無名の聖徒たち

(The Unknown Saints)




ウィリアム・ワーズワースは自作の詩の中で、「この世には、われわれの知る以上にずっと多くの詩人が存在してきたはずだ」と言っている。

「、、、至高の才能、幻、神聖な能力を授けられし人々。」

しかしそういう詩人たちはそれらを公に表現する賜物に欠けていたか、あるいは、し損なったため、今に至るまで無名のままであるのだと。

そして彼は次のような意味深長な言葉で文を締めくくっているのだ。

「もっとも強固な知性は、
騒々しいこの世において
もっとも軽んじられている。」

私たちの多くは、こういった事が確かに理にかなう事実であることを知ってはいる。

しかし、そういった気づきは多くの人の人生の中で、生きた人生哲学とはなっていない。その反対に、この「騒がしい世」の提供してくる浅薄で偽りに満ちた哲学によって私たちはつき動かされているのである。

☆☆

一般に人間社会は、「偉大さ」と「名声」をイコールに考えるという誤謬を犯している。

「それぞれの世代には、ある一定数の優秀な人間がいて、民主的なプロセスの中でこういった人々は確実に見いだされ、卓越した地位に置かれることになるのだ」と彼らは言う。何という誤りであろう!

もし堅実に人生を見据えようと思うなら、私たちは「偉大さ」と「名声」を等価なものとするこの偽った哲学の力を断ち切り、そこから身を引き離すよう断固たる努力をしなければならない。

然り、この両者の間には往々にして、万里の違いがあるのである。

☆☆

もしもキリスト教会がこの世の影響を全く受けていないのなら、私たちは上記のような問題を世俗の哲学者たちにお任せし、教会は教会の働きに邁進すればよかったはずである。

しかしながら事実はどうかといえば、教会もまたこの邪悪な観念に汚染されているのだ。

こうしてクリスチャンは最も騒がしく、悪質な質(たち)の人々を「最もすばらしく、偉大な人物」と仰ぐ悪習慣に陥るようになった。

☆☆

こういったクリスチャンは「人気度」を「卓越性」と一緒くたにし、山上の垂訓に真っ向から反しつつ、柔和な者ではなく、出しゃばりで自己主張の強い者に拍手を送っている。

さらには悲しむ者ではなく、自信家に、そして神を見る心の清い者ではなく、大々的に自己宣伝してやまない人気取りの者をしきりに後押ししているのである。

冒頭のワーズワースの詩をこう言いかえることができるかもしれない。

「もっとも聖い聖徒たちは、
騒々しい教会において
もっとも軽んじられている。」

これぞ、まことに真なり。深遠にして、驚くべく真なり、である。

☆☆

三十年余りに渡り、キリスト教界の諸様相を注視してきた結果、私は次のような結論を下すを余儀なくされるに至った。

つまり、「敬虔者」と、「教会の指導層」とは往々にして同義にあらずということである。

私自身これまで、非常に敬虔なクリスチャンの方々を目の前に説教したことが何度もあった。こういった聖徒たちはすでに神の甘美なる奥義を深く味わい、私などよりはるかに神に近い歩みをしていた。

にもかかわらず、彼らはおとなしく会衆席に座り、彼らよりも劣る説教者たちがやたらと目立つ場所にいで立ち、諸真理をお粗末な形で説くのに耳を傾けているのである。――彼ら自身は、すでに長い間そのような諸真理に親しみ、美しい経験をしてきたにもかかわらずである。

もちろん、彼らは講壇に立つそのような説教者の、理論ばかりで真の心的知識に欠ける説教の実質については、これを熟知していたにちがいない。

しかし彼らはそれに対しても何も言わず、そのような乏しい説教から得られる僅かな恵みをもって大いに感謝の意を表していた。

☆☆

もしも教会が、聖く、御霊に満ちたからだであり、霊的な洞察による全き導きのうちにあったのなら、もっとも聖く敬虔な男女こそ、教会内で誰よりも認められ、尊ばれていたはずだ。

しかし現実はその反対である。

敬虔さというのはもはや尊ばれなくなっており、神を畏れる清い魂は、かまびすしい宗教活動の渦の中で忘却のかなたにうち置かれている。

その代りに、やたらと騒がしく、出しゃばりで、エンターテイメントの余興で人を興じさせてくれるような人々がもてはやされ、大衆の人気を勝ち取り、富と名声をわが物としている。


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その一方で、キリストの似姿に変えられ、無私で、天的な人は、脇に押しのけられているのだ。

永遠にかかわる本質をないがしろにする一方、浅薄で卑小なことにはやたらに重きを置くという近視眼的な哲学全般は、それ自体、不信仰の形状である。

そういった哲学を身に着けているクリスチャンは、現世の報いを得ることに余念がない。主の時をじっと耐え忍ぶことなど彼らにはできない。

そして、キリストがあらゆる人間の心の隠れた秘密を明らかにし、それぞれのしわざに応じて報いをする日を待ち望みつつ生きることが彼らにはできないのだ。

しかし真の聖徒はそれよりはるかに遠方を仰ぎ見ている。

彼は、過ぎゆく諸価値については、これを些末なものとみなし、永遠の諸物がついに自らのものとして顕され、神への信心に関することが万事のすべてとなるその日を熱心に待望しているのである。

☆☆

奇妙に感じられるかもしれないが、歴代の最も崇高な魂は、みな一様に、「悲観的すぎる」という評価を受けるが常であった。

世の魅惑に対する彼らの朗らかな無関心および、そういった諸誘惑に対する彼らの頑として変わらない抵抗ぶりは、浅薄な思想家たちによって常に誤解されるところとなり、結局、「あの人は、非社会的な御仁さまだ。人類に対する愛にも欠けるときている」と揶揄されてはばからない。

しかし、そういった世人たちにとっての盲点は、彼らの揶揄するあの「変わり者たち」が、目に見えぬ都市を一心に見つめ続けていたという事実である。

彼らは日々、この世のものではない、永遠の王国の光の下を歩んでいたのである。

そして彼らはすでにやがて来る世界の力を味わい、キリストの勝利と新創造の榮光の輝きとを遥かに仰ぎ見、これを享受していたのだ。

☆☆

無名の聖徒たちは、行き過ぎた悲観主義者でもなく、人間嫌いでもない。否、その敬虔な信仰により、むしろ彼らこそが、この世の生み出しし唯一の真正なる楽観家である。

彼らの信仰信条はノリッチのジュリアンの言った次の言葉によって簡潔にまとめられるだろう。

「しかしながらやがて全てが回復されます。全てが回復されます。そして万物が回復されるのです。」

「この世には未だ罪が存在し、わたしどもは恐ろしい刑罰をも予期しなければならないでしょう」と彼女は言う。

しかし、御子によってなされた贖いは疑いようもなく全きものであるため、やがてあらゆる悪が根こそぎにされ、すべてがキリストの内にある天初の美へと再び回復される時が必ず来るでしょうと。

その時、「全てが回復されます。そして万物が回復されるのです。」

☆☆

賢明なキリスト者は安寧の内にかの日を待ち望むだろう。そして、さしあたっての今のこの時期、彼は神のご意思の中で自らの世代に仕えていくことになろう。

宗教的人気スター・コンテストの場で軽んじられようと無視されようと、彼にはそんなことなど一向に気にする様子がない。

彼は自分が仕えお喜ばせしようとしている方が誰かを知っており、むしろその事実を世に知ってもらいたいと願っている。

それにどのみち、彼が地上にいる期間もそう長くはない。

然り、いずれ彼の行く場所において、人はその「アクセス数」や「会員数」ではなく、人格の聖さをもって知られるようになるのだから。



A. W. Tozer, The Unknown Saints
私訳




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A・W・トーザー 『聖なる方を知る知識』Knowledge Of The Holy)の第22章「神の主権(The Sovereignty of God)」の後篇です。

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山頂にて source

(前回のつづき)


