[相補主義] ブログ村キーワード

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written by Jeremy Gardiner (source)




私は「男性と女性は、それぞれ異なるアイデンティティーと役割を持った存在として、互いに補う合う関係である」という考え方・立場にたつ福音派キリスト者(complementarian〈相補主義者〉)です。


つまり、男性と女性は共に神のかたちに創造され、その価値において平等であるけれども、それぞれが異なる役割を持っているということを私は信じています。


家庭の中においては、夫には妻を導く権威(authority/headship)が与えられており、その一方、妻は夫を助け、夫のリーダーシップに従う(submission)よう造られています。


私は、家庭におけるこういった権威と従順は、キリストと主の教会の関係を描写するものであると考えています。


またこれは神がお考えになった元々の構想図ないしデザインだと理解しています。


つまり、これは罪による堕落前にすでに存在していた傑作であって、堕落後の災難ではないということです。


私はこういった立場にたち、この真理を擁護しようとしているキリスト者(complementarians〈相補主義者〉)および聖書学者の方々が昨今とみに増えてきていることに励まされています。


こういった方々は家庭における男性の権威および女性の従順を尊守しており、また牧師職は男性だけに開かれているという理解に立っています。


さて、私はこの相補主義キリスト者の陣営の中にあって、現在、少数派とみなされている立場にたっています。


私は、信者が礼拝のために集まる時、男女間の役割としての違いが――人に対しても御使いに対しても――象徴されるべきだと考えているのです。


つまり、Ⅰコリント11章で教示されているようにかぶり物(祈りのベール)というのは新しい契約下にあって、クリスチャンのための、時代を超えた超文化的なシンボルであるということを信じているのです。


教会の歴史を通しても、祈りのベールに関するこの理解は、常に多数派を占める立場でした。


米国においても、――フェミニズムが大衆の支持を得るようになる1960年頃までは――祈りのベールはずっと尊守されてきていました。


「フェミニズム」と「かぶり物の衰退」との相関性については、クリスチャン側からも一般論者の間からも同様の指摘がなされています。


例えば、ニューヨーク・タイムズは、婦人用帽子業界の閉鎖の主要因は、フェミニズム運動にあったことを記事にしており、次のように言っています。


しかし(ハチの巣形の)女性の髪型が1960年代に流行し始め、女性が帽子を家に置いて外出するということをフェミニズム運動が容認可能なものとしたことにより、この業界は衰退していった。1)





フェミニズムの勃興と共に、上述したような、男女間における相補的な立場をとらない考え方が教会に浸透し、「家庭において男性と女性はなんら異なる役割を持たない」という思想を広めていきました。


男性には、導くという、神より与えられし責任はなく、女性は自分の夫に従う必要はないというのです。


また教会内においては、すべての役職が女性に開かれることになりました。


最近の歴史をみると、相補的な立場にたつキリスト者たちが、男女の聖書的な役割を回復させるべく奮闘してきました。


1987年、「聖書的男性像および女性像回復のための協議会」(Council for Biblical Manhood and Womanhood)が設立され、ウェイン・グルデム氏等が多くの時間を割いて、反対論者たちに対する応答を続けてきました。


私はこういった方々の努力に感謝しており、これを支持しています。


しかしこと祈りのベールに関しては、相補的な立場にたつ方々の大部分は、これを回復させるべく努めてきませんでした。


ウェイン・グルーデム、トーマス・シュライナー、ジョン・マッカーサーといった、この陣営の指導者の方々は、「男性がかしらであるという原則は存続しているものの、かぶり物の象徴は文化的な慣習であった」と主張しています。





なぜこれが問題となるのか。




かぶり物の原則というのはパウロがコリントの信者に理解してもらおうとしていたことでしたが(Ⅰコリント11:3)、パウロが彼らに望んでいたのは、かぶり物の実践でした(Ⅰコリント11:4-6)。


それゆえ、「相補主義的な立場」と、それから「かぶり物の拒絶」というこの二つを同時に受け入れるというのは、一貫性に欠けていると私は考えます。


私の懸念は、未来の世代がこの矛盾をみて、聖書的男性像・女性像をもろともに捨て去ってしまうことです。


私たち相補的な立場をとるキリスト者がかぶり物についてどのような姿勢をとるかということが今後、試金石となっていくと思います。


前述したウェイン・グルーデム氏ですが、彼は祈りのベールが教会にとって時代を超越したシンボルであるとは考えていません。


しかしその一方、彼は相補的な立場に異議を唱える考え方(egalitarianism)に対し、その一貫性の欠如を公に指摘しています。


男女の役割に関する聖句に再解釈を加えることは、聖書を損ずる行為であり、リベラリズムへの下り坂につながっていくとグルーデムはみています。


その一方、――相補的な立場をとってはいないけれども――福音主義キリスト者である方々(egalitarians)の多くが、リベラル的な聖書の見方を退けている、とそのことにグルーデムは感謝しています。


「しかしそうは言っても」と、彼は続けて言います。


「たしかに今の時点で、対等主義クリスチャンの多くはまだ、保守的な聖書神学を堅守している。しかし未来の世代はきっとそうでなくなるだろう」と懸念し、次のように述べています。


ある人がこういった対等主義的な主張点の一つを受容したにもかかわらず、その後一生涯に渡って、――下り坂へと続くその一歩以外には――リベラリズムへの道を下降しなかったということはありえます。


現に多くの指導者たちがそのような道を歩んできました。


しかし私は思います。彼らがそれ以上リベラル化しなかった理由は、


)彼らが自分たちの展開しているその種の議論が「包含」している内容にまではタッチしなかったこと、それから、


)自分たちの信じる、その他の(神学的・信仰的)領域には、それを適用させなかったこと。


この二点が挙げられると思います。


しかし、そういった指導者に現在従っている人々となると話は違ってきます。


これに関し、何年も前にフランシス・シェーファーは次のように警告していました。


「教理的に教会を横道にそらせた一世代目のキリスト者たちは、その教理的立場において、ただ一つのキーポイントを変えただけで、それ以外には何も変更を加えなかった。


だから、当面の間は、その変化が別段害のないもののように思えもしたのだ。


しかし、次世代に続く者たちは、その議論のロジックをさらに推し進め、さらに甚大な誤謬を推奨していくようになるのだ。」 2)




かぶり物を拒絶している相補的な立場のキリスト者についても私は同じ懸念を抱いています。


残念なことに、これは仮想上の懸念ではないのです。


現にレイチェル・ヘルド・エヴァンズをはじめとするクリスチャン・フェミニストは、私たちのこういった矛盾点を取り上げているのです。


『エペソにいる女性たちに関するパウロの教示は普遍的に拘束力がある。なぜなら、彼はこの主張をする上でその理由を創造の秩序に訴えているからだ』と言っている人たちは、次のことを実践した時はじめて、その立場において一貫性があるといえます。


――つまり、彼らが自分の教会にいる女性たちに対しかぶり物を着用するよう要求するなら、です。


というのも、上記の点を推奨する上で、パウロはまさにこれと同じ線上の議論を展開しているからです。(Ⅰコリント11章を参照)




また、相補主義的な立場の人々の中には、「かぶり物の問題に照らしてみた場合、男性の牧師職に関する議論を創造の秩序に訴えていいものかどうか」と次のように疑問を抱き始めている人もいます。


私は次第に自分自身の、――例えばⅠテモテ2:9-15などに対する取り扱いが、対等主義的解釈に対し敏感に応答するものではなかったのではないかという認識にいたっている。


例えば、これまで私は、パウロがここで言っている命令は明らかに超文化的なものだと考えてきた。なぜなら、それは彼の創造の教理に基づくものであるからだ。


しかし、Ⅰコリント11章におけるパウロの指示――私はいつもここの箇所を文化的に条件づけられたものと受け取ってきた――もまた、創造の教えに基づくものであることに気づいた。


それならば、原則として、『創造の教理に基づいた勧告は必ず超文化的なものである』と主張する理由はなくなってしまうではないか!




