(前回のつづきです。)

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実際的な指針
PRACTICAL GUIDELINES 



1.明らかな「慣習」の領域を、聖書自体から検証してください


こうして聖書を詳細に吟味することにより、私たちはそこに、「慣習」に関するある一定の範囲(幅 latitude)が示されているのに気づかされます。

例えば、旧約文化の神聖な原則は、新約文化の中でも再び述べられています。

新約聖書の中に再述されている旧約の律法や原則をみることにより、私たちは――慣習、文化そして社会的しきたりを超越する――原則の「核」となるものを見い出すことができると思います。

同時に、旧約の原則のうち(モーセ五書の食物規定など)ある物は、新約の中で無効にされていることにも気づきます。

しかしそれは「旧約の食物規定はただ単にユダヤの慣習であった」ということではありません。

そこには、――キリストが旧約の律法を無効(abrogate)にしたという――贖罪的・歴史的状況の中における相違があるわけです。

ここで注記しなければならないのは、

1)「すべての旧約の原則を新約に持ち込むという考え」も、
2)またその反対に「何も持ち込まないという考え」も、

両者共に、聖書それ自身によって正当化され得ない考えであるということです。

☆☆

それでは、どんな文化的慣習が再文化適応(再文化変容re-acculturation)として可能なのでしょうか。

そういった意味で、言語というのは、文化的に流動しうるもの・可変するものとみなすことができるでしょう。

例えば、旧約聖書の律法はヘブライ語からギリシャ語に翻訳されることが可能とみなされました。

この事実だけでも、「言葉によるコミュニケーションの可変的な性質」について、少なくとも一つの手がかりが与えられます。

つまり、言語というのは、変化に対して開かれている文化的側面を持っているのです

――しかしそれは、聖書の内容が言語学的に歪曲されるかもしれないという意味ではなく、あくまで福音がギリシャ語と同様、英語や他の言語でも宣教され得るということです。

二番目として、旧約時代の服のスタイルは「神の民が着るべき服」として永続的に固定されてはいないという事が挙げられます。

慎み深さという原則は続きますが、それぞれの地方の服装というのは変わり得るのです。

あらゆる時代の信仰者が着るべき「敬虔な服装」というのは旧約では規定されていません。

また貨幣制度といった文化的相違も、明らかに変化が許容されています。クリスチャンは円やドルの代わりに、デナリウスを使いなさいと言われているわけではないのです。

こういう――服装とか貨幣とかいった面での――文化分析は比較的容易ですが、こと話が文化的な「制度」に及ぶと、これはもっと手ごわくなります。

例えば、政府に対する忠誠や、結婚における権威の在り方などに関する現代の論争においては、よく奴隷制のことが持ち出されます。

妻に対し、「夫に対して恭順でありなさい」と命じているパウロは、同じ文脈において、「奴隷たちよ。主人に対して恭順でありなさい」と言っています。

そこである人々は、「新約聖書において、奴隷制廃止の種が蒔かれているのであるから、女性の恭順という点に関しても同様に、廃止の種が蒔かれているのだ」と主張するようになりました。

両者とも、あくまで「文化的に条件づけられた」制度的構造のことを言っているのだから、、というのがこの線に沿った議論の主張点です。

ここで私たちは、

1)聖書が単にその存在を認めている制度(例えば、「存在している権威 “the powers that be” (欽定訳)」)と、
2)聖書が明確に制定し、是認し、定めている制度

とを注意深く分けて考える必要があります。

存在する権威構造(例えばローマ帝国政府)に対する恭順という原則は、そういった構造を神が是認しているということを必ずしも含意しているわけではなく、それはあくまで謙遜と政府に対する従順に対する呼びかけなのです。

神はカエサルを立派なクリスチャンの模範としては認めていませんでした。にもかかわらず、(人間には隠された)究極的なご自身の摂理の中で、アウグストゥスをそこに任命されたのです。

それに対し、結婚制度における構造や権威のパターンは、「明確な制度およびそれに対する是認」という文脈の中で、旧約の中においても新約の中においても与えられています

家庭における聖書的な構造を、奴隷の問題と同列に置くことは、両者の間に存在する多くの相違点をあいまいにする結果を生み出してしまいます。

ですから、聖書は、

1)抑圧的ないしは邪悪な状況のただ中に置かれた場合、
2)創造の良きデザインを映し出しているような構造を定める場合、

そのどちらの場合においても、私たちクリスチャンのとるべき行動規範のための基本原理を提供しているのです。


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2.一世紀における初代クリスチャンの特殊性を考慮に入れるべきです


一世紀の文化的状況を検証することを通し、聖句をより明瞭に理解しようとする努力それ自体は良いものです。

しかし、ある人が、新約聖書を「ただ単に一世紀の文化を反響したもの」であるかのように捉え聖書を解釈していくとなると、それは全然違った話になります。

もしそうするなら、当時の初代教会が経験していた深刻な衝突――1世紀の世俗世界との対峙――、この事実をどう説明できるというのでしょう?

