通勤途中の人形20(1)
南九州のいなか道

上の写真は、私の父が、通勤途中にみつけた「人形」です。

通勤途中の人形20(4)

のどかでいいですね。

私はこういうものに目を留め、わざわざ車を降りて写真を撮り、「通勤途中の人形」と題して娘にそれを送ってくる父の感性がとても好きです。

そして通りを行きかう人々を出迎えようと、この人形をせっせと作ったであろう「作り主」の心のあり方もすてきだなあと思います。

神様はこのような人々が福音を聞くことなく滅んでいくのを決して望んでおられない、最後の最後まで、私たちの主は魂の救いをあきらめず、今日も日本の津々浦々、そして世界の各地でご自身のみわざをなしておられることを覚え、主を賛美します。



詩篇67篇 (日本語による詩篇歌です)


詩篇 67篇

1 どうか、神が私たちをあわれみ、祝福し、御顔を私たちの上に照り輝かしてくださるように。

2 それは、あなたの道が地の上に、あなたの御救いがすべての国々の間に知られるためです。

3 神よ。国々の民があなたをほめたたえ、国々の民がこぞってあなたをほめたたえますように。

4 国民が喜び、また、喜び歌いますように。それはあなたが公正をもって国々の民をさばまれ、地の国民を導かれるからです。セラ

5 神よ。国々の民があなたをほめたたえ、国々の民がこぞってあなたをほめたたえますように。

6 地はその産物を出しました。神、私たちの神が、私たちを祝福してくださいますように。

7 神が私たちを祝福してくださって、地の果て果てが、ことごとく神を恐れますように。











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peter denied Jesus Christ

私達が周りを見て「こうあるべき」を語るとき、イエス・キリストは「私達の真の姿」を静かに見つめている。そのイエスの視線は、周囲で目に付く「あるべき姿」と「現実の姿」の矛盾が、自分の中にある矛盾と本質的に変わらないという事実を見つめている。

もし私達が、そのイエスの眼差しに誠実であるならば、ペテロのように悔い改めに導かれるが、もし不誠実ならば金持ちの青年のように、自己欺瞞の中に身を隠すことになるだろう。引用元:「イエス・キリストの眼差し」 an east window



昨日、ルカの福音書22章を読んでいた時、54節、「彼らはイエスを捕え、引いて行って、大祭司の家に連れて来た。ペテロは、遠く離れてついて行った」の中の、「遠く離れて」という言葉に心を刺されました。

「遠く離れて afar off」。

一応、ペテロは捕えられたイエス様の後を追って「ついて行った(followed)」のです。家の中で縮こまっていたわけではなかったのです。でもそこには距離がありました。

その距離はわが身を守る安全ゾーンを保つための距離であり、十字架につけられようとしている受難の主と運命を共にしたくないという心理的な距離だったとも思います。

相対的真理という現代の「信仰体系」は、それがどんなに美しく合理的な言葉で飾られていても、その根本においては、王の王、主の主であるイエス・キリストを排斥しています。しかも、その排斥は、表面的にはイエスを受け入れるというスタンスを取っているため、より狡猾かつ巧妙なのです。

しかし、冒頭の引用の言葉に照らされ気づくのは、その狡猾さ、巧妙さが、他でもない自分の中に依然として存在しているという事実です。

相対的真理という立場にたてば、人に揶揄されることもなく、無難にクリスチャン生活を送っていくことができるからです。

「温厚で、愛にあふれたクリスチャン」として誰からも受け入れられたい、敵を作りたくない、偏狭者、差別主義者呼ばわりされたくない――そういう自己保身の思いは、「遠く離れ」つつ、無難な距離を保ちつつ、しかもイエスに従う者として自分を他に紹介する偽善に私を誘います。

しかし、希望があります。聖霊なる神はそのような低いところにいる私の次元まで降りてきてくださり、言いようもない深いうめきによって、今この瞬間もとりなしていてくださるのです。

そして、同じ聖霊がみなさんの中でも今働いていてくださっているのです。

私たちを十字架に向かわせるのは、私たち自身の力や勇敢さにあるのではなく、私たちのうちで働き、とりなしておられる御霊によるのだということに私は大きな慰めを見出しています。

