「2世紀および3世紀の信者たちは、どの戦略家も避けようとする戦法――両面作戦を、せねばならなかった。

ローマ帝国が滅ぼしてしまおうとするのに当面して、自己の存立のために戦っていた一方、それと同時に、教会は、教会内での教義の純潔保持のためにも戦っていた。」


―E・ケァンズ 『基督教全史』、p134




昨日のコメント欄での兄弟姉妹との有益な対話を通し、私は初代教会のクリスチャンたちにとった「両面作戦」について思いを馳せざるをえませんでした。


聖書の言葉を、神の言葉と真摯に受け取らないクリスチャンリベラリズムは、真理と神の言葉を探し求める人々にとって、非常に大きな躓きや苦しみをもたらすものです。


断言は出来ないのですが、イエスを預言者として敬う熱心なイスラムの人々にとっても、こうしたリベラリズムは侮辱的に感じられるのではないかと推察します。


キリスト教界、特にプロテスタントでの自由主義神学を信奉する教会の多さはおそらく大きな躓きとなっているでしょう。






十字架の敵



クリスチャンリベラリズムは、いのちの木を内側から腐食させ、この体系を受け入れる人々の信仰をじわじわと、しかし確実な死と破壊へ追いやる、キリスト教最大の脅威の一つであり、「十字架の敵」(ピリピ3:18)だと思います。


プロテスタント自由主義神学と闘い続けたグレシャム・メイチェン氏は、Christianity AND liberalismと――、両者を互いに親和性のない「異なる別箇のもの」として区別していましたが、それは真だと思います。





世俗精神の形態について




さて、その内側の脅威(クリスチャンリベラリズム)ですが、それはこの世の霊やイデオロギーの形をとってキリスト教会内に侵入してくると思います。


しかしここで留意しなければならないのは、そういった世俗精神(この世の霊:the spirit of the world)は、常に同じform(形態、μορφη)をとるとは限らない、ということではないかと思います。


この点についてフランシス・シェーファーは次のような深い洞察をしています。



キリスト者は、この世の精神(霊)に対し、抵抗し続けなければならない。


しかしその際、留意しなければならないのは、世俗精神は、必ずしも常に同じ形態(form)をとるとは限らない、という点である。


だから、クリスチャンは、各時代それぞれの世俗精神が帯びているその形態――、これに抵抗しなければならないのである。


もしもそうしないならば、私たちは何をしたところで、所詮、世俗精神に抗していることにはならないのだ。それは特に私たちの生きるこの世代に当てはまるだろう。


なぜなら、われわれに敵対している諸勢力は、いまや総力体制でこちらに向かってきているからである。


-Francis Schaeffer, The God Who Is There




それでは私たちの生きるこの世代において、世俗精神はいったいどのような形態を帯びて、「今や総力体制で」こちらに進撃しているのでしょうか。


私たちの教会を内側から腐食させようとしている真の脅威はどこにあるのでしょうか。





漏穴はどこにあるのか?




現在、リベラリズム浸食をもたらしている「漏穴」は複数あると思いますが、その中の一つが「福音主義フェミニズム」であることは、もはや疑うことのできない事実であると思います。


というのも、彼らの論議は、かつてのold liberalsの解釈のそれとほぼ同じだからです註1


註1.この点についての詳細研究は、Wayne Grudem, Evangelical Feminism: A New Path to Liberalism?をご参照ください。





またその中でも特に、ケファレー(κεφαλη、かしら)、authenteo(αυθεντεω、権威を持つ)をめぐる論争等は、現在、大砲の飛び交う激戦地であり、これらの聖書的真理は、私たちが死守しなければならない霊の要塞だと思います。


