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What Did Martin Luther Believe About Head Covering?


(執筆者:ジェレミー・ガーディナー)



この記事は、教会史の中における指導者たちのベール観について見ていくシリーズの一篇です。


まず、はじめにみなさまにことわっておきたいことがあります。それは、こういった指導者たちの見解、言葉の選択、結論といったものが、私たちHCMサイト側のえり好みによる引用として誤解されてはならないということです。


私たちは、自分たちの同意する部分だけを意図的に選択し、そこの部分だけ引用するといったことをせず――、あくまで忠実に彼らの被り物に対する立場や意見を示していくよう努めており、それが本連載記事の目的でもあります。



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マルティン・ルター



1525年1月15日、マルティン・ルターは、結婚に関する説教をしました。その説教の中で彼は次のような事を言っています。


女性たちよ、あなたがたは、主に従うように自分の夫に従いなさい。なぜなら、夫は妻のかしらだからです(エペソ5:22-23参)。またコロサイ3章も同様です(コロ3:18)。


それゆえ、妻はかしら(頭:head)から取って造られたのではないのですから、妻は夫を支配してはならず、夫に従い、恭順でなければならないのです。


こういった理由ゆえに、妻は被り物(headdress)、つまり頭の上にのせるベールを着用するのです。パウロが1コリント2章に書いているように、、妻は夫への従順の下にあります。1)




ルターはここで「ベール」と「創造の秩序」をダイレクトに関連づけています。ルターは、「女性は男性の頭から取って造られたのではなく、あばら骨から取って造られた」ということを指摘しています。


彼はシンボリズムの観点で、女性が男性の「どの部分から」造られたのかということを重要視しているわけです。


「あたかも女性が男性のかしらであるかのように――そのように女性は、男性の頭から取って造られたのではありません。そうではなく、女性は、自分が夫の〔権威の〕下におり夫に従うということを示すべく、被り物を着けているのです」ということをルターは言っています。


妻たちが被り物をすることの必要性に再度触れ、ルターは次のように言っています。


それに加え、妻はベールを着けなければなりません。それは敬虔な妻が、夫の事故、病気、邪悪な肉体ゆえの災いや不幸などに付き添い、彼の世話をする義務にいそしむのとちょうど同じです。2)




この引用文から分かるのは、ルターが被り物を「やってもやらなくてもいいオプショナルなものだ」とは考えていなかったということです。というのもここでルターは、「夫を助けるという妻の『義務(“duty-bound”)』と同様、妻はベールをかぶらなければならない」と言っているからです。


またルターは女性の被り物(そして毛皮)をかなり好ましく思っていたことが次の文章からもうかがえます。


毛皮と被り物は、女性たちにとって、もっとも魅力的かつ誉れ高く、純粋にして不可欠な飾りです・・・3)




こういった文献学的な資料だけでなく、たとえば中世の美術作品からも、マルティン・ルターの被り物に対する信条を確かめることができます。


デンマークにあるコペンハーゲン国立博物館には、ルターの説教する様子を描いた1561年の絵画が保存されています。この絵画を見ていただくとお分かりだと思いますが、女性がベールをかぶっているだけでなく、男性は男性で、やはり頭に何もかぶっていないことが実写されています。


ということは、マルティン・ルターの教会では、被り物が、スタンダードな慣習だったということですね!




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説教するマルティン・ルター(1561)





ルターの奥さんであるカタリ―ナ・ヴォン・ボーラの肖像画からも、彼女が被り物をしていたことが示されています。またこれらの絵画から見て取れるのは、被り物の慣習は、ルターの教会内だけにとどまらず、彼の家庭の中においても実践されていた、ということが分かります。




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カタリーナ・ヴォン・ボーラの被り物





マルティン・ルターのベール見解のまとめ



① ルターは「被り物は今日も適用されるべき」と考えていた?  


Yes!


② どんな時に女性は祈りのベールをかぶるべきだとルターは考えていた? 


詳細は不明。しかし、彼の妻の肖像画からみる限り、彼は被り物の実践を、教会に限ったものだとはみていなかったということが言えるのではないかと思います。


③ ルターは、被り物をどのように捉えていた? 


夫に対する妻の恭順に関するシンボル。




―おわり―

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1. A sermon on marriage, 15 January 1525 WA XVII/I – Quoted from Susan C. Karant-Nunn & Merry E. Wiesner – Luther on Women: A Sourcebook (Cambridge University Press, 2003) page 95

2. Weimar edition of Luther’s works – Table Talk 6 (No 6567 p67) – Quoted from Susan C. Karant-Nunn & Merry E. Wiesner – Luther on Women: A Sourcebook (Cambridge University Press, 2003) page 31

3. WA TR IV, no 4090, page 129 – Quoted from Susan C. Karant-Nunn & Merry E. Wiesner – Luther on Women: A Sourcebook (Cambridge University Press, 2003) page 30




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Φύσις (Phusis)=自然





「自然」を定義する



ある言葉を定義する際、その用語を使っている著者自身、その語について、なんらかの定義をしているのかを調べてみることは重要です。


その意味で、ローマ2章から、私たちは、パウロの「自然」理解に関する洞察をいくらか得ることができると思います。



ローマ2:14ー15

14 すなわち、律法を持たない異邦人が、自然(phusis)のままで、律法の命じる事を行うなら、たとい律法を持たなくても、彼らにとっては自分自身が律法なのである。


15 彼らは律法の要求がその心にしるされていることを現し、そのことを彼らの良心も共にあかしをして、その判断が互にあるいは訴え、あるいは弁明し合うのである。





ここでパウロは、人間というのは「自然のままで」、善悪を判断する生来的感覚が与えられているということを教示しています。


さらに彼は、この「自然」というのは、神の成文法(written law)と整合するということを述べています。


(特別啓示をもたない)人々が、善悪を判断するそういった自然の感覚に従う時、神が彼らの心にたしかに律法の要求を記してくださっていることを証することになります。


パウロはここで「自然」を「神の律法」と並列してみていますから、それを文化的な見解として定義するのは間違いです。




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新約聖書の他の箇所においても、「自然」(phusis)という語が使われているところではどこでも、神の創造のことが常に言及されています。以下その例を14箇所挙げようと思います。


ユダヤ人であること
「私たちは生まれながらの(phusis)ユダヤ人であって」(ガラ2:15)

生まれながら無割礼
「生まれながら(phusis)無割礼の者」(ローマ2:27)

