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美しいフランスの巡礼道




愛する読者のみなさん、次のことを想像してみてください。


みなさんは今年、ある町に引っ越してきました。


さて、その町には五つの教会があります。


最初の二つの教会は、完全にリベラル派のプロテスタント教会で、聖書を神の言葉と信じていません。


残りの二つの教会はリベラルではないのですが、一つは、ロックンロール系でSeeker friendlyなモダン・バプテスト教会、


もう一つは繁栄の神学を盛んに説くペンテコステ教会。


そして五番目の教会は、カトリック教会でそこには神を畏れる祭司がおられるとのことです。


もし、みなさんが聖書信仰でプロテスタントの信仰者でいらっしゃるのなら、これら五つの教会の内、どの教会に行くことを選びますか?


難しい選択ですよね!


しかもこれは単なる空想上の問いではなく、実際に、フランスのある町で、真摯な信仰者たちが直面している生々しい現実問題なのです。


ですから、こういう事例からも、現在、フランスの地で主イエスを信じている私たちの兄弟姉妹が、どれほど大変な霊的環境に置かれているのか、どれほどの霊的闘いがあるのか、お分かりいただけると思います。


しかし、そんな霊的砂漠のただ中にあっても、御霊は働いておられ、新しい主の若芽が地上に姿を現してきています。




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そんな主の若芽の一人、カロリーヌ姉妹(27)が、今日、待望のクリスチャン賛美のyoutube channelをフランス語で立ち上げました!


チャンネルの名前は、"Richesses du répertoire chrétien"(=クリスチャン賛美の豊かさ)です。


そして彼女はさっそく、Mission Timothée作詞・作曲の美しい賛美曲"♪ Si Jésus quelqu’un veut te suivre"(♪イエス、もしあなたに従っていくなら)をアップロードしてくれました。


(ミッション・テモテは、フランス国内で1972年に誕生した聖書主義プロテスタント教会です。神学的には保守改革派だと思います。詳しくは「力と清さ Mission Timothéeの賛美の霊性」の記事をお読みください。)










日本語訳


.イエスよ、もしあなたに従っていくことを望むなら、

その人は常に自らの十字架を負わなければなりません。


そして自らのいのちを否みつつ、

あなたのためになら全てを失う覚悟を持って

生きてゆかねばならないのです。



くりかえし


おお主よ、私があなたを愛していることをあなたはご存知です。

私はもう自分自身のことに囚われていたくないのです。


ですから、私は喜びをもってあなたの道程を進んでゆくべく、

自分を否みます。


「わたしのために自分のいのちを失った者は、

それを自分のものとする」という

御約束が私の支えです。



信仰により、私はあなたの御言葉に寄り頼みます。

そうしてあなたの愛は成就されるのです。



.あなたはわたしのこと以上に、

自分の父や母、妻や子供のことに

心を囚われているのでしょうか。


そしてもし、あなたが自分自身のいのちを優先しているのなら、

あなたはわたしの弟子にふさわしい者として

生きることはできないでしょう。



.この世に対して十字架にかかり、

この世がますます私たちにとって

味気のないものとなってゆきますように。


そうした時、キリストのいのちが満ち満ちるのです。


おお、どうか私たちが十字架の敵となることが

ありませんように。





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祈り


天のお父様。私たちは聖なる畏れと甘美なる崇敬の心をもってあなたを賛美いたします。


あなたはフランスやベルギー、その他のフランス語圏の地において、現在、どれほど切迫した霊的ニーズがあるかをご存知です。多くの真摯な信仰者たちが、あなたの聖所の中における聖さと純潔を求め、祈り叫んでいます。


カロリーヌ姉妹の一途でまっすぐな信仰とあなたに対する燃えるような情熱ゆえに感謝します。


どうか彼女のそういった心を祝福してくださり、今日、あなたの御名によって立ち上げたYoutubeチャンネルRichesses du répertoire chrétienを祝福してください。


そして願わくば、このチャンネルから流れ出る聖く、神を畏れる賛美とメロディーが、山々や丘を満たし、そして遠くの国々にいる数多くの魂の霊的砂漠を満たすものとなりますように。


またミッション・テモテ教会の賛美と霊性が、21世紀におけるフランス宗教改革の口火を切るものとなりますように。


愛する日本の兄弟姉妹と心を合わせ、この祈りをイエス・キリストの御名によって御前にお捧げいたします。アーメン。






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そして彼らに言われた。「わたしは悲しみのあまり死ぬほどです。ここを離れないで("Tarry ye here")、目をさましていなさい。」


