Homemakerのいる家――祝福の再発見

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(Anna T, The Spirit of Home- a blessing rediscovered.アンナ婦人の許可をいただいた上で本エッセーを2014年7月日本語訳いたしました。)

家庭のスピリット

日中、誰かが生活していた家の中。

そこから漂う香り、音、そのスピリットの中には、
特別にあたたかい、うれしくなるような〈なにか〉があります。

長い一日の仕事が終わった後、家に入ります。
中はこざっぱりしており、家庭的な匂いが漂っています。

床はみがかれ、洋服にはアイロンがあてられ、食事の用事もできています。

さらに、オーブンからはこうばしいクッキーの香りが漂ってきているかもしれません。

こんな家に足を踏み入れるとき――疲れている時ならなおさら――私たちは、そこにいたくなります。

そして、ここちよい肘掛椅子に深々と沈みこみ、くつろぎたくなります。
ホット・ティーに香ばしい手作りクッキーなんかもいいかもしれません。

そこにある平安と静けさの中に憩い、私たちは自分たちの魂が新しくされるのを感じます。

しかし悲しいことに、今日、家庭をみると、その多くはなおざりにされ、家の中は散らかっています。

終日仕事でくたくたに疲れ家に帰ってきたのに、目に入ってくるのはホコリの山、淀んだ空気、からっぽの冷蔵庫それに洗濯物の山、、、これほど気がめいるようなことがあるでしょうか。

しかし大方の家庭が毎晩直面しているのはまさにこれなのです。

どたばた家事に追われ、家族団欒の時など持つ余裕がないのです。

こういうなおざりなスピリットは、人々をますます家の外へと押しやります。

家庭の雰囲気があまりに冷たく味気ないなら、私たちは家の外に出て、食べ物や娯楽を求めるようになりがちです――外食などはその一例です。

そして外にいるようになると、ウィンドウショッピングなども頻繁にするようになり、そうすると、差し迫って必要ないようなあれこれを買ってしまいがちです。そうして出費が増えていくと、当然もっと働かねばならなくなる。

そうなると、ますます家から遠ざかることになり、ますます家庭生活がないがしろにされてしまう――そうやって、なかなか断ち切ることのできない悪循環が生み出されるのです。

かつて、女性に――特に既婚の女性に――何を「しているのか(→つまり、どんな職業に就いているのか)」と訊くような人は誰もいませんでした。

女性が一日の大部分を家事に費やすというのは、きわめて普通のことと考えられていましたし、受け入れられていました。そしてそういった家事仕事は重宝され、尊重されていました。

家庭づくりのノウハウは家族の幸せに欠かせないものとして大切にされ、若い時から教え込まれていました。

また、家庭生活は、家を中心としていました。――女性は家で働き、子どもたちはたいてい家で教育を受けました。

そして夫は仕事が終わった後、家に帰るのを心待ちにしていました。毎晩、一家そろって夕食のテーブルを囲み、栄養たっぷりの手料理を食べました。

人々は家の中でいろいろと楽しみ、外出するよりもむしろ友だちを家に招いて、一緒にお茶を飲みました。

――掃除機や洗濯機といった、現代の電化製品の登場により、ホームメーカー(主婦)の負担は最小限になった。だから今や、女性は家庭生活とキャリアを十分両立させることができるんだ――というような主張をよく耳にします。

しかし現実の家庭はどうかといえば、長い間そうじもされずほっぽり出されている部屋、ほとんど栄養価のない不健康かつ値段の張るインスタント食品、家族がそれぞれバラバラの時間帯にいそいで食事をかきこむ――、そういったあまり美しくない光景が目に入ってきます。

かつて、人々の持ち物は今よりわずかでしたが、その分、生活だってよりシンプルでした。現代という時代は、主婦の責任をむしろ増し加えたのです。

かなり社交的で友だちと出歩くのが好きな人であっても、やはり一日のノルマをこなした後には、リラックスできる安全なくつろぎの場を必要としています。

家庭に漂う静かで満ち足りたスピリットは、多くの人が無意識のうちに探し求めているものです。

そしてこの空洞を満たそうと、多くの人は、この娯楽場からあの娯楽場へとむなしく飛び移っていくのです。

家庭はなにものにも代えられません。

家庭は、甘美にして心地よく、やすらぎの場です。

家庭とは、つまるところ、簡単には捨て去ることのできない、そんな特別な場所なのです。


(出典:http://ccostello.blogspot.gr/2008/05/spirit-of-home-blessing-rediscovered.html)
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ある朝、クルドの人々のために祈っていました。
以下は、その時つづったものです。

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クルドの民 放浪の民

国をもたない かなしみの民


クルドの民 怒りの民

あまりに愛されることの少ない民


憎まれ 憎まれ
憎みかえす

踏まれ つぶされ
反旗をあげる

あなたは 歌い 戦う
戦い そして 歌う


ああ クルドの息子たち
愛されることのない息子たち

わたしは あなたを想って 泣く


かわいそうな息子たち

愛を知らずに さけんでいる
愛を求めて さけんでいる


息子たち、こっちにおいで

私たちは あなたを攻めないから 

安心して近づいておいで

もう武器をおいても だいじょうぶ
ここは 安全な場所だから


いとしい息子たち

こっちにおいで 
安心して近づいておいで


さあ、食事は あなたのために用意してある

両手をひろげて あなたを迎えよう


クルドの涙 主の涙

クルドのいやし 主のよろこび









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南米ボリビア出身で、20代前半の若い姉妹Eは、現在、内戦のつづくA国で宣教師として奉仕しています。その彼女がこんなことを私に語ってくれました。

「これまで多くの宣教師が西洋から起こされ、世界中に出て行きました。でも今、主は新たな波を起こしてくださっていて、アジアやアフリカから多くの若者が宣教地に飛び立っていってます。姉妹!今、あなたや私が立ち上がる時なのです。主の召しに従う時なのです。」

昨年も、インドネシアの17才の姉妹から連絡が入り、「主の示しを受け、これから中東のI国に行きます」との知らせを受けました。

マレーシア華僑のD姉妹は、現在、モンゴルの草原の民の間で、イエスさまの福音を伝えています。

シンガポールやオーストラリアの中華系教会からも、非常に多くの若者が、中国大陸各地に遣わされています。

南インドの若者たちは、危険もかえりみず、貧困と紛争のつづく北インド・ネパール地方に大挙して飛び込んで行っています。

それでは、私たち日本の若い兄弟姉妹はどうでしょうか。

私は、大きな希望をもっています。

なぜなら、今後、主が、大ぜいの若者たちの魂を奮い立たせ、日本の兄弟姉妹を、世界各地に遣わしてくださると信じているからです。

すでに宣教のビジョンが与えられている兄弟姉妹もいらっしゃることでしょう。私は、そういう同胞のみなさんに心からエールを送ります。

☆☆

さて、日本から送り出されるにあたっての一番のハードルは、「周囲の無理解」ではないかと思います。

特に、ご家族の方が信仰を持っていらっしゃらない場合はなおさらそうでしょう。これは、非常に心裂かれる試練の一つです。

こういった試練の中、私がくりかえし、くりかえし黙想した聖句はここでした。

信仰によって、モーセは成人したとき、パロの娘の子と呼ばれることを拒み、

はかない罪の楽しみを受けるよりは、むしろ神の民とともに苦しむことを選び取りました。

彼は、キリストのゆえに受けるそしりを、エジプトの宝にまさる大きな富と思いました。彼は報いとして与えられるものから目を離さなかったのです。

信仰によって、彼は、王の怒りを恐れないで、エジプトを立ち去りました。目に見えない方を見るようにして、忍び通したからです(ヘブル11:24-27)。


もしかしたら、あなたの使命そして情熱を理解してくれる人は、近くに一人もいないかもしれません。

父親からしかられ、母親の涙の前に、「私はなんと親不孝な子だろう」と自分を責めてしまうかもしれません。

理解してもらおうという努力も、すべて無に帰してしまうかもしれません。

こういう事態におちいった時、私があなたになにかアドバイスできるとしたら、それは、
「目に見えない方を見るようにして、ひたすら忍び通してください」ということです。

自己憐憫に陥るという誘惑に抵抗し、周囲の人に認められたいという肉の叫びを十字架につけ、ただひたすら「目に見えない方」にじっと目を注ぎ続けてください。


人はあなたを理解しません。

あなたがこれから踏み出そうとしている道は、いまだかつて、だれも通ったことのない道です。

「道」そのものであられるイエスさまが、あなたという人を用いて、新しい道を開拓しようとしておられるのです。

この道は狭く、細い道です。

でもこの道にこそ、いのちに至る門があるのです。

茨のとげに傷つき、雑草に足をまかれ、汗を流し、涙を流しながら

あなたが黙々と開拓していった道は、

いつの日か 祝福の道となります。

そしてその祝福の道を通って、いのちの門に至る人々がやがて起こされます。

私たちはそれを生きて見ることはないかもしれません。

でも、それはかならず起こるのです。

いのちのあるところには、再生があるからです。


宣教の使命を受けている兄弟姉妹、

どうかその召しに力強く答えてください。

信仰をもって、一歩を踏み出してください。

主があなたと共におられます。

アーメン。


親愛なる同胞姉妹のみなさんへ。

こんにちは。はじめまして。私はキリストを信じる一介の姉妹です。

私はかつて牧会の働きにたずさわっていました。男女同席の会衆を前に説教をし、兄弟たちに聖書を教え、彼らを指導する立場にありました。

今私は、みずからの意思で、それらいっさいのことから身を引き、教会の中で奏楽の奉仕をしています。

☆☆

これからお分かち合いすることは、神学論争の類でもなく、ましてやだれかを批判するものでもありません。

私はもともと論争を好む性格ではなく、この部分での自分の内的確信も、公に言い表すつもりはありませんでした。それで10年近く、沈黙を保ってきました。

しかし、昨今、教会で指導的立場についている親しい姉妹たちから、さまざまな苦しい心情を打ち明けられるようになりました。

その中でも特に多いのが、「結婚したいのにできない」という苦悶の叫びでした。

そういう苦しみを目の前にしながらも、私は思い切って問題の根に言及できなかった。

孤立することがこわかったからです。

50年前なら、私の抱いているこういう考え・立場は、ほとんどの教会に受け入れられるものだったはずです。

でも、今現在、こういう意見をあえて公に言おうとする人は、村八分にあう覚悟をしなければならないでしょう。時代錯誤もはなはだしい偏屈な人だと言われかねません。それがこわかったのです。

でもそうこうするうちにも、私の愛してやまない姉妹たちの苦しみは増すばかりでした。

やさしく魅力ある姉妹たちが、結婚できずに、人知れず泣いています。

彼女たちが結婚できないのは、彼女たちに欠陥があるとか、魅力がないからではありません。実際、キリストにみずからを捧げ切っている彼女たちは、私の目に、ほんとうに美しいです。輝いています。

