関東にお住まいのエレミヤ兄が『神の小屋』の詳細なレビューを送ってくださいました。


この小説に共感を覚えていらっしゃる方々に深い理解を示しつつも、さまざまな角度からウィリアム・ヤング氏のこの著作について、有益な指摘をしておられます。この場をかりて、エレミヤ兄にお礼申し上げます。




ブックレビュー




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『神の小屋』(ウィリアム・ポール・ヤング著 結城絵美子訳 いのちのことば社発行)を図書館で借りて、読んでみました。


全米で400万部、世界39ヶ国で1800万部のベストセラー。さらに映画化され、俳優石田純一さんの娘であるタレントのすみれさんが、サラユー(聖霊)役でハリウッドデビューするそうです。


映画は、今年2016年11月18日にアメリカで公開されるとの事。


いのちのことば社からの発売で、日本でも有名な牧師さんが推薦したりしています。その一方で、本書に対する批判的な声も聞いていました。


いづれにしても、1800万部も売れているということは、世界のキリスト教会に多大な影響を与えていることは、確かであり、私も祈りつつこの本を読みました。以下感想を述べます。




なぜこれほど売れているのか




はじめに、どうしても気になるのは、何故この本がこんなにも売れているのかということです。


人はだれもが、その度合いは様々でしょうが、この主人公マックのように、「大いなる悲嘆」があります。キリスト者であっても人生がすべて順調ではありません。


悩み・苦しみ・悲しみ・病気・死・人間関係のもつれ・艱難・迫害・貧困・自然災害・事故・・・・「神様どうしてですか」と心の底から呻くような叫びをあげたくなる出来事に遭遇することがあります。



ところが、クリスチャンが教会で、これらの答えを得ていないのではないでしょうか。さらに最悪なのは、「それはあなたの信仰が足りない」とか「あなたの罪のせいです」と言われ、もっと苦しんでいる人がいます。


そういう方々が、この本で、癒された、救われた、解放された、希望を見出した、と感じるのだと思います。


この本に登場する神は、あなたの名前を呼び、愛していると何度も言い、何度も抱きしめ、キスをし、微笑み、ウインクをし、共に食事をし、作業をし、散歩し、星空を見あげ、自然の美しさを楽しみ、一緒に笑い、しっかりと向き合って会話をしてくれます。


パパ(父なる神は、黒人女性として登場)が音楽を聴いたり、歌ったり、食事をつくったり、イエスはジーンズ姿で登場し、食材のはいったボウルをひっくり返したり、サラユー(聖霊 アジア系女性)はよい香りを放ち、涙をあつめてくれる。とても神様を身近に感じることができるのでしょう。


神様がとてもリアルな存在として、視覚・嗅覚・聴覚・触覚・味覚にせまります。


そして、神様との交わり、会話を通じて、マックの心の深い部分の、怒り・苦しみ・憎しみ・傷が、徐々に癒され、変えられていく姿に、読む人も励まされ、読者の抱える問題を解決にむかわせてくれる力があるのだと思います。


ソフィアとの対面で神を有罪だとしたマックが、神を信頼するものへと変えられ、祝祭において確執のあった父と和解し、愛娘ミッシーを殺した犯人を赦す・・・そんなストーリーに涙する人も多いのではないでしょうか。


もうひとつ、この本が売れている理由は、特にアメリカで、主人公マックと同じように、自分の子供が誘拐され行方不明となり、苦しんでおられる方が非常に多いという事です。


「残念ながら、ミッシーが行方不明になったあの事件のようなことは、最近ではめずらしいことではない」(P29)と本書でも述べています。


サタニストが悪魔礼拝で子供を捧げるために誘拐している、あるいはマインドコントロールをして、彼らの目的にかなう人材を養成するために組織だって誘拐をしている。そのようなことが、「多重人格はこうして作られる」(徳間書店)という本に書かれていました。このような被害者が、この「神の小屋」に救いを求めるのではないでしょうか。




問題点




しかしながら、この本は、様々な問題があると思いました。


神様を第一とするのではなく、神様をすべてとせよ、神様を信頼すること、神様との関係を大切にすることを薦めています。これは正しいでしょう。


けれども本書に描かれている神様が、聖書が教えている神様と同じかというとそうではありません。そこが問題です。


また本書には、読者を、聖書のみことばから遠ざけようとしている意図が感じられます。


「父は酔いが醒めるたびに酒瓶を置いてマックをベルトで打ちすえ、聖書のことばを投げつけた。」(P7)


「神学校では、現代においては神が人間とそのような直接的なコミュニケーションをとることはなく、むしろ人間はただ、適切な注釈とともに聖書を読んで、それに聞き従うことが求められていると教えられた。神のことばは聖書の中にのみ閉じ込められ、その聖書もしかるべき権威と知識によって吟味され、解釈されなければならない。」(P86)


「神学校で習ったことなどまるで役に立たない。」(P121)




と、このようにマックに言わせ、聖書・神学を否定的にとらえようとしています。


「聖書をほんの二節読んだところで、だれかが彼の手から聖書を取り上げ、部屋の電気を消し、頬にキスした。」(P157)




これは、小屋に来て、一日目の夜、マックが部屋にもどったところの記述です。まるで、聖書を読んでも仕方がないと主張している感じです。


「神の小屋」は小説(空想話)であって、その神学は論じるべきではないと考える方もいらっしゃるかもしれませんが、クリスチャンであれば、聖書のみことばをもって、吟味・識別するのは当然だと思います。


気になった箇所をいくつか挙げてみたいと思います。



十字架について


「彼は十字架を通して、自分自身を完全にあたしの手にゆだねる道を見出したんだよ。ああ、あれは最高の瞬間だったね。」(P130)


「ああ、大したことじゃないよ。ただ、世界が造られる前から愛がそうしようと決めていたことのすべてさ。」(P276)


「イエスは十字架の上で何を成し遂げたのかって聞いたね。いいかい。よくお聞き。彼の死とよみがえりを通して、あたしは今、世界と完全に和解することができたのさ。」(P277)


「息子よ、私はおまえを辱めようとしているのではない。おまえに恥や罪悪感や非難を与えるつもりはないんだよ。そんなものは、完全な義のためには何の役にもたたないからね。だからこそイエスはそういうものを十字架に釘づけにしたんだ。」(P321)




イエス様の癒し


「人間としてのイエスの中には、誰かを癒す力はなかった。」(P135)



赦し


「マック、私は神だ。何も忘れたりはしないよ。それにすべてを知っている。だから、私にとって赦すとは、自分に敢えて制限をかけることなのさ、息子よ。」(P322)


「イエスにおいて、私はすべての人間を赦した。」(P323)







「あたしは罪のために人間を罰する必要はないのさ。罪はそれ自体が罰になる。・・・あたしの喜びは、罪に蝕まれた人を癒すことなんだよ。」(P163)




仕える神


「仕える神、か」「うん、これこそ本当に神だ。-僕に仕えてくださる方―」(P339)




男性と女性


「僕たちは男性と女性を、異なる機能を持つ同等のパートナーとして造った。対等に向かい合い、それぞれに個性と違いがあり、性差があり、互いに補い合う関係で、それぞれが個別にサラユーから力を与えられる存在として造ったんだよ。」(P207)


「地球は女性に治められたほうがもっと穏やかで優しい場所だったろうね。」(P206)




三位一体


「私たちの間には最終権限というような概念はないの。あるのは一致だけ。私たちの関係は輪のようなもので指揮系統とか・・・・ないのよ。・・・私たちの間ではヒエラルキーなんて意味をなさないわ。」(P167)



夢・神話


「夢っていうのはほら、時々とても大切な役割を果たすからね。心の窓を開いて、中の悪い空気を外に出してくれたりするのさ。」(P161)


「栄光を伝える話というものは、人が神話やおとぎ話だとしか思っていないところに隠されていることもよくあるのよ。」(P184)




宗教・政治・経済・その他


「僕は宗教があまり好きじゃないし、政治も経済もすきではないね。・・・その三つは人間が作り出した三位一体で、地球を荒廃させ、僕の大切な人たちを欺く・・・」(P256)


「聖書はルールを守るようになんて教えてないわよ」(P284)


「人間は、生き生きとして恵みに満ちている動詞を、いのちのない名詞やルールという悪臭を放つ原則に変えてしまう・・・」(P294)


「聖書には責任ということばがないのよ。」(P295)


「イエスにおいて、あなたは律法から解放されているんだから、すべてのことは合法よ。」(P292)




