愛するみなさん、本当にお久しぶりです。お元気にしていらっしゃいますか。コメントをくださった兄弟姉妹、ありがとうございます。


先月、「クリスチャン女性とブログ」という記事の中で触れましたように、私は、長老のお言葉(忠言)を重く受け止め、その後、自省と振り返り、そしてみこころを求める祈りと黙想の日々に入りました。


奥さまから聞くところによると、長老は長老で、私に忠言のメッセージを送信した後、


「主よ。私はもしかしたら、こういった、主のために献身的で情熱的な姉妹たちの『つまずきの石』となっているのでしょうか。私があなたゆえに立ち続けようとしているこの立場は、あまりにもドグマティック過ぎるのでしょうか。ああ、私はむしろあなたにではなく、サタンの道具として用いられ、あなたのご計画を妨害しようとしているのでしょうか。」


と死ぬほど悩み、「主の言葉に忠実でありたい思い」と「自責の念」との狭間で苦悶の日々を送っておられたそうです。


私は、それを知って号泣し、奥さまを通して、


「いいえ。長老、あなたは、聖い神の道具として用いられています。私はあなたが『何に対して』闘おうとしているか、何ゆえに、あえてそこにとどまろうとしているのか痛いほど分かりますし、一連の出来事は、神の摂理の下に起こっていることを信じています。私は今、これを通して主が私に何を学ばせようとしているのか、慎重に耳を傾けたいと思っています」


と長老を激励しました。

-----

ブログを続けるのがみこころなのか、それともやめるのが最善なのか、さらに、もしも続けるのがみこころなら、「どのような形で」続けるのがもっとも主をお喜ばせするあり方なのか、、、そういったことを真剣に主にお尋ねしました。


そうした結果、主のみこころに関する、現時点(2016年12月16日)での自分の理解において、私は次のように導かれました。それは、もう一つ別の新しいブログを開き、その場で自省の実として生じた方針変更(修正・改革)を表わしていくという道です。


「(表わしていく)選択」と書かず、「道」と書いたのは、これが最終的な私の「結論」ではなく、on-goingなみこころ探究のプロセスそのものであることを、みなさんの前に告白したかったからです。みなさん、これからもどうぞよろしくお願いします。


このブログを開くに至ったいきさつ(証し)




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私たちは、北米に住むご夫妻を親しくしています。


そして、この家のご主人は相補主義の教会の長老(牧師)をしておられます。


さて先日、あるテーマでそのご主人に意見をうかがったのですが、彼はとても洞察力に富んだ返答をよこしてくださいました。


そこで私はこの方に、「もしもよろしければ、兄弟のお書きになったこの論文を私のブログに掲載してもよろしいでしょうか?」と許可を求めるメールを出したのですが、彼からは、ていねいに断りのメールが来、


「私の良心は、ブログ掲載を望んでおりません。しかし、なぜ私がそれを望んでいないのか、理由をお知りになりたいのでしたら、その時には謹んで理由を申し上げたいと思います」と律儀な返答がありました。


そこで私は、「どうかその理由をおっしゃってください。包み隠さず、あなたが信じていることをそのままおっしゃってください。」と兄弟に頼んだのです。


すると、今朝、その方から長文の返答がありました。


「あなたにこれを書くのが非常にはばかれ、躊躇しているのですが、、」と前置きがあった後、それでも彼は真っ正直に、ご自分の信じておられることを私に語ってくださいました。




長老の探求と結論



それを要約すると次のようになります。


この尊い主のしもべは、今年、ジェンダー・フェミニズム問題、およびheadshipの問題に正面から取り組み、聖書を熟読し、祈り、研究し、奥さまと共に彼の家庭における聖書的ガイドラインを作ったそうです。


しかし、その中でも難航した部分が、女性のblogging issueだったそうです。


どこにラインを引くのがみこころなんだろう?


女性のTV・ラジオ説教行為がアウトだということは容易に分かる。


でも、「電子文書活動」によって聖書を説明している女性ブロガーたちは、headshipの「枠内」にはたしているのだろうか。


結局、「音声」がないだけで、形は違えど、彼女たちもまた、電子版「講壇」に立って聖書を説いている、という風に考えられないだろうか?


こうして半年以上に渡って祈りと熟考を重ねた末、彼は「やはり(私を含めた)女性ブロガーたちは、聖書の指し示すheadshipの枠を超えている。」という理解に達したそうです。


それゆえに、彼は私のブログを読まないし、自分の書いた論文も女性である私のブログには載せない、ということに方針を決めたということでした。


(*私の主人は、この点で、この兄弟と意見を異にしており、クリスチャン女性のbloggingと、講壇/TV/ラジオ説教は二つ別々のものであり、bloggingとpreachingは違う、という見解に立っています。)


私がこの長老の意見を重んじ尊んでいる理由は、彼が長年、際立って聖く潔白な生き方をしている聖徒であるということ以外にも、


聖書の見方・解釈における「思想のスペクトル(幅)」という点で、彼のような立場に現在も尚とどまっている人はとりわけ注目に値し、その見解を傾聴すべきだと思うからです。