もし当時のクリスチャンが周囲の世俗世界に適応していたのなら、野獣の前に引き出され殺されるようなことは決してなかったはずです。


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ローマの円形闘技場で、野獣によって殺されようとしている初代クリスチャン。最後の祈りを捧げています。


――そこに本来存在すべきではない種類の――文化的考慮を持って聖句を解釈する時、「聖句を相対化する」という手段が持ち込まれます。(それは極めて微妙な手段かもしれません。)

例えば、コリントにおける被り物の問題についてですが、数多くの註解者たちが、「当時のコリントでは、被り物をしない頭というのは、(地元にいた)売春婦のしるしであった」と記しています。

「それゆえに、」とこの議論は進められます。

「パウロがここで女性に被り物を命じていた理由は、クリスチャン女性が被り物をしないことで売春婦に間違われてしまうことを避けるためだったのです。」

この種の推論の問題点はどこにあるでしょう。

基本的な問題は次の点にあります。つまり、一世紀のコリントに関して私たちが再構築した知識というのが、パウロに――パウロ当人には初耳の――理論的根拠を与えてしまっているということです。

換言するなら、私たちは使徒パウロの口に、私たち自身の言葉を押し込んでいるだけでなく、そこに存在している肝心の御言葉を無視してしまっているのです。

もしパウロがコリントにいる女性に対しただ単に「被り物をしなさい」と言っただけで、そういった指示を出した根本的理由を説明していなかったのだとすれば、私たちはその理由を見出すべく、自分たちの文化的知識に頼らざるをえなかったかもしれません。

しかしここでの場合、パウロは――コリントの売春婦の慣習云々ではなく――創造の秩序をその理論的根拠として挙げています



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当時の文化背景を詳しく調べようという熱心は良いものですが、もしその熱心が、「聖句がそこで実際に言っていること」をあいまいにし不明瞭なものにするのだとしたら、それは危険です。気を付けなければなりません。

パウロが言及している理由を差し置いて、自分たちの推論的な理由を前面に持ってきて、それを主張することは、使徒を軽んじる行為です。

そして、それはとりもなおさず、釈義(exegesis)を自己流の解釈(eisegesis)に転化させるものなのです。



(その3 最終回に続きます。)



おまけの一言

☆ウィリアム・ティンダル(1494-1536)も被り物の擁護者です!



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ウィリアムtyndale
私は答える。-パウロは書簡の中で書いていたそのようなことを口頭で教えていたと。そしてパウロのいうその伝統とはこれである。つまり、女は夫に従い、被り物をつけ、静かにし、女性らしくキリスト者らしく身を包むことである。




追伸)
「コリントの売春婦説」についての検証記事はここです。

「祈りのベールは文化的なもの?コリントの売春婦のことはどうなんですか?」







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祈り
この記事が、相補主義の先生方の元に届けられますように。この翻訳があなたにあって、あなたの時に実を結びますように。他の兄弟姉妹と共に、この祈りをイエス・キリストの御名によってお捧げします。アーメン。



被り物と聖書解釈
Head Covering and Hermeneutics (An Excerpt from “Knowing Scripture” by R.C. Sproul) here


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(R・C・スプロール師)


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原則と慣習
(PRINCIPLE AND CUSTOM)


「全ての聖句が原則であり、従ってあらゆる時代のあらゆる人々に適用されるべきものだ」と結論づけるか、もしくはその反対に、「あらゆる聖句は特定の(その土地に限られた)慣習にすぎず、その直接の歴史的文脈を超えるいかなる関連性もそこには存在しない」と結論づけるか?

あるいはこの二つ以外の結論が存在するのでしょうか?――その場合、私たちは、その差異を識別するための〈なにがしかのカテゴリー〉ないし〈基準〉を打ち立てる必要に迫られます。

☆☆

この問題を説明するために、まずは「聖句のすべては原則であり、特定の慣習を反映したものなどは皆無だ」と私たちが考えた場合にどんなことが起こるかをみてみることにしましょう。

もしそれが正しいのなら、そして聖句に従順であろうとするならば、福音宣教の手法における、ある抜本的な変化が起こされねばならないことになります。

イエスは仰せられました。「財布も袋もくつも持って行くな。だれにも道であいさつするな」(ルカ10:4)。

もし私たちがこの聖句を、超文化的原則に当てはめて考えるなら、今後、伝道者という伝道者は皆、裸足で宣教に出かけなければならなくなります

もちろん、この聖句の要点は、裸足による福音宣教を永続的な義務とすることにあるのではありません。

しかし、その他の箇所は、それほど明瞭ではありません。例えば、洗足の儀式(ヨハネ13:3-17)については、クリスチャンの間では今でも意見が分かれています。

これは果たして、あらゆる時代の教会に課せられた永続的な掟なのでしょうか。それとも、謙遜なしもべとして仕えるという原則を表すための特定の慣習なのでしょうか。

靴を履く現代の文化の中にあっては、原則こそ残れども、慣習は消滅すると考えるべきなのか、それとも、そういった靴装にかかわらず、原則と共にやはり慣習も残るのだ、と考えるべきなのでしょうか。

こういったジレンマの複雑性をみるべく、1コリント11章にあるあの有名な「被り物」についての箇所を検証してみることにしましょう。

新改訂標準訳では、女性は預言するとき、頭にベールをかぶらなければならないと訳しています。

この掟を自分たちの文化に適用させていく上で、私たちは以下に挙げる四つの選択肢に直面することになります。


1.完全に慣習だとみなす立場

ここの聖句全体は、文化的慣習を反映したものであり、今日性はない。

ベールというのはその地方の慣習的な頭飾り(headgear)である。頭を覆わないことは、その地方においては、売春婦のしるしとしての意味を持っていた。

女性が男性に恭順することを表すしるしは、ユダヤ教の慣習であり、新約聖書の包括的教えの観点からみた場合は、これは時代遅れなものである。

私たちは異なる文化圏に住んでいるのだから、もはや女性がベールをかぶる必要はないし、(ベールに限らず)何をかぶる必要もない。さらに言えば、もはや女性が男性に対し恭順である必要もない。