以前の身分
神を知らなかった当時、あなたがたは、本来(phusis)神ならぬ神々の奴隷になっていた(ガラ4:8)

生まれながら罪深い
「生まれながら(phusis)怒りの子」(エペソ2:3)

被造物の種類
「あらゆる種類(phusis)の獣、、、すべて人類(phusis)に制せられる」(ヤコブ3:7)

元木の枝
「もし神が元木(phusis)の枝を惜しまなかったとすれば」(ローマ11:21)





ΕΛΙΑ ΚΑΛΑΜΩΝ 2




このように、聖書の中の「自然」(phusis)という語は、文化的慣習ないし決定などについての言及には、一度も用いられていません。


ですから、髪の長さ(1コリ11:14-15)のことに言及する際、それを「文化的なもの」と初めから定義してかかることは、恣意的で勝手な試みだといえるでしょう。






同性愛と長い髪




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「自然」だと聖書の中で教示されている最後の例を挙げましょう。――それは同性愛に関することです。


この事例は重要です。


というのも、使徒パウロはここで、全く同じギリシャ語の単語を用い、同性愛行為ならびに、男性の長髪行為を非難しているからです。


すなわち、両行為とも、自然(phusis)に反しており、両行為とも恥ずべきこと(atimia)ですと。


これからそのことに言及した聖句をみていきたいと思いますが、その前に一つ申し上げておきたいことがあります。


それは、両者が「等しく」恥ずべきものだということではない、という点です。


パウロはまた別の箇所で、罪には異なる度合があり、性的な罪にはそれ相応のレベルがあると教えています。(1コリ6:18)


さて、両者について、パウロは次のように言及しています。




ローマ1:1:26、27a

こういうわけで、神は彼らを恥ずべき(atimia)情欲に引き渡されました。すなわち、

女は自然の用(phusis)を不自然なものに代え、

同じように、男も、女の自然の用を捨てて男どうしで情欲に燃え、






1コリント11:14-15

自然(phusis)自体が、あなたがたにこう教えていないでしょうか。男が長い髪をしていたら、それは男として恥ずかしいこと(atimia)であり、

女が長い髪をしていたら、それは女の光栄であるということです。

なぜなら、髪はかぶり物として女に与えられているからです。






それでは、上記に挙げたみことばに照らし合わせ、私はこれからみなさんに質問をして差し上げたいと思います。




みなさんへの質問 その1


「同性愛は正しいのか、それとも間違っているのか」という命題に関し、あなたは、

1)文化的解釈をベースに、その是非を考えていますか?それとも、

2)「神様がそういった異性愛のセクシュアリティーをデザインされ、それに従うよう仰せられたから」という神の創造をベースにその是非を考えていますか?





質問 その2


「男性が長い髪をしているのは正しいか、間違っているか」という命題に関し、あなたは

1)文化的解釈をベースに、その是非を考えていますか?それとも、

2)「神様が元々、私たち男女の髪の長さをデザインされ、それに従うよう仰せられたから」という神の創造をベースにその是非を考えていますか?





これらの問いに関するあなたの答えがどうであれ、一貫性を持った答えをするためには、みなさんは両方の質問に対し、同じ回答をしなくてはなりません。


なぜなら、ローマ1章と1コリント11章は、同じ記者の書いたものであり、同じ理由(=自然の用)に訴えた上で、同じ倫理的判断(=それは恥ずべきもの)を下したものであるからです。


ですから、私たちは一貫性をもたせるべく、両者を等しく取り扱わなければなりません。





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今日の西洋社会においては、男性のロング・ヘアーや女性の短髪と同様、同性愛も文化的に許容可能なものと受け止められています。


しかしながら、文化がある行為を許容し、歓迎するからといって、それがその行為を正しいものにするわけではない、ということを肝に銘じる必要があると思います。





―おわり―


(執筆者:ジェレミー・ガーディナー)






関連記事:


どのようにして同性愛を肯定する方々は「1コリント11章の被り物の聖句」を自らの立場の擁護のために用いているのでしょうか?――福音主義教会に突きつけられる「ジェンダー挑戦状」と私たちの応答


なぜかぶり物?理由その3 【自然】


同性愛に関する私たちクリスチャンの応答―21世紀の「踏み絵」


マーク・ミニック牧師 の勇気ある説教 (マウント・カルバリー・バプテスト教会)――1コリント11章






2016年9月12日 追記

「ダビデの日記」のダビデ兄弟が、今日、次のような検証記事をお書きになりました。

小原克博「フェミニスト神学」(講義「現代神学」第8回、同志社大学)のレビュー

とても分かりやすく、また的確に現代フェミニスト神学の問題点を押さえておられます。ご関心のある方はお読みになってみてください。






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適切な髪の長さは、「自然」ではなく、「文化」によって規定されるのでしょうか?



Are Appropriate Hair Lengths Dictated by Culture?




反論


適切な髪の長さは、「自然(nature)」によって規定されるのではなく、「文化」によって規定されるのです。


ネイティブ・アメリカンのように、多くの文化圏では、男性の長い髪というのは、規範的なこととされています。


ですからパウロが「自然」と言う時、彼はそれを、その当時の人々にとって適切だと考えられていた文化的理解に訴えていたのです。





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男性の長髪を「不自然」と呼ぶことに対する反論の一つに、「多くの文化圏では、男性の長髪は無礼なものと捉えられてはいない」というものがあります。


そしてそこでよく引き合いに出されるのが、長髪にしているアメリカ先住民の男性たちです。





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そして反論される方々は言います。「このように男性の長髪が容認されている文化圏だってあるのです。それなのに、いったいどうして『自然』は逆のことを教えている、などと言えるでしょう?」






自らの目に正しいと見えるもの




まず、大切な点は、「ある文化が何かを受容しているからといって、それが正しいとは限らない」ということです。



中国のモソ族などがその良い例だと思います。というのも、この民族において、家長は女性だからです。





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モソ族(中国)





彼ら自身の目にそれは正しい事のように映っているのかもしれませんが、これは元々神がご計画されたあり方ではありません。それは神の創造の秩序の逆をいくものです。(1 コリント11:3)






男性の長髪は恥ずべきものだったのでしょうか?





