bright day in the park
情報源)

私たちが主に献身し、主をお喜ばせする人生を送りたいと真剣に歩もうとすればするほど私たちはそれを阻もうとする猛烈な抵抗および誘惑に遭います。これについては読者のみなさん皆、同意してくださると思います。

使徒ペテロも言っているように、私たちの敵である悪魔は、ほえたける獅子のように、食いつくすべきものを求めて歩き回っています(Ⅰペテロ5:8b)。また悪しき者は私たち信仰者に向かって、普通の矢ではなく、「火の矢」(エペソ6:16)を放ってくることが明記されています。

今日は、罪を告白すること、自分の犯した罪を第三者の前で明るみに出すことについて、私自身がこれまで学び経験してきたことを書こうと思います。

罪は本来、隠れようとする性質を持っています。また罪は人目につかない、じめじめした場所を好みます。また罪は、言い訳や同情のことばを集めるのが得意です。

「人間はみな弱いんです。でもイエス様の赦しがあるから、それでいいんです。」

「罪があるままの弱い自分をイエス様は受け入れてくださいます。」

でも私やあなたは心の奥底では、「その罪」について知っています。――まだ告白されず、明るみに出されていない「その罪」の存在を。

聖霊は私たちの良心を目覚めさせ、「その罪」を浮き彫りに出します。どんなにその存在をもみ消そうとしても、忘れ去ろうとしても、聖霊は「その罪」を指し示し続けます。

主の臨在のうちに生きている人なら、黙ったままのこの状態にやがて耐えがたい苦悶を覚え始めます。

私は黙っていたときには、一日中、うめいて、私の骨々は疲れ果てました。それは、御手が昼も夜も私の上に重くのしかかり、私の骨髄は、夏のひでりでかわききったからです。詩篇32:3,4



自分の肉はそれでもなんとか罪の隠ぺい工作をしようとあがきます。そこに蓋をしてみたり、敬虔な飾りをつけたり、今まで以上に奉仕に精を出したり、とにかく「それ」を認めまいと頑張ります。

そしてサタンもそういった隠ぺい工作にいろんな知恵を貸してくれます。

しかし嗚呼、「それ」は依然としてそこにあり、聖霊は私たちに一時も休みを与えてくれません。

こうしてついに、私たちの肉は崖っぷちに追いやられます。脂汗が流れ、顔は真っ青です。聖霊は言います。「『それ』を明るみに出しなさい。『それ』を告白して、生きよ」と。

私は、自分の罪を、あなたに知らせ、私の咎を隠しませんでした。私は申しました。「私のそむきの罪を主に告白しよう。」詩篇32:5a

自分のそむきの罪を隠す者は成功しない。それを告白して、それを捨てる者はあわれみを受ける。葴言28:13



私は昨日、信頼している二人の姉妹の元へ行き、隠されていた「その罪」を告白しました。こうして明るみに出された罪は主の光の下でついに息絶えたのです。

実を結ばない暗やみのわざに仲間入りしないで、むしろ、それを明るみに出しなさい。なぜなら、彼らがひそかに行なっていることは、口にするのも恥ずかしいことだからです。

けれども、明るみに引き出されるものは、みな、光によって明らかにされます。明らかにされたものはみな、光だからです。エペソ5:11-14a



これはすばらしい体験です。解放です。

すると、あなたは私の罪のとがめを赦されました。詩篇32:5b



自分を苦しめていた罪から解放され、それを実体験する時、聖書は単なる教理の体系ではなく、私たちの内で、ますます「生けるいのち」となっていきます。

またヤコブの手紙には、

ですから、あなたがたは互いに罪を言い表し(口語訳では「罪を告白し合い」)、互いのために祈りなさい。いやされるためです。ヤコブ5:16a



と書いてあり、「罪の告白」と「いやし」が密接な関係にあることを示しています。

実際に、私たちは今、お互いに罪を告白し合う中で、すばらしいいやしを体験しています。そして、その祝福は一方だけではなく、告白する側・告白を聞く側双方にあふれんばかりに注がれています。

私たちは自分たちがちりに過ぎない、あわれな罪びとであることを知り、共に十字架の下で憐みを乞う存在であることを示されました。

私は一人の姉妹に言いました。

「こうして――もっとも醜い私の罪――をあなたは知った上で、そんな私を受け入れ、愛してくれている。このような交わりは、私を地上的ではない〈ある場所〉へ引き上げてくれる。――そこはキリストが治めておられる場所。ああ私はこの交わりをKingdom fellowshipと呼びたい」と。

祈り

主よ、聖霊の働きにより、私たちの隠れた罪を浮き彫りにしてくださることをありがとうございます。

どうか御言葉に書いてあるとおり、私たちが勇気をもって、「その罪」を告白することができるよう助けてください。そしてその罪からの解放を今日にでも体験することができるよう私たちを導いてください。

私たち聖徒の交わりを天的なものへと高めてください。そしてきよい王であるキリストの愛と喜びで私たちを満たしてください。イエス・キリストの御名を通してお祈りいたします。アーメン。



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(アーミッシュの女性の服 情報源

このブログにはじめて来てくださった方を歓迎いたします。

もしかしたら、今あなたの心の中には、「なぜこの人はクリスチャンと言いながら、服装とかそういう外面的なことにこだわっているのだろう?なぜ未だに律法に縛られているようなことを書いているのだろう?」という疑問が湧いているかもしれません。

そしてその疑問は妥当なものです。――もしも私が服装の着方によって自分の義を打ち立てようとしているのなら。

しかし実際はその反対なのです。私は服装に関し、過去に大きな過ちを犯してしまった罪人です。

私は教会の奉仕者という立場にありながら、胸元の大きく開いたブラウスを着て教会に出入りしていました。そしてそれによって真面目な兄弟をつまずかせるというシビアな罪を犯しました。(その罪の告白と悔い改めはココに書きました。それから現在に至るまでの服装についての私の証しはココです。)

そしてⅠヨハネ1:9の御言葉を握りしめ、「自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私をきよめてくださること」を信じつつ、イエス・キリストによる義に寄り頼んでいます。

ですから、姉妹の服装のことに関して私が言ったり書いたり翻訳したりしていることは、まさしく悔い改めから生じた一粒の実なのです。

また私が自分の失敗から学んだもう一つの教訓があります。それは、この世のファッション基準でもって、(クリスチャンとしての自分の)「慎み深さ modesty」を計っていてはいけないということです。

私があの当時、自分の服装に問題を感じていなかった理由がまさにそこにありました。あの当時、キャンパスの女子学生の間ではスパゲティ・ストラップが流行っていました。

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(スパゲティ・ストラップ)

私は自分がこういう上着を着ていない=世的ではない=クリスチャンとして問題なしと考えてしまっていたのです。ここに間違いがありました。

今日は、「日本宣教に燃える16歳の少女ケイガン」「おお炎よ(詩と祈り)」でご紹介しましたケイガン姉妹の服装に関する証しを掲載します。

もし私が今、16歳の時期に戻れるとしたら、そしてケイガンのような姿勢で生きることができたとしたら、どんなによかったろうと思います。

このようにして彼女の証しを翻訳し紹介することで、他の若いクリスチャンの方々に何か益となるものを流すことができるのなら、とても幸いです。

☆☆

reading woman

(以下はModesty-My Thoughtsの部分訳です。)

他の人をつまずかせないために、慎み深く身を包む必要があるということを、私たちは上に挙げた聖句(Ⅰペテロ3:1-6、Ⅰテモテ2:9-10、マタイ18:7、Ⅰコリント8:13)からも推し量ることができると思います。

でも、まだ最初の問いは残ったままです。どこからが慎み深くなくて、どこからが慎み深いのか、そういった線引きがはっきりしていないからです。

私たちのプライベートな部分を覆う必要があるのは分かります。でも、どの位、どこまで覆うべきなのでしょうか。そういう点は別に考える必要はないのでしょうか。

これは私たちのよく直面する問題だと思います。ピレモンの手紙についてお分かち合いした時にも書きましたが、私たちは聖句を前に、「これをいかに最善にとるか?」ではなく、「これをいかにうまく切り抜けるか?」という姿勢で読んでしまいがちなのです。

(中略)そして他の女性たちと同じように、私も「源泉をたずねる」という意見に賛成です。つまり、男性のみなさんに、慎み深さについて直接意見をきいてみるということです。

その結果に多くの女性は驚くと思います。(でも私は個人的に驚きませんでした。なぜかというと、私は父親と三人の弟たちと暮らしているからです。うちには、私以外の女性は母親しかいません。だから男の人たちの考えていることにはなじみがあるのです。)

みなさん、私は控えめに言いますが、大半の女性の服装は――教会に着ていく服装でさえ――男性に「かなり」つまずきをもたらしています。

どうして私たちは、常時ロングスカートをはいたり、質素な服装をすることにこれほど敵意をむきだしにするのでしょうか。

でも誤解しないでください。私はパンツをはいている人というのは罪深く、悔い改めなければならないなどと言っているのではありません。全く違います!