2.完全に原則だとみなす立場

この場合、この聖句に包含される全てのことは、文化を超越した原則とみなされます。

そしてそれを実際に適用した場合、次のようになります。

1)女性は祈りの時、男性に対し恭順でなければならない。
2)女性は被り物をすることにより、そういった恭順のしるしを常に表わさねばならない。
3)女性は、唯一適切なしるしとして、ベールを常にかぶらなければならない。


3.ある部分は原則であり、ある部分は慣習であるとみなす立場(選択肢A)

このアプローチによれば、聖書箇所のある部分は原則として捉えられており、よってあらゆる時代に適用されるべきだと考えられています。

その一方、他の部分は慣習とみなされ、従ってもはやそれに従う必要はないとされています。

ですから、女性の恭順という原則は超文化的なものですが、それを表す方法(ベールで頭を覆う)というのはあくまで慣習的なものであり、変わり得るだろうというのです。


4.それは部分的に原則だと捉える立場(選択肢B)。

この選択肢においては、女性の恭順という原則と、頭を覆うという象徴的行為は永続的なものとみなされます。

被り物の種類は文化によって異なるかもしれません。ベールはバブーシュカ型のスカーフや帽子に置き換わるかもしれないでしょう。


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それでは上に挙げたどの選択肢が最も神に喜ばれるものなのでしょう。

私はこの問いに関する絶対的な答えを有しているわけではありません。こういった問題は非常に複雑で、短絡的な解決に訴えることができない場合が多くあります。

しかし、一つのことは明瞭です。――そういった問題を解決するのを助けるような、なにがしかの実際的指針がぜひとも必要とされているということです。

またこの手の問題には、実践を伴う決断が要求される場合も多く、また「まあ、後の世代の人に解決してもらおう」とこれらを神学的〈押入れ〉にしまい込んでしまうこともできません。

以下に挙げる指針がみなさんのお役に立てれば幸いです。


(2)に続きます。




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古い十字架は 人を方向転換させていた。
一方、新しい十字架は 人を娯楽にふけらせている。

古い十字架は 罪を責めていた。
一方、新しい十字架は 人を楽しませている。

古い十字架は 肉にある自負心を打ち壊いていた。
一方、新しい十字架は それを肯定し 助長させている。



以下は、今は亡きA・W・トーザーの文章ですが、これが五十年以上も前に書かれたということに私は驚きました。今日、彼が生きていたら21世紀の教会についてどんな感想を述べるだろうと思いながら翻訳を進めました。


クリスチャン・エンターテイメント
――福音主義教会の問題(A・W・トーザー)



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Ⅱテモテ3:4b-5
、、神よりも快楽を愛する者、信心深い様子をしながらその実を捨てる者となるであろう。こうした人々を避けなさい。



クリスチャン・エンターテイメントは、完膚なきまで教会を汚染し尽くしているため、何百万という人はもはやそれが異端であることにすら気づいていない。

何百万という福音主義クリスチャンがこういった「クリスチャン・エンターテイメント」に自らを明け渡している。

しかしこれを明るみに出そうとするや、嵐のような怒りの抗議が上がる。

もはや神礼拝のできなくなった教会は、娯楽でその場を埋めなくてはならない。

神を礼拝するよう教会を導くことのできなくなった人々は、信徒に娯楽を用意しなければならなくなる。

キリスト教は今、悲劇的なほど新約聖書の規準を下回っている。

世俗化というのはもはや公認されたライフ・スタイルとなり、私たちは礼拝の本質を見失ってしまった。そしてそのような場所からは聖徒は輩出されない。

多くの教会において、キリスト教はあまりにも「水で薄められ」害にも益にもならない代物になってしまった。

唯一の「売り」が神である集会には、人はもはや集まってこない。

神の子どもたちはもはや主に「飽きて」しまったのだろうか。

娯楽で養われている教会は、新約聖書の教会ではない。

表層的な刺激を求める願望は、罪深い性質の顕れである。

今日、人気を博す形式のキリスト教というのが流行しているが、そこにはほとんど力がない。

なぜなら、そこには確信がなく、悔い改めもなく、主より来る悲しみもないからだ。

クリスチャン・エンターテイメントにより、「福音集会に〈お笑い〉の要素がなければならない」という観念が植え付けられた。これは悲劇である。

その結果、人間が崇めたてられるようになり、肉的な方法論が導入され、単に威勢のいい人が御霊に満ちた人だと勘違いされるようになった。

またキリスト教は単純化されすぎた形態を取るようになった。

「神さまは愛です。イエス様はあなたのために死んでくださいましたよ。それを受け入れてごらんなさい。そして楽しく陽気に生きようじゃありませんか。そしてそれを他の人々にも伝えましょう」と。

私はそういう種類のキリスト教とは全く関わりたくない。

浅薄で世俗的な指導者たちは、教会の中に娯楽を求める群衆のご機嫌を取るべく、十字架の言を「修正」しようとし、それにより、霊的災害が引き起こされている。

今日の「〈金の子牛〉的キリスト教」に対する抗議は、必ずといっていいほど、「でも、私たちは魂を勝ち取っているじゃありませんか」という反論に遭う。

魂を勝ち取る、、一体何のために?

