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彼女のように 心楽しく 陽気に咲く花は 

かつてなかった



塩気にくすんだ砂 わびしい土地




びゅーびゅー 風に吹かれるシダ

かさかさのハマカンザシ

花など どこにも みあたらない 岸辺



その地で彼女は成長した





彼女のように たくましく咲く花は

かつてなかった


丘陵にある ―野鳥の姿さえ みえない―

きゅうくつな岩棚




その上を

四つの季節が 通ってゆく



せわしく 翼をはためかせ

吹きすさび

吹き荒れる 嵐の王



その地で彼女は成長した





彼女のように 満ち足りて咲く花は

かつてなかった



ガリラヤのお方に 心燃やされ、

愛を傾け、

この方に学んだ心




高いところに植えられても 

低いところに植えられても


火の墓 雪の原野にあっても―。




その地で彼女は成長した



Amy Carmichael, Toward Jerusalemより 私訳






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私は悲しみを知っている 

〈彼女の〉その青ざめた顔

その声、その足音も 

よく知っている



招かれてもいないのに、

彼女はよく敷居を またいでやって来る

そして私とひっそり話そうとする



ずっと彼女が嫌いだった

彼女を歓迎したことなど 一度もなかった


彼女に用事を言いつけたこともないし 

彼女に対して心を開いたこともなかった



そして 顔をそむけつつ 冷たく言い放っていた

「おねがいだからここから出て行って」と。



彼女は出ていった でもまた戻ってきた

ぱたぱた近くを飛ぶ はとのように

彼女は しょっちゅう 戻ってきた



でも 翼の音が聞こえてきても 

私は彼女に休み場を与えなかった


こっちに舞い降りて来たがっていたけれど

私は拒絶した



再三にわたる 私のしかめっつらにもめげず

彼女はまた近くに戻ってきた 


そして あるとき

ついに口を開いてこう言った


「私は、あなたの愛するお方の元から

遣わされているんです」と。



その時から 

彼女は 私の大切なお客さまになった

彼女のいかめしさも だんだんと表情から消えていった



人生に起こっていることの意味を知ろうとするとき

彼女は私のそばに座り、


キリストが私にとって 

もっと愛しい方になるよう

私を助けてくれる



でも

彼女の存在によって 主が豊かに与えてくださった宝が

私のもとから

取り去られてしまった



物を言わないお墓の前で

苦悶のうちに ひざまずく私から 

彼女は呻きをしぼりとっているかのよう。



耐えがたい不安という岩の上に 彼女は私を横たわらせ

私をずたずたに引き裂いた


それも一度ではなく、何回も



私が身を震わせ 泣き 憐れみを求めるとき

彼女は 主の方を指し示してくれる



こうして だんだんと 痛みに満ちた心は 

やわらぎ、教えられ

私は愛しい彼女の足もとに座り、

彼女にほほえみかける



悲しみ――

それは 私をむち打ち、私の心を試すために

愛の翼をもって 私の元に遣わされたもの



そう

それはキリストより遣わされし

尊い使者なのです




Elizabeth Prentiss,
Golden Hours: Heart-hymns of the Christian Lifeより 私訳





「健全な聖書信仰に立つ」ある著名な牧師先生が、他の女性と婚姻外の関係をもっていたことが理由で数日前に辞職したということを聞きました。

そして、この知らせをもたらしてくださった方は、次のような祈りの申請を出しておられました。

辞職したこの牧師は、神学的に健全であっただけでなく、相補主義に立つキリスト者でもありました。このような不祥事を聞くと、『その人の教え(神学)がどんなに正統であっても、人は倒れる可能性がある』ということを認識させられます。

私も指導者として立っていますが、みなさんにお祈りを申請します。どうか私が聖く生き、主に近く歩み続けることができるよう祈ってください。そして私が罪に陥ることがないよう祈り支えてください。



これを読んだ時、

ですから、立っていると思う者は、倒れないように気をつけなさい。1コリント10:12


の警告のみことばを思い出しました。

私たちクリスチャンは現在、自分の属する宗派や教理の体系などによって、何百にも、何千にも細分化されています。

でも私は思います。――この「罪」という問題を前にしては、クリスチャンに宗派も境界線も存在しないということを。

オーソドックスであろうが、カトリックであろうが、プロテスタントであろうが、福音派であろうが、聖霊派であろうが、牧師であろうが、信徒であろうが、男性であろうが、女性であろうが、「罪」というこの怪物を前にした時、私たちは皆、おそろしいほど「平等」ではないでしょうか。

