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どんな分野でも己の信じるところにしたがい、首尾一貫した生き方をしている人には独特の魅力があります。

そしてそれはクリスチャン・ライフにおいてもしかりだと思います。批判されようとも、周りの人に変な目で見られようとも、「これが聖書の真理なんだ」という確信をもち、その通りに生きているクリスチャンをみると、私の心は尊敬の念に満たされます。すごいなあと思います。

私の中には、まだまだ人目を気にしたり、人の評価を恐れたりする臆病さがあって、自分の確信していることを公にできていない部分があります。「人を恐れず、神を恐れなさい」という言葉は真実ですが、それを実生活の中で実行していくのは、たいへんな勇気がいります。

今から500年余前、そういう問題で心底葛藤した一人のクリスチャンがいました。そして彼はその苦悶の過程を、隠すことなく正直に告白しました。

彼には人への恐れがありました。安泰した生活を願う気持ちもありました。この人の自叙伝を読む人はだれでも、彼の葛藤を人ごとだと思うことはできないでしょう。

「神か、この世か」という選択は――各々状況は異なるとしても――私たち一人一人が直面しつづける人生の選択だからです。

メンノ・シモンズ(1496~1561)は、宗教改革がはじまった当時、オランダのカトリック教会を牧する一介のしがない祭司でした。

その田舎祭司が、多くの精神的葛藤を経た後に、やがてオランダ・アナバプテスト(再洗礼派)の群れを率いる指導者となっていくのです。いったい、彼の人生に何が起こったのでしょう。何が彼をして迫害下にある教会の牧者とせしめたのでしょう。

さあ、これからご一緒に、16世紀のオランダに旅することにしましょう。

生い立ち
Menno Simons

メンノ・シモンズは1496年1月、オランダのフライスィアンという所で生まれました。両親は酪農業を営む農民だったといわれています。

幼少の頃の記録はあまり残っていないのですが、メンノは近くの修道院で基礎教育を受け、ラテン語、ギリシア語などを少々学んだとされています。

メンノは1524年、ウトレヒトで司祭としての叙任を受け、故郷の町ピンジュムの教区司祭となります。その時、メンノは28歳でした。その教区にはもう二人同僚司祭がいたのですが、メンノは、「当時、私たち祭司は、カード遊び、飲酒、その他の娯楽にふけっていた」と告白しています。

そしてさらに「祭司になる前も、牧会中も、私は、一度だって、聖書を読んだことがありませんでした。もし読もうものなら、間違って解釈してしまうにちがいないと恐れていたのです」とつづっています。

そうやって二年の月日が流れましたが、その頃、化体説(ミサの中で、パンとブドウ酒が実際、キリストのみからだと血に変化するというカトリック教会の教義)に反対する宗教改革者の著作などが、メンノの住む町にも入ってくるようになります。

「本当に、(カトリック教会が言うように)パンとブドウ酒はキリストのみからだと血に変化するのだろうか。」という疑問にかられ始めたメノンは、マルティン・ルターの著作、および新約聖書をはじめて手にとって読み始めたのです。その結果、メンノは化体説には聖書的根拠はなく、「自分たちは騙されていたのだ」ということに気づきます。

そうするうちにも、彼は日々、みことばを知る知識において成長していきました。

しかしメンノは当時のことをこう振り返っています。「周囲の人々からは、私は聖書のみことばを説き明かす、すぐれた説教者とみられていました。でも、私は依然として世を愛しており、世もまた私を愛していたのです。」

しかしそんなメンノに、ある衝撃的な出来事が起こったのです。

その2

スィケ・シュナイダーの勇敢な死

ちょうどその頃、カトリック祭司メンノは、レウワルデンの町で、スィケ・シュナイダーという仕立て屋が、再洗礼を受けたかどで打ち首にされたことを聞き、衝撃を受けました。

「再洗礼?今までそんなもの、聞いたことがない。シュナイダーという男は、非常に敬虔で立派な人だったということだ。そんな彼がなぜ二度もバプテスマを受けたのか?」

それでメンノは、幼児洗礼が正しいという聖書的根拠を打ちたてようと、今まで以上に真剣に聖書を調べ始めたのです。

そしてメンノは驚きました。「な、ない。幼児洗礼を直接裏づけるような聖句は一つもないじゃないか!ということは、シュナイダーの確信は正しかったのだ。僕たちの方こそ間違っていたのだ。」

しかし、メンノはそういった内的確信を誰に話すでもなく、これまで通り、村の司祭を務め続けました。この時期の彼の沈黙について、メンノは、「楽な生活がしたい、人に認められたいといった欲望が自分の心を巣食っていたのです」と告白しています。

そうこうするうちに、彼はウィトマルスムの母教会での司祭に任命され、当地に赴任します。内側はすでに《改革者》でありながら、外側には相変わらず《カトリック司祭》という衣をまとい、メンノは二重生活を続けました。

すばらしいカトリック説教者としてのメンノの評判は高まっていきました。しかし、彼の内心はおだやかではありませんでした。誉められれば誉められるほど、彼の良心はうずきました。

ひきょうもの、ひきょうもの。お前は、真理が何かを知っていながら、自分かわいさにそれを隠している。〉

そういった内なる責めの声をメンノは必死で打ち消しながら、ミサを執り行い、幼児洗礼を施し、司祭としての務めをはたしていきました。

ミュンスターの乱

本ブログの中で公開中の歴史小説『チューリッヒ丘を駆け抜けた情熱』を読んでくださった方はお分かりだと思いますが、再洗礼派(アナバプティズム)の運動は、もともとスイスで始まり、そこからオランダ、ドイツ、オーストリアといった近隣諸国に急速に拡がっていきました。

しかしこの運動の中心的リーダーは、初期の段階で、ほとんど殉教してしまいました。

メンノのいるオランダでも、アナバプティズム運動は拡がる一方でしたが、ここでの最大の問題は、〈指導者の不在〉でした。

こうして二重生活を送るメンノが一人悶々と悩んでいる間にも、外の世界は刻々と変化していきました。

そうこうするうちに、指導者不在のオランダ・アナバプティズムは、ジャン・マティヤスやジャン・ヴァン・レイデンといった熱狂分子の影響下に入ってしまったのです。

1534年、マティアスと追従者たちは、ドイツのミュンスター市を占拠し、「ここに新しいエルサレムを建国する」というとんでもない宣言をします。そしてミュンスター派は、数か月そこを占拠しつづけますが、1535年6月25日、ついに教皇軍に打ち破られ、中にいた民衆は惨殺されました。

また、同じ時期に、ミュンスター派に刺激された300人余りの民衆が、ボルスワード近くのオルデ・クルースター修道院を占拠しようとする事件も起きました。

その結果、彼らは軍の包囲攻撃を受け、その場で殺される、もしくは処刑されるという惨劇となりました。その中には、メンノの弟であるペトロおよび、メンノの牧する教会の教会員も数名含まれていました。

この二つの事件は、メンノの良心に最後の決定打をうちこみました。

〈ああ、なんとあわれな魂たちよ。彼らは間違った教えに欺かれてはいたが、みな素朴で敬虔な村人だった。自分の信念のためには命すら投げ出す覚悟があった。ああ、羊飼いなく、哀れにさまよう羊たち。私なりに、彼らの暴走を止めようとがんばった。でも私のアドバイスには説得力がなかった、、、なぜって、、わ、わたし自身、自分の信じている通りに生きていないから、、、〉

そんな葛藤があるとはつゆも知らずに、教区員たちは、メンノの所にお礼にきました。

「メンノ祭司さま。最近は、アナバプティストとかいう熱狂者たちがオランダ中を荒らし回っていますが、祭司さまは見事にあの連中を説伏しておられますね。私はね、祭司さまのお説教をきくたびに、ああ、やっぱりうちの教会(カトリック教会)こそ、まことの教会なんだって思うんですよ。」

〈ああ、私の偽善によって、人々は自分たちがカトリック教徒であることを正当化している。なんということだ。私はもうこれ以上、良心の呵責に耐えられない。ああ、主よ、私を助けてください。

ミュンスターで、オルデ・クルースター修道院で死んでいった民衆の血が私の上に降りかかり、私はもうこの状態に耐えられません。私には今、自分の罪深さしか見えません。なんという偽善者でしょう、私は。ああ、主よ、あわれんでください。〉


「でも、自分がアナバプテストに?」そう考えると、メンノの身はすくんでしまうのでした。

打ち首にされたシュナイダーのことが脳裏をよぎりました。経済的にも安定した司祭職のことも思いました。自分を尊敬のまなざしでみてくれる教区員の顔も次々に浮かんでは消えていきました。

〈ああ、私はどうしようもない男だ。自分のしなければならないことは分かっているのに、自己保身ゆえに、うじうじと隠れているのだ。でも、もし私が、目の前にいる、さまよいし羊の群れを、まことの牧草地に導き入れることをしないなら、、、もしそうしないなら、審判の日に、彼らの血は私に降りかかることだろう!〉

こうしてメンノは涙を流しながら、主の前にぬかずきました。

「主よ、私のうちにきよい心を造ってください。罪深く、愚かな歩みをしてきました。どうかキリストの血潮によってこの罪びとを赦してください。」

新しい出発

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こうして真の悔い改めに導かれたメンノは、公に自分の確信を語り始めました。人々に罪からの悔い改めを説き、狭い道を指し示し、主に従っていくよう講壇から説きはじめたのです。

そうして9カ月経ったある日曜日、メンノはついに最後のステップを踏みました。

驚く会衆を前に、彼はこう語り始めたのです。

「皆さん、ご存知のように私はカトリック祭司です。私はこの教会で幼児洗礼を受け、祭司としての教育を受け、今、皆さんの前に立っております。しかし、今日をもちまして、祭司メンノはもう存在しません。

今日、皆さんの前に告白いたします。私はこれまで自分の築いてきた名声・名誉、そしてミサ、幼児洗礼、自分のキリスト者らしからぬ醜い行ない、安楽な生活、これら全てに別れを告げます。」


こうして1536年、メンノ・シモンズは過去のすべてに別れを告げ、オッベ・フィリップスにより洗礼を受けました。

その時の心情をメンノは次のように語っています。

「この道を選んだ場合、自分の身にふりかかってくることは分かっていました。今後、私の人生は、キリストの重い十字架の下に、苦しみと困窮に満ちたものになるでしょう。でも、私はそれらすべてを進んで主の御手にお委ねしました。

、、主は、私の心を引き上げてくださり、私の心は文字通り、新しくされたのです、、主にとこしえまでも誉れあれ。アーメン。」

こうしてついにメンノは己の内的葛藤を乗り越えたのです。

勇ましく十字架の道を踏み出す決意をすることで、メンノはついに心の平安を勝ち取ったのです。

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その3(最終回)

アナバプテストの指導者として

「だれでも、手を鋤につけてから、うしろを見る者は、神の国にふさわしくありません(ルカ9:62)」というみことば通り、召しを受けてからのメンノ・シモンズは、ひたすら前に向かって前進していく勇敢なキリストの兵士となります。

洗礼から一年後のある日、6-8名の兄弟たちがメンノの元を訪れ、アナバプテストの群れの指導者となってくれるよう懇願します。

自分自身の賜物の小ささ、学識のなさ、性格の弱さなどを思い、メンノは最初、躊躇しましたが、羊飼いのない哀れな羊たちを思った時、彼は勇んで、その任務を受け入れたのです。

こうしてメンノは、精力的に各地を訪問し、福音を宣べ伝え、多くの群れを牧会しました。(バックナンバーで書いたエリザベス・ディルクもこの時、同労者として共に伝道の奉仕をしています。)

まもなく、メンノ・シモンズはオランダおよび北西ドイツ地方随一の指導者として名をはせることになり、またそれだけ多くの危険にもさらされることになりました。

メンノと家族は、官憲の追跡を逃れつつ、その後数十年にもわたって、隠れ家から隠れ家へ放浪する生活を余儀なくされました。メンノの頭には、二千ギルドという多額の賞金がかけられ、彼をかくまう者はだれでも死刑に処されました。

そんな中、彼が生き延びたのは奇跡的としかいいようがありませんでした。こうしてメンノ・シモンズは、1561年に召されるまで、忠実に主の群れを牧し、多くの魂をキリストに導いたのです。

おわりに ―メンノ・シモンズの与えた影響―

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「宗教改革」ときいて、私たちは、どんな人物を連想するでしょうか。

