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満ち足りた思いで一人、主の前に静まるとき、あるいはその反対に、祈ることさえできない無力感と悲しみのどん底で、死人のようにぐったりと横たわっている時――、


そんな時、旋律をともなってやさしく流れてくる詩篇の歌は、荒野の泉のように、うちひしがれた私たち旅人の渇きをいやしてくれます。


19世紀の聖書註解者マシュー・ヘンリーは、ダビデによる詩篇29篇は、実際に、雷鳴と嵐のただ中で書かれたものではないかと述べています。



詩篇29篇(新共同訳)


【賛歌。ダビデの詩】

1 神の子らよ、主に帰せよ/栄光と力を主に帰せよ

2 御名の栄光を主に帰せよ。聖なる輝きに満ちる主にひれ伏せ。

3 主の御声は水の上に響く。栄光の神の雷鳴はとどろく。
主は大水の上にいます。

4 主の御声は力をもって響き/主の御声は輝きをもって響く。

5 主の御声は杉の木を砕き/主はレバノンの杉の木を砕き

6 レバノンを子牛のように/シルヨンを野牛の子のように躍らせる。

7 主の御声は炎を裂いて走らせる。

8 主の御声は荒れ野をもだえさせ/主はカデシュの荒れ野をもだえさせる。

9 主の御声は雌鹿をもだえさせ/月満ちぬうちに子を産ませる。
神殿のものみなは唱える/「栄光あれ」と。

10 主は洪水の上に御座をおく。とこしえの王として、主は御座をおく

11 どうか主が民に力をお与えになるように。主が民を祝福して平和をお与えになるように。





この詩篇には「主の御声קוֹל-יְהוָה kol Adonai/ φωνή Κυρίου, fone Kiriou)」という語が7回も出てきます。


このように「雷鳴をとどろかせ」、「木を砕き」、「炎を裂き」、「荒野をもだえさせる」雄大かつ威烈な大自然のうちに、厳然として「主の御声」が存在していること、


それと同時にまた、主は「かすかな細い声」(1列19:12)をもって、おじけづき弱くなっている一介の魂にいともやさしく語りかけてくださる方であること――


これはなんと慰めに満ちた事実でしょうか。


私たちの敬拝する神は、なんと力強く威厳に満ち、かつ柔和でやさしい方でしょう。


今日、みなさんにご紹介したいのは、ヘブル語による詩篇29篇のPsalmodyです。


この歌の中で、♪Kol Adonaiという語を何度も繰り返しお聴きになると思いますが、Kolというのは「声」で、Adonaiは「主」を意味します。つまり、「主の御声」です。


また1、2節にでてくるHavu La Adonaiのハヴ(Havu)は、「~に帰する、ascribe, give」という意味のヤハブyahab,יָהַב)という動詞の命令形だそうです。


(調べてみると、七十人訳はこのヤハブをφέρω[捧げる、offer]と訳していました。またアラビア語ではヘブル語とそっくりの動詞「ワハブوهب」が使われているようです。)



「主は洪水の上に御座をおく
とこしえの王として、主は御座をおく。」(10節)

「その宮で、すべてのものが、『栄光(=カヴォッド, כָּבוֹד』と言う。」(9節)




私たちがこの詩篇歌を聴き、黙想する中で、どうか、主が永遠の王として、私たちの上に御座をおいて(sit enthroned)くださいますように。


そして――たとい現在、どんな苦境に置かれていたとしても――聖霊の宮とされた私たちの存在すべてが、主に「栄光」と歌い、王の王である主イエスを讃えることができますように。アーメン。












Ps.29: Mizmor l'David Havu Ladonai
מזמור לדוד הבו ליי



Mizmor l’david.


Havu la’adonai, benei elim,
havu la’adonai kavod va’oz.

Havu la’adonai kavod shemo,
hishtachavu la’adonai be’hadrat kodesh.

Kol adonai al hamayim, el ha’kavod hirim,
adonai al mayim rabim.

Kol adonai ba’koach,
kol adonai be’hadar.
Kol adonai shover arazim
va’yeshaber adonai et-arzei ha’levanon.

Va’yarkidem k’mo egel,
levanon ve’sirion k’mo ven-re-emin.

Kol adonai chotzev la’havot esh.
Kol adonai yachil midbar,
yachil adonai midbar kadesh
Kol adonai yecholel ayalot.

Va’yechesof yearot, u’veheikhalo kulo omer kavod.
Adonai lamabul yashav,
va’yeshev adonai melekh l’olam.

Adonai oz le’amo yiten,
adonai yevarekh et-amo va’shalom.




