Francis A. Schaeffer, Escape From Reason, Chapter 7より



よく私は人に訊かれる。

「あなたは奇抜で変わった人たちとも、結構うまくコミュニケーション取れてますよね。その人たちはキリスト教を受け入れていないのかもしれませんが、それでも、あなたの語りかけは、なんというか、彼らにちゃんと『通じている』ようなのです。どうしてでしょうか?」と。

そういう風な「通じ方」を可能にしている理由にはいろいろあると思うが、一つには、おそらく、(根拠を得ずとも)「とにかく信じよ」というスタンスではなしに、彼らに聖書的システムやその真理について考えてもらうよう努めているからかもしれない。

☆☆

シェーファー自身の証し


というのも、自分自身、そういう経過を通って、クリスチャンになったのだ。

救われる前、私は長い間、リベラル教会に通っていた。

この教会の講壇で語られていることから判断して、私は自分の行きつける唯一の結論は、「不可知論か、あるいは無神論に違いない」と思うようになっていった。

自由主義神学を基盤として考えた時、そういった結論以上にロジカルな帰結はないと私は思った。

こうして私は不可知論者になった。

そしてその後、当時読んでいたギリシャ哲学と対照すべく、はじめて聖書を読んでみようと思い立ったのだ。

それは(長年キリスト教だとばかり思い込んできた)「キリスト教」を捨てた自分としては、それなりに誠意ある行為ではあった。


そして、それから6カ月ほどした後、私はクリスチャンになった。

なぜなら、自分の抱えていた諸問題に対し、聖書が提示している答えはそれだけでもう十全性があり、しかも非常にわくわくするような仕方でそれは十全性を持していたからである。



「信仰の飛躍」メンタリティー
 

現代人は、真理に関し、ある新しい態度をとるようになった。

そしてこの現象が――もっとも明瞭かつ悲劇的な形で――浮き彫りになっているのが、現代神学それ自身だろう。

こういった新しい態度がどのようなものであるかを考察するべく、まずは真理についての別の二つの考え方(概念)を見てみることにしよう。

一つ目は、ギリシャ人の真理に対する考え方、そして二つ目は、ユダヤ人のそれである。

往々にして、ギリシャ人の真理の概念は、うまくバランスの取れた形而上学的なシステムであった。

そしてそのシステムはあらゆる点において、それ自身が調和を保っていた。

それに対し、ユダヤ的および聖書的真理のコンセプトは、それとは異なっていた。

しかしそれは、ギリシャ人の保持していた合理的概念が、ユダヤ人にとって重要ではなかったという意味ではない。

なぜなら、旧約も新約も、理知的に議論し得るという基盤の上に機能しているからである。

しかしながら、ユダヤ人の精神は、それ以上のなにか――つまり、より確固としたなにか――を必要としていたのだ。

その確固たる基盤というのが、実在の歴史に対する彼らの求めであり訴えであった。

然り。書き記され、歴史として議論され得る、空間・時間の中における歴史である。註1)

☆☆

現代における真理観は、ギリシャ的概念およびユダヤ的概念のはざまに、楔(くさび)を打ち込んだ。

しかも、誤った点において打ち込んでしまっているのである。

現代的見解の人々の脳裏には、

1)ギリシャ的=合理的真理
2)ユダヤ的=実存主義

という構図が出来上がっているのだ。

そうした上で、彼らは聖書を自分たちのものとして主張しようとしている。これは独創的な考え方ではあるが、全く間違った捉え方だと言わねばならない。

ユダヤ的な考え方は、時空の歴史(space-time history)に根付いているという点で、ギリシャ的なそれとは分け隔てられている

それは単なるバランスの取れたシステムというわけではないのだ。

しかしユダヤ的および聖書的真理の概念は、現代的コンセプトよりは、むしろギリシャ的コンセプトの方にずっと近いだろうと思う。

なぜなら、それは、人間の「人間性("mannishness")」の中に合理性を求める願いがあるという事実を否定していないからである。註2)



Francis A. Schaeffer, Escape From Reason, Chapter 7
私訳


註1)


現代人の絶望と、「信仰の飛躍」メンタリティーについて


シェーファーは、現代のそういった流れの始源を、デンマークの哲学者ゾーレン・キルケゴールに帰し、次のように言っています。

「絶望の線」という段階は、私たちをキルケゴール(1813-1855)および信仰の飛躍へと導いた。

キルケゴールの「飛躍」がなしたものは何かといえば、それは、調和と一致に対する希望をもろともに取り去ってしまったことである。そして彼以後、私たちの思考は次のようになっていった。


楽観主義というのは、非合理的なものである。
――――――――――――――――――――
あらゆる合理性=ペシミズム(悲観主義)



この二つの領域をつなげようという希望は、この時点で消え去ったしまったのだ。

換言すると、この線(=絶望の線)の下にある領域では、理性を基盤とし、人としての人間は死んでいるのである。

そこにおいて人間存在には何ら意味がなく、何ら目的がなく、何ら重要性もないのである。

人としての人間に関していえば、ただそこにペシミズムがあるだけである。

その一方、線の上の方の領域では、非合理的飛躍をベースに、非合理的な信仰があり、それが楽観主義をもたらしている。

これが現代人の抱える全的パラドックス(total dichotomy)である。


Francis.A.Schaeffer, Escape From Reason, Chapter 4


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キルケゴール


キルケゴール以後、そこからさらに二つの拡張がありました。

一つは世俗実存主義、そしてもう一つは宗教的実存主義の流れです。

前者の代表格としては、フランスのサルトル(1905-1980)とカミュ(1913-1960)、スイスのヤスパース(1883-1969)、そしてドイツのハイデッガー(1889-1976)。

一方、後者の代表格としてシェーファーは、カール・バルト(1886-1968)の名を挙げています。

*現代フェミニズムの理論的創始者であり、先駆者であるシモーヌ・ド・ボーヴォワール(1908-1986)が、サルトルの愛人であり、世俗実存主義の支持者であった事実は、福音主義教会におけるフェミニズム問題を考える上で決して無視することのできない大切なポイントだと思います。


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サルトルとボーヴォワール


つまり、「福音主義」と、「フェミニズム」は、それぞれどこに源流を持ち、両者がはたして融合可能なものなのかどうか、という問題を考える上で、とても大切だと思います。




註2)