擬人化


本書では、神様を擬人化して登場させている。これ事態、私は好まないが、父なる神様を女性として登場させる(最後は男性になる)のは非常に違和感を覚えます。


またソフィアなる女性(パパの知恵を人格化した存在P243)を登場させている。おそらくは箴言2章の「知恵」を擬人化したと思われます。





おわりに



最後にもう一つ警鐘を鳴らします。


この本で恵まれた、癒された、救われたと感じたキリスト者に、襲い掛かる危険があります。それは、既存の教会に対する不満の思いに駆り立てられる罠です。


「マックは「神」や「宗教」にうんざりしていた。」(P87)


「うんざりするほどたくさんの奉仕活動でもなく、あれもこれもときりがないほどの要求でもなく、知りもしない人々の後頭部を眺めながら延々と座っているいつ終わるともしれない集会でもない。」(P254)


「宗教的な組織っていうのは人をのみ込んでしまうことがある。」(P255)


「あなたは教会のことをあなたの愛する女性にたとえたけど、僕はそういう教会に出会ったことはないと断言できる。」(P253)




本書は、既存のキリストの教会の制度や権威について否定的であり、既存の教会に対する不満を生み出す悪い種のように感じました。


この本の信奉者があらわれ、教会を荒らさないように祈ります。私が感じたことが、いらぬ心配であればと願っています。


本書を読んだキリスト者が、「単に小説としておもしろかった。」と思うのではなく、この小説のどこが問題なのかを、見分けることが出来るようにと祈ります。


それにしても何故いのちのことば社から、このような本が発売されたのでしょうか。いのちのことば社の働きのためにも、祈りたいと思います。




―レビューおわり―







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James B. De Young, 'Burning Down the Shack' Exposes Greatest Deception to Blindside the Church in Last 200 Yearsより一部引用




。。ジョン・バンヤンの『天路歴程』が世に出されて330年ほど経ちますが、現在、メディアは、神のご性質についてどのような描き方をしているのでしょうか。


現代映画は、神を人間の姿・形として描き出し、そのようにして主のご人格を貶めています。


またキリスト教音楽界は偶像礼拝的な要素を含むようになり、偽神学者たちは、イエスさまを、「誰の気分も損なわないタイプの」ソーシャル・ワーカーに仕立て上げようとしています。


メディアというのは、私たちの社会にあって、最大の善のために用いられる場合もあれば、その逆に、最大の悪の普及のために用いられる潜在性を持っているといえましょう。


☆☆


現代フィクションもまた、神のご性質の何たるかについて人々に教え込む道具として用いられています。


あるクリスチャン作家たちは、神についての非正統的な像をこの世に打ち出していますが、それはなぜかと言いますと、彼らが主なる神を、「審判の神」として認めることを拒絶しているからです


イマージング運動のブライアン・マクラーレン氏は、その線で三部作を書いておられますし、ウィリアム・P・ヤング氏の『神の小屋』もまた、多大な影響をもたらしています。


マクラーレン氏もヤング氏も共に、小説を、自らの「神学表現」として用いています。つまり自らの信じる教義を読者に教えることが、これらのフィクションの目的なのです。


ですから、これらの小説のジャンルは、「神学的フィクション」ということになると思います。そしてその意味では、バンヤンの『天路歴程』もまた、この類型に入ると言わなければならないでしょう。


しかしながら、ヤング氏の小説の中で奨励されている神学は、バンヤンのそれとは対照的に、かなり問題を含んでおり、正統的な立場を逸脱しています。




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『天路歴程』(1678年)



。。主人公のマックは甚大な喪失に苦しんできました。娘が殺されたのです。しかしながら、著者は、マック自らが――悔い改めと告白を通して――変えられるというよりは、むしろ、彼の神理解を変化させることによって、マックを、こういった葛藤や絶望や反抗から救い出そうとしています。


そしてこの小説の問題点はまさにここにあるのです。


福音主義教会(福音派/カリスマ・ペンテコステ派)は、神のご性質において――聖さと愛の間には等しくバランスが保たれている――という理解を保持していますが、ヤング氏は、その神理解から離れておられます。


そしてユニバーサリスト的(万人救済論的)な神理解をするに至っておられます。


ユニバーサリスト的神理解の中では、愛こそが至上のものであり、(神の)裁きや聖潔といったものは、神の愛と対立するものと考えられています。


またバンヤンとは裏腹に、ヤング氏は、未来において神の審判があること、そして神が罪を罰せられるということを否認しておられます。


キリスト教小説や映画といった分野は、ここ200年余りに渡り、プロテスタント教会の弱点を打つにあたっての最大の惑わしとなってきている――これは決して誇張ではないでしょう。




―引用おわり―




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Is Truth Really Plural? Postmodernism in Full Flower





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執筆者:アルバート・モーラー(南部バプテスト神学大学 学長)






ポストモダンからの挑戦のまさに中核部分に、「真理についての問い」というのが立っています。


人間思考における重大なシフトというのは、肯定的な要素、そして否定的な要素、その両方を包含しているのが常ですが、ポストモダニズムもまたその例外ではありません。




肯定的な面



肯定的な面でいえば、ポストモダニズムの差し出す一般的〈世界観〉というのは、私たちに、「自分たちが文化的・言語学的諸システムの中に深く根付く存在であり、そういったシステムが私たちの考え方を形成し、影響を与えるものである」ということを気づかせてくれます。


さらに、ポストモダニズムは、認識論的な私たちの驕りに反省を促し、矯正する機会をも提供するかもしれません。――「認識論的な驕り」とは、自分たちの思考や真理の宣布において、早まった断定をしてしまう傾向のことを指します。





否定的な面



その一方、ポストモダンのネガティブな側面でいえば、これは往々にして、真理というコンセプトそれ自体を転覆させ、破壊し得るものです。


実際、どんな客観的な形であれ、真理を拒絶するという行為は、ポストモダニズムがキリスト教信仰に突きつける甚大かつ最も深刻な挑戦の一つだと言っていいでしょう。


もちろん、こういった挑戦からなされる問いは、健全かつ忠実な認識論的へりくだりへと私たちを導く場合もあり得ます。


しかしながら、ポストモダニズムがもたらしている、より一般的(かつ危険な)影響は次のようなものです。


――つまり、これは実に巧妙に、私たちの内に、非常に危険な形での「認識論的へりくだり」を植え込もうとしています。


そしてその影響下に入った人々は、とどのつまり、真理というのを私たちは知ることができないのではないかという不信に陥りがちなのです




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近年、ジョン・R・フランケ氏(ペンシルベニア州ハットフィールドにあるBiblical Theological神学校の教授)は、こうしたポストモダン世界観の主唱者の一人として、活躍しておられます。




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イマージング・チャーチ運動の重鎮として、フランケ氏はまた、現代福音主義に対し、無視することのできない重要な批判を提出しておられます。


新刊書 Manifold Witness: The Plurality of Truthにおいて、フランケ氏は、ポストモダン論をさらに前面に打ち出し、「真理を理解する」という点で、全く新しい方法を提供しようと試みておられます。


彼の主張によれば、真理というのは、生来的に複数形のものだ(inherently plural)というのです。




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キリスト教は多元論者か?




フランケ氏は、次のように説明しています。


キリスト教信仰における多様性というのは、『克服されるべき問題』という風に捉える必要はありません。


その反対にむしろ、こういった多様性というのは、――この世における神のかたちとしてみからだとしての――キリスト教会のために備えられし「神による聖意図」の一つなのです。


ですからキリスト教における多様性というのは良いものであり、葛藤しつつ克服すべき何かではないのです。





これはまことに驚くべき主張です。実際、フランケ氏は、「多元主義を受容する」という彼のその行為自体が、「彼自身のポストモダン文脈の所産である」ということを自覚しているわけです。


前世代のクリスチャンは、多元主義的な真理の主張・教義的信条・神学システムといったものに対しては、これらを「挑戦」と受け止め、それらの真理に対する説明や識別を求めていました。


しかし、今や、フランケ氏は、それを、受容されるべき条件として捉えているのです。


☆☆


「初期プロテスタント教会は、多様性で特徴づけられていましたが、だからと言って、プロテスタント教徒が多元主義者であったという訳ではありません」と彼は譲歩して言っています。


「ええ、彼らはそうではありませんでした。彼らはローマ・カトリック教会に対抗し、一つのまことなる教会を打ち建てようと献身していました。


彼らはキリスト信者となるべくただ一つのまことなる道、聖書を読むただ一つのまことなる読み方、ただ一つのまことなる教理体系、ただ一つのまことなる実践体系に献身しようとしていました。」