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御使いたちが天上に住んでいるがごとく、

人は地上にて、神への賛美の内に、そして詩篇歌の清き心の内に、喜びつつ住まわっている。


有限な人間は誰ひとりとして、詩篇の持つこの宝について完全には語り尽くせない。


この中に罪の告白があり、悔悛の涙があり、心の悲しみがある。


またここに私たちの贖い、天的歓喜を含んだあらゆる経綸が予示されている。


そしてここに私たちはキリストの受肉、復活、神のロゴスの昇天を見い出すのである。


Alcuin, Epistles IV, 497-98




Bruce K. Waltke, The Psalm as Christian Worship, A Historical Commentaryより



過去2000年もの間、詩篇は、キリスト者のデボーションの、広大にして深遠な霊的奥地でありました。


しかしそれは今日、急速に縮小してきています。――そうです、人間精神の世俗化ゆえに。


三千年以上に渡り、詩篇はイスラエルの祈りの本であり、「忠実なる讃歌」として、教会正統信仰の源でもあったのです。


☆☆


旧約聖書からの引用の三分の二が、詩篇からのものです。

またイエスは、詩篇を読み朗唱しつつ生を営まれました。


さらに使徒たちは詩篇を――受肉、復活、昇天、ペンテコステという――キリストに関する預言的なものと解釈しました。


また初代教父たちは、詩篇註解の基盤を三位一体の奥義に置き、それによって彼らの正統信仰が試されました。



そして、詩的で抒情的な資質を豊かに宿す詩篇はまた、キリスト者の礼拝の中で、さまざまな表現で歌われてきました。


そうです、「詩篇を歌う」という礼拝行為は、キリスト教の原初から、18世紀まで絶えることなく続いてきたのです


しかしそれ以降、この礼拝行為はどんどん稀になっていきました。


そして今や現代心理学が――これまで詩篇そのものが人々に提供していた治癒に取って代わるようになったのです。


現在見受けられる「詩篇歌の死」と共に、「魂の死」をも見ているのははたして私だけでしょうか?



―引用おわり―


☆☆


死を前にした老聖徒の選んだ詩篇歌



詩篇136篇は、東方世界のクリスチャンの間では、「多くの恵みの詩篇(ポリエレオス:Πολυέλεος)」と呼ばれています。


というのも、この詩篇が最初から最後まで「その恵みはとこしえまで(ὅτι εἰς τὸν αἰῶνα τὸ ἔλεος αὐτοῦ)」という、主の恵みに対する讃歌で満ち溢れているからです。


アナタシオス(293-373)がアレクサンドリアの教会にいた時分、夷狄が教会をしばしば襲撃し、多くのクリスチャンが彼らの剣に倒れていました。


ある日、教会の中にまた敵が乱入し、中にいた礼拝者を手あたり次第、殺し始めました。


血がまさに流されつつあったその死の惨状を前に、アレクサンドリアの老司教は静かに腰を下ろし、仲間の長老に向かい、一言こう言ったそうです。


「さあ、詩篇136篇を歌いましょう。」


詩篇136:1、24

主に感謝せよ。
主はまことにいつくしみ深い。
その恵みはとこしえまで。

主は私たちを敵から救い出された。
その恵みはとこしえまで。




おそらく最大の危機の中で詩篇136篇を歌うことを選び取ったこの司教の心の中には、Ⅱ歴代誌20章のヨシャパテ王のあの切実な祈りと、民の賛美、そして「主に賛美せよ。その恵みはとこしえまで」(Ⅱ歴20:21)という詩篇の歌が満ち溢れ、

それゆえに、死を前にしても尚、主の勝利に対する信頼と恵みをたたえる賛美が彼の心から湧き出てきたのだと思います。




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今日はみなさんにいくつか詩篇歌136篇をご紹介したいと思います。どの歌も私の大好きなPsalmodyです。




①古代教会スラブ語による詩篇歌136篇





②コイネー・ギリシャ語(七十人訳)による詩篇歌136篇





③ロシア語による詩篇歌136篇





④アラビア語による詩篇歌136篇





⑤ヘブライ語による詩篇歌136:1-3





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26日に襲撃事件が起きたフランス北部ノルマンディーにあるサン=エティエンヌ=デュ=ルヴレの聖エティエンヌ教会、
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詩篇137:1

バビロンの川のほとり、
そこで、私たちはすわり、
シオンを思い出して泣いた。










 『ブレイナードの日記』より



神は私がシオンのためにせつなる叫びをあげるのを助けてくださった。



この世は空であることを強く感じる。

死の一歩手前にある者のように生きたいと願う。

この世とはなんの関係ももつまいと思う。



神による慰め以外にはなんの慰めもない。

いま私は非常に寂しい荒野に住んでいる。



ああ、聖潔よ!ああ、神がさらにこの魂を支配してくださるように!

天国への旅路にある私が、道草を食うようなことがけっしてないように。



ああ、神のご臨在から締め出されたという意識がどんなに苦痛をもたらすものであるかは、経験した者でなければわからない。

それは死以上の苦しさである。



悩みのうちにある神の子らのとるべき道は、そのすべての嘆きを神のみもとにもって行く以外にはないことを知る。

非常な苦悩のうちにあったヒゼキヤは、主の宮に行き、その嘆きをすべてありのまま御前に訴えたのである。



ああキリストの十字架により、地上のいっさいの物事に対してまったく死に切ることをどんなに願うことか。



理性の目をもって見るなら、この異教の民の回心に関することはすべて、真夜中のように暗黒に見える。

しかし私は、彼らのうちに輝かしい何かがなされることを、神にあって望まずにはいられない。



ああ今や私の思い、私の心はこう叫んでいる。

「主よ。ここに私がおります。私をおつかわしください。

地の果てにまで私をお遣わしください。

荒野に住む野蛮な異教の民のもとにお遣わしください。

この世にあって楽しみと呼ばれるいっさいのもの、この世の安楽な生活から引き出して、私をお遣わしください。



さようなら。世の楽しみよ。

その最も慕わしいものよ。もし主が要求されるなら、私は別れを告げる。


さようなら。キリストの御国が拡張されるためであるのなら、

私はほら穴の中、地の深い所にあって、最後の瞬間まで命を使い尽くそう。」




ヘブル12:22

しかし、あなたがたは、シオンの山、生ける神の都、天にあるエルサレム、無数の御使いたちの大祝会に近づいているのです。



ヘブル13:13、14

ですから、私たちは、キリストのはずかしめを身に負って、宿営の外に出て、みもとに行こうではありませんか。

私たちは、この地上に永遠の都を持っているのではなく、むしろ後に来ようとしている都を求めているのです。



私の祈りが、御前への香として、
私が手を上げることが、夕べのささげ物として
立ち上りますように。

詩篇141:2





Matthew Henry's Commentaryより



この詩篇を書いていたダビデは苦難のただ中にありました。

彼はおそらくその当時、サウルに激しく追われていたのです。



主よ。私はあなたを呼び求めます。
私のところに急いでください。
私があなたに呼ばわるとき、
私の声を聞いてください。(1節)




