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Basilea Schlink, Der Friede kommt, 1981


バジレア・シュリンク著 「真実な平和を求めて」より一部抜粋





平和運動はますます広がりつつあります。

平和が宣言され、平和のシンボルである鳩のポスターが貼られ、平和スローガンが叫ばれている今日です。



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そして、何十万もの人が群れをなして平和のための行進に参加しています。

これは、新しい時代と新しい世界の前触れなのでしょうか?

わたしたち自身、どの側につくか決断しなければなりません。ですから、このことについて考えをめぐらせないわけにはいきません。

☆☆

、、平和の君なるイエス・キリストに従って行く道のみが、平和に至る道です。

この道を歩まない限り、何千もの人々が平和をアピールして行進したり、デモを行なったとしても、世界に平和は訪れません。

そこには、平和の理想を単純に信じやすい人々や、戦争の不安に駆り立てられた人々が多く混じっているかもしれません。

しかし、平和運動の中に、憎悪や争い、暴動へのそそのかし、無神論者として神に敵対し相手側との戦いを呼びかけ、更には破壊と暴力を肯定するような人々のグループが含まれている限り、この運動は決して世界に平和をもたらしめません。

むしろ、わたしたちの態度は次のようであるべきです。

平和を実現するためにイエス・キリストによって変えられ、家庭でも職場でも争わず和解の中に生き、平和を守ることです。そうすれば世界に平和が訪れます。

☆☆

、、今日の平和運動の姿は、たとえ多くのクリスチャンや牧師、さまざまな宗教の代表が参加したとしても、聖書的ではありません。

イエスは終わりの時代について、「民は民に、国は国に敵対して立ち上がる、、、」(マタイ24:7)と述べられました。

そして、ヨハネの黙示録には次のように書かれています。

「すると、火のように赤い別の馬が現われた。その馬に乗っている者には、地上から平和を奪い取って、殺し合いをさせる力が与えられた、、、」(黙6:4)。

また、いわゆる「ラッパの審判」(黙8、9章)において、聖書は恐るべき規模の戦争を預言しています。

わたしたちは自分の生き方を一新し、悔い改めや祈りによって、そのために備える必要があります。

そして、起こるであろう戦争に対して、神のこの裁きに憤慨し行進するのではなく、むしろ、恵みの時の延期と裁きの緩和を祈り求めるべきです。

わたしたちは、デモ行進によって神の裁きを阻止することができると自負しています。

しかし、神へのあらゆる冒涜とその他、天にまで届く罪に対する神の今に至るまでの憐れみと忍耐の末、神の義が審判を下されるでしょう。

それにもかかわらず人は、いわば神のご計画に介入し、デモなどにより平和を無理にでも得ようとするのです。

かえってそのようなデモ行進は、最終的に神に敵対するものとなります。

ですから、あらゆる政治的な平和運動は、単にユートピアだけではなく、惑わしなのです。



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2012年タイで開催された他宗教間フォーラム
「宗教的ハーモニーと紛争解決を通した世界平和を実現させるために」




イエス・キリストの定められた平和の前提条件に逆らう道は、戦争へと導くのです。

そして多くの人々が神の戒めの道を歩むときにのみ、平和が訪れるのです。

☆☆

大衆が蜂起し、自分たちの気に入らないものすべてに対してデモ行進をし、その際、暴力を振るったり、物を破壊したりするまさにこの時代において、イエスの周りにもご自分に従い行く人々が集まっています。

名実ともに、「平和の君」と称せられるイエスの集められる群れは、反乱者たちではなく、イエスを模範とし、その呼びかけに従い、神の印を押された人々から成っています。

憤慨する人々からの挑戦のもとに、イエスに従い行く人々の群れは、かつてないほど速く、そして大きく結晶しつつあります。イエスはこの群れを用いて、世界に平和をもたらされるでしょう。

罪と不法がかつてないほど勝ち誇る現代、この群れは憎悪、不正、侮辱、更に牢獄と収容所での迫害にあって、真のイエスの弟子として強められています。

この平和の君に属する人々の群れは成長しつつあり、イエスの再臨の日までに数においても、質においても完全なものとなるでしょう。

☆☆

罪は、人々の、あるいは国民の滅びであるということは変わらない事実です。

罪は憎悪を生み、それは戦争につながります。どんな平和行進もそれを防ぐことはできません。

あらゆる罪の悔い改めなくしては滅びのみであり、戦争が起こります。

周知のように、核戦争が起これば、今度こそ、かつてないほど大規模な破壊を招くでしょう。

☆☆

イエスは今、恐ろしい戦争への危機にあって、平和と反戦を叫ぶのではなく、御自分とその戒めに従い、平和のためになることをするよう、わたしたちに忠告しておられます。

もし、わたしたちがそうするならば、イエスほどに、平和を与えようとされる方はほかにおられません。

ですから、イエスを選び、御言葉に従って行動しましょう。

イエスは真理であり、わたしたちに真理を教えてくださいます。

イエスとは異なる精神に導かれているような平和運動に入るのではなく、平和の君なるイエス・キリストのもとに集まりましょう。

わたしたちがご自分の敵である人々と共に行進するのを、イエスが目にされるようなことがあってはなりません。

そんな行動によって、イエスを悲しませることがありませんように。

わたしたちは、真意を見極めずに同調することによって、彼らと共に次の世界大戦争への道を開きたくはありません。

☆☆

イエス・キリストは今日、その平和の御国が訪れるようにと、わたしたちをご自分のもとに招いておられます。

来たるべきキリスト再臨の日に、時は満ち、イエス・キリストは御国を建設されます。

その時、平和と愛、喜び、義と真実がこの世を支配します。

イエスの道を歩み、イエスに忠実な人々の群れに加わろうではありませんか。


ー抜粋おわりー


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戦争や平和に関することで、ある読者の方が私の立場や考えについて訊いてこられました。自分自身、今も模索中ですが、できる限り誠意を尽くして、現段階における私の理解をみなさんに共有できたらと思っております。

☆☆

このテーマに関し、2016年7月現在の時点で、私は、福音右派(「正義の戦争」擁護派)の立場にも立っておらず、リベラル左派(「(政治的)平和運動」)の立場にも立っていません。

なぜ私が福音右派「正義の戦争」擁護の立場に立っていないかの理由については次の記事およびコメント欄をご参照ください。


「敵を愛しなさい」というイエスの御言葉は「私的な自分」には適用されても「公的な自分」には適用されない?

クリスチャンの私が兵士として人を殺すことは「個人」の行為ではなく「国」の行為?




☆☆

なぜリベラル左派の方々の推し進めておられる「平和運動」に同意できないか?


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クリスチャン・トゥデイ紙:参院選で「戦争法に賛成する議員には投票しない」ことを呼び掛け 宗教者・信者全国集会(2)

「平和を実現するキリスト者ネット」の平良愛香牧師は、「宗教者は理想を信じることができます。宗教者が理想を信じないで、宗教者が夢を見ないで、誰がやるのでしょう? 私たちは信仰を持つ中で、絶対この世の中は良くなると信じて、祈り、語り、行動している」と持論を展開。ー記事抜粋ー




【同意できない理由】


1)「何をもって《平和》と考えるか」という点、それから、罪の本質、悪の本質について、私は、リベラル左派の方々と意見を異にしているからです。


ローマ5:9.10a

ですから、今すでにキリストの血によって義と認められた私たちが、彼によって神の怒りから救われるのは、なおさらのことです。もし敵であった私たちが、御子の死によって神と和解させられたのなら、、

ローマ5:1

信仰によって義と認められた私たちは、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています。



私は個々のリベラル左派の方々の真摯な取り組みに敬意を払っております。

しかしながら、聖書が偽りのない神の御言葉であることを本気で信じるなら、私たちは、「信仰によって義と認められていない」人々が、主の目に未だ「神との平和を持っておらず」(1節)、神の「敵」(10節)であり、「生まれながら御怒りを受けるべき子である」(エペソ2:3a)というまことに峻厳な聖書の現実と人間観を直視しなければならないのではないかと考えています。

また、聖書に啓示されている罪と悪の本質を考えたとき、私は「絶対この世の中は良くなると信じる」という上述の牧師さんの信条に同意することができません。(マタイ24章、Ⅱテモテ3章)

1ヨハネ5:19

私たちは神からの者であり、全世界は悪い者の支配下にあることを知っています



従って、私の理解では、聖書の「平和」は、リベラル左派の方々の多くが推進しておられる「他宗教間合同エキュメニカル平和運動」とは一致していないと考えています。

聖書のいう平和は、イエス・キリストを通してのみ実現されるものであり(エペソ2:14)、組織やデモを通しては実現されないと考えています。



2)ローマ13章の聖句が、キリスト者による反政府的諸活動(一国の統治者に対する誹謗中傷といった言動も含めて)を禁じていると理解しているからです。


パウロがこの手紙を書いた時、時の権力者は、あの極悪非道なローマ皇帝ネロでした。

シェンキェーヴィチの有名な歴史小説『クオ・ワディス』の中でも、残酷きわまりない方法でキリスト教徒を迫害しているこの狂人皇帝のあり様が生々しく描き出されています。

また一説によると、パウロ自身も、ネロの治世に、この「右翼独裁政権」の手によって殺され、殉教したといわれています。

驚くのは、そういう不条理きわまりない状況下にあったパウロが、時の権力者であり支配者のことを「神のしもべ a servant of God」(ローマ13:4)と呼び、「彼は無意味に剣を帯びてはいない」(4節)と言っていることです。

彼や当時のクリスチャンの置かれていた悲惨な状況を考えれば、彼が次のように呼びかけるのは私たちにとってむしろ「自然な」ことのように思われます。

「みなさん、現政権の暴政を許していてはなりません。

私たちは『平和をつくる者』(マタイ5:9)として召されているのです。

ですから今こそ、平和を実現するネットワークをつくり、この目的実現のために、キリスト教徒もユダヤ教徒もストア派もパリサイ派もユダヤ主義者も、『今こそ宗教者・信者として』一致団結し、ローマの街道を行進しようではありませんか?

これ以上の迫害行為を許していてはなりません。」



しかしパウロはそのような提言はせず、むしろ次のように言っています。

ローマ13:1、2

人はみな、上に立つ権威に従うべきです

神によらない権威はなく、存在している権威はすべて、神によって立てられたものです。

したがって、権威に逆らっている人は、神の定めにそむいているのです。そむいた人は自分の身にさばきを招きます」(1、2節)

*1ペテロ2:13-17も。



(宗教改革の流れでも、この章の解釈をめぐってさまざまな意見が生じ、「かくかくしかじかの条件の元では国民は、支配者や現政権に対し(武力行使も含めた)抵抗運動をすることが神の目に許されている」というresistance theory(抵抗理論)が次第に理論化され、正当化されていったという経緯があると思いますが(註1)、私自身は、このような聖書解釈および理論に疑問を感じています。)

また、私たちクリスチャンは一国の統治者や政権を批判したり中傷誹謗したりするのではなく、むしろ、彼らのために執り成し祈るよう聖書の中で勧告されていると思います。

1テモテ2:1

そこで、まず初めに、このことを勧めます。すべての人のために、また王とすべての高い地位にある人たちのために願い、祈り、とりなし、感謝がささげられるようにしなさい。




註1)

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J. H. Burns , The Cambridge History of Political Thought 1450–1700,
Chapter 7 - Calvinism and resistance theory, 1550–1580, pp. 193-218

(J.H.バーンズ共著 『ケンブリッジ政治思想史―1450年~1700年まで』
第7章 カルヴィニズムと抵抗理論(1550-1580年))


この章の要約 (翻訳抜粋)

宗教改革の第二世代は、ジョン・カルヴァンの弟子たちで占められていた。

たしかに、カルヴァンはチューリッヒのツヴィングリ、ストラスブルグのマーティン・ブシャー(Bucer)等によってすでに敷かれていた礎石の上に改革を推し進めていた、数ある有能な神学者の一人に「過ぎなかった」ともいえよう。

しかし、彼がこの宗教改革運動内で果たした功績は――支持者、反対者双方の間にあって――絶大なものであったため、この運動に追従する人たちを「カルヴィニスト」と総称して差し支えないだろうと思う。

プロテスタンティズムのこの新型は、今日の南ドイツやスイスに散在していた多数の自由都市の間にひろがっていった。

そしてこの運動は同時に、非常に軍事主義的にもなっていく傾向にあり、その目的を達成するためには、政治的・軍事的力を行使することもいとわなかった。

そして、こういった軍事的態度は、カルヴィニストたちをして、政治的抵抗を正当化する諸理論を発展せしめたのである。


ー抜粋おわりー


*この抵抗理論をさらに体系化していったカルヴァンの後継者テオドラ・ベザーの聖書解釈や思想についてお調べになりたい方へ。

Theodore Beza on Rights, Resistance, and Revolution


February 20151222

しかし、わたしはあなたがたに言います。
自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。マタイ5:44



上の絵で左側に立っているのがディルク・ウィレムスという16世紀のオランダ人クリスチャンです。

1569年、ディルクは幼児洗礼を否定し、信仰によるバプテスマを受けたかどで故郷の町アスペレンで捕えられ、投獄されました。

死刑が確実に迫っていたある日、ディルクは脱獄を試みました。布切れでロープを作り、壁づたいに降りていったのです。地面に降り立つや否や、彼は一目散に駆け出しました。

後ろを振り向くと、看吏たちが追いかけてくる姿が目に入りました。

池の方にまわると、そこは一面霜に覆われ、水面には薄い氷が張っていました。

ディルクは渾身の力を振り絞りダッシュでその池を飛び越えました。「ああ、これで逃げ果(おお)せるかもしれない。」ディルクは池の向こう岸を走りながら少しく安堵の息をつき、後ろを振り返りました。

すると、目に飛び込んできたのは、池を渡り損ない、おぼれもがいている追っ手の姿でした。

「このまま走り続ければ、きっと僕は逃げ切ることができるだろう。」

しかし、その時、彼の脳裏に浮かんできたのは、マタイ5:44の御言葉でした。「自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。」

一瞬の迷いの後、ディルクはこの御言葉に従い、きびすを返し、自分の敵の元に駆け戻り、追っ手の看吏を氷水の中から救い上げたのです。

しかし、ディルクのそういった愛の行為は顧みられず、岸の向こう側にいた執政官は無情にもディルクの捕縛を看吏に命じました。

こうして再び監獄へ引き戻されたディルク・ウィレムスは1569年5月16日、焚刑に処せられました。

その日はとりわけ風が強く、火がすぐに回らなかったため、彼の死はひどく痛々しいものだったと記録には書かれています。

☆☆

このような勇ましい信仰の証を立ててくれた私たちの先人に感謝します。

このような信仰者の証の中に私たちは「ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、おどすことをせず、正しく裁かれる方にお任せになった」(1ペテロ2:23)主イエス・キリストの霊をみることができるのではないでしょうか。

そしてこういった主の民の歴史こそ、目に見えない真のキリスト教の歴史ではないでしょうか。






以下は、広島と長崎に原爆が落とされた当時、ローマ・カトリックの従軍司祭として軍に配属していたジョージ・ザベルカ司祭の告白です。

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ジョージ・ザベルカ司祭

ザベルカ:キリスト復活後、最初の300年の間、教会は絶対平和主義を保っていました。しかしコンスタンティヌス帝と共に、教会はローマの異教的「正義の戦争」という倫理観を取り入れるようになり、次第に大量虐殺に関わるようになっていきました。――初めは国家(帝国)のために、そして後にはキリスト信仰のために。

カトリック、正教会、プロテスタント――それぞれ神学的には込み入った相違点を持していながらも――「暴力の否定と、敵に対する愛という、イエスの明確ではっきりした教えについては、これを本気で受け取る必要はない」という一点において、三者はみな一致していました

こうして三大キリスト教宗派は、それぞれ異なる神学的メソッドを用いつつも皆一様に、こういった事柄における主の教えを修正していきました。そしてついには、「目には目を」式の報復、殺戮、拷問といった――イエスが拒絶しておられたことがまさに正当化されていったのです。