今後、この矛盾点に気づく人々がさらに増え、そういった人たちが、かぶり物を受け入れる代わりに、むしろ相補主義的な立場もろとも捨て去ってしまうのではないかと私は懸念しています。


でも変化を起こすのに遅すぎるということはありません。


もしかぶり物の慣習が回復すれば、相補的な立場はさらに多くの人々によって受容され、後に続く教会史を通しても長く存続していくだろうと私は信じています。


聖餐は主を思い起こさせるものとして私たちに与えられています。


それにあずかる時、十字架上でイエスが私たちのためになしてくださったことを私たちは思い出します。


同じように、かぶり物は聖徒が集まる教会において、――神が異なる役割を果たすため男性と女性をお造りになられたということを――思い出させ、ビジュアルな形でそれを教えてくれるのです。


Head Covering Movementには、かぶり物というこのシンボルを受容した後、この真理をさらに生き生きと想起するようになったという女性たちの証しがよく寄せられています。


一例を挙げると、ワシントン在住のローラ姉妹(testimony)は、次のように言っています。


教会の中でささげる私の祈りに変化が表れました。なぜなら今、私は目に見えるシンボルであり、神さま及び夫に対する従順を思い起こさせるかぶり物を着けて祈り礼拝を捧げているからです。


悪魔は私が神様に従順でないように、また夫に対しても従順でないよう誘惑してきますが、権威のシンボルであるかぶり物を着ける時、このことについて思い出さざるをえず、私は謙遜にされます。




ですから、相補主義の立場にたつ兄弟姉妹のみなさん、この問題について少し時間をお取りになり再考してみてくださいませんか。


そして開かれた心を持って、時代を超越するかぶり物の教えについて考察してみませんか。


私の願いはあなたがそうしてくださることです。


なぜなら、この問題をめぐっては、シンボル以上のものがかかっているからです





ーおわりー


1. Carrie Budoff – Headgear as a Footnote to History (New York Times, April 6, 1997)
2. Wayne Grudem – Evangelical Feminism: A New Path to Liberalism? (Crossway, 2006)






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1コリント11章の「祈りのベールの教え」についてさらに詳しくお調べになりたい方へ



①「ないがしろにされている」教えへの道案内(1コリント11章) An Introduction To A Neglected Doctrineココ


②なぜ被り物?――理由その1 【創造の秩序】(ココ


③なぜ被り物?――理由その2 【御使いたちのため】(ココ


④なぜ被り物?――理由その3 【自然】(ココ


⑤なぜ被り物?――理由その4 【教会の慣習】(ココ


⑥どのようにして同性愛を肯定する方々は「1コリント11章の被り物の聖句」を自らの立場の擁護のために用いているのでしょうか?――福音主義教会に突きつけられる「ジェンダー挑戦状」と私たちの応答(ココ


⑦「祈りのベールは文化的なもの?コリントの売春婦のことはどうなんですか?」――1コリント11章のかぶり物について (ココ


⑧「女性の長い髪=かぶり物ではないのですか?」――Ⅰコリント11章 祈りのベール問答シリーズその2 (ココ


⑨被り物と聖書解釈(Head Covering and Hermeneutics)R・C・スプロール (ココ


⑩被り物と聖書解釈―実際的な指針について(R・C・スプロール)その2 (ココ


⑪ベールの教えをするよう導かれた、福音主義教会の牧師の証し(ロビン・バッサム師、ノルウェー) (ココ


⑫姉妹のみなさんへの応援レター(パート3) パイオニアになろう!道なき道を切り開いていこう!(ココ




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Head Covering: A Forgotten Christian Practice for Modern Times (English Edition)

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An Open Letter to Egalitarians about Liberalism, June 12, 2013




私が本書(Evangelical Feminism: A New Path to Liberalism)の中で挙げている著者、神学校、出版社に関わっておられる方の多くは、個人的には自分の友人です。


そして私は友人であるみなさんに一つ伝えたいメッセージがあります。


みなさんの多くは、私が本書で述べたように、リベラリズムの街道を下って行ってはおられません。


(さまざまな理由から)みなさんは、「聖書は女性が牧師や長老になることを禁じているとは教えていない」と判断を下され、そしてその点を除けば、みなさんの神学システムは全く以前のままです。


そして実際、みなさんはリベラル化した方向へは進んでおられないわけですから、なぜ私が本書の中で、「福音主義フェミニズムは、リベラリズムにつながる」と主張しているのか、いぶかしく思っておられるかもしれません。


また私は、キリスト教会の中で、女性たちの賜物やミニストリーがますます奨励されることを、みなさんと共に望む者ですし、他の書の中において、男女両方に開かれるべきだと自分の考える重要なミニストリ―の数々についても列挙いたしました。


それにそもそも、みなさんのほとんどは、ご自分が教会や神学校をリベラリズムの方向に誘導しているなどとは全く考えておられないと思います。


実際、みなさんは心からイエス・キリストを愛しておられ、神の言葉を愛し、それをよく教えておられます。


「いったい、私の下した決定のどこが、リベラル化を促進させるものなのですか?」とみなさんは問うでしょう。


それに、みなさんの知り合いの方々も同じような路線を踏んでおられると思いますが、その方々にしたところで、誰もリベラルにはなっていない。――そう考えていらっしゃるかもしれません。


事実、対等主義の私の友人たちの多くは、――この一点を除く――他のすべての教理的確信において、1mmだにリベラリズムの方向に進んでいませんし、今に至るまで聖書の無謬性を堅く信じ、またそれを擁護しておられます。


そういった友人の一例を挙げますと、スタン・ガンドライ(ゾンダーヴァン出版社の編集者)、ジャック・ヘイフォード(チャーチ・オン・ザ・ウェイの牧師)、


ウォルター・カイサー(ゴードン・コンウェル神学校の元学長)、ロジャー・ニコル(ゴードン・コンウェル神学校および改革派神学校オーランド校の元教授)、グラント・オスボーン(トリニティー神学校の教授)の方々などです。


そしてこういった方々はエヴァンジェリカル界で重んじられている神学者であり、指導者であられます。


「こういった指導者たちは、福音主義フェミニズムおよび対等主義の立場を採りながらも、なおかつ自らはリベラリズムの方向には進んでおられないじゃないですか。


それなのに、あなたはどうして、『福音主義フェミニズムがリベラリズムにつながる新しい街道である』と主張しているのですか?」


ええ、私がそう主張しているのは、福音主義フェミニストの方々が用いている諸議論の性質そのもの故です。(これについては後の章で詳述いたします。)


ある人がこういった対等主義的な主張点の一つを受容したにもかかわらず、その後一生涯に渡って、――下り坂へと続くその一歩以外には――リベラリズムへの道を下降しなかったということはありえます。


現に多くの指導者たちがそのような道を歩んできました。


しかし私は思います。彼らがそれ以上リベラル化しなかった理由は、



)彼らが自分たちの展開しているその種の議論が「包含」している内容にまではタッチしなかったこと、それから、


)自分たちの信じる、その他の(神学的・信仰的)領域には、それを適用させなかったこと。





この二点が挙げられると思います。


しかし、そういった指導者に現在従っている人々となると話は違ってきます。


これに関し、何年も前にフランシス・シェーファーは次のように警告していました。



教理的に教会を横道にそらせた一世代目のキリスト者たちは、その教理的立場において、ただ一つのキーポイントを変えただけで、それ以外には何も変更を加えなかった。


だから、当面の間は、その変化が別段害のないもののように思えもしたのだ。


しかし、次世代に続く者たちは、その議論のロジックをさらに推し進め、さらに甚大な誤謬を推奨していくようになるのだ





そしてこの警告通りのことが、現在、福音主義フェミニズムの中で起こっているわけです。


本書の中で私はそれに関する証左資料を提供したしました。


ですから、対等主義の友人のみなさん、私はみなさんにお願いします。


どうか本書の中で私が申し上げている議論、そしてそういった議論のパターンについて熟考なさってください。


みなさんはこの点についてご自分は何ら問題を犯していないと考えていらっしゃるかもしれません。


あるいは、ここそこに、少々不確かな解釈を採用したからといって、大局的見地からはそう問題ないと思っておられるかもしれません。


しかしみなさん、ここで今しばらく立ち止まり、現在、福音主義フェミニスト運動全般において、実際に何が起こっているのか――その現実を直視してみてください。


みなさんがこの現実に向き合うなら、この運動が、再三にわたり、――この聖句やあの句、もしくはこの章やあの文脈において――いかに聖書の権威をないがしろにしてきたのか、その事実に直面することでしょう。