私を見つめておられるイエスの視線は、自分の隠れた狡猾さを見通しておられるゆえに痛いです。しかしそれと同時に、そのような私を赦すために十字架の上で死んでくださった、その愛の視線があるゆえに、私はこの方から視線をそらすことができません。

信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。へブル12:2a



(祈り)
はい、主よ、あなたから目を離していたくありません。ただあなただけに魅了されるよう、他のすべてをモノクロ写真のようにしてください。あなたの喜びを私の喜びに、あなたの悲しみを私の悲しみとさせてください。状況に応じてあなたと距離を保ち、あなたを排斥しようとする私の狡猾さ、卑怯さをおゆるしください。

私は読者の方々のためにもお祈りします。主よどうか、あなたの定めておられる道程を私たちがまっすぐに歩み続けることができるよう、私たち一人一人のうちでとりなし続けてください。

イエス・キリストの御名によってお祈りします。アーメン。


ouen 2



独身クリスチャンの方々への応援エッセー
―神の視点からみた独身の意味と価値―


(Myron Horst, Singleness — a Peek at God's Perspective快く翻訳の許可を与えてくださったホースト兄に感謝いたします。)

私たちは、自分の人生に起こっている物事を狭い視点でとらえ、神の許しの下に起きている、もろもろの出来事の理解にくるしむことが多々あります。

しかし、私たちの3メートル後ろに立っている人は、自分たちよりずっと広い視点で物事をみることができます。つまり、私たちが見ることのできないものを、彼らは見ることができるのです。

また、彼らは私たちの見落としがちな盲点を見ることもできます。

そして何より、神さまは、より広くより明瞭な視点でそれらを見ておられます。というのも、主は一時(いちどき)に、私たちの過去・現在・未来を見通すことがおできになるからです。

そして神さまはご自身の視点でもって物事を捉えるよう、私たちを招いておられるのです。

神さまは、ご自身の堅固なやぐらの中に走って行く者は安全であるとおっしゃっています(箴言18:10)。

神のやぐらは安全を提供するだけでなく、自分の抱えている問題の上に私たちを引き上げてくれます。そして私たちはその問題を、別の視点でみることができるようになるのです。

神の堅固なやぐらの一部分は、聖書です。聖書を読み、学び、黙想する中で、私たちは神の視点から自分の人生の諸状況を見るようになります。

神の堅固なやぐらから結婚および独身について見ていくこと――それは私たちに、より大きくクリアーな見取り図を与えるものであり有益です。

結婚というのは一時的なものであり、地上にいる間だけのものです

神が、ご自身のやぐらから見せてくださっている大切なことは、「結婚は、この地上にいる時だけのものであり、一時的なものである。」ということです。

結婚は配偶者どちらか一方の死をもって終わり、天においても続くものではありません。

イエス様は、マタイ22:30で「復活の時には、人はめとることも、とつぐこともなく、天の御使いたちのようです。」とおっしゃっています。

結婚はこの地上の時だけのものにすぎないのですから、私たちの持つその他の地上的所有物をみるように(もちろん、全く同じではありませんが)これを捉える必要があります。つまり、結婚は私たちが死ぬ時、共にたずさえていけるものではないのです。

今この時の幸せや満たしのためになにがなんでも結婚が必要とされているわけではないのです。それは、自分の幸せのために、なにがなんでも地上的所有物がなければならないわけではないのと同じです。

結婚が人生の究極的な目標になってはならず、また偶像になってもいけません。

いかに結婚や家族が偶像礼拝の対象となりうるか

神のやぐらからみる時、結婚や家族が偶像礼拝の対象になりうることに私たちは気づかされます。

主を差し置いて、何か(誰か)により重きを置くなら、それは偶像礼拝だと主はおっしゃっています。

独身の方であれ、結婚している方であれ、イエス様以上に、結婚や家庭に人生の重心をかけるなら、それは間違っています。

また、ちまたに溢れるお見合いサイト、結婚や家庭に関する本、フォーカス・オン・ザ・ファミリーといったプログラム、もしくは「早く結婚しなさいよ。」と暗にほのめかしてくる友人・親戚からのコメント、、、そういったものにより、イエス様のこと以上に結婚のことにやっきになってしまう危険性があります。

それでは、今申し上げたようなことが、今回のトピックである「独身であること」と、どのようなつながりを持っているのでしょうか。

そうです、それによって、私たちは結婚を、妥当な視点でみることができるようになるのです。クリスチャンとして、私たちは、「神の国における、独身者の価値」について知る必要があります。

