ディミトリスと申します。私は20歳の見習いコックです。私は1996年、ギリシャ中部にあるヴォロスという所で生まれました。




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母は10年近く子どもが欲しかったけど与えられず、体外受精を望んでいましたがお金がありませんでした。


ところがある時、宝くじを引いたらそれが見事に当選し、それで、めでたく僕が生まれることになりました。




両親の不和



母は一応、福音派のプロテスタント教会に通う信者でしたが、父は未信者でした。


両親の仲は悪く、私が15歳の時、父と母は別居を始めました。


その頃から私もタバコやお酒を始めました。煙草は一日二箱、そしてウィスキー三昧の毎日でした。


ハーリー・デイビッドソンに憧れ、あちこちにピアスもしていました。


一時的に、両親はよりを戻し、再び同居を始めたりもしていましたが、結局、私が18歳の年に(つまり二年前)二人は正式に離婚しました。




父への怒りが爆発する




父との関係は最初から悪かったのですが、二年前、それは最悪の状態になっていました。


ある日、父の家にいた時、ささいなことがきっかけで口論になり、積もり積もった父への怒りがついに爆発してしまいました。


私は玄関の戸を渾身の力をこめてへし折り、外に飛び出しました。


そして父に電話し、「お前は僕をこの世に送り出した。それなのに、お前のせいで僕は今殺されかかっている。それが分かっているのか!」と絶叫しました。


そして携帯を地面に叩きつけ、粉々に破壊しました。そして車に乗り込みました。


過度の怒りで呼吸もできないほどの状態になっており、この先、あと2、3分、この状態が続いたら、自分はきっと死ぬだろうと思いました。




神への叫び




2015年11月9日、下宿先に戻った私にある重大な出来事が起こりました。


何かに押し出されるかのように、私は地べたに跪き、「神よ、私を救いたまえ!」と泣きながら、叫んだのです。


すると、信じがたいことが起こりました。


イエス・キリストの聖なる血が頭の上から私の全身に注がれ、その瞬間、ある強い手が私の後ろ首のあたりを掴み、しばらくすると、その御手は私の頭の上に置かれました。


まるですべての宇宙が私に臨んでいるかのようでした。


そして私の心は愛の火山で燃え上がりました。


これまでの重く、沈んだ心が今や去り、私は「主に栄光あれ、主に栄光あれ」と歓喜の内に、主を讃えていました。


私は母や叔母に電話し、自分の身に起こったことを話しました。また、父を赦す心も与えられ、父にも安否を尋ねる電話をかけました。




聖霊のバプテスマ



それから約1カ月後の2015年12月4日、私の魂は、その日、自分が聖霊の注ぎを受けるということを内に知りました。


どうしてそれを知ったのか口でうまく説明することはできませんが、とにかくそれが分かったのです。


そして私の魂は聖霊の注ぎを熱望していました。


そこで寝る前、いつもならパジャマを着るところですが、その晩、私は白いワイシャツを着込み、一番上等のズボンを履き、そして香水もつけ、聖霊なる神様を迎える準備をしました。


そして跪き、祈り始めました。


すると、聖霊がくだり、私はアラビア語やロシア語など自分の知らない外国語で神を賛美し始めました。




テルミ市の教会に導かれる



その頃、私は下宿先から遠く離れたところにある福音派教会に通っていました。


ある日、バスに乗っていたら、同じ福音派教会に通う兄弟にばったり会い、私たちは会話を始めました。


その兄弟は私がテルミ市に下宿しているということを聞くと、「あそこにはΑποστολικη Εκκλησια Πεντηκοστης(Apostolic Pentecostal Church in Greece)という教会があるはず。近くだし、そこにも一度行ってみたら?」と勧めてくれました。


こうして私はテルミ市のこの教会に導かれ、今年の1月25日、そこの教会で水の洗礼を受けました。




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テサロニケ地方のテルミにある聖書主義ペンテコステ教会の主日礼拝の様子。ディミトリス君はここの教会で洗礼を受けました。





クレテ島へ




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クレテ島




2016年6月、私は料理学校の夏季実地研修生として、クレテ島のヘラクリオ市にある厨房に送られました。


私は主にある兄弟姉妹を探し求めました。すると、クレテ島においても、主は私に兄弟姉妹および教会を与えてくださったのです。


しかし厨房から教会までは片道2時間半かかりました。


そこで私は主に祈りました。「主よ、どうか私の仕事が午後の3時で終わるようにしてください。そうすれば毎晩、教会の集いに参加することができます。」


すると、主はその願いを聞き入れてくださり、こうして私は、教会の祈祷会や集いに欠かさず参加することができるようになったのです。



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コック長に伝道する



厨房のコック長は、ひわいな話をすることが好きな人で、いつも私をそういった話に巻き込もうとしていました。


私は彼の所に行き、「静かにしてほしい。そしてそういう話はしないでほしい」と頼みました。


しかしコック長は全然、話を聞き入れてくれませんでした。


そこでまた別のある日、私は彼に言いました。「あなたの人生の目的は何ですか。あなたは何をしたいのですか?」


すると彼は私に、「実のところ、僕は正教会のパパス(聖職者)になりたかった」と言いました。


そこで翌日、私は新約聖書を厨房に持参し、彼にそれを手渡しつつ言いました。「これを読んで、いのちを得てください。」


すると彼は「昔、ヨハネの黙示録を読んだのだが、怖くて途中で読むのをやめてしまった」と告白しました。


そこで私は「それなら、マタイの福音書から始めるといいですよ。」と彼に勧めました。





イエスの御名によって誘惑に打ち勝つ




ある時、厨房に隣接したホテルの入り口に三人の女性が現れ、私の体に触りながら、私を性的に誘惑しようと忍び寄ってきました。


20歳の若者にとってこのような誘惑に打ち勝つのは至難の業です。


しかし私は聖霊に満たされ、三人の女性をホテルの入り口の方までぐいぐい押し返し、「Don't touch me. Jesus is ALIVE!(=私に触れるな。イエス様は生きておられる!)」と宣言しました。




:ディミトリス兄弟、日本にいる10代、20代の若者たちに応援メッセージがありましたら、どうぞ!



:もしあなたがこの世にあって呼吸したい(breathe)なら、それなら、神を信じてください。


そして覚えていてください。神様の外側にあるすべてのものは、やがてあなたを死に導く、ということを。




ーおわりー




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ジョエル・ホースト君の作った賛美 A Radical For Jesusを聴いてみよう!(前回のインタビュー記事のつづき)




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どんな外的困難にぶつかっても私たち宣教者は、主よりの力と勇気をいただき、再び前進していくことができると思います。


しかし、自分の陣営に戻った時、(本来共に励まし合うべきはずの)仲間たちが、「考えてみてください。あなたにはそもそも兵士として戦場に出て行く資格自体ないのではありませんか。あなたのやっていることは主のみこころに反していると思います。」と言ってきたと想像してみてください。


「兵士としての資格自体がない」

「主のみこころに反している」、、、


しかも、それを言ってくる方々は、まじめな聖書信仰のクリスチャンたちなのです。さあ、大変です。



☆☆


8年ほど前になりますが、日本に一時帰国し、知り合いの姉妹の通う、ある教会のリトリートに参加させてもらったことがありました。


そのグループは、聖書主義の福音派に属し、すばらしい兄弟姉妹がたくさんおられました。


しかしながら、(今思うと)その教会では、教えの中で、家族の救いの大切さが非常に、そして少し度を過ぎるほどに強調されているようでした。


姉妹たちの何人かは、私の家族がまだ救われていないこと、現在、宣教の働きのために私がギリシャに滞在しているということを聞くと、深刻な顔で私の所にやって来られ、冒頭の戦友たちのような言葉を次々に発せられました。


彼女たちに言わせれば、自分の家族を救いに導くことさえできていない人には、遠く外国まで宣教に行く資格はない、ということでした。


「あなたはまず、主との関係をしっかり持った方がいいと思います。」そうも言われました。


☆☆


みなさんに申しあげますが、この方々のこういった言葉は、それまで宣教地で味わってきたどんな困難、孤独、欠乏にもまして、私をdiscourage(消沈)させました。


ギリシャは、正教徒クリスチャン以外に宣教師ビザが下りない国なので、ビザのことでは当初から苦労してきました。


ある宣教師の家族は、3カ月ごとに車でEU圏を出、一日外で待ってから再びギリシャ国境を越え再入国し直すということを14年間繰り返していました。


私は私で、いろんな種類のビザをつぎはぎしつつ、何とか合法的に滞在できるようもがいていました。


また、見知らぬ文化や言葉の中で時にはどうしようもなく辛くなったり、窮地に追い込まれ、涙が止まらなくなったこともありました。


それでも、私をギリシャにとどまらせたのは、これが自分に課せられた主からの使命だという自覚であり、その使命遂行のためなら、どんなに辛い目に遭ってもここにとどまりたいと私は願っていました。