しかしイマージング・チャーチ運動はそうではありません。この運動は、「多元性によって特徴づけられています。」と氏は言います。


そして、歴史的プロテスタンティズムとは対照的に、「それは、クリスチャン・コミュニティーの適切かつ必要な明示として多元性をも肯定しています。」


それゆえ、彼らにとって多元性というのは、「反対されるべきものではなく、むしろ、求められ称賛されるべきものなのです。」


そこから、イマージング運動のコミュニティー・サイト(the Emergent Village Community)の「――オーソドックス、ローマ・カトリック・プロテスタント・ペンテコステ・アナバプテスト――あらゆる形態における教会を尊び、それに仕えていく」という標語も生み出されていったのです。




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著書の中で、フランケ氏は、ポストモダニズムおよびその真理理解についての見事な論評を書いておられます。


また、彼は往々にしてクリスチャンの犯しやすい「軽率な仕方で真理を語ること」についても踏み込んだ考察をしておられます。そして彼の主題的言説の多くは、力強く有益なものです。


また、私は次に挙げる彼の勧告にも同意しています。


イエス・キリストのロードシップに献身しているキリスト者は、文化的相対主義を黙認すべきではありません。


この文化的相対主義というのは、究極的ないしは超越的真理という概念を破棄するものだからです。


しかし私たちはそれと同時に、次のような真理の概念を受容する誘惑にも抵抗しなければなりません。


つまり、――それらがあたかも批判を受ける対象にはなり得ないかのように――自分自身の観念や、前提や、願いなどから偶像をこしらえてしまうような、そんな種類の真理の概念です。








三位一体の神は、多元主義者?




ここまでは、私も多いに賛同しています。


フランケ氏はまた、白人の西洋福音主義クリスチャンに対しても真実にして預言的な警告を出しています。


曰く、私たち自身の文化的文脈が自分たちの考え方や信条を形作っており、福音よりも自分たちのそういった文化的前提を、「キリスト教メッセージ」だと断じる誘惑に気を付けなければならないと。




問題点




しかしながら、フランケ氏の主張の勢いは、そういった警告の域をはるかに超えるものです。


真理の多元性を主張する過程で、彼は、この多元性を、神の属性そのものの中に根拠づけようと試みているのです。


三位一体の神の社会的理解を強調しつつ、彼は、「多元性というのは、神の中にさえも存在している」と主張しています。


そして次のような説明を加えています。


違いというのは、ミッショナルな愛の交わりの中に生きていた御父・御子・御霊という神のいのちの一部なのです。





もちろん三位一体は実に深遠なものであり、人間の創造や知識を超えるものです。


それにも関わらず、聖書は、三位一体の神の「一致(unity)」を啓示しており、それを決定的なものとなしています。


何世紀にも渡り、忠実なキリスト者たちは、御父・御子・御霊の間の一致についてのこうした聖書の啓示を尊守してきました。


それにもかかわらず、フランケ氏は、「神の命の中にあっては、異なるものの経験であり、それは同じものではないのです」と主張しています。



☆☆


フランケ氏は神がご自身を被造物に啓示されることを認めてはいますが、それと同時に次のような主張もしています。


「神は、有限な性質を帯びた被造的な媒介を通して、ご自身を啓示されることを選んでおられる。」


換言すれば、聖書の中の実際のテクスト(聖句)には、被造的な諸限界が含まれているというのです。


「啓示を担うものとして神がそれらをお用いになるとしても、依然としてそういった諸限界はその場に残り続ける」と氏は言います。


そのため、彼の聖書理解には、福音主義的確信が絶望的に抜け落ちる結果となっています



☆☆


さらに氏は、「聖書は、聖霊が今日の教会を導く上での原則的手段です」と認めつつも、「御霊の語りかけは、聖書記者たちの元々の意図だけに縛られている訳ではありません」と言っています。


そしてポストモダンのテクスト理解およびその解釈法を用いつつ、こう述べています。


聖句を通した御霊の語りかけというのは、どういう意味かといいますと、聖書記者の意図は大切な要素でありつつも、それだけが大事な要素ではないということです。


それは御霊の語りかけの豊満性を表していません。なぜなら、それはいつも、読み手の応答を含むものだからです。




聖書を読むことにおける私たちの目標は――組織的に整備された主張をもち、それらを唯一の妥当な解釈的格子であるとみなしつつ――聖句の真の意味を体系化しようとするような試みではないということです。


そういったアプローチは、絶対主義的な方法や主張をもって神学や解釈学に接する人々の間に特徴的です。


そしてこういった人々は、そういった手順により、唯一のまことにして打倒な聖書教理の概念に辿りつくことができると考えています。


しかしここでの危険は、そういった手順が私たちの聖書読解を妨げ、新しい諸方法で御霊の語りかけを聞くことを困難にし得るという点です。





これは何を意味しているかと言いますと、私たちは実際には、聖書の御言葉に拘束(bound)されてはいないということです。


その代り、教会は御霊により頼みつつ聖書に取り組み、そしって御霊によって共同体が「新しい理解」に導かれるようにしなさい、ということです。


こうして、イマージング教会は、聖書の実際の御言葉や命題的言明に対する説明責任から「自由に」されているのです。


そして共同体は、「聖霊によって、今までとは違うこういう新しい聖書理解に導かれたのです」と言いさえすればよくなるのです。






新しい鍵をもった神学的リベラリズム



もちろん、上記のような主張こそまさに、プロテスタントのリベラル主義者たちが過去2世紀に渡って繰り広げてきた議論に他なりません。


フランケ氏は、そういった従来のリベラル派の主張に、ポストモダンの概念と言葉をつけ加えているわけです。


こうして、――極端な個人主義を帯びつつポストモダン主義によって洗練された――この新しいリベラリズムは、今や、共有されたコンテクストの中で神学的修正論を打ち立てようとしています。


そしてその結果はまた同じです。


そうです、それは聖書的キリスト教の転覆・破壊に他ならないのです。


もちろん、フランク氏をはじめとするイマージング陣営の人々は、こういう批判を聞いて気分を害されることでしょう。


実際、「歴史的キリスト教」やクリスチャンであるために信ずべき「最小限の信仰告白」でさえも、その有用性に疑問を投げかけているフランク氏でさえも、次のようにはおっしゃるでしょう。


「ええ、もちろん、私は真理を信じていますよ。神の存在を信じていますし、イエス・キリストが神の子であることも信じています。また聖霊、聖なる公同の教会、聖徒の交わり、罪の赦し、からだのよみがえり、とこしえの命も信じています。アーメン」と。


しかしながら問題はこれです。


つまり、「真理は多元的なものである」とするフランケ氏の主張が意味するところは、とどのつまり、教会は、さまざまな異なる――そして互いに矛盾さえしている――教義の説明や根幹真理をも受容し、それらを喜受しなさい、ということに他ならないわけです。


もちろん、「どんな神学的システムといえども、文化的限界から自由ではない」というフランケ氏の警告はたしかに的を射たものだと思いますが、彼の提言は、教義的説明責任(doctrinal accountability)に対し、完全にして無条件なる降伏を意味しているのです。


彼は「すべての教義的主張が許容可能であるとは言えない」とは言いつつも、真理と誤謬の間を見分けるための規範としての聖書の権威を軽んじ、弱めています。





おわりに



19世紀、20世紀のプロテスタント自由主義者たちは、時として、傾聴に値する批判を出すこともありました。


にもかかわらず、聖書的真理に対する彼らの破壊行為や、正統信仰よりも異端を受容するというような彼らの姿勢は、結局、こういった神学的リベラル主義者たちを、聖書的キリスト教とは似ても似つかない宗教の支持者としてしまったのです。


そして今や、イマージング・チャーチ・ムーブメントの先導者たちもまた、それと全く同じコースを辿りつつあります。


Manifold Witnessは、興味深い本ではありますが、フランケ氏の提言は、神学的惨事を招くものです。


そしてこの本において、新しいポストモダンの形をとった神学的リベラリズムの姿が私たちの前に、はっきり表されているのです。




ーおわりー





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恭順というのは、権威に関することではなく、従順でもない。

それは愛と尊敬の関係についてのこと――これに尽きるのだ。


ウィリアム・P・ヤング





上の引用句は、『神の小屋』の著者ウィリアム・P・ヤング氏によるものです。


イマージング運動の流れを引く、このクリスチャン小説については昨年、みなさんとご一緒にみてまいりました。



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親愛なる読者のみなさんへの注意喚起メッセージ。イマージング運動の流れを引く『The Shack』が『神の小屋』という邦訳名で出版されました。


『神の小屋 The Shack』書評―失われつつある福音主義クリスチャンの識別力 byアルバート・モーラー(南バプテスト神学大学 学長)