あなたも今、苦難のただ中にありますか?

ダビデがそうしたように、主を呼び求め、そして慰めを得ましょう。

☆☆

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また、もうひとりの御使いが出て来て、金の香炉を持って祭壇のところに立った。
彼にたくさんの香が与えられた。
すべての聖徒の祈りとともに、御座の前にある金の祭壇の上にささげるためであった。
香の煙は、聖徒たちの祈りとともに、御使いの手から、神の御前に立ち上った。
黙8:3-4




祈りというのは、霊的ないけにえであり、魂から注ぎ出されるそなえ物です。

そして神に対してなされる最高の愛の表現です。


私の祈りが、御前の香として、、」


ダビデはこういった祈りが「香(incense)」として御前に立ち上りますようにと嘆願しています。

香というのは、日々、金の祭壇の上で焚かれていました。


夕べのささげ物として、、」


どうして彼は、朝ごとのささげ物とは言わず、「夕べのささげ物」とここで言及しているのでしょう?

おそらく、これが夕べの祈りであったからでしょう。

もしくは次のようなことも考えられます。

それは、彼が、キリスト――世の夕べに、そして夕暮れに、贖いのいけにえとしてご自身を捧げられ、肉的な律法の掟の数々をお廃しになられることで、霊的犠牲のみわざを成し遂げられた方――に目を注いでいたからだともいえるかもしれません。

ダビデは今、神の庭から追放され、いけにえや香を捧げることができない状況にありました。

ですから、「私の捧げる祈りが、それらの代わりとなりますように」と切に嘆願しているのです。



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一人静かに神の前に跪き、夕べの祈りをささげる女性


下の賛美集の6番Let my prayer arise - Great Prokeimenon(12:20~)が、詩篇141:2を歌っています。(収録時間6分)。

詩篇141のこの聖句を歌ったPsalmody(詩篇歌)の中でこれほど美しく深い賛美を私は今まで聴いたことがありませんでした。

古代教会スラブ語で歌われていますが、地上的言語の壁を突き抜け、礼拝者の「霊とまこと」(ヨハネ4:23)が直に伝わってきます。









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わが思いは神の御住まいにあります。


こうして、他のあらゆることは

ことごとく私の内から消え去っていきます。


わが故郷の名は〈永遠〉。

――時間と空間よりくだりしもの。


私の思いが、静寂さと

〈今、この瞬間〉という静けさの内にある如く、


神こそ、わが思いの隠れ家であり、

安らぎの場です。


ーゲルハルト・テルステーゲン


☆☆

今日はみなさんに私の大好きな詩篇歌(Psalmody)をご紹介します。

「万軍の主。あなたのお住まいはなんと、慕わしいことでしょう!」という恍惚とした喜びの声で始まる詩篇84篇です。

私はコイネー・ギリシャ語によるこの詩篇歌84篇を聴くたびに、天国への憧れが自分の中でいっそう大きく強くなっていくのを感じます。

この詩篇を見ると、「お住まい」「大庭」「住みか」「家」など、神様のご臨在される〈場〉を表象することばが目に留まります。

神様のお住まいになる家と庭(ガーデン)。すてきですね!

詩篇92:13

彼らは、主の家に植えられ、私たちの神の大庭で栄えます。



この地上に故郷を持たず、私たちは、さすらい人・巡礼者として、時にはさみしい思いをしたり、疎外感に悩まされたりするかもしれません。

でもやがて必ず、私たちは肉の衣を脱ぎ、天の故郷に戻っていきます!

そこには家があり、庭があり、もはや別れも、誤解も、分裂も、涙も、悲嘆もありません。

しかもキリストを信じた私たちは「神の神殿」とされ、今や神の御霊が私たちの内に宿っているのです(1コリ3:16)。

そう考えると、この詩篇には輝く星々のように、まだまだたくさんの神様の奥義がちりばめられているのかもしれませんね。

詩篇42:3

どうか、あなたの光とまことを送り、
私を導いてください。

あなたの聖なる山、あなたのお住まいに向かって
それらが、私を連れて行きますように。



「牧師の書斎」より

2節 「私のたましいは、主の大庭を恋い慕ってכָּסַף(kasaph)、 絶え入るばかり כָּלָה (kalah)です。」

詩119篇、そしてこの詩84篇も、現実にはシオンから遠く離れているがゆえに、よりいっそう神への憧れ、神への切望、神への思慕がみられます。非常に情感、心情、感情的表現です。

この表現に最も近いのは、ダビデが主に求めた「一つのことーOne Thing」ではないかと思います。

ダビデは「私は一つのことを主に願った。私はそれを求めている。私のいのちの日の限り、主の家に住むことを。主の麗しさを仰ぎ見・・・ために。」 と詩27篇4節で告白しています。(引用元







