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(Greg Gordon, Liturgy in Early Church Services 、ゴードン師の許可をいただいた上で、2015年8月、翻訳いたしました。)


初代教会の礼拝の様子


私が行くまで、聖書の朗読と勧めと教えとに専念しなさい。1テモテ4:13



世界中にあるさまざまな教会を訪れると、そこには各々礼拝の順序ないし様式というものが存在します。

集会ごとにもちろん細かい違いはありますが、共通の要素というものも多く存在します。――例えば、聖書を朗読すること、説教すること、公の祈り(1テモテ2:1)、主の晩餐(1コリント11:26)、被り物(1コリント11:1-16)などです。

その他、今日一般に行われなくなっているけれども、初代教会の信者の間では行われていた慣習としては、聖なる口づけ(ローマ16:16)があります。

また初代教会において、預言者の働きがある教会では、彼らの言葉を聞く時間が与えられました(1コリント14:29-30)。異言のわざは、他の諸教会においてよりもコリントの集会において頻繁に行われていたようです(Ⅰコリント14:27-28)。また、オリーブ油を塗っての、監督による祈りも行われていました(ヤコブ5:14)。

また、(集会を導く)監督ないしは長老が祝祷の祈りをささげる慣習も、教会史の初期の時点で形成されていったようです。

初期のコリント教会は、自己中心的な人で溢れ、皆がわれ先にと集会に参加したがり、他の人々をかえりみていませんでした。

またそこの教会には、権威に対する恭順の欠如および分裂をもたらす霊がみられ、それによって秩序が乱されていました。そこで使徒パウロは、彼らを勧告し、お互いに愛の道に進むよう彼らを励ましたのです(1コリント13)。

紀元155年、殉教者ユスティノスは、当時のクリスチャン礼拝について次のように述べています。

日曜日と呼んでいる日に、町に住んでいる者も地方に住んでいる者も皆、一同に会する。そしてそこで、使徒たちの書いた覚え書きや、預言者たちの書き物が読み上げられる。

そして朗読が終わると、集会を導く責任者が、今読み上げられたすばらしい内容にぜひとも倣うよう彼らに勧告するのである。その後、我々は皆起立し、祈りを捧げ、そしてそれが終わると、我々は聖なる口づけをかわすのである。

それから誰か一人が、パンと、水と葡萄酒の混ざった杯を、責任者の所に持ってくる。責任者はそれを受け取ると、御子および聖霊の御名を通し、この宇宙の御父に対し、賛美と誉れをささげるのである。

それから彼はかなり長い時間を費やし、我々がこれらの賜物にふさわしく裁かれていることを感謝する(ギ:eucharistian)のだ。

責任者による感謝の祈りが捧げられ、会衆がそれに応答して「アーメン」と答えると、長老と呼ばれている人々が、そこに会する一同に、「感謝の捧げられた(eucharisted)」パンと、葡萄酒・水を手渡した。

また、当日その場に出席することができなかった信徒に対しては、長老たちがそれらを彼らの元に届けに行った。



私たちは初代教会のこういった集会の様子を垣間見ることで、多くを学ぶことができます。

そこから見えるのは、集会がキリストを中心としたものであったということです。

―聖書の朗読にしても聖餐の祝いにしても、それらは共に主を証しするものであり、指導者たちはそこに焦点を置くことによって、キリストを集会の中心としていたのです。

私たちの所属する教会がどのような形態のものであったとしても、こういった慣習を保つことにより、私たちは時代を超え、初代教会の礼拝の伝統および慣習との間に途切れることのないつながりを持つことができるのです。



詩編80:14-19



詩編80:14-19

万軍の神よ。どうか、帰って来てください。
天から目を注ぎ、よく見てください。
そして、このぶどうの木を育ててください。

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また、あなたの右の手が植えた苗と、
ご自分のために強くされた枝とを。

それは火で焼かれ、切り倒されました。
彼らは、御顔のとがめによって、滅びるのです。

あなたの右の手の人の上に、御手が、
ご自分のため強くされた人の子の上に
御手がありますように。

そうすれば、私たちはあなたを裏切りません。
私たちを生かしてください。
私たちは御名を呼び求めます。

万軍の神、主よ。私たちをもとに返し、
御顔を照り輝かせてください。
そうすれば、私たちは救われます。



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銀河、蒼穹(そうきゅう)にみなぎり、清霄(せいしょう)、星を降らすに似たり。

湖上、風雨去って、峰巒(ほうらん)、その面にあざやかなり。

「エホバその聖殿にまします。世界の人、その前に静かにすべし。」

彼、細き声をもって語りたもう。人みなその黙示に接すべし。

ハバクク書2:20




神の霊はわたしを造り、全能者の息はわたしを生かす。ヨブ記33:4




環境にあらず、聖霊である。

環境はいかに完全であるとも信者を作らない。

これに対して聖霊は、最も不完全なる環境の中より信者を作る。


不信の現代人は、彼らのいわゆるキリスト教的環境を供することによりて、機械的にキリスト信者を作り得ると思う。

されども彼らがかくのごとくにして作りし信者は少しも信者ではない。

信者の真似事(まねごと)である。

あたかも彼らの製造所が産する織物の断片(きれはし)のごときものである。


金と設備と教育の方法によりて信者はできない。

同時に、神はその聖霊をもって、伝道学校以外において、多くの真の信者を作りたもうた。


霊はおのがままに吹く。なんじ、その声を聞けども、いずこより来たり、いずこへ行くを知らず。すべて霊によりて生まるる者はかくのごとし(ヨハネ伝3:8)



とある。聖霊は環境のいかんにかかわらず信者を作る。

そして今なお作りつつある。


いわゆる影響、感化なるものは、キリスト信者を作るにあたって、そのなすところ、いたって僅少である。



『内村鑑三信仰著作全集』9巻 p152より抜粋

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(真ん中の背の高い人が内村鑑三 1861-1930 source
picture from kernowclimer.blogspot.com



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見よ、神はここに!