しかし、「自分の家族を救いに導くことさえできていない人には、遠く外国まで宣教に行く資格がそもそもない」という仲間のクリスチャンたちからの裁きは、困難の種類うんぬんではなく、宣教への士気そのものを喪失させるに足りるほどの破壊力をもって、私をダウンさせました。


またギリシャでの宣教が、「主のみこころに反している」と断定されたことも私には衝撃でした。


さらに、ダウンした私にここぞとばかりにサタンはつけ込み、


「あなたの宣教生活には困難が多いじゃないですか。それは、とりもなおさず、それが主のみこころに反したものだからではないですか。あなたは道を誤っているのではないですか。おとなしく日本に戻るのが『主のみこころ』だとは思いませんか。まずあなたの家族を救う。そこから始めなさいよ。」


としきりに囁いてきました。


☆☆


それでもその年、私はまたデモや暴動の絶えないギリシャに戻りました。でも本当に辛かったです。


重い心と重い足をひきずるようにして、泣きながら飛行機に乗り込みました。


そんな私をギリシャに戻らせるにあたり力を与え励ましてくれたのは、日本で長年奉仕しておられる外国人宣教師の方々でした。


「自分の家族を救いに導くことさえできていない人には、遠く外国まで宣教に行く資格がそもそもないのなら、私にだって、日本への宣教師になる資格はありませんよ。」と彼らは、祖国の家族のことを静かに語ってくれました。


それを聞いて驚き、かつ心打たれたのは、日本人の救いのために祖国を離れ、家族を離れ、やって来られた宣教師お一人お一人にもまた、祖国に救われていない弟がおり、父がおり、息子がおり、それぞれに内なる悲しみと重荷があるということでした。


パーフェクトな環境で、皆に拍手喝さいされる中、日本に送り出されてきた宣教師など一人もいないということが分かりました。


でも、こういった宣教師の方々は、そういった一身上のいろいろな問題や悩みを主に委ね、「とにかく一人でも多くの日本の方々にイエスさまの救いと愛を知っていただきたい」という思いと献身で、祖国を離れる決心をされたのです。


マタイ6:33

だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。




たしかに、聖い神様の目から見たら、罪びとである私たちには、何者かになる「資格」なんて、そもそもないのだと思います。それは真実だと思います。


でもそういった資格のない人間たちが、主の一方的な憐れみを受け、尊いこの福音を携え外に出て行くことが許される幸い――。


その意味でも、福音宣教の働きというのは、はじめから終わりまで、主の恵みに尽きるのだと本当に思います。罪びとに注がれるこの恵みにただ感謝するばかりです。


読んでくださってありがとうございました。






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ミャンマーの村で奉仕する宣教師 source




今朝、高校三年生のクリスチャン・ユースからうれしいお便りが届きました。


彼女は昨日、近所の図書館に行って、アラビア語とギリシャ語の学習書を借り、将来の宣教に備え、昨晩からさっそく、アラビア文字の習得にとりかかり始めたというのです!ハレルヤ。


そこで今日は、彼女をはじめとする高校生クリスチャンに向けて応援メッセージを書こうと思います。


☆☆


私がみなさんに伝えたいひと言――それは、ずばり「一極集中の人になろう!」です。


この世の中には、それ自体はけっして悪ではないさまざまな催し物、活動、趣味、文化観賞などが溢れています。


また、大学に入ると、今度は、各種サークル活動、旅行、友だちとのつき合いなど、忙しくしようと思えば私たちの生活はいくらでも忙しくなりえます。


しかし今日、私はあえて、みなさんにchallengeしたいと思います。それはみなさんが宣教の情熱に燃えているユースだからです。


あなたの中のあれやこれやの一部分に、福音宣教というものが位置しているのではなく、福音宣教そのものがあなたの人生の主軸なのです。つまり、そこを中心にあなたの生活・人生が回っていくのです。


福音宣教に一極集中するなら、そして「どうしても必要な一つのこと One thing needful」(ルカ10:42参)にあなたのすべてを賭けるなら、おのずから、優先順位が明らかになっていきます。


あなたの教会や学校の友だちは(それ自体はけっして悪ではない)あることを楽しんでいるかもしれません。そのためにお金やエネルギーを注ぎ出し、好んでそのことを話題にしたがっているかもしれません。


そしてそれはあなたの友だちにとっては気晴らしになり、良いものなのかもしれません。しかし、それはあなたにとってはどうなのでしょうか。


☆☆


現在、アラビア語も、ペルシャ語も、何種類かの良い翻訳聖書が出版されています。


その中でも特に高い評価を得ているのが、ヴァン・ダイク訳アラビア語聖書(1867年)とヘンリー・マーティン訳ペルシャ語聖書(1837年)です。



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Arabic Bible: Van Dyke translation


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Arabic Bible: Van Dyke translation



そして驚くべきことに、これらの翻訳作業は、若い外国人宣教師たちによって成し遂げられたのです


27歳でレバノンに遣わされたアメリカ人宣教師ヴァン・ダイクは、猛勉強の末、30代に入り、(先輩であるスミス宣教師の後を継ぐ形で)、ヘブル語・アラム語・コイネー・ギリシャ語の原典から、アラビア語に聖書を翻訳していったのです。



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晩年のヴァン・ダイク宣教師



一方、北インド・ペルシャ地域に遣わされたイギリス人宣教師ヘンリー・マーティンは、病弱な体をおしつつ、これまた尋常でない努力の末、20代後半から、コイネー・ギリシャ語新約原典をペルシャ語やアラビア語、そしてヒンドゥスタニ語に訳し始めました。



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Henry Martyn


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Henry Martyn Persian translation




これらの人たちは皆、一極集中の人でした。福音宣教のこと以外のあれやこれやには目もくれず、ただひたすら神の国とその義のために人生のすべてを賭けたのです。



Ⅱテモテ2:4

兵役に服している者は、日常生活の事に煩わされてはいない。ただ、兵を募った司令官を喜ばせようと努める。





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Interliner Arabic-Koine Greek Project



☆☆



『ジャングルの殉教者』(エリザベス・エリオット著)の中に描かれているジム・エリオットは、1956年、南米エクアドルの奥地で、仲間の4人の宣教師と共に殉教しました。



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一番右がジム・エリオット



それでは、このジムは大学時代、何をしていたのでしょうか。


後にジムと婚約し、結婚に導かれたエリザベスは、回想記の中に次のような印象的なことを書いていました。


――この青年(=ジム)は、学食の配膳を待ちながら、カードを繰りつつ、コイネー・ギリシャ語の単語を一心不乱に暗記していました。。。


彼は自分の人生をキリストに捧げ切っていました。そして自分が宣教師としての召命を受けていることを自覚していました。


だから、遣わされる部族のことばを習得し、聖書を彼らのことばに訳し、いのちの福音を伝えるべく、食事の時間も惜しんで原典のギリシャ語習得に励んでいたのです。


つまり、彼の学生時代は、ひたすら福音宣教を軸にまわっており、他のあれやこれや(trifles)に足止めを食らってはいなかったのです。


そうです、ジムもまた、一極集中の人でした。



死ぬ時がきたら、もはや死ぬ事より他にやり残したことはないと言い切れるようにしておきたい。


~ジム・エリオットの日誌より抜粋




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私は長寿は求めていない。

ただ主イエスよ、あなたのように全き人生(full life:使命を全うする人生)を求めています。


ジム・エリオット




☆☆


私はこれまで数々の愚かな失敗をしてきましたが、一つだけ後悔していないことがあります。


それは、とにもかくにも、救われた直後から今日に至るまで、福音宣教のわざに全力投球してきたことです。


また、「そこに行きなさい」「あの人々に仕えなさい」「これを捧げなさい」「この民族の言語を学びなさい」という召しがきた時、もたもたせずに、迅速にその指令に従ったことです。


また、高校生のみなさんにもう一つ申し上げたいことは、とりあえず、将来的にどこに遣わされるにしても、今のところ、英語を頑張っておいてください、ということです。



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現在の状況下では、あなたが東欧のウクライナに派遣されようと、ボツワナ、パプアニューギニア、インドネシア、ボリビア、フィンランドに遣わされようと、ほとんどの宣教地ではまず英語がどうしても必要になります。(宣教地のこういった言語状況がはたして良いのか悪いのかというのは別問題ですが、、、私がここで申し上げたいのは、それが私たちの直面する21世紀の現実だということです。)


また、マイナーな少数民族の言語を習得する際にも、私たちは英語を介した教材や辞書に頼らざるを得ません。


たとえば、アフガニスタンのパシュトゥーン語を習得しようと思うなら、英語やウルドゥー語等を介して学んでいかねばならないでしょう。


そういった意味でも、みなさんが受験英語にあきたらず、コミュニカティブな側面でも、英語でコミュニケーションをとれるようになっていることは、宣教師として遣わされる上で良い備えになると思います。