それはまことの弟子を生み出すためであろうか。

自己犠牲的な愛をもった信仰者を生み出すためであろうか。

聖なる生活に導くものであろうか。

イエスに対する完全なる献身を求めるものであろうか。

もちろん、これらの問いに対する答えはNO!である。

教会は往々にして、御霊によって触れられることなしに、ただ人間的な才能を行使することによって生き残り、また繁栄を遂げているように見える。

今日、何百万ドルというお金が「神の子どもたち」を娯楽によって楽しませようという、清くない産業のためにつぎ込まれている。

多くの場所で、クリスチャン・エンターテイメントは恐ろしいスピードで、神に属する真剣な事柄を締め出していっている。

しかもそれに対し、警告の声を挙げる者はほとんど誰もいない!

私たちには新しい改革が必要とされている。

私たちは、無責任にして面白半分のこういった〈異教的キリスト教〉とはっきり袂を分かつべきである。

こういう種類のキリスト教は今や、非聖書的なメソッドを用いる非聖書的な人間によって、世界中に拡がっている。

「キリスト教を、世の人に受け入れられるものにしよう」という私たちの痛ましい努力は、実を結ぶどころかますます悪化の一途をたどっている。

マラキ1:6a
子は父を敬い、しもべはその主人を敬う。
もし、わたしが父であるなら、
どこに、わたしへの恐れがあるのか。

――万軍の主は、あなたがたに仰せられる。――











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おお神よ、

あなたの御霊が私のうちで語ってくださらんことを。


そうすれば、私はあなたに語りかけることができます。


私の内には何ら善がありません。

イエスの善が私を支えてくださいますように。



私はあなたの愛を受けるに値しない者です。

しかしあなたのご慈愛にすがっています。



私の内は弱さ、足りなさ、罪で一杯です。

しかしあなたは恵みに溢れておられます。



私は自分の罪を告白します。

よく犯してしまう罪、意図的に犯した罪を今、告白します。



私の肉と魂はことごとく汚れています。

この汚染されし源は、私の性質に深く根差しています。



汚らわしいイメージを据えた数々の部屋が、自分の心の中にあります。


そして私はその忌まわしい部屋の間をせわしなく行き来し、

危険な想像にあてもなく身を任せ、

堕落した自分の恥ずべき秘密をそこに見ています。



自分の内側がこのような状態であるということを、私は非常に恥じています。


私の内には青々とした若芽もなければ果実もなく、

そこにあるのはただ、棘とあざみだけです。


私は風に吹き飛ばされてしまう枯れ葉のようです。


役にも立たず、冬の木のようにむなしく不毛な生活を送っています。


このような者は切り倒され、

焼かれても仕方のない存在なのかもしれません。


主よ、こんな私を憐れんでくださいますか?



あなたは私のプライドに強烈な一撃を加えられました。

――そうです、自己という偽りの神に。



そして私は身も心もバラバラになって あなたの前に横たわっています。



しかしあなたは私に

―別の主人であり主である御方―あなたの御子イエスをくださいました。



ですから今、私の心は聖さに向かい、


私の人生は、弓から射られる矢のごとく、

あなたに対する全き従順を目ざし疾走しています。



私のなす全てにおいて、

罪を捨て、高慢を打ち砕くことができるよう、どうか助けてください。


世への愛、生活の驕り、

堕落した人間にとってなじみのある一切の事から私をお救いください。


そして日々、私の内でキリストのご性質が顕されていきますように。


不満を言うことなく

あなたの御心をなしていくことができるよう恵みを与えてください。



そして、掘られ、正され、形作られることを喜ぶだけでなく


――あまりにも長い間 はめ込まれていたこの〈古い岩〉から分離されていくことにおいても――

それを喜ぶことのできる恵みを与えてください。



ああ主よ、私を石切り場からはるか上の空へと引き上げてください。


そこでこそ、私は永遠に

キリストの内に建て上げられることができますから。




-Heart Corruption, The Valley of Vision: A Collection of Puritan Prayers & Devotionsより 私訳







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主よ、

苦しく 疲れ切ってしまう時、


あなたの掟を守るのが つらく感じる時、


あまりの重荷に 不満を言いそうになる時、



その時 あなたの御手を見せてくださいー


釘の刺し跡のある手を。引き裂かれた手を。




私の救い主。

あなたの御手を見せてください。



おおキリスト、

もしも 私の足がたじろぎ、

後ずさりしようとするなら、



もしも 荒野と棘が私を嘆かせるなら


主よ、その時 

どうか あなたの御足を見せてくださいー



血まみれの御足、釘の傷跡のある御足をー


私のイエス、

あなたの御足を見せてください。




おお神、

私の手や足を 

あなたに見せることなど できましょうか。



Amy Carmichael, The Widow of the Jewelsより私訳





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神の愛のうちに自分自身を保ち、永遠のいのちに至らせる、私たちの主イエス・キリストのあわれみを待ち望みなさい。ユダ1:21



私のクリスチャン・ネームはハンスです。私はイラン北部で生まれました。

13歳の時、私はイスラム革命防衛隊の中の民兵部隊バスィージに入隊しました。そしてその中で対イラク戦に関する事、そしてさまざまなイスラム・イデオロギーを学んでいきました。

14歳の時、私はイラクへの出兵を志願しました。しかし規定の年齢に満たないという理由で却下されました。


革命委員会のメンバーとして


1987年、兵役を終えた後、私はイスラム革命委員会(コミテ)のメンバーとして徴用されました。クルディスターンのサナンダージ市では市を統括する役職に就き、そこでの功績が認められ、私はテヘラン中央の部署に栄転となりました。