この場がどんなに荘厳であるか 畏れを以て知ろう。



我々のうちにあるもの全てをもって 主の御力を感じせしめよ

そして沈黙のうちに 御顔の前にぬかずかしめよ。



見よ、神はここに!

昼となく夜となく 御使いの群は歌い



すべての上に着座されしこの御方に向かい

天の軍勢は 賛美をささげています 



喜びのうちに この世の玩具を打ち捨てます

富、楽しみ、ほまれは すべて汝のものです。



汝にこそ われらの意志、肉、魂をささげます

 
おお 受け取りたまえ、

おお 汝の御手で これらに封をしたまえ!



口ごもりつつ汝にささぐ われらの卑しい歌を 

主よ どうか軽んじないでください



われらのすべての思いが 

ただ汝の元に 上げられんことを

――真実にして絶え間なる 捧げものとして。



存在の源であられる主よ 


われらの賛美により

汝の庭が 麗しい香りで満ち溢れんことを!



静寂のうちに 汝の御顔の前に立ち


静寂のうちに 汝の全きご意志に耳を傾け

行なうことができますように。



汝の中で われわれは動きます

汝に属するすべてのものは 満ち満ちています



万物の源であり いのちであられる主よ



汝は 広漠とした果てしのない海のごとく あられます!


その雄大さに 我を忘れ 

汝の前に ひれ伏します




花々が

開きつつある葉をかざし

歓喜のうちに 太陽の光を 吸い込むように



われわれもまた 

汝の放つ光を しかととらえ


汝により 感化されんことを!





Gerhard Tersteegen, Lo God is here! 私訳
(picture from smaltila.deviantart.com)





 

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(いちじくの実、ギリシア)

Dan Lucarini, Why I left the Contemporary Christian Music Movement(「私がCCM運動から身を退いた理由」)より一部抜粋します。

―私はおそらく、(このような本を書くことで)教会の最も強固な要塞に挑戦を挑んでいるのでしょう。

CCMは今や、がっちりと塹壕を掘りめぐらせているため、福音主義教会の大多数によって支持されている音楽スタイルになったのではないかと思います。

CCMは多くの信者の人生の中に深く根を下ろしているため、私の本を読んで、かなりつらく感じる方々もおられると思います。

―また牧師の中には、私の言うことに不快感を感じる方もいらっしゃるに違いありません。なぜなら、彼らもまた、この運動を受容してきたからです。

しかし私はあえて申し上げたいと思います。CCMを教会礼拝の中で用いるというのは作為の現象であり、この実態は光の元にさらされるべきです。

というのも、これはしっかりとした聖書的土台に欠いており、神に受け入れられる礼拝とされるべく、主がお授けになった掟をないがしろにしているからです。

―これを礼拝で用いることによって、私たちは肉的なライフスタイルを人々に奨励してしまうことになります。(p18)

―〈誰をも裁きませんよ〉という雰囲気作りのため、牧師たちは、「神様はありのままのあなたを受け入れておられますよ」的な哲学を奨励してきました。そうしてCCMとこの哲学は手に手を取り合って進んできたのです。

ある牧師がドゥービー・ブラザーズのロックコンサートに行ったのですが、その後、自分がそこに行ったことを正当化するために彼はこう言いました。

「もしイエス様が今日生きていたら、主もあのコンサートに行っていただろう。なぜなら、主は罪びとと共に過ごされる方だから。」

こういった教えのなされる所では、自分の人生に神様を受け入れはしたいけど、ライフスタイル自体は変えたくない、――そういう種類の人々を教会に惹きつけてしまうのです。(p28、29)

―私は告白します。CCMの賛美リーダーであることは、私のエゴを非常に強く満足させるものでした。

自分に寄せられる尊敬や称賛は、(救われる以前に経験していた)ロックスター時代のあの興奮を思い出させるものでした。

でも当時、私はこの事実に盲目でした。なぜでしょう?それは、こういった自己賞揚が、「ありのままで愛されている」的クリスチャン・フォーマットのオブラートで包み隠されていたからです。(p32)

―なぜ米国CCM界を去らなければならないのか、、、まず第一に、私はCCM哲学を支えている前提そのものをもはや受け入れることができないからです、、、

私たちの支柱とはこれでした。つまり、「音楽は、道徳とは無関係のものである(amoral)」という前提です。

彼らによると、神はあらゆる種類の音楽スタイルを受け入れておられる。そして各自の好みや趣向に対して口出ししたり、裁いたりしてはいえない、と。私はこういった主張について調べようと、聖書を掘り下げたのです。