ここが破られると、そこに関連するさまざまなものが総崩れになり、今後、取り返しのつかない惨事がキリスト教会や家庭にもたらされると予想されます。



聖書の真理を教えるための神学研究は、聖書と対立する神学思想と学問的に戦うという姿勢が不可欠であります。


神の言葉の前に中立はあり得ない


それに従うか、逆らうかどちらかであります。


したがって、その聖書を研究する神学もまた、原理的には聖書的か非聖書的かいずれかであります。


より聖書的たらんと努める歴史的改革派神学の研究は、聖書への忠誠から非聖書的神学諸思想に対して敢然と立ち向かい、それらに対する“論争的な”(ポレミックな)神学でなければなりません。


神戸改革派神学校、教育方針(2)より一部抜粋





「神の言葉の前に中立はあり得ない。」


そして神の言葉の前には、――日本の精神風土に満ち満ちる「事なかれ主義」――これもあり得ないと信じます。








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真理のために立ち上がる(Radicals for Truth)―フランシス・A・シェーファー









その点で使徒パウロは、[臆病な牧師たちと]どんなに違っていたことでしょう!


彼は神の言葉の中で「不人気な」教えのためにしり込みすることなく、反対に果敢に立ち上がりました。


エペソで教会の長老たちに会い、彼らの間で労した3年間の働きを振り返った際も、彼は清い良心をもって次のように言うことができました。


使徒20:26-27

だから、特に今日はっきり言います。だれの血についても、わたしには責任がありません。

わたしは、神の御計画をすべて、ひるむことなくあなたがたに伝えたからです



「伝えたからです」の「から(for)」という語から分かるのは、ここでパウロが自分がなぜ「だれの血についても、責任がない」のか、その理由を述べているということです。


彼は言います。エペソ教会内のあらゆる失敗に対し、自分は神の前に「責めがない」。なぜなら、私は「ひるむことなく」「神のご計画をすべて(the whole counsel of God)」彼らに伝えたからです、と。


彼は、聖書のある教えが「人々の反感を買うから」という理由で、それを説くことを差し控えるようなことはしませんでした。


そして、そういった教えが「自分に対するバッシング、葛藤、そして衝突を招いてしまう可能性があるから」と言って、教えを説くことを差し控えるようなこともしませんでした。


そうです、パウロは、教えの内容が人気のあるものであろうと、逆に人々の反感を買うようなものであろうと、聖書のあらゆる主題を余すところなく人々に説いたのです。


もしも使徒パウロが今日生きており、こういった諸教会を牧会開拓していたとするなら、彼は、現地の牧会者たちに対し、男女の聖書的役割について、あいまいでお茶を濁すような言い方をするよう勧告するでしょうか。


現在、社会全体で、もっとも論議がなされ、かつ緊急テーマとなっているこのジェンダー問題に関する神のみこころに対し、何も言わず泣き寝入りするようパウロは勧告するでしょうか。


