Persian Bible 1

2カ月ほど前、ペルシャ語の新しい聖書(ミレニアム版・新旧約逐語訳)が完成し、イギリスにあるエラム出版社より発売されました。

↓これです。
Persian Bible 3

ペルシャ語聖書は19世紀半ばにヘンリー・マーティンによって翻訳されたOld Version、それからシャリ―フ訳、そしてパラフレーズ訳の3種類がこれまで存在していました。

訳の正確さで言えば、ヘンリーのOld Versionが群を抜いて優れており、私たちの教会でもこれまでこの聖書を用いていました。

しかし翻訳以来150年以上の歳月が過ぎ、その間、ペルシャ語も変遷しました。若い世代のクリスチャンに訊くと、「Old Versionは古い語彙が多くて理解するのがむずかしい」と言う人が多く、ぜひとも逐語訳の現代訳版が望まれていました。

そういった要望に答えるべく、T・ミカエリヤン牧師(アルメニア系イラン人の聖書学者)が中心となり、1990年代はじめに、現代語訳が進められようとしていました。しかし、1994年、そのミカエリヤン牧師が殺害されてしまったのです。

彼は古典諸語に通じていただけでなく、「♪罪おもにをのぞくは 血の力」「♪罪とがを ゆるされ」等、多くの賛美歌を美しいペルシャ語に訳していた方でもありました。

こうして彼は志なかばで死んでしまったのですが、彼のビジョンはその後も生き続けました。1995年、翻訳委員会が結成され、彼の遺志を引き継ぐ形で翻訳作業がスタートしました。2003年には新約聖書が出版されました。

↓これです。
Persian Bible 2

続く2009年には新約聖書に加え、詩篇・箴言が完成しました。そして今年2014年、晴れて新旧約聖書が完成したのです。ミカエリヤン牧師が殉教されて20年目にして、彼の祈りは答えられたのです。

今のところ、このミレニアム訳聖書は革カバー版だけしか発売されていませんが、エラム出版社に問い合わせたところ、来年にはペーパー版の聖書も発売予定で値段も革カバー版より安いとのことでした。

紙質もよく、文字の大きさも余白もちょうどいい感じです。(↓)

Persian Bible 4

ヘンリーのOld Versionと読み比べてみると、アラビア語源の名詞が減り、その代わりに、生粋ペルシャ語の語彙が多く用いられていることが分かります。

(7世紀のアラブ支配以来、ペルシャ語にはアラビア語が多く移入し、現在、全語彙中、30%近くがアラビア語源といわれています。日本語の和語と漢語と同じように、ペルシャ語でも、アラビア語源の言葉はより固いイメージがあります。)

みなさん、周りにペルシャ系のお友だちがいますか?そして彼・彼女にイエス様の福音を伝えたいと思っていらっしゃいますか。その際には、ぜひこのミレニアム訳の逐語訳聖書をお友だちにプレゼントしてみてください。

下の写真をみてください。右側は、ミレニアム訳の新約聖書です。そして左側は同じくミレニアム訳のヨハネの福音書です。この小さなヨハネの福音書は伝道用にちょうどいいかもしれません。

Persian Bible 5

いずれの聖書も、エラム出版社(www.elam.com)のサイトで写真付きでしかも英語で紹介してあり、ネット注文することができます。

また、証しの本なども続々とペルシャ語に訳されています。

Persian Bible 6
(↑後列左から:ブラザー・ユンの『天国の人』、ケアンズ『基督教全史』、バンヤン『天路歴程』/前列左から:リチャード・W、Tortured for Christ, それからB.Sheikh, I Dare To Call Him Father, ボンへッファー『キリストに従う』)

特に、前列真ん中のI Dared To Called Him Fatherは、イスラム圏の求道者の方におすすめです。

これはパキスタン人の女性(外交官の奥さんだった人)がいかにしてイエス様を救い主として信じるにいたったかを語った証しであり、1978年初版以来、何十カ国に翻訳され愛読されているベストセラーです。

こういった本も、前述したwww.elam.comで購入することができます。(日本語版も近い将来、誕生するといいです。)

最後に、アフガン人クリスチャン(タジク系)の作詞・作曲した賛美をご紹介します。奏楽にはアフガンの伝統楽器が用いられています。

♪Munji e Zeba (=美しい救い主)



神よ。あなたが天であがめられ、あなたの栄光が全世界であがめられますように。詩篇108:5



さざんかの花

先日、ある姉妹がやわらかい言葉づかいの大切さについて語っているのを聞き、私はそこから大きな啓発を受けました。彼女は、私たち姉妹が柔和でやさしい態度および言葉づかいをすることが大切ですと語っていました。

それで私は家に帰ってさっそく聖書をひもとき、そのことについて調べ、また黙想しました。今日は姉妹のみなさんに、私がこのテーマについて学んだことをお分かち合いしたいと思います。

☆☆

この姉妹もおっしゃっていたことですが、言葉づかいというのは、まず内側から始まるのです。聖書も言っているように、「心に満ちていることを口が話す」(マタイ12:34)からです。ですから、何よりもまず私たちは自分の心を点検する必要があるのです。

ご存知のように1ペテロ3:4には、私たちが外面的な飾りではなく、「柔和でおだやかな霊 meek and quiet spirit」という心の中の隠れた人がらを飾りにするよう書いてあります。

大辞泉で調べてみると、柔和とは「性質や態度がものやわらかであること」、またおだやかとは「気持ちが落ち着いていて物静かなさま」と書いてありました。

また1テモテ2:9-11では女性がつつましい身のこなしをし、良い行ないを自分の飾りとすることの大切さが語られていますが、そこには次のような言葉がちりばめられていました。

つつましい
控えめ
慎み深い
静か
propriety
modest
shamefacedness
sobriety
silent

ここで注目していただきたいのは、shamefacedness(欽定訳)です。これは16世紀の古英語で現在ではマイナスの意味合いが強くなっているようですが、元々この言葉は、「しおらしさ、つまやかさ、清楚、しとやかさ、たおやかさ」といった女性の美徳をあらわす肯定的な言葉でした。

調べてみると、コイネー・ギリシア語ではαἰδώςで「慎み、遠慮、畏れ」といった意味があるそうです。

またパウロはテトス2章において、年配の女性が若い婦人たちにどのように教えるべきであるかについて指導していますが、その中に、

貞潔(chaste)

という深遠な言葉が記されていることにも気づきました。

貞潔(chaste)というのは、きよい、純潔な、純真な、という意味ですが、原語ではἁγνόςとなっています。

さらに調べてみると、ἁγνόςというのはἃζομαι(畏敬する)という動詞から出来た形容詞であり、「聖なる、聖なる、聖なる」のἃγιος(holy)と同じルーツを持つ言葉だということが分かりました。

ここから理解できること、それは神様が私たち姉妹に、ご自身の聖なるご性質を反映するほどの純真さ、きよさを願っておられるということではないでしょうか。(Ⅰペテロ1:16、Ⅱペテロ1:4参照)。

こういった言葉を一つ一つ書きうつしながら、悔恨の涙がでました。ああ、ここにいたるまでになんて遠回りをしてきてしまったんだろうって。

私はここで高等教育の是非を問うつもりはありません。

しかし自分に限っていえば、私は欧米系の大学教育を受ける過程で、上述に挙げたようなスピリットとはまるで正反対の性質や態度を身につけていった――そのことを認めないわけにはいきません。

私の大学では議論やディベートが奨励されていました。また授業中、自分の意見を表明しないのはクラスに積極的に参加していないことだとマイナスの評価を受けました。国際社会で通用する女性になるためには、しっかり自己主張できる人にならなければならないとも言われ続けてきました。

それで人に先を越されまいと、私も必死に発言してきました。ですから、こういう環境の中にあっては、しおらしさや控えめさというのは美徳ではなく逆に、自分の意見をもたず、頭が空っぽである証拠だと見下される傾向にあったのです。

私は神様の至上権を信じています。ですから「もし、、だったら、、」と仮定すること自体、不遜なことなのかもしれません。でも、、それでも、、時々思ってしまいます。もしも私が10代のうちにこういった聖書的な女性らしさについての教えにあずかることができていたらどんなによかったかと。

そしたら私はあのように不遜なことを言って人を傷つけたり、罪深く恥ずべき言動をとったりせずにこれたかもしれません。

「私たちは心に血の注ぎを受けて邪悪な良心からきよめられた」とヘブル人への手紙に書いてありますが(10:22)、これは私にとって慰めの言葉です。この血の注ぎがなかったら、私は恥と後悔の中で死んでゆくしかなかったでしょう。

あわれみ豊かな神が、私を愛してくださったその大きな愛のゆえに、罪過の中に死んでいたこの私を―ただ恵みによって―キリストと共に生かしてくださった(エペソ2:4-5参照)ことをただ主に感謝するばかりです。

L姉という私の尊敬する姉妹が、「私たち姉妹―特に世俗の高等教育を受けてきた女性たちーには、learn (聖書的女性らしさについて新たに学んでいくこと)とunlearn(今まで刷り込まれてきた非聖書的な教えを意識的に念頭から去らせる)、この二つが欠かせません」と私に教えてくださいました。

彼女はハーバード大学の博士課程に在籍していた時、主の取り扱いを受け、自分が家庭に召されていることを自覚し、大学を去りました。現在、彼女はhomemakerとしての使命に生きています。(彼女のエッセー「死にゆく貞節」を読みたい方はココをクリックしてください。)

私も彼女の足跡に倣い、過去に身につけてきた非聖書的な態度や影響を、日毎、意識的に捨て去ると共に、ペテロが「これこそ、神の御前に価値あるものです(Ⅰペテロ3:4)」と称賛した、柔和でおだやかな霊という朽ちることのない性質をいただきたいと切に願っています。

そして控えめでしとやかな霊が自分の魂の奥深いところまで染み込むよう――、私はそのことを主に祈り求めています。本当に変えられたいです。主に贖われた娘として、そして主の目にかなう女性として回復されたいです。

☆☆

さて、言葉づかいについてですが、私たち姉妹の話す言葉は、内側の美しさ、しとやかさ、やわらかさを反映したものでなければならないと思います。

私たちの使う言語には、美しい言葉と共に、卑猥で汚れた言葉もたくさんあります。汚い部屋も毎日そこにいるうちに慣れてくるが如く、汚れた言葉というものも、繰り返し耳にしたり、口にしたりするうちに、最初の嫌悪感はだんだん薄れていき、そのうち慣れっこになっていきます。

バーネットの『秘密の花園』という児童小説をご存知でしょうか。

私たち姉妹の心は、ちょうどこの「秘密の花園」のようなものだと思います。イエス様の血の注ぎを受け、私たちの心は美しい花園のように変えられたのです。そして日々、変えられつつあるのです。

そしてそれは私たちの語彙や表現の世界にもあてはまると思います。私たちは日々、きよいことを考え、きよいことを黙想し、きよい言葉を話すべきです。

世間ではすでに市民権を得ているような言葉であっても、主のきよさの基準に満たない言葉は、私たちの花園に入れるべきではないと思います。

また、荒々しい言葉、辛辣な言葉、皮肉、下品な冗談といったものからも、私たちは自らの身を避け、そういう環境からできるだけ離れているべきだと思います。

しかし私たちの願いに反して、周囲にいる人や通りがかりの人が毒ある言葉を投げつけてくることがあります。その場合はどうしたらよいのでしょうか。

私はこういった事態を、「愛は、、人のした悪を思わず」(Ⅰコリント13:5)という御言葉によって解決するようにしています。

その人のした悪、言い放った言葉をもうそれ以上思わない。それについて話題にしないし、考えない。そしてイエス様の御名によって日の暮れる前に忘れるようにしています。

なぜなら、そういった悪ある言葉をいつまでも脳裏にとどめ、思い返しているうちに―私たちの意図に反してーそういった言葉は私たちの語彙の世界に入り込み、やがて花園をけがすようになっていくからです。