それから、イエスは少し進んで行って、地面にひれ伏し、もしできることなら、この時が自分から過ぎ去るようにと祈り、、


マルコ14:34、35


-----


"Tarry ye here!"
「ここを離れないで。」



おお、悲しみの人が呼んでいる。


暗きこの時、わたしの傍に立つのは誰かと。





おお いざ来たりて われと共に嘆け。
そして 十字架の傍にとどまらんことを。


おお 来て、共に嘆こう。
われわれの救い主イエスが十字架に付けられた。





嘆き告白というのは、今日西洋のクリスチャンの間ではもはや忘れ去られたものとなっています。


そしてそれに代わり、私たちを取り囲む世俗世界の態度を反映するかのごとく、プラグマティックな見解に則ったクリスチャンの行ないが私たちを圧倒しています。


「神に知られている者でありたい」という願い以上に、単なる知識追及がもてはやされているため、〔心砕かれ、罪を嘆く〕告白の姿勢というのは、私たちの間にみられません。




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キリスト教聖画をみますと、両腕を天にかかげ必死に助けを求める姿、嘆願しつつ跪く礼拝者、地のちりの中につっぷし、主の前にくずおれている姿など――


公に、全身全霊でわが身の悲しみ・嘆きを主の前に注ぎ出す姿が見いだされます。



Bruce K. Waltke, The Psalms as Christian Lament, A Historical Commentary






祈り


神の御子、主イエス・キリスト。このような罪びとを憐れみたまえ。


Κυριε Ιησου Χριστε, Υιε του Θεου, ελεησον με την αμαρτωλον!







自分の知り、歌い、詠唱する

あらゆる種類の祈りの中にあって、


一つの祈りが、

たぐいなき力をもって私の内に息づいている。



そう、すばらしいこの一言の祈り。

主よ、憐れみたまえ!




単一にして、切なる嘆願が込められたこの祈り。


私は慈愛に満ちた神に祈る。



ああ、汝の偉大なる御力によって、

この罪びとを救いたまえと。


主よ、憐れみたまえ!




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私は、暴風で荒れ狂う人生の航路を

一人進んでいる。




人生で遭遇する喜び、

そして胸を裂かれるような悲しみの数々。




このような嵐から誰が私を救ってくれようか?



私は一言のこの祈りを祈る。


主よ、憐れみたまえ!」と。





深い絶望の谷の内で慟哭する時、


数々の欲情が私を圧倒する時、




私は心を振り絞り、

力の限り祈り、叫び求める。


主よ、憐れみたまえ!」と。





そしてこの地上での旅路を終える時、


わが魂は、なおもこの祈りを祈ろう。




墓を越え、

永遠の希望をみつめつつ、


主よ、憐れみたまえ!」と。




-Lord Have Mercy,
translated from Russian by Natalia Sheniloff (source)





イエス、わが最愛の救い主。



我を、汝の聖き足跡――

苦悶のうちに汝が泣かれたその道――に

つき従う者とさせたまえ。



おお主よ、


わが人生すべてを汝に捧げさせたまえ。



わがために、かくまで苦しみを忍ばれた汝に

わがすべてを捧げさせたまえ!











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「花はみえないのですが、にもかかわらず香りが庭園中を満たしていました。この場所の美しさと静寂さは神秘的ともいえるものでした。source




みぢろげば木犀の香のたちのぼる   橋本多佳子






木犀(もくせい)Osmanthus fragrans, Sweet tea olive

常緑樹。高さ三メートル余りに達し、枝が多く、葉は密に茂り、甘いにおいを発し、風に乗って50メートル先から匂うほど。





ひろびろとした地に植えられている一本の木犀。落葉の季節にも、常に新しく、そして常にグリーン。


そして甘い香りがその地一帯を満たしています。


私はこの木をみた時にキリストの教会(エクレシア;εκκλησια)を思いました。


キリストが教会を愛し、教会のためにご自身をささげられ、今日にいたるまで御霊によってこのみからだをきよめ続けてくださっている様子はいかにもこのみずみずしい常緑樹のようではないでしょうか?(エペソ5:26)


また葉もまばらではなく、「密に」茂っており、遠くからみたら、何万とあるはずの個々の葉も互いに溶け合い、ふわふわした大きな綿菓子のようにみえます。


その中の一枚の葉は時々疲れて、いっそのこと落葉したい気持ちになるときがあるかもしれません。しかし仲間の葉たちがそうはさせないのです!



エペソ4:16

キリストによって、からだ全体は、一つ一つの部分がその力量にふさわしく働く力により、また、備えられたあらゆる結び目によって、しっかりと組み合わされ、結び合わされ、成長して、愛のうちに建てられるのです。





ここで使われている「建てられる」はギリシャ語の動詞形でοικοδομω(oikodomeo<oikos 家+demo 建てる)であり、語の中に「家」ということばが盛り込まれています。


ペテロのいうように、私たちは「霊の家 οικος πνευματικος」として築き上げられているのだと思います(1ペテロ2:5参)。


「霊の集合アパート」じゃなくて「霊の家」でよかったです。というのも、「家」の中にともにいる人々はお互いにもはや他人じゃありませんから!


