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名前:エリザベス・ワイザー
年齢:26歳
所在地:イスラエル、ベエールシェバ市
祈りのベールを始めた時期:2011年7月




1)読者のみなさんに、少し自己紹介してくださいますか。



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私はイスラエル在住の、アメリカ人医学部生です。


ユダヤ人でもない私がイスラエルで勉強しているというのは、母国でも、そしてここイスラエルでも、「ちょっと普通ではない事」と受け取られているようです。


しかし私の大学は、グローバル公衆衛生に力を入れており、ベドゥインの遊牧民や、アフリカからの難民、世界中からのユダヤ人移住者たちと共に働き奉仕する機会が与えられており、私にとってはまさに理想的な環境です。




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ベエールシェバのベドウィン市場で、やぎを見ている正統派ユダヤ教徒の男性




というのも、私は将来的に医療ミッションに関わりたいと思っているからです。




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イエメン系のユダヤ教徒の女性たち(ベエールシェバ市)




母国で医学部を修了するのなら、この先5年から10年待った上で、はじめて――言葉も文化も不慣れな――外国の宣教地に足を踏み入れるということになると思います。


でも今、私は勉強しつつ、しかもすでに「現場に」いるのです!


また、私の住んでいるベエールシェバ(Beer Sheva)は、かつてアブラハムが住んだ町でもあります!




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ですから、聖書がユダヤの南とか、荒野とか、ネゲブと言っている時には、私は自分の部屋から外を眺めさえすればいいのです。そうすれば、それがどんなものか立ちどころに分かります。




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2)どこの教会に通っていますか。



私はベエールシェバで唯一英語通訳のある教会に通っています。この教会にはまた、スペイン語とロシア語の通訳もついており、それはイエスの御名の中で、異邦人とユダヤ人が共に集まり、神様を礼拝するという美しい光景を生み出すものとなっています。


ここのコミュニティーの人たちは本当にすばらしいです。


非常に多くのユダヤ人クリスチャンの方々が、イエス様に信仰を持ったゆえに、家族から絶縁されています。また洗礼式を行なうのも覚悟が要ります。


というのも、うちの教会で洗礼式が行われるという情報が流れると、オーソドックス・ジュー(正統派ユダヤ教徒)の人々が教会に暴動を働きかけてくるからです。


(なぜなら、一人のユダヤ人がバプテスマを受けるということは、ユダヤ人であることから離反すること(de-Jewed)を意味するからです。)


このように自分が、クリスチャンという[イスラエルにおいては]少数派の一員であるという体験は、周りの文化ではなく、意識的に自分の信仰そのものを実践し生きていくということを学ぶ上で大きな励みになっています。





3)どのような経緯で祈りのベールを始めるようになったのですか。



私はファンダメンタル(聖書主義)の教会で育ちましたが、そこでは、女性の「長い髪」というのが「被り物」のことだと捉えられていました。


高校を卒業後、私は親許を離れ、別の州にある大学に入学しました。そしてある日、そこにある叔母の教会に行ってみようと思い立ちました。


実は、その叔母の教会が、祈りのベールを実践する教会だったのです。(約半数の女性たちが礼拝時に被り物を被っていました。)


叔母は、そういう光景をみて私がびっくり仰天しないよう、前もって心の準備をさせようと思ったのでしょう、被り物についてのあるエピソードを私に話してくれたのです。


それによると、叔母はかつて友人に「もしも被り物に関する聖句について、主があなたに何かを示してくださったら、あなたは進んでその変化を受け入れたいと思う?」と訊いたそうです。


でもその友人には、進んで変化を受け入れる心がなかったそうです。


そう言いつつ叔母は、私に、「神様に対しやわらかい心を持ってね。そして主とそのみこころについて、今後より良く知っていく過程で、変化を進んで受け入れてね。」と熱心に語ってくれました。


でもそれからの二年間というもの、私はその教会に通いつつも、ベールはしませんでした。


水曜祈祷会の席でも、ベールをしていない女性は私だけでした。


ある日、祈祷会の席で、牧師さんが何かの話のついでに、「長い髪というのは女性の光栄(=glory)であり、誰も神のご臨在の中で自らを誇ってはならない(=glory)のです」と言われました。


その説明は、被り物を認めていない立場に立っていた私にとって、はじめて聞く、説得力ある議論でした。


しかし、私は「周りのみんながしているから」という理由だけで、何かを受け入れるつもりはありませんでした。


その後さらに2年以上に渡り、私はその教会に通い続けました。そして大学4年の時、もう一度、被り物に関する説教を聞きました。


しかし私は説教を鵜呑みにするのではなく、一度自分でしっかりここの聖句を調べてみようと思っていましたので、大学を卒業して、院に入学するまでの待ち時間の間に、1コリント11章のリサーチに取り掛かりました。


こうして検証の結果、ここの聖句でいう「被り物」というのは髪の毛ではなく、帽子とかスカーフ等のcoveringのことを意味しており、これは今日の教会でも実践されるべきものであるという結論に私は導かれました。





4)初めて被り物をして主日礼拝に臨んだ時、どんな心境でしたか。




最初にベールをして礼拝に臨んだのは、大学院の近くにある新しい教会を訪れた時のことでした。


主のご慈愛により、会堂にはなんともう一人、被り物をしている女性がおられたのです。そしてそれは私がぜひとも必要としていた励ましでした。


礼拝前にベールをかぶるに当たって一番しんどい思いをしたのは、幼い時から通っている故郷の教会でスカーフを頭にかぶる、その瞬間でした。


しかし感謝なことに、誰からも何も言われず、「なぜ被り物をしようと思ったのか」という自分の新しい決心について他の人に弁明する必要もなく、礼拝に参加することができました。


このような立場に私を導いてくださった主を賛美します。


というのも、祈りのベールの実践を通し、それ以後、私は自分の友人たちに、神様への恭順の美しさについて証する機会が与えられるようになったからです。





5)イスラエルの教会での被り物の実践状況についてお話くださいませんか。祈りのベールというのは、イスラエルでは多数派によって実践されているものですか。



私の教会では、既婚女性信者の約3割が、礼拝時にベールをかぶっています。


そういった女性信者のほとんどが、ロシアおよび東方正教会の背景をもっておられます。




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ロシア正教徒の女の子




一方、非ロシア系の女性でベールをかぶっている女性たちは、保守的なユダヤ教出身の方々です。


保守的なユダヤ教のラビ教義によれば、イサクに会う前にレベカが頭を覆ったことに由来し、「既婚女性はが公の場に出る時には、帽子やスカーフ等をつける」という慣習があります。




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保守的なユダヤ教徒の女性





イスラエルにある他の諸教会では、ベール女性の割合は、だいたい75-80%というところでしょうか。


でもこれらは、より保守的ないしはオーソドックスなキリスト教会で見受けられる現象です。


アラブ系の福音主義クリスチャン女性で、ベールを実践している方には今までお会いしたことがありませんが、これは私がアラブ系のクリスチャン・コミュニティーとの接点が少ないという事情に因るからかもしれません。






6)人目を恐れる余り、ベールを実践したくてもすることができないでいる女性たちに何か励ましのメッセージがありましたら、どうぞ。




私はどちらかというと、余り人を恐れないタイプかもしれません。


でも聖くへりくだった心で神様を礼拝することの尊さについては知っており、神様とのより深い交わりのためなら、たとい他の人からの軽蔑を受けようとも、それらは価値あって余りあるものだと思います。


でも実は、私自身、高校の時、礼拝時に帽子をかぶっている姉妹たちのことをバカにしていたんです。


ですから、元嘲笑者である私からみなさんにアドバイスがあるとすれば、それは、「現代の感覚からあまりかけ離れていない型の帽子やスカーフを被り物として選ぶなら、あまりジロジロ見られることはないでしょう」ということです。


80年代の服装で身を包むからといって、私たちはより霊的な女性になるわけではありません。


ベールの目的は、それをすることにより、私たち女性の髪の美しさや、あるいは帽子の奇抜さなどによっても、御使いや人々が気を乱されることなく、一心に神様を礼拝できるようになることです。






7)被り物に関し、もっともすばらしい点、あるいはもっとも困難な点があるとしたらどんな点だと思いますか。



イスラエル在住のクリスチャンのベール女性にとって一番やっかいな点は、保守的で既婚のユダヤ教徒の女性と勘違いされることです。



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保守的なユダヤ教徒の女性(Hasidic woman)




ユダヤ人の女性たちは、私が安息日に財布を持って歩いているのをけげんな目つきで見てきます。


アラブ系の若者たちは、すれ違いざまに私をやじります。


また最近起こったことですが、ある世俗ユダヤ人に、私は「死ね」と言われました。


しかも、これらはいずれも、私がキリストの御名のゆえの苦難でさえないのです。。。ただ自分が何者かということで勘違いされているだけなのです。


その一方、すばらしい点は、清い良心をもって教会の礼拝に臨むことができ、聖書のみことばに対する不滅の愛を、このように生きた形で証することができる事です。また、神様の前でへりくだることをも教えられています。





8)どんな被り物を使っていますか。どこで購入していますか。



そうですね、Target, Kohls, Walmartとかいった普通のお店で売っている帽子やスカーフを被り物として私は使っています。


もしスカーフをどのように頭に巻くのか興味がある方は、「Tichel(ユダヤ式被り物)のかぶり方」というような、おもしろいyoutubeがいくつかあるので観てみてください。


でも私は、たいてい縁なし帽子をかぶっています。というのも、それだと砂漠の太陽の日よけにもなるからです。


この証を読んでくださりありがとうございました。









関連記事:


ユニークなクリスチャンのシンボル――パウロが生きた当時もなじみのない特異な慣習だった祈りのベール




















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名前:ヴィアン・エリザベス
年齢:23歳
所在地:ノルウェー
ベールを始めた時期:2014年夏



1)読者のみなさんに自己紹介してください。



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こんにちは。私はノルウェー人で、長女です。

私はクリスチャン・スクールで教師兼アシスタントとして働いています。また聖書翻訳の勉強もしています。

私は2013年の暮れにイエス様を信じました。

そしてそれ以来、人生の中での私の望み、そして目標はただ一つとなりました。

――それは、主のため、そして主の働きのため、聖別された人生を生きることです。

私は宣教師の伝記を読むのが大好きです。また、ピアノを弾くこと、歌うこと、刺繍・編み物、お料理なども大好きです!