だから、問題は彼女たちにあるのではないのです。そうではなく、彼女たちの上にかぶせられている「不自然な権威」、これが男性を遠ざけているのです。

「不自然な権威」とは、つまり、姉妹が兄弟の上に霊的権威を持つことです。

姉妹が、兄弟の上に立って、説教したり、聖書を教えたりすることです。

1テモテ2:11-11や、1コリント14:34-35のみことばは、現代の神学者たちが主張するような、当時の文化に限定されたものだとか、パウロのミスだったとか、そういうものではありません。

神のみことばは、文化や時代をつきぬけ、永遠に立つ真理のことばです。

そして神さまが、教会内でのある種の役職を女性に許しておられないのは、女性を見くびっているからでもなく、束縛しているからでもなく、ただひたすら、私たち女性の幸せを願っておられるからなのです。

神さまの決断の背後には、深い知恵と、私たちに対する計り知れない大きな愛があるのです。

私は、自分が男性の上に権威をもっていた時期と、権威をもっていない今と、両方の時期を経験しました。

そして、この「権威」が、女性としての自分に及ぼす霊的、精神的、身体的影響を知っています。ここで私が証言していることは、客観的には分かりにくいものであるかもしれませんが、かつての私と同じような立場にあった(ある)姉妹は、きっと理解してくださると思います。

また、私が知っている女性指導者はことごとく従順で献身的な方々ばかりです。

彼女たちは決して意図的に「不自然な権威」を着込んだわけではなく、それぞれの教会・教派の方針にただまじめに従っていらっしゃる場合がほとんどです。

そしてそういう枠組みの中で、日々、最善を尽くしていらっしゃるのです。

だから、なおさらのこと、私は、こうした姉妹たちの苦しみに対して、もはや知らぬふりを続けていることができなくなりました。

村八分にされてもいい、人からの好意や評価を失ってもいい。私は、勇気をふりしぼって、声をあげることにしました。

そして私の心からの祈りは、長年、結婚のことを祈っていらっしゃる姉妹の方々が皆、幸せな結婚に導かれることです。

男性の愛に溢れる力強いリーダーシップの下で、私たち姉妹は、守られ、導かれ、愛されているという実感をえることができます。

そして、そういった守りといたわりの木の下で、私たちは安心して憩い、人々に奉仕することができると思うのです。



森の中を散策すると、いろんな被造物に出会います。

杉の木があり、楓の木があります。苔があり、シダがあります。

小さな花があり、大きな花があります。

みんな、文句もいわず、置かれた場で、すなおに、けなげに生を営んでいます。

秩序があるところには、美しさがあります。

大自然が、人にやすらぎと平安を与えるのは、そこに調和と秩序があるからです。

神さまの造られた男性と女性についても、同じことがいえると思います。

私たちが神さまの立てられた秩序に従っていくとき、そこに回復があり、いやしがあります。

そしてその回復といやしは、私たちに満ち満ちた生の喜びをもたらしてくれるのです。


読んでくださってありがとうございました。

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いつの時代にも、一世を風靡する思想というものがあります。

18世紀の理神論、20世紀のマルクス主義などがその典型的な例です。

そしてそういった思想は、その時代を生きた人々の考え方、生き方、家庭生活に大きな影響を及ぼしました。

また、影響を受けたのはこの世の人々だけに限りませんでした。聖書的にしっかりした土台に立っていなかった教会やクリスチャンも、そういった流行思想の波にまたたく間に飲まれてしまい、押し流されていってしまいました。

では、2014年現在、私たちの住むこの世界を制覇している思想はなんでしょうか。

いろいろな意見があると思いますが、私は、「フェミニズム思想」をランキング1位に挙げたいと思います。

もう一つ質問です。現在、キリスト教界を制覇している(しつつある)思想はなんでしょうか。

私は、ここでも、「フェミニズム思想」をランキング1位に推そうと思います。

フェミニズム――。この思想の後押しを受けて、キリスト教会は、使徒時代以来、2000年余にわたり保ってきた数々の教えに再解釈を加え、それをひねったり、よじったりしながら、新しい方針・決定をつぎつぎと打ちたてていきました。

☆☆

私は人生における比較的早い時期に、すでにこの思想に魅了されていました。

中学生になった時には、夫婦別姓の賛成論者となり、クラスメートを相手に議論したりしていました。

また「なぜ、クラス名簿は、男子が先で、女子が後なの?これって不公平じゃない?」と常々、疑問に思っていました。

祖母はとても頭のいい人でした。その祖母が、田舎の小さな果物屋であることが私にはくやしくてなりませんでした。

「時代が時代なら、おばあちゃんは、大物の政治家とか大学教授になっていたかもしれないよ」と私はよく母に話していました。

〈私はこうはならない〉と心の中で誓いました。

やがて私は、ジェンダー研究では日本の最先端をいく大学に入学しました。

海外で学位を取り、国際社会で活躍する女性教授や卒業生たちを、田舎から出てきた私は、ただただ羨望の目で眺めました。

離婚してでも、自分のキャリアに生きようとしている先輩たちをみて、「すごいなあ、かっこいいなあ」と思いました。

やがてクリスチャンになりましたが、私は教会内ですぐにリーダーシップが与えられましたので、自分の中のこういった部分は、依然として温存されたままでした。

そんな自分が、はたと立ち止ったのは、欧米に滞在しはじめて数年経った時でした。

日本とは格段にフェミニズムの浸透度が違う欧米において、私は、自分の思い描いていたものとは違う女性たちの〈現実〉に直面したのです。

憧れをもってみていたクリスチャン女性指導者たちの生活の裏に、言いようもないさみしさ、孤独感、涙があることを知りました。

「さみしくてたまらない」と夜、私に電話をかけてくる北欧出身のリーダーがいました。また、孤独感から、年下の少女に異常な関心をよせる指導者がいました。

フェミニズムとは、本来、女性を束縛や抑圧から解放するためのものではなかったのでしょうか。

本来、女性の幸せのために始まった運動ではなかったのでしょうか。

でも、私がそこでみたのは、まさに正反対の事実でした。

この思想体系は、女性を――多くの真摯なクリスチャン女性を――逆に、不幸にしていました。

この部屋を抜ければ、向こうにはきれいなお花畑がひろがっていると思っていました。

でも、そこにあったのは、荒涼とした、さみしい砂漠でした。

☆☆

「あの人はフェミニストだ」といって批判するのは簡単です。

でも、私は自分が実際そこにいたので、フェミニズム思想に共感する女性たちの気持ちが分かります。

実際、それは私たちの生い立ち、家庭環境、つらかった経験や、その他、私たちの心の深いところまで関係しているものです。

耳を傾けてみると、ひとりひとりに、そこに至った背景があり、ストーリーがあります。

私は、神さまの真理を求めると共に、同じ巡礼の旅路をいく同胞クリスチャンの声に、そのプロセスに耳を傾けたいのです。

どんなに論争の種となるようなトピックであっても、それら全てを通して、神をよりよく知り、人間をよりよく理解することが私の願いだからです。

そして、私たちは論争によって相手を引き倒すのではなく、愛をもってお互いを建て上げるために存在していると信じているからです。

私のエッセーはここで終わりますが、次に、一人の姉妹の「ストーリー」をご紹介したいと思います。

どうぞ、彼女の話に耳を傾けてみてください。

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フェミニズムからの私の回復(MY RECOVERY FROM FEMINISM)

コートニー・レイスィグ(Courtney Reissig)

(コートニー姉妹から許可をいただいた上で、2014年7月日本語訳いたしました。なお本エッセーは、電子書籍Good: The Joy of Christian Manhood and Womanhoodの中に収められています。)


フェミニズム。
これは、さまざまな側からの強い感情的反応を引き起こす言葉です。

ある人にとって、これは声なき人々――社会の片隅で、長い間、抑圧されてきた女性たちの声と映るでしょう。

またある人にとって、フェミニズムとは、リベラル派や男嫌いな人たちの使う汚らわしい言葉でしかないかもしれません。

さらにある人にとって、フェミニズムとは、「男女平等を信じていますよ」という思想表現の一つなのかもしれません。

とにもかくにも、フェミニズムとは、なにかしら含むところの多い言葉なのです。

☆☆

フェミニズムは、当時の不平等社会に真の変化をもたらそうとして始められた運動です。

エリザベス・C・スタントン(1815-1902 アメリカの社会運動家)等とともに、フェミニズムの第一波が起こった当初、女性には選挙権や財産の所有権といったものがなく、わが子が工場労働者としてかり出されても、彼女たちには子どもを守るすべがありませんでした。

児童労働という悪循環から子どもたちを救ってあげることができないみずからの無力さを女性たちは感じていたのです。

また夫のたび重なる不倫に直面しつつも、なすすべなく、家にいるしかなかった女性たちもいました。

そんな彼女たちにとって、投票という行為が、いろんな意味で、そういった深刻な問題を解決してくれる手立てだったのです。

しかし、運動はやがて第二次フェミニズム期へと移行し、ベッティー・フリーダンやグローリア・ステイネムのような人物を生み出しました。

彼女たちは、1950年代、60年代のいわゆる、型にはまった〈幸せな奥さん像〉を見、「女性にはそれ以上の価値があるはずだ」と思ったのです。

そして今日、フェミニズム第三の波が押し寄せ、この思想を社会のメインストリームまで持っていこうとしています。

フェミニズムは今や、平等を推し進める圧力となり、いろんな意味で、平等以上のものを求める圧力運動へと変貌していっています。

もはや男性と平等というだけでは満足できなくなり、次第に女性は、「男性を凌ぎたい」という思いを持つようになったのです。

男性や、男性のコントロールから自立するだけでは足らず、女性たちは今や、家庭の中でも、職場でも、全ての場において、男性の上に立ちたくなったのです。

オギャーと産声を上げた当初のフェミニズム運動は、男女の間に存在していた真の問題を浮き彫りにするにあたり貢献しました。

しかしその後、成長していったこの運動の〈こどもたち〉の姿をみると、こういった当初の問題が、再びこん包されてしまった事実をみるのです。

ジェンダーをめぐる戦いは、今も続いているのです。

フェミニストとは誰か

「フェミニスト」という言葉をきいてどんなイメージが湧きますか。

何十年にも及び、その間、女性に対する無数の門戸を開いてくれた運動だと賛同の意を表するでしょうか。

それとも、フェミニストと聞くと、(公にブラジャーを焼くなどの示威行為によって代表される)過激な女性解放運動を連想してしまい、げんなりしてしまうでしょうか。

いろいろなイメージがあると思いますが、私たちは皆、こういったフェミニスト思想を具現しているような方を一人か二人は(直接あるいは間接的に)知っていると思います。

大統領候補をはじめ、福音主義の教授、学生などなど、フェミニズムの定番と称されるような人はいろいろいますが、――実は、かつて私もその中の一人でした。

回心前の私は、典型的なY世代でした。結婚に反対し、子育てに反対し、出世階段をのぼろうと夢中になっていました。

夫や子どものために自分の夢や自立したライフをあきらめるなんて想像もできませんでした。

男の人も好きでしたし、子どもだって好きでした。でも彼らが〈私の〉人生プランの邪魔になるんじゃないかと懸念していたのです。

回心後、私はほんのちょっぴり前とは違った調子で人生の歌を歌い始めました。でも、結婚や家庭に落ち着くことなどに関しては、私は、相変わらず、以前の理想をしっかり握りしめていました。

第三国の人々をキリストの元に導きましょうと、宣教やミニストリーの働きに従事しましたが、その実、私は「宣教にたずさわる独身女性」という身分に満足を覚えつつ、例の部分(古い自分)を覆い隠していたのです。

結婚や子ども、そして人生における自分の目標といったことに関して、聖書が何と言っているかということを真剣に考えてみることはせず、私は相変わらず、わが道を進み続けていたのです。

私は神さまのために「大きなこと」をしたかった。―それの何が悪いっていうの?そんな風に思っていました。

フェミニズムのひそやかで小さな声

私が自覚してなかった(したくなかった)のは、変えられし人生というのは、変えられし優先順位を意味する、ということでした。

それは夫を探しなさいとか、仕事のことで夢をもつのはやめなさい、とかいったことではなく、むしろ問題は、私が、「フェミニズムというのはあくまで教会外の問題。少なくとも、私の所属するような保守的な教会には存在しえない問題」と思い込んでいたことにあったのです。

自分の心の根本的なところで、私は聖書にある神の権威に逆らっていたのです。(主に取り扱われ、変えられなければならない部分はまだまだたくさんありますが!)