皮肉なことかもしれませんが、その意味において、私たちは真に「超教派」ではないかと思います。

自分の罪を甘やかし、それを明るみに出さず、悔い改めず、ひそかに隠したまま生きるなら、私たちは遅かれ早かれ死にます。

みなさんはどうか分かりませんが、私の頭には、そして心には、常に四六時中、罪深い考えや思いが「よぎろう」としています。

でも私はそうしたくないのです。いつも聖い思いに満たされて主を見上げて生きていきたいのです。

それなのに、汚らわしい思いや肉の思いがスルスルと蛇のように私のうちに侵入してこようとします。

そういうわけで、私は、善をしたいと願っているのですが、その私に悪が宿っているという原理を見いだすのです。ローマ7:21



身を慎み、目をさましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたけるししのように、食い尽くすべきものを捜し求めながら、歩き回っています。堅く信仰に立って、この悪魔に立ち向かいなさい。1ペテロ5:8、9a



そのような時、私はつとめてイサク・ワッツのWhen I survey the wondrous cross (聖歌159 さかえの主イェスの)の歌詞を黙想します。

3.あおげや 茨を いただきたもう 主をみてより 
足より 血しおの したたる



私の罪というこの汚らわしく不潔で醜いものを取り除くために、極限の痛さや恥辱に耐えたこのお方を深く想う時、その時、御霊は私のうちで勝ってくださり、汚らわしい思いを亡きものにしてくださいます。

そして新たなる決意と意志を与えてくださいます。

心の中で、あるいは行ないにおいて
あなたに対して不忠実かつ不従順になるよりは、
むしろ、
この身の血を最後の一滴まで流すほど戦います。

魂の友なる主よ、
今こそわたしは完全にあなたのものです。
花嫁の清い愛をもって 常にあなたを慕います。

あなたの霊がわたしを決して去ることがありませんように。
あなたのゲッセマネの苦闘がわたしを支えますように。
然り、アーメン。

  ゲルハルト・テルステーゲンの祈り 1724年



主よ、どうか私たちのうちに巣食うどんな小さな罪の芽も見過ごさず、容赦しないでください。

それらをすべてをあなたの光の下にさらし、明るみに出してください。そしてその罪を悔い改め、断固としてその罪と縁を切る恵みを与えてください。

罪の誘惑に陥りそうになるその瞬間に、私たちが十字架につけられ血まみれになって苦しまれたイエス様を目の前にみることができますように。私たちが倒れず、立ち続けることができるように助けてください。

そして聖く生きることに対する熱烈な願いを私たちのうちにお与えください。

イエス・キリストの御名によってお祈りします。アーメン。






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(ぶどうの実、テサロニケ近郊) 

救いの証し

私はギリシア正教徒の家に生まれました。聖書のことについても、イエス様のことについてもほとんど何も知りませんでしたが、心の中に漠然とした神への畏れは少年時代からあったように思います。

高校三年の時、父が脳梗塞で倒れ、約六か月、意識不明の状態にありました。医者からは「助かる見込みはほとんどない」と言われていました。その時、私ははじめて、神という存在に対し、「父を助けてください」と祈りました。幸い、父はその後、意識を回復し、一命をとりとめました。

大学入学 クリスチャンの女性に恋をする

入試を受け、私はペロポニソス半島にある大学に入学しました。入学してしばらく経ったある日、一人の女性に出会いました。彼女も同じ大学に通う学生でした。私は彼女を見たとき、「この人こそ私の妻になる人だ」と感じました。それで彼女に交際を申し込んだのですが、きっぱり断られました。

私はどうしてもあきらめることができなくて、なぜ断るのかとしつこく尋ねました。

すると彼女は言いました。「私はクリスチャンです。でも高校の時に、私は神様から離れてしまった。それで『大学に入ったら私はぜったいに神様と近く歩む』って決意したんです。そういう理由で、私が交際し、結婚することのできる男性は唯一、神様を愛するクリスチャンの方だけなんです。」

私はその答えに衝撃を受けました。そしてしばらくして意を決し、自分もその教会に行ってみることにしました。

教会に入ると、説教者がメッセージをしていました。(自分には理解できない古典ギリシア語ではなく)、私たちが日常話している現代ギリシア語で聖書の言葉が説明されていて、私は新鮮な驚きを覚えました。

