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どんな分野でも己の信じるところにしたがい、首尾一貫した生き方をしている人には独特の魅力があります。

そしてそれはクリスチャン・ライフにおいてもしかりだと思います。批判されようとも、周りの人に変な目で見られようとも、「これが聖書の真理なんだ」という確信をもち、その通りに生きているクリスチャンをみると、私の心は尊敬の念に満たされます。すごいなあと思います。

私の中には、まだまだ人目を気にしたり、人の評価を恐れたりする臆病さがあって、自分の確信していることを公にできていない部分があります。「人を恐れず、神を恐れなさい」という言葉は真実ですが、それを実生活の中で実行していくのは、たいへんな勇気がいります。

今から500年余前、そういう問題で心底葛藤した一人のクリスチャンがいました。そして彼はその苦悶の過程を、隠すことなく正直に告白しました。

彼には人への恐れがありました。安泰した生活を願う気持ちもありました。この人の自叙伝を読む人はだれでも、彼の葛藤を人ごとだと思うことはできないでしょう。

「神か、この世か」という選択は――各々状況は異なるとしても――私たち一人一人が直面しつづける人生の選択だからです。

メンノ・シモンズ(1496~1561)は、宗教改革がはじまった当時、オランダのカトリック教会を牧する一介のしがない祭司でした。

その田舎祭司が、多くの精神的葛藤を経た後に、やがてオランダ・アナバプテスト(再洗礼派)の群れを率いる指導者となっていくのです。いったい、彼の人生に何が起こったのでしょう。何が彼をして迫害下にある教会の牧者とせしめたのでしょう。

さあ、これからご一緒に、16世紀のオランダに旅することにしましょう。

生い立ち
Menno Simons

メンノ・シモンズは1496年1月、オランダのフライスィアンという所で生まれました。両親は酪農業を営む農民だったといわれています。

幼少の頃の記録はあまり残っていないのですが、メンノは近くの修道院で基礎教育を受け、ラテン語、ギリシア語などを少々学んだとされています。

メンノは1524年、ウトレヒトで司祭としての叙任を受け、故郷の町ピンジュムの教区司祭となります。その時、メンノは28歳でした。その教区にはもう二人同僚司祭がいたのですが、メンノは、「当時、私たち祭司は、カード遊び、飲酒、その他の娯楽にふけっていた」と告白しています。

そしてさらに「祭司になる前も、牧会中も、私は、一度だって、聖書を読んだことがありませんでした。もし読もうものなら、間違って解釈してしまうにちがいないと恐れていたのです」とつづっています。

そうやって二年の月日が流れましたが、その頃、化体説(ミサの中で、パンとブドウ酒が実際、キリストのみからだと血に変化するというカトリック教会の教義)に反対する宗教改革者の著作などが、メンノの住む町にも入ってくるようになります。

「本当に、(カトリック教会が言うように)パンとブドウ酒はキリストのみからだと血に変化するのだろうか。」という疑問にかられ始めたメノンは、マルティン・ルターの著作、および新約聖書をはじめて手にとって読み始めたのです。その結果、メンノは化体説には聖書的根拠はなく、「自分たちは騙されていたのだ」ということに気づきます。

そうするうちにも、彼は日々、みことばを知る知識において成長していきました。

しかしメンノは当時のことをこう振り返っています。「周囲の人々からは、私は聖書のみことばを説き明かす、すぐれた説教者とみられていました。でも、私は依然として世を愛しており、世もまた私を愛していたのです。」

しかしそんなメンノに、ある衝撃的な出来事が起こったのです。

その2

スィケ・シュナイダーの勇敢な死

ちょうどその頃、カトリック祭司メンノは、レウワルデンの町で、スィケ・シュナイダーという仕立て屋が、再洗礼を受けたかどで打ち首にされたことを聞き、衝撃を受けました。

「再洗礼?今までそんなもの、聞いたことがない。シュナイダーという男は、非常に敬虔で立派な人だったということだ。そんな彼がなぜ二度もバプテスマを受けたのか?」

それでメンノは、幼児洗礼が正しいという聖書的根拠を打ちたてようと、今まで以上に真剣に聖書を調べ始めたのです。

そしてメンノは驚きました。「な、ない。幼児洗礼を直接裏づけるような聖句は一つもないじゃないか!ということは、シュナイダーの確信は正しかったのだ。僕たちの方こそ間違っていたのだ。」

しかし、メンノはそういった内的確信を誰に話すでもなく、これまで通り、村の司祭を務め続けました。この時期の彼の沈黙について、メンノは、「楽な生活がしたい、人に認められたいといった欲望が自分の心を巣食っていたのです」と告白しています。

そうこうするうちに、彼はウィトマルスムの母教会での司祭に任命され、当地に赴任します。内側はすでに《改革者》でありながら、外側には相変わらず《カトリック司祭》という衣をまとい、メンノは二重生活を続けました。

すばらしいカトリック説教者としてのメンノの評判は高まっていきました。しかし、彼の内心はおだやかではありませんでした。誉められれば誉められるほど、彼の良心はうずきました。

ひきょうもの、ひきょうもの。お前は、真理が何かを知っていながら、自分かわいさにそれを隠している。〉

そういった内なる責めの声をメンノは必死で打ち消しながら、ミサを執り行い、幼児洗礼を施し、司祭としての務めをはたしていきました。

ミュンスターの乱

本ブログの中で公開中の歴史小説『チューリッヒ丘を駆け抜けた情熱』を読んでくださった方はお分かりだと思いますが、再洗礼派(アナバプティズム)の運動は、もともとスイスで始まり、そこからオランダ、ドイツ、オーストリアといった近隣諸国に急速に拡がっていきました。

しかしこの運動の中心的リーダーは、初期の段階で、ほとんど殉教してしまいました。

メンノのいるオランダでも、アナバプティズム運動は拡がる一方でしたが、ここでの最大の問題は、〈指導者の不在〉でした。

こうして二重生活を送るメンノが一人悶々と悩んでいる間にも、外の世界は刻々と変化していきました。

そうこうするうちに、指導者不在のオランダ・アナバプティズムは、ジャン・マティヤスやジャン・ヴァン・レイデンといった熱狂分子の影響下に入ってしまったのです。

1534年、マティアスと追従者たちは、ドイツのミュンスター市を占拠し、「ここに新しいエルサレムを建国する」というとんでもない宣言をします。そしてミュンスター派は、数か月そこを占拠しつづけますが、1535年6月25日、ついに教皇軍に打ち破られ、中にいた民衆は惨殺されました。

また、同じ時期に、ミュンスター派に刺激された300人余りの民衆が、ボルスワード近くのオルデ・クルースター修道院を占拠しようとする事件も起きました。

その結果、彼らは軍の包囲攻撃を受け、その場で殺される、もしくは処刑されるという惨劇となりました。その中には、メンノの弟であるペトロおよび、メンノの牧する教会の教会員も数名含まれていました。

この二つの事件は、メンノの良心に最後の決定打をうちこみました。

〈ああ、なんとあわれな魂たちよ。彼らは間違った教えに欺かれてはいたが、みな素朴で敬虔な村人だった。自分の信念のためには命すら投げ出す覚悟があった。ああ、羊飼いなく、哀れにさまよう羊たち。私なりに、彼らの暴走を止めようとがんばった。でも私のアドバイスには説得力がなかった、、、なぜって、、わ、わたし自身、自分の信じている通りに生きていないから、、、〉

そんな葛藤があるとはつゆも知らずに、教区員たちは、メンノの所にお礼にきました。

「メンノ祭司さま。最近は、アナバプティストとかいう熱狂者たちがオランダ中を荒らし回っていますが、祭司さまは見事にあの連中を説伏しておられますね。私はね、祭司さまのお説教をきくたびに、ああ、やっぱりうちの教会(カトリック教会)こそ、まことの教会なんだって思うんですよ。」

〈ああ、私の偽善によって、人々は自分たちがカトリック教徒であることを正当化している。なんということだ。私はもうこれ以上、良心の呵責に耐えられない。ああ、主よ、私を助けてください。

ミュンスターで、オルデ・クルースター修道院で死んでいった民衆の血が私の上に降りかかり、私はもうこの状態に耐えられません。私には今、自分の罪深さしか見えません。なんという偽善者でしょう、私は。ああ、主よ、あわれんでください。〉


「でも、自分がアナバプテストに?」そう考えると、メンノの身はすくんでしまうのでした。

打ち首にされたシュナイダーのことが脳裏をよぎりました。経済的にも安定した司祭職のことも思いました。自分を尊敬のまなざしでみてくれる教区員の顔も次々に浮かんでは消えていきました。

〈ああ、私はどうしようもない男だ。自分のしなければならないことは分かっているのに、自己保身ゆえに、うじうじと隠れているのだ。でも、もし私が、目の前にいる、さまよいし羊の群れを、まことの牧草地に導き入れることをしないなら、、、もしそうしないなら、審判の日に、彼らの血は私に降りかかることだろう!〉

こうしてメンノは涙を流しながら、主の前にぬかずきました。

「主よ、私のうちにきよい心を造ってください。罪深く、愚かな歩みをしてきました。どうかキリストの血潮によってこの罪びとを赦してください。」

新しい出発

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こうして真の悔い改めに導かれたメンノは、公に自分の確信を語り始めました。人々に罪からの悔い改めを説き、狭い道を指し示し、主に従っていくよう講壇から説きはじめたのです。

そうして9カ月経ったある日曜日、メンノはついに最後のステップを踏みました。

驚く会衆を前に、彼はこう語り始めたのです。

「皆さん、ご存知のように私はカトリック祭司です。私はこの教会で幼児洗礼を受け、祭司としての教育を受け、今、皆さんの前に立っております。しかし、今日をもちまして、祭司メンノはもう存在しません。

今日、皆さんの前に告白いたします。私はこれまで自分の築いてきた名声・名誉、そしてミサ、幼児洗礼、自分のキリスト者らしからぬ醜い行ない、安楽な生活、これら全てに別れを告げます。」


こうして1536年、メンノ・シモンズは過去のすべてに別れを告げ、オッベ・フィリップスにより洗礼を受けました。

その時の心情をメンノは次のように語っています。

「この道を選んだ場合、自分の身にふりかかってくることは分かっていました。今後、私の人生は、キリストの重い十字架の下に、苦しみと困窮に満ちたものになるでしょう。でも、私はそれらすべてを進んで主の御手にお委ねしました。

、、主は、私の心を引き上げてくださり、私の心は文字通り、新しくされたのです、、主にとこしえまでも誉れあれ。アーメン。」

こうしてついにメンノは己の内的葛藤を乗り越えたのです。

勇ましく十字架の道を踏み出す決意をすることで、メンノはついに心の平安を勝ち取ったのです。

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その3(最終回)

アナバプテストの指導者として

「だれでも、手を鋤につけてから、うしろを見る者は、神の国にふさわしくありません(ルカ9:62)」というみことば通り、召しを受けてからのメンノ・シモンズは、ひたすら前に向かって前進していく勇敢なキリストの兵士となります。

洗礼から一年後のある日、6-8名の兄弟たちがメンノの元を訪れ、アナバプテストの群れの指導者となってくれるよう懇願します。

自分自身の賜物の小ささ、学識のなさ、性格の弱さなどを思い、メンノは最初、躊躇しましたが、羊飼いのない哀れな羊たちを思った時、彼は勇んで、その任務を受け入れたのです。

こうしてメンノは、精力的に各地を訪問し、福音を宣べ伝え、多くの群れを牧会しました。(バックナンバーで書いたエリザベス・ディルクもこの時、同労者として共に伝道の奉仕をしています。)

まもなく、メンノ・シモンズはオランダおよび北西ドイツ地方随一の指導者として名をはせることになり、またそれだけ多くの危険にもさらされることになりました。

メンノと家族は、官憲の追跡を逃れつつ、その後数十年にもわたって、隠れ家から隠れ家へ放浪する生活を余儀なくされました。メンノの頭には、二千ギルドという多額の賞金がかけられ、彼をかくまう者はだれでも死刑に処されました。

そんな中、彼が生き延びたのは奇跡的としかいいようがありませんでした。こうしてメンノ・シモンズは、1561年に召されるまで、忠実に主の群れを牧し、多くの魂をキリストに導いたのです。

おわりに ―メンノ・シモンズの与えた影響―

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「宗教改革」ときいて、私たちは、どんな人物を連想するでしょうか。

マルティン・ルター、ジャン・カルヴァン、ウルリヒ・ツヴィングリ、ジョン・ノックス、、といった名が一般には思い出されると思います。

では、メンノ・シモンズの名はどうでしょうか。私の想像する限り、彼の名前はほとんど挙がらないと思います。私自身、数年前までメンノのことはほとんど知りませんでした。なぜでしょうか。

例えば、〈政教分離〉や〈信教の自由〉といった重要な概念。これはルターでもカルヴァンでもなく、メンノ・シモンズによってはじめて明確化されました。絶対平和主義の教えを説き、それを実践したのもメンノ・シモンズでした。

17世紀の英国バプテスト教会の誕生も、オランダ・メンノ派の影響なしには考えられません。さらにアメリカ・バプテスト教会の父であるロジャー・ウィリアムズがメンノ派の思想に影響を受けていたことも歴史家によって指摘されています

繰り返しになりますが、それにもかかわらず、なぜ、メンノ・シモンズは、教会史の中で少ししか光が当てられていないのでしょうか。

まず一つ目の理由として、これまでアナバプテスト運動が、ミュンスター派等の熱狂分子とごっちゃにされがちだったという宗教改革以来の長い誤解の歴史が挙げられると思います。

彼ら自身の書物は焼かれ、有罪を立証するように文献が改ざんされました。彼らは静かで敬虔な生活を送っていましたが、告発者によって大犯罪人に仕立て上げられました。そうして「アナバプテスト」という名には、常に異端者、危険分子というレッテルが貼られ続けたのです。

また二つ目の理由として、メンノ・シモンズが、カルヴァンのような「頭脳明晰な」神学者でもなく、著述家でもなかったということが挙げられるかもしれません。この世的な基準で計るなら、メンノの著作は、カルヴァンの『キリスト教綱要』などに比べ、はるか見劣りがするのかもしれません。

これまでご一緒にみてきましたように、メンノにはルターやカルヴァンのような立派な大学教育もなく、彼は一介のしがない田舎祭司にすぎませんでした。

しかし主は、この世的には価値のない者、弱い者をあえてご自身の栄光を映す器として選ばれるのです。

また、この世の取るに足りない者や見下されている者を、神は選ばれました。すなわち、有るものをない者のようにするため、無に等しいものを選ばれたのです。これは、神の御前でだれをも誇らせないためです」(1コリント1:28-29)。

