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(http://www.headcoveringmovement.com/articles/an-open-letter-to-complementarians-about-head-covering)

福音主義教会の先生方への公開レター
――Ⅰコリント11章のかぶり物に関して――

ジェレミー・ガーディナー


私は「男性と女性は、それぞれ異なるアイデンティティーと役割を持った存在として、互いに補う合う関係である」という考え方・立場にたつ福音派キリスト者(complementarian〈相補主義者〉)です。

つまり、男性と女性は共に神のかたちに創造され、その価値において平等であるけれども、それぞれが異なる役割を持っているということを私は信じています。

家庭の中においては、夫には妻を導く権威(authority/headship)が与えられており、その一方、妻は夫を助け、夫のリーダーシップに従う(submission)よう造られています。私は、家庭におけるこういった権威と従順は、キリストと主の教会の関係を描写するものであると考えています。

またこれは神がお考えになった元々の構想図ないしデザインだと理解しています。つまり、これは罪による堕落前にすでに存在していた傑作であって、堕落後の災難ではないということです。

私はこういった立場にたち、この真理を擁護しようとしているキリスト者(complementarians〈相補主義者〉)および聖書学者の方々が昨今とみに増えてきていることに励まされています。こういった方々は家庭における男性の権威および女性の従順を尊守しており、また牧師職は男性だけに開かれているという理解に立っています。

私はこの相補主義キリスト者の陣営の中にあって、現在、少数派とみなされている立場にたっています。私は、信者が礼拝のために集まる時、男女間の役割としての違いが――人に対しても御使いに対しても――象徴されるべきだと考えているのです。

つまり、Ⅰコリント11章で教示されているようにかぶり物(祈りのベール)というのは新しい契約下にあって、クリスチャンのための、時代を超えた超文化的なシンボルであるということを信じているのです。

教会の歴史を通しても、祈りのベールに関するこの理解は、常に多数派を占める立場でした。米国においても、――フェミニズムが大衆の支持を得るようになる1960年頃までは――祈りのベールはずっと尊守されてきていました。

「フェミニズム」と「かぶり物の衰退」との相関性については、クリスチャン側からも一般論者の間からも同様の指摘がなされています。例えば、ニューヨーク・タイムズは、婦人用帽子業界の閉鎖の主要因は、フェミニズム運動にあったことを記事にしており、次のように言っています。(here

「しかし(ハチの巣形の)女性の髪型が1960年代に流行し始め、女性が帽子を家に置いて外出するということをフェミニズム運動が容認可能なものとしたことにより、この業界は衰退していった。」1


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フェミニズムの勃興と共に、上述したような、男女間における相補的な立場をとらない考え方(egalitarianism 〈対等主義〉)が教会に浸透し、「家庭において男性と女性はなんら異なる役割を持たない」という思想を広めていきました。

男性には、導くという、神より与えられし責任はなく、女性は自分の夫に従う必要はないというのです。また教会内においては、すべての役職が女性に開かれることになりました。

最近の歴史をみると、相補的な立場にたつキリスト者たちが、男女の聖書的な役割を回復させるべく奮闘してきました。

1987年、「聖書的男性像および女性像回復のための協議会」(Council for Biblical Manhood and Womanhood http://cbmw.org/)が設立され、ウェイン・グルデム氏等が多くの時間を割いて、反対論者たちに対する応答を続けてきました。私はこういった方々の努力に感謝しており、これを支持しています。

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しかしこと祈りのベールに関しては、相補的な立場にたつ方々の大部分は、これを回復させるべく努めてきませんでした。

ウェイン・グルデム、トーマス・シュライナー、ジョン・マッカーサーといった、この陣営の指導者の方々は、「男性がかしらであるという原則は存続しているものの、かぶり物の象徴は文化的な慣習であった」と主張しています。

なぜこれが問題となるのか。

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この見解に私が懸念を覚えている一つの理由はこれです。つまり、男性による長老/牧会職(堕落以前の創造の秩序)をめぐっての議論と、かぶり物に関する使徒のパウロの議論は同じものであるからです。

前回の記事(here)の中で、私はその点について次のように触れました。

「次の聖句を検証する前に、私は自分と同じ相補的な立場にたつ同胞キリスト者のみなさんに一つの問いかけをしたいと思います。

男性による牧会職およびかしらとしての夫についての議論ですが、私はこの点でみなさんに完全に同意しています。Ⅰテモテ2章では、なぜ女性が「教えたり、男を支配したりすること」ができないかが説明してあります。

「私は、女が教えたり男を支配したりすることを許しません。ただ、静かにしていなさい。アダムが初めに造られ、次にエバが造られたからです。また、アダムは惑わされなかったが、女は惑われてしまい、あやまちを犯しました。」(Ⅰテモテ2:12-14)

みなさんは「これは創造の秩序に基づくゆえだ」とおっしゃっています。「だから、これは文化的なものではないのだ」と。

私もそれに同意します。しかし次の聖句を検証するにあたっても、みなさんが同じように一貫性のある態度を取ってくださるようお願いします。

「男はかぶり物を着けるべきではありません。男は神の似姿であり、神の栄光の現われだからです。女は男の栄光の現われです。なぜなら、男は女をもとにして造られたのではなくて、女が男をもとにして造られたのであり、また、男は女のために造られたのではなく、女が男のために造られたのだからです。ですから、女は頭に権威のしるしをかぶるべきです。」(Ⅰコリント11:7-10a)



ここでパウロは、なぜ女が頭に権威のしるしをかぶるべきかを説明しています。――創造の秩序のためだと。

相補的な立場にたつキリスト者の多くは、この箇所において、原則とシンボルを結びつけることに反対しておられますが、しかし理解しなければならないのは、かぶり物というのは聖句における命令(掟)であり、男女の役割ではないということです。

かぶり物の原則というのはパウロがコリントの信者に理解してもらおうとしていたことでしたが(Ⅰコリント11:3)、パウロが彼らに望んでいたのは、かぶり物の実践でした(Ⅰコリント11:4-6)。

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それゆえ、「相補的な立場」と、それから「かぶり物の拒絶」というこの二つを同時に受け入れるというのは、一貫性に欠けていると私は考えます。

私の懸念は、未来の世代がこの矛盾をみて、聖書的男性像・女性像をもろともに捨て去ってしまうことです。私たち相補的な立場をとるキリスト者がかぶり物についてどのような姿勢をとるかということが今後、試金石となっていくと思います。

前述したウェイン・グルデムですが、彼はかぶり物が教会にとって時代を超越したシンボルであるとは考えていません。

しかしその一方、彼は相補的な立場に異議を唱える考え方(egalitarianism)に対し、その一貫性の欠如を公に指摘しています。男女の役割に関する聖句に再解釈を加えることは、聖書を損ずる行為であり、リベラリズムへの下り坂につながっていくとグルデムはみています。

その一方、――相補的な立場をとってはいないけれども――福音主義キリスト者である方々(egalitarians)の多くが、リベラル的な聖書の見方を退けている、とそのことにグルデンは感謝しています。

「しかしそうは言っても」と、彼は続けて言います。「たしかに今の時点で、対等主義クリスチャン(egalitarians)の多くはまだ、保守的な聖書神学を堅守している。しかし未来の世代はきっとそうでなくなるだろう」と懸念し、次のように述べています。(here

「ある人がこういった〈対等主義的〉主張点の一つを受容したにもかかわらず、その後一生涯に渡って、――下り坂へと続くその一歩以外には――リベラリズムへの道を下降しなかったということはありえます。現に多くの指導者たちがそのような道を歩んできました。

しかし私は思います。彼らがそれ以上リベラル化しなかった理由は、1)彼らが自分たちの展開しているその種の議論が「包含」している内容にまではタッチしなかったこと、それから、2)自分たちの信じる、その他の(神学的・信仰的)領域には、それを適用させなかったこと。この二点が挙げられると思います。

しかし、そういった指導者に現在従っている人々となると話は違ってきます。これに関し、何年も前にフランシス・シェーファーは次のように警告していました。

「教理的に教会を横道にそらせた一世代目のキリスト者たちは、その教理的立場において、ただ一つのキーポイントを変えただけで、それ以外には何も変更を加えなかった。だから、当面の間は、その変化が別段害のないもののように思えもしたのだ。しかし、次世代に続く者たちは、その議論のロジックをさらに推し進め、さらに甚大な誤謬を推奨していくようになるのだ。」2



かぶり物を拒絶している相補的な立場のキリスト者についても私は同じ懸念を抱いています。残念なことに、これは仮想上の懸念ではないのです。

現にレイチェル・ヘルド・エヴァンズをはじめとするクリスチャン・フェミニストは、私たちのこういった矛盾点を取り上げているのです。

「『エペソにいる女性たちに関するパウロの教示は普遍的に拘束力がある。なぜなら、彼はこの主張をする上でその理由を創造の秩序に訴えているからだ』と言っている人たちは、次のことを実践した時はじめて、その立場において一貫性があるといえます。

――つまり、彼らが自分の教会にいる女性たちに対しかぶり物を着用するよう要求するなら、です。というのも、上記の点を推奨する上で、パウロはまさにこれと同じ線上の議論を展開しているからです。(Ⅰコリント11章を参照)」



また、相補的な立場の人々の中には、「かぶり物の問題に照らしてみた場合、男性の牧師職に関する議論を創造の秩序に訴えていいものかどうか」と次のように疑問を抱き始めている人もいます。

「私は次第に自分自身の、――例えばⅠテモテ2:9-15などに対する取り扱いが、〈対等主義的〉解釈に対し敏感に応答するものではなかったのではないかという認識にいたっている。

例えば、これまで私は、パウロがここで言っている命令は明らかに超文化的なものだと考えてきた。なぜなら、それは彼の創造の教理に基づくものであるからだ。

しかし、Ⅰコリント11章におけるパウロの指示――私はいつもここの箇所を文化的に条件づけられたものと受け取ってきた――もまた、創造の教理に基づくものであることに気づいた。それならば、原則として、創造の教理に基づいた勧告は必ず超文化的なものであると主張する理由はなくなってしまうではないか。」



今後、この矛盾点に気づく人々がさらに増え、そういった人たちが、かぶり物を受け入れる代わりに、むしろ相補的な立場もろとも捨て去ってしまうのではないかと私は懸念しています。

でも変化を起こすのに遅すぎるということはありません。もしかぶり物の慣習が回復すれば、相補的な立場はさらに多くの人々によって受容され、後に続く教会史を通しても長く存続していくだろうと私は信じています。

聖餐は主を思い起こさせるものとして私たちに与えられています。それにあずかる時、十字架上でイエスが私たちのためになしてくださったことを私たちは思い出します。同じように、かぶり物は聖徒が集まる教会において、――神が異なる役割を果たすため男性と女性をお造りになられたということを――思い出させ、ビジュアルな形でそれを教えてくれるのです。

Head Covering Movementには、かぶり物というこのシンボルを受容した後、この真理をさらに生き生きと想起するようになったという女性たちの証しがよく寄せられています。

一例を挙げると、ワシントン在住のローラ姉妹(testimony)は、次のように言っています。

「教会の中でささげる私の祈りに変化が表れました。なぜなら今、私は目に見えるシンボルであり、神さま及び夫に対する従順を思い起こさせるかぶり物を着けて祈り礼拝を捧げているからです。

悪魔は私が神様に従順でないように、また夫に対しても従順でないよう誘惑してきますが、権威のシンボルであるかぶり物を着ける時、このことについて思い出さざるをえず、私は謙遜にされます。」



ですから、相補主義の立場にたつ兄弟姉妹のみなさん、この問題について少し時間をお取りになり再考してみてくださいませんか。

そして開かれた心を持って、時代を超越するかぶり物の教えについて考察してみませんか。私の願いはあなたがそうしてくださることです。なぜなら、この問題をめぐっては、シンボル以上のものがかかっているからです。

1.↑ Carrie Budoff – Headgear as a Footnote to History (New York Times, April 6, 1997)
2.↑ Wayne Grudem – Evangelical Feminism: A New Path to Liberalism? (Crossway, 2006) As quoted from the Introduction found here: http://thegospelcoalition.org/blogs/justintaylor/2013/06/12/an-open-letter-to-egalitarians-about-liberalism/

付録)