礼拝が終わると兄弟たちが満面の笑顔で自分に近づいてきて、歓迎してくれました。これにも驚きました。

しかしその時、自分の心にはずるい考えがありました。「僕はあくまでギリシア正教徒だ。でもこの教会に通って、(彼女の望むような形の、敬虔な)クリスチャンになった〈ふり〉をしよう。そしてなんとか彼女の心を射止めよう」と。

しかし教会に通い、み言葉を耳にするうちに、私の中でなにかが変わっていきました。まず、悪い言葉が口から出てこなくなりました。そしてある時ついに、私は非常に強く聖霊に触れられる経験をしたのです。

そして真剣に水によるバプテスマを受けることを祈るようになりました。すると、祈って数日もしないうちに、教会の兄弟から、「君は今度の月曜にバプテスマを受けるんだ」と言われました。びっくりしました。

なぜ自分が洗礼を受けたがっていることをこの兄弟が知っているのか全く謎でした。なぜなら私は誰にもそのことを言っていなかったからです。私の中で信仰が確かなものとなっていきました。

そしてついに私は洗礼を受けました。水の中に入った時、体中の重荷が取り去られたように感じました。そして内側から新しくされたのを感じました。

興味深かったのは、周りの人たちも自分の変化に気づき始めたことです。これが単なる主観的な思い込みではなく、客観的にも観察され、認められるものであることを知ったからです。

母に打ち明ける

こうして私は大学の四年間、熱心に教会に通いました。しかし自分が(プロテスタント)教会に行っていることは両親には黙っていました。

ギリシア正教徒は、オーソドックス以外の信仰のあり方を、十把ひとからげに「イェホバデス(=エホバの証人)」とくくり、異端と烙印を押す傾向が強いからです。

しかし復活祭で里帰りした時に、「聖金曜のエピタアフィオスの行進に行こう」との母の提案に対し、私は「お母さん、イエス様の受難を黙想するのに、お墓への行進とか、ろうそくを立てたりするのとか、そういう必要はないと思う。僕は家にいて、家で祈りたい」と答えたのです。

すると、母はその答えに不信を抱いたらしく、その後、矢継ぎ早にいろいろと尋ねてきました。

私は「今が信仰を証しする時だ」と感じ、思い切って母にこれまでのことを全て打ち明けました。すると母は、私が正統派キリスト教を捨てて、異端に陥ってしまったと非常に悲しみました。

母を悲しませてしまったことで、私も悲しみに沈みました。「でも、お母さん、今、僕はイエス様を愛しているし、イエス様が僕のうちで生きているんだよ」と母に言いました。

私たちギリシア人への福音宣教をさまたげているのは「宗教」だと思います。そして「無知」だと思います。

私たちギリシア人は福音についても聖書のみことばについても知らないし、しっかり教えられていないのにもかかわらず、「自分たちこそ唯一の正統派クリスチャンなんだ」と思い込んで(思い込まされて)います。そこに難しさがあります。

ある意味、この地での福音伝道は、仏教圏やイスラム圏以上に困難なのかもしれません。こういった慢心や「思い込み」がまず打ち破られなければならないからです。

結婚と就職

こうして新生し、私はイエス様と共に新しい歩みを始めました。

ギリシアでは、他のヨーロッパ諸国と同様、男女が婚姻関係なしに同棲するのは普通のことです。でも私は聖書を学び、それが間違っていることに気づきました。

そして男性が相手の女性に対し、「結婚」という形でしっかりと責任を取ることが、主の前に正しいことである、ということが分かりました。

それで私は大学卒業後、その姉妹に正式に結婚を申し込み、(共に21歳という若さでしたが)結婚しました。

ギリシアでは現在、40%以上の若者が無職です。どこにも仕事口がありません。私も妻も無職でした。

しかし私たちは主に信頼し、共に祈りました。そして今年に入り、主はすばらしい形で私にホテルのリセプションでの仕事を与えてくださったのです。

最後になりますが、ギリシアのクリスチャンのためにぜひ祈ってください。まじめな信仰者でさえも、目下、現実の厳しさにうちひしがれ、元気を失っています。私たちには今こそ信仰復興が望まれていると思います。

この証しを読んでくださって、ありがとうございました。

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(テサロニケ近郊の町)

