ディミトリスと申します。私は20歳の見習いコックです。私は1996年、ギリシャ中部にあるヴォロスという所で生まれました。




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母は10年近く子どもが欲しかったけど与えられず、体外受精を望んでいましたがお金がありませんでした。


ところがある時、宝くじを引いたらそれが見事に当選し、それで、めでたく僕が生まれることになりました。




両親の不和



母は一応、福音派のプロテスタント教会に通う信者でしたが、父は未信者でした。


両親の仲は悪く、私が15歳の時、父と母は別居を始めました。


その頃から私もタバコやお酒を始めました。煙草は一日二箱、そしてウィスキー三昧の毎日でした。


ハーリー・デイビッドソンに憧れ、あちこちにピアスもしていました。


一時的に、両親はよりを戻し、再び同居を始めたりもしていましたが、結局、私が18歳の年に(つまり二年前)二人は正式に離婚しました。




父への怒りが爆発する




父との関係は最初から悪かったのですが、二年前、それは最悪の状態になっていました。


ある日、父の家にいた時、ささいなことがきっかけで口論になり、積もり積もった父への怒りがついに爆発してしまいました。


私は玄関の戸を渾身の力をこめてへし折り、外に飛び出しました。


そして父に電話し、「お前は僕をこの世に送り出した。それなのに、お前のせいで僕は今殺されかかっている。それが分かっているのか!」と絶叫しました。


そして携帯を地面に叩きつけ、粉々に破壊しました。そして車に乗り込みました。


過度の怒りで呼吸もできないほどの状態になっており、この先、あと2、3分、この状態が続いたら、自分はきっと死ぬだろうと思いました。




神への叫び




2015年11月9日、下宿先に戻った私にある重大な出来事が起こりました。


何かに押し出されるかのように、私は地べたに跪き、「神よ、私を救いたまえ!」と泣きながら、叫んだのです。


すると、信じがたいことが起こりました。


イエス・キリストの聖なる血が頭の上から私の全身に注がれ、その瞬間、ある強い手が私の後ろ首のあたりを掴み、しばらくすると、その御手は私の頭の上に置かれました。


まるですべての宇宙が私に臨んでいるかのようでした。


そして私の心は愛の火山で燃え上がりました。


これまでの重く、沈んだ心が今や去り、私は「主に栄光あれ、主に栄光あれ」と歓喜の内に、主を讃えていました。


私は母や叔母に電話し、自分の身に起こったことを話しました。また、父を赦す心も与えられ、父にも安否を尋ねる電話をかけました。




聖霊のバプテスマ



それから約1カ月後の2015年12月4日、私の魂は、その日、自分が聖霊の注ぎを受けるということを内に知りました。


どうしてそれを知ったのか口でうまく説明することはできませんが、とにかくそれが分かったのです。


そして私の魂は聖霊の注ぎを熱望していました。


そこで寝る前、いつもならパジャマを着るところですが、その晩、私は白いワイシャツを着込み、一番上等のズボンを履き、そして香水もつけ、聖霊なる神様を迎える準備をしました。


そして跪き、祈り始めました。


すると、聖霊がくだり、私はアラビア語やロシア語など自分の知らない外国語で神を賛美し始めました。




テルミ市の教会に導かれる



その頃、私は下宿先から遠く離れたところにある福音派教会に通っていました。


ある日、バスに乗っていたら、同じ福音派教会に通う兄弟にばったり会い、私たちは会話を始めました。


その兄弟は私がテルミ市に下宿しているということを聞くと、「あそこにはΑποστολικη Εκκλησια Πεντηκοστης(Apostolic Pentecostal Church in Greece)という教会があるはず。近くだし、そこにも一度行ってみたら?」と勧めてくれました。


こうして私はテルミ市のこの教会に導かれ、今年の1月25日、そこの教会で水の洗礼を受けました。




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テサロニケ地方のテルミにある聖書主義ペンテコステ教会の主日礼拝の様子。ディミトリス君はここの教会で洗礼を受けました。





クレテ島へ




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クレテ島




2016年6月、私は料理学校の夏季実地研修生として、クレテ島のヘラクリオ市にある厨房に送られました。


私は主にある兄弟姉妹を探し求めました。すると、クレテ島においても、主は私に兄弟姉妹および教会を与えてくださったのです。


しかし厨房から教会までは片道2時間半かかりました。


そこで私は主に祈りました。「主よ、どうか私の仕事が午後の3時で終わるようにしてください。そうすれば毎晩、教会の集いに参加することができます。」


すると、主はその願いを聞き入れてくださり、こうして私は、教会の祈祷会や集いに欠かさず参加することができるようになったのです。



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コック長に伝道する



厨房のコック長は、ひわいな話をすることが好きな人で、いつも私をそういった話に巻き込もうとしていました。


私は彼の所に行き、「静かにしてほしい。そしてそういう話はしないでほしい」と頼みました。


しかしコック長は全然、話を聞き入れてくれませんでした。


そこでまた別のある日、私は彼に言いました。「あなたの人生の目的は何ですか。あなたは何をしたいのですか?」


すると彼は私に、「実のところ、僕は正教会のパパス(聖職者)になりたかった」と言いました。


そこで翌日、私は新約聖書を厨房に持参し、彼にそれを手渡しつつ言いました。「これを読んで、いのちを得てください。」


すると彼は「昔、ヨハネの黙示録を読んだのだが、怖くて途中で読むのをやめてしまった」と告白しました。


そこで私は「それなら、マタイの福音書から始めるといいですよ。」と彼に勧めました。





イエスの御名によって誘惑に打ち勝つ




ある時、厨房に隣接したホテルの入り口に三人の女性が現れ、私の体に触りながら、私を性的に誘惑しようと忍び寄ってきました。


20歳の若者にとってこのような誘惑に打ち勝つのは至難の業です。


しかし私は聖霊に満たされ、三人の女性をホテルの入り口の方までぐいぐい押し返し、「Don't touch me. Jesus is ALIVE!(=私に触れるな。イエス様は生きておられる!)」と宣言しました。




:ディミトリス兄弟、日本にいる10代、20代の若者たちに応援メッセージがありましたら、どうぞ!



:もしあなたがこの世にあって呼吸したい(breathe)なら、それなら、神を信じてください。


そして覚えていてください。神様の外側にあるすべてのものは、やがてあなたを死に導く、ということを。




ーおわりー




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おお、炎よ (ケイガンの詩と祈り)


「教会の偽教師につまずき傷つけられても、僕は最後までイエス様につき従っていきます!」―ジョエル・ホースト兄弟(26)にインタビューしました。


ジョエル・ホースト君の作った賛美 A Radical For Jesusを聴いてみよう!(前回のインタビュー記事のつづき)






どんな外的困難にぶつかっても私たち宣教者は、主よりの力と勇気をいただき、再び前進していくことができると思います。


しかし、自分の陣営に戻った時、(本来共に励まし合うべきはずの)仲間たちが、「考えてみてください。あなたにはそもそも兵士として戦場に出て行く資格自体ないのではありませんか。あなたのやっていることは主のみこころに反していると思います。」と言ってきたと想像してみてください。


「兵士としての資格自体がない」

「主のみこころに反している」、、、


しかも、それを言ってくる方々は、まじめな聖書信仰のクリスチャンたちなのです。さあ、大変です。



☆☆


8年ほど前になりますが、日本に一時帰国し、知り合いの姉妹の通う、ある教会のリトリートに参加させてもらったことがありました。


そのグループは、聖書主義の福音派に属し、すばらしい兄弟姉妹がたくさんおられました。


しかしながら、(今思うと)その教会では、教えの中で、家族の救いの大切さが非常に、そして少し度を過ぎるほどに強調されているようでした。


姉妹たちの何人かは、私の家族がまだ救われていないこと、現在、宣教の働きのために私がギリシャに滞在しているということを聞くと、深刻な顔で私の所にやって来られ、冒頭の戦友たちのような言葉を次々に発せられました。


彼女たちに言わせれば、自分の家族を救いに導くことさえできていない人には、遠く外国まで宣教に行く資格はない、ということでした。


「あなたはまず、主との関係をしっかり持った方がいいと思います。」そうも言われました。


☆☆


みなさんに申しあげますが、この方々のこういった言葉は、それまで宣教地で味わってきたどんな困難、孤独、欠乏にもまして、私をdiscourage(消沈)させました。


ギリシャは、正教徒クリスチャン以外に宣教師ビザが下りない国なので、ビザのことでは当初から苦労してきました。


ある宣教師の家族は、3カ月ごとに車でEU圏を出、一日外で待ってから再びギリシャ国境を越え再入国し直すということを14年間繰り返していました。


私は私で、いろんな種類のビザをつぎはぎしつつ、何とか合法的に滞在できるようもがいていました。


また、見知らぬ文化や言葉の中で時にはどうしようもなく辛くなったり、窮地に追い込まれ、涙が止まらなくなったこともありました。


それでも、私をギリシャにとどまらせたのは、これが自分に課せられた主からの使命だという自覚であり、その使命遂行のためなら、どんなに辛い目に遭ってもここにとどまりたいと私は願っていました。


