head-covering-testimonies_20160830174828edf.jpg



名前:エリザベス・ワイザー
年齢:26歳
所在地:イスラエル、ベエールシェバ市
祈りのベールを始めた時期:2011年7月




1)読者のみなさんに、少し自己紹介してくださいますか。



Elizabeth-Wiser.jpg




私はイスラエル在住の、アメリカ人医学部生です。


ユダヤ人でもない私がイスラエルで勉強しているというのは、母国でも、そしてここイスラエルでも、「ちょっと普通ではない事」と受け取られているようです。


しかし私の大学は、グローバル公衆衛生に力を入れており、ベドゥインの遊牧民や、アフリカからの難民、世界中からのユダヤ人移住者たちと共に働き奉仕する機会が与えられており、私にとってはまさに理想的な環境です。




pdwm0830.jpg
ベエールシェバのベドウィン市場で、やぎを見ている正統派ユダヤ教徒の男性




というのも、私は将来的に医療ミッションに関わりたいと思っているからです。




800_iceot0vvxw0pkpqonin1tl9penadm7me.jpg
イエメン系のユダヤ教徒の女性たち(ベエールシェバ市)




母国で医学部を修了するのなら、この先5年から10年待った上で、はじめて――言葉も文化も不慣れな――外国の宣教地に足を踏み入れるということになると思います。


でも今、私は勉強しつつ、しかもすでに「現場に」いるのです!


また、私の住んでいるベエールシェバ(Beer Sheva)は、かつてアブラハムが住んだ町でもあります!




Beersheba_Israel_Map.png




ですから、聖書がユダヤの南とか、荒野とか、ネゲブと言っている時には、私は自分の部屋から外を眺めさえすればいいのです。そうすれば、それがどんなものか立ちどころに分かります。




img384340830.jpg






2)どこの教会に通っていますか。



私はベエールシェバで唯一英語通訳のある教会に通っています。この教会にはまた、スペイン語とロシア語の通訳もついており、それはイエスの御名の中で、異邦人とユダヤ人が共に集まり、神様を礼拝するという美しい光景を生み出すものとなっています。


ここのコミュニティーの人たちは本当にすばらしいです。


非常に多くのユダヤ人クリスチャンの方々が、イエス様に信仰を持ったゆえに、家族から絶縁されています。また洗礼式を行なうのも覚悟が要ります。


というのも、うちの教会で洗礼式が行われるという情報が流れると、オーソドックス・ジュー(正統派ユダヤ教徒)の人々が教会に暴動を働きかけてくるからです。


(なぜなら、一人のユダヤ人がバプテスマを受けるということは、ユダヤ人であることから離反すること(de-Jewed)を意味するからです。)


このように自分が、クリスチャンという[イスラエルにおいては]少数派の一員であるという体験は、周りの文化ではなく、意識的に自分の信仰そのものを実践し生きていくということを学ぶ上で大きな励みになっています。





3)どのような経緯で祈りのベールを始めるようになったのですか。



私はファンダメンタル(聖書主義)の教会で育ちましたが、そこでは、女性の「長い髪」というのが「被り物」のことだと捉えられていました。


高校を卒業後、私は親許を離れ、別の州にある大学に入学しました。そしてある日、そこにある叔母の教会に行ってみようと思い立ちました。


実は、その叔母の教会が、祈りのベールを実践する教会だったのです。(約半数の女性たちが礼拝時に被り物を被っていました。)


叔母は、そういう光景をみて私がびっくり仰天しないよう、前もって心の準備をさせようと思ったのでしょう、被り物についてのあるエピソードを私に話してくれたのです。


それによると、叔母はかつて友人に「もしも被り物に関する聖句について、主があなたに何かを示してくださったら、あなたは進んでその変化を受け入れたいと思う?」と訊いたそうです。


でもその友人には、進んで変化を受け入れる心がなかったそうです。


そう言いつつ叔母は、私に、「神様に対しやわらかい心を持ってね。そして主とそのみこころについて、今後より良く知っていく過程で、変化を進んで受け入れてね。」と熱心に語ってくれました。


でもそれからの二年間というもの、私はその教会に通いつつも、ベールはしませんでした。


水曜祈祷会の席でも、ベールをしていない女性は私だけでした。


ある日、祈祷会の席で、牧師さんが何かの話のついでに、「長い髪というのは女性の光栄(=glory)であり、誰も神のご臨在の中で自らを誇ってはならない(=glory)のです」と言われました。


その説明は、被り物を認めていない立場に立っていた私にとって、はじめて聞く、説得力ある議論でした。


しかし、私は「周りのみんながしているから」という理由だけで、何かを受け入れるつもりはありませんでした。


その後さらに2年以上に渡り、私はその教会に通い続けました。そして大学4年の時、もう一度、被り物に関する説教を聞きました。


しかし私は説教を鵜呑みにするのではなく、一度自分でしっかりここの聖句を調べてみようと思っていましたので、大学を卒業して、院に入学するまでの待ち時間の間に、1コリント11章のリサーチに取り掛かりました。


こうして検証の結果、ここの聖句でいう「被り物」というのは髪の毛ではなく、帽子とかスカーフ等のcoveringのことを意味しており、これは今日の教会でも実践されるべきものであるという結論に私は導かれました。





4)初めて被り物をして主日礼拝に臨んだ時、どんな心境でしたか。




最初にベールをして礼拝に臨んだのは、大学院の近くにある新しい教会を訪れた時のことでした。


主のご慈愛により、会堂にはなんともう一人、被り物をしている女性がおられたのです。そしてそれは私がぜひとも必要としていた励ましでした。


礼拝前にベールをかぶるに当たって一番しんどい思いをしたのは、幼い時から通っている故郷の教会でスカーフを頭にかぶる、その瞬間でした。


しかし感謝なことに、誰からも何も言われず、「なぜ被り物をしようと思ったのか」という自分の新しい決心について他の人に弁明する必要もなく、礼拝に参加することができました。


このような立場に私を導いてくださった主を賛美します。


というのも、祈りのベールの実践を通し、それ以後、私は自分の友人たちに、神様への恭順の美しさについて証する機会が与えられるようになったからです。





5)イスラエルの教会での被り物の実践状況についてお話くださいませんか。祈りのベールというのは、イスラエルでは多数派によって実践されているものですか。



私の教会では、既婚女性信者の約3割が、礼拝時にベールをかぶっています。


そういった女性信者のほとんどが、ロシアおよび東方正教会の背景をもっておられます。




little_russian_girl_orthodox.jpg
ロシア正教徒の女の子




一方、非ロシア系の女性でベールをかぶっている女性たちは、保守的なユダヤ教出身の方々です。


保守的なユダヤ教のラビ教義によれば、イサクに会う前にレベカが頭を覆ったことに由来し、「既婚女性はが公の場に出る時には、帽子やスカーフ等をつける」という慣習があります。




045cf402fb4735d169c37397e178c9de.jpg
保守的なユダヤ教徒の女性





イスラエルにある他の諸教会では、ベール女性の割合は、だいたい75-80%というところでしょうか。


でもこれらは、より保守的ないしはオーソドックスなキリスト教会で見受けられる現象です。


アラブ系の福音主義クリスチャン女性で、ベールを実践している方には今までお会いしたことがありませんが、これは私がアラブ系のクリスチャン・コミュニティーとの接点が少ないという事情に因るからかもしれません。






6)人目を恐れる余り、ベールを実践したくてもすることができないでいる女性たちに何か励ましのメッセージがありましたら、どうぞ。




私はどちらかというと、余り人を恐れないタイプかもしれません。


でも聖くへりくだった心で神様を礼拝することの尊さについては知っており、神様とのより深い交わりのためなら、たとい他の人からの軽蔑を受けようとも、それらは価値あって余りあるものだと思います。


でも実は、私自身、高校の時、礼拝時に帽子をかぶっている姉妹たちのことをバカにしていたんです。


ですから、元嘲笑者である私からみなさんにアドバイスがあるとすれば、それは、「現代の感覚からあまりかけ離れていない型の帽子やスカーフを被り物として選ぶなら、あまりジロジロ見られることはないでしょう」ということです。


80年代の服装で身を包むからといって、私たちはより霊的な女性になるわけではありません。


ベールの目的は、それをすることにより、私たち女性の髪の美しさや、あるいは帽子の奇抜さなどによっても、御使いや人々が気を乱されることなく、一心に神様を礼拝できるようになることです。






7)被り物に関し、もっともすばらしい点、あるいはもっとも困難な点があるとしたらどんな点だと思いますか。



イスラエル在住のクリスチャンのベール女性にとって一番やっかいな点は、保守的で既婚のユダヤ教徒の女性と勘違いされることです。



article-2142543-130706AF000005DC-10_634x684.jpg
保守的なユダヤ教徒の女性(Hasidic woman)