また、話し方についてですが、私は、せっかちで性急な物の言い方をできるだけ避け、相手に平安とやすらぎを与えるような落ち着いた言い方をするように努めています。

そしてそれができないような穏やかでない状態の時には、しばらく口をつぐむことにしています。

☆☆

あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。ですから自分のからだをもって、神の栄光を現しなさい。Ⅰコリント6:20

私たちは代価を払って買い取られ、聖霊の宮とされました。それでは私たちは何をもって、神様の栄光を現すことができるのでしょうか。

パウロはここで「自分のからだをもって」と言っています。そうです。私たちは自分の手、足、舌、すべてをもって聖なる主の栄光を証しするよう召されているのです。

そして私たちが聖められた心と舌とをもって言葉を話すことによって、主は栄光をお受けになることができるのです。これは本当にすばらしいことではないでしょうか。

舌を制御することの大切さを述べたヤコブは、「泉が甘い水と苦い水を同じ穴からわき上がらせるというようなことがあるでしょうか」(ヤコブ3:11)と私たちに問いかけています。

愛する姉妹のみなさん、私たちの花園にある泉からはいつも、きよらかで甘い水だけを湧かせましょう。

そして私たちの紡ぎ出す、やわらかくあたたかい言葉で、周囲の世界を美しく飾っていきましょう。



一年前のこの時期、自分がブログを開設することになるなど思ってもみませんでした。家にインターネット回線もなく、コンピューターにも疎い私はそもそもブログが何かもよく知らなかったのです。

当時私は、Fire in the Zurich Hills(日本語タイトル『チューリッヒ丘を駆け抜けた情熱―迫害下に生きたスイス・アナバプテストの物語―』)という歴史小説を奉仕の合間に訳していました。

〈訳者あとがきココ〉の中でも書きましたが、私はこの本を米国の兄弟姉妹からプレゼントしてもらいました。そしてこの本を読み進める中で、フェリクス・マンツ、コンラート・グレーベル、ゲオルグ・ブラウロックといった青年キリスト者たちの、命をかけた信仰とその生涯に心打たれました。

そして私は、雲のように自分たちを取り巻いている多くの証人(ヘブル12:1)、特に本書の中で取り上げられているような、名もなき信仰者たちの真実な歩みを「翻訳」という奉仕を通して、祖国の兄弟姉妹の心にお届けできたらと思いました。

また、「ただで受けたのだから、ただで与えなさい(マタイ10:8)」という御言葉の通り、無償で、どなたにでも読んでいただけるようにしたいと思いました。

そのことを東京に住むT姉妹に相談したところ、「ブログを開設したらいいよ。そして章ごとに区切って載せたら読みやすいと思うよ」とアドバイスしてくれました。

こうして彼女の親切な手ほどきを受けながら私はこのブログを開設し、この歴史小説を電子書籍という形で世に送り出すことができたのです。

ですから、その後つづけてブログに何かを書いていく予定は当時ありませんでした。

でも、イランで1990年代に殉教されたハイク・ホプセピアン牧師、メフディー・ディバージ兄、それからヘンリー・マーティンのことなどを考えた時、彼らの歩みも日本語で記しておきたいと思い始めました。こうして私のブログはスタートしたのです。

また常日頃、日本の若い兄弟姉妹が世界各地に出て行って、宣教の働きに用いられますようにと祈っていたこともあり、過去に生きた勇敢な宣教師の伝記を書くようにも導かれました。アドニラム・ジャドソン〔ビルマ〕、ジョナサン・ゴーフォース〔中国〕などはその一例です。

しかし一番思いもかけなかったのは、クリスチャン女性の生き方・価値観というテーマで証しやエッセーを書くように導かれたことでした。

そしてこれは容易な試みではありませんでした。というのも、こういう記事を書く=恥や失敗も含めた自分の過去と向き合い、それを公にさらけ出さなければならないことを意味したからです。

またこういったテーマに触れることは、現在、キリスト教界でタブー視され敬遠されているいくつかの重大な問題に対して、またこの世の潮流に抗して、はっきりと信仰告白していくことをも意味しました。

当然そこにはリスクが伴いました。広範囲な人々の反感を買うことも覚悟しなければなりませんでした。また今まで仲良くしてくれていたクリスチャンの好意や支持を失うかもしれないことを覚悟しなければなりませんでした。

そんな時、私はマルティン・ルターのこの言葉に出会いました。

「もし私がありったけの声で明瞭に神の真理を公言しているとしても、その小さな点――そう、今まさに、この世と悪魔が攻撃を加えているそのささいな一点――について触れるのを避けているなら、私はキリストを告白していることにはならない。そう、たとえ(その他のことで)どんなに大胆に告白しているとしてもダメなのだ。

戦いが激しさを増す所において、兵士の忠誠心は立証される。そして全ての戦場において確固とした態度をとっていても、もし彼がその一点において尻込みしているなら、それは逃げであり恥辱であるにすぎない。」(The Francis A. Schaeffer Trilogy, p11の中で引用。私訳。)

女性の牧師職のこと、祈りのベールのことなどは、私にとってまさに「その小さな一点」でした。これは相当な内的葛藤を私の魂にもたらしました。真理への愛と、自己保存の欲求との間で私は苦しみました。

「教会史とは、神の言葉に対する、人間の応答の記録である。そしてそれは従順ないし不従順の結果をそれぞれ表しているのである。」(J.W.Kennedy of India, The Torch of the Testimony, preface xiiより。私訳。)

教会史とはなんでしょう?それは私たちクリスチャンの歩みの記録です。

それは歴史に名の記されている人物の記録であると共に、これまでに生き死んでいった名もなき無数のクリスチャンの個人史の集大成でもあります。そしてその全容は私たちがやがて御国に到達した時、明らかにされるでしょう。

私たちは時代を超え、空間を超え、お互いにつながっています。

信仰の先人たちが戦い勝ち取ってくれた霊的宝を私たちは現在いただき享受しています。そして私たちが墓の下に眠ることになる100年後、今度は未来の世代が――現在私たちが信仰のために戦い耐えた末に勝ち取るもの――を受け取ることができるのです。

ですから、私たち一人一人の信仰の歩みは決して無意味ではないのです。

私たちが神の言葉を読み、それに真摯に応答していくその有形・無形の記録は、なんらかの形で他者の人生に影響を与えていくことになるのです。そしてそれはイエス様のおっしゃる「隣人愛」へとやがてつながっていくでしょう。

☆☆

さて、祈りのベールについて公に証しを書いてから数カ月が経ちました。その後、私は、主人の理解と許可を得た上で、(教会や家の中だけでなく)フルタイムでベールをつけるようになりました。

ベールをつけ始めてからの7年余り、私はいろんな意味で、恥辱の谷を通ってきました。

しかし主はほむべきかな。この恥辱の谷の向こうには、これまで想像だにしなかったような祝福が私を待ち受けていました。

この孤独の体験は(国民国家の一員、日本文化、アジア文化、、、)といった地上的つながり、その直接性から私をいやおうなく引き離しました。この地上においてキリスト者が旅人であり寄留者にすぎないことが私にとってよりリアルなものになりました。

そしてキリストの真理の前には、国境というものは存在しないことを知りました。同じような道程をゆく、さまざまな国の「旅人」との間に、私は真の同胞意識を感じはじめたのです。

そして、こういった友情は国境を超え、どんどんひろがっていきました。キリストの教えには、時代・文化・国境を超える普遍性(universality)があることに私の目は開かれました。

狭い恥辱の門を通りぬけたら、そこには姉妹たちとの、グローバルにして親密な交わりが待っていたのです。

私は今、今後の主の導きを祈っています。このブログも主のものです。

民数記9章にあるように、雲が幕屋の上にとどまるなら、私はこれからも書き続けます。しかし雲が天幕を離れて上るなら、ただちに荷造りをして次なる証しの場に旅立とうと考えています。

2014年、このブログを読んでくださった兄弟姉妹のみなさんお一人お一人に心から感謝申し上げます。

私の祈りは、みなさんを通して現在灯されているその信仰の光が、後につづく無数のクリスチャンの道を照らし、これから後も永遠にいたるまで輝き続けることです。

私たちが信仰をもって主への愛ゆえになしたこと、そして御言葉への従順ゆえになしたことは、たとえそれがどんなに小さいものであっても、永遠の価値をもつのです。

ですから愛する兄弟姉妹のみなさん、これからも共に前進していきましょう。

御国がきますように。アーメン。


(賛美歌♪Higher ground 〔めぐみのたかきね〕


兄弟たちよ。私は、自分はすでに捕えたなどと考えてはいません。ただ、この一事に励んでいます。すなわち、うしろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進み、キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄冠を得るために、目標を目ざして一心に走っているのです。ピリピ3:13、14







flower and basket

シスター・オリビアは、福岡にあるマリア福音姉妹会日本支部で長年、わたしたち日本人のために祈り、現在も献身的に仕えておられるドイツの方です。

私は昨年のこの時期、シスターの書いた回想エッセー「子供の時のクリスマス」を読む機会が与えられました。シスターの美しい日本語はもちろんのこと、戦時下ドイツで家族と共に祝ったクリスマスの様子に私は全く魅了されました。

それで先日、シスターに直接連絡をとり、「ブログにこのエッセーを転載し、兄弟姉妹ともこの感動を共有したいのですが」とお伝えしたところ、快く許可してくださいました。

戦時中で物がない時代にも、家族が愛し合い、心からイエス様の生誕を祝うその情景がこの文章を通じてよく伝わってきます。

またこのエッセーを通して学んだのは、私たちクリスチャンの信仰の姿勢は、幼いこどもたちの心に深い印象を与えるということです。

シスター・オリビアをはじめとして、日本各地で今日も無私の奉仕をつづけていらっしゃる外国の奉仕者の方々にこの場をかりて深くお礼申しあげます。

きっといろいろ大変なこともあると思いますが、お一人お一人の歩みの上に主の愛の御手がありますように。また、それぞれ祖国に残してきたご家族の上にも主イエス様の祝福と守りがありますようお祈りします。アーメン。

☆☆

子供の時のクリスマス (シスター・オリビア) 

ベツレヘムの野原であの最初の聖夜「……大きな喜びを告げる」と天使が羊飼いたちに言ったとおり、子供の時のクリスマスを思い起こすと、一番心にわいて来るのはこの喜びです。

アドベントに入った途端、喜びがあふれ、その四週間は嬉しい期待に満ちていました。母が毎晩ロウソクに火を灯し、ピアノを弾きながら共にアドベントの賛美歌を歌ってくれました。

サンタさんは、わたしにとって存在しませんでした。なぜなら、日曜学校で次のように歌ってきたからです。「来る年来る年、幼子キリストは地上に住む人々のところにおいでになる……」と。

ですから、幼子キリストはわが家にも必ず来てくださることを信じ、期待していたのです。イブの四日前から居間のドアに鍵が掛けられ、その期間、台所で食事をすることになっていました。