ギリシアの《非歴史性》と、ユダヤの《歴史性》について、ロシアのキリスト教思想家であるベルジャーエフも次のような興味深い指摘をしています。


ヨーロッパの認識の根柢には、つぎの二つの原理があることが、言われなければならない。

ギリシアの原理とヘブライの原理である。

この二つのものの結合からキリスト教世界は形成されたのであり、、

歴史を研究する何びとも知っていることは、ギリシア文化、ギリシア世界、ギリシア的意識にとって歴史意識というものが欠如していたことである

歴史的経過の観念は、ギリシアの世界には存在しなかった。最大のギリシア哲学者たちも、歴史的経過の意識にまで達することができなかった。

プラトンにおいてもアリストテレスにおいても、最大のギリシア哲学者の何びとにおいても、歴史の概念を見い出すことができない。

ギリシア人は世界を、完成した調和的なコスモス(世界)として美的に把握した。、、彼らは万有を、コスモスの均整を、古典的に観照するという仕方で、静的に把握した。

、、、彼らの考えに従えば、歴史には出発も、終末もなかった

かれらの考えではいっさいが反復であった。

いっさいが永遠の循環の中にあった。

永遠回帰の中にあった。

この循環運動は、ギリシア的世界観の特徴をなすものである。

一方、《歴史的なもの》の観念は、ヘブライ人によって世界史の中に導き入れられた

そしてユダヤ民族の根本的使命こそ、ギリシア的意識に映じたあの循環的運行とは異なって、人間精神の歴史の中に、あの歴史的経過の意識を導入することであった、と私は信じている。

古代ヘブライの意識では、かの過程はつねにメシアニズムと結びつき、メシア的観念と結びついていた。

ヘブライ的意識は、ギリシア的意識とは反対に、つねに来たらんとするもの、未来に向けられていた


べルジャーエフ著 『歴史の意味』、p39-41





おまけです

いかにして現代人は誕生したのか? by シェーファー(約1分30秒)

*海の砂浜に立ち、棒で図をかきながら私たちに説くシェーファーの姿がなんともいえず「この世ばなれしていて」、その独特の風情がいいなあと思いました。








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フランシス・A・シェーファー (1912 –1984)



相対主義か、もしくは神の絶対性か?



Relativism or God's Absolutes


―フランシス・A・シェーファー





このような状況の中にあって、私たち聖書信仰のクリスチャンは、今や、自らの身の振り方を決定していかねばならない日々に直面しようとしている。

福音主義クリスチャンにとっての「安泰な日々(soft days)」はすでに過去のものとなった。

今はただ、強固な聖書観の持ち主だけが、相対主義および相対的な思想の上に構築された現代文化の重圧に耐えることができるだろう。

私たちが覚えておかなければならないのは、神の絶対性に対する強固な見方こそが、初代教会をして、かのローマ帝国の重圧に耐えしめたという事実である



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ローマによる絶え間ない迫害に直面する中にあって、初代教会が忠実であり続けることができたのは、実に、神のこの絶対性に対する強いコミットメントがあったゆえだった。

それなしには、決して貞節を貫くことはできなかっただろう。


そして今日の様相は、初代教会時代のそれと驚くほど類似している。

というのも、われわれの社会の法的、倫理的、そして社会的構造は、ますます増加の一途をたどる反キリスト教的・世俗的コンセンサスを基盤に打ち建てられているからである。

☆☆

しかしながら、今日の福音主義教会では何が起こっているだろう。

神の絶対性に対する、初代教会が持していたようなコミットメントが、私たちの教会の内に見られるだろうか。

悲しむべきことに、そういったコミットメントはわれわれの内に、無い。

数の上では増加しているかもしれないが、福音主義には一致団結して、強固な聖書観のために立ち上がろうという姿勢がみられない。

しかし、もしもわれわれ福音主義クリスチャンが、今後も本物の福音主義者であり続けたいと願うなら、私たちは断じて、聖書に関する自分たちの見解に妥協を加えるべきではない。

もしも、福音主義教会の大部分が、聖書に関し「甘く、軟弱な」態度を取っていくのだとしたら、その勢力が数量的に増加したところで、何の意味もないだろうと思う。


Frances A. Schaeffer, The Great Evangelical Disaster, 1984より、私訳



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さらに、私たちの思考というのは、物事をアンチテーゼ(antithesis:反立)の内に捉えるよう、神によって造られているのである。

アンチテーゼによる思考というのはどういうものかというと、もしある事が「真理」なら、それに相反するものは「真理でない」というコンセプトのことだ。

もしくは、もしある事が「正しい」のなら、それに相反するものは「間違っている」という考え方のことだ。

私たちがアンチテーゼというカテゴリーの中で物事を考えるよう、神が私たちの思考をお造りになったというのは驚くことではない。

なぜなら、それは神の存在のリアリティーおよび神の被造物のリアリティーに適合しているからだ。


Frances A.Schaeffer, The God Who Is There, Appendix A: The Question of Apologeticsより
私訳



しかし――新しい神学にしても、東洋の汎神論にしても――こういった体系が最終的に行きつくのは、「とどのつまり何が正しいのか、何が間違っているのかを誰も正当に言うことはできない」という地点である。

一方、西洋の汎神論ならぬ〈汎なんでも主義 pan-everythingism〉においては、人はこの結論だけは少なくとも避けようとしている。

つまり、彼らは、「『正しい』とか『間違っている』とかいう言葉には何ら意味がない」と言い切ることに関しては今もためらいを感じているのだ。

しかしそれはできない相談である。

それはあたかも下り坂を転がりはじめた石ころのようにどんどん下っていくのである。

非人格的(な神観)から出発するなら――人はそれを宗教用語や、あるいはクリスチャン用語で飾ったとしても――そこには最終的な絶対性はなく、正誤に関する最終的なカテゴリーは存在しないのである。

それゆえ、そこに残されるのは、(さまざまな文化の中にあって、さまざまな方法で表現されるかもしれないが)、所詮、相対的なものに過ぎない。

――そう、社会的、統計学的、状況的相対主義、それ以外の何ものも生み出さないのだ。

平均的なスタンダードとして、状況的、統計学的倫理(価値体系)を持することはできても、私たちは倫理性を持つことはできないのである。

さらに言えば、〔非人格的な神観という〕状況の中にあっては、何かが「正しい」ということは、何かが「間違っている」ということと同様、無意味なものになるということを私たちは肝に銘じておかなければならない。

そういった状況の中では、もはや倫理としての倫理は姿を消し、そこに残されるのはただ形而上学の体系だけである。

正誤の問題に関し、そこに何ら〈意味〉が見いだされなくなるのである。


Frances A. Schaeffer, He Is There And He Is Not Silent, The Moral Necessityより
私訳



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福音主義教会の大惨事―この世への迎合精神について(フランシス・A・シェーファー) 前篇

