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ある秋の静かな夕、奈良の都から程遠からぬ、古い、夢みるやうな村の雛(ひな)びた旅館であつた。

私は大学生の年若い一人の友と、もぎたての柿の実を味ひながら、話しに耽っていた。

窓の外には月が昇り、星が輝いて、空はあたかも山上の湖水の面のやうに紺碧と静寂さに澄み渡って見えた。

その日、私たちは、十哩(マイル)余り歩きまはり、絵のやうな建物や史蹟を訪ねたのであつた。

西の空が傾く夕陽に映え、紅から紫にと染められる頃、この村について、僅か数名の相客のいるこの家に入つた。

軽い夕食を済ませて、私たちは疲れを忘れた。

殊に凡てがいかにも静かで穏やかであつた。

風もなく、家に音もしなかつた。

静けさが天をすべ、平和が地に漲(みなぎ)った。

地上のことすべて善し、と見えたのであつた。

☆☆

その時、若い友が頭を挙げて、幾分、哀調を含めて言った。

「私には、想像し得る人生の最大の喜びは、人がその生涯の終わりに際し、自ら神の道に歩み来つたと意識し得ることにあると思はれます」と。

かく言ひつつ、友の目は耀き、その頬は熱した。

然し私は沈黙をつづけ、目を落とし、思いに沈む胸に腕を組んでいた。

遂に私は頭をもたげ、床を見つめる友に対して、次のやうに述べた。

☆☆

もし人がその生涯の終わりに、事実、神の道に歩み来つたと意識し得、またもし、それが可能であり、かつ驕りの念を伴はないとすれば、それは疑いなく、想像し得べき最大の幸福である。

然し、果たして、それは人間の能力の範囲内で、あり得ることであらうか?

誰人か、そのやうに高度の道徳的完成に到達し得よう?

どこにそんな人があらう?

私自身は、到底そこには到達しようと思へない。

私は朝に出でては、あちらに転び、夕に戻りつつ、こちらに倒れる。

私は目醒めた時に左右によろめくのみならず、眠れる間にも亦同じ。

夢の中にも、私は正しく歩み得ない。

「ああ、われ悩める人なるかな。此の死の体より我を救わん者は誰ぞ。」

☆☆

然しながら、私は主イエス・キリストに頼りて、神に感謝する。

それは、使徒パウロをその弱さの中に支へ、弱き時に彼を強くし、強く大なる者へと同じく、小さい弱者へも救の手を差しのべ給ふ神。

彼が、私にまでも慈愛深く、いつも必要な時に応ずる彼の援け(たすけ)を惜み給ふことなかったからである。

「わが足すべりぬといひしとき、主よ。なんぢの憐憫(あはれみ)われを支へ給へり」と書いた詩篇の筆者の経験と、文字通り同じ体験を私も持つ。

☆☆

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私が「人生の旅路なかばに立ち」、わが過去を顧み、踏み来つた経路を省み思ふとき、私は一匹の若い小馬であつたとしか自分を考へられない。

――ただひたすらに走ることのみをこれ望み、正しい道がどこにあるかに、全然盲目な小馬にすぎなかつた。

岩角多い路を越え、茨の藪(やぶ)をぬけ、或時は、繁茂する樹の葉をもれる僅かの日光が、おぼろに道をてらす大きな森にふみ迷い、小馬はただ、盲ら滅法に走つたのである。

雨の降る日も彼は止り得なかつた。

激しい嵐の日にも、彼はいやが上に狂気のやうにはげしく走つた。

然しある日、彼は荒涼たる嚝野(こうや)のただ中に、疲れ果てて死んだ様に倒れたのである。

その手足、胸、頭に至るまで打傷に蔽はれ、出血する傷口も少なくなかつた。

彼は来たりし方をふり返つて、進んで来た距離が僅かなものであることを知つた。

彼は前途をながめ、目標は遥けく、何年か前と同じく遥かに、目の届かぬことを知った。

しかも道は決して平坦でない。

この場所は、都会に遠く隔たり、寂寥であつた。

そこに彼は傷き倒れ、顧みる人もなかつた。

彼がこの悲惨の境地に気づいたとき、傷つける頬に、涙は滝のやうに流れた。

☆☆

然し、それにも拘らず、神の慈愛の手は、常に小馬の上にあつたのである。

彼の凡ての過誤と彷徨に拘はらず、彼は決して神の愛の守護から、はずれ落ちることはなかつた。

彼の被った傷そのものまで、実は神の愛の証拠以外の何物でもない。

彼は深く根ざす消し難い欲求を持つていたことを知っていた――果たして何を求めてか?

悲しい哉、彼はただ盲目的に求めた。

そして盲目的に焦慮したのであつた。

然るに神は忍耐強くいまし、人生の数多い十字路を越えて、忍耐をもて彼を導き給ひ、つねに底なき奈落の断崖から、彼を護り給ふた。

彼は欲求を持つと知りながら、「自ら祈るべき所を知らず。」

然るに、神はその何なるかを知り、求められずともそれを彼に与へんと決し給ふた。

このことを思へば、彼は奮ひ起ち、目を輝かせ、手足の振ひ立つ力を感ずるのであつた。

☆☆

私は若い頃、当然に甚だ自信に充ちていた。

エマーソンの論文の中、「自恃(=自らに寄り恃(たの)む)」と題するものが、私の特愛の一文であつた。

体格において、私はやや蒲柳(ほりゅう)の質とされたにも拘らず、身体的精力に附ては、私は確信を持つていた。

頭脳の精力について、私は口に謙遜でありながら、友人の誰よりも高慢であつた。

かくて私は、意気昂然と闊歩していた――何処を目ざすあても知らず。

それが主我的自恃人の姿であつた。

☆☆

しかもその時、「永久(とわ)なる不死の愛」は私を憐み、その恵みの手をさしのべ、御力によつて私を引き戻し給ふた。

ああ、いかばかり私はこの力に抗し争つたか!私はもがき闘つた。

私は怒りわめいた、然しそれは「棘ある策(むち)を蹴る」が如くであつた。

かくて、私は止め難い涙の中に泣き悲しみぬいたが、凡て無益であつた。

「他者」の意志の如くに事柄は進んだ。私の意志の如くにではなかつた。

私がこれ迄に恵み深い神の許し給ふまでに、集積し得た何程かの人生体験は、私に全面的な自己不信を教へてくれ、それに代へて、確固たる他者信頼(オルター・コンフィデント)を教へてくれた。