それから、下はイマージング運動についての検証記事です。



押し寄せる「イマージング・チャーチ・ムーブメント」という波


イマージング・チャーチ・ムーブメント――福音主義教会における新しい波(スティーブン・W・コーネル師)


写真とキーワードでたどるイマージング・チャーチ・ムーブメント





冒頭の句で、ヤング氏は、次の三点を主張をしておられます。


)恭順というのは、権威(εξουσια)に関することではない。

)恭順というのは、従順(υποταγη)でもない。

)恭順というのは、愛と尊敬、これに尽きる。




しかし、はたして氏の意見は、聖書の教えに基づいたものでしょうか。


この発言は、『神の小屋』の中で、「イエス」が、三位一体の神のことを説明する際に出てくる一文ですが、文脈の中で考えるために、下にそこのパラグラフを書き出そうと思います。




「イエス」が主人公のマックに言うセリフ


これこそ、パパ(御父)およびサラユ(聖霊)と私(イエス)の関係にある美しさなんだ。


私たち[三位一体の神]は、実に、お互いに対し恭順の関係にあるのだ。これまでもずっとそうだったし、これからもそうだ。


「パパ」(御父)は――私(イエス)が「パパ」に従っているのと全く同じように――私にも恭順している。


そしてそれは「サラヤ」(聖霊)のわたしへの恭順、「パパ」の「サラヤ」への恭順においても同じなんだ。


恭順というのは、権威に関することではなく、それは従順でもない。それはただ、愛と尊敬の関係なんだ。


事実、わたしたちは、それと同じ仕方で、あなた(という人間)に恭順しているんだよ




三位一体の神の間の、「お互いに対する恭順」という教え、それから、三位一体の神が、被造物である人間に恭順しているという理論は、神学的導入の中でも、最も極端にして危険な種類のものだということを、南バプテスト神学校のアルバート・モーラー師も指摘しておられます。


こういった奇妙な三位一体論から、ヤング氏は、奇妙な「絶対平等・相互恭順論」を引き出し、それを夫婦関係や、親子関係などにも適用しておられます。


そして、注目すべきことに、それは福音主義フェミニズムの「権威論」や「三位一体論」ともかなりオーバーラップしているのです。註1





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こういった独特の「相互恭順論」をベースに書かれた、ウィリアム・P・ヤング氏の新作「Eve







おわりに




先日、私たちは、

「かしら(head,κεφαλή)の意味は「長 "authority"」ではなく、「源 "source"」だった?―フェミニスト神学への応答」




という記事の中で、現代の世俗イデオロギーが、福音主義教会に侵入しつつ、主なる神および、神のお立てになった諸権威に刃向かい、さまざまな働きかけをしている事実について、みなさんとご一緒にみてきました。


イマージング運動、フェミニズム運動、、、名称や詳細こそ違え、それらが、神や聖書の権威、ならびに、神のお立てになった諸権威を、卑小化して見る方向に人々を向けさせていることは確かだと思います。


それにしても、なぜこれらの運動は、神の権威を卑小化(あるいは「もやもや化」)させようとしているのでしょうか。


それは、神の権威や秩序がクリスチャンの間で軽んじられれば軽んじられるほど、そして歪曲されればされるほど、それを痛快に思っている〈ある存在〉が、これら一連の動きの背後にいるからです。


〈ある存在〉――すなわち、全世界を惑わしつつあるあの古い蛇(黙12:9)――は、そうすることにより、いよいよ惑わされた人々の間に、確固とした自らの「権威」を打ち立てることができるからです。


主よ、どうか私たち一人一人をサタンの巧妙な惑わしから守ってください。そして今までにも増して、私たちに真偽を見分ける識別力をお与ください。





註1

「三位一体の神は、互いに服従し合っている(つまり、御父も御子に服従している)ため、御子との関係において、御父には権威がない」という主張が、Stanley Grenz氏をはじめとするフェミニスト神学者の側からなされています。

詳しくは、以下の論文をご参照ください。


Wayne Grudem, Evangelical Feminism and Biblical Truth (10章3項の部分)

Wayne Grudem, “The Myth of Mutual Submission as an Interpretation of Ephesians 5:21,” in Biblical Foundations for Manhood and Womanhood (この本のp 221–31の部分)

Jason Hunt, Authority & Submission in God's Image - Monergism

Andy Naselli, How the Trinity Relates to the Roles of Husbands and Wives





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今日、真理は余りにも曖昧にされている。、
その一方、数々の嘘が、頑丈にも打ち建てられている。

だから、私たちが努めて真理を愛そうとしない限り、
真理はけっして見いだされないだろう。
パスカル(1623~1662)





聖書の教えを擁護する勇士たち

――ポストモダン時代におけるキリスト教弁証



アルバート・モーラー師



“You Are Bringing Strange Things to Our Ears”: Christian Apologetics for a Postmodern Age



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Albert Mohler 南部バプテスト神学校 学長



人類史におけるこの重要な転換期に、今日私たちクリスチャンは、キリストのために立ち上がるよう召されています。


現在、真理についてのリアリティー自体が否定されています。

ポストモダンの現代人は、「それがはたして真理であるか否か」ではなく、ただ単に「それに意味があるのか否か」で物事を判断するようになっており、あたかも新しいトレンドの服を追うように、迅速かつ手軽に世界観を変えていっています。

このように非常に不可解な時勢にあって、私たちクリスチャンは自分たちの信仰を証し、また擁護していくよう召されているのです。

伝道というのも困難です。

なぜかというと、ほとんどの人が、「自分の根本的問題は、セルフ・イメージの低さにある」と思い、「個人的選択というものこそ、市場(marketplace)において全てを決定するリアリティーだ」と考えているような時代に私たちは生きているからです。

また、「教えの擁護(apologetics)」という責務も、こういう状況下にあって、複雑なものになっています。

というのも、真理に関して、どんな決断をも下したがろうとしない人々を前に、いかにして信仰を擁護していくことができるというのでしょう?

☆☆

非常にリアルな意味において、信仰の擁護は今、厳しい局面に立たされています。

リベラル諸教派は、モダニティーをすっかり迎合し切っている状態にあるため、実質上、彼らにはもはや「守るべき・擁護すべき」何ものも残っていないのです。

また「ポストモダニズム」はリベラル諸教会にとって、とっておきの贈り物となっています。

なぜなら、これにより、彼らは、――誰かの気分を害すというリスクを犯すことなしに――しかも、なにか大切なことを言っているかのような風をきかせることができるという、新しい方法を得ることができたからです。

☆☆

こういったポストモダンの状況を前に、福音主義クリスチャンは戸惑いを覚えているようにみえます。

ある人々は、これを新しい好機と捉えています。曰く、これこそ啓蒙主義的〈合理性〉の終焉なのだと。

また別の人々は、これを新しい世紀のためにドレスアップしたモダニティーに過ぎないとみなしています。

どちらにしても、ともかく弁証の任務が、以前よりも、より入り組んだものになっているというのは確かでしょう。

☆☆

何世紀も前、弁証のために立ち上がった巨人たちが、この地を歩いていました。

アタナシオス、アウグスティヌス、エイレナイオス、キプリアヌス、ミラノのアンブロシウス、カンタベリーのアンセルム、テルトゥリアヌス、クリュソストモスなどは、キリスト教護教のために人生を捧げ切った人たちです。

また、中世のカトリック教会にもトマス・アクィナスのような人がいましたし、もちろん宗教改革者たち(ルター、カルヴァン、ツヴィングリ、ノックス等)がいます。


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John Knox


米国においても、ジョナサン・エドワーズ、J・グレシャム・メイチェン、カール・F・H・ヘンリー、フランシス・シェーファーなどがいます。

こういった人々は、臆さずひるまず、教えの擁護のため、そして真理の宣布のため奮闘した弁証家でした。



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[イエス・キリストにより]救われた私たちにはもはや一つの召命しかない。
それは神の存在とご性質を[この世に]示し顕していくこと――それのみである。
―シェーファー




また彼らには相当数の敵対者もいました。

かの有名な懐疑論者デイビッド・ヒュームがかつてジョージ・ホワイトフィールドの早朝伝道集会に姿を現したことがありました。



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デイビッド・ヒューム(1711-1776)


ヒュームの姿に気づいた一人の聴衆が彼をたしなめ言いました。

「あなたは確か無神論者のはずですが、、」

ヒュームは答えました。

「ああ、そうだ。私は無神論者だ。でもな、私はこの男(=ホワイトフィールド)が神を信じているということに関しては確信を持っているんだ。」



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まず私は、他のすべての書籍を横にうちやります。そして膝の上に聖書を置き、読み始めます。