2)どこの教会に通っていらっしゃいますか。そこの教会で、祈りのベールを実践している姉妹の方々は他にもおられますか?


私は保守的なルーテル教会に通っています。

多くの誠実な信仰者の集うすばらしい教会です。また、数人の女性たちが被り物を実践しておられます。



3)どのような経緯で、祈りのベールを実践するよう導かれたのですか?


それまで私は被り物についてあまり深く考えたことはありませんでした。

でも本当にイエス様を信じて、信仰者になった時、私は初めて「開かれた目をもって」聖書を通読し始めたのです。

そして1コリント11章にさしかかった時、そこに書いてある御言葉がぱっと目の前に現われてきました。

こうして私は御言葉によって確信に導かれました。

また、祈りのベールの慣習が、教会の歴史を通してこれまでずっと保持されてきたクリスチャンの慣習であることも勉強し、こうして私は確信に導かれたのです。



4)被り物をして最初に主日礼拝にのぞんだ時、どんな心境でしたか?


それほど他の主日と変わったことはありませんでした。また他の方々も別段、奇妙に思っている風ではありませんでした。

それどころか、何人かの方々がわざわざ私の所へやって来て、「今も、被り物という聖書的慣習を守ろうとしている人がいることを知ってうれしい!」と声をかけてくださったんです。とても励まされました!

また何人かの子ども達も私に「ねえ、頭の上にのっているのはナニ?」と訊いてきました。

おもしろいことに、私が祈りのベールのことについて子ども達に説明すると、たいてい、みんな、「かわいいね!」と言ってくれるんです。

ですから、私のベール体験は、かなり肯定的なものだといっていいと思います。



5)ノルウェーにおける被り物の状況について少しお話くださいませんか。ベールを実践している教団・教派はありますか。一般的な福音派教会で――数人ではあってもとにかくベールを実践している女性がいる――というのは日常光景なのでしょうか。


被り物が当たり前の教会というのがノルウェーに存在するのかどうかはよく知りません。でも福音主義教会の中で、今もベールの慣習を守っている女性たちはいるにはいます。



6)人目を恐れるあまり、ベールを実践したくても、そうすることができないでいる女性たちに何か励ましのメッセージがありましたら、どうぞ。


聖書は私たち女性に、「恐れてはいけない。主に信頼しなさい。」と言っています。

「祈りのベールは確かに聖書の言う教えだ」と確信したのなら、あとは実践あるのみです。とにかくやってください。

主の掟が厄介に感じられたり、従うのが難しく感じられたりする時、「とにかくやる!」――これが私のモットーにしていることです。

とにかく主に従うのです。そうすると、後のことは主がなんとかしてくださいます。

また反抗的・挑戦的な心の姿勢でベールを始めることもお勧めできません。

それはいわば、「美しいが、たしなみのない女は、金の輪が豚の鼻にあるようだ」(箴11:22)と描写されている女性のようだと思います。



7)被り物に関して、もっともすばらしい点、あるいはもっとも困難な点があるとしたら、それはどういう所でしょう。


私にとって、被り物は、謙遜であることの大切さを常に思い起こさせてくれるものです。

また、ベールをかぶっている時、私は自分が女性であること、それから女性であるがゆえの属性といったものについての思いが与えられます。

もっとも困難な点は、、、そうですねぇ、自分のベール姿を、(クリスチャンになる前の自分のことを知っている)人々に見られる時でしょうか。

私はちょっと恥ずかしがりやなので、その点で、みなの注目にあってしまうのが苦手です。

でもそれは同時に、主が私の心の中でなしてくださったことについての、目に見える可視的な証しでもあるのかもしれません。



8)どんなベールを使っていますか。どこで購入していますか。


私はGarlands of Graceで買っています。ここのお店のベールはとてもフェミニンです。いろいろな型を使っていますが、今は、スヌード型のベールを使用しています。



ーインタビュー記事おわりー




ちょっと息抜き

最近、日本の若い姉妹の方から、「私も祈りのベールに興味があります」というお便りをいただきました。

思うのですが、日本で「ベール」というと、やはり次のようなイメージが主なのではないでしょうか。


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↑こんな感じかな?


でも、誰もベールなんかしていない教会で、いきなりこういう姿になれといわれても、とてもできませんよね!

でも、みなさん、安心してください。

1コリント11章で神様が言われているのは「女性は祈りや預言をする時、頭を覆いなさい」であって、「どんな素材の物で覆うのか」とか「どんなスタイルや型や色や大きさのベールで覆うのか」といったことは、私たち女性の自由裁量に任せられているのです

つまり、私たちはクリエイティブに楽しく自分に合ったベールを選ぶことができるわけです。

できるだけ目立たないような型や色を選ぶこともできますし、逆にキュート路線でいきたい女性のみなさんもいるかもしれません。


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Garlands of Grace

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Garlands of Grace

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Garlands of Grace

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Liturgical Time

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Liturgical Time


また、覆う部分にしても、ある人は、頭の一部をメノナイト風capやカトリックのミニ・ベールのように覆っていますし、また別のある人は、保守的なユダヤ人女性のように完全に頭を覆うスタイル(Tichel式)が心にフィットすると言っています。



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Tichelスタイル


また、私の友人のカロリーヌさん(フランス)は、公同礼拝の時、ヒジャーブ式の覆い方で臨む時、一番、心に平安があると私に打ち明けてくれました。

ですから、みな、それぞれ違うのです。そしてすばらしいことに、神様は私たちのその多様性を良しとしてくださっているのです!うれしいですね。

それでは、みなさん、Happy Covering!

参考までに↓のVTRを貼っておきますね。






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Martin Luther


もし私がありったけの声で明瞭に神の真理を公言しているとしても、その小さな点――そう、今まさに、この世と悪魔が攻撃を加えているそのささいな一点――について触れるのを避けているなら、私はキリストを告白していることにはならない。

そう、たとえ(その他のことで)どんなに大胆に告白しているとしてもダメなのだ。

戦いが激しさを増す所において、兵士の忠誠心は立証される

そして全ての戦場において確固とした態度をとっていても、もし彼がその一点において尻込みしているなら、それは逃げであり恥辱であるにすぎない。

マルティン・ルター (私訳)



先日、ある方に、(祈りのベールに関するVTRの中で)次にはどのビデオを翻訳したらいいでしょう、ということをお訊きし、三択のチョイスをお出ししたところ、その方は、次のVTRを選ばれました。

How Gay Rights Advocates use Head Covering to Support their Position

いかにして同性愛を肯定する方々は「1コリント11章の被り物の聖句」を自らの立場の擁護のために用いているのでしょうか?



このビデオの字幕を訳しながら、私は改めて、今現在、福音主義教会がジェンダー問題で岐路に立たされていることを痛感しました。

その意味でも、この方が上のVTRを選んでくださったことは、神の摂理だったと感じざるをえません。

これを観ていただくと、「クリスチャンは同性愛をどう考えるべきなのか」という問いと、「1コリント11章の祈りのベールを実践すべきか否か」という二つの問題が、今、実に絶妙につながっていることがお分かりいただけると思います。

(*このビデオを下のYoutubeの日本語字幕で観ることもできますし、この下につづく記事としてもお読みになることができます。








How Gay Rights Advocates use Head Covering to Support their Position

by Jeremy Gardiner




「被り物を、ある特定の文化のためだけの慣習と解釈すること」の危険性について、今日、私はみなさんにお話したいと思います。

みなさんはお気づきになっておられないかもしれませんが、被り物のことを取り扱っている1コリント11章のこの箇所は、同性愛を肯定する人々が、自らの立場を擁護する際の、主要聖句の一つとなっているのです

これから、そういった人々がどのようにその議論を展開しているのか概観していこうと思います。

というのも、彼らは、そういった議論により、「同性愛の関係や結婚が、聖書的に許容されたものである」ということを私たちクリスチャンに納得させようとしているからなのです。

☆☆

1コリント11章で、パウロは、「自然自体が、私たちの髪の長さのことを教えている」という事に言及し、「だから、女性は被り物をすべきなのです」と主張しています。

1コリント11:14-15

自然(phusis : φύσις)自体が、あなたがたにこう教えていないでしょうか。男が長い髪をしていたら、それは男として恥ずかしいこと(atimia :ατιμία)であり、