ユダヤ人の女性たちは、私が安息日に財布を持って歩いているのをけげんな目つきで見てきます。


アラブ系の若者たちは、すれ違いざまに私をやじります。


また最近起こったことですが、ある世俗ユダヤ人に、私は「死ね」と言われました。


しかも、これらはいずれも、私がキリストの御名のゆえの苦難でさえないのです。。。ただ自分が何者かということで勘違いされているだけなのです。


その一方、すばらしい点は、清い良心をもって教会の礼拝に臨むことができ、聖書のみことばに対する不滅の愛を、このように生きた形で証することができる事です。また、神様の前でへりくだることをも教えられています。





8)どんな被り物を使っていますか。どこで購入していますか。



そうですね、Target, Kohls, Walmartとかいった普通のお店で売っている帽子やスカーフを被り物として私は使っています。


もしスカーフをどのように頭に巻くのか興味がある方は、「Tichel(ユダヤ式被り物)のかぶり方」というような、おもしろいyoutubeがいくつかあるので観てみてください。


でも私は、たいてい縁なし帽子をかぶっています。というのも、それだと砂漠の太陽の日よけにもなるからです。


この証を読んでくださりありがとうございました。









関連記事:


ユニークなクリスチャンのシンボル――パウロが生きた当時もなじみのない特異な慣習だった祈りのベール


















スポンサーサイト



head-covering-testimonies_20160725154805399.jpg


名前:ヴィアン・エリザベス
年齢:23歳
所在地:ノルウェー
ベールを始めた時期:2014年夏



1)読者のみなさんに自己紹介してください。



Vian-Tall20160725.jpg


こんにちは。私はノルウェー人で、長女です。

私はクリスチャン・スクールで教師兼アシスタントとして働いています。また聖書翻訳の勉強もしています。

私は2013年の暮れにイエス様を信じました。

そしてそれ以来、人生の中での私の望み、そして目標はただ一つとなりました。

――それは、主のため、そして主の働きのため、聖別された人生を生きることです。

私は宣教師の伝記を読むのが大好きです。また、ピアノを弾くこと、歌うこと、刺繍・編み物、お料理なども大好きです!



2)どこの教会に通っていらっしゃいますか。そこの教会で、祈りのベールを実践している姉妹の方々は他にもおられますか?


私は保守的なルーテル教会に通っています。

多くの誠実な信仰者の集うすばらしい教会です。また、数人の女性たちが被り物を実践しておられます。



3)どのような経緯で、祈りのベールを実践するよう導かれたのですか?


それまで私は被り物についてあまり深く考えたことはありませんでした。

でも本当にイエス様を信じて、信仰者になった時、私は初めて「開かれた目をもって」聖書を通読し始めたのです。

そして1コリント11章にさしかかった時、そこに書いてある御言葉がぱっと目の前に現われてきました。

こうして私は御言葉によって確信に導かれました。

また、祈りのベールの慣習が、教会の歴史を通してこれまでずっと保持されてきたクリスチャンの慣習であることも勉強し、こうして私は確信に導かれたのです。



4)被り物をして最初に主日礼拝にのぞんだ時、どんな心境でしたか?


それほど他の主日と変わったことはありませんでした。また他の方々も別段、奇妙に思っている風ではありませんでした。

それどころか、何人かの方々がわざわざ私の所へやって来て、「今も、被り物という聖書的慣習を守ろうとしている人がいることを知ってうれしい!」と声をかけてくださったんです。とても励まされました!

また何人かの子ども達も私に「ねえ、頭の上にのっているのはナニ?」と訊いてきました。

おもしろいことに、私が祈りのベールのことについて子ども達に説明すると、たいてい、みんな、「かわいいね!」と言ってくれるんです。

ですから、私のベール体験は、かなり肯定的なものだといっていいと思います。



5)ノルウェーにおける被り物の状況について少しお話くださいませんか。ベールを実践している教団・教派はありますか。一般的な福音派教会で――数人ではあってもとにかくベールを実践している女性がいる――というのは日常光景なのでしょうか。


被り物が当たり前の教会というのがノルウェーに存在するのかどうかはよく知りません。でも福音主義教会の中で、今もベールの慣習を守っている女性たちはいるにはいます。



6)人目を恐れるあまり、ベールを実践したくても、そうすることができないでいる女性たちに何か励ましのメッセージがありましたら、どうぞ。


聖書は私たち女性に、「恐れてはいけない。主に信頼しなさい。」と言っています。

「祈りのベールは確かに聖書の言う教えだ」と確信したのなら、あとは実践あるのみです。とにかくやってください。

主の掟が厄介に感じられたり、従うのが難しく感じられたりする時、「とにかくやる!」――これが私のモットーにしていることです。

とにかく主に従うのです。そうすると、後のことは主がなんとかしてくださいます。

また反抗的・挑戦的な心の姿勢でベールを始めることもお勧めできません。

それはいわば、「美しいが、たしなみのない女は、金の輪が豚の鼻にあるようだ」(箴11:22)と描写されている女性のようだと思います。



7)被り物に関して、もっともすばらしい点、あるいはもっとも困難な点があるとしたら、それはどういう所でしょう。


私にとって、被り物は、謙遜であることの大切さを常に思い起こさせてくれるものです。

また、ベールをかぶっている時、私は自分が女性であること、それから女性であるがゆえの属性といったものについての思いが与えられます。

もっとも困難な点は、、、そうですねぇ、自分のベール姿を、(クリスチャンになる前の自分のことを知っている)人々に見られる時でしょうか。

私はちょっと恥ずかしがりやなので、その点で、みなの注目にあってしまうのが苦手です。

でもそれは同時に、主が私の心の中でなしてくださったことについての、目に見える可視的な証しでもあるのかもしれません。



8)どんなベールを使っていますか。どこで購入していますか。


私はGarlands of Graceで買っています。ここのお店のベールはとてもフェミニンです。いろいろな型を使っていますが、今は、スヌード型のベールを使用しています。



ーインタビュー記事おわりー




ちょっと息抜き

最近、日本の若い姉妹の方から、「私も祈りのベールに興味があります」というお便りをいただきました。

思うのですが、日本で「ベール」というと、やはり次のようなイメージが主なのではないでしょうか。


20130812cnsbr1271-800x50020160725.jpg
↑こんな感じかな?


でも、誰もベールなんかしていない教会で、いきなりこういう姿になれといわれても、とてもできませんよね!

でも、みなさん、安心してください。

1コリント11章で神様が言われているのは「女性は祈りや預言をする時、頭を覆いなさい」であって、「どんな素材の物で覆うのか」とか「どんなスタイルや型や色や大きさのベールで覆うのか」といったことは、私たち女性の自由裁量に任せられているのです

つまり、私たちはクリエイティブに楽しく自分に合ったベールを選ぶことができるわけです。

できるだけ目立たないような型や色を選ぶこともできますし、逆にキュート路線でいきたい女性のみなさんもいるかもしれません。


Garlands-of-Grace-Spring-2016-055-400x400.jpg
Garlands of Grace

Garlands-of-Grace-Spring-headcovering-3649-400x400.jpg
Garlands of Grace

GOG-CHiffon-2-400x400.jpg
Garlands of Grace

SCT24a_Cropped_large20160725.jpg
Liturgical Time

black veil tagged
Liturgical Time


また、覆う部分にしても、ある人は、頭の一部をメノナイト風capやカトリックのミニ・ベールのように覆っていますし、また別のある人は、保守的なユダヤ人女性のように完全に頭を覆うスタイル(Tichel式)が心にフィットすると言っています。



il_fullxfull_422334543_9ick20160725.jpg
Tichelスタイル


また、私の友人のカロリーヌさん(フランス)は、公同礼拝の時、ヒジャーブ式の覆い方で臨む時、一番、心に平安があると私に打ち明けてくれました。

ですから、みな、それぞれ違うのです。そしてすばらしいことに、神様は私たちのその多様性を良しとしてくださっているのです!うれしいですね。

それでは、みなさん、Happy Covering!

参考までに↓のVTRを貼っておきますね。






picture-3320160707.png
Martin Luther


もし私がありったけの声で明瞭に神の真理を公言しているとしても、その小さな点――そう、今まさに、この世と悪魔が攻撃を加えているそのささいな一点――について触れるのを避けているなら、私はキリストを告白していることにはならない。

そう、たとえ(その他のことで)どんなに大胆に告白しているとしてもダメなのだ。

戦いが激しさを増す所において、兵士の忠誠心は立証される

そして全ての戦場において確固とした態度をとっていても、もし彼がその一点において尻込みしているなら、それは逃げであり恥辱であるにすぎない。

マルティン・ルター (私訳)



先日、ある方に、(祈りのベールに関するVTRの中で)次にはどのビデオを翻訳したらいいでしょう、ということをお訊きし、三択のチョイスをお出ししたところ、その方は、次のVTRを選ばれました。

How Gay Rights Advocates use Head Covering to Support their Position

いかにして同性愛を肯定する方々は「1コリント11章の被り物の聖句」を自らの立場の擁護のために用いているのでしょうか?