聖書を読む際、可能なら、すべての節、すべての語を祈りの内に読んでいきます。

そうすると、聖句は真にわが魂の肉となり、飲み物となっていきます。

こうして私は日々、新鮮ないのち、光、そして力を上より受けてきました。

―ジョージ・ホワイトフィールド(1714 –1770)





☆☆


近代性からポスト近代性への移行は、「美しいもの」ではありませんでした。

とどのつまり、相対主義というのは、「否定」以上にもっと有害な敵なのです。

というのも、相対主義というのは――意味においては無限の形状を許容してはいても――結局、真理の可能性自体を否定するものだからです

それがゆえに、弁証のタスクはさらに困難なものとなってきています。

☆☆

前近代の時代には、「いったいどちらの超自然的主張が正しいのだろう?」というのが議論の焦点でした。

近代に入ると、そもそもの前提が、「超自然的な主張は何一つとして正しくない」に変わりました。

それが今度は、ポスト近代という、空気のような靄の中にあっては、「どんな超自然的主張であっても、それは正しいのでしょう。――それが正当化されようが否が。」になってしまいました。

ポスト近代にあっては、真理に対するいかなる主張といえども、それは絶対的でなく、普遍的でもなく、また排他的でもないのです。

☆☆

おかしく聞こえるかもしれませんが、そうなると、クリスチャン弁証家たちは、啓蒙的あの合理主義時代にノスタルジーさえ感じるのです。

あの時代には、正直・大胆かつストレートにキリスト教を否定する人たちがいて、私たちはそういう人々に真っ正面から向き合うことができたのです。

まことの無神論者というのは、少なくとも自分が何を否定しているのかちゃんと知っています。

ポスト近代の「まあ、何でもいいんです」というきざな態度は、「神は死んだ。私たちが神を殺したのだ」というフリードリヒ・ニーチェのあの大胆不敵な主張の前に力なく見劣りしています。

空虚でぼんやりしたポストモダンの相対主義思考は、こうして麻痺状態を起こしているのです。

☆☆

これは神学的リベラル主義者の仕事もやっかいなものにしています。

かつてのルドルフ・ブルトマンの〈非神話化〉(*聖書から神話的要素を取り除くとする解釈法。超自然的なものの否定。)は、現代文化にあっては、〈超・非神話化〉に取りかわっています。

こうして私たちは、西洋文明の「再異教化(re-paganization)」をこの目で見ています。

古い異教カルトが息を吹き返し、新しいカルトも栄えています。

☆☆

「キリスト教弁証の時代は終わった」とある人々は言います。

しかし私はみなさんにあえて申し上げます。

――今ほど、そういった弁証や擁護が差し迫って緊急に求められている時代はないと!

実際、文化的・思想的移行がなされているこの重大な時期において、クリスチャンの働きは、弁証的な召命として理解される必要があるのではないかと私は思っています。

キリスト教弁証――キリスト教の真理を提示し、クリスチャン信仰における唯一無二の真実性を訴える任務――は、ポストモダン時代における主要な働きとならなければならないでしょう。

☆☆

これは何を意味するのでしょう。

そうです、私たちは「キリスト教弁証」という働きを、神学校での履修科目の一つ、ないしは、書棚に飾る本のように扱ってはいけないということです。

私たちの世代におけるイエス・キリストの大宣教命令は、弁証的働きが伴わなければならないと考えます。

福音の証しは、真理の擁護によって補強される必要があります。

個人的伝道にはまた、文化的機敏さも要求されてくるでしょう。

世界宣教の任務を考える時、私たちは自分たちが今、「世界観をめぐる戦争」のただ中に置かれていることを自覚せずにはいられないのです。



ーおわりー



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キリスト教の世界観は――、

ダウン症の子どもの顔の方が、
ファッション雑誌の表紙を飾っている
エアブラシで細工したモデルよりも、
限りなくずっと美しいということを
主張してやまないのだ。

アルバート・モーラー









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昨日、The Shackが『神の小屋』(いのちのことば社)という邦訳名で出版されたことと、その本に関するアルバート・モーラー師の検証記事をみなさんにご紹介しました。

すると私の予想していた以上に反響があり、読者のみなさんの多くがこの問題を真剣に考えておられることを知りました。


〈新しい神様〉 


22歳のクリスチャンの女の子(米国)が、『神の小屋』を読んだ後、感動を抑えきれず、お母さんの元に駆け寄って、こう言ったそうです。

「ねぇママ!これまで信じて来た〈古い神様〉にサヨナラして、この〈新しい神様〉と結婚してもいい?」

この子は鋭くも、『神の小屋』の中で描かれている神が、これまで信じていた聖書の神とは本質的に違う〈新しい神〉であることを見抜いたのです。

そしてこの〈新しい神〉の虜になったのです。


新しい神――絶対に裁かず、罪を罪として指摘せず、従順を要求せず、人間に対して恭順で、何でも、どんな考えでも「うん、うん」って受け入れてくれる神。甘くやさしく「クールな」癒し系の神。



『神の小屋』、もろ手を挙げて歓迎される


私にとって(そしておそらく読者のみなさんにとっても)ショックなのは、この本が、福音主義教会を代表するリーダーたちにより大々的に推薦され、広められていることです。

以下、私は自分が集めた資料を基に、その事実を列挙していきます。

私がこれを列挙するのは個人を攻撃するためではありません。

そうではなく、私たちの乗っている福音船が、今どのような状況に置かれているのかということを悟り、ますます「心を引き締め、身を慎み」(1ペテロ1:13)、「すべてのことを見分けて、ほんとうに良いものを堅く守り」(1テサ5:21)、「目をさまし」「死にかけているほかの人たちを力づける」(黙3:2)ためです。

特に私は最後のこの「力づける」の部分を強調したいと思います。

私たちは皆、この地上にあって旅人であり、信仰の仲間ですから、私たちは自分に与えられているもの全てをもって、仲間を励まし、必要な情報を提供し、共に地上のレースを全うできるよう助け合うことが求められていると思います。


事実


『神の小屋』を公に推薦している著名人の一例:

ー700Clubのパット・ロバートソン
ー代表的なCCM歌手マイケル・W・スミス、
ーマーク・バターソン(ワシントンDC)、
ーウェイン・ジャコブソン(イマージング、著者ヤング氏の協力者)、
ーガイル・エルウィン、
ージェイムス・ライル(ヴィニヤード教会)、
ーグローリア・ガイサー
ーグレッグ・アルブレヒト(Plain Truth誌の編集長)

ーパーパス・ドリブン・コネクション誌(この中で「『神の小屋』は注目すべきベストセラー・クリスチャン小説」(p24)と言及されています。)

ーフランク・ヴィオラ(イマージングの代表的指導者)
ーレオナルド・スウィート(イマージングの代表的指導者)

ーユージン・ピーターソン(リージェント・カレッジ教授、The Messageバイブル著者)

(以上、情報源:ココ)  

―また2013年3月、クリスティアニティ・トゥデイ誌が著者ヤング氏とのインタビュー記事を掲載しましたが、そこでもこの本は肯定的に取り扱われています。(“The Love Shack,” Christianity Today, March 4, 2013)


保守的な「バイブル・ベルト」でも歓迎される


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赤い部分が一般に、バイブル・ベルトと呼ばれ、福音派の篤信地帯とされています。


「ロック音楽が私の人生に及ぼした影響―救いの証し」の筆者であるデイヴィッド・クラウド牧師は、ある同僚の牧師から次のようなおそろしい内容のメールをもらったそうです。

『神の小屋』についてですが、私は自分が以前所属していた南バプテスト連盟の友人たちの多くがこの本を絶賛している様子にショックを受けています。

あなたもご存知のように、この本で描かれている「神」は聖書的な神ではありません。これだけ大多数の人々にこの本が受け入れられているという事実は、やはり識別力の深刻な欠如を示すものではないかと思います。

今日、霊的な識別力というのは、おそろしい勢いで失われていっているように思います。

私は何人かの同僚に、この本の問題点について直接話し、また問いかけてみました。でも彼らの応答は、「でも、とにかくこの本は、『どんなに神が私たちを愛しているか』ということについて、真理を教えてくれていると思う」でした。

これこそまさしく、現代の「教会成長運動」のもたらした負の実ではないでしょうか。

そうです。こういった運動は、もっぱら「神の愛」ばかりに終始し、主の聖さ、義、裁きといってものは「重要ではないもの」としてこれらを二の次、三の次にしているのです。

(Marty Wynn, Lighthouse Baptist Church, Columbus, Georgia, e-mail to D. Cloud, May 21, 2011).