そしてこれこそ、私がこのブログを立ち上げた直接的な動機なのです。

たとえ、小さなヒヨコのような取り組みでもいい、これまで歴史の片隅に置かれ、ほとんど光の当てられてこなかった「この世の取るに足りない者や見下されてきた信仰者たち」に寄り添い、彼らの証にじっと耳を傾け、そうして彼らの歩みを活字化したいと思ったのです。

そしてそれが、今の私にできる、彼ら一人一人に対する感謝の表現かなあと思いました。

ここまで読んでくださって、本当にありがとうございました。

脚注
1Menno Simons, The Complete Works 
http://www.mennosimons.net/completewritings.htmlでメンノ・シモンズの全著作を読むことができます(英語)。
2E・ケアンズ『基督教全史』(第30章)
3Leonard Verduin, The Anatomy of a Hybrid (p212~)
4E・H・ブロードベント『信徒の諸教会』p292~311

【参考文献】
Joseph Stoll, The Drummer’s Wife and other stories from Martyrs’ Mirror
http://www.mennosimons.net/life.html



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ビルマの白百合――アン・ジャドソン宣教師の生涯と信仰


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まことに、まことに、あなたがたに告げます。一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます。
   (ヨハネの福音書12:24)


アン・H・ジャドソン(Ann Hasseltine Judson 、1789年12月22日~1826年10月24日) は、アメリカ初の宣教師であり、夫のアドニラム・ジャドソンと共にビルマの人々の魂の救いのため生涯を捧げた女性です。

何年か前に、ジャドソン夫妻の伝記を読んで、私は深く感動しました。アドニラム、アンそれぞれすばらしいのですが、今回は、妻のアンに焦点をあてて、彼女の信仰と生涯をみていこうと思います。

その1

生い立ちと回心

Ann Judson


アン・ハッセルタインは1789年に米国マサチューセッツ州ブラッドフォードに生まれました。

彼女の家は会衆派キリスト教徒でしたが、特に敬虔というわけではなく、どちらかといえば、「人生を最大限満喫しよう」といった雰囲気の強い世俗的な家庭でした。一応、教会には通っていましたが、15歳の頃まで、彼女の主たる関心は、友だちとの交際や社交にありました。

しかしそんなアンに転機が訪れます。1805年の夏、地元のブラッドフォード・アカデミーに新しい教師が派遣されてきたのです。アンはその時16歳になっていました。

この教師は人々に向かって魂の救いについて熱く語りはじめました。そしてその結果、アンの両親、兄弟姉妹、アンの親友ハリエット・アトウッドをはじめ多くの人々が回心を経験しました。そしてその御霊に満ちたメッセージはアンの魂にも深く触れたのです。

そんなある日の朝、自分の部屋を出ようとしたアンは、ふと一冊の本を手に取りました。

そして、その本を開いたアンの目に、「自堕落な生活をしている女は、生きてはいても、もう死んだ者なのです(Ⅰテモテ5:6参照)」という文字が飛び込んできました。後にその時のことをアンは次のように回想しています。

「この御言葉は、私は魂を突き通しました。それから数分の間、私は物も言えず、茫然と立ちすくんでいました。それはなにか目に見えない誰かが私の目をその言葉にくぎ付けにさせた――そんな感じでした。」

続いてアンは、ジョン・バンヤンの『天路歴程』を読み、敬虔な生活を送ろうと心に決めます。

しかし、社交界や世的な楽しみへの彼女の未練はまだまだ断ちがたく、アンの内的葛藤はその後もつづきました。

しかしベラミーの『まことの宗教』という本を読む中で、彼女は自分の罪深さ、そして神の真実に目が開かれ、ついにキリストをわが救い主として心に受け入れたのです。

こうしてキリストにある新生を体験したアンは、熱心に主のみこころを祈り求めるようになります。数年間、サーレム、ハヴェールヒル、ニューバリーの学校で教鞭をとりましたが、その時も、自分の生徒の救いのために祈り続けました。

『デイヴィッド・ブレイナードの日記』に大いに感化されたアンは、聖い神の前に敬虔に生きていきたいと切実に求めるようになると共に、異邦人の救いのためにもとりなし祈り始めました。

アドニラムとの出会い、結婚、そして旅立ち

1810年6月28日――当時アンは21歳でした――彼女の教会に4人の宣教師候補がやって来ます。そして礼拝後、アンの両親は、これらの訪問者たちをわが家に招待しました。

4人のうちの1人、青年アドニラムは、アンを一目見て、彼女の内なる美しさ、敬虔さに惹かれ、「この女性こそ僕の祈り求めていた人ではないだろうか」と感じました。

そして1ヶ月後、アドニラムはアンに交際を求める手紙を書きました。それに対し、「まず父に許可を求めてください」というのがアンのつつましやかな答えでした。こうして、したためられたのが、アンの父に捧げられしアドニラムの有名な手紙――事実上のプロポーズ文――となったのです。

そこにはこう記されています。

お父様、あなたに同意していただかなければならないことがあります。

翌春、あなたの娘さんと今生の別れを告げることに同意してくださいますか。

そして娘さんが異邦人の地へと旅立ち、宣教師として今後、幾多の困難と苦しみに甘んじなければならないことに同意してくださいますか。

娘さんが、海上での危険、インドの苛酷な気候、ありとあらゆる種類の欠乏、困窮、辱しめ、そしり、迫害に遭うだけでなく、、、もしかしたら非業の死を遂げるかもしれないこと、そのことに同意してくださいますか。

天上のすまいを後にし彼女のために死んでくださった主のゆえに、滅びゆく魂のゆえに、そしてシオンと神の栄光のゆえに、これらすべてのことに同意してくださいますか。

彼女という器を通して、永遠の滅びと絶望から救われし異邦の民がやがて主のもとに携えてくるであろう大いなる誉れ――それによって光輝く義の冠をつけたあなたの娘さんと直に栄光の世で会えるという希望を持ちつつ、これらすべてのことに同意してくださいますか。



この手紙を受け取ったアンの両親は、彼女が自分で決断をくだすよう言いました。女性が宣教師として派遣されるということなど、当時のアメリカのプロテスタント教会では考えられないことでした。全く前例がなかったのです。

しかし、彼女は信仰をもち、アドニラムと共に、未知の未来に向かって踏み出す決意をしました。

こういったアンの姿勢は、故郷を離れ、未だ見ぬイサクのところに行くかと問われた時、「はい。まいります。」と信仰をもって答えたリベカ(創世記24:58)を髣髴させます。

こうして1812年2月5日、二人は結婚し、約二週間後、インドのカルカッタに向けて出港したのでした。(彼女の親友ハリエットも、4人の訪問客の1人サムエル・ネーウェルと共に宣教師としての人生を送る決意をし、同船していました。)

船は6月18日にカルカッタに着きますが、その後、思いもよらぬことが起こります。

その2

インドへ出航

1812年2月18日、23歳のアン・ジャドソンは、夫アドニラムと共にインド行きの船に乗り込みました。

船の中でアンはこのような日記を書いています。

満月の光が海面をいっぱいに照らしている。まわりにあるもの全てが、心地よくも、物悲しい雰囲気をかもしだしている。

故郷の地、わが家、友だち、そして捨て去ったすべての楽しみ、、、そういったものが私の脳裏を駆け巡った。涙がとめどもなく流れた。どうやって自分を慰めたらいいのか分からなかった。

でも、その時私は思った。――こういったものすべてを捨てたのは、キリストのゆえなのだ、と。そしていつの日か、かわいそうな異教の女性たちの救いのために、少しでもお役に立てたらという希望ゆえなのだ、と。

そう考えた時、私のうちで悲しみはやわらぎ、涙は乾いた。そして再び、心に平安と静けさを取り戻すことができた。(1812年2月27日)



カルカッタにて

1812年6月14日、アドニラムとアンはインドのカルカッタ港に到着します。当初、二人は、「インドの地で、会衆派の教会を建て上げる。これが私たちに託された主からの使命だ。」と思っていました。しかし、到着早々、思いもよらぬ事態が起こります。

当時、インドのセラムプール市にはかの有名なウィリアム・ケアリ-をはじめとするバプテスト教会の宣教師がいました。ウィリアム・ケアリーとの出会いを通し、また、新約聖書を原典で読み進める中で、アドニラムは「会衆派では幼児洗礼を行なっている。でも、信者による浸礼、これこそが聖書的真理だ」と確信するようになります。

さあ、大変なことになりました。アドニラムもアンも会衆派の家庭で育ち、送り出してくれた教会ももちろん会衆派でした。その当時の心境について、アンはこう追憶しています。

「私たちのこういった変化が、アメリカにいる信者の友人たちを傷つけ、悲しませることになるのは目に見えていました。そして私たちは、彼らからの称賛や評価を失うことになると。母教会は、私たちに対するサポートを取りやめるかもしれません。

そして何よりつらいのが、今一緒にいる宣教師仲間のもとを去り、自分たちだけでどこか別の場所に行かなくてはならないだろう、ということです。

こういったことは、私たちにとって大きな試練であり、私たちの心は引き裂かれんばかりです。
この世に私たちの家といえるものはなく、夫を除いてこの世に私の友はだれもいない、、そんな心境です。」

そしてその年の9月、カルカッタにて二人は浸礼によるバプテスマを受けます。

こうした二人の決断から私たちは次のことを学ぶことができると思います。つまり、宣教師として宣教地に送り出されるにあたり、私たちは完全無欠を要求されてはいないということです。

「神学的にも、人格的にも、経済的にも、全てが申し分なく整えられてはじめて、私たちは宣教師として遣わされるに値するのだ」と考えるなら、私たちのうち誰が、あえて異教の地に飛び込んでいくことができるでしょうか。

アドニラムとアンは、祖国にいた時も、誠実な主のしもべでした。しかし、主は、彼らの宣教師としての歩みがはじまった後に、(バプテスマという点に関し)聖書の啓示の光をあてることを良しとされたのです。

これは私たちにとって大きな慰めではないでしょうか。たとえ弱い器のままで宣教の地に旅立ったとしても、主は、私たちを見捨てず、さまざまな状況を通して、私たちを練ってくださるのです。

もちろん、できる限り事前に準備し、整えられる必要はあるでしょう。でも、私たちは主のあわれみを受け、不完全ながらも大胆に一歩を踏み出すことができるのです。失敗や変化を恐れていては、何も始まりません。

私たちは宣教師という「完成品」として現地に送り出されるのではなく、陶器師の手にある生ける土の器として、一生を通して、練られ形造られ続けるのです。

さて、話をアドニラムとアンに戻しましょう。バプテスマのことで問題が生じただけはなく、宣教師の活動を快く思わない東インド会社により、インドから立ち去るよう最終通告を受けます。

「宣教の戸は閉ざされてしまったのだろうか?これはみこころじゃなかったのか?」きっとそのような思いが二人の頭をよぎったことでしょう。

しかしぎりぎりのところで、主は別の門戸を開いてくださり、二人はモーリシャス諸島に数カ月滞在した後、ビルマのラングーン(現在のミャンマー)行きの船に乗り込みました。もうラングーン行きしか船がなかったのです。

しかし、後の歴史をみると、主の、二人に対するご計画は、ビルマの地にあったことがはっきりと分かります。私たちの思いや常識を越えて、神は働き、今も働いておられるのです(イザヤ55:9参照)。そうです、主を信じる私たちの人生の道程に、マイナスなことは一つもなく、全てが主の御手の中で益とされるのです。

ラングーンへ

Map of Burma

ラングーンへの航海は困難なものでした。アンは当時妊娠していましたが、船中で流産し、アン自身も一時期、生死の境をさまようほどの危険な状態に陥りました。

しかし船はとうとうラングーンに着きます。陸に降り立った二人の見た光景は、想像に絶するものでした。町にはハエやねずみ、そしてありとあらゆる害虫がはこびっていました。

ショックを受けた二人でしたが、神はアンの体調を回復させてくださり、二人は現地の人々と積極的に交わり、難解なビルマ語の習得に励みます。1815年の初め、アンの体調は再び崩れ、治療のためしばらくの間、インドに滞在しました。

1815年9月11日、ラングーンに戻ったアンは、男児ロジャーを出産します。医者も助産婦もおらず、夫の介助だけで行なわれた分娩でした。小さな家に喜びが湧きました。語学の学びも進み、全てが順調に進んでいるように思われました。しかし、その喜びも長くは続かず、愛児ロジャーは、わずか8カ月で死んでしまったのです。アンは家族に宛てて、次のような手紙を書いています。

前回の手紙を書いていた時、次に書くお手紙が――今から書くような――悲しみに満ちた内容になるなど思いもしていませんでした。私たちのさみしい状況にもかかわらず、またもや〈死〉がわが家を訪れ、幸福に満ちた家庭を悲しみの底に突き落としました。

わが家のかわいいロジャー・ウィリアムズ、かけがえのないたった一人の坊やが、三日前に、物を言わないお墓の中に埋められたのです。

この8カ月というもの、私たちはこの尊い小さな贈り物に夢中でした。この子は両親の心を完全にとらえ、もうこの子なしには生きていけないと思うほどのかわいさでした。

でもこの苦しみを通して、神さまは、次のことを教えてくださいました。つまり、私たちの心は主に属するものであり、それに匹敵するようなライバルが侵入してくるや、主はそれを取り去ってしまわれるということです、、、

でもこのことに関して、不満を言ったり、主に『どうして、こんなことをなさったのですか』と申し上げるつもりは思いません、、、ああ、願わくば、主のなさったこの事が、どうか無駄になりませんように。



悲しみにうちひしがれたアドニラムとアンでしたが、二人はそこに留まることはありませんでした。前にもまして、二人は主の奉仕に打ち込み始めたのです。

その3

信仰による歩み

1813年にビルマのラングーン(現在のヤンゴン)に到着したジャドソン夫妻は、懸命に現地語の習得に励み、伝道トラクトを作成し、人々に福音を伝えようとしました。アンは女の子のための学校も始めました。

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しかし、一年経ち、二年経ち、三年、四年経っても、イエスを救い主として受け入れる改宗者は一人として起こされませんでした。

結果のみえない宣教レポートに不安を募らせた母国の教会が「この先、なにか展望はあるのか?」と問うたところ、夫のアドニラムは「神の御約束と同じくらい、将来の展望は明るいです。」と力強く答えました。これはきっとアンの気持ちでもあったと思います。

「信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです(ヘブル11:1)」と聖書には書いてあります。

福音の種まきは、多くの場合、地味で、しかも多大な忍耐を要する働きです。私たちは、目に見える結果を出したいと焦る余り、福音以外の手段を使って、人々を引き寄せようとする誘惑に襲われがちです。そっちの方が手っ取り早いからです。

夫アドニラムは、宣教師候補生たちに向けた手紙の中で、「福音を伝えることに倦み疲れ、その結果、他の活動で福音伝道の埋め合わせをしていこうとする宣教師たちの傾向」に警告を与えています。