ある日、勤務帰りに街の中央部を歩いていると、ある人が私に近づいてきて、「招待状」と書かれた封筒を渡しました。なんの招待状だろうと思って後で中身を開いてみると、テヘラン市内にあるプロテスタント教会からのものでした。

そこで私はその教会に行ってみることにしました。何回か教会に足を運び、また教会の人からも「イエス・キリストに心を開きませんか?」と言われましたが、私は拒絶しました。


旧約聖書とユダヤ人


私がキリスト教を受け入れることができなかった最大の理由は、旧約聖書にありました。

なぜなら旧約に「ユダヤ人は神に選ばれた民である」という内容が書かれていたからです。それも一か所ではなく、多くの箇所にそういう事が書かれてありました。

私はイスラム革命防衛隊で徹底的なイデオロギー教育を受けてきましたので、これはどうしても受け入れることのできない内容でした。私にとってユダヤ人を打ちのめすことは非常に重要な意味を持っていました。

実際、私は防衛隊の中の自爆テロ隊に志願しよう、そして自分が玉砕することを通して、一人でも多くのユダヤ人を滅ぼすことができるならそれが本望だと思っていました。

こうして私はイエス・キリストに心を開くことをしませんでした。みなさんに申し上げますが、これは大きな失敗でした。

というのも、私の上にはその時すでに、主の御手が置かれていたのに、私をそれを無情にも振り払ってしまったからです。


亡命


さてその後、モハンマド・ハタミ政権となり、私はある部署で働いていました。その部署は私以外、全員が反ハタミ派でした。そのため、ハタミ政権が崩壊し、親ハタミ派に対する公職追放が始まった時、私の立場は非常に危ういものになりました。

このような状況下、私は身重の妻を連れ、ドイツに亡命しました。

2013年、私と妻の間で大きな問題が起こり、私たちは離婚しました。この事は私にとって耐えられないほどの打撃となりました。

そして重度のストレスから私はついに脳溢血を起こし、49日間に渡り、脳死状態に置かれたのです。


イエス・キリストにまみえる


私の体は集中治療室にありましたが、その時、私の霊は肉体を離れ、上の世界に行っていました。

私はそこで亡くなった知人や多くの人々に出会いました。

興味深かったのが、知人もそうでない人たちも、私と目が合うと、皆、腕をのばし、斜め上の方を指さしながら「イエス・キリストを見なさい」と言っていたことでした。

私はこの場所で、この御方がヤシュアとか、ヤホバとか、マスィーとか、さまざまな名で呼ばれているのを聞きました。

私はこのイエス・キリストに属する人たちの群れに近づこうとしました。何かとても平安を感じたからです。

しかしその時、私は自分の息子の泣き声を聞きました。見ると、息子が私の遺体にすがりついて泣いていました。他の人間の声や姿ははっきりしていなかったにも関わらず、なぜか息子の声だけは人間の声として明瞭に聞こえてきたのが、今思うと不思議です。

その時、私はイエス・キリストの御前に移されました。この御方は私に葡萄酒を差し出し、「これを飲みなさい」と言いました。

「アルコールは飲みません。」と私は辞退しました。

するとこの方は下の方を指さし、私は本来、下の世界に行くべき者であることをお明かしになられました。

そしてもう一度、「これを飲んで、生きなさい。そして息子の元に帰りなさい。」と言われました。こうして私は葡萄酒を受け取り、それを飲みました。

そして次に目を開けると、自分は集中治療室の中にいました。


新生


意識を取り戻した後、私は「40日を過ぎた当たりから、脳死状態の私の延命治療を今後も続けるか否かで医者と家族との間で話し合いがもたれていた」と家族から聞きました。

それを聞いた私は家族に、「その話し合いがもたれている期間、私は上の世界でイエス・キリストと和解をした。そしてイエス様はもう一度私に命を与えてくださった。」と証ししました。

また家族から話を聞いて知ったのが、この期間、ある教会の牧師が祈りの要請を受け、生死の境をさまよっていた私のために、教会の皆が一丸となり熱心にとりなしの祈りを捧げていたということでした。

私の救いの背後に彼らの祈りがあったことを知りました。

二回目の手術が終わり、外出許可が出るや否や、私はその教会に行きました。(車椅子で運んでもらいました。)