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クリスチャン・ロックバンド Stryper




またもう一つ別の誤解もあります。それは、パウロの生きていた当時の文化に対する誤った見解です。


1コリ11:14でパウロが男性の長髪のことを「恥ずべきもの(dishonorable)」と述べていることから、髪の長さについて文化的見解を持っている人々は、「ああ、当時、男性の長髪は、恥ずべきものとみなされていたんだな」と思い込んでおられます。


しかしながら、こういった見解の問題点は――堅実な歴史資料自体はそれとは別のことを証している――という点にあります。



シンティア・L・トンプソン(イエール大Ph.D)は、聖書考古学の著作の中で、ディオ=クリュソストモス(AD40-115)を引用しつつ、男性が短髪にすることに関し、当時、顕著な例外が存在していた事実を示しています。



図象学(iconography)でも認証されるように、パウロは当時の一般的なギリシャ・ローマの慣習と調和していました。


しかしながら――普遍的な意味における「自然(φύσις)」を根拠にした――「男性は髪を短くしなさい」というパウロの教えに関してですが、パウロはここでいくつかの重要な例外を度外視して言っています。そういった諸例外については、ギリシャ語の素養のあるローマ市民であった彼は知っていたに違いありません。 1)






さらにトンプソン氏は続けて言っています。



「哲学者、祭司、農民、未開人たちは、男の短髪という規則から外れた例外者である」ということを、ディオ=クリュソストモスが述べています。


ディオは、著書の中で、「長髪」と「倫理的優位性」を一つに結びつけたがっている当時の哲学者たちのことを批判しつつ次のように言っています。


「私は今でも次のように考えている。――つまり、長髪 [koman]は、美徳のしるしとして捉えるべきでは絶対ない、ということである。


多くの人間は、なにがしかの神性ゆえに、髪を長髪にしている。一方、哲学用語など一語だって聞いたことのない農民たちも、髪を伸ばしている。またゼウスにより、異邦人たちの大半も長髪にしている。――ある者は覆いのために、またある者は「長髪が似合う」と自分で思い込んでいるがゆえに。


そして、いずれの場合にしても、長髪の人が憎悪や愚弄の対象になることは全くない。」(1)





クリュソストモスはここで、当時、長髪の男性が多く存在していたこと、そしてそういった彼らの存在が、「憎悪や愚弄の対象となることなかった」ということを言っています。


つまり、それは「普通のことだった」ということです。


それだけでなく、――長髪を、「美徳のしるし」と考えていたと言う通り――彼らは既存社会への反抗のしるしに髪を伸ばしていたわけでもなかったのです。


この点は非常に重要です。


というのも、文化的議論を推し進める人々は、「パウロの生きていた当時のコリントは、この問題に関し、現代の西洋世界とはまったく異なる見解を持っていた」と考えているからです。


そしてこういった人々は次のように言っています。


「当時の文化において、男性が長髪姿で歩こうものなら、人々はびっくり仰天、公の場におけるその恥ずべき姿に、驚きの余り口をあんぐり開けショックを受けていたはずです。」


しかしご一緒に検証してきました通り、そういった描写は、史実とまったくかみ合っていません






その(2)につづきます。



註1.Hairstyles, Head-coverings, and St. Paul: Portraits from Roman Corinth, by Cynthia L. Thompson (Biblical Archaeologist, June 1988) page 104





参考になる証し:


長髪だった牧師の証し(パトリック・スミス師、カリフォルニア州)


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長髪時代のパトリック牧師








昨日、Gotquestions.orgの日本語サイトで次の記事を読みました。そして、私は、愛する兄弟姉妹のみなさんのご意見をぜひうかがいたいと思って、今、このミニ記事を書いています。


(*ジェンダー・フェミニズム問題に関し、Gotquestions.orgは、明確な相補主義の立場に立っており、このブログの立場とも一致しています。)


「キリスト者の女性は頭にかぶり物をつけるべき?」




この記事の結論部分はこうなっています。


現代の文化では女性が頭にかぶり物をつける事が権威への従順のしるしとしてはみなしません。


多くの文化でスカーフや帽子はただ、ファッションの一部とみなされています。


現代の女性はそれが神から来る権威に対する従順の印としてかぶるなら頭にかぶり物をつけても良いでしょう。


しかしながら、それは個人的な選択であり、霊性を示す物ではありません。


大事なのはその人の心の態度と権威への従順で、それは主に対するものである必要があります(エペソ5:22) 。


神は頭のかぶり物よりも心の態度が正しい事を望んでおられるのです。





まず私は、筆者の方の、次のポイントに心から同意しています。



)被り物の有無は、霊性の高低を示すバロメーターではない。


)被り物イシューで、一番、大切なのは、「その人の心の態度と権威への従順」であり、それは「主に対するもの」である必要がある。




しかしながら、ちょっと「あれっ?」と思うのが、


「神は、頭のかぶり物よりも心の態度が正しい事を望んでおられる」し、「大事なのはその人の心の態度と権威への従順」だから、


【結論】→ 現代の女性にとって、被り物に関する1コリント11章のみことばへの実際の従順は、パーソナル・オプションなのです。




という筆者のロジックです。


この部分について、みなさんはどう思われますか。


もしもそれが然りなら、私は次のようなロジックも可能になると思います。



「神は、水のバプテスマよりも、(バプテスマの霊的意義をとらえる)心の態度が正しい事を望んでおられる」し、「大事なのはその人の心の態度と権威への従順」だから、


【結論】→ 現代の信者にとって、「信じてバプテスマを受けなさい」というみことばへの実際の従順は、パーソナル・オプションなのです。


つまり、水の洗礼を受けたかったら受けてもいいし、受けたくなかったら受けなくても構わないのです。


とどのつまり、肝要なのは私たちの心の態度なのですから。




また、第二点目に私がみなさんのご意見を訊きたいのは、


はたして現代文化が、みことばに対する私たちの従順を規定するのか?