さて、神の主権という教理によって引き起こされるもう一つの深刻な問題は、人間の意志をどう扱うかという点にあります。

もし神が、ご自身の絶対主権に基づく掟によって、宇宙を支配しておられるのだとしたら、「人間の自由選択というのは不可能」ということになってしまわないでしょうか。

そしてもし、人間に選択の自由が与えられていないのなら、一体いかにして、その人は自分の行為の責任を負えるというのでしょう。

そういう人間は結局、単なる「操り人形」――舞台裏で、心もおもむくままに糸を引いておられる神によって、その行動を決定づけられている――ということになってしまわないでしょうか。

☆☆

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こういった問いに答えを出そうとする試みが、これまでキリスト教会を二陣営に分かつ結果をもたらしてきました。そして、両陣営は、二人の代表的神学者、ヤコブ・アルミニウスとジャン・カルヴァンの名を取ってそれぞれ「アルミニウス主義」、「カルヴァン主義」と呼ばれています。

大半のクリスチャンは、どちらかの陣営に収まることで、それなりに満足しており、「神の主権」を否定するか、あるいは人間に対する「自由意志」を否定するかしています。


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しかし、私は思うのです。片方を侵すことなく、この二つの立場を和解させることが可能ではないかと。もちろん、これから述べる私の説明は、どちらかの立場の熱心な支持者にとっては、所詮、不完全な代物に過ぎないでしょう。

☆☆

以下が私の個人的見解です。神は、「人間が自由に倫理的選択をすることができるよう」主権を持って、これをお定めになりました。

そして人間は創造のはじめより、善と悪の間にあって自分でそれを選択することを通し、その定めを遂行してきました。

従って、人が「悪を行なうことを選択する」時、その人は、神の絶対的な意志を減殺している訳ではなく、あくまでそれを遂行しているのです。

永遠の掟は、人がどちらの選択をするかについては決定を下さず、むしろ人がそれを自由に選択できるように取り計らっているものだからです。

もし神がご自身の絶対的な自由の下に、「人間に対して、制限付きの自由を与えよう」とお望みになったのだとすれば、誰が、その主の御手をつかんで、「あなたは一体何をしているのですか?」と諫めることなどできましょう。

人間の意志は自由です。なぜなら、神が絶対主権を持った方だからです。

絶対主権を持たない神であったならば、ご自身の被造物に、倫理的自由を与えることはできなかったはずです。然り、そういう事は怖くてできなかったはずです。

☆☆

ここで理解しやすいように、身近な例を出してみることにします。

ある遠洋定期船があって、この船がニューヨークを発ちリバプールに向けて出港しました。

船の行き先は、しかるべき権威によって決定されています。それに対し何者も変更を加えることはできません。これがおぼろげながらも、私が描き出そうとしている「神の主権」像です。


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また船内には何百人という船客がいます。彼らは鎖につながれてはおらず、また彼らの行動が掟(decree)によって決定されている訳でもありません。

どこでどのように行動しようとそれは一切彼らの自由です。食べたり、寝たり、遊んだり、デッキをぶらぶらしたり、読書したり、おしゃべりしたり、、と彼らは好きなように行動しています。

しかしそうこうしている間にも、巨大な定期船は、着実に――事前に決定されている――港へと船客を運んでいるのです。

ここには「自由」と「主権」と、その双方が存在しており、両者は互いに矛盾していません

そしてこれが、「人間の自由」と「神の主権」を表しているのではないかと私は考えているのです。

強大な定期船に表される「神の絶対主権」に基づく主の御計画というのは、歴史という海の上を、一定の航路を保ち進んでいます。

神は、――世界の始まる前よりキリスト・イエスにあって計画されていた――永遠のご目的の成就に向け、妨害されることなく、阻止されることもなく、進んで行っています。

私たちは、そういったご目的の全容については知りませんが、少なくとも、今後起こるであろう事についての大まかな概観、未来の事に関する希望と揺るがない確信を持つに足りるだけの啓示は与えられています。

また神が預言者たちにお与えになった御約束はことごとく成就するということ、やがて罪びとは地から断たれるということ、贖われた民が神の喜びの内に入り、義とされた者が御父の王国で太陽のように輝くということを私たちは知っています。

さらに、神の完璧なご計画は、未だ普遍的には受け入れられていないけれども、やがて全ての被造物が主イエス・キリストゆえに御父に栄光を帰する時が来ること、そして現在の不完全な秩序は崩れ、やがて新しい天と地がとこしえまで打ち建てられることを私たちは知っています。


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そしてこれら全ての事の成就に向け、神は無限の知恵と完璧にして精密な行動をもって、働き続けておられます。

誰も主のご目的遂行をとどめることはできず、ご計画を逸脱させることもできません。主は全知の方ですから、不測の事態とか出来事というのは存在しえない訳です。

また主は主権者であられるゆえ、撤回された定めや掟というものはそこには存在せず、権力失墜という事態も起こり得ません。

そして全能の神として、主はご自身の選んだ目的を達成するに当たり、その力に欠くということもあり得ません。

こういった全ての事について、神はご自身において充足しておられるのです。

☆☆

しかし現実には、このような概略では説明できない事が多々あります。

不法の秘密はすでに働いています。そして、神の至高なる、許容されたご意志という広大な領域内で、善と悪の間の死闘が、さらなる勢いを増しつつ怒涛のように繰り広げられています。

つむじ風と嵐の中にあっても、神は依然としてご自身の道を貫徹していかれますが、今ここに嵐とつむじ風があるというのは紛れもない事実です。

そして私たちは責任を負うべき存在として、現在の倫理的状況の中で、自身の選択を選び取っていかなければなりません

☆☆

ある種の事柄は、神の自由な裁量によって定められていますが、その中の一つが、「選択とそれに伴う結果」の法則です。

誰であれ、信仰の従順により御子イエス・キリストに対し、自ら進んで自身を明け渡す人は、永遠のいのちを得、神の子となる、ということを神はお定めになりました。

また、誰であれ、暗闇を愛し、天のいと高き権威に対し刃向かい続ける人は、霊的に失われた状態にとどまり、ついには永遠の死に至るということも、神はお定めになったのです。

こういった一連のことを、個別的な言葉に置き換えてみると、私たちはここで非常に大切な個的結論に至るだろうと思います。

つまり、現在、周囲で荒れ狂っている倫理的確執のさなかにあって、誰であれ神の側につく人が勝ち組であり、負けることはあり得ないということ。

同時に、誰であれ、それとは反対の側につく人は負け組であり、勝つことはあり得ないということを。

ここにおいて偶然とか賭けとかは存在しません。どちらの側につくかについて私たちにはこれを選択する自由が与えられていますが、いったんその選択がなされたなら、その選択の結果についてあれこれ交渉するという自由は私たちに与えられていません。

神の憐れみによって、私たちは自分たちの犯した負の選択について悔い改め、正しい選択をし直すことによってその(負の)結果に変更をもたらすことがあるいはできるかもしれません。しかしそれ以上のことは私たちにはできません。

☆☆

倫理的選択をめぐる全ての問題は、イエス・キリストを中心に回っています

キリストはこの点に関し、次のように明言しておられます。「わたしの味方でない者は、わたしに逆らう者であり」(マタイ12:30a)、「わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません」(ヨハネ14:6b)。

福音のメッセージには次の三つの明確な要素が包含されています。――1)宣べ伝え、2)命令、3)召し、です。

福音の使信は、1)憐れみのうちに成就された贖いの良い知らせを宣べ伝え、2)どこにいる人であれ全ての人に対し悔い改めるよう命じ、3)イエス・キリストを主として救い主として信じることにより、恵みの関係に自らを明け渡すよう、万人に対して呼びかけているのです。

私たちは皆それぞれが、この福音に従うのか、それとも不信仰の内に福音に背を向け、その権威を退けるのか、どちらかを選択しなければなりません。

そういった私たちの選択は自分たち自身に属するものですが、その選択の結果というのは、神の至高の意志によってすでに決められており、これに対しては何者も逆らうことはできません。


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主は、いと高き天より降りて来られた。
空の暗闇をその足の下にして。