でもあなたはこう考えるかもしれません。


「いや、私の持ち場はあくまで小さい。だから私の対等主義的立場が他にもたらす影響はたかが知れている。」


しかし、戦線において、「自分のポジションはさほど重要ではない」と考えている兵士のごとく、


あなたが自分のその持ち場という「一点」を譲歩してしまったがゆえに、敵に対し、大きな突破口を提供してしまう結果となり、それによって、結果的にあなたの教会の大きなセクションが損なわれる――


そんなことになってしまわないでしょうか。


新しい論文や本を拾い上げ、そこで展開されている議論をさらさらと流し読みしながら、


「うーん、まあ、確かにこの聖句についての著者の説明には納得できないものを感じるが、、、


でも、少なくとも、この本は『牧会職を含めたすべてのミニストリーに女性を入れる』という自分の意見をサポートはしてくれている。


ここでの議論や解釈自体は、ちょっと受け入れられないけど、でもまあ、結果論から言うと私はそれに同意できるわけだから、、、」


そう言われるかもしれません。


、、、こうして、次から次へと、本書で取り上げた対等主義側の諸議論が積み上げられてゆき、そして、一般信徒たちもそれらの諸説を受け入れていっています。


しかしながら、もしもそこで提示されている諸前提や、解釈の原則が、実際には聖書の権威をないがしろにするものであるのなら、


そしてそれが一度や二度ではなく、何度も何度も繰り返されているのなら、、


――それでもみなさんは平気でいられますか。


「間違った理由を持ちだしてはいるけれど、結果論としては自分と同じだから」という理由で、そのような議論をあなたが許容するのなら、


それはとどのつまり、あなたの教会の将来、そしてその土台を腐食することにならないでしょうか。


もし、聖書の権威を弱体化させるような、そのような主張が、あなたの現在所属しているその輪の中で今、真正面から取り上げられないのなら、


それなら、将来的に、あなたは一体どのようにして、ご自分の教会および宣教団体を守っていくことができるのでしょう。


あなたご自身は、諸信条においてほとんど変化をみせておられないかもしれませんが、現在、あなたの指導下にあって、あなたから教えを受けている学生たちは、これまであなたが用いてきた諸原則をさらに数歩推し進め、


こうして、――あなたが想像される以上に――今後、彼らは、〔教会・教団で〕保持されてきたものを破棄していくでしょう。




―おわり―







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「リベラリズム」と、「女性牧会職についてのフェミニズム的見解」との間にみられる相関性について――アメリカ福音教会の女性牧師是認の歴史から見えてくるもの(ココ


両面作戦――外の脅威と、内の脅威、その両方と闘う 【21世紀キリスト教リベラリズムの形態】(ココ


家父長制(πατριάρχης)――ことばをめぐるイデオロギー戦争と私たちクリスチャンの応答 【フェミニズム問題】(ココ


親愛なる日本メノナイトブラザレン教団のみなさまへの公開レター〔2016年3月女性教職承認の新決定について〕(ココ


ウェイン・グルーデム、「なぜ対等主義が前進しているのか?」【中篇】 E. 聖書の権威を拒絶し、リベラリズムへ向かわせる解釈メソッド(ココ


アンドレアス・J・コステンバーガー師へのインタビュー記事(1テモテ2:12に関して)【福音主義教会とフェミニズム問題】(ココ


コステンバーガー師へのインタビュー続編(1テモテ2:12)【福音主義教会とフェミニズム問題】(ココ


1テモテ2章12節とフェミニズム―NIV聖書2011度版の訳を検証 (ココ





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Ms.Rachel Held Evans


イエスさまはフェミストだった!」―2013年に発刊されたサラ・べッスィー女史による著『Jesus Feminist: An Invitation to Revisit the Bible’s View of Women』によって主張・社会キャンペーン化されている説。

(本書のはしがきは、有名なクリスチャン・フェミニストであるレイチェル・エヴァンズ女史が書いておられ、上の写真にみられるように、ジーザス・フェミニスト運動として、欧米のエヴァンジェリカル界に広がりを見せています。」 source




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source



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Mary Kassian, The Feminist Gospel: The Movement To Unite Feminism With The Churchより一部抜粋




フェミニズムというのは、ニュートラルなトピックではありません。


多くの方々にとり、これは苦々しい思い、怒り、そして反抗心を掻き立てるなにかです。


またある方々はフェミニズムを娯楽、軽蔑、あるいは嫌悪感をもたらすなにかであると感じているかもしれません。


フェミニスト哲学は、女性・男性としての私たちの存在に関するある深遠にして重要な問いを発しています。


そして私たちの生きる理由および目的を定義すべくあるフレームワークを差し出しているのです。


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Christian Feminist Network, source






フェミニズムは物議を醸し出すものです。


というのも、それは実際的なレベルにおいて私たち自身の日々の存在そのものに触れるものだからです。


またそれは、強い感情反応を引き起こすなにかでもあります。


なぜならフェミニズムは私たち自身、そして私たちを取り巻く世界、そして究極的には私たちの神に対する私たちの個人的見解に真っ向から対峙してくるからです。


フェミニスト哲学のインパクトは、北米社会において顕著にみられます。


両性の役割、マイノリティー優遇措置、再生産テクノロジー、中絶、レイプ、虐待、デイケア、賃金の平等、、といった事柄に関し、私たちは日常的に、フェミニスト的観点に触れています。


またフェミニスト・イデオロギーはキリスト教会の中でも露見されます。


多くのキリスト教書籍、論文が発行され、「聖書は、教会の中における男女の役割に差異を設けてはいない」という主張を繰り広げています。


教会の中のリーダーシップのポジションに女性が就任することも今日では当たり前のこととなっています。


多くの教団・教派において、神学校での女性学のコース、フェミニスト神学、ジェンダー包括語、フェミニスト儀式などは寛大に受け入れられています。


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確実にいえるのは、フェミニズムは今日着実に、キリスト教界に影響を及ぼし続けているということです


しかしその影響とはすべてがすべてネガティブなものなのでしょうか。


あるいはフェミニスト哲学のある側面などはキリスト教と正当に融合することが可なのでしょうか。


聖書的フェミニスト(biblical feminist)は、「聖書はフェミニスト哲学の中枢思想を支持しつつ、しっかり解釈できる」と主張しています。


また彼らは聖書が、信仰や実践分野すべてにおける最終的な権威であることを認めています。


リベラル派の宗教フェミニストとは対照的に、聖書的フェミニストは聖書本文の抜本的な修正や、救い・贖いといったキリスト教教理の中核の変更について、これらを拒否しています。


しかしながら、結局のところにおいて、こういった保守的な聖書的フェミニストたちは、リベラル派フェミニストたちとそれほど異なっているのでしょうか(訳者註)


彼らの解釈上の前提(presuppositions)や解釈方法は、はたして彼らの信じる聖書の教えを守る役割を果たしているのでしょうか。


これらは今日のプロテスタント諸教会が真剣に向き合わなければならない重要な問いだと考えます。


といいますのも、もしもフェミニズムとキリスト教が共存可能なのだとしたら、私たちクリスチャンは、両者を融合させようと試みるフェミニスト運動に抵抗すべきではないからです。


しかしもしも両者が共存可能でないとするなら――もしもどんな程度であれ、フェミニズムの存在が妥協を促すのなら――それならば、キリスト教会は、フェミニズムの提供する福音を断じて受け入れるべきではありません。