むしろ私は、自分が教会内で目撃しているような種類のスカートよりは、パンツで礼拝に来ていらっしゃる女性の方々の方を好ましく思っています。というのも、パンツは(ミニスカートなどと比べると)体を覆ってくれているし、激しい運動をする時などにも肌が露出しにくいからです。

でもあなたが慎み深さについての真理について、真摯に探究しておられるのでしたら、これから私のお分かち合いすることをどうか聞いてください。これらは慎み深さを求める旅路の中で私が発見してきたことなのです。

female pants

まず、私がパンツ(ジーンズ)をはくことに抵抗を感じている一番の理由は、それが体のラインを強調するからです。特に、ヒップや太ももが大きい女性にとってそうです。

大半の男性はジッと見ることはないにしても、すれ違いざま、そこに目がいっています。(私は既婚男性のことも含めて言っています。彼らもそれに関して免除されているわけではないのです。)

今、私たちの文化はこういったことにほとんど無感覚になっていますが、だからと言って人々がそういう問題から免除されているわけはないのです。

いえ、実際には多くの男性が(そして女性も――テレビやインターネットを通して裸の女性の映像が常に流されているような環境にあるため)それによって苦しんでいます。

もちろん、男性はみずからの考えや思いをコントロールすべきですし、自身の行動に対して責任をとる必要があると思います。でもだからといって、私たち姉妹は何もしなくていいのでしょうか。いいえ、私たちもできる限り、彼らを助けてあげるべきです。

そういうわけで、私はパンツをはき続けるべきかどうかしばらくの間、葛藤していました。そしてそのことについて祈っていました。

するとある日突然、その祈りに対して答えが与えられたのです。私はその時、ガソリンスタンドにいました。お父さんがガソリンを入れている間、私は車の中で待っていました。

その時、パンツ姿の女子従業員の方がうちの車の前を(車と前方の壁との間には少ししか隙間がありませんでした)通り抜けようとしていました。

正直に言います。その時、私の目には彼女のヒップしか目に入ってきませんでした。そして私ははっと思ったのです。「え、じゃあ、私も他の人からはこんな風に見えているってこと?」

私はどっしりした体型の女性です。かなりどっしりしています。ですから、その時、他の人が私の後姿を見た時、どんな風にみえるのかなんとなく想像できた気がしました。後で私は自分の後ろ姿の映った写真などもチェックして、そのことを再度確かめました。

そして私は「これからはもうパンツ(ジーンズ)ははかない」と決心したのです。

でもここで問題が生じました。一つ目、それは律法主義的になりたくないということ。それから、運動する時はどうしたらいいんだろう、ということでした。スカート姿で運動するなら、逆にもっと慎み深さを失ってしまうのではないかしらと思ったのです。

ジムに行って、トレッドミルで運動している時など、私は周りの人々の視線を嫌というほど感じ、ストレスを覚えました。「どうしたらいいのかな?何かいい解決策はないかしら?」私は試行錯誤し、それについて一生懸命考えつづけました。

でもついに解決策を見つけたのです。私は長丈スカートの下にカプリパンツもしくはインナー・ショーツをはき始めたのです。

capri pants

そしてそこからさらに発展して私はスウェット・パンツをスカートのインナーとして着けるようになりました。そして今日に至っています。

自転車に乗る時やジョギングする時も私はこうしたインナー・パンツをはいた上でスカートを着ています。これは驚くほど効果的です!今でもジロジロ見られたりすることがありますが、それは情欲からではなく、風変わりな私の姿のためです。

では次に、ブラウスについてです。ブラウスがタイトであればあるほど、私たちの胸のラインは強調されることに気づきました。

姉妹のみなさん、正直になりましょう。私たちに胸のふくらみがあること、この事実は隠せません。でもそれを強調するようなブラウスを避け、注目を引かせないようにすることは可能です。

それで私は自分の着るブラウスの作りに注目するようになりました。そして体のラインに注目を引かせないような――そして、その代わりに慎み深さと敬虔な美しさを映し出すことのできるような――、ゆったりした作りの服を着るようになりました。

plain women
情報源

さあ、ここまで私たちはご一緒に考えてきました。ここでもう一つ「奇抜さ・派手・豪奢」といった点についても考えてみたいと思います。私たちの服装はどうでしょうか。私はこの点について今も葛藤を覚えています。

奇抜さや派手さといった、そのこと自体には問題はないと思うのですが、ここで自問しなければならないこと、それは、「どうして?どうして私は派手な服を着ているんだろう?」――だと思います。

問題は、そういう服を着ることによって自分に注目が集まること、そしてそれに伴うマイナスの力だと思います。そういう服は、私たちを神を畏れ敬う女性としては映し出さない場合が多いのです。

人々が私たちを見る時、彼らはイエス様を見なければなりません。

でも誤解しないでください。これは服装というよりも、私たちの態度や振る舞いのうちに表わされるべきものです。しかし、あなたの着る服はその全体としての効果を助長する(あるいは減少させる)働きをなすのです。

私たちはしとやかに身を包むべきであって、「見栄えをよくすること」ばかりにやっきになってはいけないと思います。実際、これは虚栄心に他ならない場合が多く、その傾向は独身女性においてさらに顕著です。

それでは今度はお化粧やアクセサリーのことを考えてみることにします。まずはお化粧から。これもそれ自体は悪ではありません。少しお手入れをするといったことは適切である場合もあるでしょう。

でもあなたにぜひお分かち合いしたいことがあります。ご存知でしょうか。――男の人たちは実のところ、(女性の)化粧はあまり好きじゃないということを。

私の知っている男の子たちはナチュラルな外見をむしろ好んでいます。ノン・クリスチャンの男の子たちでさえ、全体としてあまり化粧は好きじゃないのです。

男の子たちにとっては、それはむしろ不安感を表すもののようです。ですから女性のみなさん、外見のことを心配しなくても大丈夫です。

もしあなたが、「人にどう見られているんだろう」という外面的なことを心配するなら、それは度を超えた厚化粧へとあなたを追いやり、それはむしろあなたにとって有害なものとなってしまいます。

アクセサリーについてですが、私は最小限にとどめるのが一番いいと思っています。これについてもお化粧と同じで、男の子たちはけばけばしい物にはあまり興味がないのです。彼らはもっと自然なものを好んでいます。できるだけシンプルにするのがいいと思います。

なぜなら、あなたのアイデンティティはそういった物のうちにあるのではなく、――キリストのうちに、そして主の尊んでおられる柔和で穏やかな霊のうちに――あるからです。

ここまでいろいろと申し上げてきました。願わくば、同じように慎み深さを求めている方々の日々の生活で私の分かち合ったことが、何らかの助けになったらと思います。

前にも申し上げた通り、聖書の中では慎み深さのラインというのははっきり明記されていません。でも、私たちはそれぞれの状況の中で、知恵と分別、そして思慮を求めるべきだと思います。

服装における慎み深さというのは、状況によっても異なります。それは決まった規則のようなものではないのです。おそらくそういう理由で、聖書にははっきりした線が引かれていないのかもしれません。

私たちは各自、多くの祈りを通して、そして主にあって成長していく過程を通して神様が与えてくださる知恵の中にそれらを求め続けていくべきだと思います。

慎み深さを求めるあなたの旅路の中に神様の祝福がありますように!

ケイガン・クック Kegan Cook

forever friends


追伸) 現在、ケイガンのブログを読みにきてくれる人の7割強がなんと日本の兄弟姉妹だそうです!彼女はそのことで非常に励まされています。ケイガンを応援してくださっている兄弟姉妹のみなさん、ありがとうございます。これからも彼女のブログを訪問し、心を合わせて彼女のような若いクリスチャンを応援していきましょう。




sewing woman

先日、「私の主人には神様からの召命がありません。そんな夫にどうやって従っていけるというのでしょう?」というタイトルで私はエイプリル姉妹の証しをみなさんにご紹介しました。(ココです

「頼りなく、無気力な」夫との間に問題を抱え、エイプリル姉妹は長年、苦しんできました。今日は彼女がこれまでにたどってきた歩み――失敗や恥や葛藤も含めた――をつづった証しをご紹介いたします。

私の祈りは、彼女と同じような悲しみ、葛藤を覚えながら信仰生活を送ってこられた姉妹のみなさんが、彼女の証しによって励ましを受けられることです。そして回復の道しるべと希望が与えられることです。

もしよろしければ、どうぞお読みください。

☆☆

女性らしさ、結婚、キャリア、子育て、夫婦の役割とかいったことに関してですが、私はこれまでそういったことを文化的に「なんとなく」受け入れていました。

でもそれについて真剣に考えたことはありませんでした。というのも、私は自分はれっきとした聖書的な妻だって思い込んでいたからです。

結婚に関する聖句だって何度も読んでいました。「妻もまた夫を敬いなさい」(エペソ5:33)などを読んでも、「うん、自分はオーケー」と思っていました。

ぎゃーぎゃー叫んだり、呪ったり、物を壊したり、夫に物を投げつけるようなことはしていませんでしたし、、(あっ、でも一度主人に洗濯物を投げつけたことがありました。でも幸い、命中はしませんでした。)

まれに主人が何かを強く主張する時がありましたが、そんな時は、「まっ、主人には神より与えられし権威が与えられているんだから」と思いつつ、最終的に譲歩してあげていました。

でもその譲歩に至るまでに、私はがみがみ主人に言い逆らい、――いかに自分の意見が主人のそれよりすぐれていて、かつ聖書的であるかを説きつつ――なんとか夫の決心を変えようとあがきました。一言でいうなら、私は喜んで従う妻ではなかったのです。