しかし、「自分の家族を救いに導くことさえできていない人には、遠く外国まで宣教に行く資格がそもそもない」という仲間のクリスチャンたちからの裁きは、困難の種類うんぬんではなく、宣教への士気そのものを喪失させるに足りるほどの破壊力をもって、私をダウンさせました。


またギリシャでの宣教が、「主のみこころに反している」と断定されたことも私には衝撃でした。


さらに、ダウンした私にここぞとばかりにサタンはつけ込み、


「あなたの宣教生活には困難が多いじゃないですか。それは、とりもなおさず、それが主のみこころに反したものだからではないですか。あなたは道を誤っているのではないですか。おとなしく日本に戻るのが『主のみこころ』だとは思いませんか。まずあなたの家族を救う。そこから始めなさいよ。」


としきりに囁いてきました。


☆☆


それでもその年、私はまたデモや暴動の絶えないギリシャに戻りました。でも本当に辛かったです。


重い心と重い足をひきずるようにして、泣きながら飛行機に乗り込みました。


そんな私をギリシャに戻らせるにあたり力を与え励ましてくれたのは、日本で長年奉仕しておられる外国人宣教師の方々でした。


「自分の家族を救いに導くことさえできていない人には、遠く外国まで宣教に行く資格がそもそもないのなら、私にだって、日本への宣教師になる資格はありませんよ。」と彼らは、祖国の家族のことを静かに語ってくれました。


それを聞いて驚き、かつ心打たれたのは、日本人の救いのために祖国を離れ、家族を離れ、やって来られた宣教師お一人お一人にもまた、祖国に救われていない弟がおり、父がおり、息子がおり、それぞれに内なる悲しみと重荷があるということでした。


パーフェクトな環境で、皆に拍手喝さいされる中、日本に送り出されてきた宣教師など一人もいないということが分かりました。


でも、こういった宣教師の方々は、そういった一身上のいろいろな問題や悩みを主に委ね、「とにかく一人でも多くの日本の方々にイエスさまの救いと愛を知っていただきたい」という思いと献身で、祖国を離れる決心をされたのです。


マタイ6:33

だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。




たしかに、聖い神様の目から見たら、罪びとである私たちには、何者かになる「資格」なんて、そもそもないのだと思います。それは真実だと思います。


でもそういった資格のない人間たちが、主の一方的な憐れみを受け、尊いこの福音を携え外に出て行くことが許される幸い――。


その意味でも、福音宣教の働きというのは、はじめから終わりまで、主の恵みに尽きるのだと本当に思います。罪びとに注がれるこの恵みにただ感謝するばかりです。


読んでくださってありがとうございました。






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ミャンマーの村で奉仕する宣教師 source




今朝、高校三年生のクリスチャン・ユースからうれしいお便りが届きました。


彼女は昨日、近所の図書館に行って、アラビア語とギリシャ語の学習書を借り、将来の宣教に備え、昨晩からさっそく、アラビア文字の習得にとりかかり始めたというのです!ハレルヤ。


そこで今日は、彼女をはじめとする高校生クリスチャンに向けて応援メッセージを書こうと思います。


☆☆


私がみなさんに伝えたいひと言――それは、ずばり「一極集中の人になろう!」です。


この世の中には、それ自体はけっして悪ではないさまざまな催し物、活動、趣味、文化観賞などが溢れています。


また、大学に入ると、今度は、各種サークル活動、旅行、友だちとのつき合いなど、忙しくしようと思えば私たちの生活はいくらでも忙しくなりえます。


しかし今日、私はあえて、みなさんにchallengeしたいと思います。それはみなさんが宣教の情熱に燃えているユースだからです。


あなたの中のあれやこれやの一部分に、福音宣教というものが位置しているのではなく、福音宣教そのものがあなたの人生の主軸なのです。つまり、そこを中心にあなたの生活・人生が回っていくのです。


福音宣教に一極集中するなら、そして「どうしても必要な一つのこと One thing needful」(ルカ10:42参)にあなたのすべてを賭けるなら、おのずから、優先順位が明らかになっていきます。


あなたの教会や学校の友だちは(それ自体はけっして悪ではない)あることを楽しんでいるかもしれません。そのためにお金やエネルギーを注ぎ出し、好んでそのことを話題にしたがっているかもしれません。


そしてそれはあなたの友だちにとっては気晴らしになり、良いものなのかもしれません。しかし、それはあなたにとってはどうなのでしょうか。


☆☆


現在、アラビア語も、ペルシャ語も、何種類かの良い翻訳聖書が出版されています。


その中でも特に高い評価を得ているのが、ヴァン・ダイク訳アラビア語聖書(1867年)とヘンリー・マーティン訳ペルシャ語聖書(1837年)です。



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Arabic Bible: Van Dyke translation


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Arabic Bible: Van Dyke translation



そして驚くべきことに、これらの翻訳作業は、若い外国人宣教師たちによって成し遂げられたのです


27歳でレバノンに遣わされたアメリカ人宣教師ヴァン・ダイクは、猛勉強の末、30代に入り、(先輩であるスミス宣教師の後を継ぐ形で)、ヘブル語・アラム語・コイネー・ギリシャ語の原典から、アラビア語に聖書を翻訳していったのです。



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晩年のヴァン・ダイク宣教師



一方、北インド・ペルシャ地域に遣わされたイギリス人宣教師ヘンリー・マーティンは、病弱な体をおしつつ、これまた尋常でない努力の末、20代後半から、コイネー・ギリシャ語新約原典をペルシャ語やアラビア語、そしてヒンドゥスタニ語に訳し始めました。



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Henry Martyn


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Henry Martyn Persian translation




これらの人たちは皆、一極集中の人でした。福音宣教のこと以外のあれやこれやには目もくれず、ただひたすら神の国とその義のために人生のすべてを賭けたのです。



Ⅱテモテ2:4

兵役に服している者は、日常生活の事に煩わされてはいない。ただ、兵を募った司令官を喜ばせようと努める。





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Interliner Arabic-Koine Greek Project



☆☆



『ジャングルの殉教者』(エリザベス・エリオット著)の中に描かれているジム・エリオットは、1956年、南米エクアドルの奥地で、仲間の4人の宣教師と共に殉教しました。



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一番右がジム・エリオット



それでは、このジムは大学時代、何をしていたのでしょうか。


後にジムと婚約し、結婚に導かれたエリザベスは、回想記の中に次のような印象的なことを書いていました。


――この青年(=ジム)は、学食の配膳を待ちながら、カードを繰りつつ、コイネー・ギリシャ語の単語を一心不乱に暗記していました。。。


彼は自分の人生をキリストに捧げ切っていました。そして自分が宣教師としての召命を受けていることを自覚していました。


だから、遣わされる部族のことばを習得し、聖書を彼らのことばに訳し、いのちの福音を伝えるべく、食事の時間も惜しんで原典のギリシャ語習得に励んでいたのです。


つまり、彼の学生時代は、ひたすら福音宣教を軸にまわっており、他のあれやこれや(trifles)に足止めを食らってはいなかったのです。


そうです、ジムもまた、一極集中の人でした。



死ぬ時がきたら、もはや死ぬ事より他にやり残したことはないと言い切れるようにしておきたい。


~ジム・エリオットの日誌より抜粋




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私は長寿は求めていない。

ただ主イエスよ、あなたのように全き人生(full life:使命を全うする人生)を求めています。


ジム・エリオット




☆☆


私はこれまで数々の愚かな失敗をしてきましたが、一つだけ後悔していないことがあります。


それは、とにもかくにも、救われた直後から今日に至るまで、福音宣教のわざに全力投球してきたことです。


また、「そこに行きなさい」「あの人々に仕えなさい」「これを捧げなさい」「この民族の言語を学びなさい」という召しがきた時、もたもたせずに、迅速にその指令に従ったことです。


また、高校生のみなさんにもう一つ申し上げたいことは、とりあえず、将来的にどこに遣わされるにしても、今のところ、英語を頑張っておいてください、ということです。



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現在の状況下では、あなたが東欧のウクライナに派遣されようと、ボツワナ、パプアニューギニア、インドネシア、ボリビア、フィンランドに遣わされようと、ほとんどの宣教地ではまず英語がどうしても必要になります。(宣教地のこういった言語状況がはたして良いのか悪いのかというのは別問題ですが、、、私がここで申し上げたいのは、それが私たちの直面する21世紀の現実だということです。)


また、マイナーな少数民族の言語を習得する際にも、私たちは英語を介した教材や辞書に頼らざるを得ません。


たとえば、アフガニスタンのパシュトゥーン語を習得しようと思うなら、英語やウルドゥー語等を介して学んでいかねばならないでしょう。


そういった意味でも、みなさんが受験英語にあきたらず、コミュニカティブな側面でも、英語でコミュニケーションをとれるようになっていることは、宣教師として遣わされる上で良い備えになると思います。



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どこにいても、全力でうちこみなさい!「これが神のみこころだ」と信じる、あらゆる状況において徹底した生き方をしなさい。




また、ある方は、ハドソン・テーラー宣教師の伝記を読み、彼に倣って、[宣教の働きの備えのために]体力づくりを怠っていないということです。


これもまた、すばらしい備えだと思います。


特に、衛生状態の悪い地域へ派遣されるミッショナリーは、熱帯性ウイルスや寄生虫なんかをバーンと跳ね返すほどの強靭なスタミナと体力が必要とされるかもしれません。



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私たちは現代のこの世が否定しかかっている神の御力を知っていると告白しながらも、実際には、全くありきたりで、平々凡々な生き方しかしていない。


そう、私たちは当たり障りもなく「無害な」人々なので、危害を加えられることもない。


私たちは霊的平和主義者であり、非戦闘員であり、主権、力、この暗闇の世界の支配者たちとのすさまじい死戦場における良心的兵役拒否者だ。


人との交わりにおいて柔和さは不可欠だ。しかし十字架の戦士として闘いに加わるのなら、そこには豪胆にして、物おじすることのない大胆さが要求される。


それなのに、私たちは未だに「傍観者席」に座っている。そして実際に戦っている人たちをああだこうだと批評しつつ、自らはゆったりと観客席に腰かけ、神の敵どもがほしいままに振る舞うさまを傍観しているのだ。


だから、この世はそんな私たちを憎むことなどできない。なぜなら、私たちはあまりにもこの世の子だから。


おお、神が私たちを「危険な人々」に練り直してくださるように!


