road20160626.png



信仰のあり方や女性としての生き方を模索する中で、私はずっとrole model(手本となる人、模範)を求めてきました。

そして確かに主はすばらしい年配の女性たちとの出会いや交わりの場を私に与えてくださいました。

そのことは感謝してもしきれません。


しかしながら、それと同時に気づかされたのは、世代や文脈といった意味で互いの間にどうしても横たわるギャップでした。

また、生まれ育った国や文化、教育、霊的環境といったものも、皆それぞれ異なっており、こういった相違も「神さまによる多様性」という美点を持つ一方、「誰かの信仰や生き方をそのままコピーすることはできないんだなあ」と、もう一つの現実にも直面しています。

自分としては、もっと手取り足取り、いろんなことを教えてくれる女性が身近にほしかったなぁ。。

その意味で、人間存在の唯一性(独自性:uniqueness)は、喜びであると同時に、また哀しみでもあるのかなあと思います。

でも、その哀しみは、私たちを真の模範であるイエス様に近づける原動力として用いられると思います。

ヘブル12:2a

信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。



信仰の創始者(πίστεως ἀρχηγὸν)。

この「創始者」を表すギリシャ語archegosは、αρχη (arche:初め、支配、本源)と、ηγουμαι(導く)という語が合わさってできた語です。

NET訳では、パイオニア(先駆者)と訳されています。

また織田昭先生は、「(道を切り開いて)導く者」と辞典に記しておられました。

イエス様が「道」(ヨハネ14:6)であると同時に、信仰の道を切り開く導師であり、またパイオニアであるというのは、とても意味深いことのように思われます。

そして、このイエス様の霊を宿す弟子として、みなさんや私もまた、それぞれがパイオニア的存在として、今それぞれの持ち場に遣わされているのだと思います。

私たちの前に、今現在、人間的な意味で、「平らな道」は存在していないのかもしれません。

でも、この暗き道を照らすは、主のみことばであり(詩119:105)、主のさとしこそが私たちの相談相手です(詩119:24)。

、、イエスから目を離さないでいなさい。



私たちが混迷する21世紀のこの世に生かされているのも、主の深い知恵とご配慮によるものだと信じています。

そして主は、この世代に対し、私たち一人一人を余すところなく用い、ご自身の使信――恵みの福音――を語ってくださると信じます。

みなさん、お互いに置かれた場所で、先駆者であるイエスさまと共に、そしてイエスさまの中で、道を切り開いていきましょう!



スポンサーサイト

話は少し前にさかのぼりますが、ある日の明け方、4時か5時ごろ、わが家のアパートの戸をノックする音が聞こえました。

ドアを開けるとF兄弟が立っていました。

ただならぬ様相だったので、主人がすぐさま彼を台所に引き入れ、なにがあったのか事情を聞きました。

それによれば、Fさんはお酒に酔って、アパートに戻り、その後、同居していたS兄弟と激しいけんかになり、、、

そしてカッとなって相手の耳をナイフで切り落としたというのです。

こういう暴力沙汰自体はめずらしいことではありませんが、私たちにとってショックだったのは、F兄弟に反省の色が見られないということでした。

でもさすがに動揺はしていたので、相手を切り付けたその足で、うちに直行して来たようでした。

☆☆

入れ墨だらけで、でも根はとっても単純でピュアなFさん。

洗礼を受けた日、真っ赤に泣きはらした目で、彼は私たちにこう言いました。

「僕のすべては黒でした。それも『どす黒い』黒です。でも水の中に入ったとき、イエスさまの血でその黒が洗い流され、今、白になりました。」

その後の彼の信仰の歩みは好調でした。

悪い習慣なども徐々にとりのぞかれ、彼の中でイエスさまへの愛は深まっていっていました。

しかし、嗚呼、そんな矢先に、この事件が起こってしまったのです。

☆☆

教会は適切にも、彼に対して戒規(church discipline)を出し、リーダーは、「すべての人の前で彼の犯した罪を責め」(Ⅰテモテ5:20a参)、「自分の犯した罪を皆の前で心から悔い改め、病院に運ばれたS兄弟の所に行って謝罪をしない限り、あなたは礼拝に参加することはできません」とはっきり言いました。