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爆撃に向かう兵士たちを「祝祷」する牧師 source


私にとって、1945年8月9日という日は、1700年余りに渡って続いてきたキリスト者による恐怖と殺戮の生み出した「必然の帰結」をあらわす一種の「徴(しるし)」とも言えました。

――そうです、その日、カトリック教徒が、日本にある最大にして最初のカトリック都市である長崎に原爆を落としたのです。

おそらくみなさんはこう思われるかもしれません。「あなたはカトリックの司祭だったんじゃありませんか。長崎にいるカトリックの修道女たちを原爆で殺すことについてくらいは、少なくとも抗議の声を上げようと思わなかったんですか?」と。(その日、三つの女子修道会のシスターたちが命を失いました。)

またあなたは私にこう問うかもしれません。「カトリックの持つ最低レベルの倫理観をもってしても、あなたは『カトリック教徒は、同胞カトリック教徒の子どもたちを爆撃で殺すべきではない』という提案をするべきではなかったのでしょうか。」

いいえ、告白しますが、私はいずれの事もしませんでした。

☆☆

私は――原爆を落としたカトリックのパイロットと同様――1700年来続いたキリスト教の「落とし子」だったんです。復讐、殺人、拷問、権力と大権と暴力への渇望に明け暮れ、それら全てをキリストの御名によってなしてきたキリスト教の落とし子だったと。

私は終戦直後、長崎の焼け跡を訪れました。そして浦上聖堂が建っていた場所に行きました。そして瓦礫の中から吊り香炉の破片を取り上げました。


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爆撃後の長崎


今日、その破片を見る私の心から次のような祈りが出てきます。

「神よ、どうかお赦しください。私たちはこれまでキリストの教えをいかにゆがめてきたことでしょう。そしてその結果としていかにあなたの造りになった世界を破壊してきたことでしょう。」

このグロテスクな過程――コンスタンティヌス帝より始まり、(この時点において)今や最低レベルまで達した――この時期に、私はカトリック司祭としてあの場にいたのです。


Q:「この時点において」とはどういう意味ですか。


ザベルカ:つまり、私の見る限りにおいて、戦争に関する教会内外の倫理風潮は1945年以降も、たいした変化を見せていないということです。

主流のキリスト教会は、いまだに――「正義の戦争論 Just War Theory」という――キリストが一度も教えたことがなく、ほのめかしさえしたことのない理論を教えています。

私にとってこの正義の戦争論というのは、神学的にも、歴史的にも、心理学的にも全く誤った理論です。

ですから、キリスト教会内のこういった諸教派が悔い改めに導かれ、「敵を愛すること」に関し、言葉と行ないをもってイエスのおっしゃったことを宣言していかない限り、今後、暴力と破壊はますますエスカレートしていく一方でしょう。




"Fr. George Zabelka: A Military Chaplain Repents",
ココ,私訳






デイヴィッド・ベルソー著 『世界中をひっくり返した神の国』 
第9章より一部抜粋
 


*この記事は、前回の「『敵を愛しなさい』というイエスの御言葉は『私的な自分』には適用されても『公的な自分』には適用されない?(ココ)」の質問の続きです。

質問
でも、二足わらじを履くことはダメでしょうか。私が軍服を来て、アメリカ軍の一員である時、人を殺しているのは、という個人ではないのです。そう、それは私ではなく、「アメリカ合衆国政府」なのです。そしてアメリカ政府は、ローマ13章によれば、神から剣を委ねられています。



この議論が一見もっともらしく聞こえるのはどうしてかというと、ほとんどのクリスチャンが、神の国を、実在の政府として未だに認識できずにいるからである。

これを説明するために、例えば、1930年代のドイツに、あるアメリカ国民が住んでいたと仮定することにする。

さらに、ドイツ国軍が彼を徴兵したとしよう。(実際、政府には、非市民である外国人滞在者をも徴兵する権限があるのだ。)

このアメリカ人はドイツ軍に徴用されることに同意し、後に、第二次世界大戦での戦闘中、同胞のアメリカ人を殺したとする。さらに、最終的に、彼が米軍に捕えられ、戦争裁判にかけられたと仮定しよう。

この裁判において、彼が次のような抗弁をしたとする。

一介のアメリカ人として、私が自分の同胞市民と戦ったことは確かに悪いことです。しかし、私はあくまでドイツ軍に召集されたのであり、よって、他の米国人を殺したのは、もはや私という一米国市民ではないのです。それは、米国と合法的な交戦を交えたドイツ政府に他ならないのです。



米国民および米国政府は、こんな弁解を受け入れるだろうか。もちろん否である!それなのに、どうして私たちは、「イエス様に限っては、こういう弁解を受け入れてくださるだろう」と思っているのだろう。

実際、ここで説明した譬え話に似た状況が、最近(2003年当時)、現実に起こったのである。

数年前、米国はアフガニスタンのタリバーン政権に対し、戦争を始めた。戦争中、米国はタリバーン戦士として従軍していたジョン・ウォーカー・リンドという米国籍の男を逮捕した。さて、裁判の席で、リンド氏が次のような抗弁をしたとしよう。

一介の米国市民として、私、ジョン・ウォーカー・リンドは決して他の米国人に害を加えるようなことは致しません。確かに、私はタリバーン軍に加わりました。しかし、私が従軍した時には、タリバーンは、米国と戦争状態にはなかったのです。

その後私が取った行為に関して言いますと、それは私個人のものではなく――タリバーン政府の行為だったのです。個人的には、私は米国と戦ったわけじゃないんです。ただ、タリバーン政府の一員として戦ったにすぎないのです。それゆえ、私は無罪なのであります。



米国の陪審員は、この抗弁を受け入れるだろうか。いや、そんなことはないと思う。

無抵抗主義を受け入れないクリスチャンは、実際には、イエスがカイザルの膝元にひざまずくことを願っていることになるのである。

カイザルが人々に、イエスの掟を破るように要求した場合、イエスの方でどうか折れて出てくれるよう、人々は願っているのだ。しかし、カイザルは逆の事を進んでするだろうか。つまり、イエスの要求により、自分(カイザル)の法が犯されることになっても、それを私たちに許すだろうか。

この問いへの答えとして、例えば、このリンド氏がこのような抗弁をしたとしよう。

米国市民である私、ジョン・ウォーカー・リンドは、他の米国人に危害を加えるようなことは決していたしません。もちろん、そんな事は間違っています!アフガニスタンにいた時、米国に対して戦いを挑みましたが、私はそれを、純粋に、イスラム教徒であるジョン・ウォーカー・リンドとして行なったのであります。

私はアッラーに対して忠実なる者ですが、アッラーは、私に全ての異教徒(非イスラム教徒)を殺すよう命じておられるのです。ですから、イスラム教の信徒として、私は米国人を殺しました。しかし、私はこれを――個人としてではなく、一介の米国人としてでもなく――イスラムの国際的共同体の一員として行なったにすぎないのです。それゆえ、私は無罪なのであります。



どう思われるだろう。この抗弁は功を奏するだろうか。もちろん、なさない。アメリカ政府は、各自の宗教的信条にかかわらず、国民がお互いに殺し合うことを容認しないのだ。

もし、誰かが他の米国人を殺すなら、その人は殺人罪に問われるのである。宗教上そうすることを命じられたという事実は、言い訳として通用しないのだ。

このように自国政府は、宗教上の相違ゆえに、国民がお互いに殺戮し合うことを容認しないのである。

それなのにどうして私たちは――政府ないし国家的相違ゆえに、主の民がお互いに殺戮し合うことをイエスは許したもう――などと思っているのだろうか?









デイヴィッド・ベルソー著 『世界中をひっくり返した神の国』 
第9章より一部抜粋

質問)「敵を愛しなさい」というイエスの御言葉は、ただ個人としての報復行為に対してのみ適用されるのであって、国家の後押しを受けた国事行為には当てはまらないのではないでしょうか。



クリスチャンの中には「もし、私たちが個人として、悪に悪を報いるなら、それは間違っている。でも、それを国家的権威の下で行使するなら、イエスの教えを犯すことにはならない」と主張している方々もいる。

アディン・バロウが、『犯罪が美徳へと様変わりするためには、どのくらいの人数が必要なのか』と題する小冊子を書いたのだが、私にとって、上のような議論は、アディンの言葉を思い出させるものがあるのだ。この冊子の中で、彼は次のような問いを出している。

神の掟が無効なものとなり、神の禁じておられることが合法的なものに変わるのに、どのくらいの人数が必要なのだろう。邪悪なものが、義なるものへと変質するのに、どのくらいの人数が必要なのだろう。

一人の人間は、人を殺してはならない。もし、そうしたなら、それは殺人行為になる。二人、十人、百人、、、と、いずれも各自の責任を担う形では、人を殺してはいけない。もし、そうするなら、それは依然として殺人行為となる。

しかし、政府ないし国家は、お好きなだけ何人でも殺していいのであり、それは殺人ではないのだ。それにはただ、立派な大義名分が必要なだけだ。それなりに十分な数の人を集めて、賛同させればそれでよし。そうすれば、無数の人間の虐殺も、完全に無罪潔白なものとなる。でも、それにはどれくらいの人数が必要なのだろう。それが問題だ。

盗み、強奪、不法侵入、その他全ての犯罪についても、全く同じことが言える。誘拐は、一人の人ないし数人の人によってなされるなら、重大な犯罪である。しかし、国全体としては、それをやってもいいのだ。

さらに、その行為は、ただ単に無罪とみなされるだけでなく、非常に栄誉ある行為となる。だから、国全体としては、大規模な形で略奪をはたらき、軍事力でもって、町全体に不法侵入しても構わないのである。それは犯罪ではないのだから。

また、彼らは、刑事責任を問われることもなく、これら全てを遂行することができるのだ。それでもって、宗教をつかさどる牧師先生方に祈りをお願いしている。まことに、数というものには魔力があるのだ!

少なくとも、至高の多数派は――少なくとも自身の慢心において――全能の主を差し置いても、法を制定できるのである。でも、それにはどのくらいの人数が必要なのだろう。



もし、国家が私に、偶像を拝むように命じるなら、それは正当化されるのだろうか。

換言すれば、私が個人として偶像を拝むことは間違っているけれども、国家の権威の下に偶像を拝むなら、それは完全に正当化されるということだろうか。

個人として占いをすることはダメだけれど、国家のお墨付きがあれば、やっても構わないのだろうか。

個人としては姦淫を犯すことはご法度だけど、もし、国家が私にそうしろと命じたら、それは罪ではなくなるのだろうか。個人としては、離婚をしてはいけない。でも、自分の配偶者を離縁することを国家が公認するなら、それは完全に合法的なものになるのだろうか。

また、某国にあるクリスチャンが住んでいるとする。この国では、政府が国家扶助政策の一環として、女性に中絶を義務づけているのである。

おそらくこの国は人口過密問題を抱えているのかもしれない。そして、この人口問題を解決する最も適切な手段として、政府は、出生率を減らすことを考えたのかもしれない。

でもそれで、キリスト者の女性が、中絶によって胎児を殺すことが合法的なものとなるのだろうか。

もし、そうでないなら、なぜ同じ政府が戦争で人を殺すよう命じること――こちらは合法的なものとみなされ、中絶などとは別扱いになるのだろう。

☆☆

イエスが「無抵抗」ならびに「敵を愛すること」に関する掟を授けられた時、主は、個人としての行為と、国家の後押しを受けた国事行為との間に、なにか区別を設けていただろうか。いや、そういう区別は全くされなかった。

実際、主の教えは、旧約の律法に取り替わるものであり、そういった旧約の律法自体、私的なものではなく、国家的な行為に関連するものであったのだ。覚えておられると思うが、イエスは、無抵抗に関するメッセージを次の言葉をもって始められた。

『目には目を、歯には歯を』と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。しかし、わたしはあなたがたに言う。悪人に手向かうな。マタイ5:38、39a



イエスの聴衆者たちは、どこでこの「目には目を、歯には歯を」を聞いていたのか。そう、彼らはモーセ律法の中で、これを聞いていたのである。実際、この言葉は、律法の中に、三回出てきている。

この表現が出てくる最初の箇所は、出エジプト記にある。

もし人が互に争って、身ごもった女を撃ち、これに流産させるならば、ほかの害がなくとも、彼は必ずその女の夫の求める罰金を課せられ、裁判人の定めるとおりに支払わなければならない。しかし、ほかの害がある時は、命には命、目には目、歯には歯、手には手、足には足。出エ21:22-24



ここで注意していただきたいのは、裁判人がこの行為に関わっていたということである。これは、個人的な報復行為ではなかったのだ。

二番目の箇所は、レビ記の中にみられる。ここでは、エジプト人の父とイスラエル人の母を持つ男が神の御名を冒涜したことに関した事が取り上げられている。イスラエルの民が、この件に関して、自分たちはどうすべきかを主に伺ったところ、神はこう答えられた。

主の名を汚す者は必ず殺されるであろう。全会衆は必ず彼を石で撃たなければならない、、、だれでも、人を撃ち殺した者は、必ず殺されなければならない、、、もし人が隣人に傷を負わせるなら、その人は自分がしたように自分にされなければならない。すなわち、骨折には骨折、目には目、歯には歯をもって、人に傷を負わせたように、自分にもされなければならない、、、

モーセがイスラエルの人々に向かい、「あの、のろいごとを言った者を宿営の外に引き出し、石で撃て」と命じたので、イスラエルの人々は、主がモーセに命じられたようにした。レビ24:16-23



この箇所は、個人的な行為に関して何か語っているだろうか。否!である。イスラエルの全会衆がこの処罰執行に関わったのだ。

最後の箇所は申命記である。

もし悪意のある証人が起って、人に対して悪い証言をすることがあれば、 その相争うふたりの者は主の前に行って、その時の祭司と裁判人の前に立たなければならない。 その時、裁判人は詳細にそれを調べなければならない。そしてその証人がもし偽りの証人であって、兄弟にむかって偽りの証言をした者であるならば、 あなたがたは彼が兄弟にしようとしたことを彼に行い、こうしてあなたがたのうちから悪を除き去らなければならない。

そうすれば他の人たちは聞いて恐れ、その後ふたたびそのような悪をあなたがたのうちに行わないであろう。 あわれんではならない。命には命、目には目、歯には歯、手には手、足には足をもって償わせなければならない。申命記19:16-21



ここでも、この箇所は個人的な形での応報のことは言っていない。祭司も裁判人共々にこれに関わっていたのである。

だから無抵抗に関するイエスの教えの文脈は国家的ないし司法上の懲罰に関するものであって、個人的な報復のことを言っているのではないのだ。結局、これこそ「『目には目を』の基準」の意味するところなのである。そしてイエスの教えはこの基準に取り替わるものとなったのだ。


ー抜粋おわりー


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先日、英語ブログに「聖書を読む際に、いかにして自分の偏見や先入観に対処すればいいのでしょうか(here)」という記事を書いたのですが、それに対して、アイルランドのある熱心なカトリック信者の方からコメントをいただきました。

ご存知のように、アイルランドでは現在に至るまで長い間、カトリック・プロテスタント間の争いが絶えず、政治的にも宗教的にも大きな問題となっています。(北アイルランド問題 ウィキペディア

Protestant_graffiti_in_Belfast,_Northern_Ireland,_1974
(「あなたは今、プロテスタントのテリトリーにいる」と書かれた壁の落書き)

そういう状況の中――私が非カトリックであることを知りつつも――、心を開いて対話を求めてこられたこの方の姿勢に私は心を打たれました。今日はこの方のコメントと、それに対する私の応答レターをご紹介したいと思います。

[以下、カントゥスさんからのコメント]
これ以上不必要な分裂を生じさせたくはないのですが、私はカトリック教徒として、次のようなことを信じています。

聖霊はご自身の聖なるカトリック(普遍の)教会を守ってくださるということです。イエス様はこうおっしゃっています。

「ではわたしもあなたに言います。あなたはペテロです。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てます。ハデスの門もそれには打ち勝てません。」マタイ16:18