「たいていの場合、主人は私の言うことに同意してくれているし、万事はオーケー」と私は思っていました。そして主人が(私を)リードできるよう努めていました。――もちろん、私が彼に望むやり方で、ですが。また私は夫に早急な決断を迫りました。

そして、自分のようにさっさと決心できず、もたもたしているように見える夫にいらだちを覚えていました。私は彼に「第二のエイプリル」を期待していたのです。――つまり女性のような思考を。

でも彼はそういった決断を前にして、熟慮する時間を必要としていたのです。そういった意味で彼の考え方のプロセスは私とは違っていたのです。でも私はそれに気づいていませんでした。

結婚していても、私はとても孤独でした。ストレスと重圧と心配で押しつぶされそうでした。

lone bird

私はいつも自分流のやり方で物事を解決しようとしていました。また結婚問題についても自分でそれを背負いこんでいました。

霊的にも、精神的にも、経済的にも、私は自分がそれに責任を持たなきゃと感じていて、心に平安がありませんでした。

私は支配的な妻でした。人をコントロールするタイプの女性でした。私は一卵性のふたごですが、支配的な性格が幼少時からみられました。

私は社交的でフレンドリーで断固とした気構えを持つ女性でした。薬剤師になってからは、そういった支配的な傾向にさらに拍車がかかり、結婚生活のかじ取りも自分がするようになりました。

職場で私は、患者さんに「ああしなさい」「こうしなさい」とカウンセリングしていたのですが、そのモードは家に帰っても変わることがありませんでした。私は夫にもああしなさい、こうしなさいと指示しました。――それもかなり頻繁に。

私は自分自身に対しても、自分の周りにいる人々のことに関しても、妙に責任を感じてしまっていました。

(その当時、私は全てをつかさどってくださっている神の至上権について理解していなかったのです。ですから、そこにあるのはただ自分の責任感だけでした。多くの点で結局、私が信頼していたのは、神さまというよりも自分自身だったのです。)

学校や職場では自分流のやり方が報われる

私は学校でもどこでもとにかく頑張り屋さんでした。そして完璧主義者でした。そして過度に自分に厳しく、自分のことを――そして他の人のことを――寛容な心で受け止めてあげることができませんでした。

私は自分の目指すところが何であるかをしっかり把握しており、それに向かって突進するタイプでした。その一方で八方美人でもあり、みんなに好かれようとやっきになっていました。

私は自分の状況判断能力に自信を持っていました。――それは自分についても、主人についても、他の人のことについても、そうでした。口にこそ出してはいませんでしたが、実際、私は自分が神様よりも状況をちゃんと把握していると思っていたのです。

「周りの人はみんな私のアドバイスや助けを必要としている」って思ってました。そしてそういう自分のやり方は、学校や職場では見事に報われました。

抜群の成績、全額奨学金、顧客サービス部門での大賞受賞、、、でも、なぜ自分の夫にだけは、この方法が功を奏さないのだろう?それが分かりませんでした。

消極的な夫

結婚する前から、主人はどちらかというと、物静かで、落ち着いており、控え目な人でした。

結婚した最初の夏、住居のことやら、夫の職探し問題のことなどで、私たちはいろいろと衝突しました。すると夫は自分の殻にしっかり閉じこもるようになり、ほとんど何も話さなくなっていきました。笑いもしませんでした。

最初の夏の間、彼は私に触れることもせず、「おやすみ」も言わずに寝室に退くこともしょっちゅうありました。

私たちは六年の交際期間の後に結婚したのですが、「えー、じゃあ、あのやさしくて責任感があって、しっかりしていて、しかも私を愛してくれていたあの人は一体何だったの?」と私は茫然となりました。

こうして彼はますます消極的になっていき、その結果、私は「じゃあ、私が舵を取らなきゃ」と思い始めました。

実際、夫にその時何が起こっていたのかというと、彼は圧倒され、困惑し、私にどう接してよいのか分からずにいたのです。彼は彼なりに新居のことで一生懸命夜中まで働いていました。彼は疲労困憊していたのです。また夫として、家庭のリーダーとして不慣れな状態だったのです。

そしてがみがみ言う私のこういう姿を見たことがなかったのです。疲れて家に帰ってくる夫を待っているのは、ヒステリックな自分でした。

それで夫は、「数日、妻をそっとしておいてやろう。そしたら落ち着くだろう」と思っていたのです。でもそれはうまくいきませんでした。

何はともあれ私たちは結婚生活を続けました。一応、住居問題のことが一段落すると、状況はましになりました。でも私たちの間に横たわる不健全なパターンは深い根をおろしてしまっていました。

私たちは両方とも、あまりにも準備不足でした

私は実際、かなり高慢な人でした。でもそうじゃないって思っていました。ほら、箴言にも「人の心の高慢は破滅にさきだつ」(18:12)って書いてありますよね。

だから私たち夫婦に限っては、他の夫婦のようないざこざはある訳がなく、結婚前の六年間と同じように、これからもきっとうまくいくはずって思っていました。

私は自分が実は利己的でわがままで霊的に未熟なクリスチャンだという事実に気づいていませんでした。

私は孤独でした。頼ることのできる人は誰もおらず、助言をくれそうな人もいませんでした。私は自分の苦しみを夫に分かってもらおうと、毎日、彼に訴えました。――何もかも聞いてもらいたいと。

もし彼が私の苦しみの切実さを知ってくれれば、また前のように自分のことをかまってくれ、愛してくれるかもしれないと思っていたからです。

ああ、でも、私は自分が完全に拒絶されたように感じ、まったく愛されていないように感じました。その時気づいていなかったのは、自分がかなり不遜な態度で夫に近づいていたという事実でした。

主人はその時もまだ私を愛してはいたのです。でも私たちはこういった危機のただ中にあって、それを乗り越えるすべを知らず、相手が何を必要としているのか、それを思いやる余裕さえなかったのです。

もちろん、私たちの結婚生活はすべてがすべて真っ暗という訳ではありませんでした。でも住居の問題やらひどい不眠症やら、その他もろもろの問題によって、私たちの結婚は暗礁に乗り上げていました。

「神様、主人を変えてください!」

結婚後十四年間、私は「主よ、主人を変えてください!」と祈り続けました。主人さえ、もっと愛にあふれた人に変えられ、家のリーダーとして立つことができるなら、万事はうまくいくはず!と思っていました。

でも祈りが答えられる気配はありませんでした。私は自分が主人を神様の前に、引きずっていって、「自分の願う通りの夫にしてください」と無理じいしているような気がしました。

私は否定的で批判精神旺盛でしたし、それに親分風を吹かせたがる傾向がありました。私は主人をあるがままに受け入れていませんでした。

とにかく彼に変わってほしいって思ってました。そしてあくまで私の願うやり方で動いてほしいと夫に対して思っていました。

それで、本来、神のみこころを祈っていたはずなのに、祈りを聞いてくださらない神様に腹を立ててしまっていました。

でも気づいたんです。――私が、夫に付与されている、神より与えられし権威に対して不遜な態度を取り続ける限り、私の祈りは今もこれからもきかれない、ということを。

気づき

そんなある日、私はエガーリッチス(Eggerichs)著『愛と尊敬』という本を読みました。この本の中で著者が説明していた「不遜の計り」という箇所を通して私の霊の目は開かれ、自分が実は、結婚生活を破壊してきたということに気づいたのです。

そう、私だったのです。私の不遜な態度により、主人はわが身を防御すべく、私から遠ざからざるをえない状況に追い込まれていたのです。

私はこれまで結婚生活における神様からの私に対する評価はAプラスではないにしても、Aだろうと思っていました。でも私の実情はDマイナスだったのです。この事実を示され、私は打ちのめされました。そして悔い改めに導かれました。

女性にとって愛されることが必要であるように、男性にとっては尊敬を受けることが必要なんだという事実に私は気付いていなかったのです。

私は男性も、私たち女性と同じように考えたり感じたりするものとばかり思っていました。もし主人が結婚生活をする中で、なにかに傷ついているのだとしたら、それを私に言ってくれるはずだと思ってました。――私がいつも彼に言っていたように。

彼のニーズは私のそれと同じで、私たちは「同じ」なんだって思っていたんです。それが結局、フェミニズムが私たちに教えてきたことだったんですから!