女が長い髪をしていたら、それは女の光栄であるということです。

なぜなら、髪はかぶり物として女に与えられているからです。



ですからここでパウロは、「男性が短い髪をし、女性が長い髪をしているというのは自然なことです」と言っているわけです。

ここで皆さんに知っていただきたい大切な事は、パウロが「自然」のことを言うのに「phusis(フースィース)」というギリシャ語を使っていることです。

そして「恥ずべき」のことを言うのに「atimia(アティミア)」というギリシャ語を使っています。

さて、これからローマ1章をみていきますが、今挙げたこの2語を心に留めておいてください。

☆☆

ローマ1章で、パウロは、異性愛が自然なものであることについて説明しています。

ローマ1:1:26、27a

こういうわけで、神は彼らを恥ずべき(atimia)情欲に引き渡されました。すなわち、

女は自然の用(phusis)を不自然なものに代え、

同じように、男も、女の自然の用を捨てて男どうしで情欲に燃え、



ですから、ローマ1章と、1コリント11章の間には、完璧なパラレル関係があるわけです。

まず、

1)両方とも、使徒パウロによって書かれた書簡です。それから、

2)両方とも、「自然の用が何を教えているか」ということに言及しており、そして

3)両方とも、その逆の用のことを「恥ずべきこと」と言っています。そして、

4)全く同じあのギリシャ語2語(=「自然」を指す「フースィース」と、「恥ずべきこと」を指す「アティミア」)が両方の箇所で用いられています。

☆☆

それでは、同性愛関係を擁護しておられる方々が、こういった箇所を用いて、実際にどのように議論を展開させているのか、みなさんに見ていただくことにします。

次にご紹介するのは、レイチェル・ヘルド・エヴァンズさんのビデオの一部です。

レイチェルさんというのは、ご自分のことを「クリスチャン・フェミニスト」と呼んでおられる方であり、『一年間の〈聖書的女性像〉体験記』」という本を書いた著者として有名な人です。


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Rachel Held Evans, A Year Of Biblical Womanhood


このビデオの中で、彼女は、マシュー・ヴァインズ氏の著書『神とゲイ・クリスチャン――同性愛関係を擁護する聖書的根拠』(2015)の中で展開されている議論に触れ、次のように言っています。

マシューさんの指摘していたことの中で一番興味深かったのは――、パウロがこういった同性愛関係を「不自然なもの」と言っているというその箇所でした。


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Matthew Vines, God and the Gay Christian: The Biblical Case in Support of Same-Sex Relationships, June 16, 2015


(ローマ1章の)あの箇所で用いていた言葉は、(1コリント11章で)パウロが「祈る時に被り物をかぶっていない女性」のことを描写する時に使っていた言葉と同じなんです。

私、1コリント11章のその箇所にはかなり親しみを持っていて、、

というのも、『一年間の〈聖書的女性像〉体験記』の期間中、祈る時はいつでもベールをかぶっていたからです。


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だから、この二つには面白い関連性があるなあと思いました。

今日、被り物をしないで祈る女性たちのことを見て、私たちは彼女たちが「不自然にふるまっている」とは言いませんよね。

曰く、(1コリント11章の箇所では)そこになにがしかの文脈があり、なにがしかの文化的前提があり、、って皆さん言ってます。

ところが、です

それが(ローマ1章の中で)同性愛を描写すべくパウロが使ってる語となるや、

皆さん今度はなぜか急に、

「ほら、ここで使われている語をみなさい。『不自然』って書いてあります。

そうです、不自然っていうからにはやっぱり(同性愛は)不自然なんです。」

と主張が一転してしまうんです!

だから、これは本当に面白いパラレルだなあと思いました。

自分自身の経験と、それからマシューさんのこの聖句の解釈とを併せ考えてみて、そう思ったんです。



レイチェル・ヘルド・エヴァンズさんはここで私たち多くのクリスチャンの抱えている自己矛盾を指摘しているのです。

つまり私たちの多くは、髪の長さと被り物のことは、「文化的」と呼ぶ一方、

話が、異性愛のことに及ぶと、今度は「異性愛というのは、神の秩序における自然なものなんです!」と主張するという、なんとも一貫性のない見方をしているのです。


こうしてレイチェルさんは、マシュー・ヴァインズ等と共に、この矛盾点を指摘することで、

「だから、みなさん、同性愛関係を聖書的に許容されたものと捉えて構わないんですよ!」

ということを私たち視聴者に勧めているわけです。



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☆☆

私もまたみなさんが、この矛盾点に気づくことを願っています。

しかし(私がレイチェルさんと違うのは)私は、あくまで神様がお造りになられた異性愛というセクシュアリティーを捨てないでほしいと皆さんに願っていることです。

そしてむしろ、「被り物は文化的なものです」という見解をぜひ再考していただき、この見解をこそ破棄していただきたいと願っています

☆☆

それでは、この問題に関し、私たちが実際、どういう位置に立っているのか、見てみることにしましょう。

みなさんへの質問 その1


「同性愛は正しいのか、それとも間違っているのか」という命題に関し、あなたは、

1)文化的解釈をベースに、その是非を考えていますか?それとも、

2)神様がそういった異性愛のセクシュアリティーをデザインされ、それに従うよう仰せられたからという神の創造をベースにその是非を考えていますか?



質問 その2


「男性が長い髪をしているのは正しいか、間違っているか」という命題に関し、あなたは

1)文化的解釈をベースに、その是非を考えていますか?それとも、

2)神様が元々、私たち男女の髪の長さをデザインされ、それに従うよう仰せられたからという神の創造をベースにその是非を考えていますか?



これらの問いに関するあなたの答えがどうであれ、一貫性を持った答えをするためには、みなさんは両方の質問に対し、同じ回答をしなくてはなりません

なぜなら、(ローマ1章と1コリント11章は)同じ記者の書いたものであり、同じ理由(=自然の用)に訴えた上で、同じ倫理的判断(=それは恥ずべきもの)を下したものであるからです。

ですから、私たちは一貫性をもたせるべく、両者を等しく取り扱わなければなりません。

ですから、みなさん。私たちはこの問題について、矛盾のない一貫した態度と見解を持とうではありませんか。


(執筆者:ジェレミー・ガーディナー)





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1コリント11章の「祈りのベールの教え」についてさらに詳しくお調べになりたい方へ



①「ないがしろにされている」教えへの道案内(1コリント11章) An Introduction To A Neglected Doctrineココ


②なぜ被り物?――理由その1 【創造の秩序】(ココ


③なぜ被り物?――理由その2 【御使いたちのため】(ココ


④なぜ被り物?――理由その3 【自然】(ココ


⑤なぜ被り物?――理由その4 【教会の慣習】(ココ


⑥福音主義教会の先生方への公開レター――1コリント11章のかぶり物に関して――(ジェレミー・ガーディナー)An open letter to complementarians about head covering (ココ


⑦「祈りのベールは文化的なもの?コリントの売春婦のことはどうなんですか?」――1コリント11章のかぶり物について (ココ


⑧「女性の長い髪=かぶり物ではないのですか?」――Ⅰコリント11章 祈りのベール問答シリーズその2 (ココ


⑨被り物と聖書解釈(Head Covering and Hermeneutics)R・C・スプロール (ココ


⑩被り物と聖書解釈―実際的な指針について(R・C・スプロール)その2 (ココ


⑪ベールの教えをするよう導かれた、福音主義教会の牧師の証し(ロビン・バッサム師、ノルウェー) (ココ


⑫姉妹のみなさんへの応援レター(パート3) パイオニアになろう!道なき道を切り開いていこう!(ココ




無題

名前:アリソン・チャップマン
年齢:44歳
所在地:英国、オックスフォード
祈りのベールを始めた時期:2010年


1)読者のみなさんに少し自己紹介してください。


アリソンと申します。私は宣教師としてセイシェル(*インド洋西部にある島群からなる共和国)で福音宣教の働きについていた両親と共に、70年代をインド洋西部の島で過ごしました。

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赤色で囲んだ所がセイシェル共和国

幼い時から主のことは知っていましたが、心からの信仰というよりは頭での知識といった感じでした。

私が主の愛に本当に出会ったのは、20代後半、バイブル・カレッジで訓練を受けていた時でした。そのカレッジにおいて、主は抜本的に私を変えてくださり、「より深く主と神の真理を知りたい」、そして「この御方のことを他の方々にも紹介したい」という願いを自分の内に起こしてくださったのです。

日々の生活の中でイエスさまにお従いしていくということ、全身全霊で主を愛すること、そしてこの良き知らせを分かち合うこと、、そういった事が私の心にあります。

主は私の心にイスラエルに対する思いを置いてくださり、私はかの地でさまざまな働きに関わる機会をいただいています。

私は41の時に、結婚しました。(結婚を長く待ち望んでいた)その間の歩みは時に険しく、痛みを伴うものでしたが、神様は敬虔でまっすぐな男性を私のために備えていてくださったのです。私は主人から多くのことを学んでおり、彼の妻であることに喜びを感じ、感謝しています。


2)どこの教会に通っていらっしゃいますか。お話ください。


私たちはオックスフォードにある小さなペンテコステ派の教会に通っています。主人と結婚したのもそこの教会ででした。

それ以前には同じくオックスフォードにある大きな教会で奉仕しており、そこから海外宣教への働きに遣わされました。その後、英国に戻り、結婚しました。

主は私たち夫婦をこの小さな教会に導かれたのですが、そこの牧師夫妻は主を愛し、まごころから仕えておられます。


3)どのような経緯で祈りのベールを始めるよう導かれたのですか。


70年代後半に、家族と共にセイシェルから帰国した後、私たちはブラザレン教会に通いました。そこの教会の姉妹たちの多くは礼拝時に、帽子をかぶっていました。

そんな彼女たちを見て、私は「律法主義的だなあ」と思い、教会の中における被り物というイシューに関し、心の中で軽蔑するような態度をとるようになりました。


対等主義


20代後半、バイブル・カレッジに通いましたが、教会の中での女性の役割に関し、私たちは対等主義的な(Egalitarianism、福音主義フェミニズム)見解しか教わりませんでした。