すると、Fさんは、その後、数週間、「姿を消しました。」

誰も彼の消息を知る者はなく、彼は、あてもなく、どこかに行ってしまったのです。

私たちはその間、Fの魂が主によって守られ、真正な悔い改めの恵みが与えられるよう熱心に祈りました。

まさにこの悔い改めの門をくぐるか否かで、彼の今後の人生は大きく変わるだろうと思われました。

また、こういった渦中にあって、彼が自暴自棄になり、元の暗い世界に戻る可能性も考えられました。

ですから、変わらぬイエス様の愛で彼が包まれるようにも祈りました。

☆☆

はたしてFは戻ってきました。

――それも、心砕かれた罪びととして。


Fは、S兄弟の入院している病院に行き、号泣しながらSに赦しを乞うたそうです。

二回の外科手術が執り行われましたが、S兄弟の右耳はついに繋がることはありませんでした。

しかし、S兄弟はFに聖なる口づけをし、「あなたを赦します」と言い、こうして二人は病室で和解しました。

☆☆

二カ月前、現在北ヨーロッパに住むFさんの所に行ってきました。

手を振り、顔をくしゃくしゃにしながら、彼は私たちの所に駆けつけてきました。

彼は、かの地で良い教会に導かれ、そこで奉仕をするようになり、さらに今年、そこの教会で長く奉仕していらっしゃるある敬虔な姉妹と結婚することになったそうです。

彼女は、世間的に言って、いわゆるhigh classな家庭のお嬢さんですが、(回心前の)彼の入れ墨や暗い過去や最小限の学歴や、そういったこと全てをひっくるめて、F兄弟を受け入れ、彼を愛し、彼の妻になることを受諾したそうです。

そして「イエスさまを中心とした家庭を築き上げていこう」と二人は心を合わせ祈っているそうです。

―――

神の恵みが何かということを私に教えてくれるのは、教理書ではなく、こういった人々の人生の証しです。

それらは私の「目の前」にあり、私の心に直接語りかけてくれる生きた〈福音書〉です。

この証しを読んでくださってありがとうございました。





以前に私は内村鑑三の小エッセー「われの求むる友」をご紹介しました。

さて、みなさんは、どんなお友だちを求めていますか?

内村鑑三は次のような友を求めていると言っています。

友人、友人、、世の言う友人とは何であるか。遊戯を戦わすの友人、時世を共に談ずるの友人、事業を共にするの友人、、、されどもこれ、われらの特別に要求する友人ではない。

われらは真理を交換するの友人がほしい。

われらはこれに接触してわが全性に新光明を伝受するの友人がほしい。

われらは救われんための真理を探究せんために、常に神と角闘しつつある友人がほしい。

われらの欲する友は「独りで強き者」である。すなわち神に頼むがゆえに運動に加わらずして、独りで活動する者である。

すなわち完成せる個人である。すなわち友を求めざる人である。

これ、われらの求むべき、頼むべき友人である。



私は、荒野にいる「バプテスマのヨハネ」のような人が好きです。

私が内村鑑三を好きなのも、彼が洗礼者ヨハネのように、ひとり荒野で叫ぶ「声」のような人だったからです。

彼は水による洗礼は必要なしと説きました。そしてこの点において私は彼の見解に同意していません。

でも彼は聖書を検証した上で受け入れたその教えに生きるためなら、たとい教会を追い出されても、無銭になっても、己の信じる信仰のあり方に忠実であろうとしました。

私はこういう信仰者を尊敬しています。そして人間としてそういう人に強く惹かれます。

つまり、「私の好きなお友だち」の類型に当てはまるのです。

☆☆

現在も、各地に、「バプテスマのヨハネ」がいます。

こういう方々は、一般にメインストリームからちょっと「外れた」所におられる場合が多いです。そしてバプテスマのヨハネと同じく、同時代の人々からほとんど理解されていないのが常です。