☆☆


少し脱線しますが、礼拝賛美のあり方の一つとしてExclusive psalmodyという立場があります。


これは公同礼拝の中で歌われる賛美を、みことば(=詩篇歌)だけに限定するという立場です。


現在でも、保守的なオランダ改革派教会、スコットランド長老教会などでは、(一般讃美歌をも奨励したルターと違い)、Exclusive psalmodyを重んじたジャン・カルヴァンに倣い、公同礼拝の時には詩篇歌だけが歌われています。




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さて、この立場の人たちはちょっと「行き過ぎ」「狭すぎ」「厳格すぎ」なのでしょうか。


私自身は、exclusive psalmodistではなく、通っている教会でも、一般讃美歌を歌っています。


しかしながら、500年以上に渡り、なぜ真摯な聖書主義クリスチャンたちの間で、exclusive psalmodyという立場が消えないのでしょうか。


私はそこの部分に関心を持ちました。


そして彼らの論文をいろいろ読み始め、彼らの主張に直接、耳を傾けてみることにしたのです。


そしてそこから分かったことが二つありました。


)確かに、使徒時代、初代教会時代の礼拝賛美の主体は、一貫して「詩篇歌」であった。


)彼らが詩篇歌だけを公同礼拝で用いたいと願う根本には、

キリスト礼拝においてできるだけ人間的なもの(人間のことば、人間の考え等)を排除し、純粋なる神の御言葉だけが宣言され、また聖徒の口から歌われることを望む――、

そのような神中心・みことば中心の礼拝を熱望する聖徒たちの心があったのです。




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Exclusive psalmodyが実践されている北米の保守改革派教会 (source




またそういった教会は一般に、「リベラリズムに傾きにくい」という共通した特徴を持っていることにも私は気づきました。


繁栄の神学、フェミニズム、○○運動、○○神学といった流行の波がわっと押し寄せてきても、こういった教会はぐらつかず、そうそう容易に同化もしません。



☆☆


おわりに



話が逸れてしまいましたが、私はこの長老を、exclusive psalmodyのような稀有な人物だと考え、彼のような人をとりわけ尊敬しています。


彼は私のblogging行為が、聖書の示すheadshipの枠を超えている、よろしくないと考えています。


人は、そして私は、自分が今見えている範囲でしか行動することができません。


私は主人と長らく話し合い、祈った結果、現在にいたるまで一応、女性ブロガーとして聖書のみことばやその周辺のテーマをこの世に発信しています。


しかしながら、私は同時に、自分が女性として、男性よりも惑わされやすい存在であり、その意味で誤謬を犯す可能性がより高いのではないかと感じています。


(しかしこれは他の女性の方々に適応されるものではなく、あくまで私という一女性の個人的所感です。)


ですから、他の方々に教理の検証を頼まれた際にも、いつも、自分の調べたその検証内容を、さらに、信頼できる男性教師(牧師)の方々に再検証していただくことをみなさんにお勧めしています。


同じコンプリメンタリアンの陣営内にもスペクトルがあり、幅があります。


そして私はこの「幅」を愛しています。


なぜなら、この幅は、聖書を神の言葉を信じ、それに忠実に従っていこうと最善を尽くしておられる聖徒たちの努力と誠実、そして人間としての有限性を表わす「幅」であると思うからです。


そして私も主人も、日々、主にあって、主を知る知識において成長したいと願っています。


もしかしたら、5年後、10年後、主人の見解に変化が生じ、長老と同様の結論に達するかもしれませんし、そうでないかもしれません。


ただ私としては、自分の上に立てられている地上の権威である主人が主に祈り、聖書を調べた結果、導かれた諸結論に、いつも「はい。そう致します。」と従える者でありたいと願っています。


読んでくださってありがとうございました。






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中東の姉妹のみなさんに、聖書の示す女性像(womanhood)および創造の秩序の中における教会・家庭の中での女性の役割について、どのように真理を証していったらいいのか、私は長い間立ち往生していました。


彼女たちが日々接しているキリスト教はその大部分が対等主義ベースのものです。相補主義は、提示の仕方を誤ると、たちまちの内に中東の宗教のあの「女性抑圧」と混同され、猛反発を招きます。


こういった背景を持つ女性たちの話を聞いていて私が痛感したのは、――キリスト教リベラル派やフェミニストの方々と同様――中東宗教の背景を持つ女性たちもまた、


本質における男女の完全な平等と、役割・機能における違い

(equal in nature but different in order/function)




という点で大いに混同しているということでした。



その三者の違いを分かりやすく下に書いてみます。



① 中東宗教の男女観


Different in nature and different in order
本質における違い・不平等と、秩序・役割における違い)




② フェミニズム(<対等主義)の男女観


Equal in nature and equal in order
本質における平等と、秩序・役割における均一性)




③ 聖書的な男女観


Equal in nature and different in order
本質における平等と、秩序・役割における違い)