このビデオの字幕を訳しながら、私は改めて、今現在、福音主義教会がジェンダー問題で岐路に立たされていることを痛感しました。

その意味でも、この方が上のVTRを選んでくださったことは、神の摂理だったと感じざるをえません。

これを観ていただくと、「クリスチャンは同性愛をどう考えるべきなのか」という問いと、「1コリント11章の祈りのベールを実践すべきか否か」という二つの問題が、今、実に絶妙につながっていることがお分かりいただけると思います。

(*このビデオを下のYoutubeの日本語字幕で観ることもできますし、この下につづく記事としてもお読みになることができます。








How Gay Rights Advocates use Head Covering to Support their Position

by Jeremy Gardiner




「被り物を、ある特定の文化のためだけの慣習と解釈すること」の危険性について、今日、私はみなさんにお話したいと思います。

みなさんはお気づきになっておられないかもしれませんが、被り物のことを取り扱っている1コリント11章のこの箇所は、同性愛を肯定する人々が、自らの立場を擁護する際の、主要聖句の一つとなっているのです

これから、そういった人々がどのようにその議論を展開しているのか概観していこうと思います。

というのも、彼らは、そういった議論により、「同性愛の関係や結婚が、聖書的に許容されたものである」ということを私たちクリスチャンに納得させようとしているからなのです。

☆☆

1コリント11章で、パウロは、「自然自体が、私たちの髪の長さのことを教えている」という事に言及し、「だから、女性は被り物をすべきなのです」と主張しています。

1コリント11:14-15

自然(phusis : φύσις)自体が、あなたがたにこう教えていないでしょうか。男が長い髪をしていたら、それは男として恥ずかしいこと(atimia :ατιμία)であり、

女が長い髪をしていたら、それは女の光栄であるということです。

なぜなら、髪はかぶり物として女に与えられているからです。



ですからここでパウロは、「男性が短い髪をし、女性が長い髪をしているというのは自然なことです」と言っているわけです。

ここで皆さんに知っていただきたい大切な事は、パウロが「自然」のことを言うのに「phusis(フースィース)」というギリシャ語を使っていることです。

そして「恥ずべき」のことを言うのに「atimia(アティミア)」というギリシャ語を使っています。

さて、これからローマ1章をみていきますが、今挙げたこの2語を心に留めておいてください。

☆☆

ローマ1章で、パウロは、異性愛が自然なものであることについて説明しています。

ローマ1:1:26、27a

こういうわけで、神は彼らを恥ずべき(atimia)情欲に引き渡されました。すなわち、

女は自然の用(phusis)を不自然なものに代え、

同じように、男も、女の自然の用を捨てて男どうしで情欲に燃え、



ですから、ローマ1章と、1コリント11章の間には、完璧なパラレル関係があるわけです。

まず、

1)両方とも、使徒パウロによって書かれた書簡です。それから、

2)両方とも、「自然の用が何を教えているか」ということに言及しており、そして

3)両方とも、その逆の用のことを「恥ずべきこと」と言っています。そして、

4)全く同じあのギリシャ語2語(=「自然」を指す「フースィース」と、「恥ずべきこと」を指す「アティミア」)が両方の箇所で用いられています。

☆☆

それでは、同性愛関係を擁護しておられる方々が、こういった箇所を用いて、実際にどのように議論を展開させているのか、みなさんに見ていただくことにします。

次にご紹介するのは、レイチェル・ヘルド・エヴァンズさんのビデオの一部です。

レイチェルさんというのは、ご自分のことを「クリスチャン・フェミニスト」と呼んでおられる方であり、『一年間の〈聖書的女性像〉体験記』」という本を書いた著者として有名な人です。


134789349232420160707.jpg
Rachel Held Evans, A Year Of Biblical Womanhood


このビデオの中で、彼女は、マシュー・ヴァインズ氏の著書『神とゲイ・クリスチャン――同性愛関係を擁護する聖書的根拠』(2015)の中で展開されている議論に触れ、次のように言っています。

マシューさんの指摘していたことの中で一番興味深かったのは――、パウロがこういった同性愛関係を「不自然なもの」と言っているというその箇所でした。


143387426984720160707.jpg
Matthew Vines, God and the Gay Christian: The Biblical Case in Support of Same-Sex Relationships, June 16, 2015


(ローマ1章の)あの箇所で用いていた言葉は、(1コリント11章で)パウロが「祈る時に被り物をかぶっていない女性」のことを描写する時に使っていた言葉と同じなんです。

私、1コリント11章のその箇所にはかなり親しみを持っていて、、

というのも、『一年間の〈聖書的女性像〉体験記』の期間中、祈る時はいつでもベールをかぶっていたからです。


RHE20160707.jpg


だから、この二つには面白い関連性があるなあと思いました。

今日、被り物をしないで祈る女性たちのことを見て、私たちは彼女たちが「不自然にふるまっている」とは言いませんよね。

曰く、(1コリント11章の箇所では)そこになにがしかの文脈があり、なにがしかの文化的前提があり、、って皆さん言ってます。

ところが、です

それが(ローマ1章の中で)同性愛を描写すべくパウロが使ってる語となるや、

皆さん今度はなぜか急に、

「ほら、ここで使われている語をみなさい。『不自然』って書いてあります。

そうです、不自然っていうからにはやっぱり(同性愛は)不自然なんです。」

と主張が一転してしまうんです!

だから、これは本当に面白いパラレルだなあと思いました。

自分自身の経験と、それからマシューさんのこの聖句の解釈とを併せ考えてみて、そう思ったんです。



レイチェル・ヘルド・エヴァンズさんはここで私たち多くのクリスチャンの抱えている自己矛盾を指摘しているのです。

つまり私たちの多くは、髪の長さと被り物のことは、「文化的」と呼ぶ一方、

話が、異性愛のことに及ぶと、今度は「異性愛というのは、神の秩序における自然なものなんです!」と主張するという、なんとも一貫性のない見方をしているのです。


こうしてレイチェルさんは、マシュー・ヴァインズ等と共に、この矛盾点を指摘することで、

「だから、みなさん、同性愛関係を聖書的に許容されたものと捉えて構わないんですよ!」

ということを私たち視聴者に勧めているわけです。



Matthew-Vines20160707.jpg



☆☆

私もまたみなさんが、この矛盾点に気づくことを願っています。

しかし(私がレイチェルさんと違うのは)私は、あくまで神様がお造りになられた異性愛というセクシュアリティーを捨てないでほしいと皆さんに願っていることです。

そしてむしろ、「被り物は文化的なものです」という見解をぜひ再考していただき、この見解をこそ破棄していただきたいと願っています

☆☆

それでは、この問題に関し、私たちが実際、どういう位置に立っているのか、見てみることにしましょう。

みなさんへの質問 その1


「同性愛は正しいのか、それとも間違っているのか」という命題に関し、あなたは、

1)文化的解釈をベースに、その是非を考えていますか?それとも、

2)神様がそういった異性愛のセクシュアリティーをデザインされ、それに従うよう仰せられたからという神の創造をベースにその是非を考えていますか?



質問 その2


「男性が長い髪をしているのは正しいか、間違っているか」という命題に関し、あなたは

1)文化的解釈をベースに、その是非を考えていますか?それとも、

2)神様が元々、私たち男女の髪の長さをデザインされ、それに従うよう仰せられたからという神の創造をベースにその是非を考えていますか?