「何も言わなければ物議も醸し出さないし、荒波を立てることもない。。。そうしたら教会内に『平和を保てる』。だから私は黙っていよう。。」


こうしてあなたの「沈黙」により、この論争の決着は、次世代まで引き延ばされることになります。


はたしてパウロはそのような勧告をあなたに出すでしょうか。


「キリストに従うにあたり、私たち信者は割礼を受ける必要がない」とパウロが説教し始めたことを引き金に、ものすごい迫害が起こりました。


ユダヤ人の敵対者たちはパウロを町から町へと追跡し、ある時には彼を石打ちにまでしました。(使徒14:19-23)。


しかしパウロは一歩もひるまず、救いの福音の使信に関し、妥協しませんでした。


そうです、救いは、キリストを信じる信仰「のみ」によるものであって、「信仰と割礼」によるものではないと宣言したのです。


そして後にパウロは、自分が迫害の憂き目にあった諸教会に対し手紙を送った際にも、福音の純粋性を守るよう強調し、次のように書きました。


ガラテヤ1:10

こんなことを言って、今わたしは人に取り入ろうとしているのでしょうか。それとも、神に取り入ろうとしているのでしょうか。


あるいは、何とかして人の気に入ろうとあくせくしているのでしょうか。もし、今なお人の気に入ろうとしているなら、わたしはキリストの僕ではありません。



教会指導者たちも、そして他のすべての信者たちも、今一人一人が、この問いの前に静まることが大切ではないかと思います。






② 同盟者その2――臆病な牧師たち




対等主義の第二番目の同盟者は、教会指導者たちです。


彼らは、内心、「たしかに聖書は相補主義の教えを説いている」ということを信じています。


しかしながら彼らは臆病者であり、それを堂々と教えたり、その立場を擁護するために声を挙げる勇気に欠けています。


彼らはだんまりを決め込む、「消極的コンプリメンタリアン」です。


自分の所属する組織が、対等主義の圧倒的プレッシャーの元、今や変節の危機にさらされているというこの機におよんで、


彼らは――心の中では「聖書はそんなことを教えていない」と信じているにもかかわらず――次から次に譲歩を重ね、降参していくのです。


これは、リベラルな教団の中にいる保守的信者たちが、同性愛問題に直面した時の状況と類似しています。


実際、非常に多くの人は、「同性愛は非聖書的で間違っている」と心の中では考えているのですが、実際に声を挙げる人は稀です。


こういった同性愛問題に取り組んできた米国福音ルーテル教会のロバート・ベンネ氏はこういった人々の問題について次のように言っています。


話し合いの席には毎回、同性愛を公言している人々も在席しているわけです。


そのためでしょうが、この問題に関してまだ確信が持てていなかったり、普通に善良だったりする人々は、反対の声を挙げたり、修正主義者のアジェンダに対する差し控えを提案するといったことに困難を覚えているようです。


大半の信者たちは、「自分はあくまで礼儀正しく、寛容でありたい」と望んでおり、こうして「愛のうちに和を保ちたい」という願いから、(同性愛肯定に向けた)その修正アジェンダを受け入れていく――そういったケースがしばし見られます。

(World, Aug.2, 2003, p.21)




対等主義化した南部バプテスト連盟(Southern Baptist Convention)を再び相補主義に回復する働きにおいて尽力したリーダーの一人が、何年にも渡る苦闘の末、私に次のように打ち明けてきました。


一連の苦闘における最大の問題は、私たちに反対する穏健派の存在ではなかったのです。いいえ、そうではありませんでした。


むしろ最大の問題は、われわれに同意しつつも、私たちを支えるために声を挙げたり、共に立ち上がることを拒む、そのような保守派信者の存在でした






*ジェンダー論争に関する南部バプテスト連盟の苦闘の歴史についてはこの記事およびこの記事をお読みください。






Wayne Grudem, Evangelical Feminism and Biblical Truth, chap.14



① 同盟者その1――世俗文化



対等主義は、キリスト教諸機関に影響力を及ぼそうとしていますが、その際、対等主義には、二人の重要な同盟者がいます。


まず第一番目の同盟者は、世俗文化です。


世俗文化は、その卓越した数々の表現をもって、激しく神の言葉の権威に逆らっています。


また、この文化は、社会の中に、「男性だけに開かれている役職がある」という事実に激しく反対し、神のご計画に沿った形で機能する家庭のあり方にも強く反対しています。


そして(多くの面において)、世俗文化は、「権威」一般に対し、拳を突き上げています。


もちろん、世俗文化に属している人々の中にも、そのような考えを持っていない方々もおられます。


しかしながら、――メディア、エンターテイメント産業、一般大学機関など――こういった文化の極めて影響力をもつ中核部分は一様に、上記のような強力な(対等主義)スタンスをとっているのです。






F.自分たちの権威としての聖書を拒み、この問題を、経験や個人的傾向をベースに判断している。




こういった対等主義者の人々は、みことばそのものよりも、個人の経験に、より高い権威を据えています。そして次のように言っています。



神様が明らかにこの女性たちのミニストリーを祝福してくださっており、私たちはそれに反対することができないと思います。


ですから、私たちはこの問題に関し、聖書が何と言っているかという不明瞭な議論で時間を無駄にすべきではないと思います。(11章4項参照)。




もし彼女が真実に、神様から『牧師になりなさい』という召命を受けたのなら、その女性のミニストリーの正当性を私たちがどうこう言うことはできないと思います。(11章5項)。