こうして次第に、私は主人の持つ、男性としてのニーズそして世界観について理解し始めました。そして驚きました。――主人の見る世界と私のそれがいかに異なっており、主人の考え方と私のそれとがいかに違うかということに。

こうして、結婚に対しての神様の御旨(計画)そして、聖書的な女性らしさ・男性らしさについて私の目は開かれ始めたのです。

そして私は決心しました。これから最善を尽くして、敬虔な妻のあり方について学んでいこうと。

2008年の暮れに、私は主人に言いました。「グレッグ。いつの日かね、あなたは世界中で一番尊敬されている夫だって感じるようになるよ」って。夫は笑いました。(皮肉の笑いじゃなくて良い意味で。)

長い道のり

「主よ、私を変えてください」――私はこう祈り始めました。私は主人の中にみられる良い点について、神と夫の前で感謝の気持ちを伝え始めました。神の恵みによって、私はへりくだりました。そうすると少しずつ状況に変化が表れてきました。

私は先回りして、舵取りをすることをやめました。自分こそ物事の最善を把握しているんだという思い込みを捨てました。

そうすると実は、主人は妥当にして賢明な意見を持っていて、私のやり方でやるよりも、より良い方向に私たちを引っ張っていく場合が多いことにも気づかされました。

そして神様の道というのは、自分の道よりも高いということを学ばされました。さらに、私たちの主人および神様というのは、私たち妻とは違う時刻表を持っていることにも気づきました。そしてそれが違っていていいんだってことを。

しかしこうしたものが内実化するまでには、時間がかかりました。多くの学び、祈り、へりくだり、そして神の御霊の働きが必要でした。

しかし二年余り経った後ついに、「尊敬するという行為」と「聖書的服従の態度」は、私の内でひとつの習慣となりました。

それまではやはりかなり意識して霊的、感情的「筋トレ」をしているような感じでしたが、もはやその必要がなくなっていきました。

また女性らしさに関する神様のご計画を学ぶ中で、私の中で恐れに縛られていない、柔和で穏やか霊というものが育まれていったのです!この私がです!なんとおどろくべき神様でしょう。

予想もしなかった祝福

cottage house

このようにして真に神様に従うようになってから、驚くべきことが起こりました。今までに体験したことのない深い平安と喜びで私の心は満たされるようになったのです。そしてキリストのうちにある女性としてのアイデンティティを私は理解し始めたのです。

私はその中に美しさ、女性らしさを感じると共に、自分が強められるのを感じました。いままでずっと求めてきた、そしてそうなりたいと願ってきた、その女性へと私は変えられつつあったのです。そしてもう、自分たちの結婚生活について以前のように後悔しなくなりました。

私が主人が必要としているものを察知するようになり、それをどのように提供してあげることができるのか学んでいきました。

何年もの間、私は「ねえ、いったい何がほしいの?私に何をしてほしいの?言ってよ!」と主人に強く迫っていました。でも主人は自分が何を求めているのか分からなかったのです。

だから私は「自分が彼に提供してあげられるものなんか何にもないんだ、彼を祝福してあげることなんてできないんだ」と思っていました。彼の愛を必要としていましたが、彼は私のことなんか全然必要としていないと感じていました。

でもそれは違ったのです。私にも、彼の男性としてのニーズに応えてあげることによってなにがしかの尊い貢献をすることができるっていうことに気づいたのです!うれしい。

尊敬すること、そして聖書的服従(biblical submission)についての学びは私に喜びをもたらしました。今まで背負ってきた世の重いくびきがとれ、私は解放されました。

恐れ、不安、圧倒されるような思いに苦しめられることがなくなりました。愛されている、大切にしてもらっている、守られていると私は感じはじめ、そして神様の愛と主人の愛の中で憩うことができるようになりました。何もしなくてもじっとそこにとどまるだけで幸せでした。

こうして私の人生は大きく変えられていきました。そしてそれをなしてくださった神様に対する感謝と賛美で私の心は満たされています。

新しい務め

2011年4月、主人が私に言いました。「君が今まで学んできたことを他の奥さんたちと分かち合ったらいい。うん、ぜったいにそうしたらいいよ」と。

彼はその時までにかなりの期間、私の変化を目撃しており、この変化は今後も私のうちにとどまり続けるだろうことを見たからなのです。

こうして私のブログwww.peacefulwife.comは始まりました。私の祈りは主が私を用いてご自身の真理のみを語られ、他の方々が私のたどってきた歩みを通して、希望と勇気、そして信仰を見出すことです。

そしてなんと今、主人は自分のことを「尊敬されし夫」と呼んで、その通りのタイトルで男性のためのブログを始めているのです!www.respectedhusband.wordpress.com 

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私は驚きました。これから神様は主人を通してどんなことをなさろうとしているのでしょうか。

奥様たちのための祈り

神様のたてられた結婚の掟に従うことが、あなた自身の内的満たし、親密感、平安、喜び、愛への道であることをあなたが知ることができますように。そしてその中に力を見出すことができますように。

結婚における女性および男性に対する神様のご計画は美しいものです!

主の道は最高の道です。それは私たち自身の道よりもずっとずっと良いものです。

主の神聖なご計画の中で私たち男女は互いを補い合うために造られ、お互いに異なっているのです。神様の掟は自由と喜びをもたらします。

聖書は今日の私たちにも意味をもち説得力をもって語りかけてくる書物です。私と同じように、みなさんも、――キリストとの霊的歩みの中で、そしてご主人との歩みの中で――、同じ喜び、平安、そして満たしを見出してほしい、それが私の祈りです。

ありがとうございました。

エイプリル・カスィディ

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追記)なお、エイプリル姉妹の祈りのベールの証し[Ⅰコリント11章]を日本語でお読みになりたい方は、ココをクリックしてください。三人の姉妹が証しを書いていますが、彼女は三番目に掲載されています。

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(メガ・チャーチ 情報源

最近、日本や北米の姉妹たちからこのような意見が寄せられています。

「ある種の福音主義教会は、会員数を多くすることにばかりやっきになり、その結果、大衆の気を引こうと耳ざわりのよい説教しかしなくなっています。そしてそういう教会の多くは現在、メガ・チャーチとして規模を拡大していっていますが、その弊害は想像以上に大きいです。

福音は安っぽいものになり、教会はレクレーション場化しつつあります。その結果、本当に真摯に求道している人々はそのような世俗化した教会のあり方につまずきを覚えてしまっています。」



みなさんは、キリスト教放送や雑誌や本の中で、次のようなフレーズを見たり聞いたり読んだりしたことはありますか。

「積極思考(可能思考)があなたを幸せにします」

「あなたが『こうなる』と信じ、視覚化したこと、これが現実となるんですよ」

「自分自身を信じるんです。何事も不可能なことはない、できるんだって。」

「まず自分自身を愛することが大切です。自分自身を愛せない人に他人を愛することはできませんよ。」

「イエス・キリストを信じれば、あなたの人生は成功します。あなたのビジネスも成功します。ビジョンを大きく持ってください。」

横手聖書やすらぎ教会の斉藤牧師はこういった現代の潮流について次のように説明しておられます。

教会は常に偽りにさらされ続けてきた。20世紀後半に福音的教会も惑わされたいくつかのことがある。

一部を挙げると、性善説に立った心理学の混入。あるがままに相手を愛し受け止めることが要求された。それ自体は正しいこと。しかし、悔い改めを説かない。

なぜなら、その心理学は人は生まれながらにして罪人であるという人間観を否定していたから。結果的に相手の悪い部分も、それでいいんだと許容する過ちに導いた。

また教会に成功哲学が侵入してきた。可能思考とか積極思考とか様々な言われ方がしたが、信念を抱けば必ずできる、そうなる、ということを、「信仰」ということばで代用されていった。

結果として、神のみこころを求めるというより、自分の願いを実現することに関心が走り、ご利益宗教のようになってしまった。

私たちを惑わすものは全部うそであったら惑わされない。半分真理だったりするから惑わされる。80パーセント真理かもしれない。全体として真理に似ている。しかし、この「似ている」ということに途方もない違いが隠されている。

(引用元:「識別力がある人に」 ピリピ1章3~11節)ココ[傍線は引用者によるもの])



確かに、全部が全部うそだったら私たちは惑わされません。しかしサタンは悪賢いので、聖句などもしっかり引用しつつ、教会の中でそれをもっともらしく説くのです。

またサタンは、私たちのセルフイメージの低さや不安感など急所をよく知っているので、「自尊心」というキーワードをたくみに使いつつ、福音っぽく聞こえる(でも福音ではない)まがいもののメッセージを私たちの耳にささやいてきます。

私は、今、積極思考(Positive Thinking)および可能思考(Possibility Thinking)について、その源流にさかのぼりつつ、リサーチしています。

そしてショックを受けています。何にショックを受けているかというと、その教えの出所、およびそれが現代の福音主義教会内に及ぼしているものすごい影響力についてです。

積極思考は、ノーマン・ヴィンセント・ピーレ(1989-1993)という米国の牧師(自己啓発家)によって世界中に広められました。

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[↑自分自身を信じなさい!あなたの能力に信仰を置きなさい!あなた自身の能力に対する謙遜にしてしかも妥当な自信なくしては、あなたは成功することも幸せになることもできない。――ノーマン・ヴィンセント・ピーレ]

(尚、この方の生い立ちや思想についての詳しい検証記事はココをご参照ください。なお、ピーレ氏はフロイト心理学に深い影響を受けています。)

そしてそこからインスピレーションを受けたロバート・シュラー牧師(1926-)によって「可能思考」という教えがこれまた世界中に拡散していきました。

その影響たるや、福音主義教会にとどまらず、政治・ビジネス界にもひろく浸透しています。

この方法でみんなお金持ちになった(サイズ大)
(ロバート・シュラー著 『この方法でみんなお金持ちになった、人生の成功者になった』)

いかにして自分の夢を実現するか(稲森和夫訳)
(ロバート・シュラー著 『いかにして自分の夢を実現するか――思いどおりの人生を築くためにすべきこと』)

例えばロバート氏は、『自己愛――成功のダイナミックな力』という著書の中で次のように言っています。

「自己愛というのは、自尊心(self-worth)における最高の感覚です。それは自尊(self-respect)という高尚な感情であり、、自分自身に対する不変の信仰です。それは自分自身に対する誠実なる信念なのです。」

