Cold_Mountain_Rhododendron_painting.jpg



わたしを透きとおる空気にしてください。




どんな色をも通して、


歪めることのない空気にしてください。




あってない わたしという空気を通して、


神の愛の美しさが輝きますように。





神の愛の力づよい栄光、


神のみこころの深いあわれみ、


絶えることのない愛の光が




この世に射しこみ、


このあなたの世界に 満ち溢れますように。












スポンサーサイト

cc-field-w-deer-plaas_1.jpg


さあ、

あなたを長く捕えていた悲しみと悩みから抜け出て、

胸いっぱい呼吸するがよい。



あなたの上にかかっていた

暗い試練の時は

終わりを迎えたのだ。



やがて夜の闇は 

すべて過ぎ去る。



そこにすごした不安な歳月のあいだ、あなたは、

あなたの神の真実を

苦難をとおして知った。




あなたが誓ったことを、

いま幸福のふところで、

勇ましく実行に移すのを忘れてはならない。




あなたとともに多くを耐え、

その真価を示した人々を忘れてはならない。




あなたに敵して責め悩ました、

その人々をこそ忘れよ。



これは、

みずから選ばなかったのに、

神の御用を果たせられた人々である。




人生の至上の宝。

それは幸福ではない。


いな、浄福を得ることこそ。




幸福は瞬時のもので、

われらとともに

葬られるであろう。



浄福は

限りなき永遠から響き出る

一つの調べ。



その国にて生きるため、

われらは すでに


この時の世にて

備えをする。








Uchimura_Kanzo.jpg


われは後ろを見ない。前を見る。


過去を顧みない。未来を望む。



前へ前へと限りなく進む。


ただこの一事を努む。



すなわち、後ろに在るものを忘れ、


前に在るものを望み、



神がキリストによりて

上へ召して賜うところの褒美を得んとて、


目標(めあて)に向かいて進む。




われは下を見ない。上を見る。


地を見ない。天を仰ぐ。



われは星を見る者(star gazer)である。


わが国は天に在る。



われは、

わが救い主イエス・キリストの、


そこより降(くだ)りきたるを待つ。




われは人を見ない。神を見る。


われは人の批評に耳を傾けない。



われはわが霊魂を、


義をもってさばきたもう

わが造り主に任せ奉る。




われは自己(おのれ)に省みない。イエスを仰ぎ見る。


自己に生きんとしない。



われを愛して、


わがためにおのれを捨てし者、


すなわち神の子を信ずるによりて


生きんとする。



この地上には、永遠の都はない。きたらんとする都こそ、わたしたちの求めているものである。ヘブル13:14

For here we have no permanent city, but we are looking for the one which is to come. Heb 13:14





無題 (8)


おおキリスト、

私はあなたにもっと近づきたいのです。



あなたご自身を、

どうか どうか 私に顕してください



そしてこの心を満たしてください


そうすれば わが心は 

あなただけのものとなるでしょう



一部分ではなく 

あなたのすべてを求めています 



あなたは 

私のものなのでしょうか

 

ああ 私が知られているように 

あなたを知りたい



胸中に あなたへの愛が燃え立ち 

私はいいます―



どうぞ 私の心にいらして 

あなたの住み処となさってください



あなたの神々しい御顔を

あおぎ見るとき



さんさんと太陽の光が 照り輝く



あなたが 御顔をそむけられるなら



喜びは 

もはや 喜びでなくなる



夜の暗闇は 

昼をおし殺し



たえまない悲嘆の

えじきとされる



むなしい気ばらし、戯れ、、


ああ 私は あなたを見失ってしまった



あなたを失い 嘆き
 
そして 

ついにまた 

あなたの喜びを感ずる



おお あなたは わがいのち、

わが至福、

わが生きる由(よし)



この世のどの友より 愛しいお方



あなたの愛を 

いったいどう語ることができるのでしょう



そして

私が 語らなかったら? 



涙でいっぱいの目が 

上を見上げ



私に代わって 乞い願ってくださる天の鳩を 

しかとこの手に引き寄せるとき



すべてを見通す 

あなたのまなざしが


言葉にならない 

この祈りを読み取ってくださる




あなたを これまで以上に 

慕い求めています



聖く恍惚とした 歓喜のうちに



愛しく 尊い あなたの御名が


私のうちで 

もっと貴いものとなりますように



あなたの御約束を想います



あなたの愛は 

私の大胆さを

お責めになりません



ああ 賛美が 

私の呼吸となりますように



そして肉の命が 

たえず 死に渡されますように



あなたは 

人目に隠されし いくつかの魂を


燃えるような情熱をもって 

ご自身のものとされました



あなたが 彼らに与えられたもの――

ああ どうか 

それを私にもお与えください



彼らの気高い献身 

静かに罪を治める その信仰

 
この地を天国のようにし
 
あなたの御顔を 

たえず見上げるその恵みに


私も ならうことができますように




彼らは 〈この道〉を通って 

あなたに会いに行きました


―今も 巡礼の旅人が歩く道を



そして すべてを ちりあくたとみなし

永い忍耐をもって


このお方だけを 求め 

求め続けました




痛みと喪失を通して 

あなたの元に

向かわせてください



わが主の十字架の下に ぬかずき

先人たちの跡に

ならいつつ。



イエス、最愛のお方



今、あなたの御答えを

感じていますー


あなたは 

私のものであると!


Elizabeth Prentiss,
Golden hours: Heart-hymns of the Christian lifeより
私訳




mahon-young-trees.jpg

事実、この世が自分の知恵によって神を知ることがないのは、神の知恵によるのです。

生まれながらの人間は、神の御霊に属することを受け入れません。それらは彼には愚かなことだからです。

また、それを悟ることができません。なぜなら、御霊のことは御霊によってわきまえるものだからです。
1コリント1:21a、2:14



上の聖句に関連した、とても興味深い短編ストーリーがあります。

このお話はウィリアム・ローのThe Power Of The Spiritの中に挿入されているもので、「この世の知恵は神の御霊を拒む」という章に載っています。

おもな登場人物は二人で、一人はAcademicus、もう一人は Rusticusです。

このラテン語由来の名前を、(この名に込められている意味をかもし出すために)私はあえて和風にアレンジし直してみました。

Academicus →咢堂研鑽(がくどう・けんさん)氏
Rusticus →小村訥吉(こむら・とつきち)氏

なお、本書は18世紀にかかれたものであるため、「新約以来、1700年に渡って」というような表現がありますが、現代の読者にとっての読みやすさを考え、翻訳の際、「2000年に渡って」と書きましたので、どうぞご了承ください。

