その1その2からの続きです。





束の間の喜び



カイロに到着したガードナーは、驚くべき速さでアラビア語を習得し、エジプト入国後、一年以内に、すでにアラビア語で聖書を説くことができるほどまでになっていました。


いいえ、それだけではありません。友人たちの悲観的予測を打ち破るかのように、最初の数か月で、イエスさまを信じる現地人が複数起こされたのです。





落胆と失意



しかしながら、その時、彼はまだ中東宣教の本当の難しさを知らなかったのです。


ここの宣教地では一見、真実な「実」にみえて、実は「実」ではない――そういうまがい物が多く、しかもそれを見分けるのは至難の業です。


そういった困難にぶち当たったガードナーは、その思いを次のように日記につづっています。



最近、教会の二人のメンバーが背教していった。。。


そして二人とも公の場でキリスト信仰棄教を宣言し、イスラムに回帰した。


そしていつものように、牧師たちを中傷しつつ、教会を去っていったのだ。


イスカリオテのユダの性格は実際、ほんとうにあり得るのだということが、今、僕に初めて分かった。





また婚約者の女性に対しても次のような手紙を書き送っています。



晴れ渡った空のような青年期がもはや永遠に僕の元から去っていってしまったように感じる。


そして、なにか、より物悲しい人生の段階にさしかかったかのようだ。


ああ未来を向こうにも、そこにもまた同じ失望が広がっているような気がする。


――イスラム教に対峙するというこの報われない労苦の日々、厳しい気候、まだまだ未踏で手つかずの開拓分野、そしてなにより、こういったひどい失望の連続。。。


でも、これが僕の選んだ人生だ。おお、主よ、助けたまえ!


そして僕は君にもここに来て、僕と共にこの人生を共有してほしいと願っている。



Constance E. Padwick, Temple Gairdner of Cairo (London: Society for Promoting Christian Knowledge, 1930), 95





1902年の秋、ガードナーと婚約者マーガレット・ミッシェルは結婚しました。


マーガレットも女性宣教師としてインドに派遣される過程にありましたが、結婚を機に、彼女もカイロに派遣されることになりました。


ガードナーはキーボード奏者で、ヴァイオリン奏者のマーガレットと共に家で賛美コンサートを開きましたが、彼には一つの夢がありました。


それは「いつの日か、この地のキリスト教会で、中東独自のメロディーを奏でた賛美がささげられること」でした。(註1


その当時、そのような考え方を持っていたガードナーは、他の宣教師と比べても一時代先を行っていた感があります。





キリスト教弁証家として




またそれまでの(イスラムに対する)キリスト教弁証のあり方が、どちらかといえば攻撃的でポレミックであったのに対し、


ガードナーが、イスラム教への攻撃よりはむしろ、「彼らがつまずきや疑問を覚えやすいキリスト教の教えや教理に対する説明そのもの」に重点を置いていくアプローチをとったことは注目に値します。


しかしそうではあっても、クリスチャンの福音宣教において、ある種の「対決」は避けられないとして、彼は次のように言っています。



平和的な繊細さはより磨かれなければならない。


しかしここぞという時、この宗教との「対決」は、どうしても避けて通ることはできないと思う。





福音宣教に対し、彼には次のようなモットーがありました。



すべての「議論」や「対話」は、無礼に人を非難するためではなく、むだに比較するためでもなく、まただらだらおしゃべりするためでもなく、あくまでも救霊――このためになされるべきである。





イスラム教徒に対する私たちのメッセージには「歌」の楽譜が必要。


それは論争で音のはずれた楽譜ではなく、むしろ、喜びに満ちた証、そして優しい招きを含んだ音の調べであるべきだ。






助け手の欠乏



ガードナーの宣教人生を通しての最大の悩みは、助け手の欠乏でした。


特に長年の同労者であったダグラス・ソーントンの死後、彼は孤独に耐えながら、多くの仕事――しかも、その多くは直接伝道には関わりのないChurch Missionary Societyのオフィス・ワークであり、それがまた彼には心苦しい点でした――をこなさなければなりませんでした。






キリストのからだの一致を求めて





またガードナーは、宣教地で互いに仲たがいするキリスト教の教団・教派の対立にも心を痛めており、なんとかそこに平和と一致をもたらすよう努めていました。



セクト主義に次ぐセクト主義。。。エスカレートする互いに対する排他精神。


実際、私たちは主の御名によって、互いを破門し合っているではないか!


そしてそんな私たちの様子をイスラム教徒はうんざりした目で見ているのだ!






他の大半の宣教師たちとは違い、ガードナーはコプト教会のクリスチャンたちとも友好な関係を持っていました。


しかしながら、彼はまた一方で、福音伝道に対する情熱をもったコプト教徒の少なさにも心を痛めていました。



ああ、いつの日か、コプト教会内にも宗教改革が起こり、「改革派コプト教会」というのが興されればどんなにいいだろう!


そうすれば、喪失していた教会の最後の楽譜――エヴァンジェリカルな闘志(evangelical militancy)と、普遍性(catholicity)――がついに完結することになると思う。







最大の危機




1914年、ガードナーの牧していた小さな群れにイスラム教徒からの激しい暴動が起こり、彼らは絶体絶命の危機にさらされました。


彼は信者たちを率い、砂漠にある洞窟に入り、そこで群れにみことばをもって勧告し、励ましました。


それは復活祭の時期にも重なっていたため、彼はこの時のことを「黒い聖週」と呼んでいます。



私たちは神の力を祈り求めました。


私たちは一つにまとまっていたため、この時期に背教する者はほんの一人か二人でした、、、


そして今、私たちは再び息を吹き返し、神の御力を信じ、さらに祈っています。


幸いなことに、このような危機に直面していたのは私たちだけではないのです。


この点で、本当に苦難を通らされたのは、1世紀のクリスチャンたちだったと思います。


なぜなら、彼らにはまだ教会史がなかったからです。


その意味で、私たちは、そういった先人たちの証を参考にすることができるわけですから、なんと幸いなことでしょう!







おわりに




ヘンリー・テンプル・ガードナーは、その後も忠実にカイロの地で福音の種を蒔き続け、1928年、数か月肺の病で苦しんだ後、天に召されました。


実用主義的な観点でみれば、彼の長年の労苦はまことに報われない種類のものだったのかも知れません。


しかしながら、イスラム教徒に対する純粋で混じり気のない愛、十字架の愛は、彼の献身の生涯を通し、今も私たちにチャレンジを与えているのではないでしょうか。


――いったい、私やあなたにとって、神の召命、そして聖書の真理は、どのくらい大切なものなのでしょうか。


それは、私たちのすべてを賭けるほどに、それほどに大切なものでしょうか、と。





註1)

《中東独自のメロディーを奏でた賛美の一例》

伝統楽器の調べに合わせ、キリストへの讃歌を詠ったこの信仰詩は内容的にも霊的にもすばらしいと思います。







そして、↓はクリスチャンの吟詠詩ではありませんが、私の祈りは、このような霊の高峰をすでに歴史的に経験的に「知っている」彼ら中東の民が、

――薄っぺらで肉的な流行文化に惑わされることなく――、いよいよまっすぐに高らかに、そして清らかにイエス・キリストへの賛美を歌い上げ、

それによって多くの真摯な求道者たちが、三位一体の神の、言語を絶する美しさ・偉大さ、そして愛に惹きつけられ、救いに導かれることです。









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世界の福音宣教化を最も妨害しているのは、キリスト教会の中にいる人々自身である。