ヨハネは、らくだの毛で織った物を着て、腰に皮の帯を締め、いなごと野蜜を食べていた。

マルコ1:6



こういった「ヨハネたち」は、何といっても「変わり者」です。彼らの特性を何といって形容できるものやら分かりません。教団名や教派名でくくれるようなものでもありません。

彼・彼女の関心の所在は、周りの人とあまりにも違っているため、彼らは遅かれ早かれ「荒野」へと導かれます(あるいは追いやられます。)

無骨で、愛想がなく、友もほとんどなく、正直すぎるため不器用な世渡りしかできません。

そして荒野で何をしているかと言えば、彼らはそこで「叫んでいる」(マルコ1:3参)のです。

荒野で叫ぶ者の声がする。
「主の道を用意し、
主の通られる道をまっすぐにせよ。」

マルコ1:3



彼はポリティカル・コレクトネスの圧力などものともせず、人々に悔い改めを説き、宗教指導者たちに対して面と向かい、「まむしのすえたち。だれが必ず来る御怒りをのがれるよう教えたのか」(マタイ3:7b)と叱責しました。

そして最後には、キリスト教倫理の問題に関し、ヘロデの罪を罪として名指しで指摘したため、殉教の死を遂げました(マタイ14章)。

☆☆

私はこういった「ヨハネたち」をこよなく愛しています。

そして散在する「ヨハネたち」を心の友として大切にしています。

これが私の好きなお友だちです。読んでくださってありがとうございました。


thumb_COLOURBOX559635420160106_20160123013928e6c.jpg


前の記事でH兄の救いの証しを載せました。

実は私の主人も、H兄と同じような所から救われた人です。回心前の「マフィアぶり」も「犯罪者ぶり」も「前科」も同じような感じです。

私たちは生育環境も、文化も、バックグラウンドも何もかも全て異なっています。

「前科のある人からのプロポーズをよく受諾する気になりましたね」とたいがいの方は驚愕されます。

でもキリストにあって問題なのは、その人が誰であったか(who he was)ではなく、今、その人が誰であるか(who he is now)だと思います。

だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古い者は過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。Ⅱコリント5:17



彼の犯罪も、そして私の罪も、キリストの十字架の贖いによって赦されました。

キリストが私たちの罪を帳消しにしてくださったのですから、彼も私も赦しを受けた恵みの子として、十字架の下に同じように跪いているわけです。そこになんら差異はありません。

国籍がどこか、どの文化圏から来たか、どんな教育を受けてきたのか(あるいはこなかったのか)、どんな過去を背負ってきたのか、背が高いのか低いのか、色が黒いのか白いのか、健常なのか病弱なのか、、

そういったもの全てはキリストにあってもはや「壁」ではなくなりました。

あらゆる人間的偏見、階級、差別、レイシズムはキリストの愛の大波に飲み込まれ、跡形もなくなりました。

そのことを私は自分たちの結婚という結び付きを通してもこの世に証したいと思います。

そしてキリストにあって、私たちは本当に「兄弟」となり「姉妹」となることができるということ、あらゆる地上的な違いを乗り越えて互いに愛し合うことができるということをこの世に証したいと思います。


4f40ec47821387_560816ff39d8620160122_20160123012639088.jpg


そして今晩、私はあなたを励ましたいです。

あなたはクリスチャンではないかもしれません。あるいは、いろいろと辛く重い過去を背負ってこられた方かもしれません。

そしてそのせいで人からいろんな形でレッテルを貼られてこられたかもしれません。前科がある方かもしれません。

しかし聖書は「キリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者」だと宣言しています。また、キリストを信じた人の国籍は、「天にある」とも聖書は宣言しています。

過去の重い重い荷を苦しみながら引きずっておられる方、どうかキリストの元に来てください。

この方のうちに再生があり、新しい出発があり、そして朽ちることのない永遠のいのちがあります。


読んでくださってありがとうございました。






通勤途中の人形20(1)
南九州のいなか道

上の写真は、私の父が、通勤途中にみつけた「人形」です。

通勤途中の人形20(4)