☆☆☆
imagesOL6LXDQ2.jpg

ある日、咢堂研鑽氏が、友人であり著者でもあるウィリアム・ローに次のように語りました。

咢堂:大学で学位を取った後、私は自分の尊敬する何人かの神学者に、今後の神学研究のメソッドについて相談しに行きました。

いやあ、いろいろ教わりましたよ。こういった篤学な先輩方から教示していただいた内容をあなたにお伝えするには、かれこれ半日はかかるでしょう。

ある先輩は私におっしゃいました。「君、ヘブライ語が全てだよ」と。

ヘブライ語を習得した上で旧約を読むと、この書は開かれた本になるというのです。そしてこの方は、ヘブライ語聖書用の辞典、批評論文、註解書などを山ほど紹介してくださいました。

そうかと思えば、別のある方は、「やはり何といっても、ギリシア語原典ですよ」とおっしゃいました。

曰く、ギリシア語を知っていると、多くの聖書箇所におけるヘブライ語の問題点を正すことができるのだと。そしてそれを弁証する数々の研究書を列挙してくださいました。

また著名な教会指導者の何名かは、「咢堂くん、教会史が肝要だぞ」と強調されました。

その方々によれば、私はまず教父研究から始め、その後、各世紀ごとの思想史を学ぶ必要があるとのことでした。またその際、各ローマ皇帝についての研究も軽視してはならないと。

歴代皇帝に関する研究は、それぞれの治世における教会の実状に、大いなる光を当てるものだからだそうです。

それに加え、「歴代の公会議や、各時代の教会法についての詳細研究も欠かせませんよ」と私は念を押されました。

――そして、「これらの研究によって、トレント公会議の甚だしい堕落の実態を目の当たりにすることになりますからね!」と付け加えられました。

また、別のある方(この先生は、古代のことに関してはあまり好意を持っておられず、合理的キリスト教に傾倒しておられるようでした)は、過去に遡るのは、宗教改革までで十分だとおっしゃいました。

その中でもカルヴァンとクランマーはとりわけ重要であり、チリングウォースとロックの著作集をぜひとも座右の銘にするよう、薦められました。

old-hardcover-books-on-bookshelf.jpg

それから、ジェームス王治世下における、(反教皇の論陣を張った)改革者の著作集も全巻そろえるのが望ましいだろうと言われました。

「そうして初めて、君は、我々の最大の敵に匹敵する者となれるのだよ」とその方は請け合ってくださいました。

ちなみに、最大の敵とは、教皇側の祭司たち、および近代理神論者たちのことだそうです。

私の師は、非常に典礼を重んじる方です。師は、私が収集できる限り、できるだけ多くの古代典礼集および関連書を手に入れるよう指導してくださいました。

師は長年にわたり、典礼に関する研鑽を積み、いつどの時代に、どの条項が加えられ、あるいは削除されたのかといった詳細に関しても熟知しておられました。

先生には海外に研究者の友人がおり、その方は典礼の古代写本を検証しておられるそうです。

そして眉間にしわを寄せ、私にこうおっしゃいました。

「われわれの聖餐のサクラメントには、根本的な欠陥があるのかもしれない。というのも、葡萄酒に混ぜるべき少量の水が欠けているのだよ。ああ、これが私の懸念していることなんだ。」

もう一人の教養高い友は、私にクレメンス教令が本の中の本だと言いました。

曰く、新約聖書の中の不明確な箇所は、この本によって真の秩序と形式を見いだすことができると。

また、十分に警戒心を持って読むならば、アリウスおよびソッツィーニ派の著作集もあるいは有益だろうとおっしゃいました。

the-bookworm.jpg


私が相談に行った最後の方は、異端の興亡史、および異端諸派の人物伝およびその特徴についての歴史研究をするようアドバイスしてくださいました。

「こういった異端の歴史を研究することで、私たちは――実際には把握するのに何年もかかるような現象を――わずか数ページという分量の中で理解することができるのだ。つまり、凝縮された形で、真理と誤謬を識別することができるようになるんだよ。」

またこの方は、決議論者や主要な神学者の著作にも通じておく必要を説いてくださいました。

この先生によれば、こういう学者たちは事物を根本的なレベルで議論しており、あらゆる善と悪を詳細分析しているのだそうです。

そして、こういった知識は、私が牧師になった際に、非常に有益なものとなるだろうとこの方はおっしゃいました。

こういった一連の助言を受けた後、私は朝早くにろうそくを灯し、夜更けまでひたすら研究に励みました。


こうして数年が過ぎました。

そんなある日、小村訥吉(とつきち)君が、田舎からひょっこり出てきたのです。彼は私の生活ぶりを一目見るなり、こう言いました。

「咢堂さん、もしあなたが二千年前に生きていたとしたら、あなたは今、私が立っているような場所と全く同じ所に立っていたはずです。

ほら、知ってのとおり、私は読み書きができません。実に無学な者です。だから、この二千年間に作り出された何十万という教理や神学書は、私にとって存在しないも同然です。

でもあなたに申しあげますが、もしあなたが二千年前に生きていたら、あなたは――今の私と同じように――こういった全てのものから免除されていたはずです。

どういうことかと言いますと、ほら、あなたは非常に学のある方ですが、その当時は、(今あなたが研究している数々の著作は)一冊たりとも存在していなかったわけですよ。

だから考えてみてください。

もしもですよ、あなたが初代クリスチャンだったら――つまり、こういった神学書の数々が書かれる以前に生きた原始クリスチャンだったとしたら、そして、この上なくすばらしいキリストの弟子だったとしたら、、、

あなたは、今ご自分がなさっているような労苦をせずに済んだはずではありませんか?違いますか?」

☆☆

ここまで話した後、咢堂氏は、私(著者)の方を見ておもむろにこう言いました。

「この正直な訥吉君から受けた素朴な指摘によって、私がどれだけ益を受けたか――ああ、これを表現することができません!