ところで、こんな大きな木犀からはどんな香りがただよっているのでしょう。


きっとキリストのかおり(Ⅱコリ2:15)が、東にも西にも、南にも北にも、あらゆる方向に放たれているにちがいありません。


そう、地の果てにまで――。





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19世紀のロシアのある農村に、マリアという若い女性がいました。


彼女の実家は裕福な農家だったそうです。彼女はイエスさまを救い主として信じた後、隣人や友人に救い主について熱心に語り始めました。


しかしその事が当局に発覚し、彼女はシベリアへの永久追放を宣告されました。こうして彼女は幌馬車で護送されることになりました。


マリアが乗っている囚人用の馬車が彼女の家の近くの駅に到着した時、親族や彼女に同情する友人たちは、護送馬車の回りを取り囲んだそうです。


マリアは太い格子にある小さなすき間に顔を押しつけ、愛する家族や友人たちをじっと見つめていましたが、やがて口を開き、次のように言ったそうです。


「お父さん、お母さん、兄弟、姉妹、友だち。私は、あなたがたを愛しています。でも、もう二度と再び、みなさんに会うことはないと思います。


でも私は自分がしたことを後悔してはいません。私は、自分のためにすべての苦しみを味わってくださった救い主キリストの苦しみにあずかることを喜んでいます。」


そうこうするうちに、馬車は動き出し、やがて彼女の声も聞こえなくなりました。


しかしそこにひとりの少年がいました。群衆に混じり、彼女の最後のことばと証を耳にしたこの少年は、むせび泣きながら家に戻っていきました。


そしてまもなく彼自身、キリストに従うことを決心したのです。


後に、成長したこの少年は、御霊に満たされた力強い福音伝道者となり、彼を通して多くの魂が信仰の従順に導かれたと記録に記してあります。


(参照:E.H.Broadbent, The Pilgrim Church, chap. 15, 1935)



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上の証は私たちに大きな励ましを与えるものだと思います。


主は本当に私たちのすべてを用い――そして多くの場合、私たちがまったく思いもしない方法によって――ご自身が今も生きておられるまことの神であることを証してくださるということを心に覚えます。


そして私からみなさんへの励ましはこれです。


――ある方は今、言うに言えない苦しい状況の中に置かれ、「主にお仕えしたい。福音を伝える器として用いられたい」という尊い願いを持ちながらも、自分が本来いるべきところにおらず、おれず、その八方ふさがりのような状況を人知れず嘆いておられるかもしれません。


しかし今日も誰かがあなたによって――あなたのその生きる姿をみて――なんらかのメッセージを受け取り、こうして目に見えない神の国が拡大していっているということを忘れないでください。


あなたが苦境に耐えつつ、キリストの内にじっととどまっているその姿自体が、μαρτυρια(marturia; あかし)であり、天の香りです。


ですからどうか元気を出してください。そして今週もまた主にあって共に歩んでいきましょう。






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コスモス開き、さざんか咲き、もくせい匂い、菊花かおる。灯前、夜静かにして筆勢急なり。知る、天啓豊かにて秋たけなわなるを。ー内村鑑三



秋霖(しゅうりん)ということばがあります。


秋の初めに降りつづく雨のことです。ギリシャではこの時期もほとんど雨は降りませんが、今朝、窓を開けて外をみると、めずらしく小雨が降っていました。


このような秋霖の後、空が澄み高く感じられるさまを、日本語の季語では、秋高し(あきたかし)というそうです。


雲一つ秋空深く上りゆく


句集「石魂」(1953年)より




天空がこのように澄んでいるように、私の目も澄んでいれば、どんなにかいいだろうと思いました。


マタイ6:22

目はからだのあかりである。だから、あなたの目が澄んでおれば(=απλους)、全身も明るいだろう。




απλους (haplous) 

=単純な、単一な(心が一つである、一つのものに集中している)、純一な、一途な、健全な、single, clear, sound, healthy, unclouded



外なるものに閉じて、内なるものに開いている目は幸いである。-ケンピス



祈り
主よ、私たちの心の目をあなたから逸らそうとするものは、内に外に多くあります。どうか、この世のどんなものによっても曇らされない、一途で、ひたむきで、純一で、澄んだ信仰の目をお与えください。日々、秋霖のようなあなたの恵みの雨によって、心や思いの濁りが残らず洗い流され、清められますように。イエスさまの御名によってお祈りします。アーメン。





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1コリント4:13b

わたしたちは今に至るまで、この世のちり(περικάθαρμα)のように、人間のくず(περίψημα)のようにされている。




περικάθαρμα (περικαθαίρω, すっかりきよめる)
よごれたものを拭った時に落ちるちり、ごみ、屑、廃物

περίψημα (<περιψῶ, すっかりふきとる)
拭いた時に落ちるくず、屑、かす、人間のくず


☆☆

クリスチャンとして十字架の道を歩むがゆえに、この世の人々から軽んじられたり、低く見られたり、侮られたりすることに関しては、きっとみなさんお一人お一人、語り尽くせないほど数多くの経験とストーリーをお持ちだと思います。


侮辱され、軽んじられてうれしい人はいないと思います。


それでも頭では分かっているんです。自分は「世界に対して十字架につけられた」(ガラ6:14)のだから、こういったことは当然、クリスチャンとして甘受しなければならない現実だと。でも、、、