人生の溶鉱炉において、事物は人の意図するやうに型どられない。

神の意思に依ること、自我の意思の、神意に対する激しい抗争において、征服し彼らを強制するのは、神の御手にあり、彼らの分は打ち倒され余儀なくされるにあること、

要するに、我らの小さな計画は常に敗れ、神の意図は決して敗れざること――、それが我が慰めであり、また私に無上の確信を与へる。

かく保障されて、誰かいつまでも不信失意に止らうとする者ぞ。

☆☆

内省して無益にも自己の内に善を見い出さんとするとき、私に不安と失望がある。

然し私が仰ぎ見て高きに在す彼に祈りを捧げるとき、私は確信と慰安に充たされる。

その時、失意そのものも却つて、わが慰めとなる。

たとえ私自らが盲目であり、我が求むる所を識らずとも、私は少くとも神が愛であることを知る。

たとへ私は何を祈るべきかを知らずとも、私は少くとも神は知り、愛し給ふを知る。

少くとも私は「聖旨(みむね)を成させ給へ」と祈り得る。

そして一切の祈りの中、聞かれることを確信し得るものがありとすれば、それは同じ「聖旨を成させ給へ」といふものに違いない。

然り、もし彼の意思でなければ、誰の意思を成らしめようといふのか。

そしてもし、彼の意思の成ることが確実であり、彼が全能の愛であるならば、猶(なお)も失意と不孝の理由がどこにあり得ようか。

☆☆

顧みて、私は自分の脆弱さと頼り難いことを、ひしひしと感ずる。

かつて抱いた自信は、今や去って、無い。
 
然しそれに代へて、私は神の我らに対する驚くべく優れた配慮を識るに到った。

もし人生が、我ら個々人の独立の力のみによつて築き上ぐべき建物であつたならば、それは人にとっては余りにも大きな仕事であったらうし、現世の何物をも押し流し去る力に、単身よく対抗し得る者は稀であらう。

人生の建物を自ら建てる者のいかに少いことか。

更に少きは、人生の計画の初志を自ら貫き得る者ではないか。

然るに、生命は神の計画し、遂行し給ふものであるから、人生の外見的の失敗も苦難も、我らの神への信頼を強める助けをなす。

私にとつて少くとも、私の目を「摂理」と呼ばれるかくれた力に向けさせ、摂理に認むべき神の人格的の愛と導きに目を開かせたものは、人生の辛苦にみちた試練であつた。

それらは有り難くない試練ではあつた。

然し来てから後は、その夫々の相貌は次第に変つた。

私は、試練の怖ろしい仮面の下に、親しむべき容貌を認めないことは無かった。

☆☆
約言すれば、神の前に、正しい道に歩むといふ自分の力に、私は自信がない。

然し、私は神の慈愛を信ずる。彼が彼の道に私を導き、その道にはずれず歩むやう、私を強ひ給ふことを確信する。

私の今日あるは、私の意思によるのではない。

神が他の歩き方を私に許し給はなかつたからである。

その強要は屡々(しばしば)不愉快なものではあつた。

その重圧の下で、私はうめき、悲嘆したこと稀ではない。

然し、それにも拘らず、私は、少しずつ神の愛と、智慧の深さ、広さを知るに到らざるを得なかった。

彼は私の些少の望みを拒み、私に遥に大きく高い望みを抱けと教え給ふた。

彼は全く力づくで、私を乳と蜜との流れる国に引込んだ。それはたしかに力づくといへよう。

それであるから私は確信を持ち得、絶対に保証されて、幸福なのである。

これが私が自分のものと主張し得る唯一の幸福である。

そして何人もこれを主張し得ないといふことはない。

私はこれだけの幸福で満足である。

然りこれこそ私にとつて、想像し得べき最大の幸福、祝福された保障である!

ーーーーー

この様に私が語り終へた時、我が若い友は沈黙し続けた。

月は昼のやうに照つていた。

空に風なく、家は寂として声なかつた。

崇高な静寂は天をすべ、平和は地に溢れていた。





ー『三谷隆正全集』第四巻より





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聖歌292 「今日まで守られ」



1.今日まで守られ 来たりしわが身
露だに憂えじ 行く末などは

いかなる折にも 愛なる神は
すべての事をば 善きにし給わん


2.か弱き者をも 顧み給う
わが主の恵みは この身に足れり

にぎおう里にも 寂しき野にも
主の手にすがりて 喜び進まん


3.主の日ぞいよいよ 間近に迫る
浮世の旅路も しばしの間のみ

まもなく栄えの御国(みくに)に行きて
永遠(ときわ)に絶えせず
わが主と住まわん



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北海道の自然


われは孤独である。しかし孤独ではない。

われにもわれの友がある。しかり、われは孤独であればこそ、かくも多くの友を持つのである。

友人、友人、世の言う友人とは何であるか。遊戯を戦わすの友人、時世を共に談ずるの友人、事業を共にするの友人、、、されどもこれわれらの特別に要求する友人ではない。

われらは真理を交換するの友人がほしい。

われらはこれに接触してわが全性に新光明を伝受するの友人がほしい。

われらは救われんための真理を探究せんために、常に神と角闘しつつある友人がほしい。

われらの欲する友は「独りで強き者」である。すなわち神に頼むがゆえに運動に加わらずして、独りで活動する者である。

すなわち完成せる個人である。すなわち友を求めざる人である。

これ、われらの求むべき、頼むべき友人である。

しかるがゆえに、われは孤独をもって満足する。

われは友に囲まれている者であるから、独りであるも、少しもさびしくない。

キリストは天にあり、聖霊はわが心に宿り、数万のわが真友は、われと共に信仰の戦いを戦いつつあると思えば、われにとりては、この世は実ににぎやかなる所である。

われら、主の再来を望む者は、神の聖国(みくに)に偽りなき聖き交際(まじわり)を楽しまんとて、独り孤独を忍びつつ、この世のさびしき旅途(たびじ)をたどり行く者である。