これらの問いに関するあなたの答えがどうであれ、一貫性を持った答えをするためには、みなさんは両方の質問に対し、同じ回答をしなくてはなりません

なぜなら、(ローマ1章と1コリント11章は)同じ記者の書いたものであり、同じ理由(=自然の用)に訴えた上で、同じ倫理的判断(=それは恥ずべきもの)を下したものであるからです。

ですから、私たちは一貫性をもたせるべく、両者を等しく取り扱わなければなりません。

ですから、みなさん。私たちはこの問題について、矛盾のない一貫した態度と見解を持とうではありませんか。


(執筆者:ジェレミー・ガーディナー)





pink-cosmos-flowers-wallpaper-1.jpg



1コリント11章の「祈りのベールの教え」についてさらに詳しくお調べになりたい方へ



①「ないがしろにされている」教えへの道案内(1コリント11章) An Introduction To A Neglected Doctrineココ


②なぜ被り物?――理由その1 【創造の秩序】(ココ


③なぜ被り物?――理由その2 【御使いたちのため】(ココ


④なぜ被り物?――理由その3 【自然】(ココ


⑤なぜ被り物?――理由その4 【教会の慣習】(ココ


⑥福音主義教会の先生方への公開レター――1コリント11章のかぶり物に関して――(ジェレミー・ガーディナー)An open letter to complementarians about head covering (ココ


⑦「祈りのベールは文化的なもの?コリントの売春婦のことはどうなんですか?」――1コリント11章のかぶり物について (ココ


⑧「女性の長い髪=かぶり物ではないのですか?」――Ⅰコリント11章 祈りのベール問答シリーズその2 (ココ


⑨被り物と聖書解釈(Head Covering and Hermeneutics)R・C・スプロール (ココ


⑩被り物と聖書解釈―実際的な指針について(R・C・スプロール)その2 (ココ


⑪ベールの教えをするよう導かれた、福音主義教会の牧師の証し(ロビン・バッサム師、ノルウェー) (ココ


⑫姉妹のみなさんへの応援レター(パート3) パイオニアになろう!道なき道を切り開いていこう!(ココ





flowerbascket20160218.jpg


今日はさまざまな所で私を支え応援してくださっている読者のみなさんにお礼を申し上げたく、このレターを書いています。

本当にここまでブログを続けることができたこと自体、主に、そして応援してくださっているみなさんお一人お一人に感謝しています。

特に、「祈りのベール」に関するテーマを取り扱うに当たり、私を個人的に励ましてくださった兄弟姉妹の存在は非常に大きいものがありました。

特にさなえ姉妹は、あらゆる時期に渡り、変わることのない愛をもって私に寄り添い、励まし続けてくださいました。このような誠実で謙遜な神の女性に出会わせてくださった主に感謝します。

また私が全く孤立無援だった時期に、祈りのベールを擁護する記事を日本語で書いてくださったan east windowのミヤサカ兄弟にこの場を借りて、深く深くお礼申し上げます。本当にありがとうございます。

「ベールの教え」について(1)
http://eastwindow18.hatenadiary.com/entry/2014/09/15/184630
「ベールの教え」について(2)
http://eastwindow18.hatenadiary.com/entry/2014/09/23/222204



また、まこさんやミクさんからいただいた応答にも非常に励まされました。(このテーマのことだけに限らず)お二人は、さまざまな時期に、純粋に私を助ける思いで、メッセージを送ってくださったり、贈り物をギリシャまで届けてくださったりしました。お二人のこのご親切、私は忘れません。

また、ベールに関するVTRの日本語字幕のことをお知らせした時に、「Youtubeにこういう動画がふえていくと、もっともっといろんな知識を吸収できて、ぼくはうれしくなります。」というコメントをくださった祐兄弟にも感謝しています。また、あの時期に、「起きて、食べなさい。旅はまだ遠いのだから。」という御言葉を書き送ってくださったことも忘れません。

それから先週、「祈りのベール」に関する応援記事を二つも書いてくださった、「ダビデの日記」のダビデ兄にも本当に感謝しています。日本の姉妹のみなさんからの応答はあるのですが、日本人の兄弟の方々からはこれまでほとんど何も聞いたことがありませんでしたので、ダビデ兄からの肯定的なレスポンスにかなり勇気づけられました。

応援記事「ベール」(1コリント11:1~16)の解釈
http://blogs.yahoo.co.jp/psalm8934/32529769.html

応援記事 その2 「被り物」に関する日本語サイト
http://blogs.yahoo.co.jp/psalm8934/32529769.html



そして、各地でベールを実践している(orそうできたらいいなと願っている)同胞姉妹のみなさん。私はみなさんのことを絶えず祈りに覚えています。

また「恥ずかしい」「人目が気になる」等の精神的葛藤やプレッシャーについても、私はみなさんのその気持ちが痛いほどよく分かります。どうか主よ、彼女にこの御言葉を実践する勇気と力を与えてください。そして彼女の従順を通して、あなたの栄光が顕わされますように。

最後に、現在、ベールを始めようかどうしようかと、迷いの内にある姉妹のみなさんに向け、ジェレミー兄のお書きになった応援メッセージをここに載せようと思います。(再掲載です。)


EV1Wa_large20160218.jpg
source


あなたは独りで立ちますか?――祈りのベールを始める最初の人になろう!

Will You Stand Alone?: A Call to Be the First to Cover by Jeremy Gardiner)



独りで立つのは大変なことです。本当に大変なことです。

自分の性分に合わないことをし、また他の人と違っているというのはしんどいことです。寄らば大樹の陰ということわざの如く、大多数の中にいれば安全です。

ジロジロ見られたり、さげすまれたり、笑われたり、仲間外れにされたりしたい人なんて誰もいません。おかしな変わり者と思われたい人なんて誰もいません。

「祈りのベールをつけるのは今日にも適用されるべき聖書の掟だ」ということを確信するにいたった多くの女性にとって、これを独りで実践しなくちゃならない――これが、一番こわい部分でしょう。


ひとりぼっちのダンサー


数年前、TEDのトークショーを観ていたのですが、どのようにしてあるモ―ブメント(運動)が始まるのかについて彼が説明していました。

スピーカーがビデオをみせてくれたのですが、それを観ると、一人の若い男が外で独り踊っていました。

彼の周辺の人々はといえば、皆、ゆったりくつろいでおり、日光浴をしていました。そんな中、この男はばかみたいに独りでがんがん踊っていたのです。

「このひとりぼっちのダンサー、この人がリーダーなんです」とスピーカーは言いました。

その後、もう一人の男がダンスに加わり、二人して踊り始めました。こうしてさらにもう一人が加わり、さらにもう一人と参加者が増えていきました。

そうするうちに、一群の人々がいっしょになって踊り始めました。

「さらに大勢の人が加わるにつれ、それはもはやリスキーなものではなくなるのです。目立つわけでもないし、笑い者にされる心配もありません」とスピーカーは続けました。

他の人も大勢やっているので、群衆は安心して踊れるのです。つまり彼らは多数派なのです。

しかし、これは最初のあの勇敢な男なしには生じえませんでした。誰かが立ち上がり、始める必要があるのです。そうしてその人が始めることにより、他の人はそれに続きやすくなるのです。


最初の人となって


なぜ女性たちが祈りのベールを始めたか(あるいはやめたか)という証しを聞きながら気づいたことがあります。それは、多くの場合、彼女たちの通う教会で他の人がどのようにしているかということに関連しているのです。

デスィリー・ハウサム姉妹は、「友人が、帽子をかぶって礼拝に参加はじめたことがきっかけとなった」と証ししています。

このような友人の姿を見たデスィリー姉妹とご主人は、かぶり物について再び聖書を学び始め、やがて確信が与えられると、彼女は祈りのベールを実践し始めたのです。

同じように、ダニカ・チャーチル姉妹は、「ある家族がうちの教会に通いはじめたのですが、彼女たちはベールをかぶって教会にやって来ました。ちなみに当時、うちの教会でベールをしている人は誰もいませんでした」と証しの中に書いています。

その家族は独りで立たなければならなかったのですが、結局それがダニカ姉とご主人に感銘を与え、この御夫妻は自分たちで御言葉を探究し始めたのです。

現在、その教会では、チャーチル夫妻だけでなく、牧師夫妻を含めた多くの兄弟姉妹にも確信が与えられ、姉妹たちが祈りのベールをつけています。

「祈りのベールは今日も適用されるべき聖書の掟だ」と確信するにいたった女性たちは教会の中にたくさんいます。しかし、彼女たちは独りで立つことをおそれています。

このサイトに寄稿してくださったある女性は、自身のかかえているジレンマを次のように表現しています。

かぶり物をつけて祈っている姉妹を地元で見つけるのは至難の業です。もし自分の住んでいる地域にそういう誰かがいたら、そして一緒に祈りのベールをつけ始めることができたら、私はもっと容易に実践できていただろうと思います。

ベールをつける必要があるのは分かっています。でも私はやらないと思います。それを実践すると考えただけでも神経が疲れます。そうすることが望まれているのは分かっています。

でも依然としてやりたくないと思っている自分がいるんです。――そうする必要があると知っているにもかかわらず。



人目が怖くて御言葉に従えない――とはいっても、それでこの掟に従わないことが正当化されるわけではありません。でも、私は彼女たちに同情したいと思います。

彼女が独りで立つ必要がなかったのなら、どんなにかよかったでしょう。

しかし、ある人が信仰によるその行ないによって模範を示すことにより、他の人が勇気付けられ、後に続くことができるのです。


アリス姉のようになろう


もしあなたの教会にベールをしている人が誰もいないのでしたら、どうかアリス姉のようになってください。

彼女は「かぶり物に関する確信を何年も前に与えられていたにもかかわらず、プライドと見栄のため(目立ちたくない、人目が気になる、、)良心の声を打ち消していました」とこのサイトの寄稿文の中で言っています。