ガラテヤ6:14

しかし私には、私たちの主イエス・キリストの十字架以外に誇りとするものが決してあってはなりません。この十字架によって、世界は私に対して十字架につけられ、私も世界に対して十字架につけられたのです。




でも傷ついた肉は、磔刑を逃れようと、それこそ死にもの狂いで十字架以外の逃避口を探そうともがきます。


また最近では、「自尊心の福音(The Gospel of Self-esteem)」とか「イエスさまを信じたら成功できるし、影響力のあるV・I・Pになれる!」とかいったプラグマティックかつ、性善説を土台にした成功哲学や心理学が、巷にあふれています。


そして、そういったものは、「キリスト教的に」聞こえるハープを奏でつつ、「ほら、傷ついた肉よ、こちらにいらっしゃい。」と甘言をもって私たちを手招きしています。


そうして、「十字架以外の抜け道をご一緒にくぐりましょうよ」と私たちを誘ってやまないのです。




十字架以外の抜け道を提供する、さまざまな「成功哲学」のかたち



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ジョエル・オースティン 『あなたの出番です!―全米最大の教会、牧師が語る成功の秘訣』



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ジョエル・オースティン 『あなたはできる―運命が変わる7つのステップ』



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『シュラー博士の願いをかなえる一番いい方法―人生すべて思いのまま』 (知的生きかた文庫)



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Robert H. Schuller, Self-Love



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ノーマン・ヴィンセント・ピール著『積極的考え方の力―成功と幸福を手にする17の原則』






おお、クリスチャン、
あなたは この世をなるたけ満喫しよう、
ひとかどの人になろうと
やっきになっている。



しかし私たちの救い主は、
嘲り、貧しさ、痛みを甘受された。



そしてあなたもこの道を進んでゆかねばならない。
なぜなら、この道こそ、平安と光の小道であるから。



そう、
無とされ
無とされ
無とされることを通して、

私たちは進んでゆかねばならないのだ。


G.Tersteegen, The path is through nothingness




♪ さかえの主イェスの 十字架をあおげば、
世の富、ほまれは 塵にぞひとしき

恵みと悲しみ ひとつにとけあい、
茨はまばゆき かむりとかがやく。



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「あなたは何もしていない」「あなたは怠け者だ」「あなたは世の片隅で才能を埋めてしまっている」「あなたは無職だ」「あなたはおかしな人だ」「あなたは堅すぎて面白みのない人だ」「あなたは狭い人だ」等、、、私たちはいろいろなことを言われます。


またパウロも、「私たちは今に至るまで、信仰者としてだけではなく、この世においてもV・I・Pとして、また、すばらしく成功した人間として拍手喝采を受けている」とは言わず、


「私たちは今に至るまで、この世のちりのように、人間のくずのようにされている」(1コリ4:13)と、キリストの弟子としての生々しい現実を述べています。


ルカ6:26

みなの人にほめられるときは、あなたがたは哀れな者です。彼らの先祖は、にせ預言者たちをそのように扱ったからです。




この世は自分に属するものは愛するけれども、自分のものでないものには敵意を顕にするとイエスさまご自身がおっしゃっています。


ヨハネ15:19

もしあなたがたがこの世のものであったなら、世は自分のものを愛したでしょう。しかし、あなたがたは世のものではなく、かえってわたしが世からあなたがたを選び出したのです。それで世はあなたがたを憎むのです。




私は読者のみなさんの幾人かを知っていますが、みなさんは「その気になったら」十分にこの世で成功をおさめ、大金を稼ぎ、自分の得意とする分野で相当の人物になれたと私は思います。


でもみなさんは、キリストを愛するがゆえに、それらのものに別れを告げ、「御名のためにはずかしめられるに値する者とされ」(使5:41)、現在、置かれているその低く、目立たない場所に一人おられます。


私はそのような道をあえて選び取り、今日に至るまで主に忠実に歩んでこられたみなさんのそのような生き方を非常に尊敬しています。


この世がみなさんのことをどう裁こうとも、侮蔑しようとも、私はみなさんのその信仰のあり方をすばらしいと感じており、心底、敬意を払っています。


長くなってしまいましたが、最後に、一つのエピソードをご紹介してこの記事を終わりにさせていただきたいと思います。


中国の殉教者ウォッチマン・ニーは、抜群の頭脳の持ち主で、大学時代には前途有望な青年だと教授たちからも期待されていました。


しかしキリストに献身した彼は、アカデミックなキャリアを断念し、専心伝道者として生きる道を選んだのです。(*彼の聖書解釈については現在にいたるまで賛否両論あり、いろいろと複雑な面がありますが、本記事では、彼の献身という部分に焦点をあてて取り上げることにします。)



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「1929年に、私は上海から故郷の福州に帰りました。ある日私は、健康を害したため、非常に衰弱したからだで杖で支えつつ道を歩いていましたが、途中、大学時代の教授に会いました。