回心前、あれほど固執していたフェミニズム思想が、今もって、自分の心の周りを腺毛のごとくびっしり覆っていたことに気づいていなかったのです。

というのも、それは一見してぱっと目につくようなものではなかったからです。

私はフェミニズムを完全には理解しておらず、この思想が私たちに及ぼしている甚大な影響に無知だったのです。

フェミニズムはもはや私たちの文化の一部と化してしまっているため――メアリー・カスィアンが著書『フェミニストの誤り』の中でいみじくも指摘しているように――私たちの多くは、実はフェミニストでありながら、その事実に気づかないでいるのです。

ではどうやったら、それを見極めることができるのでしょうか。私はそれを自分自身の生活の中にも、また友人の生活の中にも、見出してきました。

そう、それはもっともささいかつ巧妙なやり方で自らの正体を現すのです。

戦闘的なフェミニストの陣営からは身を引いていたかもしれませんが、寮の部屋やカフェで同性の友だちとだべりながら、男性をこき下ろすような会話をしている自分がいました。(ここで私が何を言っているのか理解してくださると思います。)

、、彼が私(もしくは私の親友)を振った。夫が「またもや」寝る前に赤ん坊のおしめを換えるのを忘れた。一カ月もがんばって準備してきた重要な会議のことを、こともあろうに上司は忘れてる。牧師は私の状況を分かってくれていない。結婚式に向けていろいろストレスを抱えている私のことをフィアンセは分かってくれない等々、、、

それぞれの詳細はどうであれ、私たちは、自分の身近なところにいる男性に対してイライラしているのです。

そうして、そういったいらだちを同性の友人にぶちまけたいという誘惑におそわれたりするのです。――そしてその「ぶちまける」行為によって、彼をこき下ろすのです。

なぜかというと、彼は、、何と言うかこう、しっかりできていないように思えるからなのです。そして「もし、彼が私のようだったら、そしたら、すべてはいい方向に向かうんだけどね」などと心の中でつぶやいたりします。

そうなのです、みなさん。まさにその時、フェミニズムのひそやかで小さな声が、説得力をもってあなたの耳に語りかけているのです。

権威から後ずさりして

フェミニズムに関して、私たちが理解しなければならないことは、この思想が70年代の〈女性解放運動の目覚め〉にもともとの起源を持つものではないということです。

フェミニズムの母は、実際、『ミス・マガジン』(→アメリカの代表的なフェミニスト雑誌)などよりもはるかに古いのです。

そうです、フェミニズムは何千年も前に、中東のどこかにあった園(=エデンの園)にその発祥をみるのです。そこにいた女性の名前はエバといいました。

フェミニズムは、私たちの堕落した本性の中心に存在し、さまざまな形態をとってその正体を現します。

それは、「この点に関しては僕のことを信頼してくれ」と夫に言われても、そうしたくない自分がいて(自分のやり方の方がいいと思っているから)イライラするような瞬間に現れることもあります。

そうかと思えば、〈ああ、男って本当のところ、自分で何やってるか分かってないんだよねえ〉などと思うひそかな心の動きの中に、その正体を現すこともあります。

フェミニズムは、女性の平等に関することのみ終始しているわけではないのです。――現に、聖書はその問いに対してすでに答えを与えています。神はアダムとエバ、その両方をご自身のかたちに創造された(創世記1:27)と。

フェミニズムとは、正当な権威から離れてしまった(独立した)状態をいうのです。そしてある意味、私たちは皆、その点で回復が必要なのです。

そしてそれは、フェミニストを自称する女性だけでなく、自覚していないけれども、知らず知らずのうちにそういった思想に影響を受けてきた方々についてもいえるのです。

回復された美

フェミニズムからの回復は、まず、主イエス・キリストの福音を受け入れるところから始まります。

そうしてはじめて、問題のルーツが切断されるのです。なぜなら、福音を受け入れることで――自分たちに代わり、みずから進んで御自身を御父に服従させたキリストの謙遜を――私たちは着ることになるからです。

年配の女性にとって、それは、女性らしさ、母親としてのあり方、結婚等を、「テトス2章のやり方」に則って受け入れ、自らその模範になっていくことかもしれません。

また、年若い女性にとってそれは、テレビの中に出てくる有名人ではなく、教会の中にいる敬虔な女性の方により関心をもって、彼女たちの生き方から学んでいこうとする態度であるのかもしれません。

フェミニストのイデオロギーというのは、グローリア・ステイネムのようなタイプの人や、役員室にいる某女性幹部とかいった人々の専有物ではありません。

むしろ、フェミニズムの考えは、教会や家の中、そして一番目立たないような所(鏡の前!)で、ふつうの女性の心の中にわき起こってくるものでもあるのです。

その思想は、イエスの救いの業を離れた、私たちの心の中核にあるものであり、――それは、ただ単に私たちが男性の権威に対し攻撃的になっているというよりむしろ、すべての上に立つ最高の権威である「創造主」に対して、私たちが逆らっていることからきている場合が多いのです。

フェミニストとは「どこか遠くにいる」抽象的な女性ではなく、むしろ、毎朝、身づくろいのため鏡の前に立つ私たちをじっと見つめている人――つまり〈自分〉かもしれないのです。

私たちがジェンダーに関する話し合いを進める中で、まずもって認めなければならないのは、私たちの抱えている問題の本質は――主日の朝、教壇に立つ女性や、父親としての責任をとろうとしないで家にいる人々――といったことよりずっと深いところにあるということです。

むしろ問題は、――義人はだれもおらず、皆等しく、神に逆らっているという事実そのもの――にあるのです。

ある朝起きて、いきなり箴言31章に描かれているような立派な女性になれるかというと、そんなことはありません。

それと同様に、男性も、ある朝起きて、キリストのような立派な指導力をもって家族を導けるわけではないのです。

ジェンダーの違いを、「単に文化的につくりだされたもの」とみなすのではなく、――エデンの園で神の〈善き〉ご計画があったのにもかかわらず、最初の両親(アダムとエバ)が罪を犯した時、それが歪んでしまった――そのことに、私たちはまず目を向ける必要があると思います。

男性と女性をそれぞれ異なったさまに造られるというご行為のうちに、神は、三位一体の交わりの美しさ、そしてキリストと教会の間における関係の美しさを暗示しておられるのです。

こういった美しさにあえて戦いを挑むという事実自体に、私たちの堕落した姿がより一層あらわれているように思います。

私たちの回復

私たちは二重苗字(→夫の苗字と共に結婚前の姓もハイフンでつないで残す。フェミニズムを信奉する人に多く見られる。)を持つ女性たちのことに神経質になっている一方、例えば、女性のために戸を開けてくれるような男性(→旧来のジェントルマン作法)を小バカにする女性のことなど見逃している場合が多くあります。

それは自分にもあてはまります。子どものことよりキャリアを優先しようとしている女性にアドバイスをしてあげた私が、次の瞬間には、自分の思った通りに動いてくれない夫に対してプリプリ腹を立てているのです。

そして、上述のどちらのケースも、私たちのフェミニスト的な心から生み出されるものなのです。

フェミニズムからの私の「回復」は、パイ作りを習ったり、もっと女性らしく振舞おうといったことにあるのではありません。(もちろん、そういったことは、多くの場合、よい助けになりますが。)

むしろ真の回復は、悔い改めにあるのです――コントロールしたいという私の願望、神のお造りになられた秩序に対し拳を突き上げるその心、そういったものからの悔い改めです。

そういった点に関する悔い改めと、キリストへの信仰を通してのみ、私たちは、反逆する心を否み、喜んでイエスの愛のうちに自らを従わせることができるのです。

またそれは、「ジェンダーやそれに関連するその他すべての事について、神の言っておられる御言葉は正しい」と信じることを意味します。

また回復は、教会の女性たちに対する、私たちのアプローチの仕方を180度転換させることを意味しているのかもしれません。

年配の女性から事あるごとに、「まず学位をお取りなさい、それから(結婚を含めた)生活を始めなさい」と言い聞かされ続けてきた多くの若い女性たちが、母親になりたがらないのも無理はありません。

大学の学位よりも家庭を優先し、喜んで結婚していく若い女性をみ、そういう女性を心の中で裁いてしまいそうになる自分を発見する時、「ああ、私のフェミニスト精神がいやされるまでには、まだまだ長い道のりがあるなあ」と思い知らされます。

でも私たちには大いなる希望があります。イエスが私のうちで始められたみ業を完成させてくださると、神は約束されているからです(ピリピ1:6)。

最初のフェミニストであるエバが登場してから今日に至るまで、私たちは肉とサタンに対する壮大な戦いの中に置かれています。

堕落した世界は、キリストおよび教会のイメージを損なおうと戦いをしかけていますが、それは永遠につづくわけではありません。

まもなく、イエスは十字架上でなしてくださったすばらしいみ業を完結してくださり、勝利をもたらしてくださるのです。

元々神がすばらしく造ってくださったにもかかわらず、歪んでしまった他のすべてのものと同様、「女の子孫がサタンを踏み砕く時」(創3:15参照)フェミニズムも、最終的には打ち敗れるのです。

そしてそれは回復をのぞんでいる私たちにとって、どんなにかすばらしい知らせでしょう!