昨今の教理的カオス状態――つまり、イエス様についての正しい信仰体系がいったい何なのかということについて誰も知らない状態――をみると、ハデスの門が教会に打ち勝っているような感を覚えるかもしれません。(というのも人がいかにして救われるのかということについて誰も確信がないからです)

しかし、そういうことはありえません。なぜなら、イエス様が偽りを言ったり、間違っていることはありえないからです。しかしそうは言っても、中世から今日にかけて、いつも「異端」と呼ばれるグループ(真の信仰とは正反対のことを信じ、教えていた人々)が存在していました。

たとえば、グノーシス派は肉体を忌み、結婚を禁じ、パウロおよび使徒の教えとは矛盾する教えであるにもかかわらず、「われわれはイエスにより、秘儀の知識を受けた」と主張していたのです。彼らは間違っており、人々を偽りの信仰に導き入れました。こういった人々はもはや私たちと共にいません。同様に、アリウス派、キリスト単性論者、キリスト単意論者、聖像破壊者などがいました。

このように私たちを真理から引き離させようとする人たちがいつの時代にもいます。それでは私たちはどのようにして「まことの教会」が何かを知ることができるのでしょうか。

それは真実に「絶対誤りのない(infallible)」導き手、牧者を持つことによってです。

私たちカトリック教徒は、これが聖なる、カトリックおよび使徒教会であると信じており、イエス・キリストがペテロを岩として建てた時――主ご自身によって建てられた教会そのものであると信じています。(*訳注:「絶対に誤りのない」というのは、1870年の第一バチカン公会議において教義として正式に宣言された教皇不可謬説に基づく、カトリック信者の教皇観を表す表現だといえるのではないでしょうか。)

これにより、私たちは聖書が真に意味しているところを知ることができ、いかにして救われるのか確かに知ることができるのです。私たちはプロテスタンティズムの間に見られる混沌状態をみて、嘆き悲しんでいます。

というのも、あなたがたは聖書の解釈にあたり、個人をその最終的な権威にしており、その結果、どんな混乱が起こっているかを私たちは目の当たりにしているからです。

――見てください。プロテスタントにはなんと多くの分派があることでしょう。そしてその大半はお互いに反発し合っています。そしてその多くは和解不可能なほどに教えを異にしています。これがはたして神の望んでおられることでしょうか?次の御言葉を読んでください。

「わたしにはまた、この囲いに属さないほかの羊があります。わたしはそれをも導かなければなりません。彼らはわたしの声に聞き従い、一つの群れ、ひとりの牧者となるのです。」ヨハネ10:16

だから私たちは「唯一のまことの教会」を受け入れるのです。なぜなら、それなしには、上に挙げたイエス様の御約束を不真実なものにしてしまいかねないからです。

あなたを不愉快にしてしまったのでしたらごめんなさい。しかしカトリック側からの見解をここで述べておく必要があるように感じました。



これに対して私は以下のようなお返事を書きました。

真摯なコメントをありがとうございます。あなたの正直さとストレートさに敬意を表します。また、あなたのうちに主と主の教会に対する聖なる情熱があるのを感じました。それはとてもすばらしく、また美しいものです。

またプロテスタント教会の現状についてのあなたのご指摘は正しいものです。主の民が分裂し、お互いにいがみ合うというのは本当に嘆かわしいことです。主イエスよ、私たちをお赦しください。

カントゥスさん、教会のことについて、私が現段階でどのような見解を持っているかについてお分かち合いさせてください。「唯一のまことの教会」という点についてですが、私はそれが実際に存在することを信じています。

しかし私の理解では、それは(究極的な意味で)「目に見えない」ものです。つまり、その「唯一のまことの教会」は御霊を宿すまことの信者で構成されているのです。

例えば、教会史を読むと、異なる教派に属していたさまざまな信者の生涯のうちに、私は聖霊の真実なる顕現をみます。

私はいくつかの理由により、カトリック教会に属していません。しかし同時に、私は教団教派の名前によっては、境界線を引いていません。

私は教理や教えに関してとても真剣ですが、また同時に、「神の恵みは、私たち人間のこしらえた神学ボックスより常に大きく高いものである」と思っています。例えば、あなたは本物の信仰者だと私は思います。そしてプロテスタント諸教会の中にも同じように、本物の信仰者がいるのです。

カントゥスさん、心を開いてコメントを書いてくださりありがとうございます。ここで私はもう一つお分かち合いしたいことがあります。これは非常にデリケートなテーマだということを承知していますが、あなたが心を開いてくださったように、私も心を開いてあなたに書こうと思いました。それはオリバー・クロムウェル(1599-1658)のことです。

OLIVER CROMWELL

ピューリタンであるクロムウェルは何年にも渡り、私にとっての英雄でした。しかし数年前、クロムウェルが生きた時代についてリサーチしたことがきっかけとなり、私は自分のそれまで描いていた「クロムウェル像」とは違う彼の一部分を発見したのです。私は彼および清教徒軍によるアイルランドへの血なまぐさい悲劇的な侵略行為について読み、本当にショックを受けました。

クロムウェルはローマ・カトリック教徒 (アイルランド人口の大多数) に対する刑罰法 (Penal laws) を可決させ、彼らから大量の土地を没収した。議会軍によるアイルランド再占領は残忍を極め、そのためクロムウェルは現在でもアイルランドで嫌われている。
English Civil War

この悪行に対するクロムウェル (彼は最初の1年は直接指揮をとっていた) の責任の範囲は、今日においても激しい議論の対象である。クロムウェルのアイルランド侵略 ウィキペディア


Belfast-Graffiti-07.jpg
(「妥協か、それとも衝突か?」と書かれた壁書き、北アイルランド、ベルファースト)

クリスチャンが自らの宗教的目標を達成するべく、この世の政治権力を行使しようとする時、その結果はほとんどいつも流血の惨劇に終わる――そのことを私は学んできました。イエス様の御国はこの世のものではありません(ヨハネ18:36)。

Catholic Protestant conflict in Ireland
(2011年、北アイルランド、ベルファースト)

読んでくださって、ありがとうございました。神様の祝福がありますように。



すばらしいことに、この方との出会いを通して、今まで漠然としていた「アイルランドの人々」というのがぐっと近くなった気がします。大阪の方と親しくなれば、大阪に親しみを感じるようになり、あるいは、熊本の方と交わる機会が与えられることで、その地域およびそこに住むクリスチャンが近くなります。これについてはきっと、みなさんも同感してくださると思います。

神様は私たちがお互いに愛し合い、祈り合うために、時にかなって、このような出会いを与えてくださるのだと思います。

最後に、カントゥスさんからの再度のお返事の一部をご紹介して終わりにさせていただきます。

[アイルランドにおける同性婚合法化とそれに伴う、人々の霊的危機状況について述べた後で]、、 どうか、私たちのためにお祈りください。私たちアイルランドの民が分別力を持つことができるように。そして、たとえそうでなくても、少なくともクリスチャンが――今後どんな困難な状況の中に置かれるとしても――真理を証しし続けることができるように。

今はおそろしい時代です。しかし(隠喩的な意味での)ローマが陥落しても、新しいエルサレムは決して倒れないという信仰を私たちは持っています。聖書に書いてあるように、勝敗はすでに決定しているのです。ですから私たちに必要なのは、最後の最後まで勝利者イエスの側にとどまり続ける勇気と信仰、言いかえれば、耐え抜く信仰だと思います。



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ピルグラム・マールペック(Pilgram Marpeck, ?-1556)は、16世紀の南ドイツにおける重要なアナバプテスト指導者です。

歴史家のウィリアム・エステップ氏も、マールペックのことを高く評価しており、「南ドイツのマールペックは、オランダ・アナバプティズムの指導者メンノ・シモンズに匹敵する存在だ」としています。

マールペックはつい最近までほとんど忘れ去られた無名の存在でした。

しかし数十年前に、ヨーロッパの図書館で、彼の書物が発見されたことから、彼はにわかに脚光を浴びるようになりました。

400年という長い沈黙の時を破って、このユニークなキリスト教思想家は再び現代人に語り始めたのです!!

マールペックの人物と思想というテーマで、バプテスト教会の先生が非常に興味深い記事を書いていらっしゃいます。興味のある方は、ココをクリックしてお読みください(英語)。

すぐれた鉱山・土木技師でもあった彼は、1528年頃、幼児洗礼の非を悟り、アナバプテスト運動に加わります。そしてそれによって政府の職をはく奪されました。

私にとってマールペックの魅力の一つは、彼の視野の広さ、また主義主張の異なる他者の立場を理解しようと努めるその柔和な心の姿勢です。

彼はストラスブルグの有名な宗教改革者ブツァー(Martin Bucer)とも平和の内に対話を続け、またアナバプテスト内でも、さまざまな霊的潮流に直面しつつ、それぞれの指導者たちと意見を交換し、かつ議論しました。

ブツァーとは、政教分離および、旧約と新約の関係についての理解で意見を異にしておりさかんに議論しました。マールペックははっきりと政教分離の必要を説き、政府が教会のことに干渉すべきではないことを主張しました。

また当時、ルターとツヴィングリの、聖餐をめぐる細かい議論にうんざりしてしまった人々が、「クリスチャンは、そういう外面的なことより、霊的なこと、内面的なことを大切にすべきだ。」と主張するようになっていました。

しかしその傾向がやがて極端化し、ある人々は「自分さえ霊的に恵まれればいい。」という霊的個人主義に陥り始めたのです。

またこの教えは、「(幼児洗礼ではなく)信仰によるバプテスマこそ正しい洗礼のあり方だ。でも、バプテスマを受けると処刑される。ああ、どうしよう。」という当時の切迫した状況に、ある種の逃げ口を用意することにもなりました。

というのも、この教えから、「儀式としての外面的なバプテスマは重要ではない、唯一大切なのは内面的な意味において心にバプテスマを受けることなのだ。だから、水によるバプテスマは受けなくてもいい。」という結論が導き出されたからです。

こういった極端な傾向に関して、マールペックは警告を鳴らしました。そして内と外、そのどちらも欠かせないものであること、どちらかに偏るのではなく、両者のバランスを取るべきことを説きました。

そして霊的個人主義に陥った人々がないがしろにしがちであった貧民救済という点においても、彼は自らそれに積極的に従事しました。

また、これとは反対に、律法主義に傾きかけていたアナバプテストのグループも当時存在していました。こういう人々に対しては、御霊による自由および、愛がすべての中心であることを忘れてはならないと警告しました。

さらに財産共有を実践していたグループに対しては、「各人の自発性なしに人々を強制してはいけない。各信者の選択の自由が尊重されるべきだ。」ということを主張しました。

また当時アスザス、モラビア地方に起こっていたリベルタリアン主義(→恵みを放縦に変える教え、〈超恵み〉Hyper-graceの教えの16世紀バージョンです!)の説教者たちに対してもマールペックは警告しました。

今回、私が翻訳した作品は、マールペックが当時の混沌とした政治状況の中で、クリスチャンは国家とどのように関わるべきか、クリスチャンは武器を取って戦ってもいいのか、、といった問題を正面から取り扱った小冊子です。

この小冊子が書かれた当時の歴史的背景については、はしがきの所で、編者がとても分かりやすく書いていらっしゃるので、ここでは省略します。

編者も述べているように、本書は、当時起こった、ある特定の出来事に対する応答として書かれたものでありながらも、ある種、時代を超越するものがあります。

私は次のような問いを持ったクリスチャンの方々にぜひ本作品を読んでいただきたいと思います。

―クリスチャンは政治に関わるべきなのか、否か。

―クリスチャンは、国家権力と直に結び付いている職業(軍人、警察官など)に従事しつつ、同時に山上の垂訓(マタイ5-7章)の倫理に従って生きることがはたして可能なのか。

―クリスチャンは、「正義」のために武器を取ってもいいのか。そのために人の血が流されることと、「敵を愛しなさい」というイエス様の御言葉に矛盾はないのか。

―クリスチャンは、(デモ行進なども含めて)反政府運動に従事することが許されているのだろうか。その行為と、ローマ13章との間に矛盾はないのだろうか。

これらは、16世紀のクリスチャンたちが考え、悩み、議論し、祈り求めた問いでした。そしてマールペックが生涯を通して追求した問題でもありました。

さあ、これからご一緒に、マールペックの声に耳を傾けていきましょう。

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ピルグラム・マールペック著 『まことのキリスト教の勝利、平和、そして力』

(原題:Die Aufdeckung der Babylonischen Hurn アウグスブルグ、1540年)

本原稿は、英語版The Triumph, Peace, and Power of True Christianity (translated by Peter Hoover, Edited by Edsel Burdge, Second Edition, PA: Benchmark Press, 2001)からの重訳です。翻訳の許可を与えてくださった訳者ピーター・フーバー氏、および編者エドセル・ブルジ氏に、この場をかりてお礼申し上げます。

目次
1 はじめに
2 タイトルページ
3 まことのキリスト教の勝利、平和、そして力
4 あとがき(文献案内)

1.はじめに

1517年、サクソン州の修道僧であったマルティン・ルターがウィッテンベルグ教会の戸に95カ条の論題をくぎ付けにしました。

その後、これが口火となり、やがて西洋キリスト教世界が引き裂かれていくなど、当時のルターには知るよしもありませんでした。

戦線が引かれるや、ルターと彼の追従者たちは、ローマ・カトリック教会のうちに、ヨハネの幻であるバビロンの大淫婦の成就を見ました。

それから数年にわたり、ルターのペンによる一連の小冊子によって、宗教改革には方向付けがなされました。

1522年に彼の訳したドイツ語新約聖書が発行されると、改革はさらに前進していきました。今や、読み書きのできないドイツの民衆でさえ、改革教会の朗読台から読み上げられる聖書のことばを定期的にきくようになったのです。

そしてキリストの御言葉をきく中で、民衆たちは、正義と平和によって統治された新しい王国についての約束を耳にしたのです。

そして農民たちは、純朴にも、教会の改革というのは、福音書に記されているやり方に倣って、公平な社会を再構築することでもあるのだと思ったのです。

しかし悲しいかな、彼らの期待は裏切られました。というのも、ヨーロッパはまた、経済革命のただ中にもあったからです。

この変革に乗じてうまい汁を吸おうと、君候や領主たちは、小作農から絞るだけ絞り取り、みずからの資本を最大限にまで増やそうとしました。

その結果、社会は公平になるどころか、ますます不公平なものになっていったのです。

1525年、南ドイツの農民たちは一揆を起こしました。そしてストを行ないつつ、神の法に基づいた変革を要求したのです。

こうした反乱が起きた責任を問われ、自らの改革が損なわれるのではないかとおびえたルターは、諸候たちに向かって、反乱者どもを「叩き潰せ、絞め殺せ、突き刺せ!」とけしかけました。

もとより君主たちはそんな激励などほとんど必要としていませんでした。こうして農民一揆は、流血の惨事となったのです。

そして裏切られたと感じた多くの農民たちは、その後、ルターの改革に背を向けることになりました。

農民たちに対して躊躇なく武力を行使するようにと促していた改革者たちですが、それから数年もしないうちに、今度は逆に、その武力行使の矛先が自分たちに向けられるという脅威に立たされたのです。

自分の領土からルター派を駆逐することにしたチャールズ5世(神聖ローマ皇帝カール5世)は、ルター派に敵対する法令を施行しました。

ルターを支持していた当地のドイツ諸侯たちは、皇帝に対抗する軍事同盟として、1531年、シュマルカルデン同盟を結びました。

農民一揆の間は、皇帝および国家権力に徹底して従うよう、あれほど主張していたルター派神学者たちは、武力行使に関する自分たちの神学をあわてて見直しました。

というのも、今度は、抵抗運動を正当化しなくてはならなくなったからです。

こういった最中に、ストラスブルグのアナバプテスト指導者ピルグラム・マールペック(Pilgram Marpeck)は、この小冊子(原題はAufdeckung der Babylonischen Hurn=バビロンの淫婦を暴く)をしたためました。

アナバプテスト運動は、1525年、スイスのチューリッヒにて誕生しました。

コンラート・グレーベル、フェリクス・マンツ、ゲオルグ・ブラウロックに率いられた真摯なキリスト者たちの小さな群れが、神の御言葉を読む中で、「信じた人だけが、バプテスマを受けるべきだ。」という確信するにいたったのです。

市参事会の禁止法令があったにもかかわらず、彼らは「真のバプテスマ」をもって、お互いに洗礼を施しました。

この一見して無垢な行ないは、その実、革命的な行為でした。

これは、――何をもって人はクリスチャンとされるのか――という疑問を投げかけることにより、ヨーロッパにおける宗教基盤全体に揺さぶりをかけたのです。

それははたして水のバプテスマによって幼児に洗礼を施すことによってなのか。

それとも、人が真理を悟り、悔い改め、キリストを信じ、そして洗礼を受けることによって、クリスチャンとなるのか。

チューリッヒ当局は、市の改革者であるウルリッヒ・ツヴィングリの教唆を受け、迅速にアナバプテスト弾圧に乗り出しました。

しかし相続く苦境に追い込まれながらも、彼らは福音を伝え、バプテスマを施しながら、チューリッヒから各地へとひろがっていきました。

南ドイツにいた農民たちは、こういったアナバプテスト説教者のメッセージを熱心にききました。

彼らのメッセージは本当に「よい便り」だったのです。迫害の恐れがあったにもかかわらず、多くの農民たちは、罪と自己中心の生活をやめ、キリストに従い、同胞信者と共に生きる者へと変えられていきました。

しかし残念なことに、武力行使の問題をめぐって、彼らの間に意見の不一致が生じました。

キリスト者(キリストに従う者)は、行政官としての公職に就いたり、防衛のために武力を行使したりすることがゆるされているのか?