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以前、私は「罪を告白し、明るみに出すことについて」(ココ)という記事を書きました。今日は、(そういった点も含めて)私の霊的生活を助けてくれている良書をみなさんにご紹介したいと思います。

19世紀のスコットランドに生きたロバート・マーレイ・マクチェーン(1813-1843)の書いた「信仰生活の改革」です。

彼はスコットランドのリバイバルで非常に用いられた神の僕でした。29歳という若さで召されたのですが、死後、聖潔の道について彼が個人的に書きとめておいた以下の原稿が発見されました。

それではどうぞお読みください。

☆☆

信仰生活の改革

ロバート・マーレイ・マクチェーン(1813-1843)

Robert Murray McCheyne

I. 個人的改革

私はこう確信する。この世で最大の幸福を手に入れ、神の栄光と人々の幸福を最大限に高め、永遠の世で最大の報酬を得るための道は、良心を常にキリストの血潮で洗いつづけること、いつも聖霊に満たされていること、そして贖われた罪人がこの世で可能な限り、理性と意志と感情のすべてにおいて最大限キリストに似た者となることである。

私は確信する。いかなるときであれ、いかなる場合であれ、もしこれと矛盾することをだれか他の者が外側から、または私自身の心が内側からささやくなら、----すなわち、良心を血で洗いきよめつづけること、御霊に完全に満たされること、すべてにおいてキリストのかたちに全く似た者となることが、この世でも永遠の世でも私の幸福にならず、神の栄光のためにならず、よく用いられる道でもないとほのめかすものがあるなら----それは悪魔の声である。

神の敵、私の魂の敵、すべての良きものの敵----全被造物中で最も愚かで、最も邪悪で、最もみじめな奴のささやきである。箴言9:17を見よ。「盗んだ水は甘い」。

1. 汚れなき良心を保つため、私はもっと罪を告白すべきであると確信する。

罪の告白は、罪に気づいた瞬間になすべきであると思う。訪問中であれ学び中であれ、説教の途中であってさえ、心に罪が起こるなら魂はそれを憎悪の目で見るべきである。もしその罪を告白せずに義務をつづけるなら、私は良心に重荷を負ったまま行動しているのであり、罪に罪を重ねているのである。

私は一日の中で特に時間をとって、私の最善の時間に----たとえば朝食後や三時のあとで----それまでの時間の罪を厳粛に告白すべきであると思う。そして、それらの罪が完全に赦されることを願い求めるべきである。

私の経験では、悪魔はしばしば罪の告白そのものを利用して、告白された罪を心の中によみがえらせ、もう一度犯させようとする。それゆえ、あまりにも詳細な罪の告白はどうかと思う。この点については、より老練なキリスト者の意見を聞かなくてはならない。

現在のところは、この恐るべき悪用と戦うべきであると思う。そのようにして悪魔は私を恐れさせ、罪の告白から遠ざけようとしているのだ。私はあるゆる手段を用いて、自分の罪の不潔さを直視すべきである。

私は自分を罪に墜ちたアダムの裔とみなさなくてはならない。母の胎内にいたときから神に敵対する性質にあずかっていた者(詩51)、あらゆる悪に満ちた心の持ち主とみなさなくてはならない。その心によって私のすべての思い、言葉、行動は、生まれてから死ぬまでの一生を通じて汚染されているのである。

私はダビデやパウロとともに、若い日のもろもろの罪をしばしば告白すべきである。回心前の罪、回心後の罪、光と知識に対する罪、愛と恵みに対する罪、三位一体の神おひとりおひとりに対する罪を告白すべきである。

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私は自分の罪を聖なる律法に照らして眺めるべきである。また神のみむね、十字架、さばきの御座、地獄、永遠という見地から眺めるべきである。私は自分の夢や、ぼんやりしているときの思い、嗜好、しばしば繰り返す行為、考えや感情や話し方や行ないの習慣、敵からの中傷、友人からの叱責やひやかしすらも吟味して、自分のうちで力をふるう罪の痕跡を見つけ出し、それを罪の告白のもととするべきである。

私は、例えば月に一度、特に罪の告白を行なう日をもうけるべきである。罪を思い出すために、いくつかの聖句にしるしをつけておくべきである。いかなる病のときも、家庭内にいかなる問題が起こったときも、また自分自身や自分の家、教区、教会、国の上にいかなる摂理による困難がふりかかったときも、それを罪の告白をうながす神の召しとすべきである。

他人の罪や苦しみを見るときも同じである。聖日の夜、聖餐式のあった日の夜には、聖なるものに対する罪を告白すべきである。私は、罪の告白について告白すべきである。その不完全さや罪深い目的、自分を正当化しがちな性向などを告白すべきである。そして完全にキリストの犠牲に立って罪を告白したあとで、キリストに希望を託すべきである。

私は一つ一つの罪の赦しについてキリストのもとへ行くべきである。からだを洗うときには洗い残しがないよう隅々まで洗い流すのに、魂を洗うときには、それより不注意でいてよいわけがあろうか。

私は自分の犯した一つ一つの罪に、イエスの背中につけられた鞭のあとを見るべきである。私の犯した罪すべてのために、私がはいるはずであった永遠の地獄にひとしい無限の激痛が、主の魂に走るのを見るべきである。キリストが血を流されたことのうちに、私のすべての罪を償って余りある無限の支払いがあることを見るべきである。

キリストは無限の正義の要求以上に苦しまれたわけではないにせよ、そのお苦しみは、無限の購いの代価を払うということ以下では決してありえなかったのだ。

私は、罪を犯すとたちまち、キリストのもとへ行きたくないと感じる。行くのを恥じる思いが起こる。行っても何にもならないかのように感じる。それはキリストを罪の助成者とすることだ、豚の汚物にまみれたまま最上の着物を着てよいだろうか、などと理屈をつける。

しかし私は確信する。それらはみな地獄の嘘である。ヨハネは全く逆を主張している。「もしだれかが罪を犯したなら、私たちには、御父の御前で弁護してくださる方があります」。

エレミヤ3:1をはじめ、ありとあらゆる聖句が反対している。罪に沈みこんだ者が平安や安らぎを得るには、まっすぐ主イエス・キリストのもとに行くしかないことは確かである。それが神の定めた平安と聖さの道である。世や混乱した心にとってそれは愚かであろうが、それしか道はない

どんなに小さな罪であろうと、それほど急いでキリストの血の注ぎかけを受けることはない、などとは決して思ってはならない。もし曇りない良心を捨てるなら、信仰の破船に遭うであろう。

またどんなに大きな罪であろうと、どんなに極悪で、どんなに思い上がった罪----たとえば祈りの最中の罪、説教中の罪、死の床にある人を訪問中の罪、危険な病にある最中の罪----であろうと、もはやキリストのもとへ逃れていくことはできない、などとは決して思ってはならない。私の罪の重さは、時計のふりこの重りのように、重いほど早く行動を取らせるべきである。

私はキリストの血潮で洗われるだけでなく、キリストの従順を身に着なくてはならない。私のうちにある、なすべきことをなさなかった罪ひとつひとつについて、キリストのうちには、神の御子による完全な従順が備えられている。

私のうちにある、なすべからざることをなした罪ひとつひとつについて、キリストのうちには、キリストの打ち傷ばかりでなく、私にかわって行なわれた、その罪とは逆の完全な従順が備えられている。そのことにより律法は高められ、そののろいは完全に実現され、その要求は完全に答えられているのである。

しばしば私の身代りのキリストという教理は、ありふれた、わかりきった、何も新鮮味がないもののように思われる。そして、この教えは飛ばして、もっと魅力的な聖句をとりあげようという心にかられる。これは、またしても悪魔である。真っ赤な嘘である。

私たちの身代りのキリストという教理は常に新しく、常に栄光に満ちている。「キリストの測りがたい富」、これは無限の主題、そして罪ある魂には唯一の主題である。私は、この盲目な魂をただちにキリストのもとへと追いやる聖句、たとえばイザヤ書45章やロマ書3章のような箇所を、いくつか心備えしておくべきである。

2. 聖霊に満たされるために、私はもっと自分自身の弱さを学ぶべきであると確信する。

ロマ7章やヨハネ15章などの聖句を常に思い巡らし、自分が無力な虫けらであることを思い知るべきである。

私は、自分はすでに確立したキリスト者であるという思いにかられることがある。あの肉欲やこの肉欲はもう克服し、むしろ逆の恵みを行なう習慣がついているから、もう恐れることはない、他の人より誘惑に近づいても大丈夫だ、などと思うことがある。これはサタンの嘘である。

たかが習慣で、火薬の引火力が弱まったり、火花に着火しなくなることがあるであろうか。火薬は濡れている限り、火花を近づけても大丈夫である。しかし乾燥すれば、火花一つで簡単に爆発する。

御霊が私の心に住んでおられる限り、御霊は私を罪に対して死んだ者としてくださる。そのようなときには、何か正当な理由のために誘惑にさらされなくてはならないとしても、神が私を切り抜けさせてくださることは信頼してよい。しかし御霊が離れておられるときの私は、乾燥した火薬と同じである。決して、決してこのことを忘れてはならない!

私は、生まれつき自分は、ある種の罪、たとえば飲酒や下品な言葉づかいなどに心ひかれないのだと思うことがある。それで、そうした罪の誘惑は恐れる必要がないなどという思いにかられるときがある。これは嘘である。高慢な、思い上がった嘘である。あらゆる罪の種は私の心に蒔かれている。おそらくそれらは、私が存在に気づいていないだけに、なおさら危険であろう。

私は、自分の全くの弱さと無力さを、罪人として可能な限り、徹底的に思い知るよう祈り、労するべきである。私は、人の心の中に起こる、ありとあらゆる肉欲に対して無力である。私は神の前で虫けらであり、獣である。これは、しばしば身震いするほど真実である。

私は、自分の内なる力を一切たよりにしないことを不安に思うことがある。あたかも、この世の最低最悪の罪から私を引き留めるものが、私のうちには何もないと感じるのが(真実なことだが)、危険であるかのようにである。これは悪魔の惑わしである。私にとって唯一安全な道は、自分の無力さを知り、感じ、告白することである。そして、全能者の御腕にすがることである。

…私は、罪が心の中から根こそぎにされていればいいのにと毎日思う。「なぜ神は私の胸中に好色や高慢、怒りなどの根を残しておかれたのだろう。神は罪を憎んでおられる。私も罪が憎い。なぜ神はきれいさっぱり罪を一掃されなかったのだ」と思う。

それには多くの答えがあり、私も頭では完全にわかっているつもりだが、心が納得しない。しかし、それは間違いである。自分が罪深い存在であることをいとわしく思うのはよい。しかし、現在の「信仰の戦いを勇敢に戦う」ことに文句を云うのは正しくない。

…信仰を告白していた者が罪に堕落するとき、私はおののきを覚える。彼らの罪を見聞きすると、祈る気もなくなり、ひどく欝屈してしまうことが何度もある。これは間違いである。おののくのは正しい。またあらゆる告白者の罪を、自分自身の無力さを示す教訓とするのもよい。

しかしそれは私をさらにキリストへと導くべきである。…もし自分の全くの無力さをもっと自覚するなら、他の人々の堕落を聞いても、それほど動揺しはしまいと思う。

…私は、自分が最も無力である罪、嵐のように逸りたつ情動に対して自分が一本のわらしべのようになる罪の一つ一つを研究すべきである。奔流のような罪の激発に対して無抵抗でしかない私の無力さは、何としても云い表わすことができない。

…私は、キリストの全能をもっと学ばなくてはならない。ヘブ7:25、Iテサ5:23、ロマ6:14、ロマ5:9, 10、そしてその他の聖句を常に思い起こしているべきである。

…私の人生の大半は、パウロのとげ(IIコリ12)と同じ経験で満たされてきた。これからもそうありつづけるべきである。

…罪からの解放を求める者には、多くの補助手段がある。それをおろそかにしてはならない。それは結婚(Iコリ7:2)、避けること(I テモ6:11; I コリ6:18)、目をさまして祈っていること(マタ26:41)、みことば(「~と書いてある。~と書いてある」とキリストはご自分を守られた(マタ4))などである。

…しかし主たる防御は、独りでは何もできない子どものように、キリストの御腕の中に飛び込み、聖霊で満たしてくださるよう懇願することである。「世に勝つ者とはだれでしょう。…信じる者ではありませんか」(I ヨハ5:4, 5)。これは素晴らしい言葉である。