主は荘厳に、ケルビムとセラピムに乗られ
風の翼に乗って飛びかけられた。

主は洪水の上に座し、
その猛威をしずめられる。
そして主権者なる主であり王であるこの神が
とこしえまでも統べ治められる。
 
 トーマス・スターンホールド





―終わり―

A.W.Tozer, Knowledge Of The Holy, chapter 22, The Sovereignty of God, 私訳









A・W・トーザー 『聖なる方を知る知識』Knowledge Of The Holy)の第22章「神の主権(The Sovereignty of God)」を翻訳いたしました。

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スイス・アルプス


神の主権
(The Sovereignty of God )



万軍の主なる神、いと高く、恐るべき方、誰か汝を畏れない人はいるでしょうか。

なぜなら、汝だけが主であられるからです。

汝は天と天にあるものすべて、地とそこに存在するものすべてをお造りになり、

汝の御手の内に、生きとし生けるものの命はあります。

汝は洪水の上に座し、みくらに座して、とこしえに王であられます。汝は全地を治める偉大なる王です。

汝は御力を身にまとい、誉と威厳とは汝の御前にあります。アーメン。



神の主権とは、ご自身の全ての被造物を神が統治しておられるという属性のことを言います。

そして主権を持つには、神は全知全能にして、絶対的に自由でなければなりません。なぜでしょうか。

以下、その理由を挙げることにします。

☆☆

どんなに些細な知識であっても、それが神の知られざるところにあるとしたら、その時点で、神のご支配は破城をきたしてしまいます。

なぜなら、あらゆる被造物を治める主であるためには、主は全ての知識を持しておられる必要があるからです。

また、神がほんの微量でも力に欠けているとするなら、その欠如は主のご統治にピリオドを打ち、主の御国を無効にしてしまいます。

そしてごくごく微小な力が神以外の誰かに属しているとするなら、その時点で、神は有限な統治者となり、従って主権を持たないということになってしまいます。

さらに、神の主権は、主が絶対的に自由でなければならないということを意味してもいます。

つまり、主は、妨げられることなく、あらゆる詳細な点において、ご自身の永遠の目的を達成されるべく、いつでも、どこであっても、ご自身のなさりたいことを遂行する自由があるということです。

その自由が欠如しているなら、神は主権を持つ方でなくなってしまいます。

こういった無制限の自由という概念を把握するには、相当な思考の努力を要します。

というのも、私たちは――その不完全な形におけるもの以外に――そういった自由を理解するようには、心理学的に条件づけられていないからです。

それについての私たちの概念は、絶対的な自由が存在しない世界の中で形作られてきたものです。

この世界においては、それぞれの自然物は他の多くの物体に依存しており、そしてその依存性によって、自由は制限されているのです。


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ワーズワースは、『序曲』の冒頭のところで、これまで長く幽閉されていた街から脱出し、「今や、自由に、鳥のように自由に、わが思うままに住みつくことができる」と歓喜しています。

しかし、鳥の持つ自由とは、全く自由ではないのです。

博物学者が周知のとおり、一見、自由にみえる鳥というのは、実際には、その全生涯を、恐れ、飢え、本能から成り立つ檻の中で過ごしているのです。

彼らの自由は、気候条件、さまざまな気圧、各地の食料事情、肉食動物などにより制限されています。

そしてあらゆる束縛の中でも最も奇妙なものとして――彼らは鳥の王国の協定によって定められし狭いテリトリー内にとどまるよう――不可抗的強制力により自由を制限されています。

もっとも自由な鳥であっても、他の全ての被造物と同様、必要性という網による、絶え間ない監理下に置かれています。ただ唯一、神だけが自由なる方なのです。

☆☆

神が絶対的に自由なる方だと言われるのは、何者も、どんな物も神を妨害したり、強制したり、差し止めたりすることができないからです。

主は常に、どこであっても、そして永遠に、ご自身の望むところを為すことのできる御方です。

そのように自由であるためにはまた、主は普遍的権威を持していなくてはなりません。御言葉や、主の他の属性などから分かるように、主は無制限なる力をお持ちです。

では、主の権威とはいったい何なのでしょうか。

しかし、そもそも全能なる神の権威について議論しようとする事自体、ある意味、無意味なことであり、それに対して異議を唱えることは荒唐無稽なことと言わざるを得ないでしょう。

万軍の主なる神が、誰かに許可を求めたり、より権威のある存在に訴え出たりするような必要性があるなどと想像できますか。

神は誰の所へ認可を得るべく行けばいいのでしょう。いと高き方より高い方がどこに存在するのでしょう。

全能の方以上に強い存在などいったいどこに在るのでしょう。永遠なる方に先行するものが存在するのでしょうか。

どの王座に向かって、神は跪くというのでしょうか。

神がお伺いを立てに行くような、より偉大な方など、どこに存在するのでしょう。

「イスラエルの王である主、これを贖う方、万軍の主はこう仰せられる。『わたしは初めであり、わたしは終わりである。わたしのほかに神はない。』」(イザ44:6)



☆☆

神の主権は、聖書の中で明確に述べられている事実であり、真理の論理によっても声高に宣言されているものです。

しかしそうは言っても、これは、未だに満足のいく解答の与えられていないある種の問題を提起しています。

その問題とは、大きく分けて次の二つあります。

第一に、それは、被造物の中における――悪、痛み、死といった――神の是認しておられないものの存在についてです。

もし神が至上の方なら、そういった物が存在するのを前もって防ぐことができたはずではないでしょうか。なぜ神はそうなさらなかったのでしょうか。

☆☆

ゾロアスター教という――聖書的啓典宗教に属さないものの中では最も高尚な宗教――の経典『アヴェスター』は、この難題を、神学的二元論を打ち出すことで打開しようとしました。

この宗教によれば、この世界にはアフラ・マズダーとアフリマンという二神が存在しており、この二神によって世界は創造されたのだとされています。


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(右側がアフラ・マズダー、3世紀)


善神アフラ・マズダーが、あらゆる善きものを造り、悪神アフリマンが残りのものを造ったのだと。とてもシンプルな説明です。

ですから、アフラ・マズダーは、自分の主権の有無について悩む必要はなく、自分の大権を悪神と共有することに関しても、そこにこだわりはなかったようです。

☆☆

しかしクリスチャンにとっては、この説明は意味をなしません。

というのも、これは聖書全体を通し断固として提示されている真理と明らかに矛盾しているからです。

聖書においては、神は唯一であり、この方だけが天と地、そしてそこに存在する万物をお造りになったのです。こうした神の属性ゆえ、他の神の存在というのはあり得ないわけです。

確かに、「なぜ悪の存在が許されているのか?」という問いに対し、クリスチャンは自分たちが最終的な答えを持っていないことを認めています。

しかし、少なくとも、クリスチャンは何がその答えでないのかという点については知っており、『アヴェスター』のような経典にもその答えはないということを私たちは知っているのです。

☆☆


罪の起源についての完璧な説明というのはできないかもしれませんが、幾つかの点においては少なくとも、私たちはその理由を知っています。

至高なる知恵の中で、神は、ご自身の被造界の限られた領域内でのみ悪をお許しになっておられるのです。

それはたとえて言えば、活動が一時的にしか過ぎず、範囲においても限られている逃亡犯の如くあります。

これを遂行するにあたり、神はご自身の無限なる知恵と善に従い行動を起こしておられます。現時点においては誰もそれ以上のことは知りません。そしてそれを知る必要もないのです。

神の御名こそ、ご自身のみわざの完成を保証するに十分なものなのです。



(その2につづきます。)





聖徒は孤独な道を歩まなければならない (その3)

(The Saint Must Walk Alone)




しかしこの孤独こそが、再び彼を神の懐に飛び込ませるのだ。「たとい父母がわたしを捨てても、主がわたしを迎えられるでしょう」(詩篇27:10)。

人のうちに仲間を見い出すことができない――この事実が彼を神の元へ向かわせ、神の内にのみそれを求めさせるのである。

そして内なる静けさの内にあって――彼は人込みの中にいては学ぶことのできなかったであろう――次の事を知るのだ。

つまり、キリストこそが全ての全てであり、キリストこそ私たちにとっての知恵、義、聖め、贖いとなってくださったこと。そしてキリストの内に私たちは人生の至高善を宿しているということを。