でも分かったのは、そういう考えは、人間中心的であり、非論理的であり、基本的な聖書の原則を正しく反映していない、という事実でした。

二番目に、「真の礼拝とは何か」「神の臨在の中にあるとはどういう意味か」ということを聖書の中に求めていく過程で見えてきたのは、あまりにも低俗で下品な音楽と、それからそれに伴う下品な服装で、礼拝をささげ、聖なる神に賛美をしているという、私たち世代のなしている恐るべき事実でした。

三番目に、結婚生活を清く保ち、すべての事において神に誠実であるために、私は誘惑に溢れているCCMの現場から身を引き放す必要がありました。

そうです、米国CCMの現場は、自己満足と、それから、賛美チームの女性メンバーたちに対する肉的魅力をあおる環境で満ち満ちていました。(p34)

―キリストの弟子になるということは、自尊心の旅ではないのです。成長は変化を意味し、変化にはいつも喪失が含まれます。そして喪失というのは常に痛みを伴うものです。

私たちは古い自分の習慣や楽しみなどをいつまでもそのまま保ち続けることはできません、、

「そのままのあなたでいいんですよ。神様はね、今のあなたをそのまま受け入れてくださっているんですよ」という教えは、現代の世俗社会で流行している〈寛容 tolerance〉の動きと密接なつながりを持っています。

―真摯な求道者のみなさんは次のことを知るべきです。

つまり、この「ありのままのあなたでいいんですよ」というキャッチフレーズの元に説かれている神の無条件の受け入れというのは、誤った教えであるということです。

わたしたちは罪を告白しないまま、あるいは罪をないがしろにしたまま、あるいは罪をここかしこにぶらさげたままの状態でありながらも、依然として、「自分は主に受け入れられるだろう」と期待してはいけません。

自分好みの世俗音楽、この世の服装、この世の言葉を教会に持ち込み、そして主からの祝福を期待することはできないのです!(p38-40)

―この〈寛容〉の教えはクリスチャンの間であまりに浸透しているため、私たちはもはや、仲間のクリスチャンの(問題ある)言動について問うことさえ許されない、そんな環境に生きています。

あなたが愛をもって、仲間の信者の問題行動に向き合ったとしましょう。そうするとあなたは「他人を裁く者」として非難されます。

その際に、聖句などを引用しようものなら、あなたはすぐにパリサイ人呼ばわりされるでしょう。

そしてもし教会が、誰かの個人的な言動について何かを言おうものなら、その教会は、律法主義的な教会という風にみなされます。、、

こういった〈寛容〉の教えの支配する新しい教会においては、この世への愛着およびそういった行動に対して寛容を示すことは、聖書的な識別を行なっていくことよりもずっと大切な事とされています。

、、こういった偏った雰囲気の中にいるからこそ、(CCMのあり方に疑問を抱いている教会員が)教会の音楽スタイルについて意見の声をあげることに恐れを感じているのです。p40、41


ーおわりー


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地の深みは主の御手のうちにあり、山々の頂も主のものである。
来たれ。私たちは伏し拝み、ひれ伏そう。
私たちを造られた方、主の御前にひざまずこう。 詩編95:4、6


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天は喜び、地は、こおどりし、
海とそれに満ちているものは鳴りとどろけ。
野とその中にあるものはみな、喜び勇め。
そのとき、森の木々もみな、
主の御前で、喜び歌おう。 詩編96:11、12


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天は主の義を告げ、
すべての国々の民は、主の栄光を見る。 詩編97:6


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神よ。私の心はゆるぎません。
私は歌い、
私のたましいもまた、ほめ歌を歌いましょう。

神よ。あなたが天であがめられ、
あなたの栄光が全世界であがめられますように。 詩編108:1、5






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まずは、以下の告白を読んでみてください。

ダン・ルカリニ兄(元CCM賛美リーダー)の証言

私たちは、教会のティーンの子たちを連れて、人気のCCM歌手のコンサートに行っていました。

ことわっておきますが、こういった賛美コンサートは、いわゆる「ラディカルな」ヘビメタやヒップ・ホップ型のものではなく、あくまで穏健路線かつ「模範的」クリスチャン・シンガーたちによるものでした。

しかし、彼らは――おそらくレコーディング会社からの影響を受けてのことでしょうが――音楽性にしても、コンサートでのパフォーマンス技術にしても、服装や髪型、そして商業戦略にしても、世俗の歌手たちのそれを模倣していました。

すべてが、「ファンの心を勝ち取ってお金を儲ける」というこの一点に連動されているかのようでした。

かわいそうにこういった十代の若者たちは、世俗のアイドル歌手にのぼせあがっているこの世のティーンと同じように、こういった戦略により、操作されてしまっていました。

彼らは最初、「けっこうまじめな」歌詞やおだやか路線の音楽に惹かれて、この世界に入っていくのですが、彼らのお気に入りの歌手たちは、その後、次第にもっと過激で、ロック調で、ハードな音楽スタイルへと加速度を上げていき、それに伴いライフスタイルやイメージも変化していく――これがお決まりの経路なのです。

そしてティーンもそれに追従していきます。

そして多くのCCM歌手は、さまざまな形の不道徳を若者に推進する模範となっています。――ふしだらな服装、反抗的なイメージ、既婚男性メンバーへの若い女の子たちの追っかけ、セクシーな女性歌手に対する男性たちからの情欲を伴った関心等です。

「元ワーシップ・リーダーの告白 Confessions of a Former Worship Leader」p117



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CCMは若者の「心」をつかむため?