という命題についてです。



筆者は次のように言っておられます。


現代の文化では、女性が頭にかぶり物をつける事が権威への従順のしるしとしてはみなしません。多くの文化でスカーフや帽子はただ、ファッションの一部とみなされています。




フェミニズムの影響を受け、特に1960年代以降の現代文化で、女性が、頭にかぶり物をつける事が、権威への従順のしるしとしてはみなされなくなり、多くの文化でスカーフや帽子がただ、ファッションの一部とみなされるようになったという世相の変化に合わせ


私たちクリスチャンもまた、みことばへの従順をmodify(修正)したり、あるいは一部の学者の方々が最近、提言しておられるように、「ベールの代わりに、結婚指輪など、他のシンボルで代用してもいいんじゃないか?」と、そこらへんを「柔軟に」アレンジし直してもいいのでしょうか。


つまり、


)現代文化  みことば 
(現代文化が、みことばを規定する)


)現代文化  みことば 
(みことばが、現代文化を規定する)




この二つのあり方のうち、どちらを私たちは採用すべきなのでしょうか。



みなさんのご自由な意見やご感想をお待ちしています。






祈りのベールに関するVTRに新たに二つ、日本語字幕をつけました。

それをご紹介する前に、私は主の前に、そして愛する兄弟姉妹の前に、自分の罪を告白します。

ご存知のように1コリント11章の祈りのベールは、神への恭順、夫への恭順を表す聖書的シンボルです。

しかし私は昨日、夫への恭順とはほど遠い醜悪な言動を取ってしまいました。

「私はあなたに、ただあなたに、罪を犯し、あなたの御目に悪であることを行ないました。それゆえ、あなたが宣告されるとき、あなたは正しく、さばかれるとき、あなたはきよくあられます」(詩51:4)。

この罪を隠した状態で、祈りのベールに関する記事を書いたり、VTRを紹介したりするなら、私は最悪のタイプの偽善者になってしまうと思いました。

ある仲間のベールの姉妹が、そんな私に次のような激励のメッセージを送ってくださいました。

だからこそ、なお一層、ベールというシンボルが私たちに大切なんです。ベールは自分の責務や召しを私たちに思い起こさせます

そして神様はこのシンボルを用いて、私たちに自分の罪深い傾向を強く示してくださいます。そして具体的な生活のどの領域で私たちが主のみこころに従って生きていないのか教えてくださると思います。

これが私の経験してきたことです。

恥を忍んで言いますが、私もベールの指し示す意味に自分が実際に生きていない時が多々あり、そんな時、主はベールを通して、上に挙げたようなことを私に示してくださいます。



祈り

主よ、私は自分の中に潜む反逆心や醜い自我という罪と暗闇に圧倒されています。この罪の暴力が、いともやさしき御子の手首に釘を打ち込み、あなたの愛の心を突き刺しました。

私は祈りのベールの教えが聖書の真理であることを確信しています。それなのにそのシンボルが表す恭順に生きることができない自分がここにいます。しかしこの告白だけが私を偽善の罪から救います。

ですから私にはあなたの赦しと憐れみにすがるより他に道はなく、あなたの助けを求め御前にいます。

どうかこの罪びとを憐れんでください。そしてあなたの聖書の真理をふさぐ一切の暗きもの、醜悪なものを私の中から取り除いてください。1ヨハネ1:7、9のみことばを信じ、あなたにすがりつきます。

イエス・キリストの御名によってお祈りします。アーメン。



VTR1

南カロライナ州、マウント・カルバリー・バプテスト教会
マーク・ミニック師の説教 (約7分)
"Head Covering: A Timely and Exciting Symbol"
「被り物―タイムリーで、エキサイティングなシンボル」


VTR2

ジェレミー・ガーディナー師のレクチャー (約7分)
"What is a Head Covering? Is it a Woman's Hair or a Veil?"
「被り物って何?――それは女性の長い髪のこと、それともベールのこと?」 


日本語字幕の出し方。画面の右下に、長方形のマークがあると思います。そこが字幕ですので、そこをクリックしてみてください。そうすると日本語が出てくると思います。このブログ上では字幕の文字が小さくて読みずらいと思いますので、その時には、右下の「全画面」のボタンをクリックしてください。画面が大きくなって、見やすくなると思います!










*他の日本語字幕VTRを観たい方はココをクリックしてください。



私の祖母はとてもモダンな人で、フェイスブックも携帯メールも車も自由自在に使いこなす元気なおばあさんです。しかし、私はそうではなく、およそ機械じかけのものに弱く、車の運転もこわくてできません。

また卓球のボールより大きいサイズの球体がこちらに向かって動いてくるのもこわいので、スポーツもだめです。

しかしながら今回、がんばってVTRに日本語字幕をつけてみました。技術的な点でなにか改善すべきところがありましたら、ぜひご指摘ください。ありがとうございます。


1.D・M・ロイドジョーンズ師による解説(約1分)


2.R・C・スプロール師による解説(約5分)


3.J・ガーディナー師による解説(約5分半)



日本語字幕の出し方。画面の右下に、長方形のマークがあると思います。そこが字幕ですので、そこをクリックしてみてください。そうすると日本語が出てくると思います。このブログ上では字幕の文字が小さくて読みずらいと思いますので、その時には、右下の「全画面」のボタンをクリックしてください。画面が大きくなって、見やすくなると思います!


















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被り物は「重箱の隅をつつくような」教えでしょうか?かえって福音の妨げになっているのでしょうか。
Is Head Covering “Majoring in the Minors”? Is it a Distraction?



反論:被り物は「重箱の隅をつつくような(“majoring in the minors”)」教えです。それは聖書に一回しか言及されていない曖昧な箇所を持ち出して、そこからある慣習をこしらえるような、そのような無理のある教えです。

こういう事を議論するより、私たちはむしろ、飢えている人々に食料を提供するとか、福音を伝えるとか、そういうもっと大切な事に関心を注ぐべきだと思います。



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被り物についての聖句(1コリント11:2-16)は、「あいまいで不明瞭な聖句」という範疇に入れられがちな聖書箇所です。

ある神学者は言いました。「ここの被り物の箇所と、Ⅱテサロニケの不法の人の箇所は、新約聖書の中でも最も不明瞭な聖句の内に数えられます。」

しかし果たしてそうなのでしょうか。

ここの聖句は確かに活発な議論の余地ある箇所であり、さらなる熟考と綿密な検証を有するような質の高い反論も存在します。

しかしここの聖句が「あいまいで、不明瞭」?