25年前、私はイエス様の差し出してくださった御手を振り払い拒絶するという大きな過ちを犯していましたので、今度こそその失敗を繰り返したくなかったのです。

そしてその日、私は公に自分の罪を悔い改め、イエス・キリストを自分の救い主として受け入れました。


ユダヤ人への謝罪と和解


救われた後、これまでユダヤ人を殺そうとしてきた自分の罪を深く悔いる心が起こされました。そして私はその悔い改めを文書にしました。

その後、その悔い改めと証しの文章はヘブライ語にも訳され、イスラエルの新聞に掲載されたということを聞きました。

そして感謝なことに、私のその謝罪の心をユダヤ人は受け入れてくれたと聞いたのです。


黒人への謝罪と和解


私は救われる以前、黒人を忌み嫌っていました。特に、黒人の体臭に我慢ならないものを感じていました。

ある修養会に参加した時、そこの会場に、黒人教会からも大勢の兄弟姉妹が来ていました。

私はある晩、意図せず、彼らが集まっている場所に来てしまい、心の中で「しまった」と思いました。そして早くこの場を通り抜けようと思いました。

しかしその時、主が私の心にはっきりとこう語りかけました。「彼らもわたしの愛する子だ」と。

そして聖霊は私のその罪を非常に強く示し、私は悔い改めに導かれました。そしてそこにいた黒人の方々にその罪を告白し、赦しを乞いました。

彼らはその悔い改めを受け入れてくださっただけでなく、私を彼らの教会に招待してくださいました。

私はそこで公に兄弟姉妹に謝罪すると共に、キリストにある愛の言葉を伝えました。

今まであれだけ体臭を嫌っていたのに、その後、そういう感情は全く消え去り、私は彼らを愛するようになっていました。そして彼らに申し上げたのです。

「兄弟姉妹のみなさん、私は今、みなさんを愛しています。みなさんからはキリストの良い香りが溢れているのです!」


この証しを読んでくださり、ありがとうございました。



出典:شهادت زندگی برادر هانس







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『神へのあこがれ(The Pursuit of God)』


第一章 神を切に追い求めて



(前回のつづき)



私はここでみなさんにあえて申し上げることにします。どうか熱烈に神を追い求めてください。

これなしには私たちは現在のような低い状態に陥ったままです。

私たちの信仰生活にみられる堅苦しさ、生彩のなさは、このような聖なる願望が欠けていることに起因しています。

自己満足は、あらゆる霊的成長を阻む致命的障害です。

燃えるような願望というのが私たちの内になければならず、それなしには、主の民のうちにキリストの顕現はありえません。

主は追い求められることを望んでおられます。多くの人がこれまで長い間、ひたすら主を待たせてしまっていること、これはとても残念なことです。


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各時代はそれぞれ特有の特徴を帯びています。

現在、私たちは宗教的「複雑性」ともいうべき時代に生きています。

キリストのうちにある単純性は私たちの内にほとんど見られません。

そしてそれに取って代わるかのように、そこには種々の企画、方法論、組織、――ひたすら時間とエネルギーを消耗させる盛んな活動、、といったものが溢れています。

しかし、そういったものでは、決して魂の渇望を満たすことはできないのです。

内なる経験の浅薄さ、礼拝の空虚さ、(商業的宣伝が中心のメソッドによって特徴づけられている)世への追従と模倣――こういったものは全て、私たちが今日、神をきわめて不完全にしか知っておらず、神の平安をも持していないことを雄弁に物語っています。



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こういった宗教的〈外側のもの〉が溢れる中にあって、私たちはまず主を探し求めることを堅く決意し、その後、単純にしてシンプルな道を進んでいかなくてはなりません。

昔も今も、神はご自身を「幼な子たち」に現わし、賢い者や知恵ある者には濃い暗闇のうちにお隠しになります。

私たちは主に近づく道においてもこれを単純化しなければなりません。

そして本質的なものに絞り、それ以外の余分なものは取り除くべきです。(そして実際、本質的なものとは驚くほどわずかなのです。)

私たちは人に良い印象を与え自己アピールしようとするあらゆる試みを捨て去り、打算のない子どもの率直さをもって主に向かわなければなりません。

もしそうするなら、主は即座に応答してくださるでしょう。


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キリスト教信仰においては、実際に、神ご自身の他、私たちが必要としているものはほとんどないのです。

神だけを一途に求めるのではなく、神と共に他の〈何か〉を求めるという悪習慣により、私たちは完全な啓示の中で神を見い出すことを阻まれています。

この「他の何か」というのが私たちの強敵なのです。もしこれを除くことができるのなら、私たちは時をおかずして神を見い出すでしょう。

そしてこれまでの人生において秘かにずっと願い求めてきたものをこのお方のうちに見つけるでしょう。

そしてその際に、「神だけを追い求めることで、自分の生き方が狭くされてしまうのでは、、(他者にたいして)開かれた心の動きが制限されてしまうのでは」などと恐れるには及びません。

むしろその逆が然りなのです。つまり、私たちは神をわが全てとなした上で、このお方のためにひたすら心を砕き、多くを犠牲にすることができるようになるのです。


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古い英語の古典に『知られざる雲』という本がありますが、この本の著者はそういったシンプルさを求める方法について次のように語っています。

「柔和な愛をもってあなたの心を神に向けなさい。その際、ただ神ご自身に心を向け、神の所有しておられる物には一切心を捕らわれてはなりません。そして神ご自身以外のなにかを考えることを忌み嫌いなさい。そうすればあなたの理知でも意志でもなく、ただ神ご自身が働いてくださるでしょう。これこそが最も神に喜ばれる魂の働きなのです。」

また、著者は、祈る際に、私たちがさらに全てを――自分たちの神学でさえも――脱ぎ捨てることを勧めています。

「神ご自身を求める以外のいかなる動機をも持たず、むき出しの意思をもって直接神に向かうこと――これで十分なのです。」

しかしそうであっても、この著者の思想の背景にはやはり――新約聖書の真理という――れっきとした土台が据えられています。

というのも、著者は「ご自身によって」という意味を、「あなたをお造りになり、買い取られ、そしてご慈愛をもってあなたを呼んでくださった方によって」と説明しているからです。

そして著者は単純性を追求しています。宗教を「一語のうちに包み、折り込もうと思うなら」と彼は言います。

「一音節だけの小さな語をたずさえなさい。なぜなら、一語は二語よりも良く、さらに短ければ短いほどより良く、御霊の働きと一致します。その一語とはすなわち、〈神〉ないしは〈愛〉です。」