☆☆

ここで二つの事を付け加えておきたい。

一つ目は、これまで述べてきた「孤独な聖徒」というのは、高慢な人ではなく、また(大衆小説で痛烈に風刺されているような類の)独善的でいかめしいクリスチャンの事を言っているのでもない、ということだ。

逆にこの人は自分の事を他の誰よりも取るに足りない者だと感じ、「私が孤独なのは、きっと自分に何か問題があるのかもしれない」とむしろ自分を責めているであろう。

また彼は自分の気持ちを他の人々と分かち合い、自分の事を理解してくれそうな何人かの魂に心を打ち明けたいと願っている。しかし現在彼を取り囲む霊的環境は、そういった事をなかなか彼に許さない。

それゆえ、彼は引き続き、沈黙を保つことになり、ただ神にだけ自分の嘆きを打ち明けるのである。

☆☆

二つ目として、孤独な魂は「世捨て人」ではない。

彼は人類同胞の苦しみに対して心を閉ざし、ひがな天国の黙想だけに時間を費やしているような隠遁人ではないのである。

いやむしろ、事実は全くその逆なのだ。彼は自分が孤独であるからこそ、心に痛みのある者、罪に傷つき倒れている者たちに対し、慈しみと同情の心をもって近づくことができるのである。

そして彼はこの世から分離しているがゆえに、尚更、そういった人々を助けることができるのだ。

マイスター・エックハルトは弟子たちに次のように言ったそうだ。

――もしあなたがたが深い祈り、、それも第三の天に引き上げられたかのような深い深い祈りの内にありながらも、その時ふと、貧しい一人のやもめが食べ物を必要としている事を思い出したのなら、その祈りをただちに止め、やもめの助けに走りなさい。「あなたは(帰ってきてから)再び祈り始めればいいのであって、主もまた十分に補ってくださるのです。」

こういった態度は、パウロから今日に至るまで、内なる生活を実践する偉大な神秘家や信仰者のうちに典型的にみられるのだ。

☆☆

今日、多くのクリスチャンの弱点というのは、彼らがこの世にあまりに馴染みすぎ、この世に対し、すっかり「住み心地良さ」を感じてしまっていることにある。

キリストを知らないこの社会になんとか自分を平和的に「適応させよう」と努めた結果、彼らは「旅人」としてのクリスチャン本来のあり方を失ってしまった。

そして元々彼らは、この世の倫理秩序に「再考」および「反省」を促すべく主に遣わされた者であったはずだが、悲しいかな、今となっては逆に、その倫理秩序を構成する重要な一員にさえなってしまっているのだ。

それゆえ、この世はそういう彼らを評価し、受け入れるのである。ああ、これほど悲しいことがあるだろうか。

だから、そういうクリスチャンは孤独ではない。しかしまた、聖徒でもないのである。





ーおわりー


A.W.Tozer, The Saint Must Walk Alone
私訳








聖徒は孤独な道を歩まなければならない (その2)

(The Saint Must Walk Alone)





時に私たちは、一種の(宗教的)反射作用を起こし、――自分が本当にはそう感じることができておらず、それに関する個人的体験にも欠けていながらも――、それでも生真面目に「もっともらしい」言葉やフレーズを繰り返してはいないだろうか。

昨今、とみにそのような傾向がみられる。しかし聖徒の孤独という聞きなれない真理を初めて耳にしたあるクリスチャンは、その紋切り型の忠誠心によって、快活にこう言うのかもしれない。

「いいえ、とんでもありません。私は孤独を感じたことなんて一度もありませんよ。だってキリストはこうおっしゃいました。『わたしは決してあなたを離れず、あなたを捨てない』そして『見よ。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいるのである』と。そうです、イエス様が私と共におられるのに、どうして孤独を感じたりなどできましょう?」

もちろん私はそれぞれのクリスチャンの心の動機や誠実さについて云々言うつもりはない。

しかしこういった種類の証しには真実性が感じられないことが多々あるのだ。

このように言っている人はおそらく、「経験によって試された上で真と証されたもの」というよりはむしろ、彼がこれが真に違いないと「考えていること」――これに基づいて発言しているのではないかと思う。

聖徒の孤独に対しての、こういった明るく快活な否定というのは、その人がまだ一度も、周りの支援や励ましなしに神と歩んだことがないという事実を物語っている。

彼がキリストの臨在ゆえに自分に与えられていると主張する「親密な交わりの感覚」というのは、もしかしたら彼に対してフレンドリーな人々の存在に起因しているのかもしれない。

でもこれだけは覚えておいてほしい。――「人は、集団で十字架を背負うことはできない」ということを。



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たとえその人が大勢の人の間に囲まれていたとしても、それでも彼の十字架は彼だけのものであり、彼がそれを背負うという行為が、この人をして他から別たれた人とせしめるのである。

周りの社会は、彼に敵対してくるだろう。(仮に敵対されないのなら、彼にはそもそも十字架がないということである。)

そして十字架を背負った男と友達になろうと思う人はいないのである。「彼らは皆、主を捨てて、そして逃げ去った。」

☆☆

孤独の痛みというのは、私たちの生来の性質に起因するものである。

神は私たちをお互いのためにお造りになったからだ。それゆえ、人間同士のつながりを求める願望というのはきわめて自然なことであり、また正当なことでもある。

クリスチャンの孤独というのは、神を信じない不敬虔な世において彼が神と共に歩まなければならない事に起因し、また、神とのその歩みというのは、往々にして彼を、新生していないこの世との交わりからも、そして善良なクリスチャンとの交わりからも隔絶に至らしめることすらあるのだ。

しかし彼の(神より与えられし)本能は、自分と志向・思いを同じくする仲間を求め叫ぶのだ。

――ああ、自分の切に求めているもの、この情熱、そしてキリストの愛に捕えられた私のこの思いを理解してくれる仲間がほしいと。

しかし現実には、彼のこういった内的経験を真に理解し、共有してくれる人は彼の周囲にほとんどいない。

それゆえに、彼は孤独な歩みをせざるを得なくなるのだ。

過去に生きた預言者たちも同様に、仲間の理解を求め、それを切望していたがそれは満たされることがなく、彼らはその事を嘆かずにはいられなかったのである。そして主ご自身でさえも、同じような苦しみを味わわれたのだ。

☆☆

真に内的経験をし、主のご臨在のうちに入った人は、自分のことを理解してくれる仲間を見いだすことに困難を覚える。

もちろん、定期的な教会の集まりの場などで、ある程度の社交的付き合いはできるだろう。しかし真に霊的な交わりを見いだすことは非常に難しい。しかし彼はそれ以外の状況を期待すべきではない。

、、この人は旅人であり、巡礼者なのだから。そして彼の歩んでいる旅路というのは足ではなく、彼のの内で進行しているものなのだから。

彼は自分の魂という園において神と共に歩んでいる、、そう、神以外の誰が彼と一緒にその園の中を歩めるのだというのだろう?