―ジョン・R・モット

(ヘンリー・ガードナー青年の献身にあたり、甚大な霊的影響を与えた人物。)






世界宣教へのビジョン



そんな折、二人の米国人伝道者が宣教の必要性を訴え、英国を巡回していました。Student Volunteer Movementのジョン・R・モットと、ロバート・スピールです。



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Robert Speer



二人のメッセージに耳を傾けるガードナーの心は熱く沸き立ち、その日の出来事を、次のように日記に記しました。



聖餐式、、、新しい時代の息吹を感じる、、、夜の集会。スピール氏は、実に油注がれた人物だ。「この世代における世界の福音化。」こんなこと、今まで一度も聞いたことがなかった。


Constance E. Padwick, Temple Gairdner of Cairo (London: Society for Promoting Christian Knowledge, 1930), p.38, 48






中東宣教への召命



その後、まもなくガードナーは主からの強烈なcalling――それも中東のイスラム教徒に対する福音宣教――を感じるようになり、大学卒業後、自らの人生を主の働きに捧げることにしました。




周囲からの大反対



しかしながら、ガードナーのそういった決心は、両親を始めとする多くの人々の反対にさらされました。


「それはあまりに馬鹿げている。優秀な君のその才能と将来をむざむざ地に埋めてしまうつもりか?それはいくらなんでもひどすぎる。」


ある友人は嘆いてこう言いました。


「みんな彼のことで嘆いている。人生をマホメッド教の人々への福音宣教にかけるという彼の決心のことで。でも僕たちに聞くところによれば、中東伝道とは大変困難なものであるそうだ。一人の改宗者が生まれるために、宣教者たちは何年も労しなければならないと。。」


ヘンリー・マーティンが、宣教地に共に行くことを拒む婚約者リディアか、それとも宣教に賭ける孤独な人生か、という二択を迫られたように、ガードナーも、究極の選択を迫られたのでした。


そして、彼は「神の国とその義」を第一に求める道を選んだのです。


こうして彼は、親友のダグラス・ソーントンと共に、Church Missionary Society (CMS)を通し、エジプトの首都カイロに派遣されました。




つぎに続きます。






【付録】


大学生たちを世界のmission fieldへ ~The Student Volunteer Movementの歩み~



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source




2016年現在、CCC,YWAM,OM,Gospel for Asiaなど多くの(学生)宣教団体が世界規模で宣教活動をしていますが、その運動の口火を切ったのが19世紀後半に米国の大学生たちの間で起こったThe Student Volunteer Movementでした。


1886年夏、大伝道者D・L・ムーディーがマサチューセッツ州のヘルモン山で大学生たちを対象に集会を開いたのですが、その時に炎のような聖霊の働きと促しがあり、一時(いちどき)に100名の学生たちが自らの人生を海外宣教に捧げる決心をしたのです。


この時の劇的な出来事は「The Mount Hermon One Hundred」と呼ばれています。




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The Mount Hermon One Hundred





その後、学生リーダーのロバート・ワイルダーが全米の大学を巡り、さらなるミッション・コールを説くと、まもなく志願者数は、2000名を超えるようになりました。




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Robert Wilder




これはプロテスタント宣教史の中でも驚くべき出来事だといえると思います。


というのも、それ以前、アメリカのプロテスタント全体が送り出していた宣教師は1000名にも満たない数だったからです


1886年から1920年にかけ、SVMは、実に8742名の宣教師を世界に派遣したのです。


(SVMのメンバーでなく間接的に影響を受けた宣教師を含めるなら、その数は1万6000名以上にも及ぶといわれています。)


こういった力強い御霊の働きと流れの中で、ヘンリー・ガードナーという一青年もまた、中東宣教に自らの人生を捧げる決心をしたのです。





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D・L・ムーディー






その他、SVMの青年宣教師たちの一例





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ケンブリッジ大から中国へ向かった7人の若者たち。「ザ・ケンブリッジ・セブン」と呼ばれています。

写真の後列左は、有名なC・T・ストゥッド宣教師。彼はケンブリッジ大の有名なクリケット選手でしたが、献身後、海外宣教に人生を捧げることに決心。他の6人と共に中国に向かいました。






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グレース・ワイルダー(上記のロバート・ワイルダーの姉。20代半ばでインドへ宣教師として向かいました。)





↓画像の中に多くの宣教師たちの写真が出てきます。









はじめに



キリスト教宣教史の中における最初の本格的イスラム伝道は、13世紀、レイモンド・ルール(Raymond Lull)の孤高な試みによってスタートを切ったといっていいでしょう。




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Raymond Lull (1232-1315)



しかしながら、教会史家のステファン・ニールの言葉を借りると、その後の数世紀間というもの、「イスラムの地は、クリスチャン・ミッションからほぼ見放された状態にありました。」註1


註1) Neill, Stephen. A History of Christian Missions. The Pelican History of the Church, Hammondsworth, Middlesex, England: Pelican Books, 1964.



しかし、19世紀後半になって、北インドおよびペルシャに遣わされた聖公会のヘンリー・マーティンが起こされ、その後、他の教派もおずおずと重い腰を上げ始めました。



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Henry Martyn (1781-1812)



そんな中、学生ボランティアのサムエル・ツヴェーマーという23歳の勇敢な若者が立ち上がりました。


この若者はほとんどどこの教派からの理解もサポートもなしに宣教地(アラビア半島)に飛び出して行き、結果として、彼の火のような生涯を通し、他の大型教団すべてが総がかりでも成し遂げられなかったようなこと――


つまり、キリストの福音がイスラムの地に伝えられることの絶対的な必要性――を無数のクリスチャンの心に訴えかけ、台風のような疾風と情熱でアラブ・ミッションに対する人々の姿勢を一転させたのでした。




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Samuel Marinus Zwemer, 1867 – 1952 
「イスラムへの使徒」とも呼ばれています。





サムエル・ツヴェーマーという器を米国ミシガン州で整えていた主は、同じ時期に、スコットランドの地においてもある一人の若者の人生に働きかけていました。


それが今日、この記事で取り上げようとしているヘンリー・ガードナーです。





生い立ち



ウィリアム・ヘンリー・テンプル・ガードナーは、1873年7月、スコットランドのアイルシャー州で生まれました。


父はグラスゴー大学の医学部教授で、いわゆるエリート家庭の子弟として彼は育ちました。



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William Henry Temple Gairdner



両親は福音的な信仰は持っておらず、ガードナー自身も幼少期から青年期にかけ、生きた神との交わりなしにこの世での歩みをしていました。




転機



しかしオックスフォード大学入学後、彼の人生に大きな揺さぶりがかけられました。


その頃、学内にはOxford Inter-Collegiate Christian Unionという福音信仰の学生宣教団体が熱心に活動しており、ガードナーもその感化を受け始めたのです。