アリスさんは独りで立ちたくなかったのです。

しかし彼女曰く、悲しいことに「その後4年に渡って、私は霊的に葛藤しつづけました。というのも、自分の心に真っ正面から向き合った時、このベールの問題を再び見出しつつも、ああ、これについてはこれ以上考えたくないと考える自分がいたからです。」

なにかをすべきと分かっていながらそれをしないのは罪です(ヤコブ4:17)。アリス姉が証言しているように、悔い改められないままの罪は、私たちの霊的成長を大きく阻みます。

彼女はこう続けてこう言っています。

今まで公の礼拝でベールをつけたことはありませんが、今週の日曜日から始めようと思っています。そのことで人に注目されるんじゃないかと思うと怖さに心がふるえますが、神様に対する従順というのが、他の何にまさって大切だということを今理解しています。ですから、私はこのステップを踏む決心をしました。



独りで立つ人は、リーダーであるだけでなく、しもべでもあります。

彼女たちは、こういった大変なことを仲間の姉妹たちのためにやることによって、同胞姉妹たちに仕えているのです。

彼女たちはあざけりに耐え、「私自身は〈変な人〉と思われてもいい。もしそれによって、仲間の姉妹たちが白眼視されずにすむなら」と覚悟を決めているのです。

そうして彼女は従順を通し、他の女性たちが後に続きやすいようにしてあげているのです。

それだけでなく、デスィリー姉とダニカ姉が証ししているように、そういった姉妹の従順の行為により、他の人々もかぶり物の真実について自ら聖書を探究するよう導かれているのです。

それで私はあなたにお尋ねします。あなたは独りで立ちますか?

教会の中で最初にベールをつける女性になることによって、同胞の姉妹たちに仕えたい、そう思いますか。

もしそういう思いがあるなら、あなたは例のダンサーのようになるでしょう。

そうしてやがてあなたを見倣い、人々があなたの周りに群がってくることでしょう。


(出典:http://www.headcoveringmovement.com/articles/will-you-stand-alone-a-call-to-be-the-first-to-cover)






無題

名前:アリソン・チャップマン
年齢:44歳
所在地:英国、オックスフォード
祈りのベールを始めた時期:2010年


1)読者のみなさんに少し自己紹介してください。


アリソンと申します。私は宣教師としてセイシェル(*インド洋西部にある島群からなる共和国)で福音宣教の働きについていた両親と共に、70年代をインド洋西部の島で過ごしました。

seyc-LMAP-md20160216.png
赤色で囲んだ所がセイシェル共和国

幼い時から主のことは知っていましたが、心からの信仰というよりは頭での知識といった感じでした。

私が主の愛に本当に出会ったのは、20代後半、バイブル・カレッジで訓練を受けていた時でした。そのカレッジにおいて、主は抜本的に私を変えてくださり、「より深く主と神の真理を知りたい」、そして「この御方のことを他の方々にも紹介したい」という願いを自分の内に起こしてくださったのです。

日々の生活の中でイエスさまにお従いしていくということ、全身全霊で主を愛すること、そしてこの良き知らせを分かち合うこと、、そういった事が私の心にあります。

主は私の心にイスラエルに対する思いを置いてくださり、私はかの地でさまざまな働きに関わる機会をいただいています。

私は41の時に、結婚しました。(結婚を長く待ち望んでいた)その間の歩みは時に険しく、痛みを伴うものでしたが、神様は敬虔でまっすぐな男性を私のために備えていてくださったのです。私は主人から多くのことを学んでおり、彼の妻であることに喜びを感じ、感謝しています。


2)どこの教会に通っていらっしゃいますか。お話ください。


私たちはオックスフォードにある小さなペンテコステ派の教会に通っています。主人と結婚したのもそこの教会ででした。

それ以前には同じくオックスフォードにある大きな教会で奉仕しており、そこから海外宣教への働きに遣わされました。その後、英国に戻り、結婚しました。

主は私たち夫婦をこの小さな教会に導かれたのですが、そこの牧師夫妻は主を愛し、まごころから仕えておられます。


3)どのような経緯で祈りのベールを始めるよう導かれたのですか。


70年代後半に、家族と共にセイシェルから帰国した後、私たちはブラザレン教会に通いました。そこの教会の姉妹たちの多くは礼拝時に、帽子をかぶっていました。

そんな彼女たちを見て、私は「律法主義的だなあ」と思い、教会の中における被り物というイシューに関し、心の中で軽蔑するような態度をとるようになりました。


対等主義


20代後半、バイブル・カレッジに通いましたが、教会の中での女性の役割に関し、私たちは対等主義的な(Egalitarianism、福音主義フェミニズム)見解しか教わりませんでした。

私は対等主義を支持する論文を書き、その中で(批判の意味を込めて)被り物のことにも触れました。その中で私は「被り物というのは文化的なものであり、今日には適用されないものである」と論じました。

それまで一度も「ベール擁護派」の見解を聞いたことがなく、また私の心はこの聖句に対する他の見解に対し閉ざされていました。


フェミニズム


30歳になるまで、私はこの世およびフェミニズムの影響下にありました。実にこの思想によって、私はわれ知らず、影響を受けていたのです。

30代になると、私と主との関係は深まっていき、より深く主を知り、お仕えしたいと願うようになりました。その後、しばらくの間、私はイスラエルで働いたのですが、そこで、ベールのクリスチャン女性たちを目撃したのです。彼女たちは教会の中でも、また社会の中でも、ベールを被っていました。


2d9ad3a294fb1646b7e31d3c16f65f4220160216.jpg
イスラエルで購入しやすいベールの型はこんな感じだと思います。


へりくだることを学んで


イギリスに戻った後、私はある男性(後に主人となる人)に出会い、その人が私に祈りのベールのことを少し話してくれました。折しも主はこの時期、私にへりくだることを教えてくださっていました。

そしてそれまで自分が正しいと思い込んでいたいくつかの聖書箇所が実は間違った解釈だったのではないか、という気づきを与えてくださっていたのです。

ですからこの兄弟に祈りのベールの事を指摘された時、「もしかしたら、この箇所においても、従来の私の聖書解釈は間違っていたかもしれない」と心を開いて聞くことができました。

そしてもう一度、この箇所を調べてみようと思いました。また、デリック・プリンス、ウォッチマン・ニー、W・ヘンダーソンなどの論文にも目を通しました。

そして私は気づいたのです。――それまでの自分の思い込みとは裏腹に、ここの聖書箇所は実は「難解」ではなかったということを。

目から鱗の思いがしました。なぜ被り物をしなければならないのか、その理由が目の前の聖句に、ちゃんと書かれているではありませんか!

それに「御使いのためにです」というのは文化的なものではないのです。つまり、祈りのベールというのは今日のクリスチャン女性にも適用されるべき神の掟だったのです!


4)ベール姿で礼拝に初めて集った時、どんな心境でしたか。


最初にベールを被ったのは、友人と共に祈っている時でした。そしてその時の祈りは力強いものでした。

なぜなら、その場で主は、自分たちがこれまでの人生の中で、いかにフェミニズムに縛られていたのかという啓示を与えてくださったからです。その結果、私も友人も共に悔い改めに導かれました。現在、私は教会内外で、祈りや預言をする時、ベールを被っています。

確かに一人で祈りのベールを実践するのは大変なことですが、少しずつ、その大変さに慣れてきています!

でもやっぱり、他の人がどう思っているのか心配してしまう自分がいますし、それに、ベールを始める前の自分を知っている旧友たちの前でベールを被る時など、かなりしんどさを覚えます。

でもこの点における御言葉の真理について私の中には内的確信が与えられており、神の御言葉に従いたい、主をお喜ばせしたいという願いから、私はそれを実践しています。

それでも、やっぱり時としてかなり困難を感じる時があります。

でもそんな時は十字架に架かってくださったイエス様の犠牲を思います。そうすると、ベールのことなど、主の払ってくださった犠牲に比べればほんの些細なことだと思えます。

また励まされることに、しばらくしてから、うちの教会の牧師夫人もまたベールを始められたのです。しかもその大胆さにおいて彼女は私に勝っており、その意味でも以前に比べ、実践しやすくなったのです。

この証しを読んでくださり、ありがとうございました。






主よ、私に勇気を与えてください!