Mary Kassian, The Feminist Gospel: The Movement To Unite Feminism With The Churchより一部抜粋






訳者註: 「結局のところにおいて、こういった保守的な聖書的フェミニストたちは、リベラル派フェミニストたちとそれほど異なっているのでしょうか」という問いにおいて、ヴァージニア・モレンコット(1932-)女史の半世紀の歩みと変節は、私たち福音主義信仰に立つクリスチャンに大きな反省と警戒を促すものではないかと思います。

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決して交わることのない二つの川―私たちの応答【福音とフェミニズム問題】(最終回)







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サラ・べッスィー女史の『ジーザス・フェミニスト』に対する、相補主義クリスチャン側からの応答記事(Book Review):


Courtney Relssig, Jesus Feminist by Sarah Bessey


(*この書評の中でも述べられていますが、サラ・べッスィー女史は、その主張の根拠として、William Webb氏の「贖罪的な運動としての解釈法("redemptive movement hermeneutic")」や、相互恭順(mutual submission)の教えといった、典型的な対等主義の解釈を土台にしており、

その意味で、「イエスはフェミニストだった」という結論自体は斬新であっても、そこに至る解釈自体は、オーソドックスな福音主義フェミニズム路線であることがわかります。)



*「贖罪的な運動としての解釈法("redemptive movement hermeneutic")」についての詳説は次の記事をご参照ください。

ウェイン・グルーデム、「なぜ対等主義が前進しているのか?【中篇】 E 聖書の権威を拒絶し、リベラリズムへ向かわせる解釈メソッド


それから、対等主義者の主張する「相互恭順」についてさらに詳しくお調べになりたい方は、この記事をお読みください。







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神なき世界に生きる人間は、主権者なる神に代わり、われこそが人生における決定者そして主権者になろうとします。


それは一見、私たち個々人に自由と解放をもたらすものであるかのような印象を与えるでしょう。


しかし聖書、およびこれまでの人類の歴史が証明しているのは、人が神を主権者と認めず、神・人の「主従」が逆転するところにおいては、逆説的にも、自由の破壊がなされ、そして最終的な全体主義体制(totalitarianism)への道が開かれてゆくということです。


そのことを私たちは肝に銘じるべきだと思います。



新しい外観を装った全体主義への下り坂(ガブリエラ・クビー)【フェミニズム問題】

Peter J. Leithart, Gender Totalitarianism





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キリストの模範



私たちはキリストの模範から真の男らしさを学ぶことができると思います。ええ、たしかに主イエスは、病人を癒し、子どもを抱き上げ、ご自身のことを「良い羊飼い」とおっしゃった通り、いとも深き優しさ、謙遜、そしていつくしみの心をお示しになりました。


しかしその一方で、主は超自然的な力と強さをもお示しになられました。


――風や波を鎮め、水の上を歩き、宮で商売をしていた両替人たちを鞭で追い出し、崖から突き落とそうとしていた怒り狂う群衆の真ん中を抜け、この世の咎をご自分の身に背負い、罪と死を征服され、そして三日目に復活されました。


黙示録には次のようなことが書いてあります。



黙19:11-16


11 またわたしが見ていると、天が開かれ、見よ、そこに白い馬がいた。それに乗っているかたは、「忠実で真実な者」と呼ばれ、義によってさばき、また、戦うかたである。

12 その目は燃える炎であり、その頭には多くの冠があった。また、彼以外にはだれも知らない名がその身にしるされていた。

13 彼は血染めの衣をまとい、その名は「神の言」と呼ばれた。

14 そして、天の軍勢が、純白で、汚れのない麻布の衣を着て、白い馬に乗り、彼に従った。

15 その口からは、諸国民を打つために、鋭いつるぎが出ていた。彼は、鉄のつえをもって諸国民を治め、また、全能者なる神の激しい怒りの酒ぶねを踏む。

16 その着物にも、そのももにも、「王の王、主の主」という名がしるされていた。




これが私たちのイエス様です。――究極的な男性、究極的な王。主イエスほど偉大にして、力強く、強靭で、勇猛なお方は他にいません。


このような荘大な威厳と威光を前にして、私たちは、「イエス様は打たれ弱く、軟(やわ)なお方だったのだから、僕たちだって、そうであっていいじゃない」と言うことはできるでしょうか。


キリストにおいて、私たちは真の「強さ」と「繊細さ」の究極的融合をみることができます。


主は鉄の杖をもって国々を治められる一方、平和の君でもあられます。主は激しく風や波に命じ、それらを従わせましたが、その一方で、幼い子供たちは主の御腕の中に優しい隠れ家を見い出したのです。また主こそ真の従軍詩人です。


そして1ペテロ2:21に書いてあるように、キリストは、その足跡に従うようにと、私たちに模範を残してくださいました。(兄弟のみなさんにとっては)従うべきこの模範の中に「男らしさ」という要素も含まれていると思います。


この世の文化ではなく、キリストの模範――これに男性たちは従うよう召されていると信じます。イエス様はまったくメトロ的男性ではありませんでした。今こそ、私たちは、男性のみなさんが王の王である主イエスの基準に従うことができるよう励ましていくべきだと思います。


しかし誤解しないでください。私は「一つのことにしか興味を示さない専門おたく的な男性」のことを奨励しているわけではありません。現在よく見られる自己中心的で、獣欲主義的な若い男性たちの姿は、本物の神の戦士像の見せかけ・偽造にすぎません。


そうではなく今こそ、私たちは神のお持ちになっている男らしさのビジョン――キリストのような力強さと、キリストのような繊細さの融合――を掴み直す時期に来ていると思います。


純潔を踏みにじるのではなく、それを守ってくれる男性。


現代の社会的コレクトネスに迎合しようとやっきになるのではなく、あくまで真理のために立ち上がろうとする男性。


わが身の定評や人気や願望以上にイエス・キリストを第一にする男性。




おわりに




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今日の男性たちの間に、こういった種類の真の男らしさの兆しがみえた時、私たちはそれが女性的なやさしさを帯びていないからといって不満を言ってはいけないと思います。また、少々無骨に聞こえるかもしれない彼らの声のトーンに気分を害したりしてもいけないと思います。


覚えておきたいのは、神様は男性たちを女性にお造りになったわけではないという事実です。そうです、神様は男性をあくまで男性としてお造りになったのです!


男性たちが立ち上がり、神の御霊による喊声(battle cry)に勇ましく応答することができるよう――そのためのスペースを、私たちは今こそ彼らのために造ってあげるべきです。


男性たちが、真理のために堅く立ち、大胆に雄々しく自らの確信を表明し、神の授与された男性的な力の限りを尽くし神の戦場で戦う――そのことが許され、奨励されなければなりません。


女性のみなさん、今日、神様はそのような強靭な神の男性たちをお立てになろうとしておられます。どうか私たちがそのご計画の邪魔をする者ではなく、むしろそれに進んで協力していく者となることができますように。


ポップ文化は今後も、女性化され、気概なく、誰の気分も害さず、ふわふわ「皆に好かれるタイプの」男性像を普及させていこうとするでしょう。


しかし主よ、私たちに、気骨と根性と力、そして戦場での鬨声を鳴り響かせる、そのような男性たちをお与えください。


なぜなら、男性が真の男性である時、おとぎ話は現実のものとなるからです。


そうです。男性が真の男性として生きる時、その時、世界はイエス・キリストゆえに、ひっくり返ることになるのです。





ーおわりー





Letting Guys be Guys: Making Room for Strong Masculinity by Leslie Ludy, 2012


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Leslie Ludy




最近、私は、ある女性集会でお話をしたのですが、その席で私は主人のエリックにもスピーチを頼みました。


そこで、集会の締めとして主人が、情熱と権威をもち真理を語ってくれたのです。彼の言葉は愛と憐れみに満ちていましたが、それと同時に力に満ちたものでもあり、多くの女性たちが感銘を受けたそうです。