マルティン・ルター、ジャン・カルヴァン、ウルリヒ・ツヴィングリ、ジョン・ノックス、、といった名が一般には思い出されると思います。

では、メンノ・シモンズの名はどうでしょうか。私の想像する限り、彼の名前はほとんど挙がらないと思います。私自身、数年前までメンノのことはほとんど知りませんでした。なぜでしょうか。

例えば、〈政教分離〉や〈信教の自由〉といった重要な概念。これはルターでもカルヴァンでもなく、メンノ・シモンズによってはじめて明確化されました。絶対平和主義の教えを説き、それを実践したのもメンノ・シモンズでした。

17世紀の英国バプテスト教会の誕生も、オランダ・メンノ派の影響なしには考えられません。さらにアメリカ・バプテスト教会の父であるロジャー・ウィリアムズがメンノ派の思想に影響を受けていたことも歴史家によって指摘されています

繰り返しになりますが、それにもかかわらず、なぜ、メンノ・シモンズは、教会史の中で少ししか光が当てられていないのでしょうか。

まず一つ目の理由として、これまでアナバプテスト運動が、ミュンスター派等の熱狂分子とごっちゃにされがちだったという宗教改革以来の長い誤解の歴史が挙げられると思います。

彼ら自身の書物は焼かれ、有罪を立証するように文献が改ざんされました。彼らは静かで敬虔な生活を送っていましたが、告発者によって大犯罪人に仕立て上げられました。そうして「アナバプテスト」という名には、常に異端者、危険分子というレッテルが貼られ続けたのです。

また二つ目の理由として、メンノ・シモンズが、カルヴァンのような「頭脳明晰な」神学者でもなく、著述家でもなかったということが挙げられるかもしれません。この世的な基準で計るなら、メンノの著作は、カルヴァンの『キリスト教綱要』などに比べ、はるか見劣りがするのかもしれません。

これまでご一緒にみてきましたように、メンノにはルターやカルヴァンのような立派な大学教育もなく、彼は一介のしがない田舎祭司にすぎませんでした。

しかし主は、この世的には価値のない者、弱い者をあえてご自身の栄光を映す器として選ばれるのです。

また、この世の取るに足りない者や見下されている者を、神は選ばれました。すなわち、有るものをない者のようにするため、無に等しいものを選ばれたのです。これは、神の御前でだれをも誇らせないためです」(1コリント1:28-29)。

そしてこれこそ、私がこのブログを立ち上げた直接的な動機なのです。

たとえ、小さなヒヨコのような取り組みでもいい、これまで歴史の片隅に置かれ、ほとんど光の当てられてこなかった「この世の取るに足りない者や見下されてきた信仰者たち」に寄り添い、彼らの証にじっと耳を傾け、そうして彼らの歩みを活字化したいと思ったのです。

そしてそれが、今の私にできる、彼ら一人一人に対する感謝の表現かなあと思いました。

ここまで読んでくださって、本当にありがとうございました。

脚注
1Menno Simons, The Complete Works 
http://www.mennosimons.net/completewritings.htmlでメンノ・シモンズの全著作を読むことができます(英語)。
2E・ケアンズ『基督教全史』(第30章)
3Leonard Verduin, The Anatomy of a Hybrid (p212~)
4E・H・ブロードベント『信徒の諸教会』p292~311

【参考文献】
Joseph Stoll, The Drummer’s Wife and other stories from Martyrs’ Mirror
http://www.mennosimons.net/life.html



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キリストの花嫁の愛を生きるーバジレア・シュリンクの自叙伝を読んで

この世には、私たちの思いを天に引き上げるような、そんな本が存在します。たとえば、トマス・ア・ケンピスの『キリストにならいて』、『ブレイナードの日記』などを読むと、私たちの心は天的なものへのあこがれで満たされるようになります。

バジレア・シュリンクの著作は、私にとってそのような本の一つです。私は信仰に入って一年ほど経った頃、彼女の自叙伝『キリストの花嫁』(第1部、第2部)を読み、「キリストに献身する人生ほど美しく価値ある人生はない」と魂の揺さぶられるような感動を覚えました。

当時私は、大学院進学のための準備をしていたのですが、ある夜、Ⅰコリント2:2「私は、あなたがたの間で、イエス・キリスト、すなわち十字架につけられた方のほかは、何も知らないことに決心したからです」という御言葉に刺され、短いこの地上での人生をイエスさまに捧げることに決心しました。そして『キリストの花嫁』の自叙伝は、そういった私の願いをさらに強く、熱いものにしたのです。

最近、ある姉妹に、『キリストの花嫁』を送っていただき、もう一度、この自叙伝をじっくり読む機会が与えられました。この十数年、私自身、さまざまな所を通らされたからでしょうか、二十代の頃にはよく分からずピンとこなかった部分も、今改めて読むと、重みをもって胸に響いてきます。

本書の裏表紙には次のような紹介文が書いてあります。

活発で周囲を明るくさせるクララ(=バジレア)は、少女時代から人生の意義を熱心に探し求めていました。17歳の時、はじめてキリストに出会い、それ以来『主よ、みもとに近づかん』という熱いあこがれに迫られていました。

社会福祉の学びや博士号の習得に至った大学時代、キリスト教界のさまざまな流れに触れ、その中で現世否定か肯定かという問題に悩みました。

キリストの弟子としてのあるべき生き方について疑問を抱いたクララは、問題の鍵が悔い改めから生まれてくるキリストに対する愛である示されました。それによって新しい歩みが始まったのです。

後になって彼女は、第二次世界大戦の混乱の中でプロテスタントの共同体であるマリア福音姉妹会を創設するように導かれ、その会の霊的指導者として半世紀にわたって活躍したのです。


実際、バジレア・シュリンクの著作を通して、私は、麗しい花婿イエスに出会いました。彼女の記した『キリストにわがすべてを』というデボーションの書がありますが、この本をひもとくたびに、私の心は天的な思いで満たされ、主イエスに対する賛美が湧き上がってきます。

主イエスを愛するというのは、なんという祝福でしょうか。私たちの心をこれほどまでに甘美な思いで満たしてくださる方は、イエスを他に、この世に存在しないのです。

バジレアは、主への奉仕でもっとも忙しい時期に、隠遁生活(祈りに専念する生活)への召しを受けます。そしてこの期間に、彼女は主の御心にある喜びや悲しみに深く触れていくことになるのですが、ここにその当時書いた手記の一部を抜粋します。

「わたしが祈っている時、わたしの部屋には永遠の深い静けさが漂っていました。神の御臨在、その聖さと愛とに触れることができるかのようでした。

神は罪深い者に近づかれ、その息吹が感じられるほどでした。神の平和は大河のように流れ、わたしはその優しい愛に包まれました。時にはまた、その愛は燃える炎のようであり、わたしを御自身への熱い愛に駆り立てたのです。

、、主が来られる時、わたしたちはその愛と至福と喜びとで満たされます。主の愛は、どんなにすばらしい人間の愛よりもはるかに偉大だからです。

実にキリストの愛にまさる優しく聖い愛がほかにありえましょうか。その永遠に燃え尽きることのない炎よりも熱い愛がありえましょうか。

すべてにまさる神の愛の力が罪深い人間の心を捕える時、その愛の偉大さや力強さを語りつくせる人がいるでしょうか。」
(『キリストの花嫁 第1部』p292~293)

「イエスを愛するとは、天と地における最も美しい宝を自分のものとすること」と彼女は言っています。

そして花嫁の愛を、いたいけな植物にたとえ、これを養い守るには日々、細心のケアが必要であるということを次のように語っています。

花嫁の愛は、害を受けやすい小さな植物に似ています。養分がある良い土壌がないと、それは成長することなく枯れてしまいます。

この土壌とは、神の御旨との一致です。イエスはどんなに愛をもって、わたしたちの心にあるこの植物を見守っておられることでしょうか。

、、イエスの花嫁の願いは、心を住まいとされた花婿の御臨在が何ものによっても追い出されてはならないということです、、主は私たちの心の王座を、人や物事と共有することはおできになりません。

問題、思い煩い、人々、その他この世のものではなく、御自身だけがわたしたちの心を支配することを望んでおられます。ですから、主の花嫁は、自分の心を支配しようとするさまざまな力に対して、真心から抵抗するのです。

主だけがその心を支配してよい方なのです。内在される主は、彼女の最大の喜びであり、幸せだからです。

(『キリストにわがすべてを』p132、140)

感情主義でもなく、その反対の極である冷たい理性主義に陥ることもなく、私たちは聖められた感情と理性をもち、全身全霊でキリストを慕い求めることができるのです。バジレア・シュリンクの生涯がそのことを証しています。

若き日にこの本に出会うことができて、本当によかったと思います。バジレア・シュリンクの本は現在60カ国以上の言語に訳されていますが、中東のあるクリスチャンは、「ああ、自分の国の言葉にはまだ訳されていない。私もはやく母国語でこの自叙伝が読みたい」と言っていました。

幸い、私たちは、日本語でこれらの著作を読める恵みにあずかっています。翻訳の労をとってくださった方々に感謝すると共に、この本を通して、一人でも多くの方が霊的に励まされますよう、お祈りします。

♪賛美
主イエスよ、あなたの麗しき御顔 尽きぬ輝き。
御父の光を映し出す イエスに並ぶものなし。

御前にひれ伏す 御使いはとわに主に栄光を帰す。
あなたをほめうたう 主の喜びの調べは響く。

小羊の御顔 栄光に輝き 御国を照らす。
聖徒らの御前に 太陽のごとく 御姿を映す。

いと高き御座の 小羊よ、神の御独り子の
麗しさたたえん。花嫁の幸は たとうものなき。


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数あるウォッチマン・ニーの著作の中でももっとも有名なものは、『キリスト者の標準(The Normal Christian Life)』だと思います。日本でもいのちのことば社から1960年に初版発行されて以来、今日にいたるまで版を重ねています。

さて、この本の中で、ニーは何度となく「真に主を知っている聖徒」である老婦人について触れています。この人は「私の人生の途上において、非常に大きな影響をもたらした愛する聖徒」であったと。

ニーにこれほどの影響を与えた老婦人とはいったい誰だったのか、私はずっと気になっていたのですが、数年前、それがイギリス出身の宣教師マーガレット・E・バーバル(Margaret Barber)という方であることを知りました。

本ページでこれからご一緒にマーガレット宣教師の生涯をみていこうと思うのですが、その前に、ウォッチマン・ニーに彼女の人となりについて少し語ってもらいましょう。

「私たちのうちのある者は、真に主を知っている聖徒を知っています。そして、その人と共に祈り、または共に語ることにより、その人から輝き出る神の光のうちに、以前に見たことのなかった何ものかを見るのです。

私はそのような人に会ったことがあります。この人は、今は主と共にあるのですが、私はこの婦人のことを、いつも「光をともされた」キリスト者として思い出します。ただその婦人のへやに入りさえすれば、すぐに私は神の臨在を意識することができました。

そのころ私は非常に若く、回心後2年ほどたったころで、主の認可を待つ盛りだくさんの計画、多くの美しい考え、もし実を結べばすばらしいと思われる実に多くの事がらを持っていました。

私はこういう一切のものをたずさえて彼女のもとへ行き、彼女を説きふせ、これこれしかじかのことをなすべきであると語ろうとしました。

ところが私が口を開く前に、彼女はふだんの調子でわずかな言葉を語ったのです。すると光が見えはじめたのです!