二千年に渡るキリスト教の教義、論争史、異端諸派、分派、教会法令に関する知識に通じようとやっきになることに、果たしてどれほど益があるのだろうと、私はその時、ハッとさせられたのです。

――悪魔や血肉、死や地獄からの解放者としての――生けるキリストの力というリアリティーを学ぶのに、そして、「上よりの新生といのち」を受けし伝道者とされるにあたって、それらの学究は果たしてどれほど私の益になっていたのでしょうか。

というのも、これはキリストによる神聖な働きですから、この働きを自分自身の魂のうちで真に体験し、それを証しすることのできる人だけが、真実にして有能な伝道者なのです。

――学究という迷路――。こういった一連の観念、出来事、人の諸意見という、暗く棘だらけの荒野は今や、私自身の救い、そして、キリストご自身および、神の御霊を受けることに関する私の関心に対し、意味を持たなくなりました。

やみくもに知識を増やそうという盲目な欲求が、これほど明瞭な真理を知ることを阻んでいたのです。

キリスト教の書籍に関して言えば、私は今後、(御霊の内住および働きを通した)イエス・キリストの内的力、および贖いについて、私の心に訴えかけてくる本以外は価値を置かないだろうと思います。

それどころか、祈りのうちに私が神に直接、願い求めるもの――

つまり、自分の本性の中に潜む悪を一層忌み嫌い、それに対して抵抗するにはどうすればよいのか、

自分の内にもたらされた超自然的な新生によってもたらされた神聖ないのちの、より豊かな働きをいかにして得ることができるのかという願い、、

――そういった願い以外のものは、上のような書籍からでさえも、もはや求めることをしなくなくなるだろうと思います。

そうです。実にそれ以外の一切のことは、無駄であり、ちりあくたなのです。


―終わり―

、、キリストは神の力、神の知恵なのです。

私のことばと私の宣教とは、説得力のある知恵のことばによって行なわれたものではなく、御霊と御力の現われでした。

それは、あなたがたの持つ信仰が、人間の知恵にささえられず、神の力にささえられるためでした。
1コリント1:24b、2:4、5

こういうわけで、私たちは、、絶えずあなたがたのために祈り求めています。どうか、あなたがたがあらゆる霊的な知恵と理解力によって、神のみこころに関する真の知識に満たされますように。
コロサイ1:9




imagesSQVYQCBE.jpg


信仰は冒険なしには成立し得ない。


然し、その冒険は、理論的にのみ不安なるものであつて、

実践的には不可抗的に安定である。


断じて冒して起つ時、信仰はもはや何の危惧をも持たない。


彼は冒さざるを得ずして冒し、

信ぜざるを得ずして信ずる。


、、かくの如くにして、

神について我らの体験し得る確かさは、

信仰への決意を通して初めて湧く所の体験にあるのならば、


宗教とその信仰とは

その根柢に於いて、

厳密に個人的なる内経験であらざるを得ない。


信仰は一人一人の身みづから体しなければならぬ実験である。


如何に偉大なる聖者と雖も、自己の体験を以て

他の者の体験を不用に帰せしめる事は出来ない。


、、神に対しては誰もが単に受動的なる立場を持するわけにはいかない。


神を信じ得んと欲するか。


然らば敢て身みづから起たねばならぬ。


身みづから一身を賭して

信仰への冒険を断じなければならぬ。


此個人的なる親しき冒険の実践を廻避しつつ、

猶且つ神についての確かさを把握せんとするが如きは、


水に入らずして水泳に熟達せんとする者よりも、

より以上に虫のよき注文である。


断じて起つの勇気と熱心とのないものは、

終に信仰の安住と歓喜とを体し得べくもない。


その例証は、イエスの伝道を録したる四福音書を通読して見ただけでも、

随処に之を発見し得るであらう。


、、神は自を絶して他なるもの、

その意志は人の我意を絶して他なるものである。


故に我らが実践的に神に近づくべく決意する時、

我らの意志の方向も亦、

我意を絶して他なる方向になければならぬ事は確かである。


、、我らが自己一個に執していてはならない事だけは、

極めて明瞭確実である。


故に信仰の冒険の第一歩は

棄私であらざるを得ない。


、、然しそれは他者を求めての棄私であつて、

絶望的な自殺ではない。


故にその棄私の断ぜられる瞬間に於て、

棄てられたる己れは、

新たなる生命に甦るのである。


The-sprout.jpg


、、然り、他者の体験に於て生長する。

信仰に於て生長する。

生長せずんば萎縮する。


進むか退くか、我らの生命は精神的にも身体的にも、

一瞬時として静止しない。


随って又信仰の冒険は、

ある瞬間を限りとして完了し、

それで爾後いつまでも有効であるような、

そういふ〈ひと仕事〉ではない。


モエリケは愛は不断の冒険だとうたつた。

フィヒテは「愛するが生くるなり」と断じた。


然らば生くることは不断の冒険でなければならぬ。


げに人生は不断の冒険である。


故に信仰に生くるの人生は、

不断に私を棄てて他者を求むるの冒険ではあらざるを得ない。


それが神を愛するという事である。


そうやつて不断に愛の冒険を冒すとき、

我らは次第に神を識るの智慧に於て生長する。


而して愛の冒険の不断である如く、

それに基く他者の体験に於ての生長が不断である如く、


その如くに又、我らが信仰の生長は、

不断にして、決して完了しないであらう。


神は僅々、五十年七十年の体験に於いて了智せらるべく

余りに偉大にして測る可らざるものである。


神は畢竟するに識られざる神である。


然り、彼が識られざる神なるが故に、

我らは只彼を信じて険を冒すのだ。


信仰は決して了智ではない。

神を認識する事ではない。


神を見るの神秘的体験を持つ事ではない。

実践的に神を求める事である。


神を求めて私を棄てる事である。

起ちて父のもとに往く」(ルカ伝15:20)ことである。


、、まことに若し神の眼を以て見るならば、

真理は既に完き全部であるかも知れない。


然し人の立場からは、真理とは宿題である。理想である。


日夜希求し、

刻々実現せらるべき価値であり、生命である。


imagesBYCY865W.jpg



教理(ドグマ)だけで何故真理を伝へ得ないか。


それは活ける真理を

死せる型の裡に独占しようとするからである。


信仰が信仰箇条中に封ぜらるる時、

何故宗教に生命がなくなるか。


それは活ける宗教的真理を、

死せる固定箇条中に監禁し、

信仰の自由なる生長を阻止するからである。


「神は人の手にて造れる殿に住み給はず。」


人智が如何に進まうとも、

人の側に於いては問題は決して尽きないであらう、


宿題は決して終らないであらう、

真理は決して完了しないであらう。


斯して永遠に発展し、顕現し、生活する所の統一的動向、

その生命、

その活潑々地たる経営、

それが真理である。


そうしてそれが為めの絶えざる努力と労作とが

人の使命である。


神をそのあるがままに見究めることは、

神にのみ可能の事であって、

人の力にない事である。


故に「今われらは鏡をもて見る如く見るところ朧(おぼろ)」に、

「今わが知るところ全からず」であらざるを得ない。


唯「されど、かの時には

顔を対(あは)せて相見ん」と期待し、


「されど、かの時には

我が知られたる如く、全く知るべし」

と信ずるのが信仰である (コリント前書13章終り)。


、、信仰による体験が持つところの、

そうした超主観味、

或ひは客観的確実性が、

どれほど深刻に凱切に体感せられるか、


それが我々の実践生活のみならず、

我々の認識の世界にさへ、

初めて強固なる基礎と確からしさとを与へるものであるという事は、


未だ起つて信仰の冒険を断ぜざる人に向かつては、

之を説明し得べくもない不可思議である。


、、若し我らにして他者を求めつつやまないならば、

我らの衷は日に日に私を減じて、

彼の他者の印象を

深く濃くして行く事であらう。


(三谷隆正 『信仰の論理』 七、信仰の本質、八、信仰の冒険の内容、より一部抜粋)