今日、多くの預言的声が示すところによれば、女性たちもまた、(成人男性を含めた)男女に聖書を教え、牧師として奉仕することが許可されるべきなのです。(しかし、ここでもまた、この命題に関し、聖書自体は何と言っているかということについての彼らの言及はありません。)(11章6項)。




私たちは現在、――聖書の中に見いだされる古い諸基準がもはや適用されないという――歴史上、例をみないユニークな時代に生きているのです。(11章7項)







G 信徒たちに偏った情報しか提供しない




私はこれまで何度となく、ある一人の牧師が、いかにして自教会を対等主義路線に持っていくかという一連の行動のパターンを目の当たりにしてきました。


残念ながら、こういった牧師たちの中には、この問題にかんする適切な情報を公平に信者に知らせることをせず、相補主義側の立場を言い表すフェアな機会を提供することを拒む人々もいました。


そして大抵の場合、こういった牧師は、次のような手順を踏んで、教会を対等主義化させます。



)対等主義の著作を数冊読み、これが正しいと確信する。


)支持者集めを始め、長老会や、役員会の大半を、対等主義側につかせる。


)対等主義の見解に沿った説教をシリーズで行なう。


)実際に、教会の女性たちに、(成人男性をも含めた会衆の前での)講壇説教をさせる。





そんな中、もしも誰かがこの牧師のやっていることに異議を唱えた場合、牧師および仲間の指導者たちは、その信徒を「分派を起こす者」だとみなし、「彼/彼女は、教会のリーダーシップに誤った形で逆らっているのです」と言います。


またある教会メンバーが、「相補主義側の立場を表明する機会をもください」と頼みにいくと、「でも、その立場については皆がすでに言っているので、あえてまた聞く必要はないでしょう」と言われます。


しかしながら、実際、多くの信徒たちは、(対等主義側との有益な対話をも含めた)相補主義の見解について、未だかつて、一度もまともな説明を聞いたことがないというのが現状です


そのため、そういった「直観的」相補主義クリスチャン("instinctive complementarians":つまり、あれやこれや著作集や神学書などを読まなくても、聖書を素直に読み、そして、誰に教えられなくても、相補主義のあり方が正しいということを心で知っているクリスチャンのこと。)は、


アカデミックな世界で30数年以上に渡り議論を重ねてきた対等主義の神学者たちからの鋭い問いに、(学的に説得力のある)答えをすることができず苦しみます。


また自教会の牧師の対等主義的アジェンダに対し、聖句を引用しつつ疑問を投げかけても、牧師は、対等主義の神学者たちの議論手法でもって、「A教授やB教授の見解によれば、あなたのそういった見解は間違っている等、、、」と、その信徒に答えるので、彼/彼女の立場はさらに苦しくなります。



(関連記事:here





D 古代および現代史に関する誤った言及



対等主義関係の著作の中で、何度も何度もくりかえし、史実に基づかない古代世界に関する誤った主張がなされています。


例を挙げますと、「当時の古代世界においては、女性たちは、教会指導者として奉仕するに十分な教育を受けることができていなかった」という主張がよくなされます(Evangelical Feminism and Biblical Truth,8章2項参照)。


しかしながら、古代世界の実証研究が進むにつれ、ますますこういった主張の信ぴょう性のなさが明らかになってきています。


また、対等主義の著作・論文の中では、聖書のどの聖句からも立証されていない(ないしは、確立された諸事実)によっても裏付けされていないことが事実であるかのように主張されています。


例を挙げますと、「当時のエペソにおいて、女性たちは偽りの教理を教えていた。」(8章1項)、「当時のコリントにおいて、礼拝時に、女性たちは集会をかき乱していた。」(7章7項)といった主張です。