青年会での集いに招いていただき、数日間、テサロニケ市およびその近郊の地域に行っていました。

使徒パウロがテサロニケ人の信者に、「主のことばが、あなたがたのところから出てマケドニアとアカヤに響き渡っただけでなく、神に対するあなたがたの信仰はあらゆる所に伝わっているので、私たちは何も言わなくてよいほどです。」(Ⅰテサ1:8)と彼らの信仰をほめていましたが、私たちの出会ったテサロニケの信者のみなさんは、まさにそのような方々でした。身に余る歓迎を受け、また楽しい交わりのひとときが与えられました。

また、昨晩は、そこの教会で皆に慕われているヤニス・ダマスキノス長老(51)と直接お話する機会が与えられました。

長老の歩んでこられた半生および、テサロニケにおけるプロテスタント教会開拓の歴史について、貴重なお話をうかがうことができましたので、それをこれから記事にしようと思います。

ーヤニス長老、こんにちは。まず初めにお伺いしたいのですが、どのような経緯でプロテスタント教会の開拓にかかわるよう導かれたのですか。

ヤ:私は1964年、ギリシア正教徒の家で生まれました。1968年、母が、ディミトゥリアディスというアッセンブリー教会の伝道者を通して信仰に導かれたのが最初です。私は当時、四歳だったのですが、その時のことは今でもよく覚えています。二年後の70年には父も救われ、私たちの家が集会所になりました。

ー長老の牧会されている教会は、Ελεύθερα αποστολική εκκλησία πεντηκοστής (自由使徒ペンテコステ教会)という名前だとうかがいました。この教会の成立事情について少しお話ください。

ヤ:1920年代、ギリシアは戦争による苦境にありました。そのような中、アメリカに移民しそこで福音を聞いて信仰を持ったギリシア人たちが物資を送ってくれたり、いろいろと本国の同胞のために尽力してくれました。

1956年にはギリシア系アメリカ人の伝道者ディミトゥリアディス・ヤニス、続く62年にはクリスィラス・ヨルゴスといった僕たちによりギリシアに福音がもたらされました。65年、ルイス・フェンゴスがアメリカのアッセンブリー教団から独立して、ギリシア土着の教会(自由使徒ペンテコステ教会)をスタートさせました。

その後、前述のごとく、福音がテサロニケにも飛び火し、わが家で家庭集会が始まりました。そして三年後の73年、テサロニケにて最初の会堂が建ちました。

―こういった福音宣教の働きに対し、ギリシア正教会や政府はどのような反応をとりましたか。

ヤ:私たちの教会開拓および福音伝道の働きは、正教側からのさまざまな圧迫を受ける中で続けられてきました。子どもの頃、私たちは「裏切り者」「異端者」と言われ、近所の子どもたちから殴られましたし、教会に投石がなされたりしました。

しかし、このことをお話する前に、20世紀にギリシアで起こった二回に渡る軍事独裁政権のことを少し説明しなければなりません。第一回目は、1936年から始まったメタクサス将軍による独裁政権です。

この前後、ギリシアの各地で信仰復興が起こっていました。1927年にはアテネのペトラロナにて、33年にはディオティアという村で、続く39年にはカテリーニ市のデバスティ村で奇跡を伴う聖霊の顕現があり、多くの魂が主に立ちかえりました。

しかしこういった現象に危機感を覚えたメタクサス将軍は、「異端」政策をとり始めました。これにより、路傍で福音説教することは違法であることが法制化され、説教するには、政府の認可および正教会の祭司によるサインが要ることになりました。

メタクサスの制定したこの法律は、実に1990年まで有効であったのです。そのため、私たちの教会の伝道者たちも、留置所に抑留されたりしました。(しかし大抵、翌日には釈放されましたが。)

また、説教するための「政府による認可証」および教会の代表者名記載は、巧妙な懐柔政策であり、また、(キリストのみからだに分裂をもたらそうとする)サタンの策略でもありました。というのも、この政策を通して、ペンテコステ派は、39年の時点ですでに五つの組織に分裂してしまったからです。

それから、第二回目は、1967年、(ゲオルギオス・パパドプロス大佐等によって起こされた軍人クーデターによって始まった七年間に渡る)軍事独裁政権です。この時期にも、信教や出版の自由は非常に厳しく統制されていたのです。

1996年より、私たちはラジオを通して福音メッセージを伝え始めました。私も毎週木曜日に、聖書のみことばを説きました。しかし、正教会が政府に圧力をかけた結果、2004年にラジオによる伝道番組は閉鎖に追い込まれました。