―ジム・エリオット




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主よ、私をクライシス・マン(=決断を迫らせる人)にしてください。


私が出会う人々を、決断地点へと持っていってください。

私を一本道の単なる標識にせず、どうか分岐点に立ちふさがる人間とせしめてください。

こうして人は、私の内におられるキリストに直面し、各人が右か左か、己の道を選ばねばならなくなるでしょう。





高校生のみなさん、人生は一回きりです。


あなたは、与えられているその情熱・エネルギー・時間、そして人生を、何のために、そして誰のために注ぎ出したいですか?





私はヨブの話にとても慰められています。彼も「もう耐えられない」って思う時があったのでしょうか。

神様が本当に自分のことを見放ずにいてくれているのか、ヨブも疑うことあったのかな?

耐えられないほど痛みがひどくなって、それでもう「この先、僕の暗闇はけっして過ぎ去らない」って思うこともあったのかな。

それは彼にとっての暗いトンネルだったのかもしれない。

で、私、思うんです。――その時、彼は向こうの方に淡い光を見ることができていたのかなって。



上の文章は、海外のティーンの女の子からの手紙の抜粋です。

彼女は主を心から愛しています。

しかし(彼女曰く)アップダウンが激しく、感情的に激しく神様を愛する時があるかと思えば、今度は逆に全く神様の愛が感じられず、不安で、真っ暗で、どうしようもない気持ちになる時も多く、、、今、自分が、暗いトンネルの中にいるように感じていると書いていました。

傷と痛みと試練の中を通らされているように思います。

何度も暗闇に飲み込まれそうになりました。ほとんど希望を失いかけた時も多々あります。でも神様はそんな私にいつも誠実であり続けました。

一つの試練が終わると、主は私を回復させてくださいました。試練を受ける前に比べ、私は二倍にも成長したように思います。でもそういった成長は赤ちゃんの歩みのように本当に遅々としたものです。

でも少なくとも、私は今、どこかには至りつつあるという実感があります。少なくとも、止まらずに動いているっていう実感です。



この少女の手記を読む時、私は自分自身のティーン時代を思い起こさずにはいられません。

彼女と同じように、私も浮き沈みが激しく、また強烈なエネルギーや情熱をどこに発散すればよいのか分からず、自分のエキセントリックさにおびえているという状態でした。

小学校2年生の時、近くのお店でポルノ雑誌を見つけ、私はそれが何なのか、なぜこのような雑誌があるのかを周りの大人の人たちに尋ねました。

小学校6年生の時、「あと70回位、夏を迎えたら、私たち人間はみんな死んでしまう。」ということを学校の先生から聞いて、その日の夜、泣きながら、「私は死にたくない。無くなってしまいたくない。」とその恐怖を訴え、なぜ人間は死んでしまわなければならないのかを周りの大人の人たちに尋ねました。

中学校の時、私は自分がなぜ友だちのことを嫉妬するのか、そのことを非常に悩み、その苦しみを周りの大人の人たちに訴えました。

でも、私の記憶の中では、周りの大人の人は、そんな自分をやさしく受け止めてはくれても、肝心のその「問い」に答えてはくれませんでした。

戸惑っていたのかもしれません。あるいは大人の人たちもその答えを知らなかったのかもしれません。または私の尋常でないエネルギーと真剣さに「引いて」しまっていたのかもしれません。あるいは単に私が支離滅裂なだけだったのかもしれません。

でもやはりさみしかったです。

☆☆

今、若い姉妹たちが、私に何かを訴えてきています。

彼女たちは一生懸命です。いつも全力投球です。

フルパワーで私に向かってきます。

だから私もフルパワーで彼女たちに向き合いたい。

――私も昔、周りの大人の人たちにそうしてもらいたかったから。

「人の心は病苦をも忍ぶ。しかし、ひしがれた心にだれが耐えるだろうか。」(箴言18:14)っていうこのみことばを暗唱しようって思ってます。

これからはもう「ひしがれた心」じゃなくて、「贖われた心」の持ち主として生きていきたい。

そうして、この混乱した世界にあって、私もまた、他の人を励ます人へと変えられていきたい!



アーメン!

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Overcoming Sexual Lust and Temptations by Zac Poonenから抄訳


多くの若いクリスチャンたちは言います。「自分には仲間のクリスチャンも、行くべきユースの集会もない」と。

しかし創世記のヨセフをごらんなさい。当時17歳の彼には、聖書も、行くべき教会もなく、(新約時代に生きる私たちのようには)聖霊にも満たされていませんでした。しかも母親はすでに亡くなり、兄たちは彼をひどくあしらっていました。

しかし、彼は現代の多くの若者が失ってしまったあるものを保持していました。――そうです、ヨセフ青年は、神を畏れる心を持っていたのです。

神に対する崇敬と畏れ、これは実際、現代の若者たちに全く欠けているものと言っても過言ではありません。

しかし多くの年月を経て私は悟りました。これこそがもっとも大切な必要条件であるということを。

箴言9:10には「主を畏れることは知恵の初め」と書いてあります。知恵とは、キリストのいのちです。キリストのいのちは、主を畏れることから始まります。

バイブル・スタディーや集会、、、それらすべてに先立って、主を畏れること、これが求められているのです。クリスチャン生活の初め(基盤)はこの主を畏れることにあります。

☆☆

創世記37章2節をみてください。「ヨセフは17歳のとき、、」と書いてあります。17歳です。いったいこの位の年頃のティーンはどんな情熱(passion)を持っているのでしょうか。

ええ、私はその中身を知っています。なぜなら私もかつて17歳の青年だったからです。そうです、彼らの情熱とは、「情欲」これに尽きます。

17歳の健康な男子なら一人として例外なくこれを最大の問題として抱えています。ですからあなたが今その問題を抱えているからといって自分のことを異常だと思わないでください。

☆☆

なぜ私はこのトピックをこれほどオープンに言い切っているのでしょう?

なぜなら自分が17歳の時、教会で誰もこのことを語ってくれる大人がいなかったからです。私の通っていた教会は聖書主義の良い教会でした。

でも当時私の抱えていたこの問題に光を当ててくれる人はただの一人もいませんでした。こういった性的妄想をいかに克服していけばいいのか、私を教え導いてくれる人は本当に皆無だったのです。

教会の教師たちは旧約の天幕のことや、それらの器具の霊的意味などを私たち若者に説明してくれていました。でもはっきり言って、当時の私の悩みは天幕のことなどでは全くなく、問題はまさに情欲のこと、これに尽きました。

例えて言えば、私はがん患者として病院に行ったのに、病院の人たちはてんで癌のことには触れず、たわいもない私のシャツの縫い目のことなどを始終話題にしているような、そんな感じでした。

それが私の教会の現状でした。ですから20歳になった時にも、私はそういう問題を抱える自分のことを異常だと思い悩んでいました。「私は新生したクリスチャンではないのか?それなのに自分はなぜこんなに七転八倒しているのか?」と。

しかし、みなさん、新生したクリスチャンにはもはやそういう葛藤はないのでしょうか。いえ、新生した信仰者にもそういう葛藤があるということを私はみなさんに申しあげたいと思います。

☆☆

17歳から20歳までの3年の間、本当にただの一度も私の教会の牧師や教師たちは、そのことをテーマに取り上げてくれなかったのです。

それで私は「きっと先生たちには僕の抱えているような問題はないのだろう。ただ自分だけがこういう所で未だに葛藤し続けているのだろう」と思い込んでいました。

しかし、後になって、彼ら教師たちがなぜ一度もこのテーマに触れなかったのか、私は、その真の理由を知るに至りました。――そうです、なぜなら彼ら教師たち自身、皆、この領域で敗北し続けていた人々だったからなのです。

40代であろうと50代であろうと、彼らは情欲に関するこの領域で勝利してはいなかったのです。だからこそ彼らは、そのテーマを教会の中で真正面に取り扱うことを避けていたのです。

そして私は知りました。この問題に率直に言及できる人は、この情欲と必死に闘い、それに打ち勝ち、イエス・キリストがそこから自分を解放することができる御方である――そのことを知っている人だけであると。