中東出身の女性たちは、①のシステムの下で抑圧感や不平等感を覚えながら育ってきました。


そんな彼女たちがイエスさまを信じました。


すると、今度は、多くのキリスト教会の対等主義的教えによって②のシステムが彼女たちに「聖書的なもの」として教え込まれます。


つまり、それまで完全に左に振り切れていた振り子が、今度は、一気に右の右まで振り切れてしまうのです。



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そして①と②、そのどちらも非聖書的な教えです。


私はこれまで②のシステムの下で不可避的に生じてくるさまざまな問題(教会・家庭における男性リーダーシップの欠如、妻の不従順、夫の中毒、夫婦間の不和、別居、離婚など)で苦しむ中東の姉妹たちに直接的にかかわってきました。


しかしながらやはり、それらの助けは応急手当としての一時的効用はあっても、根本的な解決をもたらす上で必要な「腫瘍除去」には至らないのです。


そこが宣教師として、また一姉妹として私の葛藤してきた部分でしたし、今もそうです。




その2につづきます。




関連記事:


夫に従うことは、女性としての価値を貶めること?―男女平等の聖書的意味―

中東女性とフェミニズム―聖書的女性解放を求めて―







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True Feminine Beauty Hides Herself In The Innermost Parts Of His House


詩篇128:3a


妻は家の奥にいて、豊かな房をつけるぶどうの木。

Thy wife shall be as a fruitful vine, in the innermost parts of thy house. (ASV訳)


the innermost parts:最も奥の部分、最も内奥の、中心部の、最も深い部分。





自己宣伝、自己主張、自己顕示、自己実現が奨励され、促進される時代にあって、女性らしい真の美は、この御方の家の、最も内奥の部分に身を隠そうとします。


名声やこの世の注目を渇望する騒々しい外庭から静かに身を引き、この美は秘められた部屋へと向かい行くのです。


――そこで、天の花婿である主と、秘めやかにして甘美な交わりをするために。


「汝の御前には喜びが満ちています!」と彼女は叫びます。



女性らしい真の美は、秘密の花園のようであり、また周囲の目には隠された、豊房のぶどうの木のようです。


そこでは少女のようなはにかみや恥じらい、そして控え目なつつましさが内なる美徳として庭園を飾っています。


今世紀にあって、この美を追求し、この美のうちにとどまろうとする女性たちには果断さと断固とした決意が必要とされます。


この庭園――聖書的女性像(biblical womanhood)――に入るための鍵を見い出すには、信仰と、価値観の根本的パラダイム・シフトがなければならないからです。


願わくば、私たちの存在すべてが、今よりとこしえまで、王の王イエスに捕らわれ、この方のみによって私たちの心が占められますように。アーメン。





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「今日ぐらいは、ちゃんとした格好をすべきかな?」と思ってほとんど着ていなかったワンピースを引っ張り出して着たら、その日一日とてもいい気分でした。

もちろん入門式の喜びもあったのですが、歩くたびにふわっふわっとスカートの裾が揺れる感じが、なんかわくわくするというか・・・

こういう感覚って、年をとっても変わらないんですね。





冒頭のメッセージは、愛する読者の方が私に書き送ってくださったものです。おそらく多くの女性のみなさんが、「うん、その気持ちすごくよく分かる!」と共感してくださったのではないかと思います。


私の親しい友人が昨日、自作のyoutubeビデオを作ったのですが、その中で彼女は、自分の信仰のことや祈りのベール、慎み深い服装のことなどを証しています。(The Old Paths: Headcovering, Skirts and Dresses Only, and More!


北米の保守的な聖書信仰の姉妹たちの間では、Skirts and Dresses Onlyということばがよく出てきます。慎み深く、女性らしい服装を日常的に実践している、その信仰のあり方や生き方をあらわす言葉です。





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思えば、北米やフランスにいる私の友人たちは、ほぼ全員、このSkirts and Dresses Onlyの女性たちですし、また、私自身、ここ10年近くロング・スカートだけを履いているので、外見的にみれば、おそらく私もSkirts and Dresses Onlyの範疇に入るのかもしれません。


しかし、この立場に対する私の見解はどうかと申し上げますと、「共感します。でも完全には同意していません。」という感じになると思います。以下にその理由を書こうと思います。





共感はしても、完全に同意はしていない理由




この立場を根拠づける聖句としてよく引用されるのが、旧約聖書申命記22:5です。



女は男の衣裳を身に着けてはならない。また男は女の着物を着てはならない。すべてこのようなことをする者を、あなたの神、主は忌みきらわれる。




ここで言っているのは、男性と女性の服装は、互いにdistinctiveなもの(=明確に区別できる)でなければならない、ということだと思います。


しかしながら、具体的にどのような服のかたちや種類が男性と女性にそのdistinctiveness(区別)を与えるのかという詳細は書かれていません。


たとえば、下の写真をみてください。




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これらの丈長スカートは、たしかに女性らしく、また男性の服装との間にもあきらかな区別のある、慎み深い服装だと思います。


それでは次の写真をみてください。




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インドの女性たちの服装です。彼女たちはズボンと取り合わせた伝統的なインド服を着ています。


注目していただきたいのは、ズボンを着ている彼女たちが皆、非常に丈長のブラウスを着ており、そのため、ヒップやその周辺の体のラインが公衆の目には隠れるようになっているということです。これは慎み深さを考慮しての彼女たちの選択なのだろうと思います。