―テサロニケにおける福音派とペンテコステ派の関係についてお聞かせください。両者の間に友好関係はありますか。

残念ながら、あまり友好関係はありませんでした。

しかし近年、いろいろな苦しい状況を通し、両者の歩み寄りと、協力関係が築かれつつあります。例えば、私はユースの子どもたちを連れて、福音派のサマーキャンプに参加しています。しかし、このような協力関係を一切拒み、「我々のペンテコステ派こそ正道なのだ」と公言する説教者もおられます。私はこのような態度は、ファナティシズムだと思います。

―ヤニス長老、もし今、若者時代に戻れるとしたら、何をしたいですか。もしくは、「これこれは、ぜひとも避けていたかった」、「こうしていたらもっと良かったなあ」と今になって思うことがあったら、教えてください。

ローマ8:28「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。」

このみ言葉通り、失敗や苦しみといった道を私が通ることを神さまがお許しになったこと――そのことに感謝しています。思えば、1970年代、私たちの教会にはあふれるばかりの霊的祝福が注がれました。

しかしその時分、私たちは心のどこかで、「自分たちの信仰がすばらしいから、主は私たちをこんなに祝福してくださっているのだ」と慢心していました。

しかしそれに続く80年代、私たちは、相次ぐ教会の分裂やその他さまざまな問題に苦しみました。しかし、その苦しみを通して、主は私に、神の恵みがなんであるかを教えてくださいました。そして自分たちが本当に何者でもないことを教えられました。

ー最後にもう一つ、ご質問させてください。残りの人生をどのように用いたいと思っていらっしゃいますか。どんなことに時間とエネルギーを注ぎたいとお考えですか。

私は若者たちに神の恵みを伝えたいと思っています。多くの人がこの恵みを受け入れることを拒んでいます。また、律法主義とファナティシズム(狂信主義)に対し、これからも私は戦おうと思っています。

ギリシア・プロテスタント教会の最大の問題は、分裂です。キリストのみからだが分裂することを通し、真の信仰復興が妨げられています。

今、私たちは国家的な危機に直面しており、他の国の兄弟姉妹の祈りをぜひとも必要としています。なにか私たちに対してメッセージがありましたら、ぜひお聞かせください。

ありがとうございました。


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やすらぎを求めている魂へ。




私たちはやすらぎを求めていますが、

往々にしてその求め方を誤っています。



私たちは、

「是が非でも恥辱の深い谷へ下りなければならない、

もしくは、崇高な経験の高みに登らなければならない」

と考えがちなのです。



そういう私たちはあたかも、

部屋に閉じ込められた小鳥のようです。



部屋の中を死にもの狂いで行ったり来たりし、

せわしなく飛び回り、


かの手

――ただ、あなたを窓から、

明るく輝く空に解き放ってあげたいだけの手――

に捕らわれることを拒んでいます。



要は、あなた自身の働きをやめることだけなのです。


すべての奥義は、

「やめる(cease)」という一語にあります。




神の安息のうちに入った人は、

自分自身の働きをやめます。


――ちょうど、神がご自身の働きをやめて

安息されたように。



自己から退くのです。

安息しようと努めることから、

そしてこの先生だ、あの先生だと忙しく駆け回ることから、

退くのです。



疲れ切り、

(愛に満ちた神の守りという)枕の上に寝そべる子どものように、

そこに深々と沈みこむのです。



神に寄りかかってごらんなさい。

神は愛しておられます。

あなたのことを気遣っておられます。



最も良い時に、

神はご介入してくださいます。

そして最善をなしてくださいます。



あなたが主にそうしていただくよう

委ねることさえできるなら、


主はすぐにでもそうしたいと

望んでおられます。


信頼しなさい。そして休みなさい。




まとわりつく罪から解放されたい方、

聖い生活を求めている方、

また実を結ぶ働きを求めておられる奉仕者の方々へ。



こういった経験すべてにおいて存在するのは、

ただ一つの法則です。



それは、それを意志する人にかかっているのではなく、

精進する人にかかっているわけでもありません。



そうです、

それは憐れみを示してくださる神にかかっているのです。



神はからみつく罪からあなたを解放させようと

望んでおられます。



また全き聖潔の人生、

聖霊に満たされた人生へとあなたを導きたい

――そう望んでおられます。



またご自身が買い取られたそれぞれの器を

最大限お用いになりたいと

望んでおられます。



しかし、

あなたのうちにある

高まり、動揺、せわしなさ、興奮といったものが

静められるまで、




主の愛に満ちた働きは

止まったままの状態にあるのです。




F・B・マイヤー Saved and Keptより 
私訳





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今、「祈りのベール」に関する、私のブログの記事を読んでくださっている方は、それぞれ頭の中で、そして心の中で、いろいろな反応をされていると思います。

