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第4章 



純粋なキリストのパンとして






私は、すべての教会に宛てて〔この手紙を〕書いており、すべての方々に使信を伝えますが、あなたがたによる妨げがない限り、私は自ら進んで神のために死のうと思っています。


あなたがたに嘆願します。どうか、時期に適わない好意を私に示さないでください。そして私が野獣のえじきとなるがままにさせてください。――これにより、私はついに神の元に到達することができるのです。


私は神の小麦であり、野獣の牙によってすりつぶされ、粉にされます。そうすることにより、私は純粋なキリストのパンとして見いだされることでしょう。


むしろ野獣をおびき寄せてください。そうすれば、そこが私の墓となり、わが肉体は跡形もなくなるので、〔死において〕眠りにつく時、私は誰にも迷惑をかけることがないでしょう。


こうしてこの世は私の体(なきがら)を目にすることはなく、私はイエス・キリストの真の弟子になるでしょう。


私のために主に祈り求めてください。――これらの〔野獣という〕手段により、私が神への犠牲として見いだされんことを。


私は、ペテロやパウロのように、あなたがたに掟を出しはしません。彼らは使徒たちですが、私は囚人です。彼らは自由人でしたが、私は今に至るまで奴隷です。


しかし、もしも苦しむなら、私はイエス・キリストにある自由人となり、主にあって解放された者として、やがて復活するでしょう。


今、私は主のために囚われの身となっていますが、この世のどんなものにも心惹かれない術を学んでいます。






Kinuko's note:



σιτος ειμι θεου και δι΄οδοντων θηριων αληθομαι, ινα καθαρος αρτος ευρεθω του Χριστου.

(私は神の小麦であり、野獣の歯(牙)によってすりつぶされ、粉にされます。そうすることにより、私は純粋なキリストのパンとして見いだされることでしょう。)


私たちは神の小麦。人生におけるさまざまな試練、鍛錬、懲らしめ(ヘブ12:9)を通して、小麦の粒は痛みながらすりつぶされていき、やがて「平安な義の実を結ぶ」純粋なキリストのパンとして整えられていくということでしょうか。私たち一人一人の人生の道程において、ただ主のみこころだけがなりますように。





ουδε το σωμα μου ο κοσμος οψεται.

(この世は私の体(なきがら)を目にすることはなく、、)



この節を読んだとき、パウロの次のことばを思い出しました。


私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が、この世に生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。ガラテヤ2:20

Χριστω συνεσταυρωμαι. Ζω δε, ουκετι εγω, ζη δε εν εμοι Χριστος. Ο δε νυν ζω εν σαρκι, εν πιστει ζω τη του υιου του θεου, του αγαπησαντος με και παραδοντος εαυτον υπερ εμου.



「もはや私が生きているのではなく」――この世のあらゆるものに対して死んだ者、「世界に対して十字架につけられた」者として(ガラ6:14)、生き死ぬことができたらと思いました。



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第3章
 

真のキリスト者として見いだされたい!





あなたがたは決して誰かを妬みの眼でみたことはなく、これまで他の人々に教示を与えてきました。


そういった事が[あなたの行ないによって]確かなものとされ、あなたの教えによって[他の人々も]あなたの行ないに倣うようになることを望みます。


内的そして外的力により自分として願う唯一のことは、口先だけで言うのにとどまらず、[真に]意志し望むことです。そうすれば、私は名ばかりの「キリスト者」ではなく、実際にそのような者として見いだされることでしょう。


なぜなら、もし〔キリスト者として〕真に見いだされるなら、そのように呼ばれることにもなるでしょう。そして、もはや自分がこの世に姿を現さない時、その時、私は忠実な者とみなされるでしょう。


目に見えるものは何ひとつとして永遠ではありません。「見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。」クリスチャンは説得〔の言葉〕によるものではなく、力によって生み出されます。


世に憎まれる時、クリスチャンは神に愛されているのです。なぜなら〔聖書は〕こう言っているからです。


「もしあなたがたがこの世のものであったなら、世は自分のものを愛したでしょう。しかし、あなたがたは世のものではなく、かえってわたしが世からあなたがたを選び出したのです。」ですから「わたしとの交わりの内にとどまりなさい」と。




Kinuko's note:


ινα μη μονον λεγωμαι Χριστιανος αλλα και ευρεθω.

(私は名ばかりの「キリスト者」ではなく、実際にそのような者として見いだされることでしょう。)


「弟子たちはアンテオケで初めて、キリスト者と呼ばれるようになった。χρηματισαι τε πρωτον εν Αντιοχεια τους μαθητας Χριστιανους.」(使11:26b)。


アンテオケ教会の基礎を築いたパウロとバルナバの跡を継ぎ、牧者となったイグナティオス。この教会において初めてイエス様を信じる者がクリスチャンと呼ばれるようになったという事実を感慨深く思い出しました。


現在「クリスチャン」という名称は、別段、重みも感動もなく使われてしまっている感がありますが、イグナティオスの上記の言葉からは、聖い救い主「キリスト」につく者、その名を帯びる者としての強烈な自覚と、初々しい歓び、またそれにふさわしい生き方をしたいというひたむきな思いがひしひしと伝わってき、心動かされました。


*尚、8行目以降は、英訳版のバージョンから訳しました。ちなみに他の版は次のような原文でした。

ουδεν φαινομενον καλον. Ο γαρ θεος ημων Ιησους Χριστος εν πατρι ων μαλλον φαινεται. Ου πεισμονης το εργον, αλλα μεγεθους εστιν ο Χριστιανισμος, οταν μισηται υπο κοσμου.