私はキリストのことを、生きた救い主としてもっと学ぶべきである。捜し出した羊をかついで行かれる羊飼いとして学ぶべきである。贖ってくださった魂の中に座し、それを支配しておられる王として学ぶべきである。私と戦う者と戦う将軍として学ぶべきである(詩35)。

血肉にはどれほど不可能であろうと、すべての誘惑、すべての試練を切り抜けさせてくださると私に約束されたお方として学ぶべきである。

私はしばしば、どうしてこの方が私たちを救いえよう? と云いたくなることがある。どうして天におられるキリストが、内側にわき起こる肉欲から、また自分を取り巻くように感じられる網の目から、私を解放することができるだろうか、と。これまた偽りの父である! 「キリストは…完全に救うことがおできになります」。

私はキリストをとりなしの主として学ぶべきである。主は、これから最も試みられようとするペテロのために最も祈られた。私の名は、主の胸当ての上に刻みこまれている。もしキリストが隣室で私のために祈っておられるのを聞くことができるなら、私は何十万の敵の大軍をも恐れないであろう。しかし距離の遠さは何の違いにもならない。主は今私のために祈っておられる。

私は慰め主なる聖霊についてもっと学ぶべきである。その神たること、その愛、その全能を学ぶべきである。私の経験によると、この慰め主(ヨハ14:16)について思い巡らすことほど私を聖めることはない。

にもかかわらず、何とそうすることのまれなことか! サタンが私を遠ざけているのである。私はしばしばあの、「聖霊の与えられることは、聞きもしませんでした」と語った人々のようである。私は自分のからだが、聖三位一体の第三位格の住まわれる宮であることを決して忘れるべきではない。

このことを考えるだけで、罪を犯すことにおののきをおぼえるべきである(I コリ6)。私は罪が聖霊を悲しませ、悩ませ、消してしまうことを決して忘れるべきでない。御霊に満たされたいと思うなら、もっと聖書を読まねばならないであろうし、もっと祈り、もっと目をさましていなくてはならないと思う。

3. キリストに全く似た者となるために、私は、キリストの似姿となるという幸いを高く評価すべきである。

私は確信する。神の幸福は、その聖さと分かちがたく組み合わされている。聖さと幸福は、光と熱のようである。神は、一つとして罪の喜びを味われたことがない。

キリストは私と同じような肉体を持っておられたが、一度たりとも、一つとして、罪の喜びを味われたことがない。贖われた者らは、永遠を通じて、決して、一つとして、罪の喜びを味わうことがないであろう。

それにもかかわらず、彼らの幸福は完全なのである。私の最大の幸福は、今この瞬間から、完全に彼らのようになることであろう。いかなる罪も、私の最高の喜びとはいえない。

…悪魔は昼夜をわかたず、このことを忘れさせよう、疑わせようとやっきになっている。かれは云う。「この快楽をソロモンやダビデと同じ程度には味わおうじゃないか。きみだって天国には行けるさ」と。これは嘘である。私は確信する。私の真の幸福は、行って二度と罪を犯さないことである。

罪と手を切るのを遅らせるべきではない。今は神の時である。「私は急いで、ためらわず…」[詩119:60]。…罪を容赦すべきではない。どれほど長い間自分の弱さとして容認してきた罪であっても容赦してはならない。

あまり急に一変すると、他の人が驚きあやしむかもしれないなどと考えてはならない。これは何と卑劣なサタンの惑わしであろう!

いかなるものであれ、罪であるとわかっているものに対しては、今このときから断固反対するべきである。それを克服するためには、聖書で述べられているあらゆる手段を用いるべきである。すなわち聖書、御霊を求めるための特別な祈り、断食、目をさましていることなどである。

私は自分が罪に陥ったときの状況を仔細に心にとどめ、その状況を罪そのものと同じくらい避けるべきである。

罪さえ犯さなければ、どれほど誘惑に近づいてもいいだろう、とサタンはしばしば誘惑する。これは恐ろしいことである。神を試み、聖霊を悲しませることである。これはサタンが巧妙に仕組んだ陰謀である。

私は、箴言4:15に従い、すべての誘惑から逃れるべきである。「それを無視せよ。そこを通るな。それを避けて通れ」。

…私は絶えず心を神に注ぎ出し、キリストに全く似る者となることを祈り求めるべきである。律法全体が私の心に書き記されることを祈り求めるべきである。

…私は厳粛な告白をもって自分の心を神にささげるべきである。詩篇作者の祈りに従い、私のすべてを神の永遠の御腕にゆだねるべきである。「私のたましいを御手にゆだねます」(詩31)。

いかなる隠れた不義も、いかなるあからさまな不義も、私を支配することがないよう切に求めるべきである。そして、贖われた罪人が受けうる限り最大限に、キリストのうちにある美徳のすべてを私に、常に、死の日まで、満たしてくださるよう切に求めるべきである。

私はしばしば天国を聖潔の世界として思い巡らすべきである。すべてが聖く、その喜びは聖い喜び、そのわざは聖いわざである世界、個人的な聖潔なしには決していられない世界として思い巡らすべきである。

…私は、見かけが悪であるものを避けるべきである。神は私に命じておられる。また私の経験では、サタンは見かけの悪を悪そのものに結びつけてしまう達人である。

私の経験では、ある種の罪を口にすると心が汚され、誘惑に陥らされる。また、聖徒たちでさえ、彼らが隠れて行なったことを語るのは、神が禁じておられる。私はこれを避けるべきである。

エバ、アカン、ダビデらはみな、目の欲によって堕落した。私は自分の目と契約を結び、「むなしいものを見ないように私の目をそらせてください」と祈るべきである。

…サタンは救われていない人々を、福音の音に対して耳しいのコブラのようにしてしまう[詩58:4]。私は、罪に誘惑するすべてのものに対して、聖霊が私を耳しいとしてくださるよう祈るべきである。

私を誘惑に陥れることの最も多い機会の一つはこれである。すなわち、私には、自分の務めを果たすには、これを聞く必要がある、これをのぞく必要がある、これについて語る必要がある、という場合がある。これは、それなりに真実である。

しかし、こうした議論にサタンが一枚かんでいることも確かである。私は神からのさとしを乞い求め、どこまでが私の牧会にとって有益で、どこからが私の魂にとって有害であるかをみきわめるべきである。そして後者を避けるべきである。

私は確信する。魂は成長し続けていない限り決してよい状態にはない。「恵み…において成長しなさい」。「主よ。私たちの信仰を増してください」。「うしろのものを忘れ…」[II ペテ3:18; ルカ17:5; ピリ3:13]。

…私は確信する。自分に欠けている美質が何か、またどうすればキリストにより似た者となることができるかを、私は常に神と人に尋ね求めるべきである。

…私はよりきよさを、へりくだりを、柔和さを、苦しみにおける忍耐を、そして愛を求めて努力すべきである。「すべてにおいてキリストに似た者とならせたまえ」と常に祈るべきである。「聖霊で満たさせたまえ」。

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II. 密室の祈りにおける改革

私は祈りのいかなる部分もはぶくべきではない。告白、礼拝、感謝、願い、とりなし、これらのいずれもはぶくべきではない。

私のうちには、告白をはぶきたがるひどい傾向がある。これは私が、神とその律法をあまりにも低くみなし、過去における自分の心と罪とをあまりにも軽くみなしているためである。決してこのような傾向に屈してはならない。

私のうちには、礼拝をはぶきたがる絶えざる傾向がある。私は自分がどなたに語りかけているかを忘れてしまう。エホバの御前に、その畏怖すべき御名もご性格も忘れて、性急に飛び込んでいってしまう。その栄光についてほとんど顧慮せず、そのくすしさについてほとんど崇めないでしまう。「知者はどこにいるのですか」。

私のうちには、感謝をはぶきたがる生来の傾向がある。しかしながら、感謝をささげることは特に命ぜられている(ピリ4:6)。

心が利己的になるとき----すなわち、他の人々の救いについて無関心になるとき----私はしばしば、とりなしの祈りをはぶいてしまう。しかしながら、とりなしの心は特にかの偉大な弁護者の思いなのである。主は、絶えずイスラエルの名をその胸の上に載せておられる。

祈るときは、必ずしもこれらすべてをふくまなくてはならないということはないであろう。しかし、確かにこれらそれぞれについて何らかの時間をささげずには、一日を終えるべきではない。

私はだれとも会う前に祈るべきである。長い眠りをとったとき、あるいは早朝から人に会うとき、その後家庭礼拝をもち、朝食をとり、午前中の来客があるなどして、しばしば私が密室の祈りを始めるのは11時もしくは12時からとなってしまう。これは、最低のやり方である。非聖書的である。

キリストは夜の明けそめるころ起き出し、寂しい場所へ行かれた。ダビデは云う。「私はあなたを切に[暁に]求めます。朝…、主は私の声を聞いてくださる」。

マグダラのマリヤは、まだ暗いうちに埋葬所に来た。家庭礼拝はその力と甘美さを大幅に失ってしまうし、私に恵みを求めてやって来る者らに対して私は何の益も施すことができない。良心はとがめを感じ、魂は養われず、燭台は芯を切り取られないでしまう。そして、いざ密室の祈りの段になると、魂はしばしば調子が狂っている。

思うに、神とともに一日を始める方がはるかにまさっている。まず御顔を拝し、他人に近づく前に神に魂を近づけることである。「私が目ざめるとき、私はなおも、あなたとともにいます」。

寝過ごしてしまったり、早朝から出かけなくてはならなかったり、何らかの理由で時間がない場合は、もうだめだとあきらめるより、すばやく身支度をすませ、数分でも神とともに静まる方が絶対によい。

しかし通常は、何らかの活動に従事する前に、少なくとも1時間、神とともに静まることが最善である。それと同時に、神との交わりを時計の針や、ひとけのなさでおしはからないように注意しなくてはならない。

何時間も聖書を熟読し、何時間も膝まづいていても、ほとんど神との交わりがなかったことがある。また、ひとりきりでいるときの私の時間は、これまでしばしば最も激しい誘惑のときであった。

とりなしについては、私は毎日自分自身の家族、縁者、親戚、友人のために祈るべきである。また私の群れの信者、求道者、未信者のため、また病いの人、家族を亡くした人のため、また貧しい人、富める人のため、また私の長老たち、日曜学校の教師たち、平日学校の教師たち、子どもたち、トラクト配布奉仕者たちのため祈るべきである。さらにすべてのわざが祝福されるよう祈るべきである。

日曜の説教と教育が、病人訪問と個別訪問が、神の摂理と礼典が祝福されるように祈るべきである。また毎日短くとも、ダンディー全市、スコットランド教会、すべての忠実な牧師たちのため、また無牧の教会、神学生のため、また親しい兄弟ひとりひとりのため、ユダヤ人・異邦人の宣教師のために祈るべきである。

そのためには海外宣教報告を定期的に読み、世界中で起こっていることに通じていなくてはならない。地図を前にして祈ることは私の心をかき立てるであろう。祈りの計画を立て、また地図上に宣教師の名前を記しておかなくはならない。

これら全般のため私は土曜の朝夕、7時から8時まで祈るべきである。週日にはそれぞれ違った部分を祈るべきであろう。ただし家族と群れのためには毎日祈りをささげるべきである。

私はすべてについて祈るべきである。「何も思い煩わないで、あらゆるばあいに、…祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい」。

私はしばしば説教奉仕やその種の依頼の手紙を受け取るが、神の助言も求めずに返事を出してしまうことがよくある。もっと多いのは、だれかが訪ねてきて何かを求めるとき、導きを求めないことである。しばしば私は神の祝福を求めないまま、急いで病人訪問に出掛けてしまう。それがなければどんな訪問も何の役にも立たないというのに。

私は確信する。祈りなしには何事も決してすべきではない。また、可能な限り、あらゆることにおいて特別の、密室の祈りを持つべきである。

スコットランド教会の歴史を読むと、何と多くの問題や試練が、魂の救いおよびキリストの栄光に関連して生じてきたことか。私は、私たちの教会のため、指導的教職者たちひとりひとりのため、また自分自身の明確な理解のために、今よりはるかに祈るべきである。

私がキリストに従う道からそらされないよう祈るべきである。自分自身でも備えができていない困難な問題----たとえば、国民盟約の正当性----について、直面しなくてはならなくなることもありうる。私は平穏な日々に祈りをかさね、試練の日々が来たときに正しく導かれるようにしておかなくてはならない。