電子書籍『Good: The Joy of Christian Manhood and Womanhood』の第12章を翻訳いたしました。
この本の情報についてはhttp://www.christiantoday.co.jp/articles/13543/20140620/submission-marriage-wife-husband-bible.htmをご参照ください。



満開の月見草

中東の人々が集まる私たちの集会では、イエスさまを信じた人がすべての民族をわけへだてなく愛するよう、彼らを励ましています。

そしてその中でも特に、ユダヤ人に対しては、ことさら配慮し、彼らがユダヤ人を愛し、彼らのためにとりなし祈るよう励ましています。

なぜなら、ユダヤ人に対する憎悪は、幼い時から彼らの脳裏に深く刷り込まれているからです。

「主よ、どうか私たちが具体的にユダヤ人に愛を示すことができるような機会を与えてください」というのが数年来の私たちの祈りでした。

そして主は昨年、その祈りに答えてくださったのです。

山道で疲れ切っていた、あるバックパッカーを助けたのですが、訊いてみると、その青年はイスラエルからの旅人だったのです。

かねてからユダヤ人のために祈っていたイラン人クリスチャンのH兄は、もろ手を挙げてこの旅人(I君)を歓迎し、ありとあらゆる親切を尽くしました。

I君曰く、「生まれてはじめてイラン人の家に泊り、同じ釜の飯を食べた」ということでした。

私はある日、二人が仲良く夕飯を食べている姿を見ていたのですが、「味覚にしても、調味料にしても、食べ方にしてもユダヤ人とイラン人って似ているんだなあ。やっぱり二人とも中東人なんだなあ」と、そのことに新鮮な感動を覚えました。

平べったいアラビック・ナンで、お皿に残った最後のルーをこさいで食べるところまで同じで、思わず笑ってしまったほどでした。

H兄の愛とまごころがI君に伝わったらしく、I君は私たちに心を開いて、いろんなことを語ってくれました。

祖父母がホロコーストの生き残りだったこと。「どうして自分はユダヤ人としてこの世に生まれてきたんだろう」と、ユダヤ人であることの重さに耐えられないものを感じていた苦悶の20代。

そして今ようやく、ユダヤ人としての自分を受け入れることができるようになったことなどを切々と語ってくれました。

また、H兄がどのようにイエスさまを信じるにいたったかを話すと、I君の方も真剣に耳を傾けていました。

そしてI君の旅が終わる頃には、二人の間には固く美しい友情が結ばれていたのです。

そのI君から今週に入って、私たちのところに、2通メールがきました。

「最近は、日に数回は、防空壕に走って避難しています。でも、生きているっていうだけでも、感謝しなくちゃね。

僕たちがユダヤ人であるっていうこと、そして周りのみんなが、特別な理由もなしに自分たちを殺したがっているという事実―、これを受け入れるしかないのかな。

、、どうしてこの世の人々は僕たちが嫌いなんだろう。でも、僕はこれからも、これ(ユダヤ人であること)を背負って生きていかなくちゃならない。」

身につまされる内容でした。I君の心の叫びが聞こえてくるようでした。

「いよいよ危なくなったら、すぐにアテネにおいで。いつでも待ってるから」とH兄が国際電話で伝えました。

現在、イスラエルの情勢は緊迫していますが、中東の和平を心から祈ります。

イスラエル側でI君をはじめとする多くの若者がアイデンティティに悩み、苦悶しているのと同様、パレスチナ側でも、O君やKさんといった具体的な名前をもつ若者が、「なぜ、どうして?」という問いを抱えつつ、生きているのだと思います。

Elias Chacourというパレスチナ人クリスチャン(神父)が、『血の兄弟』という自叙伝を書いていますが、これもまた傾聴に値する、真実な証しでした。

最近は、神学的・政治的イデオロギーによって、クリスチャンが、イスラエル側かパレスチナ側か、どちらかの陣営につくという構図がみられます。

でもひとりひとりの人間をみた場合、どちらの側にも、好戦的な人もいれば、主を愛し平和を愛する神の子もいます。

〈悪の枢軸国〉といわれる国の民の中にも、H兄のような愛にあふれるクリスチャンがいるかと思えば、いわゆる〈クリスチャン国家〉におそろしい狂信者がいたりします。

国籍や民族によって、人にレッテルを貼ることの不条理さをここにも見ることができます。

ネモフィラ


私たちの愛してやまないI君が、いつの日か、平和(シャローム)の君であるイエスさまに出会うことができますように。

そしてフェンスの向こう側にいるパレスティナのO君やKさんの心にも、イエスさまが訪れてくださいますように。

アーメン。

雪と小鳥

1725年、ボヘミアのとある寒村。

その日は特に凍てつくような寒さでした。

夜中の1時になって、ニッチマン家の人々は、戸を開け、音を立てないようにそぉーと外に出ました。

「神さまに信頼しましょうね。主は私たちを追っ手から守ってくださるから。」母さんは、10才のアンナに繰り返し言い聞かせました。

一家は官憲の目を逃れつつ、森を抜け、丘を越え、逃避行をつづけました。

そうして歩き続けること3週間。ついに、彼らはドイツのヘルンフート避難所にたどり着いたのです。

☆☆

アン・ニッチマン

アンナ・ニッチマン(Anna Nitschmann)は、1715年11月24日ボヘミアのクンワルドという村で生まれました。

村の羊飼いだったアンナは、くすしい神のご計画により、やがてモラヴィア兄弟団(Herrnhuter Brüdergemeine)屈指の宣教師として、世界中を駈けめぐることになります。

今、私はわくわくしながら、この原稿を書いています。アンナの人生のうちにも、またその周辺にも興味深いことが山ほどあって、何から書き始めていいのか分からないほどです。

冒頭で、ニッチマン一家の逃避行のことに触れましたが、まずは、ニッチマン一家とはどんな人々だったのか。なぜ、逃げる必要があったのか、モラヴィア兄弟団とは何なのか、そういったところからお話をすすめていくことにしようと思います。

舞台の背景

英国オックスフォードで、ウィクリフの講義を聴講していたプラハ出身の留学生たちによって、宗教改革の思想は、ボヘミアに伝わりました。ヤン・フスもその教えに深く感銘を受けた一人でした。

John Huss
(↑ヤン・フス)

やがてヤン・フスはローマ教会の手によって火あぶり刑に処されますが、彼の思想はボヘミアの人々の魂にますます深く根をおろしていきました。もともと、ボヘミア地方(現チェコ共和国)にはヴァルド派等の非常に福音的な信徒グループが以前から存在していたこともあり、人々の心は福音に対し開かれていたのです。

ボヘミア兄弟団(のちルター派と合流しモラヴィア兄弟団に)は、こういった土壌の中から生まれてきたのです。

しかしそれに続く時代は、カトリックとプロテスタントの間の痛ましい戦争となります。

ボヘミア兄弟団も、政治や戦争に関世するか否かをめぐって分裂します。

そんな苦難の時代にあって、兄弟団の中に、ヤン・アーモス・コメンスキー(Jan Ámos Komenský)という逸材がでます。

Jan Amos Komensky
(ヤン・ア―モス・コメンスキー)

コメンスキーは、兄弟団が政治や戦争に関わることを認めませんでした。

1620年の白山の戦闘とそれに続く、カトリック側からのプロテスタント民衆に対する大虐殺が起こった時、彼はモラヴィアのフルネックにある兄弟団の牧師を務めていました。

その後、スペイン軍の攻撃により、彼は逃亡を余儀なくされ、ゼロティンにあるカールの城に避難しました。

しかし、その後、彼および亡命者たちはゼロティンからも追われ、ついに祖国を永久に去らなければならなくなります。コメンスキーは、全ての所持品を失い、妻子も困窮のためにすでに死んでいました。

彼らは山道を歩き、スィレスィア地方を通って、ポーランドに向かって逃避行を続けていました。

1628年1月の寒い夜、コメンスキー率いる一行は、ボヘミアを見渡すことのできる最後の峠で歩みを止め、食い入るような目で、もう一度、愛する故郷をながめました。

そして彼らはそこで賛美歌を歌い、ひざまずいて祈りました。

コメンスキーは、絞り出すような声で天の父に、「ああ父よ、この民をあわれんでください。どうか彼らのうちに、隠れた種を保ち続けてください。」と祈りました。

The Map of Moravia


〈隠れた種〉

はたしてコメンスキーの祈りはむなしく地に落ちることはありませんでした。

激しいカトリックの統制の下にあっても、少数の家族は、福音書を隠し持ち、秘密裏に集会を持ち続けました。マルティン・シュナイダー(アンナの高祖父)もその一人でした。

その後も、アンナの祖父サムエル、父デイヴィッドと、それぞれが伝道者として地下の集会を守り続けました。


病床にあったゲオルグじいさんの預言


また、近郊の村にはゲオルグ・ヤスフクという老信者がいました。ゲオルグじいさんは、最後まで「バアルに膝をかがめなかった」一人として皆に尊敬されていました。

そのじいさんが、亡くなる直前、皆を前にこのようなことを語ったのです。

多くの信者はこの世に自分を売り渡し、教皇の宗教は、彼らを食い尽くしている。もはや兄弟団のいのちは燃え尽きているかのようにみえる。

しかし、子どもたちよ、聞きなさい。今に偉大な解放の時がくる。残されし者は救われるのだ!

この解放がモラヴィアで起こるのか、それともお前たちが、『バビロンから出て行かなければならない』のか、それははっきり分からない。

でも、これはそう遠くない未来に起こるだろう、、、解放の時がきたら、即行動に移しなさい!ぐずぐずしていてはならない。




神の選びし器 


ゲオルグじいさんが亡くなってすぐ後、モラヴィアの山間でヤギ飼いをしていた一人の少年が、大工の手伝いとして町に出てきました。彼の名はクリスチャン・デイヴィッドといいました。

彼の親方はドイツ系の兄弟団のメンバーでした。読み書きのできなかったクリスチャン・ディヴィッドは、親方の8才になる息子にアルファベットの読み方を教えてくれるよう頼みました。

そんなある日、彼は自分の屋根裏部屋の軒の下に、ほこりをかぶった古い小冊子を見つけました。―それは昔々、兄弟団の出版した福音トラクトでした。

クリスチャン・デイヴィッドは、来る日も来る日もその小冊子を読み続けました。生まれてはじめて、彼はキリストの道と神の国についての福音を知ったのです!

そしてすぐさま周りの人々に、福音について語り始めました。しかし人々は「黙った方がいい。さもなきゃ、お前の首はチョキンって切られるよ。」と警告しました。

キリストに対する飢え渇きでどうしようもなくなった彼は、その後、数年というもの、スロバキア、オーストリア、ハンガリー、ポーランド、ドイツの各地を徒歩で移動しつつ、主を敬う兄弟姉妹を求めて放浪しました。

どこにいっても彼は笑い物にされ、その旅は失望の連続でしたが、ついに彼は、ドイツのゴルリッツで、フィリップ・ヤコブ・スペンサーに影響を受けた真摯な敬虔派の人々に出会ったのです。

そして彼はそこで出会った敬虔な信者であるツィンツェンドルフ伯爵に、母国モラヴィアの信者たちの悲惨な境遇について話しました。

すると、伯爵は、「自分の領地にはずいぶんと空きがあるから、そこに迫害されているモラヴィアの信者たちは移り住んだらいい」と言ってくれたのです!