この世の手段やアトラクションを用いて人々を教会に引き寄せるなら、即席の成果は出せても、後にまで残る実は成らないのです。パウロの言うように、「神はみこころによって、宣教のことばの愚かさを通して、信じる者を救おうと定められたのです(Ⅰコリント1:21)」。そして「多くの人のように、神のことばに混ぜ物をして売るようなことはせず、真心から、また神によって、神の御前でキリストにあって語るのです(Ⅱコリント2:17)」。

そして実際、不毛にみえた長い年月の後に、ついに変化が訪れます。

1819年5月5日、ムング・ナウという現地人がはじめてイエスさまを救い主として心に受け入れたのです。そして翌月の27日、ラングーンでの働き6年目にして、はじめての洗礼式が行われました。アンはその時の喜びをこう書き記しています。

「この出来事――勝利に輝く恵みというこのトロフィーは、私たちの心をすみずみまで満たしました。この感慨は、キリスト教国に住むクリスチャンにはほとんど理解しがたいものでしょう。」

実際に、ムング・ナウをはじめとしてその後、起こされた少数の改宗者は、政府による迫害にも動じない力強いクリスチャンとして成長していったのです。


その4(最終回)

生にも死にも固く結ばれて


「しっかりした妻をだれが見つけることができよう。彼女の値うちは真珠よりもはるかに尊い(箴言31:10)」と聖書は言っています。

アンは聖書の一部をビルマ語やタイ語に翻訳するという偉大な働きをしました。しかし、それら全てにまさって、彼女を際立たせていたのが、妻としてのアンの忠実さでした。

英語でも、ギリシア語でも、信仰(faith,πίστις)と忠実(faithful,πιστός)という二つの言葉が同じ語幹から派生しているのは、決して偶然ではないと思います。神に対する信仰と、隣人に対する忠実さは、切っても切れない関係にあるのです。

1817年12月、夫のアドニラムは奉仕のため、船でチャタゴン地方に向かいました。予定では3カ月以内に戻ってくるはずでした。

しかし、船が嵐で漂流し、船中、アドニラムは飢えと高熱で生死の境をさまよいます。船はかろうじてマスリパタンという所にたどり着き、その町に住む英国人によってアドニラムは手厚く介抱を受けますが、その間、アンへの連絡手段は断たれていました。

12月に発って以来、翌年の7月まで、妻アンには、夫から何の音信もありませんでした。生きているのか死んでしまったのか、それさえも全く分からない状態にありました。そうこうするうちにラングーンをコレラ伝染病が襲い、また政府による宣教師への迫害がはじまりました。

次々に英国船はラングーン港を後にし、ついに外国人はアンと、ハッグ宣教師夫妻の3人を残すばかりとなりました。やがてそのハッグ夫妻もついにラングーン脱出を決意し、アンにも一緒に乗船するよう説得します。

説き伏せられ、いったんは船に乗り込んだアンでしたが、夫のことを考えると、彼女の心は揺れました。

〈もし、夫がまだ生きているとしたら、きっと私を探してラングーンの家に戻ってくるはず。その時、私が家にいなかったら、彼はどんなにか絶望するだろう。いや、私は彼を置いて自分だけ逃げることなどできない。家に戻ろう。家に戻って、彼の帰りを待とう。〉

そう決意すると、アンは再び船を下り、たった一人、家路につきました。

夫アドニラムがついにラングーンにたどり着いた時には、ラングーンは荒れ果てた様になっていました。宣教ベースは破壊され、宣教師はことごとく他国に避難したということでした。しかし、です。アドニラムは、たった一人けなげに夫を待ち続けていたアンを、そこに見つけたのです!

なんという勇気でしょう。そしてなんという堅実さでしょう。

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鉄格子を越えた愛と献身

1824年、英国とビルマの間で戦争が勃発します。その頃、アドニラムとアンは、宣教ベースをラングーンからアヴァに移していました。

同年6月8日、ビルマ国王はスパイ容疑でアドニラムをはじめとする宣教師たち数人を拘束するよう命じ、彼らはおそろしい監獄に入れられます。

窓のない灼熱の獄の中はゴキブリやシラミ、害虫であふれ、悪臭が鼻をつきました。アドニラムたちは足に重い鎖をつけられ、夜は高い位置に据えられた棒に足を固定させられ、かろうじて肩と頭が地面につくというような状態で眠らなければなりませんでした。夜には、翌朝、囚人を処刑しようと看守たちの刃物を研ぐ音がきこえてきました。

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(↑当時の監獄の様子)


そんな中、アンは、献身的に獄中にいる夫および宣教師たちに仕えます。機会があるごとに看守に助命を嘆願し、その結果、死刑執行を防ぐことができたのも一度や二度ではありませんでした。


夫が数年かけて仕上げた新約聖書ビルマ語の原稿を、アンは最初、自宅の庭に隠しますが、その場所も安全ではなくなったため、夫の枕の中に結いつけ、獄中に持っていきました。

しかし、ある日、残酷な看守は、アドニラムの枕を奪い取り、わが物としてしまったのです!「ああ、ビルマ語の聖書の原稿が、、、!」アドニラムは心の中でうめきました。

その事を知ったアンは、知恵を絞り、もっと手の込んだ新しい枕を作って監獄に持っていきました。アドニラムは例の看守にその新しい枕を見せ、「これをあげるから、僕の古い枕を返してもらえないか」と頼んだところ、看守はけげんそうにしつつも、古い枕を返してくれたのです!

こうしてビルマ語の聖書は再び彼の手に戻ったのでした。

1825年1月に入り、アンが3週間にわたって、姿を見せなくなりました。しかし3週間後、アンは胸に小さな赤ちゃんを抱いて現れたのです。この間、アンはお産をしていたのでした。鉄格子から手を伸ばし、アドニラムは自分の小さな娘に対面しました。

その後もアンは、夫をはじめとする囚人の釈放に力を貸してくれそうな人を頼って、赤ん坊マリアを片手に、通りから通りを渡り歩きました。

アマラプーラへ

しかし1825年5月2日、アンが監獄に行くと、アドニラムたちは忽然と姿を消していました。彼女は必死になってあちこちを行き廻り、夫の消息を聞いて回りました。ついにある老女が、「彼らはアマラプーラに連れていかれたよ」と教えてくれました。

絶望がアンを襲いました。かねて聞いていた通り、彼らはついにアマラプーラで死刑に処せられたのでしょうか。もうすべては終わってしまったのでしょうか。

しかし、翌朝、アンは、3カ月になるマリアを胸に抱き、夫を探しに、アマラプーラに行く決意をしました。砂埃のするでこぼこ道をアンは黙々と進んで行きました。

アマラプーラに着いたアンは息をのみました。そこの刑務所のひどさは、以前の刑務所をも凌ぐほどだったのです。しかし、とにもかくにもアンは夫を見つけたのです。――そう、骨と皮になりながらも、夫はかろうじて生きていたのです。

アンは、看守に頼み込み、監獄の隣にある穀物小屋の一つに寝泊まりする許可を得ました。そうして、その後、6カ月に渡り、アンは乳飲み子を抱えながら、日々、食料をかき集め、夫と宣教師たちを養いました。そして看守たちに助命を嘆願し続けました。

実際、この時期のアンの献身的なケアがなければ、アドニラムたちは生き延びることはできなかっただろうと言われています。病の体をおしながら献身的に仕えるアンの姿に、残酷な看守さえも、時には涙を流すことがあったそうです。

おわりに――ビルマの地に落ち、百倍の実を結んだ一粒の麦

その年の11月5日、戦争は終わり、アドニラムたちはついに釈放されました。しかしその頃からアンの病状は非常に悪化していきます。夫が再びビルマ政府の手に陥ったという知らせを聞いたアンは、最後の力を振り絞ってアドニラムのためにとりなし祈りました。この時の手記が残っています。

今回ほど、祈りの価値と力を痛切に感じたことはありませんでした。私は病気でもはや床から起き上がることができませんでした。自分の力ではもういかにしても夫を守ることができなかったのです。

唯一私にできたのは、『苦難の日にはわたしを呼び求めよ。わたしはあなたを助け出そう。あなたはわたしをあがめよう(詩篇50:15)』と言われた偉大にして力強い主に請願することのみでした。

そして実際、この御約束は自分の内で確実なものとなり、私は大いなる平安を感じました。――この祈りが答えられたという確信が与えられたのです。



そしてその確信通り、アドニラムは救出されたのでした。

こうするうちにも、アンは日に日に衰弱していきました。そして1826年10月24日、夫アドニラムが通訳官として徴用されている最中に、アンは一人静かに息を引き取りました。37歳でした。(娘のマリアも母の後を追うように6か月後、亡くなりました。)

彼女の信仰、献身、そして勇敢な生涯は、多くの青年男女にインスピレーションを与え、アンの召天後、何千、何百というクリスチャンが宣教師として全世界に飛び出していきました。

また、夫のアドニラムはその後も忠実にビルマの地で仕え続け、彼の働きを通して何千というビルマの魂がキリストのもとに立ち返ったのです。(アドニラム・ジャドソンの生涯についても、また別の機会にご紹介できたらと思います。)

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(↑アドニラム&アン・ジャドソン宣教師のビルマ宣教200周年 記念集会の様子 ミャンマー)

ある作家は、アン・ジャドソンを評して次のように言っています。

「彼女は熱く愛する人でした。夫を愛し、子どもたちを愛し、ビルマの人々を愛し、そして何より、神を愛してやみませんでした。」

愛。そうです、愛がこのかよわい一人の女性を、勇敢なキリストの兵士としたのです。キリストの愛に駆り立てられ、彼女は何不自由ないアメリカの地を離れ、危険と困難のただ中に飛び込んでいったのです。

今日も主イエス・キリストは、そのような魂を求めておられます。第二、第三のアン・ジャドソンをキリストは今も探しておられるのです。もしかしたら、主は、あなたを招いておられるのかもしれません。あなたを通して、主は御自身のみわざをなそうと思っておられるのかもしれません。

どうか招いておられる主の御声にじっと耳をすませてください。そして全身全霊で主の召しに応答してください。

主イエスの栄光が、あなたという器を通して、この地で輝きますように。アーメン。

※アン・ジャドソンの生涯についてさらに詳しく知りたい方は
http://www.wholesomewords.org/biography/biorpannjudson.htmlをご参照ください(英語)。

牢につながれている人々を、自分も牢にいる気持ちで思いやり、また、自分も肉体を持っているのですから、苦しめられている人々を思いやりなさい。(ヘブル13:3)

2014年6月現在、イエス・キリストへの信仰ゆえに苦しい獄中生活を送っている兄弟姉妹がイラン各地にいます。以下、所在が分かっている兄弟姉妹の名前を挙げます。どうか彼らのことを祈りに覚えてください。また、精神的にも経済的にも大変な状況にある、この方々の家族のためにもお祈りください。

① ファルシード・ファトヒー(男)-家の教会ネットワークの指導者。2010年よりエヴィン刑務所。刑期6年。2014年4月17日、看守たちからの暴行により足を骨折するもそのまま放置されています。

② マリアム・ナガシュ・ザルガラン(女)―家の教会メンバー。2013年7月15日よりエヴィン刑務所。刑期4年。心臓に疾患があります。どうか心身共に、彼女が癒され、守られますようお祈りください。

③ ラスール・アブドラヒー(男)-家の教会リーダー。2013年12月よりエヴィン刑務所。刑期3年。

④ サイード・アベディニー(男)-クリスチャン孤児院の創設者。2012年9月逮捕。現在、ゴハルダシュト刑務所。刑期8年。

⑤ モジュタバ・セイェド・アラエディン・ホセイン(男)-家の教会メンバー。2012年2月よりシラーズ市のアベル・アバッド刑務所。刑期44カ月。

⑥ ホマユン・ショクヒー(男)-家の教会メンバー。刑務所・刑期は⑤と同じ。

⑦ ヴァヒッド・ホッカニー(男)-家の教会メンバー。刑務所・刑期は⑤と同じ。

⑧ エブラヒーム・フィルズィー(男)-家の教会メンバー。2013年8月よりエヴィン刑務所。刑期1年+1年の捕囚刑。

⑨ アリレザー・セイイェディアン(男)-家の教会メンバー。2012年3月よりエヴィン刑務所。刑期6年。

⑩ ベフナム・イラニー(男)-家の教会指導者。2011年5月より、キャラージ市ゲザール・ヘサール刑務所。刑期6年。

⑪ ホセイン・サーケティー・アラムサリー(男)-2013年7月よりゲザール・ヘサール刑務所。刑期1年。

⑫ シャヒーン・ラフーティー(男)-家の教会メンバー。2012年10月シラーズ市で逮捕。2013年12月に釈放されるも、2014年4月再び拘束。

⑬ シラーズ市「チャーチ・オブ・イラン」グループ
-2012年10月、8名が一斉検挙。
モハンマド・ロガンギール(男)-刑期6年
マスード・レザーイー(男)―刑期5年。
メフディー・アメルニー(男)-刑期3年。
ビジャン・ハギギ(男)-刑期3年。
ソルーシュ・サライー(男)-刑期2年半。
エスキャンダール・レザーイー(男)-刑期1年。

● 審理前拘留されている兄弟姉妹

① スィラース・ラッバニー(男)-キャラージ市チャーチ・オブ・イランのメンバー。2014年5月5日逮捕。

② エフサン・サーデギー(男)
ナジ・アザディー(女)
マリアム・アザディー(女)
ヴァヒッド・サフィー(男)
アミン・マズルーミー(男)
(この5人の兄弟姉妹は、2014年4月18日、イースター礼拝中に、南テヘラン地方で逮捕されました。)

③ モハンマド・バフラミー(男)-2014年4月7日、アフワーズ市で逮捕。その後の消息はつかめていません。

④ アミン・ハーキー(男)
ホセイン・バルンザデ(男)
ラフマン・バフマン(男)
(この3人の兄弟は、キャラージ市ベフナム・クリスチャン・フェローシップのメンバーです。2014年5月5日に逮捕されました。)

⑤ 名前は分かっていませんが、二人のクリスチャンの男性。
(2014年2月10日、テヘラン空港にて逮捕。若い男性と、その伯父とみられています。)

⑥ サラ・ラヒミー・ネジャード(女)
モスタファ・ナドゥリー(男)
マジッド・シェイダイ(男)
ジョージ・イサヤン(男)
(この4人の兄弟姉妹は、2013年12月31日、キャラージ市にて逮捕され、その後、行方が分かっていません。)

⑦ マスタネ・ラステガーリー(女)
フェゲ・ナスロラヒー(女)
ホセイン(男)
アミール・ホセイン・ネマトラヒー(男)
アフマッド・バーズヤール(男)
(この5人の兄弟姉妹は、2013年のクリスマスの日に、東テヘラン地区で逮捕されました。)