1901年7月『聖書之研究』より一部抜粋



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、、一生を富のために傾注して悔いないと君は言ふか。

よろしい、君は君の富を追ひたまへ。

徹底的に追ひたまへ。きっと富者になれる。


権勢を得たい、そして思ふ存分に力を振るってみたいと君は言ふか。

よろしい、それも痛快だらう。

脇目もふらずに君の道を勇往したまへ。


君にして不屈不撓、志を変へることがないならば、いつかは君の思を遂げることができるであらう。

況や或ひは、医学、或ひは物理学、或ひは生物学、機械工学、法律学、経済学、史学、語学等々、いづれとしてひたすらなる追求の前に不落の城たるはない。

才の乏しきを憂へる必要もない。

純粋無雑なる勤勉を以て、其堂に入り得ぬといふことはない。

☆☆

然しまた或る魂は、学も権勢も富も、何を以てしても、その欝勃たる志念を鎮むるに足らず、宇宙人生を支配する真理そのものに参ぜずしては已み得ないものがあらう。

多くの現代人はそれに対して言ふであらう。

そんな真理なんていふものがあるものかと。

古ギリシャのソフィスト達がさう言って、ソクラテスを嘲笑った。

然しその時、ソクラテスが死を以って証明したやうに、真理はある。

澎湃(ほうはい)とただ束の間だけ人の世の或る一部分を支配するに止まるものではない。

これを富貴に比べれば、富貴はまことに浮雲の如くである。

随って、富貴の追及はその本質において、浮雲の追及たることを免れ得ない。

然し真理は永遠に支配し、永遠に死なない。

真理を追ひ、且つ之を得るものは、永遠にその所得を失ふことがない。

☆☆

さうしてこの真理は又必ず得られる。

真理にしてひたぶるに求め続ける限り、必ず得られる。

その代り、真理の為めには、富も名も一切のものを棄てる覚悟が要る。

殊に深刻なる痛苦と艱難とを満喫する覚悟が要る。

何故ならば、痛苦と艱難とを満喫することなしに、すべて人生において意味深き事、力溢れるものを経験することはできないからである。

苦難のみが、人をして人生の真に徹せしめる。

まだ一度も骨を削るが如き悲涙にむせび泣いたことのない人に、人生の真理はわからない。

それはつらいことである。悲しいことである。

然しこの悲涙の底に喜びがある。

滾々(こんこん)として力湧き、望み溢れ、歓呼を爆発せしむる所の喜びがある。

この喜びを現物とする時、一切を棄てた事が、実は一切を得たことであることを知るだらう。

これがなんで運命であらう。

我らが切に求めた所を今得たのである。

苦難も悲涙もすべてが、其結果から見れば、我らが自ら求めた鍛錬に他ならない。

求めざるに負はされたる運命などでは決してない。

☆☆

我々の運命は、我々自ら之を造るものである。

真理を求めて倦まざるものは、真理を得るし、虚偽を以ていい加減に人生を綱渡りするものは、いい加減のものしか掴まない。

それは宿命ではない。

我らの追及が真摯なりや否や、我らが生の目的とする所、いづこにありやの問題である。

凡そ人生に於いて、真に価あるものは何であるか。

真摯に之を追及する者にして、之を得ずといふことなしである。


諸君、二度とない一生である。

真実やりたいと思ふこと、又やるに値ひすること、その事をやるがいい。

一生を賭してそれをやるがいい。

めしの心配などはすることなかれ。

たとへ時利あらずして陋巷に貧居すと雖も、やりたいと思つたことをやり続けたのならば、丈夫適意の一生ではないか。

何の悔いる所があらうぞ。




三谷隆正、『世界観・人生観』
(「運命ー卒業生諸君に餞す」)より一部抜粋



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北海道の自然


伝道は、恩寵の体験の解説でなければならぬ。

その解説の最も有力にして且、自他を誤る事なきものは、個人の生活そのものである。

言葉は欺きやすい。然し生活は欺かない。

生活から迸(ほとばし)り出る言葉には、特別の権威がある。人いづくんぞ隠さんや。

己の持つ恩寵の体験を豊かにせよ。それは己自身にとっても必要欠く可らざる営養である。

或る場合には、一語も言はずともよし。一歩も出ずともよし。

只在りて活けるだけにてよし。

故に見よ。もっとも偉大なる伝道は、屡々(しばしば)瀕死の病人がしたではないか。

無力にして貧しき者、無学なる者がしたではないか。

見よ。幾多の大説教家の大雄弁が、時にキリストを宣べ伝ふべく最も無力にして貧弱なるを。

ここに真実なるイエスの僕一人を活きしめよ。

その二人また三人を相結ばしめよ。

然る時、その周囲に、イエスより発する光の波の次第々々に拡がるを見るであらう。

此少数の忠信なるイエスの僕達がイエスと共に活けるその事実は、暗夜の燈火の如く、四方に輝き出でざるを得ない。

而して多くの人々を惹きつけざるを得ない。

「山の上の町は、隠るる事なし。」

斯る忠信なる生活をだにあらしめば、人は道を求め寄る人々の多きに苦むのみであらう。

☆☆

伝道の事業化は、呪ふべきである。

事業化はすなわち人業化である。故に、事功を追ひ分量を気に病む。

呪ふべきは、伝道の人業化である。

何者ぞ神の聖業を、その大御手より簒奪(さんだつ)せんとはする。

すべての誉は、之を主にのみ帰せよ。

我らをして決して己が誉を求めしむるなかれ。

決して事功を追はしむるなかれ。

神与へ、神とり給ふ。我らをして、只神をほめたたへしめよ。

我らが為し得る唯一の伝道方法は是である。

心から神を讃める事である――心から



三谷隆正、『問題の所在』(「伝道真髄」より)


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北海道の自然


パスカルが言ふ。

「神を疑ひ、未来を疑ふと称する人たちは、真実自らさう疑ふのでなしに、他を真似て疑ふふりをしているに過ぎない。

疑ふことを見栄と心得ているのである。疑と不安とが見栄だといふ。なんたる見栄ぞ」と。

、、げに虚栄から不信を看板にし、懐疑を鼻の先にぶらさげている人が実に多い。

斯る人々に対して、余は難詰して問ひたい。「汝は真実、神を疑ふや?真剣に未来を否定せんとするや?」と。

おそらくは彼等の多くは愕然として身震いしつつ、答を曖昧にするのであらう。

小ざかしき哲学の片鱗を乳臭の口辺に漂わせて、誇りかにも神と永生とを否定し去らんと流行を追ふ若き男女よ。

汝は真に一切を空(くう)と確信せりや?