教授は私を喫茶店に連れていき、私たちは席につきました。彼は私を頭のてっぺんからつま先まで眺め、次につま先から頭のてっぺんまでを眺めて、こう言いました。


「ねえ、きみ、きみの学生時代には、われわれはきみにずい分期待をかけていたし、きみが何か偉大なことを成し遂げるだろうと望みをかけていた。きみは、今この有様が、きみのあるべき姿であるとでも言うのかね。」


彼は私を射抜くような眼差しで、この質問を発したのです。正直なところ、私はそれを耳にした時、くずおれて泣き出したい衝動にかられました。


私の生涯、健康、すべてのすべてが消え去ってしまったのです。


しかも大学で法律を教えた教授が今ここにいて、「きみは成功もせず、進歩もなく、なんら取り立てて示すものも持たずに、いぜんとしてこんな状態でいるのか」と尋ねているのです。


しかし、次の瞬間――それは私にとって、初めての経験でしたが――私は自分の上に臨む「栄光の御霊」とはどのようなものであるかを、真に知ったのです。


自分のいのちを主のために注ぎ尽くすことができるという思いが、栄光をもって私の魂に溢れました。


そのとき、栄光の御霊そのものが私に臨んだのです。


私は目を上げ、ためらうことなく言うことができました。「主よ、あなたを讃えます。これこそ望み得る最善のことです。私の選んだ道は正しい道でした。」


私の旧師にとっては、主に仕えることが全くむだであると思えたのです。


しかし、福音の目的は、私たちをして、主の価値を真に自覚させるためにあるのです。」



ー引用おわりー




私の祈りは、愛するみなさんが、この世からの侮蔑や恥ずかしめに苦しむ、まさにその瞬間、栄光の御霊そのものがみなさんに臨み、人知でははかり知ることのできない慰めと喜びでみなさんを満たしてくださることです。


そして、この世での苦難と悲しみのただ中にあって、私たちが目をまっすぐに天に向け、「主よ、これこそ望み得る最善のことです。私の選んだ道は正しい道でした」と告白し、なおも主を讃えることができますように。






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今日はちょっと息抜きに、ハトについてのミニ記事を書きたいと思います。


ハトはどこにでもいる平凡な鳥とされています。


しかし、よくよく聖書を読むと、実は、いろんなところにハトのことが書かれていることに最近、気づきました。




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初代教会のクリスチャンの描いた壁画




これはカタコンベの壁画です。


箱舟から放たれたハトが、オリーブの若葉をくちばしにくわえて、ノアの元に戻ってくる場面(創8章)を描いたものです。


ヘブル語で、ハトはJonah(ヨナ)というそうです。


そう、つまり、クジラのお腹の中に三日三晩いたあのヨナは、「ハト」という意味なんだそうです。ヨナは「鳩男さん」だったんですね!知りませんでした。


ダビデも、敵からの迫害に苦しめられ、恐れでどうしようもなくなった時に、空を自由に飛ぶハトたちのことを思い、こう詠いました。



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詩篇55:6-8

ああ、私に鳩のように翼があったなら。
そうしたら、飛び去って、休むものを。
ああ、私は遠くの方へのがれ去り、
荒野の中に宿りたい。
あらしとはやてを避け、
私ののがれ場に急ぎたい。




調べてみると、ハトには大きく分けて二種類あるそうです。1)家バト、それから、2)山ばと、きじばと、です。


ルカ2:24

また、主の律法に、「山ばと(τρυγών)一つがい、または、家ばと(περιστερά)のひな二羽」と定められたところに従って犠牲をささげるためであった。




この山ばと(turtle-dove)について、19世紀のクリスチャンであるハリエット婦人は次のような愛らしい説明をしています。



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山ばとは、旅する鳥です。山ばとたちは、初春にユダヤの地にやって来ます。その頃には若芽がいたるところで顔を出し、花々は咲き始め、あらゆるものが愛らしく美しい、そんな時期に彼らはやって来ます。

雅歌にもそのことが書かれています。「わが愛する者、美しいひとよ。さあ、立って、出ておいで。ほら、冬は過ぎ去り、大雨も通り過ぎて行った。地には花が咲き乱れ、歌の季節がやって来た。山鳩の声が、私たちの国に聞こえる。」雅2:10-12.

山ばとたちは、夏が終わるまでその地にとどまり、その後、もっと暖かい所で冬を過ごすべく、別の場所へと旅立っていきます。

Mrs. Harriet N. Cook, The Scripture Alphabet of Animals (1842)




また、ハトは、神の御霊の象徴としても新約聖書にしるされています。


マタイ3:16

こうして、イエスはバプテスマを受けて、すぐに水から上がられた。すると、天が開け、神の御霊が鳩のように(περιστεράν)下って、自分の上に来られるのをご覧になった。