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どこにいても、全力でうちこみなさい!「これが神のみこころだ」と信じる、あらゆる状況において徹底した生き方をしなさい。




また、ある方は、ハドソン・テーラー宣教師の伝記を読み、彼に倣って、[宣教の働きの備えのために]体力づくりを怠っていないということです。


これもまた、すばらしい備えだと思います。


特に、衛生状態の悪い地域へ派遣されるミッショナリーは、熱帯性ウイルスや寄生虫なんかをバーンと跳ね返すほどの強靭なスタミナと体力が必要とされるかもしれません。



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私たちは現代のこの世が否定しかかっている神の御力を知っていると告白しながらも、実際には、全くありきたりで、平々凡々な生き方しかしていない。


そう、私たちは当たり障りもなく「無害な」人々なので、危害を加えられることもない。


私たちは霊的平和主義者であり、非戦闘員であり、主権、力、この暗闇の世界の支配者たちとのすさまじい死戦場における良心的兵役拒否者だ。


人との交わりにおいて柔和さは不可欠だ。しかし十字架の戦士として闘いに加わるのなら、そこには豪胆にして、物おじすることのない大胆さが要求される。


それなのに、私たちは未だに「傍観者席」に座っている。そして実際に戦っている人たちをああだこうだと批評しつつ、自らはゆったりと観客席に腰かけ、神の敵どもがほしいままに振る舞うさまを傍観しているのだ。


だから、この世はそんな私たちを憎むことなどできない。なぜなら、私たちはあまりにもこの世の子だから。


おお、神が私たちを「危険な人々」に練り直してくださるように!


―ジム・エリオット




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主よ、私をクライシス・マン(=決断を迫らせる人)にしてください。


私が出会う人々を、決断地点へと持っていってください。

私を一本道の単なる標識にせず、どうか分岐点に立ちふさがる人間とせしめてください。

こうして人は、私の内におられるキリストに直面し、各人が右か左か、己の道を選ばねばならなくなるでしょう。





高校生のみなさん、人生は一回きりです。


あなたは、与えられているその情熱・エネルギー・時間、そして人生を、何のために、そして誰のために注ぎ出したいですか?




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多くの真摯なクリスチャンが「答え」を求めて呻いています。

教会でも、この世でも、「何が正しくて、何が正しくないのか」「何が罪で、何が罪でないのか」がはっきり語られず、曖昧にぼかされつつメッセージとして提供されています。

「確実性」を追及する信仰は疎んじられ、逆に「疑い」や「不確かさ」の内にとどまることこそがクールで真実な信仰のあり方であるかのように印象づけがなされています。

私はこの記事で自慰行為(masturbation)というキリスト教倫理イシューについて、若いクリスチャンのみなさんと共に取り組んでいきたいと思います。

なぜこのテーマを選んだかといいますと、多くの真摯なクリスチャン・ユースが現在、人知れずこの問題で苦しんでおり、答えを探そうと孤独の内にもがいているからです

多くの人がさまざまな事を言います。

「えーと、この問題に関しては、諸説ありまして、、、医学的に言って健全な行為だという説もあれば、やはり聖書的には罪だという意見もあり、、」

しかし多くの若者の魂は、そのような曖昧で相対的な説明では満足できないのです

彼らの魂は苦しみつつ、その奥底で叫んでいます。

「キリスト者よ。答えてください。それは正しいことなのですか。それとも間違っているのですか。それは神の前に罪ですか。それとも罪ではないのですか」と。

自慰行為、インターネット・ポルノ、思いの中の不純、、といった問題に真に光を当て、解放および勝利に至る力を与えるのは、――曖昧ではなく――御霊と確信に満ちた信仰の使信に尽きると思います。




自慰行為は罪でしょうか?


ティム・コンウェイ




Is Masturbation a Sin?

by Tim Conway


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テキサス州サンアントニオ、グレイス・コミュニティー教会牧師



私は今日、この事柄についてみなさんと取り組んでいきたいと思っています。

というのも、この領域で深刻に葛藤を覚え苦しんでいる、まことの神の子たちがいるからです。

ダンという兄弟が次の問いを投げかけてきました。――自慰行為(masturbation)は罪ですかと。

私はそれに答えようと努めました。多くの応答がありました。

でも私の取り扱い方がドグマ的すぎるのではないかとか、あまり聖書的ではないのではないかとか、そういう指摘も受けました。

それで今回、もう一度、この問題に言及することにしました。

☆☆

みなさんからもらったフィードバックを見て、私は今確信しているのですが、おそらく今、この部屋にいる男性のみなさんは一人残らず自慰行為のことで葛藤しておられ、少なくはない女性のみなさんもまた葛藤しておられるはずです。

私が言いたいのではこれです。そう、「それは罪ですか?」ということです。

これがまず一番目の問いです。

ええ、これは私たちが正面から向き合わなければならない現実的な問題であり、教会が取り組まなければならない問題であり、クリスチャンが取り組まなければならない問題です。

だから、自分自身、牧師として、このことに言及する必要性があるのを感じています。

でも私は頭ごなしにみなさんに、「ほら、あなたはこの問題に囚われているから、クリスチャンではありません」というような扱いはしたくありません。

そうではないのです!

この領域においては、本当に真摯なクリスチャンの方々も葛藤を覚えているからです。

☆☆

それでなのですが、まず、みなさんの思いがそれに囚われているなら、そして今もまだ罪の勢力下にいるのなら、あなたはまだ新生していないのかもしれません。

これは非常に現実的な可能性を含んだことですので、何かの罪があなたを支配し、敗北をこうむっている時には私たち一人ひとりがそのことを直視する必要があると思います。

みなさん、牧者としての私の懸念はこれです。

つまり、私たちは2000年以上に渡る壮大な動きの中に置かれているのです。

御言葉が書かれた時代に私たちは溯り、使徒たち自身が次のように言っているのを聞くのです。

騙されてはいけない」と。

つまり、もしあなたが罪の虜(とりこ)になっており、不義の虜になっているのなら、使徒たちは「騙されてはいけない。あなたはまことの信仰者ではない」と言っているわけです。

しかしながら現在、至る所で偽りの教師たちが立ち上がり、「そう、あなたは真のクリスチャンです。それで、たとい罪の奴隷になっても、、どんな種類の罪の奴隷になっても、それでも大丈夫です。それでもいいんですよ。」という事を講壇から説いています。

しかし、みなさん、それは全く聖書の教えではなく、完全に間違っています

そしてこれが牧会的な私の懸念です。なぜなら、私はみなさんが騙されてほしくないからです。

☆☆

この部屋に座っている方の中に次のような方がおられるかもしれません。

――あなたは自分がクリスチャンだと告白しています。

しかしそれにも拘らず、あなたの魂はプライド、情欲、偶像、お金、ある種の悪い趣向、、、そういった警告の赤旗が頭上で大きく振られるような囚われの状態に置かれています。

しかしあなたは上に挙げたような偽りの教えにさらされてきたため、あるいは知らずにいるため、「私は救われ、天国行きのチケットをゲットした」と信じ込まされているのです。

過去のある時期に、あなたは講壇の前に行き、あるいは「決心者として」手を挙げさせられ、そうして祈ったのかもしれません、、、

それが現在、キリスト教界全般にみられる現象です。

☆☆

しかし、人々は上に挙げたような罪の虜であり続けながら、自分の天国行きは確実だと確信し切っています。

ところが事実はどうかというと、彼らは罪の奴隷です。

そして真のクリスチャンは罪の奴隷ではありません。

真のクリスチャンは義の奴隷だというのが聖書の言っていることです。

つまり、彼らは神の奴隷なのです。

しかしこういった警告の赤旗が振られているにもかかわらず、私たちはそれを見る目すらない状態にあります。

そして私が心から願うのは、みなさんの中で誰も、審判の日に目覚め、「ああ、私は完全に見誤っていた。警告サインは常に出ていたのに、私はそれを見過ごしにしていたのだ!」と呻いてほしくないのです。

