この訳を出版しているのはスター聖書出版社だけです。しかしインターネットでは容易に見つけることができます。

1. New American Standard Bible. (新アメリカ標準訳聖書 Lockman Foundation.1971, 1995年改訂.)

New American Standard Bible

上記のアメリカ標準版(ASV)の文体のぎこちなさを克服し、さらにアメリカ標準版が発行された後に発見された写本も考慮にいれ用いるべく、新アメリカ標準版は発行されました。

厳格な逐語訳でありながらも、現代の語彙も取り入れることでアメリカ標準版(ASV)よりも読みやすくなっています。

• この訳は非常にすぐれた訳ですが、「受け入れられてきたテクスト」のいくつかは脚注に移されました。

C. Revised Standard.( 改定標準訳 Nashville: Thomas Nelson Pub. 1952. )

Revised Standard

この訳は、NCC(キリスト教協議会)の影響を受けたリベラル派の学者たちによって作られた、テンダル‐欽定訳‐アメリカ標準版路線の初の改訂版です。

こういった学者たちは、聖書が神の霊感をもって書かれた書であるという見解をもっていません。

マタイの福音書の注解書を書いた福音伝道者H・レオ・ボレスは、この翻訳委員会に参加を求められましたが、一回目の会合の後、参加を辞退しました。

この訳のリベラル主義は、例えばイザヤ7:14などにはっきり出ています。(マタイ1:23で引用されている)処女降誕の預言を認めず、次のように言っています。

Therefore the Lord himself will give you a sign. Behold, a young woman(←若い女性がみごもる、となっています。) shall conceive and bear a son, and shall call his name Imman'u-el.”

1. New Revised Standard Version. (新改定標準版)

New revised Standard version

1989年、NCC(キリスト教協議会)は、改定標準版以降に発見された写本を考慮に入れ、上記の改定標準訳(RSV)聖書の改訂版を出版しました。

イザヤ7:14「若い女性」にみられるようなRSV聖書のリベラル的要素を保持し、さらにダイナミック等価翻訳の方向へ近づきました。――神に関しては依然として男性言及を保持しつつも、人間に対しては、ジェンダー中立語を取り込みました。

D. English Standard Version. (英語標準版Standard Bible Society. Wheaton, IL: Crossway Books and Bibles, 2001. )

English Standard Version

この訳は、みずから「原本に対して透明」であるよう心掛けつつ、「本質的に逐語訳である」と表現しているように、最新の逐語訳聖書です。

1. 英語標準版(ESV)は、前述の新アメリカ標準版聖書と非常に似通っています。同じ底本を使い、原文に一語一語対応するような保守性を保持しています。

2. 「ジェンダー中立語を本文に入れろ」という圧力に対し、意図的に抵抗しています。

3. 英語標準版の編集者たちは、翻訳者によって挿入された言葉をイタリック体で表すという従来の慣習に従わないという不幸な決定をしてしまいました。これにより、読者は、ある語や句が実際には原文に存在しないのに、それを存在しているものであるかのように思い込んでしまう可能性があります。

例えば、ローマ8:5 “For those who live according to the flesh set their minds on the things of the flesh, but those who live according to the Spirit set their minds on the things of the Spirit.”

これは正確な訳ですが、“set their minds on”という表現が重複しています。(ギリシア語原文では重複していません。)もしこれがイタリック体で書いてあれば、そこらへんがクリアーになっていたと思います。

4. ESV聖書は少々、言葉の選択に一貫性がないところがあります。

例えば、マタイ16:18では、hadesを不正確にも「地獄」と訳していますが、使2:31、ルカ16:23などではちゃんとハデスと訳しているのです。

とはいえ、ESV聖書は、論争中の聖句などに偏見に基づいた訳語を当てることなどは避け、あくまで原文の内容に細心の注意と敬意を払っています。

≪結論≫

翻訳というのはなかなか難しい問題です。もし聖書を学ぶすべての方がコイネー・ギリシア語と聖書ヘブライ語を学ぶことができたら、それにこしたことはありません。しかしそれは現実にはありえないことです。

自分の聖書を選ぶに当たって、聖書を学ぶ者は細心の注意をはらう必要がありますが、だからといって、神の御言葉が平易さの中では理解しえないと考えるのは間違っています。

最もひどい翻訳聖書であったとしても、依然としてこの平易さより来る力を宿しているのです。

パラフレーズ訳や「ダイナミック等価」翻訳が、聖書本文にもたらすかもしれない偏見、誤訳、誤りといった危険性ゆえ、そういった訳の聖書は、学びや教え、説教、もしくは公の場での使用には決して使うべきではありません。