真に不明瞭な聖句というのは、その議論が続けて展開されていなかったり、説明されていなかったり、もしくは擁護されていないような箇所のことをいいます。そして、そういった漠然さゆえに、その箇所の意味を識別することが容易ではないのです。

例を挙げましょう。例えば、1コリント15:29(死者のためのバプテスマ)、1テモテ2:15(女性は子を産むことによって救われます)、1コリント11:10(「御使いたちのために」被り物をする)などは一般に不明瞭な聖句とみなされています。

被り物の箇所にも、不明瞭といわれる聖句(1コリ11:10b)が一つ出てきますが、箇所全体としてははっきりしており、そこに不明瞭さはありません。

あいまいな聖書箇所というのは、たいがい、一聖句ないしは二聖句の短い箇所です。それに対し、被り物の箇所は、実に15節に渡って、しかも連続して書かれています。

またあいまいな箇所というのは、言及されてはいても、説明のない箇所である場合が多いです。一方、被り物の箇所においては、パウロは「しかし、あなたがたに次のことを知っていただきたい、、」(1コリ11:3)と語り、その後、このシンボルの背後に存在する意味を分かりやすく解き明かしています。

さらに、あいまいな聖書箇所は、「なぜそうしなければならないのか」という理由説明なしに掟が述べられているような場合が多いのです。しかしそれとは対照的に、被り物の箇所においては、「なぜ女性たちが被り物を着けなければならないのか」という理由がしっかり説明されています。

*その理由に関しては、創造の秩序(3、7-10節)
自然の証言(14-15節)
御使い(10節)、
使徒の公的教え(2節)
神の諸教会における慣習(16節)をそれぞれご参照ください。



ですから、被り物は曖昧どころか、新約聖書の中でも際立って明確に擁護がなされているシンボルなのです。


一回だけしか言及されていない


また類似の反論として、「被り物の教えは、聖書の中で、たったの一回しか言及されていないじゃないですか」というものが挙げられます。

それは確かにその通りです。しかし私たちにある御言葉を「本気で」受け取ってもらうべく、主ははたして何度も繰り返しその事を言及しなければならないのでしょうか。

私たちを「本気」にさせるために、主は何回、その事を言及する必要があるのでしょうか。もちろん、答えは「一回で十分」です。というのもその事を私たちに命じておられる方はご自身だからです。

聖書はすべて、神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益です。それは、神の人が、すべての良い働きのためにふさわしい十分に整えられた者となるためです。Ⅱテモテ3:16-17



そうです、「すべての」聖書箇所は、有益なのです。「ある特定の箇所だけ」でもなく、「何回も繰り返し言及されている内容」だけでもなく、ここで言っているのは「すべての聖句 ALL Scripture」です。

それだけでなく、聖書はすべて「教えのために有益です」とあります。ということは、被り物に関して話し合ったり、教えたりすることは、福音の妨げになる行為ではなく、神の霊感をもって書かれた聖書の教えに対する正当な応答なのだということがいえます。

☆☆

また注目していただきたいのは、使徒パウロがここで、主の晩餐(1コリ11:17-34)とほぼ同じだけの分量を割いて被り物(1コリ11:2-16)のことに言及しているという事実です。

その両方のテーマに関し、パウロはそれらをただ一回だけ述べています。もし反復というのが重要性を計るバロメーターであるのなら、使徒パウロは「被り物」と「主の晩餐」を等価値にみていたということになります。

そしてその論理でいくなら、パウロは聖なる口づけ(これに関し彼は四回も言及しています!)のことを、女性牧師の是非を問うテーマ(これに関して彼は一回しか言及していません)よりもより重要なものと捉えていた、、ということになってしまいます!

もちろん、そんな論理は通りません。


重要性においてはやや劣る掟(Lesser Commands)


ある人々は、被り物のテーマに関して詳細な検証をしたり、意見交換したりすることは、貧民救済とか、福音を伝えるといったより重要な聖書の掟から私たちの注意をそらす「妨げ」に他ならないと考えています。(*この批判に関しては、記事の終わりに貼ってあるYoutubeを参照してください。)

ではまず、みなさんに質問しましょう。こういった掟は、被り物の掟よりも、より大切なのでしょうか。

そうですね、、確かにより重要だといえます。その意味で、被り物というのは、「聖書中、最も重要な掟!」などとは到底言えないでしょう。

しかし繰り返しになりますが、神が「聖書すべて」に霊感を与えられた方である(Ⅱテモテ3:16-17)ということを私たちは信じており、それゆえ、すべての聖句は、真剣に取り組むに値するわけです。

☆☆

それではここで、イエスが「重要性においてはやや劣る掟」についてどのように扱っておられたのか、ご一緒に見てみることにしましょう。

忌まわしいものだ。偽善の律法学者、パリサイ人たち。あなたがたは、はっか、いのんど、クミンなどの十分の一を納めているが、律法の中ではるかに重要なもの、すなわち正義もあわれみも誠実もおろそかにしているのです。これこそしなければならないことです。ただし、他のほうもおろそかにしてはいけません。マタイ23:23



イエスはここで、「十分の一を納めることは、正義やあわれみ、誠実といったものほど重要ではない」という事をパリサイ人たちに言っておられます。

パリサイ人たちは些細なことは几帳面に守っていましたが、より重要な掟に関してはそれらをないがしろにしていたのです。

それに対してイエスはどのように反応されたでしょう?そうです、主は彼らを厳しく叱責し、「律法の中ではるかに重要なもの」をまず実行しなさいと言われました。

しかしそうだからといって、主は「それよりは重要性の劣る掟を守ることをやめてしまいなさい」とは言われませんでした。

主は、そのどちらをも守ってほしいと願われたのです。「これこそしなければならないことです。ただし、他のほうもおろそかにしてはいけません」と。

また他の箇所で、イエスは旧約の律法に関して次のように言っておられます。

だから、戒めのうち最も小さいものの一つでも、これを破ったり、また破るように人に教えたりする者は、天の御国で、最も小さい者と呼ばれます。しかし、それを守り、また守るように教える者は、天の御国で、偉大な者と呼ばれます。マタイ5:19



ここで明らかなように、イエスは小さな掟(戒め)のことを任意のものとは見ておられなかったのです。イエスによれば、戒めのうち最も小さいものも、最も重要なものと同様、尊守する必要があると言っておられるのです。

もちろん、こういった戒めや掟は、各々識別される必要があり、一律に扱うことはできませんが、いずれにしても、両者共々、尊守されるべきであるという点には変わりがありません。


結論


被り物の教えは、あいまいで不明瞭な霧につつまれてはいません。

これは聖書の中でしっかりスペースを割いて説明がなされている箇所であり、それを実践すべき数々の理由もここに述べられています。

それゆえ、この教えのことを、「文脈から切り離し、あるいは漠然としたある聖句をとって、かってに教義を作り出す行為」だと非難するのは、理に適っていません。

また聖書中、一回しか言及されていませんが、その一回で十分だと私たちは申し上げたいです。なぜなら、がこの聖書の筆者だからです。

異なる聖書の掟をそれぞれ互いに対立させるというのは、誤った二分法(dichotomy)です。

「被り物か貧民救済か」という二者択一(OR)ではなく、「被り物も貧民救済も」というANDなのです。つまり、「この教えを学び実践するため、私は人々に奉仕したり福音を伝えたりするのをやめなければならない」というロジックは成り立たないということです。



執筆者 ジェレミー・ガーディナー

(http://www.headcoveringmovement.com/articles/is-head-covering-majoring-in-the-minors-is-it-a-distraction)







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被り物は律法主義的?(Is Headcovering Legalistic?)