私は対等主義を支持する論文を書き、その中で(批判の意味を込めて)被り物のことにも触れました。その中で私は「被り物というのは文化的なものであり、今日には適用されないものである」と論じました。

それまで一度も「ベール擁護派」の見解を聞いたことがなく、また私の心はこの聖句に対する他の見解に対し閉ざされていました。


フェミニズム


30歳になるまで、私はこの世およびフェミニズムの影響下にありました。実にこの思想によって、私はわれ知らず、影響を受けていたのです。

30代になると、私と主との関係は深まっていき、より深く主を知り、お仕えしたいと願うようになりました。その後、しばらくの間、私はイスラエルで働いたのですが、そこで、ベールのクリスチャン女性たちを目撃したのです。彼女たちは教会の中でも、また社会の中でも、ベールを被っていました。


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イスラエルで購入しやすいベールの型はこんな感じだと思います。


へりくだることを学んで


イギリスに戻った後、私はある男性(後に主人となる人)に出会い、その人が私に祈りのベールのことを少し話してくれました。折しも主はこの時期、私にへりくだることを教えてくださっていました。

そしてそれまで自分が正しいと思い込んでいたいくつかの聖書箇所が実は間違った解釈だったのではないか、という気づきを与えてくださっていたのです。

ですからこの兄弟に祈りのベールの事を指摘された時、「もしかしたら、この箇所においても、従来の私の聖書解釈は間違っていたかもしれない」と心を開いて聞くことができました。

そしてもう一度、この箇所を調べてみようと思いました。また、デリック・プリンス、ウォッチマン・ニー、W・ヘンダーソンなどの論文にも目を通しました。

そして私は気づいたのです。――それまでの自分の思い込みとは裏腹に、ここの聖書箇所は実は「難解」ではなかったということを。

目から鱗の思いがしました。なぜ被り物をしなければならないのか、その理由が目の前の聖句に、ちゃんと書かれているではありませんか!

それに「御使いのためにです」というのは文化的なものではないのです。つまり、祈りのベールというのは今日のクリスチャン女性にも適用されるべき神の掟だったのです!


4)ベール姿で礼拝に初めて集った時、どんな心境でしたか。


最初にベールを被ったのは、友人と共に祈っている時でした。そしてその時の祈りは力強いものでした。

なぜなら、その場で主は、自分たちがこれまでの人生の中で、いかにフェミニズムに縛られていたのかという啓示を与えてくださったからです。その結果、私も友人も共に悔い改めに導かれました。現在、私は教会内外で、祈りや預言をする時、ベールを被っています。

確かに一人で祈りのベールを実践するのは大変なことですが、少しずつ、その大変さに慣れてきています!

でもやっぱり、他の人がどう思っているのか心配してしまう自分がいますし、それに、ベールを始める前の自分を知っている旧友たちの前でベールを被る時など、かなりしんどさを覚えます。

でもこの点における御言葉の真理について私の中には内的確信が与えられており、神の御言葉に従いたい、主をお喜ばせしたいという願いから、私はそれを実践しています。

それでも、やっぱり時としてかなり困難を感じる時があります。

でもそんな時は十字架に架かってくださったイエス様の犠牲を思います。そうすると、ベールのことなど、主の払ってくださった犠牲に比べればほんの些細なことだと思えます。

また励まされることに、しばらくしてから、うちの教会の牧師夫人もまたベールを始められたのです。しかもその大胆さにおいて彼女は私に勝っており、その意味でも以前に比べ、実践しやすくなったのです。

この証しを読んでくださり、ありがとうございました。





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名前:レイチェル・エーンスト
年齢:25歳
所在地:韓国ソウル市
祈りのベールを始めた時期:2015年1月28日


1)読者のみなさんに自己紹介してください。

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レイチェル・エーンストと申します。私は最近結婚したばかりの妻で、軍人の夫と共に、現在、韓国に住んでいます。もともと南カロライナ州の出身なのですが、結婚前の二年間はワシントンDCで働いており、そこで現在の夫であるリチャードに出会いました。

大学では歴史と音楽を専攻し、現在は、通信で、改革派神学校の聖書学修士課程を履修しているところです。またパートでも編集の仕事をしています。

私はクリスチャンホームで育ちましたが、自分の信仰が成長し始めたのは、高校・大学時代です。大学の時には一年間休学して、南アジアで6カ月、ホームレスの女の子たちのために奉仕活動をしました。そしてこの体験が私の人生コースを大きく変えたのです。

私はムスリムの女性たちに対して特別な思いを持っています。そして彼女たちがキリストの愛によって解放され、強められることを祈っています。


2)どこの教会に通っていますか。そこの教会では、姉妹たちは祈りのベールをかぶっていますか。

私は現在、ソウルにあるカベナント教会という教会に通っています。これは改革派の、福音主義教会であり、「繁栄の神学」の氾濫するこの国にあって、光として輝いている教会です。

教会にはさまざまな人生経路をたどって来られた人々が集まっていますが、皆、福音により一つに結ばれています。私以外に祈りのベールをしている女性はいませんが、自分自身これまでベールが聖書の教えとして教えられている教会に行ったことが一度もないので、一人であることにそれほど苦痛を覚えていません。


3)どのような経緯で祈りのベールをするよう導かれたのですか。

主人と私が交際しはじめて数週間経ったある日、彼が不安げに、1コリント11章の被り物に関する彼の関心と確信について私に打ち明けてくれたのです。

彼は、「僕がこんなことを言ったら、彼女は怖がって、僕の元を離れていくかもしれない」とかなりビクビクしていたそうです。でも、(後で聞いたのですが)、その話に「引かず」、むしろ心を開いて彼の話に聞き入った私の姿をみて、彼は「この女性と結婚したい!」と願うようになったそうです。実は、主人も、被り物を実践している教会で育ったわけではなかったのです。

私がそれまでの人生の中でベールの女性たちを見かけたのは、次の二つの場所でした。一つは、大学の近くにあったメノナイト・コミュニティー。

それからもう一つは、南アジアにいた時に、です。そこでは大半のクリスチャン女性はベールをかぶっていましたが、その理由は、ムスリムの隣人たちに対する敬意や礼儀上のものだったようです。(この「ベール=イスラム教」という固定観念が、実のところ、私の被り物への理解を妨げていた最も大きな障害物でした。)

それからいろいろと熟考し、祈った末、これは私が「彼のために」やるようなものではないことをリチャードに話しました。当時、私たちはまだ交際していただけですし、それに私たちはワシントンDCという、アメリカの中でも最もリベラルな都市に住んでいたのです。

もしも本当に被り物を教会で始めるのなら、私は「どうしよう、どうしよう」と周囲の目を気にしながらではなく、しっかり確信を持ち、そして覚悟して始める必要がありました。それに他の女性たちは、ベールをしている私をみて、「彼女はただボーイフレンドに影響されているだけ」と受け取らないとも限りません。

だから、祈りのベールを実践するのなら、それは(ボーイフレンドのご機嫌を取るためでなく)純粋に、主の栄光のため、そして神のお造りになられた創造の秩序に敬意を示すためでなければならない、そう思いました。

その後、私はネットで多くの論文を読み、またこのテーマに関する説教を聞きました。でも最終的な決定打となったのは、私が霊的リーダーとあおいでいる数人の方々の助言でした。

私はこれまでの人生の中でお世話になった何組かの牧師夫妻にメールを出し、自分が1コリント11章の祈りのベールの教えのことで葛藤していることを打ち明けました。そしてなぜ今日キリスト教会がこの教えを遵守しなくなっているのか、それを正当化する論拠をぜひ挙げてくださいとお願いしました。

私はこういった方々を尊敬しており、きっと彼らは、「祈りのベールは今日にも適用される掟である」という主張をくつがえすに足りる、しっかりした論拠を挙げてくださるに違いないと期待していたのです!

しかし驚愕したことに、ある一人の方を除き、他の方は全員、「これはクリスチャンの選択の自由であり、もしあなたがそのように確信を持ったのなら、ぜひすべきです」と書いてこられたのです!(ちなみに、残りの一人の方は強烈なベール反対論者でしたが、その論拠となると、「ここの箇所はあくまで隠喩なのです」という非常にあいまいな主張しかすることができていませんでした。)

まさか、このような肯定的な回答がくるとは思ってもいませんでした。そしてその時、「よし、実践しよう!」と心に決めたのです。その週の水曜の小グループでの学び会の時、私は初めてベールをかぶりました。

その時以来、祈りのベールは、キリストとの個人的な歩みの中でも、また結婚生活の中でも、私にとって大きな祝福になっています。


4)ベールをかぶって初めて礼拝に参加した時、どんな気持ちでしたか。

前に申しあげましたように、私が初めてベールを始めたのが、水曜の学び会の時でした。その日、私は青色のバンダナをしていましたので、おそらく、私が「ベール」をしていると思った人は誰もいなかったかもしれません。

でもそれからすぐ、私は一目で「ベールだ」と分かるようなタイプの被り物をするようになりました。それでも特に、周りの人から変に扱われるようなことはありませんでした。


5)いつベールをかぶっていますか。

私は教会の公的集まりの時にベールをしています。私にとってそれはつまり、他の信者と集まって祈ったり、御言葉を学んだりする時はいつでも、ということです。実際的にいえば、それは主日礼拝、水曜の女性の集い、木曜の祈祷会などです。

家で主人とよく讃美歌を歌うのですが、その時にもベールをかぶっています。私の場合は、神礼拝をそのような形で聖別したいという思いがあるため、それ以外の普通のイベントの時などはベールは使用していません。