それは汝自身の確信なりや。汝自身の体験なりや。

☆☆

、、悔悟は義への憧憬と決意とを前提する。

即ち悔悟とは悪になじまずして義を追ひ求むるの心でなければならぬ。

然らば、悔悟とは自己の醜を識認するの心であるよりは、むしろ自己の義を何処かにか求めて得んと欲するの心、斯る精進をその特色とするものでなければならぬ。

さればこそ悔いたる心は神を仰ぐ。神の義を慕ふ。

卑僕の罪を赦して、なんじの義の裡(うち)に抱き給へと祈る。

見よ。ユダは主を売りて後、その罪を知り終に首をくくって死んだ。

なぜ彼は罪の赦しとその潔めとを求めなかったか。なぜ自己に失望し切っていたか。

ユダの誇りよ。人間の誇りよ。

その誇りが幾度か人を神より遠ざけ、彼の悔改を妨げ、而して彼を滅亡の淵に陥しいれた事であらう。

神よ、なんじはこの誇りをも赦し給ふや。我らを試みにあはせず、悪より救い出し給へ。

☆☆

「お前は罪を犯した。お前の汚れは最早、言い逃るべきやうもない。お前のやうなものは、もう駄目だ。悔いたと?それはお前の言い訳だ。

なぜお前は、お前の醜さを直視してそれをそのままに受け入れる事をしないか。お前は駄目なのだ。さう悟る事が真個の悔悟だ。お前自身に絶望せよ。」

――さういう声を心の奥にきくことがある。

然しそれは悪魔の声だ。

基督はさういう風に言われなかった。彼はいつも愛に溢れて、「来れ」とのみ呼び続けられた。

神の赦免は、単なる放免ではない。抱擁である。

罪を責めないだけでない、愛の接吻である。

人ひとりひとり、その残らずが彼の愛児達である。

さうだ。余は余自身に絶望してはならない。

罪人はその罪にのみ執着し、着目してはならない。

我等は義とせられなければならない。義を追ひ求めて休んではならない。

神の賜ふ義、それを被る迄は止まってはならない。

神よ、我等を潔くしたまへ。汝の義を以て義としたまへ。

斯して誠に汝の子たることを得しめたまへ。

☆☆

然り。人は本来、神の子であるべきである。神の子は義の子、光の子であるべきである。

罪と暗きと、それは人の本質ではない。

見よ。白き輝ける衣、我等のため備へられて彼処(かしこ)にあり。

兄弟よ、希望を失ふなかれ。兄弟よ、信頼を失ふなかれ。

兄弟よ、神は我等すべてのために輝きの聖国を備へ給ふのである。ハレルヤ。

☆☆

人生において一番貴い事は、正直であること、誠実真摯、真理を追うて倦まないこと、自己一個に屈託しないことである。

道の為めの勇猛心、それにも勝(まさ)って立派な力強い堂々たる偉観があらうか。

「もはや我、活けるに非ず。基督、我に在りて活けるなり。」

さう謂うことの出来たパウロの総身にはどんなにか力が溢れ、勇気が漲った事であらう。

自己に死なんとの野心の胸中に高鳴りするを覚える時、なんだか飛び出して天下に絶叫し度いやうな勇奮を余も感じる。

余の野心はこれ以外にない。あらしめたくない。

己を全き献物として神の聖壇に上すこと、真理の為めに一切の私を投じ尽して了ふ事、余はこれ以上の偉業を考へ得ない。

余はこれ以上の野心を持ち得ない、又持ち得度くない。



三谷隆正、『問題の所在』(「感想と祈念と」)より


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どうか、あなたの光とまことを送り、私を導いてください。あなたの聖なる山、あなたのお住まいに向かって、それらが、私を連れて行きますように。詩篇43:3

わたしが主である。ほかにはいない。わたしのほかに神はいない。あなたはわたしを知らないが、わたしはあなたに力を帯びさせる。イザヤ45:5




三谷隆正著 『問題の所在』より


絶望罪


もし神の大愛を以てしても、どうしても赦すことのできない罪があるとしたら、それは人が自分自身に絶望することであろう。

又もし人が神の国に迎え入れられることを絶対に妨げる障碍があるとしたら、その障碍は人が「自分自身に恃(たの)む」という事であろう。

我々は自分自身に絶望してはならない、決してならない。

然しまた同時に、我々は自分自身に恃んではならない、決してならない。

それならば、我々はどうすればいいのであるか。

自分自身に絶望しないでいて又同時に自分自身に恃まないでいる事が出来る事であるか。

自分自身に恃まないと共に、自分自身に絶望しないでいる事が出来る事であるか。

むしろ我々が自分自身に絶望し切った時、その時に、我々は真個に自恃自誇を棄て得るのではないか。

まず自己に絶望せよ。しかる後、自恃を去るを得べし。しかる後、真に謙遜なるを得べし。――かういう論法は、論理的には甚だ強力な論法である。

私は其処にある真理の存する事を否認するものでない。

然しもし実際に、我々が自分自身に絶望し切ったならば、その時、我々は真実謙遜な者になり得るかどうか。私はそれを省察したい。

☆☆

絶望は暗い淵である。

其処には光の片影さえない。冷たい堅い扉を光明に向けて、希望の一閃(いっせん)をさえもらし入れまいと守るのが、絶望の城廓である。

光明は天地に遍照して毛ほどのすき間、針の孔(あな)ほどの隙をものがさじと押し寄せて来る。

その光明の強襲を頑強に堅固に防御し、撃退するのが、絶望者の態度である。

己が城を渡さじと守るもの、ひた寄せによせ来る光明軍の前に、暗黒なる鉄扉を堅く閉ざして、一人をも入れじ、一歩も退かじと健闘するもの、それが絶望者である。

彼こそ最も頑強に自己に恃(たの)み、自己を守るものでないか。

その何処に謙遜があるか。

☆☆

我々が独り、静かなる時に、我々の犯した数々の過を省みる時、我々は殆ど耐えがたいまでの悲しさと恥ずかしさとを感ぜずには居られない。

もし我々が人の記憶からも、神の記憶からもいささかの痕跡もなしに消え去り得るものであるならば、そうやって隠れを了(はか)る事が出来るものならば、どんなにか気安い思いをするだろう。

然しそれでも我々は、我々自身の記憶からのがれ去る事ができない。

他人はたとい我が罪科を忘れ果ててくれようと、我自らの霊の痛みを如何にせん。

――かく思い悩む人の心にキリストの福音は何たる喜びの訪れであろう。

曰く「我は正しき者を招かんとにあらで、罪人を招かんとて来れり」と。


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それは余りに勿体(もったい)ない思召(おぼしめし)である、殆ど信ずるに難い恩恵である。