反論:被り物というのは律法主義的であり、律法に逆戻りするものです。私たちはキリストを信じる信仰によて救われたのであって、自分たちの行ないによって救われたのではありません。

被り物をするしないというのは私たちの救いに影響をもたらすものではありませんから、それを実践する必要はないのです。


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被り物(祈りのベール)を実践している人の多くは今日、律法主義的な人だとみなされています。

この批判に対してコメントする前に、まずこの語の意味を明確にしておくことが重要だと思われます。「律法主義」という言葉は聖書中どこにも出てきておらず、聖書の中に登場する人物で「律法主義的」と形容されている人も存在しません。

この語は、掟を遵守する上での誤った観点を指し示すものとして人工的に作り出されたものです。一般的に言って、ある人が律法主義的である場合、その人は以下二点のうちのどちらかを犯しているといえます。

1.この人は、掟を守るという行為によって、自分は神との正しい関係を築くことができる(あるいは保つことができる)と考えている。

2.この人は、「クリスチャンがおのおの自由に決定することのできる事柄」に関して、そこに掟を作り出している。



まず一番目の定義を見てみましょう。これに関しては、聖書のどんな教えであっても私たちは律法主義的な人になり得ます。

その意味で、「被り物の掟」だけを特化して、律法主義的だと批判するのはおかしいといえます。なぜなら、聖書のどの掟であれ、この誤謬を犯す可能性から免除されているものはないからです。

(御言葉を守る)従順によって、自分は神から義認を得ているのだという考えは、どんな聖書の掟に関してであれ、起こり得るものです。

しかし、ここで明確にしておきたいのは、こういった考えは、異端的見解であるということです。どんなに善行もしくは掟の遵守に努めたところで、それが神との正しい関係の根拠になる(あるいは保つ)わけではありません。

私たちの救いは無償の贈り物であり、私たちの身代わりとなってくださったイエスの全き生と死に基づいています。キリストにある信仰こそが私たちを救うのであって、キリストへの従順ではありません。私たちは主に対する愛ゆえに神に従うのであって(ヨハネ14:15)、主に気に入ってもらうためではないのです。

その意味において、私たちは律法主義的になってしまうことなしに、被り物を実践できる、ということが言えます。

☆☆

さて二番目の定義についてですが、これは、キリスト者の選択の自由(Christian liberty)に属する事柄を、命令や掟に変えてしまう行為のことを言っています。

キリスト者の選択の自由とは、神から(「こうしなさい」・「こうしてはいけない」)と命じられていない事柄に関し、クリスチャンが各自、自分で決定することのできる権利のことです。

こういった自由は例えば、私たちの服のスタイル、メディア使用の有無(テレビ、音楽、ニュース)、投票の仕方などに関して与えられているものです。

こういったタイプの事柄に関しては、私たちの選択を制限するような「聖書的パラメーター(限定要素)」および、私たちの選択を(第三者に)通知する必要のある「聖書的原則」といったものも確かに存在するでしょう。

ですが、これらに関して、唯一の正しいクリスチャンの解答といったものは存在しません。

あるクリスチャンは参加しても、他のクリスチャンはそれを控えるという選択をするかもしれません。そしてそのどちらも、それぞれの選択において神に栄光を帰することが可能です(ローマ14:6)。

それとは対照的に、被り物というのは、キリスト者の自由ではありません。ですから、その意味において、律法主義的にはなり得ないわけです。

ではなぜ私たちがそう考えているのか、以前に書いたこの記事(this article)を少しおさらいしてみましょう。


.被り物は、キリスト教会が「堅く」守ってきた教えです。なぜならそれは使徒的権威の元に出された教えだからです(1コリント11:2)。キリスト者の選択の自由に関する事柄は、クリスチャンに対して与えられているのであって、教会に対して出されたものではありません。


.パウロは、被り物に関する事で異議を唱えている人々に対し、教会はただ一つの見解しか持っておらず、それが教会の慣習であると言っています(1コリント11:16)。「キリスト者の選択の自由」に関する事柄というのは、一つの見解を保持する立場ではなく、あくまで複数の見解によって特徴づけられるものです。


.この箇所では文構造が行動を命じています。「髪を切り、頭をそることが女として恥ずかしいことなら、かぶり物を着けなさい」(1コリント11:6)。一方、「キリスト者の選択の自由」に関する事柄というのは――行動を命じる――直接的な命令がない場合に存在し得るものです。


.パウロはここで、被り物をしないことは、女性にとって自分の頭をはずかしめることであり、恥ずかしいことであり、それは剃り上げた頭の女性にも匹敵することだと言っています(1コリ11:4-6)。

「キリスト者の選択の自由」に関する事柄というのは、複数の選択肢が存在することによって特徴づけられており、そういった複数の選択肢はいずれも神に栄光を帰すことができるということを前提にしています(ローマ14:6)。それに対し、ここの聖句におけるパウロの言語選択は何を意味しているかというと、この場合においては、ただ一つの選択肢のみが神に栄光を帰すことが可能だということです。


.パウロは、創造の秩序、自然、そして御使いのことを根拠に被り物の教えを擁護しています。一方、「キリスト者の選択の自由」は、聖書が沈黙を保っている事柄について適用されるものであって、擁護(弁明 defense)がなされている事柄については適用されないのです。



おわりに


被り物というのは、「もしあなたがその掟に従いたかったら従ってもいいですよ。でも従いたくなかったら、そうしなくても結構ですよ。選択はあなたの自由です」という種類のシンボルではありません。それゆえ、ここで挙げられた律法主義の定義が被り物に当てはまるとは考えられません。