6)人目を恐れる余り、ベールを始めたくても始めることのできない女性たちに対して、何かアドバイスがありますか。

祈ってください。そして助言を求めてください。そして何よりも、キリストの内にご自分のアイデンティティーを見い出してください。私は、ベールの実践に行きつくまでの自分の経緯を主に感謝しています。なぜなら、実際に始めたとき、私はすでに心の準備ができており、恐怖を克服できていたからです。

私にのしかかっていた恐怖の多くは、自分の尊敬する牧師さんたちの聖書解釈のことでした。私は自分の決心によって、こういった方々の聖書解釈に「反旗を翻す」ようなことはしたくありませんでしたし、一致を壊したくなかったのです。

でも大半のクリスチャンは被り物のことに対し、どうやら反感は抱いていないようだという事に気づき、その部分においての恐怖は克服できるようになっていきました。

そうして最後に残ったのが、「人への恐れ」でした。でも、「人への恐れのせいで、創造の秩序に基づく主の掟に従えないというのはダメだ。それではいけない」という思いがあり、神の恵みによって、私はそこで立ち止まることをしませんでした。

でもみなさんに勧めます。疑いや恐れがあるのでしたら、それに向き合ってください。被り物は、その意味を熟考し、なぜそれを実践する必要があるのかという点をしっかり学んだ上で始めるなら、さらに大きな喜びと平安が与えられると思います。


7)祈りのベールに関し、最もすばらしい点、または最も困難な点は何でしょうか。

私の義理の兄が、その点について語ってくれたことがあります。――それは、私たちの夫に対するインパクトの大きさです。私たち女性は、一度被り物をかぶると、自分ではそれが見えませんので、そこまで意識しないかもしれません。

でも、夫となると話が違います。彼はそれを目の前に「見ている」ので、それはリーダーとしての自分の責任を具体的な形で常に思い起こさせる象徴となるわけです。

祈りのベールというシンボルは、聖書の中で命じられている夫のあるべき姿を主人に思い起こさせるだけでなく、――自分の妻が、全幅の信頼をもち、彼女をリードしケアすることを夫に委ねているという――目に見える印ともなり、それは彼を励ますものとなります。

現在どなたかと交際している姉妹の方、あるいはすでに婚約・結婚されている姉妹の方々は、被り物に関して、彼に率直に打ち明けるのがいいと思います。なぜなら、1コリント11章のベールの教えの箇所は、女性だけでなく男性にも指示を与えている箇所だからです。

ありがとうございました。




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"We Can Do It!"というこのポスター(J・ハワード・ミラー作)は、元々、1943年、第二次世界大戦中に戦意高揚のためのプロパガンダとして作成されたものです。1980年代に入ると、このポスターはフェミニズム思想普及のために広く用いられるようになり今日に至っています。




これは前回の記事(なぜ今どき「祈りのベール」?―私の応答)の続編に当たります。

これまで他の兄弟姉妹と共に被り物の教え(1コリント11章)に取り組み、検証していく中で、私たちがたどり着いた一つの結論がありました。

それは、「祈りのベールの教えは、相補主義に対する理解なしには受容が難しい」という事です。



相補主義(Complementarianism)



相補主義というのは、1960年以降、福音主義教会内に浸透してきたフェミニズム思想に対して危機感を抱き、その世俗イデオロギーを受け入れまいと奮闘してきたクリスチャンの聖書理解および立場のことを指しています。

逆にその世俗イデオロギーを(一部分あるいは完全に)受容・迎合しているクリスチャンの立場を対等主義(Egalitarianism)といいます。
(*なお対等主義は、「福音主義フェミニズム Evangelical Feminism」とも呼ばれています。)

相補主義および対等主義について、私は以前、検証記事を書きました。


「相補主義」と「対等主義」について
――福音主義教会を二分する二つの視点 【ジェンダー問題】(その1)(その2




世俗イデオロギーとの全面対決


西洋で勃興したフェミニズムは20世紀以降、教育・メディア・行政・法曹界だけにとどまらず、またリベラル教会内だけにとどまらず、私たちの福音主義教会内にも年毎に深く浸透してきています。

(フェミニズムがいかに私たちクリスチャンの思考・考え・行動に深刻な影響を及ぼしているかについては、南バプテスト神学大学のメアリー・カスィアン教授によるこの記事をご参照ください。)

フェミニズムの目指す思想的最終目標は、「秩序の逆転」です。

つまり、創造主なる神によって定められた創造の秩序(Creation Order)を「再解釈」し、「再構築」しようという人本主義に基づいた試みです。

ここで話を祈りのベールに戻します。みなさん、もう一度、1コリント11章1-16節をよく読んでみてください。

この箇所でパウロは、一般に言われているような「当時のコリントの文化が云々、、」という文化論など全く展開していません。(この点についての検証記事ココココ

ここで言及されているのはheadshipであり(3節)、創造の秩序であり、権威であり、栄光です。

また10節の「ですから、女は頭に権威のしるしをかぶるべきです。それも御使いたちのためです。」から、姉妹の被るベールは、神礼拝および霊的な次元においても意味をなすものであることが分かります。(←この点ついての検証記事ココ

ですから、ここが核心点なのです。

つまり、創造の秩序を破壊しようとしているフェミニズム思想にとって、その秩序の回復のシンボルである「祈りのベール」は、憎たらしい敵なのです。

60年代の「フェミニズム勃興」と、同じく60年代の「祈りのベールの衰退」の相関関係については、世俗の学者もこの事実を認めています。

ですから、御言葉への愛と従順から、今後、祈りのベールを始めようとしている姉妹の方々、ならびに、この教えを擁護しようとされている男性の先生方(兄弟のみなさん)は、望むと望まないとにかかわらず、フェミニズム思想との全面対決を余儀なくされます。

「なぜ一枚の布きれがこれだけの論争を生んでいるのか?」という問いかけに対し、Gospel for AsiaのK.P.Yohannan師は、次のような事を書いておられます。


(聖書の)シンボルというのは神にとって重要な意味を持っており、そのシンボルに倣うという行為は、霊的な世界に影響を及ぼします。

祈りのベールをすることの難しさについて、かつてある方が次のように言いました。

「ベールを被る事は私にとってかなり難しいです。というのも、私はこれまでずっと自立した女性として生きてきましたから。」

彼女はここで「自立性を失うこと」と「ベールを被ること」という二つの事柄を相互に関連させていますが、これは何かを頭の上にのせるという事に対する答えとしては、不思議なほど客観性を欠いています。

なぜでしょうか。一体どうして頭に何かを被る事が、その人の自立の有無に影響を及ぼすというのでしょう。

つまり、これは肉的な領域だけでは考えることのできない問題なのです。

被り物というのは神によって導入されたシンボルであるゆえ、それは霊的世界においても大声で何かを宣明しているのです。そして敵であるサタンと肉は、神の権威と統治を認めまいと敵対してきます。

客観的に考えてみてください。頭の上に布切れをのせるという行為が一体全体どれほど難しいというのでしょう?

ファッションのためなら、みんな四六時中していることなのです!

これだけのシンプルな行為が、これほどまでの論争と衝突を引き起こしているという事自体、そこに確かに〈なにかがある〉と考えるのが当然ではないでしょうか。

ですから、この葛藤というのは、頭に何かを被るという物理的な行為をめぐってのものではなく、霊的な世界においてなされるインパクト、それゆえだと言うことができます。

K.P. Yohannan, Head Coverings, 2011, p.30




おわりに


ローマ人への手紙の中で、使徒パウロは、被造物全体が今に至るまで、ともにうめき、ともに産みの苦しみをしているという深い真理を述べています。

被造物は、今も切実な思いで神の子どもたちの現われを待ち望んでおり、滅びの束縛から解放され、神の子どもたちの栄光の自由の中に入れられることを切望しているのです(ローマ8:19、21,22)。

神のお定めになった創造の秩序を破壊しようとする人間の罪と自己中心によって、物を言うことのできないさまざまな被造物も痛手を受け、苦しんでいます。

イエス・キリストはそういった混乱と無秩序で汚染された世に来てくださり、十字架上で死んでくださいました。そしてその十字架の血によって平和をつくり、御子によって万物を――地にあるものも天にあるものも――、神と和解させてくださいました(コロ1:20参)。

神のご計画の完成に向け、御霊ご自身が「言いようもない深いうめきによって」(ローマ8:26)私たちのために執り成してくださっています。

悪魔が火と硫黄との池に投げ込まれた後(黙20章)、黙示録21、22章において、私たちはそこに完璧な神の秩序の回復をみます。

創造の秩序が回復された世界はなんと美しく、平和に満ちていることでしょう!

どうか、――創造の秩序を美しく表現する「祈りのベール」というこのシンボルが――、回復と神の栄光を切望する信仰者によって尊重されますように。

そして、このシンボルの回復を通して、創造主なる神の心をお喜ばせすることができますように。

アーメン。


ーおわりー


補足資料です
イギリスの兄弟による被り物についてのVTRです。的確で的を射た説明がなされています。




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主人が「ベールを被るというのはやめてほしい」と言っています。その場合、どうすればいいのでしょうか。
(My husband asked me to not cover my head. What should I do?)