聖書の中にみる、「独身であった時に、すばらしいやり方で神に仕えた人々」

聖書の中には、神の民に重要なインパクトを与えた独身者が多数存在していたことを、私たちは神のやぐらから見ることができます。

実際、独身であった人はもっといただろうと思われますが、聖書は彼らが独身であったか、結婚していたかについては言及していません。

独身だった人々:

• イエス
• ダニエル
• シャデラク
• パウロ
• メシャク
• バプテスマのヨハネ
• アベデ・ネゴ
• ピリポの四人の娘たち
• エリヤ
• エリシャ
• エレミヤ

晩年(ないしは中年期)まで独身だった人々

• イサクー40歳
• ヤコブー80歳(以上)
• エサウー40歳
• モーセー40歳(以上)
• アンナー84年間、やもめでした。彼女は日々、昼も夜も断食と祈りをもって主に仕えました。

独身の人が陥ってはならない誤り

神のやぐらから見ると、独身の人が陥りがちな次のような誤りに気がつきます。私たちが同じような誤りに陥らないためにも、以下にその問題点を挙げておきます。

その一つは、永遠の報いのないようなあれこれで、やたらに自らを忙しくすることです。

私は再び、日の下にむなしさのあるのを見た。ひとりぼっちで、仲間もなく、子も兄弟もない人がいる。

それでも彼のいっさいの労苦には終わりがなく、彼の目は富を求めて飽き足りることがない。そして、「私はだれのために労苦し、楽しみもなくて自分を犠牲にしているのか。」とも言わない。これもまた、むなしく、つらい仕事だ。伝道者の書4:7、8


真の喜びは他の人々に仕える中に見い出されます。

独身者の関心がもっぱら自分のことだけに向けられており、誰もこの独身者の人生から恩恵を受けていないのだとしたら、それはむなしいことだといえます。

たしかに、人が結婚し、家庭を持てば、その人は配偶者や子どもたちのために役に立つ存在となりえます。

しかし、他の人の役に立つ(他の人に祝福をもたらす)ということにおいて、結婚はあくまでその一つの手段にすぎず、また結婚したからといって、それがそのまま他の人の人生に祝福をもたらすという保証にはならないのです。

これは離婚によって損なわれてしまった結婚において、特にそうだと言えます。

独身者が他の人の人生に祝福をもたらす方法は、まだまだ他にもたくさんあるのです。その方がクリスチャンである場合はなおさらです。

あなたの人生における主のご計画が何であるかをどうぞ主に求めてみてください。主はあなたに示してくださるでしょう。

また別の誤謬として、結婚を禁じることが挙げられます。

これまで長年に渡り、メンバーに結婚を禁じるグループが多数存在してきました。しかし神はこれは間違いだと言っておられます。

人々に結婚を禁じることは、サタンの教えであり、サタンの嘘の一つであることを次のように神はおっしゃっています。

「しかし、御霊が明らかに言われるように、後の時代になると、ある人たちは惑わす霊と悪霊の教えとに心を奪われ、信仰から離れるようになります。

それは、うそつきどもの偽善によるものです。彼らは良心が麻痺しており、結婚することを禁じたり、食物を断つことを命じたりします。しかし食物は、信仰があり、真理を知っている人が感謝して受けるようにと、神が造られた物です」(Ⅰテモテ4:1-3)。


独身者が犯し得る過ちとして神が仰せられているのは、彼らが怠慢になり、人のうわさ話にうつつを抜かしたり、他人の事に余計な口出しをしたりすることです。

若いやもめについて、神はこうおっしゃっています。

「そのうえ、怠けて、家々を遊び歩くことを覚え、ただ怠けるだけでなく、うわさ話やおせっかいをして、話してはいけないことまで話します」(Ⅰテモテ5:13)。

古いことわざに、「怠惰は、悪魔の作業場」というのがあります。

しかしだからといって、ただやみくもに忙しくしていればいいわけではなく、仕事中毒になってもいけません。むしろ私たちは、自分の人生に神の持っておられる目的、および主が私たちに求めておられることを遂行することに心を集中すべきです。

