愛するみなさん、本当にお久しぶりです。お元気にしていらっしゃいますか。コメントをくださった兄弟姉妹、ありがとうございます。


先月、「クリスチャン女性とブログ」という記事の中で触れましたように、私は、長老のお言葉(忠言)を重く受け止め、その後、自省と振り返り、そしてみこころを求める祈りと黙想の日々に入りました。


奥さまから聞くところによると、長老は長老で、私に忠言のメッセージを送信した後、


「主よ。私はもしかしたら、こういった、主のために献身的で情熱的な姉妹たちの『つまずきの石』となっているのでしょうか。私があなたゆえに立ち続けようとしているこの立場は、あまりにもドグマティック過ぎるのでしょうか。ああ、私はむしろあなたにではなく、サタンの道具として用いられ、あなたのご計画を妨害しようとしているのでしょうか。」


と死ぬほど悩み、「主の言葉に忠実でありたい思い」と「自責の念」との狭間で苦悶の日々を送っておられたそうです。


私は、それを知って号泣し、奥さまを通して、


「いいえ。長老、あなたは、聖い神の道具として用いられています。私はあなたが『何に対して』闘おうとしているか、何ゆえに、あえてそこにとどまろうとしているのか痛いほど分かりますし、一連の出来事は、神の摂理の下に起こっていることを信じています。私は今、これを通して主が私に何を学ばせようとしているのか、慎重に耳を傾けたいと思っています」


と長老を激励しました。

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ブログを続けるのがみこころなのか、それともやめるのが最善なのか、さらに、もしも続けるのがみこころなら、「どのような形で」続けるのがもっとも主をお喜ばせするあり方なのか、、、そういったことを真剣に主にお尋ねしました。


そうした結果、主のみこころに関する、現時点(2016年12月16日)での自分の理解において、私は次のように導かれました。それは、もう一つ別の新しいブログを開き、その場で自省の実として生じた方針変更(修正・改革)を表わしていくという道です。


「(表わしていく)選択」と書かず、「道」と書いたのは、これが最終的な私の「結論」ではなく、on-goingなみこころ探究のプロセスそのものであることを、みなさんの前に告白したかったからです。みなさん、これからもどうぞよろしくお願いします。


このブログを開くに至ったいきさつ(証し)




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私たちは、北米に住むご夫妻を親しくしています。


そして、この家のご主人は相補主義の教会の長老(牧師)をしておられます。


さて先日、あるテーマでそのご主人に意見をうかがったのですが、彼はとても洞察力に富んだ返答をよこしてくださいました。


そこで私はこの方に、「もしもよろしければ、兄弟のお書きになったこの論文を私のブログに掲載してもよろしいでしょうか?」と許可を求めるメールを出したのですが、彼からは、ていねいに断りのメールが来、


「私の良心は、ブログ掲載を望んでおりません。しかし、なぜ私がそれを望んでいないのか、理由をお知りになりたいのでしたら、その時には謹んで理由を申し上げたいと思います」と律儀な返答がありました。


そこで私は、「どうかその理由をおっしゃってください。包み隠さず、あなたが信じていることをそのままおっしゃってください。」と兄弟に頼んだのです。


すると、今朝、その方から長文の返答がありました。


「あなたにこれを書くのが非常にはばかれ、躊躇しているのですが、、」と前置きがあった後、それでも彼は真っ正直に、ご自分の信じておられることを私に語ってくださいました。




長老の探求と結論



それを要約すると次のようになります。


この尊い主のしもべは、今年、ジェンダー・フェミニズム問題、およびheadshipの問題に正面から取り組み、聖書を熟読し、祈り、研究し、奥さまと共に彼の家庭における聖書的ガイドラインを作ったそうです。


しかし、その中でも難航した部分が、女性のblogging issueだったそうです。


どこにラインを引くのがみこころなんだろう?


女性のTV・ラジオ説教行為がアウトだということは容易に分かる。


でも、「電子文書活動」によって聖書を説明している女性ブロガーたちは、headshipの「枠内」にはたしているのだろうか。


結局、「音声」がないだけで、形は違えど、彼女たちもまた、電子版「講壇」に立って聖書を説いている、という風に考えられないだろうか?