さて、彼女たちはズボンを着ていますが、そうだからといって、女性らしさを失っているでしょうか?いいえ、そうは思いません。私の目に彼女たちのこういった衣裳も、スカートと同様、フェミニンに映っています。


ムスリムの女性たちの服装についても同じことが言えると思います。




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というわけで、私は、「クリスチャン女性の慎み深い服装にはもちろん、Skirts and Dressesが含まれるけれども、それだけが全てではない。スカート以外の服装によっても、慎み深く、女性らしさを表現することは可能。」と考えています。





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慎み深さとは、あなたの美しさを、尊厳(品位)をもって扱うことです。






共感する理由



しかしながら、その一方で、私はSkirts and Dresses Onlyという考え方の背後にあるスピリットには多いに共感しています。


そのスピリットとは――聖書的な女性らしさを保持したい、神の創造の中におけるgender-distinctiveness(ジェンダーの区別)を大切にしたいという――信仰者たちの切なる願いであり、信仰告白です。


娘が小学生のころ、小学校の体操服の色が変わった。以前は男子は青色、女子はえんじ色だったのが、男女共通の紫になった。ちょうどその頃、男女混合名簿が導入された。これは公立の小中高等学校を中心に、性差を意識させるような男女区別を、子どもの視野からいっさい排除しようというジェンダーフリ―教育の一環としてなされていることである。


・・フリーとは自由である。自由というのは、その者が本来もっている個性にふさわしく生きることが許されるときにこそ得られる。ジェンダーフリーと称して、男と女の個性を中性という檻に監禁することのどこが自由なのだろうか。数年後には青少年の心の病気が激増するだろうと先の心理学者は予測している。私たちは創造主の前に謙虚になって、男子は男らしく、女子は女らしく育てたいものである。


水草牧師のメモ帳より






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みなさんはこのテーマについて、どう感じていらっしゃいますか?なにかご感想がありましたら、ぜひお聞かせください!





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ヒメユリ



モンゴメリ『アンの青春』
第13章「たのしいピクニック」より抜粋




少女たちは籠をヘスターの庭においたまま、午後をずっと、まわりの森や原を歩きまわってすごし、美しい片隅や、小径をたくさん見つけた。


お腹をすかした一同は、一番美しい場所・・・せせらぎの音が快く流れている小川の、傾斜の急な土手の上、ながい羽根のような草の中から白樺がはえているところで、お弁当をひらいた。


。。不意にアンは指しながら叫んだ。「ごらんなさい。あのが見えて?」


「どこに?」とジェーンとダイアナは、樺の木に古代のルーン文字が書いてあるかのように、目をみはった。


「あそこよ・・・小川の底の・・・あの古い緑色の苔がはえている丸太よ。あの上を水が、まるで、櫛をとかしたような、なめらかなさざなみ音で流れているわ。


それから、水たまりのずっと下の方に、日光が一筋、ななめにさしているわ。ああ、こんな美しい詩って見たことがないわ。」


「あたしならむしろ、絵と言うわ」とジェーンが言った。「詩とは、行や節のことを言うのよ。」


「あら、そうじゃないわ。」アンは山桜の花かんむりをかぶった頭をつよくふった。


「行や節は、詩の外側の衣裳にすぎないのよ。ちょうど、あんたのひだべりや、飾りひだが、あんたでないと同じように、行や節自体が詩ではないのよ。


ほんとうの詩は、そういうものの中にある魂のことよ――そしてあの美しい一編は、文字に書きあらわしてない詩の魂なのよ。


魂を見ることはそう、しじゅうは望めないわ――詩の魂だって、そうよ。」




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「あたし、魂って・・・人間の魂ってどんなものかと思うわ。」プリシラは夢みるように言った。


「あのようなものだと思うわ」とアンは、一本の樺の木にさしている輝かしい、清らかな日光を指さした。


「ただ、形だけを言っているのよ。あたし、魂は光でつくられていると想像するのが好きなの。


中には、ばら色の斑点と、えびらをつけてさしているのもあるし・・


海の月光のように、やわらかな、にぶい光のもあるし、あけがたの霧のように青白くて、透明なのもあるわ。」


「あたし、いつだったか、魂は花のようなものだと書いてあるのを、なにかで読んだわ」とプリシラが言った。


アンは、「それなら、あんたの魂は金色の水仙よ。


それからダイアナは、赤い、赤い、ばらだし、ジェーンのはりんごの花、ピンクで、健全で、やさしいのよ。」


「それでは、あんたのは、芯に紫色の縞が入っている白すみれよ」とプリシラが結んだ。





いったい魂は花のようなものなのでしょうか。


もしそうなら、みなさんは、どんな花なのでしょう。それを考えたことありますか。


私は昨晩、主人のところへ行き、「私は何の花に見える?」と訊いてみました。


すると、主人は「白くて、ちいさなジャスミンの花」と答えてくれました。そのなんとうれしかったこと!