主の宮の外庭を出入りしている群衆とは異なるスピリットを彼は持っているのだ。

そして彼は外庭にいる群衆が聞いたことしかないものを実際に目で見、――神殿から出てきたザカリヤを見た人々が、「彼は幻を見たのだ」とささやいたように――そのような特異な歩みをしているのである。

☆☆

真に霊的な人というのは、何といっても「変わり者」である。

この人は、自分のためには生きておらず、その代わり、別のお方――この方に人々の関心が向けられるよう、その事だけに邁進している。

また「全てをこの主に捧げ尽くし、自分のためには何も求めてはいけない」と人々を説得しようとしてもいるのである。

彼は自分に栄誉が帰せられるのは嫌がる一方で、救い主イエスが人々の目に崇められるのをひたすら望んでいる。主が注目され、自分自身は目立たぬ所にいることがこの人の喜びである。

こういった彼の心にある最大の関心事を共有し、話題にしてくれる人はほとんどいないため、彼は往々にして、がやがやした宗教談義の間中、じっと黙りこくり、上の空であることが多い。

そのため、次第に「この男は、なんとも面白みがなく、まじめすぎる」という定評が立ち、人から疎んじられるようになり、こうして、彼と周囲の世界との隔たりはますます拡がってゆく。

また彼は、象牙の塔の中にも、没薬、沈香、桂皮の香りのする「似た者」を嗅ぎ分け、仲間を得ようと試みもするが、結局、古(いにしえ)のマリアのように「これらのことをすべて心に納めて思いを巡らせて」いるような人はほとんど皆無であることを知るのだ。



(3)につづきます。




聖徒は孤独な道を歩まなければならない

(The Saint Must Walk Alone)





かつて生きた偉大な魂のほとんどは孤独であった。

孤独というのは、聖徒がその清い歩みをするべく支払わなければならない代価のように思われる。

世界の黎明期に(もしくは、人間の創造という暁の後すぐに襲ってきたあの奇妙な暗闇の中でと言うべきかもしれない)、あの敬虔な魂エノクは、神とともに歩み、そしていなくなった。

なぜなら神が彼を取られたからである。またそこに多くの記述こそないが、エノクが彼の同時代人たちとはかなり異なる歩みをしていただろうことは容易に察することができる。

ノアもまた孤独な人だった。

洪水以前に生きたすべての人類の中にあって、彼は主の心にかなっていたのである。そして彼もまた、同胞に囲まれていながらも、やはり孤高な生涯を送っていたらしいことが察せられるのだ。

またアブラハムの周りにはサラやロトの他にも、多くのしもべや家畜の牧者たちがいた。

しかし、彼の生涯の記録および彼についての使徒の記述の読んでなお、「あなたの魂は星のように はるか遠くに住んでいる(訳註:ウィリアム・ワーズワースの詩の一節)」――そのような孤高さを彼の内に感じない人がいるだろうか。

私たちが知る限り、人の輪の中にあっては、神はただの一言もアブラハムに語りかけなかったのである。

顔を地に伏せ、アブラハムは神と親しく語り合った。そして彼持前の威厳が、他人の面前で平伏祈祷することを潔しとしなかったのである。

彼が、切り裂かれたささげ物の間を通り過ぎる「燃えるたいまつ」を見たあの晩の光景はいかに甘美で、かつ厳粛なものであったことだろう。

あの場においてこそ、、そう、おそろしい暗黒の恐怖が彼を襲うただ中にあってこそ、アブラハムは神の御声を聞き、自分が主の恵みを受けている者であることを悟ったのである。

☆☆

モーセもまた聖め別たれた人であった。

未だパロの宮廷にいた時分にも、モーセは独り長い道のりを歩いていたのだった。そんなある日、彼は人気(ひとけ)のないある場所で、エジプト人とヘブル人がけんかをしているのを目撃し、同胞の助けに走ったのだった。

その結果として彼はエジプトを離れることを余儀なくされ、砂漠の地でほぼ完全な隠遁生活を送ったのである。

こうして独り、彼が羊の群れを世話していた時、燃える柴の奇蹟が彼の前に顕され、その後、シナイ山の頂において、モーセは独り身をかがめつつ、あの神々しい神のご臨在――雲と火の間にあって一部は隠れ、一部は顕されていた――に立ち会ったのである。

☆☆

キリスト者以前の時代に生きた預言者たちは、それぞれ性格をかなり異にしているものの、彼らを結び付けていた一つの共通点――それは、強制されし孤独だった。

彼ら預言者は同胞を愛し、父祖の宗教に誇りを持っていたが、しかし、アブラハム、イサク、ヤコブの神に対する忠誠心およびイスラエルの福利に対する彼らの熱意が彼ら預言者をして、なかば強制的に群衆から分離せしめ、長期に渡る重苦しい歳月へと至らしめたのである。

「わたしはわが兄弟には、知らぬ者となり、わが母の子らには、のけ者となりました」(詩69:8)とある者は叫び、意図せずして残り全ての者の心境を代弁していたのだ。

しかしその中でも最も意味深いのは、――モーセや全ての預言者たちが記していたあのお方の――孤独に満ちた十字架への道のり、その光景であろう。

主イエスの深い孤独感は多くの群衆に囲まれている最中にあっても、決して慰められはしなかったのである。



真夜中だった。
オリーブ山の頂では
さきほどまで輝いていた星がかすんでいる


真夜中だった。
園では
受難の救い主が 独り祈っておられる


時は真夜中だった。
すべてをはく奪され すべてに捨てられ
救い主は ただ独り 恐怖と戦っている


愛しておられた弟子たちでさえも
もはや そこにはおらず
主人の嘆きと涙に 心留める者もいない

-William B. Tappan




主は――死すべき人間の視野からは隠された――暗闇の中でたった独り、息を引き取られた。

そして、(後になって多くの人が復活された主を見、その事を証言しはしたが)主が死より甦り、墓から出て来られた当初、それを目撃した者は誰ひとりいなかったのだ。

あまりにも崇高すぎて神の目を持ってしか見ることのできないものがある。

好奇心、騒々しさ、(そして、たとい良い意図ではあっても)的の外れた助言などは、主を待ち望む魂にかえってつまずきを与え、人間の理解を超えた神の使信を、敬虔な心に伝えることを困難にしてしまうのである。



私訳
(2)に続きます。




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『神へのあこがれ(The Pursuit of God)』



第六章 語りかける神の声




(前回のつづき)


誰であれ神の御声に耳を傾ける者は、「語りかける天国」の体験するでしょう。

しかし悲しいかな、今日、「静まって神の声を聴く」というのは、教会の中で人気のない教えとなっています。

むしろ私たちはその対極にいるといっても過言ではないと思います。キリスト教会は、騒がしさ、規模、活動、おおげさなパフォーマンスといったものを神の前に良しとする、恐ろしい異端の教えを受け入れてしまっています。

しかし失望しないでください。たいへんな苦しみと葛藤のさなかにいる人々に対し、神はこう仰せられます。

「静まって、わたしこそ神であることを知れ」(詩篇46:10a)。

そして今日も主はそう言われます。――あたかも「私たちの力や安定は、騒がしさの中にではなく、静寂の中にこそあるのだ」とおっしゃっているかのように。

☆☆

静まって神を待ち望むことは大切です。

一番望ましいのは、一人になれる時間帯を選び、できれば目の前に聖書を広げるのがよいでしょう。そうして後、私たちは神に近づき、主が私たちの心に語ってくださり始めるのです。

おそらく普通の方なら、この過程は次のように進んでいくでしょう。

1)あたかも神の臨在が庭の中を歩いておられるかのような、なにがしかの「音」が聞こえてきます。

2)次には「声」が聞こえてきます。(1)の段階によりも神の御声はもっと理解しやすいものになっていますが、依然としてまだ明瞭ではありません。

3)しかしついに、御霊が聖書に啓示の光を当て始めるという幸いな瞬間がやってきます。



最初は音だけでした。もしくはせいぜい不明瞭な声でしかありませんでした。しかし今やそれは理解できる言葉となり、大好きな友達の言葉のごとく、あたたかく、親密ではっきりした言葉として聞こえてくるのです。

そうした後、命と光が来、ついに救い主であり、主であり、全ての全てであるイエス・キリストを見、主の内に安らぎ、主を包み込み受け入れることが可能とされていきます。

☆☆

神が、ご自身の宇宙の中で「今も語っておられる存在である」ということに確信が持てない限り、聖書は私たちにとって決して生ける本とはならないでしょう。

大半の人にとって、「死せる機械的な世界」から「ドグマチックな聖書」への移行など、あまりにしんどく、受け入れがたいものです。

彼らは頭では知っています。――聖書は神の言葉である。だからそう信じなくてはいけない。でも実際問題、聖書のページの上の言葉が自分のために書かれているということは到底信じられない、、これが彼らの現状です。