「それ(=自己愛)は自己発見、自己修練、自己に対する赦し、そして自己是認を通してやって来ます。またそれは自己に対する信頼、自己に対する自信を生み出します。」(Self-Love, The Dynamic Force of Success, p. 32)



この数行を読んだだけでもお分かりだと思いますが、彼の思想は、キリストを中心にではなく、「自己 self」を中心に展開しています。

また彼はベストセラーとなった『自尊心――新しい改革』の中で次のようなことを言っています。

「そしてこの自尊心が、自分を取り囲むすべてから、そして自分の内部から湧き上がってくるのを感じます。

『わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる(ヨハネ7:38)。』こうして私は自分自身のことに関してとても良い気持ちになるのです。」(Self-Esteem: The New Reformation, p. 80)



みなさんご存知のように、イエス様がここでおっしゃっている「生ける水の川」とは、信仰者に与えられる聖霊のことを指しているのであって、自尊心のことを言っているのではありません。

それではシュラー氏にとってイエス・キリストはどんな方だったのでしょう。

同じく『自尊心――新しい改革』の中で彼はイエス・キリストに対して新しい定義をしています。

「キリストとは、理想の御方(Ideal One)であり、自尊心ある受肉されし御方(Self-Esteem Incarnate)です。」( Self-Esteem: The New Reformation, p.135)



またイエス・キリストの十字架上での死については次のように言っています。

「イエスはご自分の価値を知っておられました。そして彼の成功は自身の自尊心を養ったのです、、主はご自分の自尊心を清めるため十字架上で苦しまれました。

そして主はあなたの自尊心を清いものにするため、十字架を忍ばれたのです。そうです、十字架はあなたのエゴ(ego-trip)を清めるのです!」(Living Positively One Day at a Time, p.201)



さらにロバート氏はこのように言っています。

「イエスはエゴを持っていました。主は仰せられました。『わたしが地上から上げられるなら、わたしはすべての人を自分のところに引き寄せます。(ヨハネ12:32)』

おお、なんと主はエゴ(ego-trip)を持っておられたことでしょう!」(Phil Donahue Show 8/12/80)



ご自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われた(ピリピ2:8b)イエス様が、エゴイストにされてしまっています。(ロバート・シュラー氏の教えとその影響についてさらに詳しくお調べになりたい方はarticle 1,article 2,article 3をご参照ください。英語)

☆☆
こうして人々のエゴを甘やかし、隠れた罪に「免罪符」を与えるこういった教えは、教会員何千人という規模のメガ・チャーチを各地に生み出しました。

性善説に立つ心理学、成功哲学、繁栄の神学、自己愛の神学、、こういったものが手に手を取り合って、ある大きな「流れ」を作り出しているのを私たちはここに見ることができると思います。(*繁栄の神学についてさらにお調べになりたい方はココをご参照ください。日本語)

それは「罪から来る報酬は死である」(ローマ6:23)という現実から人々の目をそらせ、「世の罪を取り除く神の小羊」(ヨハネ1:29)の十字架上での死と復活の事実をぼかすことです。

またその背後に、――キリストにだけ捧げられるべき栄光を奪い、自分を拝ませようとしている闇の力――が働いていることは確かでしょう。

なぜなら、人々が自己実現に夢中になり、自己愛の牢獄に入れられ盲目になることによって、サタンは人々をコントロールしやすくなるからです。こうして反キリストが来る道が着々と整えられています。

こういった教えを説く人々の多くがニューエイジと深い関わりを持っていることもその事実を裏付けてはいないでしょうか。なぜならニューエイジの最終目標は新世界秩序だからです。

私たちは目を覚まし、こういった巧妙な惑わしを見抜く識別力を切に求める必要があると思います。

私たちが誇るべきものは肉の自尊心ではなく、ただ唯一、主イエス・キリストの十字架です。

しかし私には、私たちの主イエス・キリストの十字架以外に誇りとするものが決してあってはなりません。この十字架によって、世界は私に対して十字架につけられ、私も世界に対して十字架につけられたからです。ガラテヤ6:14



♪われは 誇らん ただ十字架を 天つ(あまつ)憩いにいる時まで

こういった新しい教えは、かまびすしく叫びます。「自分を愛せ、自分のいのちを/自尊心を大切にせよ!」と。

しかしイエス様は、ご自身について来たいと願うクリスチャンは、自分を愛すのではなく、その反対に「自分を捨てよ」(マタイ16:24)とおっしゃっています。

また、自分のいのちや自尊心を重んじるのではなく、その反対に、「自分のいのちを愛する者はそれを失い、この世でそのいのちを憎む者はそれを保って永遠のいのちに至る」(ヨハネ12:25)と言われます。

黙示録4章を読むと、金の冠を頭にかぶった二十四人の長老が、「自分の冠を御座の前に投げだして」神の小羊を拝し、こう言っています。

「主よ。われらの神よ。あなたは、栄光と誉れと力とを受けるにふさわしい方です。」(黙4:11a)

これは非常に感動的なシーンです。

神の栄光の輝きであり、神の本質の完全な現われである御子イエスにまみえる時、私たちはこの麗しい王の前に我を忘れ、「自分の冠」もろともに投げ出し、栄光を主だけに帰す喜びに満たされるのでしょう。

私たちにではなく、主よ、私たちにではなく、あなたの恵みとまことのために、栄光を、ただあなたの御名にのみ帰してください。詩篇115:1

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(祈り)
主よ、さまざまな新しい哲学や教えが、あなたにだけ捧げられるべき栄光を奪おうとやっきになっていること――それをあなたはご存知です。

そして、そういった教えが現在、主の教会のただ中でなされていることもあなたはご存知です。

どうか私たち聖徒一人一人に識別力をお与えください。大海の中に投げ込まれし一滴の毒を見分ける霊性をお与えください。羊の衣を着たオオカミから私たちを守ってください。

私たちが肉の自尊心に執着することなく、自己愛に囚われることなく、「私の誇るものはただ十字架」と心の底から告白することができますように。

やがてあらゆる舌が「イエス・キリストは主である」と告白して、栄光を父なる神に帰する(ピリピ2:11)とあなたはおっしゃいました。

私たちはあなたが天であがめられ、あなたの栄光が全世界であがめられることを熱望しています。どうか私たちのすべてを用いてください。生きるにも死ぬにも私たちの身によって、キリストのすばらしさが現わされますように。

読者のみなさんと心を合わせ、イエス・キリストの御名によってお祈りします。アーメン。

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先日、「日本宣教に燃える16歳の少女ケイガン(ココ)」の中でご紹介しましたケイガン姉妹が、詩と祈りを書いて私たちに贈ってくれました。

今日彼女からの承諾を得た上で、これらの詩と祈りを日本語訳いたしました。どうぞお読みください。


おお、炎よ (O for Fire)


山の上に置かれし光

はるか遠くの岸に降り注ぐ光
 
おお 輝きを放ち続ける光よ とこしえに 燃えたまえ!


けっして 消えることのないように! 

死んだり 冷たくなったり 動かなくなったりすることのないように! 

けっして 揺らがされることのないように! 

今や この世が 汝の光で充ち溢れんことを!


われらの深い処に 炎を起こさせたまえ

芯奥まで焼き尽くす炎を!

 
粉塵を舞わせつつ 

とこしえに燃える炎を!



祈り

pink little flowers


ねがわくば、神の真理を追い求めているこの小さな姉妹たちの群れが、消えることのない炎となりますように!


盲目の目にとっての光となり

傷つき、うちひしがれている人にとっての癒しとなりますように。


疲れている人の回復所となり

渇いている人にとっての水となりますように。


こごえている人にとっての温かさとなり

縛られている人にとっての希望となりますように。


この地を歩く小さなキリストとなり、主のための生きた証しとなり

忠実なキリストの使節となりますように!



惜しみなくすべてを注ぎこむ人生、

もう後には引かない人生、

悔いのない人生――、

そのように生きることによって、
主を喜ばす歩みをすることができますように。


神よ、私たちを、汝を映し出す形につくり変えたまえ!

私たちの存在すべてをあなたのものとさせたまえ!


主よ、私たちはあなたのものです!