☆☆

ここでマタイ5:28を一緒に読みたいのですが、イエス・キリストは、「だれでも情欲をいだいて女を見る者は、、」と教えておられます。

もちろん、ここは女性が男性をそのような目で見ることにも適用され得ます。

「だれでも情欲をいだいて女を見る者は、すでに心の中で姦淫を犯したのです。」

みなさん、どうか聞いてください。

不品行な人や姦淫を犯す人は神の国を相続することができません。

聖書がそうはっきり言っています。

1コリント6章9節に書いてあります。

不品行な者、姦淫をする者は、神の国を相続できないことを、知らないのですかと。



そしてこれがサインです。――つまり、あなたがその勢力の下にあり、そういったものの奴隷になっているのなら、その人は失われているのです。

しかもマタイの福音書の次の節(「もし、右の目が、、)は先ほどの前節と関連しているのです。

そしてイエス・キリストはそれがマイナーで些細な問題だとは言っておられません。

マタイ5:29

もし、右の目が、あなたをつまずかせるなら、えぐり出して、捨ててしまいなさい。からだの一部を失っても、からだ全体ゲヘナに投げ込まれるよりは、よいからです。



ここの文脈をよく見てください。

イエス様は何の前触れもなく藪から棒にこの教えをされたのではありません。

さきほど言われた内容を取り扱っておられるのです。

主は姦淫という罪深い行為のことだけをここで言及しておられるのではなく、心の中(思いの中)で犯した姦淫についても言及しておられます。

みなさんに申しあげます。イエス・キリストはここで悔い改めの必要を説いておられるのです。

そして滅びを逃れるべく、そこには実生活におけるまことの変化という証しが必要とされているのです。

これがまごうことなき現実です。

主はこれが、より大きな報酬なのか、それとも少ない報酬なのかということを言っているのではありません。

いいえ、これは生死にかかわる問題なのだということを主はおっしゃっているのです。

☆☆

でもあなたこう言うかもしれません。

「ちょっと待ってください!私は自分の行ない――清くあること――によって天国に行くのですか?」と。

もちろん、人はイエス・キリストに対する信仰によって――それによってのみ――天国に行くことができます。

しかしながら、イエス様に対する真正な信仰がある所では、真正な心の変化というのもまた付随するものです。

主は仰せられました。

「わたしは彼らに新しい心を与える。」

「わたしは彼らの心にわが掟を書き記す。そして彼らの内にわが霊を置く」と。

そして聖霊は、その人の中にある罪を死に至らしめます

もしそうでないのなら、あなたは真のクリスチャンとはいえないと思います。

つまり、ローマ8:9「キリストの御霊を持たない人は、キリストのものではありません」ということではないでしょうか。

つまりあなたは主に属していないわけです。

これは生きるか死ぬかの問題です。


☆☆


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ではまた自慰行為のテーマに戻りましょう。

この事に関し、先週も今週もこのように主張する人たちがいました。

つまり、自分は心の中で姦淫を犯すことなくその行為をすることができると。

私は思うのですが、彼らは自分自身に対してまだ真っ正直になっていないと思います。

またある人はこう言いました。

そういうやましいイメージが忍び寄ってきますが、それを追い払うようにしていますと。

しかし実際のところ何が起こっているかというと、彼らはそういったものを招き寄せるような何かに関わってしまっているわけです。

つまり、闘ってまでして追い払わなければならないようなものを招き入れることを確かにしているのです。

事実上、彼らはそういったものを招き入れるドアを自ら開いているのです。

そしてあなたがそういったイメージを思いの中に取り入れる時、そしてその人をそのようにして思いの中で利用する時、あなたはどのようにしてその人に敬意を払っていると言えるでしょうか。

☆☆

こういう行為に関わりながらも、心の中で罪を犯すことはしていないという主張に対してですが、もちろん、私は他の人のすべての思いや状況を知っているわけではありませんし、それが絶対に不可能とはあえて申しません。

またそれを教条的にも断じることもできません。

しかし私は知っています。そしてあなたも知っています。

――そういう種類の事に人が関わる時、それは心の中のイメージなしにはあり得ないということを。

そしてイエス・キリストは、それが生きるか死ぬかの問題だと言っておられるのです。

もちろん、こういった行為をなんとか正当化しようとする人々もいるでしょう。

しかし私は再度あなたに申しあげます。

これは生死に関わる問題だと。

それでも尚、もしあなたがこれを正当化しようとするなら、私はそれをきわめて非常に慎重に取り扱おうと思います。

なぜなら、キリストは心の中にある情欲の思いと、ゲヘナに投げ込まれることを関連づけておっしゃっているからです。

ですからどうかこの問題を軽々しく考えないでください。

☆☆

しかしある兄弟たちはこう言っています。

「この行為をすることによって、私は性的誘惑をなんとか抑えようとしているのです。」

ちょっと待ってください。1コリント6:18には「不品行を避けなさい」と書いてあります。

それから逃げなさいと。

私はそのように主張する方々に問いかけます。

あなたのするその行為は、性的不品行からあなたを逃れさせるもの(running from)でしょうか。

それとも、それに突進させるようなもの(running into)でしょうか。

あなたはそれに対して闘っているのでしょうか。

それとも反対にそれを招き入れているのでしょうか。

どうかそれを自問してみてください。

ヘブル13:4

結婚がすべての人に尊ばれるようにしなさい。寝床を汚してはいけません。

なぜなら、神は不品行な者と姦淫を行なう者とをさばかれるからです。



神様が尊ばれるものは、結婚の寝床だけです。

そしてヘブル人への手紙の記者は、尊ばれるものと、尊ばれないものをはっきり相反させて書いており、それはあたかも、「そこに中間地点はありません」と言っているかのようです。

ここでも私は教条的に断じることはしません。

しかしここでヘブル書の記者は次のことを暗示していると言えると思います。

つまり、性的な表現の手段に関していえば、結婚の寝床以外は、「性的不品行と姦淫のカテゴリー」に入るということです。

でもあなたはそこに(例外的な)秘密の小さな緩衝地点を見つけたと言うかもしれません。

でも私はあなたに申し上げます。

そういった取り扱いには十分に気を付けてくださいと。

なぜなら、さきほどのマタイではゲヘナの事が言及されてあったのと同様、ヘブル13章のこの箇所では、神の裁き(God’s judgment)が直に言及されてあるからです(ヘブル13:4b)。

みなさん、これは些細なことではありません。

後の日に、「ああ、自分はこのことに関し言い逃れをしてきた結果、ちょっと間違ってしまったなあ。」というような問題では済まされないと思います。

☆☆

1コリント6章12節からの聖句も私たちにとってとても有益な箇所だと思います。

12 すべてのことが私には許されたことです。しかし、すべてが益になるわけではありません。私にはすべてのことが許されています。しかし、私はどんなことにも支配されはしません

13 食物は腹のためにあり、腹は食物のためにあります。ところが神は、そのどちらをも滅ぼされます。からだは不品行のためにあるのではなく、主のためであり、主はからだのためです。

14 神は主をよみがえらせましたが、その御力によって私たちをもよみがえらせてくださいます。

15 あなたがたのからだはキリストのからだの一部であることを、知らないのですか。キリストのからだを取って遊女のからだとするのですか。そんなことは絶対に許されません。

16 遊女と交われば、一つからだになることを知らないのですか。「ふたりの者は一心同体となる。」と言われているからです。

17 しかし、主と交われば、一つ霊となるのです。

18 不品行を避けなさい



興味深いことにパウロは「私はどんなことにも支配されはしません」という言葉を、性的不品行を避けるという文脈の中で言っているのです。

そしてパウロが「自分はこういう風に生きている」と言う時、それは彼がキリストに倣っているように、私たちも彼に倣うようにと神はお命じになっているのです。

パウロは「自分に倣うように」と繰り返し言っています。

さあでは、何かの勢力下に置かれるというのは、つまりどういうことでしょうか?

そうです、それは偶像化された何かの元にあるということです。

そしてパウロはここで「私はどんなことにも支配されはしない」と言っています。

クリスチャンとして、私たちはどんなことにも支配されないようにするという責務を負っています。

ですからある人が「うーん、でも私はどうしてもこれをやる必要がある」と言う時、とどのつまり、彼は何を言っているのでしょう。

彼は何を告白しているのでしょう。

彼は何を認めているのでしょう。

そうです、彼は自分がそれの奴隷であることを認めているのです。

彼はそれの支配下にあるのです。

☆☆

1コリント9:27

私は自分のからだを打ちたたいて従わせます。それは、私がほかの人に宣べ伝えておきながら、自分自身が失格者になるようなことのないためです。



ここでパウロが言わんとしていることが分かりますか。

そうです、これはやはり生きるか死ぬかの問題なのです。

私は自分のからだを打ちたたいて従わせます。それは、すべてのことがなされ、自分が他の人に真理を宣べ伝えておきながら、自分自身が神から見捨てられた者とならないためです、とパウロは言っているわけです。