⑧ キアヴァーシュ・ソトゥデ(男)
ジャムシード・ジャーバリー(男)
(この2人の兄弟は、クリスチャン・ブログを作成していたことが原因で、2013年12月ケルマン市で逮捕されました。罪状は、「預言者に対する冒涜」。)

⑨ カムヤール・バルゼガール(男)
サハール・バルゼガール(女)
アミール・エブラヒミー(男)
(2013年8月29日、テヘランにて逮捕。カムヤール兄弟とサハール姉妹は、夫婦です。
アミール兄弟は彼らの牧師。)

⑩ パルハム・ファラーズマンド(男)
サラ・サルドスィリアン(女)
セディゲ・キアニ(女)
モナ・ファズリー(女)
(この4人の兄弟姉妹は、2013年8月9日、西テヘラン地区で逮捕。)

⑪ マフナーズ・ラフィエ(女)
モハンマドレザー・ペイマニー(男)
セディゲ・アミールハニー(女)
(この3人の兄弟姉妹は、2013年8月2日、イスファハン市で逮捕。)

⑫ ナスィーム・ザンジャ二ー(女)-2013年7月12日、テヘランにて逮捕。

⑬ モハンマドレザー・ピーリー(男)
ヤシャール・ファルズィン・ノウ(男)
ファルシード・モダレス・アヴァイー(男)
ハミッド・レザー(男)
(2013年7月、タブリーズ市で逮捕。尋問中、この4人の兄弟たちに、ひどい暴行が加えられたことが確認されています。)

⑭ モハンマッドレザー・ファリード(男)
サイード・サフィー(男)
ハミッドレザー・ガーディリ-(男)
(2013年5月29日、イスファハン市にて逮捕。この3人はアフガニスタンの方々で
クリスチャン・ウェブサイトを開設していました。)

⑮ シャフルザド・Y(女)
サム・S(男)
(2013年1月9日、テヘランの自宅にて逮捕。)

⑯ メフディー・チャガカブディー(男)
モジュタバ・ババ・キャラミー(男)
(2012年2月21日 逮捕。)

⑰ サハール・ムサヴィー(女)
この姉妹は、アザード大学にて、キリスト者としての活動をしていました。2011年10月19日、逮捕。現在も、拘留されていると思われます。

☆☆
以上、確認のとれている兄弟姉妹の名前と所在を書き出しました。しかし、実際には、さらに多くの兄弟姉妹が、獄中に入れられていると思われます。

「誰かが、自分のためにとりなし祈ってくれているという、これほど大きな励ましはありません。」と獄中にいるある兄弟は語っています。

自分は一人じゃない。海を越えた日本からも、祈りが捧げられているんだ――と。

このようにして、私たちは、鉄格子の向こうにいる兄弟姉妹に寄り添うことができます。

願わくば、日本の各地で、とりなしの祈りの輪がひろがっていきますように。

何か彼らに励ましのメッセージがありましたら、匿名で結構ですので、コメントをお残しください。何らかの形で、彼らに日本からの応援メッセージを伝えることができるかもしれません。

アーメン。


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真実一途

私が繰り返し読んでいる本の一つが、三谷隆正著『幸福論』(岩波文庫)です。

三谷隆正(みたに たかまさ 1889年2月6日 - 1944年2月17日)は、一高を卒業後、東京帝大に学びますが、在学中、内村鑑三に師事します。

三谷隆正


大学卒業後は、同級生が、政界・財界に進んでいく中で、一人、黙々と高校教師の道を選び、(数度にわたる帝国大学教授就任の誘いを断りつづけ)、高校教師を生涯のライフワークとされました。

1924年には長女が生まれますが、その喜びもつかの間、赤ん坊も妻も病で失ってしまいます。『三谷隆正全集』の第2巻に、「家庭団欒」という小エッセーがありますが、淡々とした文章の中に、妻と娘への追憶が語られており、涙なしには読めません。

「私の一生の大野心(アンビション)は、自己に死ぬことである。而して他者裡に甦ることである。それ以外の野心を持ちたくないものと思ふ。」

との言葉通り、三谷隆正は、病と闘いながら、神のため、他者のために真実一途な人生を送りました。

彼の高潔な人格は、作品ひとつひとつから伝わってきます。西洋哲学への造詣が深く、ギリシア哲学、カント哲学に関する言及も多いですが、彼の思想の底流を流れているのは、なんといってもキリスト教の信仰です。

全集1巻におさめられている「信仰の論理」「問題の所在」は、生き方を真剣に模索している大学生・大学院生の方々にぜひ読んでいただきたい作品です。

三谷の遺稿ともなり、死後、発行された『幸福論』はこのような言葉で終わっています。その一部を抜粋いたします。

「だが友よ、君が真実やりたいと思うことは何であるか。

君がいのちに懸けても欲しいと思うものは何か。

、、だからわれらは真実生きがいのある人生に想いを定めて、一路ただ真実なる一生を眼がけ励めばよい。

しかる時、われら真実の人生を握らずに終わるということはない。

そうしてもし人生の真を握り得ば、かくてついに真実に生くるを得ば、他の何を失おうと何の悔いがあろうか。

貧何かあらん。
病なにかあらん。
血肉の悲劇また何かあらん。

人生の真をひたに求め続けてついに得ずということはあり得ない。

既にこれを得ば、他はすべてむなしきもの、求むるに値せざるものである。

若き日は若き日の夢を持つ。真面目であればあるほど美しい夢を持つ。

しかし、それは要するに無知な人間の浅はかな夢想でしかない。

人生の実相はもっと苛辣である。

(、、孟子の言葉を引いて)天は若き日の夢を紛砕することによってその人の身魂を練るのだというのである。

この意味においては、真摯なる生活者の一生は失意失敗の連続であることが珍しくない。

この意味においては、人の一生は到底その人みずからのつくる所ではない。

多くはその人みずからの造ろうとした所と逆な一生である。

にもかかわらず、真摯なる生活者の真実なる一生は、その人みずからの願いしより以上に、一層深刻にその人の願いの通りの一生にまで完成する。

、、、人の企画は浅薄幼稚である。その幼稚なる企画が実行されずして、神の博大高邁なる深謀遠慮が実行されるということは、何という幸福であろうか。」


まだまだ引用したい箇所は山ほどあるのですが、この辺で終わらせていただきます。

「日本のカール・ヒルティ」とも称される三谷隆正。彼の真摯な生涯とそこから生み出された一つ一つの言葉は、これからも多くの人々の魂に語りつづけることでしょう。



クリスチャンと「愛国心」


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愛国心とはなんでしょうか。

「国」を愛するとはどういうことでしょうか。

わたしたちクリスチャンは、愛国心をもつべきなのでしょうか。

それとも、もつべきではないのでしょうか。

☆☆

その1

ギリシアの愛国党台頭

ここギリシアでは経済危機が深刻化するとともに、「黄金の夜明け」という、極右愛国党の活動が目立ってきました。

昨年、バスに乗っていたら、ちょうど、「黄金の夜明け」の街頭パレードに遭遇しました。

黒いTシャツに、短く頭を刈り込んだ若者たちが、ナチスの鉤十字に似た党旗を振り、「血、名誉、黄金の夜明け!」を連呼していました。戦前のナチス台頭を思わせる不気味な光景でした。

また、この愛国党は、移民排斥を強く主張しており、私たちの教会の難民の兄弟たちの多くも殴る・蹴るの暴行を受けました。特に、行き場のないホームレスの難民たちは彼らの攻撃の的となっています。

そして、とても残念なことに、彼ら党員は、「(正教徒)クリスチャン」なのです。――ちょうど、ナチス党員が「ルター派クリスチャン」や「カトリック教徒」であったと同じように。

そして、襲われている難民の中にも実際、イエスさまを救い主として信じているクリスチャンが多くいるのです。

つまり、彼ら党員の中で、《愛国心の原理》は、《クリスチャンとしての同胞愛》に優先しており、この原理の前に、「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合うこと、これがわたしの戒めです(ヨハネ15:12)」というイエスさまの御言葉は踏みにじられているのです。

葛藤と探究

私はこの「クリスチャンと愛国心」という問題について、長い間いろいろと悩み、考えてきました。

ある時期は、解決の手掛かりを得ようと、アメリカの聖書信仰のクリスチャンの著作や講義を熱心にききました。その中で私は多くのことを学びました。彼らの聖書に対する敬虔な姿勢に心を打たれました。

しかし、こと「愛国心」に関する彼らの言論には何かしら疑問を感じてしまいました。

この方々はまず「アメリカ=クリスチャン・ネーション=神に愛されている国」という前提をもとに、さまざまな教え(愛国心、正義の戦争など)を打ちたてているようでした。

ということは、もともと「クリスチャン・ネーション」ではない日本に生まれ育った私のような者には、彼らの教えを自分のコンテクストにあてはめ、それを適用していく資格はないということになります。

でも、聖書の教えには普遍性がともなうはずです。真理そのものが普遍的なものだからです。

だから、もしある教えがある一国だけに通用し、他の国に住むクリスチャンには適用不可能なもの(局地的なもの)であるなら、はたしてその教えは聖書的なものなのでしょうか。そこに真理はあるのでしょうか。

また、あるクリスチャンの人々によれば、私は「日本人」なので日本に対する愛国心を持つべきだということでした。そして「神さまは日本を愛しているのだ」と。

たしかに神さまが日本に住んでいる人々を愛しており、それぞれの国に住んでいる人々を愛しておられることは分かります。

でも、「神さまは《日本》を愛している」あるいは「God loves America」、、などの言葉をきくと、「うーん、、、」と違和感を感じてしまう自分がいました。

神さまは人を愛している
神さまは生き物や木々、花々を愛している、、

これはよく分かります。でも、たとえば、「神さまは冷蔵庫を愛しています。」「神さまは○○会社を愛しています。」――とはいえません。人格を持った神さまは、人格をもった人間や、被造物を愛しておられるのであって、〈モノ〉や〈組織〉は、神さまの《愛する》対象ではないからです。

では〈国家〉はどうでしょう?神さまは、国(ないしは近代国家)という政治体を《愛して》おられるのでしょうか。

「わたしの国はこの世のものではありません(ヨハネ18:36)」と仰せられたイエスさまは、ご自身の教会の庭に打ち付けられた星条旗や、ギリシア国旗などをみて、どう感じておられるのでしょうか。

水草修治先生という牧師先生が、「愛国心という歴史現象」というすぐれたブログ記事を書いておられます。これを読むと、愛国心というもの自体、きわめて近代的な現象であることが分かります。(水草先生の記事を読みたい方は愛国心という歴史現象をクリックしてください。)

また、レオナルド・ヴェルドゥインは、 The Anatomy of a Hybrid, A Study in Church-State Relationships(=《交配種》の解剖―教会と国家の関係についての考察)という著書の中で、コンスタンティヌス帝以降、いかにして教会と国家が婚姻関係を結び、その結果、おそろしく不気味な《交配種》が生み出され、今日に至っているのかということを明快に論じています。とても読み応えのある本です。

The Anatomy of a Hybrid

その2

愛国心の実態

(その1)で書いギリシア愛国党(「黄金の夜明け」)に話が戻りますが、彼ら党員は、貧しさにあえぐギリシアの民衆に無料で食糧を配給したり、一人暮らしの高齢者を助けるなど慈善活動もしています。

しかし、その対象はあくまで「ギリシア人に限る」となっています。

つまり、お腹をすかせた二人のホームレスが同時に手を差しのばしても、配給にありつけるのは、「ギリシア人」のホームレスだけであって、相棒のアルバニア人は「外国人」という理由で拒否されるのです。

ここに、「愛国心」という思想のもたらす典型的帰結をみることができないでしょうか。

「いや、私たちは《健全な》愛国心を持つことはできるし、持つべきだ。いったい自分の国を愛せない人に、どうやって他の国の人々を愛することができよう?」といって反論されるクリスチャンの方がいるかもしれません。

これは私がかつて自身に問うていた質問でもありました。でも聖書のどこをみても、「まず自分の《国》を愛しなさい」というような教えはありません。

にもかかわらず、上のような問いが一見、もっともらしく聞こえるのは、私たちが、「まず自分自身を愛しなさい」という今流行りのメッセージに慣れっこになってしまっているからかもしれません。でも、よくよく考えると、こういった教えには聖書的根拠がないのです。

「でも、内村鑑三はどうなんですか。彼は『二つのJ(Jesus and Japan)』と言って、愛国精神を説いていたではありませんか」という問いもでてきそうです。

たしかに内村の著作の中には、祖国日本を強く意識した作品も多くみられます。でも、ここで注意しなければならないのが、当時、彼がどのような状況に置かれていたかということです。

あの時代、彼は国粋主義者たちから「非国民」呼ばわりされ、糾弾されていました。「クリスチャンというのは非国民なんだ」という責めを受けていたのです。

だから、そういった中傷・誤解に対し(また西洋的なキリスト教との相克もあり)、内村は弁明的な意味合いを込め、あえて「日本」を強く打ち出すことによって、クリスチャンが社会に有害な非国民などではないことを世論に訴えようとしたのではないかと私は思います。

そういった意味で、内村の「愛国」を文脈を無視して引用しはじめると、大変なことになります。

実際、内村門下のグループの中には、その路線でどんどん推し進めていった結果、しまいには、内村にあれほど迫害を加えた当の国粋主義者たちとそっくりの思想を持つに至る人々もでてきました。なんという皮肉でしょうか。

「愛国心」と「クリスチャン精神」を両立させようとする試みがことごとく失敗に終わってきたのは歴史の証明するところでもあります。

Jonathan Mayhew等、愛国精神に燃えたアメリカ植民地の牧師たちは、講壇から好戦的なメッセージを説き、米国独立戦争に火をつけるのにかなりの影響力がありました。

こういった人々の説教録を読むと、アメリカ合衆国への彼らの《愛国心》は他のすべてに優先しており、聖書のことばも、この愛国精神に矛盾しない限りにおいて、それを受け入れ、そうじゃない場合は、みことばは曲解されるか、切り捨てられるかしています。(例えばローマ13章)。

一般に、教会の講壇から「愛国」がさかんに説かれるようになった暁には、戦争がもうすぐそこまで来ている(もしくはその教会がすでに政府の御用機関になりさがってしまった)とみていいと思います。

私たちが「二人の主人に仕えることができない」というのは、この場合においても、まことにしかりだと思います。

神の国への情熱

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イエス様は、神の福音を宣べて言われました。「時が満ち、神の国は近くなった(マルコ1:15)」。

私たちの国籍は天にあり(ピリピ3:20)、私たちは信じて神の民とされました(1ペテロ2:10参照)。またイエスは「神の国とその義とをまず第一に求めなさい(マタイ6:33)」とおっしゃっています。

福音書を素直な心で読む人はだれでも、イエスの言っておられる「神の国」というのが、たんなる抽象概念ではなく、実に生き生きとした「今、ここにある」現実だということに気づくと思います。