無題 (4)

三谷隆正著 『信仰の論理』 六、他者の体験より一部抜粋


およそ人という人にして、何らかの形において名誉心を持たないものはあるまい。

その名誉心とは如何なる心であらうか。

何が名誉の内容であらうか。


結局、自己一個の存在が己れ自身に対してのみならず、

他に対しても意義を持ち、価値を有するものであるといふことが明確にされること、

その事が名誉の内容であると私は思ふ。


自己一個の存在が、己れ自身の為めに役立つの外、

終に他に対して何の意義をも価値をも持たないものであるならば、

一己の存在は空の空なるものである。


、、おほよそ我々が我々の意志を縛るべき何ものをも見出さないとき、

天の下に我が聴くべき意志とては、

自己一個の意志の外何ものもない時、

我が胸中の淋しさと不安とは怖るべき程度のものである。


、、反之、一己が身を投じて奉仕すべき対象の与へられてある時、

一己の意志を縛るべき大いなる意志の見出されてある時、

我が前に我が一身を献げて拝跪すべき他者の姿をありありとおろがみ得る時、

その時に一己は、謂ひ難きの力と平安と満足とを得、歓喜に充ち、希望におどるのである。


愛のきずなは我等を縛るが故に甘美である。


神は我等を強制するが故に、然り、

絶大の力を以て、我等欲せず、我等意識せざる間に、

我等の知らざる方へ強ひて我等を導くが故に、

我等が安心立命の大盤石たることを得るのである。


、、已むなくモーゼは起つた。神に強ひられて起つた。

その大事業は決してその野心の産物ではなかった。エホバの意志に対する服従の産物に外ならなかった。


然りモーゼの力の源は服従にあつて自恃になかつた。

エホバに対する絶対服従にのみあつた。その他力にのみあつた。


同じ服従と同じ他力とが、イエスにとつてもその力の源であつた。

、、些(すこし)の私をもとどめず、

全身全霊ただ神の命のままに行動したのがイエスであった。


彼自身は能ふべくんば此苦き杯を免れ度いと願った。

然し神の意志は十字架にあった。


故に彼は神の意志に従つて十字架に上つた。


その一生を通じてイエスは神に強ひられたる人であつた、、そうして起つた。そうして力溢れた。


揺籃より十字架まで、彼を導き彼を支へたるものは、神以外の何ものでもなかつた。


、、イエスはその絶望の極に於ても猶「わが神」と叫んで、決して他の何者にもすがらなかった人である。

そこに彼の力の秘訣がある。

IMG_0140-500x333.jpg

如此して私は、我に或る大いなる他者を思念し感得するのみならず、

私の僅ばかりの来し方をかへり見て、そこに如実に他者の他力を体感し得る。


その来し方を彩る大なる転機にして、私が自ら計画し、

その計画した通りに成就したのであるものは、殆ど一つだにない。


私は私の一生を導くものが、私自身の思案工夫でなくして、

或る大なる他者の力であることを実感する。


私は、私の私意私案が、私の為に大なるもの、力あるもの

又貴きものをもたらして呉れた事のあるを知らない。


私の私案は、いつもつまらぬものであつた。

徹底せぬ欲求であつた。

妥協的愚案であつた。


偶々(たまたま)その愚案の実現せられた時、

私は自意を就げながら、猶不満であることを免れなかった。


然し、私のその愚案が紛砕せられて、

思はぬ痛苦が私の身に臨んだ時、

その時に私は、予期せざりし満足と激励と感謝とを

己がものとすることが出来た。


私は私の大なる幸福と、人の想に過ぐる満足とが、

決して私の私案によつて招来せらるるものでなく、

私の願はざる苦痛と思はざる艱難とを通して、

他より与えらるるに相違ないと信ずるようになつた。


私は最早、私自身の計画の成就されぬ事に失望しない。


私は、私を導く力が、

私自身よりは遥かに大に、遥かに賢くあり、

私が私自身を愛する以上に

強く且つ正しき愛を以て私を包む、

彼の他者の力と智慧とであることを信じて、

安んじて勇躍して、人生てふ不断の冒険を冒したく思ふ。


、、単に無限を想ふとか、

絶対普遍なるものを思念するとか、

敬虔なる感情を以て大いなる者の前に額く(ぬかずく)とかいふだけの事では

宗教の根柢たり、信仰生活の動力たるべく、

余りに力弱く且感傷的である。


信仰は智識ではない如く、また感情でもない。


ただ誠実なる意志とその具体的実現に伴ふ、

他力の実践的に如実なる体験、

それが活ける信仰の活ける基礎である。


信仰の基礎は如斯(かくのごとく)に、個人的である。


宗教は終に一般的概念を基礎として立つ事を得ない。

又単なる受動的感情を以てその根柢とすることを得ない。


(三谷隆正『信仰の論理』六、他者の体験、p56-67より一部抜粋)


下の賛美は、2008年にジョエル・ホースト兄弟が作詞・作曲したものです。

その日の朝、ある人が、「○○君はかなり変わり者だよね」とジョエル君の友人(クリスチャン)のことを揶揄して言ったそうです。

ジョエル君は農場に向かう道すがら、「○○が変わり者なら、僕だって変わり者ってことになる。だって、僕も彼と同じ考えと信仰をもって生きてる、、、」と物思いにふけっていたそうです。

そうして農作業を始めたとき、心の中に、新しい歌詞が湧き出てきました。そして、「そうだ。イエス様のために僕はラディカルな者とされたんだ!」と元気が出てきたそうです。

夜にはメロディーも与えられ、その日以来、この賛美(A Radical for Jesus)は、彼のテーマ・ソングになりました。


1.僕は知っている。

自分のことを変わり者だなって思っている人がいることを。

そしてラディカルな人だと。


あるいは僕のことを狂信的って思っている人もいるだろう。


そんな時、僕はいつもこう答える。

「友よ、もし君の言い分が正しいのなら、

それなら、僕は確かにラディカルになったんだ。

――光の中を歩むことによって。」


コーラス:

おお、イエスのためのラディカル者!

それこそ僕がなりたいものだ。


主の掟を守り、

それに誠実に従うことによって。


「もしわたしを愛するなら、わたしの掟を守りなさい」

って主はおっしゃったから。


だから、僕はこれからもラディカルな人でいよう。

イエスの御手を握りながら。



2.みんなと違っていたいし、目立ちたいから

あえて違う道を選ぶ人もいる。


みんなが通ったことのない道を

通りたいって彼らは思っている。


もちろん僕は彼らのようには考えていないけど、

やっぱりラディカルであることには変わりがない。


なぜ僕がラディカルかって?