こうしてフルタイムでのベール使用に対する主の導きが、自分の内でますます確かなものとなっていきました。

しかしこれは21世紀においては、余りにも常軌を逸した行為であり、また仲間も皆無であったため、私は、第二回目の敢行にあたり、何人かの信頼できる信仰者に執り成しの祈りをお願いしました。

特に、ペンシルベニア州に住む保守メノナイトの老姉妹は、この期間、私を祈りで支え続けてくださいました。

2014年の秋、ギリシャの中部で三泊四日の修養会が行われました。ドイツからも何人か牧会者の方々がいらっしゃる大きな集まりでした。

私は祈りました。「主よ、私はこの修養会の初日から、フルタイムでのベールを始めようと思います。それに関して牧師や長老の方々がどう思うか、他の姉妹たちがどう思うか、考え出せばきりがありません。

しかし私の内にはもはや『実践しない』という選択肢はなくなりました。ただあなただけを見つめ、人の視線におびえることがないよう、弱い私を助けてください。アーメン。」


キリストの力


すると祈りがきかれ、主は私に超自然的な勇気と大胆さを与えてくださいました。

また、この事を敢行できたことで、久しく自分の内にくすぶっていたあの「不調和音」がついに消え、私は精神の自由を得ることができました。


一人ぼっちではなかった


また、さらに驚くことが起こりました。

この一連の出来事をそのまま素朴な英語でつづり、「祈りのベールの証し」として公にしたところ、世界五大陸から1900件近くのアクセスがあり、非常に多くの反響が寄せられたのです。

自分は一人ぼっちだとばかり思っていたのに、実はそうではなかったのです!

ありとあらゆる国、民族、教派の中に、「仲間」が大勢いて、彼女たちも私とほぼ同じような霊的経路をたどり、フルタイムへと導かれたと証してくださいました。

それを聞いてどんなに励まされたことでしょう。どんなにうれしかったことでしょう。

また欧米のクリスチャンの方々からは、次のような反響が寄せられました。

それは「キリスト教文化圏ではない東洋で生まれ育ったあなたのベールの証しは、1コリント11章の祈りのベールが、(新約が書かれた)当時も今も、普遍的(universal)で超文化的(trans-cultural)な神の掟であることを、この世に、そしてキリスト教会に証するものである」と。

本当に神の御言葉は、すべて真理であり、永遠のものです。

たとえ、この世がどのような哲学、思想を受け入れようとも、また御言葉に従うことが私たちをcounter-culturalで、外れた人間にしようとも、神の言葉(ロゴス)は立ち続けること――そのことを、私は、この記事を読んでくださったみなさんと共に証し、私たちの主イエス・キリストをほめたたえたいと思います。

この証しを読んでくださってありがとうございました。








同じ志向をもつ仲間を探して


挫折後、私は「これは到底、一人では乗り越えることのできない問題なのではないか」と考え始めました。

「皆で渡ればこわくない」との如く、教会的にこれが実践され、教えられているコミュニティーとつながることで、勇気を得、私もフルタイムのベール女性として21世紀のこの世に生きていくことができるのではないかと思ったのです。

そこでそのような信仰コミュニティー(聖書主義のプロテスタント)が自分の住む地域にないのかと調べ始めました。

しかし残念なことに一番の「近場」でも、それはアイルランド共和国の南部にある保守メノナイト・コミュニティーでした。

そこの牧師夫妻に連絡を取り、とても親切なお返事をいただきましたが、いかんせん、この地理的遠さはどうすることもできないものでした。


一人では立てない


そして結局、私はまた最初の地点に戻されました。それは、

) 現状況において私は一人であること。

) したがって、フルタイムを実践するなら、今この状況下において一人で敢行するより他に道はない。

という二点でした。そして私は熟考した後、「今の段階で最も賢明な道は、『フルタイム』への思いをあきらめること」だと(無念さのうちに)結論をくだしました。


主の導き


しかしああ、何としたことでしょう。頭ではこの問題に終止符を打ちつけたはずなのに、私の心はそれとは逆のことを訴えてやまないのです。

私の内側の霊が、外側との調和を求めてうめいているかのようでした。

そうです、この時期、私は内と外との間の不調和音を確かに感じ始めていたのです。

内側の「慎み深い霊」と外側の「慎み深い服装」(ココ)「言葉づかい」(ココ)、内側の「素顔」と外側の「素顔(ノーメイク)」(ココ)等、それまでの霊的歩みの中でも、御霊はその時々において、私にこの「不調和音」の存在を知らせ、そこにハーモニーと一致をもたせるよう、弱い私を助けてくださいました。


絶えず祈りたい


また、「祈りの生活を求めて」(ココ)の中にも書きましたが、私は「絶えず祈りなさい」(1テサロニケ5:17)のみことばを文字通り実践しようとしてどこまでも探求の旅をつづけてやまないロシアの純朴な農民の伝記を読み、心底感動しました。

そして歴代のクリスチャンの中には、本当にこの御言葉を実践していた人々が存在していたことを知りました。

そして私もこの農民と同じように、それを求めてどこまでもどこまでも巡礼の旅を続けたいと願うようになりました。


礼拝の〈場所〉


またこの時期、主は私にご自身が遍在(Omnipresence)の神であることを啓示してくださいました。


神の御足はあまりに広大であり、
この地上すべても、主の御指にある小畑にすぎず、

世界中の森も、
主の御髪の一本と同じ根より来ているのだと聞きます。

それならば、神の聖所でないところは、
一体どこにあるのでしょう。

私が跪き、祈ることのできない場所はあるのでしょうか?
――主のご臨在によって聖められた「神殿」を前にして。


シエナのカテリーナ(1347 –1380),
The sanctuary, 私訳



そして驚くべきことに、そのような遍在性を持つお方が、人間という小さな小さな存在の内側に「内住の御霊」(ヨハネ14:17、1コリ3:16)として宿ってくださるというのです。

イエスは彼に答えられた。「だれでもわたしを愛する人は、わたしのことばを守ります。そうすれば、わたしの父はその人を愛し、わたしたちはその人のところに来て、その人とともに住みます。μονὴν παρ’ αὐτῷ ποιησόμεθα.)」

ヨハネ14:23



「その人とともに住みます」を原語で読むと、「わたしたちは、(その人の所に)住まいをこしらえます」と、「住まい」(μονὴν)という名詞形が使われていました。

(*ちなみに、このμονὴは、現代ギリシャ語では「修道院」を意味する文語として用いられています。)

神聖なる方の「住まい」とされ、「神殿」となった人間の霊。――これは本当に驚くべきことではないでしょうか。

主の名のために宮を建てたソロモンもこう告白しています。

私も、私の神、主の名のために宮を建てて、これを主にささげ、主の前にかおりの高い香をたき、パンを常に並べ供え、また、朝ごと夕ごとに、また安息日ごと新月の祭りごとに、私たちの神、主の例祭ごとに、全焼のいけにえをささげようとしています。

Ⅱ歴代誌2:4a



それでは聖霊の内住によって、「主の宮」とされた私たちの内側で、パンが「常に」並べ供えられ、「朝ごと夕ごとに」、全焼のいけにえ捧げられ、礼拝と賛美が捧げられること――それは、新約を生きる私たち信仰者に大いに望まれていることではないかと思いました。

そしてそれを純粋に望む延長線上に、「フルタイムでの祈りのベール」があるのなら、それは主の前に許されるのではないかと思いました。



(その4)につづきます。





はしがき

アテネ大学で「ローマ文学史」の講義を取った時に驚いたのが、キリストの誕生する前後の時期に書かれた、わいせつで不品行な文学作品の多さでした。

「ということは、使徒時代、そして初代教会のクリスチャンたちも当時、貞節な文化の中で生きていたのでは決してなく、現代と同じように、乱れ頽廃した世俗文化の流れで彼らは抗し、復活されたキリストの証人として懸命に生きていたんだなあ」とつくづく思わされました。

リチャード・H・ニーバーが1951年に出版したChrist & Culture(『キリストと文化』)という古典があります。

ニーバー氏はこの著の中で、歴代のクリスチャンの、世俗文化に対する態度や考えを次の五つの類型に分類しました。

(1) 「対決型」(Christ against culture): 「キリスト者にたいするキリストの独占的権威を非妥協的に承認し、また文化が自己への忠誠を要求するときこれを断固拒否する」立場。罪に汚れた文化への否定的見方。

(2) 「文化のキリスト」(Christ of culture): キリストと文化との間の根本的一致の承認。イエス自身が文化の一部であり、文化の中にキリストを見出そうとする立場。キリストを「文化に属するメシヤ」として解釈する。

(3) 「文化の上にあるキリスト」(Christ above culture): キリストは、文化のキリストであると共に、文化の上にあるとして総合的に捉える立場。「あれか、これか」ではなく、「あれもこれも」/包括的。