米国インディアナ大のラッシュ教授が、500人のティーンを対象に研究調査をしました。その中で彼女が、若者たちに発した質問はこれです。

「どんな音楽が、教会の賛美としてふさわしいと思いますか?」



その結果はどうだったかといいますと、圧倒的多数のティーンが、「クリスチャン・ロックは、教会の賛美としてふさわしくない」と、この種の音楽を拒絶したのです

彼らは言うのです。「僕たち自身はロックが好き。でも、〈ロック〉と〈教会〉っていうのは到底折り合いがつかないよ」と。

さらに特筆すべきことに、調査対象の若者のうち、教会に通っていない若者たち(全体の13%)が、なんとCCM音楽に対し、一番低い評価を下したのです。

つまり、ノン・クリスチャンの若者は、教会でこの種の音楽スタイルが用いられていることに、実際のところ好感を持っていないという調査結果が出たのです。

結論としてラッシュ教授は次のようなことを言っておられます。

現代風の音楽によって若者の心をつかもうという大人たちの試みは、、教会に通っていない学生たちの魂を勝ち取ることにおいて、不成功に終わっているようです。

もしかすると、牧師やユース奉仕者や、賛美担当者たちは、〈ティーンと教会音楽〉というテーマに関し、これまで誤った想定をしてきた可能性があります。



つまり、この世の若者が「来やすいように」との配慮から、教会側があれこれ忙しく世の手法を真似、教会の「敷居」をとことん低くしていく――こういった努力は、よりリアルで真実な視線を持った未信者のティーンの前に、何ら訴える力を持っていない、いや、逆に彼らを一層キリストから遠ざける要因になっている、ということでしょうか。


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CCM支持者側から寄せられる代表的な反論


米国では、上述のような慎重な意見に対し、以下に挙げるような反論がなされます。


1.音楽そのものは、中立的なものです。だから大切なのは歌詞であって、音楽のスタイルではないんです。

2.音楽というのは、個人の好みの問題です。ある人は古い讃美歌が好き。ある人はロック調のCCMが好き。で、それぞれが自分の好むスタイルで主を賛美している。それでいいんじゃありません?

3.「ロック音楽が悪い」って聖書のどこに書いてあるんですか?どこにも書いていないじゃありませんか。大切なのは私たちの心がどこに向けられているかってことです。そう、神様は私たちの心をみられる方です。

4.マルティン・ルターやウェスレーだって、当時の「現代音楽」を使っていましたよ。

5.ロック音楽は、若者伝道のために今や欠かせないものです。

6.神様はCCMをお用いになり、救霊のわざをなしておられます。


上述のダン・ルカリニ兄は、1970年代前半に救われ、CCMの賛美リーダーとして活躍しておられた方です。

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救われる以前に、ロック・バンドで活動していた彼は、救われた後、今度はその音楽的才能を「生かして」、CCMでの活動に打ち込みました。

彼の尽力により、幾つかのいわゆる「伝統的な」教会が、オープン礼拝式のCCM教会に様変わりしました。しかしさまざまな葛藤を経て、彼はついにCCM賛美リーダーを降りる決意をしました。

そしてその証しがWhy I left the Contemporary Christian Music Movement(「私がCCM運動から身を退いた理由」)という題名で出版され、欧米圏で反響を呼びました。

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「若者たちの魂をキリストの元に勝ち取るためなんだって、僕たちはいつも〈大義〉をかざしていました。」とルカリニ兄は言います。

「でも実際はどうかっていうと、、、若者たちはこういう音楽、本当は好きじゃなかった。これはあくまで〈僕たちの〉音楽だったんです。これはクラシック・ロックでした。

本当のところ、僕は自分の満足のためにやっていたんです。これが僕のたどりついた結論です。」

彼はさらに付け加えて言いました。「正直に言います。あれは救霊のためじゃなかった。結局、自分があの種類の音楽が好きだった、、、それなんです。」

次の記事では、上に挙げられたような反論に対し、彼がどのように応答しているのか、ご一緒にみていきたいと思います。




追記)
このテーマに関してもっと徹底的に掘り下げたい方へ 

以下のVTRは、「教会の中に入ってきた世俗の音楽」という題の、3セッションに渡るメッセージです。


セッション1


セッション2


セッション3








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CCMについて書いた私の記事に関して、今日、「日本とアメリカのロック音楽事情の違い」を指摘するコメントを寄せてくださった方がいました。

私の知らない部分についての情報であり、とても為になりました。ありがとうございます。以下、そのコメントを引用いたします。

、、アメリカと日本ではロックの内実が大きく異なるからという理由もあるように思います。

Kinukoさんはアメリカのロック・ミュージックを聴かれた事はありますでしょうか?

ロックミュージックは欧米(特にアメリカ)で「既存の価値観、体制や権威に対する反逆・反抗の音楽」として生まれ、育ってきた歴史的背景があります。

今はソフトなポピュラーに近いものから、激しいHR/HMまで非常に幅広い内容のジャンルになっていますが。

その「既存の価値観」の中には、クリスチャニティや聖書の権威、それに基づく価値観も含まれます。HR/HMの男性歌手が例外なく髪の毛を伸ばしているのにお気づきでしょうか?