詩篇84篇(LXX83篇)

1 万軍の主。あなたのお住まいはなんと、慕わしいことでしょう。

2 私のたましいは、主の大庭を恋い慕って絶え入るばかりです。私の心も、身も、生ける神に喜びの歌を歌います。

3 雀さえも、住みかを見つけました。つばめも、ひなを入れる巣、あなたの祭壇を見つけました。万軍の主。私の王、私の神よ。

4 なんと幸いなことでしょう。あなたの家に住む人たちは。彼らは、いつも、あなたをほめたたえています。セラ

5 なんと幸いなことでしょう。その力が、あなたにあり、その心の中にシオンへの大路のある人は。

6 彼らは涙の谷を過ぎるときも、そこを泉のわく所とします。初めの雨もまたそこを祝福でおおいます。

7 彼らは、力から力へと進み、シオンにおいて、神の御前に現われます。

8 万軍の神、主よ。私の祈りを聞いてください。ヤコブの神よ。耳を傾けてください。セラ

9 神よ。われらの盾をご覧ください。あなたに油そそがれた者の顔に目を注いでください。

10 まことに、あなたの大庭にいる一日は千日にまさります。私は悪の天幕に住むよりはむしろ神の宮の門口に立ちたいのです。

11 まことに、神なる主は太陽です。盾です。主は恵みと栄光を授け、正しく歩く者たちに、良いものを拒まれません。

12 万軍の主よ。なんと幸いなことでしょう。あなたに信頼するその人は。

七十人訳

1Εἰς τὸ τέλος, ὑπὲρ τῶν ληνῶν• τοῖς υἱοῖς Κορὲ ψαλμός. -

2 ΩΣ ΑΓΑΠΗΤΑ τὰ σκηνώματά σου, Κύριε τῶν δυνάμεων.

3 ἐπιποθεῖ καὶ ἐκλείπει ἡ ψυχή μου εἰς τὰς αὐλὰς τοῦ Κυρίου, ἡ καρδία μου καὶ ἡ σάρξ μου ἠγαλλιάσαντο ἐπὶ Θεὸν ζῶντα.

4 καὶ γὰρ στρουθίον εὗρεν ἑαυτῷ οἰκίαν καὶ τρυγὼν νοσσιὰν ἑαυτῇ, οὗ θήσει τὰ νοσσία ἑαυτῆς, τὰ θυσιαστήριά σου, Κύριε τῶν δυνάμεων, ὁ Βασιλεύς μου καὶ ὁ Θεός μου.

5 μακάριοι οἱ κατοικοῦντες ἐν τῷ οἴκῳ σου, εἰς τοὺς αἰῶνας τῶν αἰώνων αἰνέσουσί σε. (διάψαλμα).

6 μακάριος ἀνήρ, ᾧ ἐστιν ἡ ἀντίληψις αὐτοῦ παρὰ σοί. ἀναβάσεις ἐν τῇ καρδίᾳ αὐτοῦ διέθετο

7 εἰς τὴν κοιλάδα τοῦ κλαυθμῶνος, εἰς τὸν τόπον, ὃν ἔθετο. καὶ γὰρ εὐλογίας δώσει ὁ νομοθετῶν.

8 πορεύσονται ἐκ δυνάμεως εἰς δύναμιν, ὀφθήσεται ὁ Θεὸς τῶν θεῶν ἐν Σιών.

9 Κύριε ὁ Θεὸς τῶν δυνάμεων, εἰσάκουσον τῆς προσευχῆς μου, ἐνώτισαι, ὁ Θεὸς ᾿Ιακώβ. (διάψαλμα).

10 ὑπερασπιστὰ ἡμῶν, ἴδε, ὁ Θεός, καὶ ἐπίβλεψον εἰς τὸ πρόσωπον τοῦ χριστοῦ σου.

11 ὅτι κρείσσων ἡμέρα μία ἐν ταῖς αὐλαῖς σου ὑπὲρ χιλιάδας. ἐξελεξάμην παραρριπτεῖσθαι ἐν τῷ οἴκῳ τοῦ Θεοῦ μου μᾶλλον ἢ οἰκεῖν με ἐν σκηνώμασιν ἁμαρτωλῶν.

12 ὅτι ἔλεος καὶ ἀλήθειαν ἀγαπᾷ Κύριος ὁ Θεός, χάριν καὶ δόξαν δώσε. Κύριος οὐ στερήσει τὰ ἀγαθὰ τοῖς πορευομένοις ἐν ἀκακίᾳ.

13 Κύριε, ὁ Θεὸς τῶν δυνάμεων, μακάριος ἄνθρωπος ὁ ἐλπίζων ἐπὶ σέ.

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スコットランド


今日みなさんにご紹介したいのは、スコットランド教会の信徒さんたちが歌っている詩16:8-11のPsalmodyです。

これを聴くと、洗練された教会音楽のプロフェッショナリズムとはほど遠い、素朴で飾り気のない会衆賛美に心打たれます。老若男女みんなが心を合わせ、この詩篇を歌っている姿が目に浮かびます。





8. Before me constantly,
I set the Lord alone.
Because he is at my right hand
I'll not be overthrown.

私はいつも、私の前に主を置いた。
主が私の右におられるので、私はゆるぐことがない。


9. Therefore my heart is glad;
my tongue with joy will sing.
My body too will rest secure
in hope unwavering.

それゆえ、私の心は喜び、
私のたましいは楽しんでいる。
私の身もまた安らかに住まおう。


10. For you will not allow
my soul in death to stay,
Nor will you leave your Holy One
to see the tomb's decay.

まことに、あなたは、私のたましいをよみに捨ておかず、
あなたの聖徒に墓の穴をお見せにはなりません。


11. You have made known to me
the path of life divine.
Bliss shall I know at your right hand;
joy from your face will shine.