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第2章


殉教の道から私を「救い出そう」としないでほしい




おべっかを使ってあなたがたの好意を得ようとする者ではなく、あなたがたと同様、私も神だけをお喜ばせしたいと願っています。というのも、神の御元に達することのできるこのような機会は、またとないからです。


あなたがたにしてもそうです。というのも、もしもあなたがたが[私の助命のために声を挙げるのではなく]、むしろ今、沈黙を保ってくださるのなら、さらに善い働きとしての誉れに与ることができるからです。


私に関し、あなたがたが沈黙してくださるなら、私は神のものとなることができます。しかしもしあなたがたが、私の肉体に対して愛を示すなら、私は、この地上でのレースを再び走らなければならなくなるでしょう。


ですから、祭壇がまだ整えられているこの期間に、私が神への犠牲として自らを差し出すことができるよう、どうかこれ以上のご親切をなさらないでくださるようお願いします。


そうすれば、愛のうちに集められ、あなたがたはキリスト・イエスを通して御父に賛美を捧げることができるでしょう。


そして、神はシリアの監督である私を、東[=アンティオケ]から西[=ローマ]まで遣わすにふさわしい者とみなしてくださるでしょう。この世に対して落陽し、神に向かうことは良いことです。――そのようにして、神の元に昇ることができるからです。




Kinuko's note:


καλον το δυναι απο κοσμου προς θεον, ινα εις αυτου αναστειλω.

(=この世に対して落陽し、神に向かうことは良いことです。)


イグナティオスは、東方にあるアンティオケから西側ローマに、今まさに送還されようとしている自分の状態を、「西の落陽」と「東の曙」になぞらえ、この文章を、ινα εις αυτον αναστειλω([この世に別れを告げ]神の元に高く昇らんがため)と結んでいる点がとても印象的でした。


δὐνω(太陽が沈む)⇔ ἀνατέλλω([太陽が]昇る、輝く)


死を――しかももっとも残酷な形の死を――目前にしていたイグナティオスでしたが、彼の信仰の目と魂は、すでに、復活の主イエスと共に高く高く飛翔していたのでしょう。





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はしがき



セオフォロスとも呼ばれているイグナティオスから、いと高き御父の威光とひとり子イエス・キリストにより、憐れみを受けている教会へ。


教会――それは、主のみこころにより愛され光を受けており、私たちの神であるイエス・キリストの愛により、すべてのことをなさんとしています。


[そして、この〕教会はローマ人の住む地域に立っていますが、それは神性と栄誉と至高なる幸いと賛美とあらゆる願いを受けるにふさわしく、そして聖いものであるとみなされるにふさわしく、愛の上に立っています。


また教会は、キリストおよび御父より名づけられており、私もまた、御父の子であるイエス・キリストの御名によってみなさんにごあいさつ申し上げます。


肉においても霊においても、主のすべての掟において一致し、神の恵みに密に満たされ、あらゆる汚れから清められているみなさんへ。私たちの神、イエス・キリストにあって非難するところなき大いなる喜びがありますように。



Kinuko's note:


Εκκλησια.....αξιοθεος, αξιοπρεπης, αξιομακαριστος, αξιεπαινος, αξιοεπιτευκτος, αξιοαγνος



教会のことを描写するのに、ここでイグナティウスが「ἀξιό+~」(=にふさわしい, worthy of)という表現を6回も繰り返していることが、私にはとても印象的でした。


ἀξιό+θεος  神にふさわしい
ἀξιο+πρεπής 栄誉を受けるにふさわしい
ἀξιο+μακάριστος 至高なる幸いにふさわしい
ἀξι(ο)+έπαινος 賛美を受けるにふさわしい
ἀξιο+επίτευκτος あらゆる願いを受けるにふさわしい
ἀξιό+αγνος 聖いとみなされるにふさわしい


イグナティオスの清らかな霊の目には、キリストの血で贖われた輝かしい栄光の教会がはっきりと見えていたのでしょう。

「しみや、しわや、そのようなものの何一つない、聖く傷のないものとなった栄光の教会」(エペソ5:27)。

「教会はキリストのからだであり、いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の満ちておられるところです」(エペソ1:23)。







第1章


囚人として、私はあなたがたに会いたい




神への祈りを通し、ついに念願であった、あなたがたとの対面が実現しただけでなく、私の求めていた以上のことさえ与えられました。


キリスト・イエスの囚人として、私はあなたがたにごあいさつ申し上げたいのです。――もし本当に最後まで[信仰を]全うするに値するというのが私に対する神のみこころであるなら。