実に、こういった主張が、あちこちで再三にわたり繰り返されているため、次第に人々はそれが事実であるかのように思い込み始めます。


そしてこう考えるのです。「きっと、学者さんたちがこの点に関して学的裏付けをしてくれているに違いない。」


しかし実際はどうかと申しますと、そのような主張をバックアップする堅い証拠は未だどこにも見いだされていないのです。そして人々はそのことを知らずにいるのです。




E 聖書の権威を拒絶し、リベラリズムへ向かわせる解釈メソッド



ある人々はこのように言います。「でもこの論争は、とどのつまり、聖書解釈の違いに過ぎないんですよ。」


そしてこういった人々は、どちらの見解も教会内で許容されるべきだと結論づけています。(もちろん、対等主義者たちのある主張に関しては、私も、それらを単なる解釈の違いだと認めておりますし、本書の中でもその点に言及しています。)


しかしながら対等主義者たちによるもう一つ別の種類の解釈が存在することもまた事実であり、この種の解釈は、非常に厄介です。


というのも、彼らは、信者の人生の中におけるみことばの権威についての前提の部分で、私たちと同じ土台に立っていないからです


本書の13章でも詳説しましたが、こういった対等主義者たちの主張は、暗にあるいは明瞭に、聖書の権威を否定するものです。


例えば、「旧約聖書のヘブライ語の語彙の意味は、私たちにとって権威を持つものではない」という主張がなされています(3章5項)。


その他にも、「創世記1-2章は、歴史的に正確ではない」(3章7項)、


「男性リーダーシップに関する新約の倫理は、まだまだ改善の余地がある」(6章5項)、


「1コリント14:34-35の箇所は、聖書の一部として取り扱うべきではない」(7章5項)、


「1テモテ2章において使徒パウロが言ったことは間違いだった」(8章14項)等など。


またこのカテゴリーに適合するもう一つの主張は、次のようなものです。



パウロや新約記者たちは、教会における完全な形での女性リーダーシップに向け、軌道(trajectory)を走っていた。しかし、彼らは新約聖書が完成する時点においては、まだその最終目標に到達することができなかった。

それゆえ、私たちは使徒たちの教えを越え、彼らが進んでいた方向に動いていかねばならない。(9章4項 参照)




こういった軌道解釈(trajectory hermeneutic)と類似の例として挙げられるのが、ケビン・ギルス(Kevin Giles)の見解です。


ギルスは、「聖句を引用していても、教理的な問題には解決がもたらされない。だから、そうする代わりに教会が歴史的に保持してきた見解に依って決定を下さねばならない」


(少なくても、ギルス氏が「これこれの点において教会は正しい教理を保持していた」と考える事例において)と考えています。これに関する検証は10章2項をお読みください。


また聖書の権威を否定する事例としてこれとは別の次のような説もあります。


これは「贖罪的な運動としての解釈法("redemptive movement hermeneutic")」と言われるものです。


この解釈によれば、「恭順」を勧告する新約聖書の聖句および教会における男性リーダーシップに関する聖句は、文化的に相対的なもの(culturally relative)であるということです。


あるいは、「この問題に関しての個々人の決断はすべて、自分がどの聖句に力点を置くかにかかっている」といった主張もなされています(9章5項)。


その他の主張を列挙します。


「この問題に関して聖書が教えていることを把握することは不可能」(9章9項)。


「男性の牧師や長老の権威の下になされるのなら、女性も教えたり、成人男性の上に権威を持つことができる」(9章12項)。


「(たしかに女性スタッフたちは成人男性を前に説教したりしていますが)私たちはあくまでパラチャーチ(学生宣教団体等)であり、『教会ではない』ので、その点に関しては、私たちは新約聖書の掟に従う必要はないのです」(9章13項)。






3)なぜ対等主義が前進しているのか?【前篇】




聖書研究の分野で大幅に後退しつつある対等主義ですが、それにもかかわらず、エヴァンジェリカル界の最前線においてそれは前進を続けています。


なぜでしょうか。この20年余りに渡り、私はこの論争に参入し、一連の動きを注意深く見てきましたが、その結果、私は「対等主義前進」の要因として、以下のような点に気づきました。