この世にあって、どうかわれらを用いたまえ、、、



2015年3月21日 
ケイガン・クック(ミシシッピ州、16歳)

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私は元々、非常に学歴にこだわる人でした。先週みなさんにお分かち合いした「私の救いの証し」にも書きましたが、私は地方の進学校でスパルタ教育を受け育ってきました。こうして学歴中心主義の価値観は、幼い頃より、私の人格形成に深い影響を及ぼしてきました。

そして漠然とではあっても、「将来結婚する男性はまず、私よりも学歴がある人、それに、周囲の人があっと感嘆の声を上げるようなすごい肩書きの人がいい」と思っていました。

つまり私は余すところなく「世の価値観」に染まっていたのです。

しかしイエス・キリストを信じてから、そんな私の価値観は徐々に変えられていきました。それ以前にも、私は父の「地味な」生き方や価値観に影響を受けてはいましたが、東京の教会で奉仕をしていた時、またさまざまな姉妹たちと共同生活をする中で、私の人間理解は決定的な変化を遂げていきました。

わたしは知恵ある者の知恵を滅ぼし、賢い者の賢さをむなしくする。」知者はどこにいるのですか。学者はどこにいるのですか。この世の議論家はどこにいるのですか。神は、この世の知恵を愚かなものにされたではありませんか。Ⅰコリント1:19-20



また、教会史を読む中で、労働者や農民、機織りといった人々の中にも――いや、そういう人たちの中にむしろ多く――真に神を知る聖徒たちが存在していたことをも知りました。

兄弟たち、あなたがたの召しのことを考えてごらんなさい。この世の知者は多くはなく、権力者も多くはなく、身分の高い者も多くはありません。

しかし神は、知恵ある者をはずかしめるために、この世の愚かな者を選び、強い者をはずかしめるために、この世の弱い者を選ばれたのです。

また、この世の取るに足りない者や見下されている者を、神は選ばれました。すなわち、有るものをない者のようにするため、無に等しいものを選ばれたのです。

これは、神の御前でだれをも誇らせないためです。Ⅰコリント1:26-29



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主人が私に結婚を申し込んできた時、キリストにあるこういった新しい価値観が実際に試されることになりました。というのも、この兄弟には大学教育も社会的な肩書きもなかったからです。

しかしこの方には高潔さと聖さと偽りのない信仰心がありました。そして彼は決断力と勇気に富んでいました。

「ナイフを突き付けられ、『イエス・キリストを否まなければお前を殺す』と言われても、この人なら、ひるまず死を選ぶだろうな」と思わせる確固たる信仰と覚悟が感じられました。

結局、最後まで残るものは信仰と希望と愛――。私たちの肉的・世的な肩書きやら名前やら、そういったものは、この地上での人生が終わると共に消えていくものです。

大切なのは唯一、キリストと共に生きることであり、私たちを通して神の栄光があがめられることです。

私は、この兄弟と共に信仰の道を歩んでいく決断をすることができて本当によかったと思っています。私たちは下積み生活もし、それなりに苦労もしてきましたが、それにはるかにまさる霊的祝福および生活の静かな喜びをも味わってきました。

高潔な人格というのは、この世の学歴や肩書きによりません。

真の高潔さは、キリストの人格のうちに、そしてキリストにある新生を体験した聖徒のうちに宿るものです。

これが「『立派な』学歴や肩書きのないクリスチャン男性を夫として立て、尊敬していくことはできるのでしょうか?」という問いに対する私なりの応答であり、証しです。

読んでくださってありがとうございました。



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(上の二冊が主な参考文献です。左:Van Braght, Thieleman J. Martyrs Mirror. Herald Press, 1938 それから右の本は昨年出版された新刊書です。Andrew V. Ste. Marie, Walking in the Resurrection, The Schleitheim Confession in Light of the Scriptures, Sermon on the Mount Publishing, 2014. これらの文献を贈り物として遠くから届けてくださった兄弟姉妹にこの場をかりて感謝申し上げます。)

 ☆☆☆

ミカエル・サトゥラーの幼少期についてはほとんど何も記録が残っておらず、生年もはっきりとは分かっていませんが、1490年頃、ドイツのシュタウフェンで生まれたとウィキペディア(Michael Sattler)には記してあります。

彼はシュヴァルツヴァルト地方にあったベネディクト修道会の修道士でした。一説によれば、彼はそこの副院長を務めていたとも言われています。

さて1524年にドイツ農民戦争が勃発します。もともとこの反乱は、荘園制の解体による危機を、領主が封建地代強化で打開しようしたことに始まりましたが、それまで搾取され抑圧され続けてきた農民たちの不満の矛先は、私腹を肥やしていた宗教者たちにも向けられました。

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(ドイツ農民戦争)

そのような事情で、ミカエルのいたベネディクト修道院も農民および軍によって襲撃を受け、それを機に、ミカエルは修道院を出ました。

その後、どうやら彼はスイスのチューリッヒに向かったようです。それにしても、なぜチューリッヒだったのでしょう?カトリック修道士として、その気になれば、他の修道院に移ることも容易にできたはずです。受け入れ先も多くあったことでしょう。

これは想像するしかありませんが、もしかしたら、彼は虐げられていた農民たちの怒りを目の当たりにし、富の上にあぐらをかいていた既成教会のあり方に疑問を抱いたのかもしれません。

そして「本当にこれがキリストに仕える者のあるべき姿なのか?」と深刻な問いを抱いていたのかもしれません。あるいは、「今、チューリッヒですごい事が起こっている」という噂を聞いたのかもしれません。

1520年代のチューリッヒといえば――このブログ内の歴史小説『チューリッヒ丘を駆け抜けた情熱』をお読みになった方はお分かりだと思いますが――、宗教改革の炎、およびスイス・アナバプテストの炎が各地で燃え上がっていました。

1526年5月末、彼は元アナバプテストであったハンス・クエンズィーという人の家に居候しつつ、彼から機織りの技術を学びました。そしてその少し後に、洗礼を受けたようです。

同年、チューリッヒ地方で伝道した後、彼は南ドイツにあるストラスブルグ(現フランス領)に向かいました。

ストラスブルグにて

彼がストラスブルグに行った直接の目的は、当時獄に入れられていた仲間のアナバプテスト信者の釈放についての交渉をするためだったと言われていますが、そのことを通して、ミカエルはストラスブルグの有名な宗教改革者であったマルティン・ブツァーおよびウォルフガング・カピトと交友を持つことになります。

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(↑マルティン・ブツァー)
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(↑ウォルフガング・カピト)

こうしてミカエルはさまざまな改革思想および霊的な潮流に触れ、また対話を続ける中で、信仰を深めていきました。

ブツァーやカプトとも親交を持ったのですが、ミカエルはいくつかの点で彼らに同意できないものを感じました。

一つ目は、国家と教会との関係です。ミカエルは、二人の意見とは異なり、「国家と教会は完全に分離されるべきであり、教会が国家権力を盾に改革を推し進めるのは間違っている」と考えました。

そして使徒時代のような、信者によって構成される純粋な教会を目指すべきだと考えました。それゆえに、――幼児洗礼ではなく――信仰を持った人が洗礼を受けるべきであるし、それが聖書的だと。

また山上の垂訓の御言葉通り、クリスチャンは武器を取ってはならず、誓いを立ててもいけないと彼は主張しました。

それに対し、カピトたち改革者はⅠテモテ1:5の聖句から次のように答えました。「でも愛が律法の目的なんですよ。だから、『愛』という視点でみた時、信仰によるパプテスマは強調されるべきじゃありません。というのもですね、『弱い者たち』は未だに幼児洗礼の方を好んでいるんですから。」

しかしそのように聖書の一節を文脈を無視して取り上げた上で、新約に書いてある他のすべての掟を「愛ゆえに」破棄するという論法にミカエルは納得することができませんでした。

こうして彼は改革者たちと一致をみることができないまま、1526年(もしくは27年初頭)ストラスブルグを去りました。

しかし、ミカエルとカピトおよびブツァーとの間の、互いに対する敬意はそれからも失われることはなく、ミカエルの殉教後、カピトはホルブの参事会に宛てて、「ミカエルは聖書の理解においては幾つかの点で誤謬があったが、神の栄光およびキリストの教会の栄光を求める情熱および、彼自身の潔白な生き方には実にすばらしいものがあった」と彼を評しています。

シュライトハイム信仰告白

ストラスブルグを去った後、ミカエル・サトゥラーはラフル市で短期間、伝道活動を行った後、シュライトハイムにて開かれる会合(1527年2月24日)に参加するため、かの地に向かいました。

この会合がどのように開かれるに至ったのか、また具体的に誰が出席したのか、そういった詳細記録は残っていませんが、ミカエル・サトゥラーがその中心にいたこと、およびシュライトハイム信仰告白の主たる起草者であったことは間違いないとされています。

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(シュライトハイム信仰告白)

この告白のまえがきでミカエルは次のようなことを書いています。

あなたがたは、どの条項でこのことが起こったのかを理解するために、次のことに注意を払い、理解すべきである。私たちの中の何人かの偽兄弟たちによって、非常に大きなつまずきが持ち込まれ、それによって、御霊とキリストの自由を遵守し、実践していると思い込んで、信仰から離れてしまった者もいるのである。

しかし、このような者たちは真理に達せず、(自分自身の非難となる)肉の欲望と放縦とに身を任せてしまっているのである。

彼らは信仰と愛は一切のことをなし、一切のことを許すと考え、自分たちは信仰者だから、自分たちに危害を加えたり、とがめたりするものは何もないと考えている。

イエス・キリストによる天の父なる神への信仰は、このようには形成されないことを、キリスト・イエスにあって神の肢体であるあなたがたは、よく注意しなさい。信仰はこれらの偽兄弟や姉妹が教えたり、行ったりしているようなものを生み出したりはしないのである。

このような人々を警戒し、用心しなさい。というのは、彼らは父なる神に仕えているのではなく、自分たちの父、悪魔に仕えているのだから。



上の文を読むと、16世紀当時も―現在と同様―神の恵みを放縦に変える(ユダ4)ような教えをする偽兄弟たちがいたこと、またそういった偽兄弟によって、だまされ翻弄される信者たちがいたことをうかがい知ることができます。

そういう視点でみると、私たちは、この信仰告白から、当時の混沌とした霊的・社会的状況の下、御言葉の真理にしっかり立とうと模索していたキリスト者たちの努力の跡をみることができるように思います。

この信仰告白は七条から成っており、それは以下の通りです。

1. バプテスマについて
2. 教会からの破門について
3. 聖餐について
4. この世からの分離について
5. 教会における牧者たちについて
6. 武器について
7. 誓いについて