それは譬えていうなら、「新しくイエス様を信じた方に、『バプテスマを受ける必要がありますよ』と言うことは律法主義的です」と批判するようなものではないでしょうか。こういう場合に「律法主義的」という言葉を使って人を責めるのは、言葉の誤用だと思います。

なぜなら、バプテスマは命令(掟 command)であって、「受けたかったら受けてもいいし、受けたくなかったら受ける必要はない。あなたが自由に決めていいんですよ」というような慣習ではないからです。

人が、聖書に書かれてある掟に忠実であるよう他の人から奨励の言葉を受ける時、それは律法主義ではなく、れっきとした聖書的キリスト教(Biblical Christianity)なのです。

もちろん、被り物は私たちの救いに影響を及ぼす聖書の教えではありません。しかしそうであっても、やはり私たちは、「重大な掟」だけでなく、神が仰せられている事すべてを愛し心に留めたいと願っています。

イエスは言われました。「もしあなたがたがわたしを愛するなら、あなたがたはわたしの戒めを守るはずです」(ヨハネ14:15)。

また「聖書はすべて神の霊感によって」書かれたものですから(Ⅱテモテ3:16)、被り物に関する教えをないがしろにすることはできません。

ですから結論として次のことが言えます。確かにこのシンボル(ベール)を律法主義的に行なうことは可能です。しかし、律法主義の源は、それを行なう人のにあるのであって、シンボル自体の内にあるのではないのです。




執筆者 ジェレミー・ガーディナー
(http://www.headcoveringmovement.com/articles/is-headcovering-legalistic)




☆これは数時間前に公表されたばかりのホットな証しです。このテーマに関し、とりなしの祈りを捧げてくださっている方々に感謝します。それではどうぞお読みください。


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1)先生、ご自身のことと、それから牧会されている教会について少し教えてください。

パトリック・スミスと申します。私はカリフォルニア州チュラ・ヴィスタにあるアッパー・ルーム・コミュニティー教会で牧会をしている者です。

小さな、こじんまりした教会で、私たちは聖書が神の言葉であり、イエスが生けるかしらであることを信じています。


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2)どのような経緯で、「祈りのベールが今日にも適用される、永続的なシンボルである」ということについて確信を持たれるようになったのですか。

北米の大半のクリスチャンと同様、私も1コリント11:2-16の箇所を、単に「文化的なもの」として片づけていました。

しかし、約三年前のことになりますが、福音フェローシップという集いを通して、私は被り物が今日にも適用される聖書の掟であると信じる兄弟姉妹に出会ったのです。

その出会いがあったためか、説教準備をすべく、いざ1コリント11章に取り組もうとした際にも、ある程度、私の心は開かれていました。

1コリント11:10の「それも御使いたちのためにです」という箇所にさしかかった時、私ははっと立ち止まりました。

御霊がその瞬間、その聖句を光で照らしたかのようでした。

そしてその日初めて、「御使いというのは全く文化とは関係のない存在である」ということに気づいたのです。

そうしてそこから、パウロが他の聖書箇所においても、創造の秩序、神の国の中における権威の構造、自然という観点から、超越的・永続的な議論をしていることに私の目は開かれていきました。


3)大半の人は、この聖書箇所は女性に関するものだと勘違いしています。しかし先生は、説教の中で、「主はこの聖句を用いて、自分自身の髪のことについても悔い改めを与えてくださいました」とおっしゃっていましたね。この点についてもう少しお話ください。


そうなんです。1コリント11章は女性たちにだけに語られている箇所ではないんです。

被り物に関するパウロの指示が文化的なものではないことに気づいた時、私は自分自身の長髪もまた御心ではないことを示されました。

しかし悲しむべきことに、私はすぐには実行しませんでした。つまり相変わらず、長髪のままでいたのです。



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(パトリック牧師の長髪時代)


そして「男性が長髪にすることには問題がない」と書いてある註解書などを読んで、うずく自分の良心をなんとかなだめようとしていました。

しかし神は情け深く、忍耐強いお方でした。こうして一年後、聖霊が再び私に迫られた時、私はついに従順になり、短髪にしました。

女性は男性の栄光の現われであり、私には美しい妻がいます。ですから私にはこの他に栄光は必要ないわけです。

また私は路傍で説教していた時にも、トレーナーのフードを頭にかぶったり、時には帽子さえかぶっていました。

でも主に示され、それもやめました。神の御言葉に従いたいのです。王であるイエスをお喜ばせしたいというのが私たちの願いであり目的です。

御言葉が何かを言うなら、「主が私にそれを実践してほしいと願っておられるのだ」と受け取っています。

ヤコブは「みことばを実行する人になりなさい。自分を欺いて、ただ聞くだけの者であってはいけません」(ヤコブ1:22)と言っています。


4)このテーマに関し、あなたの神学的見解が変わったということを、どのようにして信徒の方々にお知らせしたのですか。


私たちのホーム・チャーチは他の小さな教会(アッパー・ルーム・コミュニティー教会)と協力関係にあります。

はじめて合同の集会が開かれた時、私はみなさん全員に、「今までそれぞれが信奉してきた神学をいったん脇に置いてください」と言いました。

こうして私たちは地域教会として、直接、神の御言葉から神学を打ち立てようと心に決めたのです。

そして私たちは「神は、ほんとうにそう言われたのですか」(創3:1)という最初の誘惑の箇所について話し合い、「神の御言葉というのは、時として私たちにとって耳障りの悪いものに思える時であっても、依然として真理なのです」と説きました。

妻と私はこの箇所について学び祈ってきていましたので、説教箇所が1コリント11章にさしかかる一か月前にはすでに、妻は祈りのベールを実践し始めていました。

ですから1コリント11章を教会全体で学んでいく時には、私たちの心の準備はできていたのです。


5)1コリント11章に関するあなたの説教を聞いた信徒のみなさんの反応はどうでしたか


それは、すばらしいの一言に尽きました。信徒のみなさんはこの教えを字句通りにそのまま受け取られたのです。

神様をお喜ばせしたいという願いを抱き、彼らは、謙遜にして、しかも開かれた心を持ってここの聖句を受け入れたのです。このような教会に置かれ私は本当に祝福されています。

こうして半数以上の女性たちが礼拝の時、祈りのベールをかぶり始めました。


6)最近、被り物というこのシンボルの今日性について確信を持たれるようになった先生方がおられます。こういった先生方は現在、いかにしてこの教えを自分の教会に導入するのが最善なのかと考えておられます。何かアドバイスや励ましの言葉があったらお願いします。