しかし彼の「理性的な」目に、彼ら宣教団体の学生たちはあまりに「熱狂的」に映りました。


そこで彼は彼らの輪に入りつつも彼らとは微妙な距離をとることによって、自分はあくまで「静かで」「常識的な」証人になろうと努めました。


しかし彼はそういった自分のあり方に平安を感じることができませんでした。


その当時の心的葛藤を彼は家族に次のように書き送っています。



僕は知っているんです。これ(=キリストの福音)はやがて世界を征服すると。


でも、オックスフォードでは、もし誰かが自分の個人的な確信や熱心さを外に表わそうものなら、とたんに(マイルドな意味での)愚鈍者扱いされてしまう。。。


でもfanaticな奴だと思われるのを覚悟で、今、僕は自分の身の振り方を決めなければいけないような気がしてならない。。


ああ非常に困難を覚える。ここの大学にいると余計にその難しさを感じる。


そんな中、僕は他の人にこう訊かれたんです。「そういうあなた自身は、彼らより優った人物なのですか?」


いや、違う。僕は優ってなんかいない。優っているのはキリストのみ。


Constance E. Padwick, Temple Gairdner of Cairo (London: Society for Promoting Christian Knowledge, 1930), p.29.






つぎに続きます。



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野外伝道するジョージ・ホワイトフィールド (1714 – 1770)


George Whitefield, Portrait of a Revival Preacher by Leonard Ravenhill より




火は別の火を生じさせる。


燃えさかるジョン・ウェスレーのあの情熱は、ジョージ・ホワイトフィールドの感化によるものだったと私は思う。


アメリカに到着後、ホワイトフィールドは、情熱の炎をここでもまた点火させた。そう、今回はギルバート・テンナント(Gilbert Tennant)の心にその火がつけられたのだ。


こうしてホワイトフィールドが米国ニューイングランドを去った後、テンナントの説教を聞きに、雪をかきわけ、人々が押し寄せるようになったのである。


☆☆


ホワイトフィールドを神の国に導く道のともしびの灯となったのは、一冊の本だった。


オックスフォードの学内で、彼を見かけたチャールズ・ウェスレーが、彼にヘンリー・スクーガルのThe Life of God in the Soul of Man(「人の魂の内に存在する神のいのち」)という著書を手渡したのである。


アメリカに到着後、ホワイトフィールドは先住民たちに福音を伝えようと、欝蒼とした森をかき分けて行った。


小屋から小屋へ、部族から部族へと彼は宣教しつつ移動していった。また、貧弱なカヌーで急流を渡り、デラウェア族のいる野営地になんとかたどりつかんとした。


また英国においても、彼は野外伝道に駆け出していった。「(通りで福音説教する)私への報酬は、なげつけられた石、ごみ、腐った卵、切り刻まれた猫の死体、、などだった。」


☆☆


グロスター出身の彼は、メアリー女王の治世に、キリストの福音を大胆に宣言していくことがどんな危険をもたらすかについても熟知していた。


事実、グロスター教会のフーパー司教は、教会前で火あぶりの刑に処されていた。



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John Hooper (1500 – 1555)



しかしホワイトフィールドは、主への従順の結果、どんなことが身に降りかかろうとも、そんなことは気にしていなかった。


ウィリアム・ティンダルもグロスターの男であったし、彼の信仰が最終的にどんな代価を彼に払わせたかは、皆、ご存知だろう。


☆☆


金銭に淡泊だったルターに対し、かつて教皇は次のようなお世辞(?)を言ったことがあった。


「あのドイツ獣は、金(ゴールド)を愛していないときてる。」そしてこれは、ホワイトフィールドについても言えたと思う。


ホワイトフィールドの宣教の力の秘訣は何だったのだろう。私は次の三点だと考える。


)彼は、純粋な福音を伝えた。
)彼はパワフルな福音を伝えた。
)彼は情熱的な福音を伝えた。




ホワイトフィールドと共に宣教のわざにつき、寝食を共にしたコルネリウス・ウィンターはこう言っている。「彼の説教が涙なしで完結したことはほとんどなかった。」


また、抜け目がなく、冷血漢の哲学者であった米国のフランクリンは、この伝道者について次のように描写している。


「彼の説教によって、フィラデルフィアの人々の態度が変わった。これはすごい。かつてここには思慮もなく、信仰のことなど無関心な雰囲気が漂っていたのに、今ではその地域一帯が信仰心を強めているようにさえ見えるのだ。」


さらにジョン・ウェスレーは彼についてこう言っている。


「これほどまでに多くの罪びとを悔い改めに導いた人物について、未だかつて見たり聞いたりしたことはあっただろうか。然り、ホワイトフィールドのように神の祝された器として、無数の罪びとを暗やみから光の元へ、サタンの勢力下から神のご支配の元へ導き入れた人物がかつていただろうか。」


おお、ホワイトフィールドの仕えし神よ、彼のように魂に重荷をもち、燃えるような舌と涙にあふれた目で、講壇に立つことのできる巨人を、今日また起こしてください。


そして主よ、どうか迅速にそれをなしてください!







ーおわりー





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なんら人々のご気分を害さないような説教、

それを聞いても、聴衆者が、自分自身にも、説教者にも嫌気をもよおすことのないような説教―、

そういったものは、おそまつな説教だと言わねばならない。








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あなたがたは、私が涙を流すことを責め立てている。

しかし、あなたがたは自らの不滅の魂が、今まさに永遠の滅びの淵(ふち)にあるにもかかわらず、(そういう自分の悲惨を思って)涙することをしていない、、、それを思う時、誰が泣かずにいられようか?








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隠れた場所で、一人、大いに祈りなさい。
人との多言を避け、神と共に多くの時間を過ごすよう
努めなさい。









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祈りの情熱―レオナルド・ラーベンヒルの捧げた祈り

レオナルド・ラーベンヒル(1907-1994)が遺してくれた霊的遺産―説教録より

レオナルド・ラーベンヒル(1907-1994)が遺してくれた霊的遺産(2)―至言集

レオナルド・ラーベンヒルの遺してくれた霊的遺産(3)―荒野で叫ぶ預言者の声ー




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「神の言葉にとらわれた私の良心は取り消せぬ。
私はここに立つ。
神よ、私を助けたまえ。アーメン。」



私:「むしろ本質的に変わってしまったのは、〔組織的エキュメニカル運動を推し進めるカトリックというより〕プロテスタントの方でしょう。」

はっと目を覚まさせられるような深い指摘です。

私たちプロテスタントが本質的に変わってしまったのは、16世紀の宗教改革者たちが持っていたような、聖書の真理に対する燃えるような愛を失ってしまったからでしょうか。

あるいはボイド神学で提唱されているような「疑い」や「不確かさ」を、「確実さ」以上に称賛しほめたたえるイマージング系の流れ が想像以上に私たちのメンタリティーに浸透してきているからなのでしょうか。

私たちはどうしたらいいのでしょうか。

この流れに押し流されないための知恵をください!