そこで私は主に祈りました。

「おお主よ。私自身、決して知らず、また教わってもこなかったこれらのことを今後私は生涯賭けて、若いクリスチャンたちに伝え、励ましたいと思います。――彼らが性欲の問題を抱えているのは異常なことではないこと。

新生したクリスチャンであっても依然としてこの問題は私たちに付きまとうこと。そしてこれは非常に大きな重圧であること(女性以上に男性の信仰者は尚更)。

しかしそれであっても私たちはそれと闘わなければならないこと。そして主はそれに立ち向かう力を与えてくださること。そして闘い続けるなら、やがて、私たちが勝利者となる日がくるということ」を。

☆☆

情欲の問題は、――ゴリアテがダビデの足元に踏みにじられたように――やがて、あなたの足元に踏みにじられるようになるでしょう。しかし当時、イスラエルの民は皆、この巨人の前に恐れ震えあがっていたのです。「誰がこの巨人に打ち勝つことなどできよう?」と。

情欲(sex)は、現在、キリスト教会のただ中で、巨人ゴリアテのように「誰が我を征服し得よう!」といきり立っています。

そして50代の長老であってさえも、その前に屈服し、「まことにそうだ。この巨大な情欲に打ち勝つことなどできない。だからこの問題はそこにそっとしまっておこう」と言っているのです。

☆☆

おお、17歳のダビデは現在、どこにいるのでしょう。誰が巨人ゴリアテの前に勇み行き、「私はイエス・キリストの御名によってお前に対決を挑む。そして必ずやお前をわが足元に踏みにじり、頭を切り離してやる」と宣言するのでしょうか。

ダビデとゴリアテの話は、日曜学校で子どもたちを楽しませるための「ストーリー」に過ぎないのでしょうか。

否!これは、たといサウルのような年長者が皆一様に恐れおののいていようとも、あなたたち若者が立派に闘い征服していくことができることを示しているのです。

親愛なる若いクリスチャンのみなさん、この闘いを立派に闘い抜きなさい。

若い女性たち、結婚まであなたの純潔を保ちなさい。それは未来のあなたの夫に捧げることのできる贈り物なのです。そしてあなたは幸せな結婚生活を送るでしょう。

若者たちよ、性的誘惑に襲われる時には、雄々しく立ち上がり、「私は他の人たちのようには決してならない!」と宣言しなさい。

☆☆

現代においてこのような姿勢は非常に大切です。

創世記37:5をみると、「ヨセフは夢を見た」とあります。さて、次なる質問です。17歳の男子が見る夢とはいったいどのようなタイプの夢なのでしょう。そうです、やはり情欲にまつわる夢です。

そして私たちがこれらと闘わないなら、50歳になったところで依然としてあなたはこういった夢を見続けるでしょう。

特に淫乱に満ちた今日の社会にあっては尚更そうです。卑猥なイメージは街の至るところにあり、この世の君であるサタンはこういったイメージを私たちの脳裏に注入することにより、神の民を汚染しようとしているのです。

そしてサタンは多くの牧師や説教者を性的に腐敗させています。

ある説教者が不倫の罪を犯したことが発覚します。しかしこういった説教者の性的罪は、一晩でなされたものではないのです。

この人は実に25年間というもの、性的妄想の罪を犯し続け、インターネットでポルノ画像を観、このようにして長年の間、主に対し不誠実な歩みをし、秘密裡のうちに罪を犯し続けていたのです。そしてその結果、ついにある日、捕えられてしまったのです。

そうすると彼は次のように言います。「おお、しかしダビデ王もかつて姦淫の罪を犯しました」と。

ダビデもあなたのように姦淫の罪を犯しましたと?いったいあなたは旧契約の下に生きる旧約の王なのですか。それとも、新契約の下に生きる説教者ですか。

(旧契約下の)ダビデの例に避け所を求めようとする人々よ、あなたに問います。聖書はあなたの罪の避け所を提供するために書かれた書物なのでしょうか。

それともあなたに「聖くなりなさい」と教示する書物なのでしょうか。

あまりにも多くの説教者たちが罪の言い逃れのために聖書を利用しようとし、姦淫の罪を犯した後も、ダビデの例を挙げつつ、また元の役職に戻ろうとしています。

しかしパウロやペテロ、ヨハネやヤコブは不倫の罪に陥ったでしょうか。

なぜあなたはいつもダビデ王の元にばかり逃れ、パウロやペテロと自分を比較しないのでしょうか。

使徒たちもまた若い男性たちでした。彼らもまた性的誘惑と闘っていたのです。ペテロも闘っていました。彼は既婚男性でしたが、それでもやはり闘わなければならなかったのです。

☆☆

ヨセフの見た夢は、未来に関する預言的な夢でした。そしてこれらの夢は13年ないしは15年後に成就されたのです。

17歳の若い彼―聖書もなく、教会もなく、ユースの集いも聖霊のバプテスマもない環境にあったヨセフに対し、神はこのような預言的夢を与えてくださったのです。

それでは神はあなたよりもヨセフを愛しているのでしょうか。いいえ、そんなことはありません。

しかしヨセフには渇きがあり、切なる願望があったのです。そしてこれは今日の若者の間にはほとんど見られない種類のものです。

みなさん、いのちに至る道は狭いのです。そしてそれを見い出す人は稀です。しかし今これを読んでいる方の中に少数ですがそのような魂がいるはずです。

こういった若い人々は、いのちに至る狭い道を見いだそうと切望しています。

あなたは今日、悔い改めを通し、仲間が進んでいる破滅の道からきびすを返し、狭い門に至る決意をしました。しかし周りにその決意をする人は誰も見当たりません。

しかしあなたは主にこう祈ります。「主イエスよ、周りに仲間は皆無ですが、私はあなただけを見つめ、あなたにつき従っていきます。」

☆☆

17歳から30歳までの間には長く険しい試練と困難があなたを待っているでしょう。しかしそれを乗り越えた人は、30~35歳までの間に主よりの霊的権威を授かるようになります。きっとそうなります。

ヨセフも試練を通らされました。彼の兄たちは彼を殺そうとさえしました。しかし主によって与えられた預言的夢が困難の中にあるヨセフを支えたのです。

そうです、神によって使命を与えられた人を殺すことなど誰であれできないのです。

私もかつて、過激派の人々によって、自分の乗っていた車ごと爆破されかけました。しかしこの殺害計画は失敗に終わりました。

人が神のみこころの内に生きようとしているなら、その人は神に課されしその使命を全うするまで不死です。

自分自身の野望に死に切り、ただひたすらに神のみこころを成していこうとする魂に対し、かならず神はそうなさいます。

☆☆

創39:9で、侍従長ポティファルの妻に誘惑された青年ヨセフは、こう言いました。「どうして、そのような大きな悪事をして、私は神に罪を犯すことができましょうか。」

若いみなさん、性的誘惑に襲われる度に、この言葉を思い出しなさい。「どうして、そのような大きな悪事をして、神に罪を犯すことができようか」と。

☆☆

またあなたはコンピューターの前に座っています。周りには誰もいません。そうすると「(情欲を満足させるべく)あのサイトを観覧したい」という誘惑があなたに忍び寄ってくるかもしれません。

しかしそこで目にする画像(イメージ)はあなたの脳裏に刻み込まれ、その後50年経ってもそれはあなたの脳裏にこびりついて離れようとしないのです

そうです。悔い改め、聖霊の満たしを受けた後でさえも、そのイメージはあなたの夢にたびたび現れ、夜、あなたにつきまとって離れません。こうして苦しい苦しい葛藤が続きます。

25年前にあなたはネット上でのポルノ観覧をやめたはずなのです。

「ああ、あんな映像など見なければよかった。ああ、なんということだ。未だに夢の中で私を汚すとは。」

だからなおさら、私はあなたに強調したいのです。その誘惑に対し断固して闘いなさい

☆☆

もしあなたが主のみこころの内に生き、忠実であり続けるなら、誰もあなたの人生をかき乱すことなどできません。

ヨセフの人生もそうでした。たとい十人の兄たちが嫉妬から彼を殺そうとしても、邪悪な女性が誘惑してきても、――彼本人を除き――彼の人生を破壊できる者は誰もいませんでした。

しかしもし、彼がポティファルの妻の誘惑に屈してしまっていたのなら、その時点でアウトだったでしょう。

そうです。あなた自身を除く、どんな政治権力も、教権も、あなたという人を押しつぶすことはできないのです。

若いみなさん、この世の潮流に押し流されてはいけません。

流れに抗しなさい。立ち向かいなさい。

そして抗しつつ泳ぎ進んでいってください。





肉親の情との闘い


しかし私たちの家族はどうなるのでしょう。

まだ救われていない家族や親せきの近くに住んで、彼らに仕えることでやがて彼らが救われる――それこそ、主が望んでおられることではないでしょうか。

Think globally, act locallyというフレーズのごとく、世界の民の救いのために執り成し祈りつつ、実家にいて家族と共に過ごしてはいけないのでしょうか。