日本のロックを聴いているだけではあまりピンと来ないかも知れませんが、洋楽のロックの歌詞には非常にダーク、サタニックなものがしばしば見られます。

有名なアーティストを挙げるとマリリンマンソンなどでしょう。マイロンさんが「ロックビートはサタン崇拝に用いられてきた」とまで、断言される理由はここにあると思います。

欧米ではロックミュージックを通して、クリスチャン的価値観が攻撃されてきた歴史があります。

しかし日本ではクリスチャニティは反逆すべき「既存の価値観」では全くなく、欧米から移植される形で生まれたJロックはあまり過激な実を結ばなかったように思います。

日本のロックしか知らない日本人クリスチャンにとって、ロック的CCMを全面否定するマイロンさんのご意見(ココ)は、非常に極端に聞こえてしまっているのではとも思います。

サタン礼拝にも使われている音楽を使って主を賛美するべきではないとのご意見ですが、ロックCCMやゴスペルラップももともと既存のサタニックなロック・ラップへの対抗手段として作られたという側面もあり、このあたりは難しいなと思います。

ただ、前のお手紙にも書きましたが、現代CCMには落とし穴が多いです。

その意味で、世俗の音楽性とは一線を画した賛美のもたらす祝福については、私もマイロンさんのご意見に同意します。敬虔な賛美の価値。たしかにそれは存在します。

そうして生まれた新しい賛美は多くの実を結ぶのではと思います。



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ご指摘くださったように、たしかに日本とアメリカ(そして日本と欧米の教会)では、ロックそのものに対する認識が違うのかもしれませんね。

ですから、「CCM」と言った場合に、そこには自分の考えている以上に、種類や性質の幅があり、また欧米と日本での認識の違いも存在するため、十把一からげに「CCM」とくくってしまうことには十分、慎重にならなければならないなあと思わされました。

またこのテーマに関して、何かご意見やご感想のある方は、自由にコメントをお寄せください。


(祈り)
天のお父様、私と共にこういった問題に向き合ってくれる仲間を与えてくださり、本当にありがとうございます。

私は、あなたに喜ばれる礼拝がどのようなものなのかを考え、それを求めています。

しかし私の知らないことはあまりに多く、また惑わしの霊も多く、時々、私は自分が広大な原野で迷子になってしまっているように感じることがあります。

どうか私の、そして私たちの手をとって、私たちをあなたの望まれる道に導いてください。

そして、あなたを知るための知恵と啓示の御霊(エペソ1:17)をお与えください。

イエス様の御名を通してお祈りします。アーメン。





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(ヒルソングの賛美コンサート source


このような記事タイトルをお読みになっただけで気分を害された兄弟姉妹もきっといらっしゃるでしょう。ごめんさい。

私は今36歳です。私は大学時代にCCM賛美中心の教会で救われ、CCM中心の教会で育ってきた、典型的なCCM世代のクリスチャンです。

実際、私は讃美歌集というのを教会で開いて歌ったという記憶さえほとんどありません。

ですから、私は「古き良き時代には、、」と、眼鏡の奥からうらめしげに昔の讃美歌時代を振り返り、今の現状を嘆いている懐古主義者ではないのです。

懐古しようにも、私には元々そういった「古き良き過去」さえないのですから。

また、私は聖書的な根拠もなく、ただやみくもに「新しいトレンドに反対する」――というような意味での「保守主義者」にもなりたくありません。

なぜなら、こういう保守主義者は、往々にして、若い魂が教会に来るのを妨げるつまずきの石ともなってしまうからです。

それにもかかわらず、なぜ私はこのような記事を書こうとしているのでしょうか。

それは私自身が今、昼も夜も、「神様、あなたがお喜びになる礼拝とはどのようなものなのでしょうか。」と求め、それを追及しているからです。


CCMとは何か


ウィキペディアによれば、CCMつまりコンテンポラリー・クリスチャン・ミュージック(現代キリスト教音楽)は、次のように定義されていました。

キリスト教信仰に関係した事柄に歌詞の重点を置いたポピュラー音楽の分野である。

この語は、ナッシュビル、テネシーに基礎を置いたポップ、ロック、ワーシップキリスト教音楽産業、また(ヒルソング、マイケル・W・スミス等の)アーティストについて言及する時に典型的に用いられる。



また、CCMの背景としては、「1960年代から1970年代初期のジーザス運動リバイバルの時期に、ポピュラー・ミュージックの感覚で最初に来た」と説明してありました。

最初のポピュラーな「ジーザス・ミュージック」アルバムは、ラリー・ノーマンにより、キャピトル・レコードより最初にリリースされた「この岩の上に(Upon This Rock)」であり、この新しいジーザス・ミュージックはロックンロールとフォールロックから生まれたそうです。

そしてこの新しいCCM文化は、1980年代までに、何百万ドルの企業に成長していきました。

1990年代には、エイミー・グラント、DCトーク、マイケル・W・スミス、ジャーズ・オブ・クレイなどのCCMのアーティストは主流のトップ40位のラジオで流れるほどまでになりました。(以上ウィキより)


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(CCM歌手 マイケル・W・スミスの賛美コンサート source