それを聞くや、勇敢な青年クリスチャン・デイヴィッドは、立ち上がり、モラヴィアに向かって300キロ以上の山道を徒歩で進んでいったのです。

当時、「異端(=非カトリック)」の教えをひろめる者は、官憲に見つかり次第、殺されていましたので、彼のモラヴィア行きは、文字通り、命をかけたものでした。

1722年5月26日夜10時、クリスチャンは、最初のモラヴィア信者の一行を率いて、決死の国境越えをしました。(その後も彼は、10回余にわたり、モラヴィア信者救出のためにこの危険なタスクを敢行しました。)

1724年、ついにクリスチャン・デイヴィッドがアンナの住む村にもやって来ました。当時、アンナは8才でした。

クリスチャン・デイヴィッドの出現により、うちひしがれていたクンワルド村の信者は大いに励まされ、信者の間に霊的復興が起こりました。特に、アンナの兄メルヒオールの信仰は赤々と燃え上がりました。

兄メルヒオールは週に三回、自宅で集会を開きましたが、200人もの村人が押し寄せるというかつてない活気ぶりでした。

当時の様子についてアンナはこう書き記しています。

私の魂はおおいに鼓舞され、私は公の集会でも祈りはじめました、、、父と兄メルヒオールは、しょっちゅう、当局に召喚され、集会を開いていたかどで投獄されました。私はそれを喜びました。そして自分にはその枷を共に負うことが許されていないことが悲しくて仕方がありませんでした。



しかし迫害もまたさらに激しさを増し、アンナの父をも含めた多くの信者が再投獄されました。


奇跡の脱出


1725年1月24日木曜の夜。冷たい監獄の床に座っていたアンナの父は、「今夜、自分は出獄する」という内なる示しを受けました。

その時のことを、アンナの父は回想して、次のように証言しています。

私たち(→アンナの父と仲間のシュナイダー兄弟)は、夜の11時までじっと待っていました。この鎖をどうやって断ち切るか、私は思いあぐねていました。私は右手でナイフをつかみ、左手で、頑丈かつ新品の錠を持ち上げました。でもなんと、錠はすでにはずれていたのです!歓喜の涙があふれました。

私はシュナイダー兄に言いました。『ここから出るというのは確かに主のみこころだと思う。』

それから私たちは鉄製の足かせを取り外し、無言のうちに仲間の囚人たちに別れを告げました。

そしてはしごを探しに中庭に出ました。私は門の方に向かいました。―そこは毎晩、二つ別々のドアで閉ざされていました。

ところが、一番目のドアが開いているではありませんか!そして廊下に出ると、さらに二番目のドアも開いていたのです。-これは「そのまま進みなさい」という主からの、もう一つのサインでした。



こうして奇跡的に脱獄したアンナの父でしたが、折しも、クリスチャン・ディヴィッドが再び村にやって来て、この一家の逃避行を助けたのでした。冒頭のアンナと母との会話は、その晩になされたものです。


世の誘惑とつまずき


1725年、ニッチマン一家は、ツィンツェンドルフ伯爵領ヘルンフートにたどり着きました。

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この頃、思春期を迎えつつあったアンナは、神さまから離れて、次第に世的になっていく自分のことを両親と兄メルヒオールが心配していたと書き記しています。

それに加え、ヘルンフートに逃れてきたさまざまな教派のクリスチャン(モラヴィア兄弟団、ルター派、改革派、敬虔派等)の間で教義をめぐったいざこざが起こり、口先ばかりで愛のない大人たちの姿に少女アンナはつまずきを覚えたようです。

しかしその間中、兄メルヒオールは妹の救いのためにとりなし続けていました。アンナはこう書き記しています。

でも、ときおり、兄のメルヒオールが夜中に祈っている声が聞こえてきました。兄は、『主よ、どうかアンナの心を変えてください。そして妹をあなたのはしためにしてください』と切に祈っていたのです。こうした兄の祈りに私の心は打たれました。




1727年リバイバル


そんな中、主は驚くべきみ業をなしてくださいました。

いさかいと意見の衝突で共同体崩壊寸前にあったヘルンフートに、1727年、一大リバイバルが起こったのです。

ツィンツェンドルフの指導の下、5月頃から、人々の間で悔い改めが起こり、それにつづいて特別祈祷会がはじめられました。人々は公に罪を告白し、いがみあっていた人々はお互いに赦しをこい、いたるところに和解がもたらされました。

そして8月13日、感動の聖餐式が行われました。会衆の上には、圧倒的な主の愛がのぞみ、賛美の声と泣く声が会場を満たしました。

皆、小羊イエスの前に、心くずおれ、一つ心で主を礼拝したのです。「ここが天国なのか地上なのかわからないほどだった」と信者の一人は記しています。

そしてこの日、モラヴィア兄弟団は事実上、「再生」し、息を吹き返したのでした。

ルター派とのかかわりをどうするかという課題に対しても、ツィンツェンドルフは、教会の中の共同体(church within the church)としてモラヴィア兄弟団がルター派のフレームの中で、独自の存在として存続しつづけることを寛容にも認めてくれました。

この〈教会の中の共同体〉というコンセプトは、その後、ジョン・ウェスレーが、英国国教会の中にメソディスト・ソサエティを設立した際にも活かされました。


子どもリバイバルとアンナの回心


そしてこの霊的復興の火は、スザンナという一人の子どもを通じて、ヘルンフートの子どもたちにも飛び火しました。

スザンナ・クーフネルは11才になる女の子でしたが、彼女のお母さんが5月に亡くなりました。

天国を待ち望みつつ、喜びに満ちて召されていった母の姿をみたスザンナは、その日から三日三晩、主の前にひざまずき、主をひたすら求め続けました。

そして8月のある日、スザンナは父の所へ駈けていって、こう言ったのです。「パパ。ついに私も神の子にされたよ。ママが感じていたこと、そして今も感じていることーそれが今、私にも分かるの!」

そして翌日、スザンナはアンナをはじめとする、友だちにも力強く証しを始めたのです。その時のことをアンナはこう記しています。

あの時期、共同体全体に、大きな霊的覚醒が起こり、それは特に子どもたちの間において顕著でした。子どもたちは夜、野や森の中に行って、主を求め続けました、、、

私の心は溶かされました。涙があふれて止まりませんでした。私は全身全霊で救い主を求め、主の赦しを切に請い始めました。




100年続いた「祈りのチェーン」


その後すぐ、教会の有志14名によって、24時間体制のとりなしの祈りが提案されました。数日後には、志願者は72名に増え、彼らは、1時間ごとのシフトを組み、祈っていきました。

そしてその祈りのチェーンは、途切れることなく、なんとその後、100年にも渡って続いていったのです!

ちなみに、アンナのシフトは、午後2時から3時まで、でした。


アンナの成長


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アンナと9人の少女たちは、小さな祈り会を結成し、お互いに励まし合いつつ、奉仕していきました。この時期の気持ちを彼女は次のように述べています。

感謝と愛にあふれ、私の心は、主にお仕えしたいという熱い願いで燃え立っています。この世のすべては私にとって、意味をもたないもののように思われます。

永遠―これだけが私の唯一の思いであり、あこがれです。



1730年3月17日、思いがけず、アンナは15才という若さで、コミュニティーの女子部のリーダーに選ばれます。

「このあわれなはしために、主が力を与えてくださり、主が歩まれたように歩むことができますように」というのが彼女の祈りであり、願いでした。


霊的スランプとそこからの回復


しかしその後、アンナは数年間、霊的にも精神的にもつらい時期をすごします。

その原因が何だったのか詳しくは分かりませんが、一つには、霊的プライドの問題、もう一つは、いわゆる「うつ病」に悩まされたのではないかと思われます。

やがて、そんなアンナに転機が訪れます。

モラヴィア兄弟団には、宣教のビジョンが与えられ、早い時期から西インド諸島や、グリーンランド等に宣教師を送り出していましたが、アンナはロンネベルグ城を拠点とした地域に派遣されることになったのです。

アンナはそこでの使命に奮起しました。

私は周辺に住む貧しい少女たちとお友だちになるよう努めました。そしてすぐさま彼女たちの信頼を得ることができたのです。

少女たちの家族は、彼女たちの教育を私に託してくださり、私はこの機会を用いて、救い主の愛を彼女たちに伝えました、、、主は私たちと共におられました。奉仕をする中で、私は本来の明るさと自分を取り戻すことができたのです。



これは私たちにとっても励ましとなる証しではないでしょうか。私たちの霊的旅路においても、時にはつらくてもう一歩も進めないような時期があると思います。

でも、そんな時でも、いや、そんな時だからこそ、私たちは同じような苦しみの中にある同胞に心から寄り添い、彼らを励ますことができるのです。

神は、どのような苦しみのときにも、私たちを慰めてくださいます。こうして、私たちも、自分自身が神から受ける慰めによって、どのような苦しみの中にいる人をも慰めることができるのです。
Ⅱコリント1:4



その後もアンナはツィンツェンドルフ伯爵の妻であるドロシーと共にオランダ、フランス、イギリスへと宣教旅行に赴き、さらに新大陸にも伝道者として派遣されました。

ペンシルバニア州ベツレヘムに移動したモラヴィア宣教団は、自分たちで建てた、小さな掘立小屋の中で、貧しくも愛あふれる共同生活をスタートさせました。アンナはこう書き記しています。

ここベツレヘムがどんなにすばらしいか言葉で表現できないほどです。こんなに幸せを感じたのは生まれてはじめてです。みんな子どものようにお互いを愛しく思っています。

私たち罪びとを、これほど祝福された恵みの子にしてくださったのは、神の小羊に他なりません。



アンナはヨハンナ・モルセールという姉妹と共に、ペンシルバニアのドイツ人移住区を訪れ、そこにいた多くの女性たちをキリストの元に導きました。ヨハンナは貴族の出でしたが、福音のために自分の高い地位を投げ捨て、献身の人生を送った女性です。

こうして、アンナという羊飼いの娘と、貴族出のヨハンナは、キリストにあって、文字通り、「一つ」にされ、同労者として、共に福音伝道に励んだのです。なんとうるわしい姿でしょうか。

さらにアパラチア山脈を越え、険しい山道を登り下りし、アンナたちはアメリカ先住民にも福音を伝えに行きました。宣教団を率いるツィンツェンドルフは、日誌の中で、アンナのことを「我々のうちで、最も勇敢な人」と称賛しています。

少し脱線しますが、ここで、ツィンツェンドルフ伯爵についてすこしお話したいと思います。

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(↑ツィンツェンドルフ伯爵)