神との交わりには、一日の最上の時間を費やすべきである。これは私にとって最も高貴で実り豊かな時間である。どこかの片隅に追いやられるべきではない。

朝の6時から8時は一番じゃまのはいらない時間であるから、眠気に負けないでいられるなら、神との交わりのために用いられるべきである。朝食後のひとときは、とりなしの祈りのためによいであろう。お茶の後の時間は私の最上の時間である。可能な限り、厳粛に神にささげられるべきである。

床につく前に祈るという古き良き習慣を捨て去るべきではない。しかし眠気には警戒しなくはならない。自分が祈ろうとしていることを計画しておくことが最善の防御策である。夜中にめざめたときには、ダビデやジョン・ウェルシュのように、起き上がって祈るべきである。

密室の祈りにおいては、少なくとも一日に3章、聖書を読むべきである。

日曜日の朝には、前の週に読んだすべての章、特にしるしをつけた節に目を通すべきである。3つの異なった箇所を読むべきである。また主題や人物別に読むべきである。

ーおわりー(出典:ココ

mccheyne quote




light blue sky


主よ、家に戻るまでに
 
私の心を天に引き上げるようななにかを

あなたからいただきたく思っています



御霊により あなたの臨在のうちに憩い

天的な喜びで 私の心を
 
やわらかく 香(かぐわ)しいものにしてください



キリストが 私の前に 現れてくださり

天からの光で 

私のまわりを照らしてくださいますように



人を導き たましいを生き返らせる 

あなたのみ声を お聞かせください



私の目から うろこを取りのぞいてください

――そうすれば、さらなるあなたの栄光に 

目が開かれるでしょう



主よ、どうか 私の心を 

あなたの安息の光景のうちに いこわせ

御父のみ前に 

導き入れてください



そうすれば 

天の幻をみた あの羊飼いたちのように
 
「ああ、見聞きしたことが、ぜんぶそのとおりだった」と

神をあがめ、

賛美しながら
 
帰路につくことができるでしょう


リチャード・バクスター(The Saints’ Everlasting Restより 私訳)





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(逃げるシカ)

以前、「万人救済論と聖書の真理」(ココ)という記事を書きましたが、私の心には未だにこの真理をめぐっての戦いがあります。

「たしかにイエス様は『御子を信じる者は永遠のいのちを持つが、御子に聞き従わない者は、いのちを見ることがなく、神の怒りがその上にとどまる』(ヨハネ3:36)とおっしゃっている。それは分かる。でもそれを信じたくない自分がいる。私はイエス様を信じないAさんやBさんが、このままだと地獄に行ってしまうという聖書の現実に耳をふさぎたいし、できることなら、〈万人救済論〉という甘い幻想物語の中に逃げ込みたい。でも、それじゃいけない。逃げたらだめ。」

イエス様は「真理はあなたがたを自由にします」(ヨハネ8:32b)とおっしゃっています。神の怒り(wrath)それから裁きという聖書の真理は、肉の耳や心には到底受け入れがたいものです。この真理を前に、私たちの生来の思い・考えはもがき苦しみます。

なぜでしょうか。私はこう思います。――この真理の前に私たちが「本当に」跪いた時、そしてそれにアーメンと言った時、私たちは一人残らず、炎の伝道者――人々にさげすまれ、排除され、悪口をたたかれる主の囚人――にならざるを得ないからだと。

この真理を受け入れた時、私たちのなまぬるさは取り除かれ、自己中心的な考えや生活に一大変革が起こり、私たちは救霊のためにすべてをなげうつようになるのだと思います。

何日か前に、スポルジョンの「橋なき深淵(The Bridgeless Gulf」という説教録を読みました。この説教により、――「万人救済論」という嘘を未だに心のどこかで信じたがっていた私の肉に――とどめの一撃が加えられました。

この説教の和訳はおそらく出されているとは思うのですが、私は自分自身の心にこのメッセージを刻みつけるために、これを日本語に訳すことにしました。そして「私の魂よ、これに聞け。この真理に聞きなさい」と言い聞かせながら翻訳作業を進めていきました。

またこれを訳す間にも、まだイエス様を信じていない友人や家族の顔が思い浮かんでは消えていきました。いつの日か愛する彼らがこのメッセージに目を留める日が来ますように。そして、みなさんの愛する人々がこのメッセージを読む日が訪れますように。

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橋なき深淵(The Bridgeless Gulf)

以下は、1863年7月5日主日朝、ニューイングトンにあるメトロポリタン・タバナクル教会にてなされたC・H・スポルジョンによる説教です。

「そればかりか、わたしたちとあなたがたの間には大きな淵がおいてあって、こちらからあなたがたの方へ渡ろうと思ってもできないし、そちらからわたしたちの方へ越えて来ることもできない。」(ルカ16章26節)



1.この数カ月、私は、――キリストにある神の愛とあわれみを説きつつ――銀のラッパを吹きならすよう導かれていました。これまで何度となく私は、豊かなキリストを、空ろな罪びとに説いてきましたし、福音の中で、罪びとのかしらに対して述べられているこの神聖なメッセージのもつ自由そして憐みについて申し上げてきました。そのことをみなさん、お聞きになってきたでしょう。

この点に関して、私は神のご計画を余すところなく述べてきたつもりです。しかし、今回私は、「耳障りの悪い雄羊の角笛を吹きならさなくてはならない」と、こう感じているのであります。といいますのも、神の掟や恐ろしさ、来るべき裁きについて、私たちは時にそれらを肝に銘じる必要があるからです。

私たちの経験してきたところによりますと、裁きに関する説教というのは、神によって非常に祝されるものなのです。そういった説教――あらゆる罪悪に対する神の怒りの言明は、もっとも単純明快にして、かつ厳粛なものであります――により、非常に多くの回心が起こされてきました。

激しい雷雨は空気を浄化します。ある種の疫病は凪(なぎ)の状態だと菌が繁殖します。こういうものは稲妻の閃光によってでしか除去されえないのです。神がその僕に重々しい使信を託する時、そういった警告のメッセージは霊的大気を清め、そのまま放っておくと人々の上に降りかかってくるような、怠惰、高慢、無関心、倦怠感といったものを葬り去ります。

とがった縫い針が糸のための道を備えるがごとく、鋭い掟は神の恵みというきらびやかな銀糸のための道を作るのです。メスは、鎮痛薬と同じくらい必要とされているのです。子供を学校に導いた古代ギリシアの教育者と同様、(神の)掟は私たちをキリストに導く教育者なのです。

ですから、掟は私たちをキリストに導き、キリストは私たちを教え、訓育し、救いに至る知恵を与えてくれます。ピューリタンの時代、福音と共にこういった掟をもしっかり説いた人々は、魂を勝ち取るに当たり最も実を結びました。

また、私たちの主であり師であるキリストをみますと、主の心は憐みに満ち、そのご性質そのものが愛に他なりませんでした。しかし、同じ主はまた、来るべき(神の)御怒りについてしばし力説しておられ、その言葉たるや、雷鳴のような古の預言者の口より出されし炎々たる警告以上に、すごみがあり、おそろしいものでありました。

願わくば、私の熱望している結果が、今自分の上に非常に重くのしかかっているこの主の重荷より引き出されますことを祈ります。主が今日、ご自身のために種を集められ、その種が来るべき御怒りから救われ、とこしえまでも贖い主の産みの苦しみの報酬とされますように。

主をすでにご存知の方、主の力に与っている方は、心を神に向けてください。そして聴く者の心が砕かれ、罪びとがイエスの元に導かれるべく、聖霊が力強く働いてくださいますよう祈ってください。

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2.「そればかりでなく、わたしたちとあなたがたの間には、大きな淵があります。

人間はその発明の才をもって、大きな深淵に橋を架けてきました。どんなに幅の広い河川であっても、急流が荒れ狂っていても、人間はそれを制圧してきました。

コロンビアの壮大な大滝のはるか頭上に、人間は、細くはあっても、頑丈な鉄製の橋を架けましたし、ナイアガラの滝のごう音の上には機関車のゴーゴーいう音が鳴り響いています。

ちょうど今週、私はクリフトンのブリストル・アヴォンを通っている深い亀裂を測る最初の測鎖というものを見ました。こうして人間は裂け目につり橋を架けてきました。この調子でいくなら近い将来、人間はこれまで翼を持つ鳥しか知らなかったような道を見いだし旅するようになるでしょう。

しかしここに、どんな人間の技術や工学をもってしても橋を架けることのできない深淵がただ一つあります。どんな翼も決して越えることのできない裂け目がただ一つあるのです。その深淵とは、義人が勝利し喜んでいる世界と、悪人がヤーウェの剣の怒りにおののく悲哀の地を隔てている裂け目のことです。

なぜ未来の状態において、義人が悪人と交わりを持たないのかということでいろいろと議論がありますが、そこには固定したある大きな深淵があり、それゆえ、一方の世界からもう片方の世界に渡る通路は存在しえないのです。

天国から地獄への通路はない

3.これについて厳かに申し上げるにあたって、私は次の一言から始めようと思います。―それは、天国から地獄への通路はない―「こちらからあなたがたの方へ渡ろうと思ってもできない」のです。

栄化された聖徒は失われた罪びとのいる監獄を訪れることはできません。もうそれまでに十分、義人は悪人と一緒に生きてきました。麦が毒草の中で息苦しく生きてきた悪しき期間はもう十分です。もみがらが麦と共に同じ床の上に置かれている期間も、もう十分すぎるくらいありました。忍耐できるところまで忍耐はなされました。収穫の時まで両者は共に育ちました。

ですから収穫の時となった時、もはや一緒にいる必要はなくなるわけです。そのような混合状態――罪が義人たちのただ中に許され入り込んでくること、もしくは悪の住み処で両者の交わりが持たれること――は、全き静けさと聖さを伴う、義人の全き喜びと祝福されし状態とは相いれないものです。

聖徒たちが敵を助けるために、絶望に陥っている仇を慰めるため、主イエス・キリストの美しさから目を離し、主のご人格を崇めることをやめてしまうのは、主にとって光栄なことではありません。無慈悲な敵を救援するために、天における延臣が、自身の王にそむく反逆者となっていいものでしょうか。永遠の宝冠を頭につけし王家の血統をもつ王子たちが、栄誉の帯を脇にやり、地獄にいる滅ぶ者たちのための使用人となるべきなのでしょうか。

彼ら滅びの人々は、キリスト(の福音)が彼らに宣べ伝えられた時、御子の前にひざまずかず、口づけをしなかったのです。ですから、上のような事態はあってはならず、そしてありえないのです。それに、神のご意図は、真鍮でできた巨山のように、義人が聖さと喜びのうちに、永遠に神の元にいることです。そして義人は――たとえそう望んだとしても――悪人の世界とを隔てている大きな深淵を越えることはできないし、越えてはならないのです。

4.従って、その時点になると、どんなに「真摯で勤勉な伝道者」であっても、罪びとを立ち返らせるという希望をもはやことごとく捨てなければなりません。

神は使徒的な魂を幾人か起こしてくださり、彼らはその国において日の出のような存在です。暗闇は彼らの前に逃げ去り、救いの光が何万もの人々に差し込みました。彼らが手をかかげ説教すると、神は地獄の門を揺さぶる力を彼らに与えられます。また彼らが跪いて祈ると、天の門が開かれます。

あふれんばかりの愛の心の持ち主であるバクスター、燃えるような舌を持つジョセフ・アライン、セラフの火を持つホワイトフィールド、もしくはケルビムの情熱の持ち主であるウェスレーといった男たち。

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こういった人々は時代を祝福し、真に偉大な逸材です。彼らは望むなら、地の果てまでも行くことができます。というのも彼らの任務の範囲は人類(の分布)と同一の広がりを持つからです。「それゆえに、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。」「見よ、わたしは世の終わりまで、いつも、あなたがたと共にいるのである。」[マタイ28:19、20]

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彼らにとっては説教をしている時ほど至福の時はなかったのです。福音を伝えないことは彼らにとってわざわいでした。そしてひとたび説教をすると神の助けが与えられ、彼らはエフーのように、その奮闘によりまた新たにされたのです。彼らは福音を宣べ伝え、罪びとをキリストの元へ勝ち取るべくして生まれてきたのであり、従って、この高尚な任務を全うしない限りは決して満足することができないのです。