そのため私は、全く恥じ入りました。私の「行ない」はすべて余りにも生来のものであり、余りにも人間臭かったのです。何ごとかが起こりました。そして私は、こう言い得るところまで導かれたのです。

「主よ、私の心はさまざまの人間的な活動にのみ奪われています。けれどもここに、それらの事がらに少しも触れられていない聖徒がいます。」

彼女はただ一つの動機、一つの願望のみをいだいていました。そしてそれは神のためのものであったのです。

彼女の聖書の見返しには、次のような言葉が記されていました。「主よ、私は自分のためには何も求めません。」――そうなのです、彼女は神のためにのみ生きたのです。

そして、たとえどこにそのような人がいようが、あなたはそのような人は光に浴している人であり、その光は他の人も照らすことを知るのです。これこそ真のあかしです。」
 (『キリスト者の標準』p270-271)

☆☆
生い立ち

margaret e barber

マーガレット・E・バーバル(1866-1929年)はイギリスのサフォークで生まれ、1899年、英国国教会の宣教師として中国福建省の福州に渡りました。

そしてそこの女子高校(英国国教会の管轄)で7年間、教鞭をとります。しかし、マーガレットの敬虔な生き方は同校の校長のねたみを買い、彼女は根拠のない「校則違反」で訴えられてしまいます。

この件に関し、彼女は「もし親指が小指といさかいを起こせば、頭を傷つけるだけ。私にできることは文句を言わず、この学校を去ることだ」と判断しました。にもかかわらず、中傷内容は、英国ミッションの中央委員会まで送られました。

マーガレットはこの期間を通し、十字架の御陰にじっと沈黙を保つことを学びました。自己弁護にやっきになるよりむしろ、誤解・中傷に甘んじることを選びとったのです。

イギリスに帰国後、彼女は、キリスト教雑誌「夜明け(The Dawn)」の編集者であったD.M.パントンに出会い、この兄弟から霊的な助けを得ます。そして2年後の1909年、再び中国に戻りました。

同行した姪のバロードには少しお金の蓄えがあったのですが、マーガレットは信仰だけを唯一の頼りに出発しました。アブラハムのように、主が自分の必要を満たし、行き先を示してくださると彼女は信じていたのです。

船が福州のパゴダ停泊地に近づき、美しい山村の光景が目に入ってきた時、マーガレットは「神がご用意してくださったのはこの地だ」と感じます。そしてその導きにしたがい、パゴダに家を借り、召されるまでの30数年余りをその片田舎で過ごしました。

China country 3

その2

「人に知られず」(Ⅱコリント6:9)

マーガレットは宣教師として中国に滞在中、ほとんど旅行することなく、人前に出ることもほとんどしませんでした。彼女はただ主の動きに心の目を向け、主を求め相談にやって来る少数の人々を助けました。

ある時、若いウォッチマン・ニーが、ある雄弁で明晰な説教者のことを称賛したところ、マーガレット宣教師は、ただ一言「そういったもの(生来の能力)は、いのちから出たものでもなく、御霊から出たものでもない」と言いました。

生来の能力を行使し、人々の気分を高揚させることはできるかもしれない。でもそういったものでは人々にいのちを与えることはけっしてできない、と。彼女は「働き」よりも、「いのち」により多くの関心を払っていたのです。

彼女はまた、若いクリスチャンの奉仕者たちがやたらに人前に出るような働きに携わることの危険性を指摘していました。そういった働きは、彼らの信仰を破滅させかねないと。

しかし、こういった彼女の深い霊性を理解できる人は当時、周りにほとんどいませんでした。ウォッチマン・ニー自身も当初、「彼女はこんな片田舎で何もせず、人生をむだにしている」という思いを抱いていたことを次のように告白しています。

China country 2

「私の心の中には、『この人は用いられていない』という思いがあったのです。そのため私は、いつでも自分自身にたずねていました。

『どうしてこの人は、出かけて行って集会を開かないのか。どうしてどこかに出て行って、何かしないのか。あの人が、何ごとも起こりそうもない小さな村に住んでいるということは、あの人にとって生涯の浪費だ。』

時には彼女を訪ねて、まるで叫ぶようにして言ったものです。『あなたほど、主をよく知っているかたはありません。あなたは、もっとも生きた方法で聖書を知っておられるではありませんか。あなたは周囲の必要がわからないのですか。

どうして何かなさらないのですか。ただ何もしないで、ここでじっとしているなんて、時間の浪費、力の浪費、金銭の浪費、あらゆるものの浪費ですよ。』」(p310)

浪費?

watchman nee


しかしその後の霊的歩みの中で、ニーは次のようなことを理解します。

「しかし、主から見れば、用いられるということが第一のことではないのです、、今日かえりみると、主は事実上、いかにその婦人を用いて私たち少数の青年に語りかけておられたかがわかります、、、私はこの婦人のことを、どれほど神に感謝しても足りません。」(p311)

そして彼女の人生を通し、ニーはある深い霊的真理を悟るようになります。

「しかし主は、私たちが主のための働きに絶えず携わっていることについては、それほど関心をもたれないのです。そのようなことが、主の第一の目的ではありません。主への奉仕は、目に見える結果によってはかることはできません。

私の友よ、主が第一に関心を寄せておられることは、主の足下における私たちの立場であり、また私たちが主の頭に油を注ぐということです、、、私たちは(その)すべてを主にささげつくすのです。そのことは、よく理解しているはずの人々にとっても、浪費と思われるでしょう。しかし、このことこそ、すべてにまさって主の求めておられることなのです。」(p312)

マーガレットの作った《Buried?(埋められる)》という詩を読むと、こういった彼女の信仰の息吹を感じることができます。

埋められる?――しかり。
でも、その種によって
大地は他を養うことができる。

何百万という人が後に
その種が地に埋められたことを
祝福する日がくるかもしれない。

埋められる!
隠される!
人目につかないところに置かれる!

漆黒の夜のなかに宿り、
芝土の下に
すべてを失いつつある――神以外のすべてを。

埋められ、もはや覚えられず、失われた。
人はそう考える。

でもそれらすべての犠牲を
神はおぼえていらして、

いつか喜びの日に
満ち満ちたいのちをみせてくださる

あなたは埋められているか?
神のきよい種よ。

あなたの心は
沈黙のうちに血を流しているか?

ため息を歌に変えなさい。

このようにしてのみ、
収穫はくるのだから。


(私訳)
その3

STREAM in the desert

ケリテ川のほとりで

奥まったパゴダにいるマーガレットには、経済的サポートをしてくれる大きな教会もありませんでした。彼女はただひたすら全ての必要が満たされるよう主に寄り頼んでいたのです。

こんなエピソードもあります。ある時、福州地域にいる宣教師たちの間でうわさが広がりました。それによれば、パゴダの片田舎に住むバーバル婦人はかなり生活に困窮していて、衣食にさえ事欠いているということでした。

そこで一人の宣教師が様子をみに、パゴダを訪れることにしました。彼女がパゴダに着くと、マーガレットはちょうど子犬にパンとミルクをやっているところでした。この宣教師は驚嘆して言いました。「じゃあ、うわさは根も葉もないものだったんですね!神さまがあなたに驚くべき恵みを与えていらっしゃるのを今この目で見ました。」

また彼女の妥協のない姿勢は次のようなエピソードからもうかがい知ることができます。

ある時期、請求書の支払いが迫っていたにもかかわらず、彼女の財布の中は空っぽでした。ちょうどその時、ある人がやって来て、彼女に経済的援助を申し出ました。しかし同時に、その人はこう言ったのです。「神について〈迷信的〉になるのはおよしなさい。もっと現実的になりなさい」と。それを聞いた彼女は、差し迫った必要があったにもかかわらず、きっぱりと援助を断りました。

そして主が彼女の必要を満たしてくださるとあくまで信じ続けたのです。実際、その翌日、イギリスのパントン兄弟から思いがけずかなりの額の小切手が届きます。どうしてこの時期に小切手を送ってくださったのですかという彼女の質問に対し、パントン氏は、「祈りの中で(彼女にお金を送るよう)主に示された」と答えたそうです。

「ケリテ川」というマーガレットの詩があります。ケリテ川のほとりで烏によってパンと肉と運んでもらいつつ、ひたすら神に寄り頼みつづけていたエリヤの信仰(Ⅰ列王記17:3)をうたったものです。

愛する者よ、小川がひからびたのなら、
そして目に見える備えが尽きたのなら、

そのとき
あなたのためになされる
神の奇蹟を待ち望みなさい。

あなたが欠乏することは ありえない
なぜなら
神はご自身の子をパンで養ってくださると
言われたから。

この言葉は真実。
創造的み力は、時々刻々と
あなたのために働かれる

そしてあなたは、あらんかぎりの信仰をもって
力ある主の御手
愛にあふれし主の御心
を証ししていくだろう


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その4

聖さ

日々、長い時間を祈りと黙想のうちに過ごし、ひたすら主の臨在のうちに生きようとしたマーガレットをみて、人はその中に主ご自身の聖さを感じ取りました。

ニーはこのように証ししています。

「多くの兄弟姉妹が〈聖化〉について語っているのをききました。

それで私は聖化に関する教理を研究しはじめました。その過程で、私は聖化にかんする200余りの聖書箇所を見つけ、それらを暗記し、系統立てていきました。

しかしそもそも聖化とは何であるか、それは私にとってまだ不明瞭でした。そして内側に空虚なものを感じていました。

そんなある日、私はこの年老いた姉妹に出会ったのです。――そう、この姉妹は文字通り、聖かったのです。

その日、私の目は開かれました。聖められるということがどういうことであるか、私はこの目で見たのです。私の出会った人、この人は聖かった。それは私に強烈な印象を残しました。その光によって私は前に押し出されたような感じでした。もう逃げ場はなく、私はついに聖化をみたのです。」

これを読んだ時、私は思わず「ああ、すばらしい!これこそ真のクリスチャンだ」と感嘆の声をあげてしまいました。

誰かが私たちをみて、「私はキリストの義とは何であるかよく分かりませんでしたが、あなたをみて、それが何であるか分かりました。」「あなたをみて、キリストの愛が何であるかが分かりました。」「あなたをみて、聖霊の宮が何か分かりました。」と言ってくださるとしたら、クリスチャンとしてこれほどの喜びはあるでしょうか。

キリストのご性質を映し出す宮として、私たちが言葉にも行ないにも聖められていくとき、人々はやがて私たちのうちになにかを見始めるのです。

引き裂かれしパンとなって

マーガレットはその鍵を、十字架のうちに、そして私たちの肉が徹底的に引き裂かれることのうちにみいだしていました。

主に仕えようと意気込んだニーが、マーガレット宣教師のもとを訪れたことがありました。そんなニーに彼女は尋ねます。「主はあなたに何を望んでおられるのですか。」

ニーは答えました。「主に仕えること――これを主は望んでおられます。」

再び彼女は尋ねました。「もし主がそれを望んでおられないとしたら、どうしますか。」

彼は答えました。「私が奉仕のために何かをすること、それを主は間違いなく望んでおられると思います。」

するとマーガレットはマタイの福音書15章(イエスさまがパンを裂く場面)を開き、こう尋ねました。「ここの箇所についてどう考えていますか。」

ニーは答えました。「まず主はパンと魚を手に取られました。それから主の祝福により、それらは増え、四千人を養うことができたのです。」

それを聞いたマーガレットは真剣な口調でこう言いました。

「主の御手に置かれたひとかたまりのパンは、裂かれ、主によって分配されるのです。裂かれていないパンは変えられず、他の人を養うことができないのです。

兄弟、どうか覚えていてください。過去何度となく、私はこのひとかたまりのパンのようでした。そしてこう言っていたのです。『主よ!あなたに自身を捧げます』と。

でも、私は『主よ、たとえあなたに自分自身をお捧げするとしても、私を裂くことはしないでください』とでも言っているかのように内心抗っていました。

私たちはパンのかたまりのままで自身を差し出したい、でも、引き裂かれるのは御免だと思っているのです。でも、主の御手に置かれたパンがそのまま裂かれずにおかれるということはありえないのです。」


その5(最終回)

「はい、お父様」(マタイ11:26)

マーガレットは従順の人でした。ある時、ウォッチマン・ニーが彼女に、神の意志に従い、みこころを行なうことについて尋ねました。それに対し、彼女はこう答えました。

「主がみこころを私になかなか語られない時はきまって、自分の側に不従順な心やふさわしくない動機があることに気付きました。」

またニーもこう回想しています。

その人(マーガレット宣教師)は、私に何度も『あなたは神のみこころが好きですか』とたずねました。これは恐ろしい質問です。

彼女は、『あなたは神のみこころを行なっていますか』とはたずねず、常に『神のみこころが好きですか』とたずねたのです。

この質問は、他の何ものよりも深く切りつけます。

私は彼女が一度、ある事がらで主と争っていたことを覚えています。彼女は、主が何を望まれているのか知っていました。そして彼女もまた、心の中ではそれを望んでいたのです。しかしそれは困難なことでした。

私は彼女がこのように祈ったのを聞きました。『主よ、私はそれが好きではないことを告白します。けれどもどうか、私の願いに譲歩しないでください。主よ、少し待ってください。そうすれば、あなたのみこころに必ず譲歩いたしますから。』

この聖徒は、主が彼女の前に譲歩して、彼女への要求を弱められることを欲しなかったのです。ただ主をお喜ばせするということが、彼女にとって唯一の願いであったのです。
」(p288)

マーガレットは言いました。

「神のみこころを理解する秘訣は何かといいますと、――そのうちの95%は実に神のみこころに従うか否かという問題にかかっており、(そのみこころを)理解するか否かという問題は5%に過ぎないのです。」