福音主義教会の大惨事―この世への迎合精神について(フランシス・A・シェーファー) 後篇

真理のために立ち上がる(Radicals for Truth)―フランシス・A・シェーファー






その9)からのつづき。


実践を伴う愛


そういった目に見える愛を示す美しい二つの実例をここで紹介したいと思う。

一つ目の事例は、第二次大戦直後に、ドイツにあるブラザレンの群れの中で起こった。

教会を統制するべく、ヒットラーはドイツ内にあったあらゆる宗教団体を合併させる法令を出した。

そしてこの問題をめぐり、ブラザレン教会の中で分裂が起こったのだ。

教会の半分はヒットラーの法令を受諾し、残りの半分はそれを拒んだ。

こうしてヒットラーの命に屈した側の教会員たちはもちろん、その後ずっと楽な行程を歩むことができた。

しかし、リベラル諸団体と組織的に合併する中で、次第に、彼ら独自の教理的鋭利さや霊的生活は衰え、弱体化していった。

その一方、合併をこばんだ人々は霊的な強さを保ち続けたが、結果として、非常に多くの人がドイツの強制収容所で命を落とすことになったのだ。

☆☆

こうして両者の間に深刻な感情的軋轢が生じた。

やがて戦争が終わり、彼らは再び顔を合わせることになった。彼らは同じ教理を信じ、一世代以上に渡り、共に働いてきたのだ。

さあ、これからどうなるのだろう。

ある人は自分の父親が強制収容所で死んだことを今でも生々しく覚えており、その一方で、今目の前にいる人々は(ヒットラーの指示通りに合併の道を選んだゆえ)その間、安楽に暮らしていたことを知っているのである。

☆☆

その内に、兄弟たちはこのままの状態ではいけないと痛感するようになった。

そこでついに二つのグループの長老たちは一か所に集まり、修養会を開くことにしたのである。

この話をしてくれた人に私は尋ねた。「それであなたがたは何をしたのですか?」

すると彼は答えた。「ええ、私たちは一堂に会し、それから数日の間、それぞれが自分自身の心を調べることにしたのです。」

すると実際、この期間に、それぞれの心の内に潜んでいたさまざまな感情が深く、深く取り扱われたのだ。

「私の父は強制収容所に送られ、母は無理やり引き離されました。」――こういった事は感情の中にあるもののごく一部にすぎなかった。それらは実に、人間の諸感情の深い源泉にまで到達していったのである。

しかし彼らはここにおいて、キリストの掟を理解し、数日の間、各人がただひたすら自分の心と向き合い、自分自身の失敗や過ち、そしてキリストの掟について黙想したのである。

その後、再び彼らは一堂に会した。


私は彼に訊ねた。「それでどうなりましたか?」

彼は言った。「私たちはその時点ですでに一つとされていたのです。」


これこそまさにイエスが語っておられることではないだろうか。

そう、御父はたしかに御子を遣わされたのである!


分かれても一つ


諸事情により、もはや共に働くことのできなくなった二つの新生信者たちのグループが、お互いにひどい言葉をぶつけ合うことなく平和的に分離する――私は長年、そのことを望んできた。

また二つの群れが、組織的一致を続けていくことがもはや不可能となったことを悟った後もなお、互いの間に存在する愛をこの世に示し続けていく姿を私は待望してきた。

ここで話している原則は普遍的かつ、どの時代・場所においても適用されうるものである。

それでは二番目の事例を話そう。――今回の例は、同じ原則の異なる実践ヴァージョンである。

☆☆

最近、アメリカ中西部の大都市にある教会で、ある問題が生じた。

「現代的な」人々がその教会には多く通っていたのだが、そこの牧師は次第に、教会内に存在する二つのグループを同時に牧会していくことに困難を覚え始めたのだ。

「他の牧会者ならできるかもしれないが、私個人には、――長髪の人々や彼らが連れてくる『個性的な』人々と同時に、教会近郊に住む人々に仕えていくことはできない」と彼は感じた。

その後も長い間、共に働くことができるよう試行錯誤をつづけた末についに、長老たちは集まり、教会を二つにする決断を下したのである。

そして彼らは「私たちが分離するのは、教理が異なるからではなく、あくまで教会運営の実際性(a matter of practicability)を考慮した結果そうするのです」ということを明確にしたのだ。

旧来の群れの一人が新しい群れに行き、こうして彼らは秩序ある移行が完了するまで、その間ずっと共に働いたのであった。

こうして彼らは二つの教会となったが、その後も意識して、互いに対する愛を実践しようとしているのである。

ここに私たちは、組織的な一致なくして、尚且つ真実なる愛と一致を見るのだ。

そしてそれはこの世がはっきりと見て取れるものである。

そう、御父はたしかに御子を遣わされたのだ!


ただ一つのまことの標(しるし)


ここで再び、クリスチャンの標について実に明瞭に指し示している聖書箇所を読んでみよう。

わたしは、新しいいましめをあなたがたに与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。互いに愛し合うならば、それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての者が認めるであろう。

ヨハネ13:34-35



父よ、それは、あなたがわたしのうちにおられ、わたしがあなたのうちにいるように、みんなの者が一つとなるためであります。すなわち、彼らをもわたしたちのうちにおらせるためであり、それによって、あなたがわたしをおつかわしになったことを、世が信じるようになるためであります。

ヨハネ17:21



それでは以上のことから何が結論づけられるのだろう。

そう、良きサマリヤ人が傷を負った男を愛した如く、クリスチャンとしての私たちも、すべての人を隣人として愛すよう召されているのだ。

そして二番目に、私たちはこの世にはっきりと分かる形で、真のクリスチャンである兄弟たちを皆、愛さなければならない。

これは自分たちの間に――事の大小にかかわらず――相違点や食い違いがある時においても、それでも相手を愛し続けていくことを意味する。

たといそれが私たちに何らかの犠牲を伴わせるものであったとしても、そして、そのために自分が非常な精神的葛藤の下におかれているその時でさえも――尚、相手の兄弟たちを愛し続けていくことを意味する。

そしてこの世が見ることのできる形で彼らを愛し続けていくのである。

要約しよう。私たちは神の神聖さと神の愛、この両方を実践し、示していかねばならないのだ。

なぜなら、これなしには私たちは御霊を悲しませてしまうからである。

愛――そしてそれを立証する一致――は、この世の前で付着するよう、キリストがクリスチャンにお与えになった標(しるし)である。

そしてただこの標によってのみ、この世は、「クリスチャン」という人たちが本当にクリスチャンであり、イエスが御父から遣わされた方であることを知るのだ。



ー完―




その8)からのつづき。



違いの「違い」


自分の兄弟の誤りや過失に加担(share:共有、同意)することなく愛を示す五番目の方法――それは、私たちが、

1)妥協してしまい、誤りを是とみなすようになる事が大いにあり得ると同時に、

2)キリストにある一致を示すことも往々にしてないがしろにされやすい。



という二点を認識し、たえず意識的にこのことを覚え、互いに注意し合い助け合うことである。

そしてこれは真のクリスチャンの間に意見の相違が起こる前に、言及しておくべき内容である。

――自分たちを見つめる世の前で――真のクリスチャンたちが、いかに実際的な形で神の神聖さに対する忠誠を示すと同時に、神の愛に対する忠誠を示していくことができるのか?