(4) 「矛盾におけるキリストと文化」(Christ and Culture in Paradox)と表現している。世界を神の国とこの世の王国としたルターの視点などがこの立場にあたる。これらの二つの世界は対立的に位置づけられ、両者の間に混同があってはならず、その緊張関係の中に自らを見出そうとする立場。

(5) キリストは「文化の改造者」(Christ the transformer of culture): キリストによって文化は変革されるという立場で、二元論的に対立するのでもなく、むしろ文化の中にありそれ自体を内側から変革するあり方を目指す。

引用元 ココ 



フェミニズムが一般社会やメディア、教育、法曹、そして教会内に深く浸透している21世紀の文化の中にあって、私たち姉妹が御言葉への従順からあえて「祈りのベール」を実践する時、その時、私たちは望むと望まざるに拘わらず、二ーバーの類型でいうところの「対決型」(Christ against culture)にわが身を置くことになると思います。


☆☆

フルタイムへの願望芽生える


前にも書きましたように、2年前の春ごろ、私の心に「公の礼拝の時だけでなく、いつもベールをしていたい」という強い願いが起こされました。

ヴァージニア州のバプテスト教会に通うデボラ姉妹が、証しの中で、「ベールを着用している女性をどこかで見かける時など、私は自分のうちに内なるうめきを感じました」(ココ)と書いておられましたが、私の内にもそれと同じことが起こり始めていたのです。

難民の女性のシェルターのことなどで、「神の愛の宣教会」のシスターたちと個人的に交わる機会などがありましたが、その時にも私の内側には声にならない「うめき」がありました。

また、家の中でも、最初はデボーションの時だけかぶっていましたが、だんだんとその時間が長くなっていき、気がつくと、家に一人でいる時などはほとんどいつもベールをするようになっていました。

でも来客などがあると、もちろん、すぐさまベールを外し、「変に思われるといけない」と、人には見られないようにしていました。


第一回目の試み


そしてある時期、ついに私はこういう自分に一貫性を持たせようと意を決し、ベール姿のままで外に出ることにしました。

家を出、おそるおそる近所のスーパーに入ってみました。そしてそれから公共バスに乗りました。その間ずっと、私は緊張し続け、ひたすら人々の視線を気にしていました。

でもなんとかその日、私はベールのままで外にい続けることができ、家に帰りついた時には、「もしかしたら、このまま続けられるかもしれない」と淡い希望を抱きました。


ベール姿で日本大使館に行く


しかし翌日、用ができて、私は日本大使館に行かなければならなくなったのです。非常に緊張しつつも、私はベールを被ったまま、大使館の中に入って行きました。

しかし窓口に立った時、ガラスの向こうから、丁寧ではあっても、明らかに私の「異様な」姿をけげんな面持ちでながめている視線に出会い、私は恥ずかしさの余り、気が遠くなりそうでした。

〈うん。やっぱりそうだよね。今は21世紀で、そしてここは日本のお役所。これが『現実』なの。ああ、私はなんて時代錯誤なことをしているんだろう。しかもこんな公の場所で!〉

そして真っ赤になって大使館から出ると、バス停の所で、すぐさまベールを脱ぎ去ってしまいました。

こうして私の第一回目のベール敢行は、わずか一日半で挫折に終わってしまいました。

うちひしがれながら、私は「世俗文化の力の強さ」に圧倒されていました。Counter-cultural(文化に抗する)であることは、これほどまでに難しいものなのかと愕然としました。



(その3)につづきます。





2016年9月11日 追記 (上記の証を書いてから約7カ月後)


第一回目のベール敢行のくだりで、私は自分がベール姿で日本大使館に行ったことを書きました。さて、二日前に私はある単純にして、しごく妥当な一つの事実に気づいたのです。それは「大使館に行く時には、帽子をかぶって行ってもよかったんじゃない。帽子だって、立派なcoveringなんだから!!」ということでした。

「ああ、なぜ、そんな簡単なことに気づけなかったんだろう?私はなんて馬鹿なんだろう。」と自分の愚かさに頭を抱え込み、恥ずかしさの余り、この祈りのベールの証を今すぐにでも削除したいと思いました。

でも考えた末、削除はしないことにしました。なぜなら、私は――こういった愚かさをも含め――自分の過去の現状や失敗や実情に対して神様の前にも、みなさんの前にも正直でありたいからです。

あの当時は、2016年9月現在のように、ベールの仲間たちがいたわけでもなく、HCMのような検証サイトがあったわけでもなく、私は事実上、一人でこの問題にタックルしていました。そのため、いろいろな方の証を聞いたり見たりする機会もなく、私が知っている唯一のベールの姉妹は、米国に住む保守メノナイトの老姉妹でした。

ですから、帽子もcoveringになり得るという発想自体、当時の私の中になかったのです。狭く薄暗い中を、これまた狭く薄暗い視野でなんとか進もうとしていた、というのが当時の私の実情であり、現実でした。これが追記です。読んでくださってありがとうございました。









hqdefault20160213.jpg
東欧のクリスチャン女性

2016年6月11日 追記

この記事の中で私は、自分がどのような経緯でフルタイムでのベールの使用に導かれたのかを証しています。しかし、その前にみなさんに申しあげておきたいことがあります。それは、1コリント11章で言及されている「祈りのベール」は、礼拝や集会の場において、その着用が求められているのであって、フルタイムでの使用というのはあくまで個々の女性信者の自由(Christian Liberty)の領域に属するものであるということです。それが1コリント11章に関する私の理解であり、Head Covering Movementの公式見解でもあります。




人生には予期せぬことがしばし起こります。

10年前に、もし誰かが私の所に来て、「あなたはやがて主の導きを受け、中世ヨーロッパのクリスチャン女性のようにフルタイムでベールを被るようになります。」と告げていたなら、本当にびっくり仰天、驚きの余り、私は椅子から転げ落ちていたかもしれません。

祈りのベールについての私の証し(ココ)をお読みになった方はお分かりだと思いますが、私は数年前に、新約聖書を読んでいて、1コリント11章の「女性の被り物」の箇所ではたと立ち止まり、そこから真剣に検証をするよう導かれ、その結果、公の礼拝の時にベールを被るようになりました。

しかし今から二年前の春頃、自分の身に不思議なことが起こりました。

それは何かと申しますと、自分の心の奥底から、「ああ、公の礼拝の時だけでなく、常にベールをしていたい」という静かな、でも強烈な内的願望が湧き起ってきたのです。

しかし、検証の結果、私の得た聖書理解では、「女性のベール使用は、公の礼拝時にするもの」でした。(そしてその理解は現在も変わっていません。)

それに、そもそも、フルタイムでベールを被るなどと発想すること自体、どだいインポッシィブルな話でした。

まず第一に私は普通の日本人ですし、カトリックの修道女でもありません。米国やカナダの保守メノナイトの姉妹たちはフルタイムでベールをしていますが、そのような信仰コミュニティーは私の住んでいる地域にはありませんでした。

また当時は、headcoveringmovement.comのようなベールの姉妹たちのコミュニティーも存在しておらず、従って、そのような無謀な願いを抱いているのは自分だけだと思っていました。(でも後になって、そのように導かれたのは私だけではなかったことを知りました。)

☆☆

私が今日、この祈りのベールの証し(パート2)を日本語で書こうと思ったのには理由があります。

現在、日本の福音派・聖霊派教会においても、御言葉への従順から祈りのベールを始める姉妹が起こされてきています。

今、ベールの姉妹たちの間で世界規模で起こっている事から客観的に見て取れるのは、その中の何割かの女性は、次第にフルタイムで被り物をするように導かれるという事実です。それがなぜなのかはよく分かりません。

最近も、50代のスウェーデンの姉妹、それから60代のフランスの姉妹からそれぞれ個人メールがあり、いずれも「フルタイムでベールを被りたいけれど、今まだそれをする勇気がない。」という内容でした。

そしてこの現象が超文化的なレベル(つまり、国籍・文化・民族・宗派に関わらず)で起こっていることから鑑みて、おそらく日本人の姉妹の中でも、そのような内的願いを持ち始める方が今後起こされる可能性があると思います。

しかし21世紀のこの風潮の中で、フルタイムでのベールに踏み切るというのは、かなりのことです。

ある女性たちにとって、これは、まさしく決死の敢行を意味します。

そうです。彼女たちは(他のすべての文化にお別れした後)、「それでは、みなさん、お元気で。Adieu。」と言い残し、たった一人、中世ヨーロッパ時代に「バンジー・ジャンプ」するのです(笑)!