目に見える状況は厳しく、もはや神さまのなさっていることが理解できない時でも、「はい、お父さま」と言って、私たちの意志を主に委ね従っていくときに、そして他の何にもまして主のみこころを愛していくときに、私たちは、マーガレットのように主の聖さを映し出す器へと変えられていくのだと思います。

マーガレットが残していったもの

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1929年、マーガレットはパゴダの家で静かにこの世を去っていきました。人目につかない所で黙々と主の畑を耕し、孤独に耐え、主の臨在のうちに生きた63年間でした。

召される直前、「いのち!いのち!」と叫んだと言われています。召天時、彼女の持っていたお金は数百ドルでした。そしてお葬式を済ませた後、残ったお金はわずか12ドルでした。彼女は文字通り、天に宝を積んでいたのです。

『キリスト者の標準』の最終章は「(キリストの)香り」というタイトルで始まっていますが、この箇所はマーガレットという聖徒に対する追憶の意味も込められた感動的な章です。

最後にこの箇所を引用して、終わりにさせていただきたいと思います。

「すると、香油のかおりが家にいっぱいになった」(ヨハネ12:3)。

つぼを砕き、香油を主に注いだ時、なんとも言えない良いかおりが家にみちあふれました。すべての人がそのかおりをかぐことができ、それに気づかない人は、一人としてありませんでした。これは何を意味するでしょうか。

あなたが真に苦しみを味わった人――主と共にあって自らの限界に行きづまる経験を、主と共に通り、神に「用いられる」ために、自由の身になろうとする代わりに、喜んで主の「囚人」となり、ただ主にのみ満足を発見することを学んだ人――に出会う時にはいつも、すぐさまあなたは何ものかに気づきます。その時、直ちにあなたの霊的感覚は、キリストの芳香を感じます。

、、おそらくあなたは、主御自身の印象を他の人に与えるために、自分を用いてくださるようにと求めてきたかもしれません。このような祈りは、説教したり教えたりするための祈りではありません。

むしろ、他の人との接触において神を知らせ、神の臨在、神の意識を与えることができるようにとの祈りです。

しかし愛する友よ、主イエスの足下においてあらゆるものを――しかり最も貴重なものでさえも砕いてしまわなければ――あなたは神についてのこのような印象をほかの人々に与えることはできないのです。

しかし、いったんこのような点に到達したならば、あなたは外面的にみて大いに用いられていてもいなくても、ほかの人々の中に渇きを起こさせるために、神によって用いられ始めるのです。人々はあなたの中に、キリストを感知するでしょう。

、、、それらの人は、ここに主と共に歩いた人、苦しみを受けてきた人、自分勝手な行動を取らなかった人、しかも主のためにすべてを明け渡すとはどのようなことかを知った人がいる、と感じとるでしょう。

そのような生涯が、人々に感化を与えるのです。そしてその感化は、人々の心の中に渇きを生じさせ、その渇きは神の啓示によって、キリストにある満ちあふれたいのちに入る所まで追求していこうとの意欲を、人々に起こさせるのです。

、、すでにお話した婦人宣教師(=マーガレット)が、ある時非常に困難な事態に立ち至ったことがあります。それは彼女にとって、すべてを費やさせるほどのものでした。

その時私は、彼女と一緒にいたので、共にひざまずいて涙の中に祈りました。「主よ、あなたのみこころをお喜ばせすることができるために、私は喜んで自分の心をも砕きます。」

、、、ああ、自らがむだになることの祝福よ!主のためにむだになることは、祝福されたことです。

、、主が私たちに、いかにして主をお喜ばせするかを学ぶための恵みを与えてくださいますように。パウロのように、私たちがこのことを最高の目標とした時(Ⅱコリント5:9参照)に、福音はその目的を達成したことになるのです。
(p320~325)

(終わり)

【参考文献】
ウォッチマン・ニー『キリスト者の標準』いのちのことば社
www.mebarber.ccws.org/

ビルマの白百合――アン・ジャドソン宣教師の生涯と信仰


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まことに、まことに、あなたがたに告げます。一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます。
   (ヨハネの福音書12:24)


アン・H・ジャドソン(Ann Hasseltine Judson 、1789年12月22日~1826年10月24日) は、アメリカ初の宣教師であり、夫のアドニラム・ジャドソンと共にビルマの人々の魂の救いのため生涯を捧げた女性です。

何年か前に、ジャドソン夫妻の伝記を読んで、私は深く感動しました。アドニラム、アンそれぞれすばらしいのですが、今回は、妻のアンに焦点をあてて、彼女の信仰と生涯をみていこうと思います。

その1

生い立ちと回心

Ann Judson


アン・ハッセルタインは1789年に米国マサチューセッツ州ブラッドフォードに生まれました。

彼女の家は会衆派キリスト教徒でしたが、特に敬虔というわけではなく、どちらかといえば、「人生を最大限満喫しよう」といった雰囲気の強い世俗的な家庭でした。一応、教会には通っていましたが、15歳の頃まで、彼女の主たる関心は、友だちとの交際や社交にありました。

しかしそんなアンに転機が訪れます。1805年の夏、地元のブラッドフォード・アカデミーに新しい教師が派遣されてきたのです。アンはその時16歳になっていました。

この教師は人々に向かって魂の救いについて熱く語りはじめました。そしてその結果、アンの両親、兄弟姉妹、アンの親友ハリエット・アトウッドをはじめ多くの人々が回心を経験しました。そしてその御霊に満ちたメッセージはアンの魂にも深く触れたのです。

そんなある日の朝、自分の部屋を出ようとしたアンは、ふと一冊の本を手に取りました。

そして、その本を開いたアンの目に、「自堕落な生活をしている女は、生きてはいても、もう死んだ者なのです(Ⅰテモテ5:6参照)」という文字が飛び込んできました。後にその時のことをアンは次のように回想しています。

「この御言葉は、私は魂を突き通しました。それから数分の間、私は物も言えず、茫然と立ちすくんでいました。それはなにか目に見えない誰かが私の目をその言葉にくぎ付けにさせた――そんな感じでした。」

続いてアンは、ジョン・バンヤンの『天路歴程』を読み、敬虔な生活を送ろうと心に決めます。

しかし、社交界や世的な楽しみへの彼女の未練はまだまだ断ちがたく、アンの内的葛藤はその後もつづきました。

しかしベラミーの『まことの宗教』という本を読む中で、彼女は自分の罪深さ、そして神の真実に目が開かれ、ついにキリストをわが救い主として心に受け入れたのです。

こうしてキリストにある新生を体験したアンは、熱心に主のみこころを祈り求めるようになります。数年間、サーレム、ハヴェールヒル、ニューバリーの学校で教鞭をとりましたが、その時も、自分の生徒の救いのために祈り続けました。

『デイヴィッド・ブレイナードの日記』に大いに感化されたアンは、聖い神の前に敬虔に生きていきたいと切実に求めるようになると共に、異邦人の救いのためにもとりなし祈り始めました。

アドニラムとの出会い、結婚、そして旅立ち

1810年6月28日――当時アンは21歳でした――彼女の教会に4人の宣教師候補がやって来ます。そして礼拝後、アンの両親は、これらの訪問者たちをわが家に招待しました。

4人のうちの1人、青年アドニラムは、アンを一目見て、彼女の内なる美しさ、敬虔さに惹かれ、「この女性こそ僕の祈り求めていた人ではないだろうか」と感じました。

そして1ヶ月後、アドニラムはアンに交際を求める手紙を書きました。それに対し、「まず父に許可を求めてください」というのがアンのつつましやかな答えでした。こうして、したためられたのが、アンの父に捧げられしアドニラムの有名な手紙――事実上のプロポーズ文――となったのです。

そこにはこう記されています。

お父様、あなたに同意していただかなければならないことがあります。

翌春、あなたの娘さんと今生の別れを告げることに同意してくださいますか。

そして娘さんが異邦人の地へと旅立ち、宣教師として今後、幾多の困難と苦しみに甘んじなければならないことに同意してくださいますか。

娘さんが、海上での危険、インドの苛酷な気候、ありとあらゆる種類の欠乏、困窮、辱しめ、そしり、迫害に遭うだけでなく、、、もしかしたら非業の死を遂げるかもしれないこと、そのことに同意してくださいますか。

天上のすまいを後にし彼女のために死んでくださった主のゆえに、滅びゆく魂のゆえに、そしてシオンと神の栄光のゆえに、これらすべてのことに同意してくださいますか。

彼女という器を通して、永遠の滅びと絶望から救われし異邦の民がやがて主のもとに携えてくるであろう大いなる誉れ――それによって光輝く義の冠をつけたあなたの娘さんと直に栄光の世で会えるという希望を持ちつつ、これらすべてのことに同意してくださいますか。



この手紙を受け取ったアンの両親は、彼女が自分で決断をくだすよう言いました。女性が宣教師として派遣されるということなど、当時のアメリカのプロテスタント教会では考えられないことでした。全く前例がなかったのです。

しかし、彼女は信仰をもち、アドニラムと共に、未知の未来に向かって踏み出す決意をしました。

こういったアンの姿勢は、故郷を離れ、未だ見ぬイサクのところに行くかと問われた時、「はい。まいります。」と信仰をもって答えたリベカ(創世記24:58)を髣髴させます。

こうして1812年2月5日、二人は結婚し、約二週間後、インドのカルカッタに向けて出港したのでした。(彼女の親友ハリエットも、4人の訪問客の1人サムエル・ネーウェルと共に宣教師としての人生を送る決意をし、同船していました。)

船は6月18日にカルカッタに着きますが、その後、思いもよらぬことが起こります。

その2

インドへ出航

1812年2月18日、23歳のアン・ジャドソンは、夫アドニラムと共にインド行きの船に乗り込みました。

船の中でアンはこのような日記を書いています。

満月の光が海面をいっぱいに照らしている。まわりにあるもの全てが、心地よくも、物悲しい雰囲気をかもしだしている。

故郷の地、わが家、友だち、そして捨て去ったすべての楽しみ、、、そういったものが私の脳裏を駆け巡った。涙がとめどもなく流れた。どうやって自分を慰めたらいいのか分からなかった。

でも、その時私は思った。――こういったものすべてを捨てたのは、キリストのゆえなのだ、と。そしていつの日か、かわいそうな異教の女性たちの救いのために、少しでもお役に立てたらという希望ゆえなのだ、と。

そう考えた時、私のうちで悲しみはやわらぎ、涙は乾いた。そして再び、心に平安と静けさを取り戻すことができた。(1812年2月27日)



カルカッタにて

1812年6月14日、アドニラムとアンはインドのカルカッタ港に到着します。当初、二人は、「インドの地で、会衆派の教会を建て上げる。これが私たちに託された主からの使命だ。」と思っていました。しかし、到着早々、思いもよらぬ事態が起こります。

当時、インドのセラムプール市にはかの有名なウィリアム・ケアリ-をはじめとするバプテスト教会の宣教師がいました。ウィリアム・ケアリーとの出会いを通し、また、新約聖書を原典で読み進める中で、アドニラムは「会衆派では幼児洗礼を行なっている。でも、信者による浸礼、これこそが聖書的真理だ」と確信するようになります。

さあ、大変なことになりました。アドニラムもアンも会衆派の家庭で育ち、送り出してくれた教会ももちろん会衆派でした。その当時の心境について、アンはこう追憶しています。

「私たちのこういった変化が、アメリカにいる信者の友人たちを傷つけ、悲しませることになるのは目に見えていました。そして私たちは、彼らからの称賛や評価を失うことになると。母教会は、私たちに対するサポートを取りやめるかもしれません。

そして何よりつらいのが、今一緒にいる宣教師仲間のもとを去り、自分たちだけでどこか別の場所に行かなくてはならないだろう、ということです。

こういったことは、私たちにとって大きな試練であり、私たちの心は引き裂かれんばかりです。
この世に私たちの家といえるものはなく、夫を除いてこの世に私の友はだれもいない、、そんな心境です。」

そしてその年の9月、カルカッタにて二人は浸礼によるバプテスマを受けます。

こうした二人の決断から私たちは次のことを学ぶことができると思います。つまり、宣教師として宣教地に送り出されるにあたり、私たちは完全無欠を要求されてはいないということです。

「神学的にも、人格的にも、経済的にも、全てが申し分なく整えられてはじめて、私たちは宣教師として遣わされるに値するのだ」と考えるなら、私たちのうち誰が、あえて異教の地に飛び込んでいくことができるでしょうか。