結婚はすべての人に与えられた神のご計画ではない

神のやぐら、ないしは神の視点からみた時、ある人が結婚に導かれないこと――そこには神によって与えられた理由や利点があることに気づきます。

ある人にとってそれは婚期を過ぎてからの結婚を意味するかもしれませんし、またある人にとっては、一生涯結婚しないことを意味するかもしれません。

1. けんかっ早く、腹を立てている配偶者と結婚するよりは、結婚しないほうがましだということが箴言に書かれてあります。

「争い好きな女と社交場にいるよりは、屋根の片隅に住むほうがよい」(箴21:9)。箴21:19、箴19:13、25:24、27:15もご参照ください。

実際、こういう結婚をしてしまって、現在、修羅場にいる多くの人は、「ああ、この箴言のことばを知っていたら。そしてその言葉に従っていたらどんなによかったか。」と思っているのです。

2. イエス様は、「ある人々は天の御国のために結婚しないだろう。」と言っておられます。

弟子たちはイエスに言った。「もし妻に対する夫の立場がそんなものなら、結婚しないほうがましです。」

しかし、イエスは言われた。

「そのことばは、だれでも受け入れることができるわけではありません。ただ、それが許されている者だけができるのです。というのは、母の胎内から、そのように生まれついた独身者がいます。

また、人から独身者にさせられた者もいます。また、天の御国のために、自分から独身者になった者もいるからです。それができる者はそれを受け入れなさい」(マタイ19:10-12)。


これらの聖句は天の御国のために、離婚者が再婚しないということにも当てはまります。なぜなら、それは罪だからです。

• 危急の時ないし迫害の時には、結婚しないことが望ましい。

Ⅰコリント7:26 「現在の危急のときには、男はそのままの状態にとどまるのがよいと思います。」

• キリストの再臨までの時が縮まっているため。

Ⅰコリント7:29 「兄弟たちよ。私は次のことを言いたいのです。時は縮まっています。今からは、妻のある者は妻のない者のようにしていなさい。」

• 束縛されることなく、ひたすら主に仕える自由が与えられる。

Ⅰコリント7:32-35 「あなたがたが思い煩わないことを私は望んでいます。独身の男は、どうしたら妻に喜ばれるかと世のことに心を配り、心が分かれるのです。

独身の女や処女は、身もたましいも聖くなるため、主のことに心を配りますが、結婚した女は、どうしたら夫に喜ばれるかと、世のことに心を配ります。

ですが、私がこう言っているのは、あなたがた自身の益のためであって、あなたがたを束縛しようとしているのではありません。むしろあなたがたが秩序ある生活を送って、ひたすら主に奉仕できるためなのです。」

• 配偶者を亡くした人は、再婚しないままでいる方がもっと幸せだから。

Ⅰコリント7:40 「私の意見では、もしそのままにしていられたら、そのほうがもっと幸いです。私も、神の御霊をいただいていると思います。」

独身者が主から受ける祝福

• 不朽の名という祝福―彼らは神の国において、永遠のインパクトを与える存在なのです。

「子を産まない不妊の女よ。喜び歌え。産みの苦しみを知らない女よ。喜びの歌声をあげて叫べ。夫に捨てられた女の子どもは、夫のある女の子どもよりも多いからだ。」と主は仰せられる。

あなたの天幕の場所を広げ、あなたの住まいの幕を惜しみなく張り伸ばし、綱を長くし、鉄のくいを強固にせよ。

あなたは右と左にふえ広がり、あなたの子孫は、国々を所有し、荒れ果てた町々を人の住む所とするからだ。

恐れるな。あなたは恥を見ない。恥じるな。あなたははずかしめを受けないから。あなたは自分の若かったころの恥を忘れ、やもめ時代のそしりを、もう思い出さない。

あなたの夫はあなたを造った者、その名は万軍の主。あなたの贖い主は、イスラエルの聖なる方で、全地の神と呼ばれている。」(イザヤ54:1-5)


ダニエルもその一例です。

• そういった人々は主が夫となってくださり、主は、結婚した妻よりも彼らに多くの子どもを賜ってくださるのです。イザヤ54:1-6。

この祝福の約束は、新約聖書でも繰り返されています。

「喜べ。子を産まない不妊の女よ。声をあげて呼ばわれ。産みの苦しみを知らない女よ。夫に捨てられた女の産む子どもは、夫のある女の産む子どもよりも多い」(ガラ4:27)。