そして、おそらくは、聖書註解書等も参照され、真摯に探求されている方々も多いのではないかと思います。

その註解書についてなのですが、私は、自分自身が、このテーマと取り組んでいた時、註解書の提示するさまざまな見解に翻弄されてしまっていました。この先生はこう言い、あの先生はああ言う、、という具合に、とにかく迷路に入ったような感じでした。

またその過程で気づいたのは、典拠の明記されていない「推論」にすぎないものであっても、註解書の中では、あたかもそれが「事実」であるかのように断定的に書かれている場合が多々あるということでした。

そこから私が学んだのは、「註解書というのは参考にはなっても、それを無批判に鵜呑みにすることは危険なんだなあ」ということでした。

今日は、下にその実例を挙げようと思います。これがみなさんの聖書研究の一助になれば幸いです!

☆☆

David Bercot, The Theologians Please Sit Down より一部抜粋

使徒時代に実際どんなことが起こっていたのか?――聖書註解者たちは、一見、その「舞台裏事情」に非常に通じているようにみえます。

もちろん、彼らがでっち上げをしているなんて、そんな事ありませんよね?、、でも、そう言ってもおかしくはない現実があるのです。

では、そのことについていくつか実例を挙げさせてください。

まずはジョン・カルヴァンです。彼は1世紀の教会で起こっていたことについての「舞台裏」について次のように書いています。

ここで、(ある程度の蓋然性をもった) 憶測がなされる。――そう、美しい髪をしていた女性たちは、その美を見せびらかすため、頭のかぶり物をぬぐ習慣があったのだ。

それゆえ、こうした悪徳を是正しようと、パウロは良き理由をもって、彼女たちにそれとは反対の考えを提示したのだ――つまりそれでもって男性を情欲に誘惑することは美であるどころか、醜く不作法なことであると。
(ジョン・カルヴァン Calvin's Commentaries



ですから、カルヴァンによれば、コリントの姉妹たちは自分たちの美しい髪を人に見せびらかすために、かぶり物を着けていなかったということなのです。

でも、少なくともカルヴァンは、それが自分の「憶測」であることを認めています。

しかし、1700年初頭の著名な註解者であったウィリアム・バルキットは、コリントで起こっていたことの「内情」について、かなり違った話を提供しています。

〔これは〕偶像に仕える異教の女性祭司や預言者たちへの模倣だったのである。―特に、こういった祭司たちがバッカス(酒の神)に犠牲をささげる時には、彼女たちは顔を覆わず、髪もふり乱し、耳のまわりに髪がまとわりついていたのだ。

そんな中、コリントの女性たちは、こういった異教徒の女性たちを真似しようとして(なぜなら、女性たちはこういったファッションに惹かれ、ぜひともそれを模倣したいと熱望していたからである。)、ベールを取り去り、顔の覆いをとりはずし、自分たちの頭を辱めたのである。

William Burkitt, Expository Notes with Practical Observations on the New Testamant, reproduced in Sword Searcher [CD-ROM])



さあ、今度は、「コリントで起こっていた問題というのはですね、コリントの女性たちが、異教の巫女たちを真似ようとしていた事なんですよ」という展開になっています。これが「本当のストーリー」なのでしょうか。

それでは、今度は、ジャミーソン、フォーセット、そしてブラウンという有名な註解者が何と言っているかをみてみることにしましょう。1871年に出版された彼らの註解書をみると、彼らは彼らでまた違った「内情」を説明しています。

コリントの女性たちは、キリストにある男女の区別をなくそうと、男性との平等を主張し、その結果、礼儀を逸した越権行為に走ってしまい、慣習的な(女性による)ベールをせずに前に進み出て、祈ったり、預言をしたりしたのである。

(Robert Jameison, A.R.Faucett, and David Brown, Commentary Critical and Explanatory on the Whole Bible, reproduced in Bible Explorer 4.0 (Austin: WORD Search, 2006)



さあ、今回はどうかというと、「コリントで実際に起こっていたことは、女性たちが男性との間における社会平等を訴えていたのだ」という話になっています。

この註解書の影響で、他の註解書もすぐにこの見解を採用していきました。例えば、1942年版「Commentary on the Whole Bible」では、この主張が繰り返されています。