アドニラムとアンは、祖国にいた時も、誠実な主のしもべでした。しかし、主は、彼らの宣教師としての歩みがはじまった後に、(バプテスマという点に関し)聖書の啓示の光をあてることを良しとされたのです。

これは私たちにとって大きな慰めではないでしょうか。たとえ弱い器のままで宣教の地に旅立ったとしても、主は、私たちを見捨てず、さまざまな状況を通して、私たちを練ってくださるのです。

もちろん、できる限り事前に準備し、整えられる必要はあるでしょう。でも、私たちは主のあわれみを受け、不完全ながらも大胆に一歩を踏み出すことができるのです。失敗や変化を恐れていては、何も始まりません。

私たちは宣教師という「完成品」として現地に送り出されるのではなく、陶器師の手にある生ける土の器として、一生を通して、練られ形造られ続けるのです。

さて、話をアドニラムとアンに戻しましょう。バプテスマのことで問題が生じただけはなく、宣教師の活動を快く思わない東インド会社により、インドから立ち去るよう最終通告を受けます。

「宣教の戸は閉ざされてしまったのだろうか?これはみこころじゃなかったのか?」きっとそのような思いが二人の頭をよぎったことでしょう。

しかしぎりぎりのところで、主は別の門戸を開いてくださり、二人はモーリシャス諸島に数カ月滞在した後、ビルマのラングーン(現在のミャンマー)行きの船に乗り込みました。もうラングーン行きしか船がなかったのです。

しかし、後の歴史をみると、主の、二人に対するご計画は、ビルマの地にあったことがはっきりと分かります。私たちの思いや常識を越えて、神は働き、今も働いておられるのです(イザヤ55:9参照)。そうです、主を信じる私たちの人生の道程に、マイナスなことは一つもなく、全てが主の御手の中で益とされるのです。

ラングーンへ

Map of Burma

ラングーンへの航海は困難なものでした。アンは当時妊娠していましたが、船中で流産し、アン自身も一時期、生死の境をさまようほどの危険な状態に陥りました。

しかし船はとうとうラングーンに着きます。陸に降り立った二人の見た光景は、想像に絶するものでした。町にはハエやねずみ、そしてありとあらゆる害虫がはこびっていました。

ショックを受けた二人でしたが、神はアンの体調を回復させてくださり、二人は現地の人々と積極的に交わり、難解なビルマ語の習得に励みます。1815年の初め、アンの体調は再び崩れ、治療のためしばらくの間、インドに滞在しました。

1815年9月11日、ラングーンに戻ったアンは、男児ロジャーを出産します。医者も助産婦もおらず、夫の介助だけで行なわれた分娩でした。小さな家に喜びが湧きました。語学の学びも進み、全てが順調に進んでいるように思われました。しかし、その喜びも長くは続かず、愛児ロジャーは、わずか8カ月で死んでしまったのです。アンは家族に宛てて、次のような手紙を書いています。

前回の手紙を書いていた時、次に書くお手紙が――今から書くような――悲しみに満ちた内容になるなど思いもしていませんでした。私たちのさみしい状況にもかかわらず、またもや〈死〉がわが家を訪れ、幸福に満ちた家庭を悲しみの底に突き落としました。

わが家のかわいいロジャー・ウィリアムズ、かけがえのないたった一人の坊やが、三日前に、物を言わないお墓の中に埋められたのです。

この8カ月というもの、私たちはこの尊い小さな贈り物に夢中でした。この子は両親の心を完全にとらえ、もうこの子なしには生きていけないと思うほどのかわいさでした。

でもこの苦しみを通して、神さまは、次のことを教えてくださいました。つまり、私たちの心は主に属するものであり、それに匹敵するようなライバルが侵入してくるや、主はそれを取り去ってしまわれるということです、、、

でもこのことに関して、不満を言ったり、主に『どうして、こんなことをなさったのですか』と申し上げるつもりは思いません、、、ああ、願わくば、主のなさったこの事が、どうか無駄になりませんように。



悲しみにうちひしがれたアドニラムとアンでしたが、二人はそこに留まることはありませんでした。前にもまして、二人は主の奉仕に打ち込み始めたのです。

その3

信仰による歩み

1813年にビルマのラングーン(現在のヤンゴン)に到着したジャドソン夫妻は、懸命に現地語の習得に励み、伝道トラクトを作成し、人々に福音を伝えようとしました。アンは女の子のための学校も始めました。

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しかし、一年経ち、二年経ち、三年、四年経っても、イエスを救い主として受け入れる改宗者は一人として起こされませんでした。

結果のみえない宣教レポートに不安を募らせた母国の教会が「この先、なにか展望はあるのか?」と問うたところ、夫のアドニラムは「神の御約束と同じくらい、将来の展望は明るいです。」と力強く答えました。これはきっとアンの気持ちでもあったと思います。

「信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです(ヘブル11:1)」と聖書には書いてあります。

福音の種まきは、多くの場合、地味で、しかも多大な忍耐を要する働きです。私たちは、目に見える結果を出したいと焦る余り、福音以外の手段を使って、人々を引き寄せようとする誘惑に襲われがちです。そっちの方が手っ取り早いからです。

夫アドニラムは、宣教師候補生たちに向けた手紙の中で、「福音を伝えることに倦み疲れ、その結果、他の活動で福音伝道の埋め合わせをしていこうとする宣教師たちの傾向」に警告を与えています。

この世の手段やアトラクションを用いて人々を教会に引き寄せるなら、即席の成果は出せても、後にまで残る実は成らないのです。パウロの言うように、「神はみこころによって、宣教のことばの愚かさを通して、信じる者を救おうと定められたのです(Ⅰコリント1:21)」。そして「多くの人のように、神のことばに混ぜ物をして売るようなことはせず、真心から、また神によって、神の御前でキリストにあって語るのです(Ⅱコリント2:17)」。

そして実際、不毛にみえた長い年月の後に、ついに変化が訪れます。

1819年5月5日、ムング・ナウという現地人がはじめてイエスさまを救い主として心に受け入れたのです。そして翌月の27日、ラングーンでの働き6年目にして、はじめての洗礼式が行われました。アンはその時の喜びをこう書き記しています。

「この出来事――勝利に輝く恵みというこのトロフィーは、私たちの心をすみずみまで満たしました。この感慨は、キリスト教国に住むクリスチャンにはほとんど理解しがたいものでしょう。」

実際に、ムング・ナウをはじめとしてその後、起こされた少数の改宗者は、政府による迫害にも動じない力強いクリスチャンとして成長していったのです。


その4(最終回)

生にも死にも固く結ばれて


「しっかりした妻をだれが見つけることができよう。彼女の値うちは真珠よりもはるかに尊い(箴言31:10)」と聖書は言っています。

アンは聖書の一部をビルマ語やタイ語に翻訳するという偉大な働きをしました。しかし、それら全てにまさって、彼女を際立たせていたのが、妻としてのアンの忠実さでした。

英語でも、ギリシア語でも、信仰(faith,πίστις)と忠実(faithful,πιστός)という二つの言葉が同じ語幹から派生しているのは、決して偶然ではないと思います。神に対する信仰と、隣人に対する忠実さは、切っても切れない関係にあるのです。

1817年12月、夫のアドニラムは奉仕のため、船でチャタゴン地方に向かいました。予定では3カ月以内に戻ってくるはずでした。

しかし、船が嵐で漂流し、船中、アドニラムは飢えと高熱で生死の境をさまよいます。船はかろうじてマスリパタンという所にたどり着き、その町に住む英国人によってアドニラムは手厚く介抱を受けますが、その間、アンへの連絡手段は断たれていました。

12月に発って以来、翌年の7月まで、妻アンには、夫から何の音信もありませんでした。生きているのか死んでしまったのか、それさえも全く分からない状態にありました。そうこうするうちにラングーンをコレラ伝染病が襲い、また政府による宣教師への迫害がはじまりました。

次々に英国船はラングーン港を後にし、ついに外国人はアンと、ハッグ宣教師夫妻の3人を残すばかりとなりました。やがてそのハッグ夫妻もついにラングーン脱出を決意し、アンにも一緒に乗船するよう説得します。

説き伏せられ、いったんは船に乗り込んだアンでしたが、夫のことを考えると、彼女の心は揺れました。

〈もし、夫がまだ生きているとしたら、きっと私を探してラングーンの家に戻ってくるはず。その時、私が家にいなかったら、彼はどんなにか絶望するだろう。いや、私は彼を置いて自分だけ逃げることなどできない。家に戻ろう。家に戻って、彼の帰りを待とう。〉

そう決意すると、アンは再び船を下り、たった一人、家路につきました。

夫アドニラムがついにラングーンにたどり着いた時には、ラングーンは荒れ果てた様になっていました。宣教ベースは破壊され、宣教師はことごとく他国に避難したということでした。しかし、です。アドニラムは、たった一人けなげに夫を待ち続けていたアンを、そこに見つけたのです!

なんという勇気でしょう。そしてなんという堅実さでしょう。

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鉄格子を越えた愛と献身

1824年、英国とビルマの間で戦争が勃発します。その頃、アドニラムとアンは、宣教ベースをラングーンからアヴァに移していました。

同年6月8日、ビルマ国王はスパイ容疑でアドニラムをはじめとする宣教師たち数人を拘束するよう命じ、彼らはおそろしい監獄に入れられます。

窓のない灼熱の獄の中はゴキブリやシラミ、害虫であふれ、悪臭が鼻をつきました。アドニラムたちは足に重い鎖をつけられ、夜は高い位置に据えられた棒に足を固定させられ、かろうじて肩と頭が地面につくというような状態で眠らなければなりませんでした。夜には、翌朝、囚人を処刑しようと看守たちの刃物を研ぐ音がきこえてきました。

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(↑当時の監獄の様子)


そんな中、アンは、献身的に獄中にいる夫および宣教師たちに仕えます。機会があるごとに看守に助命を嘆願し、その結果、死刑執行を防ぐことができたのも一度や二度ではありませんでした。


夫が数年かけて仕上げた新約聖書ビルマ語の原稿を、アンは最初、自宅の庭に隠しますが、その場所も安全ではなくなったため、夫の枕の中に結いつけ、獄中に持っていきました。

しかし、ある日、残酷な看守は、アドニラムの枕を奪い取り、わが物としてしまったのです!「ああ、ビルマ語の聖書の原稿が、、、!」アドニラムは心の中でうめきました。

その事を知ったアンは、知恵を絞り、もっと手の込んだ新しい枕を作って監獄に持っていきました。アドニラムは例の看守にその新しい枕を見せ、「これをあげるから、僕の古い枕を返してもらえないか」と頼んだところ、看守はけげんそうにしつつも、古い枕を返してくれたのです!