相談:主人が私に「ベールを被るっていうのはやめてほしい」と申しております。私自身としては、これが聖書的な掟であり、遵守する必要があると信じているのですが、、、

でもその一方で、祈りのベールというのが本来、「主人に対する私の恭順さ」を象徴するものであるということも分かっているんです。ああ、この場合、私はどうしたらいいんでしょう。




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これは非常に難しい状況です。この事に関し、まず私は二つの異なる見解をあなたにご提示しようと思います。その後、何かあなたの助けになるような具体的な案をご一緒に考えていけたらと思います。



見解その1  被り物をしない(夫の意向に沿う)


1コリント11章の文脈における被り物というのは、あなたが「男性の権威の下に自らの身を置く」という意味のシンボルです。結婚されている方なら、これはあなたが喜んでご主人のリーダーシップに従うという意味のシンボルとなります。

その意味で、ご主人が反対しているにもかかわらず、あなたがベールを被るというのは、それ自体、自己矛盾しています。

聖書全般に渡り、「原則はシンボル以上に大切である」という事が示されています。

イエスは、外側のことにこだわりつつも、内面の事はおろそかにしていたパリサイ人たちに対し、一貫して厳しい態度を取っておられました。

姉妹たちに被り物をするよう命じたパウロは別の箇所ではこのように言っています。

教会がキリストに従うように、妻も、すべてのことにおいて、夫に従うべきです。(エペソ5:24)



妻は自分が納得し同意できることにだけ従うのではなく(なぜなら、そのような態度は恭順ではありませんから)、すべての事において夫のリーダーシップに従う必要があるのです。

確かに聖書は女性たちにベールを被るよう命じていますが、同時にまた自分の夫に恭順であるようにも命じています。

それゆえ、ここで問題にされているのは、「人に従う以上に神に従うべきか否か」という問題ではなく、「どちらの主の掟にあなたは従うのか」という点です。

これは気の毒な状況だと言わざるを得ませんが、仮にあなたがこの事柄に関し、ご主人の意向に沿う決断をしたとしましょう。

その場合、あなたは次にあげる理由によって心に平安を持つことができると思います。

)あなたが被り物をしたいと願っているその心を主はご存知です。

)あなたとしてはどうすることもできないこういった状況ゆえ、原則とシンボル――その両方にあなたは従うことができません。それゆえ、シンボルよりも(高い)原則の方をあなたは選んだのです。



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この事(=あなたが被り物をしなかったということ)に関し、やがて神の前で申し開きをしなければならないのは、あなたではなく、ご主人です。

なぜなら、権威が誰かに与えられる際、申し開きをしなければならないのは、権威を持っているその人だからです(ヘブル13:17)。逆に権威の下に置かれている人は、その権威に対しあなたが果たして恭順であったか否か、そのことをやがて問われるようになります。



見解その2  被り物をする(キリストに従う)



あなたの上に置かれている最大の権威は、ご主人ではなくです。

イエスは一方において宗教指導者たちの権威を認め、次のように言われました。

律法学者、パリサイ人たちは、モーセの座を占めています。ですから、彼らがあなたがたに言うことはみな、行ない、守りなさい、、(マタイ23:2-3)



しかし使徒たちがその正当な権威によって、神の掟を破るよう命じられた際、彼らは次のように答えました。「人に従うより、神に従うべきです」(使徒5:29)。

それゆえ、私たちは権威の下に置かれていながらも――こういった権威の命令が、神の掟と相反している場合、――敬意を払った上でそれに従わないということもあり得るのです。

仮にご主人があなたに「聖書を読むな。」「祈るな。」「金輪際、教会の聖餐式になど参加してくれるな!」と言ったとします。

あなたはその命令に従いますか?いえ、そうはしませんよね。

この場合におけるあなたの「不従順」の理由は、(ご主人が言った内容に関し)神が逆にそれらを行なうよう命じておられるからという点にあります。被り物に関しても同じことが言えます。

被り物はあなたが権威の下にあるということを表すシンボルですが、これはまた公同の集まりの中でいかに主を礼拝するのかという事に関する、主からの命令(掟)でもあります。

また、これは神への語りかけ(祈ること)、神の語りかけに関する言明(預言すること)についての指示でもあります。被り物の掟は、神礼拝のことに関連していますので、他の主の掟と同様、尊守される必要があるわけです。


実際的な提案


もしあなたとご主人の間に、被り物に関する見解の一致がないのでしたら、以下に挙げることを参考になさってください。あるいはこういった相違を平和的に乗り越えることができるかもしれません。

1)祈る

ぜひ覚えていただきたいのは、私たちの神が主権者であられ、人の心は主の御手のうちにあるということです。

この事実は(人間の頑固さや罪によって、被り物に関する議論に覆いがかけられている時など特に)、私たちに内なる強さと確信を与えてくれるでしょう。なぜなら、主だけが人の心を変えることがおできになるからです。

平和が保たれ(ヘブル12:1)、一致があること(エペソ4:3)、そして女性が祈りのベールを被ること(1コリ11:5-6)というのは啓示されている主のみこころです。

ですから、確信を持って主に祈り求めてみてください。「どうか私の家族に神学的な一致が与えられ、主人の祝福を受け、祈りのベールをするという自由が与えられますように」と。

「何事でも神のみこころにかなう願いをするなら、神はその願いを聞いてくださるということ、これこそ神に対する私たちの確信です」(1ヨハネ5:14)。


2)ご主人と共に学びの時を持つ

ご主人に「1コリント11章の被り物の箇所について、一緒に調べたりする時間を持つことができるかしら?」と尋ねてみてください。

この聖句を共に検証し、話し合い、さまざまな意見(賛成・反対双方)に耳を傾けてみてください。祈りの内にこれらがなされる時、主がその過程で、あなたとご主人に理解の一致を与えてくださるかもしれません。


3)ベールをする許可を求めてみる

共に検証した後も、依然としてご主人と一致できなかった場合、ご主人に「私がベールをすることを許してくださる?」と許可を求めてみてください。

神を畏れるご主人というのは、妻の良心にかかわる事柄に対し、寛容な心を持ち同情してくれる場合が多いです。


4)助言を求める

多くの助言者の内には知恵があります(箴言11:14)。結婚生活における葛藤や不一致がある場合、その事を信頼できる他の兄弟姉妹に相談するのは望ましいことだと言えます。

「教会の牧師さんや長老をお招きして、一緒にこのことを話し合う機会を持つのはどうかしら?」とご主人に訊いてみてください。こういった第三者の助言により、あなたもご主人もそれまで見えていなかった盲点が明らかになったり、あるいは新しい視点が与えられたりするでしょう。


おわりに


これまでに挙げたいくつかの提案により、意見の不一致が克服されるなら本当に幸いです。

しかしこれだけが解決の道ではありません。あなたが今、こういった状況のただ中に置かれているのなら、あなたご自身の良心に従い行動すべきです。あなたが立つのも倒れるのも主の御前におけることなのです。(ローマ14:4参照)



執筆者 ジェレミー・ガーディナー
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祈りのベールの証し(アンジェラ・デッカー姉妹)

名前:アンジェラ・デッカー
年齢:19歳
所在地:カナダ、トロント市
祈りのベールを始めた時期:2015年4月


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1)読者のみなさんに自己紹介なさってください。


こんにちは!私は大学二年生です。昨年、バイブル・カレッジでの一年間の課程を修了し、その後二回に渡って、宣教旅行に行っていました。私は同胞クリスチャンのために、そして未信者の方々のためにお仕えしたいという熱い希望を持っています。そして共に救い主イエス様を深く知り成長していくことができるよう、カナダ国内外にいるクリスチャンを励ましていけたらと思っています。


2)どこの教会に通っていますか。その教会でも姉妹たちは礼拝時に、祈りのベールを被っていますか。


私は今春から地元の単立教会に集い始めたのですが、そこはブラザレン教会にとても似ています。教会の中ではほとんどすべての姉妹たちが、マンティラやスカーフ、帽子などで頭を覆っています。時々、教会を訪問される姉妹なら、被り物は課せられません。しかし、教会員になりたいと志願される方に対しては、被り物の必要性が説明されます。


3)どのようにして祈りのベールを始めるよう導かれたのですか。その経緯をお話ください。


私はこの町に移ってきてすぐその週に、(現在通っている)この教会を訪れました。初めてそこの礼拝に参加した時、私はびっくり仰天してしまいました。「うぁー、この人たちの頭の上にのってるのは、一体何なんだろう!?」

イエス様の生誕を描いた絵画などをみていたこともあり、私はそれまでずっと「被り物というのは文化的なもの」って思い込んでいたんです。(絵画の中で描かれている人たちはほぼ全員、頭に何かを被っていましたから。)

それに私は、被り物のことを、「はでな髪の形とか、金や真珠や高価な衣服によって飾り立ててはいけない」という聖句などと一緒にして考えていましたし、「コリントの売春婦に間違われないために当時の女性信者がしていた文化的な慣習だったんだ」ってずっと思っていました。

礼拝後、私の中でこの祈りのベールに関する探究心が芽生えてきました。「じゃあ、私もベールを被らなきゃいけないってことなのかな?」でもまずはしっかりリサーチする必要がありました。

家に帰り着くと、私はギリシャ語原語の聖書をひもとき、1コリント11章のこの箇所を調べ始めました。そしてその後、Youtubeで被り物の証しを検索し始めました。その過程で、私はHead Covering Movement’s videosを見つけたのです!とても分かりやすくシンプルな教えがなされていましたが、検証には深みもあり、私はついに思ったのです。「うん、これって、確かに正しい」と。

1コリント11章の箇所で、最も私に確信を与えた点は、――パウロの言及している「御使い」や「創造の秩序」のことも勿論そうですが――それだけでなく、この箇所が、私たちの常時読んでいる聖書の中に、これだけの字数を割いて書かれてあるという事実でした。

一体どうして1コリント13章の「愛」の箇所にはしっかり耳を傾けながら、同時に1コリント11章は無視する、ということができるでしょうか?