• 天の御国のために結婚しないことを選んだ人に対し、神は何倍に増し加えられた祝福を約束しておられます。それはただ単に「結婚に代わるもの」という以上の祝福なのです。

マタイ19:27-30 そのとき、ペテロはイエスに答えて言った。「ご覧ください。私たちは、何もかも捨てて、あなたに従ってまいりました。私たちは何がいただけるでしょうか。」

そこで、イエスは彼らに言われた。

「まことに、あなたがたに告げます。世が改まって人の子がその栄光の座に着く時、わたしに従って来たあなたがたも十二の座に着いて、イスラエルの十ニの部族をさばくのです。

また、わたしの名のために、家、兄弟、姉妹、父、母、子、あるいは畑を捨てた者はすべて、その幾倍もを受け、また永遠のいのちを受け継ぎます。ただ、先の者があとになり、あとの者が先になることが多いのです。」


おわりに

神のやぐらから「独身であること」―それを見る時、私たちは、周りにいる多くの人が見るのとは違った視点でそれを見ることができます。

独身には目的があり、何倍にも増し加えられた祝福があり、イエス・キリストの御国の中で非常に価値のあるものです。

また結婚はこの地上のものであるに過ぎず、神がある者を結婚に導かれないのには理由があることをみてきました。

ですから、落ち込みそうな時、もしくは人生における導きを必要としている時、神さまの堅固なやぐらに走り込んでください。

主とふたりだけの時を持ち、御言葉を通して導きが与えられるよう主に祈り求めてください。

そして今まで以上にひろい人生観を得てください。

(出典:www.biblicalresearchreports.com/singleness.php)

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追記)三谷隆正のことばより (召天される直前に執筆されたものです。1944年)


かくて幸福とは、地上においても天上においても、さかんなるいのちに充ち溢れることだ。

そのためにはわれら人間の限りある貧しきいのちが、もっと豊かな永遠的ないのちにつながれなければならぬ。

そのためにはただ見たり悟ったりするだけでなく、もっと突っ込んで、いのちを以ていのちに迫るのでなければ駄目だ。

天上においても地上においても、この挺身的な没入、そのひたむきな帰依が幸福の奥義である。

だから地上では、すべての悪と偽りとを敵にまわしての不断の健闘。

天上では勝ち誇る愛と真実との活発発地たる建設経営。

これが幸福の奥義であり、また人生の真意義である。

、、、故にすべて真実なる人生を生き、随ってまた真実なるよろこびに与りたくおもう者は、何よりもまず極めて積極的に、真実こめてこの人生を生きぬけるべく覚悟しなければならぬ。

そうしてそのためには、われらこの色身をもてこの地上にある限り、あらゆる虚偽不真実と戦いぬく覚悟をしなければならぬ。

、、そのためには肉体の健康のためにも、精神の教養のためにも、家庭のことも、社会のことも、その他各種の生活条件についても、誠実細心なる用意を配る必要がある。

真理のため祖国のため、はた又神の国と神の義のため挺身すると言っても、むやみやたらにただ投げ出しさえすれば良いのではない。

己を捧げるからには、最上の己を捧げなければならぬ。心身共に自分として力一杯磨きあげたものを奉らなければならぬ。

(結婚の意義を述べた後で)
、、、だが健康の故障やその他の原因で結婚できない人がある。

殊に今日のような戦時においては(註:1944年当時)、多数の豊かな天分を持つ婦人が、その天分を充分に活かし伸ばすべき場処を得ずして、孤独なる生涯を幸うすく過ごさなければならぬことである。

これは悲しむべきことである。けだし人は男女ともその天分のうちの最もゆかしきものを、家庭において始めて充分に伸びしめ得るもののようである。

わけても婦人はそうである。家庭は婦人のための天与の職場である。

しかるに若くして心身の備え豊なる婦人のすくなからざる数が、この天与の職場につくことができないということは、まことに悲しむべき社会問題である。

しかし結婚だけが人生のすべての意義づけの源であるのではない。

ある人々にとっては、一生娶らず嫁がず、一切の家庭的繋累(けいるい)から解き放たれて、一意専心あるひとつの仕事のために献身するということが、その人の天職である場合があろう。