こうしてビルマ語の聖書は再び彼の手に戻ったのでした。

1825年1月に入り、アンが3週間にわたって、姿を見せなくなりました。しかし3週間後、アンは胸に小さな赤ちゃんを抱いて現れたのです。この間、アンはお産をしていたのでした。鉄格子から手を伸ばし、アドニラムは自分の小さな娘に対面しました。

その後もアンは、夫をはじめとする囚人の釈放に力を貸してくれそうな人を頼って、赤ん坊マリアを片手に、通りから通りを渡り歩きました。

アマラプーラへ

しかし1825年5月2日、アンが監獄に行くと、アドニラムたちは忽然と姿を消していました。彼女は必死になってあちこちを行き廻り、夫の消息を聞いて回りました。ついにある老女が、「彼らはアマラプーラに連れていかれたよ」と教えてくれました。

絶望がアンを襲いました。かねて聞いていた通り、彼らはついにアマラプーラで死刑に処せられたのでしょうか。もうすべては終わってしまったのでしょうか。

しかし、翌朝、アンは、3カ月になるマリアを胸に抱き、夫を探しに、アマラプーラに行く決意をしました。砂埃のするでこぼこ道をアンは黙々と進んで行きました。

アマラプーラに着いたアンは息をのみました。そこの刑務所のひどさは、以前の刑務所をも凌ぐほどだったのです。しかし、とにもかくにもアンは夫を見つけたのです。――そう、骨と皮になりながらも、夫はかろうじて生きていたのです。

アンは、看守に頼み込み、監獄の隣にある穀物小屋の一つに寝泊まりする許可を得ました。そうして、その後、6カ月に渡り、アンは乳飲み子を抱えながら、日々、食料をかき集め、夫と宣教師たちを養いました。そして看守たちに助命を嘆願し続けました。

実際、この時期のアンの献身的なケアがなければ、アドニラムたちは生き延びることはできなかっただろうと言われています。病の体をおしながら献身的に仕えるアンの姿に、残酷な看守さえも、時には涙を流すことがあったそうです。

おわりに――ビルマの地に落ち、百倍の実を結んだ一粒の麦

その年の11月5日、戦争は終わり、アドニラムたちはついに釈放されました。しかしその頃からアンの病状は非常に悪化していきます。夫が再びビルマ政府の手に陥ったという知らせを聞いたアンは、最後の力を振り絞ってアドニラムのためにとりなし祈りました。この時の手記が残っています。

今回ほど、祈りの価値と力を痛切に感じたことはありませんでした。私は病気でもはや床から起き上がることができませんでした。自分の力ではもういかにしても夫を守ることができなかったのです。

唯一私にできたのは、『苦難の日にはわたしを呼び求めよ。わたしはあなたを助け出そう。あなたはわたしをあがめよう(詩篇50:15)』と言われた偉大にして力強い主に請願することのみでした。

そして実際、この御約束は自分の内で確実なものとなり、私は大いなる平安を感じました。――この祈りが答えられたという確信が与えられたのです。



そしてその確信通り、アドニラムは救出されたのでした。

こうするうちにも、アンは日に日に衰弱していきました。そして1826年10月24日、夫アドニラムが通訳官として徴用されている最中に、アンは一人静かに息を引き取りました。37歳でした。(娘のマリアも母の後を追うように6か月後、亡くなりました。)

彼女の信仰、献身、そして勇敢な生涯は、多くの青年男女にインスピレーションを与え、アンの召天後、何千、何百というクリスチャンが宣教師として全世界に飛び出していきました。

また、夫のアドニラムはその後も忠実にビルマの地で仕え続け、彼の働きを通して何千というビルマの魂がキリストのもとに立ち返ったのです。(アドニラム・ジャドソンの生涯についても、また別の機会にご紹介できたらと思います。)

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(↑アドニラム&アン・ジャドソン宣教師のビルマ宣教200周年 記念集会の様子 ミャンマー)

ある作家は、アン・ジャドソンを評して次のように言っています。

「彼女は熱く愛する人でした。夫を愛し、子どもたちを愛し、ビルマの人々を愛し、そして何より、神を愛してやみませんでした。」

愛。そうです、愛がこのかよわい一人の女性を、勇敢なキリストの兵士としたのです。キリストの愛に駆り立てられ、彼女は何不自由ないアメリカの地を離れ、危険と困難のただ中に飛び込んでいったのです。

今日も主イエス・キリストは、そのような魂を求めておられます。第二、第三のアン・ジャドソンをキリストは今も探しておられるのです。もしかしたら、主は、あなたを招いておられるのかもしれません。あなたを通して、主は御自身のみわざをなそうと思っておられるのかもしれません。

どうか招いておられる主の御声にじっと耳をすませてください。そして全身全霊で主の召しに応答してください。

主イエスの栄光が、あなたという器を通して、この地で輝きますように。アーメン。

※アン・ジャドソンの生涯についてさらに詳しく知りたい方は
http://www.wholesomewords.org/biography/biorpannjudson.htmlをご参照ください(英語)。

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F・クルヴィラ著King Jesus Claims His Church—A Kingdom Vision for the People of God(2013年初版)を読みました。教会および信者ひとりひとりの生活を取り扱った本です。

世俗化の進む米国キリスト教会にあって、この方の妥協なき真摯なメッセージは、実に際立っています。

著者クルヴィラ氏は、米国カリフォルニア州生まれで、両親はインドへの宣教師です。十代の頃から宣教師である両親に連れられ、著者は全米各地の教会を訪れる機会に恵まれます。そしてその過程で、さまざまな教会のあり方に触れることになります。

その後、ハーバード大学医学部に入学し、在学中はInterVarsity Christian Fellowshipを通して長年キャンパス伝道に携わりました。

ハーバード大で医学博士号を取得後、医療現場で働きますが、彼の内で教会に対するビジョンと情熱はますます大きくなっていきました。そしてそれと同時に、新約聖書に書かれている教会像とはあまりにかけ離れている現代の米国福音主義教会の現状に著者は、深く心を痛めるようになります。

その後、主の召しを受け、著者は医者(医学者)としてのキャリアを投げ打ち、パートで働き家族を養いつつ、ボストンで教会開拓に専念しているとのことです。

本書は、神学的にもしっかりした本ですが、それと同時にかなり実践的な本でもあります。

例を挙げると、弟子訓練、救い、説教、伝道(都市伝道等)、教会の集まり、聖さ、テクノロジー、食べ物、娯楽、ファッション、政治への関わり方、断食について、家族生活、教育(学校教育、ホームスクーリング)、職業の選択などなど、信者の生活全般についても一章一章を割いて、ていねいに考察がなされています。

また、各章に、理論と共に、著者自身の体験談・エピソードが豊富に織り込まれており、読者をあきさせません。

例えば、四章のDiscipleship as intensive companionshipでは、インターネットのポルノ中毒になった青年Dを教会が助けることができなかった実例がまず取り上げられています。

この教会は青年Dにaccountability partnerも提供しており、毎週土曜日の朝にはDはこの兄弟と祈りの時も持っていました。そして兄弟はDがポルノ中毒から解放されるよう祈ってもくれました。それにもかかわらず、Dは解放されず、やがて自分自身にも教会にも失望し、再び世の中に戻っていったのです。

「青年Dの実例は、今日、何千、何百万という人々に起こっている現実だ」と著者はいい、そこから彼は真の弟子訓練のあり方について洞察をしていきます。

本書を読む中で、何よりも私の心を打ったのが、教会に対する著者のひたむきな情熱と、キリストに対する純真な愛でした。

現在、神学校で学んでいる方、これから牧会に携わろうとされている方、牧会中の方、教会につまずきビジョンを見失ってしまった方等におすすめの本です。

たとえ本書に書いてある内容すべてに同意できないとしても、著者の教会に対する炎のような情熱に誰しもが感化を受けると思います。

私にとっては「教会再発見」の本でした。

これは、今、天にある支配と権威とに対して、教会を通して、神の豊かな知恵が示されるためであって、私たちの主キリスト・イエスにおいて実現された神の永遠のご計画に沿ったことです。
(エペソ3:10ー11)



King Jesus Claims His ChurchKing Jesus Claims His Church
(2013/08/19)
Finny Kuruvilla

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牢につながれている人々を、自分も牢にいる気持ちで思いやり、また、自分も肉体を持っているのですから、苦しめられている人々を思いやりなさい。(ヘブル13:3)

2014年6月現在、イエス・キリストへの信仰ゆえに苦しい獄中生活を送っている兄弟姉妹がイラン各地にいます。以下、所在が分かっている兄弟姉妹の名前を挙げます。どうか彼らのことを祈りに覚えてください。また、精神的にも経済的にも大変な状況にある、この方々の家族のためにもお祈りください。

① ファルシード・ファトヒー(男)-家の教会ネットワークの指導者。2010年よりエヴィン刑務所。刑期6年。2014年4月17日、看守たちからの暴行により足を骨折するもそのまま放置されています。

② マリアム・ナガシュ・ザルガラン(女)―家の教会メンバー。2013年7月15日よりエヴィン刑務所。刑期4年。心臓に疾患があります。どうか心身共に、彼女が癒され、守られますようお祈りください。

③ ラスール・アブドラヒー(男)-家の教会リーダー。2013年12月よりエヴィン刑務所。刑期3年。

④ サイード・アベディニー(男)-クリスチャン孤児院の創設者。2012年9月逮捕。現在、ゴハルダシュト刑務所。刑期8年。

⑤ モジュタバ・セイェド・アラエディン・ホセイン(男)-家の教会メンバー。2012年2月よりシラーズ市のアベル・アバッド刑務所。刑期44カ月。

⑥ ホマユン・ショクヒー(男)-家の教会メンバー。刑務所・刑期は⑤と同じ。

⑦ ヴァヒッド・ホッカニー(男)-家の教会メンバー。刑務所・刑期は⑤と同じ。

⑧ エブラヒーム・フィルズィー(男)-家の教会メンバー。2013年8月よりエヴィン刑務所。刑期1年+1年の捕囚刑。

⑨ アリレザー・セイイェディアン(男)-家の教会メンバー。2012年3月よりエヴィン刑務所。刑期6年。

⑩ ベフナム・イラニー(男)-家の教会指導者。2011年5月より、キャラージ市ゲザール・ヘサール刑務所。刑期6年。

⑪ ホセイン・サーケティー・アラムサリー(男)-2013年7月よりゲザール・ヘサール刑務所。刑期1年。

⑫ シャヒーン・ラフーティー(男)-家の教会メンバー。2012年10月シラーズ市で逮捕。2013年12月に釈放されるも、2014年4月再び拘束。

⑬ シラーズ市「チャーチ・オブ・イラン」グループ
-2012年10月、8名が一斉検挙。
モハンマド・ロガンギール(男)-刑期6年
マスード・レザーイー(男)―刑期5年。
メフディー・アメルニー(男)-刑期3年。
ビジャン・ハギギ(男)-刑期3年。
ソルーシュ・サライー(男)-刑期2年半。
エスキャンダール・レザーイー(男)-刑期1年。

● 審理前拘留されている兄弟姉妹

① スィラース・ラッバニー(男)-キャラージ市チャーチ・オブ・イランのメンバー。2014年5月5日逮捕。

② エフサン・サーデギー(男)
ナジ・アザディー(女)
マリアム・アザディー(女)
ヴァヒッド・サフィー(男)
アミン・マズルーミー(男)
(この5人の兄弟姉妹は、2014年4月18日、イースター礼拝中に、南テヘラン地方で逮捕されました。)

③ モハンマド・バフラミー(男)-2014年4月7日、アフワーズ市で逮捕。その後の消息はつかめていません。

④ アミン・ハーキー(男)
ホセイン・バルンザデ(男)
ラフマン・バフマン(男)
(この3人の兄弟は、キャラージ市ベフナム・クリスチャン・フェローシップのメンバーです。2014年5月5日に逮捕されました。)

⑤ 名前は分かっていませんが、二人のクリスチャンの男性。
(2014年2月10日、テヘラン空港にて逮捕。若い男性と、その伯父とみられています。)

⑥ サラ・ラヒミー・ネジャード(女)
モスタファ・ナドゥリー(男)
マジッド・シェイダイ(男)
ジョージ・イサヤン(男)
(この4人の兄弟姉妹は、2013年12月31日、キャラージ市にて逮捕され、その後、行方が分かっていません。)

⑦ マスタネ・ラステガーリー(女)
フェゲ・ナスロラヒー(女)
ホセイン(男)
アミール・ホセイン・ネマトラヒー(男)
アフマッド・バーズヤール(男)
(この5人の兄弟姉妹は、2013年のクリスマスの日に、東テヘラン地区で逮捕されました。)

⑧ キアヴァーシュ・ソトゥデ(男)
ジャムシード・ジャーバリー(男)
(この2人の兄弟は、クリスチャン・ブログを作成していたことが原因で、2013年12月ケルマン市で逮捕されました。罪状は、「預言者に対する冒涜」。)

⑨ カムヤール・バルゼガール(男)
サハール・バルゼガール(女)
アミール・エブラヒミー(男)
(2013年8月29日、テヘランにて逮捕。カムヤール兄弟とサハール姉妹は、夫婦です。
アミール兄弟は彼らの牧師。)

⑩ パルハム・ファラーズマンド(男)
サラ・サルドスィリアン(女)
セディゲ・キアニ(女)
モナ・ファズリー(女)
(この4人の兄弟姉妹は、2013年8月9日、西テヘラン地区で逮捕。)

⑪ マフナーズ・ラフィエ(女)
モハンマドレザー・ペイマニー(男)
セディゲ・アミールハニー(女)
(この3人の兄弟姉妹は、2013年8月2日、イスファハン市で逮捕。)

⑫ ナスィーム・ザンジャ二ー(女)-2013年7月12日、テヘランにて逮捕。

⑬ モハンマドレザー・ピーリー(男)
ヤシャール・ファルズィン・ノウ(男)
ファルシード・モダレス・アヴァイー(男)
ハミッド・レザー(男)
(2013年7月、タブリーズ市で逮捕。尋問中、この4人の兄弟たちに、ひどい暴行が加えられたことが確認されています。)