フォーマル等価翻訳聖書の中では、Revised Standard(改定基準版)およびNew Revised Standard(新改定基準版)は聖書の霊感やジェンダーの区別といった領域で、あまりにリベラル色が強いといえましょう。

English Standard Version(英語標準版)は、翻訳者の挿入であることを示すイタリック体があったらさらに良かっただろうと思いますが、それでも、欽定訳、アメリカ標準訳、新アメリカ標準訳、新欽定訳と並んで、学びや読解、説教、教えといった用途に用いることのできるすぐれた訳であることは確かです。

私の個人的見解では、「受け入れられてきたテクスト」を保持しつつ、脚注には異本を記している新欽定訳(NKJV)が、現在入手できる、もっとも有益なフォーマル等価翻訳であると思います。

2010年 カイル・ポープ

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訳者あとがきと祈り

悪魔が嫌いなことは、人が御言葉を読んで、永遠の救いに導き入れられることです。

そのため、中世を通して、サタンは何とかして聖書が翻訳されるのを防ごうと立ち働いてきました。

しかし宗教改革を口火に聖書は堰を切ったように各国語に訳され始めました。

さあ、サタンは劣勢に立たされました。そして考えたのです。

〈くやしいが、もう、この流れを止めることはできない。だが、このままでは引き下がらないぞ。あっ、そうだ、いい考えがある!〉

これまで外から攻撃してきたサタンでしたが、今度は作戦を変え、内側から御言葉の破壊工作にかかり出したのです。

サタンは、神を敬わず、みことばを畏れない不敬虔な人々の心にインスピレーションを与え、彼らを通して、御言葉を改ざんし始めました。

そして、その改ざん作業は今日も、したたかに、着実に進んでいっています。


しかしまたここに、主の御言葉を心から愛し、御言葉の真理を日々求めている一群の信者がいます。

どこの大陸にも、そういった一群のキリスト者が存在します。

彼らは全身全霊で、主の御言葉を守ろうとしています。そして破壊工作により壊れてしまった部分を修復しています。

彼らは雨に打たれ、風に吹き悩まされても、修復作業をやめることをしません。

そして妥協のない真実の御言葉を、まっすぐに説き明かしています。


主よ、私は祈ります。

どうか私たちの国に、この世界に、神を畏れ、神の御言葉を心から愛する、敬虔な聖書学徒をたくさん起こしてください。

彼らを通して、純粋な御言葉がこれからの後も、保たれますように。

彼らにダニエルの知恵を与え、エリヤの勇気を与えてください。

「あなたがたは正義の種を蒔き、

誠実の実を刈り入れよ。

あなたがたは耕地を開拓せよ。

今が、主を求める時だ。

ついに主は来て、正義をあなたがたに注がれる。ホセア10:12」

イエス・キリストの御名を通して祈ります。アーメン。





追加資料) 2015年6月
2011年NIV (新国際訳)についての注意喚起



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みことばのすべてはまことです。
あなたの義のさばきはことごとく、
とこしえに至ります。詩119:160


Bible and Candle


私たちは、自分にとって関心があり、大切な何か(家、車、コンピューター、スマホ、カメラ等)を購入する時、その商品なり物件について事前にいろいろと調べます。

値段を比べたり、品質についての説明を読んだり、購入した人たちのレビューなどをじっくり読んで吟味します。

その他にも、使い心地はどうなのか、耐久性はあるのか、どんな機能があるのか等、、それが自分にとって大切なものであればあるほど、ますます慎重に時間をかけ、多方面から調べていきます。