そうです。イエスがおっしゃったように、神の国は、わたしたちの「ただ中にある」のです(ルカ17:21参照)」。

また、この国は、からし種のようなもので、畑に蒔くと、どんな種よりも小さい。でも、生長すると、どの野采よりも大きくなり、空の鳥が来て、その枝に巣を作るほどの木になる(マタイ13:31-32参照)とイエスは言っておられます。

そして《この国》には、もはや政権交代もなく、不正・汚職もなく、憲法改正の心配もなく、その力と栄えはとこしえに続き(マタイ6:13参照)、移り変わりがないのです。

なぜなら、神の国の王であるイエスは、「きのうもきょうも、いつまでも、同じ」だからです(ヘブル13:8)。

このことを黙想するとき、私の心は燃え上がります。

これまで、福音右派、リベラル左派、、その他、何々派という名のつくいろんなところを、右往左往してきました。それぞれの「派」の中によい点、学ぶべき点を発見しつつも、私のたましいは、そのどこにも波止場をみいだすことができずにいました。

国家に対して、それぞれの「派」のとっている立場にかんしても、私は自分の心が本当に納得するような、そんな考え方を長い間、みいだすことができずにいました。

でも、この《神の国》のリアリティーに霊の目が開かれた時、私ははじめて心から「そうだ!」と応答することができたのです。

そして自分に残された時間とエネルギーを余すところなく、《この国》とその王イエス・キリストのために注ぎ出したいという情熱に駆りたてられました。内側から喜びが湧いてきました。

人は誰でも、何か(誰か)に「属したい」そしてそこに「尽くしたい」「自らの魂を注ぎ込みたい」という願いがあるように思います。

そしてその願いは私たちが考えている以上に強く、切実なものだと思います。それゆえに、歴代の為政者は、巧みな操作によって、人々の「愛国心」を煽り、「属したい」「尽くしたい」という人々の純な願いを自らの利益(国益)のために利用してきたといえます。

でも「私たちは、この地上に永遠の都を持っているのではなく、むしろ後に来ようとしている都を求めているのです(ヘブル13:16)。」

そして、私たちは、私たちの真の祖国である神の国のために、そして麗しい王イエスのために、惜しみなく愛を注ぎつくすことができるのです。

御国が来ますように。
アーメン。

ここまで読んでくださって、ありがとうございました。

追伸)現在、日本でも全体的に右傾化が進んでいるということをきいています。教育現場で働いている友人をはじめ、多くの兄弟姉妹がこのただ中にあって、懸命に主に従おうとしています。

それぞれ置かれた場所で善戦していらっしゃる兄弟姉妹お一人お一人の上に、主の御助けがありますように切にお祈りします。

また、私たちクリスチャンが、手に手を取り、お互いに励まし合い、祈りつつ、この道程を歩んでいくことができますよう、お祈りします。イエス・キリストの御名によって。アーメン。

ボンヘェファー『キリストに従う』を読んで

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人生は冒険だといわれます。

しかし、人がおよそこの世で経験しえる冒険の中で、キリストに従っていく道ほど冒険に満ちたものはないと思います。

キリストに従っていく道ほど、細く険しい道はなく、またこれほどエキサイティングで楽しい道もないと思います。

私は、二泊三日の修学旅行中でさえ、ホームシックでしくしく泣き出すような弱虫でしたが、キリストと共に人生を歩み出し、気がついてみると、地球の裏側にまで来ていました。

十数年前、信じて間もない頃でしたが、東京の書店で、ボンヘェファーの『キリストに従う』をはじめて手にし、読み始めた時の感動を今でも覚えています。

当時の私は、「キリストに従いたいけど、今まで大切にしてきたもの・固執してきたものもできれば離したくない」という優柔不断な状態にありました。できれば、みんなが認めてくれるような広い道を進んでいきたいとも思っていました。

でも、この本は、私に、「真に神の前に《一人》立つこと」「神の前に個人となること」を教えてくれました。

ボンヘェファーはこう記しています。

服従へのイエスの招きは、弟子を個人にする。

弟子が望もうと望むまいと、彼は決断しなければならない。しかもその決断は一人でしなければならない。

、、(でも)この一人であるということを恐れるあまり、人間は、自分の回りにある人間や事物に保護を求める。

彼はにわかに自分が負わされている責任を洗いざらい持ち出してきて、それにしがみついて離れまいとする。

それに援護を求めた上で、彼は自分の決断を下そうとするが、一人だけでイエスに向かいあって立とうとはしないし、
ただイエスだけを見つめて決断しなければならないことを望まない。

しかし、こういう時に、父も母も、妻も子も、民族も歴史も、その招きを受けている者に保護を与えることはないのである。


さらにボンヘェファーは、キリストが私たち招かれた者から、それまでの関係に対する直接性をすべて取ってしまわれたといいます。

つまり、神と人間、人間と人間、人間と現実――それらすべての間に存在する《関係》の中にあって、キリストのみが仲保者でありたもうのだと。

そして、今まで、「直接的な関係」だと思っていたものは、実は錯覚にすぎなかったのだと彼は言っているのです。

われわれにとっては、キリストを越え、その言葉を越えて行く道、そしてわれわれの服従以外に、他者に至る道はない。直接性は欺瞞である。
     (『キリストに従う』服従と個人、p87‐88)

なんという厳しさでしょう。そして同時に、なんと真実に満ちた言葉でしょう。

☆☆
数年前に、北アフリカの砂漠の民に仕えている一人の勇敢な女性宣教師の家を訪問する機会がありました。

喧騒とした通りから一歩、彼女の部屋に入ると、そこには静けさと聖さがただよっていました。落ち着きある静寂さがどこからも感じられる、そんな空間でした。

古びた木製のデスクの脇には、中型の本棚があり、本が整然と折り目正しく並んでいました。

その時、私は大きなアラビア語聖書の横に、例の『キリストに従う』を見つけたのです。

あの砂漠地帯で、今日も彼女は一人聖書を読み、祈り、そしてキリストとの麗しい交わりの中に憩っていることでしょう。

彼女もボンヘェファーと同様、キリストに従う道、神の前に《一人》立つ道を選びとったのです。

しかし、この道は孤独な道なのでしょうか?

私たちは他の人々ともはや親しい関係を持つことができないのでしょうか?

それに対し、ボンヘェファーは「否」と言っています。逆に、この道をくぐり抜けた人こそ、他者にいたる真の道を見い出すのだと彼は力説しているのです。

われわれをほかの人間から隔てている裂け目、克服しがたい距離、他者性、ほかの人間の無縁性を、自然的あるいは精神的な結合によって克服しようとする試みは、すべて挫折するに違いない。

人間から人間に至る固有の道は通じていない。

最大の愛をこめた感情移入も、考察しぬかれた心理学も、もっとも自然な開放性も、ほかの人間に肉迫することはない。

、、キリストはその間に立ちたもう。キリストを通してのみ、隣り人に至る道がある。
p90」

われわれをそれぞれ個人にしたもう方と同じその仲保者は、しかしまたそれと共に、全く新しい交わりの基礎でもありたもう。

彼は、ほかの人間とわたしとの間の真ん中に立ちたもう。かれは分離したまうが、また一つにもしたまう。したがって、他者に至る直接的な道はすべて断ち切られているけれども、服従する者には、他者に至る新しい・ただ一つ真実の道が、今や仲保者を越えて示されるのである。
p93」

そして「人はそれぞれ一人で服従へと足を踏み入れるが、誰も服従の中で一人のままでいることはない(p94)」と彼は断言しています。

最初にこの箇所を読んだ時、私は「本当にそうなのかなあ。そうだったらいいけど、、」と心もとない気持ちでした。

でも、それが本当だったということを私は自分や周りのクリスチャンの歩みから今、証しすることができます。

キリストの前で《一人》立つことをあえて選びとった人はその旅路の中で、かならず同伴者を見い出すのです。

そして狭い道を、手に手を取り、お互いに励まし合い、いたわり合いながら歩んでいくことができるのです。

アーメン。

私たちがこの世に贈ることのできるもの

聖書によれば、私たち人間はみな移ろう草のようで、「朝は、花を咲かせているが、また移ろい、夕べには、しおれて枯れる(詩篇90:6)」ようなはかない存在です。

しかしその一方で、神は私たちのことを「神の作品」「キリストの手紙」だともいっておられます。

そして作品や手紙というものは、それを観る人や読む人に何らかのメッセージを伝えるものです。

「できることなら、私の人生を通して、少しでも主の栄光があらわされてほしい、そしてどんなに小さなことでもいいから主のために何か成し遂げたい」 それが私たちみなに共通する願いであり、祈りだと思います。

今日は、そういう意味で、私に励ましと希望を与えてくれた先人クリスチャンたちの
言葉をいくつかご紹介したいと思います。

まずは、エミー・カーマイケル(1867年 - 1951年)の詩です。エミーは、神殿娼婦としてヒンドゥー寺院に売られていた少女たちを救出するために奔走し、インドの地で53年、無私の奉仕を続けた宣教師です。

わたしを透きとおる空気にしてください。
どんな色をも通して、
歪めることのない空気にしてください。
あってないわたしという空気を通して、
神の愛の美しさが輝きますように。

神の愛の力強い栄光、
神の御心の深い憐れみ、
絶えることのない愛の光が
この世に射しこみ、
このあなたの世界に満ち溢れますように。


次は、赤毛のアン(モンゴメリ作)の言葉です。アンが友だちと今後の人生の
抱負について語っている場面からの抜粋です。

「あたしは人生の美しさを増したいと思うの」とアンは夢みるようにいった、、、

「人間の知識をもっと深めたいというのとは少しちがうわね、、、
でも、あたしは、自分がこの世に生きているために、ほかの人たちが、いっそうたのしく、暮らせるというようにしたいの、、、どんなに小さい喜びでも幸福な思いでも、もしあたしがなかったら味わえなかった
ろうというものを世の中に贈りたいの。


、、、そのとおり、アンは生まれながらに光の子であった。

だれの生活の中へでもアンはかならず、ほほえみと愛の一言を、日光のようにさしこませる。それを受けた人は、たとえその当座だけでも、人生を希望にみちた、美しい、善意にあふれたものだと思うことができた。
   (『アンの青春』(新潮文庫)p77‐78)

そして最後に、内村鑑三のことばをご紹介します。

内村は、『後世への最大遺物』という講演録の中で、私たちクリスチャンが後世に何を残すことができるのかについてメッセージしています。

(キリスト教の事業のために)これだけのお金を溜めた、これだけの事業をなした、自分の思想を論文に書いて遺した、、、そういうのも結構、「しかしそれよりもいっそう良いのは」と内村は続けます。

後世のために、私は弱いものを助けてやった、
後世のために、私はこれだけの艱難に打ち勝ったみた、
後世のために、私はこれだけの品性を修練してみた、
後世のために、私はこれだけの義侠心を実行してみた、
後世のために、私はこれだけの情実に勝ってみた


たとい人生の中で大きなハードルがあったとしても、いや、それだからこそなおいっそう、人がそういった困難に打ち勝って
いこうとする姿勢とそこから生み出された実は、価値があるのだ。

そういった「勇ましい生涯」――それこそが後世に残すことのできる最大の遺産である、と内村は語っています。

主よ、願わくば私たちの人生を通して、あなたの栄光が輝きますように。

どんなに小さくてもいい、私たちの笑顔を通し、言葉を通し、行ないを通して、周りの人々があなたの愛にふれることができますように。

私たちを生ける「キリストの手紙」としてお用いください。アーメン。

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人がその友のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな愛はだれも持っていません。(ヨハネの福音書15:13)

はじめに

現在、イラン国内外で、驚くべきことが起こっています。激しい迫害にもかかわらず、イエスを救い主として信じる人が日々起こされているのです。人々の心は今までになく福音に対して開かれており、教会の戸をたたく求道者が後を絶ちません。
いったい今、何が起こっているのでしょうか。

☆☆☆
1945年の冬、テヘランの一家庭に一人の男の子が産まれました。

――ハイク・ホヴセピアン・メフル(Haik Hovsepian Mehr)。やがてこの子は成長し、現代イラン・キリスト教会の中で大きな役割をはたしていくことになります。ルターなしに16世紀のドイツ信仰復興を語ることができないように、ハイク・ホヴセピアンの信仰と犠牲なしに、現在イラン国内外で起こっている霊的覚醒運動を語ることはできないでしょう。

ハイク牧師


さあ、まずは彼の生い立ちからみていくことにしましょう。

生い立ちと回心

ハイク・ホヴセピアンは1945年1月、テヘランのアルメニア人家庭に生を受けました。

(アルメニアは301年にアルケサス朝のティリダス3世がキリスト教に改宗し、世界で初めて、キリスト教を国教としました。しかし428年、アルケサス朝アルメニアはペルシャの支配下に入ります。こういう歴史的事情があって昔からイラン(ペルシャ)にはキリスト教徒であるアルメニア人が存在していたのです。)

しかしハイクが本当にイエス・キリストを個人的な救い主として心に受け入れたのは、彼が15歳の時でした。そして彼はキリストにある新生を体験します。

二年後には、はやくも彼はテヘラン郊外にあるマジディエで教会を牧し始めました。その後、徴兵に就き、カスピ海近くの町ゴルガンに駐屯したのですが、そこでも家の教会を始めました。

結婚そしてゴルガン伝道への召し

1966年、ハイクはタクーシュ・ギナゴスィアンと結婚します。その当時、彼はマジディエで牧会していたのですが、神が自分をゴルガン――二、三のアルメニア人家庭を除き、住民のほとんどがイスラム教徒である未伝道地域――での開拓伝道に召しておられることを確信し、翌67年、タクーシュと共にゴルガンへ移り住みました。

会堂を借りることは至難の業でしたが(キリスト教の礼拝堂として使われるということを聞くと、貸し手は契約を拒んだからです)、神の助けにより、会堂もその費用も備えられました。

また、その頃、二人の間には愛らしい男児も生まれました。ハイクは牧会のかたわら、聖書の学び、教会音楽、そして英語の勉強にいそしみました。

ハイク牧師の若い時代


悲劇

そんな一家をある日とつぜん悲劇が襲います。1969年のある晩のことでした。

ハイク一家とアメリカ人宣教師の一家は、テヘランからゴルガンまで車で移動していたのですが、そこで大きな自動車事故に遭遇したのです。大人は九死に一生を得ましたが、中に乗っていた子どもたち(ハイクの6カ月になる息子および宣教師の子どもたち3人)は全員、死んでしまったのでした。

ハイクとタクーシュ自身も足に大けがを負い、「今後、歩行は不可能」と言われていました。しかし数カ月後、神は再び二人を立たせてくださいました。息子を失った痛みと悲しみを乗り越え、こうして二人は再び伝道地ゴルガンに戻っていったのです。