そして、もし本当に妨げられることなく最後までわが行程を全うする恵みを得ることができるなら、出だしはよく整えられているのです。


しかし私はあなたがたの愛を恐れています。それがかえって私に害を及ぼすのではないかと思って。


というのも、あなたがたにとってご自分の望むところを成し遂げるのはたやすいことでしょうが――もしもあなたがたが私の命を救おうとするのなら――、私にとって、神に達することはかえって困難になってしまうからです。



Kinuko's note:


δεδεμενος..εν Χριστω Ιησου (キリスト・イエスにあって獄につながれています。)


現代ギリシャ語訳では、ως δέσμιος για τον Χριστό Ιησού (キリスト・イエスのための囚人として)と翻訳されています。


パウロが獄中書簡の中で、繰り返し、自分のことを「キリストの囚人(δέσμιος Χριστοῦ Ἱησοῦ)」と呼んでいたことを思い出しました(ピレ1、エペ3:1、4:1、Ⅱテモ1:8等)。


イグナティオスもまた、パウロと同じように、重い足枷をはめられ、非常に不自由な姿勢でこの手紙を書いていたのかもしれません。


「私は鎖につながれて、福音のための大使の役を果たしています。鎖につながれていても、語るべきことを大胆に語れるように、祈ってください」(エペソ6:20)。


「私が牢につながれていることを覚えてください。どうか、恵みがあなたがたとともにありますように」(コロ4:18)。




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アンティオキアのイグナティオス(Ιγνάτιος Αντιοχείας, 35年頃 - 107年頃殉教)は、アンティオキア教会の牧者であり、使徒教父(apostolic fathers)の一人です。使徒ヨハネの直弟子でもあります。


彼は若い時期にイエス・キリストに信仰を持ち、ローマ皇帝がネルヴァからトラヤヌスに変わった頃(98年)に、アンティオキア教会の第二代目の司教になりました。


この時期を境に――つまり2世紀に入ると――、ローマ帝国によるキリスト者迫害は、組織的なものとなり、丸山忠孝は2世紀を「十字架を忍ぶ教会」と呼んでいます。


1世紀の迫害はひどいものであったといっても、単発的であり思い付き的なものであったが、2世紀の迫害は明確に帝国の政策としての組織的迫害となったからである。


古代教会史ノート5 帝国による組織的迫害
――2世紀から3世紀前半
より





トラヤヌス帝(在位98-117年)による迫害





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トラヤヌス帝





この時期には、都市・農村、年齢・階級を問わず、男女キリスト教徒がどんどん増加していきました。トラヤヌス帝とビテニアの監督プリニウスの『往復書簡』を読むと、「クリスチャンが大変な勢いで増加していますが、彼らへの訴えをどう処理したらよろしいでしょうか?」とプリニウスは皇帝に相談しています。


それに対し、トラヤヌス帝は、「積極的にわざわざ手間をかけてキリスト教徒を捜し出すことはしなくてもいいが、もし訴えられた彼らが、神々と皇帝への礼拝を拒み、棄教を拒むならば、彼らを処刑せよ」という伝達文を出しました。




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トラヤヌス帝時代のローマ帝国





イグナティオスの手紙



こうしてトラヤヌス帝の大迫害の時期に、アンティオケア教会のイグナティオスも捕えられ、コロッセウムの円形闘技場で野獣に裂き殺され、処刑されるべく、ローマに送還されることになりました。




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その送還途中、イグナティオスは、教会に宛て、7通の手紙を書きました。



①Προς Εφεσίους エペソ人への手紙

②Προς Μαγνησιείς マグネシア人への手紙

③Προς Τραλλιανούς トラリア人への手紙

④Προς Ρωμαίους ローマ人への手紙

⑤Προς Φιλαδελφείς フィラデルフィア人への手紙

⑥Προς Σμυρναίους スミルナ人への手紙

⑦Προς Πολύκαρπον ポリュカルポスへの手紙





今回、私が翻訳しようとしているのは、④の〔イグナティオスによる〕ローマ人への手紙です。


この手紙は、はしがき、そして、それに続く比較的短い10章から成っています。なんとかイグナティオスの命を救おうと、この時期、ローマの教会のクリスチャンたちが助命運動をしていたようです。


それを聞いたイグナティオスは、手紙の中で、「むしろ私が殉教の道を全うできるよう祈ってほしい」と嘆願しています。


1世紀のクリスチャンの信仰がどのようなものであったのか、彼の手紙の一言一言からそれが伝わってきます。これから少しずつ訳していけたらと思っています。


どうか私たちもまた、この手紙から励ましを受けることができますように!



*原文の写本には少しvariationがあるようですが、私が使っているのは、この原文です。
Προς Ρωμαίους Επιστολή Αγίου Ιγνατίου του Θεοφόρου

また現代ギリシャ語訳では、
Κείμενο σε μετάφραση στη νεοελληνική, εκδόσεις ΕΠΕ

英訳では、
The Epistle of Ignatius to the Romansを参照しています。






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青の点線は、推定される、イグナティオスの送還ルートです。(一番右側にみえるAntiochからイタリアのRomeまで。)





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