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むち打たれるイエス


彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。イザヤ53:5



おお 来て、嘆きの声をあげよ。

むち打たれ、傷だらけの主のみからだのために。


「それほど慕われているのは、誰だろう?」と、全世界が問うほどに。


イエスがどれほど愛を受けるにふさわしいお方であるか、天地が驚き、その御苦しみについてささやき始めるほどに。

そして世界が、彼のもとに帰るように。


黙想:

イエスがそれほど激しくうち打たれたのは、私のどの罪のためだろう?

私はどのような時に、自分の衝動や欲望のままに行動してきただろうか?

どのような時、他の人々に対して腹を立て、それによって、人々を傷つけてきただろうか?


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祈りましょう:


主よ、あなたの聖なる御苦しみによって、常に私の心を動かしてください。

罪深い欲望を本当に、真剣に断ち切り、私があがなわれるため、あなたにどれほどの犠牲を要したかを私が決して忘れないために。

主イエス様、私に罪を憎む心を与えてください。

なぜなら、罪は、かつてあなたに非常な苦しみをもたらし、そして今もなおもたらしているからです。

私はあなたのあがないの力を信じます。それは、私の罪深い欲望から、私を解き放してくれます。



―『カナンの道案内』より一部抜粋





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裁判にかけられるイエス

彼はしいたげられ、苦しめられたけれども、口を開かなかった。

ほふり場にひかれて行く小羊のように、また毛を切る者の前に黙っている羊のように、口を開かなかった。

彼は暴虐なさばきによって取り去られた。その代の人のうち、だれが思ったであろうか、彼はわが民のとがのために打たれて、生けるものの地から断たれたのだと。イザヤ53:7,8



小羊のように、イエスは裁く者たちの前に引いて行かれ、非難を受けることにご自身をゆだねられました。

私たちもイエス様の例にならいましょう。

人々が私たちを責め、非難する時、それを静かに受け入れましょう。イエスの、苦しみをも耐え忍ぶ愛の御姿へと私たちも変えられるように。


黙想:

ここに私は自分の姿を見ます。

ほかの人を非難し、裁く、つき出された人差し指。

いつも自分を正しいとし、ひとつの非難をも、黙って耐え忍ぶことができない自分の姿を。


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祈りましょう:

主よ、私を強めてください。あなたの御苦しみを思うために。

罪の負債から私たちをあがなうために、あなたを駆り立てた、その愛の海の中に身を沈めるために。


主イエス様、私が非難される時、自己弁解し、またそうすることによって、他の人を非難するのではなく、むしろ自分の失敗と自分の罪を認めることができるよう、私を助けてください。




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ケデロンの谷

(イエス様が囚人として引かれていった谷を覚えつつ、、、)



鎖につながれて、

あなたはケデロンの谷を進んで行かれる。

そこは、苦悶に満ちた涙の谷。



あなたはただ一人進んで行かれ、

共に行く者はだれもいない。



ただ天使たちが、

自分たちの創り主の苦しみを泣き悲しむ。



あなたをこの苦しみの道へとかりたてたのは

ただ愛のみ。



それゆえ、あなたはご自分の大きな苦しみを 

ものともされない。



愛するイエス様、

一体だれがそのことをあなたに感謝しているでしょう?


ああ 私の愛が感謝といけにえとされるなら!



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、、主の苦しみに「あずかる」という言葉は、深い意味を持っています。


イエスと共に担う苦難こそは、わたしたちを主との密接な交わり、愛の一致にあずからせるからです。


イエスの花嫁でありたいと願うすべての魂を前に、イエスは今も受難の人として立っておられます。


主は今もあざけられ、冒涜され、さげすまれ、見捨てられて、この地上における受難の道を歩んでおられるのです。



「私と共に歩む者はだれか。

わたしの花嫁、わたしの友として、わたしの道を共に歩む者はだれか。

侮辱、辱め、貧しさとへりくだりといった

わたしの苦しみを共にする者はだれか。」



御苦しみの主イエスよ、
汝を慰めさせたまえや。

ゆく道 知らずしても 
御そばにおらせたまえや。












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捕えられたイエス


イエスが縛られている。

神なるお方が鎖につながれて行く。


なぜなら、被造物なる人間がいつも自由を求めるから。


見よ、神が縛られている。


主が、ご自身のように、自ら進んで鎖につながれ、

共に行く者を待っておられる。


黙想:

この場面で、私はだれに当たるのだろうか?

逃げていく弟子―

あるいは、切りかかるペテロ?

どちらも苦しみたくなかった。

どちらも、苦しみへと導く神のみこころに結ばれることを望まなかった。



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祈りましょう:

罪なき、神の御子なるあなたは、悪魔の罪の鎖から私を救い出すために、ののしられ、あざけられ、つばを吐きかけられ、打たれ、縛られることを耐え忍んでくださいました。

愛するイエス様、それゆえに心から感謝いたします。

主イエス様、私の意志を取ってください。

私は、それが私にとって最善であることを信じて、あなたのみこころに従います。







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ゲッセマネ


ゲッセマネでの私の罪は何だろうか?

―私の無関心と怠惰―。

自分の罪に立ち向かい、信仰の戦いによってそれらからイエスに解き放していただこうとしていないこと。


ゲッセマネでの私の感謝は何だろう?

―これから起ころうとしていることに対する私の持っているすべての不安を今、イエスに明け渡し、

そして、彼がそのように私を呼ばれる時には、彼と苦しみを共にするほどに強くされるようにと、

イエスが私の不安と試練のすべてを受け、戦い抜いてくださったこと。



そしてご自分は、弟子たちから石を投げて届くほどの所に離れて、ひざまずいて、こう祈られた。

「父よ。みこころならば、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、みこころのとおりにしてください。」

、、、イエスは、苦しみもだえて、いよいよ切に祈られた。汗が血のしずくのように地に落ちた。(ルカ22:41、42、44)



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祈りましょう:


私のイエス様、

あなたが死ぬほどもだえ苦しまれた
この岩のところで、

私のあなたのそばにひざまずきます。



あなたが、私を暗い谷に導かれる時も、

愛ゆえに、私はあなたのもとに
とどまっていたいのです。



私はあなたのそばにとどまり、

あなたと共に耐え忍びます。




(『カナンの道案内』より 一部抜粋)








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(出典:許可をいただいた上で、『カナンの道案内』より一部抜粋)


眠っている弟子たち


私のイエス、暗い夜にただ一人。

あなたのそばで目ざめているものはだれもいない。

ただ一人、ただ一人

見捨てられ、

あなたは進んで行かれる。


問いかけ:

私たちは一体どこまで眠っているのだろうか?

―本来なら、イエスの現代の受難の道で主のみそば近くにいるべき、いわゆるクリスチャンとして―。


今日、イエスは、新たに見捨てられ、拒まれ、さばかれ、冒涜され、ののしられているのに。

目をさまして、彼と共に苦しみの道を行くようにと、イエスは今日、私たちに呼びかけておられます。

その道は、勝利に終わる道なのです。


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おお イエスと共に嘆け、彼の苦悩を嘆き悲しめ。

ご自分のものたちがそむき、離れ去っていくことは

彼の心を傷つける。



おお 嘆け、救い主としてイエスを知った者たちが

今日 彼にそむいている。



イエスの苦難を、彼の今日の苦しみを嘆き悲しめ!

人間はソドムのように、さばきへと向かって

進んでいる。



かつてのノアの大洪水の前のように、

神の心は悲しみに満ちている。


それゆえ、主をなお愛する者たちよ、

彼を慰めよ。





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