あるクリスチャンは言うでしょう。「これこれの御言葉は私に対して語られたものです」と。でも彼の心はそう感じることができておらず、確信もありません。

彼は分裂化した心理学の犠牲者といえます。神はどこに在ても沈黙しておられ、ただ書物の中でだけお語りになる方なのだと彼は思い込んでしまっているのです。

私たちの不信仰の大部分は、真理の御言葉に対する間違った概念ないしは、誤った感情にあるではないかと私は考えています。

彼らはこう考えているのです。

――いつもはだんまりを決め込んでおられた神が、書物の中で突然話し始めた。でも本が終わりにさしかかるや、またもや神は沈黙してしまった、、永久に。だから私たちが聖書を読むというのは、つまり、神が話す気分でいらっしゃったほんの束の間に言われたことの記録書――これを読むということなのだ、と。

しかしこのような前提があっては、私たちはいかにして信じることなどできましょう。

しかし実際には、神は沈黙しておらず、これまでも決して沈黙されてこなかったのです。

お語りになるという行為は神のご性質そのものです。三位一体の第二格はロゴス(ことば)と言われています。

聖書は絶え間なく話される神の御声の生み出した必然的結実であると言えます。

そして、これは――私たちになじみのある人間の言葉で表現され――私たちに対する主の思いを述べた、誤ることのない宣言なのです。

☆☆

聖書というのが、かつて(過去のある時点で)話された本であるにとどまらず、今現在も話し続けまた語り続けている本である、ということを念頭に置いた上でこの書物に臨むなら、宗教的霧の中からやがて、くっきりと新しい世界がひろがってくるに違いありません。

預言者たちは繰り返しこう言いました。「主はこう言われる。」

こう言う時、彼ら預言者は聴衆に対し、「神の語りかけは、継続する現在という時の中でなされている」ということを伝えていたのです。

過去のある一時点で、ある神の言葉が話されたことを伝えるのに、確かに私たちは過去形を使います。

しかし、かつて語られた神の言葉は、その後も継続して語られ続けています。――それはたとえて言うなら、(過去のある一時点において)生まれた子供がその後も生き続ける様、あるいは、かつて創造された世界が、その後も継続して存在し続けている様などになぞらえることができるかもしれません。

しかしこういった例は不完全な説明でしかありません。というのも、子どもたちもいつの日か死に、世界もやがては焼き尽くされるからです。しかし、私たちの神の言葉はとこしえまでも生きながらえます。

☆☆

あなたが神を知りたいと渇望しておられるのなら、今すぐにでも聖書をお開けなさい。

そして聖書があなたに語りかけるのを待ち望んでください。聖書があたかも〈もの〉であるかのように、自分勝手に取り扱ってはいけません。

この書物は〈もの〉以上のものです。そうです、これは声、ことば、そして生ける神のことばに他ならないのです。



主よ、汝の御声に耳を傾けることを教えてください。

この世はかまびすしく
私の耳は、
絶えまなく襲ってくる 何千という騒音によって
疲れ果てています。


私に幼な子サムエルの霊をお与えください。

「お話しください。しもべは聞いております」と
汝に申しあげた彼の霊を。

どうぞ私の心の中でお話しください。
汝の御声のひびきに
慣れ親しみたいのです。


――地上にある 
もろもろの音が消え去り、

私に語りかける
汝の御声の調べだけが
ただひとつの音となるほどに。

アーメン。





『神へのあこがれ』第六章 終わり
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『神へのあこがれ(The Pursuit of God)』


第六章 語りかける神の声



(前回のつづき)


こういった普遍的神のみ声のことを、古代ヘブル人はしばし「知恵」と呼びならわしていました。

彼らによれば、この「知恵」は、いたる所で鳴り響き、全地をくまなく巡りながら、人の子からの応答を待ち望んでいるというのです。箴言の八章は次のように始まっています。

知恵は呼ばわらないだろうか。英知はその声をあげないだろうか。箴言8:1



そしてさらに、箴言記者は知恵を、「丘の頂、道のかたわら、通り道の四つかどに立つ(8:2)」美しい女性になぞらえます。彼女はあらゆる町かどに立ち、誰も聞き逃すことのないよう、声を張り上げて言います。

人々よ、わたしはあなたがたに呼ばわり、声をあげて人の子らを呼ぶ。箴言8:4



そして彼女はわきまえのない者、愚かな者に対し、自分のことばに耳を傾けるよう嘆願しています。

これは神の「知恵」が私たちに求めている霊的応答であり、彼女がいつもそれを切望しながらも、残念ながらほとんど得られることのない応答なのです。

私たちの永遠の福利は、実にこの「聞く力」にかかっているにもかかわらず、悲劇的なことに、私たちの耳は、むしろそういうものを受け付けず、遮断してしまっています。

☆☆

この普遍的「神の声」は、今に至るまで鳴り響いており、(たとい人が自らの抱いている恐れの源が一体何なのか理解していなかったとしても)それでもしばし、そのは、人の心に呵責の念を起こさせています。

人の心を覆いし生露の滴るがごとく――この「声」こそが、呵責に苦しむ良心の隠れた主因、そして(歴史が始まって以来、無数の人々によって求められてきた)不死に対する渇望ではないでしょうか。

私たちはこの事に直面することを恐れる必要はありません。語りかける神の声というのはれっきとした事実だからです。

☆☆

神が天から、主イエスにお語りになられた時、それを聞いた自己中心的な人間たちは、その「声」を自然的原因に帰して言いました。

「雷がなったのだ」(ヨハネ12:29)。

神の声を説明するのに、自然法則に訴えるやり方というのは、近代科学の根源ともいうべきものです。

生き息づく宇宙の中には、ある神秘的な「何者か」がおられます。そして、このお方はあまりに偉大かつ驚異的であり、人間理性の理解をはるかに超えているのです。

信仰者は、是が非でもこれらを「掌握してやろう」ともがいたりはせず、むしろ膝をかがめ、こう囁くのです。「おお神よ!」と。

この世に属する人間も跪きますが、それは神を礼拝するためではなく、あくまで、そういったものの原因や諸現象を調べ、突き止め、発見すべく彼らは跪くのです。

そうです、私たちは世俗時代のただ中に生きており、それゆえ、私たちの思考様式も、科学者のようであって、礼拝者のそれではない、というのが現状です。

私たちは驚異の念に打たれ神を崇めるよりはむしろ、それを「説明」しようとする傾向を強く持っています。そして「雷が鳴ったのだ」(ヨハネ12:29)と言いつつ、そのまま地上的な道を進んでいきます。

しかしそんな中でも依然として神の声は鳴り響き、今も私たちを探しておられます。

世界の秩序および命が、このお方の「声」に依拠しているにもかかわらず、私たちは余りにも多忙すぎるためか、もしくは頑迷すぎるためか、その声に注意を向けようとしないのです。

☆☆

しかし私たちの内誰もが、言葉では表現できないある種の経験をしているはずです。

――例えば、突然襲ってくる孤独感、宇宙の広大さを前にした畏敬の念、、もしくは、、次のような経験はありませんか。

あたかも別の太陽から放たれているようなまばゆい光を受け、その瞬間、自分がこの世に属さないよそ者であること、私たちの源は神よりくるものである事、、などを確かに知るのです。

その際に、私たちがそこで目にしたり、感じたり、耳にしたりするものは、自分たちがこれまで学校で教わってきたものとはまるで正反対の現象かもしれませんし、これまでの信念や考えともかなり異なる種類のものであるかもしれません。

しかしこれらの現象に対する私たちの素朴な疑問は無理やりもみ消され、そうこうしているうちに、また雲が頭上を覆ってしまうのです。

このような事を説明しようとするに当たり、私たちがぜひとも覚えておかなければならない事があります。それは、少なくとも次に挙げる二点、つまり、

ーこういった経験は、この世界に存在しておられる神の臨在より来たものかもしれない。
ーこれは人間と意思疎通を図ろうとしておられる主のたゆみない努力と願いによるものであるかもしれない。