また、マタイ10:16で、イエスさまは、弟子たちを遣わすにあたり、「ハトのように素直でありなさい(アケレオス:ακέραιος)」と言っておられます。


ακέραιος <否定の α- +κεράννυμι 混ぜる)=混じりけのない, harmless, innocent, simple




他の訳では、「鳩のように無垢になれ(岩波訳)」「純なこと鳩のようであれ(前田訳)」「鳩のように純真であれ(塚本訳)」とあります。


それから、自分にとって今回、新しい発見だったのは、ハトが無垢でかわいらしくも、なんとはなく「悲しそうな声で鳴いている」と古代の信仰者たちは感じていた、ということでした。


(ヒゼキヤ王が大病から回復した時にしるした詩)

イザヤ38:14a

つばめや、つるのように、私は泣き、
鳩のように、うめきました




イザヤ59:11

私たちはみな、熊のようにほえ、
鳩のようにうめきにうめく






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エゼキエル7:16

それを逃れた者が逃げて、山々に行っても、彼らは谷間の鳩のようになって、みな自分の不義のために泣き悲しむ




ナホム2:7

王妃は捕えられて連れ去られ、
そのはしためは、鳩のような声で嘆き、
胸を打って悲しむ







おわりに




ハトは、無害で、純で、すなおな被造物として、聖書の中に記されています。


また、か弱く鳴くそのさまは、古代の人々の耳に、「嘆き、悲しみの声」と響いていたことを今回知りました。


マシュー・ヘンリーは、雅歌2章の註解の所で、「『私の鳩よ』と、教会および一人一人の信者に呼びかけているのはキリストである」と述べています。


雅歌2:14

岩の裂け目、がけの隠れ場にいる私の鳩よ
私に、顔を見せておくれ。
あなたの声を聞かせておくれ。
あなたの声は愛らしく、あなたの顔は美しい。




どうか私たち一人一人が、魂の奥底で、このイエスさまの愛の呼びかけを聞き、それに応答することができますように!



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マルコ1:35

さて、イエスは、朝早くまだ暗いうちに起きて、寂しい所へ出て行き、そこで祈っておられた。





寂しい所( εις ερημον τοπον):

-人の住んでいない、人里離れた、荒涼たる、荒野、孤独な、

-a solitary place, an isolated place, a secluded place, a deserted place, a lonely place




内外のかまびすしい騒音と躁急さが

交錯する大通りを駈けるように抜け、


寂しい所(solitary place)へと

歩みをすすめる、、、




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静けさ。

空の手で 私は横たわる。

もはや 働くことも、意志することもない。




憔悴した思いが その動きを止め、

やすらぎのうちに、わが眼は閉じている。




そして、乱れなき天的な平安につつまれつつ、

沈黙のうちに、

私は汝の御胸に寄りかかる。





Gerhard Terteegen, The Sabbath Year
私訳






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静寂な場所で、私は自分の足場を取り除く。


共に言葉を交わす友もなく、電話での会話もなく、会合もなく、

心楽しませる音楽もなく、あれやこれやの書籍もない。



そこにあるのはただ自分ひとり。


裸で、こわれやすく、脆弱で、罪深く、貧しく困窮し、

打ちひしがれているこの自分以外――なにもない。



孤絶と静寂の中で、私が向き合わなければならないのが、

この「無(nothingness)」である。



この無の恐ろしさに耐え兼ね、

私の内にあるすべてのものは、


友の元に、キャリアに、もろもろの気晴らしに

逃げ込もうとする。



――自らのむなしさを忘れ、

自分が一角(ひとかど)の者であると信じ込もうと もがきつつ。。




それだけではない。


静寂の内にとどまろうと決意するや、


混乱した数々の思い、

心をかき乱すようなイメージ、

狂気じみた幻想、

奇怪な連想などが、

次々と自分の内面を襲い出す。



そして怒りや貪欲が、

その醜い顔を現わし始めるのだ。



自分の敵どもに、

長ったらしく憎しみに満ちた言葉を放つかと思えば、



今度は、自分が金持ちで、

影響力があり、非常に魅力的だという


いやらしい誇大妄想に

酔うこともある。



あるいはその反対に、


自分がひどく貧しく、醜く、

すぐにも誰かの慰めを必要としている

哀れな者だと感じる時もある。



こうして私は、

自分の「無」という暗い深淵から逃れようともがき、


虚栄の内にある自己の虚像を

再び建て直そうとするのだ。




荒野における知恵というのは、

自身のおそるべき無との対峙が、


私たちをして、

完全にそして無条件に

主イエス・キリストへと服従せしめることである。




Henri Nouwen, The Way of the Heart, p. 27-28




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一日の初め、私たちは沈黙する。


なぜなら、神が私たちに

最初のことばをくださらねばならないからだ。




そして就寝前にも沈黙する。

なぜなら、最後のことばもまた

神に属するものだからである。




沈黙というのは、

神のみことばを待ち望み、


祝福のうちに

神のみことばより出でることに他ならない。




しかし皆の知る如く、これは、

実践され、

各々が学び取っていかねばならないものである。




Dietrich Bonhoeffer, Life Together, p. 79




詩篇42:5


わがたましいよ。

、、神を待ち望め





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詩篇63:1

神よ。あなたは私の神。私はあなたを切に求めます

水のない、砂漠の衰え果てた地で、私のたましいは、あなたに渇き、私の身も、あなたを慕って気を失うばかりです。


O God, thou art my God; early will I seek thee: my soul thirsteth for thee, my flesh longeth for thee in a dry and thirsty land, where no water is. (KJV訳)




みなさんは、夜明けの空、好きですか?