現に幾多の人が信ずるに難しとした所であった。然し我らの救済は、是以外にない。

神は、われらの犯す如何なる罪を赦し給うとも、この福音を拒斥する事、さうして自己に絶望する事だけは、決して赦し給わぬであろう。

もし人は各々絶対の主人であって、各自は各自の絶対的所有物であるならば、我々が自分に絶望すると否とは、我々の自由の権利であるかも知れない。

然しもしが我々を造り、我々をしろし給ふものであるならば、神の我らをすて給はざる前に、我ら自ら我らを捨て去るとは、己を塵芥(じんかい)に委するという事でない。

己自ら己の主人たらんとするの野望を捨てて、神の前に己を返還せよとの謂である。

己を塵埃視し、糞土視する事、さうやってむやみと己一個をけなしつける事が謙遜なのでない。

自己に対する自己主権を放棄して、神の前に自己を奉献する事、何事にも自意を主とせずして、一切を神の大御心に委ねまつること、ただ神に於いてのみ誇り、又恃む事、それが真の謙遜である。

故に、うなだれた首が謙遜のしるしでない。

小児の如くに快濶に、小鳥のごとくに喜べる、晴々と暢々(のびのび)した心こそ謙遜なる人の心である。

☆☆

たとい世の人はこぞって我を侮辱しようと、もし私自らが私を侮辱しない限りは私の品位は少しも傷つけられない。

之に反して、千万人が私を尊敬しようとも、私自らが私を尊敬する事を得ないならば、他よりの尊敬は徒(いたづ)らに、私を苦ましむる因たるに過ぎない。

而して、たとい全世界の人がこぞって私を棄て去ろうと、もし私自ら私を棄てないならば、私を棄てざるものが猶二人ある。神と私と。

只一人恋人の彼を棄てざりしが為めに、世をこぞりて彼を棄てたるにも拘らず、終に自己に絶望する事を得ざりし人があった。

況や(いわんや)、神、我を棄て給はざるに、何を早まって、我自らを棄てようぞ。

さうして神は決して人を棄て給わない。一人をも棄て給わない。

それがキリストの福音である。

人の犯し得る最大の罪は、自分自身に絶望する事である。

一番悪魔的な事は、絶望することである。



ー終わりー
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光はやみの中に輝いている。やみはこれに打ち勝たなかった。

ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。

父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。

ヨハネ1:5、14



祈り)
まことの光であられるイエス様、今、このブログを読んでいる方の中で、絶望の淵にいて苦しんでいる朋友のために祈ります。どうか、その方の魂にあなたが今、光を照らしてください。イエスがキリストであり、魂の永遠の希望であることを、その方に啓示してください。その方を絶望の淵からあなたの御胸の中に引き上げてください。イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。







他の人がどう思っているのかは分からないが、自分自身に限って言えば、私はおのれの愚かさを恥じている。

そして自分自身および他人の魂に関し、それらを主の大いなる日を前にしたものとして真剣に取り扱っているのかと自問せざるを得ないのだ。

というのも、その他の事にはやたらと気を取られる一方、こういった驚くべき肝心なことが自分の心と思いを完全に捕えていないからだ。

私はこのような事柄をいとも軽々しく冷淡に説教できる自分に驚いている。そして人を罪の中に放置したままにして平気でいられる自分に。

なぜ自分は彼らの所に行って、嘆願しないのだろう。そして――彼らがそれを受取ろうが否が、そしてその事によってどんな苦痛や困難が私の上に降りかかってこようとも――主のゆえに、彼らに悔い改めを求めないのだろう。

☆☆

良心の呵責を覚えることなしに説教壇から降りなかったことはほとんどないと言っていい。
――ああ私には真剣さも、熱心さも欠けていたと。

心に責めを感じるのは、私の説教が言葉の綾や優美さに欠けていたとかそういうことよりはむしろ、「なぜ自分は人の生死にかかわる事をあのような心で話すことができたのか?」という一事なのだ。

いったいお前はどうして天国と地獄をあのように軽率でぼんやりした態度で話すことができたのか。お前は自分の言っていることを果たして本当に信じているのか。お前は心底真剣なのか、それとも半分冗談がかっているのか。

お前は人に罪の恐ろしさを説いている。罪より来る悲惨が彼らの上にも前にも待ち受けているのを知っている。それなのにお前の心は震えていない。

そんな彼らの魂のためにお前はむせび泣くべきではないだろうか。涙で言葉が続かなくなるのが当然ではないだろうか。そして涙のうちに彼らの悪事を示し、生と死の現実を目の前に、彼らに悔い改めを嘆願するべきではないだろうか。

☆☆

ああ私は自分の鈍く軽率な心、そして緩慢でむだの多い生き方を恥じている。ああ主はご存じです。私は自分がこれまで話してきたこと、および私を遣わしてくださったお方のことを思う時、恥じずにはいられない。

人の永遠の救い、そして永遠の滅びがそこに深く関与しているという現実を前に、私は震える。――神の真理および人の魂を軽んじた者として神は私を裁かれるのではないかと!

そして自分としては最高の出来の説教であっても、依然として彼らの血の責めを私は負っているのではないかと!

私は思う。我々はこれほどの重大事を、涙なしに、もしくは最大の熱心さを持つことなしには、ただの一言も説くべきではないと。

ああこれらの事は轟(とどろき)の如く私の耳に鳴り響いている。それなのにぼんやりとした私の魂には一向に目覚める気配がない。おお無感覚で、かたくなな心のなんと嘆かわしいことよ!

おお主よ、私たちの内に巣食っている不信と無情さというこの疫病から我々を救いたまえ。

そうでなければ、我々はいかにして他人をそこから救出するための器として神に用いられることなどできよう。

おお主よ、汝が我々を用いて他の魂の上になそうとしておられることを、われわれ自身の上になしたまえ。



Richard Baxter (1615-1691), The Need of Personal Revival
私訳



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Richard Baxter

言葉や行為というのは一時的なものに過ぎない。
それらは一度なされるや過去のものとなり、もはやそこにはない。
しかし、それらが不滅の魂に及ぼす影響はおそらく永遠につづいていくだろう。








骨肉の叛逆


われ、わが兄弟には異人(ことくにびと)のごとく、わが母の子には外人(あだしびと)のごとくなれり。詩篇69:8

これ、その兄弟もなお彼を信ぜざるがゆえなり(ヨハネ伝7:5)