というのも、学生時代に南インドに行ったとき、そこにJasmineという――いかにも可憐なジャスミンの花を想わせる――きゃしゃで愛らしい娘さんがいて、その時以来、私はずっとジャスミンという名前に憧れていたからです。


そして心ひそかに、「ミドルネームをつけることができるなら、ジャスミンにしたい♡」と思っていたのです。


それから、私は自分の周りにいる姉妹たちのことを一人一人思い浮かべては、みなさんが私にとってどんな花なのかを考えてみました。


たとえば、まこさんは、優美で端正な藤(ふじ)の花を連想させます。


それからさなえさんは、ちょっと人里はなれた山野に咲いているうすいピンク色のヒメユリの花です。


まりさんは、紅色のあざやかなチューリップで、しかもまわりに御使いのような白い衣裳のカーネーションがふわっとやさしく寄り添っています。


それから、みくさんは天を向きまっすぐに伸びていっている白いユリを思い起こさせるかと思えば、いとも美しいシクラメンのあの赤紫の花をも同時に思い起こさせます。


そしてくるみさんは、なんといっても、あのかわいらしい鈴蘭です!


さて、愛する姉妹のみなさん、どうでしょう。


ぜひ、周りの人々にみなさんの「花印象」を訊いてみてみてください。


みなさんの内にひっそりと根付き、息づくその美しい花から、キリストの芳香がいたるところに放たれていきますように。






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結婚生活の中での祈りはすばらしいものです。


しかし、ここでみなさんとご一緒に考えてみたいのは、次のことです。


つまり、「主人は霊的リーダーなんだから当然すべきよ」と私たちが信じ考えている一連のことは、はたして本当に聖書が夫に命じていることなのでしょうか。


「夫が率先して祈りを導いてくれない」「『最近、君の霊的調子はどう?』とか、そういうスピリチュアルな気遣いをしてくれない」「一緒に聖書を開いて、みことばを分かち合うこともしてくれない」――


そうして私たちは、夫に対し憤慨したり腹を立てたりしてしますが、それははたしてどうなのでしょうか。


もしかしたら、私たちの夫は個人的な祈りの方を好んでいるのかもしれません。


また、主人は、私たちの態度や言動をみて、私たちの霊的状態を察し、それで、わざわざ「君の霊的調子はどう?」と訊く必要性を感じていないのかもしれません。


「主人たる者は、こうこうすべき」という一連の考えは、どこから来ているのでしょうか。


もしかしたら、「霊的リーダー」についての私たちの定義は、今一度、再考されるべきなのではないかと私は感じています。



☆☆


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もしかしたら、、、もしかしたら、私たちは不当にも、夫を責め、批判し、彼に対して憤っているのかもしれない、、そう考えたことはありますか。


夫が私の期待通りに動いてくれないという理由で、私たちは自分たちの主人に対して苦々しい思いや憤りの気持ちを積もらせているのでしょうか。


しかも、そういった「期待リスト」の項目が、聖書には明記されていない場合もけっこう多いのです。


個人的な祈りをしていない信仰者にはたしかに問題があります。しかし、もしもクリスチャンの夫婦がそれぞれ個人的には祈っているけれども、一緒には祈っていない場合、それは罪深いことなのでしょうか。


妻と一緒に祈り、妻と共に聖書を読んでいないような夫は、敬虔なリーダーにはなり得ないのでしょうか。





自省と黙想



―自分の心にある、夫に対する苦々しい思い、批判的な精神、軽蔑、憎しみなどは、明確な罪となり得るかもしれない。


―結婚や家庭生活のかじ取りを自分がしようとすることは、やはり罪なのかもしれない。


―一緒に祈るとか、聖書の学びとか、そういうことで夫の霊性を判断しようとすることはやはり罪だと思う。


―霊的なセキュリティー(安定)を、キリストの中に見いだす以上に、夫との霊的活動の内に見いだそうとする試みもやはり問題だし、罪になり得ると思う。




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こういった問題にサタンはつけこみ、私たちが心の中で罪を犯すようしむけ、こうして敵は私たちの結婚・家庭生活を破壊しようとしているのではないでしょうか。


そしてサタンは、こういった「霊的な事柄」を使って、私たち夫婦の間に行き違いや仲たがい、心痛などを引き起こさせようとしてはいないでしょうか。


☆☆


現在、自分と夫との関係がどのようなものであれ、私は、(自分も含めた)みなさんが、以下の項目をお読みになり、静かに自問する時を持たれることを望みます。



―私は、もろもろの自分の期待をいったん脇に置き、キリストと自分自身の歩み(従順、信仰、責任、みことばの黙想、自分の罪、祈りの生活)に集中しようと望んでいるでしょうか。


―私は、[自分ではなく]あくまで神様が、ご自身の判断に従い、主人の人生の内に働いてくださることを進んで認めようとしているでしょうか。

そして彼に何かをすることを強要せず、今ある状態の彼をそのままで受け入れてあげようとしているでしょうか。

そして、、、たとい、このプロセスが一生涯続くものであったとしても、そして自分の主人が今後もずっと自分と一緒に祈ってくれなかったとしても、、、それでも私はこういった神様のお取扱いに「Yes」と応答し続けるでしょうか。


―私は、キリストの内にのみ満足を見いだし、そして個人的な祈りの内に十分な満足を見いだすことを望むでしょうか。

「誰か敬虔な姉妹が祈りのパートナーとして与えられますように」と祈ることができるかもしれません。

しかしたといそのようなパートナーが与えられなかったとしても、それでも依然として、私はキリストの内にあってのみ満ち足りることを望むでしょうか。




おわりに


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あなたに代わって、私の心は申します。「わたしの顔を、慕い求めよ。」と。主よ。あなたの御顔を私は慕い求めます。詩篇27:8




鍵は、とどのつまり、祈りというのが本来、夫の「臨在」ではなく、あくまで神様のご臨在の前でなされるものであるということではないかと思います。


神様さえ私たちの祈りを聞いてくださるのなら――それこそ一番大切なことではないでしょうか!