私は、大好きです。

東から太陽が顔をのぞかせます。

すると、暗い空の一部分がふいに黄金色になったり、ピンク色になったり、真っ赤な紅色になったりしながら、ゆっくりと、でもたえず表情を変えていきます。


☆☆


冒頭に挙げました詩篇の最初の節で、荒野にいたダビデが「私は、あなたを切に求めます」と神様に心を注ぎ出しています。

他の日本語訳でも、「わたしは切にあなたをたずね求め」(口語訳)、「わたしはあなたを捜し求め」(新改訳)、「われ切になんぢをたづねもとむ」(文語訳)と、いかにダビデが切実に主を求めていたかが訳し出されています。

(英語ではseek diligently, seek earnestly等。)


でも欽定訳を読むと、「Early will I seek thee(早朝、私は汝を求めます)」となぜかearly(=朝早く)が挿入されているのです。(Darby訳、Geneva訳も同様です。)

「どうしてなのかな?」と私は不思議に思いました。

そしてこの節をさらに詳しく調べてみたのです。

すると、ここのseek(<切に求める)のヘブライ語は、shachar(שָׁחַר)という動詞で、元々、夜明けを待ち望む(look for dawn)、朝早く、何かを熱心に求めるという意味があるということがBiblehubに書いてありました。

また、この動詞shacharの名詞形(שָׁ֫חַר)が、「夜明け dawn」という意味だということも知りました。

☆☆

感動的だったのは、私にとってこのshacharという名詞は、アラビア語経由のペルシャ語sahar(夜明け سحر)としてすでになじみがあり、しかも私の大好きな言葉だったことです。

(サハールというこの語は、女の子の名前として、アラビア語圏、ヘブライ語圏、ペルシャ語圏、アゼリ語圏、クルド語圏、ウルドゥー語圏などで広く愛され、用いられています。「サハールちゃん」 うん、かわいい名前!


また、ラマザンの時期には、夜明け前に、モスレムの人々は軽食を取りますが、その夜明け前に食べる食事のことを、彼らはSahari(サハリー)と呼んでいるんです。

ですから、欽定訳の翻訳者たちは、そこらへんの原語の意味をも含ませようと、Early will I seek Theeと訳し出したのでしょうね。すてきですね!


☆☆


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思えば、イエスさまも、朝早く祈っておられました。


マルコ1:35

さて、イエスは、朝早くまだ暗いうちに(πρωι εννυχα λιαν)起きて、寂しい所へ出て行き、そこで祈っておられた。




なぜイエスさまは、朝早くまだ暗いうちに祈ろうと思われたのでしょうか。

日中はミニストリ―が忙しく、群衆が押し寄せ、静まる時間がないので、早朝の時間を選ばれたのでしょうか。

それとも、夜明けという時間には、祈り、静まる上で、なにか特別な恵みがあるのでしょうか。

みなさんは、どう思いますか。


詩篇119:147、148

私は夜明けに起きて叫び求めます。
私はあなたのことばを待ち望んでいます。

私の目は夜明けの見張りよりも先に目覚め、
みことばに思いを潜めます。



詩篇88:13

しかし、主よ。この私は、あなたに叫んでいます。
朝明けに、私の祈りはあなたのところに届きます。





おわりに


ペテロは、「夜明けとなって、明けの明星(φωσφορος)があなたの心の中に上るまでは、暗い所を照らすともしびとして、預言のみことばに目を留めていなさい」と信者たちを励ましました。(Ⅱペテロ1:19参)

夜の世界に「光をもたらす星」の意味で用いられている「明けの明星」は、黙示録22:16では、「輝く明けの明星」(ο αστηρ ο λαμπρος ο πρωινος)とあり、イエスさまのことを指しています。

今まだ、全世界は悪い者の支配下にあり(1ヨハネ5:19)、私たちは夜の世界に光をもたらす「輝く明けの明星」の到来を待ち望んでいます。


Early will I seek Thee――朝早くまだ暗いうちに起き出して、愛する主を切に求める。

「朝早く」の静寂と祈りのひとときは、私たちに、輝く明けの明星、イエスさまの来臨の輝きをよりリアルな形で待望させる、そんな特別な時なのかもしれません。



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宣教学校にいた時、オランダから一人の講師の方がやって来られました。

この方は「異文化圏の人々に対する伝道」というテーマで授業をしてくださったのですが、印象深かったのが、この先生の「突飛な」行動でした。

先生は初日、教室に入ってくるなり、いきなり小さな絨毯を敷き、その上に座ったかと思いきや、おもむろに額を床にすりつけ、祈り始めたのです!