あなたは私に、いのちの道を知らせてくださいます。
あなたの御前には喜びが満ち、あなたの右には、楽しみがとこしえにあります。


Free Church publication, the Sing Psalms (2003)


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スコットランドの高地


 「牧師の書斎」より

詩篇16篇は「メシア詩篇」の一つです。というのは、詩篇16:8~11が、使徒の働き2:25~28で引用され、ダビデがキリストの復活を啓示されて語ったものとされているからです。

16:8~11の引用を見てみましょう(但し、LXX訳聖書から引用されているため、少々、訳が異なっています)。


使徒の働き

2:25 ダビデはこの方について、こう言っています。『私はいつも、自分の目の前に主を見ていた。主は、私が動かされないように、私の右におられるからである。

26 それゆえ、私の心は楽しみ、私の舌は大いに喜んだ。さらに私の肉体も望みの中に安らう。

27 あなたは私のたましいをハデスに捨てて置かず、あなたの聖者が朽ち果てるのをお許しにならないからである。

28 あなたは、私にいのちの道を知らせ、御顔を示して、私を喜びで満たしてくださる。』

29 兄弟たち。父祖ダビデについては、私はあなたがたに、確信をもって言うことができます。彼は死んで葬られ、その墓は今日まで私たちのところにあります。

30 彼は預言者でしたから、神が彼の子孫のひとりを彼の王位に着かせると誓って言われたことを知っていたのです。

31 それで後のことを予見して、キリストの復活について、『彼はハデスに捨てて置かれず、その肉体は朽ち果てない』と語ったのです。

32 神はこのイエスをよみがえらせました。私たちはみな、そのことの証人です。



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詩篇16篇からの引用箇所でひときわ目に留まるのは「いのちの道」ということばです。

「あなたはいのちの道を示してくださる」―これは詩篇16篇独自の特色です。

自分のいのち(身体的生命、人生)という意味で使われることが多い中で「いのちの道」という表現は珍しいのです。ことばを味わいたいと思います。

詩篇16篇で使われている「いのち」(名詞)と訳された「ハッイーム」חַיִּיםは「ハイ」חַיの複数形ですが、ここで意味していることは、神との親しい交わりとしての「いのち」です

本来、人間は、他の被造物とは異なり、「土地のちりで形作られたあと、その鼻にいのちの息を吹き込まれました。そこで人は、生きたものとなった。」(創世記2:7)とあるように、人は神との交わりの存在として造られました。

その意味での「いのち」であり、罪によっていのちを喪失した人間に、神が再び「いのち」を回復してくださろうとしてくださったのです。

ダビデは「あなたは私のたましいをハデスに捨てて置かず、・・あなたは、私にいのちの道を知らせ、御顔を示して、私を喜びで満たしてくださる。」と語りましたが、イエスはこの「いのちの道」について、「いのちに至る・・道は狭く、それを見出す者はまれです。」(マタイ7:14) と語っています。

この尊い「いのちの道」は、キリストを通して開かれています。そして私たちをそこへ招いて下さっています。

このいのちの道を自分の喜びとして、楽しみとしてより豊かに味わい、それを分かち与える者とされたいと祈ります。

引用元(ココ











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ギリシャ

ことば(ロゴス)は人となって、私たちの間に住まわれた。ヨハネ1:14a

いのちを与えるのは御霊です。肉は何の益ももたらしません。わたしがあなたがたに話したことばは、霊であり、またいのちです。ヨハネ6:63



興味深いことに、ロゴスであるイエス・キリストが人となって、私たちの間に「住まわれた」――ここの動詞にはἐσκήνωσεν(< σκηνῶ 天幕を張る、天幕に宿る)が使われています。

使徒ヨハネは神の霊感により、ロゴスが受肉し私たちの内(εν)に宿られたという深遠な真理を、「旧約の幕屋の予型の実現」という意味合いを込め、この動詞を使うよう導かれたのでしょうか。

また私が最近、痛感しているのは、「いのちを与えるのは御霊であり、肉は何の益ももたらさない」(ヨハネ6:63)という厳しい事実です。

「わたしがあなたがたに話したことばは、霊であり」――。また1コリント15章には、最後のアダムであるキリストは、生かす御霊(a life-giving Spirit)となったと書いてあります(45節)。

つまりここから分かるのは、いくら聖書を読んでも、聖書や神学知識を蓄えても、受肉したロゴスであり、生かす御霊であるキリストの霊によらなければ、御言葉は開かれないということだと思います。

そしてこういった気づきは、私の真理探究および礼拝者としてのあり方への考察に新しい視点とさらなる飢え渇きを与えました。


純化された霊により 御言葉を黙想し歌う


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アトス山修道院群


その探求の過程で、とりわけ私の魂に強く訴えかけてきたのが、アトス山の修道士たちによる詩篇詠唱(Psalmody)でした。

聖なる山(Ἅγιον Ὄρος)と呼ばれるアトス山は、ギリシャ北部の半島に位置し、1200年以上に渡り、ここで絶えることなく詩篇が歌われ、祈られてきました。(現在も2000人以上の修道士たちがこの山で信仰生活を送っています。)