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しかし彼らといえども、まもなくこの働きをやめなければなりません。というのも天国においてはもはや彼らは必要とされておらず、地獄からは彼らは排除されているからです。おお罪びとよ、たとえ弱くともわれわれのこの声が、今この時、あなたをキリストに勝ち取らんことを。

しかしもしあなたが悔い改めないならば、もう決して再びあなたを救い主の元に誘うことはできません。私にとって「今」があなたに語ることのできる時、憐みの戸をあなたの前に開くことのできる時なのです。

しかし「その時」、もはや私は決してあなたに警告を与えることができなくなり、あなたを招くこともできなくなります。もはや決して、わが主の苦悶についてそれを描写することもできず、主の愛と死、血のにじむその愛を語ることであなたの心を引きつけようとする努力もなされえなくなります。そうです、もうその時、全てが終わってしまうのです。

「彼らはその労苦を解かれて休み、そのわざは彼らについていく。」彼らは綱車をもって引き揚げなければなりません。なぜなら種捲きのために他の畑に戻ることはもはやできず、収穫のために他の広地へと旅することもできなくなるからです。彼らの心は依然として神の愛で燃やされていることでしょうが、彼らはそれを別の方法で用いていかなければなりません。

神の栄光を求める彼らの情熱的な望みは、他の管を通してそこから流れていくようになります。彼らは頭を垂れ、昼も夜も主を崇めるようになりますが、もはや福音宣教を通して主に仕えることはできなくなります。神のための任務を果たす大使は、永遠の断罪という黒旗を掲げ、もはや平和のしるしを掲げることはなくなります。

あわれな罪びとよ、私はあなたを今この時に、キリストの元に勝ち取ろうとしています。なぜならあなたと私との間の向かい合いは、「今」を逃すともう永遠にやってこないからです。

5.もっともしつこい訪問者、もっとも熱心な友の尽力も、死と共に終わりを告げます。みなさんの友人の中には、私以上に、あなたの心に親しく語ることのできる人もいるでしょう。みなさんは、取るに足らない私の言葉など忘れ、また罪を犯すべくあくまで自分の道を進むことだってあるかもしれません。

しかしあなたにはお姉さんがいて、彼女が懇願するなら、あなたはそれを考慮するかもしれません。もしくはやさしい友がいて、もしも彼があなたに語るなら、あなたはそれを無視できないでしょう。あなたの良心はその友の言葉に感じ入り、時には彼を通して御霊が非常に力強くあなたに臨むこともあるでしょう。

兄弟姉妹、私がみなさんが、他の人の魂に対して情熱を持ってほしいと願っています。主があなたに――私には決して与えられない――幾人かの魂を与えてくださいますように。

そして、私には聖なる熱望と、多くの人々をキリストに導きたいという熱意がありますが、あなたを通してもし誰かに救いがもたらされるなら、あたかもそれが自分の手柄でもあるかのように私は心から喜ぶでしょう。

行って、全力を尽くして働きなさい。キリストがあなたのためにどんなことをしてくださったのか言いなさい。必死にそしてやさしい口調で、「神と和解してください」と彼らに嘆願しなさい。

しかし、ああ、この人生の期間内でしか、それができないことを覚えておきなさい。なぜなら、門が閉ざされる時、あなたは自分の報酬を得るべく閉じ入れられ、すべての世界はあなたの努力から締め出されるからです。

ああ聴衆者よ、これが分かりますか。もはや公的な集会、主日、祈りの家がなくなるだけでなく、個々の宣教者、あなたの魂の益を考慮してくれていた熱心なクリスチャンもいなくなるのです。いかがですか。このしつこいほどの愛の持つやさしい言葉の非常な価値に目が覚めませんか。

愛ある叱責に耳を傾けなさい、さもなければ、やがてあなたは突如として滅ぼされ、しかもそこに救済の余地はないのです。

6.もしあなたが自分の罪のうちに滅びるなら、あなたは最も近く最も愛しく思っている人々から分かたれることになります。母親はわが子の首を抱き、ここでは彼のために祈ることができます。今なら息子に、「神さまと和解なさいね」と愛を込めて言うことができますし、聖い祈りをもって熱心にそして絶え間なく息子を見守ることもできるでしょう。

しかし、彼が失われたとしたら、その時には栄光の領域から彼の元に行くことは決してできないのです。「ここからそちらへ渡ろうとしても、渡れない。」

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青年よ、分かりますか。あなたの母親の愛の涙でうるんだ目はその時には、もはや決してあなたのために涙を流すことはないのです。時にはあなたの心の琴線に触れていたあの染み入る声は、もう二度と嘆願しなくなるのです。

ああ神を畏れない女性よ、あなたはもう二度と敬虔なわが子を見ることはできなくなるのです。父親よ、娘さんのことを今お考えですか?――子どもの時から神を愛し畏れ、そして若くして亡くなったあの子のことを。死床にあった彼女はあなたに言いませんでしたか。「お父さん、私の後を追って天国に来てね」と。それがあなたの聞いた最期の声でした。

その子は、父親が悪の道から立ち返らない限り、決して父親に会うことはないのです。もし彼女が地上にいた時のように天国でも振る舞えるのだったら、あなたの首に抱きつき、いと高き方の栄光ある御座にあなたを引き寄せようとするでしょう。

しかしああ!それはかなわない話です。義なる神は悔い改めることをしない罪びとに有罪判決をくだされ、義人はその神聖な判決に同意するのです。

今日ここに集っておられる神を畏れぬ人々よ、あなたがたは私どもの集会のことを不愉快に思うことがしばしあるでしょう。そしておそらく私が説教している間、私の発する警告の言葉にいらだちを覚えておられるかもしれません。

おおでも、あなたをいらだたせる期間はもうそれほど長くないのです。あなたの母親は主を求めるようにとあなたにせがみますか。でも彼女がせがむのもあともうしばらくの間だけです。

来たるべき裁きについて私が強調しているので、あなたは不快感を覚えているのでしょうか。でも直にあなたを煩わせることもなくなります。私たちは分かたれるのです。もしあなたが自分の道を進み、罪と復讐に身をゆだねる生き方を続けるなら、やがて分離の時がやってきます。

そしてああ、――今はあなたをうんざりさせているあの声をもう一度聞けるなら、そしてあなたをいらだたせ、あなたの浮かれ騒ぎを台無しにしていた、例のあの憂鬱な招きをもう一度耳にすることができるのならと――あなたは全世界でも、ダイアモンドでも差し出さんばかりでしょう。

ああ、もし神がもう一度あなたを(地に)戻してくださり、かつて単調でつまらないと思っていた安息日を過ごせるなら、そしてもう一度神の家――おそらく愚かで軽薄なあなたの霊にとっては今は牢獄のように思えるかもしれませんが――に上ることを許されるのなら、あなたはどんなにか神に感謝することでしょう。

皆さん、いましばらくわれわれのことを忍び、われわれのしつこさを我慢していただきたいのです。というのもみなさんを煩わせるのも、あともうしばらくの間だけだからです。

私はあなたがたに嘆願します。イエスの元に来てください。私たちはあなたの襟をつかみ、来るべき神の御怒りから逃れなさいとあなたに懇願します。これほど熱心なのをお許しください。と言いますのもたとえあなたを説得できないとしても、いずれ近いうちにあなたはこのようにしつこい私たちの愛から逃れることができるからです。

あと何カ月かの束の間の人生が終わった後、あなたは宗教的談話や未来に起こることについての霊的な話など、そういった一切のものから遠く離れるようになります。そして自分の仲間と同じ場所にいることになるでしょう。しかしそういう場所ではほとんど何も満足を得ることがないということをあなたに警告しておきます。

7.友よ、こういったことはいかに――「今日」という日のあるうちに――真剣に働くよう、神の民を駆り立てることでしょうか。もし善を行なうことができるのが今しかないのなら、今できるうちに善を行おうではありませんか。

時折こう言っている人がいます。「某氏はやりすぎだと思う。いくらなんでもあれは働きすぎだよ」と。ああ!私たちは半分も十分にやれていません。イエス・キリストのために働きすぎているなどと言うのはおよしなさい。そんなことはありえないからです。

魂が今まさに滅んでいっているというのに、私は眠っていられるでしょうか。怠惰でたるんだ私の肉よ、人が死にゆき、地獄が一杯になっているというのに、お前は何もせずにいるのか。

兄弟姉妹よ、もうこれ以上、なまぬるい状態を続けるのはやめようではありませんか。神が私たちを世にある光となしてくださったのなら、ろうそくの如く自らを消耗しようではありませんか。ろうそくというのは輝くことによって自らを消耗するのです。

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一つの灯りしか持っていない貧しい下女が死に物狂いの速さで立ち働くように――というのもこの灯りはまもなく消えてしまうからです――私たちも、目を覚まし、祈り、魂のために労しつつ、時の良し悪しに関わらず、一刻を争う覚悟でいましょう。

私たちは不滅の魂に対する切実さに欠けています。もしも私たちが人生の短さ、あっという間に過ぎ去る時の性質、そして永遠の御怒りの恐ろしさについて知ってさえいたなら、、もしも私たちが失われた魂を見、そして言語を絶する彼らの苦痛を理解することができてさえいたのなら、私たちはちりを振り落とし、「今日」という一日のあるうちに、勇んで働きに出て行ったことでしょう。

彼らがこちらに渡ってくることもできない

8.私たちが天国から地獄へ行くことができないように、「そちらからわたしたちの方へ越えて来ることもできない」と聖句は言っています。地獄にいる失われし魂は永遠にそこに閉じ込められます。鉄の戸の前に立っている御使いを私はみます。おそろしい鍵のガチャガチャいう音が、とてつもなく多数の監房の間から聞こえてきます。

そして門が閉じられると、御使いはその鍵を忘却の淵に投げ込み、こうして囚人たちは完固なまでに閉じ込められ、決して外れることのない足かせにつながれ、決して錆びることのない鎖につながれます。

罪びとが天国に来ることができない理由は数多くありますが、まず第一番目の理由として、「自分自身の性質がそれを許さない」ということが挙げられます。

人は生き、死ぬと、彼は永遠に存在するものとなります。ここ(地上)で酒飲みだった人は、むこうでも酒に対する渇きを覚えますが、その渇きを満たすものはないのです。ここで悪態をついていた人は、むこうではさらに下品で熟達した冒涜者になります。死によってはその人の性質は変わらず、逆に固定されてしまうのです。そしてそれは硬化されます。

「聖なる者はさらに聖なることを行なうままにさせよ。そして汚れた者はさらに汚れたことを行なうままにさせよ。[黙22:11参照]」


失われた人間は引き続き罪びととしてとどまり、さらにそれに輪をかけた罪びととなり、神に反逆し続けるのです。そういう人が天国にいてほしいですか。

盗人が新しいエルサレムの通りを徘徊するようになるのでしょうか。パラダイスがのろいの言葉で汚されることになるのでしょうか。御使いの歌がみだらな会話によって妨害されるのでしょうか。そんなことはありえません。罪びとが入ってくることを許されるなら、天国は天国でなくなります。

「だれでも新しく生まれなければ、神の国を見ることはできない。[ヨハネ3:5b]」


そして最終的に失われてしまった人が新しく生まれるという希望はもはや存在しないため、彼らは神の国を見ることができないのです。

罪びとよ、もし今あなたが天国にふさわしい者でないのなら、今後そういう者になるという希望を持つ――そんな資格がありますか。神なしに、希望なしに死ぬのなら、あなたの相続地はどこに存在するようになるのでしょう。

神なしにあなたは天国で暮らせますか。――神ご自身の治めておられる国に?希望なしに、あなたは――希望が完全な結実をもって成就されし国――に入ることができますか。それは絶対に無理な話です。面と向かって神に敵対し、神の宮殿の中で冒涜する言葉を発することは、神の敵には決して許されません。こういった人たちは神の御前から追放されなければならず、永遠に追放されなければならないのです。

9.さらに、人の性質だけでなく、罪びとの「運命(行き先)」がその人を閉め出してしまうのです。どういうことでしょうか。「そして彼らは『永遠の』刑罰を受け[マタイ25:46a]」と書いてあります。