しかしながら、そんな彼のメッセージにひどく憤慨された女性たちもおられました。彼女たちの憤慨は、主人の語った真理そのものに向けられていたのではなく、彼が力をもってそれを語った、その行為に気分を害されたのでした。


端的にいうと、問題は主人の語り口が、ちょっと「男らしすぎた(too masculine)」ことにありました。もちろん、これは女性の集会だったので、こんなに「男性的な」何かを聞くことになるとは予想していなかった方もおられたのかもしれません。


しかし、一人の女性として私は個人的に、福音の真理をこのように力強く、権威の満ちた仕方で語ろうとしている男性の姿に、励ましと感銘を受けます。


しかし現代の多くの女性たちは私とは違った見解を持っていらっしゃいます。彼女たちは、気骨があり、剛毅な男性よりは、やんわりしたソフトな話し方の、ちょっと及び腰の男性の方を好んでいるようなのです。





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でもよくよく考えてみると、それは皮肉なことだと思います。女性たちは男性が立ち上がり、誉と尊敬を受けるふさわしい勇猛で英雄的な姿を見たいと強く望んでいるのです。それなのに、いざ真に男らしい男性に遭遇するや、私たちの女性感覚はそれに苛立ちを覚えてしまうことがよくあります。


なぜでしょう?なぜなら、私たちの女性感覚は、世俗文化によって「教育」を受け、仕込まれてきているからです。そしてその文化は、「男性が真の意味で男性になることは社会的によろしくない」というメッセージを私たちに発し続けているのです。


メディア、ファッション業界、ゲイ社会、そして大半の女性界は一丸となって、現代の男性たちから「ごつごつした気概」を抜き去ろうとしています。その結果、――通常、「メトロ男性像(Metro Manhood)」と呼ばれている――偽の男性像が生み出されてしまったのです。





メトロ男性像とは何か?




メトロ男性というのは、男性というよりはむしろ女性に近いような行動をとる男の人たちのことを指していう言葉です。


たしかに最近の流行りでは、女性たちはひどく繊細で当たりの柔らかい男性を称賛する傾向にあると言われていますが、実際には、メトロ版の男性性というのは、女性が真に望んでいるものとしては、はるかに物足りないものなのです。


ある若い男性が私に言ってくださったように、もしも、男らしさ(masculinity)から「男性的なもの」を取り除いてしまうなら、そこに残る社会は「脆弱な男性と、無防備な女性」ということになってしまうかもしれません。


若い娘たちなら誰でも(その子がこの世の差し出すフェミニスト・アジェンダによって洗脳されるまでは)次のような夢を胸に抱いています。


――目の前には英雄的な騎士がいて、彼は彼女を守るために邪悪な竜をやっつけ、そしてその後、さっそうと彼女をお城へと運び入れてくれるのです。


しかしメトロ男性はそうではありません。彼らは洗ったばかりの自分のジーンズやムースで固めた髪が乱されることを気にする余り、一人の女性を守るために、自分の手を泥で汚してまでアクションを起こそうとはしません。


メトロ男性像は、男性のソフトな面だけを強調し、創造主により男性に与えられている生来の力を完全にないがしろにしています。


また、この男性像は――神さまが男性のためにデザインされた繊細さ、崇高さ、威厳といったものを定義するのに――キリストに模範を仰ぐ以上に、ファッション業界やポップ文化にその模範を求めています


その結果、骨抜きで可もなく不可もないような種類の「男らしさ」が生み出され、そこに、若い男性たちは自分たちの身勝手さ、怠惰、根性のなさ、軟弱さの隠れ蓑を見い出していると思います。


私たちを取り巻く現代文化は、真理のために堅く立ち、己の信じるところに堅固な男性を疎んじようとします。


その結果、見てください。実際に善戦している男性、何かのために大胆に立ち上がろうとしている男性の何と少ないことでしょう!


こうして多くの男性は、闘う代わりに、ソファーにゆったりと腰かけ、Haloゲームやアクション映画に興じています。


――その一方で、真の命に溢れた勇敢な戦士たちがいないために、今この瞬間にも死にゆくこの世は滅びに向かっているのです。



(後篇)につづきます。






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思うに、日本の正統派の神学者の方々にもっと声を上げてほしいです。

どうして彼らの声は聞こえて来ないのでしょうか。





ある日本のクリスチャンの方が私にこのように問うてこられました。


「昨今のフェミニズムやリベラリズムの潮流に抗し、勇気をもって声を挙げ、公にメッセージを発信している日本人男性神学者・伝道者の方々は一体どこにいるのか?」そして、「もしいらっしゃるのなら、そういった方々の運営しているサイトをぜひ教えてほしい」と、その方は言ってこられました。


欧米圏では、コンプリメンタリアン(相補主義)の立場をはっきり表明し、聖書の真理を弁証する男性神学者・伝道者の方々はグーグル検索一つで、容易に見いだされます。


個々人はもちろんのこと、The Council of Biblical Manhood and Womanhood や、The Gospel Coalitionといった相補主義をベースにした聖書主義キリスト教団体や連合も各種あり、いずれも、男性クリスチャンの方々が先頭に立って、これらの運動を指揮しておられます。





公に声を挙げておられるコンプリメンタリアン男性指導者の方々の一例





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ウェイン・グルーデム氏


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R・C・スプロール氏


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ジョン・マッカーサー氏


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ジョン・パイパー氏


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ジェレミー・ガーディナー氏


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ヴェルン・ポイスレス氏




私たちが願うのは、日本からもこのような男性クリスチャン神学者・伝道者・牧会者の方々の「声」がもっともっと聞こえてくることです。


どなたかが、「日本の女性牧師問題は、男性リーダーシップのさらなる回復がなされない限り、解決は難しいと思います」という所感を送ってくださいましたが、私としても、男性の方々にもっと前面に出ていただき、私たち姉妹を助け、導いていただきたいと切に願っています。


前線に出て闘っておられる男性クリスチャンの方々は、なんといっても男らしいです。ジェントルマンで騎士です。


私は、男性リーダーシップの回復を祈り求めている何千、何万という日本人姉妹たちと心を合わせ、天の御父に祈ります。主よ、あなたの真理のみことばが公然と曲解され、私たちの教会の土台が今、揺さぶりをかけられています。


主よ、日本にもどうかW・グルーデムのような勇気ある神学者そして男性リーダーを起こしてください。危機的なこういう状況にあって、兄弟たちがもはや事態を黙認せず、「事態を見守る」というスタンスにピリオドを打ち、公に雄々しい声を挙げることができますよう、御霊によって兄弟たちを強めてください。


そして私たち皆が、そういった兄弟たちをさまざまな形で応援していくことができますよう、私たち一人一人を導いてください。この祈りをイエス・キリストの御名によって御前にお捧げいたします。アーメン。




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「父なる神という象徴は、人間の想像力に生みつけられ家父長制度によって裏付けられ支えられてきた。


そして、逆に、女性抑圧に向かう父権制社会のメカニズムが正しく妥当なものであるかのように見せ、そうした父権制社会に都合の良いように働いてきたのである。。」[5]


と〔デイリーは〕言う。そして、こうした問題意識によって、デイリーは、神を男性とするキリスト教を批判し、ついにはキリスト教を離れるに至った。


[5]Mary Daly, Beyond God the Father, Toward a Philosopy of Woman's Liberation (Beacon Press, 1973), p.13.