この問いに対し、アナバプテスト指導者バルターザル・フープマイアーとSchwertler(→武器を持つ者という意)と呼ばれる彼の支持者たちは、「しかり。武力行使はゆるされる。」と主張しました。

一方、他のアナバプテストは、「いや、クリスチャンはキリストに従い、武器を持たない生活をすべきだ。」と言いました。

こういったアナバプテストは、Stäbler(→旅に出る時、つえを持参していたことから、この名がつけられました)と呼ばれました。

1528年のフープマイアーの殉教と共に、Schwertler派は分散しました。そして1530年までには、南西ドイツのアナバプテストは大方、Stäbler派に属するようになっていました。

1532年に追放令を受けるまで、マールペックは、ストラスブルグにおける武器を持たないアナバプテスト集会における指導者を務めていました。

ストラスブルグ市がシュマルマルデン同盟参加を決定し、その結果、市ならびに宗教当局から、アナバプテストに対する厳格な取り締まりが始まったことへの応答として、1531年頃、マールペックは、本小冊子を執筆したとされています。

当時起こった、ある特定の出来事に対する応答として書かれたものでありながらも、マールペックの鋭い視点には、ある種、時代を超越するものがあります。

「クリスチャンも自衛のため、またキリストゆえ、武器をとることができる。」という、不誠実な教会(バビロンの淫婦)のまことしやかな議論にだまされることのないよう、私たちもまた、彼の警告に耳を傾けるべきだと考えます。

私たちがキリストに忠実であり続け、主イエスの歩まれたように、苦しみの十字架を背負うよう、マールペックは私たちを鼓舞しているのです。

さらに、16世紀に、武器をとらないクリスチャンに対して投げかけられた反論は、今日においても同様のものです。

ですから、こうした反論に対する彼の応答は、当時においてと同様、今日でも新鮮かつ妥当なものなのです。

昔と同じように今も、まことのキリスト教の勝利は、私たちが――私たちの勝利の王でもあられる――苦しみの小羊に従いつづけるか否かにかかっているのです。

ペンシルヴニア州シッペンスブルグにて   編者エドセル・ブルジ・ジュニアー

2 タイトルページ

バビロンの淫婦の暴露、反キリストの古きそして新しき謎、ならびにまことのキリスト者の勝利と平和と力について。

彼らがいかにして当局に従うのか。いかにして騒動を起こさず、もしくは自衛することなく、十字架を背負うのか。

またいかにして、彼らがそれを、キリストと共に、忍耐と愛をもって背負うのか。

神が称えられるため、そして真に主を求めている者の力となり励みとなるべく、これらを明るみに出す。


カイザルのものはカイザルに返しなさい。そして神のものは神に返しなさい。(マタイ22章)

暴虐を図る者たちとかかわりあってはならない。(箴言24章)


※英語訳は、Aufdeckung tract第2刷(アウグスブルグ、1540年)より翻訳されました。

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3 まことのキリスト教の勝利、平和、そして力 (本編)

こういった危険な終末の時に、私たちが真理を理解し、心から真理を求めることができるよう、神が恵みを与えてくださいますように(マタイ24章)。

大きな惑わしがくるために、選ばれた者でさえ、日数が少なくされないのなら、持ちこたえることはできないだろうと主はおっしゃっています。主よ、早く来てください!

この時を終わらせたまえ!あなたの選ばれし者のために、時を断ち切ってください!あなたのみこころがなりますように。

時が終わりに近づき、裁きがもうここまで来ていることは、(御言葉の証しをさておいても)全ての人の知り、感じているところです。神のみ業がそれを示しています。

主の大いなる恐ろしい日について語った預言者の言葉に全ての被造物が恐れおののいたように、彼らが恐れおののくのはそれだけの根拠があるのです(イザヤ24章、ヨナ2、3章、ゼパ1、2、3章)。

失われ、邪悪かつソドムのようなこの世がこのことを真剣にとらえておらず、それについて何ら手立ても打たないということ自体、主の御言葉がいよいよ成就しつつあることのさらなる証拠です。

こういった終わりの日は、ロトやノアの日のようです。人々は(恐れることなく)食べたり、飲んだり、めとったりしていますが、突然の破壊は、やがて彼らすべてに臨むのです(ルカ17章)。

この世はひどい腐敗で満ちています――こういった腐敗は以前なら隠されていたような種類のものです。それに加え、この世に染まった教会は、その恥をさらしつつ、自分の正体を明らかにし始めています。

それは、これまでずっと隠れて淫売にふけっていた女が、突然、開き直って、厚かましくも自分の情事を開けっぴろげに言い始めたようなものです。

今や彼女は売春婦の衣装を着込み、何千もの商売上のトリックを使って、人々をくどき騙そうとやっきになっています。彼女は全世界を誤りと惑わしへと導いていっています。

全ての国は彼女の姦淫のワインに酔いしれ(黙17、18章)、自分たちのやっていることに恐れを覚えたり、良心の呵責を感じたりしている人はほとんどいません。

まことの知識は、神への畏れから生み出されるのです。

ここ、そこと弱いクリスチャンが集まっている所には、今も神の力が働いています。しかし、悪賢い淫婦は、誤りのしみで人々の衣を汚そうとやっきになっています。

クリスチャンのいくらかは信仰から離れていきましたが、ヨハネの言うように、彼らはもともと私たちの仲間ではなかったのです(Ⅰヨハネ2章)。

パウロの言っているように、キリストにあって私たちの持つ自由をうかがおうと(ガラ2章)、淫婦は、多くの偽りの教えや巧妙な言い回しでもって、私たちの脇を歩いているのです。

彼女の姦淫によってみずからを汚さない者は幸いなるかな。なぜなら、そういった人々は小羊の血潮によって買い取られたからです(黙14章)。彼らをご自身の初穂にしようと神は彼らを買い取られ、小羊の力を通して彼らを救われたのです。

すべての選ばれし者をご自身のもとにお呼びになられる方は、唯一、主の主だけです(使徒17章)。主にとこしえまでも栄光あらんことを。アーメン。

淫婦、花嫁、そして蛇

古く赤いローマの淫婦について述べますが、彼女は、長い間、キリストの花嫁にさえなりすまし、自分自身および彼女と共にいる多くの人をだましてきました。

しかし今や義なる花婿であるキリストが、彼女および仲間の連中を追い出し糾弾しており、ご自身の血潮および苦しみを通して、新しい民と契りを結んでいます。

しかし、古い蛇もいそがしくしています。

神の新しい民(プロテスタント教会)があらわれるや、蛇はすぐに新しい策略をもって近づいてきました。

しかし私たちの花婿であるイエス・キリストは、十字架上での死を通して、蛇および蛇の世的なやり方に打ち勝ちました。主は信仰を通してこの世に打ち勝ったのです。

今や蛇と淫婦(エゼキエル23章)および彼らの子たちは、今となっては、ただ眺めるより他何もできなくなりました。というのも、純朴な信仰は彼らの策略をみごとに見抜くからです。

彼らの巧妙な策略は、まことの神の子たちの知るところとなってきており、――神を称え、誠実な者を力づけるために――これからその事に関して、詳述していこうと思っています。神が恵みをくださらんことを!

古い蛇は、世を惑わそうと、偽りのキリストの花嫁を打ち建てるのに手を貸しました(黙20章)。

蛇は長い間、この方法でやってきましたが、自分の時が短いことを知ると、自分の仕事を手っ取り早くやりとげるために、自分の手先(偽預言者たち)を通して、部分的に自分の正体を現しました。

この方法で、蛇は実際、神の子どもたちの益となるようなことをしたのです。つまり、蛇は、自分の手先(預言者たち)の口を通して――幼児洗礼や教皇の偶像礼拝のわざ等――自分自身の考え出したいんちきを、非難させたのです。

しかしこういった(偽)預言者たちは、自分たちの追従者のために、物事をクリアーにしてあげるのではなく、かえって――取るに足らない細かい点をめぐって――激しい口論をするよう彼らを仕向けました。

彼らは、聖餐の(パンとぶどう酒の実質を)二種類に分けるべきなのか、聖杯なしでやるべきなのかとかいった詳細についてああだこうだと議論を始め、こういった議論によって、全世界を混乱に陥れました。

そしてサタンは、自身の目的を果たすため、こうした状況を利用しました。

私たちが内側にもっているもの

マルティン・ルターは、聖餐式のやり方、パンとぶどう酒の要素のことなどについてのめり込み過ぎてしまったため、その聖餐をいただく実際の人間――不品行者、暴食家、酔っ払い、ばくち打ち、殺人者、裏切り者、独裁者、嘘つき――のことはてんでお構いなしという状態になってしまいました。

そして最終的に、すべての物、すべての人を、聖なる交わりと呼ぶようになってしまったのです。

ルターは、聖餐を正しく守ることで、彼の追従者が本物のクリスチャンになるのではないかと期待していました。でも何を食べるか飲むかということでは、私たちの性質に変化は起こらないのです。

ただ霊的に何をいただくかということを通してのみ、私たちの魂は変えられるのです。そして私たちの内側にあるものが、実を結ばせるのです。

ルターおよび彼の追従者たちは、御言葉を引き合いに出しながら、一般民衆が武器を取り、雄々しく自己防衛するよう説き伏せました。

彼らは、人々をして、彼らが心身共に、武力に寄り頼むことをよしとなさしめ、また、君候や諸都市が皇帝に反旗をひるがえす原因をつくりました。

ああ、偽預言者およびその追従者たちが、神の名によって戦いはじめると、どれほど多くの血が流されることでしょう!(エレ6章、エゼ22、23章)

主キリストは、ご自身に従う者たちが、反撃しないことを望んでおられ、こういった全てのことから彼らを導きだそうとしておられます。主は彼らが十字架の下に平安を保ち、御翼の陰にとどまるよう望んでおられるのです(詩17,57篇)。

小羊であるキリストは、人々がご自身を殺すことをゆるされました。そしてこの世の終わる時まで、忍耐をもって苦しみを甘受しておられるのです(ルカ17,黙13)。

この世の指導者たち、ピラト、ヘロデ、アンナス、カヤパはみな結束して主に危害を加えようとしました(ルカ23章)が、キリストは彼らの権力にご自身を引き渡し、みずからの権力を用いて彼らに報復するようなことはなさいませんでした。

むしろ主は、カイザルのものはカイザルに、神のものは神に返すよう言っておられます(マタイ22章)。神の報復にかんすることをのぞき、地上の支配者には全てを治める権威が与えられていると主は教えておられます。

報復に訴えることができるのは神だけであって、いかなる人間もそうすることは許されていないのです(ローマ12章、ヘブル10章)。

神は、カイザル以外のいかなる者にも、権力や地上での支配権をお与えになっていません。カイザルおよびこの世の政府は、ダニエル書で預言されているように(ダニ11章)自分たちの時の終焉まで、この世を統治します。

その後、神の怒りがすべての人の上に臨むのです(イザヤ24章)。しかしその時がくるまで、すべての肉は、カイザルの権力と統治を必要としています。

それとは反対に、イエス・キリストはこの世の相続地もしくはこの世の国々を支配したり、裁いたりはされません。主に従う者たちが(この世から)良い待遇を受けようとも、悪い待遇を受けようとも、彼らはただひたすら忍耐と愛でもってそれらに答えるのです。

彼らは持てるものすべて――みずからの肉体やいのちでさえも――、この世の権力に服従させることをよしとしているのです。つまり、キリストに対するまことの信仰に関することを除く、全てです。

どんな人間といえども、キリストに対する信仰のことで、他の人を強制したり支配したりしてはならない。というのも、それは地上での人生ではなく、永遠のいのちにかかわる問題だからです。

神ご自身、天地に存在するいかなる被造物からも永遠のいのちを取り去るようなことはなさりません(ローマ8章、マタイ10章)。

真のクリスチャンは、永遠のいのちにみずからの希望を置いているので、地上での人生のことで自分の権利をとやかく主張しはしないのです(ヘブル11章、ルカ10章、コロ3章)。

そして現在、多くのクリスチャンが、そのような選択をしています。神がほめたたえられんことを!

キリストの裁き

「福音主義者」、教師および説教者のみなさん。私はみなさんに、ただひたすら、十字架に架けられた、忍耐深く愛に満ちたキリストをご提示したいのです。

キリストを宣べず、説くことをしない人は、主に逆らう者です。――その人が従来の教皇であるのか、新しい教皇であるのか、その人がキリストご自身のように神の御言葉に通じているのか否か、、、そういったことは関係ないのです。

私たちは十字架の下で、柔和にして謙遜なキリストを知るにいたりましたが、誰であれ、そういったキリストを宣べ伝えないなら――たとえ、その人がどんなに「福音主義的」であったとしても――、その人はキリストの裁きの下に倒れるのです。

彼らは終わりの日に言うでしょう。

「主よ。私たちはあなたの名によって預言をし、悪霊を追い出し、あなたの名によって飲み食いしたではありませんか。」

しかしキリストはこう答えられるでしょう。「不法をなす者ども。わたしから離れて行け!わたしはあなたがたを全然知らない」(マタイ7章、ルカ13章)。

十字架の狭い門を避けようとしている人、そして他の人をもそこに入らせないようにしている人が、キリストの裁きについてよりよく理解することができますように。

もしこういった人々がみずからのうちに真の信仰を持っているのなら、彼らははっと驚愕するにちがいありません。というのも、キリストは何よりもこういう人々に向かって、はっきりと裁きを宣言しているからです。

(つまり――キリストのことを口先ではいろいろ言いつつも、狭い門から入ろうとせず、他の人が入るのも阻んでいるような(マタイ7:23)――新しい「福音主義」の説教者およびその追従者のことをいっているのです。)

偽りの福音主義者たち

こういった「福音主義者たち」は、聖書や教義を引っぱり出して、一般民衆の手に剣を握らせていますが、ユダの手紙によれば、こういった人々はコラの反乱と共に滅んでしまうのです。

諸都市や君候たちを戦に駆り立てることで、彼らはカインの誤りの内を歩み、その中で滅んでしまうのです。

バラムの預言者たちの声に耳を傾けてしまったがために、彼らは今後、農民一揆以上の、血の惨劇そして恐怖の内に落ち込むことでしょう。

彼らは、キリストゆえではなく、あくまでコラの反乱ゆえに滅びていくのです。どうか主が、ご自身に従う者たちを、こういった人々の間から導きだしてくださいますように!