もしこれが永遠のものなら、彼らはいったいどうして天国に入れましょうか。主は何と言っておられるでしょう。「地獄では、うじがつきず、火も消えることがない。」このたとえに真理があるとしたら、それは、こういうことになるでしょう。――すなわち、失われた者は永遠に失われた状態にとどまると。仮に彼らが天国に入れたとするなら、きっとうじは死ぬでしょうし、彼らが天の座席を得た暁には、火は消えるでしょうから。

聖霊はこれをどのように表現しているでしょう。聖霊は来るべき御怒りを、底知れぬ所と描写してはいないでしょうか。もし底知れぬ所に、つかまるところがあり、輝く御使いの座に這い上がることができるのなら、こういう表現はしていなかったはずです。

兄弟たちよ、人間に判決を下されるお方、「不信仰の者は罪に定められる [マルコ16:16b]」という強い表現でそのことを仰せられた方は、確実に、そして文字通り、ご自分の言葉を執行されるのです。そしてもしそれがそうなら、彼らが火の監獄から逃れ、喜びと平安の地に入ることは絶対に不可能ということになります。

10.さらに、罪びとよ。「神のご性質」ならびに神の御言葉があなたに敵対しているゆえ、あなたは監獄から出ることができないのです。神はご自身が義であることをおやめになるのでしょうか。

しかしもし神が義なる方であるなら、最終的に罪に定められたあなたを罰し続けること――これを神は決しておやめにならないのです。

「聖なる、聖なる、聖なる、万軍の主」というのが止むことのないケルビムの呼びかけですが、神が「聖なる、聖なる、聖なる」方である限り、あなたは決してこのお方に受け入れられません。神はご自身が真実であることをおやめになるのでしょうか。

しかし覚えておきなさい。神がご自身のなさった警告の言葉に真実である限り、主はあなたを矢で射抜き、憤怒をもってあなたを破滅させなければならず、そうされるのです。その時、「不信仰な者は罪に定められる」という主の掟が有効となるのです。

これは大きな深淵であり、――永遠に岩に縛りつけられ、一時たりとも解かれることのない(ギリシア神話の)プロメテウスのように――悔い改めようとしない罪びとの運命も固くしっかりと縛りづけられている不動の裂け目なのです。

もし神が神であり、神の掟が偽りでも空虚なものでもないのなら、あなたが苦悶も場所から抜け出てくるということは断じてあってはならないし、そうはならないのです。

11.罪びとよ、覚えておきなさい。堕落した人間と聖なる神の間にはただ一つの橋しか存在しないということを。それなのにあなたはその橋を拒絶しています。仲介者としてのお方、この方の身代わり、義、痛ましい死、こういったものが罪から義への、そして怒りから受容への唯一の道を作ってくれるのです。

しかしあなたはそれを拒絶しています。あなたが失われた者となるなら、あなたは最終的にキリストを拒絶したということになるのです。今朝の段階でもあなたは救われていないのですから、ああ、あわれな被造物よ、あなたは今キリストを拒絶しているのです。

あなたは次のように言っているのも同然です。「キリストは死んだ。しかし私のためではない。人間を救うためにキリストは血を流した。しかしキリストの道においては私は救われたくない。キリストに死ぬままにさせておけ。キリストの死なぞたいしたことはなく、その血も無価値なものだ。キリストに救ってもらうよりは、とっとと滅んでしまった方がましだ」と。

これが実質的に、あなたが言っていることなのです。もちろんこういう言葉はあなたをぞっとさせるでしょうし、こんなことをあえて口に出しては言わないかもしれません。でもこれがあなたの思っていることです。

あなたはこの方にあなたを治めさせまいとしています。あなたは御子の前に跪き、口づけしたくないと思っています。あなたは依然として神に敵対する者であり、キリストの贖いを通して救われる代わりに滅ぼされてしまいます。

つまり、もしあなたが唯一のこの道を拒絶するのなら、希望が何も残らないということに何の不思議がありましょう。それに罪のための犠牲というのは他にどこにも存在しません。罪のための犠牲はもはやありえないと聖書もはっきり明記しています。

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イエスが、死ぬために二度目にまた来られると思っているのでしょうか。あの神聖な手が再び木に打ちつけられるのでしょうか。あなたは今この方を拒絶しています。ですからたとえ主が再び死なれたとしても、あなたはやはり主を拒絶するでしょう。主の頭が再び茨のとげで刺されるのでしょうか。主のわき腹が再び槍で突き刺されるのでしょうか。

そうです、罪びとよ、もしあなたが今主を拒絶するなら、たとえ主が二度目に死ぬことがおできになったとしても、あなたはこの方を拒絶するでしょう。しかしそのようなことはありえません。主は贖いをするため一度だけご自身をささげられ、今やとこしえにいと高き方の右の座に座っておられるのです。二度目の贖いというのは存在しません――人の罪のためにもはや二度と贖いはなされないのです。

12.また底知れぬ所には聖霊もおられないということを覚えておきなさい。祝福されし御霊は今日ここにおられます。そしてしばしあなたに働きかけてこられました。ぺリクスのようにおののいたことを覚えていますか。アグリッパのようにほとんど納得しかかったあの時のことを忘れてはいないでしょう。

しかし結局こういったものはことごとく脇にうちやられ、良心は黙らせられ、御霊は消されてしまいました。しかし御霊は再びあなたに働きかけるかもしれません。そして御霊が圧倒的な力をもってあなたに臨むなら、――たといあなたの心が火打ち石のようであっても――御霊はそれを砕くことがおできになります。またそれがたとい鉄のようであっても、御霊はそれを溶かすことがおできになります。

しかし一度底知れぬ所に入ってしまうなら、聖霊はもう決してそこに来ることはできません。祝されし鳩(聖霊)は御怒りの場所を避け、そのいのちは破滅に引き渡された魂について思い悩むことはありません。もしそうなら、あなたは新しく生まれることはできず、天国に入ることもできないということになります。

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聖められることも不可能であり、聖められていない魂には天において居場所がありません。従ってあなたが地獄から天国に渡っていくことができないのは火を見るより明らかなのです。ああ、これはあなたの上に降りかかる裁きとなります。多くのことにおける厳かな裁きとなるのです。

あなたは神の家が好きではありません。ですからあなたはそこから締め出されます。あなたは安息日を好んでいません。それであなたは永遠の安息日から締め出されることになります。聖い歌声はあなたに何ら魅力的なものとは映りませんでした。従ってあなたはそこに加わることはありません。あなたは神の御顔を愛しんだことなど一度たりともありませんでした。ですからあなたは決してそれを見ることはありません。

また、イエス・キリストの御名はあなたの耳に心地よいものではありませんでしたので、今後一切その名をきくことはないでしょう。イエス・キリストが宣べ伝えられましたが、あなたはこの方を拒絶し、主の血を足下に踏みにじりました。天国への道はあなたに惜しみなく開かれていましたが、あなたはいのちを受けるために主の元にやって来ようとはしません。

地上から天国への道が一つ存在します。罪びとよ、あなたは罪の深みにはまってしまいました。しかしたとえあなたが最も悪名高く、非道きわまりない犯罪者であったとしても、依然として天国への一つの道があなたに開かれています。売春婦、盗人、冒涜者、酒飲みも、依然としてイエスの恵みを通して憐みを見いだすことができるのです。しかし――

われわれがまもなく行こうとしている冷たい墓の中では 赦しの法は通過しない。

暗闇、死、そして永く続く絶望――
それらが永遠の沈黙をもってそこを治めている。



願わくば神がこの厳かな使信を祝してくださり、栄光が主に帰されますように。

どんなものも来ることはできない

13.ここで数分、話題を変えてお話しようと思います。三番目の点に入りますが、橋なき深淵を渡ることができないのは人だけでなく、どんなものもそこを渡ることができないということです。地獄から天国へ来ることのできるものは何一つないのです。

光のうちにある聖徒よ、喜びなさい。そのことゆえにあなたの神の中で勝利に歓喜しなさい。――ひとたび、黄金の岸辺にたどり着くや、もはやサタンの誘惑があなたを苦しめることはないのです。あなたは最大の敵の射る弓の射程より高いところにいます。

この敵は吠え、自分の鉄製拘束具に噛みつくかもしれませんが、このわめきは私たちをおびやかすに足らず、噛みつこうとしてもそれによって私たちは妨害されることはありません。

不敬虔な人々のけがらわしい会話に苦しめられることもありません。ロトはもう二度と卑猥な言葉を聞くことはなくなります。もう金輪際、「わざわいなるかな、わたしはメセクにやどり、ケダルの天幕のなかに住んでいる」と言うこともなります。

浅薄な会話があなたの心に及ぶことはなくなり、瑣末なことがあなたの耳をわずらわせることもなくなる。



地獄に属する一切のものからあなたは守られるようになります。あなたは天国に行きますが、そこはとても安全であり、地獄を造られる神の御怒りはけっしてあなたには注がれません。あなたの救い主がそれを運んでくださるので、ただの一滴たりともあなたに降りかかることはないのです。

現在ある痛みは天国には存在しません。それは失われた者に伴います。体の痛みもなく、精神を乱すようなものもありません。あなたのうちには罪もなくなります。罪が彼らからあなたへ伝わることはありません。あなたは全き者とされるのです――しみも傷もない主のように。

あなたの内なる仇は殺され、もはやサタンがあなたの平和を乱すこともない。



また未来への不安もなくなります。というのも、あなたの至福は永遠のものであることをあなたは知るからです。これはあなたにとって常に――永遠につづく――蜂の巣の蜜のようになります。あなたは愛しきお方の御顔を何百万年も見つめ、とこしえからとこしえに渡り、あなたは主の輝く笑みにうっとりと見入るのです。

そのことを熟考するなら、私たちキリスト者は、一時的な苦難における激しい一撃にも甘んじるようになり、こういった決死の戦いの最中にあって労苦していたとしても、その中で喜ぶことができる――これこそがキリスト者にとっての喜びです。

勇気を出しなさい。一日や二日の奮闘の後、朽ちることのない栄冠が与えられます。一、二時間の戦いの後、永遠の安息が与えられます。今日、御使いたちは天にある宮殿の胸壁に集まり、あなたを見るや――武装した男たちが門への道を切り開くように――彼らはあなたに叫ぶでしょう。

来なさい、来なさい。あなたは永遠の栄光を勝ち取るのです。



あなたは剣をさやに納めますか。戦うことをやめますか。否、進むのです。そしてまことのエルサレムの刀に、あなたの精神と霊魂を刺し通させ、関節と骨髄とを切り離させなさい――あなたが山頂に到達し、とこしえの栄光があなたのものとなる時まで。

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いかなる天的なものも地獄に来ることはできない

14.四番目の主題に入りますが、これは恐ろしいものです。どんなものであれ地獄から天国に来ることはできないように、いかなる天的なものも地獄に来ることはないのです。神の右の座にはいのちの川が流れています。――そしてこの流れは恵まれし大滝となって失われた人々のところには決して流れ込んでいくことができないのです。

事実、ラザロは指先を水でぬらし、火炎の中で焼けつく舌を冷やすことが許されなかったのです。天的な水は、ただの一滴たりともこの裂け目を越えて流れることができないのです。罪びとよ、見なさい。天国には安息があります。全き安息です――しかし地獄にはまったく安息がないのです。

それは火炎の中での労苦ですが、安らぎも平安も眠りも平穏や静けさも何もないのです。そこにあるのは永劫の嵐、永遠のハリケーン、絶えることなき暴風雨です。最悪の病であっても、そこには小休止があります。苦しみの発作がありますが、その後、しばらくの間小康状態になります。

しかし地獄の苦しみにはその小休止がないのです。永劫の苦悩を奏でるおそろしい音楽は一時の休止さえないのです。それは戦いの爆音、埃と血、火と煙と共に、ひたすら、ひたすら続いていきます。

15.天国はまた、「喜び」の場所です。そこでは幸福な指が天の調べを奏で、喜びに満ちた魂が昼となく夜となくホザンナと歌います。その一方で、地獄にはまったく喜びがありません。音楽ではなくうめき、喜びではなく苦悶、麗しい交わりではなく、束になっての拘束、幸福ではなく悲しみがそこにはあります。

私は誇張して言うことができませんでした。それは不可能です。この悲しい事実を十分に述べ尽すことはできないので、ここまでにします。天にあるどんな喜びも地獄にくることはないのです。