こうして半年以上に渡って祈りと熟考を重ねた末、彼は「やはり(私を含めた)女性ブロガーたちは、聖書の指し示すheadshipの枠を超えている。」という理解に達したそうです。


それゆえに、彼は私のブログを読まないし、自分の書いた論文も女性である私のブログには載せない、ということに方針を決めたということでした。


(*私の主人は、この点で、この兄弟と意見を異にしており、クリスチャン女性のbloggingと、講壇/TV/ラジオ説教は二つ別々のものであり、bloggingとpreachingは違う、という見解に立っています。)


私がこの長老の意見を重んじ尊んでいる理由は、彼が長年、際立って聖く潔白な生き方をしている聖徒であるということ以外にも、


聖書の見方・解釈における「思想のスペクトル(幅)」という点で、彼のような立場に現在も尚とどまっている人はとりわけ注目に値し、その見解を傾聴すべきだと思うからです。



☆☆


少し脱線しますが、礼拝賛美のあり方の一つとしてExclusive psalmodyという立場があります。


これは公同礼拝の中で歌われる賛美を、みことば(=詩篇歌)だけに限定するという立場です。


現在でも、保守的なオランダ改革派教会、スコットランド長老教会などでは、(一般讃美歌をも奨励したルターと違い)、Exclusive psalmodyを重んじたジャン・カルヴァンに倣い、公同礼拝の時には詩篇歌だけが歌われています。




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さて、この立場の人たちはちょっと「行き過ぎ」「狭すぎ」「厳格すぎ」なのでしょうか。


私自身は、exclusive psalmodistではなく、通っている教会でも、一般讃美歌を歌っています。


しかしながら、500年以上に渡り、なぜ真摯な聖書主義クリスチャンたちの間で、exclusive psalmodyという立場が消えないのでしょうか。


私はそこの部分に関心を持ちました。


そして彼らの論文をいろいろ読み始め、彼らの主張に直接、耳を傾けてみることにしたのです。


そしてそこから分かったことが二つありました。


)確かに、使徒時代、初代教会時代の礼拝賛美の主体は、一貫して「詩篇歌」であった。


)彼らが詩篇歌だけを公同礼拝で用いたいと願う根本には、

キリスト礼拝においてできるだけ人間的なもの(人間のことば、人間の考え等)を排除し、純粋なる神の御言葉だけが宣言され、また聖徒の口から歌われることを望む――、

そのような神中心・みことば中心の礼拝を熱望する聖徒たちの心があったのです。




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Exclusive psalmodyが実践されている北米の保守改革派教会 (source




またそういった教会は一般に、「リベラリズムに傾きにくい」という共通した特徴を持っていることにも私は気づきました。


繁栄の神学、フェミニズム、○○運動、○○神学といった流行の波がわっと押し寄せてきても、こういった教会はぐらつかず、そうそう容易に同化もしません。



☆☆


おわりに



話が逸れてしまいましたが、私はこの長老を、exclusive psalmodyのような稀有な人物だと考え、彼のような人をとりわけ尊敬しています。


彼は私のblogging行為が、聖書の示すheadshipの枠を超えている、よろしくないと考えています。


人は、そして私は、自分が今見えている範囲でしか行動することができません。


私は主人と長らく話し合い、祈った結果、現在にいたるまで一応、女性ブロガーとして聖書のみことばやその周辺のテーマをこの世に発信しています。


しかしながら、私は同時に、自分が女性として、男性よりも惑わされやすい存在であり、その意味で誤謬を犯す可能性がより高いのではないかと感じています。


(しかしこれは他の女性の方々に適応されるものではなく、あくまで私という一女性の個人的所感です。)


ですから、他の方々に教理の検証を頼まれた際にも、いつも、自分の調べたその検証内容を、さらに、信頼できる男性教師(牧師)の方々に再検証していただくことをみなさんにお勧めしています。


同じコンプリメンタリアンの陣営内にもスペクトルがあり、幅があります。


そして私はこの「幅」を愛しています。


なぜなら、この幅は、聖書を神の言葉を信じ、それに忠実に従っていこうと最善を尽くしておられる聖徒たちの努力と誠実、そして人間としての有限性を表わす「幅」であると思うからです。


そして私も主人も、日々、主にあって、主を知る知識において成長したいと願っています。


もしかしたら、5年後、10年後、主人の見解に変化が生じ、長老と同様の結論に達するかもしれませんし、そうでないかもしれません。


ただ私としては、自分の上に立てられている地上の権威である主人が主に祈り、聖書を調べた結果、導かれた諸結論に、いつも「はい。そう致します。」と従える者でありたいと願っています。