そして、両親がクリスマスツリーなどを持って来て、あの部屋でいろいろ準備していました。幼子キリストがあの部屋にプレゼントを持って来てくださると信じていたので、両親や祖母のことを少しうらやましく思ってしまったほどです。

自分も幼子キリストを少しでも見たいと心からあごかれていたからです。ある朝、家の二階へ通じている階段に落ちてあった「天使の髪の毛」(クリスマスツリーに飾る細長い金色の糸)を見つけて、大喜びでした。

幼子キリストは来られる時は、いつも天使たちを引き連れて来られることが分かっていたので、まさにこの天使の髪の毛がイエス様からの挨拶のしるしだと思ったのです。

待ちに待っていた24日になると、朝から母の手伝いをし、地下室から一番きれいな赤いリンゴを取って来て、それらを布で磨いたりしました。

12時には、すべての店が閉まり、町全体が静まりかえりました。一番よい服に着替えて、家族のみんながイブ礼拝に出かけます。早めに行くと、まだ席があります。

人々があまり多いので、最初のうちはざわついていますが、教会の鐘がおごそかに鳴り始めると、落ち着きと静けさが戻ってきます。

子供の自分にとって説教などは聞き流していましたが、その後、牧師先生が清みきった声で心を込めて歌った「今こそ来ませ、諸人救う、きよきみ母の くすしき御子よ……」は忘れられない思い出となっています。

それから、会堂の明かりが消され、大きなクリスマスツリーのたくさんのロウソクだけが光を灯していました。

会衆一同は立ち上がり、感動と喜びに包まれて歌声をあげます。「いざ歌え、いざ祝え、この恵みの時、救い主は現われぬ、喜べ、主にある民よ」と。

礼拝が終わって、雪を踏みしめながら家に歩いて帰り、夕食の後、両親や祖母があのクリスマスの部屋に入って行きました。

上の兄がバイオリンを調弦し始めた途端、小さな鐘が鳴り、神秘的なあの部屋のドアがやっと開いたのです。

たくさんのロウソクが灯るクリスマスツリーにうっとりさせられました。母が「きよしこの夜」を歌い出したので、子供たちも歌いながら部屋に入って行きます。幼子イエスをたたえる讃美歌が響き渡っています。

片目はプレゼントが置いてあるテーブルの方を見るのですが、まだまだ幾つかの賛美歌が続くのです。最後に、末子のわたしは詩を読み上げた後、やっとクリスマスプレゼントがもらえました。

戦中、戦後だったので、ささやかな品物しかありませんでしたが、愛は伝わってきて、とても嬉しかったです。

ある年、父が大工さんに小さな揺り籠を頼んでくれ、その中に双子の人形が入っていて、その洋服を祖母が作ってくれました。ほとんどが手造りの物で、与えることの祝福や与えられることの幸いを知りました。

25日と26日はドイツでクリスマスの祭日で、両日とも礼拝があります。25日の午後は、バッハのクリスマスオラトリオが演奏され、上の兄がずっとその合唱団に加わって歌っていました。

子供の時のクリスマスは六回、第二次世界戦争中だったのに、一度も聖夜に爆撃されることはありませんでした。 
 
                   2012年12月12日

christmas tree mother and children






Matthew.jpg

先日、あるクリスチャンの方の書いた聖書写本に関する文章を読む機会がありました。内容もさることながら、私はその先生のみことばに対する真剣な姿勢に感銘を受けました。

私たちの信仰の土台となっている聖書は、歴代、こういった真摯なクリスチャンたちによって大切に保存され、翻訳されてきました。

私はこの方の文章を読んでいて、「自分のみことばに対する姿勢はまだまだ生ぬるいなあ」と反省させられました。時々、聖書を読んでいて、「あれっ。ここはどうしてこう書いてあるんだろう?」と疑問に思うことがあっても、日々のいそがしさの中で、それ以上何も考えず、調べもしないことが多いのです。

でも自分の家の台所にゴキブリが一匹でも出現しようものなら、もう大騒ぎです。すぐにゴキブリ駆除のために対策を練ります。自分の家の土台や環境にはこれほど神経を使うのに、どうして信仰の土台である聖書にはこれほど無関心なのだろう?

マルコ16章の9-20節のところがカッコでくくられているのにはかなり前から気づいていて、「どうしてなんだろう?」と疑問に思っていましたが、そのままになっていました。

でも考えてみれば、これはかなり大ごとだと思うのです。ある聖書の箇所がカッコでくくられ、下の方の註欄に、「*異本 9-20節を欠くものがある」と書いてある。ということは、この箇所は、本物の神の言葉かもしれないし、そうじゃないかもしれないということになります。でもそういうあやふやな思いでマルコ16章を読んでも、御言葉は力強く私の心に入り込んできません。

それで今回、奮起してこの箇所について調べてみることにしました。そして結果的にやっぱり調べてよかったと思いました。下に挙げる文章はテキサス州の牧師先生の書かれた記事です。

「何々写本」などちょっと専門的な言葉も出てきますが、がんばって最後まで読んでみてください。この記事を読み終わる頃には、あなたは私と共に、「ハレルヤ!あなたのみことばはとこしえに変わりません」と主を賛美していることでしょう。

それではご一緒に、マルコ16章9-20節について考えていきましょう。

saint-mark-the-evangelist-14_0.jpg
(↑マルコ)

(Kyle.P, Is Mark 16:9-20 Inspired?)

マルコの福音書の終わりの章のところがカッコでくくられていたり、「もっとも信ぴょう性のある古い写本やその他の古代の証言には、マルコ16:9-20は存在していない」というような註を目にして、とまどったり、「えっ、どうして?」と疑問に思ったりしている方は少なくありません i。

そういう注解書きははたして正確なものなのでしょうか。この箇所の信ぴょう性や霊感に疑問をもつべきなのでしょうか。

こういった問いに答えるべく、注目に値する三つの証拠が挙げられると思います。1)ギリシア語写本、2)古代訳、3)古代著述家による証言、です。

1.ギリシア語写本

マルコ16:9-20は存在しないという主張は、主として、以下に挙げる二つのギリシア新約聖書の写本(四世紀)が基になっています。その二つとは、バチカン写本、およびシナイ写本です。

前者の写本は、少なくとも1475年以来、バチカン図書館の目録の中に記載されています。

一方、二番目のシナイ写本は、著名なギリシア語学者であったコンスタンティン・ティッシェンドルフによって1844年発見されました。彼はこの写本をシナイ砂漠にある修道院の中で見つけたのですが、なんとその写本は今にも焼却されようとしていたのです!

St Catherines monastery
(↑シナイ写本が見つかった聖カテリーナ修道院)

バチカン写本もシナイ写本も、マルコの福音書は8節のところで終わっています。ティッシェンドルフ氏によるこの発見以後、「もともとのマルコの福音書は8節までだったんだ」とある学者たちは強く主張してきました。

ということはこの箇所は本物でないってことなんでしょうか?とんでもありません!

シナイ写本もバチカン写本もこの箇所が書かれるべきマルコの福音書の終わりにちゃんと空欄が開けてあるのです。シナイ写本はほ一段ぜんぶに渡って空欄となっており、バチカン写本は一段半近く、空白となっているのです。

image002 THE ENDING OF MARK IN CODEX SINAITICUS
(↑シナイ写本;空欄の部分がみえますか?)

ここから、書記者は何かが欠けているのは認識していたものの、手元にその完全なセクションの写しがなかったということが予想できるわけです。

The ending of Mark in Codex Vaticanus
(↑バチカン写本;ここにもちゃんと空欄があります!)

でもここで百歩譲ってこういった写本がマルコの福音書の本来の終わり方なのだと仮定しましょう。

そうすると、9-20節の存在を立証するようなそれ以前の証拠はどこにもないということになります。しかし今からご一緒にみていきますが、実際はそうじゃないのです。

これまで保存されてきたギリシア語新約聖書写本は実に5000を超えます。「シナイ写本とバチカン写本が新約聖書の最古の写本なのだ」という誤った主張がよくなされますが、それは違います。

多くのパピルスの断片が存在し、それらはこれらの写本よりも古いものです。そういったパピルス断片の中で最も重要なものは、シェスター・ベッティ・パピルスです(P45)。これは福音書と使徒の働きを含む2世紀もしくは3世紀の写本です。

残念なことにこの古代パピルスはマルコ4章以前および12章以降が破損しています。つまり、マルコの福音書の終わり方がどうであったのか、このパピルスからはうかがい知ることができないのです。

しかしこれまで保存されてきた写本の大部分にはマルコ16:9-20がちゃんと含まれています。そういった写本の中にはバチカン写本やシナイ写本よりほんのわずか後に作成されたものもあります。

例えば、1627年、正教会のコンスタンティヌーポリ総主教キリロス・ルカリスによってチャールズ1世に献呈したアレクサンドリア写本(5世紀の写本)にはこの箇所が含まれています。

宗教改革者セオドール・ベザがフランスの修道院で見つけ、1581年、ケンブリッジ図書館に寄贈されたベザ写本(5-6世紀の写本)には、ギリシア語、ラテン語の両方で、この箇所が記入されています。

Codex Bezae
(↑ベザ写本)

この箇所はまたエフライム写本(5世紀)や、ワシントン写本(4-5世紀)の中にも存在しますii。

この箇所を含む二、三の写本の中には、「いくつかの写しには16:9-20がなかった」ということを指摘している編註が加えられているものもあります。

しかし、これは写本の伝統の中で、省略というのが存在していた事実を確認するものにすぎません。つまりこの箇所の権威や独自性について何ら立証するものではないのです。

二つの写本(しかもそれらの写本自体、その箇所の空欄をちゃんと残してあるのです)に9-20節がないからといって、他の全ての写本に含まれているこの箇所を拒絶してしまっていいのでしょうか。

2.古代訳

新約聖書本文の伝達史において、その非常に早い時期から、ギリシア語原語は、福音の伝播した地域のさまざまな言語に訳されていきました。

ということは、仮に誤謬や省略の含まれている写本が訳された場合、そういった誤りは当然、翻訳の上にも浮かび上がってくるはずです。そのようなものとして、(シナイ写本やバチカン写本における)古代訳は例によって、8節で終わっています。

ブルース・メツガーは、著書『新約聖書の本文研究(A Textual Commentary on the Greek New Testament)』の中で、そのような訳として、古ラテン語写本(Bobiensis)、古シリア語シナイ写本、約100のアルメニア語写本、二つの最古のグルジア語写本(紀元897年および913年に書かれたもの)(122-23)。またこの箇所の欠けているコプト語写本も一つあります。

メツガーの言及は多少明確化される必要があるでしょう。4世紀もしくは5世紀の古ラテン語写本(Bobiensis)の中に9-20節が含まれていないのは確かです。

しかしこの写本には8節以降、独自の短い結句が書かれているのです。これはさらなる正確さを反映したものでしょうか。それとも一貫性の欠如を示す証拠となるものでしょうか。

ヒエロニムスは当時のラテン語本文のことについて、「写しとほぼ同じくらい、多くの本文の形式が存在する」といっていますiii。

こういう理由もあって、ラテン語世界の人々のための「欽定訳版」であるラテン語ウルガタ聖書がうみだされることになったのです。

印刷機や本文の写真などなかった時代、写本を作る過程で、人間のミスや改変などはいつもあったのです。しかしだからといって、神様の言葉が失われたわけではありません。

イエス様はおっしゃいました。「この天地は滅び去ります。しかし、わたしのことばは決して滅びることがありません」(マタイ24:35)。要は、ミスや改変は起こり得る。だから本文の保存にあたっては、注意と比較作業が必要だということです。