という事がもしかしたら可能性としてあり得るかもしれない、と私たちが受け入れようとしない限り、私たちは諸事実に対して公平な態度を取ることができないという事です。ですから、こういった仮説を、あまりに軽率に斥けるのは慎むようにしましょう。

☆☆

次に述べるのはあくまで私個人の見解です。

――つまり、この世界で人類が作り出してきたあらゆる良き物、美しい物は、全地に響き渡っている創造的な神の「声」に対する、人間側の、(罪で塞がれた)不完全な応答だということです。

美徳に関する高尚な理想に夢を抱いた倫理学者、神および不死についての思索にふけった宗教思想家、ありふれた物から純粋で永続する美を造り出そうとした詩人や芸術家たち、、、彼らのことを一体どう説明すればよいのでしょうか。

「どうせ、あの人たちは天才だったんですよ」と言うのではあまりにも短絡すぎます。

それでは天才とは何なのでしょう。

もしかしたら天才とは、語りかける御声にとりつかれたようになった人――漠然としか理解できていない目的をなんとか達成しようと、労し努力している人間のことを指すのかもしれません。

もちろん、こういった偉人の中には、神のことを見落としてきた人もいるでしょうし、あるいは神に敵対するような事を言ったり書いたりしてきた人もいるでしょう。

しかしたといそのような事実があるにしても、依然としてこれまで私が述べてきた論点を崩すことはできません。

聖書の中に記されている贖罪の啓示は、救われるための信仰および神との平和を持つに当たって必要不可欠です。

不死に対する漠然とした憧れが私たちを神との平安にして満たされた交わりへと導いていくのだとするなら、復活された救い主イエス・キリストへの信仰はその過程で不可欠なのです。

☆☆

神の御声はやさしく親しみやすい声です。

(人がその御声に何が何でも抵抗しようと決意しているのでない限り)、御声を聞くのに恐れる必要はまったくありません。

イエスの血潮は人類を覆っているだけでなく、あらゆる被造物をも覆っているのです。

その十字架の血によって平和をつくり、御子によって万物を、ご自分と和解させてくださったからです。地にあるものも天にあるものも、ただ御子によって和解させてくださったのです。(コロサイ1:20)



こうして私たちはやさしく親しみやすい天国について説くことができるのです。天も地も主の善きみこころで満ちています。キリストの贖いの全き血潮が、これを永遠に確かなものとしているのです。




(その3につづきます。)
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神へのあこがれ
The Pursuit of God




第六章 語りかける神の声
6. The Speaking Voice



初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。ヨハネ1:1

In the beginning was the Word, and the Word was with God, and the Word was God. John 1:1




キリスト教の真理については無知な、ごくごく普通の教養人が、上の聖句を遭遇したと仮定してみましょう。そうすると、おそらくこの人は次のように結論づけるだろうと思います。

「えーと、つまり、ここでヨハネが言っているのは、『――語り、そして自分の考えを他者に伝達しようとするのが神の性質』っていうことじゃありませんか?」と。

確かに、その人の指摘は正しいと言えます。ことばというのは、思想や考えが言い表されるための媒介物です。

そして、この「ことば」(Word)という部分を永遠の御子に当てはめて考えるなら、私たちは次のような結論に導かれるでしょう。

――つまり、自己表現というのは神性(Godhead)に本来備わっているものであり、神はとこしえにご自身のことを被造物にお語りになりたいと願っておられるのだと。

聖書全体もこの考えを後押ししています。神は今もお語りになっておられると。

「神は語った」という過去形ではなく、「語っておられる(God is speaking)」という現在進行形なのです。

神はそのご性質により、今も絶え間なく明瞭にお語りになっておられます。そうです、神はご自身の発せられるその御声で、この世界を満たしておられるのです。

私たちが考えなければならない大いなるリアリティーとはまさに、この方の世界に満ち満ちる「神の声」に他ならないのです。もっとも簡潔にして唯一満足のいく宇宙起源説とはこれです。「神は仰せられた。するとそのようになった。」

自然法則の因は、ご自身の被造物の中に内在する、生ける神の御声です。

また全世界を存在するにいたらしめた神のこの言葉をもって、それをそのまま「聖書」と解釈することはできません。

なぜなら、ここで私が言っている生ける神の御声とは、成文化もしくは印刷された言葉ではなく、あらゆる物の構造の中に語り込まれた「神のご意思の表現」だからです。

この神の言葉は、生き生きとした潜在性をもってこの世界を満たしている神の息です。

神の声というのは自然界の中において最も強力なパワーであり、実に自然界における唯一の力なのです。なぜなら、あらゆるエネルギーというのは、力に満ちた御言葉が語られたゆえに、今ここに存在しているからです。

聖書は成文化された神の言葉です。そして、それが「書かれたもの」であるゆえ必然的に、聖書はインクや紙やなめし革等によって閉じ込められ、制限された状態にあります。

一方、神の御声というのは、主権者なる神が自由であるように、生きており自由です。「わたしがあなたがたに話したことばは、霊であり、またいのちです」(ヨハネ6:63b)。

いのちは、語られている言葉のただ中にあります。聖書の中の神の言葉は、それが宇宙における神の言葉と調和しているゆえに、力を持ち得ているのです。

それは「今まさにここに在る」御声であり、それが成文化された御言葉を全能のものにしています。そうでなければ、それは書物の扉の中に閉じ込められ、力なく横たわるしかなくなってしまうはずです。

私たちは、創造時に、物質と接触をもたれた神のことを考える際、あたかも神が大工のように、物を形作ったり、備え付けたり、建てたり、、という風に、それらを低く原始的な見方でとらえがちです。

しかし聖書の見方はそうではありません。

主のことばによって、天は造られた。天の万象もすべて、御口のいぶきによって。詩篇33:6

まことに、主が仰せられると、そのようになり、主が命じられると、それは堅く立つ。詩篇33:9

信仰によって、私たちは、この世界が神のことばで造られたことを悟り、 ヘブル11:3a



留意しなければならない点は、神がこういった箇所で言及しておられるのは、成文化された神の言葉ではなく、今もお語りになっている御声(His Speaking Voice)のことだという事です。

全世界を満たす主の御声は、次のことを意味しています。

ーそれは、聖書に先行し存在してきたものであり、
ー創造の黎明以来、けっして沈黙することなく、今に至るまで宇宙の隅々まで鳴り響いている声である、ということです。

神のことばは生きていて、力があります。

はじめに神は無に対して仰せられました。そうすると、それは(有形の)なにかになりました。

カオス(混沌)がそのことばを聞くと、それは秩序と化し、
暗闇がそれを聞くと、それは光となりました。

そして神は仰せられた(said)。するとそのようになった(it was so)。



――原因と結果を言いあらわす、この双子のような対句は、創世記における、創造の記述の箇所全体に記されています。

「仰せられた(said)」は「そのようになった(so)」を説明しており、一方、「そのようになった(so)」は途切れずに今も続いている「現在」という時を表現する神の言明(said)なのです。

神はここに在られ、今も語っておられます。そして、この真理は、他のあらゆる聖書真理の背後に存在しています。そうです、これなしには、啓示というものは存在しえないのです。

はたして神は書物を記された後、それをほいと使者に託したまま何もされず、読む人が何の助けも得られないような状態に私たちを放置されたのでしょうか。いいえ、そんなことはありません。

主は聖書に仰せられ、語られたことばの中に生きておられます。そして絶えず私たちにことばを語っておられ、その御言葉の力が時を超えて保たれるよう、取り計らっておられるのです。

神が土のかたまりに息を吹き込むと、それは人となりました。主は今も人に息を吹き込んでおられ、(やがてその営みがなくなると)人はまた土になります。

「立ち帰れ、人の子らよ」というのが、堕落時に主が仰せられたことばであり、それにより、神はすべての人に死を定められました。――それに対し、どんな付け足しの言葉も必要とはされませんでした。