読んでくださってありがとうございました。






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愛する姉妹のみなさん、いつもありがとうございます。


ご存知のように私はすばらしい女性牧会者の元でたくさんの愛と訓育を受け、キリスト信仰の土台および基礎を教えていただきました。


彼女の愛と信仰と忍耐、そして赦しがなければ、今の私は存在しなかったはずです。


また、仲間の女性牧会者のみなさんからも私はこれまで身に余る――ええ、そうです。本当に身に余る――愛とサポートを受けてきました。


私はこのことに関して、どんなに主に感謝しているかわかりません。


それにもかかわらず、私は女性が牧師になるということは聖書の真理に反するという内容の記事を書いております。


このことで、私の心は真っ二つに割れており、人間的な情や絆のことを思うなら、このことに関して、沈黙していたいのです。


しかしながらその一方、この点に関して、私は主の御手に完全に捕えられている感があり、この真理を証しないという道もすべて塞がれ、とにかくこの先、なにが起ころうが、私はこの場所に立ち続け、最後まで立ち続けなければならないという強烈な使命を全身に帯びています。


ですから、どうか理解していただきたいのは、私は個々のみなさんに対して否定的な思いを持っているわけではまったくないということです。


真実はその反対で、私にとって、みなさんは本当にかけがえのない友であり、頼りになるお姉さんであり、信仰の家族です。


しかしながら私はみなさんに対し正直でありたい。そしてそれゆえに、このような手紙を書かざるをえないのです。


そして私は誰に対しても――特に、大切な友に対しては尚さら――free spaceを贈りたいと思っています。


私の所にとどまることはもちろん自由ですし歓迎しますが、上述したような私のスタンスゆえ、どうしても今後、交わりを続けていくのが息苦しく、葛藤を覚え、心苦しいとお感じになった場合、その時にはどうか無理をなさらないでください。You can leave me freely.


それが現在の私の思いです。


この手紙を読んでくださってありがとうございました。


主の祝福が愛する私の友であり姉であるみなさんの上に豊かにありますように。アーメン。







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中東の姉妹のみなさんに、聖書の示す女性像(womanhood)および創造の秩序の中における教会・家庭の中での女性の役割について、どのように真理を証していったらいいのか、私は長い間立ち往生していました。


彼女たちが日々接しているキリスト教はその大部分が対等主義ベースのものです。相補主義は、提示の仕方を誤ると、たちまちの内に中東の宗教のあの「女性抑圧」と混同され、猛反発を招きます。


こういった背景を持つ女性たちの話を聞いていて私が痛感したのは、――キリスト教リベラル派やフェミニストの方々と同様――中東宗教の背景を持つ女性たちもまた、


本質における男女の完全な平等と、役割・機能における違い

(equal in nature but different in order/function)




という点で大いに混同しているということでした。



その三者の違いを分かりやすく下に書いてみます。



① 中東宗教の男女観


Different in nature and different in order
本質における違い・不平等と、秩序・役割における違い)




② フェミニズム(<対等主義)の男女観


Equal in nature and equal in order
本質における平等と、秩序・役割における均一性)




③ 聖書的な男女観


Equal in nature and different in order
本質における平等と、秩序・役割における違い)




中東出身の女性たちは、①のシステムの下で抑圧感や不平等感を覚えながら育ってきました。


そんな彼女たちがイエスさまを信じました。


すると、今度は、多くのキリスト教会の対等主義的教えによって②のシステムが彼女たちに「聖書的なもの」として教え込まれます。


つまり、それまで完全に左に振り切れていた振り子が、今度は、一気に右の右まで振り切れてしまうのです。



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そして①と②、そのどちらも非聖書的な教えです。


私はこれまで②のシステムの下で不可避的に生じてくるさまざまな問題(教会・家庭における男性リーダーシップの欠如、妻の不従順、夫の中毒、夫婦間の不和、別居、離婚など)で苦しむ中東の姉妹たちに直接的にかかわってきました。


しかしながらやはり、それらの助けは応急手当としての一時的効用はあっても、根本的な解決をもたらす上で必要な「腫瘍除去」には至らないのです。


そこが宣教師として、また一姉妹として私の葛藤してきた部分でしたし、今もそうです。




その2につづきます。




関連記事:


夫に従うことは、女性としての価値を貶めること?―男女平等の聖書的意味―

中東女性とフェミニズム―聖書的女性解放を求めて―







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True Feminine Beauty Hides Herself In The Innermost Parts Of His House


詩篇128:3a


妻は家の奥にいて、豊かな房をつけるぶどうの木。

Thy wife shall be as a fruitful vine, in the innermost parts of thy house. (ASV訳)


the innermost parts:最も奥の部分、最も内奥の、中心部の、最も深い部分。





自己宣伝、自己主張、自己顕示、自己実現が奨励され、促進される時代にあって、女性らしい真の美は、この御方の家の、最も内奥の部分に身を隠そうとします。


名声やこの世の注目を渇望する騒々しい外庭から静かに身を引き、この美は秘められた部屋へと向かい行くのです。


――そこで、天の花婿である主と、秘めやかにして甘美な交わりをするために。


「汝の御前には喜びが満ちています!」と彼女は叫びます。



女性らしい真の美は、秘密の花園のようであり、また周囲の目には隠された、豊房のぶどうの木のようです。


そこでは少女のようなはにかみや恥じらい、そして控え目なつつましさが内なる美徳として庭園を飾っています。


今世紀にあって、この美を追求し、この美のうちにとどまろうとする女性たちには果断さと断固とした決意が必要とされます。


この庭園――聖書的女性像(biblical womanhood)――に入るための鍵を見い出すには、信仰と、価値観の根本的パラダイム・シフトがなければならないからです。