A 聖書の不正確な解釈


本書で取り扱っている対等主義者たちのさまざまな主張の大半がこのカテゴリーに入ります。(中略)





B そこに存在しないものを無理に聖書の中に読み込もうとする。




対等主義者の中には、聖書が実際には言っていないことをベースに議論を繰り広げている人々がいます。


例えば、「デボラがイスラエルを率いた」という主張(Evangelical Feminism and Biblical Truthの4章1項を参照)、「ミリアムはイスラエルの民の上に立つ指導者であった」という主張(同著4章5項)、「アブラハムはサラに服従した」という主張(4章8節)。


また「箴言31章は、家庭内における男性リーダーシップを覆す内容の章である」(4章10項)、「新約の教会では使徒たちに対し特別な権威は何も付与されていなかった」という主張(5章8項)、


「ペテロがタビタを生き返らせたのは、彼女が指導者の役割を担う人物だった」(5章12項)、「1テモテ5章の未亡人たちは、教会の長老だった」(7章13項)、


「家を所有していた女性たちは、家庭集会において教会を「監督」していた」(7章14項)、「新約の教会の長老たちは諸教会の上に権威を持っていなかった」(7章16項)、「パウロは女性たちに『みことばを説教しなさい』と言っている」という主張(7章18項)等。。





C 聖書の語の意味に関する誤った言及



また対等主義の人々の中には、「すべての英語訳聖書は間違っている」「ほとんど(あるいは全ての)ギリシャ語辞典は間違っている」と主張し、それゆえに「(この論争の中でキーワードとなっている)いくつかの言葉に新しい意味が付与されなければならない」と言っている人々もいます。


例を挙げますと、創世記2:18bの「わたしは彼のために、彼にふさわしい助け手を造ろう」の聖句をもって、「これはエバがアダムよりも優越(superior)していたということを意味している」という主張(3章9項)。


それから、「『かしら(head)』の意味は、――「長(かしら)」とされている人に付与されている権威を否定する意味での――『源(source)』である」という主張(6章6項)。


さらに、「ローマ16:2のフィベは、多くの人々の『指導者』であり、『統治者』であった」(7章1項)、


「エペソ5:21で言っている意味は、夫と妻が、『相互に恭順し合いなさい "mutually submit"』ということである」という主張などです(6章4項)。



訳者註:


"mutually submit" (相互恭順)という言葉を聞いて、勘の良い方は、『神の小屋』の著者ウィリアム・ヤング氏の三位一体論の中における、"mutual submission"(相互恭順)という誤った教えのことをはっと思い出されたのではないかと思います。


ここのパラレル関係には重大な意味と「意図」があります。この点に関してさらにお調べになりたい方は次の記事をご参照ください。


「相補主義」と「対等主義」について(その3)――三位一体論をめぐる両者の衝突 【ジェンダー問題】


恭順というのは、権威や従順ではなく、「愛と尊敬」、これに尽きる?―『神の小屋』の著者ウィリアム・P・ヤング氏の提唱する新しい三位一体論についての検証記事




その他の例を挙げますと、「1テモテ2:12の『権威をもつ(have authority)』の意味するところは、『権威を濫用する』ないしは『殺す』、『暴力をふるう』『自分自身を人の創始者であると宣言する』である」という主張(8章8項、9項、10項)。


「1テモテ2:12で、パウロは、『男性に対し、支配権を得る目的で教えるという行為』を女性たちに禁じていると言っている」(8章11項)といった主張などが挙げられます。






2.対等主義は、聖書釈義の分野において停滞している。



この論争が進んでいくにつれ、語の意味、文法的構造、より大局的な聖書的そして歴史的背景など、さらに多くの情報や事実が明るみになってきています。


そして、学的な分野におけるこういった進展は、相補主義の立場を強め、裏付けるのに貢献している一方、再三にわたり、対等主義の立場は揺さぶりをかけられてきました。


例えば、アンドレアス・コステンバーガー(Andreas Kostenberger)とH・スコット・バルドウィン(H. Scott Baldwin)の研究により、1テモテ2:12のauthenteoの意味に対する私たちの理解に重要な進展がみられました。