というのも、教会史の中でも、これほど個性的で、味のある人物はそういないと思うからです。

確かに、彼の神学には少しバランスの取れていないところもありました(例えば、イエスの血潮と御傷をあまりに強調しすぎた時期がありました)。

でも、キリストに対する彼の献身およびその忠誠心を疑う人はだれもいないと思います。

なんといいましょうか、彼は、情熱と善意のかたまりのような人なのです。壮大なスケールで物事を考え、また、それを実行に移す人でもありました。

詩心にも富んでおり、即興で賛美歌を作って、歌ったりもしていたそうです。(その分、事務的な作業はちょっと苦手だったようです)。

こんなほほえましいエピソードも残っています。インディアン居住地に伝道に行った時のことですが、現地のインディアンが伯爵の服のボタンに興味を持ち、「おみやげにぜひくれ」というのです。

寛容なツィンツェンドルフは「はい、いいですよ、お好きなだけ、どうぞ」と言いつつ、結局、すべてのボタンや留め金をあげてしまい、帰りには、糸で服を結びつけなければならなかったそうです。

でも本人はいっこうに気にせず、相変わらず、うれしそうにしていたということです。

また、これはヨミング渓谷に野宿した時のエピソードですが、おっちょこちょいの伯爵は、へびのねぐらの上に自分のテントを張ったらしいのです。

夜、書き物をしていた伯爵の足の間を、へびがくねくね動き回っていたそうですが、無我夢中でペンを走らせていた伯爵はぜんぜん気づかなかったそうです。

そんな伯爵でしたが、妻ドロシーの死後、ひどい喪失感に苦しみました。

その後、周りの兄弟たちの勧めもあり、ツィンツェンドルフはアンナに結婚を申し込み、2人は1757年、結婚しました。

伯爵階級の者が、農民出身の娘と結婚するというのは当時の社会では、考えられないことでしたが、キリストにある二人にとっては、そんなことは障害になりませんでした。

その後も二人は精力的にヨーロッパ各地のモラヴィア教会を巡回し、兄弟姉妹を励ましつづけました。


おわりに


結婚後わずか三年後、二人は急病にかかり、ツィンツェンドルフは1760年5月9日に、アンナは二週間後の5月21日に召されました。アンナ44歳でした。

アンナは自分の家族についてこのように書いています。

私がイギリスに滞在していた時、私の父は西インド諸島からヘルンフートに戻ってきました。母は、(西インド諸島で奉仕中)当地で亡くなりました。

兄のメルヒオールは、ボヘミアの地で絞首刑(殉教)となりました。兄は、主イエスゆえに、1729年、シルドベルグ刑務所にて生涯を終えました。(享年27歳)

兄はまことの主のしもべでした。多くの人々が今も彼のことを追憶しています。

姉はフットベルグに埋葬されています。

唯一生き残っている兄ジョンは、最近、ラップランド宣教から戻ってきて、今はロンネベルグで奉仕しています。(その後ロシアのサレプタに宣教に行き、当地で亡くなりました。)

いつの日か、小羊の御座の前で、みんなと再会できますように。



主は、モラヴィアの羊飼い娘を引き上げ、おどろくべきみ業をなしてくださいました。

モラヴィアの村からヘルンフートへ、そしてヘルンフートから世界各地へと、アンナおよびアンナの家族は、文字通り、主の使命に生き抜いたのです。

主は、弱い者をちりから起こし、貧しい人を、あくたから引き上げ、高貴な者とともに、すわらせ、彼らに栄光の位を継がせます。サムエル記Ⅰ2:8



また、アンナの生涯を通して教えられるのは、私たち信仰者が時空を超えて、お互いにつながっているということです。

アンナの救いの背後には、兄メルヒオールの切なるとりなしの祈りがありました。

また兄メルヒオールを霊的に目覚めさせるにあたって、主は、ヤギ飼いの青年クリスチャン・デイヴィッドを尊く用いられました。

そのクリスチャン・デイヴィッドの救いは、モラヴィア派の信者である親方の家で、小さな福音トラクトを見つけたことにより始まったのです。

そしてそれは、祖国を追われ、逃避行を続けていたアーモス・コメンスキーの祈りの答えでもありました。

主は確かに、モラヴィアの地に〈隠れた種〉を保っていてくださったのです。

その他、ヤン・フス、ウィクリフ、、、とこのリストはどこまでも続いていきます。

こうして信仰のともしびは、いにしえより、一人からまた一人へと手渡され、現在に至っているのです。

そして、今、このともしびは私たちの手にあります。

さあ、私たちは誰の心に、このともしびをともしていくのでしょうか。

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(おわり)


付録

モラヴィア兄弟団についてもっとくわしく知りたい方へ

オンラインで読める本(英語)

Mike Atnip, Handmaiden of the Lamb, the story of Anna Nitschmannココをクリック

Peter Hoover, Behold the Lamb, the story of the Moraviansココをクリック

Mike Antip, Scenes of the life of David Zeisbergerココをクリック



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アテネも日増しに暑くなってきています。先日、大学前でバスを降り、大勢の学生の後ろに続いて、私も高台にあるキャンパスへと坂を上って行きました。

と、前方を歩いていく学生のみなさんを見ながら、私はこんな思いにとらわれたのです。

〈今、私はほんとに大学に向かっているの?それともここは海水浴場?〉

すぐ前を歩いていた若い女子学生は、短パンに、上は、背中が全開の、前掛けのようなタンクトップを着ていました。

もちろん個人差はありましたが、右を見ても、左を見ても、露出度においては皆、似たり寄ったりでした。夏の服と、水着との区別がすでにぼやけてきているのです。

〈ああ、どんどん変わっていく、、、〉

3年前より、2年前、そして去年より今年、、とアテネ大の女子大生のファッションが急激に変化していっているのを改めて私は驚きの目でみました。

私自身の罪の告白

でもどうか誤解しないでください。私は、こういったことを、裁きの高台から見下ろすようにして言っているのではありません。

もし私が裁きの矢をだれかに射るのだとしたら、それはまず、他でもない自分自身に突き刺さるでしょう。

というのも、私は過去、自分の服装のことで、教会の兄弟をつまずかせてしまったからです。その事で、ある一人の姉妹が個人的に、私をいさめてくださったことさえありました。

でも私は「自分には罪を犯しているという自覚がない」と答え、かたくなにも自分流のファッションを続けたのです。

海外でも一度、ある姉妹に、同じような事で忠告をうけました。しかしこの時も私は心を低くして、忠告に耳を傾けることをしませんでした。

そんな私を、主は忍耐し続けてくださいました。そしてある日ついに、主ご自身が直接、私を叱ってくださったのです。それは次のことばによってでした。

イエスは弟子たちにこう言われた。

つまずきが起こるのは避けられない。だが、つまずきを起こさせる者は、忌まわしいものです。この小さい者たちのひとりに、つまずきを与えるようであったら、そんな者は石臼を首にゆわえつけられて、海に投げ込まれたほうがましです」(ルカ17:1,2)。

このみことばによって、一人の兄弟をつまずかせることの罪の大きさ、その深刻さが、その時、はじめて分かったのです。

何年も前に、姉妹から戒められた時には、涙一つ流さず、平然としていた私ですが、その日の夜、私は自分の犯してきた罪を嘆き悲しみました。

その後、タンスを開け、自分の服を一着、一着、主の前に広げ、「あなたに喜ばれない服、そして兄弟たちを(性的に)挑発するような服を示してください」と祈りました。

そして示された服をことごとくビニール袋に詰め、可燃物用のゴミ箱に捨てに行きました。

神よ。御恵みによって、私に情けをかけ、あなたの豊かなあわれみによって、私のそむきの罪をぬぐい去ってください。

どうか私の咎を、私から全く洗い去り、私の罪から、私をきよめてください。

(詩篇51:1,2)

さまざまな反応

こうして悔い改めに導かれたのですが、その後、こうした私の内面的・外面的変化は、周囲にいろんな反応を引き起こしました。

ほめてくれる人もいれば、非難してくる人もいました。

「成長した」と言ってくれる人もいれば、「律法主義者」だとけなす人もいました。

「若いのに、おばあさんみたいな格好をして!」と笑われたこともあります。なかには、「あなた、イスラム化したね」と言ってくる人もいました。

人はさまざまなことを言います。でも、神さまは私たちの心をご存じです。

ただ、〈イスラム化〉というコメントには、一言説明をしておく必要があるように思います。

服装におけるイスラムの慎みは、modesty by force (強いられた慎み)と表現できるように思います。それに対して、私たちクリスチャンのそれは、modesty by (or out of ) love (愛による・愛を動機とした慎み)といえましょう。

両者は似て非なるものです。根本の動機において異なっているからです。

私たちが強制されてではなく、隣人である兄弟を愛する心から、進んで自発的にみ旨に従ってほしいと主は願っておられるはずです。

あなたがたは、自由を与えられるために召されたのです。ただ、その自由を肉の働く機会としないで、愛をもって互いに仕えなさい。

律法の全体は、「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。」という一語をもって全うされるのです。

ガラテヤ5:13,14

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おわりに

〈姉妹の服装〉や〈慎み深さ〉とかいったテーマは、今日、教会でほとんど説かれることがなくなりました。耳ざわりの悪い話だと、タブー視されている感さえあるほどです。

でも私は思うのです。現在ほど、こういったメッセージが必要とされている時代はないと。

世俗文化は、ごうごうと激しい音をたて、おどろくべき早さで、下流の方へ流れ込んでいっています。そして、その濁流は、右に左に拡がる一方です。

ヨーロッパや北米で始まる新しいファッションは、少し間をおいた後に、必ず日本にもやってきます。アテネで今、私が目にしているファッションは、近い将来、日本でも流行っていくものなのです。

そんな中で、罪深い文化に染まらず、みことば通りに生きようとするクリスチャンは、あたかも、濁流に逆らいつつ上流に向かって泳いでいこうとするちっちゃな稚魚のようです。

でも稚魚はひとりぼっちじゃありません。

稚魚は、なかまの稚魚たちと肩を寄せ合い、はげまし合いながら、いっしょに前進していくのです。

ああ主よ、わたしたちをどうぞ助けてください。この世の濁流に押し流されることがないよう、一人一人に勇気と力を与えてください。

私は、今日、特に愛する同胞の姉妹たちのために祈ります。

どうか私たち姉妹が、この世の基準と妥協することなく、あなたへの愛ゆえ、隣人(兄弟)への愛ゆえ、慎み深さをもって身を包むことができますように。

そして願わくば、そういった慎み深さを通し、この世の人々が、あなたの聖さ、あなたの麗しさを見、あなたに引き寄せられますように。そして、あなたの御名がほめたたえられますように。

イエスさまの御名によって祈ります。アーメン。

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「ああ、あの人のようなクリスチャンになりたい!」そう思ったことはありますか。