のどかでいいですね。

私はこういうものに目を留め、わざわざ車を降りて写真を撮り、「通勤途中の人形」と題して娘にそれを送ってくる父の感性がとても好きです。

そして通りを行きかう人々を出迎えようと、この人形をせっせと作ったであろう「作り主」の心のあり方もすてきだなあと思います。

神様はこのような人々が福音を聞くことなく滅んでいくのを決して望んでおられない、最後の最後まで、私たちの主は魂の救いをあきらめず、今日も日本の津々浦々、そして世界の各地でご自身のみわざをなしておられることを覚え、主を賛美します。



詩篇67篇 (日本語による詩篇歌です)


詩篇 67篇

1 どうか、神が私たちをあわれみ、祝福し、御顔を私たちの上に照り輝かしてくださるように。

2 それは、あなたの道が地の上に、あなたの御救いがすべての国々の間に知られるためです。

3 神よ。国々の民があなたをほめたたえ、国々の民がこぞってあなたをほめたたえますように。

4 国民が喜び、また、喜び歌いますように。それはあなたが公正をもって国々の民をさばまれ、地の国民を導かれるからです。セラ

5 神よ。国々の民があなたをほめたたえ、国々の民がこぞってあなたをほめたたえますように。

6 地はその産物を出しました。神、私たちの神が、私たちを祝福してくださいますように。

7 神が私たちを祝福してくださって、地の果て果てが、ことごとく神を恐れますように。











IMG_0535 (2)

私が学んだことは以下の三点です。

1)今後、私たち聖書信仰のクリスチャンの歩む道はますます険しくなっていく。
2)私はとても弱い。
3)でも助けが来る。

ほむべきかな、主。主は包囲された町の中で私にくすしい恵みを施されました。詩篇31:21



ポストモダンの世界では、ヨハネ14:6、Ⅰテモテ2:5、使徒4:12等は「タブー聖句」です。

それをあえて、童話の中のあの子のように「王様は裸だよ!」と叫ぼうものなら、とたんに頭上にハンマーが振り下ろされます。

そして「ふかふかの羽毛布団」の下からギッと鋭い「牙」が向けられます。

私はこのリアリティーを小規模ながらも実体験しました。

もし世があなたがたを憎むなら、世はあなたがたよりもわたしを先に憎んだことを知っておきなさい。ヨハネ15:18



そして改めて、クリスチャンにとってこの世は住みにくい仮の宿であり、私たちの国籍は天にあること、最終的な安息は、地上でのレースを終え、愛する主にまみえる時に与えられるものであることを知りました。


私は弱い。でも助けが来る


小2の時、(担任の先生がその時間帯に用事があったため)大学を出たての、ある若い男の先生(H)がその時間を受け持ってくれました。

でも教室に入ってくると、その先生はおもむろに「幽霊の話」を私たちにし始めたのです。

H先生によれば、私たちの学校のトイレの四番目には幽霊がいるというのです。私にとって生まれて初めて聞く「お化けの話」でした。

私は息もつかずその話に聞き入り、それを真に受け、そしてぶるぶると震え始めました。それからたまらなくなって、ついに声を上げて泣き始めました。

驚いたH先生が私の元に駆け寄り、なんとか私をなだめすかそうとしてくれましたが、恐怖に取りつかれた私の泣きは止むどころか、ますます激しくなっていきました。

すると誰かが「私が泣いている」ということを担任のO先生に伝えに行ってくれたらしく、しばらくすると、O先生が職員室から駆けつけてくれました。

O先生(年配の男の先生)は私の状態を一目見るなり、私を丸ごと抱き上げてくれました。

そして「大丈夫、大丈夫」と言いながら私の背中をやさしくさすってくださいました。

あれから何十年経った今でも、私はあの時、先生の胸の中で感じた平安と「守られている」という安堵感を忘れることができません。

そしてクリスチャンになった今、私は遠いあの日の出来事を、御父・御子・御霊の愛の象徴のように思うことがあります。

☆☆

今週、主は兄弟姉妹の心に働きかけてくださり、弱い土の器である私をあらゆる方向から助けてくださいました。

ある方は、

私は、(一連の出来事を通し)、このように、主の体の肢体が絶妙に機能し合うのを見せていただくことができ、本当に嬉しく思っています。この時代にあって、少人数の主の民、エクレシアの真実が確かにあることを知って、大いに励まされました。