神に信頼を置き、へりくだりと愛の内に前進なさってください。

私たちは牧師として、自分たちが教えてきたこと、もしくは教えてこなかったことについて、やがて神の前に申し開きをしなければなりません。ですから、神から来る栄誉、これを追い求めてください。

「互いの栄誉は受けても、唯一の神からの栄誉を求めないあなたがたは、どうして信じることができますか。」(ヨハネ5:44)





これが最終回です。

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3.創造の掟(creation ordinance)は、超文化的原則の指標です


どんな聖書的原則であれ、それが地域的な慣習という域を超えているのなら、その掟は創造の原理より引き出されたものです。

そして創造の掟に訴えるということは、すなわち、契約神が人類と結んだ約定(契約:stipulations)を反映しているのです。

創造の掟は、ヘブル人に与えられたものでもなく、一キリスト者に与えられたものでもなく、またコリント人に与えられたものでもありません。――それは神に対する根本的な人間の責務に根差したものです。

創造におけるこうした諸原則を、単なる地域的な慣習として脇に置くというのは、最悪の形で聖書内容を相対化し、また非歴史化させる行為です。

にもかかわらず、まさにこの点において、多くの聖書学者たちは、聖書の諸原則を相対化してしまっているのです。

創造に関する掟の大切さに関し、一つ例を挙げようと思います。離婚に関するイエスの取り扱いについてです。

パリサイ人がイエスを試みようとやって来て、「何か理由があれば、妻を離別することは律法にかなっているか?」と訊いたのに対し、イエスは結婚における創造の掟の箇所を引用されました。

「創造者は、初めから人を男と女に造って、『それゆえ、人はその父と母を離れて、その妻と結ばれ、ふたりの者が一心同体になる』、、こういうわけで、人は、神が結び合わせたものを引き離してはなりません。」(マタイ19:4-6)



この時の状況を再現してみると、当時、ラビの間で激しく意見の対立していた問題(シャンマイ派 vs ヒレル派)に関し、パリサイ人たちはイエスの意見を訊き、その言葉じりをとらえようとしていたことがよく分かります。

しかしそれに対し、イエスはどちらの学派の見解に肩入れすることなく、結婚の規範を総体的に考慮すべく、創造の掟にまで遡ったのです。

もちろん、イエスは創造の掟に関するモーセ律法の修正(modification)についても認識しておられました。

しかしイエスは、世論の重圧に負け、同時代人たちの文化的見解におもねったりすることなく、あくまで結婚の規範を弱めることを拒んだのです。

ここから得られる結論として、創造の掟は――後の聖書的啓示によりそれが明白に修正される(modified)のでない限り――規範に基づいたもの(normative)であるということです。


4.不確かな領域においては、謙遜の原則に従いましょう


仮にあなたが、ある聖書の掟について、これを真剣に検証したとします。

しかし懸命に検証したにもかかわらず、やはり依然として、それが原則なのか、それとも慣習なのか、確信が持てなかったと仮定しましょう。

でもその掟は白黒はっきりした応答を求める類のものであり、あなたはとにもかくにもyesかnoか決定しなければならない立場にあります。

ああ、でもこれぞという最終的決定打を見い出すことができませんでした。さあ、どうしましょう。

こういう場合、謙遜という聖書的原則が助けになります。

それはいたってシンプルな二択です。

1)それはもしかしたら単なる慣習であるかもしれない。でも私はそれを原則として取り扱おう。



それでは実際、それが慣習に過ぎなかったとしましょう。その場合、どうなりますか。あなたが負う責めは、神に従うことにおいて、「ちょっと几帳面すぎた」という事でしょう。


2)それはもしかしたら原則であるかもしれない。でも私はそれを慣習として取り扱おう。



しかし実のところ、それが原則だったと仮定してみてください。

そうすると、この場合、あなたは――超越的な神の掟(要求)を、単なる「人間の作った慣習」というレベルに引き下げるという行為によって――不徳という大きな責めを負うことになりませんか。どうですか。



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もしあなたが慣習原則として取り扱ったとするなら、あなたの負う責めは、過度に几帳面すぎたということ位でしょう。

しかしもし、あなたが神の原則を持ってして、それを単なる地域的な慣習として取り扱うなら、そしてそれを尊守しようとしないなら、その時、あなたは神に対して罪を犯すことになります。



よって、答えは明瞭だと思います。

もちろん、もし謙遜の原則が、言及されているその他の指標から引き離されてしまうなら、それは容易に律法主義を生み出す基となってしまうでしょう。

神が個々のキリスト者に選択の自由を与えられた領域において、信者の良心を規制する権利は私たちにはありません。

聖書が沈黙している箇所について、絶対的な方法でそれを適用させることはできません。

ここで私が述べた原則は、ある聖書の掟に関し、徹底的な検証がなされた後に、それでも尚、それがはたして慣習なのか原則なのか確信が持てない――そういう場合に適用されるものです。

しかしそういう地道な検証を怠るなら、慣習と原則の区別は依然として不明瞭なまま残るでしょう。

私がここで提案している〈謙遜の原則〉というのはあくまで最後の手段、最後の頼み綱として用いられるべきものであって、これを最初から使おうとするなら、それは有害なものになります。


おわりに


文化的な条件付けという問題は、リアルなものです。

時間、場所、言語のバリアというのは、往々にして意思疎通を困難なものにします。

しかしそれでも、文化の障壁というのは、それによって私たちを懐疑主義に陥らせたり、「所詮、神の御言葉は理解不可能なものだ」という絶望に私たちを陥らせたりするほど厳しいものではありません。

実に聖書は、その特異な力によって、あらゆる時代、あらゆる場所、そしてあらゆる慣習の元に生きる人々の最も深い処、そのニーズに語りかけ、福音を力強く伝えているのであり、それは私たちにとって慰めです。

そうです。文化の障壁は、御言葉の力を無効にすることなどできないのです。


―おわり―

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Taken from Knowing Scripture by R.C. Sproul. Copyright (c) 2009 by R. C. Sproul. Used by permission of InterVarsity Press, PO Box 1400, Downers Grove, IL 60515. www.ivpress.com

(出典:http://www.headcoveringmovement.com/articles/head-covering-and-hermeneutics-an-excerpt-from-knowing-scripture-by-r-c-sproul)





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