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主なる神がイスラエルの部族の間でカナンの土地を分割なさった際、レビ族には相続地は与えられませんでした。

神はただレビ族に「わたしがあなたの分であり、あなたの嗣業である」とだけ仰せられました。そしてこの言葉により、レビ族を他のどの兄弟にもまさり豊かな者、かつて生存したあらゆる王、あらゆる支配者にまさり豊かな者とされたのです。

ここには霊的な原則が存在しています。そしてこの原則は、いと高き神に仕える全ての祭司に今日でも適用されるものです。

神を自分の宝として持している人は、このお方にあって全てを持っています。

他の多くの宝はこの人には与えられないかもしれませんし、与えられたとしても、それを持つ楽しみというのは加減されるため、その幸せは決してこの人にとって必要不可欠のものとはならないのです。

また仮にそういった楽しみが一つ、また一つと取り去られていったとしても、この人はほとんと喪失感を覚えないでしょう。

なぜなら、この人は全ての物のであられる方を持しているからであり、この方のうちにあって、彼はあらゆる満たし、あらゆる楽しみ、あらゆる喜びを持っているからです。

たとい彼が何を失ったとしても、彼は実質上、何をも喪失していないのです。

なぜなら、彼は今やこの方のうちにあって全てを持しており、それを純粋に、正当に、そして永遠に持っているからです。



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祈り


おお神よ、私は汝のすばらしさを味わってきました。

それは私を満足させると共に、汝に対するさらなる飢え渇きへと私を誘います。

そうです、さらなる恵みの必要性を私は切実に感じています。

私のうちには汝を求める願いが欠如しており、それを恥ずかしく思っています。

おお神、三位一体の神よ。汝を求めることをしたいのです。

切望感で満たされたい。そしてさらに飢え渇きを覚えられたらどんなにいいかと願っています。

どうか汝の栄光を見せてください。そうすれば、私は真に汝を知ることができるでしょう。

憐れみの中で、私の内に新しい愛の業を始めてください。

そして私の魂に語りかけてください。「わが愛しい者、さあ立って、出ておいで」と。

そうして――長い長い間さまよっていた――この靄(もや)の立ち込める低地を起って、汝の元へと飛翔していくことができますよう、恵みをお与えください。

イエスの御名によって。アーメン。



【第一章部分 終わり】




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(A・W・トーザー 1897-1963)


『神へのあこがれ(The Pursuit of God)』


第一章 神を切に追い求めて



(前回のつづき)


神はパーソンであり、主はその力強いご性質の深みにおいて、人間と同じように、考え、意思し、楽しみ、感じ、愛し、願い、苦しまれます。

そしてご自身を私たちに知らしめる過程において、主は私たちになじみのある人格の型として存在されます。

そして、私たちの思考、意志、感情といった媒介物を通して意思疎通を図ってくださいます。

――神と、贖われた人間の魂との間に存在する、絶え間ない、流れるような愛と精神の交わり――は、新約聖書の宗教の、心うち震えるような真髄です。


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神と魂との間におけるこの交わりは、自覚することのできる個人的認識(personal awareness)の下に、私たちに知られうるものです。

それは個人的です。――つまりそれは、信者たちの群れ(the body of believers)を通してではなく、あくまで個々人に、そしてからだを構成する個々人を通して知られうるものです。

そしてまたこれは自覚(意識)することのできるものです。つまり、それは意識の域を下回るものではなく、魂の知らないところで働くものでもないのです。(例えば、幼児洗礼のことをそのように考えている人がいます。)

しかし真実はそうではなく、それは私たちの意識できる領域内に来るものであり、そこで人は――経験による諸事実を知るのと同様――それを「知る」ことができるのです。


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神が大規模だとすると、あなたや私は(罪を除き)その小規模版です。

神のかたちに造られた私たちは、自らのうちに主を知ることのできる能力を備えています。しかし罪ゆえに、私たちにはその力がありません。

新生により御霊が私たちにいのちを吹き込まれるや、私たちの全存在が神に対する親しさを感じ、喜びに満ちたその認識の中で、神を歓喜するようになります。

それがいわゆる天的な誕生であり、それなしには私たちは神の国を見ることができません。

しかしそれは終焉ではなく、始まりにすぎないのです。というのも、いよいよここから、栄光ある「神への求め」、神の無限の豊かさを求める心の幸いな探求が始まるからです。

それを持って始まると私は言いましたが、未だそれを極めたことのある人はいません。なぜなら、深遠にして神秘に満ちた三位一体の神の深さの中には制限も終わりもないからです。



果てしのない海原 誰が汝を測ることなどできようか
汝の永遠は 汝を取り囲む
おお 偉大な神よ!