という感想を寄せてくださいました。

また米国の姉妹は私にⅡコリント12章9節の御言葉を贈ってくれました。

しかし、主は「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現れるからである。」と言われたのです。ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。



弱い器を通して何かがなされる時、人々は「この測り知れない力がのものであって、この人(この人たち)から出たものではない」(Ⅱコリ4:7参)ことを目の当たりにし、それによって、生きて働かれる主にご栄光が帰されると思います。



わたしを透きとおる空気にしてください。
どんな色をも通して、
歪めることのない空気にしてください。

あってない わたしという空気を通して、
神の愛の美しさが輝きますように。




読んでくださってありがとうございました。











peter denied Jesus Christ

私達が周りを見て「こうあるべき」を語るとき、イエス・キリストは「私達の真の姿」を静かに見つめている。そのイエスの視線は、周囲で目に付く「あるべき姿」と「現実の姿」の矛盾が、自分の中にある矛盾と本質的に変わらないという事実を見つめている。

もし私達が、そのイエスの眼差しに誠実であるならば、ペテロのように悔い改めに導かれるが、もし不誠実ならば金持ちの青年のように、自己欺瞞の中に身を隠すことになるだろう。引用元:「イエス・キリストの眼差し」 an east window



昨日、ルカの福音書22章を読んでいた時、54節、「彼らはイエスを捕え、引いて行って、大祭司の家に連れて来た。ペテロは、遠く離れてついて行った」の中の、「遠く離れて」という言葉に心を刺されました。

「遠く離れて afar off」。

一応、ペテロは捕えられたイエス様の後を追って「ついて行った(followed)」のです。家の中で縮こまっていたわけではなかったのです。でもそこには距離がありました。

その距離はわが身を守る安全ゾーンを保つための距離であり、十字架につけられようとしている受難の主と運命を共にしたくないという心理的な距離だったとも思います。

相対的真理という現代の「信仰体系」は、それがどんなに美しく合理的な言葉で飾られていても、その根本においては、王の王、主の主であるイエス・キリストを排斥しています。しかも、その排斥は、表面的にはイエスを受け入れるというスタンスを取っているため、より狡猾かつ巧妙なのです。

しかし、冒頭の引用の言葉に照らされ気づくのは、その狡猾さ、巧妙さが、他でもない自分の中に依然として存在しているという事実です。

相対的真理という立場にたてば、人に揶揄されることもなく、無難にクリスチャン生活を送っていくことができるからです。

「温厚で、愛にあふれたクリスチャン」として誰からも受け入れられたい、敵を作りたくない、偏狭者、差別主義者呼ばわりされたくない――そういう自己保身の思いは、「遠く離れ」つつ、無難な距離を保ちつつ、しかもイエスに従う者として自分を他に紹介する偽善に私を誘います。

しかし、希望があります。聖霊なる神はそのような低いところにいる私の次元まで降りてきてくださり、言いようもない深いうめきによって、今この瞬間もとりなしていてくださるのです。

そして、同じ聖霊がみなさんの中でも今働いていてくださっているのです。

私たちを十字架に向かわせるのは、私たち自身の力や勇敢さにあるのではなく、私たちのうちで働き、とりなしておられる御霊によるのだということに私は大きな慰めを見出しています。

私を見つめておられるイエスの視線は、自分の隠れた狡猾さを見通しておられるゆえに痛いです。しかしそれと同時に、そのような私を赦すために十字架の上で死んでくださった、その愛の視線があるゆえに、私はこの方から視線をそらすことができません。