☆☆

さて、それでは、私たちの使っている聖書はどうでしょうか。

書店に行くと、口語訳、新改訳、新共同訳、現代訳、フランシスコ会訳、リビングバイブル訳など、いろんなバージョンがあることに気づきます。

英語の聖書のコーナーをみると、その種類の多さにさらに驚かされます。


なぜ、これほどバリエーションがあるのでしょうか。

なぜ、次々と新しい訳が出版されるのでしょうか。

ある人が新改訳を使い、新共同訳を使わない理由は何なのでしょうか。

または、新共同訳を使い、口語訳を使わない理由は何なのでしょうか。

いや、そもそも聖書学者でもない一信者の私が、こういうことに「深入り」すること自体、ふさわしくないことなのでしょうか。

私は宣教地に来るまで、そういったことに別段、関心をもっていませんでした。

しかし、さまざまな実際的な出来事を通して、私は、それが私たちの信仰生活に密接した大事な問題であることに気づきました。

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ペルシャ語リビングバイブル訳

現在、ペルシャ語聖書には、1)旧訳(Old Version)、2)シャリーフ訳、3)ミレニアム訳、4)リビングバイブル訳の4種類あります。

1) -3)までは逐語訳で、4)は意訳です。

数年前、近くの某ミッション団体が、4)のリビングバイブルを購入し始め、この訳はイギリスからギリシアに箱詰めで大量に送られてくるようになりました。

やがてアテネのペルシャ系教会には、リビングバイブルが溢れるようになり、現地の説教者の中にも、リビングバイブルを基に日曜説教をする人がでてくるようになりました。

この聖書訳は、たしかに読みやすいのですが、よくよく中身を調べると、ひんぱんに言い換えがしてあったり、原典にはまったく存在しない一文が挿入されていたりと、正確さにおいては、かなり心もとない訳でした。

でも事情を知らないほとんどの信者は、配布されたリビングバイブルを偽りのない聖書のことばだと素直に信じ、そこから霊的糧を得ようとしていました。

たとえば、この聖書の中にはketabe asemani (=Heavenly Book)という原典にはない語句が挿入されています(ローマ2:12,14等)。Ketabe asemaniというのは、モスレムが自分たちの聖典を指してよく使う言葉です。

そしてこの言葉が、この聖書訳に挿入されている意図は明らかです。つまり、そこには、「いえいえ、クリスチャンの使っている聖書こそ、Heavenly Bookなんですよ!」という翻訳者の主張があるのです。

でもそうなると、これはもはや「翻訳」ではなく、「私的解釈」になってしまいます。

聖書は、翻訳者の意見発表の場ではありません。黙22:18-19の警告は重く受け取られるべきだと思います。

こういった状況に危機感を覚えた私たちは、4種類の聖書訳の対比表を作りました。

この対比表を見ると、同じ聖句が、どのように異なって訳されているか一目瞭然で分かるようなシステムになっています。

特に、他の3つの聖書訳と比べて、リビングバイブルが、どれほど違った風に訳してあるのかが浮き彫りにされています。

そして私たちの願いは、信者や求道者の方々が、この聖書がパラフレーズ(意訳)であることを認識してくださることです。

というのも、もしそれを認識していないとすると、たとえば、聖典に関することで信者が、あるモスレムと議論になった時、「いや、聖書こそ聖典だ。なぜなら、神さまは聖書のことを、Heavenly Bookと呼んでおられる」と言って聖書の事実にそぐわない主張をしかねません。そしてけんかになりかねないのです。

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それではなぜ、このミッション団体は、リビングバイブル訳を注文することにしたのでしょうか。

これが意訳だということを知った上であえて注文したのでしょうか。それとも、それを知らずに注文し、大量配布してしまったのでしょうか。

私はその答えを知りません。しかし、一つ言えることは、私たち奉仕者が現地の方々の読む聖書訳の質について、真剣に考えなければならないということです。

これはクリスチャンにとって、「ラップトップはソニーがいいのか、富士通がいいのか」といった選択とは比べものにならないくらい大切かつ深刻な問題だと思うのです。

なぜなら、私たちが扱っているのは、永遠にかかわる神のことばだからです。

一つの聖句が人の人生を180度変えることもあります。

しかしその一方で、誤訳された聖句がキリスト教会に分裂と大混乱を引き起こし、多くの魂を破滅へ導くこともあります。

それゆえに、私たちは聖書訳を吟味するための、ある種の〈基準〉を持つ必要があると思います。

たとえば、教会を訪問して来られた求道者の方が、「私は今、聖書訳Aを読んでいるのですが、ある教会で聖書訳Bをもらいました。私はどちらの訳で聖書を読むべきなのでしょうか。」と私に訊いてきたとします。

「A訳をお読みになった方がいいです」もしくは「うーん、A訳やB訳よりも、むしろC訳の方がいいと思います」と言う時、私は、ある〈基準〉をもって判断をし、それに従って相手に薦めをしています。

願わくば、その〈基準〉が、フィーリングや感覚的なものではなく、また片寄った偏見でもなく、主のみこころに沿うものであってほしいというのが私の祈りです。

なぜなら、一つの聖書訳の背後にはそれぞれ、メソッドがあり、方針があり、翻訳および神学思想があるからです。

私たちの〈基準〉がみこころに沿ったものであればあるほど、私たちはますます澄んだ目でそれぞれの訳の本質を見抜くことができると思うのです。

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また、聖書を選ぶ基準として、もうひとつ顕著にみられるのが、〈古い訳ほど良いthe older the better〉という考えです。これについては、どうなのでしょうか。