牧会中、ハイクは度重なる脅迫にあいます。――特に、ゴルガン地方に拠点を置いていたイスラム原理主義グループ「タブリガーテ・イスラミー」により、集会が妨害されたり、窓から石を投げ込まれたり、元イスラム教徒の改宗者に対する嫌がらせがあったりしました――。

もう一つ別の原理主義グループは教会堂を焼き討ちにしようとしました。(その時は政府の介入があり犯行は未然に防がれました)。しかしそんな中にあっても二人はひるまずその地にとどまり、14年もの間、誠実に人々に仕え続けました。

イスラム革命勃発

1979年、イラン・イスラム革命が勃発します。

この革命以後、外国人宣教師は国外追放を受けました。もっとも革命の初期、教会にはこれといった大きな変化はなく、アルメニア系やアッシリア系のクリスチャンには信教の自由も与えられていました。しかし、そういったクリスチャンがモスレムに福音を伝え始めた時、大きな問題が生じてきたのです。

こういった過渡期(1981年)に、ハイクはイランにおけるアッセンブリー・オブ・ゴッドの総監督に選任され、家族と共にテヘランに移ってきたのです。当時、七つの(ペルシャ語)教会が彼の監督下にありました。

さらに5年後の1986年には、イランにおけるプロテスタント教会が合同し、ハイクはプロテスタント協議会の会長になりました。

忍び寄る迫害の波

革命が進行するにつれ、政府は教会に対して牙をむき始めました。ハイク牧師およびアッセンブリー教団は以下のような条件をのむよう命じられました。

1) 教会の礼拝は、イランの公用語であるペルシャ語で行なってはならない。

2) 教会員には会員証が発行されなければならず、また出席する際には会員証を提示しなければならない。

3) 教会員の名簿(住所も明記のこと)を当局に提出すること。

4) 集会は日曜日に限る。公的な礼拝日である金曜日に行なってはならない。

5) 日曜礼拝に参加できるのは教会員に限る。

6) 新参者は、情報・イスラム指導省に通知がいって後はじめて、教会員として認められ、また集会に参加することが許される。


「私どもの教会は、来る者拒まず、です。教会は誰にでも開かれているのです。」と、ハイクはこれに署名することを断固として拒否しました。

ハイクのこういった姿勢は、戦時中、神社参拝に屈しなかった朱基徹(チュ・キチョル)牧師をはじめとする朝鮮半島のキリスト者や、(日本の)ホ―リネス教会牧師たちの勇断およびその苦難の歴史を思い出させます。

説教しているハイク牧師

さて、その後、ハイクに何が起こったのでしょうか。


その2

1970年以降のイラン・キリスト教会《迫害略史》

ここで、70年代以降のイラン国内における迫害の歴史をかんたんに振り返ってみたいと思います。

まず70年後半から80年代にかけてですが、迫害の矛先は主として英国国教会に向けられていました。

79年にはシラーズ市の英国国教会牧師アラストゥ・サイヤ氏(イスラム教からの改宗者)が、求道者を装った二人の青年に喉をかき切られ死亡しました。

80年には、エスファハン市の英国国教会監督の息子(バフラム・デフガニー・タフティー)が射殺されました。(父親であるハッサン監督も、自宅の寝室で休んでいるところを急襲・発砲されましたが、奇跡的に助かりました。

隣で休んでいた奥さんのマーガレットさんは愛する夫を銃撃から守ろうと、自ら夫の上におおいかぶさりました。銃弾の一発はマーガレットさんの手を貫通しましたが、二人は九死に一生を得ました。)

一方、90年代に入ると、クリスチャンに対する迫害はアッセンブリー教団をはじめとするプロテスタント諸派に向けられるようになります。90年12月、マシュハド市のホセイン・スゥードマンド牧師は背教罪のかどで処刑されました。

94年、テヘラン市にある聖ヨハネ・アルメニア人福音教会の主任牧師(プロテスタント協議会の会長でもあった)タテオス・ミカエリアン氏が行方不明になった末、同年6月29日に遺体となって発見されました。

96年には、サリ市のアッセンブリー教会(地下教会)モハンマド・ヨセフィー牧師も行方が分からなくなり、同年9月28日、サリ市に近い公園の中で遺体が発見されました。

友を救うために――ハイク、立ち上がる

こういう緊迫した空気が漂う中、1993年、ハイクの元に「投獄中のメフディー・ディバージ兄に死刑判決」の知らせが届きます。

イスラム教からの改宗者であったメフディー兄は、83年に逮捕され、それ以来10年にわたってサリ市内の刑務所に投獄されていました。

獄中で、メフディーは、繰り返し、拷問を受け、2年間は電灯のない真っ暗な独房に入れられていました。そしてついに1993年12月3日にイスラム法廷で裁判にかけられ、背教罪のかどで死刑判決が出されたのです。

メフディー牧師(十字架)
(↑メフディー・ディバージ兄弟)

メフディー兄の友であり同労者でもあったハイクは、友を救おうと立ち上がり、国際社会に向けてメッセージを発信し始めました。その結果、世界中のクリスチャンがとりなしの祈りをはじめ、また国際的な助命運動の輪がひろがっていきました。

しかしハイクの友人たちは、彼の身の安全を憂い、ハイクに警告して言いました。「今、君のやっていることは非常に危ない。君には4人子どももいる。自分のいのちを危険にさらすようなことはやめた方がいい。」

それに対して、ハイクは静かに答えました。「メフディー君のところにも4人子どもがいる。」

こうしてハイク・ホヴセピアンは身の危険を承知で、友の救出運動を続けていったのです。

メフディー牧師釈放と、それについた命の代価

国際的な祈りとハイク牧師によるキャンペーンの結果、メフディー・ディバージ兄は94年1月に釈放されました。

A Cry from Iranというドキュメンタリー記録映画をみると、釈放されたメフディー兄が、ハイク・ホブセピアンと肩を寄せ合い、食卓を囲んで、再会を喜んでいる映像が残っています。

生きて出獄することができ、10年ぶりに子どもたちと再会できたメフディー兄の喜びはいかばかりであったでしょう!

しかし、そういった喜びの日々は長くは続きませんでした。

メフディー兄の釈放からわずか3日後、ハイク・ホブセピアンは拉致され、行方不明になります。そして1月20日、むごたらしい惨殺体となって発見されたのです。

(さらに半年後(94年6月24日)、娘の誕生会に向かおうとしていたメフディー兄も拉致され、7月5日に西テヘラン公園内で遺体となって発見されました。)

この時期についてハイクの妻タクーシュは次のように語っています。

「ショックでどうしていいのか分かりませんでした。でも、私は一人じゃなかったんです。世界中から何千通という励ましの手紙が届き、兄弟姉妹のみなさんが私たちに寄り添っていてくれたのです。」

その3

ハイク牧師の残してくれたもの

こうしてハイク牧師は無残な最期を遂げ、彼の美しい歌声をこの地上できくこともできなくなりました。

彼の人生は失敗だったのでしょうか。彼は無意味に死んでいったのでしょうか。

いいえ。彼の献身的な生涯とその信仰は、今にいたるまで永遠の実を結び続けているのです。

テルトゥリアヌスが《殉教者の血は、教会の種子である》といった通り、ハイク・ホヴセピアンの殉教後、彼の証しをきいて、多くの兄弟姉妹の信仰が燃やされたのです。そしてそれまで以上に大胆に福音を伝えるようになったのです。

ハイク牧師の家族は、その後、米国に亡命し、成長した子どもたちはさまざまな形で父の遺志を継ぎ、キリスト教会の建て上げのために献身しています。

(長男のヨセフさんが制作したドキュメンタリー記録映画の詳細についてはイラン・現代キリスト教ドキュメンタリー記録映画をクリックしてください。)

また、メフディー・ディバージ兄の息子さんの一人は、現在、すばらしい翻訳者、編集者となり、全世界に散っているイラン人亡命キリスト者の精神的指導者の一人として活躍しています。

また、賛美の賜物に恵まれていたハイク・ホヴセピアンは、多くの美しい賛美を作詞・作曲し、またアルメニア語、英語、アラビア語等の賛美歌を翻訳されました(たとえば「♪アメージング・グレイス」「♪イエス、あなたの名は」等)。

ハイクの声には太さと深さ、そして独特ののびやかさがあり、聴く者の魂をゆさぶらずにはいられません。(Youtubeでハイク牧師の賛美を聴くことができます。ハイク牧師 賛美その1ハイク牧師 賛美その2をクリックしてください。)

そして彼の偏狭でない心と純粋な愛は、「アルメニア人」という一民族の枠を越え、「アッセンブリー教団」という一教派を越え、多くの人々の人生に影響を与えました。

彼は、クリスチャンからだけでなく、イランに住むユダヤ人やカトリック教徒、そしてムスリムからも愛されていました。

こんな逸話も残されています。ゴルガンでハイクが牧会をしていた時のことですが、ある原理主義者たちが(ハイクの)教会を焼き討ちするといって脅していました。

それを聞いた地元のイスラム聖職者は、町の中央広場に立って、こう宣言しました。

「もしあんたたちが教会を焼き討ちしたいのなら、まず、この私を焼き殺してからにしなさい!」

またハイクの葬式に参列したあるカトリックの祭司は、目に涙を浮かべ、シャベルでお棺に土をかけながら言いました。「この人はね、、聖人だったよ、、そして殉教者だった。」

最後に、ハイク牧師が拉致される前日に書いた手紙(『友への手紙』。ロンドン・タイムズ紙にて紹介されています。)の抜粋を訳出します。

「主の勝利をほめたたえます。ディバージ兄弟が今日うちにやって来たのです。

今晩、わが家には50人以上の若い熱心なクリスチャンが集まっていました。ディバージ君がわが家に来ると聞きつけていたのです。

ディバージ君が家に入ってきた時、みんな声をあわせて「♪イエスの御名によって、われら勝利す」と歌い始めました。これがわれらが英雄にささげられる最高のあいさつだったのです。

(中略)、、私が今やっていることが危険きわまりないということ――、それは自分でも承知しています。

でも私は教会のため、死ぬ覚悟ができています。それにより、今後、他の兄弟姉妹がおびえることなく安心して主を礼拝できるようになるのでしたら、それが本望です。   
         ハイク・ホヴセピアン」


ハイク牧師とメフディー牧師
(↑メフディー兄とハイク牧師)
アーメン。

おわりに
――時満ちて(ガラテヤ4:4)――

7世紀にイスラーム勢力の統治下に入って以来、この国の人々の間に救いのみわざをみることは至難の業でした。

ヘンリー・マーティン以降、19世紀には英国国教会やプロテスタントのミッションも国内に入り宣教活動をはじめますが、彼らの日誌などを読むと、当時、彼らがどれだけ悪戦苦闘していたかがわかります。

そして「いつかこの国の民の間にリバイバルが起こりますように」というまだ見ぬ未来へ希望を託しつつ、彼らはこの世を去っていきました。

「どうして20世紀後半になって急に人々の心が福音に対して開かれたのだろう?」
「どうして1979年にイスラム革命が勃発したのだろう?」
「どうして今も多くの兄弟姉妹が迫害に苦しんでいるのだろう?」
――いろんな疑問があり、またそれに対するさまざまな学問的考察もなされています。

そういった問いに対し、ハイク・ホヴセピアンは、次のような所感を書いています。

「(イスラム)革命は教会にとって非常に大きな祝福となりました。

なぜなら、私たちは(革命が起こらなかったならば)決して学ぶことのできなかったような教訓を多く得ることができたからです。

敵のありとあらゆる敵意にもかかわらず、選ばれし者はイランにあえて残り、主の働きを続けています。
――迫害はむしろそれを促進したのです。

同時に、迫害が起こったことで、教会は、誰が本当の福音伝道者であり、誰がたんなる「雇われ人」なのかを識別することができるようになりました。

革命前、イランには多くのRice Christian(=物質的援助等を受けたい下心をもって信仰を表明する人々のことを指して言う)が存在していました。しかし、革命が起こってからというもの、そういう人は一人としていなくなったのです!

といいますのも、今日キリストのもとにあえて来ようとする人は、命の代価を払わなければならなかったり、もしくは少なくとも経済的な損失をこうむることを余儀なくされるからです。

それに加え、さまざまな教団・教派の教会指導者たちの間にみられる一致も、私たちが享受しているもう一つの大きな祝福といえましょう。」


聖書には、「天の下では、何事にも定まった時期があり、すべての営みには時がある」(伝道者の書3:1)とあります。

また、当時の超大国バビロンに捕われの身となっていたダニエルは天の神をほめたたえ、こう言いました。

「神は季節と時を変え、王を廃し、王を立て、、、深くて測り知れないことも、隠されていることもあらわし、暗黒にあるものを知り、ご自身に光を宿す」(ダニエル2:21‐22)。

私たちが信仰の目で歴史をみる時、そこに人知を越えた、神のご支配をみることができるのです。

そしてそれは国の歴史にとどまらず、私たち一人一人の人生という個人史の中にも見い出すことができると
思うのです。

ハイク・ホヴセピアンは、人間的な目でみれば、悲惨極まりない、悲しみに満ちた人生の現実に対し、国の現実に対し、信仰をもって「Yes!」と答える選択をしました。

そして最終的にすべてを善きものへと変えてくださる主に信頼し、信頼しつづけました。

そして、、、
 周りの同胞を励ましながら、歌いつつ、祈りつつ、人生のコースを走り抜けたのです。

最後に、ハイクの作詞した賛美歌の一節をご紹介して終わりにいたします。

「♪ああ、イエス、私の近くに来てください。
私の導き手となってください。

私のたましいをあなたの御手にゆだねます。
ああ、すばらしきわが導き主よ!

※あなたご自身に飢え渇いています。
あなたの臨在に飢え渇いています。
あなたに願い求めます
いつも共にいてください 私の導き主よ! 」


 Persian Hymnbook 86番 (私訳)

「♪悲しみと苦難のさなかにあって 喜ぼう
迫害下にあって 主をほめたたえよう

たとい試みは激しくても 
賛美と感謝、これこそ唯一、勝利の道

イエスに重荷をゆだねたのではなかったか?

それなら、なぜ君はいまだに重荷の下に 
打ちひしがれているのか?