ミヤサカ兄弟からの応答

主なる神は、歴史の中で常に御言葉を畏れ、ご自身に仕える民を召し、地上に与えています。

たとえどんな代価を払わなければいけなくとも、自分達が学び、獲得した確信に留まる

前述のルターの選択だけでなく、星の数ほどの神の僕らの証が私たちに語りかけていると思います。



「たとえどんな代価を払わなければいけなくとも、自分達が学び、獲得した確信に留まる。」

この記事では、そんな「星の数ほどの神の僕らの証」の一つを、みなさんと共有できたらと思います。

以下は、宗教改革期に福音信仰に立ったために、殉教の道をたどることになった一人の女性の手記です。

(出典:Foxe's Book of Martyrs, p.329-334)


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(1563年初刊)



アン・アスコー婦人(Mistress Anne Askew)の証し

16世紀、英国
 





異端審問所での第一回目の審問(AD1545年)



クリストファー・デールという人がサドラー会堂で私を取り調べ、次のように言いました。

「あなたは『聖堂で5回ミサを聴くよりは、聖書の中の5節をむしろ読みたい』と言ったそうだが、それは本当か?」

それに対し、私は「その通りです」と申し上げました。

それは新約聖書の書簡や福音書を軽んじる気持ちで言ったのではなく、聖書が自分を非常に建て上げるものであるのに対し、ミサは自分にとって益するところがないという意味で申し上げたのです。

するとデール氏はさらに私を告発して言いました。

「あなたは、『もし邪悪な祭司が人々に奉仕するなら、それは神ではなく悪魔の働きです』と言ったはずだ。」

それに対し、私は「そのようなことを申し上げたことは一度もありません」と答えました。

そして続けてこう申し上げました。

「誰が私のために教会の奉仕を行なおうと、その人の邪悪な状態は、私の信仰にダメージを及ぼすことはできません。なぜなら、私は霊において、キリストのみからだと血を受けるからです。」

☆☆

また彼は罪の告解について私が何と言ったかを問いただしました。

私は答えました。

「聖ヤコブが言っているように、『あなたがたは、互いに罪を言い表わし、互いのために祈りなさい』(ヤコブ5:16a)というのが(罪の)告解の意味するところだと私は考えています。」

するとデール氏は、一人の祭司を呼び出し、この祭司は私に訊きました。

「あなたは、私的ミサが、この地上を去った魂の益になるとは考えていないのか?」

「キリストが私たちのために死んでくださった事以上に、そういった事を重んじるのは、非常な偶像礼拝だと思います。」

☆☆

すると今度は、司教代理が私を糾弾して言いました。

「あなたは聖句を大いに引用しており、それは非常に責められてしかるべきである。なぜなら、聖パウロは、女が神の言葉や御言葉について話すことを禁じているからだ。」

私は司教代理に答えました。

「ええ、私もパウロの言わんとしていることを理解しております。1コリント14章で、パウロは、『教えという形で』集会の中で、女性が話してはならないということを言っています。司教代理さまにうかがいますが、どなたか女性が講壇に上がり説教したのを、未だかつて目撃されたことはありますか?」

すると司教代理は答えました。「一人も見たことがない。」

「それならば、明らかに掟を破ったのではない限り、こうした哀れな女性たちを糾弾するのはどうかおやめください。」

☆☆

その後私は監獄に連れていかれ、そこに11日間とどまりました。

面会者は誰も許されませんでした。




グレーンウィッチ市にある王国評議会の前における私への尋問




彼らは、私がこの件を王の前に申しあげることが望ましいと言いました。

私は「そうはしたくありません」と率直に言いつつも、「しかしそれが王の望まれることならば、私は王に真理を証したいと思います」と答えました。

すると、司教代理が秘蹟(サクラメント)に対する私の見解について尋問してきました。

「私はキリスト集会の中で、キリストの死を覚えるパンをいただき、感謝と共に、もっとも栄光ある主の受難の実をいただいております。」

しかしウィンチェスターの司教は、「遠まわしな言い方ではなく、はっきり質問に答えなさい」と言いました。

「見知らぬ土地では、主に捧げる新しい歌は歌いません。」

「そんな風にしてあなたはたとえ話でばかり話している。」

「司教様、それがあなたにとっては良いのです。なぜなら、『もし私があからさまに真理を話すなら、あなたはそれを信じないでしょうから。』」


「司教様、私はあなたの手によってもたらされるあらゆる苦しみを甘受する覚悟ができております。

ええ、非難や糾弾といったものだけではなく、それに続くあらゆるものを、です。それらすべてを喜んで甘受しようと思っています。」

☆☆

エセックスの主教、およびウィンチェスターの司教は、秘蹟が肉であり、血であり、骨であると告白するよう私に迫りました。

私は申し上げました。

「司教さま方、ご自分の知識に反するようなことを他人に勧告しておられるのは、あなたがたにとって大いなる恥ではありませんか?」

司教は「あなたとざっくばらんに打ち解けて話し合いたい」と言いました。

私は答えました。「ユダもそうしました。彼がキリストを否んだその時に。」

すると今度は、司教は私と私的に話したいと言いました。しかし私はそれを拒みました。

「なぜだ?」と司教は訊ねました。

「なぜなら、すべての事実は、ふたりか三人の証人の口によって確認されるものだからです。」(Ⅱコリント13:1)

「それなら、あなたは火で焼かれるべきだ」と司教は言いました。

私は答えました。

「聖書をくまなく調べましたが、キリストや使徒たちが他の人間を死に至らしめたという記述を私はどこにも見いだすことができませんでした。」

こうして私はニューゲート監獄へ送られました。



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ニューゲート監獄




ニューゲート監獄を出てから起こった出来事


その後、ライヒ長官および、ロンドンの司教が、あらゆる手を尽くし、おべっかをも使いながら私を神様から引き離そうとしてきました。

しかし私は彼らの懐柔策にはだまされませんでした。

そうすると、今度は、ニコラス・シャクソンという人が私の所に送られてきて、「私も以前、あなたのような信仰を持っていましたが、棄教しました。あなたもぜひそうなさってください」と私に助言してきました。

私は「そういう人は生まれなかったほうがよかったのです」(マタイ26:24)と申し上げました。

☆☆

その後、彼らは私を拷問台にのせました、、

私が泣き声を上げず、じっと静かに耐えていたので、司教代理とライヒ長官は、私をさらに痛めつけようと、自らの手でもって私を拷問の苦しみに遭わせました。

その痛みの中で私はほとんど死んだような状態になりました。

すると副官が私を拷問台から降ろすよう命じました。

すぐに私は失神しました。

その後、地べたに座らされたまま、二時間という長い時間に渡り、私は司教代理の尋問を受けました。

彼は甘言をもって、「自分の意見に固執してはいけない。意固地になるのはよくない」と言ってきました。

しかし主なる神は(主のとこしえのすばらしさに感謝しています)、私に耐える力と恵みを与えてくださいました。

そしてああ、願わくば、最後まで耐え忍ぶことができますように!