『男女を超えてフェミニスト神学から得られるもの』より一部抜粋






ことばには力があります。


昔、「亭主元気で留守がいい」ということばが流行した時期がありました。



「亭主元気で留守がいい」

夫婦の間柄において、夫は家にお金を入れるだけで良く、常から家にいない方が妻にとって都合が良いということを意味する語。大日本除虫菊株式会社のCMのコピーから広がった言葉であり、1986年の流行語の一つにも選ばれている。

『実用日本語表現辞典』より




これはつまり、「あなたが近くにいない方がいい」という他者拒絶のことばです。


しかし、80年代に、そのような不満を抱えつつ生きていた妻たちは、このフレーズに自分のもやもやした鬱積感を表現する「ことば」を見い出したのです。





「家父長制」ということばが生み出された背景




家父長制とか父権制とか日本語で訳されていることばは、英語でPatriarchyです。


これは、πατριάρχης (patriarkhēs)というギリシャ語からとられた言葉であり、1960年代に、フェミニスト・イデオロギーの最重要概念の一つとして誕生しました。


πατριάρχης(パトリアルヘース) 
< πατήρ (pater: 父)+ ἀρχή(arche: 統治、支配)







女性活動家ケイト・ミレット



60年代後半、フェミニスト著作家であるケイト・ミレット女史が、女性たちの抱える「未だ命名のされていない問題」を描写すべく、はじめて「Patriarchy(家父長制)」という語を用い始めました。*


*Mary A. Kassian, The Feminist Gospel: The Movement to Unite Feminism with the Church




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左がケイト・ミレット(1934~)。アメリカのフェミニスト、芸術家、バイセクシュアル。オックスフォード大卒。第二次フェミニズム運動に絶大な影響を与えた人物。代表作:Sexual Politics





Women, Gays, and the Constitution(「女性、ゲイ、憲法」)の著者デイビッド・リチャード氏の定義によれば、「家父長制」とは、「ジェンダー役割を押し付ける、不公正な社会システムであり、男性・女性双方に対して抑圧的な制度」だということです。*


*David A. J. Richards. Resisting Injustice and the Feminist Ethics of Care in the Age of Obama,p. 143


この記事を読んだ方はご存知だと思いますが、50年代のシモーヌ・ド・ボーヴォワール(フランス)、そして60年代前半のベティ―・フリーダン(米国)は、それぞれフェミニスト理論の礎石を築き、また重要な問題提起をしていました。




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ベティ―・フリーダン



そして60年代後半に現れた独創性豊かなケイト・ミレット女史により、ついにそういった問題提起に、具体的な「ことば」が与えられたのです。


そして、このことばも「亭主元気で留守がいい」と同様、その当時、漠然した不満感を持っていた多くの西洋人女性たちに、「おお、これこそが、私の人生をみじめにしていた問題の元凶だったんだ。」という「新しい啓示」を与えたのです。





「家父長制」のレンズで聖書を裁く



また最近のフェミニスト神学界では、「イエス・キリストご自身は革命的なフェミニストだったけれど、使徒ルカが悪かった」という声が高まっています。




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Serah Bessey, Jesus Feminist: An Invitation to Revisit the Bible's View of Women




曰く、「ルカによる福音書における、女性排除を助長する意図的な書き方」にみられるように、ルカという人は「当時キリスト教のローマにおける宣教を助けるために、ローマの父権制社会の倫理に迎合する形で一種の操作をおこなっていた」というのです。


このように、ルカ福音書は、ローマ帝国の父権制社会において受け入れられてきた性別役割に合うように、東方ローマ帝国のキリスト教集団に圧力をかけるように書かれているという認識が出されている。


「その圧力が認識されるとき、女性を肯定せずに共同体の周縁部へ、とりわけ共同体のリーダーシップの周縁部へと女性を追いやるキリスト教的前提、理念、制度の創出に、ルカがどれほど影響力を持ったのかが見えてくるのである」*。
 
*ジェイン・シェイバーグ 『ルカ福音書』, p.500


マルコによる福音書、マタイによる福音書などで、イエスの逮捕の折に男の弟子たちは自己の保身を図って離散、逃亡してしまう。それが、ルカにないことも、フェミニスト神学者たちの視点からすれば、男性の弟子たちを良く見せ、女性の弟子たちを小さく劣った者に見せるための操作である。


『男女を超えてフェミニスト神学から得られるもの』より





つまりフェミニスト神学の中では、


1)イエス・キリストという理想的なフェミニストがキリスト教を創始した。
             ↓

2)しかし、ルカをはじめとした男性の家父長主義者たちによって、男尊女卑的な父権制が敷かれた、




という独特の聖書観があるということです。そしてそれが語られる時のキーワードは、この「家父長制」です。


そして、家父長制のない社会――これがフェミニストたちの描くユートピアなのです。(Utopia:οὐ (無い)+τόπος (場所)=「どこにも存在しない場所、架空の理想郷」)


神を中心としないユートピア思想。これは、私に前世紀のユートピア社会主義と、その悲惨な結末を思い起こさせます。



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社会主義者たちの描き出したユートピア



元々、人間によって作られたこのことばは、今やブレーキのきかないトレーラーのように暴走を始め、主なる神によって立てられたすべての権威、すべての秩序をなぎ倒そうと、プロテスタント教会の講壇にまでなだれ込んでいます。


パウロはこのような人間中心の思弁のことを、「神の知識に逆らって立つあらゆる高ぶり」(Ⅱコリ10:5)と呼んでいます。


神様のお造りになった創造の秩序が、どうか私たち一人一人の心の中で大切にされ、私たちがその前にへりくだることができますように。アーメン。




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前回の記事の中で、私たちは、「『かしら』の本来の意味は『長・権威』ではなく『源』なんです」というフェミニスト神学者の方々の主張には何ら根拠がないという事実をみてまいりました。


また、聖句を解釈する際に、言葉の意味を、ヘレニズム期のギリシャ語における用法以上に、古典期のギリシャ語に依拠し、そこから字義解釈を打ち立てていこうというアプローチの危険性についても、ご一緒に考察してきました。


というのも、「ケファレー=源」説を唱える、フェミニスト神学者の方々の主張の唯一の典拠はリーデル・スコット古典ギリシャ語大辞典(LSJ)の「ケファレー」項の数行のみだからです。


そして注目すべきことに、リーデル・スコット古典ギリシャ語大辞典の編集員ご自身、そういったフェミニスト側の「ケファレー」解釈に異議を唱えておられるのです


1997年初め、ウェイン・グルーデム氏は、1990年に書いた「ケファレー問題」に関するご自身の論文を、オックスフォードのリーデル・スコット大辞典編集委員会に送り、この問題についてのリーデル・スコット側の意見と立場を直接、問い合わせました。


以下は、編集委員のP.G.W.Glare氏からグルーデム氏に送られた書簡の一部です。




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日付:1997年4月14日



親愛なるグルーデム教授、




、、現在、個々の事例をすべて取り上げ、話し合う時間的余裕がないのですが、いずれにせよ、私はあなたの結論に概ね同意しております


ケファレーという語は、一般に、ヘブライ語ローシュ(rosh: רֹאשׁ)の訳語として用いられていますが、たしかにこの語は――元来の「頭」という身体構造上のものを指し示す以上に、多くの場合、指導者ないしは長を意味しているように見受けられます


そしてそれは「権威を否定している」という[彼らの]主張とは裏腹のものであるように思えます。


彼らの想定している「源」という意味についてですが、もちろん、そういったものは存在せず、リーデル・スコット大辞典のケファレーの項に、source(源)という語を挿入したことは少なくとも賢明ではなかったいえます。


そしてたとい言及したにせよ、「潮流の位置に関する、川の源に適用されるもの」と書くべきだったでしょう。



(中略)



また付け加えておきたいのは、ほとんどの場合において、治める主体(the controlling agent)としての「かしら」という意味こそここで求められているものであり、[彼らの主張している]preeminence(卓越)という考えは、その意味で、かなり不適切であるように思われます。