⑭ モハンマッドレザー・ファリード(男)
サイード・サフィー(男)
ハミッドレザー・ガーディリ-(男)
(2013年5月29日、イスファハン市にて逮捕。この3人はアフガニスタンの方々で
クリスチャン・ウェブサイトを開設していました。)

⑮ シャフルザド・Y(女)
サム・S(男)
(2013年1月9日、テヘランの自宅にて逮捕。)

⑯ メフディー・チャガカブディー(男)
モジュタバ・ババ・キャラミー(男)
(2012年2月21日 逮捕。)

⑰ サハール・ムサヴィー(女)
この姉妹は、アザード大学にて、キリスト者としての活動をしていました。2011年10月19日、逮捕。現在も、拘留されていると思われます。

☆☆
以上、確認のとれている兄弟姉妹の名前と所在を書き出しました。しかし、実際には、さらに多くの兄弟姉妹が、獄中に入れられていると思われます。

「誰かが、自分のためにとりなし祈ってくれているという、これほど大きな励ましはありません。」と獄中にいるある兄弟は語っています。

自分は一人じゃない。海を越えた日本からも、祈りが捧げられているんだ――と。

このようにして、私たちは、鉄格子の向こうにいる兄弟姉妹に寄り添うことができます。

願わくば、日本の各地で、とりなしの祈りの輪がひろがっていきますように。

何か彼らに励ましのメッセージがありましたら、匿名で結構ですので、コメントをお残しください。何らかの形で、彼らに日本からの応援メッセージを伝えることができるかもしれません。

アーメン。


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真実一途

私が繰り返し読んでいる本の一つが、三谷隆正著『幸福論』(岩波文庫)です。

三谷隆正(みたに たかまさ 1889年2月6日 - 1944年2月17日)は、一高を卒業後、東京帝大に学びますが、在学中、内村鑑三に師事します。

三谷隆正


大学卒業後は、同級生が、政界・財界に進んでいく中で、一人、黙々と高校教師の道を選び、(数度にわたる帝国大学教授就任の誘いを断りつづけ)、高校教師を生涯のライフワークとされました。

1924年には長女が生まれますが、その喜びもつかの間、赤ん坊も妻も病で失ってしまいます。『三谷隆正全集』の第2巻に、「家庭団欒」という小エッセーがありますが、淡々とした文章の中に、妻と娘への追憶が語られており、涙なしには読めません。

「私の一生の大野心(アンビション)は、自己に死ぬことである。而して他者裡に甦ることである。それ以外の野心を持ちたくないものと思ふ。」

との言葉通り、三谷隆正は、病と闘いながら、神のため、他者のために真実一途な人生を送りました。

彼の高潔な人格は、作品ひとつひとつから伝わってきます。西洋哲学への造詣が深く、ギリシア哲学、カント哲学に関する言及も多いですが、彼の思想の底流を流れているのは、なんといってもキリスト教の信仰です。

全集1巻におさめられている「信仰の論理」「問題の所在」は、生き方を真剣に模索している大学生・大学院生の方々にぜひ読んでいただきたい作品です。

三谷の遺稿ともなり、死後、発行された『幸福論』はこのような言葉で終わっています。その一部を抜粋いたします。

「だが友よ、君が真実やりたいと思うことは何であるか。

君がいのちに懸けても欲しいと思うものは何か。

、、だからわれらは真実生きがいのある人生に想いを定めて、一路ただ真実なる一生を眼がけ励めばよい。

しかる時、われら真実の人生を握らずに終わるということはない。

そうしてもし人生の真を握り得ば、かくてついに真実に生くるを得ば、他の何を失おうと何の悔いがあろうか。

貧何かあらん。
病なにかあらん。
血肉の悲劇また何かあらん。

人生の真をひたに求め続けてついに得ずということはあり得ない。

既にこれを得ば、他はすべてむなしきもの、求むるに値せざるものである。

若き日は若き日の夢を持つ。真面目であればあるほど美しい夢を持つ。

しかし、それは要するに無知な人間の浅はかな夢想でしかない。

人生の実相はもっと苛辣である。

(、、孟子の言葉を引いて)天は若き日の夢を紛砕することによってその人の身魂を練るのだというのである。

この意味においては、真摯なる生活者の一生は失意失敗の連続であることが珍しくない。

この意味においては、人の一生は到底その人みずからのつくる所ではない。

多くはその人みずからの造ろうとした所と逆な一生である。

にもかかわらず、真摯なる生活者の真実なる一生は、その人みずからの願いしより以上に、一層深刻にその人の願いの通りの一生にまで完成する。

、、、人の企画は浅薄幼稚である。その幼稚なる企画が実行されずして、神の博大高邁なる深謀遠慮が実行されるということは、何という幸福であろうか。」


まだまだ引用したい箇所は山ほどあるのですが、この辺で終わらせていただきます。

「日本のカール・ヒルティ」とも称される三谷隆正。彼の真摯な生涯とそこから生み出された一つ一つの言葉は、これからも多くの人々の魂に語りつづけることでしょう。



クリスチャンと「愛国心」


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愛国心とはなんでしょうか。

「国」を愛するとはどういうことでしょうか。

わたしたちクリスチャンは、愛国心をもつべきなのでしょうか。

それとも、もつべきではないのでしょうか。

☆☆

その1

ギリシアの愛国党台頭

ここギリシアでは経済危機が深刻化するとともに、「黄金の夜明け」という、極右愛国党の活動が目立ってきました。

昨年、バスに乗っていたら、ちょうど、「黄金の夜明け」の街頭パレードに遭遇しました。

黒いTシャツに、短く頭を刈り込んだ若者たちが、ナチスの鉤十字に似た党旗を振り、「血、名誉、黄金の夜明け!」を連呼していました。戦前のナチス台頭を思わせる不気味な光景でした。

また、この愛国党は、移民排斥を強く主張しており、私たちの教会の難民の兄弟たちの多くも殴る・蹴るの暴行を受けました。特に、行き場のないホームレスの難民たちは彼らの攻撃の的となっています。

そして、とても残念なことに、彼ら党員は、「(正教徒)クリスチャン」なのです。――ちょうど、ナチス党員が「ルター派クリスチャン」や「カトリック教徒」であったと同じように。

そして、襲われている難民の中にも実際、イエスさまを救い主として信じているクリスチャンが多くいるのです。

つまり、彼ら党員の中で、《愛国心の原理》は、《クリスチャンとしての同胞愛》に優先しており、この原理の前に、「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合うこと、これがわたしの戒めです(ヨハネ15:12)」というイエスさまの御言葉は踏みにじられているのです。

葛藤と探究

私はこの「クリスチャンと愛国心」という問題について、長い間いろいろと悩み、考えてきました。

ある時期は、解決の手掛かりを得ようと、アメリカの聖書信仰のクリスチャンの著作や講義を熱心にききました。その中で私は多くのことを学びました。彼らの聖書に対する敬虔な姿勢に心を打たれました。

しかし、こと「愛国心」に関する彼らの言論には何かしら疑問を感じてしまいました。

この方々はまず「アメリカ=クリスチャン・ネーション=神に愛されている国」という前提をもとに、さまざまな教え(愛国心、正義の戦争など)を打ちたてているようでした。

ということは、もともと「クリスチャン・ネーション」ではない日本に生まれ育った私のような者には、彼らの教えを自分のコンテクストにあてはめ、それを適用していく資格はないということになります。

でも、聖書の教えには普遍性がともなうはずです。真理そのものが普遍的なものだからです。

だから、もしある教えがある一国だけに通用し、他の国に住むクリスチャンには適用不可能なもの(局地的なもの)であるなら、はたしてその教えは聖書的なものなのでしょうか。そこに真理はあるのでしょうか。

また、あるクリスチャンの人々によれば、私は「日本人」なので日本に対する愛国心を持つべきだということでした。そして「神さまは日本を愛しているのだ」と。

たしかに神さまが日本に住んでいる人々を愛しており、それぞれの国に住んでいる人々を愛しておられることは分かります。

でも、「神さまは《日本》を愛している」あるいは「God loves America」、、などの言葉をきくと、「うーん、、、」と違和感を感じてしまう自分がいました。

神さまは人を愛している
神さまは生き物や木々、花々を愛している、、

これはよく分かります。でも、たとえば、「神さまは冷蔵庫を愛しています。」「神さまは○○会社を愛しています。」――とはいえません。人格を持った神さまは、人格をもった人間や、被造物を愛しておられるのであって、〈モノ〉や〈組織〉は、神さまの《愛する》対象ではないからです。

では〈国家〉はどうでしょう?神さまは、国(ないしは近代国家)という政治体を《愛して》おられるのでしょうか。

「わたしの国はこの世のものではありません(ヨハネ18:36)」と仰せられたイエスさまは、ご自身の教会の庭に打ち付けられた星条旗や、ギリシア国旗などをみて、どう感じておられるのでしょうか。

水草修治先生という牧師先生が、「愛国心という歴史現象」というすぐれたブログ記事を書いておられます。これを読むと、愛国心というもの自体、きわめて近代的な現象であることが分かります。(水草先生の記事を読みたい方は愛国心という歴史現象をクリックしてください。)

また、レオナルド・ヴェルドゥインは、 The Anatomy of a Hybrid, A Study in Church-State Relationships(=《交配種》の解剖―教会と国家の関係についての考察)という著書の中で、コンスタンティヌス帝以降、いかにして教会と国家が婚姻関係を結び、その結果、おそろしく不気味な《交配種》が生み出され、今日に至っているのかということを明快に論じています。とても読み応えのある本です。

The Anatomy of a Hybrid

その2

愛国心の実態

(その1)で書いギリシア愛国党(「黄金の夜明け」)に話が戻りますが、彼ら党員は、貧しさにあえぐギリシアの民衆に無料で食糧を配給したり、一人暮らしの高齢者を助けるなど慈善活動もしています。

しかし、その対象はあくまで「ギリシア人に限る」となっています。

つまり、お腹をすかせた二人のホームレスが同時に手を差しのばしても、配給にありつけるのは、「ギリシア人」のホームレスだけであって、相棒のアルバニア人は「外国人」という理由で拒否されるのです。

ここに、「愛国心」という思想のもたらす典型的帰結をみることができないでしょうか。

「いや、私たちは《健全な》愛国心を持つことはできるし、持つべきだ。いったい自分の国を愛せない人に、どうやって他の国の人々を愛することができよう?」といって反論されるクリスチャンの方がいるかもしれません。

これは私がかつて自身に問うていた質問でもありました。でも聖書のどこをみても、「まず自分の《国》を愛しなさい」というような教えはありません。

にもかかわらず、上のような問いが一見、もっともらしく聞こえるのは、私たちが、「まず自分自身を愛しなさい」という今流行りのメッセージに慣れっこになってしまっているからかもしれません。でも、よくよく考えると、こういった教えには聖書的根拠がないのです。

「でも、内村鑑三はどうなんですか。彼は『二つのJ(Jesus and Japan)』と言って、愛国精神を説いていたではありませんか」という問いもでてきそうです。

たしかに内村の著作の中には、祖国日本を強く意識した作品も多くみられます。でも、ここで注意しなければならないのが、当時、彼がどのような状況に置かれていたかということです。

あの時代、彼は国粋主義者たちから「非国民」呼ばわりされ、糾弾されていました。「クリスチャンというのは非国民なんだ」という責めを受けていたのです。

だから、そういった中傷・誤解に対し(また西洋的なキリスト教との相克もあり)、内村は弁明的な意味合いを込め、あえて「日本」を強く打ち出すことによって、クリスチャンが社会に有害な非国民などではないことを世論に訴えようとしたのではないかと私は思います。

そういった意味で、内村の「愛国」を文脈を無視して引用しはじめると、大変なことになります。

実際、内村門下のグループの中には、その路線でどんどん推し進めていった結果、しまいには、内村にあれほど迫害を加えた当の国粋主義者たちとそっくりの思想を持つに至る人々もでてきました。なんという皮肉でしょうか。

「愛国心」と「クリスチャン精神」を両立させようとする試みがことごとく失敗に終わってきたのは歴史の証明するところでもあります。

Jonathan Mayhew等、愛国精神に燃えたアメリカ植民地の牧師たちは、講壇から好戦的なメッセージを説き、米国独立戦争に火をつけるのにかなりの影響力がありました。

こういった人々の説教録を読むと、アメリカ合衆国への彼らの《愛国心》は他のすべてに優先しており、聖書のことばも、この愛国精神に矛盾しない限りにおいて、それを受け入れ、そうじゃない場合は、みことばは曲解されるか、切り捨てられるかしています。(例えばローマ13章)。