願わくば、私たちの存在すべてが、今よりとこしえまで、王の王イエスに捕らわれ、この方のみによって私たちの心が占められますように。アーメン。





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「今日ぐらいは、ちゃんとした格好をすべきかな?」と思ってほとんど着ていなかったワンピースを引っ張り出して着たら、その日一日とてもいい気分でした。

もちろん入門式の喜びもあったのですが、歩くたびにふわっふわっとスカートの裾が揺れる感じが、なんかわくわくするというか・・・

こういう感覚って、年をとっても変わらないんですね。





冒頭のメッセージは、愛する読者の方が私に書き送ってくださったものです。おそらく多くの女性のみなさんが、「うん、その気持ちすごくよく分かる!」と共感してくださったのではないかと思います。


私の親しい友人が昨日、自作のyoutubeビデオを作ったのですが、その中で彼女は、自分の信仰のことや祈りのベール、慎み深い服装のことなどを証しています。(The Old Paths: Headcovering, Skirts and Dresses Only, and More!


北米の保守的な聖書信仰の姉妹たちの間では、Skirts and Dresses Onlyということばがよく出てきます。慎み深く、女性らしい服装を日常的に実践している、その信仰のあり方や生き方をあらわす言葉です。





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思えば、北米やフランスにいる私の友人たちは、ほぼ全員、このSkirts and Dresses Onlyの女性たちですし、また、私自身、ここ10年近くロング・スカートだけを履いているので、外見的にみれば、おそらく私もSkirts and Dresses Onlyの範疇に入るのかもしれません。


しかし、この立場に対する私の見解はどうかと申し上げますと、「共感します。でも完全には同意していません。」という感じになると思います。以下にその理由を書こうと思います。





共感はしても、完全に同意はしていない理由




この立場を根拠づける聖句としてよく引用されるのが、旧約聖書申命記22:5です。



女は男の衣裳を身に着けてはならない。また男は女の着物を着てはならない。すべてこのようなことをする者を、あなたの神、主は忌みきらわれる。




ここで言っているのは、男性と女性の服装は、互いにdistinctiveなもの(=明確に区別できる)でなければならない、ということだと思います。


しかしながら、具体的にどのような服のかたちや種類が男性と女性にそのdistinctiveness(区別)を与えるのかという詳細は書かれていません。


たとえば、下の写真をみてください。




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これらの丈長スカートは、たしかに女性らしく、また男性の服装との間にもあきらかな区別のある、慎み深い服装だと思います。


それでは次の写真をみてください。




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インドの女性たちの服装です。彼女たちはズボンと取り合わせた伝統的なインド服を着ています。


注目していただきたいのは、ズボンを着ている彼女たちが皆、非常に丈長のブラウスを着ており、そのため、ヒップやその周辺の体のラインが公衆の目には隠れるようになっているということです。これは慎み深さを考慮しての彼女たちの選択なのだろうと思います。


さて、彼女たちはズボンを着ていますが、そうだからといって、女性らしさを失っているでしょうか?いいえ、そうは思いません。私の目に彼女たちのこういった衣裳も、スカートと同様、フェミニンに映っています。


ムスリムの女性たちの服装についても同じことが言えると思います。




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というわけで、私は、「クリスチャン女性の慎み深い服装にはもちろん、Skirts and Dressesが含まれるけれども、それだけが全てではない。スカート以外の服装によっても、慎み深く、女性らしさを表現することは可能。」と考えています。





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慎み深さとは、あなたの美しさを、尊厳(品位)をもって扱うことです。






共感する理由



しかしながら、その一方で、私はSkirts and Dresses Onlyという考え方の背後にあるスピリットには多いに共感しています。


そのスピリットとは――聖書的な女性らしさを保持したい、神の創造の中におけるgender-distinctiveness(ジェンダーの区別)を大切にしたいという――信仰者たちの切なる願いであり、信仰告白です。