私は、過去、こういった「福音主義」説教者たちの著述や説教から多くを学びました。

私はかつて頑強なローマ・カトリック教徒でした。福音主義者たちの教えにより、私はローマ・カトリシズムが誤っていることに気づきました。しかし、それは私をただ肉の自由に導いただけでした。

以前のように自分の良心に固くとどまるかわりに、私はそういった教師たちと飲み食いすることに呵責を感じなくなったのです。

今や自分は立派なクリスチャンになったのだと思い、そのために手あたり次第、著述をかき集め、カトリシズムを批判しました。私のこういった理解を、皆ほめてくれました。

しかし口に入る物ではなく、心から出てくる物によって私は自分自身を汚していたのです(マタイ15章)。

私は、秘密ざんげや、教皇支配といったものに対する「福音主義者」の立場を嬉々として受け入れました。実際、まことのキリスト精神を持たずしても、そういうことはできたのです。

私はまた福音主義の教えの多くを受け入れました。それらはいずれも正しかったのです。

しかし、キリストの十字架の奥義と狭い門については語られず、説かれもしていませんでした。

そしてそれは今日においても福音主義の陣営でそうなのです。彼らはこういった十字架の道について完全に沈黙を保っています。しかし十字架の道こそバビロン捕囚の民をエルサレムの自由民へと導くものなのです。

それだけでなく、もし誰かがこれについて口を開こうものなら、この人は彼らによって迫害され、死刑執行人の元に引き渡されるのです。

こういった「福音主義」の説教者たちは、不法を行なう者であり、そういった人々に対して、キリストは「わたしから離れて行け」(マタイ7章)とおっしゃったのです。

中途半端な福音を説く人は、交差点で間違った方向を指し示している手のようなものです。

十字架の道

福音主義者たちは自己防衛のため、諸候や君候、諸都市の保護のうしろに居座っていますが、そうすることでキリストの十字架のリアリティーを失っているのです。

私たちはキリストの十字架の下においてのみ、忍耐を学び、すべての不安を克服することができるのです。

小羊であるキリストは、十字架の上で勝利されたのであって、互いに戦い歯で互いを引き裂くようなライオン、熊、オオカミ、犬のようではなかったのです(黙17章)。

ああ、わざわいなるかな、やがて必ず現れる反キリストの教え、そしてその国は(Ⅱテモ手3章)!

目のある人はどうか見てほしい。耳のある人はどうか聞いてほしい。

欺く者や騒ぎを起こす者がはたして神の小羊に従う者であるのか、それともおそろしい獣に従う者なのかを見極めてほしい!神の子どもは、こういう人々と関わりを持たないのです。

誰もあなたを惑わすことがないようにしなさい。敵に対して悪を望むようなことをせず、彼らに良くしてやり、それも心からしてあげなさい。あなたを裁く方はただお一人であり、その方は天にいらっしゃるのです。

この世の支配者がみずからの権力(神は支配者がこういった権力を行使することをお許しになりました。ローマ13章)を行使する時、また、神の命ずるところに従い、正しく剣を用いるなら、その時、あなたは彼らの保護下にあります。

しかしこの世の支配者が不正なやり方で剣を用いる場合、また彼らが善人を罰する一方で、悪事を働く者を釈放してやり、偽り者を好んで、真理を迫害するなら、その時あなたがすべきことは――彼らの回心を呼びかけること――これだけです。

報復は神に任せなさい。支配者はこの神に仕えるよう召されているのです。

キリストは、あなたに一切、剣(武器)をお与えになりませんでしたし、自己防衛の手段もお与えになりませんでした。それ以外のことを教える人は、嘘つきであり、欺く者です(Ⅰヨハネ4章、Ⅱヨハネ1章)。

十字架の下で忍耐する道以外のところで、キリストを見つけようとする人は、主を見い出すことはできないでしょう。

木造りの十字架と道標が、私たちの道案内であるように、十字架とキリストの御手が、主にいたる道に私たちを導いてくれるのです。

さらに言うなら、キリストの十字架は静止したままではないのです。この十字架ははじめから私たちと共にあり、終わりに至るまで、私たちと共に同行してくださるのです。

十字架の道は、真理の道です。

そしてこの真理により、いのちが生み出され、
いのちは、信仰によって生じるのです。

信仰は徳を生み出し、私たちにキリストを知らしめてくれます。

「その永遠のいのちとは、彼らが唯一のまことの神であるあなたと、あなたの遣わされたイエス・キリストとを知ることです(ヨハネ17:3)。」

財産と自己防衛

キリストおよびキリストの教えを知ることは、肉に従って生きないということを意味します。

それは自分の財産にしがみつくのではなく、新生し、それを通して、私たちがこの世のあらゆる者に死ぬことを意味するのです。

自分の古き生活および財産に執着する人は、それを失うことになるでしょう。それとは反対に、それらを放棄する(神に委ね切る)人は、永遠のいのちを獲得するに至るでしょう(マタイ16章、19章)。

そういう人は自己防衛という考えをことごとく断ちきり、主であるキリストのために進んで十字架を背負うことを申し出、神の小羊に倣い、これを柔和、愛、そして忍耐の限りを尽くしつつ、忠実に行なうのです(マタイ11章)。

私たちは主を通して圧倒的な勝利者となることによって、キリストの敵に対し、みずからを防衛するのです。――時に制約されることない――私たちの勝利は、永遠のものです(ローマ8章、1ヨハネ5章)。

キリストは言われます。「喜びなさい!わたしはすでに世に勝ったのです(ヨハネ16章)。」

権力に打ち勝つことは、地上での戦いでの勝利によっては、決して得られません。戦闘で打ち勝つ者は、遅かれ早かれ、自らを支配する、よりいっそう強力な敵によって打ち負かされるのです。

というのも、地上での闘争は、キリストによって勝利に導かれるものではないからです。敵を打ち負かすのは、肉であって、この肉は――肉によって得られた勝利と共に――やがて滅んでいきます。

キリストの教えといのちが治めるところでは、肉的な支配と権力は終わりを告げます。

しかし人々が肉によって支配されているところにおいては、キリストがガダラ人の地から出ていなければならなかったように、主は出て行かなければならないのです。

そしてキリストがそうしなければならなかったのは、主のみわざが、ガラダの人々の商売(ブタを飼育すること)に影響を及ぼしたからです。私たちが救われることを望んでいるのなら、このことに留意する必要があります。

悪霊につかれていた二人の男は、神の愛と人の愛を予表しています。その両方とも長い間、サタンによって妨げられていたのです。

束縛は、財産にしがみついて離れまいとする私たちの執着心にあります。それは二人の男(ひどく凶暴だった)が、自分たちを解放してくださったキリストと共にガダラ人の村に戻っていく場面からもみてとることができます。

ガダラ人は、自分たちの地上の財産(ブタ)が損失を被ったという理由で、キリストに自分たちのところから出て行ってほしいと頼んだのです。

財産と権力

神の愛、そして同胞への愛ゆえ、財産を失うことは本来、小さな犠牲です。しかし財産を失うことへの恐れ、これが全世界を惑わしているのです。

この恐れこそ、地上において、神の愛ならびに人の愛を縛る元凶なのです。

ガダラ人の村を出て行かれたように、もしキリストが去らなければならないのだとしたら、不義がはびこることになります。愛も冷えます(マタイ24章)。

自己中心が愛にとってかわり、全ての人は苦しみます。盲目で愚かな自己中心がいかに全世界を破壊しているかということは目に見えて明らかですが、(皮肉なことに)人は誠実で愛のあるクリスチャンよりもむしろそういった自己中心な人を寛大に扱っているのです。

そして、そういった自己中心な人々をサタンの破壊的力から解放しようと努力している人々を憎んでいます。ああ、目の見えないガダラ人!全世界は盲目になっています!

この世の権力を行使することに関し、サタンはみずからの預言者を通して、うまいこと隠ぺい工作をしたいのです。

この世の権力を行使することで忠実な者を守るのだ(しかし実際には忠実な者を害するのです!)と言いつつ、キリストの御言葉とこの世の権力行使をごちゃ混ぜにしようとしています。

サタンはこう尋ねます。

「世俗権力をつかさどる政府要人の部下たちが、罪のない人々を悪から守るという、要人の任務執行に協力しないとなったら、いったいそういった政府の要職に召されている人々はどうなってしまうだろう。もし誰も彼らに協力しないとなったら、罪のない人々は危険にさらされるではないか?」と。

このようにして、サタンは、クリスチャンがこの世の為政者になってもかまわないと人々に信じ込ませているのです。

事実、「もしわが国の為政者たちが全員、本物のクリスチャンなら、この世はもっと良くなるだろう。」ということをすでに信じ込ませ、その結果、多くの誠実の人々が、サタンの引き寄せにより、キリストに仕えるという名の下に、軍事・警察機構、政府の仕事に就き、誓いを立てているのです。

これら全ての背後には、人間生来の自己本位がかくされています。

財産を所有している人々は、政府に保護してもらおうと思っています。治安維持のため、また彼ら自身および他の人々の財産を守るためには、武力行使もやむを得ないと彼らは考えています。

実際、あらゆる武力行使は、財産所有のことに由来しているのです。財産を守らんがために、この世の政府および軍事は存在するにいたったのです。

しかしキリストの共同体は、財産保持ではなく、あくまでキリストに基礎を置いています。キリストにつく者は、他の何を差し置いてもまず、キリストに服従しているのです。

したがって、霊的な人は、霊的な平安を保つために心を砕き、肉につく者は、肉的な平安の中でみずからの財産を守ることに心を砕いています。

霊的な人は、キリストにあって忍耐と愛を保ち、キリストが死に至るまで御父に従順であったごとく、父なる神に従います。

肉につく者は、悪人を罰し、この世の秩序を保つために武力を行使します。もしそうしないなら、私有財産をもっている人々の心は休まりません。

主はその善良さと憐れみゆえに、私たちに良いものしか願いたまわらないのです。そしてそのような神のおかげで、すべては相働くのです。

この世の政府の位置

神はすべての人にご自身の平安(真の平安)をお与えになりましたが、多くの人はそれを受け入れませんでした。

そのため、神はこの世に属する人々に対し、世俗権力をお与えになりました。――それによってこの世の財産を持つ者たちがお互いに滅ぼし合うのを防ぐためです。

しかし、神の真の平安は、財産にしがみつく利己的な気遣いのはるか上に存在するものであり、そういったものとは全く関係のないものです。

神はただその存在を許しておられるだけです。この世の軍事力を行使することにおいてですが、神はそれを促進しておられるわけではないのです。

軍事力の行使は、善きものではなく、悪しきものに由来しており、神は必要悪という観点からただそれを容認しているにすぎないのです。もし神がこういった不信心な軍事力をこの世から取り去るなら、社会は完全に秩序を失ってしまうということを神はご存知だからです。

それゆえ、同じくこの世に生きなければならない、ご自身の子どもたちのためにも、神はこの状態を我慢しておられるのです。

(世俗政府の)軍事力行使を神は容認しておられるのですから、神の民はたとえ命の代価を払うようなことになったとしても、それに従うよう、神は期待しておられるのです。

しかし、それ以上に、神は私たち神の民が、神のものを神に捧げること(マタイ22章)を期待しておられます。つまり、ご自身がお受けになるにふさわしい第一の忠誠および栄誉を捧げることを期待しておられるのです。

確かに私たちはこの世の政府(国家)に属する国民でもありますが、私たちはあくまで神に対して忠実であらねばなりません。

そしてこの世の政府が治めるよう召されているのは、肉の事柄に関してのみだということを覚えていなければなりません。御言葉や御霊に関する事柄においては、神のみが治めるのです。

キリストはペテロに税を納めるよう言われました(マタイ17章)、なぜなら、神―平和の神―は、私たちができる限り、すべての人と平和に暮らすようお望みだからです。

パウロがⅡコリント10章で言っているように、霊的および肉的平安は、まことのクリスチャンにとっての武器であり紋章なのです。私たちの永遠なる神は、誠実な方です。

キリストの平安

反抗的なイスラエルの民の間に平和をもたらすために、神はモーセに剣を与えられ、それによってモーセは法を執行しました。

同様の理由で、ヨシュア、ダビデ等にも剣が与えられました。――回心していない人々の間に外面的かつ一時的な平和を保つためでした。

しかし、キリストとその弟子たちには別の召しが与えられています。キリストはモーセの平和でもなく、外面的な肉の平和をもたらしたのでもありません。

そうではなく、キリストはご自身の弟子たちが互いの間に平和を持つよう呼びかけられ、こう仰せられました。「わたしはあなたがたに平安を残します。わたしがあなたがたに与える平安は、世が与えるのとは違います」(ヨハネ14章)。

この世はキリストの平安を知らず、心の平安を味わったこともありません。心に平安を宿している人のみが、迫害に耐え抜くことができるのです――たとえ、それがどんなに激しくとも。

キリスト以前には、このような平和(平安)について知る者はいませんでした。

キリストが私たちを自由にしてくださったため、私たちは平安を持つことができ、キリストがこの世を去ったことで、慰め主が私たちの元に来てくださったのです(ヨハネ16章)。

私たちは現在、不平を言わず、反抗もせず、ありとあらゆるこの世の艱難を甘受しています。なぜなら、私たちの心には平安があるからです。

まことのクリスチャンは、お互いに法廷に訴え出るようなことをして、文句を言ったり抗議したりする者ではありません。

お互いに責め合っている人たちは、真の平安を知りません。そういう人々はこの世の民です。しかしまことのクリスチャンは、心に平安を持っています。

なぜなら、キリストが彼らの主であり審判者であり、やがてキリストが全世界をお裁きになることを知っているからです(使徒17章)。

仕えるのであって、支配するのではない

キリストの務めは、モーセの務めよりもはるかに高いところにあるので、キリストに従う者は、もはや律法によって責められることがなく、また他の人を責めることもしないのです(ヘブル3、8章、Ⅱコリント3章)。

モーセの律法に基づいて責められたり、裁かれたりしているところには、キリストの働かれる余地はありません(ガラテヤ5章)。

ご自身を信じようとしないユダヤ人に対してキリストはこう言われました。「わたしはあなたがたを訴えようとしていると思ってはなりません。あなたがたを訴える者は、あなたがたが望みをおいているモーセです」(ヨハネ5章)。

キリストにしても弟子たちにしても、霊的もしくは肉的な方法で人を訴え出るようなことはしませんでした。その反対に彼らは忠実で忍耐強く、柔和な霊を宿していました。

イエスはご自身に従う者たちにおっしゃいました。「もしあなたがたが、わたしのことばにとどまるなら、あなたがたはほんとうにわたしの弟子です。そして、あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします」(ヨハネ8章)。

このキリストにある自由は、すべての上にあるものです。全ての被造物はそれに仕えなければなりませんが、それは支配することを欲しません。そうではなく、ただただ仕えることを望んでいるのです(Ⅰコリント9、10章)。

いとも高き主、キリスト・イエスは、支配し、強制し、裁き、責め、ご自身の前に訴えさせるために来られたのではありません。その反対に、キリストは仕えるために来られました。

そして他の人から支配され、強制され、責められ、裁かれ、非難され、虐待されることをお許しになりました。

自分たちがキリストに似た者であるか否かを知りたいですか。キリストをみてください。そういった意味でキリストは私たちが見るべき鏡です。

そしてもしそうするなら、「この世の政府に関わる仕事に従事すべきか否か」という問題はおのずから解決されるでしょう!

エリヤの霊とキリストの霊

私たちに反対する人々はすぐに――アブラハム、ヤコブ、モーセ、ダビデといった――この世の武力を行使しつつも、依然として神の霊に満ちていた人々の例を持ち出してきます。

彼らは言います。「神の霊を持っている人は誰でも、キリストの霊をも持っているはずだ」と。利己心と私有財産を守ろうと、サタンはここでも懸命に立ち働いています!