ギリシア語写本の大多数がマルコ16:9-20を保存しているように、古代訳の大多数もこの箇所を含んでいます。

その中には古シリア語のペシタ訳(2―3世紀)、サヒディック・コプト語訳(2-3世紀)、古ラテン語訳の大多数(2-4世紀)、ラテン語ウルガタ聖書(4-5世紀)、ゴート語写本(4世紀、ただしこれは12節の半ばが破損しています)、多くのアルメニア語写本(5世紀)、エチオピア語写本(5世紀)が挙げられます。

もしマルコ16:9-20の信ぴょう性およびその霊感を疑問視するというのなら、私たちは何世紀にわたりなされてきた学者たちや翻訳者たちの努力を無視し去らねばならないことになります。

GOSPEL ACCORDING TO ST MARK

こういった人々は心からこれが神の霊感を受けし御言葉だということを信じつつ、念入りに本文を比較し、調べてきたのです。こんなにも簡単に彼らの学究の成果を捨て去ってしまってもいいものでしょうか。

3.古代著述家の証言

これまでみてきましたように、非常に早い時期に、マルコの福音書の末尾に関する本文の問題が持ち上がっていたこと、これは明らかです。

問題は、はたしてこれが写本における誤謬ないしは元々の本文の改変を反映しているのかどうかという点にあります。そして4世紀という早い時期にすでに、この箇所を欠いている写本の存在に気づいていた宗教著作家たちがいたことが確認されています。

「復活の出来事の記述に関し、マタイとマルコの福音書をいかに調和させるか」ということについて、二人の著述家(4世紀)が書簡の中で言及しています。

両者とも、「答えは、ここの言葉をオリジナルとみるか否かによる」と答えています。

まず、歴史家エウセビウス(4世紀前半)は、『マリヌスへの質問』の中で次のように書いています。「(8節の後)マルコの福音書のほとんど全ての写本は、これらの言葉でもって終わっています」(1)。

さらに、「その後につづく箇所(つまり9-20節)はいくつかの写本の中にまれにみられるが、全ての中に含まれているわけではない」(1)と言っています。

次に、4世紀の聖書学者であったヒエロニムスですが、彼は『ヘディビアへの手紙』の中で、マルコ16:9-20は、「いくつかの福音書の写本の中に含まれているが、ギリシアにあるほとんど全ての本は、この箇所を含んでいない」(Question 3)と言っています。

St Jerome InHisStudy
(↑ヒエロ二ムス)

エウセビウスにしてもヒエロニムスにしても、ここで9-20節の信ぴょう性をとやかく否定しているのではなく、あくまでその当時、この箇所が争点となっていたという事実を認めているにすぎないのです。

ヒエロニムスの言葉を、9-20節の信ぴょう性を否定したものと捉えることはもちろんできません。なぜなら、彼自身、この箇所を引用しているからです。

『ペラギウスへの反駁』の中で彼はマルコ16:14の御言葉を用い、使徒たちでさえ不信仰とかたくなな心に陥っていたことに言及しています(Ⅱ.15)。

ヒエロニムスはこれらの箇所を、自分の作成したラテン語ウルガタ聖書の中にも入れているのです。これは重要です。

なぜなら、ヒエロニムスは『マルセラへの手紙』の中で、「(ラテン語本文の信頼性に欠けた形式ゆえ)、ギリシア語オリジナルーそこから翻訳されたということは何びとも否定しませんーに立ち帰りたいと願いました」と述べているからです(27.1)。

ヒエロニムスはマルコ16:9-20を含むギリシア語本文を別に見つけたのでしょうか。それともその箇所が欠けている写本は欠陥があると認識していたのでしょうか。

古代の著述家が、「この箇所は本物である」と支持していたことが圧倒的に立証されています。

ヒエロニムスとエウセビウスの同時代人たちがこの箇所を権威ある聖句として用いていただけでなく、シナイ写本・バチカン写本・その他の翻訳聖書より前の写本も同様に、この箇所を入れているのです!

これに関する議論の余地のない最古の例は、それは2世紀のエイレナイオスの著作にみることができます。『異端論駁』の中で、エイレナイオスは「福音書の終わりにマルコはこう言っています。『主イエスは、彼らにこう話されて後、天に上げられて神の右の座に着かれた』」(Ⅲ.10.5)と述べています。

ここでエイレナイオスは19節を引用しているだけでなく、これは福音書の末尾にくるものであるとも言及しているのです。新約聖書が完成してすぐの世代人(=エイレナイオス)がこれを引用しているのに、この本文の信ぴょう性に疑問をさしはさむことなどできるでしょうか。

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(↑エイレナイオス)

それだけでなく、通観福音書であるディアテサロンを作成したタティアノス(2世紀)もこの箇所を含めています。

また多くの初代クリスチャン著述家は、マルコ16:18の毒を飲んでもクリスチャンは害されないという主の言葉に言及しています。それは例えば、パピアス(紀元110年、エウセビウスの『教会史』(Ⅲ.39))、テルトゥリアヌス(紀元212年、『蠍』(15))、ヒッポリュトス(『使徒伝承』(36.1))などです。

4世紀、マルコ福音書の末尾の問題は周知のことだったと思われますが、ほとんどの人はこの本文を神の霊感を受けし、疑問の余地のない御言葉であると理解していました。

アンブロシウス(337-397)もアウグスティヌス(354-430)もひんぱんにマルコ16:9-20を引用しています。アウグスティヌスは、『福音書の調和』の中で、マルコ16:12について大々的にコメントしています(III. 24.69)。

これは特に注目に値します。というのも、アウグスティヌスは著書の中で、ギリシア語本文の価値についてこれを非常に強調しているからです。

『キリスト教教理についてOn Christian Doctrine』の中で彼はこう言っています。

「新約聖書内の諸書についてですが、もう一度言います。ラテン語本文の多様性に混乱を覚えたなら、私たちはもちろんギリシア語本文に立ち戻らなければならないのです。――特に、より学識があり、研究が進められている教会で使用されているギリシア語本文を」(II.15, 22)。

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(↑アウグスティヌス)

アウグスティヌスは、エウセビウスやヒエロニムスが知らないような(マルコ16:9-20の含まれている)ギリシア語本文をよく知っていたということなのでしょうか。

同じ時期に、ヨハネス・クリュソストモス(347-407)は、説教集38巻にある『1コリント人への手紙について』(5; 1 Corinthians 15:8)の中でマルコ16:9について言及しています。

また最後に、マカリウス・マグネス(紀元400)は著書Apocriticusの中で、ある聖句に関し異邦人から受けた質問に答える形で、マルコ16:17-18に言及しています(III.16 and 24)。

5世紀以降になると、この箇所の引用は非常にひんぱんになり、枚挙にいとまがありません。

結論

マルコの福音書本文の写しや複写について、初代キリスト教の歴史のある時点で、「マルコ19:9-20がはたして本文に含まれるのか否か」という問題が起こったことは確かです。

そしてそれは、それ以降、訳された写本や翻訳に影響を与えました。

とはいっても、新約聖書正典が決まってすぐ次の世代人であったエイレナイオスはこの箇所を引用し、これを「(マルコの)福音書の終わりにある」と主張しているのです。

それに加え、数々の写本、翻訳、古代の証言等、圧倒的な証拠があります。そこから導き出される結論として、この箇所は、聖霊によって霊感を受けた御言葉(Ⅱテモテ3:16)として、マルコの福音書元来の本文中に存在していた――そのことに疑問の余地はないでしょう。



i 新国際訳聖書(NIV)は9-20節の訳の前に、この註を挿入しています。本記事で表明しているように、こういった発言は、全ての証拠をないがしろにしています。

ii ワシントン写本は9-20節を含んではいますが、同時に付け加えられた語句もあります。これは改変を反映しているかもしれませんが、一方において、この箇所が含まれているという事実は、その存在を証言するものとして受け取ることができます。

iii 『四福音書へのはしがき』より。これはラテン語ウルガタ聖書の作成に関連して、ダマスス教皇に宛てて書かれたものです。

〔出典:Pope, Kyle. "Is Mark 16:9-20 Inspired?" Biblical Insights 9.8 (August 2009): 22-23 〕

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ギリシアの方々は一般に人情深く、外国人に対しても親切です。「難民のみなさんにお役にたてたらと思って」と古着や靴などを持ってきてくださるギリシア人家族もいます。R兄の証し(『どんな状況の中でも主を信頼しつづけてー難民留置所でのR兄の証し』 ココ)を読んだ方は覚えていらっしゃると思いますが、ギリシャにはR看守のようなやさしい警官もいらっしゃいます。

しかし現在の経済難および増加する難民の問題を抱え、この国の人々は苦しい状況に置かれています。

通常、難民収容所の中では写真を撮ることはできません。(入所する時に、携帯のカメラレンズはことごとく壊されます。)しかしA兄の携帯はそれを免れたのです。彼は、難民のために祈ってくださっている兄弟姉妹に収容所の実態を知っていただきたいと、何枚か写真を撮りました。以下が、A兄の提供してくれた写真です。

☆☆

1) ↓トルコとの国境近くにあるO難民収容所です。収容者数は約380人(一年前の統計)です。
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2) ↓A兄弟が13カ月過ごしたセルの内部。このセルには75人の難民が収容されていました。
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3) ↓ 自分たちで洗濯物干し用のひもや収容ボックスを作っています。
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4) ↓ トイレは全部で3つ。シャワーは1つ。温水はないので、冬でも真水で体を洗わなければなりません。温水の有無は、収容所によってまちまちです。
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5)
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6) ↓小さな手洗い用洗剤が2.5ユーロで売られています。75人中、20人ほどがこの洗剤を買うことができたそうです。買うお金のない他の人は、水で洗ったり、人から洗剤を少しもらったりして洗っていたそうです。
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7)
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8)
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9) ↓ 不衛生が難民収容所の問題の一つです。この収容所に18カ月いたO兄弟は、シラミの問題に苦しみました。
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10)
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11) ↓ このパン1個が昼・夜あわせた一日分の炭水化物です。
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12) ↓ 黒いビニール袋がゴミ入れです。
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13) ↓ 多くの難民にとってショックなのは、他の場所に移送される時、犯罪者のように後ろ手に手錠をかけられることです。
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14) ↓ 向かい側のドアの向こうには難民女性が収容されています。
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15) ↓ 幸いなことに、この収容所では一日に数時間、このドアの錠がおろされ、難民たちは外の空気を吸うことができます。
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16) ↓ 釈放される日を待ち望みながら、彼らは今日も生きています。
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現在も何千人という難民が各地の収容所および留置所に入れられています。通常、収容期間は14カ月から2年強です。ブルガリアの難民留置所にいる人々も大変な状況にあるときいています。

彼らは家族や祖国を離れ、言葉の通じない異国に逃れてきました。一人一人、神様に愛されているかけがえのない人間です。

彼らの人間としての尊厳が尊重されるよう、この状況が少しでも改善されるよう、どうぞお祈りください。ありがとうございます。




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昨日、アテネの中心にあるシンタグマ広場の前を通りかかりました。見ると、そこには何十人ものシリア戦争難民がいて、毛布にくるまり路上に寝ていました。