父も母も、祖父母もだんだん老いていきます。

彼らはみな私を必要としているのではないでしょうか。親を悲しませることは罪ではないでしょうか、、

そのような悩みをもつクリスチャンにイエス様はおっしゃいました。

「わたしについて来なさい。」しかしその人は言った。「まず行って、私の父を葬ることを許してください。」

すると彼に言われた。「死人たちに彼らの中の死人たちを葬らせなさい。あなたは出て行って、神の国を言い広めなさい。」

ルカ59,60



あなたは出て行って、神の国を言い広めなさい。」

また「主よ。あなたに従います。ただその前に、家の者にいとまごいに帰らせてください」とリクエストしたクリスチャンに対し、イエス様はこうおっしゃいました。

だれでも、手を鋤につけてから、うしろを見る者は、神の国にふさわしくありません。

ルカ9:62b



しかし私たちの家族は、そうはさせません。真っ赤に目を泣きはらし、「お願いだからうしろを見て、こっちを見て!正気に戻って!」とすがりついてきます。

そして「切実なる情」というものすごい力で私たちの良心を真っ二つに切り裂きます。

ここにおいて多くの宣教師は、人生の修羅場を通らされます。

主イエスご自身も、地上での宣教をしておられた時、そういった肉親の情との闘いをされました。

イエスの身内の者たちが聞いて、イエスを連れ戻しに出て来た。「気が狂ったのだ。」という人たちがいたからである。

、、イエスの母と兄弟たちが来て、外に立っていて、人をやり、イエスを呼ばせた。

、、「ごらんなさい。あなたのおかあさんと兄弟たちが、外であなたをたずねています。」と言った。

すると、イエスは彼らに答えて言われた。「わたしの母とはだれのことですか。また、兄弟たちとはだれのことですか。」

そして、自分の回りにすわっている人たちを見回して言われた。「ご覧なさい。わたしの母、わたしの兄弟たちです。神のみこころを行なう人はだれでも、わたしの兄弟、姉妹、また母なのです。」

マルコ3:21、31-35



私は神のためだけに生まれた。キリストは自分の父よりも、母よりも、妹よりも、家族よりも近い存在、いとも慕わしき友である。だから私は喜んでこの方に従っていこう。愛していこう。

ああイエス!私が求めているのはただあなたのみです。クリスチャンとして、奉仕者として、宣教師としてこれから私が通らなければならないすべての道の先駆けとなられた方、それはあなたです。

ヘンリー・マーティン



み言葉なるキリスト
われと ともにますとは
血を分けたる親子も
およばざる つなぎなり




信仰は生死の問題


それにしても、キリストは、聖書の示すとおりに、「私たちの罪のために死なれ、葬られ、聖書に従って三日目によみがえられた」(1コリ15:3,4)のでしょうか。

本当に地獄は、永遠の滅びは存在するのでしょうか。

本当に、「この人による以外に救いはない。わたしたちを救いうる名は、これを別にしては、天下のだれにも与えられていない」(使4:12)のでしょうか。

これらの問いに対して永遠の「Yes」、永遠の「アーメン」を答えた人は、イエス・キリストへの信仰が生死の問題であることを自分に、そして公に宣言することになります。

つまり、そこに人生を賭ける、もう後には引かない、ということです。


苦しむ民の元へ


イエス様のご関心はいつも失われた罪びとにあります。罪と闇の中で苦しむ民にあります。

ですからイエスの御霊を持つ私たちの関心も、失われた罪びとに向かいます。

ああ主よ、どうか私たちがあなたの心を持って滅びゆくこの世界を、この民を見ることができますように。

福音を聞くことなく永遠の滅びに向かいつつある魂の悲惨から目をそむけることなく、私たちが彼らを祈りの内にかき抱き、彼らの元に行くことを熱望するようになりますように。



死の陰に住み、死にゆくわが民。
絶望と飢えに囚われ 泣くわが子ら。

ああ たえまない わが心の悲しみ。


われいざ立ちて、彼らの枷をはずし、
その涙をぬぐわんと欲す。


誰がわれを呼び 彼らに救いをもたらすのか。
誰がわがために行き、わが愛を伝えるのか。


その日をわれ望む
わが子らが生き返るその日を。


歓喜の賛美が天に満ち、
全地をおおう その日を。


고형원, 사망의 그늘에 앉아, 私訳



ーもしこの地上で神に課された使命が自分にあるのなら、
私はどうしても死ねない。

ーキリストの働き以外に、わが人生に他の働きはない。

ーああ、主のために我をことごとく燃焼させたまえ!

ヘンリー・マーティン



愛する兄弟、愛する姉妹、あなたは行きますか。

イエス様の大宣教命令に、心からそして永遠に「Yes」と答えますか。

そしてその道にあなたの人生すべてを賭け、注ぎ出しますか。





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特定の場所や、人、もしくは物など、、一時的な性質のものに愛着を感じ始める時はいつでも、そういったものは私の元から取り去られていった。アーメン!この地上で一介の旅びと、そして巡礼者として生きてゆかんことを。そして私たちが皆、痛ましい変遷のもはや存在しないふるさと――より良い天にある国――に導き入れられんことを。

ヘンリー・マーティン(1781 –1812)
インドおよびペルシャへの宣教師



愛する兄弟姉妹のみなさん、このブログを通してみなさんと交わることができ、とてもうれしく思っています。

さてあさってから宣教の働きのため外に出かけます。5月中旬ごろにまた戻ってくる予定です。

出発に先立ち、私はこのブログを読んでくださっている若いクリスチャンのみなさんにメッセージを残していこうと思います。

☆☆

この世のメディアは毎日のように恐ろしいニュースを流しています。

そしてサタンは私たちの恐怖心をあおり、こうささやくのです。

「ほら、あそこは、住民を食い尽くす地だ。あそこにいる民はみな、背の高い者たちだ。彼らに比べれば、お前たちはいなごのような存在だ(民13:32、33参)」と。

そうすると、私たちは自分を守ることに精一杯になり、弱気になってこう言うのです。「ああ、私たちはあの民のところに攻め上れない。あの民は私たちより強いから」(民13:31)。

こうして民はパニック状態になっていました。

しかしその時、一人の男が立ち上がり、信仰によってこう宣言したのです。

私たちはぜひとも、上って行って、そこを占領しよう。必ずそれができるから。

民13:30



口語訳では、「わたしたちはすぐにのぼって(go up at once)、攻め取りましょう。わたしたちは必ず勝つことができます」となっています。

神の人カレブはここで「そうですねー、えーと、しばらく様子をみて、じっくり祈ってから、どうするのか決めましょう」とは言わず、「すぐに(at once)上って攻め取ろう」と仲間たちを鼓舞したのです。

また各地を巡回していたパウロはある晩、一つの幻を見ました。

ここで夜、パウロは一つの幻を見た。ひとりのマケドニヤ人が立って、「マケドニヤに渡ってきて、わたしたちを助けて下さい」と、彼に懇願するのであった。

パウロがこの幻を見た時、これは彼らに福音を伝えるために、神がわたしたちをお招きになったのだと確信して、わたしたちは、ただちに(immediately, εὐθέως)マケドニヤに渡って行くことにした。

使徒16:9-10



きっと前日までは、パウロの脳裏の中にマケドニアの「マ」の字もなかったと思います。彼としてはビテニヤに行きたかったのです。

しかしイエスの御霊はそれを禁じ(使16:7)、その代りに幻を通して、マケドニア・ミッションが示されました。

その際も、パウロは「えーと、これからじっくり祈って、黙想して、いろいろな方に相談して、fund-raising(宣教基金カンパ)の可能性を検討して、、、」ともたもたすることなく、ただちにマケドニアに渡って行くことにしました。

ガリラヤ湖で網を打っていたシモンとアンデレにも、ある日、突然、生涯を一転させるような出会いと召命が与えられました。

イエスは彼らに言われた。「わたしについてきなさい。あなたがたを、人間をとる漁師にしてあげよう。」

すると、彼らはすぐに(straightway, εὐθέως)網を捨てて、イエスに従った。

マルコ1:17、18



イエスの召しに答えるべく、彼らは少しの躊躇もなく、「Yes!」と即答し、きっぱり仕事をやめ、人間をとる漁師(宣教者)になる道を選び取りました。

日常から非日常へ、安定から(この世的な意味での)不安定、慣れ親しんだ環境から未知の領域へと、彼らは飛び込んで行きました。



つぎに続きます。


下の賛美は、2008年にジョエル・ホースト兄弟が作詞・作曲したものです。

その日の朝、ある人が、「○○君はかなり変わり者だよね」とジョエル君の友人(クリスチャン)のことを揶揄して言ったそうです。

ジョエル君は農場に向かう道すがら、「○○が変わり者なら、僕だって変わり者ってことになる。だって、僕も彼と同じ考えと信仰をもって生きてる、、、」と物思いにふけっていたそうです。

そうして農作業を始めたとき、心の中に、新しい歌詞が湧き出てきました。そして、「そうだ。イエス様のために僕はラディカルな者とされたんだ!」と元気が出てきたそうです。

夜にはメロディーも与えられ、その日以来、この賛美(A Radical for Jesus)は、彼のテーマ・ソングになりました。


1.僕は知っている。

自分のことを変わり者だなって思っている人がいることを。

そしてラディカルな人だと。


あるいは僕のことを狂信的って思っている人もいるだろう。


そんな時、僕はいつもこう答える。

「友よ、もし君の言い分が正しいのなら、

それなら、僕は確かにラディカルになったんだ。

――光の中を歩むことによって。」


コーラス:

おお、イエスのためのラディカル者!