あるいはまた、時世非なるがために、一生良縁を得ずして、孤独のうちに忍苦し続けて、人生の隘路(あいろ)を健歩することが、その時その人に託されたる時代の使命であることもあろう。

健康とか家庭とかいう生活条件を蔑視することは間違いであるけれども、これらの生活条件を人生の目的視するのも大きな間違いである。

人生の意義目的は健康以上結婚以上である。


(孟子の言葉を引いて)
天は若き日の夢を粉砕することによってその人の身魂を練るのだというのである。

この意味においては、真摯なる生活者の一生は失意失敗の連続であることが珍しくない。

この意味においては、人の一生は到底その人みずからのつくる所ではない。

多くはその人みずからの造ろうとした所と逆な人生である。

にもかかわらず、真摯なる生活者の真実なる一生は、その人みずからの願いしより以上に、いっそう深刻にその人の願いの通りの一生にまで完成する。

、、人の企画は浅薄幼稚である。

その幼稚なる企画が実行されずして、神の博大高邁なる深謀遠慮が実行されるということは、なんという幸福であろうか。

私は人生における蹉跌(さてつ)と失敗とを恐れない。

それらの浮沈に拘わりなしに、生くるに値する真実の人生は必ず与えられる。

真実もて求むる限り、必ず与えられる。


、、、この新しきいのちさえ与えらるるならば、健康を失っても、家庭がなくとも、職場さえ奪い取られても、われらは生気とよろこびとに溢れたぎつことができる。

しかしこの奪うべからざる幸福の鍵は、われら人間みずからの裡にはない。

、、、ただ信仰により、超越的創造の主たる神の恩賜として、ただただ恩賜として受領するよりほかない。イエスはこの受領ぶりをたとえて、幼児のごとくに受けると言った。

、、、こうした宗教的境地を通ることなしに、不壊(ふえ)の幸福をつかむことは不可能であると思う。


それにはどうしたらよいか。


真実一途の生活をすることだ。ほかに道はない。

ただただ真実の一本槍、一切の虚偽虚飾を敵に回して、終始一貫ただ真実を守って生きぬくことだ。


しかる時たとえもし一生を苦しみ通し、悩み通すことありとも、それは深く祝福せられたる、充ち足らえる一生であるであろう。

なぜならば真実なる一生にも増して神の祝福に値するものは他にないから。


三谷隆正『幸福論』(岩波文庫)第6章より一部抜粋






なんのために書くのか

(Natalie Nyquist, Why Write? ナタリー姉の許可をいただき、2014年8月、日本語訳いたしました。)

10 Aug

しかし、主は、「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現れるからである。」と言われたのです。ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。

ですから、私は、キリストのために、弱さ、侮辱、苦痛、迫害、困難に甘んじています。なぜなら、私が弱いときにこそ、私は強いからです。
Ⅱコリント12:9,10



自己顕示や自分の利益のために、ものを書きはじめるや、私たちは、この世にインパクトを与える機会を失ってしまいます。

どんなにすぐれた書き手になったとしても、高給取りの売れっ子ライターになったとしても、書き手としての私たちの価値および伝達者としての影響力は、何一つとして私たちのうちにないのです。

そうです、神の御力のうちにあってのみ、私たちの賜物は真に輝きを放つのです。

クリスチャンの書き手の間で共有され、包含されるべき真理が一つあるとしたら、それは――私たちのしたためる記事や本は、全くもって、自分たちのものではないということです。

書き出しの一語から、結末の章にいたるまで、それらはことごとく神に属するものです。

自分の名前を売ろうとしたり、印税で儲けることを考えたり、大衆受けのする内容を書こうとして、気がそぞろになりはじめるや、私たちの心の焦点は、主からずれてしまいます。

そして私たちの目が主に注がれていない時、そして自分の作品を握り締めている私たちの手が、主のご計画に対して開かれていない時、

私たちは、書くという行為を通してなされうる最大の冒険――人の人生に、永遠にいたる変化を起こす主の道具となる――という機会を失ってしまうのです。


はじめに書いたⅡコリント12:9,10は、私の好きな聖句です。

なぜなら、このみことばは、私たちが自分の足りなさや弱さでさえも喜び誇ることができるということを思い出させてくれるからです。

自分自身を誇るというのではありません。そうではなく、こういった弱さを通して表される神の力を誇るのです。

自分自身のことや、書き手としての自分の業績に酔いしれるのではなく、自分というものを真っ正面に見つめるのです。

そうすると、自分は穴だらけの分厚いカーテンのようだということに気づかされます。――そしてその穴から太陽の光が輝き出でるのです。

自分のちっぽけな成功ではなく、神の力を見てほしい――私たちは人々にそう望むべきです。


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私はものを書く時、読者のみなさんの前に、曇りなく正直であろうと努め、自分の葛藤している部分も隠しません。