一方、寝ている彼らの向かい側には、アテネで一番豪奢な五つ星ホテルがそびえたっており、陽気なクリスマス・ムードで沸き立っていました。

ここに私は今のこの世界の縮図をみるような気がしました。

ニュースをみても、新聞をめくっても、私たちは日々、貧困、戦争、犯罪、難民、、といった目をそむけたくなるような世界の現実に直面します。

その一方で、私たちの日常生活も同時進行していきます。日々の小さな喜びがあり、心配や憂いがあり、将来の希望があります。

☆☆

あなたは今、高校生でしょうか。それとも大学生でしょうか。

あなたはクリスチャン学生かもしれないし、そうじゃないかもしれません。

私は高校と大学のほとんどの時期をノン・クリスチャンとして過ごしました。そしてこの時期、私はいろいろと葛藤し、周り道もし、そうしながら自分なりに生き方を模索していました。

高校、大学というのは本当に尊いすばらしい時期だと思います。

あなたの前には今、ありとあらゆる選択肢が拡がっています。そして、あなたは自分の興味・関心に従って、そういった選択肢の戸を一つ一つ開けてみることができるのです。

また物事を真剣にじっくり考えることができるのもこの時期です。

私は自分の青春の大部分を、日韓の歴史問題および和解運動に費やしました。そしてその途中で行き詰まりを覚え、絶望するにいたるプロセスの中で、聖書の神様の赦しと愛を知り、救われました。

「私は一体なにに向いているんだろう?」
「本当にこの専攻でいいのだろうか?」
「卒業後、就職すべきか、それとも院に進学すべきか?」

そしてあなたがクリスチャン学生なら、こういった問いの上にさらに、

「神様のみこころは何だろう?」
「私がこの道に進むことははたして神様のみこころだろうか?」
「世的な野望が混ざってはいないだろうか。」
「就職するよりも献身すべきなのか」等、、、

という信仰上の問いが重くのしかかっているかもしれません。

さて、どうすればよいのでしょう?どのようにしたら将来の進路がはっきり分かるようになるのでしょう。

私は自分の高校・大学時代を振り返って思うのですが、私たちが自分にとって一番心にひっかかる問題(それが途上国の貧困問題であれ、幼児虐待であれ、水質汚染であれ、いじめ問題であれ、、)に真摯に取り組んでいく時、そこからいろいろなことが見えてくるようなのです。

そして、どの入口から入っても、私たちが真剣にその課題に向かい合い追求していくと、最終的には、その旅の終着点で聖書の神様に出会うと思います。

そして、そのプロセスの中で、「私が人生をかけて愛すべき隣人は誰か」ということがみえてくるでしょう。

それがみえてくると、後の選択はしやすくなるはずです。

さて今日、みなさんにご紹介しようと思うのは、大学時代に、そんなプロセスを通りつつ、将来の進路、そして神様からの使命を見い出していった女子大生の証しです。

彼女の証しが将来の進路のことを祈っているみなさんにとって、何らかの助けとなるならとてもうれしいです。

☆☆
ミッシェル・カオ姉妹(Michelle Kao)
 バンコクのスラム街で目を覚まして


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今朝、バンコクのスラムで目を覚ました私は思いました。「えっ?私、どうやってここまで来ちゃったんだろう?」

こう自問したのはこれが初めてではありません。これまでの4年間、私はずっと問い続けてきました。

私はいたって平凡な人間です。繊細な性格でもあります。

「スラム街の住民になること」なんてもちろん、子ども時代の夢のうちには入っていませんでしたし、「宣教師になる」というのも全く論外でした。それなのになぜか結局、私はバンコクのスラム街に住む宣教師になってしまったのです。

☆☆

メリーランド州ボルティモアにあるジョンズ・ホプキンズ大学。私はこの大学の一年生となりました。

最初の学期に私は二、三のことを発見しました。1)私は工学に全く向いていないということ。2)イエス様が大好きだということ。そして3)ボルティモア市にはいろんな問題があるということでした。

全盛期を過ぎしこの都市には、殺人事件、麻薬、貧困が蔓延していました。また教育制度は、全米でも最下位で、社会的・経済的な階級や人種間に大きな隔たりがありました。

神様、これについてあなたはどうお考えになっていますか?

ミシガン出身の中華系アメリカ人である自分にとって、これらは全て衝撃的でした。心引き裂かれました。

信仰が成長していくにつれ、私はこういったことを熟考するようになり、神様に尋ねました。

「主よ、あなたはこういった問題についてどう思っていらっしゃいますか。ここに相手を傷つけ、誰からもケアされず、貧困に苦しむ人々がいます。あなたはこういった人たちのことをどう思っていらっしゃいますか。あなたの心も引き裂かれていますか?」

そうすると見えてきたのです。聖書を読み進めるうちに、貧しい人々をいたわる神様の心が見えてきたのです。

そして不正義に対する神の怒りが見えてきました。さらに貧しい人々と共におられし神の受肉(=イエス)そして主の謙遜さに目が開かれ始めました。

それ以前には見えていなかったことが、今や見えてきたのです。そして御言葉を通して神様ははっきり、「もちろん、わたしは貧しい人々のことを考えている」と明示してくださったのです。

そして私は次第に次のように神様に尋ね始めました。「どのようにあなたは貧しい人々をケアしてくださっているのですか。私にもどうかそれを見させてください」と。

私は神様の働きをぜひ見たいと思いました。それで私は都心の教会のメンバーになりました。そしてそこで難民の子供たちの勉強を助けたり、近くの診療所で奉仕したりしました。

また大学拡張によってつまはじきにされているコミュニティーの人々を支援する活動に加わったり、インター・ヴァースィティで正義に関する聖書の学び会を導いたりしました。また自分の専攻を公衆衛生に変更しました。

私はとにかく最善を尽くし、神様が貧しい人々をどのようにケアしてくださっているのか、そのみわざを見ようとしていました。

そしてそのプロセスの中で、私はいのちを見い出しました。神様は私にとってもっとリアルな存在になりました。

さまざまな課題を通して、自分のアイデンティティがもっとくっきり浮かび上がってきました。日常生活がもっと意味を持ったものになっていきました。

そして私は神様が愛しておられる人々を共に愛することができるようになっていきました。

バンコクでの夏

2002年、大学四年生の夏、私は次の秋学期から医学部に進む準備をしていたのですが、カルカッタにあるハンセン氏病診療所での夏季奉仕(インターヴァ―スィティ主催のGlobal Urban Trek)に参加することにしました。

国際公衆衛生の現場で働くことにより、将来的な医療活動の方向性がみえてくるかもしれないと思ったのです。

しかし、出発の一週間前に、インド・パキスタン間の紛争により、インド行きが不可能となったのです。それで私たちは乗り継ぎ地であったバンコクに滞在することに決めました。

出発までにもう一週間もありませんでした。私たちのチームは祈り、神様の導きを求めました。

すると、「神様は私たちを売春産業の犠牲となっている女性たちを救出する働きに導いておられるのではないか」とチームの皆は感じ始めました。

そうだ、私たちは売春の悪しきかせを砕くのだ。うちのチームの人たちは皆、興奮し、「よし、バーの中でも神様の福音を宣言しよう。暗い場所のただ中で正義を見い出そう」と張り切っていました。

そんな中、皆と一緒に喜べないのは私だけでした。

私は思いました。こういう目的のために夏季奉仕に申し込んだわけじゃない。私はあくまで医療ミッションの経験を積みたかった。それなのに、今私は、こんな場当たり的で、危険、かつ(私の目に)馬鹿げた夏季プロジェクトに参加する羽目になってしまった。

経験も何もない学生たちが、バンコクの売春街に乗り込んでいって、それで救出の門戸を開き、女性たちをそこから導き出す?「ちょっと、みんな。落ち着いて考えようよ。」それがそんなに簡単にできることだったら、今までにすでに解決されているはずじゃない?

でもそういった不安や懐疑心があったにもかかわらず、私はそこに神様のなにかを感じました。それで私は行くことにしました。

その夏、バンコクで私は神様と格闘しました。私は居心地悪さを感じ、場違いな感じがし、何をしてよいのかよく分かりませんでした。そして売春や貧困問題に圧倒されてしまいました。

この巨大な悪のシステムにどうやったら変化がもたらされるのか?この都市はいかにして変えられるのか?そこになにか希望はあるのか。なぜ私はここにいるのか。

ある晩、私たちは聖書の学びをしていたのですが、その日の箇所はマルコ6章でした。

その箇所を読むと、二人一組で遣わされた弟子たちが宣教やいやしの奉仕から戻ってきて、イエス様が彼らに「あなたがただけで、寂しい所へ行って、しばらく休みなさい」とおっしゃっていました。

しかし、多くの人々は彼ら弟子たちが出て行くのに気づいて、方々からそこへ徒歩で駆けつけ、彼らよりも先に着いてしまったのです。そんな群衆をごらんになったイエス様は彼らを深くあわれみ、いろいろと教え始められました。

そして弟子たちはといえば、休むどころか、群衆のために大規模なピクニック・ランチを用意しなければならなかったのです。

幸いなことに、人々は食べて満腹しました。その後、イエス様は弟子たちを舟に乗り込ませ、祈った後に、向こう岸で会うことにしました。その後、弟子たちが、向かい風のため漕ぎあぐねているのをイエス様はご覧になり、超自然的に湖の上を歩いて、彼らに会い、そのままそばを通り過ぎようと考えておられました。

しかし、弟子たちは、イエスが湖の上を歩いておられるのを見て、幽霊だと思い、叫び声をあげたのです。

そしてマルコは一連の出来事を次の聖句で締めくくっています。「というのは、彼らはまだパンのことから悟るところがなく、その心は堅く閉じていたからである」(マルコ6:52)。

ちょっと待って。イエス様は何とおっしゃってる?イエス様のもっとも間近にいた弟子たちでさえイエス様のなさった奇蹟が分からなかった、、なぜって彼らの心は堅く閉じていたから。

おお、なんて情けない話!もしかしたら、彼らは何か別の形でイエス様との休みを期待していたのかもしれない。もしくは何か別なものを見たかったのかもしれない。

とにかくそれが何であれ、イエス様が彼らのただ中で実際に行なっておられたことに対して、彼らの心は開かれていなかったのです。

ああ、私自身そういうことになりませんように!自分自身の期待や考えにとらわれる余り、イエス様がなさっておられることに盲目になることがありませんように。

希望の新しい土台

それ以後、私の視点は完全に変わりました。自分が接している人々を新しい視点でみるようになりました。

バーで働いている人々、そこに集う人々の心のうちにイエス様のかたちを見るようになりました。そして自分ができることではなく、イエス様がおできになることに新しい希望を持つことができるようになりました。こうしてその夏、神様はすばらしく私に働きかけてくださったのです。

この夏季奉仕も終わりにさしかかった頃、特別祈祷会が開かれました。そして「この都市の貧民に仕えるよう召されていると感じた人は、立ち上がってください」という呼びかけがありました。

私の心の中で神様が起こしてくださった変化、そして貧しい人々を愛する過程で主が私に与えてくださった喜びゆえに、私は「貧しい人々に仕えることによって、私があなたに仕えること――これを許してくださいますか?」と主に訊ねました。