重ね重ね、論文を送ってくださりありがとうございました。今後、さらに徹底した大辞典の改訂作業に、ご一緒に取り組んでいけたらと望みます。



敬具、
Peter Glare





創造の秩序の美しさ



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石は 地の上に 横たわり
炎は 大空に 舞い上がる。



魚は 水の中に住むことを望み
そして 鳥は 空中を はためく。



それぞれが 自分のおるべきところにいて

騒がず 静かに
その場に 憩っている。



それならば 私の心は 

神のうちに 憩いの場をみいだす時

おだやかに 澄みわたるのだろう。




Gerhard Tersteegen, Everything in the right place
私訳







おわりに




「かしら」という一語をめぐり、なぜこれほど真剣な議論がなされているのでしょうか。


それは、私たちが、何百時間という時間とエネルギーをかけ、2000件以上の「かしら」の用例をギリシャ古典の中から抽出し、それらの字義を一つ一つ徹底検証していくという――、気の遠くなるような煩雑な作業をも厭わせないほどに緊急を要する〈なにか〉なのでしょうか。


ええ、私はそうだと思います。


なぜなら、この語の解釈に、創造の秩序に対する理解がかかっており、三位一体論がかかっており、教会論がかかっており、家庭の平和がかかっており、そして、私たちの子どもや孫たちの将来がかかっているといっても過言ではないからです。




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今やこの世のイデオロギーが濁流のように押し寄せてきています。


そしてその濁流は、私たちの教会や家庭をも飲み込まんばかりの勢いで、こちらに向かってきています。


どうか私たち一人一人が、この濁流のただ中にあって、堅く、堅く、どこまでも堅く立ち続けることができますよう、主よ、弱い私たちを助けてください。




1コリント11章「女のかしらは男」、エペソ5章「夫は妻のかしら」に記されている「かしら(head, :ケファレー)」に新しい意味解釈を施そうという動きが、フェミニスト神学者たちの間にあります。


それは、1954年に刊行されたS・ビデイル氏の論稿 "The Meaning of κεφαλή in the Pauline Epistle," JTS 5 に始まり今日に至るまで、さまざまなフェミニスト神学者によって取り上げられ、その影響はすでに、日本にも及んでいます。


以下は、ある日本のクリスチャン・サイトからの引用です。筆者は、対等主義を支持する立場から次のように論じておられます。



引用元:信仰の女性たち:今日の教会における女性


パウロは第1コリント11章で、「妻のかしらは夫」[日本語訳聖書では「女のかしらは男」]であると告げています。これは、妻が夫の下の立場にあると教えていると解釈することもできます。


「あなたがたに知っていてもらいたい。すべての男のかしらはキリストであり、女のかしらは男であり、キリストのかしらは神である。」


エペソ5章にも同様のことが描かれています。


「妻たちよ。あなたがたは、主に従うように、自分の夫に従いなさい。なぜなら、キリストは教会のかしらであって、ご自身がそのからだの救い主であられるように、夫は妻のかしらであるからです。教会がキリストに従うように、妻も、すべてのことにおいて、夫に従うべきです。」


パウロの教えていたことを理解する上で鍵となるのは「かしら」の意味です。


このかしらという言葉はギリシャ語で「ケファレー」といいますが、古代ギリシャ語において「指導者」や「長」という意味で用いられることはほとんどありません川の源といった使われ方で「源」を意味することがよくありました。[英語の head=かしら・頭 には、ギリシャ語のケファレーと同様、源・水源という意味もあります。]


パウロは第1コリント11章で、エバはアダムのあばら骨の一つから造られたと書かれている創世記2章に言及しています。


つまり、男は文字どおり女の「源」というわけです。同様に、父なる神は御子の源であり、イエスは教会の源です。パウロは、すべての男の源(ケファレー)はキリストであり、女の源は男であり、キリストの源は父なる神であると言っていたのです。[15]


15 Alan F. Johnson, ed., How I Changed My Mind About Women in Leadership (Grand Rapids: Zondervan, 2010), 230.

〔*強調や傍線は私によるものです。〕






伝言ごっこ



このかしらという言葉はギリシャ語で「ケファレー」といいますが、古代ギリシャ語において「指導者」や「長」という意味で用いられることはほとんどありません。川の源といった使われ方で「源」を意味することがよくありました。




まず筆者の方は、「ケファレー」が、古代ギリシャ語において「指導者」や「長」という意味で用いられることはほとんどありませんと、はっきり断じておられます。


しかしながら、まず、そう断じることのできる論拠はどこにあるのでしょうか。


私の調べる限り、こういった「かしら=源」説は、だいたい以下のフェミニスト神学論文を出処にしていると思います。


1.Berkeley and Alvera Mickelsen, "What Does Kephale Mean in the New Testament?" in Women, Authority, and the Bible, p 97-110

2.Payne, " Response" in Women, Authority and the Bible, p 118-32

3.Bilesikian, "A Critical Examination of Wayne Grudem's Treatment of Kephale in Ancient Greek Text", appendix to Beyond Sex Roles, p 215-52

4. C. Kroeger, "The Classical Concept of Head as "Source", appendix 3 in Equal to Serve, p 267-83

5. G. Fee, First Epistle to the Corinthians (1987), p 501-5

6.C. Kroeger, "Head" in Dictionary of Paul and His Letters, p 375-77

7.Brown, Women Ministries, p 213-15, 246





こういった一連の動きは、私に「伝言ごっこ」ゲームを思い起こさせます。


「『ケファレー』っていうギリシャ語はね、〈長〉とか〈指導者〉っていう意味よりはむしろ、〈源〉っていう意味合いが強いらしいよ」と初めの人が、隣の人の耳にささやきます。


そうすると、それを聞いた次の人は彼女の隣にいるまた別の人の耳にこうささやきます。


「あのね、『ケファレー』っていうギリシャ語はね、〈長〉とか権威あるとかいう意味はなくて、元々は〈源〉がメインの意味らしいよ。」


その人はさらに隣の人にこう言います。


「あのね、『ケファレー』っていうギリシャ語には権威(authority)の意味合いはなくて、川の源とかそういう使われ方が普通だったんだって。」




釈義的誤謬―Word-study fallacies



「ケファレー=源」というフェミニスト神学者側の字義解釈について、D・A・カーソンは、Exegetical Fallaciesの中で次のように述べています。



、、どんな(聖書)解釈であれ、言葉の意味を、ヘレニズム期のギリシャ語における用法以上に、古典期のギリシャ語に依拠し、字義解釈を打ち立てていこうという試みにはやはり警戒する必要があるだろう。


たとえば、Christianity Todayの論稿の中で、Berkeley&Alvera Mickelsenは、1コリント11:2-16の「かしら」の意味を「源」(source or origin)だと主張している。


しかし、彼らの主張は、新約聖書およびヘレニズム期のギリシャ語辞典(Bauer)ではなく、古典期ギリシャ語のリーデル・スコット大辞典(LSJ)に基づいているのである


そして前者の辞典(Bauer)は、新約聖書期においてκεφαλήの項に、一切「源」の意味を記載していないのである


また、Mickelsens氏らは、〔古典期〕LSJ辞典でさえ、その証左に制約を設けている事実について触れていない。


彼らは川の「源」を表す語としてhead of a riverという辞典の用例を非常に重んじているが、LSJ中に引用されているそういった用例はすべて、κεφαλαί(heads)という複数形である。


そして単数形のケファレー(κεφαλή)が川として述べられている時には、それは川口(river's mouth)に言及するものである。


ちなみに、LSJに記載されている、単数形κεφαλήが「源」を意味する唯一の用例は、BC5世紀もしくはそれ以前の資料(Fragmenta Orphicorum)であるが、これは文献的にも不明瞭で、また複数の訳が存在する文献である。(参照:Wayne A. Grudem in Trinity Journal 3 (1982):230)


D.A. Carson, Exegetical Fallacies, "Word-Study Fallacies", p.36-37





また、Wayne Grudem氏は、Evangelical Feminism and Biblical Truth のappendix 3と4および6章の多くのページを割いて、このケファレー問題に取り組んでおられます。


1985年に、Grudem氏は、BC8世紀のホメロス作品からAD4世紀の初代教父著作集に至るまで、それらの作品の中で用いられている2336件に及ぶκεφαλή(ケファレー)の全用例を徹底検証されました。そしてその結果として次のように言っておられます。