探求のきっかけ


CCMについて私が深く考えるようになったのは、少し前に起こった二つの出来事がきっかけです。

一つは、ある姉妹(妊婦さん)が私に寄せてくださった長いメールです。

彼女の教会は何千人もの会員のいるCCMスタイルの教会ですが、彼女は妊娠して以来、礼拝賛美の中で使われるドラムやビートの音が自分の胸に不調和音を生み出し、気分が悪くなっていると私に打ち明けました。

また、「ステージに立って歌う女性たちのハスキーな歌声と、歌詞の合間にマイクを通して伝わってくる吐息(breath)が、なんというのか、肉感的、、セクシーにさえ聞こえてくるんです。」と言っていました。

もう一つは、ある親切な日本の姉妹が私に1954年出版の讃美歌集を郵送してくださったことです。

「家に二冊あるので、一冊をどうぞと思って。」とわざわざここまで送ってくださったのですが、中に載っている歌詞を読み、私はその内容と意味の深さに心を打たれました。

ワーシップ・ソングと比べ、讃美歌には、一曲当たりに記されている霊的真理がたしかに多く、また多くのCCMと違って歌詞の「繰り返し」が少ないことにも目が留まりました。

こういったことがきっかけとなって、私は上述の題名のごとく「はたしてCCMはクリスチャン礼拝にふさわしい賛美のあり方でしょうか」と自問するようになったのです。

私は自分がブログ上でも時々CCM賛美を紹介していることもあり、「これが霊的に良くないものだとしたらどうしよう」と、なおさら責任を感じました。


賛美の本質


そこで私はある敬虔な方に、そのことを相談してみることにしました。以下は、その方がくださった回答の要約です。

賛美とは、父なる神が求めている「霊と真理による礼拝」から生まれる「実」であると私は考えています。

それゆえ、霊的礼拝の核であり、根源であり、命である「キリストの十字架」から派生する賛美は、おのずとCCMの音楽性を取り入れた賛美がもつベクトルとは完全に異なるものだと思っています。

例えば、ガラテヤ6:14

「しかし私には、私たちの主イエス・キリストの十字架以外に誇りとするものが決してあってはなりません。この十字架によって、世界は私に対して十字架につけられ、私の世界に対して十字架につけられたのです。」

の御言葉が啓示している霊性と、多くのCCMが私たちに提示する霊性にどのような調和があるのか、私にはそれを見いだすことができません。


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聖霊は、賛美として歌われていた多くの詩編のその旋律を記録に残さず、み言葉そのものを残すことを選ばれました。

それは賛美が、神のみ言葉から直接溢れ出る霊性から派生するものであることを意味していると思います。

世俗の音楽性に「聖句を貼り付けた」賛美とは、本質的に異なるものだと信じます。

コロサイ3:16「キリストの言葉を、あなたがたのうちに豊かに宿らせなさい。そして知恵をつくして互いに教えまた訓戒し、詩と賛美と霊の歌によって、感謝して心から神をほめたたえなさい。」

ここでは、「心から神をほめたたえる」賛美が、「キリストの言葉が豊かに宿った心」から生まれることを啓示しています。



私がCCMを受容していた理由の一つが、「若者伝道」でした。

自分がCCMに背を向けることで、周りにいる若い人々が、キリスト信仰を重苦しく、いかめしいものと捉えてしまうのではないか、私の「古風さ」が彼らにとってつまずきとなってしまうのではないか、、と、私はそういうところで葛藤していました。

しかしこの方からの回答を読んで、私はそういう自分が中心から外れたところ、つまり「キリストの十字架」という根本的真理から外れたところで事の是非を問うていたことに気づきました。

「あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている」(マタイ16:23b)。若いみなさんをつまずかせたくない、、、人、人、人、、、。

私は、礼拝というものが、本来、「をお喜ばせするものであること」、これこそを他の何にもまして求め、これを中心に物事の是非を問わなければならないことを見落としていました。


方向転嫁と見直し


その後、私は神様に祈り、自分の音楽ファイルの中にあるCCMを全部、チェックすることにしました。

そしてガラテヤ6:14の御言葉が啓示している霊性と調和していないと思われる曲は思い切って削除していきました。自分の過去ログも総点検し、削除すべきだと判断したものは削除しました。

そして削除すると同時に、「主よ、あなたが真に喜ばれるような方法であなたを賛美したいです。それにふさわしい賛美をぜひ私に教えてください。」と祈りました。

次の記事でみなさんにご紹介したいと思っているのは、そういった賛美を求めてこられたあるクリスチャンの方の証しです。




追記)日本のCCMライターの多くは、本当に主を賛美し礼拝する心から、賛美を作り、歌っておられます。(例、大和田広美さん、リラなど多数) 私の記事はそういった方々の尽力に対しケチをつけるものでは全くなく、またそのような意図をもって書かれたものでないことをどうぞご理解ください。ありがとうございます。








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私は昨年、新約聖書ギリシア語の発音について―21世紀によみがえる聖書ギリシア語という記事を書きました。

そしてその中で、「従来のエラスムス式の発音の他に、最近では、〈復元版〉聖書ギリシア語の発音が、にわかに注目を浴び始めていること」、それから、「新約の書かれたヘレニズム期のギリシア語の発音は、プラトン等の古典期の発音よりも、現代ギリシア語の発音にずっと近かった」ということに触れました。