なんじの兄弟となんじの父の家もなんじを欺き、また大声を揚げてなんじを追う。彼ら親しくなんじに語るとも、これを信ずるなかれ。エレミヤ書12:6



世にキリスト信者ほどきらわれる者はない。

彼は信仰が進めば進むだけ、世の忌みきらうところとなる。これはなにも仏教、儒教の盛んにおこなわれる日本においてばかりしかるのではない。

キリスト教国ととなえられる西洋諸国においても同じ事である。

パウロは「われら今に至るまで、世のあくた、またよろずの物の垢(あか)のごとし」と言うたが、今日に至るもキリスト信者の運命は実にかくのごときものである。

☆☆

なぜキリスト信者は実にかくもきらわれるのであるか。この事はよく考えてみれば、ずいぶん奇(ふしぎ)なる事である。

彼が悪人でないことは誰も知っている。彼が虚言(うそ)をつく者でなく、放蕩をする者でなく、盗む者、姦淫を犯す者でないことは誰も承知している。

彼は全体によく国法を守り、他人にむかって親切で、よく社会の義務を尽くす者であることもよくわかっている。

しかるに彼が世の放蕩児よりも、虚言つきよりも、獰人(どうじん)奸物よりも人に排斥せらるるとは実に奇妙なることではないか。

そうして彼は世人にのみきらわれるのではない。

彼の敵は彼の家の者である(ミカ書7:6)。彼は彼の信仰のゆえをもって、時には彼の父に誤解され、母に疎(うと)まれ、「わが父母、われを捨つるとも、エホバ、われを迎えたまわん」(詩篇27:10)との歎声を発するに至ることがある。

不孝児と言えば必ず彼のことである。

彼は父母以上の天の父母を信ずるとのゆえをもって、なにか肉体の父母でも捨てたように疑われる。

彼がなさんと努むるすべての善は、彼がキリスト信者たるのゆえをもって少しもほめられず、彼がなさざる善は、同じ理由をもって、きびしく詰責(せめ)られる。

☆☆

彼の兄弟もまた彼をきらう。彼らは非常に彼をばかにする。

彼らは、彼がキリスト信者なるがゆえに、彼らにむかって強い抵抗をなさないことを知っている。彼らは彼を脅迫する。

彼らは彼にすべての義務を負わせる。そうして彼をそしり、ののしり、あざける。彼らは彼をかく扱うの権利を持っているように思うている。

また彼はかく彼らに扱わるるの義務を持っているように思うている。

彼の柔和たるべきことは彼らを安全の地位に置くがゆえに、彼らは少しの心配なしに、彼をののしりもする。あざけりもする。

そうしてもし彼が少しく彼らに向かって抵抗を試むれば、彼らはマタイ伝五章を引いて彼に説教する。


ああ神よ、われらをさばきたまえ。

人の心を知りたもう者よ、正義の法(のり)をもてわれらを糺(ただ)したまえ。われら、この世にありては権利なきがごとき者なり。

われらはひねもす、なんじのために死に渡され、ほふられんとする羊のごとくせらる(詩篇44:22)。



☆☆

何ゆえにキリスト信者はかくまでその兄弟にまできらわれるか。何ゆえに、ダビデもエレミヤもキリストもパウロもみな骨肉に追われ、その憤怒を買いしか。これ大いに攻究すべき問題である。

その一は確かにキリスト信者の人生観が世人のそれとあまりに違うからであるに相違ない。

彼は彼らの中にありて確かに一つの変物(かわりもの)である。彼の希望、彼の歓喜、彼の生涯の目的は、彼らのものとは全く違っている。

彼の善と信ずるものは彼らの善となすものではなく、彼の彼らに勧めんと欲するところのものは彼らのはなはだ忌みきらうところのものである。

彼は心の平和を求むるも、彼らは富貴安楽とこれに伴う栄誉を求むる。彼らは彼より、彼の与うあたわざるものを要求する。そうして彼がこれを彼らに与え得ざるがゆえに、彼らは彼を怒り、彼をそしる。

彼は彼らの中にあるも彼らの属(もの)でないがゆえに、彼らは非常に彼をきらう。あたかも一羽のあひるが、にわとりの群れの中にあるようなものであって、彼らは彼を疑い、かつ迫害せざるを得ない。

☆☆

その第二の理由は嫉妬である。

彼らはみな人生について不満であるのに、ここに彼らの中に一人、満腔(まんこう)の満足をもって神を賛美しつつ日々を送る者がある。

これ彼らが見てもって堪えられぬところであるに相違ない。

また彼らは互いに相結ぶに血肉の関係をもってするに引き替え、ここに彼らの中に一人の、霊の関係をもって兄弟姉妹をあまた宇内に持つ者がある。

これ彼らが見てもって、うらやんでやまざるところであるに相違ない。

また彼らは彼を苦しめるも、苦しめらるる彼の事業はいや増して栄え、苦しめし彼らは常にその活動の区域を狭められつつある。

これ彼らが見てもって憤慨に堪えないところであるに相違ない。

かくて神なき彼らは神による彼をうらやんでやまず、ここに彼らは嫉妬の念を起こし、彼と彼の事業とをこぼたんとする企図(くわだて)を起こすのであろう。

☆☆

その第三の理由は、愛と憎みとの衝突であると思う。

愛と憎みとは正比例に相増減するものである。一方に愛の増す時は、他方に憎みが増す時である。神とキリストとを知らざる彼らは、彼の骨肉なるがゆえに彼よりすべての愛を要求する。

しかしながら彼は神とキリストとを知ることができたゆえに、かかる偏愛を彼らに供することができない。

ここにおいてか彼らの彼に対する憎みがいっそう増進し、人倫の道(骨肉の関係を言う)を破る者として、彼らは強く彼に当たる。

そうして世はまたこの骨肉の関係によってのみ立つものであるから、この愛憎の衝突においては、もちろんキリストを信ぜざる彼らにくみして、キリストを信ずる彼を苦しめる。

これ自然の成り行きであって、一人の人が深くキリストを信じて、この顕象の現われざるはない。否、かかる顕象の頻頻として現われて来ないのが、かえって怪しむべきである。

かかる事のあるべきを知りたまえばこそ、キリストは、「地に泰平を出ださんために、われ来たれりと思うなかれ。泰平を出ださんとにあらず、つるぎを出ださんために来たれり」(マタイ伝10:34)てふ非常のことばを発せられたのである。

☆☆

これ実に苦しい事である。かかるつらき経験を持たざれば神の国に入ることあたわずとのことであれば、あるいは神の国に入らぬ方がかえって幸福ではあるまいかと思われる時がある。

しかしながら、われらはいやでもこの苦き杯を飲まなければならない。

それは他にもいろいろ理由があるが、その肝要なるものの一つは、われらがかく戦わねば、真正の幸福なる家庭なるものを決してこの地において見ることができないからである。

はなはだしき逆説のようには見ゆれども、しかし一度は、子が父にそむき、娘が母にそむき、嫁がしゅうとめにそむくにあらざれば(マタイ伝10:35)、真正の愛心は決して家庭の中に来たらない。