そして私は立ち上がりました。皆、私のために祈ってくれました。

それから10年という歳月が経ちました。そしてこの4年間、私はバンコクに居を構えています。

今でもときどき思います。私、どうしてここまで来ることになっちゃったんだろうって。

私にとって、貧しい人々への奉仕に召されたことは、天からくだった荘厳な声といったものではありませんでした。

このスラム街への私の道程は、神様の心のうちにあるものを一歩一歩追い求めていく中で、次第にあらわされていった信仰の歩みだといっていいでしょう。

神様が貧しい人々を愛しておられるので、私も彼らを愛しています。神様がこの世を愛しておられるので、私も彼らを愛しています。

イエス様がご自分の前におかれた喜びゆえに犠牲を払われたので、私もそうしたいのです。

いったいいつまで私はこのスラム街に住み続けるのだろう。いつまで家族と離れ離れに暮らすことになるのだろう。

いつになったら、彼らはイエス様を知るようになるんだろう。いつになったら正義がやってくるのだろう。

そして未来には何が待っているのだろう――そんなことをよく思います。

でも私がイエス様から教えられているのは、ただ主と共にいること、そして今主がなさっていることのうちに主に従っていくことです。そして残りは主がもたらしてくださるのです。

ーおわりー






下の絵をみてください。

L Kaiser picture

馬に乗った男性が中央にみえます。その左側には、大きな車輪の荷車があって、その上には一人の男性が座っています。

よくみると、その男性の手は鎖でつながれています。どうやら囚人のようです。そして男は地面にある何かを手に取ろうとしています。

槍で武装した数人の男たちに包囲されながら、この囚人を載せたこの荷車は、ゴトゴトと道をすすんでいっています。

絵の右手奥をみると、薪の山、そして燃え盛る火がみえます。

そうです。この囚人は今から、生きたままこの火の中に入れられるのです!火あぶりの刑にされるとは、この男はいったいどんな大罪を犯したというのでしょう。

連続強盗殺人でしょうか。もしくは幼児誘拐殺人でしょうか。

いいえ。彼はそのような犯罪は犯しませんでした。彼は異端(つまり非カトリック)の教えを説いた者として死刑に処せられようとしているのです。

時は1527年。場所は南ドイツ。

当時、政治権力をがっちり握っていたカトリック教会(およびプロテスタント教会の一部)は、みずからの公式見解に反する教えを説く者たちを「異端」と断罪し、彼らに拷問を加えたり、死刑に処したりしていたのです。

☆☆

Martyrs Mirror

私はこの記事をMartyrs Mirror(p420-422)を基に書いていますが、レオンハルド・カイセル(Leonhard Kaiser)がいつ生まれたのか、どこでどのように育ったのかははっきりと分かっていないようです。

ただ確かなのは、彼がドイツ南部バヴァリア地方の有識者であり、カトリック司祭だったということです。

Bavaria map

しかしある時期から彼は宗教改革思想に関心を持つようになり、ツヴィングリやルターの著作を読み始めました。

こうして真理探究を始めたレオンハルドは、直接ヴィッテンベルグまで足を運び、そこで有識者たちとさかんに意見を交換しました。

こうして故郷のバヴァリアに戻った彼は、熟考し祈った末、カトリック司祭を辞し、迫害されている信徒たちの群れと運命を共にする決心をしました。

レオンハルドがルター派であったとする説と、アナバプテストであったという説がありますが、そういった呼称はそう大切な問題ではないと思います。

大事なのは、彼が命をかけ御言葉の真理に従おうとした、キリストの弟子であったということです。

1525年より、彼は御霊の力と情熱に燃え、民衆に御言葉を宣べ伝え始めました。彼はラテン語にも通じていましたが、あえて誰にでもわかる口語体(=ドイツ語)で人々に聖書を語りました。

しかし翌年、彼はバヴァリアのスカルディングで捕えられ、パッサウの司教および教会参事会により、「聖ローレンス日の前の8月の金曜日に、火あぶりに処するべし」という判決を受けました。

こうして上記の絵でみたように、レオンハルドは鎖につながれ、処刑場に連れていかれました。

横にはカトリック司祭たちがおり、ラテン語で彼に話しかけていましたが、レオンハルドは傍で聞いている民衆への証しのために、あえてドイツ語で返答しました。

処刑場にいよいよ近づいた時、彼は縛られている不自由な体を横にかがめ、道端に咲いている一輪の花をもぎました。そして馬に乗っている裁判官に向かって言いました。

「裁判官さま。私は今、一輪の花を手に取りました。もしこの花と私を燃やすことができるなら、あなたの下した判決は正しかったとされましょう。

しかしもし、そうできなかったなら、ご自分がなさったことをお考えになり、悔い改めてください。」

こうして裁判官および三人の死刑執行人は薪をくべ、レオンハルドの体に火をつけました。しかし、薪がすべて燃え尽きた後も、彼の体は依然として燃やされていませんでした。

そこで執行人たちはさらに大量の薪をくべ、盛んな火をおこしました。
Leonhard at stake
しかしレオンハルドの体は(髪の毛と爪の部分は少し焼けていましたが)依然としてそのままでした。そして手に握られていた花も焼かれずにそのまま保たれていました。

そのため執行人たちはレオンハルドの体を切り刻み、新しくおこされた火の中に放り込みました。しかし火が燃え尽きてみると、その体の部位は灰となっておらず、そのまま保たれていました。

どうしようもなくなった執行人たちは、結局、その体の部位をイン川に投げ込みました。

一連の出来事を目の当たりにした裁判官は、即日辞職し、別の地方に移っていきました。

また、一等補佐官であり、裁判官に付き添っていた男性は、その後、モラヴィア地方の教会にやって来、レオンハルドと同じ信仰を持つに至りました。

☆☆

Leonhard 2

火の中に入れられても体が焼けなかったという証しは、ダニエル書3章や、2世紀のスミルナ教会の長老であったポリュカルポス(出典:Letter from the Church of Smyrna)の殉教の記録の中にも記されています。またレオンハルドの殉教は、Seb.Frank, Chron.der Rom.Kett. letter L.の中でも証言されています。

新旧約聖書には、たくさんの奇蹟の記述がでてきますが、私たちの神は、信じる者のうちに働いてご自身の栄光をあらわすことができる全能の主です。

また、神の全能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力がどのように偉大なものであるかを、あなたがたが知ることができますように。エペソ1:19

また、福音書や使徒の働きを読んで分かるのは、神様が奇蹟を起こされる時には、その後、必ず良い結果が生み出されるということです。(例えば使8:6-8、9:36-42)。

事実、レオハルドの殉教とそれに伴う奇蹟によって、一等補佐官をはじめとする多くの魂が救いに導かれたのです。

そのことを黙想する時、私たちはパウロと共に次のように告白することができると思います。

それは、私がどういうばあいにも恥じることなく、いつものように今も大胆に語って、生きるにしても、死ぬにしても、私の身によって、キリストのすばらしさが現されることを求める私の切なる願いと望みにかなっているのです。ピリピ1:20

☆☆
おわりに

私の家の近くには精肉店があって、羊が一匹ずつまるごと売られています。そのお店の前を通るたびに私は思います。

「ヒツジはなんと有益な動物だろう。ミルクはおいしいフェタ・チーズとして加工され食卓に並び、毛はウール製品となって私たちを寒さから守ってくれる。そして肉はケバブやスープとなって何世紀もの間、ギリシア人の大切な栄養源となってきた。」

イエス様が神の小羊と呼ばれ、また私たちクリスチャンが羊に例えられるのも、そこには深い意味があると思います。

時に私たちクリスチャンは信仰ゆえに人々から不当な扱いを受けたり、苦しめられたりします。

レオンハルドをはじめとする無数のクリスチャンも、不敬虔で残虐な人々の手にかかって殺されました。

しかし神の御手のうちにある私たちクリスチャンの人生は、結局、どのパーツも余すところなく主の栄光のために用いられるのです。

私たちは、四方八方から苦しめられますが、窮することはありません。途方にくれていますが、行きづまることはありません。

迫害されていますが、見捨てられることはありません。倒されますが、滅びません。Ⅱコリント4:8-9


キリスト教の歴史は、真のクリスチャンが常に迫害されてきた歴史であり、また勝利の歴史でもあります。

私は、このブログを読んでくださった愛する兄弟姉妹の人生が――たとえ今、どんな苦しみの中にあるとしても――、全てを益としてくださる主によって勝利に輝くものとされますようお祈りいたします。応援します!





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(↑トルコ・ギリシアの特製パン:チュレキ

愛する同胞姉妹のみなさん、こんにちは。まずはじめに、なぜ私がこういう記事を書こうと思ったのかそのことをお話したいと思います。

先日、主人が一人で賛美を歌っていた時、私は心の中で一瞬、〈主人は音痴なのではないか〉と彼を評定してしまいました。そしてそのように裁いてしまった自分を恥じました。

主人は私が奏楽でしくじってもいつも、「大丈夫だよ。神様にとって大切なのは、あなたの技巧ではなく、賛美するあなたの心なんだから」と励ましてくれます。

でももし誰かが、私の奏楽をききながら「なんてひどい演奏だろう。こんなに下手くそなのに彼女はよくも人前で奏楽しようなんて思ったものだ。。」と裁いたとしたら、私はきっと相当落ち込んでしまうと思います。

「教会がキリストに従うように、妻も、すべてのことにおいて、夫に従うべきです」(エペソ5:24)という御言葉があります。

私は思うのですが、夫に従うことを妨げる要素として、この「裁く思い」というのは無視することのできないクセモノです。

なぜなら、人を裁くというのは、自分を神の裁きの高台にのしあげる行為だからです。つまり、意識的にしろそうでないにしろ、裁く瞬間、私は相手を自分より下に見ているのです。

そして相手を自分より下に見る時、私は相手を尊敬していません。

そして尊敬していない相手に従わなければならない――これほど難しいことはないと思います。

ですから、従順な妻として日々成長していく過程において、私たちはこの「裁く思い」に宣戦布告する必要があると思います。

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それでは具体的にどのようにして私たちは「裁き」というこの罪から解放されるのでしょうか。

以下は私自身がこの罪と戦う中で祈り、実行していることです。

1)主イエス様に「どうか私の心を照らし、罪人としての私の本当の姿を示してください」と祈る。

自分の罪に鈍感で、自分のことを「ましな人間」と思っている人ほど、いとも簡単に人を裁く傾向があります。「ことにこの取税人のようでないことを感謝します」と祈ったあの高慢なパリサイ人がその典型です(ルカ18:11)。

自分の醜い罪が主の光によって一つ一つ明るみに出され、悔い改めに導かれるのは二重の意味で祝福だと思います。

なぜなら、これにより、私のこの罪のために死んでくださったイエス様の贖いが私の人生の中でよりリアルのものとなり、イエス様への愛がいっそう増し加わるからです(ルカ7:47)。

さらに、罪人としての自分のリアリティーが明らかになればなるほど、私たちは謙遜にさせられ、そうすると、不遜にも神の裁きの高台にのぼろうなどと思わなくなるからです(詩51:3、17)。

2)思想生活の「大そうじ」をする

これは「裁く思い」に対する信仰の戦いを含め、従順な妻として成長していくために私が重要視していることです。

現代のこの世は、聖書的従順を忌み嫌い、これに真っ向から(あるいはひそかに巧妙に)逆らっています。

メディアを通し、娯楽産業を通し、私たちは「従順というのは抑圧的。さあ、のびのびと自由に生きようじゃないか。自分の欲望に正直になろうじゃないか。それこそ人間らしいありのままの生き方じゃない?」というメッセージを刷り込まれています。