聖パウロ自身、キリスト・イエスにあって、男子も女子もありませんと教えた。(ガラテヤ3章、これは1コリントが書かれる以前か直後に書かれました。)

ここで彼が言っているのは、救いは全ての者に等しく提供された、そして霊的立場において、全ては同等だということである。しかしこういった(コリントの)女性たちは、その教えを「男性に対する社会的従属はことごとく取り除かれるべきである」と受け取ったのである

(A Commentary on the Whole Bible, ed.J.R.Dummelow (New York: The Macmillan Co., 1942), 909)



つまり、今までの見解をおさらいしてみると、最初は、コリントの女性たちが自分の美しい髪を見せびらかしたいというのが問題であるとされました。

その次には、コリントの姉妹たちが異教の巫女を真似たいと熱望したことが原因だったとされました。

それから次には、コリントの姉妹たちは実は、初代フェミニストで、集会において男性と同じ権威を求め、これを主張していたことが問題だったのだとされました。

不思議なことに、舞台裏の「本当のストーリー」というのはころころ変わり続けているのです。

(David Bercot, The Theologians Please Sit Down p141-142)



参考になる記事:
Sources, Sources,,,What Are Your Sources?





無題 (5)




イエス 贖い主 


ただ一人 

わがたましいを鼓舞したもうお方



わが冷たさのうちに 

あなたの火をともし


わが命を 赤々と燃やしたまえ




わが障壁をうちこわし、

あなたの近くへ 

そうです

もっとあなたの近くへ 

私を引き寄せてください




あなたを知りたいのです

あなたを知ることが いのちなのですから




わがうちを深め

うわべだけのもの

皮相的なものを

取りのぞいてください




そして

うつろな迷いから

わが魂を解き放ってください




わが内なる人を 

すみやかに ほどき


不誠実の糸を 

ことごとく引き抜きたまえ




汝の誓いは 私の上にあります

ああ 真実をもって 

あなたに仕え



全き愛で あなたを愛し

純潔のうちに 

あなたに従う者とさせてください




燃えよ 燃えよ 炎よ

おお風よ 

余すところなく 吹きつけよ

 

おお剣よ 

わが肉を目覚めさせ 

これを打ちたまえ



おお 
 わがうちに

汝のたましいの産苦を見、


わが主が 

満足されんことを 




Amy Carmichael, God's Missionaryより
私訳






私の友人のデボラ姉妹は、米国ヴァージニア州にある保守バプテスト教会(神学的には改革派)に通う信徒です。かぶり物に関するこの教会の公式見解は、「1コリント11章1-16節は文化的に解釈されるべきであり、今日に適用されるものではない」です。

さて、教会の先生方に人一倍敬意を払っているこのデボラさんが、いかなる葛藤を経て、祈りのベールを実践する決意をするにいたったかについては、ここの証しをお読みください。

その彼女から昨日、次のような返事をもらいました。

私のことを想ってくれてありがとう。昨日(主日礼拝)はつらい日でした。

私の教会の(非常に尊敬されていて学識もある)方が、再度、1コリント11章のかぶり物の箇所について私に意見を述べられ、(声の調子やジェスチャーによってわかったのですが)、私のしていることは愚かなことだということを私に暗に示しました。

この方は、「女性の髪=かぶり物というのがパウロの真意だった」と信じていて、ここの聖句は、文化的に限定された期間のものであると考えておられます。

私は今日、もう一度、この箇所を掘り下げてみました。そしてジョン・カルヴァンが『キリスト教綱要』の中で、「(かぶり物のこの習慣は)、各国や時代の習慣に応じて、さまざまに適応されるべきである。」と記してあるのを見つけました。

言うまでもないことですが、私にとって、この旅路はけわしいものです。こういうことを切り抜けることができるほど強かったらって思うんですが、でも私、弱いです。私は今、内心疲れてしまっています。そしてみなさんが、私に代わって、祈ってくださっていることを感謝しています。
デボラ



このデボラさんのメッセージに対して、ジェレミー・ガーディナー氏は次のように答えています。

デボラ姉妹、あなたのことをお祈りしています。

はい、カルヴァンに関しては私も徹底検証し、彼が文化的解釈をしていたという結論に私も達しました。

Ⅰコリント11章について言及してあるカルヴァンの三つの説教録も読み、そのことを確認しました。

もしあなたの教会のその先生が、カルヴァンを大いに信奉していらっしゃるのであれば、その方に次のことをぜひ知っていただきたいです。それは、カルヴァンはまた、「女性の髪=かぶり物説」をも拒絶していたということです。これに関し、彼は次のように言っています。