これははなはだ危険な教訓(おしえ)のように見える。しかしながら、これ聖書が幾回となく教うる真理であって、また歴史上の事実として決して否むべからざることである。

これもちろん、われらが骨肉を憎むからではない。否、決してそうではない。

これはわれらがより大なる愛に接したために、われらに対するわれらの骨肉の憎みをひき起こし、その結果としてこの悲惨なる顕象を見るに至るのである。

これをもってみても、罪の結果とは実に恐ろしいものであることがわかる。血を流すにあらざれば、とうていこれをこの世よりぬぐい去ることはできない。

ゆえに、この衝に当たるわれらの心を神は深く推察したもう。彼はかかる場合におけるわれを慰めて言いたもう。

「兄弟は兄弟を死に渡し、父は子を渡し、子(神を信ぜざる)は両親(神を信ずる)を訴え、かつこれを殺さしむべし。またなんじら、わが名のために、すべての人に憎まれん。されども終わりまで忍ぶ者は救わるべし」(マタイ伝10:21-22)と。


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神を知るの道=苦痛


人生の目的は神を知るにある。しかして神とはほかの者ではない、イエス・キリストである。

神はキリストを知るによって知ることができるのである。「永生とはすなわちこれなり。唯一の真(まこと)の神なるなんじと、そのつかわししイエス・キリストを知ることなり」(ヨハネ伝17:3)とある。

しかしてキリストを知るの道は、キリストと共に苦しむにある。

「その死のさまにしたがいて、彼の苦しみにあずかり」(ピリピ書3:10)とあるはこの事である。

われらは苦しめば苦しむだけ、キリストを深く知ることができるのである。ここにおいてか苦痛(くるしみ)の價値(ねうち)がわかるのである。

苦しみてキリストを知り、キリストを知りて神を知り、しかして神を知ること、これ永生である。

まことに人生の幸福にして苦痛にまさるものはないのである。

ほかの宇宙においてはいざ知らず、われらの棲息(せいそく)するこの宇宙においては、十字架の道を除いて他に神を知り永生にいたるの道はないのである。

苦痛は天罰であると言う者は誰であるか。前世の報いであると言う者は誰であるか。われら信者にとりては苦痛は最大の恩恵である。キリストを知るの唯一の方法である。

苦痛の階段をたどりてこそ、われらは父の聖国(みくに)に入ることができるのである。

されば来たれよ、苦痛、われはなんじを歓迎せんである。


ーおわりー

1902年9月『聖書之研究』および1915年9月『聖書之研究』より一部抜粋






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どんな悪いおとずれも恐れることをしない一人の人がいた。

なぜなら、彼女の心は主に信頼して揺るがなかったから。


そして主を信頼する彼女の心は、とこしえに神のあわれみの内にあった。


しばしば主は、暗闇の中に輝く光のように立ち上がられた。

困難の中から彼女が呼びかけると、主は彼女を引き上げ、祈りに答えてくださっていた。


主は常に憐れみ深く、愛にあふれ、義なるお方であられた。


それで彼女はこう申し上げていた。

「だれが、わたしたちの神、主のようでありましょう。主は高い御位に座し、身を低くして天と地をご覧になられます」と。



でも今、彼女はひとりきりで立っている。

大いなる霧を見つめながら。



広大な山あいが彼女の前にひろがっている。

でも、そこはいつも霧。


下の谷間にある小さなわだち以外、どんな道も見えない。



とってもさみしい。彼女は思った。


そしてしばしの間、ただ立ちつくしていた。


今まで味わってきたどんな苦しみよりも耐えがたく感じる――この孤独感と心細さをじっと見つめ、耳にしながら。


その時、やわらかに、彼女の内で声が聞こえてきた。


ある時には落胆させるような、

またある時には心を引き上げるような声が。


「わが身とわが心とは衰える。しかし神はとこしえにわが心の力、わが嗣業である。」(詩篇73:26)


「私の愛する者や私の友も、私のえやみを避けて立ち、私の近親の者も遠く離れて立っています」(詩篇38:11)


「しかし私は絶えず、あなたとともにいました。あなたは私の右の手をしっかりつかまえられました」(詩篇73:23)


「私の涙は、昼も夜も、私の食べ物でした。人が一日中『おまえの神はどこにいるのか。』と私に言う間。」(詩篇42:3)


「わが神、主よ。あなたが答えてくださいますように。」(詩篇38:15)


「わがたましいよ。なぜ、お前は絶望しているのか。なぜ、御前で思い乱れているのか。神を待ち望め。私はなおも神をほめたたえる。私の救い、私の神を。」(詩篇42:11)


「私の道は主に隠れ、、」(イザヤ40:27)


「私の道はすべて、あなたの御前にあるからです。」(詩篇119:168)


「神、その道は完全、、、この神こそ、、私の道を完全にされる」(Ⅱサム22:31,33)


「主がかわいた地を通らせたときも、彼らは渇かなかった。」(イザヤ48:1)


主が丘陵を通らせるなら、彼らは気落ちしてしまうかしら。


そして彼女はまた霧の方を見た。


そこに輝きがあった。


彼女はひとりでないことを知った。


神が彼女の避け所、また力。

苦しむとき、そこにある助けであるから。


主は彼女の歩む道の近くにおられ、ご自身の恵みを彼女に示された。

そしてその恵みは心を慰めるものだった。


彼女はもはや恐れなかった。

なぜならおぼろげな山あいは、主にとっては開かれた道であるから。


主は彼女の希望をくじくようなお方ではなかった。


だから、次の数歩が見えていれば、それで十分だった。

主が彼女の前を行かれ、

彼女が歩んでゆけるよう、足跡を残してくださるはずだから。


そして次のことも彼女にとって確かなものだった。


――彼女のつき従っているお方の目は、霧を突き抜け、

道の終わりまで見通しておられる。


だから、混乱し、迷うようなことは決してない。


するとその時、一つの歌が彼女に与えられた。


歩きながら彼女は歌った。


「あなたは私を多くの苦しみ、そして悩みに会わせなさいました。でもあなたは私を再び生き返らせ、地の深みから、再び私を引き上げてくださいます。」(詩篇71:20参)


「主は私の力、私の盾。私の心は主に拠り頼み、私は助けられた。それゆえ私の心はこおどりして喜び、私は歌をもって、主に感謝しよう。」(詩篇28:7)