また悪があたかも善であるかのように描かれることにより、罪に対する私たちの感覚は麻痺させられようとしています。

ですから、このような状況の中で、あえて従順な妻であろうとしている姉妹は、日々の思想生活をよくよく見張る必要があると思います。

たとえば、テレビドラマや映画のことを考えてみてください。ドラマや映画は、映像や音響の効果もあって、私たちの思想生活に大きな影響を及ぼします。

たとえば、非聖書的なメッセージを含むドラマシリーズは、日曜の礼拝説教の100倍くらいのパワーでもって、私たちを良からぬ方向へ引っ張っていきます。

私たちはテレビドラマの描き出す男性像・女性像に影響を受け、知らず知らずのうちにこういった世的な人生哲学でもって物事を考え、行動するようになるのです。

さきほど思想生活の「大そうじ」と書きましたが、私はⅡ歴代誌34章にでてくるヨシヤ王の「そうじっぷり」が好きです。

ヨシヤ王は炎の信仰者でした。彼は「大そうじするぞ」と決意するや、バアルの祭壇を取りこわし、香の台を切り倒し、アシェラ像や、刻んだ像を粉々に砕きました。その砕き方は徹底していました。

愛する姉妹のみなさん。私たちも「よーし」と腕まくりをし、自分たちの思想生活を大そうじしようではありませんか。

自分が日頃、何を見、何を聴いているのか。
どんな本を読み、どんな種類の小説を読んでいるのか。
どんな人々と日頃、親しくしているのか。

そしてこの大そうじをする際、大切なのは、思いっきりのよさだと思います。

主に「ダメ」と示されたものとは断固として縁を切るのです。未練を残さず、きっぱりサヨナラするのです。というのも、ここで思い切らずになまじ「高き所」を残しておくと、信仰が弱くなった時に、またそこに逆戻りしてしまう可能性があるからです。

3)聖霊の力を求める

「裁く思い」という自分の罪と真剣に戦えば戦うほど、私は、自分の力をもってしては、この悪の根をもぎとることはできないことに気づきました。私は自分が高慢で、裁く者であることを認めます。そして聖霊の力を切に求めています。

私の周りにも、大きな問題を抱えたご主人を持つ姉妹方がいらっしゃいます。ここでいう問題というのは例えばアル中、ヘロイン中毒などです。しかし問題は中毒だけにとどまらず、それぞれ千差万別です。

こういうご主人と毎日顔をつき合わせながら、しかも彼を裁かず愛すというのは、本当に大変なことです。

私は彼女たちの信仰と忍耐にただただ敬服しています。そして彼女たちに主からの特別な慰めと助けが与えられるよう祈っています。

この聖霊の力を求める上で、私は断食と祈りが非常に有効であることに気づきました。

例えば、裁きたくないのに、夫を裁いてしまう自分がいるとします。そういう時、日を決めて、そのテーマに絞って断食するのです。そして主の憐れみと罪に打ち勝つ御霊の力をひたすら求めるのです。

私の体験では、こういった集中した祈りと断食は、相当な効果をもたらします。神様は私たちのその祈りにすばらしく答えてくださるのです。

最後に、私の尊敬するある姉妹が作ったカードのことばを紹介します。(日本語訳は下)

Resolved to edify your husband

すべてのことにおいて、あなたのご主人を建て上げるよう、決心なさってください。

ご主人が傷ついている時、ダウンしている時、彼を引き上げてください。毎日、彼のために祈ってください。

ご主人を教えようとしたり、変えようとしたりしないでください。彼に対して心に何かしこりがある時も彼をゆるしてあげてください。

ご主人を高め、敬意を示してください。彼を応援する最高のチアリーダーになってください。

ご主人が――逃げ出したいと思うような家庭ではなく――駆け込みたいと思うような、そんな家庭をつくってください。

自分、自分ではなく、与える人になってください。「私は被害者なの」というメンタリティーをきっぱり拒絶してください。

ご主人についての否定的な言葉を人に言ってはいけません。彼をばかにしたり、物笑いの種にしてはいけません。

聖書の中で、妻としての役割について書いてある箇所を探し出し、その御言葉に生きるようにしてください。

これまでのことばを要約します、、、あなたがそう接してもらいたいように、彼にも接してあげてください。





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「第一に、あなたは若くもなく、中国語という難しい言語を取得するには年を取り過ぎています。その他いろいろと考慮した結果、私どもCIMはあなたを宣教師として採用しないことに決定しました。」

1928年ロンドン。中国奥地宣教団(CIM)のオフィスでこの決定を聞いた小柄な女性はがっくりと肩を落としました。

〈ああ、あれほど祈ってきた中国宣教。でもやっぱり私みたいに無学な人はダメなのか、、神様は道を閉ざされたのかしら?〉

グラディース・アイルワード(Gladys Aylward 1902 – 1970)。やがてこの女性が艾偉德(Ài Wěi Dé)と呼ばれ、中国の民に敬愛される人物として歴史に名を刻むことになろうとは誰が想像できたでしょうか。

〈イエス様にお仕えしたい。でもどこといって取り柄もない私なんか、神様はお用いになれないだろう。〉

そんな風に思っている方がいらっしゃいますか?

もしくは、「あなたみたいな人にできるわけないでしょう」と周囲の人から否定的な言葉をかけられ傷を負いつつ育った方がいらっしゃいますか。

私はそんなあなたにグラディースのストーリーをお届けしたいと思います。

生い立ち

グラディース・アイルワードは1902年、ロンドンのエドモントンにて労働者階級の家に生まれました。

Gladys face

家が貧しかったため、彼女は14歳の時、女中奉公に出ました。

グラディースが18歳の時、地元の教会でリバイバル集会が開かれ、彼女はそこで「誰が神様のご奉仕のために人生を捧げますか?」という説教者の言葉を聞きました。

説教者のこの言葉は若いグラディースの魂を揺さぶりました。

「はい主よ。私はあなたのご奉仕のため自分の人生を捧げます。」彼女はこう祈り、主の招きに答えたのでした。

こうして宣教師としてどこかに遣わされたいという願いが若い乙女の心に芽生え始めたのでした。

中国への情熱

彼女の奉公先の主人はフランシス・ヤングハズバンドという軍の将校で、書斎には極東関係の本がずらりと並んでいました。

「ご主人さま。時々、本をお借りしてもよろしいでしょうか。」女中のグラディースはある日おずおずと尋ねました。

「ああ、いいとも。好きなだけ読むがいい。」将校は快く許してくれました。

グラディースは中国に関する本を熱心に読みました。そして多くの中国の民が福音を一度も聞くことなく死んでいっていることを知りました。こうして日を追うごとに彼女の中で中国宣教への情熱が燃え上がっていきました。

〈主よ、どうか私をこの民の元に遣わしてください。〉

中国奥地宣教団に受け入れてもらえず

こうして26歳の時、グラディースは中国奥地宣教団(CIM)に応募したのでした。「あなたをCIM宣教師に採用することはできない。」という冒頭の言葉は、その時発せられたものです。

さあ、どうしたものでしょう。宣教団体からは、「あなたには行く資格がありません」とはっきりしたNO!の返事が来ました。

実際、CIM候補生は、オックスフォードやケンブリッジ大といった名門校出身の者も多く、ギリシア語やヘブル語といった聖書諸言語にも通じていました。

人間的な目でみれば、そういった秀才たちの中にあって、一介の無学な女中が異国の地で何を成し遂げられるというのでしょう?

しかしグラディースは自分が中国宣教に召されているという確信を捨てさることができませんでした。いやむしろ、祈れば祈るほど、その確信は高まっていったのです。

自力で行く決意

〈宣教団体に送りだしてもらえないのなら、自分の力で行くしかない。〉

グラディースは固い決意をもってそう自分に言い聞かせました。こうして彼女は仕事をかけもちしながら、中国に渡るお金をせっせと蓄え始めました。

ジェーン・ローソン宣教師

そんな折、グラディースはある記事を読みました。それはジェーン・ローソンという73歳になる老宣教師からの中国便りで、彼女は「自分のミニストリーを助けてくれる若い女性を求めます」と書いていました。

「これだ!」グラディースはすぐにこの老宣教師に手紙を書きました。

しばらくすると返事がきました。

「グラディース姉妹。私はあなたの旅費を出してあげる経済的余裕がありません。しかしもしあなたが、私の現在住んでいる所までご自分でたどり着くことができたなら、私はあなたを同労者として受け入れましょう。」

彼女の蓄えでは、中国行きの船賃を払うことはできませんでした。

残る手段としては汽車しかありませんでしたが、当時、ソ連と中国は交戦を交えており、陸路での旅は非常に危険なものでした。しかし何ものも彼女の決意をくじくことはできませんでした。

こうして1930年10月、グラディースはリバプール・ストリート駅で大陸行きの汽車に乗り込んだのでした。彼女の所持品は、旅券、聖書、切符、旅行鞄、丸めた毛布、それに2ポンド9セント、これきりでした。

ロンドンからシベリアまで大陸を横断して

こうして危険な鉄道の旅が始まりました。

SIBERIAN RAILWAY PICTURE

ある時点でロシア兵が汽車に大勢乗り込んでき、グラディースは下車を命じられました。

「私を目的地まで行かせてください」と彼女が嘆願すると一端は受け入れられたものの、結局、途中、だだっぴろい平原のどこかで強制的に下車させられてしまいました。

こうしてグラディースは荷物をかつぎ、徒歩で前の駅に向けて歩きはじめました。ようやく駅にたどり着くと、別の汽車に乗り、シベリアに向かいました。

ウラジオストクに着いて

こうしてウラジオストクに着いた彼女は、そこから日本を経由して、中国の天津に行きました。

さあ、ここからが奥地行きのはじまりです。

彼女は天津からローカルの汽車に乗り換え、内陸の山西省阳城(Yangchen)をめざしました。

Shanxi Province Map
(↑赤色の部分が山西省)