誕生から墓場まで、人類の織りなすこういった一連の悲しい営みは、結局、神が最初に仰せられたこの言葉の充足性を証明しているものであります。

まことの光があった。それは世に来て、すべての人を照らすものである。ヨハネ1:9



この聖句については次の別訳もありますが(「すべての人を照らすそのまことの光が世に来ようとしていた。」)、いずれにしても、依然として真理がそこにあります。

つまり、神のことばは、魂の中を照らす光としてすべての人の心に感化をもたらしているということです。

すべての人の心の内で、この光は輝き、神のことばは鳴り響き、そこから逃れ得るものはありません。

もし神が実際に生きておられ、この世に存在しておられるのなら、必然的にそのようであるはずです。それに対しヨハネも然りと言っています。

聖書のことを一度も耳にしたことのない人であってさえも、依然としてこのことばは彼らの心に十分な明瞭性をもって語られており、それは、彼らの心から永久に弁解の言葉を取り除くためなのです。

彼らは、このようにして、律法の命じる行ないが彼らの心に書かれていることを示しています。彼らの良心もいっしょになってあかしし、また、彼らの思いは互いに責め合ったり、また、弁明し合ったりしています。ローマ2:15



神の、目に見えない本性、すなわち神の永遠の力と神性は、世界の創造された時からこのかた、被造物によって知られ、はっきりと認められるのであって、彼らに弁解の余地はないのです。ローマ1:20







(その2につづきます。)
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『神へのあこがれ(The Pursuit of God)』


第一章 神を切に追い求めて



(前回のつづき)



私はここでみなさんにあえて申し上げることにします。どうか熱烈に神を追い求めてください。

これなしには私たちは現在のような低い状態に陥ったままです。

私たちの信仰生活にみられる堅苦しさ、生彩のなさは、このような聖なる願望が欠けていることに起因しています。

自己満足は、あらゆる霊的成長を阻む致命的障害です。

燃えるような願望というのが私たちの内になければならず、それなしには、主の民のうちにキリストの顕現はありえません。

主は追い求められることを望んでおられます。多くの人がこれまで長い間、ひたすら主を待たせてしまっていること、これはとても残念なことです。


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各時代はそれぞれ特有の特徴を帯びています。

現在、私たちは宗教的「複雑性」ともいうべき時代に生きています。

キリストのうちにある単純性は私たちの内にほとんど見られません。

そしてそれに取って代わるかのように、そこには種々の企画、方法論、組織、――ひたすら時間とエネルギーを消耗させる盛んな活動、、といったものが溢れています。

しかし、そういったものでは、決して魂の渇望を満たすことはできないのです。

内なる経験の浅薄さ、礼拝の空虚さ、(商業的宣伝が中心のメソッドによって特徴づけられている)世への追従と模倣――こういったものは全て、私たちが今日、神をきわめて不完全にしか知っておらず、神の平安をも持していないことを雄弁に物語っています。



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こういった宗教的〈外側のもの〉が溢れる中にあって、私たちはまず主を探し求めることを堅く決意し、その後、単純にしてシンプルな道を進んでいかなくてはなりません。

昔も今も、神はご自身を「幼な子たち」に現わし、賢い者や知恵ある者には濃い暗闇のうちにお隠しになります。

私たちは主に近づく道においてもこれを単純化しなければなりません。

そして本質的なものに絞り、それ以外の余分なものは取り除くべきです。(そして実際、本質的なものとは驚くほどわずかなのです。)

私たちは人に良い印象を与え自己アピールしようとするあらゆる試みを捨て去り、打算のない子どもの率直さをもって主に向かわなければなりません。

もしそうするなら、主は即座に応答してくださるでしょう。


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キリスト教信仰においては、実際に、神ご自身の他、私たちが必要としているものはほとんどないのです。

神だけを一途に求めるのではなく、神と共に他の〈何か〉を求めるという悪習慣により、私たちは完全な啓示の中で神を見い出すことを阻まれています。

この「他の何か」というのが私たちの強敵なのです。もしこれを除くことができるのなら、私たちは時をおかずして神を見い出すでしょう。

そしてこれまでの人生において秘かにずっと願い求めてきたものをこのお方のうちに見つけるでしょう。

そしてその際に、「神だけを追い求めることで、自分の生き方が狭くされてしまうのでは、、(他者にたいして)開かれた心の動きが制限されてしまうのでは」などと恐れるには及びません。

むしろその逆が然りなのです。つまり、私たちは神をわが全てとなした上で、このお方のためにひたすら心を砕き、多くを犠牲にすることができるようになるのです。


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古い英語の古典に『知られざる雲』という本がありますが、この本の著者はそういったシンプルさを求める方法について次のように語っています。

「柔和な愛をもってあなたの心を神に向けなさい。その際、ただ神ご自身に心を向け、神の所有しておられる物には一切心を捕らわれてはなりません。そして神ご自身以外のなにかを考えることを忌み嫌いなさい。そうすればあなたの理知でも意志でもなく、ただ神ご自身が働いてくださるでしょう。これこそが最も神に喜ばれる魂の働きなのです。」

また、著者は、祈る際に、私たちがさらに全てを――自分たちの神学でさえも――脱ぎ捨てることを勧めています。

「神ご自身を求める以外のいかなる動機をも持たず、むき出しの意思をもって直接神に向かうこと――これで十分なのです。」

しかしそうであっても、この著者の思想の背景にはやはり――新約聖書の真理という――れっきとした土台が据えられています。

というのも、著者は「ご自身によって」という意味を、「あなたをお造りになり、買い取られ、そしてご慈愛をもってあなたを呼んでくださった方によって」と説明しているからです。

そして著者は単純性を追求しています。宗教を「一語のうちに包み、折り込もうと思うなら」と彼は言います。

「一音節だけの小さな語をたずさえなさい。なぜなら、一語は二語よりも良く、さらに短ければ短いほどより良く、御霊の働きと一致します。その一語とはすなわち、〈神〉ないしは〈愛〉です。」



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主なる神がイスラエルの部族の間でカナンの土地を分割なさった際、レビ族には相続地は与えられませんでした。

神はただレビ族に「わたしがあなたの分であり、あなたの嗣業である」とだけ仰せられました。そしてこの言葉により、レビ族を他のどの兄弟にもまさり豊かな者、かつて生存したあらゆる王、あらゆる支配者にまさり豊かな者とされたのです。

ここには霊的な原則が存在しています。そしてこの原則は、いと高き神に仕える全ての祭司に今日でも適用されるものです。

神を自分の宝として持している人は、このお方にあって全てを持っています。

他の多くの宝はこの人には与えられないかもしれませんし、与えられたとしても、それを持つ楽しみというのは加減されるため、その幸せは決してこの人にとって必要不可欠のものとはならないのです。

また仮にそういった楽しみが一つ、また一つと取り去られていったとしても、この人はほとんと喪失感を覚えないでしょう。

なぜなら、この人は全ての物のであられる方を持しているからであり、この方のうちにあって、彼はあらゆる満たし、あらゆる楽しみ、あらゆる喜びを持っているからです。

たとい彼が何を失ったとしても、彼は実質上、何をも喪失していないのです。

なぜなら、彼は今やこの方のうちにあって全てを持しており、それを純粋に、正当に、そして永遠に持っているからです。



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祈り


おお神よ、私は汝のすばらしさを味わってきました。

それは私を満足させると共に、汝に対するさらなる飢え渇きへと私を誘います。

そうです、さらなる恵みの必要性を私は切実に感じています。

私のうちには汝を求める願いが欠如しており、それを恥ずかしく思っています。

おお神、三位一体の神よ。汝を求めることをしたいのです。

切望感で満たされたい。そしてさらに飢え渇きを覚えられたらどんなにいいかと願っています。

どうか汝の栄光を見せてください。そうすれば、私は真に汝を知ることができるでしょう。

憐れみの中で、私の内に新しい愛の業を始めてください。

そして私の魂に語りかけてください。「わが愛しい者、さあ立って、出ておいで」と。

そうして――長い長い間さまよっていた――この靄(もや)の立ち込める低地を起って、汝の元へと飛翔していくことができますよう、恵みをお与えください。

イエスの御名によって。アーメン。



【第一章部分 終わり】




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