私にはそういう模範となるべき人が少なからずいます。

自分を最初にキリストに導いてくれた韓国の姉妹がそうですし、アテネの貧民街で無私の奉仕をしておられるシスター・Eなどがそうです。

いえ、それだけではありません。うれしいことに、私は、過去の世紀に生きた信仰の先人たちの中にも、そういう人物をみいだしてきました。

ヘスター・ギボンは、私にとってそんな一人です。

ヘスターは、歴史的にはまったく無名な人です。彼女は、『ローマ帝国衰亡史』の著者である英国の歴史家エドワード・ギボン(1737~1794年)の叔母さんにあたる人なので、そのつながりで少々名前がでてきますが、ただそれだけです。

彼女に関する伝記があるわけでもなく、彼女が何か後世のために書物を残したわけでもありません。

それにもかかわらず、ヘスター婦人は、死後300年余り経った今に至るまで、世界中のクリスチャンの心をとらえつづけているのです。なぜでしょうか。

それは、彼女の霊的指導者(ウィリアム・ロー)の著した不朽の名作A Serious call to a devout and holy life(=『敬虔で聖い生活への厳粛な招き』1728年)の中で、ヘスターの信仰生活のことが生き生きと描き出されているからです。

私がヘスター・ギボンにはじめて「出会った」頃、アテネは暴動のただ中にありました。

中心部は封鎖され、いっさいの交通機関がストップしていました。さらに清掃業者の長期ストライキで、いたるところ、ゴミが散乱していました。

この先、どうなっていくのだろうという不安が、重ぐるしい雲のように、社会全体を覆っていました。

そんな中、私は自室で、静かにページを繰っていました。

時空を超え、ヘスター・ギボンの清らかな生涯は私の心に訴えかけてきたのです。

さあ、これから、ごいっしょに、ヘスターの人となりについて、みていくことにしましょう。

ウィリアム・ローのこの作品は、すでに著作権切れとなっていますので、所々、私訳(意訳)していきます。なお、ヘスターは、本書の中で、ミランダという名で登場しています。


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ミランダは、落ち着いた、分別あるクリスチャンです。

両親の死後、彼女自身が、みずからの時間や財産を管理する立場におかれましたが、その時、彼女がまず考えたことはこうでした。

『この短い人生の中で、神さまに託されたこれらの時間とお金を、いかに用いてゆくべきなのでしょう。』

彼女は、主の仰せられた〈どうしても必要な一つのこと“one thing needful”〉(ルカ10:42)という真理に目を留め、自分の人生全体を、そのみことばに従わせることにしました。

彼女にとって――何かをする・しない、何かを好む・もしくは好まない――唯一の理由はただひたすら「神のみこころ」にありました。

彼女は、謙遜さ、愛、献身、節制、そういったものを通して、キリストに従うべく、この世を否んだのでした。

☆☆
彼女がまだ母親の管理の下にあった時のことですが、当初、彼女は、上流社会の淑女としてのふるまいを強いられていました。

さまざまな祝賀会に明け暮れ、夜更かしし、流行ファッションに身をつつみました。
日曜日は、お化粧して身を飾りたくった上で教会に行き、秘蹟にあずかりました。
さまざまな社交上の会話、劇場やオペラ通い。
舞踏会で踊れば、キザ男たちが彼女の美しい体とその優美な動きに魅了されました。

こういった前半生を思うとき、彼女は、「残りの半生、私は新しく生きよう」と固く決心したのでした。

ミランダは、自分の献身を――神、隣人、自分自身――と三分するようなことはせず、全てを神に対する奉仕と考えました。

そして全てのことを、主の御名により、主ご自身ゆえに行なったのです。

それゆえに、彼女は、自分の財産を神さまからの贈り物と考え、それを賢明な目的のために用いること、それが敬虔なクリスチャンとしての生涯を送る上で、不可欠なことだと思いました。

それで、彼女の財産は、自分と、幾人かの貧しい人々の間に分配されました。そして自分自身、必要な分しか受け取りませんでした。

他の人にお金を与えても、もしその人たちがそれをむだに浪費してしまうなら、それは愚かなことですが、ミランダは、それを自分自身にも適用したのです。つまり、彼女自身、むだな浪費をみずからにゆるさなかったのです。

ミランダはこう言いました。「ある貧しい人が、衣食にも事欠いているのに、施されたお金をつまらないことに浪費してしまうのは、愚かであり、罪でもあります。

しかし、私が自分の手の内にあるお金を、意味のない娯楽のために使うことはどうでしょうか。私は、かの貧しい人よりも、愚かでもなく、罪もないということができるでしょうか。いえ、そんなことはありません。

浪費してしまった私のお金は、神さまのご用のために、隣人への愛の行ないのために善用できていたはずなのです。」

これがミランダの精神でした。

食費を除き、彼女が一年間に、自分自身のために使うお金は10ポンドにも満たないほどでした。

彼女を見る人は、彼女の質素な様子に驚くかもしれません。しかし、ミランダは質素ではあっても、おどろくほど清潔にきちんと身をつつんでいました。

服装にかんして、彼女にはただひとつの基準がありました。それは〈いつも清潔に、そしてできるだけ安い物を〉でした。

彼女にまつわるすべてのものは、彼女のたましいの清らかさを物語っていました。そして外見的にみて、彼女はいつも清潔でした。というのも、彼女の内側がいつも清らかだったからです。

毎日、夜明け前に、彼女はすでに祈っていました。共に住んでいる人々にとって、彼女はあたかも守護天使のようでした。というのも、彼女は自分の住んでいる場所を祝福しつつ、眠っている人々のためにとりなしの祈りをしていたからです。

☆☆

立ち働いている彼女をみると、そういった知恵が、他のすべての行為をも治めていることに気づきます。彼女はいつも、自分の必要、もしくは助けを必要としている人々の必要のために何かを行なっていました。

近所の貧しい家庭で、彼女の編んだ服を着ていない人はほとんど皆無でした。彼女の賢く、敬虔な心は、この世の娯楽を求めることなく、意味のない愚かなことにかかわることをいさぎよしとしませんでした。

食事に関しても、ミランダは、「あなたがたは、食べるにも、飲むにも、何をするにも、ただ神の栄光を現わすためにしなさい」(Ⅰコリント10:31)という聖書のルールに従っておごそかに生きていました。

彼女にとっては、食事も、献身の行為の一つでした。彼女の日々の食事にはただ一つの目的がありました。それは、自分の肉体を、この霊的レース(聖さ、清らかさ、天的な愛を求めるレース)のために、よりふさわしいものにすることでした。

☆☆

聖書――とりわけ新約聖書は――、彼女の日々の糧でした。彼女は注意深く、みことばを読み、そこで語られている教えに自分自身を照らし合わせました。

新約聖書を手に取る彼女は、自分自身が、あたかも救い主や使徒たちの足元にいるように考えました。そしてそこから学んだことを一つ残らず、人生の掟として生活の中で適用していこうとしました。

☆☆

彼女の愛の行為(施し)についてですが、それは20年間途切れることなくつづいた、日々の実践の歴史といってもよいでしょう。というのも、今日にいたるまで、彼女のお金はそのように用いられてきたからです。

彼女は事業に失敗し、貧困にあえぐ小売商人を20名余りも助け、その他、多くの商人を破産の危機から救いました。

彼女は幾人かのストリート・チルドレンを引き取り、彼らに教育を施しました。

ある労働者が病床についているという知らせを聞くや、ミランダは彼が回復するまで、この人の給与の二倍額にあたるお金を送りつづけました。

そうすることで、これまで通り、彼は自分の家族を養うことができ、また残りのお金で薬などを買うことができるからでした。

大家族を十分に養うことのできない貧しい労働者のために、彼女は家賃を払ってあげ、毎年、衣類を送ってあげました。

心がねじけ、周囲から疎んじられている貧者に対しても、ミランダは気を配りました。そしてこういった人々が困難の中にあるということを聞くや、すぐに助けに走りました。

ミランダのうちに見られる、このような性質ほど称賛に値するものはありません。というのも、もっともなおざりにされている罪人に対する、こういったやさしい思いやりこそ、敬虔なたましいの極みだからです。

☆☆

彼女は引退した高齢者の方々に対しても、非常な愛情を注いでいました。教区の年金だけではまともな暮らしをしていけない方々が多くいました。そのため、彼らはミランダの絶えざるケアの対象でした。

そこには、彼らが生活の心配から解放され、平安と静寂のうちに神に仕えることができるようにという彼女の配慮がありました。

実際に、彼女の愛の行為と励ましにより、余生を敬虔と祈りのうちに過ごした方々も少なくありませんでした。

また、貧しく年老いた旅人が「私には力もなく、お金も、食べ物もないのです」と言ってきた場合、彼女はこういった旅人を追い返すこともなく、彼が詐欺師ではないかと疑ったり、自分の知らない人だからという理由で拒んだりすることはありませんでした。

逆に彼女はこの人が見知らぬ人であるという理由ゆえに、あえて彼を受け入れてあげました。

というのも、私たちがこれまで会ったこともない人、そしておそらくこれから二度と会うこともないだろう人に対して親切を尽くすというのは、愛の行為の中でも、もっとも気高いものだからです。

、、、神のために生きること、時間とお金の使い方、食べること、働くこと、着ること、言葉を交わすこと――それらを実際するにあたりミランダがみずからに課した規律は、デボーションや祈りといったものと同じように、敬虔な人生に欠かせないものでした。


☆☆

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おわりに

この本を読んだ18世紀のイギリスに霊的覚醒が起こりました。

この本の中で触れられている、ヘスター・ギボン(ミランダ)をはじめとする敬虔なクリスチャンの記録は、ジョン・ウェスレー、チャールズ・ウェスレー、ジョージ・ウィットフィールド、ウィルバーフォースといった人々の人生に絶大な影響を及ぼしました。

20世紀に入ってからも、C.S,ルイス、アンドリュー・マーレ―、ジョン・パイパー等、この書から感化を受けた人は少なくありません。

しかし、後世への影響など、ヘスターにはさして重要ではなかったと思います。

彼女にとって、唯一大切だったのは、ひたすら主を愛し、主に喜ばれる人生を送ることだったのです。

「自分の口ではなく、ほかの者にあなたをほめさせよ。自分のくちびるでではなく、よその人によって」(箴言27:2)。

今日も、日本の、そして世界のいたるところで、ヘスター・ギボンのような姉妹(兄弟)が、静かに祈りをささげつつ、神のため、隣人のため、奔走しておられます。

そして、こうした方々は、〈どうしても必要な一つのこと〉だけに目を注ぎつつ、(本人は自覚していなくても)それぞれ置かれた場所で、「光」として輝いているのです。


この記事を読んでくださったみなさんを心から応援しつつ。

(おわり)

第五章 モニがふたたび歌うとき


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パウラは、翌朝に早く起きたかったので、モーニングコールを注文しておきました。

 やぎかいの男の子がきたら、その場で直接あって話したいことがあったのです。

 昨日の夕方に、じっくりとホテルの主人と打ち合わせをしてありました。 話が終わってご主人のリビングルームから出てきたパウラは、とても満足そうです。

 なんでしょう? 

 思わずニコニコしてしまうことを、ご主人と決めてきたに、ちがいありません !