そしてこの研究により、――この語には否定的な意味が付与されている、という対等主義側の主張ではなく――「権威がある」「権威を行使する」という意味があるということが明示されたのです。



参照記事:

アンドレアス・J・コステンバーガー師へのインタビュー記事(1テモテ2:12に関して)【福音主義教会とフェミニズム問題】

コステンバーガー師へのインタビュー続編(1テモテ2:12)【福音主義教会とフェミニズム問題】






またリチャード・ホ―ヴ(Richard Hove)の重要な研究により、ガラテヤ3:28(「、、男子も女子もありません、、、なぜなら、あなたがたはみな、キリスト・イエスにあって、一つだからです。」)の箇所が、異なる役割をもつ異なる人々の間の一致(unity of different persons with different roles)を説くものであって、対等主義者の主張する「男女の役割における同一性sameness of men's and women's roles」を説いたものではないということが示されました。

Evangelical Feminism and Biblical Truth, p.184-85参)




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また、「当時のエペソでは女性たちには十分な教育が施されていなかったため、パウロは女性たちが教会で教えることを禁じた」という対等主義の人々の主張とは対照的に、スティーブン・バウ(Steven Baugh)等は、新約が書かれた当時のエペソにも教養のある女性たちが存在していたことを示しました。(同著p.289-91参)


またM・H・ブーラー(M.H.Burer)およびダニエル・B・ウォーレス(Daniel B. Wallace)の研究を通し、ローマ16:7のギリシャ語episemosは、ユニアス(ユニア)は、「使徒たちの間によく知られている(well known among the apostles)」というよりは「使徒たちによく知られている(well known to the apostles)」という意味であるということを提示しています。(同著p.224-25参)


またこれは私自身の研究によるものですが、「権威のある人("person in authority")」を意味する50以上の例を検証し、ケファレーkephale 「かしら」)の意味に関する考察をいたしました。


対等主義の一部は、家庭内において夫が妻のかしらであるという聖句によって示されている男性リーダーシップを否定しなければならない必然性から、「AはBのかしらであっても、AはBの上に権威を持ってはいない」という主張をしています。


しかしながら、聖句中にあるどのテクストをとっても、そのような事が明確に意味されている聖句は未だ一つ足りとも見つかっていません。(同著p.202-11)



参照記事:

かしら(head,κεφαλή)の意味は「長 "authority"」ではなく、「源 "source"」だった?―フェミニスト神学への応答

かしら(head,κεφαλή)の意味は「長 "authority"」ではなく、「源 "source"」だった?―この問題がなぜ今、大切なのでしょうか〔後篇〕





こういった諸研究を概観した際に見て取れるのは、相補主義は詳細な聖書研究により、ますます堅く立っていきているのに対し、対等主義の議論は、不安定になってきているということです。


でもここで疑問が生じます。それならば、どうして現在、対等主義の立場が前進しているのでしょうか?





Wayne Grudem, Evangelical Feminism and Biblical Truth, chap14.4より一部抜粋



1)男性優越主義というのは実際、歴史をとおして主要な問題であった



これまでの歴史を振り返ってみますと、ほとんどの文化圏において、男女に関する聖書的スタンダードからのもっとも深刻な逸脱は、フェミニズムではなく、むしろ過酷で抑圧的な男性優越主義に因るものでした。


これは米国内の家庭に限らず、世界のさまざまな文化圏において今日も存在している問題です。


非キリスト諸教――たとえばイスラム教――などでは、悲劇的な形で女性を抑圧している場合が実際多く、神のかたちに等しく造られた存在として女性たちを取り扱っていません。