ありとあらゆる種類の会議が開かれるが、こういったテーマに取り組むクリスチャンの集まりがいったいどれほどあるだろう。

また、1)教理と生活における(可視的)教会の聖さを実践していく上での原則、2)すべての真のクリスチャンの間における目に見える形での愛および一致を実践していく上での原則、こういう一見して相反するようにみえる二つの原則を入念に提示しているような説教や書籍はどこにあるだろう。

☆☆

私たちを見つめる世の前で、意見の相違にもかかわらずこういった目に見える愛が表されていく時、クリスチャンの取り扱う「相違」と、世の人々の取り扱う「相違」との違いが浮き彫りにされるのだ。

この世はおそらく、何のことでクリスチャンたちが互いに意見を違わせているのか理解しないだろう。

しかし彼らはこの世の「食い違い・相違」とクリスチャンのそれとの間の違いをすぐに見抜くのだ。

――そう、実際的なレベルにおいて、もしもそういった私たちの相違点が、目に見える率直な愛の中で取り扱われているのをこの世が目の当たりにするなら、である。

☆☆

たしかにここに違いがあるのだ。

なぜ「この世が注目するのは実にこの点なのだ」とイエスは言われたのだろうか?

教理的違いをこの世に理解してもらうことは望むべくもない。

特に今日においてはなおさらそうである。というのも、現代のこの世においては、まことの真理や絶対的なものの存在自体が――概念としてでさえ――あり得ないものとして捉えられているからである。

また、「神の神聖さに基づき、私たちには、この世とは違う種類の『意見の相違』があるのです。なぜなら、私たちは神の絶対性を取り扱っているからです」と私たちが世に言ったところで、この世はそういった事を理解してはくれない。

しかし意見を異にしながらも尚、互いの間に存在する一致を私たちが示していくその時、彼らは、キリスト教の真実性および、「御父が御子を遣わした」というキリストの言葉について真剣に考え始めるだろう。

そしてその時こそ――つまり、私たちの間に意見の相違があるその時こそ――平穏な時以上に、ここでイエスの語っておられる事を世に示すことができるのだ。

☆☆

とは言え、もちろん、あえて互いの違いを見つけ出そうとはすべきでないし、それに、努力して探さなくとも、相違点というのはもうすでに互いの間に十分すぎるほどある。

しかしそういう意見の相違のただ中にあって、私たちはすばらしい機会を見出すことができるのである。

すべてが順調にいき、皆が皆、小さなサークルの中にきちんと納まっている時には、この世は別段私たちに関心を持っているわけではない。

しかし、いざ私たちの間にまことの相違が生じ、その中で私たちが妥協のない原則を示しつつも同時に、目に見える形で愛を示していくなら、その時、この世は私たちの間に「なにか」を見るのである。

そして「この人たちは本物のクリスチャンであり、本当にイエスは御父から遣わされた方なのかもしれない」と、彼らはその「なにか」を通し、そのように判断していくだろう。




(最終回)につづきます。







(その7)からのつづき。



犠牲の伴う愛


三番目に、私たちはこういったディレンマの最中にあって、――たといそれが犠牲を伴うものだとしても――実際的な愛を示していかねばならない。

愛という言葉が単なるスローガンであってはならない。

つまり、たとえどんな代価を払うことになろうとも、この愛を示すべく、為されるべきことは万事を尽くし為されなければならないということである。

口先で「愛しています」と言っておきながら、その後、相手を攻撃するような真似は断じてしてはならない。


そして聖書はこういったことを許してはいない。1コリント6:1-7には次のように書いてある。

6:1 あなたがたの中のひとりが、仲間の者と何か争いを起した場合、それを聖徒に訴えないで、正しくない者に訴え出るようなことをするのか。

6:2 それとも、聖徒は世をさばくものであることを、あなたがたは知らないのか。そして、世があなたがたによってさばかれるべきであるのに、きわめて小さい事件でもさばく力がないのか。

6:3 あなたがたは知らないのか、わたしたちは御使をさえさばく者である。ましてこの世の事件などは、いうまでもないではないか。

6:4 それだのに、この世の事件が起ると、教会で軽んじられている人たちを、裁判の席につかせるのか。

6:5 わたしがこう言うのは、あなたがたをはずかしめるためである。いったい、あなたがたの中には、兄弟の間の争いを仲裁することができるほどの知者は、ひとりもいないのか。

6:6 しかるに、兄弟が兄弟を訴え、しかもそれを不信者の前に持ち出すのか。

6:7 そもそも、互に訴え合うこと自体が、すでにあなたがたの敗北なのだ。なぜ、むしろ不義を受けないのか。なぜ、むしろだまされていないのか。



これは何を意味しているのか。

教会は悪をそのまま見過ごしにしてはいけない。

しかし、クリスチャンは他の真のクリスチャンを訴訟するよりはむしろ、――真のクリスチャン同士が持つべき一致を示すべく――実際的、そして金銭的な損失をも甘受すべきであるということなのだ。

なぜなら、相手のクリスチャンを訴え出ることはとりもなおさず、私たちをじっと見つめている世の前で、こういった目に見える一致をぶち壊すものだからである。

これは犠牲を伴う愛である。

しかしこの世に顕され見ることのできる愛というのは、実践を伴うそのような愛をおいて他にはないのである。

☆☆

パウロはここで目に見えるなにか、実にリアルな形でのなにかについて語っている。

つまり、一キリスト者は、自分の兄弟との間の不可避的意見の食い違いがある最中にあっても愛を示す必要があり、その愛が彼をして損失をも自ら進んで甘受せしめるのだと。

またその損失とは金銭的なものだけにとどまらず、あらゆる種類の損失を含むのだ。

(しかし残念なことに、大半のクリスチャンは事がいざ金銭がらみになると、とたんに愛も一致も何もかも忘れ去ってしまうようにみえる。)

☆☆

さて、自分たちの兄弟の誤りや過失に加担(share:共有、同意)することなく愛を示す四番目の方法であるが、それは、相手を打ち負かそうという動機ではなく、なんとか問題を解決したいという願いを以てアプローチすることである。