16.天国は「神との甘美な交わりの場」です。

かの地では 彼らは御顔を見つめ、決して決して罪を犯さない。
かの地では主の恵みの川から尽きることのない喜びを飲む。


地獄では神との交わりはありません。祈りは存在しますが、その祈りがきかれることはありません。涙が流されますが、受け入れられることはありません。嘆願の叫びがありますが、そういったものはすべて主にとって忌まわしいものです。

神は誰の死をも望んでおられません。むしろすべての人が主に立ち返り生きることを望んでおられます。しかし、もしその恵みが拒絶されるのだとしたら――。

主は、報復の衣をまとわれ、御手をかかげ、誓われる。
わたしの約束した休息を軽んじたお前には、かの地における相続地は存在しないと。


お望みなら天国が何なのか言ってみなさい。あなたが描写するどんな天の喜びも、ただ一つとして地獄には存在しないと私はあなたに言わなければなりません。というのも、天国の祝福は天の領域から地獄の監獄へ越えていくことはできないからです。

それは慰めなしの悲しみであり、希望なしの悲惨であり、そこに苦悶があります――それは終わりのない死です。ただ一つ、天国と地獄には類似点があります。それは、両者とも永遠のものだということです。「来るべき御怒り、来るべき御怒り、来るべき御怒り」と、永遠にそれが続くのですが、にもかかわらず決して尽き果てることがないのです。

17.思う存分あなたに語ることができたらと願います。なぜなら、これを逃して次の機会はないと考えているからです。前にも申し上げた通り、もし私が救われていて、あなたが救われていないのなら、こういう説教をすることはもはやできなくなるからです。取るに足らない私の説教を終わりにする前にあともう二、三分お時間をください。

私はまだ回心していないあなたがたを説得しようとしています。神の民に対しては、今朝はほとんどメッセージがありませんでした。夕礼拝の時には、彼らを慰めるかもしれませんが、今朝に限っては、神を畏れないあなたがたのことをどうにかしなければなりません。

今ここにいらっしゃる方の多くはまだ回心していません。私はあなたがたがあたかもキリスト教徒であるかのように説教することによって、あなたがたにへつらうつもりは断じてありません。

私の主なる神はご存知です。ここにいる多くの心は未だ一度も砕かれたことがないのだと。またここにいる多くの魂は未だ一度たりとも、限りなく義なる偉大なお方の前に畏れおののいたことがありません。そして十字架につけられし贖い主の差しのべられた笏に一度も口づけしたことがないのです。あなたも自覚しておられるでしょう。あなたの内は苦々しさと悪意で満ちていると。

私が言っているのはあからさまに罪を犯している人々のことだけではありません。あなたがたの中には、愛想が良く、優秀で、性格にしても立ち振る舞いにしても立派な方々もいます。しかしあなたのうちには神に対する愛がありません。

外面的にはおそらくあなたは非の打ちどころのない人なのかもしれません。しかしあなたは新生していません。あなたは死からいのちに移っていません。そして覚えておいてください。あなたがキリストの元に逃れない限り、最も有徳な人にも、最も忌まわしい人と同様の地獄が待っているのです。

「なぜなら、すでにすえられている土台以外のものをすえることは、だれにもできない。そして、この土台はイエス・キリストである。[Ⅰコリ3:11]」



もしあなたが主を信じないなら、あなたは自分の罪の中で死にます。

「この人による以外に救いはない。わたしたちを救いうる名は、これを別にしては、天下のだれにも与えられていないからである。[使徒4:12)」



来なさい。私はあなたに嘆願します。そして尋ねます。――これら全てを信じていますかと。地獄があることを信じていますか。天国があることを信じていますか。もしあなたがそれを信じていないのなら、私の方からあなたにお話することはもうありません。神があなたの理解を助けてくださいますように。

しかしあなたは何のためにここにいらしたのですか。神の霊感を受けたクリスチャンの聖書を拒絶しておきながら、なぜ自分はクリスチャンだと自称しているのですか。むしろ不信心者となり、正直になりなさい。私は現代の背信には懸念を覚えていません。私としては、――あなたがクリスチャンであるふりをしながら、その実、聖書の教えていることを信じていない――よりは、むしろ表立った不信心者である方がましです。

私は正直なのが好きです。もしある人が、「私は自分の信じてもいないことを信じているなどと告白はしませんよ」と正直に言うなら、少なくともこの人のうちには一つの美徳があります。そして私たちとしては他の人々が生育のための土壌を見いだしてくれるよう望むでしょう。

しかしあなたがたは信心深い者だと自称し、教会にも通っていながら、神の啓示を信じていない。これに関して私は何が言えましょう。そのようなあなたが罪に定められるのはしごく当然だとしか言えません。

多くの人がこう言います。「おお先生!疑ったことなんてありませんよ。幼い頃から私たちはそれを学んできましたし、いつも聞いてきました。疑うなんてそんな大それたこと絶対にしませんよ」と。

おお、それでは、私はあなたに訊きます。――あなたは地獄があると信じていながら、なぜそこから逃れようとしていないのですか。来るべき御怒りがあると信じていて、それが次の瞬間にもあなたに降りかかるかもしれない、、というのもあなたは死んでいるかもしれず、この祈りの家から二度と外に出られないかもしれないからです、、それなのに、あなたはのんきに信者席でくつろいでいる。あなたは信じていないのですか。それとも正気ではないのですか。

罪に染まりすぎて麻痺状態になっていて、もはやまともに考えることができなくなっているのですか。もし考えることができるなら、そして、おそろしい全能の力をもって罰する、憤怒の神がおられるのだとしたら、いったいどうして、あなたはシオンでこんなにもくつろいでいるのですか。

18.もう一つ質問させてください。もしそうなら、――この世の楽しみ・快楽にうつつを抜かすことがやがて永遠の悲惨につながるということを知っていながら――なぜ、あなたはあえて天の喜び以上に、この世の楽しみに重きを置くことを選んだのですか。

でも誤解しないでください。クリスチャンには喜びがないということを言っているのではありません。いえ、私たちには最も高尚にして純粋な楽しみがあるのです。罪の喜び・快楽といったものは持していませんが、私たちにはそれ以上に高く、喜ばしく、深い喜びがあるのです。

しかしここで私が言いたいことは次のことです。つまり、あなたは罪深い快楽の中で人生を送りたいのですか。情欲、酩酊、ファッション・ライフに明け暮れたいのですか。こういったものへの出費は価値あるものでしょうか。

社会的高位にある人と長いこと話し合ったことがありました。私がこの人に福音を熱心に説くと、彼は私の襟をつかみ、言いました。「このままの調子で生きそして死ぬなら、自分の運命がどうなるのか私は知っています――。でもひどいことに、それを自覚しつつも、私は依然としてそういう生活を続けているのです。」

彼は続けて言いました。「あなたと一緒にいる時、そしてあなたの厳かな説教を聴いている時には、『私はきっと変わるに違いない。そして今後神に仕えていくだろう』と思えるのです。でもおお、自分の生活環境はいかに誘惑に満ちていることか!この世の虚飾や虚栄のただ中にいると、そして信仰の話などてんで馬鹿にするような人たちと一緒にいると、そういう思いはことごとく消え去り、愚かなことに、私は自分の魂を売り渡しているのです。」

おお、今日ここにもそういう愚かな人たち――小さな罪に自分の魂を売り飛ばしている人たち――がいます。一、二回のダンス騒ぎにうつつを抜かしたことで、悪魔があなたの相棒となってしまい、あなたの浮かれ騒ぎは終わりました。たとい全世界を手に入れても自分の命を損じることにどれほどの価値があるのか頭を使ってよく考えてみてください。

19.別の言い方をしましょう。あなたはどうしてキリストを得ていないのでしょうか。というのも、キリストを得ることができるのは今しかないからです。なぜあなたがキリストを得ていないのかその理由を申し上げましょう。

そう、あなたはキリストを愛しておらず、罪を愛しているからです。もしくはプライドが高すぎてキリストの元に来ることができずにいるのです。あなたは心の中で「自分っていい人」と思っており、自分のようないい人にはキリストは必要ないと思っています。――キリストが必要なのは、極悪な罪びととか、卑しい人たちに限ると。

おお、みなさん、あなたにとって自分のプライドはそれほど大切なものですか。その面子を保つために、あなたは罪に定められることに甘んじるのですか。プライドをお捨てなさい。しかるべき罪びとして来なさい。そしてイエス・キリストを得なさい。

あるいは、あなたの罪が妨げになっているのなら、聖霊なる神が、――両目、両腕が地獄の火に投げ込まれる前に――あなたの右の目をえぐり出し、右の腕を引き抜くのを助けてくださいますように。

20.ある人は言います。「でも、どうやってキリストを得ることができるのでしょうか」と。御霊があなたをしてそれをなさしめてくださいますように。そうです、イエス・キリストに信頼を置くのです。そうすればあなたは救われます。

神のおそろしい掟の前におののき、あなたは自分が神の御怒りを受けるに値する存在なのだということを認め、そしてイエスを見上げなさい。そこに血を流しておられる救い主がおられます。こういうことを認めた目には、その血が見えるでしょう。

永遠の神――この方を通して天が造られ、地とそこに満ちるものが造られました――が、人間の形をとり、呪いの木の上にお架かりになりました。

見よ 主のみかしら み手、み足よりぞ 恵みと悲しみ こもごも流るる 茨はまばゆき 冠と輝く



十字架につけられしこのお方を見ることのうちに、いのちがあります。今まさにこの瞬間、あなたのためにいのちがここにあります。涙をもってこのお方を見つめ、祈ってください。

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「イエス様、私のために虐殺され、殉教され、殺されたお方。私はあなたを信じます。今私は自分自身を、あらゆる罪、汚れ、愚かさと共に、あなたの足元に投げ出します。あなたの血潮が私の上に流れ落ちますように。あなたの御目を私に向けてください。そして私におっしゃってください。『わたしは限りなき愛をもってあなたを愛している。それゆえ、わたしは絶えずあなたに真実をつくしてきた』と。そして『来なさい。罪びとよ、迎えなさい。――来なさい』と。」

私はただひたすら愛をもって、神の掟をあなたに語ってきました。こういう厳しいテーマを説きながら、私の心は血が流れんばかりでした。それを神はご存知です。ああどうかあなたがイエスを信じますように。

今この方のことが余すところなくあなたに語られました。――この方を受け入れてください。神の御霊があなたを導き、今この瞬間、この方を受け入れますように。これは難しいことではありません。血に飢え渇く独裁者のつき出すような過酷な条件などもありません。この方はただこうおっしゃっているのです。「ひざまずき、御子に口づけしなさい。来て迎えなさい、罪びとよ。――来なさい」と。

若者よ、あなたは救われたいですか。それとも救われたくないですか。

そこにいる、死が間近に迫っている白髪の罪びとよ、あなたはキリストを信じたいですか。それとも信じたくないのですか。

これがあなたの最後の機会かもしれません――ここまで徹底的に、忠実に、そして愛をもって福音が説かれ、それをあなたが聞くことはもう決してないでしょう。あなたはご自身のものとしてイエスを受け入れますか。

神の御霊よ、どうぞこの方の心を導き、こう言わしめてください。「はい、主よ。私はあなたを受け入れます」と。そして地上で(イエスを受け入れる)この声が聞かれるなら、それは天において記録され、今日この日、救いがこの方の心に訪れます。

主がみなさんお一人お一人を祝福してくださいますように。そして主がご自身の民を集められる時、願わくば、私やあなた、そして私たち全員が、主の右にいて、主の微笑む御顔をみることができますように。

ー終わりー



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過ぎゆくこの世が終わる時、

輝く太陽がかしこに沈む時


全うされし人生の道程を見渡しつつ 

栄光のうちにキリストと共に立つ時 


その時、その時、

どんなにあなたの恵みに与っていたのか 

私は完全に知るでしょう



御座の前に立つ時 

自分のものではない美しい衣に身を包むとき


罪なき心で 汝を愛しつつ 

汝を あるがままの姿でみる時


その時、その時、

どんなにあなたの恵みに与っていたのか 

私は完全に知るでしょう



雷鳴の音のごとき 

大水の音のごとき 

ハープの奏でる甘美な音のごとき 

天の讃美を耳にするとき


その時、その時、

どんなにあなたの恵みに与っていたのか 

私は完全に知るでしょう



鏡を通してのごとく 暗くはありとも

この地上においてさえ 

汝の栄光を通らせたまえ


赦しをいとも甘美なものと感じさせ

御霊の助けを 

ふさわしいものとなさせたまえ



主よ この地上においても 

どんなにあなたの恵みに与っているのか 

われに教えたまえ


ロバート・マーレー・マクチェーン(1837)





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おおイエスよ、もっと近くにいらしてください

前にもまして あなたを愛しい方と仰ぎたいのです


私の魂は切望しています、あなたを慕い求めています

どうかいらして あなたを焦がれしこの心を

ご自身の住み処となさってください

あなたの美しさに見入りたいのです!