(シュライトハイム信仰告白の全文を日本語でお読みになりたい方はココをクリックしてください。

ちなみに、この会合は、「殉教者の会合」とも呼ばれています。というのも、この会合に参加した兄弟たちはその後、各地に伝道者として遣わされ、そのほとんどが数年以内に殉教していったからです。

私たちの主人公であるミカエル・サトゥラーも、この会合が終わった直後、オーストリア帝国フェルディナント大公の摂政ゾレンのヨアキム伯爵の手により捕らえられ、投獄されてしまいました。

その後、5月の半ば頃、裁判が開かれ、前回の記事の冒頭に挙げたような判決文が読み上げられました。『殉教者の鏡』(Martyrs Mirror,p416-418)の中には、その時の裁判の様子が詳しく記されており、裁判官たちとミカエル・サトゥラーとの間のやりとりも克明に記されています。

彼は一つ一つの告発(洗礼のこと、非暴力主義、マリアおよび聖人崇拝を拒んだこと等)に対し、御言葉からそれらを見事に論駁しています。

またミカエルが処刑される直前に、ホルブの教会の兄弟姉妹に宛てて書いた獄中書簡も残っています。(Martyrs Mirror, p 418-420)実にすばらしい手紙です。

手紙のいたるところから、兄弟姉妹に対する彼の偽りなき愛と配慮が感じられます。いつかこの手紙をも翻訳して、日本の兄弟姉妹のみなさんと恵みを共有できたらと思っています。

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(ミカエル・サトゥラーが処刑された場所には現在、上のような記念碑がたてられています。source

記念碑には次のような句が刻まれています。

「バプテストであったミカエル・サトゥラーは、1527年5月20日、惨たらしい拷問を受けた後、ここ「絞首台の丘」にて焚刑に処せられた。彼はイエス・キリストのまことの証人として死んだ。妻マルガレータおよび集会の他の信者たちは溺死および焚刑に処せられた。

彼らはキリストに従っていく意思のある者たちへのバプテスマを実践し、忠実な者たちで構成される独立した集会を守り、そして、山上の垂訓という平和のメッセージを生き、それを実践した。」





1527年5月20日、南ドイツ、ロッテンベルグ。一人の若い神の僕が処刑場に引かれて行きました。数日前に出された判決文には刑執行について次のように記されていました。

「以下がその判決内容である。ミカエル・サトゥラーは、死刑執行人の手に引き渡され、執行人はこの者を処刑場に連れて行き、舌を切断する。その後、執行人はこの者を荷馬車に縛り付け、灼熱のはさみで、二回、この者の体を切り裂く。[市の]城門の外に引き出された後、同様のやり方で、さらに五回、この者の体を切り裂く。その後、この者は灰になるまで火あぶりにされる。」

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ミカエル・サトゥラー。主を愛し、主の御言葉を愛した神の僕はこのように三十代半ばにして地上での生涯を終えました。

私たちは今、望むなら誰でも自由に洗礼を受けることができます。しかしミカエルが生きた16世紀のヨーロッパではそうではありませんでした。当時の教会は「幼児洗礼」こそが聖書的な教えだとして人々に教えていたのです。しかし神は啓示の光を神の僕たちに照らし、幼児洗礼には聖書的根拠がないことを明瞭に示してくださったのです。

しかし示された聖書の真理を実践し、それに生きることには大きな代価と犠牲が伴いました。当時の記録を読むと、多くの聖職者および信徒は、幼児洗礼の非聖書性に気づいていました。

しかし、ある人はそれを公言することで職を失うことを恐れ、またある人は財産没収を恐れました。ある人は周囲の目や世間体を気にする余り、示されている真理からあえて目をそむけました。その中で、それらをはっきり告白し、その告白に生きる決断をした人々はごく一部でした。

彼らの恐怖は十分に理解できます。ミカエル・サトゥラーのような殺され方をしたら、(私も含め)普通の人なら震え上がってしまうでしょう。いったい誰がこんな恐ろしい処刑に耐えられましょうか。

しかし逆に言えば、何が彼ら神の僕をして、これほど勇敢な信仰者にせしめたのでしょう。

例えば、夫と同じように投獄中だったミカエルの妻は、夫と一緒に火あぶりにされることを望みました。(しかしその嘆願は却下され、彼女はミカエル処刑の二日後、ネクカール河に投げ込まれ溺死させられました。)何がこのかよわい女性をこれほどまで強くしたのでしょう。

さまざまな信仰の勇者のことが記されているへブル人への手紙11章には次のような聖句があります。「彼らは信仰によって、、、弱いものは強くされ、戦いの勇者となり、、」(へブル11:33-34)。

また、Ⅰペテロ4章14節には「キリストの名のためにそしられるなら、あなたがたはさいわいである。その時には、栄光の霊、神の霊が、あなたがたに宿るからである。」とあります。

またパウロはⅡコリント12:9で、「、、キリストの力が私をおおうために (=the power of Christ may rest upon me)」むしろ喜んで自分の弱さを誇ると告白しています。

ここから私が受け取るメッセージはこれです。つまり、人が聖霊に満たされ、キリストの復活の力に生きる時、そして「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられる」(ガラテヤ2:20a)という信仰に生きる時、その時、神の測り知れない力が土の器を通してあらわされるのだと。

次の号では彼の生涯をみていこうと思います。

付録)ミカエル・サトゥラーの作詞した讃美歌(1527)
ココをクリックして、五番目のトラックを押すと、この賛美を試聴することができます。

O Christ, our Lord, with teaching true,
Come now and meet your faithful few,
And grant that each with patient care,
His cross of love should daily bear.

O Christ, we would disciples be,
With peace and joy and grace from Thee;
Thy truth obey forevermore,
Thy Word, Thy will, and Thee adore.

O Christ, our God, upon the throne,
We praise the Father and the Son;
We praise the Holy Ghost the same,
O come, Thine own blest kingdom claim.

(Ausband, No.7, translated from German into English by Myron Augsburger)



greg and april june 2014
(家族を率いてハイキングを楽しむグレッグさん、そしてカシィディ一家、2014年6月)

エイプリル・カシィディ姉妹は、長年、「頼りなく、無気力な夫」グレッグ氏との間に問題を抱え、悩み苦しんできたクリスチャン女性です。2008年、主がそんな彼女の心の目を開いてくださり、彼女は聖書に書いてある女性像(Biblical womanhood)を真剣に求め始めました。

2011年4月、全く別人のように変えられた妻エイプリルの姿に感動を覚えた夫グレッグ氏が、「この間に君が体験したこと、主から学んだことを他の奥さんたちに分かち合ったらいいと思う。ブログを始めてごらん。」と提案されました。

こうして生まれた彼女のブログwww.peacefulwife.comは、夫婦関係回復を祈り求めている多くのクリスチャンの間で読まれており、主に尊く用いられています。

以下は彼女が最近書かれた記事です。エイプリル姉妹から許可をいただいた上で、2015年3月、日本語訳しました。

「私の主人には神様からの召命がありません。そんな夫にどうやって従っていけるというのでしょう?」

(“My Husband Doesn’t Have a Calling from God, How Can I Follow Him?” source)


おそらく今あなたは、「今後私は、主人の助け手となっていこう、夫を立て夫を敬っていこう、神様によって与えられし夫のリーダーシップを尊重していこう」と、新しい人生の歩みを踏み出そうとされておられるかもしれません。

しかしここで問題が一つ生じます。あなたのご主人には見たところ、人生におけるビジョンとか夢とかいったものがなく、家族を引っ張っていけるようなしっかりした目標もなく、神様からの明瞭な召命もない、、、のです。

主人自身がそういう点をよく把握していないように見える状況なのに、どうやってそういう人を助け、サポートしていくことができるというのでしょう。

私の前に座って、自分の抱いている長期的な展望や計画を話そうとしてくれない(いや、そういう展望さえ元々ない?)人にどうやって従っていけましょうか。

「ああ、もういやだ」――あなたは、そういう状況に愛想を尽かし、そうしてあきらめと無気力のうちに、ご自身の人生を無駄にしますか?

でもそれって、とっても悲しいことではないでしょうか?

それがまさに六年前の私の姿でした。この点において神様が私を取り扱われ始めたのが六年前なのですが、それ以前、私はこう考えていました。「夫のグレッグを通しては、神様は私を導くことなんかできない」と。

ああ、でもそれはとんだ間違いでした!後で分かったのですが、神様がグレッグを通して私を導くことができる・できないということが問題ではなかったのです。

むしろ問題は、私が神さまに従っていこうとしていなかったこと、それから、神様とグレッグの「時」を待つことができない「自分のせっかちさ」にあったのです。

私は自分流のプランを全面に打ち出し、とにもかくにも、それを推し進めていこうとしていたのです。

愛する姉妹のみなさん、私はこれから自分の発見した驚くべきことをみなさんにお分かち合いします。

そうなんです。――たとい、あなたのご主人が今現在、神様からの召命をご存知なかったとしても(もしくはまだそれが見えない状態にあるとしても)――神様は実際、ほんとうに、あなたのご主人に対してそういった召命およびビジョンを持っていらっしゃるんです。

そして主はあなたに対してもそのような召命を与えておられます――そうしてあなたとご主人のそれは結び合わさるのです。

神様がどこに導いておられるのか、たとえ今ご主人自身にその自覚がなかったとしても、不安に思わないでください。大丈夫です。神様はご主人をどのように導いていけばよいのかご存知です。――そしてあなたをどのように導いていけばよいのかもご存知です。全知全能の神様はご計画を持っておられます。

ですから、今、ご主人が生涯を貫く壮大な青写真を描いてみせることができなくても大丈夫です。今後五年間の霊的ビジョンを打ち立てることができなくても大丈夫です。

目下、(あなたの計りによれば)ご主人は敬虔なリーダーでもなく、夫でもなく、父親でもないかもしれません。そして、そういうご主人を用いては、神様はあなたや子供たちを導くことができないと感じているかもしれません。

いえ、どうか気落ちしないでください。神様は異教徒の王や国々を用いてさえ――彼ら本人が、主のご計画遂行に協力していたということを自覚していたか否かに関わりなく――、主の業をなすことができたのです!