負けたい、敗北したいと思う人は誰もいない。

実際、神学者ほど、何が何でも勝利を得たいと熱望している人々はいないだろう。

神学の歴史は、――勝利をめぐっての――こうした小競り合い史であると言っても過言ではない。

☆☆

しかし私たちが肝に命じておかなければならないのは、こういった相違点をめぐっての私たちの働きはあくまで「解決」を求めての取り組みであるということだ。

――そう、神に栄光を帰し聖書に忠実な解決、そして尚且つ、神の「神聖さ」と「愛」、その両方を示していくという解決である。

意見の相違について自分の兄弟と話し合う時、あるいはグループの一員として他のグループと話し合う時、その時、私たちの態度はどんなであろう。

もしそこに愛を求める願いがあるなら、私たちは相違点について議論する際にも、単に自分たちの正当性を明かしたいという思いだけでなく、解決を求める願いをもそこに見いだすことだろう。



(その9)につづきます。





その6)からのつづき。



クリスチャンの間で意見の相違がある時


しかしながら、私たちがキリストにある他の兄弟たちとどうしても意見を異にしなければならない状態になった時、――教理において、また生き方の面において、神の神聖さを表さなければならない状況にさらされた時――、その時、私たちはどうすればいいのだろう。

生き方や生活に関する事柄において、パウロはコリント人への手紙第一と第二の中で、はっきりとバランスを示してくれている。同じことが教理の領域にも適用されるだろう。

まず、1コリント5:1-5の中で、パウロはコリント教会を叱責している。

――なぜ戒規することなく、不品行の罪を犯し続けている者を教会にとどめているのかと。

神の神聖さゆえ、そして教会をじっと見ているこの世に対しこの神聖さを示すという必要性ゆえ、そして啓示された神の掟を基としたそのような裁きは神の御目に正しいことであるゆえ、パウロはこの人に戒規を行使しなかった教会を叱責しているのだ。

☆☆

そして彼らがこの人に対し戒規を施した後、パウロは再びⅡコリント2:6-8の中で彼らに手紙を書き、今度は、彼らがこの人に愛を示していないことで彼らを叱責しているのだ。

この二つの事は合わせて考えられなければならない。

私はパウロが最初の手紙と二番目の書簡の中でこのように手紙を書いたことを感謝している。

なぜなら、ここで私たちは時間の経過をみることができるからだ。

コリントの人々はパウロの助言を受け入れ、実際にそのクリスチャンを戒規し、そして今パウロは彼らに書き送っているのだ。「あなたがたは確かに彼を戒規している。しかし今彼に愛を示したらどうか」と。

また彼は手紙を続け、イエスの御言葉を引用しながら次のように言うこともできたかもしれない。

「あなたがたを取り巻くコリントの異教徒たちに、『イエスは御父から遣わされなかった』と言われて当然ではありませんか。というのも、あなたがたはきちんと戒規処置を施したあの人に対して愛を示していないからです」と。

☆☆

ここで非常に重要な問いが持ち上がってくる。

「私たちはいかにして、相手の誤りや過失に加担(share:共有、同意)することなく、尚且つ、キリストの命じておられる一致を示していくことができるだろうか。」

私はここで二、三の方法を提示したいと思う。

それにより、自分たちが意を異にしなければならないラインを超えた所にあってさえも、引き続きこの一致を実践し、示していくことができればと願う。


遺憾の念


まず第一に、私たちは、真のクリスチャンたちとの間のそのような相違に対峙しなければならなくなった際、遺憾の念なしにそれらを行なってはならないということである。

単純なことのように聞こえるかもしれない。

しかし福音主義クリスチャンはしばしこの点で失敗している。

私たちはここぞとばかりに――そして多くの場合、非常に嬉々としつつ――相手側の誤りや荒探しをするのだ。

そして相手側をけなし粉砕することによって、自らを打ち建てようとする。

そしてこのような姿勢からは決してクリスチャンの間の真の一致は見い出し得ない。

☆☆

真のクリスチャン同士の間で、やむを得ぬ意見の対峙があった場合、この世の目に私たちは次のように映る必要がある。

つまり、私たちが互いに対峙しているのは、自分たちが血の臭い、円形闘技場の臭い、闘牛の臭いを愛好しているからではなく、ひとえに神のためにそうせざるを得なくなったからなのだと。

そしてどうしても声を挙げなければならなくなった際、そこに涙が伴うなら、その時そこに美しいなにかが見いだされるかもしれない。

☆☆

二番目に、真のクリスチャン同士の間の問題の深刻さに比例し、私たちは意識してこの世に可視的な愛を示していくことが大切である。

クリスチャン間に存在する相違点すべてが同質という訳ではない。

いたってマイナーな違いもあれば、きわめて深刻な相違というのも存在する。

間違いや誤謬が深刻であればあるほど、神の神聖さをはっきりと示し、何が間違っているのかを公に指摘することがますます肝要になってくる。

それと同時に、そういった相違点が深刻化していけばいくほど、私たちはますます、相手側の真のクリスチャンたちに対し愛を示していくことができるよう聖霊に寄り頼んでいく必要がある。

もしこれがささいな違いであれば、愛を示していくことはさほど深慮するに及ばない。

しかし相違点が非常に深刻なものとなるなら、それに比例し、神の神聖さゆえに、ますます大胆に声を挙げていくことが重要になってくる。

そしてその時点においても、私たちは依然として互いに愛し合っているということを世に示していくことがより一層肝要になってくるのである。

☆☆

それゆえ、次のことを考えてみよう。

キリストにあるあの兄弟と私との間に横たわる相違点は本当に深刻きわまりないものだろうか。

もしそうなら、なおさらのこと、私は主の前に跪き、「私や私の属する群れを通し、主よ、あなたが働いてください」と御霊に、そしてキリストに祈り求めることが重要だ。

そうすることにより、私(私たち)は、キリストにあるあの兄弟もしくは、他のグループに属する真のクリスチャンたちとの間に生じたこういう大きな相違のただ中にあっても、依然として彼らに愛を示していくことができるのである。



(その8)につづきます。









その5)からのつづき。



赦し


しかし目に見える形での愛というのは、「ごめんなさい」と謝ること以上のものである。

そこには公の赦しというのもまたなければならないのだ。

人に謝罪することはたやすいことではない。しかし人を許すことにはそれに輪をかけた難しさがある。

しかし「この世は神の民の間にこうした赦しの精神を見なければならない」と聖書ははっきり言っているのである。

☆☆

主の祈りの中で、イエスは私たちに次のような祈りを教えておられる。

わたしたちに負債のある者をゆるしましたように、わたしたちの負債をもおゆるしください。



もちろん、この祈りは救いのためのものではない。また私たちはただキリストの成し遂げられた御業ゆえに新生したのであるから、この祈りは新生とも無関係である。

しかし、これはクリスチャンの持つ、神との実存的にして毎瞬間の経験的関係にたしかに関わるものである。

私たちは義とされるべく一度限りにして永続する(once-for-all)赦しが必要であると共に、キリストの御業を基とした罪のための赦し――瞬間瞬間(moment-by-moment)の赦し――をも必要としている。