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私はこれまでさまざまな国のさまざまな詩篇歌を聴いてきましたが、アトスの詩篇歌からはなにか言葉に表現しがたい真実性と力を感じます。

当初私は、その力の源を、彼らが御言葉を一字一句違えず、忠実にそのまま歌っているゆえだと考えていました。しかし、その内、理由はそれだけではないと思うようになりました。

彼らの礼拝からは、純化された賛美の霊がほとばしり出ているように感じられるのです。

そして「イスラエルの賛美を住まいとしておられる」主(詩22:3b)の御霊が、ロゴスを歌う礼拝者たちの霊と溶け合い、そこに私は「ことば(ὁ Λόγος)は人となって、私たちの間に住まわれた。ヨハネ1:14a」というみことばの実現をみるのです。

いや、それを遠巻きに展望している、予感しているといった方がいいかもしれません。


ハレルヤ。神の聖所で、神をほめたたえよ。
息のあるものはみな、主をほめたたえよ。詩篇150:1a、6a




↓これがアトス山の修道士たちによる詩篇歌です。



01. - ΔΕΥΤΕ ΑΓΑΛΛΙΑΣΩΜΕΘΑ (Ψ.94) [05:00]
来て、喜ぼう(詩篇95篇、*七十人訳では94篇)

02. - ΚΥΡΙΕ, Ο ΚΥΡΙΟΣ ΗΜΩΝ (Ψ.8) [06:35]
主よ、われわれの主(詩篇9篇)

03. - ΚΥΡΙΟΣ ΠΟΙΜΑΙΝΕΙ ΜΟΙ (Ψ.22) [05:45]
主は私の羊飼い(詩篇23篇)

04. - ΑΣΑΤΕ ΤΩ ΚΥΡΙΩ ΑΣΜΑ ΚΑΙΝΟΝ (Ψ.97) [05:45]
主に新しい歌を歌おう(詩篇98篇)

05. - ΑΛΛΑΛΑΞΑΤΕ ΤΩ ΚΥΡΙΩ ΠΑΣΑ Η ΓΗ (Ψ.65) [05:00]
全地よ、主に喜び叫べ(詩篇66篇)

06. - ΕΓΝΩΡΙΣΕ ΚΥΡΙΟΣ (Ψ.97) [03:45]
主はご自身を顕される(詩篇98篇)

07. - ΤΕΡΙΡΕΜ (πλ.δ΄) [03:15]

08. - ΕΙΣ ΠΑΣΑΝ ΤΗΝ ΓΗΝ (Ψ.18) [06:00]
全地へ(詩篇19篇)

09. - ΕΞΟΜΟΛΟΓΗΣΟΜΑΙ ΣΟΙ, ΚΥΡΙΕ [04:30]
心を尽くしてあなたに感謝します、主よ。(詩篇138篇)

10. - ΜΑΚΑΡΙΟΣ ΑΝΗΡ (Ψ.1) [05:45]
幸いな人(詩篇1篇)

11. - ΩΣ ΑΓΑΠΗΤΑ ΤΑ ΣΚΗΝΩΜΑΤΑ ΣΟΥ (Ψ.83) [09:13]
あなたのお住まいはなんと慕わしいことでしょう。(詩篇84篇)

12. - ΑΙΝΕΙΤE ΤΟΝ ΚΥΡΙΟΝ (Ψ.148) [05:13]
主に歌え(詩篇149篇)

13. - ΤΕΡΙΡΕΜ (πλ.Α΄) [04:00]





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主よ、私は自分のとがを告白いたします(詩32:5)。

自分の弱いことをあなたに告白いたします。

勇気をもって行動しようと決心しますが、小さな誘惑でも来ますと、私はすぐひどく窮するのです。

主よ、私のいやしいさまと、私の弱さを見てください。

あなたをそれをすべて知っておられます。

私を憐れんで、泥の中に沈まぬように助け出してください(詩69:14)。

私がそこに深くはまり込み、いつまでも全く打ち捨てられることがありませんように。

このように日々戦いのうちに生きるのは全くいやになります。

いまわしい考えが私に入り込んでくるのが、出てゆくよりもずっと容易なのです。


イスラエルのいとも強き神よ、あなたのしもべの労苦と悲哀とを顧み、そのなすすべての事を助けてください。

天からの勇気で私を強めてください。

古き人(エペソ4:22)、すなわち、まだ十分に霊に服しないみじめな肉が支配して勝を占めることがありませんように。

このみじめな世に生きる限りは、私はこれに対して戦わねばなりません。


主よ、あなたの御名をとこしえにほめ讃えます。

この試練と苦難が私に来ることは、あなたの御心であるからです。

私はこれを逃れることはできません。

ただあなたのみもとに逃げて行かねばなりません。

それはあなたが私を助けて、これを私の益とせられるためです。

主よ、私は今苦難の中にあって、心が安らかではありません。

私は今この苦難によってひどく悩んでおります。

そして苦しい立場に陥っています。この時から私を救ってください。

しかし私がこの時にあったのは、大いに低くせられて、あなたに救われ、あなたが崇められるためです。

主よ、みこころならば、私をお救いください(詩40:13)。

あなたなしには、この憐れむべき私は何をなし、どこに行くことができましょう。

主よ、今のこの試練においても私に忍耐を与えてください。

わが神よ、私を助けてください。

そうすれば、どんなにひどく苦しめられようとも、私は恐れません。


ー『キリストにならいて』より





詩篇46:1-5

God is our refuge and our strength, in straits a present aid;

神はわれらの避け所、また力。
苦しむとき、そこにある助け。


Therefore, although the earth remove, we will not be afraid:

それゆえ、われらは恐れない。
たとい、地は変わり、山々が海のまなかに移ろうとも。


Though hills amidst the seas be cast; Though waters roaring make,
And troubled be; yea, though the hills, by swelling seas do shake.