☆☆

それから後、私は家に戻されました。

骨々が痛み、私は寝台に仰臥しましたが、主なるわが神に感謝を捧げています。

司教代理から言付けがありました。――もしも私が自分の意見を撤回するなら、これから何不自由なく生きていくことができる。

しかしもし私が自分の信仰にあくまで固執するなら、その時には再度ニューゲート監獄へ送られ、そこで火あぶりの刑に処せられると。

私は彼に返答の文をしたためました。

「自分の信仰を棄てるよりは、私はむしろ死を選びます。」



―アンの手記はここで終わっていますー




〔著者ジョン・フォックスによる後書き〕


処刑日が定められ、この敬虔な女性は椅子に乗せられたまま、スミス・フィールドの処刑場に連れてこられました。

激しい痛みのため、もはや歩行が不可能だったからです。

火刑柱の所に引いてこられると、彼女は鎖で柱に結び付けられました。

多くの群衆が周りを取り巻いていました。

また(目の前にある)聖バルトロマイ教会の議員席には、英国司教代理のライオットへスリー、ノーフォークの公爵、ベッドフォードの伯爵、市長など多数が座っていました。

火がくべられる前、議員の一人が、火薬の力で火の付いたまき束がこちらにも飛んでくるのではと懸念の声を挙げました。

それに対し、ベッドフォードの伯爵は、「火薬はまき束の下に置かれるのではなく、犯罪人の苦痛を取り除くべく彼らの体の周りに備え付けられるだけですので。」と説明を加えました。

その後、ライオットへスリー英国司教代理、および代理がアン・アスコー婦人に「あなたが信仰を撤回するなら、王の恩赦に与ることができる」と言い渡しました。

それに対し、アン婦人は次のように答えました。

「私はわが主を拒むようなことはいたしません。」

こうして火炎に包まれたアン・アスコーは、神に捧げられし祝福された犠牲として、1546年、主の中で眠りにつきました。

そして、われわれ信仰者が見倣うべきキリスト者としての貞節と忠実さを証する、並はずれた模範をこの世に遺していきました。



ーおわりー



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William Tyndale

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はじめての実


ロレンゼンというオランダ人植民者に雇われ、レオナルドとデイヴィッドは新築工事を手伝いつつ、そこに寝泊まりを始めました。

そしてさっそく、島をめぐりながら、奴隷アンソニーの姉アンナを探し始めたのです。

はたして島の南部プランテーションに彼女はいました!

彼女は自分にやさしく話しかけてくる二人の白人に驚き、さらに、ヨーロッパに連れられていったきり、行方の分からなくなっていた弟アンソニー直筆の手紙を見て、驚愕の余り言葉を失いました。

「私たちは、あなたにすばらしい救い主イエス・キリストのことを伝えに来ました。」

レオナルドはドイツ語とオランダ語とジェスチャーを交えながら、アンナにキリストの福音を語りました。(*セント・トーマス島の奴隷たちはオランダ・クレオール語 Dutch creoleという混成語を話していました。)

アンナはすぐさま家族や友だちを呼び寄せ、二人の語るキリストの愛の言葉にじっと聞き入ると、手を叩き、喜びを表現しました。

心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人のものだからです。
悲しむ者は幸いです。その人は慰められるからです。

マタイ5:3,4



レオナルドは、ゆっくりとシンプルな言葉を使い、神の御子について、そして御子の流した血潮と御傷について彼らに語りました。すると、アンナだけでなく、アンナの夫のゲルド、兄のアブラハムも、子どものような素直さをもって神の小羊に心を明け渡したのです。

しばらくした後、アンナは言いました。

たとい全世界を手にいれることができるとしても、もしもそれによって救い主イエスから引き離されるのだとしたら、私は迷うことなく全世界を捨てようと思います。



プランテーションでの過酷な労働の間にもアンナの祈りは絶えることがありませんでした。

日々の労働のため私には落ち着いて祈りを捧げる時間が与えられていません。でも私の心は絶えず、絶えず、救い主イエスの御名を呼び続けています。このようにいつも主と一緒にいることができるよう御計らってくださった神様に私は感謝しています。




死にゆく奴隷たちを看取って


4月17日には、同伴してくれたデイヴィッドが別の働きのためヨーロッパにいったん戻ることになりました。

島の奴隷たちの多くは、マラリア、破傷風、天然痘、癩などの病に侵され、死の淵をさまよっていました。

レオナルドは「魂にキリストの福音を伝えるためには、あなた自身がまず、それらの人々のただ中で生きる必要がある」というツィンツェンドルフ伯の言葉を思い出し、奴隷たちのあばら屋の近くに移り住み、彼らの看病を始めました。


レオナルド、病に倒れる


7月11日、ハリケーンがセント・トーマス島を襲いました。地下水や井戸のない島はとたんに干からび、多くの奴隷たちは飢えと渇きから命を落とし始めました。

その頃、レオナルド自身、体にほてりと気だるさを感じ始めるようになっていました。そのほてりはやがて高熱となり、起き上がることもできなくなった彼は、一人もだえ苦しみました。(*おそらくマラリア熱だと思います。)

さらに11月、隣のセント・ジョン島で奴隷たちの反乱が起こりました。

反乱の余震はセント・トーマス島の黒人の間にも及び、恐れた白人領主側は、さらなる拷問と極刑をもって、この不穏と反乱の気運を鎮めようとしました。

今や島全体がカオスとなっていました。誰もが明日のことを恐れ、希望を失っていました。

しかし、そんな中にあって、一人、また一人と主は砕かれた魂を、病床にいるレオナルドの元に送ってくださいました。

こうして高熱に苦しみハンモックの中に横たわりながらも、レオナルドは魂の救いを求めてくる黒人たちに、福音の希望を語りきかせ続けたのです。


レオナルドとモラヴィア宣教団のその後


一命をとりとめたレオナルドはその後も、誠実に奴隷たちの間で仕え続け、西インド諸島における最初の「種蒔き人」となりました。

その後、彼は教会の要請でドイツのヘルンフートに戻り、今度は、牧者として、何百人という若者を世界に遣わし彼らを育成する「メンター」の働きを担うよう召されました。

1734年には、レオナルドに続く第二群目の兄弟姉妹が、西インド諸島にたどり着きました。

親友のトビアス・レウポールド兄、デイヴィッド・ニッチマン兄、マティアス・シンドラー兄、マティアス・ミクシュ兄、カスパー・オエルシュナー兄、ウェンツェルとデイヴィッド・ウェーバー夫妻、ティモテウス・フィードラー一家、マーティン・シェンク兄、ジョージ・ウェーバー兄、ヨハン・ボーン兄、マティアス・クレムサー兄、クリスチャン・ネイサー兄等



しかし天候やウイルス、厳しい生活環境ゆえ、命を失う兄弟姉妹が続出しました。

9月4日にはクリスチャン・ネイサー兄が死に、翌月にはウェーバーの妻が召されました。二週間後には、マティアス・クレムサー兄、エリザベス・ウェーバー姉、マティアス・ミクシュ兄が亡くなりました。翌年の1月には親友のトビアスも亡くなり、第二群の中ではわずか七名だけが生き残りました。

しかしヘルンフートの教会では、その後も献身する若者たちが後を絶たず、さらに多くの勇敢な若者たちが西インド諸島に遣わされていきました。

(この期間におけるモラヴィア兄弟姉妹の苦難と勝利の記録については、Peter Hoover, Behold the Lamb: The Story of the Moravian Churchの第12章Into All The Worldをお読みください。here


おわりに


1768年までに、ヘルンフートから遣わされた兄弟姉妹の内、実に79名もの若者たちが西インド諸島で命を失いました。しかし主に捧げられたこれらの命は、かの地で苦しむ奴隷たちの間に永遠の実をもたらすものとなりました。