若い兄弟たち、あなたは自分のからだを打ちたたいて従わせていますか。

あなたは自分が奴隷状態にならないように自身を保っていますか。

あなたは自分の体をコントロールできていますか。

使徒パウロは、自分に倣いなさいと私たちに言っています。

この分野において、あなたは彼に倣っていますか。

あなたは自分の体の趣向に対しいつでも「No!」と言えますか。

そして体を自分のコントロール下に置き、従わせていますか。

イエス・キリストはおっしゃいました。「わたしについて来なさい」と。

マルコ8:34

だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。



自分自身を否んで、、、

自分自身を否んで、、、

イエス様に従うために、私たちはこのことをしなければならないのです。

私たち一人ひとりが自問してみましょう。

――それがどんな形であれ――自慰行為というのは主に従う行為でしょうか。

また、この行為は、(新生前の)古い人生を特徴づけるものでしょうか。

自分が救われる前のあの失われた状態やこの世的な生き方を特徴づけるものでしょうか。

それとも、それは神様が求めておられる清い生活を特徴づけるものでしょうか。

テトス3:3

私たちも以前は、、、いろいろな欲情と快楽の奴隷でした。



また次の聖句もみてください。

1コリント10:13

あなたがたの会った試練はみな人の知れないようなものではありません。

神は真実な方ですから、あなたがたを耐えることのできないような試練に会わせるようなことはなさいません。

むしろ、耐えることのできるように、試練とともに、脱出の道も備えてくださいます。



それでは、自慰行為というのは、性的誘惑から逃れるために神様が備えてくださった脱出の道なのでしょうか。

それとも、それは人が自分自身で選び取った道なのでしょうか。

そのことも自問してみる必要があると思います。

ローマ8:13

しかし、もし御霊によって、からだの行ないを殺すなら、あなたがたは生きるのです。



この領域で苦しんでいるクリスチャンの多くは、御霊の力について確信が持てていないように思えます。


みなさん、私は知っています。

――この部屋の中にいる兄弟姉妹の中には、自慰行為からもポルノからも完全に解放された人々がすでにいるということを。

そして、こういう人々を解放に導いた御霊は、あなたをもまた解放することがおできになるのです

みなさん、これは信仰の問題です。

私たちは信仰によって歩む必要があります。

そして人が神と共にある時、すべての事が可能だという本物の期待をもつ必要があると思います。

その一方、依然として古い道を行き続け、そうした行為をなんとか正当化しようとしている人々のほとんどは、――性的衝動、肉的願望というのは御霊により治められ得るものであり、従って自分たちは勝利することができるのだということ――を本当には信じていません。

それとも、神の御霊というのは、そこまで弱々しく、そういった衝動を克服できないほど脆弱なものなのでしょうか。

いいえ違います。

御霊によって、どんなに手ごわい肉的願望や行ないも、死に至らしめることが実際に可能なのです!

☆☆

それから次の二つの聖句を挙げようと思います。

ヘブル13:7

神のみことばをあなたがたに話した指導者たちのことを、思い出しなさい。彼らの生活の結末をよく見て、その信仰にならいなさい。



ピリピ3:17

兄弟たち。私を見ならう者になってください。また、あなたがたと同じように私たちを手本として歩んでいる人たちに、目を留めてください。



上の二つの聖句は共に、「神を畏れる指導者にならいなさい」と私たちに呼びかけています。

私がみなさんにお願いしたいのは次のことです。

――みなさん、自分の最も尊敬する信仰の人の所に行き、彼らがはたして自慰行為をしているかどうか訊いてみてください。

あなたに確実に保証しますが、彼らはその行為をしていません。

そういう男女は、その領域において勝利を得てきた人であるということをあなたは発見するでしょう。

だからそういう人たちを見ならってください。

彼らの後に続いてください。

また私はあなたにこの問いかけもします。

――キリスト教の歴史の中で、もっとも敬虔な男女として知られている人々は、はたしてこの行為の奴隷だったのでしょうか。

独身者として主に仕え続けたロバート・マクチェーンやブレイナードやヘンリー・マーティンなどの青年たちは、この行為の奴隷だったのでしょうか。

もしそういう点で疑いがあるのなら、ぜひあなたの尊敬するクリスチャンに訊いてみてください。

また私はあなたに言いますが、こういった行為を逆に正当化している人々をもよく見てください。

そういう人たちの生活には霊的深みがないことにあなたは気づくはずです。

ですから上に挙げたような勝利を収めているクリスチャンたちを見倣ってください。

そしてもしも今私の言っていることが信じられないのなら――少々恥ずかしいかもしれませんが――彼らに直接訊いてみてください。

成熟したクリスチャンならあなたのそういった質問に真正面から向き合い、答えてくれるはずです。

彼らはあなたを脇に引き寄せ、そして語ってくれるでしょう。

そして彼らが実際、性的な衝動という点で勝利を収めていることをあなたは知るはずです。

彼らはそういった欲の奴隷ではないのです。

☆☆

最後にみなさんに申しあげたいことがあります。

ヤコブ4:6

神は高ぶる者を退け、へりくだる者に恵みをお授けになる。



「それと自慰行為と、何の関係があるんですか?」とあなたは問うかもしれません。

おお、みなさん、聞いてください。

私がこれまでのクリスチャン生活で発見したのは、神のまことの民であってさえも、生活のある領域において、彼らは罪に打ち勝つことができなくなっているのです。

なぜか?その人の持している他の罪のためです。

そしてそういった「他の罪」が、あなたの内におられる聖霊を悲しませています。

その結果、あなたは性的誘惑を克服することができなくなっているのです。

そして、そういった「他の罪」の代表格が、他ならぬプライドなのです。

☆☆

今このメッセージを聞いている何人かの方々にとって、この指摘はかなり的を射たものと感じられるかもしれません。

何人かの方々は、神様に対してなにがしかの憤怒と苦々しい思いを抱いているために、この領域において問題を抱えています。

「ああ、なんで自分には夫が与えられていないんだろう。」

「なぜ妻がいないんだろう?」

「神様は私にそういう配偶者を与えてくださっていない。」

そういった葛藤の中、あなたは神様を責める思いに捕らわれ始めました。

そうして次には自己憐憫に陥り、それがこういった種類の罪へとあなたを誘っていきました。

そしてあなたの中で神様に対する怒りの気持ちが芽生えてきました。

でもそれは何かとはっきり言いますとやはりプライドです。

あなたの中には主の前にへりくだることを拒む思いがあります。

ですからもしあなたがそのプライドを悔い改め、その苦々しい思いを悔い改め、神の力強い御手の下と、そして現在、主があなたを置いているその状況の下にへりくだるなら、、、

あなたは今自分が独身であることを好んでいないかもしれません、、、

でも今現在の状況において、神様はあなたをその状況に置いておられます。

だからもしあなたがへりくだり、そこに自分自身を従わせることができるなら、あなたはその時、自分に注がれる神の恵みを実際に体験するでしょう!



祈り

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天のお父さま、

この問題で、人知れずもがき苦しんでいる愛する同胞のために祈ります。

あなたはこの方の葛藤する心をご存知です。また彼のあなたに対する真実な思いをもご存知です。そして、現在置かれているさまざまなつらい状況もご存知です。

おお、どうかこの方にbreak throughを与えてください。

その苦しみ・葛藤を理解し、共に涙を流し祈ってくれる真実な仲間を彼に与えてください。

彼がこの問題に支配されるのではなく、御霊の力により、これを逆に足元に踏み砕くことができますように。

彼を勇士にしてください。勝利を与えてください。

そして彼を最後の最後まで支え続けてください!

イエスさまの御名によってお祈りします。アーメン。
















私はヨブの話にとても慰められています。彼も「もう耐えられない」って思う時があったのでしょうか。

神様が本当に自分のことを見放ずにいてくれているのか、ヨブも疑うことあったのかな?

耐えられないほど痛みがひどくなって、それでもう「この先、僕の暗闇はけっして過ぎ去らない」って思うこともあったのかな。

それは彼にとっての暗いトンネルだったのかもしれない。

で、私、思うんです。――その時、彼は向こうの方に淡い光を見ることができていたのかなって。



上の文章は、海外のティーンの女の子からの手紙の抜粋です。

彼女は主を心から愛しています。

しかし(彼女曰く)アップダウンが激しく、感情的に激しく神様を愛する時があるかと思えば、今度は逆に全く神様の愛が感じられず、不安で、真っ暗で、どうしようもない気持ちになる時も多く、、、今、自分が、暗いトンネルの中にいるように感じていると書いていました。

傷と痛みと試練の中を通らされているように思います。

何度も暗闇に飲み込まれそうになりました。ほとんど希望を失いかけた時も多々あります。でも神様はそんな私にいつも誠実であり続けました。

一つの試練が終わると、主は私を回復させてくださいました。試練を受ける前に比べ、私は二倍にも成長したように思います。でもそういった成長は赤ちゃんの歩みのように本当に遅々としたものです。

でも少なくとも、私は今、どこかには至りつつあるという実感があります。少なくとも、止まらずに動いているっていう実感です。



この少女の手記を読む時、私は自分自身のティーン時代を思い起こさずにはいられません。

彼女と同じように、私も浮き沈みが激しく、また強烈なエネルギーや情熱をどこに発散すればよいのか分からず、自分のエキセントリックさにおびえているという状態でした。

小学校2年生の時、近くのお店でポルノ雑誌を見つけ、私はそれが何なのか、なぜこのような雑誌があるのかを周りの大人の人たちに尋ねました。

小学校6年生の時、「あと70回位、夏を迎えたら、私たち人間はみんな死んでしまう。」ということを学校の先生から聞いて、その日の夜、泣きながら、「私は死にたくない。無くなってしまいたくない。」とその恐怖を訴え、なぜ人間は死んでしまわなければならないのかを周りの大人の人たちに尋ねました。