私たちの論敵が見落としている点は、当時、(上述したように)武力行使が必要だったということです。というのも、人は堕落し、すべての人は肉に従って生きていたからです。

肉的勢力および恐怖に基づく政府無しには、カインとアベルの例が示すように(創4章)、どんなうわべの平和も存在しえなかったのです。

しかし、「完了した」と言いながら、キリストが死なれ、罪および肉の働きに勝利された時(ヨハネ19章)、キリストは、肉の普遍的支配を終わらせたのです。

今や、キリストに従う者は、非難と復讐心に燃えたエリヤの霊と、新生した者に与えられるキリストの霊の違いを識別しつつ、御霊の自由のうちに歩むことができるのです。

主の霊が働いているのを目の当たりにしたイエスの弟子たちは、エリヤのように敵を滅ぼすように主に言いました(ルカ9章)。

それに対して主はこう言われました。「あなたがたは自分たちがどんな霊的状態にあるのか知らないのですか。人の子が来たのは、人のいのちを滅ぼすためではなく、それを救うためです。」

同様に、主につく者は、人を滅ぼす(殺す)ことなどできないのです。

あなたにご質問します。

復讐と裁きの念に燃えたエリヤは、神の霊を持っていなかったのでしょうか(Ⅱ列王1章)。

それともエリヤとは異なる態度をとられたキリストは、過ちを犯したのでしょうか(あなたの主張するように、神の霊とキリストの霊がいつも同じように働くとしたら、の話ですが。)

利己的な人は、隣人愛にこじつけて、自分たちのことを正当化しようともします。

つまり彼らはこう尋ねるのです。

「われわれの隣人が危険にさらされている時、できることなら、私たちは彼らを守ってあげるべきではないだろうか。神は私たちにそうする責務を課しておられないだろうか。隣人が困っているなら彼らをないがしろにしてはいけないし、自分にしてもらいたいことは、ほかの人にもそのようにしなさいと神はおっしゃっていないだろうか(マタイ7章)。」

そのような人間的な論法を使って、シモン・ペテロはキリストを守ろうとしました。しかしそれに対し、キリストはどうされましたか。

主は、ペテロがこの世の力(=暴力)を使って切りつけた男に歩み寄り、この男をいやされたのです(ルカ22章)。他の人を傷つけたり侮蔑したりするような種類の愛を、キリストはお望みになっていません。

むしろ主は、私たちが最も劣悪な敵をも愛し、憎むことをしない――たとえそういった敵が私たちに何をしようとも――ことを望んでおられるのです。

キリストにある自由のもたらす結果

私たちは皆、かしらであるキリストの下にあってひとつの体です。もし一つの肢体が苦しむなら、私たちは皆それと共に苦しみます(Ⅰコリント12章)。

忍耐と愛がこの体を治めており、他のすべての人に対しても、キリストにある忍耐と愛をもって接するよう促します。私たちは敵を害することなどできません。

もしお互いを守るために彼ら敵を害するなら、私たちはキリストのうちにはおらず、この世の如き、肉的連合――「もしあなたが私を助けるなら、私はあなたを助けよう」といった連合です――のうちにあることになります。

まことのクリスチャンは、敵であろうと味方であろうと、自分たちの助けが他の人に危害を加えない限り、最大限、相手を助けます。兄弟愛の精神は、彼らの間にあって決して欠けてはいません。

実際、キリストに従う人々は相手を助けることにおいて徹底しており、必要ならば相手のために死ぬ用意もできているほどです。キリストにある完全な愛は、友にも敵にも及ぶのです。そしてこれがキリストにある自由および主との霊的つながりがもたらす結果なのです。

キリストは、天におられる御父より愛の賜物を私たちに伝えてくださいました。私たちの魂がキリストに従順になると、私たちの血肉もまた主に従順になります。そして支配者になったり人々を従わせたりすることは全く私たちを魅了しなくなります。

キリストをおいて他に、私たちを魅了するものは何もないのです。私たちの肉体は弱いですが、霊は燃えているのです(マタイ16章)。

肉的支配が未だにキリストの御国とごちゃ混ぜになっている所では、キリストの死は、なんら効力をもちません。十字架上での死により、キリストは従順、忍耐、そして全ての人に対する愛の道を学び、かつそれをお教えになりました。

昨今、多くの人が聖書の御言葉から(武力行使の正当性を)立証しようとしていますが、そういった主張とは反対に、キリストはこの世の力(武力)を全くお用いになりませんでしたし、支配するためにこの世に来られたのでもありませんでした。

キリストがどのように財産や政府を取り扱っていたのかをよく調べれば調べるほど、キリストがそういったものに関与しておられなかったことが分かるようになります(マタイ20章)。

争いと不和の原因

まことのクリスチャンに反論する人々は、そういったクリスチャンのことを無政府主義者(アナーキスト)だといって非難します。

また、十一税を払っていない、誰からも支配されたがらない不従順な個人主義者だ、権力に飢え渇いている、、などと非難します。さらにこういったクリスチャンは自分たちのことを「ユダヤ人の王」と呼んでいるのだと、彼らは言っています。

サタンが、どんな思いつきを持って、キリストおよび弟子たちを責めたのか考えてみてください!

この世の人々や自分はクリスチャンだと公言している人々に一つ質問します。

地上的な権力に対する渇望が、あなたの争いや不和の原因ではありませんか。

自分の上に君臨する政府に腹を立てつつも、こと私有財産に関しては、その政府に守ってもらいたがっているのは、他ならぬあなたではないでしょうか。

この世の秩序を維持することのできる政治権力というのは、世から怒りを買うものです。なぜなら、神はそういった政権に、裁き、罰する権利を授けられたからです。

しかし、その裁きや懲罰は、正しいこともあれば間違っていることもあるのです。

神より権威をいただいたピラト(ヨハネ19章)は、罪なきキリストの裁きの座につきました。

しかしキリストはピラトに訴えかけることをしませんでした。子羊のように、この世の権力者に宣告されるままに、主は苦しみをお受けになりました。

同じように、神の小羊は、この世の終わりまで苦しまねばならないのです。ペテロもパウロも私たちに、キリストのように死に至るまでこの世の権威に従うよう呼びかけています(Ⅰペテロ2章、ローマ13章)。

私たちは暴力を甘受しなければならないかもしれません。しかし、他の人の上に君臨したり、彼らに暴力(武力)をふるったりしてはならないのです。

さあ私に答えてください。どちらがより政府に対して従順ですか。

――自分の権利が守られることをひたすら要求し、不当な扱いに甘んじまいとする人。もしくは、自分の権利に対する主張をせず、神の愛にうちに一切を忍ぼうとする人、です。盲目な人々よ、答えてください。

キリストの道と世俗権力の道

惑わしを受けている人々は、自分がクリスチャンであるといって誇っています。

彼らは自分たちがキリストの御霊によって統治されていると言いながら、誰か別の人に統治をお願いしているのです――その誰かというのも、キリストの御霊を持たず、世俗権力をもって統治しようとしている人なのです。

彼らは異邦人に倣って王を欲しています。でもその王にあれこれ指図はされたくないのです。ただ守ってほしいのです。

サムエルがイスラエルの民に言ったことに耳を傾けてください(Ⅰサム8章)。

異邦人に倣い、イスラエルの民が、自分たちを守ってくれる支配者を求めた時、サムエルは、そういった支配者が権力を行使して、やがて彼らに行なうであろうことを警告しました。

しかしイスラエルの民が(サムエルではなく)神を拒絶したことをご存じの神は、懲らしめとして、民が求めたまさにそのもの(支配者)をお与えになりました。

同じように、キリストの弟子たちが主の杯から飲もうと願った時、主は忍耐強く、それをお渡しになりました。それは主の苦しみの杯だったのです(マタイ20章)。

人の子は、ご自身に従う者を、美しいやり方で、つまり御霊によって治められます。主はご自身に従う者にこう言われました。

「あなたがたも知っているとおり、異邦人の支配者と認められた者たちは彼らを支配し、また、偉い人たちは彼らの上に権力をふるいます。しかし、あなたがたの間では、そうでありません。あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、みなに仕える者になりなさい。あなたがたの間で人の先に立ちたいと思う者は、みなのしもべになりなさい」(マルコ10:42-44)。

御霊によって懲らしめを受け、矯正されることを自身に許さない人、また主の御言葉の助言に耳を傾けない人は、クリスチャンではありません(ヘブ12章)。

従って、そういう人は今もって律法に従属しなければなりません(ガラ3章)。

主の御言葉だけがクリスチャンの判断基準であり、剣です(エペソ6章、マタイ10章)。

まことのクリスチャンは自己防衛のため何ら用いません。この事実を軽んじる人は、キリストを軽んじており、キリストを軽んじる人はキリストをお遣わしになった御父を軽んじているのです(マタイ10章)。

それはちょうど、イスラエルの民がサムエルではなく、神ご自身を軽んじていたのと同様です。キリストにあって、私たちはサムエルやモーセ、族長、預言者たち以上のものを有しています(マタイ12章)。しかし人々は主を拒んだのです。

世俗権力を用いる指導者たちを神に求めるクリスチャンはしかと知るべきです。――そういう指導者たちは情け容赦なく統治するということを。

そういうクリスチャン自身、一度統治する機会を得たなら、苛酷に治めることでしょう。というのも、そういったクリスチャンはキリストの道を選ばず、世俗権力の道を選んでいるからです。

キリスト、律法の終わり

イエス・キリストはユダヤ人と異邦人を隔てていた壁を打ち砕かれたので、主はユダヤ人と異邦人の律法をよせ集め、二つのものを一つにしました(ローマ8章、エペソ2章)。

この律法のくびきから自由にされる唯一の道は、キリストが私たちに新生を与えてくださることです。つまり、私たちの古い魂と命が死に(Ⅰヨハネ3-5章)、キリストにあって新しく造られるのです。

これが起こるや、キリストは私たちの人生に入ってきてくださり、忍耐をもって私たちを満たしてくださるのです。そしてモーセや異邦人の律法へのしがらみが消えるのです。

キリストの外においては、ユダヤの律法も、異邦人の律法もいのちを与えることはできません(ローマ2章)。律法はただ、不従順で物分かりの悪い肉的な人間の口にあるくつわとしての役割を果たしています。

というのも、世俗的な人間がより良い人になったとしても、この人は依然として確認のため律法のくつわを必要としているからです。

もちろん、世俗性(肉欲)にはいろんなレベルがあります。動物にも、反抗もしくは従順性におけるいろんなレベルがあるのと同様です(例えば、馬は一般的にロバよりも従順とされています)。

しかし全ての動物は、くつわで制御されなければなりません(詩32篇、ガラ3章)。世俗性を抑えるためのくつわや馬具は、律法や人の作った決まりという、死んだ文字にすぎません。

キリストこそ(律法の恐怖から離れて)ご自身の御霊により、いのちをお与えになる方なのです(ローマ8章)。

御霊によってつき動かされる人は、神の子です。私たちは自分たちを恐怖に閉じ込めるような奴隷の霊を受けたのではなく、幼な子のような霊を受け、それを通して「アバ、父。」と呼ぶのです。

もし主と共に苦しむのなら、私たちは神の子であり相続人です。そしてやがて主と共に治めるようになるのです。キリストは律法――ユダヤの法でもなく異邦人の法でもない――で治めるのではなく、ただ神の御言葉を通してのみ治められるのです。

主こそ神の御言葉

自分のうちにキリストを持っていない人は、神の御言葉によって生きることはできません。こういう人は霊を持たない肉にすぎません。

しかし自分のうちにキリストが生きている人は、その人の心を御言葉が堅く治めています。パウロがコロサイ1章で言っているように、こういう人にはこれ以外の統治者は必要ないのです。

この御言葉(つまりキリスト。ヨハネ1章、8章)を離れたところで統治したり、罰したりする人は誰でも、暗闇の政府の一部であり、御言葉の国にいる人々の敵です。(御言葉の国というのは、ヨハネによれば、神の御子のことであり、はじめにすべての人を照らした世の光のことです。)

キリストの外においては、ただ一つの律法しか存在しません。ユダヤの律法も異邦人の律法も一つに集約されます。

同じように、キリストにあっては、ユダヤ人も異邦人もありません。誰でもキリストのうちにある者は、神にあって新しく造られたのです(ガラ3、5、6章)。

しかし福音主義者を自称する人たちがこれを混同させてしまいました。

彼らはこの世の武力を行使することを正当化しようと、キリストの福音をモーセ律法と融合しているのです。

しかし彼らは間違っています。キリストを信じる全ての人にとって、キリストは律法の終わりとなられたのです(ローマ10章)。

キリストにあって皆平等

パウロはⅠコリント6章の中で、互いに訴え出ている――それも未信者の前で――クリスチャンの非について言及しています。

パウロはこう問うています。

「キリストの知恵はあなたがたのうちにないのでしょうか。愛と忍耐をもってお互いに訓戒することはできないのでしょうか。あなたがたのうちで、もっとも素朴な人でさえも、キリストの忍耐に満たされたなら、こういうことが本来できてしかるべきなのです。それなのに、あなたがたは未信者の前で互いに争っているのです!」

キリストにある兄弟愛は忍耐と愛です。それは監督や長なしに機能するものです。

そしてそこでは地位が下の者も必要ありません。この兄弟愛の中にあっては、すべてがキリストにあって平等なのです。

長のいない所では、実際、下役が存在しないことも可能です。そしてまことのクリスチャンは皆、キリストにあって神のみこころの統治下に置かれています。すべてのクリスチャンはキリストの下にいます。

というのも、主はご自身の生ける御力により、律法の恐怖から彼らを解放してくださったからです。――その律法というのは、王権と力の構造と共に、そしてキリストのお生まれになったユダ族と共に残っています(ローマ1、9章、黙5章、ヘブル7章)。

肉の支配と肉に対する支配

族長ヤコブはユダに対して、「英雄が来て、人々が彼に従うまで、王権はユダを離れない」と言いました(創49章)。

また、ヤコブの言葉によれば、生まれながらの人は、異邦人――神の国のブタ飼い――に渡されるまで王権を握るだろうと言われています。全ての地上の王国ならびに領土は神にとって、ブタで一杯の囲いに他なりません――ブドウ園を荒らし、台無しにするブタです(詩80篇)。

そしてそういったブタの囲いを治め、守り、管理する者たちはことごとく、ブタ飼いに他ならないのです。

なぜなら、キリストの外においては、ユダヤ人であろうが、異邦人であろうが、自称クリスチャンであろうが、そこに信仰は存在しないからです(ヨハネ15章、Ⅱヨハネ1章、Ⅲヨハネ1章)。

キリストの御言葉による訓練および教えを拒む人は、クリスチャンではありません。同様に、律法の文字により、また世の武力を行使することにより、他の人々を裁き、懲らしめる人は、クリスチャンではありません。

キリストのやり方は、寛大であり高飛車ではありません。それは忍耐と愛の道です。そしてこのキリストに、すべての肉なる者を治める権威が与えられているのです(マタイ28章)。

しかし主はそれを御霊によってなされます(ローマ8章)。そして御霊は肉を完全なる服従へと導くのです。

モーセの律法の剣のように、キリストは死ではなく、いのちを与えられます(ヨハネ8章、Ⅱコリ3章)。

神のしもべであったモーセは、亡くなった時、自分の剣を手渡し、キリストを指してこう言いました。彼らの同胞のうちから、一人立ち上がらなければならない。そして人々は彼に聞き従わなければならないと(申18章)。

これに関して、キリストご自身が証ししておられます。「あなたがたがもしモーセを信じるなら、私をも信じなければならない。モーセはわたしについて預言したのであり、救いはユダヤ人から出るのです」(ヨハネ5、4章)。

キリストが来られたので、私たちはもはやモーセ――律法の剣しか知らず、御霊の律法については知りませんでした――には聞かないのです。

そうです、今や、私たちはキリストの御言葉に耳を傾けるのです。この御言葉は善と悪の分かれ目を刺し通す両刃の剣です(ヘブル4章)。

邪悪な剣は、邪悪なこの世に属します。この世の邪悪な支配者は、邪悪なやり方で、私有財産の悪を守らなければなりません。

このようにして、不敬虔な人々の間でうわべの平和が保たれるのです。というのも、キリストはベリアルと何ら関係を持ちえないからです(Ⅱコリント6章)。

しかしキリストの平和はそれとは全く違うものです。それは肉を満足させたり、財産にしがみついたりするものではありません。それは、状況がどうであるにかかわらず、友や敵のただ中にあって、大いなる喜びや平和のうちに生きることができるよう導いてくれるのです。