これらの期間を通し、セント・トーマス島だけでも実に9000人近い奴隷たちが、イエス・キリストの救いの御胸に抱かれていったのです。しかもそれは始まりにすぎませんでした。


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イヌイット語をマスターし、エスキモーの人々に福音を伝えるJens Haven兄、1764年、Nain, Labrador

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北米の先住民に福音を伝えるDavid Zeisberger兄。
彼は「Delaware族への使徒」と呼ばれ、先住民インディアン諸語の翻訳も行ないました。


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Miskito Coast(現:南米ニカラグア)にも、モラヴィア兄弟団の若者たちは福音を伝えに出て行きました。


あの時、コペンハーゲンの波止場で「無学で愚かな」二人の若者をあざ笑った人たちは今どこにいるのでしょうか。

しかし神は、知恵ある者をはずかしめるために、この世の愚かな者を選び、強い者をはずかしめるために、この世の弱い者を選ばれたのです。

また、この世の取るに足りない者や見下されている者を、神は選ばれました。すなわち、有るものをない者のようにするため、無に等しいものを選ばれたのです。

これは、神の御前でだれをも誇らせないためです。1コリント2:27-29



また私はレオナルド青年の信仰や生き方を通して、「すべての人に、すべてのものとなりました。それは、何とかして、幾人かでも救うためです」(1コリ9:22b)という御言葉がまことに然りであることを学びました。

アフリカ人の奴隷にキリストの愛を伝えるために、自らも奴隷となる覚悟で現地に行き、彼らのただ中で生き仕えたレオナルド・ドーバー。

天より来、「人となって」、「暗黒と死の陰にすわる」私たちの間に住まわれた(ヨハネ1:14a、ルカ1:79a)イエス・キリストの御霊がこのしもべの内に宿り、生きて働いていたのだと思います。

そしてこの御霊は不滅です。

ですから、たといこの世やこの世に属するものが巨大な悪と罪のシステムの中で堕落していこうとも、背教していこうとも、御霊は永遠の力をもって個々の信仰者の心に働きかけ、これからも第二、第三のレオナルドを各地で起こしてくださるでしょう。


マラナタ、マラナタ、
主イエスよ、来てください。


わが主の来られる道を備えよう。
十字架を負って、地の果てまで行こう。


わが主の栄光、地をおおう時、
我、地の果てで 主を迎えよう。


主が来られる日までこの道を歩む。
険しい道 十字架を背負い


この道の果てで 愛する主に会える。
栄光のわが主 我を迎える。


主の来られる日まで 立ち上がり 進み行く。
主の栄光あふれる日 立ち上がり 賛美せよ。



ーおわりー


主要参考文献
J.E.Hutton, A History Of The Moravian Church, Second Edition, 1909
Peter Hoover, Behold the Lamb: The Story of the Moravian Church, 2005


↓モラヴィア兄弟団についてのおすすめVTR(とても励まされます!)




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セント・トーマス島


こうしてレオナルドとデイヴィッドの乗った船は、1732年12月13日、セント・トーマスの港に無事、着きました。

二人は目を輝かせ、カリブ海に浮かぶ島の情景に見入りました。

赤い屋根は太陽の光を受けきらめき、ヤシの木は銀色の海辺にどこまでも続いていました。向こうの方にはやわらかい緑の丘が見え、その上には紺碧の空がひろがっていました。なにもかもが美しく、まるで天国のようでした。


呪われたパラダイス


しかし島の中に一歩足を踏み入れた彼らの目に飛び込んできたのは、想像を絶する人間の悲惨でした。


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白人領主に鞭打たれ、蹴られながら砂糖プランテーションで酷使されている黒人たちの数の多さと、その惨状に、二人は声を出すことすらできませんでした。

さらにショックだったのが、彼らを酷使している白人たちが、自分たちと同じプロテスタントのクリスチャンであるという事実でした。


過去に向き合う


ここで私は、自分たちの信仰の先人の犯した罪の部分に向き合う必要性を感じています。

個人の歩みにおいても、教会の歩みにおいても、そこには輝かしい光の部分もある一方、できれば墓場まで隠し持っていきたいと思うような恥、闇、挫折の部分もあります。

クリスチャンが深く関わった過去の植民地支配の醜悪史は、現在でも、多くのノン・クリスチャンのつまずきとなっています。

どうか主が私たちプロテスタントのクリスチャンが過去に犯してきた犯罪や罪を赦してくださり、私たちがその事実の前に真にへりくだり、祈ることができますように。

そしてこれらを教訓とし、もう二度と同じ過ちを犯すことがないよう、私たちを助けてください。

大義名分の下にひそんでいるどんな悪をも見破る、清らかで澄んだ目を私たちに与えてくださり、イエス・キリストの御名によって人を虐げたり、殺したりする邪悪をキリスト教会から締め出してください。


砂糖が欲しい!


そもそもなぜカリブ海の島に、アフリカの黒人がいるのでしょうか。なぜこれほど多くの砂糖プランテーションがあったのでしょうか。

セント・トーマス島は1657年にまずオランダ領となり、その後、66年にデンマークに併合されたため、島にはオランダ改革派教会およびルーテル教会が混在していました。

しかし150ものプランテーションの領主の多くはオランダ改革派教会のクリスチャンだったようです。

17世紀から18世紀にかけて、デンマークなどのヨーロッパでは喫茶の風習が広まり、砂糖の需要が急激に高まりました。


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午後のティー・タイム


そこで人々は考えたのです。「砂糖が欲しい。でもデンマークは狭い。そうだ。植民地で大きなプランテーションを作り、そこで採れた砂糖を本国に送ろう」と。

でも、誰がそこで働くのでしょう?

「あんな暑い所で働くのは嫌だ。あ、そうだ、アフリカから黒人を連れてきて働かせよう。」


三角貿易


こうして人間のエゴと罪が肥大化し、組織化されていきました。

まずデンマークの港から、お酒や銃を積んだ船が、西アフリカへ向かいます。

そして銃は「アフリカの諸部族がもっと互いに対立し合い、仲たがいするように」との目的をもって、対立するグループ間へ供与されました。

そしてそれらの品物と交換で彼らは黒人奴隷を得ました。


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そうして、それまでお酒や銃を積み込んでいた地下の船室に、今度は新しく奴隷たちを積み込み、彼らはセント・トーマス島に向かいました。

島に黒人たちを降ろすと、今度は交換で砂糖をゲットし、それを船内に積み込みました。

こうして北大西洋海流に乗って、彼らは本国デンマークに戻っていったのです。


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デンマーク→西アフリカ→セント・トーマス島→デンマークという一連の航路による国際ビジネスは一般に、「三角貿易」と呼ばれています。


極刑


また、島の黒人たちに対する刑も情け容赦のないものでした。人口比が黒人・白人、6対1の割合でしたので、白人側は何よりも奴隷の反乱を恐れていました。そのため、セント・トーマス島では次のような刑が執行されていました。

黒人が反抗し、白人領主に手を上げた場合:その黒人の手を切断。

黒人がプランテーションから逃げ出そうとした場合:

(一回目) 片方の足首切断。
(二回目) もう片方の足首切断。
(三回目) 片方の足ごと切断。
(四回目) もう片方の足ごと切断。



そして、むち打ちは500回まで「合法」とされていました。

また奴隷の反乱計画が発覚した場合は、裁判なしで、領主がそっこく斬首・絞首することが法的に許されていただけでなく、その死刑執行に関し政府から賦与金まで授与されていたのです。


クリスチャンはどのようにしてこの悪を正当化できたのか


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「神よ、私は人間ですか?」と嘆き祈る黒人


しかしこの当時のクリスチャンたちはこれらの悪に対して良心の痛みを感じていなかったのでしょうか。

島にあるオランダ改革派教会のドミニー・ヤン・ボーン牧師はこういった悪に対してどのように考えていたのでしょうか。

島に住む白人クリスチャンの主日礼拝は義務でした。(主日に働いた場合、罰金として50ポンドのタバコを課されました。)

ですから彼らも私たちと同じように主日毎に、聖書を開き、賛美を歌い、アーメンと唱えていたのです。

資料を読むと、エペソ6:5、コロサイ3:22などの聖句が、こういったシステムを正当化する聖句として用いられていたようです。また、「黒人というのは、はじめから永遠の滅びに予定されている」といった具合に、二重予定説のドグマも適用されていました。

このような悪と矛盾に満ちた世界の中に、レオナルドとデイヴィッドは遣わされていったのです。――光の子として。


(その5)につづきます。

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デンマークの国王パレード、18世紀


いざ出発


さてバウツェンでツィンツェンドルフ伯に送り出されたレオナルドとデイヴィッドは、デンマークの波止場に向け、徒歩で元気よく出発しました。

セント・トーマス島はデンマーク領であり、島行きの船もコペンハーゲンから出ていたからです。

大工と陶器師の若者二人―。

リュックの中には着替えの服が数枚と30シュリングの硬貨きり、他には何も入っていませんでした。

また二人の若者は、「すべてのことを、イエス・キリストの御霊の内に行ないなさい」という指示以外、ツィンツェンドルフから宣教ガイダンスらしきものは他に何も受けていませんでした。

それだけではありません。セント・トーマス島がいかなる社会的状況なのかについても彼らはほとんど情報を持っていませんでした。

また彼らの生活をサポートする団体や組織もありませんでした。

こういう中で勢いよく飛び出していく若者たちは、慎重な人々の目に、あまりにも「無鉄砲」「無計画」と映るのかもしれません。

このような若者たちは、「情熱」と「無謀さ」という二つの翼をはばたかせ、御名によって勢いよくダイビングします。

しかしその後はもう大変です。必死に手足をばたつかせながら、前に向かって泳ぎ前進していくしかありません。波止場はもう視界から消え、足をついて一休みする「床」もありません。嗚呼!とにかく「前進するのみ」なのです。


デンマークで阻まれる


当時、コペンハーゲンにはプロテスタントの宣教師養成カレッジがすでに存在していました。フレドリック4世によって設立されたこの学校からは、国費で「宣教師」が送り出されていました。

しかしここでいう「宣教師」とは、実際には、植民地政策の一環としてのキリスト教化を促進させる「政府の役人」であり、「植民地官僚」のことを意味していました。

しかし今ここに、国教会のお墨付きもなく、神学教育も受けたことのない二人の若者が、「宣教師としてセント・トーマス島に行きたい」と彼らに渡航券を求めているのです。

たちまちの内に、二人は街中の物笑いの種になりました。

王の侍従であるフォン・プレッツは笑いをかみ殺しながら、二人に尋ねました。

「諸君、君たちはいったいどうやって生活を営んでいくつもりなのかね?」

「僕たちは働きます。」デイヴィッド・ニッチマンが答えました。「奴隷たちの間で、共に奴隷として。」

「しかしだね。それはどだい無理な話だ。まず許可が下りない。白人が奴隷として働いたという前例は今までないのだから。」

「えーと、それでは、僕は大工ですから、大工業をしながら頑張ります。」

「それじゃあ、隣にいる陶器師くんはどうなるのかい?」

「彼は僕の大工仕事を助けます。」

「そんなこと言ったって、まったく埒があかない!」侍従はあきれて叫びました。

デンマーク西インド会社のディレクター達はすげなく彼らの渡航を拒絶しました。裁判所も西インド会社側につきました。


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デンマーク西インド会社の社旗


しかしそんな状況下にあり、主は何人かの人々の心を動かしてくださいました。

その中の一人が王女のアマリア妃でした。彼女は二人を憐れみ、いくらかのお金とオランダ語聖書を贈ってくれました。そのおかげで彼らは大工道具を購入することができたのです。

また王の献酌官はセント・トーマス島行きの船を見つけ、二人のために手配してくれました。


セント・トーマス島へ


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西インド会社の作成したセント・トーマス島地図


船長は彼らを大工として雇い、二人は船内の収納室を作りました。こうして彼らはついに西インド諸島に向かって出発することができたのです。

これが、プロテスタント史上、記念すべき初の宣教師たちの受けた待遇であり、出発でした。人の目には卑しく、小さく、みずぼらしく見えた貧しき僕たちの上には、でも確かに主の御手がありました。

「この子を行かせよ。主は彼と共におられる。」


その4につづきます。


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眠れぬ夜


1731年7月21日。レオナルド・ドーバー(25)はその晩、寝台の上で一人寝返りを打ち続けました。

数時間前に、集会で聞いた奴隷アンソニーの話が頭から離れないのです。

アンソニーはかつて自分のいたセント・トーマス島の奴隷プランテーションの悲惨と窮状を、モラヴィア兄弟団の若者たちに訴えました。

「セント・トーマスの海辺で私は何度も神様のことを想っていました。」「ああ、もし誰かがあの島に行ってくれれば、私の姉のアンナも救い主イエスのことを知ることができるのに!」


難民の子として


その日から遡ること10年ほど前、レオナルドは両親と共に、宗教迫害を逃れ、スィレスィア地方からツィンツェンドルフ伯の敷地に避難してきました。彼はそこで陶器作りを学びつつ、モラヴィア兄弟団の信仰コミュニティーの中で成長していきました。


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緑色の部分が歴史的silesia地方です。


デンマーク国王であるクリスチャン6世を訪問した際、ツィンツェンドルフ伯は、冒頭で挙げた奴隷アンソニーに出会いました。彼の話に耳を傾けたツィンツェンドルフの心は、イエス・キリストを知らず、虐げられ、全く絶望的な状況に置かれている西インド諸島の奴隷たちに対する憐れみで一杯になりました。


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奴隷としてアフリカから連れてこられる黒人たち


ツィンツェンドルフ伯ははやる胸を抑えつつ、急いでヘルンフート(ドイツ語で「主の見張り」の意)に戻りました。

到着したのは、夜中の二時でしたが、独身寮の若者たちは、その時間もまだ跪いて皆で祈りをささげていたのです!伯は、急いで第一報をこの若者たちに伝えました。


トランペットの音


すでに三年前の2月11日、若者たちは互いに、「トランペットの明確な音が鳴り次第、僕たちは宣教に旅立ちます。」と祈りの内に誓約を交わしていました。

そして日毎の労働が終わると、皆で寮に集まり、将来の宣教のわざに必要となるであろう地理、医療、外国語などを共に学んでいました。

このトランペットがその晩ついに、レオナルド青年の心に鳴り響いたのです。

しかし奴隷アンソニーは言っていました。「でも私の同胞に福音を伝えるのはむずかしいでしょう。白人支配者たちがそれを許さないはずだからです。彼らに本気で接触したいなら、あなたがた自身が奴隷になるしか方法がないかもしれません。」

やがて夜が明けました。

その日の仕事が終わった後、彼はためらいつつも親友のトビアス・レウポールドに自分の思いを打ち明けました。すると驚くべきことに、トビアス青年もまた、同じ召命を感じ、眠れぬ一晩を過ごしたと告白したのです!