娘が小学生のころ、小学校の体操服の色が変わった。以前は男子は青色、女子はえんじ色だったのが、男女共通の紫になった。ちょうどその頃、男女混合名簿が導入された。これは公立の小中高等学校を中心に、性差を意識させるような男女区別を、子どもの視野からいっさい排除しようというジェンダーフリ―教育の一環としてなされていることである。


・・フリーとは自由である。自由というのは、その者が本来もっている個性にふさわしく生きることが許されるときにこそ得られる。ジェンダーフリーと称して、男と女の個性を中性という檻に監禁することのどこが自由なのだろうか。数年後には青少年の心の病気が激増するだろうと先の心理学者は予測している。私たちは創造主の前に謙虚になって、男子は男らしく、女子は女らしく育てたいものである。


水草牧師のメモ帳より






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みなさんはこのテーマについて、どう感じていらっしゃいますか?なにかご感想がありましたら、ぜひお聞かせください!





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ヒメユリ



モンゴメリ『アンの青春』
第13章「たのしいピクニック」より抜粋




少女たちは籠をヘスターの庭においたまま、午後をずっと、まわりの森や原を歩きまわってすごし、美しい片隅や、小径をたくさん見つけた。


お腹をすかした一同は、一番美しい場所・・・せせらぎの音が快く流れている小川の、傾斜の急な土手の上、ながい羽根のような草の中から白樺がはえているところで、お弁当をひらいた。


。。不意にアンは指しながら叫んだ。「ごらんなさい。あのが見えて?」


「どこに?」とジェーンとダイアナは、樺の木に古代のルーン文字が書いてあるかのように、目をみはった。


「あそこよ・・・小川の底の・・・あの古い緑色の苔がはえている丸太よ。あの上を水が、まるで、櫛をとかしたような、なめらかなさざなみ音で流れているわ。


それから、水たまりのずっと下の方に、日光が一筋、ななめにさしているわ。ああ、こんな美しい詩って見たことがないわ。」


「あたしならむしろ、絵と言うわ」とジェーンが言った。「詩とは、行や節のことを言うのよ。」


「あら、そうじゃないわ。」アンは山桜の花かんむりをかぶった頭をつよくふった。


「行や節は、詩の外側の衣裳にすぎないのよ。ちょうど、あんたのひだべりや、飾りひだが、あんたでないと同じように、行や節自体が詩ではないのよ。


ほんとうの詩は、そういうものの中にある魂のことよ――そしてあの美しい一編は、文字に書きあらわしてない詩の魂なのよ。


魂を見ることはそう、しじゅうは望めないわ――詩の魂だって、そうよ。」




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「あたし、魂って・・・人間の魂ってどんなものかと思うわ。」プリシラは夢みるように言った。


「あのようなものだと思うわ」とアンは、一本の樺の木にさしている輝かしい、清らかな日光を指さした。


「ただ、形だけを言っているのよ。あたし、魂は光でつくられていると想像するのが好きなの。


中には、ばら色の斑点と、えびらをつけてさしているのもあるし・・


海の月光のように、やわらかな、にぶい光のもあるし、あけがたの霧のように青白くて、透明なのもあるわ。」


「あたし、いつだったか、魂は花のようなものだと書いてあるのを、なにかで読んだわ」とプリシラが言った。


アンは、「それなら、あんたの魂は金色の水仙よ。


それからダイアナは、赤い、赤い、ばらだし、ジェーンのはりんごの花、ピンクで、健全で、やさしいのよ。」


「それでは、あんたのは、芯に紫色の縞が入っている白すみれよ」とプリシラが結んだ。





いったい魂は花のようなものなのでしょうか。


もしそうなら、みなさんは、どんな花なのでしょう。それを考えたことありますか。


私は昨晩、主人のところへ行き、「私は何の花に見える?」と訊いてみました。


すると、主人は「白くて、ちいさなジャスミンの花」と答えてくれました。そのなんとうれしかったこと!


というのも、学生時代に南インドに行ったとき、そこにJasmineという――いかにも可憐なジャスミンの花を想わせる――きゃしゃで愛らしい娘さんがいて、その時以来、私はずっとジャスミンという名前に憧れていたからです。


そして心ひそかに、「ミドルネームをつけることができるなら、ジャスミンにしたい♡」と思っていたのです。


それから、私は自分の周りにいる姉妹たちのことを一人一人思い浮かべては、みなさんが私にとってどんな花なのかを考えてみました。


たとえば、まこさんは、優美で端正な藤(ふじ)の花を連想させます。


それからさなえさんは、ちょっと人里はなれた山野に咲いているうすいピンク色のヒメユリの花です。


まりさんは、紅色のあざやかなチューリップで、しかもまわりに御使いのような白い衣裳のカーネーションがふわっとやさしく寄り添っています。


それから、みくさんは天を向きまっすぐに伸びていっている白いユリを思い起こさせるかと思えば、いとも美しいシクラメンのあの赤紫の花をも同時に思い起こさせます。


そしてくるみさんは、なんといっても、あのかわいらしい鈴蘭です!