それに、もし自分の夫が毎日きちんきちんと私と共に祈ってくれても――私が自分の感情的・霊的ニーズすべてを主人によって満たしてもらおうと依拠している限り――私は決して満たされることはないでしょう。


そういう私は常に「もっと欲しい、もっと欲しい」と枯渇し続けるはずです。


自分の主人が一緒に祈ってくれるか否かということは、ですから、最重要課題ではないのです。


もちろん、そうであったらどんなにすばらしいでしょう。しかし自分にとって、イエス様との私的で親密な交わりの時ほど大切なひとときはありません。本当にこれなしにはやっていくことができません。


イエス様は霊的にも感情的にも、いつも私とつながっていてくださいますし、そうすることのできるお方です。


主は毎瞬間、自分の内にあるもっとも深いニーズに答えることがおできになる方です。


そして主は決して私を見放したり、失望させたりなさいません。


ですからこの方だけが私のまことの必要なのです!そしてイエス様は主人にとっての最大の必要でもあられます。


そうです、イエス様がいてくだされば、私たちは充足することができるのです!



―おわりー



“I Wish My Husband Would Pray with Me More” by April Cassidy


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Kinuko's note

この記事を書く一週間前に、エイプリル姉妹は、読者である姉妹のみなさんを対象にアンケート調査を行ないました。

実際に回答に応じてくださった姉妹のみなさんは297人。その中でクリスチャンのご主人を持つ人の割合は80%。ノン・クリスチャンのご主人を持つ人は10%。「夫が何を信じているのかよく分からない」と答えた方は8%でした。





質問1) (食前の祈り以外の場で)ご主人は「一緒に祈ろう」とあなたに提案してくれますか。


全くしてくれない―41%
ほとんどしてくれない―27%
時々してくれる―13%
毎日してくれる―7%
かなり頻繁にしてくれる―7%
その他―4%




質問2) あなたはどのくらい個人の祈りをしていますか。


一日中―47%
毎日―37%
一週間に数回―13%
ほとんどしない―3%
全くしない―0% 


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質問3) 「主人がもっと率先して祈りを導いてくれたらなあ、、」と思いますか?


すごくそうしてほしい!―87%
どっちでもかまわない―7%
その他―4%
そうしてほしくない―2%




質問4) ご主人があなたと一緒に祈ってくれない時でも、あなたは自分がキリストの内にあることのみで満たされていますか。


かなりいつも満足できている―37%
いつも満足できている―31%
ときどき満足できる―23%
ほとんど満足できていない―4%
その他―3%
まったく満足できていない―2%


☆☆


私たちクリスチャン女性の多くは、結婚するに先立ち、夫に対して、次のような期待を抱いているのではないかと思います。


「きっと彼は私と一緒に祈ってくれるはず。御言葉を私と一緒に読んでくれるはず。そうしてわが家の『霊的リーダー』になってくれるはず。」


そして、その事自体は、本当に良いことです。結婚したご夫婦や家族が共に祈り、御言葉を読むことができるなら、これほどすばらしいことはないと思います。


しかし、、、です。


現実はどうかというと、クリスチャン妻の大多数にとり、そういった領域で、彼女たちは夫に「導いてもらっている」とは感じていません。




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《一緒に考えてみましょう》


私がまずみなさんと一緒に考えていきたいのは次の点です。


―「共に祈ること」「聖書の学び」などは本当に、私たちの夫の霊的リーダーシップの資質や得点を計るバロメーターなのでしょうか。


―私たちは、彼と一緒に祈り、聖書を読むべく、夫に嘆願し、なんとか彼を説得すべきなのでしょうか。


―そして仮に、彼がそうしてくれない場合、私たちは失望してしかるべきなのでしょうか。


―夫と一緒に祈りたいのに、彼があまり興味を示してくれない場合、私たちはどうすべきなのでしょうか。




その2につづきます。



エイプリル・カスィディ姉妹について

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エイプリル姉は、サウス・カロライナ州に住む方で、二児の母、パートタイムの薬剤師です。


非常に熱心なクリスチャンである彼女が長年抱えていた最大の悩みは、「頼りなく」「霊的なクリスチャンでもなく」「無気力でうだつの上がらない」夫グレッグさんにまつわるものでした。そして夫婦関係は座礁に乗り上げていました。