全米牧会者会議(National Pastor’s Convention)でも大歓迎される


2009年にサンディエゴ市で開催された全米牧会者会議において、著者ヤング氏はスピーカーの一人として招かれました。


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全米牧会者会議の様子 情報源


これはゾンダーヴァン出版社とインター・ヴァーシティ・フェローシップ(IVF)の後援によって開催されており、この年には、全米から1500人もの牧会者が集まりました。

ちなみに、その他の講演者は、ウィロークリーク教会のビル・ハイベルズ師、レントン・フォード師、イマージングの代表的指導者ブライアン・マクラレン師ならびにロブ・ベル師等でした。

その時の調べによると、1500人中、57%に当たる参加者が『神の小屋』を読んでおり、この会議においてもヤング氏は熱狂的に歓迎されたとのことです。


以上のことから教えられること


こういった厳しい現実を前に、みなさんはそれぞれ今、様々な事を考えておられると思います。

私が示されたのは、「健全な福音信仰に根づく」という定評の高い出版社の発行する書籍=聖書的な書籍、という図式はもはや成り立たなくなってきたということです。

イマージング運動や、フェミニスト神学は、そういった大型福音出版社や、代表的キリスト教メディアの内部にも賛同者を得つつあり、その影響は今、私たちの教会やお茶の間にもリアルな形で流れてきています。

私の友人のジェシカ姉妹は、自分の教会のCCM礼拝が若者たちに及ぼしている精神的影響について次のような感想を述べていました。

アップ・テンポな音楽とドラムのビートと共に、単純な歌詞の一節が「これでもか、これでもか」と繰り返されます。こうして次第に、会場全体がハイな雰囲気になっていきます。


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ヒンドゥー教のマントラなども、同じ句を繰り返していくことで、やがてトランス状態になっていきますが、私が危ぶんでいるのは、最近のCCM賛美礼拝に見られるこういった執拗な「繰り返し」と歌詞の内容の乏しさが相まって、若者たちの識別力や冷静な判断力が弱められていくことです。

こうしてハイになった若者たちの頭に、さまざまな異種のメッセージが苦もなく吹き込まれていきます。



アルバート・モーラー師は、『神の小屋』は福音主義キリスト教の警鐘です、と言っておられます。

この警鐘を、私たち信仰者がそれぞれの場で、どのように受け取り、どのように応答していくのかが今後、試金石となっていくのかもしれません。

わたしは、すぐに来る。あなたの冠をだれにも奪われないように、あなたの持っているものをしっかりと持っていなさい。黙3:11





無題8
William P. Young, The Shack

私は先月、「押し寄せる『イマージング・チャーチ・ムーブメント』という波」という記事を書き、その中で、近年話題になっている「The Shack(シャック)」というクリスチャン・ノンフィクション小説とその危険性について、みなさんにお知らせしました。

さて今朝、日本在住のさなえ姉妹が次のような情報を寄せてくださいました。

今日いのちのことば社から通信販売のカタログが届いたのですが、この「シャック」という小説の邦訳が出たようです。「神の小屋」というタイトルで出版され、2016年公開を目途にハリウッドでも映画製作が進められているようです。(「日本人女優のすみれが重要な役で抜擢されている」と書かれていましたので、おそらく「サラユ」の役を彼女が演じるのでしょう。)

この本の帯には「全世界39カ国、1800万人が涙した感動のロングセラー小説」とあります。それほどまでにこの小説が大きく受け入れられていた事を今日初めて知りました。



調べてみると、確かに『神の小屋』(いのちのことば社)という邦訳名で出版されていることが分かりました。

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神の小屋 (Forest books) 単行本(ソフトカバー) – 2015/6/5
ウィリアム・ポール・ヤング (著)


おそらくこれから全国のキリスト教書店の店舗に配置されていくのでしょう。

親愛なる読者のみなさん、イマージングの波がついに日本にも上陸します。(すでにしています。)

『シャック(山の小屋)』の一例を見ても明らかなように、グローバルなマスメディアの働きを通し、異種の教えが「ノン・フィクション」や「映画」という形を取って、私たちの信仰のテリトリーに、教会のテリトリーに入り込んできています。

どうか、私たち一人一人がこの惑わしから守られますように。

この本の中に潜む危険性を知る私たち信仰者が、それぞれの持ち場において、キリストの愛を持ち、同胞クリスチャンに注意喚起していくことができますように。

イエス・キリストの御名によってお祈りします。アーメン。


追記です)

『山の小屋』の思想の背後にある「イマージング・チャーチ・ムーブメント」という新しいキリスト教の流れとその問題点について、私は過去に4つの記事を書きました。ご関心のある方は、お読みください。



1)押し寄せる「イマージング・チャーチ・ムーブメント」という波
http://christiantestimonies.blog.fc2.com/blog-entry-408.html

2)写真とキーワードでたどるイマージング・チャーチ・ムーブメント
http://christiantestimonies.blog.fc2.com/blog-entry-409.html

3)イマージング・チャーチ・ムーブメント―福音主義教会における新しい波
http://christiantestimonies.blog.fc2.com/blog-entry-411.html

4)「不確かさ」から「恵みの確かさ」へ
http://christiantestimonies.blog.fc2.com/blog-entry-416.html





聖書っていうのは私たちが理解することのできるもの。――私は今までずっとそう思ってきたし、そう教わりながら大きくなりました。でも今、私には聖書が何を意味しているのか、ほとんど分かりません。

でも、、それにもかかわらず、自分の人生が再び広く大きくなった。そんな風に感じます。今までの人生は白黒だった。でも今、それはカラフルになったのです。 
 
クリステン・ベル (イマージング・チャーチ、ロブ・ベル師の妻)



クリステン姉のこの告白は、イマージング・チャーチの本質を突いているだけではなく、不確かで混沌とした今の世を生きる私たち信仰者の「とまどい」や「葛藤する心」になにかを強く訴えかけてくる言葉ではないでしょうか。

私は最初にこの告白を読んだとき、反発と同時に、彼女のいうことに共感している自分をも見出しました。


emergent thechristians com


不確かさの中にとどまること――そこから新しく人生をとらえよう。聖書の真理っていうのは従来の説教者たちが言っていたような白黒はっきりしたものじゃなくて、もっとふんわりした淡い虹色なのかもしれない、、

「私には聖書が何を意味しているのか、ほとんど分かりません。」私もそう嘆きたい時がよくあります。

でも私は不確かさや疑いの中にとどまっていたくありません。

キリスト者の懐疑について内村鑑三は次のように言っています。

キリスト信者に懐疑なるものがある。彼はこれがために、時には非常に苦しむ。しかしながら、これあるがために彼はキリスト信者であるのである。不信者には懐疑なるものはない。懐疑は、神が見えなくなった時の苦痛である。そうして神を見たことのない者、または神を見んと欲せざる者に、この苦痛のありようはずがない。懐疑は、幽暗(くらき)に光明(ひかり)を求むる赤子の声である。現在に神の存在の実証を探る信者の叫びである。
1904年5月『聖書之研究』 



私は不確かさの中の、出所の分からない「カラフルさ」に一時的な慰めを見いだすよりはむしろ、真っ暗な十字架の下にうずくまり、一筋の光が注がれるまでそこで耐え忍びたいです。

また、たとい緊張状態がつづいたとしても、私は自分の求めている回答を主にいただくまであきらめずに信仰の戦いをしていきたいです。

主のみこころは、私たちが疑いにとどまるのではなく、「信仰の確信」に満たされることであることを聖書もはっきり記しています。

心はすすがれて良心のとがめを去り、からだは清い水で洗われ、まごころをもって信仰の確信に満たされつつ(in full assurance of faith)、みまえに近づこうではないか。ヘブル10:22



そういう視点でみると、なるほど聖書は、信仰の確信に満ちたことばでいっぱいです。

約束の聖霊をもって証印を押されました。聖霊は私たちが御国を受け継ぐことの保証であられます。エペソ1:13b,14a



その他、「尊い、生ける」(1ペテロ2:4)、「安全で確かな」(ヘブル6:19)、「土台」(1コリント3:11)、「」(1コリント10:4)等、夜空に輝く星々のように、聖書は揺るぎなく確信に満ちた約束の言葉で弱い私たちを支えてくれます。イエス・キリストご自身がその永遠の礎石(the chief corner stone)だからです(エペソ2:20b参照)。

そして何よりも私を慰め力づけるのは、「人が神を愛するなら、その人は神に知られている」(1コリント8:3)と聖書が宣言していることです。

完全なる聖書の知識を持っているからではなく、私たちが神を愛しているので、私たちは神に確かに知られているのです!