中学校の時、私は自分がなぜ友だちのことを嫉妬するのか、そのことを非常に悩み、その苦しみを周りの大人の人たちに訴えました。

でも、私の記憶の中では、周りの大人の人は、そんな自分をやさしく受け止めてはくれても、肝心のその「問い」に答えてはくれませんでした。

戸惑っていたのかもしれません。あるいは大人の人たちもその答えを知らなかったのかもしれません。または私の尋常でないエネルギーと真剣さに「引いて」しまっていたのかもしれません。あるいは単に私が支離滅裂なだけだったのかもしれません。

でもやはりさみしかったです。

☆☆

今、若い姉妹たちが、私に何かを訴えてきています。

彼女たちは一生懸命です。いつも全力投球です。

フルパワーで私に向かってきます。

だから私もフルパワーで彼女たちに向き合いたい。

――私も昔、周りの大人の人たちにそうしてもらいたかったから。

「人の心は病苦をも忍ぶ。しかし、ひしがれた心にだれが耐えるだろうか。」(箴言18:14)っていうこのみことばを暗唱しようって思ってます。

これからはもう「ひしがれた心」じゃなくて、「贖われた心」の持ち主として生きていきたい。

そうして、この混乱した世界にあって、私もまた、他の人を励ます人へと変えられていきたい!



アーメン!

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Overcoming Sexual Lust and Temptations by Zac Poonenから抄訳


多くの若いクリスチャンたちは言います。「自分には仲間のクリスチャンも、行くべきユースの集会もない」と。

しかし創世記のヨセフをごらんなさい。当時17歳の彼には、聖書も、行くべき教会もなく、(新約時代に生きる私たちのようには)聖霊にも満たされていませんでした。しかも母親はすでに亡くなり、兄たちは彼をひどくあしらっていました。

しかし、彼は現代の多くの若者が失ってしまったあるものを保持していました。――そうです、ヨセフ青年は、神を畏れる心を持っていたのです。

神に対する崇敬と畏れ、これは実際、現代の若者たちに全く欠けているものと言っても過言ではありません。

しかし多くの年月を経て私は悟りました。これこそがもっとも大切な必要条件であるということを。

箴言9:10には「主を畏れることは知恵の初め」と書いてあります。知恵とは、キリストのいのちです。キリストのいのちは、主を畏れることから始まります。

バイブル・スタディーや集会、、、それらすべてに先立って、主を畏れること、これが求められているのです。クリスチャン生活の初め(基盤)はこの主を畏れることにあります。

☆☆

創世記37章2節をみてください。「ヨセフは17歳のとき、、」と書いてあります。17歳です。いったいこの位の年頃のティーンはどんな情熱(passion)を持っているのでしょうか。

ええ、私はその中身を知っています。なぜなら私もかつて17歳の青年だったからです。そうです、彼らの情熱とは、「情欲」これに尽きます。

17歳の健康な男子なら一人として例外なくこれを最大の問題として抱えています。ですからあなたが今その問題を抱えているからといって自分のことを異常だと思わないでください。

☆☆

なぜ私はこのトピックをこれほどオープンに言い切っているのでしょう?

なぜなら自分が17歳の時、教会で誰もこのことを語ってくれる大人がいなかったからです。私の通っていた教会は聖書主義の良い教会でした。

でも当時私の抱えていたこの問題に光を当ててくれる人はただの一人もいませんでした。こういった性的妄想をいかに克服していけばいいのか、私を教え導いてくれる人は本当に皆無だったのです。

教会の教師たちは旧約の天幕のことや、それらの器具の霊的意味などを私たち若者に説明してくれていました。でもはっきり言って、当時の私の悩みは天幕のことなどでは全くなく、問題はまさに情欲のこと、これに尽きました。

例えて言えば、私はがん患者として病院に行ったのに、病院の人たちはてんで癌のことには触れず、たわいもない私のシャツの縫い目のことなどを始終話題にしているような、そんな感じでした。

それが私の教会の現状でした。ですから20歳になった時にも、私はそういう問題を抱える自分のことを異常だと思い悩んでいました。「私は新生したクリスチャンではないのか?それなのに自分はなぜこんなに七転八倒しているのか?」と。

しかし、みなさん、新生したクリスチャンにはもはやそういう葛藤はないのでしょうか。いえ、新生した信仰者にもそういう葛藤があるということを私はみなさんに申しあげたいと思います。

☆☆

17歳から20歳までの3年の間、本当にただの一度も私の教会の牧師や教師たちは、そのことをテーマに取り上げてくれなかったのです。

それで私は「きっと先生たちには僕の抱えているような問題はないのだろう。ただ自分だけがこういう所で未だに葛藤し続けているのだろう」と思い込んでいました。

しかし、後になって、彼ら教師たちがなぜ一度もこのテーマに触れなかったのか、私は、その真の理由を知るに至りました。――そうです、なぜなら彼ら教師たち自身、皆、この領域で敗北し続けていた人々だったからなのです。

40代であろうと50代であろうと、彼らは情欲に関するこの領域で勝利してはいなかったのです。だからこそ彼らは、そのテーマを教会の中で真正面に取り扱うことを避けていたのです。

そして私は知りました。この問題に率直に言及できる人は、この情欲と必死に闘い、それに打ち勝ち、イエス・キリストがそこから自分を解放することができる御方である――そのことを知っている人だけであると。

そこで私は主に祈りました。

「おお主よ。私自身、決して知らず、また教わってもこなかったこれらのことを今後私は生涯賭けて、若いクリスチャンたちに伝え、励ましたいと思います。――彼らが性欲の問題を抱えているのは異常なことではないこと。

新生したクリスチャンであっても依然としてこの問題は私たちに付きまとうこと。そしてこれは非常に大きな重圧であること(女性以上に男性の信仰者は尚更)。

しかしそれであっても私たちはそれと闘わなければならないこと。そして主はそれに立ち向かう力を与えてくださること。そして闘い続けるなら、やがて、私たちが勝利者となる日がくるということ」を。

☆☆

情欲の問題は、――ゴリアテがダビデの足元に踏みにじられたように――やがて、あなたの足元に踏みにじられるようになるでしょう。しかし当時、イスラエルの民は皆、この巨人の前に恐れ震えあがっていたのです。「誰がこの巨人に打ち勝つことなどできよう?」と。

情欲(sex)は、現在、キリスト教会のただ中で、巨人ゴリアテのように「誰が我を征服し得よう!」といきり立っています。

そして50代の長老であってさえも、その前に屈服し、「まことにそうだ。この巨大な情欲に打ち勝つことなどできない。だからこの問題はそこにそっとしまっておこう」と言っているのです。

☆☆

おお、17歳のダビデは現在、どこにいるのでしょう。誰が巨人ゴリアテの前に勇み行き、「私はイエス・キリストの御名によってお前に対決を挑む。そして必ずやお前をわが足元に踏みにじり、頭を切り離してやる」と宣言するのでしょうか。

ダビデとゴリアテの話は、日曜学校で子どもたちを楽しませるための「ストーリー」に過ぎないのでしょうか。

否!これは、たといサウルのような年長者が皆一様に恐れおののいていようとも、あなたたち若者が立派に闘い征服していくことができることを示しているのです。

親愛なる若いクリスチャンのみなさん、この闘いを立派に闘い抜きなさい。

若い女性たち、結婚まであなたの純潔を保ちなさい。それは未来のあなたの夫に捧げることのできる贈り物なのです。そしてあなたは幸せな結婚生活を送るでしょう。

若者たちよ、性的誘惑に襲われる時には、雄々しく立ち上がり、「私は他の人たちのようには決してならない!」と宣言しなさい。

☆☆

現代においてこのような姿勢は非常に大切です。

創世記37:5をみると、「ヨセフは夢を見た」とあります。さて、次なる質問です。17歳の男子が見る夢とはいったいどのようなタイプの夢なのでしょう。そうです、やはり情欲にまつわる夢です。

そして私たちがこれらと闘わないなら、50歳になったところで依然としてあなたはこういった夢を見続けるでしょう。

特に淫乱に満ちた今日の社会にあっては尚更そうです。卑猥なイメージは街の至るところにあり、この世の君であるサタンはこういったイメージを私たちの脳裏に注入することにより、神の民を汚染しようとしているのです。

そしてサタンは多くの牧師や説教者を性的に腐敗させています。

ある説教者が不倫の罪を犯したことが発覚します。しかしこういった説教者の性的罪は、一晩でなされたものではないのです。

この人は実に25年間というもの、性的妄想の罪を犯し続け、インターネットでポルノ画像を観、このようにして長年の間、主に対し不誠実な歩みをし、秘密裡のうちに罪を犯し続けていたのです。そしてその結果、ついにある日、捕えられてしまったのです。