信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。へブル12:2a



(祈り)
はい、主よ、あなたから目を離していたくありません。ただあなただけに魅了されるよう、他のすべてをモノクロ写真のようにしてください。あなたの喜びを私の喜びに、あなたの悲しみを私の悲しみとさせてください。状況に応じてあなたと距離を保ち、あなたを排斥しようとする私の狡猾さ、卑怯さをおゆるしください。

私は読者の方々のためにもお祈りします。主よどうか、あなたの定めておられる道程を私たちがまっすぐに歩み続けることができるよう、私たち一人一人のうちでとりなし続けてください。

イエス・キリストの御名によってお祈りします。アーメン。



baby chicken

少し前に、コメント欄を再オープンしましたが、私はそこに書き込みをしてくださる方々の率直さと素直さに心を打たれています。

このような方々を通して、主は次のような真理を私に教えてくださいます。

「まことに、あなたがたに告げます。あなたがたも悔い改めて子どものようにならない限り、決して天の御国には、はいれません。」(マタイ18:3)



以前、私たちの教会にはFさんという三十代の男性(中東)がいらっしゃいました。現在、この方は北ヨーロッパに移り、そこで良き教会につながり信仰生活を送っていますが、ギリシアにいた時分、彼は重度のヘロイン中毒者でした。

彼はある大きな失敗をしてしまい、それによって家族も財産もすべて失ってしまっていました。こうして彼は麻薬代に全てを使い果たし、ピラオス港の近くで路上生活を送っていました。

そんなどん底にいたFさんが、「いかにして一夜にして立ち直ったのか」ということで、私たちに救いの証しをしてくれたことがありました。

ある夜、寝る場所を求めて彼は通りを徘徊していました。すると、ある教会の前に描かれていたイエス・キリストの絵(たぶんギリシア正教会のイコンのことだと思います)が目が入ってきました。

なぜかそこから目が離せなくなった彼は、引き寄せられるようにその肖像画の前にやって来、、そしてその場に跪きました。ビジネスで成功していたかつての自分、美しい奥さんと子供に囲まれていた「立派な」夫としての自分、、しかし今、彼はそういったプライドや自負心を何もかもかなぐり捨て、男泣きしながら次のように祈りました。

「イエス様、あなたは神なのでしょうか?私はもう落ちるところまで落ちてしまいました。私は本当は麻薬なんかやりたくないのです。こんな生き方はしたくないのです。でも自分の力ではこの状態から脱することができません。どうしてもできません。イエス様、もしもあなたが神なら、私を麻薬からお救いください。」

跪き泣きながら祈る彼の脇を、通行人たちがけげんそうに見やり、足早に去って行きました。

「私はもうその時、他の人が自分のことをどう思うだろうかなどと考えませんでした。もうそれは問題ではありませんでした。私はただ目の前にいるイエス・キリストだけに心を注ぎ出していたのです。」

その後彼は数時間、その場から一歩も離れず、ひたすら祈り続けました。そして主は彼にご自身を啓示してくださり、彼は一夜にして麻薬から解放されただけでなく、生ける神の子イエス・キリストに対する信仰が与えられたのです。

☆☆
私はマタイ20章の後半に描かれているふたりの盲人に特別な親近感を覚えています。実際、私の聖書の30節から34節にはすべて赤線が引かれています。

すると、道ばたにすわっていたふたりの盲人が、イエスが通られると聞いて、叫んで言った。「主よ。私たちをあわれんでください。ダビデの子よ。」

そこで、群衆は彼らを黙らせようとして、たしなめたが、彼らはますます、「主よ。私たちをあわれんでください。ダビデの子よ。」と叫び立てた。

すると、イエスは立ち止まって、彼らを呼んで言われた。「わたしに何をしてほしいのか。」

彼らはイエスに言った。「主よ。この目をあけていただきたいのです。」

イエスはかわいそうに思って、彼らの目にさわられた。すると、すぐさま彼らは見えるようになり、イエスについて行った。(マタイ20:30-34)