聖書は冒頭からそれを是正し(創1:27)、男女は共に神のかたちに創造されたと記してあります。


その後も聖書は一貫して、神の目に女性が等しい尊厳と価値を持ち、私たちはお互いをそのような存在として取り扱うべきであるということを言っています。


しかしながら、この真理がいつも認識されてきたかといいますと、残念ながら――教会の中においてでさえも――常にそうであったとは言えません。


現在のこの論争における神のご目的の一つは、これまでエヴァンジェリカル界の諸教会や家庭の中に存在してきたいくつかの間違った伝統や男性優越主義に関する誤った考えを是正するためのものではないかと私は考えています。


こういった事柄に関し、私たちは、教会が主により従順になっていくことを絶えず期待しつつ生きていくべきだと思います。


(中略)キリスト教会は、これまで、このように論争を通して、学び、成長し、そして清められてきました。


そしてキリスト教理史をみましても、ある論争が一定期間続いた後、聖書信仰の教師や指導者たちのmain body(主体)は、常に正しい決断、そしてより深い理解へと導かれていきます。


なぜなら、イエス・キリストこそ教会の「主(lord)」であり、主は教会を守り、清め続けてくださるからです。


その一方、残された少数派はなおも間違った諸意見に執着し続け、やがては周縁化し、消えていくか、もしくはたとい存在し続けても、それ以後は、キリスト教会に、もはやこれといった影響を及ぼす存在ではなくなっていきます。


ですから、現行のこの論争もまた――過去の諸論争と同じく――、教会が正しい決断をくだす段階に達し、間違った諸見解が是正される状態に達するまで、続くだろうと思います。


男性優越主義の誤りについて申し上げましたが、しかしそうであるからといって、エヴァンジェリカル諸教会(および家庭)が常にそういう誤りの内にあったかというと、そうではありません。


例えば、ヨハネ・クリュソストモス(374-407)の説教集をひもとくと、その中には、彼が夫たちに妻を愛するよう勧告し、互いに対し尊厳と敬意をもって接するよう促す多くの美しい文章が盛り込まれています。


そしてそういった説教は教会史を通し、主だった著述家たちの文章に見いだされます。


また今日、多くの教団・教派では男性にも、そして女性にもそれぞれにふさわしい奉仕の働きが与えられるよう奨励がなされています。


ですから、相補主義クリスチャンである私たちは、絶えず、次のように自問し続ける必要があると思います。


つまり、「聖書の定めた枠の範囲内で、私たちは女性の方々がより一層、尊い働きができるよう励まし、それらを積極的に肯定していくにはどうしたらよいのだろうか」と。


そして神の国の働きの中にあって、男女が真に等しい価値をもっているということを本当に純粋に自分は信じているのだろうか、と。






5.どちらの立場を採るべきか決めかねている、あるいは決断を差し控えているグループ



その他のエヴァンジェリカル界は、今もってこの問題に関する明確な結論を出すことができずにいるか、もしくは、同じ団体内にあって、どちら側の見解もかまわないという決定を出しています。


多くの福音主義神学校がこのカテゴリーに入るでしょう。私が20年間教鞭を取っていたイリノイ州にあるトリニティー神学校がその一例です。


この神学校では大多数の教授陣が2ポイント相補主義(*つまり、①家庭内でも、②教会内でも、その両方で相補主義)に立っていますが、少数派ではあっても有力な対等主義者の教授たちも学内に存在します。


ゴードン・コンウェル神学校でも同様に、両方の見解を教授陣に許容しています。


しかし、新約学の教授陣としてのアイダ・スペンサー(Aida Spencer:常勤)およびカテリーン・クローガー(Catherine Kroeger:非常勤)両女史の存在が意味するところは何かと申しますと、ゴードン・コンウェル神学校では、対等主義の見解が、他の神学校に比べ、はるかに強力であるということです。(両女史は、影響力のある対等主義著述家であり、スピーカーです。)


イリノイ州にあるホィートン大学および、ミネソタ州セント・ポールにあるベテル・カレッジ/神学校も同様に、教授陣の中に、相補主義、対等主義、両方の見解の持ち主が存在します。