そしてこれが「わたしがあなたがたに与える平安は、世が与えるのとは違います」と仰せられたキリストの平安なのです。

この世は、自分の財産の権利が侵害されない限りにおいてのみ、平安を有しています。しかしひとたび自分たちの財産が危うくなるや、この平安は乱されてしまうのです。

不法の秘密

使徒時代からコンスタンティヌス帝の時代まで、初代クリスチャンは、剣やこの世の武力を一切用いることをしていませんでした。

初代クリスチャンは自分たちが剣(武力)を用いるべきではないと信じていましたし、キリストも、御言葉の剣以外のいかなる剣の使用も、彼らに許しておられませんでした。

初代教会の時代、その一線を越える者はだれであっても、異邦人もしくは異教徒とみなされました。

しかし、教会の奉仕者である教皇が、教会を、現世の権力であるレビヤタンと結婚させてしまったのです――建前上は、キリストに奉仕しているように見せかけて。そうして反キリストが誕生し、以前には隠されていた不法の秘密が現れ始めたのです(Ⅱテサ2章)。

長い間、堕落した教会は、御言葉を引用したり、善行を印象づけたりして、自らが霊的体であるかのように見せ掛けていました。

しかし今日の新しい反キリストと同様、こうした偽りの羊飼いは、羊を飼わず、屋根から囲いに侵入し、大惨事をもたらしているのです。そして彼らは羊を食い、なぶり殺しています(ヨハネ10章)。

はじめから人殺しであった悪魔と同じように(ヨハネ8章)、剣をふりかざしたこの群衆は、世俗権力を持って、犠牲者に襲いかかり、略奪、強盗を働いています。

実際に、この獣のように、人々を殺戮し窒息死させるような、これほど極悪非道な独裁者はこれまで存在しませんでした――この獣は、同胞を食い荒らし、踏み殺し、虐殺しているのです。この点において、不法の秘密は明らかにされています。

ピラトの息子たちのうち、最も誠実な何人かが、キリストは王なのかどうか尋ねました。

しかしヨハネ8章に書いてあるキリストの御言葉から、「キリストの御国はこの世のものではない」とある人が答え、またある人が、「キリストは、偽りのユダヤ人たち(つまり偽って神信仰を告白する者たち)から、ご自身に従う者たちを救うため来られた。」と説明すると、彼らは、「そんな王なら、私たちは欲しくない。」と言います。

彼らは、この世にあって、目に見える形の国が欲しいのです。そしてそれはもっともな事です。というのも、彼らはこの世の子であり、神の子ではないからです。

パウロが言うように(エペソ6章)、彼らはこの世の統治者側につく者であり、キリストに対して戦いを挑んでいるのです。そしてそういう者たちはキリストではなく、こういった統治者に支配されてしかるべきなのです。

キリストは、彼らにとって愚かな王にみえたのですから。人々が自分たちの物質的利益のためにキリストを王に立てようとした際、主は彼らの元を逃れました(ヨハネ6章)。

私たちもまた、忍耐強くやさしいキリストと、世俗権力の剣とを結婚させたがっている偽預言者たちから逃れるべきです。これが行なわれるところではどこでも、新しい反キリストが生まれます。

主が私たちをこういったものから守ってくださいますように。そしてご自身の民が、ぶどう畑を台無しにするようなブタやブタ飼いになることのないよう守ってくださるように(詩79、80篇)。

主が、ご自身のぶどう園を築く羊飼いと共に私たち羊を守ってくださいますように。そして今からとこしえまでも、私たちが、大牧者であるキリストの近くに留まり続けることができますように。アーメン。

良い麦と毒麦

終わりに、私は、キリストの国を世俗権力と一体化させたがっている全ての人――すなわち、御言葉と神の霊を媒介する以外のやり方で、善と悪を分離させたがっている人――に、キリストのたとえ話を提示したいと思います(マタイ13章)。

「天の御国は、こういう人にたとえることができます。ある人が自分の畑に良い種を蒔いた。ところが、人々の眠っている間に、彼の敵が来て麦の中に毒麦を蒔いて行った。

麦が芽ばえ、やがて実ったとき、毒麦も現われた。それで、その家の主人のしもべたちが来て言った。『ご主人。畑には良い麦を蒔かれたのではありませんか。どうして毒麦が出たのでしょう。』

主人は言った。『敵のやったことです。』すると、しもべたちは言った。『では、私たちが行ってそれを抜き集めましょうか。』

だが、主人は言った。『いやいや。毒麦を抜き集めるうちに、麦もいっしょに抜き取るかもしれない。だから、収穫まで、両方とも育つままにしておきなさい。収穫の時期になったら、私は刈る人たちに、まず、毒麦を集め、焼くために束にしなさい。麦のほうは、集めて私の倉に納めなさい、と言いましょう。』」(マタイ13:24-30)

このたとえ話を聞いたキリストの弟子たちは、イエスにその意味するところを訊ねました。

イエスの答えに耳を傾け、世の終わりの来る前に、悪人たちを除き去るべく、キリストははたして世俗権力の剣を弟子たちにお与えになったのかどうか自問してみてください。

イエスは弟子たちにこう言われました。「良い種を蒔く者は人の子です。畑はこの世界のことで、良い種とは御国の子どもたち、毒麦とは悪い者の子どもたちのことです。

毒麦を蒔いた敵は悪魔であり、収穫とはこの世の終わりのことです。そして、刈り手とは御使いたちのことです。

ですから、毒麦が集められて火で焼かれるように、この世の終わりにもそのようになります。

人の子はその御使いたちを遣わします。彼らは、つまずきを与える者や不法を行なう者たちをみな、御国から取り集めて、火の燃える炉に投げ込みます。彼らはそこで泣いて歯ぎしりするのです。

そのとき、正しい者たちは、天の父の御国で太陽のように輝きます。耳のある者は聞きなさい」(マタイ13:37-43)。

このたとえから、いかに主キリストが現在、報復する方としてではなく、救い主として働いておられるかということが分かるでしょう。

裁きの時が来る前に悔い改めるよう、主は全ての人に呼び掛けておられるのです――しかし裁きが来ると、もはや悔い改めの時は残されていません。

主は、この世の人間が、外面的で一時的なものを裁くことをお許しになっていますが、私たちが内的かつ永遠のものを裁くことはお許しになっていません。

そうすることで、麦が集められる日まで神の恵みが欠けることのないためです。もし、そうでなかったなら、キリストはこのたとえを語ることはしなかったはずです。

福音と忍耐

人が生きている限り、その人はキリストの忍耐と愛によって、悔い改めに導かれうるのです。そしてキリストご自身がヨハネ11章でおっしゃっているように、十二の時刻までキリストに戻らない人もいるでしょう。

しかし、もし私たちがその前に、悪行ゆえ、この人を殺してしまうなら、この人に悔い改めるチャンスはなくなってしまいます。

それゆえ、柔和にして謙遜なキリストは、ご自身に従う者たちに、「わたしから学びなさい。そしてすべての人を忍耐深く待ちなさい。」と言われたのです(ヨハネ13章、マタイ11章)。

上述のたとえ話の中で、主は私たちに待つよう望んでおられるのであって、剣を取って裁いたり、支配したりしなさいなどとは決して呼びかけておられないのです。

マタイ5章はほぼ全章にわたり、信仰の事柄で、いかに私たちが他人を強いてはならないか、彼らの上に君臨してはならないか、そして圧力をかけてはならないかといった事を取り扱っています。

私たちは彼らに忍耐をもって福音を提供することを学ぶ必要があります。そういうやり方をしない者は、この世に属する人であり、キリストに属する人ではありません。そういう人は未信者であり、信仰の人ではないのです。

ヨハネが黙示録13章とマタイ16章で言っているように、剣をもって戦う人は、剣によって裁かれるでしょう。

またキリストおよび御言葉という鋭い剣に信仰をおかない未信者は、剣によって損なわれ、食い尽くされるにちがいありません(ルカ21章)。

誰でも主を信じない者は、すでに裁かれているのです(ヨハネ3章)。

それゆえ、ご自身に従う者に対して主はこう言っておられます。「死人に死人を葬らせなさい。」と。なぜなら、キリストの外側に義はなく、主を離れて、いかなる肉も義とされないからです。

キリストにあって、私たちの知る唯一の剣は、御言葉の剣です。

私たちが裁き、裁かれるのは、この剣を通してであり、キリストが使いなさいと私たちに命じられたのは唯一、この剣だけです。私たちは御言葉を信じない人々から――彼らが悔い改めるまでは――自らを引き離すべきです。

そして彼らが悔い改めたならば、彼らを愛と忍耐をもって受け入れるべきです。これが、今の時における真のクリスチャンの裁きです。その他の方法で裁くようにはキリストは言っておられません。

これが行なわれるところでは、まことのクリスチャンは自らを聖く保ち、御霊の自由のうちに、すべてのものは彼らにとって聖くなります。

愛にある信仰の希望を通して、柔和さ、寛容さ、そして謙遜さをもたらすものは何であっても、聖いのです。テトス1章のパウロの言葉(「きよい人々には、すべてのものがきよいのです。」)の背後にサタンは隠れたがっていますが、この外側にあるもので聖いものは何もありません。

キリストにある者は、キリストのご性質を表します。すなわち、それは信仰、愛、希望、忍耐、柔和さ、謙遜、心のきよさ、慎み、その他、信仰を通して来る全ての徳です。

しかしそこに信仰がないのなら、すべての良い習慣や知識は――それらがどんなに良く目に映ったとしても――けがれています。それらは神の面前に忌まわしいものです。

それはちょうど異邦人が多くの徳で自分を飾っても、その不信仰ゆえに神の前にけがれているとみなされるのと同じです。

まことのキリスト者の自由

もし人が天使や使徒、もしくはキリストご自身の働きをしたとしても、そこにキリストに対する信仰がなければ、それはけがれています。

それゆえ、パウロは、キリストに対する信仰のないすべての徳はけがれていると言っており、(ちょうど「キリストにある自由」を誇っているサタンのように)キリストが私たちに命じられたこと以外のことをすることが許されていると考えるべきではありません。

まことのクリスチャンは、自らの「自由」を用いて、他の人―それが敬虔な人であれ不敬虔な人であれ――を支配することはしません。

こういったクリスチャンは、いかなる種類の武力も行使せず、むしろ自分たちが支配されることに甘んじます。この世の終わりまで彼らは、忍耐と愛を持ち、力と暴力の下に苦しみます。彼らは主人であるキリストのしもべとしてとどまり続けるのです。

そして、このキリストは、仕えられるためではなく、仕えるために、そして支配するためではなく、他の人の支配に甘んじるために来られたのです。

まことのクリスチャンは、政府のことをあれこれ心配する必要はありません。政治家なら、この世にあふれるほどいます。

まことのクリスチャンはむしろキリスト者としてとどまり続けることに心を集中し、小羊の勝利を得るべく、御父とキリストの誉れを得るべく奮闘しているのです。

今よりとこしえまでも、栄光、尊厳、誉れ、栄誉はただ神に属するものです。アーメン。

キリストと使徒たちが(特にエルサレムで何千という人の回心をもたらした聖ペテロが)、教会を治める長を任命しなかったことは不思議ではないでしょうか。

新しい「福音主義者」によれば、キリストおよび使徒たちは、先のことを見通す目があまりなかったにちがいない、というのです。

なぜ神はレビ人たちに対し、イスラエルの地に相続地を与えられなかったのでしょうか。そしてなぜ神は彼らに財産や政治的支配権を与えらなかったのでしょうか(申18章、ヨシュア14章)。

もしレビ人がこういったものに関わりを持つべきではなかったとしたら、メルキゼデグの位に等しいキリストの霊的かつ王的祭司職につく者は、どれほど一層そういった関わりを避けるべきでしょうか!

あらゆる肉の働き、および肉的支配は彼らの下に一切持ってこられるべきではなく、祭司職の予表は、パウロがヘブル7、8、9章、そしてキリストがルカ9章で言っているように、彼らのうちに成就されるべきなのです。人の子は枕する所もないとキリストはおっしゃいました。

使徒たちによって与えられた、聖霊による最初の決議案は、ユダとシラスによってアンテオケおよび全教会に送られました。その趣旨はこうでした。

「聖霊と私たち使徒は、次のぜひ必要な事のほかは、あなたがたにその上、どんな重荷も負わせないことを決めました。すなわち、偶像に供えた物と、血と、絞め殺した物と、不品行とを避けることです。これらのことを注意深く避けていれば、それで結構です」(使徒15章)。

この決議が御霊の導きの下に書かれたことを考慮しないまま、ただ単に律法の文字によって鑑みるなら、これはユダヤ教的な基準作りの継続に他ならないように見受けられるでしょう。

しかし実際には、使徒たちのこの言葉を通してお語りになったのは、神の御霊なのです。

今日の教皇および反キリスト教的な偶像礼拝は、過去におけるあらゆる異教的偶像礼拝以上にひどいものです。

パウロがⅠコリント10章で言っているように、もし誰かが、この食べ物は偶像にささげられた物だと告白するなら、聞いたその人はそれを食べるようなことはしないでしょう。この点に関して、教皇の偶像礼拝は、偶像を礼拝するにとどまらず、それ自体偶像なのです。

というのも、反キリストとその追従者たちは、それを食べるよう私たちに強制しようとしているからです。神の御霊がそれから離れているよう警告しているのももっともなことです。

血と絞め殺された物に関する限り、聖霊はモーセ律法で咎められている物に関してのみ語っています。

むしろ聖霊は詩篇16篇の記者のように、「私は、彼らの注ぐ血の酒を注ぐことはしない。」と言っています。

世俗権力が、キリストの国に加わろうとしているこの終わりの時代、こういったことは私たちの目に明らかになっています。

キリスト教徒を自称する者たちが、他の人間の血を流しています。これは、聖霊によってはっきりと禁じられていることであり、絞め殺された物に関与することです。こうして様相は混沌を増しています。

キリストによれば、絞め殺すべきは、財産に対する執着心、そしてこの世の富や栄誉なのです。

良い種がいばらの中に落ちると、それはふさがれて、成長する前に枯れて(窒息死して)しまいます。そして実を結ぶことなく死んでしまうのです。

このようにしてふさがれた御言葉の上に、反キリストの王国は建てられ、聖霊の警告にもかかわらず、ほとんど全ての人はそこから食糧を得ているのです。

第三番目に、不品行のことですが、これは肉的罪以上のことを示しています。これは大淫婦との霊的不品行のことを示しているのです(黙17、18章)。

そして地上の諸王ならびに全ての人は、この大淫婦の仲間に連なり、今に至るまで連なり続けているのです。(この大淫婦は背教した教会のことであり、以前はキリストの花嫁であったけれども、世俗権力を持つ男と同棲するために、最初の夫の元を去ったのです。)

すべての神の子は、気を付けて、この女から離れているべきです。もしそうするなら、私たちは正道を行くことになります。

聖霊のなぐさめがあなたがたと共にありますように!アーメン。

(本編おわり)

Green park 2

4 あとがき(文献案内)

ほぼ400年に渡って、ピルグラム・マールペックの小冊子Aufdeckung der Babylonische Hurn vnd Antichrists alten vnnd newen gehaimnuss vnnd grewel. Auch vom sig, frid vn herrschung warhaffter Christen vn wie sy der Oberkait gehorsamen das creütz on aufrhur vnd gegenweer mit Christo inn gedult vnd liebe tragen, zum preiss Gottes vnd allen frumen vnd Gottsuchenden zu dienst, stercke vnd besserung an tag gebrachtは、人知れず、ヨーロッパにある二、三の図書館に眠っていました。

Sachsse氏が1913年に発表した、バルターザル・フープマイアーに関する伝記の中で、マールペックの本作品のことが触れられており、それによってこの作品は、初めて学会で注目されるようになったのです。