その中で悶々と苦しんでいた彼女にある時期、主が御言葉を通し、「夫のリーダーシップというのは、神ご自身によって立てられたものであり、そこには創造の秩序という美しさがある」ということを啓示してくださったのです。そこから彼女の人生に一大変革が起こりました。その一連の過程は、多くの人に感動と励ましを与え、最近、書籍化もされました。


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The Peaceful Wife: Living in Submission to Christ as Lord


このブログでも、彼女の人生の証し、夫婦関係の回復の証しをいくつか翻訳し、取り上げています。


*エイプリル姉妹のブログはpeacefulwife.comです。







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朝露(あさつゆ)


周りの人々から、「まだお腹に赤ちゃんはいないの?」と訊かれることがあります。

「いないです」と答えると、「病院に検査に行ったらどう?」と心からの善意をもって、提案してくださる方もいます。

また、先日、東京にいる姉妹からメールがきて、「○○姉妹も、△△姉妹も皆、結婚したいのに相手が与えられず、かわいそうに、今もまだずっと一人でいる。祈ってほしい。」と彼女たちの苦境を訴えてこられました。

☆☆

1テモテ2:15

しかし、女が慎みをもって、信仰と愛と聖さとを保つなら、子を産むことによって救われます。



「子を産むことによって救われるであろう」の解釈



上の記事をお読みになってくださればはっきりすると思いますが、ここでパウロのいう「子を産むことによって救われます」を、救いの功績や手段として解釈するのは、福音が啓示する「信仰のみのよる義認」の真理から外れるので、それは違います。

この箇所には複数の解釈が存在しますが、チャールズ・パウエル師は、


⑥女性は母親の役割に忠実であることにより、その報いを天に帰ったときに受ける

⑦女性は母親の役割に忠実であることにより、男女の役割を逆転させる惑わしから解放される

(これは⑤と似ているが、教会という領域を超えて述べられている)



という意味ではないかと捉えており、

子供を産み、子育てを忠実にすることによって、女性は女性ならではの役割を果たすことになり、教会の中でリーダーシップを取らなくても自らの存在価値を十分に高めることになり、役割逆転の惑わしから守られるという意味で、「救われる」と言っているのです。



と解釈しておられます。

(以上「ダビデの日記」「子を産むことによって救われる」とは?1テモテ2:11~15より引用させていただきました。)


私は個人的に、パウエル氏の解釈は正しいのではないかと考えています。

また、たとい氏の説明が「的外れ」だったとしても、1テモテ2章の文脈全体を考えた時、女性が「子どもを産むこと」には、やはり、神様のすばらしい奥義があり、その意味で、ここで使われている「救われる」という動詞には重みと深さがあると思います。

ですから、子どもをお産みになった姉妹のみなさん、よかったですね!そして、これから出産しようとしておられるみなさん、どうぞこのすばらしい務めを喜んでください。応援しています。

☆☆

しかしながら、その一方、さまざまな事情から結婚に導かれていない方や、私のように子どものいない女性たちは、どうすればいいのでしょう。

結婚も、出産も、究極的には主の御手の内にあり、そこには往々にして、私たちにはどうすることもできない状況があります。

このエッセーの中で、私は自分自身の辿ってきた信仰の歩みから、そういった状況の下で悲しみ、うちひしがれている女性のみなさんに一つのsecret(秘伝!)をお伝えしようと思います。


それは、今日みなさんがその状況下にあることは、神のご主権(Sovereignty)から決して外れていないということなんです。


また、もう一つ私が学んだこと――それは、「欠け」はむしろ恵みであり、天への門だということです。

人生になんらかの欠けがある時、それは私たちの心に悲しみをもたらします。

そして、その悲しみは、私たちをしてイエス様の懐へと向かわしめます。なぜなら、そこにおいて、その人は真に慰められるからです。


悲しむ者は幸いです。その人は慰められるからです。マタイ5:4




またそういった「欠け」は、私たちに地上の生の不完全さを否が応でも自覚させます。

そして、その自覚は、嘆きという翼を帯びつつ、もはや欠けのない全き世界――上にあるもの、天にあるもの(コロ3:1、2)――へと私たちの思いを引き上げてくれます。

☆☆

ですから、私は喜んで、御言葉に「裁かれ、打ち砕かれ」、御言葉の前に「敗北」しようと思います。

なぜ私はこのようなことを言うのでしょうか?

それは、ここにこそ、「フェミニズムの道」と「聖書的女性の道」を分かつ分岐点があるからです。

「フェミニズムの道」も、傷ついた女性たちの道であることには変わりがありません。

しかしフェミニズムは、私たちを悲しみの人イエスへと導く、こういった命のみことばの前にへりくだることをせず、その反対に、神の言葉に対し――ひそやかな、あるいは大胆な――反旗を翻します。

それは神様の采配に対する、漠然とした「心の苦々しさ」「鬱積(うっせき)感」「ゆううつ」という形を取る場合もあれば、こぶしを突き上げ神に絶叫するような「憤怒」という形を取って現われる場合もあります。

「『女が慎みをもって、信仰と愛と聖さとを保つなら、子を産むことによって救われます』ですって?これこそ家父長的な愚の骨頂さじゃない!いいかげんにしてよ!」と。

私自身、もしもこういう受け取り方をしていたら、今頃は、対岸の岸で反旗の論陣を張り、「情報処理能力」をフルに生かしつつ、保守男性陣のダビデさんたちなんかを「やっつけるような」反論記事を書いたりしていたかもしれません(笑)。