4)被り物を着けて初めて主日礼拝に集った時、どんな心境でしたか


すばらしい心境でした。ただ最初の日曜日は、ベールの事にあまりに心が集中してしまい、しかも焦ってベールが何度か頭から落ちてしまいました。でもこの教会では祈りのベールは普通のことなので、誰も私の方を凝視したりはしませんでした。その意味で、私はこの選択をしやすい環境にあったといえます。プレッシャーもなく、詰問もなく、逆に多くの人がそのことを話題にしている位ですから!


5)いつ祈りのベールを被っていますか。


私は今年の4月にベールを始めましたが、春夏の間は、教会の公式礼拝の時だけ被っていました。しかし、その内だんだんと、教会の外であっても、デボーションや祈りをする時などにベールを被るようになっていきました。そして今年の10月、私はフルタイムでベールをするようになりました。

でも個人的には、聖書は私たち姉妹にフルタイムでのベール着用は命じていないと考えています。にもかかわらず、どうして私はフルタイムでベールを被るようになったのでしょう。それは、祈りのベールを着けることで、一日中、イエス様のことを想うことができるからです。

またベールは私に、自分の言葉や態度に気を付ける大切さを思い出させてもくれます。さらに、神様がとても近くにおられることを思い出させてくれるという意味でも、私にとって慰めです。

また、祈りのベールは私を謙遜にします。私は自分の(美しい!)ブロンドの髪を最新型のヘアスタイルでかわいく編みたいって思います。でも、こういった美に「蓋」をすることは、私にへりくだりを教えます。

いえ、それだけではありません。この行為は、さらに美しいリアリティーへと私の目を開いてくれるのです。――そうです、(自分の美ではなく)神様ご自身が私のフォーカスになるというリアリティーです。


5)祈りのベールに関して、最もすばらしい点、逆に最も困難な点があるとしたら、それを教えてください。


最も困難な点、、は、やはり、同胞クリスチャンからの厳しい態度でしょうか。しかも私はまだ未成年なので、自分の信仰の立場はさらに軽んじられる傾向にあります。(「ああ、彼女はね、ちょっと一時的に熱くなってるだけ。時期的なものよ。」とか「あなたみたいな若者が、聖書の難解な箇所をこうだって解釈するのはちょっと早すぎ」とか言われます。)でも、そうではなく、実際にこの教えを尊守していらっしゃるクリスチャンの方は数多くいるのです。

一方、一番すばらしい点は、神様との良い関係、そして神様を近く感じることだと思います。主の前にもっとへりくだって近づくことができ、ベールを被っている時、日々のさまざまな状況の中で、私は自分の内に、周りに、主のご臨在をもっと感じます。そして自分の頭の上にある被り物の感触を通して、私が自分が誰に属しているのかを知ります。そうだ、私はこの世にではなく、神様に属しているんだって。


6)人目を恐れ、被り物をしたくてもできないでいる女性のみなさんに何かアドバイスがありますか。


(被り物に理解のない)人々のいる所で、ベールを被るのはかなり恐ろしいことです。私も例えば、教会の外でベールを着けている時、それから友だちと会う時や、他のクリスチャンの方々とこのテーマについて話す時など、すごくビクビクします。

でも、みなさん、聞いてください。自分たちの安全ゾーンを超えて、神様を求めるというのは本当にすばらしいことです。私たちが、自分の快適なポジションから一歩を踏み出す時、そこにはイエス様にあるとてつもない報いがあります。

実際、主は祈りのベールを通して、私にすばらしく報いてくださっています。個人的に言えば、例えば、自分の偶像の一つだった「髪」を覆うという自己犠牲を通して、また、(そこから導かれる)信者や未信者の方々との会話など、、多くの実が生っています。

祈りのベールに関して、私は確信を持って信仰生活をしています。私の祈りは、現在ベールを始めることを考えていらっしゃる全ての女性のみなさんもまた、主にある確信を見い出すことです。


7)どんな被り物を使っていますか。どこで購入していますか。


日曜に教会に行く時には、スペイン風の長いマンティラを被っています。私はこのマンティラをSilver Hill Treasures というオンラインのお店で買いました。(このマンティラ、かなりいいです!ある程度重さがあるので、ピンで留めたりしなくても、ずれ落ちてこないんです。)

それから家にいる時(や外にいる時)は、上の写真のように、ゆったりしたスカーフを使っています。風の強い日などはパシュミナス(pashminas:ヒジャーブ型)を使うこともあります。また寒い日には帽子も被ったりします。スカーフはBurlington Coat Factoryなどから購入しており、パシュミナスはトルコやマーケット・タイプのバザールで購入されたもので、私への贈り物でした。

ありがとうございました。




このブログを最近訪問してくださるようになった読者のみなさん、ようこそ!

みなさんの中には、このブログのカテゴリー欄に「風変りな」次の二項目を見つけ、「?」といぶかしく思った方もおられると察します。

祈りのベール(Christian Head Covering) http://christiantestimonies.blog.fc2.com/blog-category-18.html
福音主義教会の先生方への公開レター(Ⅰコリント11章の祈りのベールに関する教えについて)
http://christiantestimonies.blog.fc2.com/blog-category-20.html



そしてもしかしたら、私に対して次に挙げるような疑問や警戒心を抱かれたかもしれません。

ーこのブログの管理人は「福音派のクリスチャン」と言いつつも、もしかしたらカトリックに「改宗」しつつあるのではないか?

ーこのブログの管理人は、恵みから落ち、律法主義的な信仰に陥っているのではないか。

ーこのブログの管理人は、「祈りのベール」というキリスト教教理の中ではごくごく些細な点にこだわり、キリストの福音や愛という最も大切な部分を忘れてしまっているのではないか、、、そう、新約時代のパリサイ人のように、、、


もし、そのような疑問が湧いた方は、今週ぜひこのブログを再訪問なさってください!

今週、掲載する予定の記事をお読みになり、きっと胸をなでおろしてくださると思います。

そして安心するにとどまらず、私たち姉妹の証しや、兄弟たちの論文をお読みになることで、1コリント11章のかぶり物の箇所が、実は本当にすばらしい霊的祝福の「鍵」の一つであることを発見し、感動を覚えてくださるに違いないと思います。

下に挙げるのが私個人の証しです。

かぶり物(祈りのベール)についての私の証し My Head covering Journey (ココ)




どのようにして見分ける?


しかし実際、今のキリスト教界には、さまざまな偽りの教えが氾濫しています。

そんな中、「1コリント11章の被り物が今日にも適用されるべき聖書の掟である」という教えが、果たして本当に聖書的な教えなのか、それとも偽りの教えなのか、私たちはどのように識別することができるのでしょう。

いろいろな答えがあると思いますが、ここでは私が「大事かな」と思った二点をみなさんとお分かち合いしていきたいと思います。


リサーチの大切さ


一つは徹底的なリサーチをはじめることが大切だと思いました。

この教えに「賛成」もしくは「反対」している方々の論文をできるだけ広範囲に渡って読み、冷静に検証することが肝要だと思います。

そしてその際に気を付けなければならないことは、一次資料(primary sources)に基を置いていない主張をそのまま鵜呑みにしないことだと思います。

こと「祈りのベール」の記事や論文に関しては、信頼できる史実や一次資料に根拠を置かないフィクションがかった「推論」があたかも「事実」であるかのように断定され主張されている場合が多いので、要注意です。(*「福音主義教会の先生方への公開レター」のカテゴリーの中でも幾つかの論文を日本語で掲載しています。ココ


御霊の実による見分け


そして二番目として、御霊の実(ガラテヤ5:22、23)を入念にチェックすることが大切だと思います。

ある教えが真に聖書的なものなら、それを尊守する人々のキリスト信仰、人生、人間関係を通して、そこに御霊の実が生っていくはずです。

「祈りのベール(Christian Head Covering)」のカテゴリー項目の中で、私が(ベールを尊守するよう導かれた)福音信仰の姉妹たちの証しを多く取り上げているのはそのためです。

これをお読みになると、国も文化も年齢も生育環境も違う姉妹たちの間にみられる、「普遍的 universal」かつ「超文化的 trans-cultural」な共通点が見いだされるはずです。

それは例えば、内面的・外面的な慎み深さ、恭順さだったり、御言葉に対する姿勢だったり、父親や夫に対する敬愛(参照記事 「父と娘」シリーズその2 高校生ケイガンのお父さんとの関係 ココ)だったりします。

イエス様のおっしゃる通り、良い木が悪い実をならせることはできないし、また悪い木が良い実をならせることもできません。

その意味で、祈りのベールを実践している姉妹たちの生き方や信仰、証しを読むことは、「実」を見分ける良い材料になると思います。


祈り

天のお父様、私は自分がいつの日か、1コリント11章の被り物を、文字通りに実践するようになるなどとは想像もしていませんでした。

あなたが私や他のベールの姉妹たちの人生の中で現在なしてくださっている事は、言葉で表現することができないほど素晴らしいものです。私は、そして私たちは、この喜びと感動を世界に証していきたいと願っています。

この数十年、1コリント11章のベールの教えはこの世のイデオロギーに押され、ないがしろにされてきました。

しかしあなたは現在、世界各地で、あなたを愛し、あなたの御言葉を愛する兄弟姉妹の心に働きかけ、この聖書の教えを回復させてくださっています。

どうか、日本の兄弟姉妹の心にも働きかけてください。

そして日本の地からも多くの生きた証しを起こしてください。イエス様の御名を通してお祈りします。アーメン。





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それについて祈ってはみたんだけど、、(でも祈りのベールを始める確信がない)
I Prayed About It (And I Don’t Feel Convicted To Cover)