それこそ僕がなりたいものだ。


主の掟を守り、

それに誠実に従うことによって。


「もしわたしを愛するなら、わたしの掟を守りなさい」

って主はおっしゃったから。


だから、僕はこれからもラディカルな人でいよう。

イエスの御手を握りながら。



2.みんなと違っていたいし、目立ちたいから

あえて違う道を選ぶ人もいる。


みんなが通ったことのない道を

通りたいって彼らは思っている。


もちろん僕は彼らのようには考えていないけど、

やっぱりラディカルであることには変わりがない。


なぜ僕がラディカルかって?

それは、僕がラディカルな掟に従っているから。

(コーラス)



3.君は僕がクレージーだって思うかもしれない。

「あの人、ちょっと行き過ぎているんじゃない?」って。


君は変に目立ちたくないだろうし、

現状維持を望んでいるのかもしれない。


でも最後の審判の日に、

僕は 

主から退けられるんじゃなくて、


こういう言葉を聞きたい。

「よくやった。良い忠実なしもべだ」って。

(コーラス)



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(Jehovah-Jireh農場)

今日は燃えるクリスチャン青年ジョエル・ホースト君(26)へのインタビュー記事を掲載します。

―ジョエル兄弟、読者のみなさんに自己紹介してください。

ジョエル・ホーストと申します。26歳です。

私は農夫で、Jehovah-Jireh Farmという農場で、鶏や七面鳥、羊、牛、それから蜂を育てています。

私は大学教育を受けていませんが、真理を知り、イエス様に従っていきたいと強く願っています。農場での生活は、人生における万事について、私に興味深い視点を与えてくれています。

聖書は霊的なことを示唆しているだけだと多くの人は考えています。でも農業をする上でも聖書に指針を求めることはできないのでしょうか。私たちは実際にそうしています。

―「世俗の」仕事を含め―聖書が生活のすべての領域に適応されるということを私は学んでおり、それは本当にすばらしい体験です。農業のことについて、神様は私たち家族にたくさんのことを教えてくださっており、その証しを“Farming Based on the Word of God”に書いています。

ージョエル兄弟、この地上で、あなたは何に情熱を持っていますか。人生の中で何を求めていますか。

ジョエル:私の情熱は、心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くし、すべてを尽くして主なる神を愛し、このお方に仕えていくことです。そして他の仲間もそうすることができるよう助け、仕えていくことです。

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「こうして彼らが皆、一つになるためです」(ヨハネ17章)とあるように、諸教会に一致をもたらすこと――それをもたらすために何かをするよう神様は私を召してくださっていると感じています。

しかしこの一致は、私たちが皆、イエス・キリストと主の教えにのみつき従う時のみ実現されるものです。私はまた、賛美歌作曲を通して、「キリストに従っていこう」とクリスチャンに呼びかけていきたいです。

また栄養価が高く、健康的で、農薬を使わない食べ物を提供することを通し、人々が健やかに生を営むことができるように助け、仕えていきたいと願っています。

また、私はBiblical Research Reports, Free House Church Resources, Heritage Music, and The Headcovering Directoryの各クリスチャン・サイトの管理人としての働きもしています。

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ージョエル兄弟、あなたは過去に、偽りの教会指導者によって傷つけられ、つまずくという悲しい経験をしましたね。そのような失意の中にあっても、あなたが信仰から離れず、懸命にこの悲劇を乗り越えようとしていること、そしてイエス様に忠実であろうとしている姿に私たちは感銘を受けています。

このブログの読者のみなさんの中にも、過去、教会の指導者に傷つけられ、つまずいてしまった方々がいらっしゃると思います。そういった方々に、何か励ましの言葉がありますか。


ジョエル:私はビル・ゴサード(Bill Gothard)という人物の霊的指導を受けながら、育ちました。

この人物の運営する組織はホーム・スクーリングの教材も開発しており、私たちの家族はその教材を11年間使っていました。私はビルが神の人であるとずっと信じてきました。

ところが、今から一年半前に、実はこの人がとんでもない嘘つきで、詐欺師で、そして性的強姦者であることが発覚したのです。彼は羊の衣を身にまとった狼でした。

その時以来、神様は、私の心からビルの間違った教えを一掃してくださっています。そして真理を教えてくださっています。そのプロセスは今も進行中です!

ビル・ゴサードの件を通して、私は多くの教訓を得ました。今日はその中でも重要ないくつかのポイントをみなさんと共有できたらと思います。

☆「羊のなりをしてやって来るが、うちは貪欲な狼である偽預言者たちに気をつけなさい」(マタイ7:15-20)とイエス様は私たちに命じられました。

にせ預言者というのは本当に実在するということを私たちは肝に銘じる必要があると思います。そして私たちが想像する以上に、そういったにせ預言者は多いのです。だから、私たちはそういった者たちに対し、いつも警戒している必要があります。

聖書は繰り返し、「惑わされてはいけない。だまされてはいけない。」と命じ、また警告しています。この一年半の間、神様が私に教えてくださったこと――それは、今日、教会の中には、おびただしい数のにせ教師がいるということです。

☆にせ教師の中には、神様が新約の中で命じていない掟や教えを付け加え、それを主の掟として教えている人たちがいます。

それとは対照的に今度は、「神の掟は重要視しなくてもいいし、主に従う必要もありませんよ」と説くにせ教師も存在します。

私は以前、この二つのタイプのうち、後者の方がより悪質であると考えていました。

しかし、今私は、(その種類を問わず)全てのにせ教師は危険であるという理解に立っています。

全ての偽りの教えは、偽りの父である悪魔から出ているのです。そして全ての偽りの教えには、結果が伴います。神の掟に付け加えることは、主の掟をないがしろにするのと同様――いや、場合によってはそれ以上に――悪なのです。

☆私たちはによって、にせ預言者を知ることができるとイエスはおっしゃっています。ある教師が義なる生活を送っていないことをみる時、私たちは、その人物が、内側に神の義を宿していないということを知ることができます(1ヨハネ3:7-10)。

主がそのような者たちに対して述べておられることを私たちは信じる必要があります。そして彼らの言動や教えについて弁解してはいけません。

主はこう警告しておられます。「子どもたちよ。だれにも惑わされてはいけません。義を行なう者は、キリストが正しくあられるのと同じように正しいのです。罪のうちを歩む者は、悪魔から出た者です、、」(Ⅰヨハネ3:7、8a)。

往々にして、こういうにせ教師たちは、「自分の教えがいかに人々にすばらしい感化を与えたか」と偽ったり、大げさに吹聴したりするので、私たちは、「ああ、この先生は神の人で、この教えはすばらしいのだ」と信じ込まされるのです。

惑わされてはいけません。誰かがにせ教師だということに気づいたなら、その人物およびその人の教えから離れなければなりません。

良いものと悪いものを峻別することができるよう、神様に助けを求めてください。

そして、そのにせ教師から教わった内容をすべて検証してみてください。そして、それが100%真実であるということが立証されない限り、それを真理として受け入れないでください。

☆しかし、そうではあっても、にせ教師および偽りの教えに対し「反動」に出ないでください。

自分の先生が実はにせ教師だったということが発覚するや、その人物がこれまで教えてきたことを何もかも拒絶するケースを多く見受けます。これは非常に危険です。

そのにせ教師が私たちに「こうしなさい」と指導してきた内容の対極に向かうだけではいけないのです。その教えはもしかすると、95%は正しいのかもしれません。

でも、95%しか真理のない、そのような教えに騙されてはいけません!というのも、残りの5%(=偽りの教え)があなたを霊的に殺すことだってありうるからです!

私たちは神様が私たちに望んでおられることが何なのかを識別する必要があり、主ご自身が私たちに教えておられるものに一層、心の注意を向ける必要があります。クリスチャンにとっては、主の掟だけが唯一、「何が正しくて何が間違っているのか」ということを規定するものです。

☆主に祈ってください。「私のこれまで受けてきた偽りの教えから、私の心と思考を清めてください。そして何が真理なのかを私に教えてください」と。

時を経るうちに――あなたがかつて正しいと思って受け入れていた――さらに多くの偽りの教えに目が開かれていくことでしょう。そういった教えは、私たちの想像する以上に、私たちに影響を及ぼしているのです。

しかし主は誠実な方ですから、私たちに真理を教えてくださり、サタンの嘘という軛から私たちを解放してくださいます。

ージョエル兄弟は、祈りのベールの教え(1コリント11章)を公に擁護していらっしゃいますね。この聖書の真理および、その回復の重要性について少しお話くださいますか。

ジョエル:1コリント11章で教えられているかぶり物(祈りのベール)は、主の掟の一つであるにもかかわらず、現代の教会の中では、軽視され、言い逃れされています。

祈る時や預言をする時、女性は「御使いたちのために」(1コリ11:10b)かぶり物を着けなさいと神様はおっしゃっています。かぶり物というのは、神のお定めになった権威の秩序を映し出すものであります。

また、男の栄光(女性)を覆う行為によって、神に栄光を帰すという意味もあります。それによって、神だけが、誉れと栄光を受ける唯一のお方であるということが顕されるのです。