今日は、その続きとして、私の好んで聴いているオーディオの新約聖書をみなさんにご紹介したいと思います。

これはネイティブのギリシア人が現代ギリシア語発音で吹き込んだものです。聴いてみるとお分かりになると思いますが、声の高さも良く、自然なスピードで、しかも明瞭に発音されています。

このリズムや抑揚は、今、ギリシア共和国で話されているギリシア語と全く同じものなので、聴いていても、全く「死語」とか「古典語」とかいった感じがせず、私たちの心に生き生きと語りかけてきます。

おそらくエラスムス式で学ばれた方にとっては、〔i〕の音のやたらに多い現代ギリシア語の発音に最初、慣れないものを感じるかもしれません。

しかし、この「イ音化現象」(itacism, ιωτακισμός)は、すでに新約期に始まっていたことが最近の音声学の研究によって実証されています。

これについて織田昭先生はこのように書いておられます。

現代ギリシア語にはこのような「イ音化傾向」によってイ音化している字がひじょうに多い。例 ι-υ-η-ῃ-ει-οι-υι。この傾向は後述するように、既にヘレニズム期に始まったもので、新約聖書の時代にはすでにこれらのほとんど全部がイ音化して、現代語と同様に発音されていたと思われる

ー「新約聖書ギリシア語の発音について」より



ですから、たとえば、αγαπηはアガピー、οικοςはコスと朗読されています。また、ヘレニズム期には現代と同じように、αιも〔アイ〕ではなく、〔エ〕と発音されるようになっていたそうです。

ですから、καιは〔ケ〕 είναι は〔イ〕、そしてειμαιは〔イ〕と発音されます。(最初のうちはへんてこに聞こえるかもしれませんが、聴いているうちにだんだん自然になってきますので安心してください。)

どの発音法を選ぶにしても、聖書ギリシア語を学ぶ私たちが、自分の耳で生の音を聞き、リアルな生きた言葉として聖書のみことばに親しんでいくことができれば、そしてそれによって、もっともっと神様を愛する者へなっていけば、幸いですね♡

下に一例としてヨハネの黙示録のVTRをご紹介します。(新約聖書全編をお聴きになりたい方はKoine Greek New Testamentをクリックしてください。)


(ヨハネの黙示録)



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汝は神の隠れし愛 その高さ
その深さは 誰にも 計り知れません

遠くから 汝の美しき光を見、
汝の静けさを求め 慕いあえぐ

ああ わが魂は 汝のうちに安らぎを見いだすまで
休むことができません



汝の秘めやかな声は 私を静けさへと誘(いざな)います
汝のくびきは甘美なものです

しかし ああ わが意志は固くとも
情念が 私をひどく惑わせ

妨げが 至るところに ひろがっています
汝を一途に求めるも 汝の元からさまよい出てしまうのです



汝によって与えられし憐れみのうちに
わが思いは 汝の中に平安を探し求めています

しかし 求めても 私は汝を見いだすことができずにいます
さまようわが魂は 汝の平安を見ることがないのです

おお この放浪は いつ果てるのだろう

そして 汝に至ろうとするわが道程は 
いつその成就(おわり)をみるのだろう



いったい 日の下に
汝と争い わが心を占有しようとするものなど ありましょうか

ああ そのようなものをどうか引き裂き 
汝だけが お治めください

そうすれば わが心は この地上から解放され
汝のうちに 安息を見いだすことができます



おお この自我を 私から隠してください

そうすれば もはや私ではなく キリストが わが内に
生きることになりますから!

卑しむべきわが情念を 十字架に付け
どんな情欲も 生かしておかないでください

すべてのことにおいて 汝以外の何をも見たくないのです
そして汝以外 私は何をも望ます 求めたくありません!



おお愛よ この上なき汝の御助けにより
私を 卑俗な思いから お救いください

わが心から この自我を、そこに潜みしあらゆる迷想を
締め出してください

そして たえず アバ、父よと呼びかける、
汝の恭順な子とわれをなしてください



ああ 決して 私が後ろを振り向くようなことがありませんように!
汝だけがわがすべて 私は汝だけに属する者です!

なんと幸いでしょう―
汝に対する 絶え間なき炎に燃やされ
地上の玩具を 一顧だにしない魂は。

おお 汝の愛という この祝されし歩みから
決して 外れることがないよう われを助けたまえ!



地上から 引き離され
わが心は ひたすらに 汝の呼びかけを待つ。

どうか わが魂の芯奥にお語りください
「わたしは お前の愛であり 神であり、お前のすべてだ」と。

汝の御力を感じること
汝の御声を聞くこと
汝の愛を味わうこと

―願わくば、これだけがわが望みとなりますように。




Gerhard Tersteegen, Thou Hidden Love of God
私訳


所感:
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夜明け前に目が覚め、テルステーゲンのこの詩を訳しました。

ゲルハルト・テルステーゲンが1729年にドイツ語で編んだこの詩を、20年後の1749年、英国のジョン・ウェスレーが英訳しました。それが上のThou Hidden Love of Godです。私はこの詩を訳しながら、ウェスレーはどんな思いでこの詩を訳したのだろう、彼のうちにはその時、どのような魂の渇望、葛藤、そして求めがあったのだろうと想いを巡らせていました。もしかしたら、ウェスレーも私のように、ある日の朝、急にこの詩を訳したくなったのかしら。あるいは、、次なる巡回伝道へと馬を走らせる途上、孤高なこの伝道者はこの詩になぐさめを見いだし、道すがら翻訳をはじめたのかもしれません。








[相補主義] ブログ村キーワード
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まず初めに「神のことばありき」それとも、
「イデオロギーありき」?