それにより神との開かれた交わりを持つためである。

主が教えてくださったこの祈りは、日々の生活の中で、私たちクリスチャンを非常に厳粛にせしめる。

なぜなら、私たちは他の人々を赦しつつ、ご自身との交わりの経験的リアリティーを自分たちに示してくださるよう、主に祈り求めているからである。

☆☆

「主の祈りは今の時代に向けられたものではない」と言うクリスチャンも中にはいるが、私たちの大半は、それが自分たちにも向けられていることを信じている。

しかしそうでありながらも、私たちは、自分に対する神の赦しに比べ、自分にはいかに赦しの心が欠けているかということについてほとんど考えてみようとしない。

確かに多くのクリスチャンは毎週の礼拝時、形式的に主の祈りを唱えてはいる。

しかし「なぜ自分には、神との交わりにおけるリアリティーが欠けているのか」という問いを、人への赦しに欠ける自分の姿と結びつけて考えてみる人はほとんどいないのである。

☆☆

私たちは、本来持つべき赦しの心に生きていないという事実を絶えず認識する必要があると思う。

しかし依然として祈りは、「わたしたちに負債のある者をゆるしましたように、わたしたちの負債をもおゆるしください。」である。

また私たちは相手が自分の非を認め謝罪してくるのを待つまでもなく、それ以前にすでに赦しの心を持っていなければならない。

「相手に反省の色がみられた後、あなたがたは赦しの精神をもって相手に歩み寄りなさい」とは、主の祈りは提示していない。

そうではなく、相手がまだ最初の一歩さえ踏み出すこをしていない時点で、赦しの精神を持つよう私たちは召されているのだ。

もちろん、今もって私たちは彼が悪いと言うかもしれない。

しかし「彼に非がある」と言っているその最中にあってさえ、私たちは彼を赦し、赦しつづけなければならないのだ。

☆☆

もちろん私たちは、この赦しの精神をクリスチャンに対してだけでなく、すべての人に持つべきである。

しかし、もしそれがすべての人に向けられているものだとするなら、それがクリスチャンに向けられていることはやはり重要なことだと言わざるをえない。

そのような赦しの精神は、他者に対する愛ある態度として外に表れ出る。

しかしたといそれが「姿勢」と呼ばれるようなものであったにしても、やはり依然として、真の赦しは目に見えるなにかである。

信じてほしい。――赦しに関する限り――その人の顔をみるだけで、私たちは彼が現在どこにいるのかが分かるのだ。

そしてこの世は、はたして私たちが自分の派やグループを超えた愛を持っているのか、自分の主義・陣営を超えた愛を持っているのかを観察するよう求められているのである。

彼らは私たちの内に、謝罪し、赦す精神を見い出すことができているだろうか。

繰り返して言わせていただきたい。

私たちの愛は今もこれからも完璧なものではない。

しかしそれはこの世が観察することのできる実体を持ったものでなければならないのだ。

そうでなければ、ヨハネ13章と17章で語られている聖句の構造に符合しない。

そしてもしこの世がそれを真のクリスチャンの間に見いだすことができないのなら、これらの聖句の示す二つの恐ろしい裁きを下す権利がこの世には与えられているのである。

――そう、私たちはクリスチャンではなく、キリストも御父から遣われた方ではないと。



(その7)につづきます。





その4)からのつづき。



まことの一致


ヨハネ13章と17章において、イエスは、すべての真のクリスチャンの間での、真に目に見える形での一致、実践する一致、あらゆる境界線を超えた実際的な一致について語っておられる。

キリスト者には実に二重の責務が課せられているのだ。

私たちは神の神聖さ神の愛、その両方を実践しなければならない。

神が無限にして個人的な(infinite-personal)方として存在しておられることを世に示さねばならず、それと同時に、聖さと愛という神のご性質をも表していかなければならない。

愛なしの神聖さではない。――それはただの冷厳にすぎない。

また神聖さなしの愛でもない。――それはただの妥協にすぎない。

御言葉およびキリストの教えによれば、表される愛というのは、非常に強烈なものでなければならない。

そしてそれは、時折、ただ口先だけで言うような種類のものではないのだ。


可視的な愛


それでは、この愛とは何を意味しているのだろうか。

どのようにすれば、それは可視的なものになるのだろうか。

まず第一に、これは非常にシンプルなことを意味する。

つまり、私が過ちを犯し、自分の同胞クリスチャンを愛すことができなかった時に、彼の所に言って、「ごめんなさい」と謝ることである。

これがまずやるべき事である。

「こんなに単純なことが第一のもの?」と期待外れに思った方がいるかもしれない。

しかしそれがたやすい事だと思ったのなら、あなたはまだそれを真剣に実践しようとしたことがないのかもしれない。

内輪のグループの中で、クリスチャンの集いの中で、あるいは家庭の中でさえ、お互いに対する愛に欠けていたことに気づかされる時、クリスチャンとして私たちは自動的に相手の所に行き、「ごめんなさい」と言うだろうか。

そう、もっとも身近なレベルであってさえも、それは決して容易な事ではないのだ。

☆☆

「ごめんなさい」そして「赦してください」と言う事。

こんなことは当たり前過ぎるのだろうか。

しかし実際はそうではない。

夫と妻の間であれ、親子、クリスチャンの集まり、ないしはグループ内の関係であれ、それは回復されし交わりへの道なのである。

相手に十分な愛を示すことができなかった時、私たちは相手の所に行き、「ごめんなさい、、、本当にごめんなさい」と謝るよう神に呼ばれているのである。

☆☆

私が誰かに対して過ちを犯し、しかもその彼を愛していなかった場合、そして彼に「ごめんなさい」と謝りに行くことを自分が拒む時、そんな時私は、「世の人が見ることのできるクリスチャンの一致」という意味について、考え始めることさえ未だしていないのかもしれない。

そんな自分がはたしてクリスチャンなのかとこの世がいぶかしがるのも不思議ではなく、世の人には実際、そのような疑問を抱く権利があるのである。

それだけでない。

繰り返して言うが、もし私がこんな初歩的なことの実践をさえ拒むなら、その時、世の人は、「イエスは、はたして神から遣わされたのか」、「キリスト教はほんとうに真理なのか」と疑問を投げかけて当然なのである。

☆☆

これまで多くの国で、真のクリスチャン同士の間にもちあがる相違点をめぐったいざこざを私は目の当たりにしてきた。

真のクリスチャンという個々人や群れを分裂させ、隔てているもの、――20年、30年、40年経ってもまだ癒えないわだかまりや苦々しさを残しているもの――これは、教理や信条の相違がもともとの原因ではないのだ。