しかし祈りのベールを実践する上で気をつけなければならないことがあります。それは、ベールを何か「幸運を呼ぶお守り」のように見なしたり、単なるキリスト教のシンボルにすぎないと考えたりしてはならないということです。

主は、女性たちの対し、何か特定の型のベールをするように命じてはおられませんし、「この世に対する標(しるし)として四六時中着用せよ」と命じておられるわけでもありません。

また、女性がベールを着けるからといって、祈りが今まで以上に答えられるとか、人生が順風満帆になるとか、サタンが私たちを攻撃できなくなるとか――主はそういうことを約束しておられるわけでもありません。

しかしその一方で、私たちの考える以上に、かぶり物に関しては主の奥義があるということを私は信じています。それを主が命じておられるのなら、それは重要なものなのです。

また、男性たちが主の掟に従い、祈りや預言をする際に頭に何もかぶらないということも同じく大切です。事実、私は思うのです――、女性が頭にかぶり物をして祈ること以上に、男性が頭に何もかぶらないで祈ることの方がむしろもっと重要なのではないかと。

なぜかと言いますと、既婚女性がかぶり物をせずに祈るなら、それは彼女のご主人を辱める(dishonor)ことになりますが、(頭に何かをかぶって祈る)男性の場合は、イエス様ご自身を辱めることになるからです。

―ジョエルさんのご家族は現在、家庭礼拝をしておられるとうかがいました。そのことを少しお話くださいますか。

ジョエル:私は以前、メノナイト教会に通っていましたが、12年前に、うちの家族はその教会を離れました。それ以来、私たちは家庭礼拝をしています。

時期によって、他のクリスチャンの方々が参加することもあるのですが、目下、集まっているのはうちの家族だけです。主の時に、他のクリスチャンが私たちに加わって、共に礼拝をする日が来ると私は堅く信じています。

クリスチャンが教会を去り、自分たちだけで礼拝をするということを私は他の方々には勧めません。私たちは他の兄弟姉妹との交わりを必要としているからです。しかし、主が明確に、あなたが現在集っているその教会を離れるよう、あなたを導いておられるのなら、主に従ってください!

長年、うちの家族は、農作業が終わり、就寝前の夕べの時間に、分かち合い、祈り、そして聖書朗読の時間をもっていました。私たちが大きくなるにつれて、子どもたちの就寝時間は、それぞれの選択に任せられるようになったこともあり、現在はその時間を持っていません。

その代わりに私たちは次のような時間を持っています。

朝、農作業に行く前、各自、聖書を読み、黙想します。それから、家族全員がみな集まり、半時間ほど共に賛美を歌います。私はこの朝のひとときが一番好きです。

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(ホースト家の楽器)

賛美の本がいくつかあるのですが、多くの賛美を歌いたいので、歌詞の一番だけを歌うこともあります。家族で共に歌うこの賛美の時間の中で、私たちの歌声は調和をもって溶け合い、また、歌うことや奏でることなどを学んでいっています。

私の母はキーボードを弾くのですが、母は、それまで一度も聴いたことや弾いたことのない賛美であっても、即興で演奏することができるという賜物を持っています。母のこうした賜物は、私たちが賛美を奏でることについて非常に大きな助けとなっています。

―ジョエル兄弟、ありがとうございました!


【楽しいおまけ】
ジョエル君の農場フォトギャラリー


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(Jehovah-Jireh Farmの羊、米国ワシントンD.C.郊外)

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(農場の中にあるお店、新鮮なたまごや、チキンなどを買うことができます。)

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(農場の様子)

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(ジョエル君のお母さんや妹たちが、トウモロコシの穂軸を切っています。)

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(Corn Day、この日は家族がたのしく語り合いながら作業をするfun dayです。)

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(野菜スープを瓶詰めにしています。)

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(Family Night、この日はみんなでリンゴを干しました。)


(下は農場の楽しいショート・ビデオです。「生後4日目のヒヨコは、日がな、何をして時間をつぶしているのかな?」、、そうです。彼らはサッカーにいそしんでいるのです!)




ケイガンという高校一年生の女の子が私の英語ブログに来てくれるようになりました。私は彼女のコメント等を読み、そこにただならぬ情熱を感じました。そして彼女という人間をもっと知りたいと思うようになりました。こういう流れで生み出されたのがこれからご紹介するインタビュー記事です。

どうぞお読みください。

1)ケイガン、日本の読者のみなさんに少し自己紹介してください。

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こんにちは、みなさん!私の名前はケイガン・クックです。私は16歳で米国に住んでいます。私は外国語と語源学に興味があります。それから趣味はアートと音楽です。日本語はまだ数フレーズしか知りませんが、日本に関することなら皆大好きです!私はお箸を使い、お寿司も食べます。

外国の物を集めるのも好きで、とりわけアジアからの物がお気に入りです。いつかアジアに行けたらいいです。私は慎み深さや柔和さ、それから静かさといったものを重要視しています。(あら、自己紹介なのに最初からあまりにも言いすぎてしまったかしら?)

2)ミシシッピ州のポントトック(pontotoc)という森に囲まれた所に住んでいると聞きました。そこは『大草原の小さな家』のような世界ですか?どんな野生動物がいますか?

えーと、たぶん、そんな感じだと思います。でもここは『大草原の小さな家』よりはもっと人家が多いです。この地域の家の多くは家畜を有していますが、農家自体は少ないです。

野生動物ですが、この地域には、熊やアライグマ、フクロネズミ、スカンク、それからいろんな種類のヘビ(毒をもったアメリカマムシも!)などがいます。

(↓アライグマ source
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(↓フクロネズミ source
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(↓赤ちゃんスカンクsource
baby skunk

3)どのようにしてイエス・キリストを救い主と信じるにいたったのですか?

私は10歳の時、イエス様に初めて信頼を置き始めました。転校先の学校では、人々が公にイエス様のことを証ししていたのです。(でも前の学校ではそうではありませんでした。いろんな意味で厳しい規制があったのです。)

父方、母方の祖父母からも良い霊的影響を受けました。特にアラバマ州に住む父からの祖父母がそうでした。祖父母のうちに私は何か他の人と違うものを感じ、惹かれていたのです。また母方の祖父母は孫である私と弟を教会に連れていってくれ始めました。(その当時、両親は教会に通っていませんでした。)

教会の人々はイエス様について語っていました。こうして私もまたこのイエス様についてもっと知りたいと思い始めたのです。私の心には暗い部分が多く、変化を必要していました。だからイエス様をみた時、私はそこに光と希望を見出したのです!

ある日曜の朝、私は講壇の前に進み出て、「イエス様を救い主として受け入れます。私の内に来てください」と祈りました。それ以後、私は自分のことをクリスチャンとみなすようになり、主のために生きようとし始めました。そしてイエス様についてもっと知るようになりました。よく質問もしました。また毎晩、寝る前にお祈りをするようになりました。

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(↑ケイガン姉妹の家の近所)

前にも書いた通り、その当時、両親はまだ教会に通っていませんでした。私は家族みんなで教会に行くことができますようにと祈り始めました。他の子供たちと違い、両親に家で聖書のことを教えてもらうことができなかったので、教会学校で聖書のお話をきいてもよく分からなかったのです。

そのことを祈り始めてしばらく経ったある日、お父さんが家族全員を呼んでこう言いました。「これからみんなで教会に戻ることにした」と!(私が3歳の時までうちの家族は教会に通っていたのですが、その後、行かなくなっていました。)うれしかったです!その後、うちの家族は皆、成長しています。今日ある自分、そしてここまで導いてくださった神様に感謝しています。

4)日本宣教に対してとても情熱的だということを聞いています。そのことについてお話ください。きっと、このインタビュー記事を読んでくださっている方々の励ましとなると思います。

私は日本の福音宣教に対してとても関心があります。前から日本のことが大好きだったのですが、日本で宣教の働きに携わっておられる二人の方から直接お話をうかがった時はじめて、心に宣教の重荷を感じ始めました。

イエス様がそうだったように、私にも魂を思う心があります。――特にアジアの魂に。そして日本の魂に。日本の方々が救われてほしいという熱烈な願いが私の中にあります。

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(↑ミシシッピの空)

日本のクリスチャンのみなさん、どうか他の日本の方々にイエス様のことを証ししてください!アメリカ人が来て彼らに伝えるのはより困難です。でも日本のクリスチャンは、同胞の人々と同じ言語を話すだけでなく、彼らのやり方や考え方をも熟知しています。

みなさんは毎日、出会う人々にイエス様のことを話す機会に恵まれています!もちろん伝道は大変です。それはアメリカにおいてもそうです。

でも私はパウロのことを思います。パウロはイエス様のことに本当に情熱的で、とにかくいつも主のことを人々に語っていました!そしてパウロを通して多くの宣教の働きがなされ、キリストの弟子が生まれました。さらに彼の福音宣教の働きを通して、私たちは今日、イエス様について多くのことを知る恵みに与っています。