一般に、教会の講壇から「愛国」がさかんに説かれるようになった暁には、戦争がもうすぐそこまで来ている(もしくはその教会がすでに政府の御用機関になりさがってしまった)とみていいと思います。

私たちが「二人の主人に仕えることができない」というのは、この場合においても、まことにしかりだと思います。

神の国への情熱

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イエス様は、神の福音を宣べて言われました。「時が満ち、神の国は近くなった(マルコ1:15)」。

私たちの国籍は天にあり(ピリピ3:20)、私たちは信じて神の民とされました(1ペテロ2:10参照)。またイエスは「神の国とその義とをまず第一に求めなさい(マタイ6:33)」とおっしゃっています。

福音書を素直な心で読む人はだれでも、イエスの言っておられる「神の国」というのが、たんなる抽象概念ではなく、実に生き生きとした「今、ここにある」現実だということに気づくと思います。

そうです。イエスがおっしゃったように、神の国は、わたしたちの「ただ中にある」のです(ルカ17:21参照)」。

また、この国は、からし種のようなもので、畑に蒔くと、どんな種よりも小さい。でも、生長すると、どの野采よりも大きくなり、空の鳥が来て、その枝に巣を作るほどの木になる(マタイ13:31-32参照)とイエスは言っておられます。

そして《この国》には、もはや政権交代もなく、不正・汚職もなく、憲法改正の心配もなく、その力と栄えはとこしえに続き(マタイ6:13参照)、移り変わりがないのです。

なぜなら、神の国の王であるイエスは、「きのうもきょうも、いつまでも、同じ」だからです(ヘブル13:8)。

このことを黙想するとき、私の心は燃え上がります。

これまで、福音右派、リベラル左派、、その他、何々派という名のつくいろんなところを、右往左往してきました。それぞれの「派」の中によい点、学ぶべき点を発見しつつも、私のたましいは、そのどこにも波止場をみいだすことができずにいました。

国家に対して、それぞれの「派」のとっている立場にかんしても、私は自分の心が本当に納得するような、そんな考え方を長い間、みいだすことができずにいました。

でも、この《神の国》のリアリティーに霊の目が開かれた時、私ははじめて心から「そうだ!」と応答することができたのです。

そして自分に残された時間とエネルギーを余すところなく、《この国》とその王イエス・キリストのために注ぎ出したいという情熱に駆りたてられました。内側から喜びが湧いてきました。

人は誰でも、何か(誰か)に「属したい」そしてそこに「尽くしたい」「自らの魂を注ぎ込みたい」という願いがあるように思います。

そしてその願いは私たちが考えている以上に強く、切実なものだと思います。それゆえに、歴代の為政者は、巧みな操作によって、人々の「愛国心」を煽り、「属したい」「尽くしたい」という人々の純な願いを自らの利益(国益)のために利用してきたといえます。

でも「私たちは、この地上に永遠の都を持っているのではなく、むしろ後に来ようとしている都を求めているのです(ヘブル13:16)。」

そして、私たちは、私たちの真の祖国である神の国のために、そして麗しい王イエスのために、惜しみなく愛を注ぎつくすことができるのです。

御国が来ますように。
アーメン。

ここまで読んでくださって、ありがとうございました。

追伸)現在、日本でも全体的に右傾化が進んでいるということをきいています。教育現場で働いている友人をはじめ、多くの兄弟姉妹がこのただ中にあって、懸命に主に従おうとしています。

それぞれ置かれた場所で善戦していらっしゃる兄弟姉妹お一人お一人の上に、主の御助けがありますように切にお祈りします。

また、私たちクリスチャンが、手に手を取り、お互いに励まし合い、祈りつつ、この道程を歩んでいくことができますよう、お祈りします。イエス・キリストの御名によって。アーメン。

ボンヘェファー『キリストに従う』を読んで

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人生は冒険だといわれます。

しかし、人がおよそこの世で経験しえる冒険の中で、キリストに従っていく道ほど冒険に満ちたものはないと思います。

キリストに従っていく道ほど、細く険しい道はなく、またこれほどエキサイティングで楽しい道もないと思います。

私は、二泊三日の修学旅行中でさえ、ホームシックでしくしく泣き出すような弱虫でしたが、キリストと共に人生を歩み出し、気がついてみると、地球の裏側にまで来ていました。

十数年前、信じて間もない頃でしたが、東京の書店で、ボンヘェファーの『キリストに従う』をはじめて手にし、読み始めた時の感動を今でも覚えています。

当時の私は、「キリストに従いたいけど、今まで大切にしてきたもの・固執してきたものもできれば離したくない」という優柔不断な状態にありました。できれば、みんなが認めてくれるような広い道を進んでいきたいとも思っていました。

でも、この本は、私に、「真に神の前に《一人》立つこと」「神の前に個人となること」を教えてくれました。

ボンヘェファーはこう記しています。

服従へのイエスの招きは、弟子を個人にする。

弟子が望もうと望むまいと、彼は決断しなければならない。しかもその決断は一人でしなければならない。

、、(でも)この一人であるということを恐れるあまり、人間は、自分の回りにある人間や事物に保護を求める。

彼はにわかに自分が負わされている責任を洗いざらい持ち出してきて、それにしがみついて離れまいとする。

それに援護を求めた上で、彼は自分の決断を下そうとするが、一人だけでイエスに向かいあって立とうとはしないし、
ただイエスだけを見つめて決断しなければならないことを望まない。

しかし、こういう時に、父も母も、妻も子も、民族も歴史も、その招きを受けている者に保護を与えることはないのである。


さらにボンヘェファーは、キリストが私たち招かれた者から、それまでの関係に対する直接性をすべて取ってしまわれたといいます。

つまり、神と人間、人間と人間、人間と現実――それらすべての間に存在する《関係》の中にあって、キリストのみが仲保者でありたもうのだと。

そして、今まで、「直接的な関係」だと思っていたものは、実は錯覚にすぎなかったのだと彼は言っているのです。

われわれにとっては、キリストを越え、その言葉を越えて行く道、そしてわれわれの服従以外に、他者に至る道はない。直接性は欺瞞である。
     (『キリストに従う』服従と個人、p87‐88)

なんという厳しさでしょう。そして同時に、なんと真実に満ちた言葉でしょう。

☆☆
数年前に、北アフリカの砂漠の民に仕えている一人の勇敢な女性宣教師の家を訪問する機会がありました。

喧騒とした通りから一歩、彼女の部屋に入ると、そこには静けさと聖さがただよっていました。落ち着きある静寂さがどこからも感じられる、そんな空間でした。

古びた木製のデスクの脇には、中型の本棚があり、本が整然と折り目正しく並んでいました。

その時、私は大きなアラビア語聖書の横に、例の『キリストに従う』を見つけたのです。

あの砂漠地帯で、今日も彼女は一人聖書を読み、祈り、そしてキリストとの麗しい交わりの中に憩っていることでしょう。

彼女もボンヘェファーと同様、キリストに従う道、神の前に《一人》立つ道を選びとったのです。

しかし、この道は孤独な道なのでしょうか?

私たちは他の人々ともはや親しい関係を持つことができないのでしょうか?

それに対し、ボンヘェファーは「否」と言っています。逆に、この道をくぐり抜けた人こそ、他者にいたる真の道を見い出すのだと彼は力説しているのです。

われわれをほかの人間から隔てている裂け目、克服しがたい距離、他者性、ほかの人間の無縁性を、自然的あるいは精神的な結合によって克服しようとする試みは、すべて挫折するに違いない。

人間から人間に至る固有の道は通じていない。

最大の愛をこめた感情移入も、考察しぬかれた心理学も、もっとも自然な開放性も、ほかの人間に肉迫することはない。

、、キリストはその間に立ちたもう。キリストを通してのみ、隣り人に至る道がある。
p90」

われわれをそれぞれ個人にしたもう方と同じその仲保者は、しかしまたそれと共に、全く新しい交わりの基礎でもありたもう。

彼は、ほかの人間とわたしとの間の真ん中に立ちたもう。かれは分離したまうが、また一つにもしたまう。したがって、他者に至る直接的な道はすべて断ち切られているけれども、服従する者には、他者に至る新しい・ただ一つ真実の道が、今や仲保者を越えて示されるのである。
p93」

そして「人はそれぞれ一人で服従へと足を踏み入れるが、誰も服従の中で一人のままでいることはない(p94)」と彼は断言しています。

最初にこの箇所を読んだ時、私は「本当にそうなのかなあ。そうだったらいいけど、、」と心もとない気持ちでした。

でも、それが本当だったということを私は自分や周りのクリスチャンの歩みから今、証しすることができます。

キリストの前で《一人》立つことをあえて選びとった人はその旅路の中で、かならず同伴者を見い出すのです。

そして狭い道を、手に手を取り、お互いに励まし合い、いたわり合いながら歩んでいくことができるのです。

アーメン。

私たちがこの世に贈ることのできるもの

聖書によれば、私たち人間はみな移ろう草のようで、「朝は、花を咲かせているが、また移ろい、夕べには、しおれて枯れる(詩篇90:6)」ようなはかない存在です。

しかしその一方で、神は私たちのことを「神の作品」「キリストの手紙」だともいっておられます。

そして作品や手紙というものは、それを観る人や読む人に何らかのメッセージを伝えるものです。

「できることなら、私の人生を通して、少しでも主の栄光があらわされてほしい、そしてどんなに小さなことでもいいから主のために何か成し遂げたい」 それが私たちみなに共通する願いであり、祈りだと思います。

今日は、そういう意味で、私に励ましと希望を与えてくれた先人クリスチャンたちの
言葉をいくつかご紹介したいと思います。

まずは、エミー・カーマイケル(1867年 - 1951年)の詩です。エミーは、神殿娼婦としてヒンドゥー寺院に売られていた少女たちを救出するために奔走し、インドの地で53年、無私の奉仕を続けた宣教師です。

わたしを透きとおる空気にしてください。
どんな色をも通して、
歪めることのない空気にしてください。
あってないわたしという空気を通して、
神の愛の美しさが輝きますように。

神の愛の力強い栄光、
神の御心の深い憐れみ、
絶えることのない愛の光が
この世に射しこみ、
このあなたの世界に満ち溢れますように。


次は、赤毛のアン(モンゴメリ作)の言葉です。アンが友だちと今後の人生の
抱負について語っている場面からの抜粋です。

「あたしは人生の美しさを増したいと思うの」とアンは夢みるようにいった、、、

「人間の知識をもっと深めたいというのとは少しちがうわね、、、
でも、あたしは、自分がこの世に生きているために、ほかの人たちが、いっそうたのしく、暮らせるというようにしたいの、、、どんなに小さい喜びでも幸福な思いでも、もしあたしがなかったら味わえなかった
ろうというものを世の中に贈りたいの。


、、、そのとおり、アンは生まれながらに光の子であった。

だれの生活の中へでもアンはかならず、ほほえみと愛の一言を、日光のようにさしこませる。それを受けた人は、たとえその当座だけでも、人生を希望にみちた、美しい、善意にあふれたものだと思うことができた。
   (『アンの青春』(新潮文庫)p77‐78)

そして最後に、内村鑑三のことばをご紹介します。

内村は、『後世への最大遺物』という講演録の中で、私たちクリスチャンが後世に何を残すことができるのかについてメッセージしています。

(キリスト教の事業のために)これだけのお金を溜めた、これだけの事業をなした、自分の思想を論文に書いて遺した、、、そういうのも結構、「しかしそれよりもいっそう良いのは」と内村は続けます。

後世のために、私は弱いものを助けてやった、
後世のために、私はこれだけの艱難に打ち勝ったみた、
後世のために、私はこれだけの品性を修練してみた、
後世のために、私はこれだけの義侠心を実行してみた、
後世のために、私はこれだけの情実に勝ってみた


たとい人生の中で大きなハードルがあったとしても、いや、それだからこそなおいっそう、人がそういった困難に打ち勝って
いこうとする姿勢とそこから生み出された実は、価値があるのだ。

そういった「勇ましい生涯」――それこそが後世に残すことのできる最大の遺産である、と内村は語っています。

主よ、願わくば私たちの人生を通して、あなたの栄光が輝きますように。

どんなに小さくてもいい、私たちの笑顔を通し、言葉を通し、行ないを通して、周りの人々があなたの愛にふれることができますように。

私たちを生ける「キリストの手紙」としてお用いください。アーメン。
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