そしていつの日か必ず、私たちは、自分たちが完全に知られているのと同じように、私たちも主を完全に知ることになるのです(1コリント13:12参照)。

懐疑は人生のなぞではない。ゆえに、これは知識を磨いて解けるものではない。懐疑は心霊の病である。ゆえに、これは新生命を心に注がれて初めて癒ゆるものである。そうしてキリストは懐疑の最良の治療者である。彼は生命の理由を説かざるも、生命そのものを供して、懐疑を消散する者である。われらはキリストによって哲学者とはならない。されども神を信ずる者となる。すなわち神の摂理を疑わざる者となる。
1904年5月『聖書之研究』



「不確かさ」から「恵みの確かさ」の中へ――。

イエスの血によって聖所に入る(ヘブル10:19)新しい生きた道が、この揺るがない唯一の道が、私たちに今日も備えられていることを感謝します。


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presbymergent org
(source)


イマージング・チャーチ・ムーブメント
――福音主義教会における新しい波

スティーブン・W・コーネル師


( Steven W. Cornell,The Emergent Church-A new wave of evangelical identity here)

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ミラーズビル・バイブル教会主任牧師(ペンシルベニア州ランカスター)


はじめに

本稿の目的は、イマージング・チャーチと呼ばれる比較的新しいキリスト教の波について考察することである。

これは組織というよりはむしろ、「会話」もしくは「友情」とかいった名称で理解されることを好む個々の信者や諸教会のネットワークのことを指しており、現在、急成長している。

しかし近年、イマージングに対する関心の高まりに伴い、この運動に加わった人々は、国内的・国際的レベルにおいて指導者を立て、この運動を組織立てる必要性に迫られるようになった。

イマージングと関連した他の名称としては以下のものがある。――ポスト福音派、ポスト保守派、ポスト根本主義者、ポスト「基礎づけ者」(post-foundationalists)、ポスト命題主義者(post-propositionalist)若年福音派などである。また、www.emergentvillage.comがイマージング者たちのための主要サイトである。


イマージング・チャーチの指導者たち


故スタンリー・グレンズがポスト保守主義の立場にたつ学者として認識されており、それに対し、ロジャー・オルソンおよびロバート・ウェバーはそれを普及させた者とされている。トニー・ジョーンズはイマージングの米国内におけるコーディネーターであるが、実際にはブライアン・マクラレンがこの運動に結びついて最も名を知られている人であるだろう。


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(ブライアン・マクラレン)


その他の指導者としては:レオナルド・スウィート、エルウィン・マクマヌス、スペンサー・ブルク、エドモンド・ブルク、ジョン・フランケ、ロブ・ベル、マイク・ヤコネリ(Yaconelli)、クリス・スィエイ(Seay)、カロル・チャイルドレス、デイブ・トラヴィス等が挙げられる。

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(レオナルド・スウィート)


イマージング運動に関する批判的評価


イマージング運動に対して批評を加える前に、ぜひとも覚えておきたいことがある。それは、「このような分析は決して軽々しく行なってはならない」ということである。

我々は皆、キリストにあって一つのからだである。

「からだは一つ、御霊も一つである。あなたがたが召されたのは、一つの望みを目ざして召されたのと同様である。主は一つ、信仰は一つ、バプテスマは一つ。すべてのものの上にあり、すべてのものを貫き、すべてのものの内にいます、すべてのものの父なる神は一つである。」(エペソ4:4-6)

しかしそうは言っても、我々の霊的一致への努力が、キリストのからだの中で起こってくる新しい運動に対して批評を加える責任を排除するかといったら、そうではない。

教えやアイデンティティーにおける新しい波というのは、「聖徒たちによって、ひとたび伝えられた信仰」(ユダ3)によって評価される必要があるのである。

新約聖書は、目新しい教えに振り回されることの危険性について我々に警告している。

信仰者たちが聖書の真理に堅く自らの基礎を置いていない場合、――周りの人の言うことをすぐに信じてしまう――影響を受けやすい子どもたちのように、我々は振り回されてしまうのである。


反作用としてのイマージング運動


イマージングは――教会内における新しい表現の大半と同様――、キリストのからだの中における既存アイデンティティーに対する反動・反作用としての一面が強いと言える。

イマージング運動の中でも最も影響力を持つ指導者たちの多くは、保守的・根本主義的キリスト教へのアプローチをとる教会から「出現 emerge」した。彼らの著作から明らかに見て取れるのは、こういった指導者たちが生育の過程で、既存の保守教会につまずいたということである。

彼らは、保守教会の、世の中の人々に対する態度が「あまりに単純で、偏見がかり、しかも独善的だ」と感じた。――実際のところ、根本主義の教会の人々以上に、外部者たちの方がむしろもっと朗らかで謙遜でそして善良であるようにさえ思えたのだ。

こうして彼らの内に反動精神が生じた。

「自分たちがいかに正しく、その他の皆がいかに間違っているか」ということを声高に主張することにひたすら躍起になっているようなクリスチャンたちのこういう分離主義的スピリットを超越しよう――彼らはそう決意したのである。

そしてその悔悛に従い、彼らは――これまで「離れるように」と警告されていた種類の人々たち――の元に寛容の精神をもって出て行ったのである。


イマージングが提供するもの


イマージングは――より寛大な正教(orthodoxy)と彼らが信じているところのもの――を人々に提供している。教会というのは、創造性と学びに富み、人々に開かれた真正なる共同体であるべきだと彼らは信じている。

そしてその共同体においては、異なる見解を持つ人々が、見下されるのではなく、最大の敬意と尊厳をもって扱われるべきだと。

彼らはまた、礼拝において、折衷的に伝統――例えば、ろうそく、祈祷台、典礼、シンボル、瞑想、説教、歌、会話――などを用いている。


candles fwbpastor com


それにより彼らは信条を基礎にしたアイデンティティーを超えた、霊性をベースとするアイデンティティーを模索しているのである。彼らはこの世界の奥義(mystery)、命、神といったものを、克服するのではなく、包容し祝うことを奨励している。

また神学というものを、命題的言明、立証テキスト、教理の形成のため――そして誰がその教理の陣営にいて誰がいないのかを測る――の研究としてよりもむしろ、神の美しさや真理への探究として用いたいと彼らは願っている。

そして彼らの言う「ミッショナルな視点」に基づき、彼らはこの世を――そこから逃げたり、高慢に拒絶する対象ではなく――そこに「出て行くreach out」対象として捉えたのである。


イマージングの過剰反応


同じく保守的な背景をもつ人々(特に若い指導者たち)は、イマージング側から出されているこういった提示に引き寄せられるだろうと思う。

その意味においても、保守および根本主義教会の指導者たちの反動的な極端さは責められるべきである。

しかし、そうであるとは言え、反動に対する反動というのは、振り子が振り切れてしまうように、反対側の極に向かってしまうというのが常であり、イマージング問題もその例外ではない。

悲しむべきことに、イマージングの場合、「誰をも受け入れ、誰をも裁かない教会」として認識されたいという願いが、すでに度を過ぎたところまでいってしまっている。

未信者からの誤解を避けたいと願うあまり、彼らは、「キリストのみを通して人は救われる」という聖書の教えをうやむやにしている。

また永遠の裁きについても彼らはなんとか言い抜けようとしている。また同性愛行為についての聖書的罪の宣告をもはぐらかそうとしている。

そして最終的には、彼らがいったいどの位聖書を、「人類に与えられた、権威ある確実な神的啓示」として受け入れているのか、疑問を差し挟まざるを得なくなるのである。


イマージングの「限定的」寛大さ


人々をあたたかく歓迎するイマージングの精神は立派なものであるが、その歓迎の精神は――保守的な信仰者たちを除く――その他全ての人に対し寛大に注がれている。

その最たる例は、ブライアン・マクラレンの著書『寛大な正教 A Generous Orthodoxy.』に見られるだろう。


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文化の精神を模倣しつつ、マクラレンは著書の中で、(保守的な信仰者たち以外の)全ての人々に溢れるばかりの寛容を示しているのである。

またアカデミックなコミュニティーのことを言及している箇所で、マクラレンは、リベラルおよび左翼的なキリスト者たちに対しては非常な寛大さを示している。

この点は重要である。というのも、イマージング運動は「(保守、プラグマティック型双方の)福音主義キリスト者たちが現代文化に譲歩しすぎてきた」という前提の上に立てられているからである。

ここからも言えるのが、我々が他人のうちに見いだす非難点というのは、往々にして、他の領域においては我々自身、その非を負っているということである。

マクラレンは、「古臭く、イマージングに関与していないクリスチャン・モダニスト」とみなす人々に対し、自分がいかに冷笑的かつ人を見下した態度をとっているのかを自覚していないのである。