ちょっとそのことを考えてみてください。一人の人間の情熱によって、それに続く多くの世代の魂が救いに導かれたのです!彼の書き物によって今も人々は教えを受けています。

でももし彼がたじろぎ、沈黙を保っていたとしたらどうなっていたでしょう?私たちは今日のような形でイエス様のことを知ることができたでしょうか。

そのことを考えると厳粛な気持ちになります。なぜなら私たちは、生前、イエス様のことを宣べ伝える機会が与えられていたにも関わらずそうしなかったことに対して、そしてそのために福音を聞くことのできなかった魂について、主の前でやがて申し開きをしなければならなくなるからです。

でもだからと言って、外に飛び出して行って皆に叫べと言っているのではありません。そうではなく、私たちのことを知っている人々はもれなく全員、私たちがキリスト者であることを知ってもらう必要があると言っているのです。そして彼らにイエス様のことについて、そして私たちの信仰についてしっかりと話す必要があります。

さらに、より多くの人とつながりを持つように努め、その人たちにイエス様のことを伝える必要があります。

イエス・キリスト――この方をおいて他に大切なことは何もありません。魂はかけがえのないものです。そして私たちの地上の人生は一回きりです。ですから全力を尽くして、一人でも多くの魂に福音を宣べ伝えようではありませんか。そして終わりの日に、私たちが尽したことに関して主に喜ばれるよう努めようではありませんか。

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(↑ケイガンが送ってくれた写真です)

5)ケイガン、あなたも祈りのベールを着けて祈っているそうですね。どのようにして祈りのベールを着けるように導かれたのかお話くださいますか。

二、三年前のことですが、私はある日、1コリント11章を読んでいました。「あれっ?」と私は思いました。「女が祈る時や預言をする時にはかぶり物を着けなさいってここには書いてるよ、、ね?」私は自分の目を疑いました。そして何度か読み直してみました。私はそれまで頭を覆っているクリスチャン女性を一人として見たことがありませんでした。

ちょうどその時、何かの用事でお父さんが部屋に入ってきたので、私は単刀直入にこの質問を投げかけました。父は驚き、「いや、それはだなあ、、」と最初言葉を濁していましたが、結局、この箇所には二通りの解釈があるということを教えてくれました。

それでさらに私は意気込み、「それじゃあ、お父さんはどっちが正しいと思っているの?」と追及しました。するとお父さんは「祈ってみなさい。そしてよくその箇所について調べてみなさい。」と言いました。

私は御言葉の言うことを行ないたいと心から願っていました。でも当時13歳だった私には、解釈の仕方のことなど読んでもよく理解できませんでした。聖句が互いに矛盾することなどありえないと私は固く信じていましたが、それでも1コリント11章にはよく理解できない箇所がありました。

こういう私の無知のゆえ、固く決心することは至難の業でした。たくさんお祈りした後、私はスカーフを着けて教会に行きました。でも教会の人々のいぶかしげな視線にさらされ、途端におじけづいてしまいました。さらにある人から「どうしてそういう事をしているのか?」と問われ、何といって自分の立場を擁護すればいいのか分からず、たじろいでしまいました。

それで結局、私はベールをやめてしまいました。でもこれが神様が私に望んでおられることだという思いをどうしても振り払うことができませんでした。その後、ある別の出来事を通してこの箇所についてもう少し学ぶことができ、その時、「これが私のやるべきことだ。もう後戻りはしない。私はそうする。」と決心しました。

また昨年のことですが、私はウィキペディアのheadcoveringの項目を見つけ、熱心にそれを読みました。

そして驚きました。この祈りのベールの慣習は、初代教会が始まって以来、何千年も途切れることなく続いていたのです!そんなこと、誰も教えてくれませんでした。それじゃあ、どうして今日、私たちはそれを当たり前の聖書的慣習とみなしていないのでしょう?

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みなさん、この慣習がいつ止んだかご存じですか。私は調べてみて分かりました。20世紀の半ば、ウーマン・リブの運動の勃興と時を同じくして、祈りのベールの慣習はないがしろにされていったのです。、こうして前世紀にかぶり物の慣習はあたかも消えたかのように見えましたが、今、またそれは復活し始めています。

そういった事を学んだ後、私は総合的にかぶり物のことについて考えてみました。これは周囲の人々に対する目に見える象徴であり、また「御使いのためである」と聖書には書いてあるため、公の場で祈る時にはいつでもベールを着けることにしました。(寝る前にベッドの脇で祈る時や食事の前の祈りの時も含めて)

6) ケイガン、あなたは弱冠16歳でありながら、こんなにも神様に対して情熱的です。本当にすばらしいことだと私は感心しています。この地上でどんな風に生きていきたいと思っていますか。この人生においてあなたは何を求めていますか。

親切なお言葉をありがとうございます。私のみる視点において(聖書がこう教えていると私が信じるところによれば)、キリストのために生きない人生というのは無駄に費やされた人生だと理解しています。

パウロはピリピ1:21の中で「私にとっては、生きることはキリスト、死ぬこともまた益です」と言っています。この人生で唯一大切なのはキリストであり、主が生きたように生きることです。

魂の元に福音を届けるのが私たちの人生の主目的です。もしそうしないなら、私たちは――神様に与えられた尊い――この人生を無駄にしてしまうことになります。そして、イエス様がたとえ話の中で教えられているように、神様は怠惰な働き人に対して生易しい見方はされていません。

私たちのやるべき事は、キリストがなされた事を行なうことです。つまり、人々のために生き、そして場合によっては人々のために死ぬことです。私たちは各自、十字架を背負い、主に従うよう召されています(マタイ16:24)。

私たちのアイデンティティーはどんな服を着ているかとか、どんな職業に就いているかとか、皮膚の色などに置かれるべきではないと思います。私たちはまず第一にクリスチャンなのです。

ですから私たちが誰であるかはキリストのうちに見出されるべきだと思います。周りの人々が私たちのことを考える時、まず思い出されるものは「イエス」であるべきです。キリストの光が私たちを通して輝かなければなりません。私たちはキリストの使節なのですから。

人生における私のビジョンは宣教師になることです。いつ、どこに、どのような形で遣わされるのかは分かりません。でも主はご存知です。ただ主のみこころを行なうことだけを求めています。

大学に進学して教育学部で教職の資格を取ったらいいとアドバイスをもらっています。なぜなら中国のように宣教師を受け入れない国であっても、教師としての資格でなら入国できるからです。それに、教師であることは宣教の働きをしていく上でもいろいろと有益だと思います。目下のところ、私が考えているのは以上のようなことです。

でも私の人生は神の御手のうちにあります。主はもしかしたら違った風に私を導かれるかもしれません。でもこれだけは確かです。

つまり、どこにいても、何をすることになっても、とにかく私は宣教師になっているということです。というのも、私たちは皆、宣教師(神に遣わされた者)として召されているからです。

それから結婚したら夫を支えていきます。(宣教地に独身で行くことはないと思います。)そしてできるだけ多くの方に福音を伝えていきたいです。

「人生において何を求めていますか」というご質問ですが、私は主をお喜ばせする人生を追求しています。

もし、主に「よくやった。良い忠実なしもべだ」と言っていただけるなら、私の心は満ち足りるでしょう。主を知ることは尊いことであり、このすばらしい主との関係そして信仰を見出すことなしに誰もこの世を去ってほしくないのです!

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(↑ミシシッピ)

7)最近、ブログを開設しましたね。おめでとうございます!私は日本の読者のみなさんをあなたのブログに招待したいと思っています。日本の兄弟姉妹は今後きっとあなたを応援してくれるでしょう。読者のみなさんに何か伝えたいメッセージはありますか。

人生を最大限フルに生きてください。そして絶対にあきらめないでください!主のために生き抜く人にはすばらしい報いが天に備えられています。主がなしてくださったこと、そして今なしてくださっていること、そしてこれからなされることに比べれば、私たちの労苦は小さなものだと思います、、、

私の祈りは、新設したブログを通して、世界中に散らばっている姉妹を励まし、また互いに交わりを持つことです!これが私の夢であり、私はそれを神様の御手にゆだねています。

どうぞ私のブログにいらしてください。そこであなたは、ご自身と同じように、キリストのために生きようとしている他の姉妹たちに出会うことができると思います。

ーインタビュー部分終わりー

私は、この純情で一途で情熱的な高校生クリスチャンの証しを訳しながら、自分自身の心が燃やされました。おそらくこれを読まれたみなさんもそうだと思います。

このような若い魂が、今、日本人の救いのために祈ろうとしています。東方に想いを馳せ、自分の人生をキリストのため、そしてその地の人々のために投げ出そうとしています。

日本は昔から「宣教師の墓場」だと言われ、最近では、(あまり成果の期待できない)日本ではなく、中国大陸の方にむしろ宣教師の関心は移っていっていると聞いたこともあります。

しかしケイガンのような姉妹の存在は、私たちに神にある希望を与えてくれます。主は私たちの同胞の救いを決してあきらめておられないと。

全地よ。主に歌え。
日から日へと、御救いの良い知らせを告げよ。

主の栄光を国々の中で語り告げよ。
その奇しいみわざを、すべての国々の民の中で。Ⅰ歴代誌16:23-24



ケイガンを応援し、この若い姉妹を支えていこう!

https://maidenforjesus.wordpress.com (←これが彼女のブログ・アドレスです)

☆彼女は本気で日本語を学びたがっています。オンラインで彼女に日本語の手ほどきをすることのできる方をも歓迎します。