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何年も前になりますが、私はあるティーンの男の子から手紙をもらいました。「最近、ガールフレンドと体の関係を持ちました」と彼は打ち明けてくれました。

彼はそれ以前に、この事(体の関係を始めるべきか否か)について真剣に考え、祈ることにしたそうです。ギデオンのように彼は主に「御心を僕にはっきりお示しください。」と祈り、こう言いました。

「主よ、もし今晩、彼女が家に来たら、あなたが僕たちの体の関係をOKと思ってくださっていると受け止めます。でも、もし彼女が来なかったら、僕は、あなたがそれに反対しておられると解釈することにします。」

その晩、彼女から「家に来てもいい?」という電話があり、結局、この十代の男の子は「これが祈りの答えだ!」という偽りのゴーサイン(安心感)の下、彼女と体の関係を持ってしまったのです。

もちろんこれは極端な(でも実際に起こった)例ですが、私たちの多くは、何かに対する神の御心を求める時に、彼のような方法を使っているのではないでしょうか。

この記事で私は、――もし聖書の中ですでに直接的かつ明確な指示が与えられているなら――私たちは「祈りによって」自分の身の振り方を決めるべきではない、ということを示そうと思います。


権威のある御言葉


聖書は次のように言っています。

聖書の預言はみな、人の私的解釈を施してはならない、ということです。なぜなら、預言は決して人間の意志によってもたらされたのではなく、聖霊に動かされた人たちが、神からのことばを語ったのだからです。(Ⅱペテロ1:20-21)



聖書のみ言葉は人の意見ではありません。人間は、御霊の指示により「神からの」ことばを語る媒介者(instruments)でした。

ですから、聖書の中のパウロやヤコブ、ルカといった人々の指示は、イエスご自身の口から出された言葉や、シナイ山で語られた神の言葉と同様、権威あるものなのです。

英語の聖書の中にはイエスの言葉が赤字で載っているものもありますが、実際には、赤字の部分も黒字の部分も同じ権威を宿しています。

また聖書は次のようにも言っています。

聖書はすべて、神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益です。(Ⅱテモテ3:16)



聖書は「神の霊感によるもの」ですから御言葉を読む時、私たちは神のおっしゃっている内容を読んでいることになるのです。

つまり、こういう事です。――もし聖書が私たちに何かをしなさい(あるいは「してはいけない」)と言う時、私たちはそれを権威あるものとして受け止めなければならないということです。

それについてどんなに祈ったところで、神はその聖句とは違う答えを与えてはくださいません。


惑わしを避けるために


冒頭の十代の男の子に話を戻しますが、彼は本来、自分のやるべきことについて祈る必要はなかったのです。なぜなら神は聖句の中ですでに彼の問いに答えてくださっていたからです。

神の彼に対するメッセージはこの一言に尽きました。そうです、「不品行を避けなさい」(1コリ6:18)でした。

そうであるにも関わらず、私たちが尚も「いや、祈っていけば、神様は別の答えをくださるかもしれない」と突き進んでいくなら、やがて私たちは惑わし・欺きの穴に落ち込んでしまいます。

「だれも自分を欺いてはいけません」(1コリ3:18)と聖書は警告しており、また、私たちの敵であるサタンは惑わす者(黙12:9)であることを覚えていなければなりません。

「これが私たちの祈りに対する神様の答えだと思う」というのは主観的であり、それ故、それは神の御言葉の権威にしっかり固定(anchored)されていなければなりません。

*主観的:フィーリングに基づいた平安、確信、そして導きに関する感覚はあくまで主観的なものです。それは神から来たものかもしれませんし、そうでないかもしれません。それゆえに、こういったものは、それよりも高い権威に従わせられ、場合によっては矯正される必要があります。それが聖書です。)

つい最近、うちの玄関先に、モルモン教の宣教者の方々がやって来ました。

なぜモルモン教が真理なのかという根拠を挙げるべく、彼らは私にこう言いました。「私たちは『モルモン教が真理か否か』という点で祈り求め、神はそれに対し――平安そして「胸を熱くする感情」を通して答えてくださいました」と。

この若い二人は、神が彼らの祈りに答えてくださったという理由で、モルモン教が真理だという(誤った)確信を抱くようになったのです。

彼らのいう「確信」とは、神の御言葉という不変の権威ではなく、自分の主観的感情ないしは体験に基づくものでした。

分かりますか。ジョセフ・スミスがまことの預言者であったかどうかを知るのに私たちは祈る必要はないのです。

「いや、ぜひその事を祈ってください」とこの二人はおっしゃいましたが、私はそうするつもりはありません。(*ジョセフ・スミス:モルモン教の創始者であり預言者。モルモン教とその誤謬についてさらに詳しく知りたい方はThe Bible vs. Joseph Smith をクリックしてください。)

というのもジョセフ・スミスの啓示というのは、神が御言葉で語っておられる内容と食い違っているからです。そこから私たちは、この人物が神から来たものでないことを知るのです。

ですからもし私たちが聖句のことで疑問があるなら、まず聖書をひもときます。そしてもしそこに明確な答えが記されているのなら、私たちはさらなる別の答えを求めて祈る必要はないわけです。

「神は人間ではなく、偽りを言うことがない」(民23:19)そして「主であるわたしは変わることがない」(マラキ3:6)。

ですから、神が聖書の中である事を命じておきながら、「祈った結果」全く別の事を示すということはありえない――その事について私たちは不動の確信を持つ必要があります。


確信がない


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私は祈りのベールをもはや実践しなくなった多くの女性たちから話を聞きます。彼女たちはどうして被り物をやめてしまったのでしょう?

「ええ、それについて祈ってみたんです。でもこの先も続ける必要があるのかって考えてみた時に、祈りの中で確信が与えられなかった、、だからやめました」というのが最もよく出される理由です。

また多くの女性が同様のメソッドを用いて、「祈りのベールを始めるべきか否か」について決めています。確信が与えられたと「感じる」なら、彼女たちはベールを始めます。

そして反対にそう「感じない」のなら、始めないのです。

しかし聖書の中で直接的かつ明確に取り扱っているテーマに関する私たちの応答はこういうフィーリングに基づくものであってはなりません。

神は1コリント11章の中で被り物に関する指示を出されています。ですから、すでに仰せられた事以外に主が何か別の事を仰せられることはないのです。

そうです。主の出されたご回答は「かぶり物を着けなさい」(1コリント11:6)です。

しかしどうか誤解しないでください。もしここの聖句に関する理解に苦しんでおられるのだとしたら、私たちは知恵を求めるべく主に祈るべきです(ヤコブ1:5)。

ですから、あなたがまだ疑いの中におられるのに、「祈ってはいけない」などとは言っていないのです。

そういうことを申し上げたいのではなく、私たちの決定は主観的な感情ではなく、あくまで神が聖書で言っておられることの理解の上になされるべきだと言っているのです。

そういう意味で、仮にあなたが「女性の長い髪=被り物」説を信じておられるのなら、それはあなたが現在、被り物を実践していない正当な理由となり得るでしょう。(とは言っても私たちは「女性の長い髪=被り物」説には全く同意しておりません。ココを参照)

でも「祈ってみた。でも確信が与えられていないように感じるから、、」という理由で、聖書が「こうしなさい」と命じていることをないがしろにすることは危険だと思います。

私の願いは、被り物の事に関し、みなさんがあくまで神の言葉に基づいて(するのかしないのか)ご決心なさることです。

もし私たちがそのステップを回避し、御言葉よりも自分の受けた「祈りの答え」を重んじるなら、私たちはやがて惑わされてしまうようになるでしょう。


(執筆者:ジェレミー・ガーディナー)


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おまけです

黒髪の日本人女性に似合い、しかも目立たない祈りのベールを発見しました!



私の中にはこれまで「祈りのベール=白」というイメージが強くあり、反対に黒色のベールは「お葬式」という印象がありました。

でもモダンな型のベールを調べていくうちに、自分の中のそういった固定観念が次第に取り払われていき、「もしかして、黒もありかな?」とさえ考えるようになっていったのです。

なぜその可能性を考えるようになったのかと言いますと、私たち黒髪の日本人姉妹にとっては、黒とか濃紺色のベールはなんといっても「目立たず」、従って精神的にプレッシャーが少ないのではと思ったからです。

そこで私は先月思い切って、garlands of graceから黒色のモダン・ベール(Cecily's Classic Lace)を注文してみることにしました。

これです。

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どうですか?目立ってませんよね?しかも「お葬式」という感じが全くしません!私たちジャパニーズ・ウーマンにとって、この色、この型はかなりいいかもしれません。

ちなみに黒いベールの従来の型はこんな感じです。

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(↑やはりこの型だと「お葬式」のイメージが強いのではないかと思います。)

どうですか。上に挙げたようなモダン・ベールも結構いいと思いませんか?

ちなみに、私の注文したCecily's Classic Laceには他にもアイボリー、濃紫、純白、ネイビー・ブルー、ピンク等各色あります。(詳しくはここをクリックしてください。)

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(↑これは私の使っている黒ベールの白バージョンです。さなえさんもこの白ベールを使っておられます。)

私はこの黒いモダン・ベールを愛用しています。

さて、これを読んで私の真似をしたくなった方がおられますか(笑)?もしそうなら、とてもうれしいです。ぜひそうしてください。