汽車が駅に着くと、今度は地元のバスです。もうこの辺りからは全く外国人の姿を見かけることはなくなりました。

こうしてバスに揺られること数時間、ようやく目的地にもっとも近いバス停留所に着きました。

もうここからはラバによる交通手段しかありません。グラディースはよいしょとラバの背に乗り、ローソン婦人の住む村へ向かいました。

キャラバン宿をひらく

阳城(Yangchen)は、ラバに乗ったキャラバン陸商の通り道であり、彼らが一泊する場所でもありました。

CARAVAN mule

福音をできるだけ多くの人に伝えるにはどうすればいいかと祈り求めたローソン婦人とグラディースは、自宅を少し改造してそこをキャラバン宿にすることにしました。

二人は陸商たちのために暖かいベッド、そして食事を用意し、ラバにも十分に食料を与えました。

しかも夜には無料の催し物までありました。――そうです、二人は旅人たちを相手に、イエス様について語ったのです。

すぐにこの感じのいい宿は陸商たちの間で好評となり、旅人たちを通してイエス・キリストの話も広範囲に渡り伝わっていきました。

さらに日々、こうした旅人たちと語り合うことで、グラディースの中国語はめきめき上達し、やがてその地方の言葉までマスターしていったのです。

ローソン婦人の死

しばらく経ったある日、高齢だったローソン婦人が病に倒れ、数日後召されました。

こうして若いアイルワードは一人でこの宿を切り盛りしていく必要に迫られました。手伝ってくれるのはキリスト教徒の料理人梁しかいませんでした。

纏足(てんそく)検査官として

ローソン宣教師の死後、数週間過ぎたある日、グラディースの元に思わぬ訪問客がやって来ました。お付きの人々に伴われ阳城市の市長がやって来たのです。

「実はあなたに頼みごとがあってここまで来たのです。」市長は切り出しました。

「最近、うちの県も纏足(てんそく)を禁ずる法令を出したのです。しかし未だにこの風習を続けている地域もあります。

よって我々は検査官を各家に派遣し女性たちの足を調べたいと思っているのですが、それができるのは男性ではなく、女性の検査官です。

しかも遠隔地まで視察に行くためには、その女性の足は纏足であってはなりません。そういう条件を満たしている人を探していたのですが、あなたはまさに適任者です。」

「纏足(てんそく)」という言葉を始めて聞く方もいらっしゃるかもしれませんので、ここで簡単にこの風習について説明します。

纏足というのは、中国(上流・中流階級)で、女性の足を大きくしないため、子どもの時から親指を除く足指を裏側に曲げて布で固く縛り、発育をおさえた風習です。

こうして女性はゆっくりおぼつかない足取りでしか歩くことができなかったのですが、そういう姿が優美だと当時考えられていました。

グラディースはこの申し出を受け入れました。そしてこの機会をフルに用いて、各地を巡り、検査すると共に、福音を伝えていったのです。

刑務所での暴動

阳城に来て二年目、グラディースは再び市長に呼ばれました。

男性刑務所で暴動が勃発したというのです。

刑務所に到着してみると、囚人たちは中庭で暴れ回っており、その中の数人はすでに殺され地にころがっていました。兵隊も中に入っていくのを恐れていました。

看守はグラディースに言いました。「中庭に入って、この暴動をおさめてくれ。」

「え、私がどうやって?」

看守は言いました。「あなたはかねて。『キリストに信頼を置く者には恐れがない』と言っているではありませんか。」

グラディースは意を決し中庭に入っていくと、叫びました。

「静かに!みんなが一斉に叫んでいたら聞こえません。どうか代表者を一人選んでください。私はその人からお話をうかがいますから。」

男たちは静かになりました。そして彼らが代表者を選ぶと、グラディースは彼の言い分にじっくり耳を傾けました。

そうして話し合いを終えると、彼女は看守の元に戻って来て言いました。

「あなたがたはこんな狭い場所で彼らを押し込めて、しかも何ら仕事を与えていません。どうりで彼らは気が立っているはずです。彼らに何か仕事を与えなければなりません。

またここの刑務所では囚人たちに食料を提供していないそうですね。彼らは差し入れの食べ物だけでやっとこさ飢えをしのいでいる有様です。

だから食べ物をめぐって争いが絶えないのです。どうか機織り機を購入してください。そしたら彼らは服を作り、その売上金で食料を買うことができますから。」

こうしてグラディースの提案は受け入れられ、劣悪な刑務所の環境はかなり改良されました。

人々は次第にこの勇敢な女性のことを敬愛を込め、「艾偉德 Ai-weh-deh」と呼び始めました。

孤児救出

ある日、グラディースは、道端に一人の乞食女が座っているのをみかけました。見るとこの女の横には、痩せこけた腫れものだらけの幼児がしゃがみこんでいました。

この子が女の実子でないのは明らかでした。女は、物乞いの「だし」に使おうと、この孤児をどこかで誘拐してきたのです。

グラディースはこの女に9ペンスを渡し、栄養失調で衰弱していたこの子を引き取りました。5歳になる女の子でした。

一年後、この女の子が今度は、捨て子の坊やをどこかで見つけてきて、彼の手を引きグラディースの元へやってきました。

「私、ごはんを半分だけ食べる。そしたらこの子もごはんを食べられる。そうしてもいい?」

こうしてグラディースは二人目の孤児を引き取ることになりました。やがてその数は三人、四人、十人と日増しに増えていきました。

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日中戦争勃発

そんな最中、日中戦争が始まりました。1938年の春には、日本軍が阳城市内を爆撃し、多くの死傷者がでました。そして生き残った市民は山に逃れました。

グラディースも100人の孤児を引き連れ、西安に決死の逃避行をすることにしました。

12日間というもの、彼女と子どもたちは山の中を歩き続けました。

picture Gladys Aylward

12日目に、彼らは黄河の岸辺にたどり着きました。しかし悲しいかな、この広大な黄河を渡るすべがなかったのです。

戦時中だったため、船はすべて運休しており、日本軍に使われることを恐れ一般市民のボートもことごとく回収されていました。

「どうして川をわたらないの?」子どもたちはグラディースに尋ねてきました。

「ボートがないの。」彼女は答えました。

「かみさまは、なんでもできるよ。かみさまにボートをくださいっておいのりしようよ。」

こうしてグラディースと子どもたちは川辺にひざまずき、祈りました。そして賛美を歌いました。

ちょうどその時、パトロール中だった中国人の巡査が歌声を耳にし、川辺にやって来ました。

そして事情を聞くと、「私がなんとかボートを手配しましょう。」と請け合ってくれたのです!子どもたちの切実な祈りがきかれたのです。

こうしてついに西安にたどり着き、政府の孤児院に子どもたちを託すと、グラディースはそのまま意識を失い倒れてしまいました。

チフス、肺炎に加え、ひどい栄養失調にかかっていた彼女は、数日の間、生死の境をさまよい続けました。

西安での働き

ようやく回復したグラディースは、西安で再び精力的に人々に仕え始めました。戦争難民や孤児、そしてハンセン氏病の人々に対し彼女は無私の愛を注ぎ続けました。

当時、西安でハンセン氏病の患者を看ていたアメリカ人の医者は次のように証言しています。

「患者の体はよじ曲がり、ひざまずくことができませんでした。また手も萎え、物を受け取ることもできない状態でした。

しかし彼らの目は喜びと希望に輝いていました。そうです。グラディース・アイルワードが彼らにキリストをもたらしてくれたからなのです」(Wellman, p.190)。

Gladys with three orphan children

みこころ

さてここで、グラディースの結婚への思いについて触れたいと思います。彼女は一生涯独身でしたが、その歳月の間には彼女なりにいろいろと葛藤がありました。

『情熱と純潔』の著者であるエリザベス・エリオットは、この点に関して、グラディースと対話した時のことを次のように追憶しています。

、、グラディースは一生涯、結婚しませんでした。

でもそれは彼女が一度も結婚のことを考えなかったということではないのです。彼女は中国に来たはじめの6、7年、(独身女性として)幸せに神さまに仕えていました。

その後、宣教師カップルが中国にやって来て、彼女の近くで奉仕し始めました。

夫婦のもつ特権を間近にみながら、彼女は『私も結婚できたらいいなあ。』と思うようになったのです。

そして彼女はそのことを主に打ち明けました。そして彼女はストレートに次のように祈りました。

『主よ、私にふさわしい男性を英国から呼び寄せてください。そしてその男性を中国にまっすぐ導いてください。そして私のいる場所に連れてきてください。そして彼が私に結婚を申し込むよう導いてください。』

私は彼女の語った次の言葉を忘れることができません。

彼女は骨ばった指を私の顔の前で振ると、こう言いました。

『エリザベス。神様はその祈りに答えてくださったと私は信じているの。主はその男性を呼んでくださった、、』

しばらくの沈黙の後、彼女はささやくように言いました。『主は彼を呼んでくださった、、、でもね、彼は来なかったの。』
」(Elliot)

私が苦しみの中を歩いても、あなたは私を生かしてくださいます。詩篇138:7

わが父よ。できますならば、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願うようにではなく、あなたのみこころのように、なさってください。マタイ26:39

一時英国へ、そして台湾へ

こうして絶えず奉仕を続けていたグラディースでしたが、1947年、新しく樹立された中国共産党政権より、宣教師追放命令が出されると、彼女は17年ぶりに英国に一時帰国しました。

そしてその後、1958年、グラディースは再び中国に戻る決意をしました。

しかし共産党政権が彼女の入国を拒んだため、彼女は台湾に向かいました。そして1970年に召されるまで、台湾の地で、孤児たちに愛を注ぎ続けました。

おわりに

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彼女は自分の学のなさ、小ささを自覚していました。そして謙遜に次のようなことを語りました。

「(中国宣教に関し)もともと私は神様の第一選択ではなかったの。それに最もふさわしい誰か別の人がいたはずなの、、、それが誰かは分からないけど――とにかくその人が神様に選ばれし第一の器だった。

そう、それはある男性だったはず。すばらしい男性。立派な学問のある教養高い男性。

でもその人の身に何が起こったのか分からない。もしかしたらその人は死んでしまったのかもしれない。あるいは神様の召しに答えようとしなかったのかもしれない、、、

そうして神様は地を見下ろされた、、そしてグラディース・アイルワードに目を留められたの」
(Thompson, p. 183)。

彼女のこの言葉は、次に挙げる御言葉の真実性を力強く証ししていないでしょうか。

「兄弟たち、あなたがたの召しのことを考えてごらんなさい。この世の知者は多くはなく、権力者も多くはなく、身分の高い者も多くはありません。

しかし神は、知恵ある者をはずかしめるために、この世の愚かな者を選び、強い者をはずかしめるために、この世の弱い者を選ばれたのです。

また、この世の取るに足らない者や見下されている者を、神は選ばれました。すなわち、有るものをない者のようにするため、無に等しいものを選ばれたのです。

これは、神の御前でだれをも誇らせないためです」(Ⅰコリント1:26―29)。


思い出してください。彼女は宣教団体の理事会からは「中国語ならびに現地の文化を習得する能力に欠けている」という判断を下されていました。

しかしその予想に反し、彼女は見事に中国語をマスターし、現地の人々から慕われ、敬愛される人物となったのです。

あれほど神の知恵と霊に満たされたサムエルでさえも、油を注ぐべき将来の王を正確に見極めることができなかったこと(Ⅰサムエル16章)を覚える時、私たちは主の御計らいの前に謙遜にさせられます。

何かの働きに主はあなたを召しておられますか?にもかかわらず、周囲はあなたの召しを理解してくれない――そんな状況にいらっしゃる方がいますか?

たとえあなたの周りにいる人々が、あなたの召しに否定的な応答をしたとしても、どうかあきらめないでください。

そして御心を求め続けてください。主はあなたのその尊い志を決してないがしろにはされません。

祈りと忍耐、そして燃える情熱により、やがてあなたに対する主の御心は、あなたにも、そしてあなたの周りにいる人々にも明らかにされていくでしょう。

【文献案内】

Burgess, Alan. The Small Woman. New York: Dutton, 1957.
Elliot, Elizabeth. Gateway to Joy.
Swift, Catherine. Gladys Aylward. The Courageous English missionary whose life defied all expectations. Minneapolis: Bethany, 1989.
Thompson, Phyllis. A Transparent Woman: The Compelling Story of Gladys Aylward. Grand Rapids: Zondervan, 1971.
Tucker, Ruth. From Jerusalem to Irian Jaya: A Biographical History of Christian Missions. Grand Rapids: Zondervan, 1983.
Wellman, Sam. Gladys Aylward. For the Children of China. Ulrichsville, OH: Barbour, 1998.