なんとものうく けだるいことでしょう

なんとさみしく みじめなことでしょう

――あなたが御顔を隠される日々は



そして

あなたの愛と恵みの一瞥は

なんとすぐに 悲しみや憂いを
 
喜びにかえてくれることでしょう



もっと近くにいらしてください、もっと近くに

前にもまして あなたを愛しいお方と仰ぎたいのです



あなたはわが心の喜び、わが心の至福


もっと近く、もっと近く 

あなたに近づいていきます



あなたの祝福を切に求めます

ああ それなしには 私はあなたを離れることができません


――エリザベス・プレンティス
Golden Hours: Heart-hymns of the Christian lifeより 私訳)




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(書簡をしたためるパウロ)

私たちはイエス様を信じ、「自由を与えられるために召されました」(ガラテヤ5:13)。その結果、私たちは自分たちを縛りつけていた律法のくびきから解放され、もはや「律法の下にはなく、恵みの下にあります」(ローマ6:14b)。

さて、そのように自由にされた私たちが福音を携え、異教徒の元へと出て行きます。そこで私たちはかつて知らなかったようなさまざまな文化規範(倫理/宗教規範)に遭遇します。

今日は、みなさんとご一緒に――特に、中東圏(イスラム/ユダヤ教圏)に宣教の働きに遣わされようとしている方々と共に――「豚肉」について考えていきたいと思います。

☆☆
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私の田舎は全国でも有数の豚の特産県ということもあって、小さい頃から豚肉というのは私にとってなじみのお肉でした。(ちなみに私の祖母は、うどんのだしをとるのに、昆布のかわりに豚肉を使っていました。)

さて、年月が経ち、私はイエス様を信じました。そして不思議な導きにより、数カ月、何人かのクリスチャンと共に北アフリカの某国に滞在することになりました。十一年前のことです。

ある日、私たちは昼食をとるために、小さな現地レストランに入りました。そこは外国人を対象にしたレストランだったため、ラマザン(断食)月だったのにも関わらず、昼間から開店していました。私はそこで豚肉料理を注文しました。

しばらくすると、ウェイターの若い現地の女の子が料理をもってやって来ました。黙々と料理皿をテーブルの上に載せていく彼女の顔をみた時、私ははっとしました。そこには、ある隠しようのない困惑ととまどい、そしてかすかな軽蔑の情が出ていたからです。

そしてその瞬間、私は次の御言葉を思い出しました。

「私はだれに対しても自由ですが、より多くの人を獲得するために、すべての人の奴隷になりました、、律法の下にある人々には、私自身は律法の下にはいませんが、律法の下にある者のようになりました。それは律法の下にある人々を獲得するためです、、すべての人に、すべてのものとなりました。それは、何とかして、幾人かでも救うためです。」(Ⅰコリント9:19、20、22)



私は思いました。「断食月のまっ昼間にレストランで豚肉料理を注文した外国人女性。少なくとも目の前にいるこの若い女性にとって、私の語る言葉はなんら心に響くものとはならないだろう。私がどんなに聖なるイエス様のことを語っても、その聖さは、少なくとも私という存在を通しては彼女に伝わらないだろう。」

そしてその日を最後に、私は豚肉を食することをやめました。

中東圏で奉仕されている宣教師の方々の中には、

「神が造られた物はみな良い物で、感謝して受けるとき、捨てるべき物は何一つありません。神のことばと祈りとによって、聖められるからです。」 Ⅰテモテ4:4、5 および



イエスは言われた。「あなたがたまで、そんなにわからないのですか。外側から人にはいって来る物は人を汚すことができない、ということがわからないのですか。そのような物は、人の心には、はいらないで、腹にはいり、そして、かわやに出されてしまうのです。」イエスは、このように、すべての食物をきよいとされた。マルコ7:18、19



の聖句等を根拠に、「自分たちが豚肉を食べ続けることには全く問題がない」ということを強調しておられる方々もいます。

たしかに上の御言葉が指し示すように、私たちクリスチャンにとって汚れた食物というのは存在しません。だから、私たちは、本来、どこにいても(たとえ中東圏で奉仕していたとしても)豚肉を食べてもかまわないし、そこには自由があります。

でもその一方で、豚肉を断った外国人伝道者たちは、「それがハラーム(→口にすることを禁止されている食物:アラビア語حرام‎ harām)だからという理由ではなく、豚肉を食することが福音宣教のさまたげになるようなら、つまり、現地の人々にとってつまずきとなるなら、私たちは今後いっさい豚肉を食べません(Ⅰコリント8:13参照)」と、「隣人に対する愛」をその動機として語っておられます。

そして私もこの後者の方々の姿勢に共感を覚えています。

私たちクリスチャンはハラール(合法的に食べてよいとされる食物 حلال‎ Halāl)やハラームの戒律に縛られていませんし、旧約の食物規定にも縛られていません。

ですから、私たちが何かを断つ時、その唯一の動機は、Ⅰコリント9章22節「それは、何とかして、幾人かでも救うため」、つまり救霊のため、隣人にイエス様の福音を伝えたいという愛が根本であるべきだと思います。

また話が少し広がりますが、愛を動機とする時、私たちは、アルコールに対してもまた、妥協のない態度をとるようになると思います。

アルコール依存症者数は、平成9年の調査で242万人にのぼり、現在では300万人を超えるといわれている。(日本における統計)引用元: ココ


米国における2013年の統計では、毎年八万八千人近い人々(うち男性約六万二千人、女性二万六千人)がアルコール依存およびそれに関連する原因で死亡している。引用元:ココ


この前、ある牧師先生が、Ⅰテモテ5:23「これからは水ばかり飲まないで、胃のために、また、たびたび起こる病気のためにも、少量のぶどう酒を用いなさい」の御言葉を引用しつつ、なぜ自分がワインを常飲しているのか(そしてそれは正当化されるのか)ということについて説明しておられました。

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しかし、私たちが、アルコール依存症で苦しんでいる人々およびその家族のことを思い、彼らの魂に対してまじりけのない愛と痛みをもつ時、私たちはパウロと共に、「もし食物(ここではお酒)が私の兄弟をつまずかせるなら、私は今後いっさいお酒を口にしません」と宣言せざるをえないと思います。

実際に、(元)アル中の夫から殴る蹴るの暴行を受けていた奥さんが泣きながら私に電話してこられ、「夫も私も今、教会に通っています。でも、悲しいことにそこの教会の奉仕者たちはお酒を飲んでいるのです。そして家に主人を招いては、主人の目の前でお酒を飲んでいるのです。今のところ、主人は自制して、その誘惑をなんとか振り切っていますが、今後いつまた始めないとも限りません。それがとても怖いのです」と苦悶の情を吐露されました。

自由な人といえば、イエス様ほど自由なお方はいまだかつて存在しなかったろうと思います。しかし、私たちを愛する愛ゆえに、イエス様はあえてご自分を低く卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われました。(ピリピ2:6-8参照)

それほどまでに私たち人間は一人一人尊い存在なのです。そして神様の願いは、人が一人して滅びることなく、皆イエス様を信じて救われることです。そのことを黙想するとき、私たちは神様の愛に圧倒されると共に、キリストの使節として、「愛する相手につまずきを与えるどんな物とも今後いっさい袂を分かつ」という聖い決意が与えられるはずです。

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(主よ、あなたを知らずに滅びゆく魂のために涙を流して祈る者とさせてください。)

最後にガラテヤ人への手紙5章13、14節の御言葉をもって終わらせていただきます。

兄弟たち。あなたがたは、自由を与えられるために召されたのです。ただ、その自由を肉の働く機会としないで、愛をもって互いに仕えなさい。

律法の全体は、「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。」という一語をもって全うされるのです。





flower field


なんと芳(かぐわ)しいことだろう すべてを離れ
秘められしイエスの召しにつき従っていくのは
そして主のうちに隠れ 生きることは!

なんと芳しいことだろう  罪より解放さるるのは
内にあるすべての自己愛から自由にされ
神だけを求めていくことができるというのは!


なんと芳しいことだろう 地上的なものから離れ
奥まった心の部屋の中で
神と共に退き、生きることができるのは!

なんと芳しいことだろう 主ご自身が
われわれの最も深い処に住んでくださっているとは!


なんと芳しいことだろう おさな子のような恵みをもって
御父のみ顔の前を歩き、
ただひたすら主だけをお喜ばせするのは!

なんと芳しいことだろう 私たちがすべての人に対して謙遜になり
柔和で穏やかな霊を示し、
全き平和のうちに生きるのは!


なんと芳しいことだろう 静かな畏れをもって
御霊のうちに 神に近づき
神聖なる真理のうちに整えられるのは!

なんと芳しいことだろう ケルビムの目をもって
主を一心に見つめ、
そして主の栄光の中で 輝くのは!


なんと芳しいことだろう われわれの一切の力や意志が
征服され、治められ、穏やかにされ、静けさを保ち、
神の自由に用いられるとき!

なんと芳しいことだろう すべての高ぶった思いが
全知の主の御目の前に
服従へと導かれるのは!


なんと芳しいことだろう 自己やもろもろの事が
失われ 完全に忘れ去られるのは
そして あらゆる思い煩いが消えるのは!

なんと芳しいことだろう
あらゆる時と場を超えて
静寂の永遠を
心の芯奥にたどるのは 


なんと芳しいことだろう 神のうちに退き 自由に
かような荒野にて
平安の御声に耳を澄ませることができるのは!

なんと芳しいことだろう 妨げられることなく憩い
おさな子のように 親の胸元に抱かれ
おのれ自身の働きから解かれるのは!


なんと芳しいことだろう 力を使い果たした挙句に
ついに魂が わが家を見いだすのは
そしてもはや放浪をやめるのは

なんと芳しいことだろう 純にして全き愛のうちにあって
上にあるものに思いが飛翔し
神にまみえるのは!


おお 尊く 芳しい永遠
汝は平安の王国!汝を内に見いだした者はなんと幸いなるかな!

わが霊は汝の静けさの中に喜び
秘められし安らぎの中に 堅くとどまる
――この命が彼方に辿り着くまで!


ゲルハルト・テルステーゲンの詩 (How Sweet 私訳)


flower rose

sunrise over the mountain


あなたに打ちつけている風をよけたいという願いから、

進まないといけない時に恐れてしまうことから、

もっと高く登らなければならない時にひるんでしまうことから、


おお船長よ、

あなたに従おうとしている汝の兵士を、


絹のようにすべすべした

この柔弱な自己から解放してください



妥協に向かうひそかな愛から

容易な選択、脆弱さから。



強固なたましいはそうではない


十字架につけられしお方は

このようには歩まれなかった



あなたのカルバリーを曇らせるすべてのものから

おお神の小羊よ、私を救いだしたまえ



行くべき道にわれを導く愛を 与えたまえ



どんなものによっても動揺させられることのない信仰を

どんな失望によっても しぼむことのない希望を

炎のように燃える情熱を



私を土の中に沈めることなく

あなたの薪炭、神の光炎としてください



エミー・カーマイケルの詩 (私訳)



deep valley


沈黙の谷へ下っていった

独りで 薄暗く しんと静まり返った谷へ


どこにも足音はきこえない

まわりには 神と私がいるのみ


わが心の静けさは、

天翔(あまが)ける御使いの

あずまやのごとく きよらかなり



沈黙の谷の静けさのなかで

われの口ずさみし あらゆる歌がきこえてくる


そして その旋律は 

薄暗い谷に どこまでも舞い降りていく

――それぞれの調べが 翼のための言葉をみつけるまで



ああ それが 

大洪水の時の鳩のように

人に平和の使信をもたらすものにならんことを



オズワルド・チェンバーズ(Christian Disciplinesより 私訳)