英語圏には、伝統的な欽定訳(KJV)だけが唯一のまっとうな聖書訳だとして、それ以外の訳を認めない信者の方々がいます。そういう人々はKing James Onlyと呼ばれているようです。

先日、知り合いのギリシア人家族の教会を訪問する機会がありましたが、この教会では、今でも伝統的なヴァンヴァス訳聖書を用いていました。

ヴァンヴァス(Neophytos Vamvas 1770-1856)という人は19世紀の正教徒神父であり、代表的な啓蒙思想家の一人でした。日本でいう福沢諭吉、西周のような存在です。

彼の功績の一つは、超保守派の聖職者たちの反対にも屈せず、コイネー・ギリシア語で書かれた聖書を、現代ギリシア語(カサレヴサ・ギリシア語)に訳したことです。

実際に、ヴァンヴァス訳聖書は、原典にもっとも忠実な現代訳として、世界的にも高い評価を受けています。

しかし問題は、この訳が、「カサレヴサ」という種類の現代ギリシア語(擬古文体)で書かれていることです。

カサレヴサというのは、文章語として古代から継承されてきた古代ギリシア語と、19世紀以降のギリシア民衆の口語を、人工的に折衷させた言葉です。

それに対して、現在、ギリシア共和国で用いられている公用語は、「ディモティキ」と言われる言葉で、これは、都市部を中心とした民衆の口語として発展し、19世紀から20世紀を通じて、文学者によって書き言葉として洗練されてきた言葉です。(p116 『物語 近現代ギリシャの歴史』)

1976年、国会で正式に「ディモティキ」が公用語と認定され、子どもたちはディモティキで教育を受けるようになりました。

さて、この教会の代表者の方は、さみしそうに肩をすくめながら、「うちの教会はかつて会員が何百人といました。でも、その後、どんどん人が減っていってしまいました。」と話してくださいました。

実際に、会堂の中には、子どもが3人しかおらず、その子たちも、カサレヴサはちんぷんかんぷんなので、礼拝中、すごく退屈そうにしていました。5年後も、この子たちは嫌がらずに教会に来るだろうかと思いました。

たしかにヴァンヴァス訳はすばらしい訳ですが、それがもはや次世代にとって、意味の分からない「古文」になってしまっているのなら、子どもたちにも分かるディモティキで書かれた逐語訳聖書をいっこくも早く購入した方がいいんじゃないかなあと思いました。

そしてそれは、コイネー・ギリシア語で新約が書かれた、その精神にも一致すると思います。

新約聖書のコイネーは、当時の一般民衆が話す日常言葉でした。

当時の有識者にはバカにされていた、そのような素朴な言葉でなぜ新約聖書が書かれたのでしょうか。

そこには、「大人にも子どもにも誰にでも分かる言葉で福音のメッセージを伝えたい」という神さまの愛と憐れみがあったと思います。

そして、あらゆる時代のあらゆる人々に対して、常に新しい力をもって語る生ける御言葉は、「伝統主義」というボックスの中には決して収められないものなのだと思います。

次々に改訂版や、新訳が登場するのは、みことばが硬直化せず、常に現代に生きる人々に語りかけようとしている何よりの証拠ではないでしょうか。

☆☆

きれいな葉っぱ


私たちは、自分の愛する人の言葉にはすごく敏感です。相手の、ちょっとしたニュアンスの違いにもすぐに気がつき、それについていろいろ考えます。

それと同様、私たちは神さまを愛しているゆえに、主のメッセージ(御言葉)を誤解なくききたいと願うのです。

聖書の原典に忠実であり、なおかつ、自分の心にすっーと入ってくるような聖書訳に出会えた人は、幸せな人だと思います。

そしてその御言葉が、昼も夜も凛々と心の中に響き渡っている人は、本当に幸いな人だと思います。

だからこそ、そういう訳に出会うための、私たちの真摯な探究と努力は、少しも無駄にならないと思うのです。

神よ。あなたは私の神。
私はあなたを切に求めます。

水のない、砂漠の衰え果てた地で、
私のたましいは、あなたに渇き、
私の身も、あなたを慕って気を失うばかりです。

私は、あなたの力と栄光を見るために、
こうして聖所で、あなたを仰ぎ見ています。

あなたの恵みは、いのちにもまさるゆえ、
私のくちびるは、あなたを賛美します。詩63:1-3