さて、愛する姉妹のみなさん、どうでしょう。


ぜひ、周りの人々にみなさんの「花印象」を訊いてみてみてください。


みなさんの内にひっそりと根付き、息づくその美しい花から、キリストの芳香がいたるところに放たれていきますように。






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結婚生活の中での祈りはすばらしいものです。


しかし、ここでみなさんとご一緒に考えてみたいのは、次のことです。


つまり、「主人は霊的リーダーなんだから当然すべきよ」と私たちが信じ考えている一連のことは、はたして本当に聖書が夫に命じていることなのでしょうか。


「夫が率先して祈りを導いてくれない」「『最近、君の霊的調子はどう?』とか、そういうスピリチュアルな気遣いをしてくれない」「一緒に聖書を開いて、みことばを分かち合うこともしてくれない」――


そうして私たちは、夫に対し憤慨したり腹を立てたりしてしますが、それははたしてどうなのでしょうか。


もしかしたら、私たちの夫は個人的な祈りの方を好んでいるのかもしれません。


また、主人は、私たちの態度や言動をみて、私たちの霊的状態を察し、それで、わざわざ「君の霊的調子はどう?」と訊く必要性を感じていないのかもしれません。


「主人たる者は、こうこうすべき」という一連の考えは、どこから来ているのでしょうか。


もしかしたら、「霊的リーダー」についての私たちの定義は、今一度、再考されるべきなのではないかと私は感じています。



☆☆


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もしかしたら、、、もしかしたら、私たちは不当にも、夫を責め、批判し、彼に対して憤っているのかもしれない、、そう考えたことはありますか。


夫が私の期待通りに動いてくれないという理由で、私たちは自分たちの主人に対して苦々しい思いや憤りの気持ちを積もらせているのでしょうか。


しかも、そういった「期待リスト」の項目が、聖書には明記されていない場合もけっこう多いのです。


個人的な祈りをしていない信仰者にはたしかに問題があります。しかし、もしもクリスチャンの夫婦がそれぞれ個人的には祈っているけれども、一緒には祈っていない場合、それは罪深いことなのでしょうか。


妻と一緒に祈り、妻と共に聖書を読んでいないような夫は、敬虔なリーダーにはなり得ないのでしょうか。





自省と黙想



―自分の心にある、夫に対する苦々しい思い、批判的な精神、軽蔑、憎しみなどは、明確な罪となり得るかもしれない。


―結婚や家庭生活のかじ取りを自分がしようとすることは、やはり罪なのかもしれない。


―一緒に祈るとか、聖書の学びとか、そういうことで夫の霊性を判断しようとすることはやはり罪だと思う。


―霊的なセキュリティー(安定)を、キリストの中に見いだす以上に、夫との霊的活動の内に見いだそうとする試みもやはり問題だし、罪になり得ると思う。




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こういった問題にサタンはつけこみ、私たちが心の中で罪を犯すようしむけ、こうして敵は私たちの結婚・家庭生活を破壊しようとしているのではないでしょうか。


そしてサタンは、こういった「霊的な事柄」を使って、私たち夫婦の間に行き違いや仲たがい、心痛などを引き起こさせようとしてはいないでしょうか。


☆☆


現在、自分と夫との関係がどのようなものであれ、私は、(自分も含めた)みなさんが、以下の項目をお読みになり、静かに自問する時を持たれることを望みます。



―私は、もろもろの自分の期待をいったん脇に置き、キリストと自分自身の歩み(従順、信仰、責任、みことばの黙想、自分の罪、祈りの生活)に集中しようと望んでいるでしょうか。


―私は、[自分ではなく]あくまで神様が、ご自身の判断に従い、主人の人生の内に働いてくださることを進んで認めようとしているでしょうか。

そして彼に何かをすることを強要せず、今ある状態の彼をそのままで受け入れてあげようとしているでしょうか。

そして、、、たとい、このプロセスが一生涯続くものであったとしても、そして自分の主人が今後もずっと自分と一緒に祈ってくれなかったとしても、、、それでも私はこういった神様のお取扱いに「Yes」と応答し続けるでしょうか。


―私は、キリストの内にのみ満足を見いだし、そして個人的な祈りの内に十分な満足を見いだすことを望むでしょうか。

「誰か敬虔な姉妹が祈りのパートナーとして与えられますように」と祈ることができるかもしれません。

しかしたといそのようなパートナーが与えられなかったとしても、それでも依然として、私はキリストの内にあってのみ満ち足りることを望むでしょうか。




おわりに


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あなたに代わって、私の心は申します。「わたしの顔を、慕い求めよ。」と。主よ。あなたの御顔を私は慕い求めます。詩篇27:8




鍵は、とどのつまり、祈りというのが本来、夫の「臨在」ではなく、あくまで神様のご臨在の前でなされるものであるということではないかと思います。


神様さえ私たちの祈りを聞いてくださるのなら――それこそ一番大切なことではないでしょうか!