ところが、神の恵みによって、私は今の私になりました。

1コリント15:10a




☆☆


子どもを産むことができないのは悲しみです。

そして、結婚したくてもできない状況――これもまた悲しみです。

私たちはハンナのように主の前に、心を注ぎ出したいと思います(1サム1:15)。

繁栄の神学は、私たちに現世的な報いと満たしを約束します。

しかし、イエスさまの福音は、悲しむ者に、天の希望となぐさめを与えます。

主よ、私たちの人生の「欠け」が、御手の中で、あなたの聖さと美しさを映し出し、やがて他の魂をもなぐさめ富ます、祝福の泉とされていきますように。

アーメン。



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南フランスの自然


:カロリーヌさん、こんにちは。(彼女の自己紹介はこの記事の中にあります。)


カロ:Kinuko、私はあなたの書いた記事(=「クリスチャン女性が神学的な意見を述べたり書いたりすることは、望ましくない行為なのでしょうか?」(ココ)(here))を読みました。

おお、あなたがこの記事の中で吐露している葛藤こそ、まさに自分の抱えていた葛藤でした。

私は自分のフランス語ブログの中で、聖書的な女性らしさや恭順について書いていました。

でもその大切さを求めていく過程で、――例えば、「慎み深さ」「恭順」「祈りのベール」といったテーマで――どうしても神学的な内容に触れざるを得ず、それに関連する聖書の学びについても書く必要を感じました。

こうして私の中に葛藤が始まりました。そしてついに昨年、私はブログを閉じることに決心したのです。

☆☆

その一方、私はまた別のことも考え始めていました。

それは、男性だけでなく、女性も預言者として召されているのではないかということです。

そして、、、そして、、預言者は黙っていることなどできないのです!!

預言者は神さまからいただいた幻に心燃やされ、キリストのみからだに警告を与え、霊的真理を知らせ、人々の心に覚醒を起こす使命を帯びていると思います。

でも、そういった点(女性が沈黙すべき時とそうでない時)がいったいどこに境界線を持っているのか、、、それを識別することは容易ではありません。

でも私は次のことを信じています。――それは、男性の方々を支配することなしに、私たち女性が自分たちの知的能力や霊的な賜物をフルに主に用いていただく、、そのような「神の道」があるはずだということです。

主よ、どうか私たちを迷いの内にとどめないでください。そして私たちの問いに答えてください。


:ルーシーさんのインタビュー記事を読みましたね。この記事を読んでカロリーヌさんはどう思いましたか?率直な感想を教えてください。


カロ:ええ、「私たちがたどり着いた結論は、やはり、女性が神学的な議論にかかわるのは聖書的ではないということです。」という姉妹のお言葉を、私は神様を畏れる心を持ち、謹んで聞きました。

しかし、私はこの点に関するさらなる説明を求め、心が飢え渇いています。

この点で私はもっと話し合いやディスカッションを求めており、聖句を求めています。

なぜなら、この見解を支えている基盤がどこにあるのかが分からなければ、私はこの結論を受け入れることができないからです。

姉妹はおっしゃいました。「導き、リーダーシップを取るのは男性の役割です」と。私はこれに完全に同意します。

しかし、「神学的な議論や話し合いというのがとりもなおさずリーダーシップの問題に直結する」というその主張の根拠がどこにあるのか、私にはよく分かりません。

ですから、「女性にはリーダーシップを取ることが許されていないから、女性は神学的な議論や話し合いに参じることはできない」という理由づけだけでは私には不十分なのです。

ですから、繰り返しになりますが、神学上の議論というのがはたしてリーダーシップの問題と直結している行為であるのかどうか、まずその点に対するさらなる説明を私は欲しています。

とはいえ、ある種の「神学的議論(意見交換)」は実際に、男性の方々のみに適しているのかもしれません。

しかしながら、また別の神学的テーマについて言えば、これは女性にも適しているのかもしれません。

つまり、このイシューは、100%「黒」、ないしは100%「白」という感じでは割り切れない種類の問題なのかもしれないと思います。

そして、、、私は思うんです。この問題に関して、神様はあえてそれが「グレー」の領域であるように意図されたのではないかしらと。

☆☆

おそらくこれを明確なる「黒」路線でおし進めていくと、その教会には自発性のない、消極的な女性が増えていくかもしれません。

その一方、ある教会が今度は明確なる「白」路線(つまり、『教会の女性たちは境界や制限を取っ払い、御霊の導きによって何だってできるんです!』という路線)をおし進めていくとすると、その教会では、女性たちが男性たちを治めるようになっていくと思います。

そしてその両方とも、聖書の教えから逸脱していると私は思います。

最後に。私はみなさんと共にこの霊的旅路を歩むことができ、本当に感謝しています。

主よ、どうか私たちの問いに答えてください!




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追伸です


カロリーヌ姉妹のこの問いに対して、なにか応答メッセージがある方は、hereに書き込みをお願いします。

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