イマージングの誇張表現


イマージング・チャーチの指導者たちは、ポストモダン文化の理解を基盤にした、ラディカルな教会改革の必要性を強調し、次のようなことを主張している。

「ポストモダニズムというのは、人々の思考パターンに非常な規模で――巨大にして不可逆な移行――をもたらしてきた。それゆえ教会は、根本的な二者択一に直面せざるをえないのである。

つまり、1)ポストモダニズムにより良く応答すべく、この潮流を受け入れ適合させるか、もしくは、2)不適切なものとして退けるか、の二択である。」(D.A. Carson, Becoming Conversant with Emergent

こういった領域において、イマージングの指導者たちは、福音主義内の他の陣営にいるキリスト者のことを大いに嘆いているが、こういった過度な誇張表現は慎むべきであると思う。

第一に、近代からポスト近代(ポストモダン)への移行というもの自体が未だ大いに異論ある問題だからである。(詳しくはD. A. Carson, Becoming Conversant with the Emerging Churchを参照のこと)。

はたして実際、ポストモダンというのは、最も進んだモダン(most-modern)であることを意味しているのだろうか。

ポール・ヴィッツ(Paul Vitz)の提示している「トランスモダン」という概念について我々は真剣に話し合うべきではないだろうか。

また、確かに、多くの霊的指導者たちがこの数十年に起こった文化的変化について十分に理解してこなかったというのも事実である。

しかしその一方、イマージングが現われる以前からすでに、こういった問題に対し誠実かつ力強く発言してきた指導者たちも多く存在していたこと――これもまた事実なのである。

私が憂慮しているのは、イマージングの指導者たちが、自分たちの使命の緊急性を強調したいが余りに、この分野においてこれまで尽力してこられた多くの指導者や働きに対し、不敬な態度を取っているのではないかということである。


イマージングとポスト近代


Postmodernism ionsg blogspot com
ポストモダニズム: 
すべての真理は相対的である* 
*〔この発言以外は。〕 source



さらにやっかいな事は次の点にあるかもしれない。つまり、イマージングの指導者たちはポスト近代に対する聖書的批評をどれほど誠実に行っているかということである。

イマージング運動というのは、ポスト近代への移行に対する、より良い理解を求めるものなのであろうか。そしてそれを、福音を伝える上で、さらに伝達可能なものとして提示するためのものなのだろうか。

いや、それとも、彼ら指導者たちは、自分たちが実際のところ、ポスト近代を「より優れたもの」と捉えているがゆえに、その諸価値を包含し、受容しているのだろうか。

ポスト近代という概念の中でもっとも大切な価値は、人生のあらゆる側面に対する際、それらを包括的な(totalizing)方法で捉えること――これを頑として容認しないことにある。

つまりポスト近代というのは、理論上、個々人を超えたところにある真理やリアリティーのための決定的源(source)の一切を拒絶しているのである。

しかし福音は、こういった価値観とは明らかに相反している

福音に対して余計なものを加えることに対する、イマージングの指導者たちの危惧それ自体は確かに妥当なものだと思う。

しかし彼らは、自らの重宝しているポスト近代という価値に「合わせて」、福音を改造するようなことのないよう十分注意すべきである。

もし福音が、ポスト近代という規制の中で「人質状態」となり閉じ込められてしまうのなら、それはもはや良い知らせ(Good News)ではなくなってしまうのである。


―終り―


推薦図書
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-The Gagging of God: Christianity confronts pluralism, D. A. Carson, Zondervan, 1996.
-Postmodernizing the Faith: Evangelical Responses to the Challenge of postmodernism, Millard Erickson, Baker, 1998
-Truth Decay: Defending Christianity against the Challenges of Postmodernism, Douglas Grouthuis, IVP, 2000
-Truth or Consequences: The promise and perils of postmodernism, Millard Erickson, IVP, 2001
-Preaching to a Postmodern World, Graham Johnston, Baker,2001
-Reclaiming the Center: Confronting Evangelical Accommodation in Postmodern times, ed. Millard Erickson, Paul Kjoss Helseth, Justin Taylor Crossway, 2004


*本稿はLet Us Reason Ministriesのマイク師の快諾を得た上で2015年9月日本語訳されました。











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それにしてもイマージング・チャーチ・ムーブメントとはいったいどんな運動なのでしょう?どんな特徴があるのでしょうか。

今日はみなさんにイマージング・チャーチのおおよそのイメージをつかんでいただくために、写真をいくつかお見せしたいと思います。


DSC_0302 blogpastor net

暗めの照明インスピレーショナルな音楽 source 
「イマージングの文化の中では暗やみは霊性を象徴している。これはカトリック教会や正教会をはじめとし、仏教の寺院でも見られるものだ。暗やみは何か深刻なことが起こっていることを我々に伝えている」 Dan Kimball, The Emerging Church, p.127. (『Faith Undone』p.67)


bE-Alternative-Worship pomomusings com

dangreesonpic the gospelcoalition org

キャンドルイコン、芳香 source
「ポストモダン主義者は全ての感覚を使ってキリストと出会うことを好む。それこそ、伝統的な典礼を用い、瞑想的な礼拝をすることの魅力の一部だ。それは香やキャンドル、手で十字の形を切ること、パンとぶどう酒の味と匂い、イコン(聖像)の感触や油を注がれることである」 Julie B. Sevig, The Lutheran,”Ancient New” (The Lutheran, September 2001)



labyrinth endtimeupdates com

ラビリンス【迷宮】:古代の異教的起源をもつ。中世期にカトリック教会はこれを取り入れました。現在、イマージング・チャーチおよびニューエイジ系のグループでこれが再興しています。source
*ラビリンスの祈りの非聖書性およびその危険についてはhereをご参照ください

 

Contemplative-Prayer cuttingedge org

こういった瞑想的祈りおよびセンターリングの祈りは、現在、イマージング・チャーチおよびニューエイジ系のグループで奨励されています。
*こういった祈りはヨガやヒンドゥー教のマントラ等と出所を同じくするものです。センターリングや呼吸法などにより思考を停止し、脳内をアルファ波の状態で満たすという「瞑想の祈り」は非聖書的であり、とても危険です。ニューエイジャーたちはこういった方法で悪霊と交わっているのです。この危険性を訴えるクリスチャン・サイトは英語圏には無数にありますhere




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会話 Conversation source


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会話式のメッセージ・スタイル)


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(ポストモダニズム


emergent thechristians com
不確かさ、疑いの中にとどまること、脱構築)


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イマージング・チャーチを代表する指導者の一人であるロブ・ベル師の言葉:
―キリスト教の絶対的真理の一つに「〈聖書だけ〉が私たちの規準である」という絶え間ない主張がありますね。これは聞こえはいいかもしれませんが、真実ではありません。
―聖書というのは人間の作った作品であり、神的な掟のようなものではありません。
―自分たちを何よりもまず「罪びと」と認識しなければならない?私はそういう主張を、イエスの教えのどこにも、そして聖書の中のどこにも見いだすことができません。


注:イマージング・チャーチの指導者の方々の中には、保守的な信仰および神学を保っておられる方々もおられます




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世俗文化への文脈化(Contextualization)、世俗文化への受肉

*上の写真は米国シアトルのイマージング・チャーチ(マース・ヒル教会)の新年ナイトクラブの様子ですsource

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【マースヒル教会 新年パーティの御案内】2006年12月31日、礼拝終了後(午後7時)、マース・ヒル教会のバラード・キャンパス会堂は、粋なナイトクラブに変身します!新年を、デザート、ドリンク、ライブ音楽、大型スクリーンでのNYカウントダウン、そして真夜中のシャンペンでご一緒しませんか?

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主任牧師マーク・ドゥリスコール師(Mark Driscoll)の言葉:「私は神学的には保守ですが、文化的にはリベラルです。」



【世俗文化への文脈化】 下はサドルバック・コミュニティー・チャーチのユース礼拝の様子だそうです。



イマージング・チャーチについての簡単なまとめ

1. 伝統的な福音派のキリスト教は、現代の「ポストモダンの世代」に合わせるため変革する必要がある。

2. 伝統的な教会が教理と聖書的真理を強調してきたのに対し、ポストモダンの世界の教会は「神を体験すること」に強調を置く必要がある。真理は客観的ではない。重要なのは各個人の見方である。

3. 教会は「荒野の教父たち(3世紀にエジプトの砂漠に隠遁した修道士たち)」が行っていた古代の神秘的な習慣、またその黙想による霊性に戻らなければならない。 

「パーパス・ドリブンとイマージング・チャーチの欺き」より 参照




すべてのことを見分けて、ほんとうに良いものを堅く守りなさい。

1テサ 5:21