 

 朝になって、やぎかいの少年がヤギたちと一緒に近よってきたときには、 もうパウラは建物の前に立っていて、さけびます。

「モーニーッ。 あなたまだ歌えないのー ?!」

 少年は首をふります。

「だめなんだ。 ボクできない。

 いつだって、ちいちゃんのことを考えてるよ。 あとどれくらい、あいつとボクはいっしょに牧場にいけるだろうかってね。 もう、これからもずっと歌えないよ・・。

 えっと・・、十字架はこれです」

 

 少年は、パウラに持っていたちいさな包みを手渡しました。

 それはおばあさんが、紙で三重にも四重にも、ていねいにつつんでありました。

 パウラはつつみをひらいて、十字架を外に取り出し、くいいるようにみつめます。

 それは確かにパウラのものです。 きらきら光る宝石がいくつもついた素晴らしい十字架で、傷一つありません。

「そうね、モニ・・」

 彼女はうれしそうに言いました。

「あなたは、わたしにすっごくいいことしてくれたの。 だってモニがいなかったら、わたし、きっと、二度とこれを見ることがなかったもの。

 今度は、わたしがあなたに、いいことをする番ね。

 いってきてちょうだい。 ちいちゃんを小屋からつれてくるのよ。

 もうあなたのヤギになってるんだから !」

 モニはびっくりして、お嬢さんをみつめます。 思いもかけない言葉に、何をいわれたのかわからなかったんです。

 やっとのことで、つまりながら言いました。

「でも、ど、どうしてちいちゃんがボクのなんだ?」

「どうしてって?」

 にっこりしてパウラがかえします。

「わかってちょうだい。 きのうの夜に、わたしがご主人からちいちゃんを買い取ったの。

 それから今日になって、わたしはあなたに贈るっていうこと。 ねえ、また歌ってくれるでしょ?」

「わ、わ、わぁ !」

 モニはうれしくてびっくりです。

 いきなりばたばたとヤギ小屋へ駆け出して、ちいちゃんを外に出すと、抱えあげます。

 そして、はずむようにもどってきます。

 手をのばして握手をして、何度もお礼をいいます。

「ありがと。何千回だって言うよ。本当にありがとう。

 あなたにもいいことが、きっとありますように ! (天の祝福が(あなたに)ありますように!)

 ボク、あなたになんでもいいからお礼がしたい !」

「だったら歌ってみて。  みんな、あなたの声が前と同じかどうか聞きたいはずよ」

 パウラはいいます。

 

 こうしてモニは、自分の歌をうたいはじめたのです。

 それからヤギたちを山の上に連れて行きます。

 ヨーデルが谷間いっぱいにひびきわたります。

 それはホテルにいる人みんなに聞こえて、

 眠っていた人が何人も寝がえりしてつぶやきました。

「あのヤギかい、元どおりになったんだなぁ」

 モニがまた歌いだして、みんなニッコリします。

 だって、そのまま起きるにしろ、また寝床にもどるにしろ、気分よく目をさまされるのが、みんなのおなじみだったんです。

 モニが山から帰ってきて、最初に目に入ったのは、下の方の建物の前にいつもと同じように、女の子が立っていることです。

 まだまだ遠くけど、パウラに向かって、せいいっぱいの大きな声で下に歌いかけました。

 

♪空はなんて 深い青

 うれしいボクは 天にものぼる



 ずっと一日中、空に近いところにいて、 モニの口は、よろこび、さけんでばかりいました。

 ヤギたちにそれが伝わって、みんな、ぴょんぴょんあたりをとびまわり、はねまわり、まるで大きなお祭りみたいです。

 太陽はまっ青な空にサンサンと輝き、

 イヤになるほど降った雨も、野の草たちをシャキッっと元気にさせて、 黄色や赤のとてもきれいな花をさかせていました。

 モニの目には、山や谷や、この世界のすべてが、これまでないほど、とってもきれいに見えてくるのでした。

 少年のものになった子ヤギは、一日中、手元から離しませんでした。

 いちばんいい草を集めて、たべさせて、何回でも言いました。

「ちいちゃん、元気なちいちゃん。 おまえ死なずにすんだんだ。 今はぼくのになったよ。

 一緒に山の牧場に登っていくんだ、ぼくらが生きてるあいだずっと・・。」

 モニの歌とヨーデルは、夕方におりていくまで響きわたります。

 ちいちゃんの母親のクロヤギを小屋にもどした後で、 モニは子ヤギを腕にだきあげ、とうとう自分の家へと、つれていくんです。

 そしてちいちゃんも、母ヤギと別れるのがイヤなようすを見せません。

 それどころかモニにぴったり体をよせてきます。 だれが、自分を一番大切にしてくれるのかわかっているんです。

 だってモニは、ちいちゃんを、ずっと前から、本当のお母さんよりももっとていねいに、もっと優しくしてくれるんです。

 そしてモニはちいちゃんを、おばあさんのところで肩から降ろします。

 おばあさんはそれをみて、どういうことなのか、さっぱりわけがわかりません。

 モニの大声は、家からずっとから離れたところからとどいていました。

「この子はボクのものなんだ。 おばあさーん。 ボクのなんだよー !」

 おばあさんに説明するのに、長くはかからないはずです。 でもモニはまだくわしく話しません。

 最初に少年がやったのは、家畜小屋に走っていって、自分の家の茶色ヤギのすぐとなりに、寝るところを作ったことです。

 子やぎがさびしくならないよう、新しいワラで、きれいにやわらかく作ります。

 そこに寝かせて、モニは言います。

「ほら、ちいちゃん、いまからここが新しいおうちだよ、ぐっすりおやすみ !

 そうさ、おまえはずっとそうするんだ。 毎日ボクは、おまえに新しい寝床を作ってやるよ !」

 やっとモニが、ふしぎそうにしているおばあさんのところに戻ってきます。

 そして晩ごはんをいっしょに食べて、どうしてこうなったか、これまでのことをひとつのこらず話しはじめました。

 この三日間くるしいばかりだったこと、

 そして今日の幸せなしめくくりについてです。

 おばあさんは、モニの話すことを、静かに注意深くききました。

 そして、聞き終わったときに、とても大切なことをいうんです。

「モニや。 どうしてそんなことがおまえにおきたのか、 一生、わすれてはいけませんよ !。

おまえが、子ヤギを助けようと、よくないやりかたをしてしまい、心が重くて苦しかったあいだに、 私たちを愛してくださる

天のお方は、ちゃんと子ヤギをたすけ、おまえを幸せにするやり方を、みつけていてくださったんだよ。

おまえは、あの方からみて、何が正しいことなのか考えて、それだけを、はじめにやればよかっただけです。

正しいことをすれば、たちまち天までとどいて、すべてが良いことにむかっていきます。

いまもあのお方は、おまえにこうやって、すべてをふさわしいように与えてくださいました。

それをけっして忘れてはなりませんよ」

「うん、ボクはゼッタイに忘れない。」

 力をこめてうなづきます。

「これからは、ちゃんと思い出すよ。 ボクは、あの方の子供としてふさわしいことだけを、すればいいって。 他はおまかせすれば、すぐにみ心のままに、ちゃんとしてくださるから心配ないし。」

 

 モニは眠ろうとする前に、もういちどヤギ小屋の中で、自分の子ヤギをうっとりとみつめます。

 こんなことが、本当にあったかどうかをたしかめます。

 子ヤギは、そこで眠っていて、やっぱり自分のものになったんです。

 

 イェクリは約束どおり、10フランを手に入れました。

 でも、ちょっとした出来事のはずが、いつまでも、彼につきまとうことになりました。

 イェクリがその次にやってきたとき、温泉館の主人の前にひっばりだされました。

 そして、主人はイェクリの首のあたりをつかまえて、ガクガクゆさぶり、おどかして言うんです。

「こら、イェクリ ! オレの温泉館の評判を落とすようなことを、2度とやってみろ。

 次にまた、一度でも変なことをおこしてみろ、そしたらおまえに「これ」で思い知らせてから、オレの館からたたきだしてやる。」

「見てみろ。 その上にあるのが、そんな時のためにぴったりの、じょうぶな柳の小枝のムチだ。(次はひっぱたくぞ) さあ、いっちまえ。 そしてよーく考えとけ !」

 でも、この事件には続きがあって、まだ終わらないのです。

 このときから温泉館の中で、何かがなくなると、すぐに働いている人たちみんなが叫びだします。

「それはキュブリスのイェクリが持ってるぞ !」

 それから、ものを失くした人たちが家へおしかけて、みんながみんな、わーわーと、やかましくせきたてます。

「それだせよ、イェクリ! かくしてんじゃないよ !」

 イェクリがどんなに、持ってないといっても、知らないといっても、だめでした。

 みんなが少年を大声で責めたてます。

「おまえがどんなやつか、だれだって知ってらあ !」 そしてこうです。

「おれたちは、おまえなんかにゃだまされないんだ !」

 

 こんなイェクリをなじる声は、消えることなくつづいて、気が休まるときがありません。

 だって、だれかが自分のところへ向かって歩いてくるのをみるだけで、すぐこんな質問しにやってきたのかと、思ってしまうのです。

「おまえ、あんなのとか、こんなのを見つけなかったか?」

 この仕打ちは、イェクリをイヤーな気持ちにさせます。 そして何度も何度も、思い返すんです。

「あの十字架をその場で返しておけばなあ ! 

 もう絶対に、自分のものでないものを、手元においたりするもんか」

 その一方でモニは、夏のあいだずっと、歌をうたい、ヨーデルを口ずさむことを、やめることはありません。

 山の高いところで、ヤギたちといるのは、世界じゅうのだれにもまけないくらい、気持ちいいんです。

 でもときどき・・

 つくえ岩の上でのびのびと手足をのばして、きぶんよく寝ころがり、日あたりのいい明るい谷を見下したりするときに、

 あのつらい日日のことを、 心が重たいかたまりで押しつぶされて、「雨の岩」でしょんぼりとすわりこんで、楽しいことなんか、なにもなくなった日々のことを、どうしても思い出してしまうんです。

 だからそのたび、口の中でつぶやきます。

「ボクはよーくわかった。 あんなことに、またならないよう、どうすればいいのか。 

 ボクはもう、けっしてやらないよ。 楽しい気持ちで、きれいな空をみあげられなくなる、っていうことは。」

 でも少年が、あんまり長く考えこんでいると、ヤギたちが、気持ちをいい方向に切り替えてくれます。

 「なにかぐあいが悪いのかな?」と心配するのでしょう。

 いつもの自分たちのおつきあいに、もどってちょうだいとやってきて、メエメエ鳴くんです。

 それでも、ときどきは耳にはいらないことがあります。

 そんなときでも、ちいちゃんがやってきて、他のヤギたちと一緒になってさいそくするときだけは別です。

 すぐにモニは気がついて、子ヤギのところに、とんでいくんです。

 だってモニはちいちゃんが大好きだし、

 これからもずっと、大切にしたいのです。



おわり
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