本当にこれは一大アドベンチャーです。

その意味で、これからお分かち合いする私の証しは、多くの方にとってそれほど有益なものではないかもしれません。

しかし、ごく一部の女性の方々にとって、このような仲間の「バンジー・ジャンプ実録」は、何かと励ましになるかもしれないと思いました。


(その2につづきます。)










head-covering-testimonies_2016012523274080c.jpg

名前:レイチェル・エーンスト
年齢:25歳
所在地:韓国ソウル市
祈りのベールを始めた時期:2015年1月28日


1)読者のみなさんに自己紹介してください。

picture of sister rachel ernst

レイチェル・エーンストと申します。私は最近結婚したばかりの妻で、軍人の夫と共に、現在、韓国に住んでいます。もともと南カロライナ州の出身なのですが、結婚前の二年間はワシントンDCで働いており、そこで現在の夫であるリチャードに出会いました。

大学では歴史と音楽を専攻し、現在は、通信で、改革派神学校の聖書学修士課程を履修しているところです。またパートでも編集の仕事をしています。

私はクリスチャンホームで育ちましたが、自分の信仰が成長し始めたのは、高校・大学時代です。大学の時には一年間休学して、南アジアで6カ月、ホームレスの女の子たちのために奉仕活動をしました。そしてこの体験が私の人生コースを大きく変えたのです。

私はムスリムの女性たちに対して特別な思いを持っています。そして彼女たちがキリストの愛によって解放され、強められることを祈っています。


2)どこの教会に通っていますか。そこの教会では、姉妹たちは祈りのベールをかぶっていますか。

私は現在、ソウルにあるカベナント教会という教会に通っています。これは改革派の、福音主義教会であり、「繁栄の神学」の氾濫するこの国にあって、光として輝いている教会です。

教会にはさまざまな人生経路をたどって来られた人々が集まっていますが、皆、福音により一つに結ばれています。私以外に祈りのベールをしている女性はいませんが、自分自身これまでベールが聖書の教えとして教えられている教会に行ったことが一度もないので、一人であることにそれほど苦痛を覚えていません。


3)どのような経緯で祈りのベールをするよう導かれたのですか。

主人と私が交際しはじめて数週間経ったある日、彼が不安げに、1コリント11章の被り物に関する彼の関心と確信について私に打ち明けてくれたのです。

彼は、「僕がこんなことを言ったら、彼女は怖がって、僕の元を離れていくかもしれない」とかなりビクビクしていたそうです。でも、(後で聞いたのですが)、その話に「引かず」、むしろ心を開いて彼の話に聞き入った私の姿をみて、彼は「この女性と結婚したい!」と願うようになったそうです。実は、主人も、被り物を実践している教会で育ったわけではなかったのです。

私がそれまでの人生の中でベールの女性たちを見かけたのは、次の二つの場所でした。一つは、大学の近くにあったメノナイト・コミュニティー。

それからもう一つは、南アジアにいた時に、です。そこでは大半のクリスチャン女性はベールをかぶっていましたが、その理由は、ムスリムの隣人たちに対する敬意や礼儀上のものだったようです。(この「ベール=イスラム教」という固定観念が、実のところ、私の被り物への理解を妨げていた最も大きな障害物でした。)

それからいろいろと熟考し、祈った末、これは私が「彼のために」やるようなものではないことをリチャードに話しました。当時、私たちはまだ交際していただけですし、それに私たちはワシントンDCという、アメリカの中でも最もリベラルな都市に住んでいたのです。

もしも本当に被り物を教会で始めるのなら、私は「どうしよう、どうしよう」と周囲の目を気にしながらではなく、しっかり確信を持ち、そして覚悟して始める必要がありました。それに他の女性たちは、ベールをしている私をみて、「彼女はただボーイフレンドに影響されているだけ」と受け取らないとも限りません。

だから、祈りのベールを実践するのなら、それは(ボーイフレンドのご機嫌を取るためでなく)純粋に、主の栄光のため、そして神のお造りになられた創造の秩序に敬意を示すためでなければならない、そう思いました。

その後、私はネットで多くの論文を読み、またこのテーマに関する説教を聞きました。でも最終的な決定打となったのは、私が霊的リーダーとあおいでいる数人の方々の助言でした。

私はこれまでの人生の中でお世話になった何組かの牧師夫妻にメールを出し、自分が1コリント11章の祈りのベールの教えのことで葛藤していることを打ち明けました。そしてなぜ今日キリスト教会がこの教えを遵守しなくなっているのか、それを正当化する論拠をぜひ挙げてくださいとお願いしました。

私はこういった方々を尊敬しており、きっと彼らは、「祈りのベールは今日にも適用される掟である」という主張をくつがえすに足りる、しっかりした論拠を挙げてくださるに違いないと期待していたのです!

しかし驚愕したことに、ある一人の方を除き、他の方は全員、「これはクリスチャンの選択の自由であり、もしあなたがそのように確信を持ったのなら、ぜひすべきです」と書いてこられたのです!(ちなみに、残りの一人の方は強烈なベール反対論者でしたが、その論拠となると、「ここの箇所はあくまで隠喩なのです」という非常にあいまいな主張しかすることができていませんでした。)

まさか、このような肯定的な回答がくるとは思ってもいませんでした。そしてその時、「よし、実践しよう!」と心に決めたのです。その週の水曜の小グループでの学び会の時、私は初めてベールをかぶりました。

その時以来、祈りのベールは、キリストとの個人的な歩みの中でも、また結婚生活の中でも、私にとって大きな祝福になっています。


4)ベールをかぶって初めて礼拝に参加した時、どんな気持ちでしたか。

前に申しあげましたように、私が初めてベールを始めたのが、水曜の学び会の時でした。その日、私は青色のバンダナをしていましたので、おそらく、私が「ベール」をしていると思った人は誰もいなかったかもしれません。

でもそれからすぐ、私は一目で「ベールだ」と分かるようなタイプの被り物をするようになりました。それでも特に、周りの人から変に扱われるようなことはありませんでした。


5)いつベールをかぶっていますか。

私は教会の公的集まりの時にベールをしています。私にとってそれはつまり、他の信者と集まって祈ったり、御言葉を学んだりする時はいつでも、ということです。実際的にいえば、それは主日礼拝、水曜の女性の集い、木曜の祈祷会などです。

家で主人とよく讃美歌を歌うのですが、その時にもベールをかぶっています。私の場合は、神礼拝をそのような形で聖別したいという思いがあるため、それ以外の普通のイベントの時などはベールは使用していません。


6)人目を恐れる余り、ベールを始めたくても始めることのできない女性たちに対して、何かアドバイスがありますか。

祈ってください。そして助言を求めてください。そして何よりも、キリストの内にご自分のアイデンティティーを見い出してください。私は、ベールの実践に行きつくまでの自分の経緯を主に感謝しています。なぜなら、実際に始めたとき、私はすでに心の準備ができており、恐怖を克服できていたからです。

私にのしかかっていた恐怖の多くは、自分の尊敬する牧師さんたちの聖書解釈のことでした。私は自分の決心によって、こういった方々の聖書解釈に「反旗を翻す」ようなことはしたくありませんでしたし、一致を壊したくなかったのです。

でも大半のクリスチャンは被り物のことに対し、どうやら反感は抱いていないようだという事に気づき、その部分においての恐怖は克服できるようになっていきました。

そうして最後に残ったのが、「人への恐れ」でした。でも、「人への恐れのせいで、創造の秩序に基づく主の掟に従えないというのはダメだ。それではいけない」という思いがあり、神の恵みによって、私はそこで立ち止まることをしませんでした。

でもみなさんに勧めます。疑いや恐れがあるのでしたら、それに向き合ってください。被り物は、その意味を熟考し、なぜそれを実践する必要があるのかという点をしっかり学んだ上で始めるなら、さらに大きな喜びと平安が与えられると思います。


7)祈りのベールに関し、最もすばらしい点、または最も困難な点は何でしょうか。

私の義理の兄が、その点について語ってくれたことがあります。――それは、私たちの夫に対するインパクトの大きさです。私たち女性は、一度被り物をかぶると、自分ではそれが見えませんので、そこまで意識しないかもしれません。

でも、夫となると話が違います。彼はそれを目の前に「見ている」ので、それはリーダーとしての自分の責任を具体的な形で常に思い起こさせる象徴となるわけです。

祈りのベールというシンボルは、聖書の中で命じられている夫のあるべき姿を主人に思い起こさせるだけでなく、――自分の妻が、全幅の信頼をもち、彼女をリードしケアすることを夫に委ねているという――目に見える印ともなり、それは彼を励ますものとなります。

現在どなたかと交際している姉妹の方、あるいはすでに婚約・結婚されている姉妹の方々は、被り物に関して、彼に率直に打ち明けるのがいいと思います。なぜなら、1コリント11章のベールの教えの箇所は、女性だけでなく男性にも指示を与えている箇所だからです。

ありがとうございました。




上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。