その後、1958年に、ハンス・ヒレルブラントが小冊子の第二刷(1540年、アウグスブルグ)の複写を、Mennonite Quarterly Reviewの中で紹介しました。

今日、キリスト教界の一角で、「バビロンの大淫婦」という用語が特別な黙示録的含みを持って使われている現状を鑑みた結果、それとの混同を避けるため、英語タイトルはドイツ語の原題とは異なっています。(英語タイトルは、ドイツ語の長い題名の一句を基に作成されました。)

副題は、読みやすさを考え、本英語版にて付け加えられたものです。

本作品およびその歴史的背景についてさらに深く探求したい方は、下に挙げる文献を参考にしてください。

しかし、私たちが文献を挙げた主たる目的は、読者の方々のピルグラム・マールペックの神学に関する理解を完成させるためではありません。

むしろ、私たちの願いは、この小冊子につき動かされ、感銘を受け、私たちがすべての世俗権力との癒着を否み、忠実に主イエス・キリストにつき従う者となることにあります。

Neal Blough. “The Uncovering of the Bablonian Whore: Confessionalization and Politics Seen from The Underside,” MQR 75 (Jan. 2001): 37-55.
Stephen B. Boyd. Pilgram Marpeck, His Theology and Social Theology. Durham: Duke University Press, 1992.
William R. Estep. Anabaptist Beginnings (1525—1533). Nieuwkoop: B. De Graaf, 1976. This contains a translation of excerpts from the Aufdeckung.
Hans Hillerbrand. “An Early Anabaptist Treatise on the Christian and the State,” MQR 32 (Jan. 1958): 28-48.
Walter Klassen. “Investigation into the Authorship and Historical Background of the Anabaptist Tract Aufdeckung der Babylonischen Hurn,” MQR 61(July 1987): 251-261.
Werner O. Packhull. Hutterite Beginnings: Communitarian Experiments during the Reformation. Baltimore: Johns Hopkins University Press, 1996.
Werner O. Packhull. Mysticism and the Early South German—Austrian Anabaptist Movement, 1521—1531. Scottdale, Pa.: Herald Press, 1977.
Werner O. Packhull. “Pilgram Marpeck: Uncovering of the Babylonian Whore and Other Anonymous Anabaptist Tracts,” MQR 67 (July 1993): 351-355.
James M. Stayer. Anabaptists and the Sword. Lawrence, Kan.: Coronado Press, 1976.
James M. Stayer. The German Peasants’ War and Anabaptist Community of Goods. Montreal: McGill-Queen’s University Press, 1991.

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対話ということばには独特のひびきがあります。

私たちは日常、多くの人と接し、言葉を交わします。

でも、〈相手〉と〈わたし〉が真に向き合って、対話をする瞬間というのは意外に少ないものです。相手の話をきくようなそぶりをしながら、その実、自分の考えや思いでいっぱいになっている場合が多くないでしょうか。

でも、それは、とても残念なことだなあと思います。

神さまは時と状況をそなえ、今、目の前にいる〈相手〉を通して、私に何かを教え、語ってくださっているかもしれないのです。その〈相手〉は、子どもかもしれないし、自分とは意見を異にするクリスチャンかもしれない。あるいはまた異教徒かもしれない。

そう考えると、私たちの周りは、実は、〈宝〉でいっぱいなのかもしれません。

そして私たちの周りには、〈歩く教材〉がここかしこにいて、私たち側の心の窓さえ開いていれば、日々、〈新しい気づき〉という祝福が与えられるのかもしれません。

☆☆

今日は、私があるムスリム婦人との対話から気づかされたことを、みなさんにお分かち合いしたいと思います。

二年ほど前のことですが、あるムスリム婦人が私たちの集会にやってきました。「姉妹、ちょっと、折り入ってお話したいことがあります」と言われ、私たちは、台所の小さなテーブルを囲んで腰を下ろしました。

「もし、私でよければ、なんなりとお話ください」と言うと、彼女は、居ずまいを正し、やがて思いきったように、話し始めました。

「わたし、イエスさまが好きです。キリスト教にも興味があります。でも、一つ問題があって、、、というのも、あの、クリスチャンの方々は、イマーム・ホセインを敬いません、、よね。でも、わたしにとって、イマーム・ホセインの存在は、すごくすごく大切なんです。だから、、、だからわたしは、クリスチャンにはなれないって思うんです、、、」

そう言うと、彼女は涙でいっぱいになった目を上げて、私をじっと見ました。

彼女の真剣な目を見ながら、私は心の中で〈ああ、主よ、今、目の前に、あなたを求めている魂がいます。でも私は今、彼女の問いにどう答えたらいいのか分かりません。どうか知恵を与えてください〉と必死に祈りました。

そしてこの婦人の肩に手をおいて、慎重に言葉を選びながら話しはじめました。

「Fさん。心を開いて、その葛藤をありのまま打ち明けてくださって、ありがとうございます。Fさんは、イエスさまが好き。でもイマーム・ホセインも好き。だから、二人の間でどちらかを選ばないといけないって思って、それで心が苦しいんですよね?」

「そう、まさに、そうなんです。」彼女は力強くうなずきました。

「わかりました。Fさん、まず知ってほしいのは、神さまは全ての人を愛しておられるということです。神さまはイマーム・ホセインをも愛しておられるのです。彼も神の被造物ですから。

だから、Fさんがイエスさまを選んだからといって、他の誰かを憎まないといけないっていうことにはならないと思います。そこはどうか安心してください。

ただ、私はイマーム・ホセインがどういう方だったのかよく知らないので、正直、Fさんのその葛藤を分かってあげることができません。ごめんなさい。でも、次に会う時までには、この方について自分なりにいろいろと調べてみますので、どうか待っていてください。」

そう言って、その日、私たちは別れました。

翌日、私はこの婦人に約束した通り、イマーム・ホセインについて調べました。

それによると、彼はシーア派第3代イマームで、アリとファーティマとの間に生まれた第2子ということでした。ウマイア朝の創始者ムアーウィアが息子ヤジードをカリフの継承者と定めると、ホセインはこれを認めずウマイア朝側と対立します。

ホセインはあくまで、宗教の純化を願っていたようです。そこで少数の同志と共に680年挙兵しましたが、カルバラー(現イラク)でウマイア朝軍に包囲され、非業の死を遂げました。

人々は彼のその痛ましい死を悲しみ、シーア派ではその後、今日に至るまで毎年、「殉教者ホセイン」の命日を固く守っているそうです。また、ホセインの戦死したカルバラーの地は、聖地となり、毎年、多くの巡礼者が当地を訪れているそうです。

こうして調べていく中で、なぜF婦人にとってイマーム・ホセインがそれほど大切な存在なのか、少し分かったような気がしました。それと同時に、イエスさまとの違いにも気づくことができました。

私は彼女に手紙をしたためました。

「、、、Fさん。イマーム・ホセインは自分の信じる宗教に忠実で、死を覚悟してまで、この宗教の純化のために戦おうとした勇敢な人だったと思います。私はそこに敬意を表します。

ただ、ここで一つ、申し上げなくてはならないことがあります。それは、キリスト教の中では、《目的は手段を正当化しない》ということです。

たとえ、高尚な目的(→宗教純化運動)があったとしても、それを実現するために、武器を取って蜂起するというのは、イエスさまの望まないことです。

イエスさまは「悪い者に手向かってはいけません。あなたの右の頬を打つような者には、左の頬も向けなさい」また、「自分の敵を愛しなさい」とおっしゃいました。

だからキリスト教においては、目的だけでなく、手段もまた聖く平和的なものでなければならないのです。」

☆☆

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私にとってF婦人との対話は、イエスさまの教え―特に山上の垂訓―のすばらしさを再発見するきっかけとなりました。

やっぱり、イエスさまの教えはすごい。その愛の教えは、どの側面からみても、筋が通っている、と私は改めて感動を覚えました。

しかしそれと同時に、その愛の教えに生きてこなかったキリスト教の血に染まった歴史は、それまで以上に私の良心を揺さぶりました。

私はF婦人に、キリスト教では、《目的は手段を正当化しない》と書き送りましたが、私たちのキリスト教の歴史はむしろ、それとは反対のことを証ししています。

クリスチャンは、4世紀のコンスタンティヌス帝以来、みずからの〈高尚な〉目的を果たすために、ありとあらゆる残酷な手段を用いてきました。

例えば、「正義の戦争論(Just War Theory)」というのは、そういうプロセスの中で生み出され、神学者たちの巧妙なレトリックによって正当化され理論付けられてきた、悲しむべき私たちの負の遺産です。

例えば、アウグスティヌスは、クリスチャンが戦争で人を殺していいということを正当化するために、次のようなレトリックを用いました。

「、、主イエス・キリストは、『しかし、わたしはあなたがたに言う。悪人に手向かうな。もし、だれかがあなたの右の頬を打つなら、ほかの頬をも向けてやりなさい』と仰せられたことから、神は戦争行為を是認しえないとみなす向きがあるだろう。しかし、それに対する答えを言うなら、ここで要求されているのは、肉体的行為ではなく、内的(心の)傾向のことなのである(Augustine, ch.75; Schaff, Fathers, vol.4, 301)。」

つまり、あるクリスチャン兵士が、戦場で、敵の誰かを銃剣でグサッと刺しても、その兵士が心の中で、その敵を「愛していれば」それでOKという論理なのです。良心の呵責を感じることなく安心して殺していいよ、というわけなのです。

そして、敵国の人々を心の中で「愛していれば」、たとい上空から焼夷弾を落としても、それによって何百という命が瞬時に失われることが分かっていてもOKだよ、というのです。

というのも、「敵を愛しなさい」というイエスさまの教えは内的心の傾向のことを言っているのであって、肉体的行為(爆弾を落とすという行為)のことを言っているわけじゃないのだからと。

同じように、アウグスティヌスは、異端(=非カトリック)を教会の教えに引き戻すという高尚な目的のためには、「鞭の恐怖ないし鞭の痛み」という手段を使ってもいいという理論付けをしました。

その結果は、ご存知のように、中世全体を通し、キリストの御名の下に行なわれた残酷な異端審問、拷問、火あぶり、集団虐殺、、、の数々でした。

ではこの理論は、中世だけのものだったのでしょうか。

いいえ。とてもとても残念なことに、この理論は近代に入っても生き続け、今日に至るまで、私たち福音主義教会のただ中に温存されているのです。

わたしたちキリスト教会のこういう状況をかんがみた時、「まず自分の目から梁を取りのけなさい。そうすれば、はっきり見えて、兄弟の目からも、ちりを取り除くことができます(マタイ7:5)」というイエスさまの御言葉が新しい光をもって心に迫ってきます。

イエスさまのリアリティーを、ムスリムに、この世の人々に証ししていくためには、まずもって、自分たちの目から梁を取りのける真摯な努力が必要だと思うのです。

それでは、私はなにができるのだろう?私はどうしたらいいのだろう?

小さなことかもしれませんが、私は、このブログを通して、こういった理論が、歴史的キリスト教(ニカイア公会議以前の初代教会の信仰と生き方)ではないということを、証ししていこうと思いました。

☆☆

F婦人との対話を通して、主は私にさまざまなことを教えてくださいました。

ああ主よ、これからもあなたのくすしき教えをしもべに授けてください。

主イエスさま、あなたの教えは真実です。あなたの教えは愛そのものです。

「敵を愛しなさい」と言われたあなたのことばは、レトリックでもなく、条件つきのものでもありませんでした。あなたは本気でこの言葉をおっしゃいました。そしてその言葉通りに、敵を愛しつつ、十字架上で死んでくださいました。

イエスさま、あなたの跡に従うわたしたちクリスチャンを、あらゆる惑わしから守ってくださり、あなたの真理の光の下に歩んでいくことができるように助けてください。

イエス・キリストの尊い御名によって祈ります。アーメン。

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満開の月見草

中東の人々が集まる私たちの集会では、イエスさまを信じた人がすべての民族をわけへだてなく愛するよう、彼らを励ましています。

そしてその中でも特に、ユダヤ人に対しては、ことさら配慮し、彼らがユダヤ人を愛し、彼らのためにとりなし祈るよう励ましています。

なぜなら、ユダヤ人に対する憎悪は、幼い時から彼らの脳裏に深く刷り込まれているからです。

「主よ、どうか私たちが具体的にユダヤ人に愛を示すことができるような機会を与えてください」というのが数年来の私たちの祈りでした。

そして主は昨年、その祈りに答えてくださったのです。

山道で疲れ切っていた、あるバックパッカーを助けたのですが、訊いてみると、その青年はイスラエルからの旅人だったのです。

かねてからユダヤ人のために祈っていたイラン人クリスチャンのH兄は、もろ手を挙げてこの旅人(I君)を歓迎し、ありとあらゆる親切を尽くしました。

I君曰く、「生まれてはじめてイラン人の家に泊り、同じ釜の飯を食べた」ということでした。

私はある日、二人が仲良く夕飯を食べている姿を見ていたのですが、「味覚にしても、調味料にしても、食べ方にしてもユダヤ人とイラン人って似ているんだなあ。やっぱり二人とも中東人なんだなあ」と、そのことに新鮮な感動を覚えました。

平べったいアラビック・ナンで、お皿に残った最後のルーをこさいで食べるところまで同じで、思わず笑ってしまったほどでした。

H兄の愛とまごころがI君に伝わったらしく、I君は私たちに心を開いて、いろんなことを語ってくれました。

祖父母がホロコーストの生き残りだったこと。「どうして自分はユダヤ人としてこの世に生まれてきたんだろう」と、ユダヤ人であることの重さに耐えられないものを感じていた苦悶の20代。

そして今ようやく、ユダヤ人としての自分を受け入れることができるようになったことなどを切々と語ってくれました。

また、H兄がどのようにイエスさまを信じるにいたったかを話すと、I君の方も真剣に耳を傾けていました。

そしてI君の旅が終わる頃には、二人の間には固く美しい友情が結ばれていたのです。

そのI君から今週に入って、私たちのところに、2通メールがきました。

「最近は、日に数回は、防空壕に走って避難しています。でも、生きているっていうだけでも、感謝しなくちゃね。

僕たちがユダヤ人であるっていうこと、そして周りのみんなが、特別な理由もなしに自分たちを殺したがっているという事実―、これを受け入れるしかないのかな。

、、どうしてこの世の人々は僕たちが嫌いなんだろう。でも、僕はこれからも、これ(ユダヤ人であること)を背負って生きていかなくちゃならない。」

身につまされる内容でした。I君の心の叫びが聞こえてくるようでした。

「いよいよ危なくなったら、すぐにアテネにおいで。いつでも待ってるから」とH兄が国際電話で伝えました。

現在、イスラエルの情勢は緊迫していますが、中東の和平を心から祈ります。

イスラエル側でI君をはじめとする多くの若者がアイデンティティに悩み、苦悶しているのと同様、パレスチナ側でも、O君やKさんといった具体的な名前をもつ若者が、「なぜ、どうして?」という問いを抱えつつ、生きているのだと思います。

Elias Chacourというパレスチナ人クリスチャン(神父)が、『血の兄弟』という自叙伝を書いていますが、これもまた傾聴に値する、真実な証しでした。

最近は、神学的・政治的イデオロギーによって、クリスチャンが、イスラエル側かパレスチナ側か、どちらかの陣営につくという構図がみられます。

でもひとりひとりの人間をみた場合、どちらの側にも、好戦的な人もいれば、主を愛し平和を愛する神の子もいます。

〈悪の枢軸国〉といわれる国の民の中にも、H兄のような愛にあふれるクリスチャンがいるかと思えば、いわゆる〈クリスチャン国家〉におそろしい狂信者がいたりします。

国籍や民族によって、人にレッテルを貼ることの不条理さをここにも見ることができます。

ネモフィラ


私たちの愛してやまないI君が、いつの日か、平和(シャローム)の君であるイエスさまに出会うことができますように。

そしてフェンスの向こう側にいるパレスティナのO君やKさんの心にも、イエスさまが訪れてくださいますように。

アーメン。