それに、もし自分の夫が毎日きちんきちんと私と共に祈ってくれても――私が自分の感情的・霊的ニーズすべてを主人によって満たしてもらおうと依拠している限り――私は決して満たされることはないでしょう。


そういう私は常に「もっと欲しい、もっと欲しい」と枯渇し続けるはずです。


自分の主人が一緒に祈ってくれるか否かということは、ですから、最重要課題ではないのです。


もちろん、そうであったらどんなにすばらしいでしょう。しかし自分にとって、イエス様との私的で親密な交わりの時ほど大切なひとときはありません。本当にこれなしにはやっていくことができません。


イエス様は霊的にも感情的にも、いつも私とつながっていてくださいますし、そうすることのできるお方です。


主は毎瞬間、自分の内にあるもっとも深いニーズに答えることがおできになる方です。


そして主は決して私を見放したり、失望させたりなさいません。


ですからこの方だけが私のまことの必要なのです!そしてイエス様は主人にとっての最大の必要でもあられます。


そうです、イエス様がいてくだされば、私たちは充足することができるのです!



―おわりー



“I Wish My Husband Would Pray with Me More” by April Cassidy


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Kinuko's note

この記事を書く一週間前に、エイプリル姉妹は、読者である姉妹のみなさんを対象にアンケート調査を行ないました。

実際に回答に応じてくださった姉妹のみなさんは297人。その中でクリスチャンのご主人を持つ人の割合は80%。ノン・クリスチャンのご主人を持つ人は10%。「夫が何を信じているのかよく分からない」と答えた方は8%でした。





質問1) (食前の祈り以外の場で)ご主人は「一緒に祈ろう」とあなたに提案してくれますか。


全くしてくれない―41%
ほとんどしてくれない―27%
時々してくれる―13%
毎日してくれる―7%
かなり頻繁にしてくれる―7%
その他―4%




質問2) あなたはどのくらい個人の祈りをしていますか。


一日中―47%
毎日―37%
一週間に数回―13%
ほとんどしない―3%
全くしない―0% 


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質問3) 「主人がもっと率先して祈りを導いてくれたらなあ、、」と思いますか?


すごくそうしてほしい!―87%
どっちでもかまわない―7%
その他―4%
そうしてほしくない―2%




質問4) ご主人があなたと一緒に祈ってくれない時でも、あなたは自分がキリストの内にあることのみで満たされていますか。


かなりいつも満足できている―37%
いつも満足できている―31%
ときどき満足できる―23%
ほとんど満足できていない―4%
その他―3%
まったく満足できていない―2%


☆☆


私たちクリスチャン女性の多くは、結婚するに先立ち、夫に対して、次のような期待を抱いているのではないかと思います。


「きっと彼は私と一緒に祈ってくれるはず。御言葉を私と一緒に読んでくれるはず。そうしてわが家の『霊的リーダー』になってくれるはず。」


そして、その事自体は、本当に良いことです。結婚したご夫婦や家族が共に祈り、御言葉を読むことができるなら、これほどすばらしいことはないと思います。


しかし、、、です。


現実はどうかというと、クリスチャン妻の大多数にとり、そういった領域で、彼女たちは夫に「導いてもらっている」とは感じていません。




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《一緒に考えてみましょう》


私がまずみなさんと一緒に考えていきたいのは次の点です。


―「共に祈ること」「聖書の学び」などは本当に、私たちの夫の霊的リーダーシップの資質や得点を計るバロメーターなのでしょうか。


―私たちは、彼と一緒に祈り、聖書を読むべく、夫に嘆願し、なんとか彼を説得すべきなのでしょうか。


―そして仮に、彼がそうしてくれない場合、私たちは失望してしかるべきなのでしょうか。


―夫と一緒に祈りたいのに、彼があまり興味を示してくれない場合、私たちはどうすべきなのでしょうか。




その2につづきます。



エイプリル・カスィディ姉妹について

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エイプリル姉は、サウス・カロライナ州に住む方で、二児の母、パートタイムの薬剤師です。