そしてしばらくすると、唖然とする私たちに、先生は訊ねました。「私は今、何をしましたか?」

それに対し、私たちは、「モスクで祈るイスラム教徒の姿を真似たのだと思います。」と答えました。

(ちなみに、この先生は、宗教的なパキスタン人男性のような、白く丈の長い服を着ていました。)

しかし先生は聖書を開きつつ、私たちにこう言ったのです。

「いいえ、私はヨハネの黙示録に書いてある礼拝行為を今、みなさんの前でしてみせたのです!」


黙11:16

神の御前で自分たちの座に着いている二十四人の長老たちも、地にひれ伏し(προσεκύνησαν)、神を礼拝して、、



黙4:10

二十四人の長老は御座に着いている方の御前にひれ伏して(προσκυνήσουσι)、、



黙19:4

二十四人の長老と四つの生き物はひれ伏し(προσεκύνησαν)、御座についておられる神を拝んで、「アーメン。ハレルヤ。」と言った。




προσκυνέω(proskynéō:プロスキネオ)

(<πρός、向かって+ κυνέω、接吻する、平伏して敬意を表する)


① ~に敬意を表する。(行為により)尊崇の意を表す。敬礼する。~の前にひざまずく。~の前にひれ伏す。

② 伏し拝む、拝する、礼拝する。

(織田昭 『新約聖書ギリシア語小辞典』より)




旧約聖書の中では、「ひれ伏す(bow down)、礼拝する」という動詞は、שָׁחָה(shachah:シャハー)となっており、170回も使われています。

(*ちなみに、現代ヘブライ語では、このシャハーは、「おじぎをする、身をかがめる」という意味はあっても、「礼拝する」という意味は、もはやないそうです。Vine's Complete Expository Dictionary of Old and New Testamentより)


詩篇5:7

しかし、私は、豊かな恵みによって、
あなたの家に行き、あなたを恐れつつ、
あなたの聖なる宮に向かってひれ伏します(אֶשְׁתַּחֲוֶ֥ה)。




アラビア語の聖書では、ここの詩篇の「ひれ伏す」は、أَسْجُدُ(アスジョド)と訳されており、この行為は、私たちのイメージするモスクでのイスラム教徒たちのあの平伏姿勢にも当てはまると思います。

冒頭の話に戻りますが、先生が私たち生徒に伝えたかったのは、「みなさんは、偏見のレンズで見ていますが、その実、『ひれ伏し祈る』というポーズは、決してイスラム教徒特有のものではないのです。これは新約聖書にも記されている立派な聖書的祈りの姿勢でもあるのです」ということでした。



礼拝の中でひれ伏し祈る


しかしイスラム教徒と違い、私たちクリスチャンにはもちろん、規定された「祈りの姿勢」というのは一切ありません。

私たちに求められているのは、「霊とまこと」(ヨハネ4:23)による神礼拝です。ピリピ3:3には「神の御霊によって礼拝し、、」とも書いてあります。

そう、それはそうなのですが、でも、よくよく気を付けて新約聖書を読んでみると、黙示録以外にも、神礼拝や祈りや賛美の行為に、「ひれ伏す、ひざをかがめる」という具体的なポーズが伴っていることを記す箇所がたしかに存在しているのです。


ピリピ2:9-11(新改訳)

それゆえ、神は、キリストを高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになりました。

それは、イエスの御名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるものすべてが、ひざをかがめ(γόνυ κάμψη)、

すべての口が、「イエス・キリストは主である。」と告白して、父なる神がほめたたえられるためです。



マタイ26:39(新共同訳)

少し進んで行って、うつ伏せになり(ἒπεσεν ἐπὶ πρόσωπον、顔を〔大地につけて〕ひれ伏し[岩波訳])、祈って言われた。

「父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願いどおりではなく、御心のままに。」



マタイ28:16、17a(新共同訳)

さて、十一人の弟子たちはガリラヤに行き、イエスが指示しておかれた山に登った。

そして、イエスに会い、ひれ伏した(προσεκύνησαν)。



マタイ28:8,9(新共同訳)

婦人たちは、恐れながらも大いに喜び、急いで墓を立ち去り、弟子たちに知らせるために走って行った。

すると、イエスが行く手に立っていて、「おはよう」と言われたので、婦人たちは近寄り、イエスの足を抱き、その前にひれ伏した(προσεκύνησαν)。

(新改訳は、「御足を抱いてイエスを拝んだ。」)





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モラビア兄弟団の礼拝の様子(18世紀ドイツ)



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西インド諸島におけるモラビア兄弟団の礼拝の様子(1757年、セント・トーマス島)



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正教会のクリスチャン



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中東地域のキリスト教会




みなさんはどう思いますか?



さて、「ひれ伏し祈る」というクリスチャンの礼拝行為について、ご一緒にみてきました。

どうでしょう。みなさんは、このことについてどう思いますか?

礼拝の中で、または個人の祈りの生活の中で、「ひれ伏す」という心と体の姿勢が、みなさんの霊性に影響を与えたことはありますか。

なにかご感想やお証しがありましたら、ぜひお聞かせください!

楽しみに待っています。