これは、私にとって、神のしもべとしてのささやかな犠牲だと言えます。

できるなら払いたくない犠牲――自分の経験してきたことのいくつかは、できるなら誰にも言いたくない種類のものです。

試練のうち、あるものなどは、私的なものであり苦渋に満ちたものです。

こういったものは、私たちが、この地上にあっては決して完全な状態におかれることはないこという真理を私に思い起こさせてくれます。また、そうなるべく期待されてもいないのです。

ですから、自分自身の名声に「てこ入れ」し、強さを吹聴する代わりに、むしろ私たちの人生を他の人々のために注ぎ込むよう、努めようではありませんか。

私たちがやがて行く永遠の場所――そこで私たちは何一つ欠けたところのない満ち足りた状態となり、いやされ、聖くなります。

そういった永遠の場所にいつまでも残っていくような何かに力と情熱を注ぎ、投資していこうではありませんか。

私たちが自分の無力さを感じているまさにその時、神さまは私たちのわずかな賜物を用いて、多くの読者の心に語りかけられます。

私たちの弱さや限りある視野のただ中で、神はご自身の力をお示しになり、想像もできなかったようなことを、私たちの心のうちに、そして読者の方々の心のうちに成してくださいます。

作者ではなく、主が栄光を受ける時、私たちの言葉のインパクトは永遠に残っていきうるのです。

(出典:Natalie Nyquist,www.natalienyquist.com)

一生懸命奉仕していても結果がみえないとき

私が宣教の地で奉仕する中で、いちばんつらく感じるのは、
故郷恋しさ以上に、今やっていることが不毛に思える――そういう
思いにおそわれる時です。

特に、心を込めてお世話した方々がいともかんたんに私たちを
見捨てて去っていくとき、またそういう方々の言動が「誠実」とは
程遠いところにあるように感じるとき、私の心はしなえ、「いったい
ここにいる意味があるのだろうか?」と脱力感をおぼえてしまうときが
あります。

「見るところによってではなく、信仰によって歩んでいる」はずなのに、
いや、そうあるべきなのに――、できることなら見るところによって歩みたい、
現金な人たちではなく真剣な信者や求道者が増えるのを見たい、自分たちの
蒔いた種が、道ばたでもなく岩地でもなく、いばらの中でもなく、良い地に落ちて
実を結ぶのを見たい――、そう願う自分がいます。だから、そうじゃない現実に
ぶつかるとき、私の心はぐしゃんとなってしまいます。

広大な土地を、大型ブルドーザーでがんがんパワフルに耕していけたら、
進行状況もわかるし、仕事はずいぶん楽になるのかもしれません。

でも、主が私に渡されたのは、一つのちいさなスコップでした。

そしてこのスコップで、与えられた小さな場所を、すこしずつ、すこしずつ
掘り起こしていくよう、そしてそこに種を蒔いていくよう、主は私に求められました。

しゃがみこんで、すこしずつ掘っていきます。

容易に掘れるやわらかい土地もあれば、
何日かかっても1センチの深さにもとどかない、カチカチの場所もあります。
そういったカチカチの場所がつづくときもあります。

また、一見やわらかそうに見えたのに、いったん掘りはじめるとそうじゃなかった、
そんなクセモノの土地もあります。

そういう時、手も心もつかれます。

そうかと思うと、思いがけず、肥えた場所に行きあたることもあります。

いち、にっ、いち、にっ、、、、
毎日、地道に掘り起こしていきます。

いい時も、わるい時も、掘り起こしていきます。

ふと目を上げると、青空がひろがっています。
水分をいっぱいにふくんだ雲もうかんでいます。

空を造られ、雲を造られ、大地を造られた天のおとうさまが
ほほえんでおられます。

ようしっとまた気合いが入ります。

いち、にっ、いち、にっ、、、
今日もまた掘り起こしていきます。

(おわり)

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