そうすると彼は次のように言います。「おお、しかしダビデ王もかつて姦淫の罪を犯しました」と。

ダビデもあなたのように姦淫の罪を犯しましたと?いったいあなたは旧契約の下に生きる旧約の王なのですか。それとも、新契約の下に生きる説教者ですか。

(旧契約下の)ダビデの例に避け所を求めようとする人々よ、あなたに問います。聖書はあなたの罪の避け所を提供するために書かれた書物なのでしょうか。

それともあなたに「聖くなりなさい」と教示する書物なのでしょうか。

あまりにも多くの説教者たちが罪の言い逃れのために聖書を利用しようとし、姦淫の罪を犯した後も、ダビデの例を挙げつつ、また元の役職に戻ろうとしています。

しかしパウロやペテロ、ヨハネやヤコブは不倫の罪に陥ったでしょうか。

なぜあなたはいつもダビデ王の元にばかり逃れ、パウロやペテロと自分を比較しないのでしょうか。

使徒たちもまた若い男性たちでした。彼らもまた性的誘惑と闘っていたのです。ペテロも闘っていました。彼は既婚男性でしたが、それでもやはり闘わなければならなかったのです。

☆☆

ヨセフの見た夢は、未来に関する預言的な夢でした。そしてこれらの夢は13年ないしは15年後に成就されたのです。

17歳の若い彼―聖書もなく、教会もなく、ユースの集いも聖霊のバプテスマもない環境にあったヨセフに対し、神はこのような預言的夢を与えてくださったのです。

それでは神はあなたよりもヨセフを愛しているのでしょうか。いいえ、そんなことはありません。

しかしヨセフには渇きがあり、切なる願望があったのです。そしてこれは今日の若者の間にはほとんど見られない種類のものです。

みなさん、いのちに至る道は狭いのです。そしてそれを見い出す人は稀です。しかし今これを読んでいる方の中に少数ですがそのような魂がいるはずです。

こういった若い人々は、いのちに至る狭い道を見いだそうと切望しています。

あなたは今日、悔い改めを通し、仲間が進んでいる破滅の道からきびすを返し、狭い門に至る決意をしました。しかし周りにその決意をする人は誰も見当たりません。

しかしあなたは主にこう祈ります。「主イエスよ、周りに仲間は皆無ですが、私はあなただけを見つめ、あなたにつき従っていきます。」

☆☆

17歳から30歳までの間には長く険しい試練と困難があなたを待っているでしょう。しかしそれを乗り越えた人は、30~35歳までの間に主よりの霊的権威を授かるようになります。きっとそうなります。

ヨセフも試練を通らされました。彼の兄たちは彼を殺そうとさえしました。しかし主によって与えられた預言的夢が困難の中にあるヨセフを支えたのです。

そうです、神によって使命を与えられた人を殺すことなど誰であれできないのです。

私もかつて、過激派の人々によって、自分の乗っていた車ごと爆破されかけました。しかしこの殺害計画は失敗に終わりました。

人が神のみこころの内に生きようとしているなら、その人は神に課されしその使命を全うするまで不死です。

自分自身の野望に死に切り、ただひたすらに神のみこころを成していこうとする魂に対し、かならず神はそうなさいます。

☆☆

創39:9で、侍従長ポティファルの妻に誘惑された青年ヨセフは、こう言いました。「どうして、そのような大きな悪事をして、私は神に罪を犯すことができましょうか。」

若いみなさん、性的誘惑に襲われる度に、この言葉を思い出しなさい。「どうして、そのような大きな悪事をして、神に罪を犯すことができようか」と。

☆☆

またあなたはコンピューターの前に座っています。周りには誰もいません。そうすると「(情欲を満足させるべく)あのサイトを観覧したい」という誘惑があなたに忍び寄ってくるかもしれません。

しかしそこで目にする画像(イメージ)はあなたの脳裏に刻み込まれ、その後50年経ってもそれはあなたの脳裏にこびりついて離れようとしないのです

そうです。悔い改め、聖霊の満たしを受けた後でさえも、そのイメージはあなたの夢にたびたび現れ、夜、あなたにつきまとって離れません。こうして苦しい苦しい葛藤が続きます。

25年前にあなたはネット上でのポルノ観覧をやめたはずなのです。

「ああ、あんな映像など見なければよかった。ああ、なんということだ。未だに夢の中で私を汚すとは。」

だからなおさら、私はあなたに強調したいのです。その誘惑に対し断固して闘いなさい

☆☆

もしあなたが主のみこころの内に生き、忠実であり続けるなら、誰もあなたの人生をかき乱すことなどできません。

ヨセフの人生もそうでした。たとい十人の兄たちが嫉妬から彼を殺そうとしても、邪悪な女性が誘惑してきても、――彼本人を除き――彼の人生を破壊できる者は誰もいませんでした。

しかしもし、彼がポティファルの妻の誘惑に屈してしまっていたのなら、その時点でアウトだったでしょう。

そうです。あなた自身を除く、どんな政治権力も、教権も、あなたという人を押しつぶすことはできないのです。

若いみなさん、この世の潮流に押し流されてはいけません。

流れに抗しなさい。立ち向かいなさい。

そして抗しつつ泳ぎ進んでいってください。





肉親の情との闘い


しかし私たちの家族はどうなるのでしょう。

まだ救われていない家族や親せきの近くに住んで、彼らに仕えることでやがて彼らが救われる――それこそ、主が望んでおられることではないでしょうか。

Think globally, act locallyというフレーズのごとく、世界の民の救いのために執り成し祈りつつ、実家にいて家族と共に過ごしてはいけないのでしょうか。

父も母も、祖父母もだんだん老いていきます。

彼らはみな私を必要としているのではないでしょうか。親を悲しませることは罪ではないでしょうか、、

そのような悩みをもつクリスチャンにイエス様はおっしゃいました。

「わたしについて来なさい。」しかしその人は言った。「まず行って、私の父を葬ることを許してください。」

すると彼に言われた。「死人たちに彼らの中の死人たちを葬らせなさい。あなたは出て行って、神の国を言い広めなさい。」

ルカ59,60



あなたは出て行って、神の国を言い広めなさい。」

また「主よ。あなたに従います。ただその前に、家の者にいとまごいに帰らせてください」とリクエストしたクリスチャンに対し、イエス様はこうおっしゃいました。

だれでも、手を鋤につけてから、うしろを見る者は、神の国にふさわしくありません。

ルカ9:62b



しかし私たちの家族は、そうはさせません。真っ赤に目を泣きはらし、「お願いだからうしろを見て、こっちを見て!正気に戻って!」とすがりついてきます。

そして「切実なる情」というものすごい力で私たちの良心を真っ二つに切り裂きます。

ここにおいて多くの宣教師は、人生の修羅場を通らされます。

主イエスご自身も、地上での宣教をしておられた時、そういった肉親の情との闘いをされました。

イエスの身内の者たちが聞いて、イエスを連れ戻しに出て来た。「気が狂ったのだ。」という人たちがいたからである。

、、イエスの母と兄弟たちが来て、外に立っていて、人をやり、イエスを呼ばせた。

、、「ごらんなさい。あなたのおかあさんと兄弟たちが、外であなたをたずねています。」と言った。

すると、イエスは彼らに答えて言われた。「わたしの母とはだれのことですか。また、兄弟たちとはだれのことですか。」

そして、自分の回りにすわっている人たちを見回して言われた。「ご覧なさい。わたしの母、わたしの兄弟たちです。神のみこころを行なう人はだれでも、わたしの兄弟、姉妹、また母なのです。」

マルコ3:21、31-35



私は神のためだけに生まれた。キリストは自分の父よりも、母よりも、妹よりも、家族よりも近い存在、いとも慕わしき友である。だから私は喜んでこの方に従っていこう。愛していこう。

ああイエス!私が求めているのはただあなたのみです。クリスチャンとして、奉仕者として、宣教師としてこれから私が通らなければならないすべての道の先駆けとなられた方、それはあなたです。

ヘンリー・マーティン



み言葉なるキリスト
われと ともにますとは
血を分けたる親子も
およばざる つなぎなり




信仰は生死の問題


それにしても、キリストは、聖書の示すとおりに、「私たちの罪のために死なれ、葬られ、聖書に従って三日目によみがえられた」(1コリ15:3,4)のでしょうか。

本当に地獄は、永遠の滅びは存在するのでしょうか。

本当に、「この人による以外に救いはない。わたしたちを救いうる名は、これを別にしては、天下のだれにも与えられていない」(使4:12)のでしょうか。

これらの問いに対して永遠の「Yes」、永遠の「アーメン」を答えた人は、イエス・キリストへの信仰が生死の問題であることを自分に、そして公に宣言することになります。

つまり、そこに人生を賭ける、もう後には引かない、ということです。


苦しむ民の元へ


イエス様のご関心はいつも失われた罪びとにあります。罪と闇の中で苦しむ民にあります。

ですからイエスの御霊を持つ私たちの関心も、失われた罪びとに向かいます。

ああ主よ、どうか私たちがあなたの心を持って滅びゆくこの世界を、この民を見ることができますように。

福音を聞くことなく永遠の滅びに向かいつつある魂の悲惨から目をそむけることなく、私たちが彼らを祈りの内にかき抱き、彼らの元に行くことを熱望するようになりますように。



死の陰に住み、死にゆくわが民。
絶望と飢えに囚われ 泣くわが子ら。

ああ たえまない わが心の悲しみ。


われいざ立ちて、彼らの枷をはずし、
その涙をぬぐわんと欲す。


誰がわれを呼び 彼らに救いをもたらすのか。
誰がわがために行き、わが愛を伝えるのか。


その日をわれ望む
わが子らが生き返るその日を。


歓喜の賛美が天に満ち、
全地をおおう その日を。


고형원, 사망의 그늘에 앉아, 私訳



ーもしこの地上で神に課された使命が自分にあるのなら、
私はどうしても死ねない。

ーキリストの働き以外に、わが人生に他の働きはない。

ーああ、主のために我をことごとく燃焼させたまえ!