それは、僕がラディカルな掟に従っているから。

(コーラス)



3.君は僕がクレージーだって思うかもしれない。

「あの人、ちょっと行き過ぎているんじゃない?」って。


君は変に目立ちたくないだろうし、

現状維持を望んでいるのかもしれない。


でも最後の審判の日に、

僕は 

主から退けられるんじゃなくて、


こういう言葉を聞きたい。

「よくやった。良い忠実なしもべだ」って。

(コーラス)



この曲のMP3をダウンロードしたい方は ここをクリックしてください

Sheet Musicをダウンロードしたい方は ここをクリックしてください





P1010004.jpg
(Jehovah-Jireh農場)

今日は燃えるクリスチャン青年ジョエル・ホースト君(26)へのインタビュー記事を掲載します。

―ジョエル兄弟、読者のみなさんに自己紹介してください。

ジョエル・ホーストと申します。26歳です。

私は農夫で、Jehovah-Jireh Farmという農場で、鶏や七面鳥、羊、牛、それから蜂を育てています。

私は大学教育を受けていませんが、真理を知り、イエス様に従っていきたいと強く願っています。農場での生活は、人生における万事について、私に興味深い視点を与えてくれています。

聖書は霊的なことを示唆しているだけだと多くの人は考えています。でも農業をする上でも聖書に指針を求めることはできないのでしょうか。私たちは実際にそうしています。

―「世俗の」仕事を含め―聖書が生活のすべての領域に適応されるということを私は学んでおり、それは本当にすばらしい体験です。農業のことについて、神様は私たち家族にたくさんのことを教えてくださっており、その証しを“Farming Based on the Word of God”に書いています。

ージョエル兄弟、この地上で、あなたは何に情熱を持っていますか。人生の中で何を求めていますか。

ジョエル:私の情熱は、心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くし、すべてを尽くして主なる神を愛し、このお方に仕えていくことです。そして他の仲間もそうすることができるよう助け、仕えていくことです。

Vertical-Photo-224x300.jpg

「こうして彼らが皆、一つになるためです」(ヨハネ17章)とあるように、諸教会に一致をもたらすこと――それをもたらすために何かをするよう神様は私を召してくださっていると感じています。

しかしこの一致は、私たちが皆、イエス・キリストと主の教えにのみつき従う時のみ実現されるものです。私はまた、賛美歌作曲を通して、「キリストに従っていこう」とクリスチャンに呼びかけていきたいです。

また栄養価が高く、健康的で、農薬を使わない食べ物を提供することを通し、人々が健やかに生を営むことができるように助け、仕えていきたいと願っています。

また、私はBiblical Research Reports, Free House Church Resources, Heritage Music, and The Headcovering Directoryの各クリスチャン・サイトの管理人としての働きもしています。

basketeggs.jpg

ージョエル兄弟、あなたは過去に、偽りの教会指導者によって傷つけられ、つまずくという悲しい経験をしましたね。そのような失意の中にあっても、あなたが信仰から離れず、懸命にこの悲劇を乗り越えようとしていること、そしてイエス様に忠実であろうとしている姿に私たちは感銘を受けています。

このブログの読者のみなさんの中にも、過去、教会の指導者に傷つけられ、つまずいてしまった方々がいらっしゃると思います。そういった方々に、何か励ましの言葉がありますか。


ジョエル:私はビル・ゴサード(Bill Gothard)という人物の霊的指導を受けながら、育ちました。

この人物の運営する組織はホーム・スクーリングの教材も開発しており、私たちの家族はその教材を11年間使っていました。私はビルが神の人であるとずっと信じてきました。

ところが、今から一年半前に、実はこの人がとんでもない嘘つきで、詐欺師で、そして性的強姦者であることが発覚したのです。彼は羊の衣を身にまとった狼でした。

その時以来、神様は、私の心からビルの間違った教えを一掃してくださっています。そして真理を教えてくださっています。そのプロセスは今も進行中です!

ビル・ゴサードの件を通して、私は多くの教訓を得ました。今日はその中でも重要ないくつかのポイントをみなさんと共有できたらと思います。

☆「羊のなりをしてやって来るが、うちは貪欲な狼である偽預言者たちに気をつけなさい」(マタイ7:15-20)とイエス様は私たちに命じられました。

にせ預言者というのは本当に実在するということを私たちは肝に銘じる必要があると思います。そして私たちが想像する以上に、そういったにせ預言者は多いのです。だから、私たちはそういった者たちに対し、いつも警戒している必要があります。

聖書は繰り返し、「惑わされてはいけない。だまされてはいけない。」と命じ、また警告しています。この一年半の間、神様が私に教えてくださったこと――それは、今日、教会の中には、おびただしい数のにせ教師がいるということです。

☆にせ教師の中には、神様が新約の中で命じていない掟や教えを付け加え、それを主の掟として教えている人たちがいます。

それとは対照的に今度は、「神の掟は重要視しなくてもいいし、主に従う必要もありませんよ」と説くにせ教師も存在します。

私は以前、この二つのタイプのうち、後者の方がより悪質であると考えていました。

しかし、今私は、(その種類を問わず)全てのにせ教師は危険であるという理解に立っています。

全ての偽りの教えは、偽りの父である悪魔から出ているのです。そして全ての偽りの教えには、結果が伴います。神の掟に付け加えることは、主の掟をないがしろにするのと同様――いや、場合によってはそれ以上に――悪なのです。

☆私たちはによって、にせ預言者を知ることができるとイエスはおっしゃっています。ある教師が義なる生活を送っていないことをみる時、私たちは、その人物が、内側に神の義を宿していないということを知ることができます(1ヨハネ3:7-10)。

主がそのような者たちに対して述べておられることを私たちは信じる必要があります。そして彼らの言動や教えについて弁解してはいけません。

主はこう警告しておられます。「子どもたちよ。だれにも惑わされてはいけません。義を行なう者は、キリストが正しくあられるのと同じように正しいのです。罪のうちを歩む者は、悪魔から出た者です、、」(Ⅰヨハネ3:7、8a)。

往々にして、こういうにせ教師たちは、「自分の教えがいかに人々にすばらしい感化を与えたか」と偽ったり、大げさに吹聴したりするので、私たちは、「ああ、この先生は神の人で、この教えはすばらしいのだ」と信じ込まされるのです。

惑わされてはいけません。誰かがにせ教師だということに気づいたなら、その人物およびその人の教えから離れなければなりません。

良いものと悪いものを峻別することができるよう、神様に助けを求めてください。

そして、そのにせ教師から教わった内容をすべて検証してみてください。そして、それが100%真実であるということが立証されない限り、それを真理として受け入れないでください。

☆しかし、そうではあっても、にせ教師および偽りの教えに対し「反動」に出ないでください。

自分の先生が実はにせ教師だったということが発覚するや、その人物がこれまで教えてきたことを何もかも拒絶するケースを多く見受けます。これは非常に危険です。

そのにせ教師が私たちに「こうしなさい」と指導してきた内容の対極に向かうだけではいけないのです。その教えはもしかすると、95%は正しいのかもしれません。

でも、95%しか真理のない、そのような教えに騙されてはいけません!というのも、残りの5%(=偽りの教え)があなたを霊的に殺すことだってありうるからです!