この盲人は、プライバシーの守られている「家の中」という安全ゾーンにいたのではなく、多種多様な人々の目にさらされざるを得ない「道ばた」に座っていたのです。そしてこの道ばたという〈公の場〉で叫んでいたのです。「主よ。私たちをあわれんでください。ダビデの子よ」と。

しかも周りの人もそういう盲人の行為を「立派なことをしてますね!」と誉めてくれたわけではなく、その反対に、彼らを「黙らせよう」と「たしなめた」のです。

目は見えない、おまけに周囲からの理解もないという状況にあった盲人は、その後どうしたのでしょうか。「そうだよね。やっぱり人前でみじめに叫ぶなんて馬鹿げているよね」と黙ることにしたのでしょうか。いえ、彼らは「ますます」声高に「主よ。私たちをあわれんでください」と叫び立てたのです。

私が心を打たれるのは次の聖句です。「すると、イエスは『立ち止まり』彼らを『呼んだ』」と。野次馬は私たちをただ好奇心でみるだけかもしれません。また私たちの切なる叫びを聞いても、その重さに耐えられず、心を痛めながらもそのまま素通りしていく人々だっているでしょう。

でもイエスは「立ち止まり」私たちを「呼んで」くださいます。私たちから逃げず、私たちのあわれな叫びを軽んじられません。そして私たちに向き合い、「わたしに何をしてほしいのか」と願いをきいてくださいます。

☆☆
今朝思ったのですが、結局、私たちは皆、究極的な意味において、「道ばた」にいる存在なのではないでしょうか。

なぜなら主なる神は遍在しておられ、造られたもので、神の前で隠れおおせるものは何一つなく、神の目には、すべてが裸であり、さらけ出されているからです。(へブル4:13参照)

〈公の場〉、〈プライベートな場〉という区分はあくまで人間の視点でみた物のとらえ方であって、神の目からみれば、私たちは部屋に一人でいようと、大勢の前に立っていようと、どの道同じなのではないでしょうか。

そして神のことばは、その絶大なる力とまばゆい光でもって、私たちの思考の世界のおそろしい実態を今この瞬間にも映し出しているのではないでしょうか。

もしも私たちがこの一週間の間に、ひそかに頭の中で考えたこと・想像したことがすべて映像付きで録画されていて(おまけに考えたことは字幕入りで)、次の主日礼拝の席上、すべての兄弟姉妹の前で大型スクリーン上で公開されると想像してみてください。

私なら、恥ずかしさの余り、教会を欠席するどころか、もう二度とその教会の兄弟姉妹の前に姿を現さないと思います。

でも「神の目にはすべてが裸であり」(へブル4:13)というのは結局、そういうことではないでしょうか。それが聖書の神を信じるキリスト者の赤裸々な現実ではないでしょうか。

そしてその現実を本気でとらえるなら、私たちは、もう恥も外見もなく、ただ主の前にとりすがり、道ばたの盲人のように、「主よ。私をあわれんでください。どうかスクリーン上に公開しないでください。私の罪と恥を覆ってください。キリストの義の衣を私に着せてください。」と嘆願せざるを得なくなるでしょう。

実を結ばない暗やみのわざに仲間入りしないで、むしろそれを明るみに出しなさい。なぜなら、彼らがひそかに行なっていることは、口にするのも恥ずかしいことだからです。けれども、明るみに出されるものは、みな、光によって明らかにされます。エペソ5:11-13



もし、私たちが自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。Ⅰヨハネ1:9



祈り)
主よ、どうか私たちのうちからあらゆる偽りと気取りとごまかしを取り除いてください。罪を告白し合い、互いのいやしのために祈る恵みを与えてください。そして私たち一人一人が光の中を歩み、互いに聖い交わりをすることができますよう助けてください。イエス・キリストの御名によってお祈りします。アーメン。


beautiful sunlight


こんにちは。
今日はみなさんに一つお知らせがあります。

最近、英語のブログをも新しく開設しました。この新しいブログは、私と同じような志向を持って各地で信仰生活を送っている姉妹たちとの交流および励まし合いを目的として作られています。興味のある方はココをご参照ください。

ありがとうございます。




上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。