たとい、その水が立ち騒ぎ、あわだっても、
その水かさが増して山々が揺れ動いても。


A river is, whose streams do glad the city of our God;
The holy place, wherein the Lord most high hath his abode.

川がある。
その流れは、いと高き方の聖なる住まい、神の都を喜ばせる。


God in the midst of her doth dwell; nothing shall her remove:
The Lord to her an helper will, and that right early, prove.

神はそのまなかにいまし、その都はゆるがない。
神は夜明け前にこれを助けられる。









私は心を尽くしてあなたに感謝します。
天使たちの前であなたをほめ歌います。
私はあなたの聖なる宮に向かってひれ伏し、
あなたの恵みとまことを、あなたの御名に感謝します。
詩篇138:1,2a



今日はみなさんとご一緒に詩篇138篇の歌を聴き、そこから流れ出る恵みを共有できたらと思います。

一節の「天使たちの前で」は、欽定訳などでは「神々の前で before the gods」となっています。

いずれにしても、ダビデの霊性は、聖なる宮に向かってひれ伏し神を礼拝するその場に、なんらかの天的な存在をはっきり意識していたのだと思います。

今回なぜここに心が留まったかと言えば、私自身、1コリント11章の祈りのベールを実践し始めるようになってから、礼拝の中で、主のご臨在と共に、「御使い」(1コリ11:10)の存在をも強く意識するようになったという個人的な証があるからです。

自分の霊の内に主が何かを起こしてくださって、礼拝の天的な領域に少しずつ「目が開かれるようになっていった」という表現がよりふさわしいかもしれません。(この点については、ぜひ他のベールの姉妹たちに彼女たちご自身の証や霊的変化などを訊いてみたいです。)

さて、今日の詩篇歌はコイネー・ギリシャ語で歌われています。詩篇歌も国や文化や宗派によってさまざまな歌われ方がされていますが、スコットランド教会(Scottish Metrical Psalter)やギリシャ正教会のPsalmodyなどは、詩篇を一字一句そのまま歌っているという点に特徴があると思います。


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スコットランド教会の詩篇歌集


ギリシャ語を解する方は、ぜひ歌に合わせて、下の御言葉をお読みになり、黙想してみてください。何語であれ、信仰をもって御言葉を歌い、宣言することには力があるということを私は少しずつ体験していっています。





ΨΑΛΜΟΙ 138 (七十人訳では137)


1.ΕΞΟΜΟΛΟΓΗΣΟΜΑΙ σοι, Κύριε, ἐν ὅλῃ καρδίᾳ μου, καὶ ἐναντίον ἀγγέλων ψαλῶ σοι, ὅτι ἤκουσας πάντα τὰ ῥήματα τοῦ στόματός μου.

私は心を尽くしてあなたに感謝します。
天使たちの前であなたをほめ歌います。


2 προσκυνήσω πρὸς ναὸν ἅγιόν σου καὶ ἐξομολογήσομαι τῷ ὀνόματί σου ἐπὶ τῷ ἐλέει σου καὶ τῇ ἀληθείᾳ σου, ὅτι ἐμεγάλυνας ἐπὶ πᾶν τὸ ὄνομα τὸ ἅγιόν σου.

私はあなたの聖なる宮に向かってひれ伏し、
あなたの恵みのまことを、あなたの御名に感謝します。
あなたは、ご自分のすべての御名のゆえに、
あなたのみことばを高く上げられたからです。


3 ἐν ᾗ ἂν ἡμέρᾳ ἐπικαλέσωμαί σε, ταχὺ ἐπάκουσόν μου· πολυωρήσεις με ἐν ψυχῇ μου δυνάμει σου.

私が呼んだその日に、あなたは私に答え、
私のたましいに力を与えて強くされました。


4 ἐξομολογησάσθωσάν σοι, Κύριε, πάντες οἱ βασιλεῖς τῆς γῆς, ὅτι ἤκουσαν πάντα τὰ ρήματα τοῦ στόματός σου.

主よ。地のすべての王たちは、あなたに感謝しましょう。彼らがあなたの口のみことばを聞いたからです。

5 καὶ ἆσάτωσαν ἐν ταῖς ᾠδαῖς Κυρίου, ὅτι μεγάλη ἡ δόξα Κυρίου,

彼らは主の道について歌うでしょう。主の栄光が大きいからです。

6 ὅτι ὑψηλὸς Κύριος καὶ τὰ ταπεινὰ ἐφορᾷ καὶ τὰ ὑψηλὰ ἀπὸ μακρόθεν γινώσκει.

まことに、主は高くあられるが、低い者を顧みてくださいます。しかし、高ぶる者を遠くから見抜かれます。

7 ἐὰν πορευθῶ ἐν μέσῳ θλίψεως, ζήσεις με· ἐπ᾿ ὀργὴν ἐχθρῶν μου ἐξέτεινας χεῖράς σου, καὶ ἔσωσέ με ἡ δεξιά σου.