私たちは神様が私たちに望んでおられることが何なのかを識別する必要があり、主ご自身が私たちに教えておられるものに一層、心の注意を向ける必要があります。クリスチャンにとっては、主の掟だけが唯一、「何が正しくて何が間違っているのか」ということを規定するものです。

☆主に祈ってください。「私のこれまで受けてきた偽りの教えから、私の心と思考を清めてください。そして何が真理なのかを私に教えてください」と。

時を経るうちに――あなたがかつて正しいと思って受け入れていた――さらに多くの偽りの教えに目が開かれていくことでしょう。そういった教えは、私たちの想像する以上に、私たちに影響を及ぼしているのです。

しかし主は誠実な方ですから、私たちに真理を教えてくださり、サタンの嘘という軛から私たちを解放してくださいます。

ージョエル兄弟は、祈りのベールの教え(1コリント11章)を公に擁護していらっしゃいますね。この聖書の真理および、その回復の重要性について少しお話くださいますか。

ジョエル:1コリント11章で教えられているかぶり物(祈りのベール)は、主の掟の一つであるにもかかわらず、現代の教会の中では、軽視され、言い逃れされています。

祈る時や預言をする時、女性は「御使いたちのために」(1コリ11:10b)かぶり物を着けなさいと神様はおっしゃっています。かぶり物というのは、神のお定めになった権威の秩序を映し出すものであります。

また、男の栄光(女性)を覆う行為によって、神に栄光を帰すという意味もあります。それによって、神だけが、誉れと栄光を受ける唯一のお方であるということが顕されるのです。

しかし祈りのベールを実践する上で気をつけなければならないことがあります。それは、ベールを何か「幸運を呼ぶお守り」のように見なしたり、単なるキリスト教のシンボルにすぎないと考えたりしてはならないということです。

主は、女性たちの対し、何か特定の型のベールをするように命じてはおられませんし、「この世に対する標(しるし)として四六時中着用せよ」と命じておられるわけでもありません。

また、女性がベールを着けるからといって、祈りが今まで以上に答えられるとか、人生が順風満帆になるとか、サタンが私たちを攻撃できなくなるとか――主はそういうことを約束しておられるわけでもありません。

しかしその一方で、私たちの考える以上に、かぶり物に関しては主の奥義があるということを私は信じています。それを主が命じておられるのなら、それは重要なものなのです。

また、男性たちが主の掟に従い、祈りや預言をする際に頭に何もかぶらないということも同じく大切です。事実、私は思うのです――、女性が頭にかぶり物をして祈ること以上に、男性が頭に何もかぶらないで祈ることの方がむしろもっと重要なのではないかと。

なぜかと言いますと、既婚女性がかぶり物をせずに祈るなら、それは彼女のご主人を辱める(dishonor)ことになりますが、(頭に何かをかぶって祈る)男性の場合は、イエス様ご自身を辱めることになるからです。

―ジョエルさんのご家族は現在、家庭礼拝をしておられるとうかがいました。そのことを少しお話くださいますか。

ジョエル:私は以前、メノナイト教会に通っていましたが、12年前に、うちの家族はその教会を離れました。それ以来、私たちは家庭礼拝をしています。

時期によって、他のクリスチャンの方々が参加することもあるのですが、目下、集まっているのはうちの家族だけです。主の時に、他のクリスチャンが私たちに加わって、共に礼拝をする日が来ると私は堅く信じています。

クリスチャンが教会を去り、自分たちだけで礼拝をするということを私は他の方々には勧めません。私たちは他の兄弟姉妹との交わりを必要としているからです。しかし、主が明確に、あなたが現在集っているその教会を離れるよう、あなたを導いておられるのなら、主に従ってください!

長年、うちの家族は、農作業が終わり、就寝前の夕べの時間に、分かち合い、祈り、そして聖書朗読の時間をもっていました。私たちが大きくなるにつれて、子どもたちの就寝時間は、それぞれの選択に任せられるようになったこともあり、現在はその時間を持っていません。

その代わりに私たちは次のような時間を持っています。

朝、農作業に行く前、各自、聖書を読み、黙想します。それから、家族全員がみな集まり、半時間ほど共に賛美を歌います。私はこの朝のひとときが一番好きです。

instrumentsetup.jpg
(ホースト家の楽器)

賛美の本がいくつかあるのですが、多くの賛美を歌いたいので、歌詞の一番だけを歌うこともあります。家族で共に歌うこの賛美の時間の中で、私たちの歌声は調和をもって溶け合い、また、歌うことや奏でることなどを学んでいっています。

私の母はキーボードを弾くのですが、母は、それまで一度も聴いたことや弾いたことのない賛美であっても、即興で演奏することができるという賜物を持っています。母のこうした賜物は、私たちが賛美を奏でることについて非常に大きな助けとなっています。

―ジョエル兄弟、ありがとうございました!


【楽しいおまけ】
ジョエル君の農場フォトギャラリー


P1010016.jpg
(Jehovah-Jireh Farmの羊、米国ワシントンD.C.郊外)

clouds_and_farm_133 (2)
(農場の中にあるお店、新鮮なたまごや、チキンなどを買うことができます。)

August_2010_012.jpg
(農場の様子)

P1010078.jpg
(ジョエル君のお母さんや妹たちが、トウモロコシの穂軸を切っています。)

P1010057.jpg
(Corn Day、この日は家族がたのしく語り合いながら作業をするfun dayです。)

P1010127.jpg
(野菜スープを瓶詰めにしています。)

P1010021.jpg
(Family Night、この日はみんなでリンゴを干しました。)


(下は農場の楽しいショート・ビデオです。「生後4日目のヒヨコは、日がな、何をして時間をつぶしているのかな?」、、そうです。彼らはサッカーにいそしんでいるのです!)



fig019.jpg
(19世紀のインド)