ヘンリー・マーティン



愛する兄弟、愛する姉妹、あなたは行きますか。

イエス様の大宣教命令に、心からそして永遠に「Yes」と答えますか。

そしてその道にあなたの人生すべてを賭け、注ぎ出しますか。





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特定の場所や、人、もしくは物など、、一時的な性質のものに愛着を感じ始める時はいつでも、そういったものは私の元から取り去られていった。アーメン!この地上で一介の旅びと、そして巡礼者として生きてゆかんことを。そして私たちが皆、痛ましい変遷のもはや存在しないふるさと――より良い天にある国――に導き入れられんことを。

ヘンリー・マーティン(1781 –1812)
インドおよびペルシャへの宣教師



愛する兄弟姉妹のみなさん、このブログを通してみなさんと交わることができ、とてもうれしく思っています。

さてあさってから宣教の働きのため外に出かけます。5月中旬ごろにまた戻ってくる予定です。

出発に先立ち、私はこのブログを読んでくださっている若いクリスチャンのみなさんにメッセージを残していこうと思います。

☆☆

この世のメディアは毎日のように恐ろしいニュースを流しています。

そしてサタンは私たちの恐怖心をあおり、こうささやくのです。

「ほら、あそこは、住民を食い尽くす地だ。あそこにいる民はみな、背の高い者たちだ。彼らに比べれば、お前たちはいなごのような存在だ(民13:32、33参)」と。

そうすると、私たちは自分を守ることに精一杯になり、弱気になってこう言うのです。「ああ、私たちはあの民のところに攻め上れない。あの民は私たちより強いから」(民13:31)。

こうして民はパニック状態になっていました。

しかしその時、一人の男が立ち上がり、信仰によってこう宣言したのです。

私たちはぜひとも、上って行って、そこを占領しよう。必ずそれができるから。

民13:30



口語訳では、「わたしたちはすぐにのぼって(go up at once)、攻め取りましょう。わたしたちは必ず勝つことができます」となっています。

神の人カレブはここで「そうですねー、えーと、しばらく様子をみて、じっくり祈ってから、どうするのか決めましょう」とは言わず、「すぐに(at once)上って攻め取ろう」と仲間たちを鼓舞したのです。

また各地を巡回していたパウロはある晩、一つの幻を見ました。

ここで夜、パウロは一つの幻を見た。ひとりのマケドニヤ人が立って、「マケドニヤに渡ってきて、わたしたちを助けて下さい」と、彼に懇願するのであった。

パウロがこの幻を見た時、これは彼らに福音を伝えるために、神がわたしたちをお招きになったのだと確信して、わたしたちは、ただちに(immediately, εὐθέως)マケドニヤに渡って行くことにした。

使徒16:9-10



きっと前日までは、パウロの脳裏の中にマケドニアの「マ」の字もなかったと思います。彼としてはビテニヤに行きたかったのです。

しかしイエスの御霊はそれを禁じ(使16:7)、その代りに幻を通して、マケドニア・ミッションが示されました。

その際も、パウロは「えーと、これからじっくり祈って、黙想して、いろいろな方に相談して、fund-raising(宣教基金カンパ)の可能性を検討して、、、」ともたもたすることなく、ただちにマケドニアに渡って行くことにしました。

ガリラヤ湖で網を打っていたシモンとアンデレにも、ある日、突然、生涯を一転させるような出会いと召命が与えられました。

イエスは彼らに言われた。「わたしについてきなさい。あなたがたを、人間をとる漁師にしてあげよう。」

すると、彼らはすぐに(straightway, εὐθέως)網を捨てて、イエスに従った。

マルコ1:17、18



イエスの召しに答えるべく、彼らは少しの躊躇もなく、「Yes!」と即答し、きっぱり仕事をやめ、人間をとる漁師(宣教者)になる道を選び取りました。

日常から非日常へ、安定から(この世的な意味での)不安定、慣れ親しんだ環境から未知の領域へと、彼らは飛び込んで行きました。



つぎに続きます。


喜びと祝福

さて私は「万人救済説に対する私たちの応答と生き方」という記事の中で、次のようなことを書きました。

もしこういう万人救済の教えが本当に正しいのなら、そして「イエス・キリストを信じても信じなくても皆救われる」のだったら、、、そしたら、私が二十代半ばで地球の裏側までやって来て、今この地にいること自体、愚の極ということになります。

もしこの教えが本当に正しいのなら、私は20代から30代という人生の一番盛んな時期を、全くムダなことのために浪費してしまったことになります。



でも実際、それはムダでないばかりか、私にとってこの十年は、まさしくこの上ない喜びであり、祝福の日々でした。

私は多くの魂のまことの新生に立ち会うという祝福をいただきました。

もっとも恵みの流れていかないような低い場所で、栄光の主が高く上げられているのを目撃しました。

そして何より私にとっての最大の奇跡は、彼らが私の家族になったことです。彼らと共に生き、苦楽を共にし合う仲間になったことです。

私は姉バカになってしまいました。入れ墨の人も、刑務所上がりの人も、薬物中毒者も、ひどくかわいい弟たちのようになりました。

また主は私を奮起させ、中央アジアの一方言を学ぶよう導かれました。

活字のない方言を習得するには耳で聞いて覚えるしかありません。しかしその方言を話す女性たちの心を理解したいという思いがそれらの困難を乗り越えさせてくれました。

最後に、私が去年書いた「ナヒードのために」という詩をもってこの証しを終わりにさせていただきます。


「ナヒードのために」


うつろな褐色の目を上げて
あなたは 私を見る


ナヒード ナヒード


アフガニスタンから イランへ
イランから トルコへ
トルコから ギリシアへ


乳飲み子をかかえ
国から国へと あなたは 放浪を続ける


ナヒード ナヒード


戦禍と労苦は
若い乙女を 老婆にした

ああ ナヒードの心に 「光あれ!」

冷たい墓の下から ラザロを呼び起こされたイエス様、
どうか ナヒードを生き返らせてください


表情のない アフガン娘
笑うことをしらない その口 その目 その頬


ああ この娘の砂漠を
潤ったオアシスの園にかえてください。


真っ暗なこの国に
一つ また 一つと 十字架の明かりがともされる


やがて その明かりは
満天の星のごとく 
国中に輝きを放つようになるでしょう


そして いつの日か きっと
いつの日か きっと


私は ナヒードと共に
花婿イエスの前で
愛の賛歌をうたうでしょう。



flower rose






中東の人々への執り成し


その部屋に入ると、中東地域の地図を前に、三、四人の方が祈っていました。

その数の少なさは、まさにこの地域の人気のなさを象徴しているかのようでした。それでもその数人の方は私という追加者にかなり励まされたようでした。

それから週ごとに私たちはこの部屋に集まり、祈りました。

でも私は祈れませんでした。なぜなら恐れる気持ちが余りにも強く、祈るどころではなかったからです。

そこでまず私は「主よ、私の心からこの恐れを取り去ってください」と祈りました。

愛には恐れがありません。全き愛は恐れを締め出します。なぜなら恐れには刑罰が伴っているからです。恐れる者の愛は、全きものとなっていないのです。Ⅰヨハネ4:18



しかしイエス・キリストの御名による祈りには人の心を変える力があります。

それは生来愛せないものを愛することができるよう人の魂に働きかけます。

次第に主は私の心の中から恐れを取り除いてくださり、まだ会ったことも見たこともないこの地域の人々に対する思いを心に植えてくださいました。

「まだ会ったことも見たこともない人々に対する思い」――これはその後、私が実際にこの地域の人々と関わるようになった後、私を支える証しになりました。

なぜなら彼らに対する私の愛が、単なる同情や人間的な愛着によるものでないことをこの証しは私に確認させるからです。

この思いは祈りの中で主によって植えられ、育まれていったものでした。



(その4に続きます。)





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