そう、例外なくきまって、その原因は、愛の欠如――そして、相違点をめぐる議論のさなかで相手側の真のクリスチャンから言われたひどい言葉――にあるのだ。

そして投げつけられたそういう言葉は、私たちの脳裏にこびりついて離れようとしない。

歳月が経ち、そういった相違点がやや緩和されたかにみえる時であっても、そこには、(公明正大な話し合いの場だと思っていたあの時に)私たちが相手に言い放った、辛辣でむごい言葉の数々が依然として残っているのである。

そしてこれが――こういった愛のない態度や言葉――が、イエス・キリストの教会に悪臭を放たせ、この世はそういった「本物のクリスチャンである人々」の間に漂うその悪臭に気づくのだ。

☆☆

真のクリスチャンとして、私たちはどうしても同意できないと感じる時があるだろう。

しかしそんな時であっても、私たちは舌を制御し、もっと愛をもって語れたのではないだろうか。

そうしたならば、わだかまりや苦々しさは5年や10年のうちに消えてなくなっていたかもしれない。

しかし私たちはそうする代わりに、相手の内に傷跡を残していくのである。

――そう、何世代にもわたって続く呪いを。

そしてこの呪いは教会内だけにとどまらず、この世における呪いともなっていくのである。

☆☆

そんな私たちを見て、この世の人々は身をすくめ、そして立ち去ってしまう。

この世は、死にゆく文化のただ中にある生ける教会の始まりさえ見ていないのだ。

そしてこの世は、イエスの最後の弁証――キリストにある真の兄弟である、本物のクリスチャンの間に可視的にみられる一致――の始まりさえ見ていない。

真のクリスチャンの間に存在する相違点そのものではなく、むしろ、辛辣な舌、私たちの間の愛の欠如こそが、この世にひどいつまずきを与えているのだ。

そしてこれはイエス・キリストのまっすぐで直接的な掟からなんと隔たっていることだろう。

――そう、私たちのことをじっと見ているこの世に分かる形で、はっきりと観察されうる一致を表していきなさいというイエスのあの掟から。




(その6)につづきます。




その3)からのつづき。



「一致」に対する誤った考え


しかしこの「一致」が何を意味するのかについて、ここで明確にしておきたい。

それではまず、それに関する誤った考えを取り除いていくことから始めよう。

第一に、イエスが語っておられる一致というのは、単なる組織的一致ではないという点だ。

その古典的な例は、歴代のローマ・カトリック教会である。

ローマ・カトリック教会はこれまで偉大な外面的一致を保ってきた。

おそらくこの世界に存在してきた団体のうち、これほどの外的・組織的一致を保ってきた団体はかつて存在しなかっただろう。

しかしそれと同時に、この教会の中には、巨大にして憎悪に満ちた内部権力抗争――これが今までずっと続いてきた。

今日においても、古典的ローマ・カトリシズムと、漸進的ローマ・カトリシズムの間には相当の違いがみられる。

ローマ・カトリック教会は今もなお、組織的一致の中に立とうとしてはいるが、それは単なる組織的団結にすぎない。

なぜなら、そこには二つの完全に異なる宗教、二つの異なる神概念、二つの異なる真理概念が存在するからである。

☆☆

そしてまさしくそれと同じことが、プロテスタントのエキュメニカル運動についても言えるのだ。

イエスの言葉を根拠に、組織的に人を連合させようという試みであるが、そこに真の一致はない。

なぜなら、そこには二つの全く異なる宗教――

1)聖書的キリスト教、そして

2)「キリスト教」(しかし実のところ、これはキリスト教では全くない)



が入れ混じっているからだ。

それゆえ、組織的一致のために一生涯をそこに投資した挙句、でも実際には、イエスがヨハネ17章で語っておられる領域には全く至っていなかった、ということも大いにあり得るのだ。

☆☆

キリストがここで語っておられる一致を「組織的なもの」と解釈できない理由はまだ他にもある。

そう、ここでイエスは、「みんなの者が一つとなるため」という聖句通り、――すべてのクリスチャンが一つとならなければならないと言っておられるのだ。

この世に散らばっている新生したクリスチャン全てを含んでいる組織的一致というのはもちろん存在し得ない。

それは全く不可能な話である。

例えば、新生した真のクリスチャンの中には、どの組織にも属していない人々がいる。

また迫害によって外界から遮断された所に置かれている真のクリスチャンたちを一つの組織がいかに網羅できるというのだろう。

組織的一致というのが答えでないことは明らかである。

☆☆

また一致に関する誤った概念は他にもある。

この見解は福音主義クリスチャンがしばし自身の隠れ家としてきたものである。

彼らは言う。「イエス様がここで言っておられるのは、もちろん、目に見えない教会の神秘的結合についてですよ」と。

そして彼らはそれで一件落着とばかりに、それ以上はもう何も――もう一切何も――考えようとしないのである。

☆☆

神学的な用語にはもちろん、「可視的な教会」と、「不可視的な教会」という二語が存在する。

そして後者の「不可視的な教会」というのが真の教会(Church)であり、ある意味、唯一大文字のCで綴る権利を有する教会である。

なぜなら、それは、キリストを救い主として信じ受け入れてきた全ての信仰者で構成され、最も重要なものであるからだ。これこそキリストの教会(Church)である。

クリスチャンになり、キリストを信じた瞬間、人はこの(目に見えない)教会の一員になる。

そしてそこには他の全てのメンバーとその人を結ぶ神秘的一致というのが存在するのだ。それはその通りである。

しかしイエスがヨハネ13章および17章で言及しておられるのは、そういう意味における一致ではない。

なぜなら、目に見えないこの一致は、私たちが何をしたところで、決して壊され得ないものだからである。

それゆえ、ここでのキリストの言葉を、不可視的な教会の神秘的一致に関連づけることは、とりもなおさず、キリストの言葉を意味のない空言にしてしまうことに他ならない。

☆☆

三番目の点であるが、イエスはここでキリストにある私たちの地位的一致(positional unity)についても言及はしておられない。

もちろん、キリストにある地位的一致は存在するし、キリストを救い主として信じ受け入れた時点で私たちには、一つの主、一つのバプテスマ、一つの誕生(そして二度目の誕生)が与えられ、私たちはキリストの義を着るようになるのだ。