その1その2、その3からの続きです。

「今日」を生きる

たび重なる試練を通し、グローヴスは次のような霊的学課を学びました。

主が――ご自身の無限にして測り知れない摂理により――、私たちの計画をすべて無に帰すことをよしとされたことを鑑みる時、、、未来のための計画を立てることは極力避け、「今日」という一日の分を果たしていくことが、主からの強い召しであると感じざるをえない。



新たな援軍 来る

1832年、妻を失い、子どもを失い、自身も病に侵され弱っていたグローヴスの元に、イギリスから応援隊が駆けつけました。前述のクローニン、それからジョン・パーネル、そしてフランシス・W・ニューマン(←枢機卿ジョン・ヘンリー・ニューマンの弟)です。

fwn-npg2.gif
(フランシス・W・ニューマン)

彼らは奉仕を共にするだけでなく、すべての物を共有にし、お互いに助け合いました。また金曜日ごとに断食し、祈り合いました。

インドへの門 開かれる

1833年、グローヴスたちは、インド滞在のコットン大佐の訪問を受けました。コットン大佐は、工学の腕前を生かし、ゴダベアリ・デルタの飢饉を一掃し、現地の民を大いに助けていたキリスト者です。

コットン大佐からインドでの霊的状況を聞いたグローヴスは、大佐と共にインドを視察に行き、そこにとどまる一大決心をしたのです。

インドという土壌

それにしてもなぜ「インド」なのでしょう。

なぜグローヴスは少しずつ基盤を築きつつあったバグダッドという宣教地を離れてまでも、インドの地に向かうことにしたのでしょうか。

それはグローヴスが、「教派主義・セクト主義がキリストのみからだの成長に及ぼす弊害」をまざまざと見てきたことに由来していると考えられます。

「インドに行く唯一の目的は、、」とグローヴスは言いました。

「インドにいるあらゆる宣教団体の人々と、今まで以上に心において一つとなり、あらゆる相違にもかかわらず、私たちがキリストにあって一つであることを示すことです」と。

グローヴスによれば、教派主義の悪根が未だに根を張っていないインドのような土壌(注:1830年当時)においては、み言葉を土台とした、新約聖書的な集会がもっとも建てられやすいのです。

なぜなら、教派主義こそが、福音の伝播を妨げている主たる原因なのだから。――そう彼は考えていました。

こうして彼はインド各地を精力的に旅し、さまざまな信条を持つ多くの宣教師を訪問しました。

そして「グローヴスの奉仕から流れ出る善意と力、そして彼の無私の愛は、多くの人々の魂を勝ち取り、豊かな実が結ばれ」、その結果、「多くの人々の生活が変わり、彼らは主に奉仕するようになりました。」(『信徒の諸教会』p557)

こういった彼の姿勢を私たちは彼の英国時代からすでに見て取ることができます。例えば、彼がエクセターで洗礼を受けた後、ある人が彼に次のような質問をしました。

「あなたはバプテスマを受けているのですから、もちろんバプテスト派の方でしょう?」

それに対し、グローヴスはこう答えたそうです。

「いいえ、私は彼ら(=バプテスト派の人々)がキリストに従っているすべての点で、キリストに従いたいと思っています。しかし、一つの教派に入ることによって、他の人々と自分を切り離すようなことはしたくありません。」(『信徒の諸教会』p550)

また彼は次のようにも言っています。

もし誰かが――英国国教会であれ、スコットランド教会であれ、バプテスト教会であれ、独立派であれ、ウェスレー派に属しているのであれ――そこに誇りを持つなら、その人の栄光は、その人自身の恥辱です、、、

使徒パウロが言ったように、こういった人たちがあなたがたのために十字架につけられたのでしょうか。私たちが何かを誇れるとしたら、それは唯一、私たちが主の恵みによって主に贖われた者となったという、その事だけです。
Memoir of the Late Anthony Groves, 3d ed, p.49)



多くの誤解に遭って

しかし彼の善意は、必ずしも肯定的に受け取られませんでした。

いや、それどころか、どこに行っても彼は誤解され、「グローヴスは気取っている」「優越感を持っている」と揶揄されました。そしてこういった誤解や中傷により彼は深く傷つきました。

彼の言う事は、既存の組織の安定性を脅かすものとして疎まれたのです。そして彼は宣教師サークルから除名され、宣教活動に対する敵として、またそれを脅かす存在として疎外されました。

例えば、グローヴスは、仲間の宣教師たちに向かい、「シンプル・ライフを心がけよう。そして必要な物は主から与えられると信頼していこう」と呼びかけましたが、こういった勧告もなかなか受け入れられませんでした。

というのも、これは当時の、「裕福な西洋人宣教師」VS「貧しい現地人」という社会構成に揺さぶりと反省を促すものだったからです。

また、グローヴスは、各教派が、現地人改宗者の数を競っている姿、また宣教団体が、権威や所有物、財政といった問題にやっきになっている現状をつぶさに見、次のように書き記しました。

、、私たちが低められることが、私たちの栄光であり、私たちの弱さが私たちの強さであるということを理解することは、並はずれた信仰を必要とするものである。

というのも私たちが行く所どこででも、私はそれとは逆の原理の悪しき影響力を認めるからである。

私たちの主に従い、私たちが仕えたいと思っている人々の間にへりくだろうとしないことは、私たちの持っている全ての真の力を破壊するものである、と私は確信している。

彼らの上に立つことによって、確かに私たちは権力を持つ。しかしながら、それは、この世の権力にすぎない。

主が目を開いて、私たちの道を示してくださいますように!

真理がインド人の心に強く印象づけられるとき、それは一般に、イギリス人におけるよりも、より強力かつ持続的に印象づけられるように思われる。彼らは、多くの場合、神の御言葉だけに委ねられている。また宗派の数が非常に少ないので、彼らが抱いている見解は、それだけ一層、聖書的である。

ヨーロッパの聖職者支配の諸悪――すなわち、プライドと世俗性――をこの国にもたらさないように全力を尽くすことが、今日ほど必要とされている時代はないのである。



また、当時、西洋の宣教師が、現地人クリスチャンと食事を共にすることを拒絶していた現状に対し、彼はこのように書いています。

私は、知れば知るほど、ヨーロッパ人によって行なわれてきたインドの宣教活動が、全くインド人の〈上に立ったもの〉であることを確信した。

、、神の子の謙遜を念頭において、この特権階級の問題を考える時、この中にキリストとは似ても似つかぬ、非常に不適切な何ものかを見いだす。

もし、栄光の中に父と共にいる神の御子がご自身を無にされ、罪ある肉と同じ形をとってこの地上に下られ、取税人や罪びとの友となり、彼らを高められたとするならば、ひとりの虫けら同然の人間が、自分が汚されることを恐れて、もう一人の虫けら同然の人間と食事をしたり、接触したりすることを拒絶するならば、それは真に忌むべきことと言わざるをえない。