私が苦しみの中を歩いても、あなたは私を生かしてくださいます。私の敵の怒りに向かって御手を伸ばし、あなたの右の手が私を救ってくださいます

8 Κύριος ἀνταποδώσει ὑπὲρ ἐμοῦ. Κύριε, τὸ ἔλεός σου εἰς τὸν αἰῶνα, τὰ ἔργα τῶν χειρῶν σου μὴ παρίδῃς.

主は私にかかわるすべてのことを、成し遂げてくださいます。主よ。あなたの恵みはとこしえにあります。あなたの御手のわざを捨てないでください。


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「牧師の書斎」より(引用元詩篇138篇

「ダビデによる、ダビデの」という表題がついたまとまった詩篇が8篇、138~145篇にあります。

この8篇には共通するテーマ、あるいは特徴は何かを考えながら瞑想することで何かが見えてくると思いますが、一つの私の推定では、神に愛されたという意味を持つ「ダビデ」という名前が表題につくときは、そこにダビデの霊性が色濃く出ている詩篇と推察してよいのではないかと考えます。

ダビデの霊性とは何か。それはダビデの信仰が常に神のゆるぎない恩寵によって支えられていることそしてその神の恩寵に対するダビデの礼拝のあり方が非常に豊かであるということです


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それは一つの詩篇の中にある礼拝用語と恩寵用語を抽出することによってわかります。

詩篇138篇の神の恩寵用語を取り出してみます。

①「(みことばを)高く上げられた」(2節)
②「答えられた」(3節)
③「(たましいに力を与えて)強くされた」(3節)
④「(低い者を)顧みてくださる」(6節)
⑤「生かしてくださる」(7節)
⑥「(御手を)伸ばす」(7節)
⑦「救ってくださる」(7節)
⑧「(私にかかわることをすべて)成し遂げてくださる」(8節)

一方、その恩寵に対する応答としての礼拝用語は以下の通りです。

①「感謝します」(1節、2節)
②「ほめ歌を歌います」(1節)
③「ひれ伏します」(2節)
④「呼ぶ」(3節)
⑤「聞く」(4節)

このようにダビデの霊性は、常に神の恩寵に支えられてことがわかります。ダビデはいろいろいな面をもった人物ですが、結局のところは彼が礼拝者であったということに尽きます。

どんなときにも、どんなところを通されたとしても、神の恩寵に目が開かれることがすべての力の源泉であることを知ります。






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神に向かって歌い、御名をほめ歌え。雲に乗って来られる方のために道を備えよ。その御名は、。その御前で、こおどりして喜べ。詩篇68:4

詩篇はクリスチャンの日常生活そしてクリスチャンの公同礼拝において、これまでも、そして今も決定的に重要なものです。両者の側面共、初代キリスト教の基盤をなすものでした。

なぜなら、初代教会のクリスチャンたちは、イエス・キリストご自身が詩篇の中に生きておられると信じていたからです。

近代の聖書批評学とは対照的に、初代教父たちは、「聖書が聖書を解き明かす」という金言を正しくも信じていたのです。エマオの村へ向かっていた二人の弟子たちに対し、復活されたキリストは、――詩篇も含め――聖書は、ご自身について書いてあるということを仰せられました。

それゆえ、初代教会の信者たちは、聖書を「キリストに関する the book」と理解していたのです(ルカ24:13-49)。「文字」を凌ぐ「霊」の抜本的な力が、旧約(特に詩篇)の使徒的解釈における「キリストの中心性」を全く新しい仕方で導き出したのです。

Bruce K. Waltke, The Psalms as Christian Worshipより 私訳



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ルカ24:44-49

44それから彼らに対して言われた、「わたしが以前あなたがたと一緒にいた時分に話して聞かせた言葉は、こうであった。すなわち、モーセの律法と預言書と詩篇とに、わたしについて書いてあることは、必ずことごとく成就する」。

45そこでイエスは、聖書を悟らせるために彼らの心を開いて

46言われた、「こう、しるしてある。キリストは苦しみを受けて、三日目に死人の中からよみがえる。

47そして、その名によって罪のゆるしを得させる悔改めが、エルサレムからはじまって、もろもろの国民に宣べ伝えられる。

48あなたがたは、これらの事の証人である。

49見よ、わたしの父が約束されたものを、あなたがたに贈る。だから、上から力を授けられるまでは、あなたがたは都にとどまっていなさい」。



イエス様は、「モーセの律法と預言書と詩篇とに、わたしについて書いてあることは、必ずことごとく成就する」とおっしゃったそのすぐ直後に、「聖書を悟らせるために彼らの心(νοῦν)を開」かれた、と御言葉は言っています。

また冒頭の説明には、初代教会の信者たちが、聖書を「キリストに関する the book」と理解していたということ、そして使徒的な旧約解釈には、聖霊の抜本的な力により、「キリストの中心性」があったということが書かれていました。

私の祈りは、詩篇を歌うという礼拝行為を通して、主なる神が、神を知るための知恵と啓示の御霊を私たちに豊かに注いでくださることです(エペソ1:17参)。そして詩篇の中に生けるキリストを見い出すことです。

初代教会以来、2000年以上に渡り、ずっとずっと続いてきた、このPsalmodyという壮大な霊的営み――その中で、私たちが主に喜ばれる礼拝者として日毎に整えられていくことができるなら、どんなにすばらしいでしょうか!


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