こういったテクストの中でケファレー(κεφαλή)は、(この語が、Aという人がBという人のかしらであるということを表現すべく、比喩的な意味で用いられている場合)、多くの権威者に対して適用されており、治める権威(governing authority)を持たない人に対しては決して適用されていなかったのです。


Wayne Grudem, Does Κεφαλή (“Head”) Mean “Source” Or“Authority Over” in Greek Literature?: A Survey of 2,336 Examples, Trinity Journal ns 6.1 (Spring 1985): 38-59




こうして、「ケファレーは、古代ギリシャ語において『指導者』や『長』という意味で用いられることはほとんどありません。」というフェミニスト神学者側の主張には文献的にも何ら根拠のないことが明らかにされました。





おわりに



先日、聖書信仰のギリシャ人クリスチャンに、欧米の一部のクリスチャンの間で『ケファレー=源』説が唱えられている旨を話したところ、その方は一言、「あり得ない、、」と言ったきり、驚きの余り絶句しておられました。


というのも、κεφαλή(ケファレー)の「① 頭 ②[比喩的に]かしら、支配者、主、権威の所在」(織田)という基本的意味は、新約聖書が書かれた時代から今日まで変わっておらず、それがネイティブのギリシャ人信者にとって、ごく自然な字句の受け取り方だからです。


いいえ、それだけではありません。


そもそも、1コリント11章やエペソ5章のケファレーが「源」を意味しているのだったら、なぜパウロは、πηγή(ペゲー:源、source)という語をストレートに用いなかったのでしょう?


パウロはなぜ、自然な解釈ではまず「源」とは解釈できないケファレーのような語を用いようと思い立ったのでしょう?


なぜそんな回りくどい、謎かけのような、嫌味なことをしなければならなかったのでしょう?


というのも、ペゲーこそ、ギリシャ語で言う、正真正銘の「源」なのですから!


ここの箇所の「かしら」を「源」と読み込ませるのは、あまりにも強引で無理な解釈を言わざるを得ません。



☆☆


聖書の中で啓示されている「かしら」という語に権威という意味が付与されていることを拒絶すべく、人々は字句の自然な解釈に背を向け、そこに新たな意味を植え付けようとしています。


しかしながら、それは男女における美しい創造の秩序を破壊する行為であるにとどまらず、「力あるみことばによって万物を保っておられる」(ヘブル1:3)キリストの権威と栄光にも拳を突き上げる不敬行為につながるのではないかと、私は非常に危惧しています。


なぜなら「夫は妻のかしらである」ことを述べている同じ節で、聖書は「キリストが教会のかしらである」という深遠なる真理を啓示しているからです。


かしらの意味を自分勝手にいじくりまわすことで、私たちは教会のかしらであるキリストの権威と威光に異議を申し立てるというおそろしい罪を犯してしまうのではないでしょうか。



祈り

主よ、どうか私たち一人一人を誤った聖書解釈や教えから守ってください。そして真理と誤謬を見分ける識別力を与えてください。あなたの栄光が全世界で輝きますように。イエス様の御名によってお祈りします。アーメン。




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保守キリスト教雑誌 『ゴスペル・トゥデイ』 2008年9月号



Albert Mohler on Why He Changed His Mind on Women Pastors



アルバート・モーラー氏の証し (南部バプテスト神学校 学長)

2010年9月28日






それは1980年代の半ばのことでした。

その時期、私の所属している南部バプテスト連盟(Southern Baptist Convention)は、非常な論争と嵐のただ中にありました。

そうです、教会における女性の役割―女性の牧会職のことが―論争の中核にあったのです。

1984年、南部バプテスト連盟は、女性の役割に関し、一つの決議を出しました。(それは、とてつもなく緊張に満ちた瞬間でした。)

この時、私たちの教団ははじめて、年次会議という公の場で、「牧会職は聖書の適性条件を満たす男性だけに限られます」という宣言を出したのです。

そしてこれこそ、――70年代、80年代、90年代における教団大論争の中でも、もっとも熾烈な論争を引き起こすものとなったのです。

☆☆

多くの人が、その宣言に憤りを覚えました。

南バプテスト連盟が「女性は牧師になることはできない」と宣言したことで、多くの人が傷つき、激怒し、そして茫然自失となりました。

かくいう私も、その中の一人でした。

☆☆

私は当時、教団神学校(SBTS)の学生でした。

この神学校は、当時、女性は――男性と全く同じように――牧会職につくことができるし、また、そうでなければならないと一貫して教えていました。

当時、CBMW(Council of Biblical Manhood and Womanhood:聖書的男性像・女性像協議会)もまだ存在していませんでしたし、そういった聖書的男性像・女性像の回復を取り扱った書籍もほとんど皆無でした。

ええ、説教者や聖書教師が、往々にして自分の間違った観念でもって、他人をそれと同じ方向に引きずっていく――、

そういった悪影響のことがよく言われますが、それに関し、私は自分の目でそれを目撃していました。

☆☆

1984年に教団がこの決議を出した際、私は猛然と抗議に出ました。

私たち抗議者は、クーリエ新聞の広告欄を買い、そこに「神は、雇用機会平等のお方です」という旨の宣言を書き出しました。

(ちなみに、私は当時も、聖書の無謬を堅く信じていました。)

☆☆

そうした中、ある日、カール・ヘンリー氏がうちの神学校を訪問されたのです。



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Carl F.H. Henry (1913 –2003)



そして神の摂理の下、なんと私が彼の案内役となりました。

これは自分にとってものすごい特権でした。

というのも、著作を通し、彼はすでに私の精神的メンターの位置を占めていたからです。

根本的教義の面においても、聖書の無謬性においても、彼の著作により、私は多くの助けを受けていました。

☆☆

こうして私はヘンリー博士をお連れして、キャンパス内を案内することになりました。

共にそぞり歩きながら、その時ふいに、氏が、女性牧師の是非をめぐる話題を持ち出してこられたのです。

そして「この問題に関して、あなたはどう思っていますか。あなたはどのような立場に立っていますか?」と私に訊いてこられました。

若気の至りや無頓着さもあり、私は堰切ったような勢いで自分の見解を彼に述べました。

すると、ヘンリー氏は、私を驚かせるようなある表情をたたえた目でこちらを見、そしてこう言われたのです。

やがて君は、この事で、自ら大いに恥じ入るようになるだろう」と。

彼は言ったのはただこの一言でした。

しかしこの一言は私を震撼させました。

☆☆

「やがて君は、この事で、自ら大いに恥じ入るようになるだろう、、、」

私は、その後、まっすぐに図書館に入りました。

そしてこの問題を取り扱っているような書籍を手あたり次第探し始めたのです。

はっきり言って、その時の私は、「自分がなぜ将来、この事で大いに恥じ入るようになるのか」――

その理由を突き止めるまでは、もう食べることも何もまったく手につかない、そんな状態にありました。

どうしよう。目を上げてキャンパスを行き交う人々をながめました。

でも、この人たちは、この問題で全然、「恥じ入っている」ようには見えないじゃないか、、、?

☆☆

図書館にはほとんど助けになるような資料はありませんでした。

幸い、ステフェン・クラークという人の書いたMan and Woman in Christという本を見つけ、それを通してある程度、御言葉の学びをするよう導かれました。

そして結局、その日、私は徹夜で真相究明に乗り出すことになったのです。

これを解決せずにはとても眠ることなどできませんでした。

こうして東の空が明け始めた頃、この問題に関する私の立場は、一夜にして、完全に変化を遂げていたのです。

☆☆

たしかに私の見解の変化に、カール・ヘンリーはかなりの影響を及ぼしました。

しかし私の見解を変えたものは、聖書の御言葉でした。

そして今思うと、本当にあの時、カール・ヘンリー氏の言ったことは正しかったのです。

あの時点での方向転換がなければ、きっと今頃、私は大いに恥じ入ることになっていたと思います。

こうして翌日の朝、ヘンリー氏にお会いした時、私はすでに別の世界の人となっていたのです。



―証しおわり―




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