ペテロに対する主の啓示は、何と強く、このことすべてを戒めていることであろうか。『神がきよめた物を、きよくないと言ってはならない。』



また宣教師が、口先だけの説教ではなく、自分の生活を現地人クリスチャンに実際に見せ、彼らと共に生きる中で、キリストのいのちを伝えていくことの大切さに関しても、グローヴスは次のような印象深いメッセージを残しています。

、、、私たちの大きな目的は、プライドが現地人とヨーロッパ人の間に差し込んだ憎むべき障害を紛砕することにある。

この目的のために、あらゆる伝道者が、自分の行く所どこにでも、二人から六人の現地人の伝道者を連れて行くことが望ましいであろう。

彼は、旅行中に、彼らと飲食を共にし、眠る。また彼は、座ったり立ったりする時に、彼らに対して神の国について語る。

それは、私たちの主が弟子たちを訓練された方法で、すなわち、彼らが許容しうる程度まで着々と徐々に、ここで少し、あそこで少し教えるといった方法で、彼らを短期間のうちに奉仕のためにふさわしく準備させるためである。

そのことを通して彼ら(現地人)は、徹頭徹尾、私たちの立場が、――自分たちのしていないことを他人にさせたり、自分たちの依拠していない諸原則に基づいて彼らを行動させたりするものではなく――私たちがむしろ、自分の愛する兄弟たちの中に見たいと願っているあらゆることの模範となっていることを感じ取るだろう。

そして私は、キリスト教会に近づきつつある暗雲の日の真っただ中において、小さな聖所であるような教会が、インドにおいて起こされることをいまだ望み見ているのである



こうしたグローヴスのメッセージは当時、少数の人の間でしか受け入れられませんでしたが、彼の感化を受けた現地人クリスチャン、アルーラッペンはその例外的な存在でした。

アルーラッペンはさまざまな宣教団体から(給与付きで雇うという)オファーを受け続けながらも、それらを全て断り、生活のニーズを主だけに寄り頼みながら、南インドを巡回し、各地で福音を伝えて歩きました。

そしてこの神の僕を通して、南インドの人々の間における真の福音化が促進されたのです!

(アルーラッペン兄弟の生涯と働きについてさらに詳しく知りたい方へ。G.H.Lang, The History and Diaries of an Indian Christian (J.C. Aroolappen) をご参照ください。)

確かに、(クリスチャンも含めた)発展途上国の人々の「援助慣れ」と援助する宣教団体側の「支配」という問題は、今日も宣教地においては、切実な問題であり、その意味でも、グローヴスの次のメッセージに私自身、とても共感しました。

、、土着の人は、生来、援助を受け安逸をむさぼることを好み、それによって、他国人に依存するようになっています。

他方では、ヨーロッパ人は、土着の人を支配下に置き、自分たちは支配する立場にいることを好んでいます。

しかし、次のことはすべての人々に明白でなければなりません。

つまり、もし、土着の教会が、人ではなく主に寄り頼むことを学ぶことによって強められないなら、現在ある形態は、それがヨーロッパに依存している限り、たった一時の政治上の変化によっても跡形なく消え去ってしまうだろうということです



おわりに

アンソニー・ノリス・グローヴスはそれからも1853年に召されるまで、インドで地道に福音宣教の働きを続けました。

しかし、生前のグローヴスはほとんど周囲から理解されることがなく、本人も、「私の働きは失敗だった」と告白していることから鑑みても、彼の歩みは失意の連続だったのかもしれません。

しかし前の号でも触れたように、彼の死後、主はグローヴスを通して、永続する実を実らせてくださいました。

アルーラッペン兄弟を通したインドでの福音宣教、ハドソン・テーラーの中国内陸宣教団、ジョージ・ミュラーの孤児院の働き、インドの伝道者バクト・シング(Bakht Singh)、ドナヴァー・フェローシップのエミー・カーマイケル、それから中国のウォッチマン・ニーおよび家の教会など、、これらの僕たちは全て、直接的・間接的にアンソニー・ノリス・グローヴスの霊的感化を受けています。

無題 (16)
(ハドソン・テーラー)
無題 (18)
(ジョージ・ミュラー)
無題 (15)
(バクト・シング)
無題 (17)
(ウォッチマン・ニー)

それから最後にもう一つ、付け加えたいのが、グローヴスが友人であり主にある兄弟であるジョン・ネルソン・ダービーに宛てた手紙のことです。

グローヴスは、インドにいながらも、英国のプリマス・ブラザレンが次第にセクト主義の傾向を強めていっていることを危惧し、心を痛めていました。

グローヴスは終生、ダービーに対し、変わらぬ愛と尊敬の念を抱いていましたが、この長い手紙の中で、彼は「あなたは、あなたが離れた所に再び戻りつつあります。」とダービーに警告しています。

私が個人的にこの手紙を高く評価しているのは、ダービー個人がどうのこうのというよりも、この警告が、「クリスチャンが気づかないうちに陥ってしまいがちな霊的落とし穴について」非常に的を射たメッセージを含んでいると考えているからです。

自分の胸に手を当て、このメッセージを受け取ることで、私たちはそれぞれ皆、何らかの形で大きな霊的益を受けると思います。

それでは、四回にわたるアンソニー・ノリス・グローヴスの生涯に関する記事を、この手紙からの引用によって終えようと思います。

(1836年3月10日)アンソニー・ノリス・グローヴスからジョン・ネルソン・ダービーへの書簡 
Letter to John Nelson Darby

、、私は、神へのあなたの真実な思いに信頼していますので、あえて言います。あなたがもしほんの一、二歩、さらに進むなら、――あなたがすでに離れたと公言している組織についての弊害が――、今度はあなたがたのうちに起こってくるのを見ることになるでしょう。

あなたの集まりは、光や愛というより、教義や批評になりつつあります。そして、まだ実際には起こっていませんが、あなたの指導は、人間の権威を感じさせるものになっていくでしょう。

あなたの小さな集まりは、栄光に満ちた単純な真理を証しすることから、誤りだと判断した全てのものに反対するものへと変貌していきました。これは天から地への堕落だと私は心を痛めています。

、、私は豊かに主によって教えられたあなたの寛容な心が、あなたを取り巻くあなたよりも狭量な人々の意見に妨げられずに、いつか再び登場してくることを確信しています。

福音の中で、あなたに心からの愛をもって
A.N.Groves



ー終わり―

アンソニー・ノリス・グローヴスについてさらに詳しく知りたい方へ
【文献案内】


A.N. Groves, Christian Devotedness *この本のキンドル版は¥0です。
cover150x250.jpg

G.H.Lang, Anthony Norris Groves *グローヴスに関するすぐれた伝記。
anthony-norris-groves-big.jpg




上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。