しかしそれはここでの要点ではない。

福音主義クリスチャンが、目に見えない教会の概念やそれに関連するその他の「一致」の概念の中に逃げ込もうとする姿勢は望ましくないと思う。

ヨハネ13章と17章の中の聖句を、ただ単に、不可視的教会の存在とだけ結びつけて考えることは、イエスの言明をナンセンスなものとしてしまう。

そう、イエスが何か可視的なものについて語っておられたと理解しない限り、私たちは事実、イエスの言っておられることをなぶり物にしてしまう結果にさえなってしまうのだ。

これが主要点である。

つまり、この世は、はっきりと観察される形での何かを根拠に、イエスが御父によって遣わされた方であるか否かを判断するのである。



(その5)につづきます。






その2)からのつづき。


最後の弁証


しかしそれ以上に深刻な問題があるのだ。

イエスはヨハネ17章において大祭司としての祈りを捧げているが、その中の一節には次のような祈りが記されている。

父よ、それは、あなたがわたしのうちにおられ、わたしがあなたのうちにいるように、みんなの者が一つとなるためであります。

すなわち、彼らをもわたしたちのうちにおらせるためであり、それによって、あなたがわたしをおつかわしになったことを、世が信じるようになるためであります。

ヨハネ17:21



ここでイエスは教会が一つとされるよう祈っておられ、この一致が特に真のクリスチャンの間に見い出されなければならないことを言っておられるのだ。

そう、イエスは一般の人間同士のヒューマニスティックでロマンチックな一致のために祈っておられるのではないのだ。

9節がそのことを明確にしている。

わたしは彼らのためにお願いします。わたしがお願いするのは、この世のためにではなく、あなたがわたしに賜った者たちのためです。彼らはあなたのものなのです。



イエスはここで非常に注意深く線引きをし、区別しておられるのだ。――すなわち、主に信仰を持った者と、未だに主に背を向けている者との区分を。

それゆえ、21節で主が一致のために祈っているその「彼らの一致」とは、真のクリスチャンの間の一致であることが分かるのである。

☆☆

しかしここで留意すべき点がある。

21節では「みんなの者が一つとなるため、、、」とあるが、興味深いことに、ここでの強調点もヨハネ13章とまったく同じところに置かれているのだ。

すなわち、一部の真のクリスチャンだけでなく、全てのクリスチャン――ある特定の派やグループだけが一つとなるようにではなく、新生した全てのクリスチャンが一つとなるよう、イエスは祈っておられるのである。

☆☆

そしてここで私たちは深刻な点に直面するのである。

21節で言っておられるイエスの言葉は、いつも私をたじろがせるのだ。

そして、一キリスト者として、もし私たちが心にたじろぎを覚えないのなら、おそらく私たちは、この問題に対する繊細な感覚にも真摯さにも欠けているのかもしれない。

なぜなら、ここでイエスは私たちに最後の弁証をしておられるからだ。

それでは最後の弁証とは何だろうか。

父よ、それは、あなたがわたしのうちにおられ、わたしがあなたのうちにいるように、みんなの者が一つとなるためであります。すなわち、彼らをもわたしたちのうちにおらせるためであり、それによって、あなたがわたしをおつかわしになったことを、世が信じるようになるためであります。



これが最後の弁証である。

ヨハネ13章における要点はこうであった。すなわち、もし個々のクリスチャンが他の真のクリスチャンたちに愛を示さないのなら、その時、この世は「あの人はクリスチャンではない」と判断を下す権利があるのだと。

しかし21節のこの箇所では、イエスはそれとは別の何か――身を切るように鋭く、さらに深遠なこと――を言っておられるのだ。

そう、「真のクリスチャンたちの間の一致」というリアリティーをこの世が目の当たりにしない限り、この世は、御父が御子を遣わされたということも、イエスの言説の真実性も、キリスト教の真理も信じないだろうということを。

☆☆

これは恐ろしい事である。この現実に直面して心にざわめきを覚えない人がいるだろうか。

しかしまたここで注意してほしい。

イエスはこれを基準に(相手がはたして本物のクリスチャンであるかどうか)クリスチャン同士、お互いに裁き合えとは言っておられない。

この点にはどうか十分留意してほしい。

教会はある人がクリスチャンであるか否かを、彼の信じる教理、信仰の命題的内容、そして真実なる信仰告白を基準に判断する。

しかしこの世に対しては、私たちはそういう判断を期待できない。

なぜなら、この世の人にとっては、キリスト教の教理などまったく重要なものでないからだ。

そしてこの傾向は、20世紀後半以降、特に著しい。

というのも、この世は自らの認識論をベースにし、この世界に絶対的真理があるという可能性さえ、もはや信じなくなっているからである。

そして、もはや真理という概念自体を信じなくなったこの世に囲まれ、私たちは生きているのである。

そうであるなら、ある人の信じている教理が正しいか否かなど、この世の誰が関心を持つだろう?そう、私たちはそんな事をこの世の人々に期待することはできない。

しかしイエスはこの世の注目を引くある一つの標をお与えになった。

それは何か?

真のクリスチャンたちが――自分の属する特定の群れや派に限定することなく――互いに愛し合うその愛、それこそが標(しるし)なのだとイエスは言っておられるのである。


正直な応答、目に見える形での愛


もちろん、私たちはクリスチャンとして、率直な問いに対する率直な答えを提示する必要を軽視してはならない。

知的な弁証というのは確かに必要である。聖書がそれを命じており、キリストとパウロがそれを例証している。

シナゴーグで、市場で、家々で、あらゆる状況下において、イエスとパウロはキリスト教について論じていた。

だからそれと同様、率直な問いに対し率直に答えていくというのはキリスト者の責務なのである。

☆☆

しかし、キリストは仰せられるのだ。

真のクリスチャンの間に互いへの愛がないなら、たとい私たちが正当な答えを提示できたとしても、この世は私たちに耳を傾けないだろうと。

だから、率直な答えを提示すべく生涯ひたすら学びだけに没頭するという態度には気を付けなければならない。

長年、正統派福音主義教会はこの点に関してしくじってきたと思う。

周囲にいる人々の持つ問いに答えるべく学びに時間を割くのはかまわない。しかし、失われたこの世に対しどのように使信を発していけばいいのかということをできる限り学んだ後も、次のことは肝に銘じておく必要がある。

すなわち、イエスが最後の弁証として与えておられるのは、真のクリスチャンの(他の)真のクリスチャンに対する「目に見える形での愛」であるということを。

☆☆

今回の中心テーマでこそないが、この世を前にした、真のクリスチャンの間の「目に見える形での愛および一致」は、人間を隔てているあらゆる境界線を乗り越えさせるものだろう。

新約聖書はこう言っている。「ユダヤ人もなくギリシヤ人もなく、奴隷も自由人もなく、男子も女子もない」と。

もしこの世が私たちの愛を目の当たりにしないなら、彼らはキリストが御父から遣わされた方であるとは信じない。

世の人々は妥当な答えだけでは信じようとはしない。

そしてこの両者は互いに相反するものとして捉えられるべきではないのだ。

繰り返し言うが、この世はその率直な問いに対する率直な答えを必要としている。

しかしそれと同時に、すべての真のクリスチャンの間に愛による一致が不可欠である。

そしてこれが、「イエスが御父から遣わされた方であり、従ってキリスト教は真理である」ということを人が知るにあたり必要とされている事なのである。



(その4)につづきます。