*おお民よ、喜ぼう
主の臨在の中で 力の限り賛美しよう
キリストにあって とこしえに
キリストにあって とこしえに」
  
 ♪ei tamamie ruie zamin より私訳)


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     ☆☆☆

メフディー兄のイスラム法廷における証し

また、あなたがたは、わたしのゆえに、総督たちや王たちの前に連れて行かれます。それは、彼らと異邦人たちにあかしをするためです(マタイ10:18)。

ですから、わたしを人の前で認める者はみな、わたしも、天におられるわたしの父の前でその人を認めます。(マタイ10:32)


ここでは、1993年にイスラム法廷において行なわれたメフディー・ディバージ兄の裁判の際、メフディー兄が提出した答弁書(証し)をご紹介いたします。

mehdi dibaj
(↑メフディー・ディバージ兄)


1983年にメフディー兄が背教罪のかどで逮捕された時、彼には10歳を頭に、4人の幼い子どもたちがいました。

「今後、父親なしで生きてゆかなければならないこの子たちのことを思うと私は正直、大きな不安に襲われました」とメフディー兄弟は告白しています。はたして今後、生きて獄を出ることができるのか、それさえ分からない状態だったからです。

「しかし」と彼は続けて言いました。「その時、私は気付いたのです。私には父親としての経験がある。でもそれはたかだか10年に過ぎない。でも、天のお父様は、永遠の昔から『父親』の経験があるのだ、と。

それで、私は祈りました。『ああ、御父よ。あなたはいにしえより父親であられます。私は自分の4人の子どもをあなたの御手に委ねます。どうかあなたがこの子たちの父親となってください』と。」

投獄されて3年後には、奥さん(石打ちにされるという脅迫に屈し、メフディー兄を離縁。その後、この方は別のムスリム男性と再婚。)が彼の元を去るという悲しみが彼を襲います。

また、獄中では繰り返し拷問にかけられ、見せ掛けの処刑(mock executions)も何度も行なわれました。

しかし、以下にご紹介するの彼の証しからは、それらすべての苦しみ、艱難に打ち勝った勝利者の声がきこえてきます。

主の御手のうちに、すべてをゆだねきった弟子の内なる喜びが伝わってきます。彼は主のためにすべてを失い、主が彼にとってすべてとなりました。

この答弁書をしたためた半年後、メフディー・ディバージ兄は拉致され、殉教しますが、彼の勇敢な生涯と信仰は今も多くの兄弟姉妹の心の中で星のように輝き続けています。

イスラム法廷における
メフディー・ディバージ兄(1994年殉教)の答弁書


(故メフディー牧師の息子さんであるイッサー・ディバージ兄弟から
許可をいただいた上で2014年6月日本語訳いたしました。)

   われわれのいのちであり存在の源である神の聖い御名によって

このような貴重な機会を与えてくださったことについて、私は、全天全地の審判者である神に、謙遜の限りをつくして感謝申し上げます。

そしてくだかれた心をもって、主がご自身の約束にしたがい、私をこの裁判から解放してくださるよう待ち望んでいます。

また裁判にご臨席のみなさまにお願いがあります。どうか忍耐をもって私の答弁をお聞きくださると共に、主の御名ゆえに敬意を払ってご傾聴ねがいたく存じます。

       ☆☆☆

私はクリスチャンです。そして罪人である私は、次のようなことを信じております。

すなわち、イエスは十字架上で私の罪のために死んでくださり、主の復活および死に対する勝利により、聖い神の前に私を義としてくださったということです。

まことの神は、この事実を、福音書(Injil)つまり主の聖いみことばの中で語っておられます。イエスは、「救い主」という意味です。なぜなら、イエスはご自身の民をその罪からお救いになるからです。

イエスはご自身の血潮により、私たちの罪の代価を払ってくださり、私たちに新しいいのちを与えてくださいました。

それにより、御霊の助けによって私たちが神の栄光のために生きるようになるためです。

さらに、私たちが汚染を食い止めるダムのような存在となり、祝福といやしをもたらす通り管となるためです。そして私たちが神の愛による守りをいただくためです。

こうした主のご慈愛への応答として、――私が自分自身を否み、完全に自らを主に明け渡した弟子として生きるべく――主は私に求められました。

そしてたとえ人々が私の肉体を亡きものにしようとしても人を恐れず、あくまで私にあわれみと慈愛の冠をくださるいのちの創造主に寄り頼むよう、主は私に求めれました。

主はご自身の愛する者および彼らに備えられている報いをかたく守ってくださる方です。

私は背教罪のかどで訴えられています!私たちの心をご存じである、目に見えない神は――私たちクリスチャンは、やがて滅びさる背教者などではなく、永遠のいのちに与る信者である――という確信を私たちに与えてくださったのです。

イスラム法(シャリーア)では、背教者というのは、神を信じず、預言者もしくは死者の復活を信じないものとされています。
でも、私たちクリスチャンは、それら三つをことごとく信じているのです!

彼らはこう言います。「お前は以前イスラム教徒だったのに、今やキリスト教徒になりさがった」と。

でもそうではないのです。長い間、私は無宗教者でした。求道し、学んだ末、私は神の招きに答え、主イエス・キリストを信じ、永遠のいのちをいただいたのです。

人は自分の宗教を選びますが、クリスチャンというのは、キリストによって選ばれるのです。

キリストは言われます。「あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選んだのです」(ヨハネによる福音書15:16)。

それではいつ主は私をお選びになったのでしょうか。そうです、この世のはじまる前から主は私をお選びになっていたのです。

人々はこう言います。「しかしお前は生まれた時からイスラム教徒だったはずだ。」しかし神はこう仰せられます。「あなたははじめからクリスチャンだった」と。

主は何千年という昔に――この宇宙の創造以前に――私を選んでくださったのです。こうしてイエス・キリストの犠牲を通して私たちは主のものとされるのです。

クリスチャンというのは、イエス・キリストに属する者という意味です。

いにしえより終わりを見通すことができ、またご自身のものとすべく私を選んでくださった永遠の神は――どの魂が主に引き寄せられ、逆にどの魂が一杯の煮物のために信仰と永遠を売り払ってしまうのか――はじめからご存知でした。

全能の神が私と共にいてくださるなら、たとい全世界の人々が私に敵対するとしても、私はそれを厭いません。

栄光の神が私を認めてくださるのなら、たとい(人々に)背教者呼ばわりされようとも私はあえてそれに甘んじようと思います。

といいますのも、人は外面をみますが、神は心をご覧になるからです。

とこしえにわたって神であられる主にとって、不可能なことは何もないのです。天地に存在するすべての力は主の御手のうちにあるのです。

       ☆☆☆

全能の神は、ご自身のお選びになった者を引き上げ、他の者を引き倒します。ある者を受け入れ、他の者を拒みます。ある者を御国へ、他の者を地獄へとやります。

このように神はご自身のみこころのままに何事でもなすことができるのであるなら、誰が私たちを神の愛から引き離すことができましょう。

誰が、創造主と造られし者との関係を壊し、主に忠実な者のいのちを損なうことができましょうか?

忠実なる者は、全能の神のみ陰の下にあって守られているのです!わたしたちの避け所は、神の贖いの座であり、そこはいにしえより崇高なる場所なのです。

私は自分の信じてきた方を知っており、主は、私がご自身に委ねてきたものを最後まで――私が神の国に到達するまで――守ることができるお方です。

神の国では義人は太陽のように輝きますが、悪を行なってきた者はやがて、地獄の火の中で刑罰を受けることになります。

人々は私にこう言います。「(イスラム教に)戻れ!」と。

でも神の御腕からいったいどこに「戻る」ことができるというのでしょう?神の御言葉に従うのではなく、人々の言っていることを鵜呑みにすることがはたして正しいことでしょうか。

奇蹟をなす神と共に人生を歩みはじめてかれこれ45年になります。

主のご慈愛は私を包み、父のような主の愛と心遣いに私は感謝しています。

イエスの愛は私の全存在を満たし、私は全身に主の愛のあたたかさを感じています。わが栄光、誉れ、守り主であられる神は、あふれんばかりの祝福と奇跡をもって私に証印を押してくださいました。

こういった信仰の試練は、その明確な一例です。恵み深く善き神は、ご自身の愛される者を叱り、懲らしめられます。私たちを御国にふさわしいものに整えようと神は私たちを試されるのです。

神はダニエルの友を火の燃える炉から助け出されましたが、同じ神がこの9年間、私を獄中で守ってくださいました。

その間、苦しいことがいろいろありましたが、それら全ては結局、私たちの善となり益となりました。ですから今私の心は喜びと感謝に溢れかえっています。

ヨブの神は、私の信仰と忠実さを試されました。そうすることによって、私がより忍耐強く、忠実な者とされるためです。この9年間、(地上での)責任はことごとく私から取り払われました。

そして誉れある主の御名の下、私は求道心とくだかれし心をもって、祈りと御言葉の学びに専心いたしました。

そして主を知る知識において成長することができました。こういった貴重な機会が与えられたゆえに、主を賛美いたします。

狭い独房の中にあって主は私の心をひろげてくださいました。

また、非常な苦しみの中にあって私にいやしを与えてくださり、主のご慈愛は私を生き返らせました。
ああ、主を畏れる者に備えられている祝福はなんと大きいことでしょうか!

       ☆☆☆

人々は福音伝道のことで私を訴えています。しかしもしある盲目の人が井戸に落ちそうになっているのに、それを見た人が、沈黙を保っているとしたら(何ら行動を起こさないとしたら)その人は罪を犯すことになります。

ですから、悪を行なっている人々に対し、その罪深い生き方から立ち返るよう、義なる神の怒りと来るべきおそろしい刑罰から逃れそこから救われるよう人々を説得するのは――神の憐れみの戸が開かれている限り――私たちクリスチャンのなすべき責務といえます。

イエス・キリストは言われます。「わたしは門です。だれでも、わたしを通ってはいるなら、救われます」(ヨハネの福音書10:9)。

わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません」(ヨハネの福音書14:6)。

この方以外には、だれによっても救いはありません。世界中でこの御名のほかには、私たちが救われるべき名としては、どのような名も、人間には与えられていないからです」(使徒4:12)。

神の預言者のうち、イエス・キリストだけが死からよみがえられました。そしてイエスは私たちの、生けるとこしえのとりなし主なのです。

イエスは私たちの救い主であり、(霊的な)神の子です。

主を知ることは永遠のいのちを知ることを意味します。

私は、一介の無益な罪びとにすぎませんが、この麗しい方(イエス)を信じており、福音書に書いてある御言葉および奇蹟をことごとく信じる者であります。

そして私は自分の人生を主の御手に委ねています。

私にとっていのちとは、主に仕えることのできる良い機会であります。

そして死とは、キリストと共にいることのできる、さらに良い機会であります。

それゆえ、私は主の聖き御名の栄誉ゆえ、獄中にいることに満足しているだけでなく、私の主イエスのためにこのいのちを投げ出す覚悟もできており、近いうちに御国に入る心の準備もできております。

御国において、神に選ばれし者は永遠のいのちに入るのです。しかし悪人は永遠の滅びに入ります。

神のご慈愛と主の祝福といやしの御手がとこしえにみなさんの上にとどまりますように。
アーメン。

敬意を込めて、
あなたのキリストにある囚人、
メフディー・ディバージ

(終わり)

キリスト教・セクト主義(Sectarianism)の痛みを越えて


昨年、心痛む出来事がありました。

米国の某神学大学で組織神学を教えておられる教授がミニストリー支援のためギリシアにやって来られました。この方は、私たち現場にいる奉仕者とも協力しつつ、今後この地で大規模にミニストリーおよび神学教育を展開したいと考えておられました。私たちは、この方が献身的なキリスト者であることを十分承知しており、尊敬していましたが、この方および某教団の奉じる神学体系のうち、いくつかの点で、どうしても同意しかねる所があり、私たちの良心にかけても、この事を教授にお話ししなければならないと感じました。

こうして話し合いの場を持ったのですが、残念なことに、この方は立腹され、私たちのリーダーは、「異端的」かつ「反キリスト」で、私たちの集会は「カルト」「悪魔的」だと断罪されました。私は、同じキリストを愛する兄弟の口から、このような言葉が無慈悲に出されたことに、大きなショックを受けました。

異端

「異端」――ギリシアに来て、何度この言葉を聞いたことでしょう。Αἳρεσις(『異端』という意味のギリシア語で、現代語ではエレスィスと発音されます)は、元来、『分派・党派』という意味でしたが、キリスト教の歴史の中で、やがて、『正統信仰とは異なる立場をとる教説や教派』を指すようになりました。

しかし、この「正統」「異端」という尺度は、あくまでそれぞれの宗派・教派が自分たちを基準として判断しているため、その線引きもカテゴリー化も千差万別です。

例えば、ギリシア正教の立場からは(もちろん全員ではありませんが)、プロテスタント諸派は十っぱひとからげに「異端」とくくられる場合が多いようです。従って、ここギリシアでは、唯一の「正統信仰」である正教(オーソドックス)を奉じない私たちは、すぐに「異端」の烙印を押されます。

ついこの前も、こんなことがありました。難民収容所にいるH兄弟に差し入れを持っていったのですが、そこにいた看守の一人が、「あんたがた、Hとはどういう関係か?家族か?」と訊いてこられたので、「私たちはクリスチャンで、Hさんは主にある兄弟です」と答えたところ、「それなら、あんたらギリシア正教徒か?」と質問されました。

「いいえ。」と答えると、「じゃあ、カトリックか?それともエヴァンジェリカル(福音派)か?」とさらに質問されたので、「そうですね、じゃあエヴァンジェリカルということになりますね。でも私たちもクリスチャンです。」と答えると、看守はカッとなってこう言い放ちました。「いや、いや、そんなことはない。あんたたちはクリスチャンじゃない。異端なんだ!」

「異端」――なんという恐ろしい言葉でしょう。
私たちはこの言葉の持つ意味の重大さをどのくらい理解しているでしょうか。

これは、私たちと同じく主を礼拝し、主に仕えている兄弟姉妹の永遠の行き先にかかわる言葉です。永遠の御国か、火とうじの尽きない永遠の地獄か、、、私たちは、神に代わって裁きの座に座り、他の信者の行き先を断定してもいいのでしょうか。

20世紀に入り、これまでいわゆる「異端派」とされてきた中世の諸派(ヴァルド派等)の研究が進み、彼らの信仰の実態がようやく明かされつつあります 。そして多くの歴史家たちによっても、実は、彼らこそ、聖書信仰に生きた、宗教改革の先駆者たちであったとの評価がなされ始めています。しかし当時、彼らは異端者として裁かれ、尋問を受け、その多くは、手足を切られたり、舌を抜かれたり、生皮をはがされたりした挙句、火あぶりにされたのです。

※Leonard, Verduin.The Anatomy of a Hybrid, A Study in Church-State Relationships. Florida: The Christian Hymnary Publishers,1976
David W, Bercot. The Kingdom That Turned The World Upside Down. PA: Scroll Publishing, 2003


私はこのことについて、長い間、考えてきましたが、今回の心痛む出来事を通し、セクト主義(sectarianism)はやはり、イエスさまの心、及びキリストのみからだを傷つけ続けている霊的な病ではないだろうかと思いました。そして、この病根により、どれだけ多くの、主を愛する牧師先生や主のしもべが、誹謗・中傷され、傷ついてきただろうかと思いました。