以前の記事の中にも書きましたが、今回、もう一度申し上げます。フェミニスト神学においては、「主」と「従」の関係が逆になっています。

私たち被造物にすぎない、そして罪びとである人間は、永遠の神の御言葉を畏れと崇敬の思いをもって読み、日々、御言葉によって、自らが変えられ、矯正され、悔い改めに導かれ、新しくされることを望んでいます。

つまり、神および神の御言葉が「主」であり、私たちはあくまで「従」なのです。

一方、フェミニスト神学においては、まず頑として主張されるべき「イデオロギー」というものが王座にあります。

「まず神のことばありき」ではなく、「イデオロギーありき」なのです。

そしてこの「イデオロギー」という鋳型(mold)に合わせて、神の御言葉は取り入れられたり、剪定されたり、ねじられたり、よじられたり、付加されたり、削除されたりしています。

つまり、ここでは私たち被造物が「主」となっており、主なる神はあくまで「従」にすぎないわけです。(この点について、私は以前に、キリスト中心の福音と人間中心の福音という記事を書きました。)


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役割における「違い」と「優劣」を混同してはいけない


相補主義および対等主義それぞれの主張に耳を傾ける際に、私たちが気を付けなければならないのは、Equality(平等、同等)という言葉の用いられ方と意味だと思います。

対等主義のみなさんの誤解は、(男女における)機能および役割の「相違」を、「優劣」と同一化して考えてしまっているところにあります

本質(nature)における男女の平等および等価値性と、機能・役割(function, role)における「違い」を分けて考えることができずにいるのです。

聖書の真理によれば、牧会職は女性の「役割」ではないとされています。

しかしそれは私たち女性の価値が男性より「劣っていること」を意味するのでしょうか。もちろん違います。(このテーマに関しては、ストレスを抱え傷つき苦しんでいる女性の牧師先生および教職のみなさまへという記事を前に書きました。)


かしら(headship)について


最後に、かしら(headship)のことについても少し触れておきたいと思います。

「女のかしらは男(1コリント11:3)」であるという聖書の真理があります。

しかし現代人はこれをすぐに「男女差別」だとか「女性蔑視・抑圧」と捉えがちです。しかし、同じ節に、「キリストのかしらは神」と書いてあります。

それでは、これは「抑圧的・差別的な」父なる神による「キリスト差別」「キリスト蔑視・抑圧」となるのでしょうか?断じて、否です。

御父と御子は本質において全く等しい存在です(ヨハネ10:30等)。その一方、御子は、かしらである御父に「従われました」。

しかし、万物が御子に従うとき、御子自身も、ご自分に万物を従わせた方に従われます。これは、神が、すべてにおいてすべてとなられるためです。1コリント15:28



もちろん、ここで御子が御父に「従う」ことは、御子を御父より「劣った」存在にすることにはなりません。

このように、「本質における等価値性と、役割・機能における相違」は、男女のことだけにとどまらず、私たちが三位一体の神について深く知っていく過程においても、とても助けになります。

(このテーマ、つまり三位一体の神における“ontological equality but economic subordination” “equal in being but subordinate in role”については、いくつか詳しい論文が出されています。詳しくはWayne Grudem, Systematic Theology, Chapter 14. Trinity,
p.251をご参照ください。)


おわりに


水野源三さんが、「生きる」という題で次のような素朴で美しい詩を書いています。


神様の大きな御手の中で

かたつむりは かたつむりらしく歩み

蛍草は 蛍草らしく咲き

雨蛙は 雨蛙らしく鳴き

神様の 大きな御手の中で

私は 私らしく 生きる




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神様の大きな、大きな御手の中で、私たち被造物は生かされています。

創造の秩序(Creation Order)は私たち人間を縛るものではなく、女性を劣った存在にするものでもなく、逆に私たちを真に自由にし、男性が男性らしく、女性が女性らしく生きていくことを可能にする神の知恵であり、愛の顕れであります。

昨今、神様のお造りになったこの美しい創造の秩序に対し、反抗のこぶしを突き上げる動きが、世の中でも、教会の中でも起こってくるようになりました。

こういった動きに対してどうするのか?――聖書を神の言葉を信じるクリスチャンは今、それぞれが主の前に静まり、(人や自分の所属する機関にではなく)まず創造主なる神に、「応答」していくことが求められていると思います。

「相補主義」および「対等主義」は、神学論争という枠をはるかに超え、私たち信仰者一人一人の生き方、ものの考え方、家族・人間関係に深い影響を与えている二つの視点、二つの歩み、そして二つの信仰のあり方です。

そして神の御言葉を前にした二つの姿勢です。


あなたはどちらの道を歩んでいますか。



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≪関連する過去の記事のご紹介≫

フェミニズムとクリスチャン女性

男らしさと女らしさについて

女性に牧師職が与えられていない理由ー私たち姉妹をこよなく愛しておられる神様の心に触れて

相補主義クリスチャンへの公開レター(1コリント11章 祈りのベールについて)