非常に熱心なクリスチャンである彼女が長年抱えていた最大の悩みは、「頼りなく」「霊的なクリスチャンでもなく」「無気力でうだつの上がらない」夫グレッグさんにまつわるものでした。そして夫婦関係は座礁に乗り上げていました。


その中で悶々と苦しんでいた彼女にある時期、主が御言葉を通し、「夫のリーダーシップというのは、神ご自身によって立てられたものであり、そこには創造の秩序という美しさがある」ということを啓示してくださったのです。そこから彼女の人生に一大変革が起こりました。その一連の過程は、多くの人に感動と励ましを与え、最近、書籍化もされました。


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The Peaceful Wife: Living in Submission to Christ as Lord


このブログでも、彼女の人生の証し、夫婦関係の回復の証しをいくつか翻訳し、取り上げています。


*エイプリル姉妹のブログはpeacefulwife.comです。







このブログを読んでくださっている女性のみなさんの大部分は、聖書の中に啓示されている女性の恭順について、おおかた同意してくださっているのではないかと思います。



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*はじめてこのブログを訪問された方、またはそもそもなぜ妻は夫のリーダーシップに恭順でなければならないかについて疑問を持っていらっしゃる方は、次のような記事をぜひご参照になってみてください。


恭順に生きたいけど生きることができない―罪の告白

ご主人を励まし建て上げていますか?(聖書的女性像を求めて その2)

夫に従うことは、女性としての価値を貶めること?―男女平等の聖書的意味―

私たちの姉妹の「Ministry」の優先順位No.1は自分の夫(エイプリル・カスィディ)

完全なる心の入れ替え―祈りのベールと夫への恭順(エイプリル・カシィディー)

恭順とは息苦しいこと?―エリザベス・エリオット

「やさしく接してあげたいのにどうしても主人を裁いてしまう自分がいる。」―そんな葛藤を覚えている姉妹のみなさんへ

「私の主人には神様からの召命がありません。そんな夫にどうやって従っていけるというのでしょう?」という葛藤を覚えていらっしゃる姉妹のみなさんにささげる応援レター

「私の主人には神様からの召命がありません。そんな夫にどうやって従っていけるというのでしょう?」【続編】――夫婦関係回復の証し――




私は、結婚前、相補主義の姉妹たちの証やエッセーなどを熱心に読み、どのようにしたら恭順でしとやかな奥さんになれるのかを研究しました。


その中で、特に自分にとって印象的だったのが、敬虔な姉妹たちをも、しばし誘惑するという「manipulation(操作)の霊」についての言及でした。


それによると、熱心なクリスチャンの妻というのは、往々にして、本人もそれとは気付かないうちに、霊的に夫をmanipulate(操作)し、自分の望む方向に巧みに夫を引っ張っていこうとする罠に陥りがちなのだ、というのです。


操作の霊というのは、あからさまな反抗の霊とは違い、一見したところ、恭順の衣を着ている場合が多いのです。


また、表面的にはていねいで、いんぎんで、謙遜でさえあります。


しかしそこには巧妙に隠されたcontrol願望というのがあり、自分の霊的理想、霊的アジェンダに沿って主人を「改良したい」と意気込む、「主任牧師的な」自己がそこに見え隠れしています。


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そのことに思いを巡らし、私は自分の心に問うてみました。


そして、この点に関しての真実を明かしてくださるよう、主に祈りました。


すると分かったのが、やはり自分の中にもそのようなcontrol願望が少なからず存在する、という事実でした。


そして目には見えないけれども、私の頭の上には、(主人のいる方角に向けて)大きな看板がでーんと、たて掛けられており、その看板には黒々とした墨字で、次のようなスローガンが記されているのです。


「わたしはむしろ、あなたが冷たいか、熱いかであってほし~い!!」(黙3:15)

「勤勉で怠らず、霊に燃え、主に仕えなさーい!!」(ローマ12:11)




ああ、本来なら、妻は、夫のよき助け手として、主人がほっとできるような、そんなやすらぎと憩いに満ちた家庭造りをするよう召されているのではないでしょうか?


本来なら、私たちクリスチャンの妻は、夫の霊的「改良者」ではなく、思い遣りに満ちた理解者として、またやさしい慰め手(comforter)として召されているのではないでしょうか。


ああ、私はそういう奥さんになりたい!しかしこのcontrol願望をどうしたら除去できるのでしょうか?


そう思って、エイプリル姉妹のブログを訪問してみました。


すると、どうでしょう。彼女もまた、そのようなイシューで悩み、一生懸命、取り組んでおられるではありませんか!


次につづく記事では、彼女のそういった取り組みをみなさんにもご紹介できたらと思っています。




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