しかし一方で、セクト主義およびその精神を、「一種の必要悪、真理の砦を守るためにやむをえない心の姿勢だ」と考える自分もいたのです。その葛藤の経緯もここに書こうと思います。

狭い道

20世紀に入って、組織化されたエキュメニカル運動が盛んになり、その中で、聖書の無謬性や、キリストの神性が公然と否定されたり、宗教多元主義の流れで、イエス・キリストの十字架による贖いと罪の赦しの真実性までが疑問視されたりしはじめました。特に北ヨーロッパや北米で、その傾向が著しいようです。

北米のある伝道者はこのように言っておられました。「多くの牧師は、圧力団体から、『性差別主義者』とバッシングを受けるのを恐れ、1コリント11章の『女のかしらは男であり、』や、コロサイ3章『妻たちよ、、夫に従いなさい』というような箇所をあえて語らなくなっている。また、hate speechだと法的に訴えられるのを恐れるあまり、御言葉をまっすぐに語らなくなっている」と。

こういう不気味な思想潮流の中にあって、御言葉に忠実に生きていくことは今後ますます難しくなっていくように思われます。

その意味で、自分の教団神学の「聖さ」を死守し、それ以外の教えや教団・教派の教えを、手厳しく「異端」だと切りつけていく人々は一般に、現代のこういう(神学的・社会的)リベラル化を憂い、真理に熱心な方が多いように思います。私自身、彼らのその熱意を理解できるような気がします。しかし、そこには一つ落とし穴があるように思うのです。

キリストの道は、何と狭い道かと思います。

一方の側にそれると、そこには「リベラル化した、人間中心的エキュメニカリズム」という絶壁があり、他方の側にそれると、そこには「偏狭なセクト主義」もしくは「教団神学至上主義」という絶壁があります。そのどちらに落ち込んでも、私たちの霊的いのちは致命的な打撃を受けてしまいます。

私は前述の神学教授に、次のようなお手紙を差し上げました。

「、、、反対されるかもしれませんが、私は個人的に次のように考えています。つまり、神様は、私たちのこしらえた、厳格な『神学ボックス』よりも大きい方であるということです。そして主の恵みは、私たちの思い・考えを越えて、自分たちとは多少異なる他のクリスチャン(クリスチャン・グループ)にも流れうるし、流れているかもしれないということです。だから、多少の見解の違いはあったとしても、私たちは主を心から愛し、主に仕えている他の教団・教派のクリスチャンを、兄弟姉妹として受け入れることができる(少なくともその可能性に心の戸を開けておくことができる)と思うのです。」

イエスさまご自身が「人の子に逆らうことばを口にする者でも、赦されます(マタイ12:32)」とおっしゃっておられます。

それならば、人の子であるイエスを心から愛し、イエスの戒めに忠実に生きていこうとしている兄弟姉妹の「キリスト論」や「三位一体論」等に、少々「神学的」誤謬があったとして(それも意識的にイエスを冒涜しようとか、軽んじようとか思っているのではなく、敬虔な思いでその解釈を信じている場合はなおさら)、イエス様はそれらの「誤謬」を堪忍してくださらないでしょうか。

それとも、私たち人間は、イエス様よりも、神学的に「鋭く、賢い」ので、私たちに限っては、そういう信者を「異端」だと裁き、情け容赦なく断罪する権利があるのでしょうか。「裁いてはいけません。裁かれないためです(マタイ7:1)」とおっしゃったイエス様の言葉は、この場合、無効になるのでしょうか。

確かに、今回の悲しい出来事を通して、私の心は深く傷つきました。しかし、一方でこの事が起こるのを主が許された、という事実に私は神の深い御配慮を感じました。

おわりに

「真理には排他性がある」ということを聞いたことがあります。

たしかに、「わたしが道(ἡ ὁδὸς)であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません(ヨハネ14:6)」と宣言されたイエス様の言葉は、今日の宗教多元主義の流れでは、もはや受け入れがたい「非寛容」な言葉として排斥される(もしくは「再解釈」される)のかもしれません。

そしてその言葉とともに、現代においても、イエス様は排斥され続けているのかもしれません。その意味で、「主人にまさるものではない」弟子も、この世にあっては排斥されることを覚悟しなければならないと思います。

しかし、その一方で、自分や自分の属している派(宗派・教団)こそが真理の保持者であり、その他のグループには一寸の希望も見い出さない――そういった態度もまた、イエス様の心を悲しませていると思います。そして、世の人々は、いがみあい、裁き合っているクリスチャンのうちに、愛からは程遠いものを感じていると思います。

《締め》と《ひらき》、《線引き》と《融合》――とてもむずかしいです。
ただただ、主に助けとあわれみを求めるのみです。

主よ、このことに関しても、私はあなたの知恵と光を切に必要としています。
さまざまな意見があり、立場があります。考えれば考えるほど、わからなくなる問題も
多いです。
でも私の唯一の願いは、あなたに喜ばれる道をすすんでいくことです。
どうか助けてください。導いてください。アーメン。

最後に、カール・ヒルティのことばを引用します。

「私はいずれのキリスト教会にも反対する者ではない(カトリック教会、ギリシア正教の教会やイギリス国教教会にも反対しない)。もっとも、これらのどの教会もキリストが心に描いていたとおりの教会だとは思わないけれども。

「私は、真のキリスト者は、この世の終わりにいたるまで、あらゆる民族、あらゆる教会において、つねに少数派を形成するにすぎないと信じている。これはまた、『女がそれを取って、三斗の粉の中に混ぜるパン種』(マタイ13:33)について言われた主自身の言葉とも本当に一致するものだ。

「粉はパン種によって有用なものとなるが、しかし粉そのものはパン種ではない。われわれもまたそういうことで満足しなければならない。パン種においては、量よりも質を重んじなければならないが、粉においてはそれでパンを焼き、食物となり、大勢の人の栄養となれば、それで十分である。

「もし事柄をこのように考えなければ、ただ教会に受動的に所属し、その儀式に参加すれば、それでよいというほどまでに要求を大幅に引き下げねばなるまい。それとも、キリストはほんのわずかな人たちを救済するだけで、残りの者は救われることなく、ほとんど冷淡に、この世の君(サタン)の手に委ねられてしまうのだという、小会派(=セクト主義)などの見解に到達するほかはあるまい。」

  カール・ヒルティ『眠られぬ夜のために 第二部』(岩波文庫)p91‐92


主よ。あなたのおきての道を
私に教えてください。
そうすれば、私はそれを終わりまで守りましょう。
  詩篇119:33


(おわり)

「友だちをねたんでしまう」と
人知れず悩んでいる中高生のみなさんに贈る応援メール


振り返ってみると、小・中・高時代をつうじて、私はいつもクラスメートや塾の友達をねたんでいたような気がします。友だちの喜びを喜びとすることができず、人が自分より秀でていることや人気を博していることに我慢ならないものを感じつつも、そういう思いを抱く自分がいやでした。そして人知れず、悩んでいました。

大学に入り、はじめて聖書に触れ、やがて信仰を持つようになりました。そうしてはじめて、私はどうして自分が人をねたんでいたのか。そもそも「ねたみ」とは何なのか。どうしたら、ねたむことなく、友だちを心から愛しいつくしむことができるのか、といったことに関して、心の目が開かれていったのです。

それと共に、「ああ、中高時代、だれかがこの問題について私に率直に語ってくださっていたなら、助言をくださっていたなら、私の青春時代はもっと心安らかで楽しいものになっていたろうに、、、もっと友だちとの友情を育むことができていたろうに、、、」と残念でなりませんでした。もう過去に戻ることはできないし、あの時代には永遠の蓋がかぶされてしまったからです。

でも、ひとつ今の私にでもできることがあると思いました。それは、自分の失敗や葛藤しつつ学んできた経験を若い学生のみなさんにお分かち合いすることによって、当時の私と同じような問題で人知れず苦しんでいるだれかの助けになることができるかもしれない、ということです。

《ねたみ》とは何でしょうか?

国語辞典をひもとくと、「《ねたむ》=他人が自分よりすぐれている状態をうらやましく思って憎む。他人の長所・幸運などをうらやんで、憎らしいと思う。」とあります。

私は自分よりもかわいらしく人気のあるクラスメートを心の中でいつもねたんでいましたし、自分よりも成績の良い友だちのこともひそかにねたみ嫌っていました。

「人の上に秀でたい、認められたい。称賛されたい。人にすごいって思われたい。いろんな人の関心を(他の人にではなく)自分の方にこそ向けさせたい。脚光を浴びたい。どんな分野でも一番になりたい。」――そういう思いがマグマのように心の底にひそんでいました。

だから友人が自分以上に脚光を浴びるのをみるのが我慢ならなかったのです。でも当時の私は、自分がどうしてそういう不愉快な気持ちになるのか理由がよく分かりませんでした。

ところで先ほどみたように国語辞典には、「ねたむことは、人をうらやましく思って、、憎む」とあります。ここから分かるのは、ねたみは最終的に「憎しみ」に行き着くということです。「ねたみ」が始発駅だとすると、終点は「憎しみ」ということになるのです。つまり、ねたみはねたみだけで終わらず、癌細胞のようにひろがっていくのです。そして、聖書はこうした癌細胞のことを「罪(sin)」と呼んでいます。

私は自分の抱えていた問題が、「ねたみ」であり、「罪」であるということを(聖書を通して)知ったとき、今までがんじがらめだった私の心に光が入ってきたように感じました。そして言いようもなくほっとしました。

それはたとえて言うならば、腹痛に何年も苦しみつつも、どこの病院でも「原因不明です」と言われ続けてきた人が、ついにある日、ある病院の名医によって正確な診断をくだしてもらった――、そんな感じでした。

聖書にはまた「愛は、、、人をねたみません」(1コリント13:4)と書いてあります。
愛の本質は人をねたまないところにあるのです。つまり、ねたむ人はねたんでいる相手を愛していないのです。逆にねたんでいる相手を憎らしいと思っているのです。人々がイエス・キリストを十字架につけて殺したのも、《ねたみ》のためだったと聖書には書いてあります(27:18)。

ねたみとは、それほどに深刻な罪だったのです。

でも聖書の神は、私に診断書をかいてくださっただけでなく、その癌細胞を摘出する手術までしてくださいました。私は、自分のこのねたみの罪のためにも十字架上で死んでくださったイエスさまを本気で信頼しようと思いました。そして心から友人を愛することのできる人間に私を変えてください、私の罪をゆるしてくださいと祈りました。

そして実際、その後、私の人生にはびっくりするほどの変化が起きたのです。

信じてすぐに、私は、中高の時のクラスメートのもとへ行き、自分が彼女を長年ねたんでいたことを告白し、赦しを請うたのです。その瞬間、今までずっと私たちの間に立ちはだかっていた壁がくずれ落ちるのを感じました。そして私の中に今までにない種類の感情――友人の幸せを願い、友人の存在自体をいとしく思う心――が芽生えてきたのです。その後、この友人とは今日にいたるまで、深いきずなで結ばれています。

またその後、聖書の神さまをもっと深く知るようになるにつれ、私は《ねたみ》の根(ルーツ)についても目が開かれるようになりました。

《ねたみ》のルーツ

バジレア・シュリンクという方は、『変えられたいあなたに』という本の中で、人が他の人間をねたむ三つの根本原因について書いておられます。

それによると、第一に、ねたみの根は通常、私たちの利己主義(エゴイズム)か、物資的・霊的なものに対するどん欲にあるということです。

また第二の根は、神に対する不信の念にあると書いてあります。「あの人にはあれだけの才能が与えられていながら、私には少しも取り柄がない。神さまって不公平だ」といって私たちは自分と他人を比較するのです。

「ねたみを追放するためには、神に対する反抗的な不信の念を捨てなければなりません。疑うのではなく、常に私たちにとって最善のものを与えてくださる愛の神を信じるのです。神が導かれる道は、いつも私たちにとって最善の道です。(p263)」

「他の人の喜びや重荷をはたから見て評価するほど愚かなことはありません。なぜなら、その人の事情や背景について、私たちはよく知らないからです。私たちがねたましく思っても、その人自身はそれを重荷に感じているということが往々にしてあるのです。(p263)」

そしてねたみの第三の根は、私たちに感謝の気持ちが足りないからだとバジレア・シュリンクは言っています。

たしかにそうだと私も思います。学生時代、私は、自分よりも頭のいい友人のことをねたんだり、自己憐憫に陥ったりしていましたが、今、ここギリシアで、祖国を追われ身一つでやって来る難民の家族をみるとき、そして勉強したくてもする環境にないかわいそうな難民のこどもたちをみるとき、「ああ、私が安定した環境で自由に勉強することができたのは実はどれほど大きな祝福だったのか!」と今さらながら感謝の気持ちがなかった自分を恥じます。

そして、そういう目で物事をみていくとき、私たちはないものをねだり、ブツブツいう人間ではなく、今与えられているもの一つ一つに感謝していくことのできる内的に満ち足りた人間になることができるのだと思います。

「私たちが自分のねたましい思いを主に明け渡していく時、イエスはねたみから私たちを解き放つために立ち上がってくださいます。主は私たちを縛っていた鎖を断ち切るために来られました。(p264)」

私の好きな赤毛のアンには、ダイアナという無二の親友がいます。ダイアナは体格的にもアンのようにすらっとしておらず、アンのように成績がいいわけでもありませんでしたが、決してアンをねたむことなく、いつも友の成功をわが事のように喜び、応援する――そんな素朴で愛にあふれた人柄でした。そして二人の間には美しい友情がいつもありました。

これまでねたみの三つの根をみてきましたが、それに加えて、私は個人的に第四の根を挙げたいと思います。

それは、「これまで条件的な愛しか受けてこなかった私たちの心にひそむ、漠然とした不安」です。
いいかえれば、「だれか、この私を、ありのままの私を受け止めて!ありのままの私を愛して!」という、深いところにある私たちの叫び、といっていいかもしれません。

私たちの多くは、そういった心の渇きを満たそうと、人に認められるべく、やっきになって奔走します。そして思うように自分の方に称賛や関心が集まらないと、他の人をねたむのです。

でもこの渇きは、私たちが神さまの愛のふところに抱かれた時はじめて、満たされるのです。――そう、お母さんの胸に抱かれ安心しきってスヤスヤ眠っている赤ん坊のように。

そして、この愛のうちにすっぽり包まれた人は、心満たされ、「私は愛されるために生まれてきたんだ」というすばらしい真理のうちに、身も心も休めることができると思います。

親愛なる中高生のみなさん、あなたは本当にかけがえのない存在です。

あなたや周りの人が、あなた自身の素質、才能、容姿等をどう評価しているかにかかわりなく、あなたはとてもとても尊い存在なのです。どうかそれを忘れないでください。

長いお手紙になりました。読んでくださってありがとう。


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