これはすばらしいことです。なぜなら私たちの創造主である神は全てを統べ治めておられ、全能であられ、なおかつ全知であられるからです。

ですから、鍵は、私たちの夫にあるのではなく、神様にあるのです!

主の働きを始めるにあたって、私たちは「何がなんでもこの計画の全貌を把握しなければならない!」と力みがちです。しかし、ほとんどの場合、神様はそのような方法では働かれません。(もちろん、そのように働かれる場合もあります。例えば、主はある方を若い時期に、生涯にわたる明確な宣教の働きに召すこともあります。)

しかし、現時点においては、遠い未来を見渡せるようなはっきりとした鳥瞰図が与えられていない場合もあります。いや実際のところ―ほとんどの場合―ただ次のステップが見えるに十分なだけの光を与えつつ、一日一日の単位で私たちを導いておられます。

でもこれは、(私も含めて)前もってしっかり計画を立てるのが好きな方にとっては、なかなかやっかいな事です!

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でも逆に言えば、ここが肝心かなめなポイントなのかもしれません。つまり、私たちが先走ってがっちり打ち立てた自分流の計画によってではなく、信仰によって歩んでいく――そのことを学んでいく必要があるように思います。

神様は一日一日と、ご自分に従っていくよう私たちを召しておられます。そして、主のみこころが将来どんなものになるかを把握する以前に――それが何であれ――主の御意思に自発的に従っていくことを求めておられます。

☆☆
訳者追記

みこころなら、夫婦関係の回復にいたるまでに辿ってきた彼女の道のり(告白・証し)をもいずれ翻訳しご紹介したいと思います。

teddy bear



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「わたしは彼らに御言葉を与えましたが、世は彼らを憎みました。わたしが世のものでないように、彼らも世のものでないからです」(ヨハネ17:14)とイエス様はおっしゃいました。

そしてその言葉通り、この腐敗した世にあって、敬虔に生きようとしているクリスチャンはあらゆる形でこの世から憎まれ、あるいは誤解され、あるいは試練の最中におられます。

私はそのような方に向けて、初代クリスチャンの言葉を贈ります。どうか主がこれを読むすべての同胞クリスチャンの心を励まし、強め、新たな力を与えてくださいますように。

まずはじめに、「ディオグネトゥスへの手紙」からの抜粋です。 (Ante-Nicene Fathers(「ニカイア公会議以前のキリスト教著作集」) 第一巻より 私訳)

この手紙は紀元130年に書かれました。作者は不詳ですが、ローマ人に向けてキリスト教徒のことを説明している以下のようなすばらしい箇所があります。

「彼らはそれぞれの国に、ただ単に、寄留者として宿っている…肉にあっても、肉に従って生きてはいない。地上で暮らしてはいるが、彼らは天の民だ。彼らは定められた法律を遵守していると同時に、その生き方によって、法をはるかにしのいでいる。

万民を愛しているが、全ての人に迫害されている。世に知られず、また非難を受けている。殺されているが、彼らはやがて蘇る。貧しいようで、多くの者を富ませている。ほとんど何も持っていないが、彼らは全てにおいて満ち満ちている。

辱められているが、まさにその恥辱のうちに栄光を受けている…そして彼らを憎悪する者は、その憎しむ何らの理由も挙げることができないのだ。」



また同じ手紙の中に次のような箇所もあります。

「これらのことを一言で要約しよう。――肉体の中に魂が存在するように、この世の中の内にクリスチャンは生きているのである。魂が肉体のすべての器官に拡散しているように、クリスチャンもこの世のあらゆる都市に散らばっている。

魂は肉体の中に宿っているが、肉体に属するものではない。それと同様に、クリスチャンはこの世に宿ってはいても、この世に属してはいない、、魂は肉体の中に(あたかも牢獄のように)閉じ込められているが、魂こそがその肉体を保っている。

それと同様、クリスチャンはあたかも牢獄にいるかの如く、この世の中に閉じ込められている。しかし、実は彼らクリスチャンこそこの世を(腐敗から)守ってくれている存在なのである。

不滅の魂が朽ちるべき幕屋の中に宿っている。そしてそれと同様、朽ちるべき[肉体]の中にあってクリスチャンは旅人として宿っている。――天にある朽ちることのない住み処を待ち望みながら。」



またキプリアヌスは、ある信者の友に宛てた手紙の中で、このようなことを書いています。

(キプリアヌス [200-258]は、北アフリカのカルタゴにある教会の監督でした。当時、教会は激しい迫害下にありました。キプリアヌスは十年余り、地下教会にて牧会に奔走しましたが、ついにローマ人の手にかかり、処刑されました。彼が生前やり取りした手紙の多くは現在も保存されています。)

「真に安らかで、信じ寄り頼むことのできる平安、そして真に揺るがず、確かで、決して変わることのない安心感とは、これである。

すなわち、この世の喧騒から身を引き、救いの固い土台の上に自分自身をしっかり据えること、そして地上から天に目を上げること

…真の意味でこの世より偉大な者は、この世から何をも欲せず、何も望まない。この守りのなんと安定し、なんと揺るぎないことか!永遠に続く祝福の中にあって、なんと天的であることか。

――それによりこの混乱した世の罠から自由になり、地の汚れから清められ、とこしえの命の光にふさわしいものとされるのだ。」(Cyprian Letter to Dontus sec.14 私訳)



続いて、ラクタンティウスの言葉です。ラクタンティウス(260-330)はローマの卓越した修辞学教師でしたが、後に回心し、クリスチャンになりました。

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(ラクタンティウス)

「永遠に(御国で)幸せに生きることを選び取る者は、この世にある間、困難の中に生きるであろう。この地上にいる限り、彼はありとあらゆる種類の困難や重荷にさらされるであろう。

それにより最終的に、かれは神々しい、天的な慰めに与るからである。しかし一方、この世で快適に生きようとする者は来世で苦しむことになるだろう。」(Lactantius Institutes bk.7, chap.5 私訳)



それからアンティオケの監督であったイグナティウス(50-100、使徒ヨハネの直弟子)のメッセージもご紹介します。

彼は信仰ゆえに逮捕され、ローマで処刑されることになりました。処刑場に連れていかれる途中、彼は、自分の愛する教会の兄弟姉妹に向けて、訓戒と励ましの手紙を書きました。その中には次のような言葉が書かれています。

「従って、ただ「キリスト者」の名前で呼ばれるだけでなく、私たちは本当の意味で、キリスト者で《ある(be)》必要がある…もし私たちに、主の御苦しみと同じ様で死ぬ覚悟がないのなら、主のいのちは私たちのうちにない」

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「火よ、苦しみよ、来るならこい。野獣の群れよ、来るならこい。私の骨が砕け、関節がはずれ、手足が引きちぎられるままになれ。体中が引き裂かれるなら裂かれよ。然り、サタンのありとあらゆる邪悪な拷問よ、来るならこい。

ただ我をイエス・キリストに到達させたまえ!…世界の果てまで統治するよりむしろ、我は、キリストの故に死ぬことを欲す。」(Ignatius Letter to the Magnesians chap.5 私訳)



それから最後にオリゲネスの言葉をご紹介します。オリゲネス(185-255)は十代の頃、キリスト者であった父親を迫害で失っています。そして彼自身、ローマ人の手にかかり拷問にかけられ、それが原因で命を落としました。

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《オリゲネス)

「自分達を迫害することを神がサタンにお許しになる時、私たちは迫害に苦しむ。そして私たちが苦しまないことを神がお望みになる時、たとえ自分たちを憎む世のただ中にあっても、私たちはすばらしい平安のうちに憩う。

『勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝っている』と言われた方の守りに、私たちは信頼を置いている。そしてまさしく、主は世に勝っておられるのである。

それ故、世に打ち勝つべく、天の父から力を授けられた主の許される限りにおいてのみ、世は立ち勝るのだ。主の勝利は私たちを奮起させる。

たとえ信仰ゆえに苦しみ、七転八倒することを主が再びお望みになったとしても、敵よ、来るなら来い。『わたしを強くして下さる方によって、何事でもすることができる』と敵に言おうではないか。」



「キリストの宗教以外のいかなる崇拝形態も、最終的には、滅ぶだろう。キリストの宗教、これのみが立ち続けるであろう。

見よ、キリストの教えは日ごとますます多くの人の心をとらえているではないか。事実、それはいつの日か勝利を収めるのである。」(Origen Against Celsus bk.8, chap.70 私訳)



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