夏のたそがれの中、二人の若者は並んで跪き、さらなる主の導きを求めて祈りました。


教会へ宛てて手紙を書く


その後、レオナルドは教会の皆に宛てて手紙をしたためました。

私の意図は短期間、外を旅したいというようなものでは全くありません。私の望みは自分自身をさらに堅く救い主イエスに捧げることです。

ツィンツェンドルフ伯がデンマークから戻り、奴隷たちの惨状を語ってくれてからというもの、私はずっと彼らのことを想い続けていました。それでもしもう一人の兄弟が同伴するなら、私は福音を彼らと分かち合うために、自分自身を奴隷として売り渡す覚悟でいます。

私はそうする心の準備ができています。なぜなら、十字架の言は、もっとも悲惨な状況に置かれている魂をも救うことができると私は堅く信じているからです。

もしかしたら自分などがそこに行っても、誰の役にも立たないのかもしれません。でもたといそうであるとしても、私はこの事を通してわが救い主に対する従順を示したいと思っています。

しかし私が行こうと思っている主なる動機は、未だ福音を聞いたことがなく、信じるすべをもたない魂があの島にいるからなのです。




反対に遭う


しかしながら当初、共同体のメンバーはレオナルドの要請に否定的でした。

そもそも前例がなかったのです。ウィリアム・ケアリーはプロテスタントとしては初の宣教師と言われていますが、彼がインドの地を踏んだのは1793年です。


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William Carey (1761-1834)


そのケアリーのインド行きも大変な反対を押しのけての敢行でした。レオナルドの西インド諸島行きはその年に遡ることさらに62年前の、1731年だったのですから、向かい風の強さも並ではなかったのです。

当初あれだけ嘆願していたアンソニーでさえも、レオナルドに再考するよう促すほどでした。

こうして教会は一年ほどこの事に関し、みこころを求めて祈り続けました。そしてついに全員が集い祈る中で、くじが引かれました。(*モラヴィア兄弟団では使1:26の例に倣い、祈りの内にくじを引き、みこころを求めるという慣習がありました。)

レオナルドがくじを引くと、そこには「この子を行かせよ。主は彼と共におられる。」と書いてありました。

一方、親友のトビアスのくじには「今はここにとどまりなさい。」とあり、その代わりに、デイヴィッド・ニッチマンという大工の兄弟がレオナルドの同伴としてセント・トーマス島へ出帆することになったのです!

1732年8月21日の夜中3時、二人の若者はツィンツェンドルフの家の前に立っていました。ツィンツェンドルフはその晩、夜通し祈っていました。

彼は黙って若者二人を馬車に乗せると、バウツェンまで馬を走らせました。こうして別れ際に、彼らは道端に跪き、共に祈りました。

さあ、いよいよ出発です。


(つぎに続きます。)

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ボヘミヤ地方、チェコ共和国


はじめに


キリスト教の宣教史の中においても、「モラヴィア兄弟団」という信徒グループは実にユニークで特異な光彩を放っていると思います。

霊的な観点からみると、この兄弟団は、その源流を14世紀のジョン・ウィクリフ、および彼の教えに従ったロラード派にまで辿ることができると思います。

ローマ教会を批判し、聖書こそに信仰の基礎をおくことを唱えたウィクリフは、宗教改革の先駆者といわれています。


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ジョン・ウィクリフ (1320-1384)


そしてウィクリフに啓示されたこの真理は、当時、オックスフォード大で彼の講義を聴講していた一人の留学生の魂を震撼させました。

その留学生は受けた恵みと感動を胸に故郷ボヘミヤに帰り、周りの人々に熱くその教えを説き始めました。

それに感銘を受けたのが、プラハの神学者ヤン・フス(1369-1415)です。もともとヴァルド派という福音的な信徒グループの伝道により、福音を受け入れる心の土壌がすでに肥やされていたボヘミヤの人々は、フスの説く福音のメッセージに燃え立ちました。

やがてフスは捕えられ、異端として火あぶり刑に処せられましたが、彼の魂に宿っていた福音の炎は消されることはありませんでした。


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焚刑に処せられるヤン・フス

「どうか私の霊を強めてください。あなたがいなければ、私たちは、あなたのために残酷な死へと向かうことはできません。私に恐れなき心と正しい信仰と、確信に満ちた希望と、完全な愛を与えてください。そうすれば、私はあなたのために信仰と喜びをもって、私のいのちをささげるでしょう。アーメン」 

―処刑二週間前に書き記された、フスの獄中書簡より



こうして、そこからボヘミヤ兄弟団が誕生したのです。

この兄弟団の中からも傑出した神の僕たちが起こされ、焚書の憂き目を逃れ生き残った彼らの書物のいくつかは今も現存しています。(例えば、ペトル・ヘルチッキーの『信仰の網』(1440年)、ヤン・アーモス・コメンスキーの『世界の迷路と心の天国』など。)


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宗教権威者たちの前で、信仰を証するペトル・ヘルチッキー(Petr Chelčický, 1390-1460)

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ヤン・アーモス・コメンスキー (1592-1671)


所持品、妻子すべてを失い、故郷モラヴィアから亡命したコメンスキーは、祖国に最後の別れを告げた際、跪き、次のように祈りました。

「ああ御父よ、この民をあわれんでください。どうか彼らのうちに、隠れた種を保ち続けてください。」

(この祈りがその後、いかにしてきかれ、実を結ぶに至ったかについての証は、ここをお読みください。)



こうしてボヘミヤ兄弟団の火は、ツィンツェンドルフ伯の敷地内に逃げ込んでいた宗教難民たちの間でリバイバルの炎となって再熱し、こうしてわびしい「難民キャンプ」が一転して「世界宣教センター」へと様変わりしたのです!モラヴィア兄弟団の誕生です。

(ちなみに、ジョージア宣教で挫折し落ち込むジョン・ウェスレー青年の心に信仰復興の火が灯されたのは、彼が転覆しそうな船の中で、モラヴィア兄弟団の信徒たちの強烈な信仰に接したこと――これが直接のきっかけでした。

こうしてモラヴィアの火は、ウェスレーを通して英国に飛び火し、そして18世紀のあの英国信仰復興運動へとつながっていきました。)


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暴徒に襲われる伝道者ジョン・ウェスレー


それでは次の記事で、モラヴィア兄弟団の一青年レオナルド・ドーバー兄についてご一緒にみていこうと思います。