「私があなたに呼ばわるとき、あなたは近づいて、『恐れるな』と仰せられました。主よ。あなたは、私のたましいの訴えを弁護して、私のいのちを贖ってくださいました。」(哀歌3:57-58)


「私の口には一日中、あなたの賛美と、あなたの光栄が満ちています。」(詩篇71:8)


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こうして彼女が歩き、歌っていると、他の人たちの耳に

――立ち込める霧のせいで彼女にはこの人たちのことが見えていなかったけれど――その歌声が聞こえてきた。


そしてそれによって彼らは慰められ、旅を続ける勇気が与えられた、、

そう最後まで従い続ける勇気が。




Amy Carmichael, Figures of the Trueより 私訳










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十数年前、私がまだ岡山に在住の頃の事である。

春なほ浅き3月7日朝9時15分、女児出生、初めてのお産であつた。

その朝、南国の春の空は真っ青に澄んで、まばゆいほど晴れ晴れと明るかつた。

私たちは晴れ晴れとした心持で生れた児に晴子といふ名をつけることにした。

産前の妻の健康が順潮でなかつたので、このお産は随分案じていたお産であつた。

然し格別の事もなくて割合にやすやすとお産がすんで終つた時、私達はどんなに安心し、どんなに喜んだことか。

諺に案ずるより産むは易いといふ。全くその通りであることを腹の底までこたへるほど感じた。まことに案ずるより産むは易いであつた。


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、、私は此時始めて、人間一匹が如何に貴重なものであるか、殊にその親にとつて子が如何にかけがへなく貴いものであるか、その事を悟つた。痛切に自覚した。

さうして私が学生たちを見るその眼が、此日を境にしてがらり一変して終つた。なるほど神様は99匹の羊を野に置いて、迷へる1匹を尋ね探したまふ筈だ。

神様は天にいます我らの父上でありたまふのだもの。その事が私に初めて納得できた。


それから二、三日過ぎての夜。風もなく、雲もなく、来客もなく、なごやかな静かな春の宵であつた。

私は妻の枕頭に坐つて、唯二人きりそこはかとなく物語りつつあつた。


勿論そこには赤ン坊の赤い赤い寝顔がある。私達二人は赤ン坊の将来について、夢のやうな希望や期待を語り合つた。

わざと薄暗くしてあつた電燈のやはらかい光、みどり児特有の愛すべき乳臭、静もりかへつた夜気。

其夜其時の光景は今もなほまざまざと私の眼底にある。

如何に平和な、如何に清らかな、その団欒のよろこびであつたか。

それが私たち三人この地上に於て持つことを許された短い、然り余りにも短い一家団欒のよろこびであつた。


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何故なら、その翌日あたりから妻は異常な高熱のため苦しみ始め、二十日ばかりで幼き晴子が先づ天にかへつたからである。

それにしてもあの夜の団欒は楽しかつた。その祝福をわたくしは忘れることができない。


やがて春も暮れ、南国のぎらぎらと強烈に暑い夏がやつて来た。

その7月4日、妻また晴子の後を追つた。其頃、私自身亦、終にたふれて、臨終の妻をみとりすることができなかつた。

私は病褥に横臥のまま黙々として妻の柩を目送した。

其時は涙さへ湧かなかつた。


然し五日過ぎ七日過ぎて、私は漸く黙々たるに耐へ得なくなつた。

強ひて黙せば胸がはりさける。

たまらなくなつて私は無茶苦茶に三十一文字を並べては枕頭の手帳に記した。


いも逝きて十日を経(ふ)なり朝まだき
ふと泪わきて とどめあへざり


君逝けど 君のいましし室にいて
もの言ひかはす まねしてみたり


が幸いにして私の病気は順潮によくなつて行つた。熱もほぼとれた。或る朝私は床を出て、まだ埋葬せずにある二人の遺骨を合はせてひとつ壺に納め、それを床の間に安置した。


いもとあこと灰にしあれど ひとつ壺に
をさめて なにか心なごみぬ


灰となりて かたみにいだくか あこといもと
わが膝の上の骨つぼをはや


やがて秋が来た。私はほぼ恢復した。

なんだか体も心も何物かに洗ひ浄められて、秋空のやうに澄み切つているやうな気持がしていた。

まだ体力に不足はあつたけれども、良し、これからは葬ひ合戦だとばかり、学校にも出るし、予定の計画に基く勉強にも精を出し始めた。


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極めて静かな、然し底深い力が、どこか天の方から来て私を支へてくれるやうな感じがした。

家の周囲に林のやうに群生していたコスモスが、何百枚かの友禅の晴衣を野一面にうちひろげたやうに眼もあやに咲き揃つた。

毎日のやうに近所の女学校の生徒たちがその花を貰ひに来た。妻はこの花がすきであつた。


風さやにコスモス咲けり この花を
ともにめでにし 妻よ月日よ


君逝きて この秋をなみだしげけれど
さやけきひかり 天にあふるる


聖国(みくに)にて君われを待てつちにいて
われ きみを仰ぐ ちからあはせん


無題


、、地上生活に於けるささやかな謙遜なよろこび。パンひとつ、果物ひとつを分けあふ喜び。

それは他の何物をも措いて求むべき不滅の宝ではないであらう。

然しやさしく美しき喜びである。


人生のさうしたつつましき喜び、ささやかな幸福、それは決して無意義なものではない。

、、家庭のうちのこのちひさき喜びを賞美することを、私も少しく学ばしていただいた。


この些細な祝福のためだけでも敢へて冒(をか)して家庭生活に飛び込んだことは充分に意味のあることであつた。

なぜなら結婚は私にとつては乾坤一擲(けんこんいってき)の大冒険であつた。


私が自分の一生の使命と信じて居る学問、それをさへ場合によつては妻子のために犠牲にしよう、さうする方が百巻の大著を完成するよりも、より真理に徹したる生き方である。

さう覚悟して後、初めて、私は敢へて一人の婦人を己が妻とすべく決意する事ができたのであつた。


私はこの覚悟に充分報いられて居つた。

家庭のうちなるつましき喜びに祝福あれ!


、、十数年前の平和な春の一夜のひと時の団欒。

私にとり永遠に祝福せられたる思ひ出の団欒である。


家庭の団欒に祝福あれ、そのつましきよろこびに祝福あれ。


天の川 親星子星百千(ももち)星
ちさく紅きは 嬰児星(みどりごぼし)かも







『三谷隆正全集 第二巻』より一部抜粋








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