「『女性の髪がかぶり物の代わりになる』と言う時、それは、『女性に髪がある限り、それだけで十分』ということを意味しているわけではない。」(ジョン・カルヴァン、Men, Women, and Order in the Church、p53)

1コリント11章で言及されているかぶり物とは本物のベールのことであり、今日にも適用されるものであるという立場は、二世紀後半までその源流をたどることができます。

それに対し、文化的解釈というのは、16世紀になるまで姿を現したことがなく、「かぶり物=長い髪説」にいたっては、19世紀後半になるまで存在しなかった見解です

ですから、このように歴史をみても、分は私たちの方にあります。また解釈学的にも私は強固にそれをバックアップすることができます。


以上、これを補足資料として【公開レター】のシリーズに付け加えておきます。


追伸)
このテーマに関する参考文献のご案内です。

無題 (4)

デイヴィッド・フィリップス著 Headcovering Throughout Christian History: The Church's Response to 1 Corinthians 11:2-16 (Covered Glory) アマゾン・キンドル版 定価351円

書評(アマゾン・ブックレビューより)
2014年9月15日
 私は最近、本書を読みましたが、類書と比べても非常に詳細な検証がなされていました。本書の焦点は、神学的というよりも歴史的なものにあり、教会史全体を通して、かぶり物の教えを支持し教えてきた人々の言明が直接、引用されています。分かりやすい構成、引用のスタイルなどが優れているだけでなく、それらが年代順に配列され、源泉資料から採られていることもありがたいですね。この美しい教会の慣習について話し合い、また説教する上でも、ぜひとも活用したい力作です。




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(アメリカ開拓時代の女性 『パイオニア』、"The Pioneer"by Robert T.Barrett)

バプテスマのヨハネは開拓者でした。聖霊に満たされた彼は、宮殿の中でぬくぬくと日向ぼっこをしていたのではなく、「荒野」に現れ、主の通られる道をまっすぐにしようと奮い立ちました。

同じように、このレターを読んでくださっているみなさんお一人お一人も開拓者です。パイオニアです。

私たちは自分の力ではなくして、御霊の力により、これまで道のなかったところ (あるいは道がふさがってしまっていたところ)に道を切り開いていくのです。

私は単刀直入に言います。21世紀の今、1コリント11章の祈りのベールを実践しようとしているあなたは、――望むと望まざるにかかわらず――イデオロギー戦争の最前線に立たされます。いえ、戦いはイデオロギーに限ったものではなく、本質的にこれは霊的な戦いです。

前回のレターでSanaeさんが言っておられたように、私たちが御言葉に従い、ベールを着けるその行為は、「たとい世の中がどのように動こうとも、私は聖書の神を信じます。そして主なる神のお定めになった創造の秩序に従います」という信仰表明であり、マニフェストなのです。

そして聖書が永遠に変わらない神の言葉であることに対する、私たちの体を張った愛の証でもあります。

私たちは人目を気にする自分の肉を十字架につけ、内に外にあふれる「さまざまな思弁と、神の知識に逆らって立つあらゆる高ぶりを打ち砕き、すべてのはかりごとをとりこにしてキリストに服従させ」(Ⅱコリ10:5)、主の掟を愛し、これに従います。

ベールを着けることは、私たちを古めかしく「保守的」にするものではありません。また私たちを小さく縮こまらせるものでもありません。

私たちは今、どうしても立ち上がる必要があります。

どのようにしても、どんな代価を払ってでも、この道を切り開き、前進させなければならないのです。つまり、私たちはパイオニアになるのです。

今、これを書く私は、自分がある大きな力によって、内側から突き動かされているのを感じています。

私は今、あなたの理性や常識に向かって語っているのではなく、私のうちにおられる御霊があなたの魂に直接語ってくださるようひたすら祈りながら、これを書いています。

どうか永遠の神、私たちの創造主、そして救い主イエス・キリストご自身が、あなたに内なる確信を与えてくださいますように。

あなたの霊の目が開かれ、1コリント11章1-16節に書いてあることの意味とすばらしさに感動が起こされますように。

土砂崩れのような霊的危機の時代にあって、私たちが御言葉に従い、この小さな一点を死守することができますように、どうか主よ、力と勇気と信仰を与えてください。

そして私たちの従順を通して、それぞれの場所で、回復が起こされますように。

イエス・キリストの御名を通してお祈りします。アーメン。




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