神を見い出したにも関わらず、依然として神を追い求め続ける―。これは魂のなす愛の逆説であり――いとも容易に満足し切ってしまう宗教家にはあざ笑われるかもしれませんが、火のような熱意を持って神を慕い求める魂にとっては、自らの幸いな経験において正当化されるものです。

聖ベルナールはこの神聖な逆説を次のような四行詩で言い表しましたが、これは神を慕ってやまない魂にとっては瞬時に理解され得るところのものでしょう。



われらは汝を味わい喜んでいます。おお 生けるパンよ。
そして尚も汝を味わおうと切望しています。

われらは汝を飲んでいます。おお すべての源泉よ。
そしてわれらが魂を満たそうと、今なお汝を渇き求めているのです。





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過去に生きた敬虔な男女をよく見てください。彼らがどんなに神に対し燃えるような情熱を持っていたかに気づくはずです。

彼らは主を想って嘆きました。昼と言わず夜と言わず、そして時期が良かろうが悪かろうが、とにかく彼らは主に祈り、祈りの中で主と争い、そして主を探し求めました。

そうした後についに主を探しだした彼らの甘美な喜びは言い尽くせぬものでした。

事実モーセは、「主をさらに知りたい」という主張をもって、自分が「神を知っている」という事実を示したのです。

「今、もしも、私があなたのお心にかなっているのでしたら、どうか、あなたの道を教えてください。そうすれば、私はあなたを知ることができ、あなたのお心にかなうようになれるでしょう。」

そしてここから起ちて彼はさらに大胆な嘆願をしました。「どうか、あなたの栄光を私に見せてください。」

神はモーセのこうした情熱を率直に喜ばれ、翌日にはモーセをシナイ山に呼び、そこで荘厳な一連の出来事を通し、彼の前にご自身の栄光が通り過ぎるのをお許しになりました。

ダビデの人生は霊的渇望のほとばしりであったと言っても過言ではなく、彼の書いた詩篇には神を求める者の叫びと、神を見い出した者の歓喜の叫びが鳴り響いています。

パウロは、自分の人生を突き動かしているものは、キリストを求める燃える情熱に他ならないと告白しました。「キリストを知り That I may know Him」というのが彼の心の目的であり、そのためにパウロは全てを犠牲にしたのです。

「わたしは、更に進んで、わたしの主キリスト・イエスを知る知識の絶大な価値のゆえに、いっさいのものを損と思っている。キリストのゆえに、わたしはすべてを失ったが、それらのものを、ふん土のように思っている。それは、わたしがキリストを得るためである。」


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讃美歌は神を慕い求める者にかぐわしく、歌う者は賛美の中で神を求めつつも、自分が神をすでに見いだしたことをも同時に知っているのです。

「♪主の足跡を見いだし、私をそれを追い求める。」これは、ほんの一世代前まで先人によって歌われていた賛美の一節ですが、今ではどの教会でもほとんど歌われていません。

この暗い時代に生きる私たちが、「神への求め」という営みを自分たちの教師たちに任せっきりにしているとは、何という悲劇でしょう。

今、全てはただキリストを「受け入れる」という最初の行為のみに焦点が当てられ(ちなみに、キリストを「受け入れる」というこの表現は聖書のどこにも存在しません。)、その後、魂がさらなる神の啓示を求めることは何ら期待されていない――残念ながら、これが目下の現状です。


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「一度主を見い出したのなら、もはや主を求める必要はない」という誤った論理が私たちの間でまかり通っています。

そしてこういった論理は正統派信仰の「決定版」としてのお墨付きをもらい、その結果、聖書信仰のクリスチャンは、これ以外の信じ方をしてはならないのだ、と思い込んでしまっています。

それゆえ、このテーマに関し、これまで礼拝し、追い求め、賛美してきた過去の教会の証しは、もろともにうち棄てられてきました。

数多くの香り高い聖徒たちの「経験に基づく心の神学」は、ひとりよがりで独善的な聖書解釈による被害を被り、拒絶されています。

――こうした聖書解釈は、もちろん、アウグスティヌスやラザフォード、ブレイナードといった聖徒にとっては奇妙なものに思えて仕方がないに違いありません。

しかしこういう陰気な状況のただ中にありながらも、そのような浅薄な論理に己を甘んじさせようとしない一握りの聖徒たちが存在しています。

彼らは現行の議論が優勢であるのを認めながらも、その後、涙のうちに、ひと気のない場所を求めて一人退き、「おお神よ、私にあなたの栄光を見せてください」と祈るのです。

そうです。彼らはこの神秘――つまり神ご自身を――味わいたい、心で触れたい、内なる目で見たいと熱望しているのです。



(3)につづきます。





無題


神へのあこがれ
The Pursuit of God




第一章 神を切に追い求めて
I. Following Hard after God



わたしの魂はあなたにすがりつき、あなたの右の手はわたしをささえられる。詩編63:8 

My soul followeth hard after thee: thy right hand upholdeth me. Psalm 63:8




キリスト教神学は、「先行する恵み」という教理を奉じています。――人が神を求め得る前に、神の方でまずこの人間を追い求めていたという教えです。

罪深い人間が正しく神のことを認識する以前に、この人の内で、なにがしかの「照らし」の業がなされていなければならない。――それは不完全ではあるかもしれないけれど、いずれにしてもまことの働きです。

そしてそれに引き続いて、あらゆる人間側からの求め、渇望、そして祈りが起こされるというのです。



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私たちが神を求めるのは、神がまず私たちのうちに、ご自身を求めるよう強い願いを起こさせてくださるからです。

「わたしを遣わした父が引き寄せられない限り、誰もわたしのところに来ることはできません」と主は仰せられました。

そしてまさにこの「先行する神の引き寄せ」ゆえに、主は、――人が神を追い求め、神の元に行くというその行為についての功績――をことごとく取り去ってしまわれます。

神を求める強い願望は、神より生ずるものですが、その願いを完遂していく過程においては、そこに我々人間の、神を追い求める行為があるわけです。

そして私たちが神を追い求める間中ずっと、私たちはすでに主の御手の中に入れられているのです。「あなたの右の手はわたしをささえられる。」



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そしてこの神聖な「(神よりの)支え」と「(人間の)追い求め」の間には、何ら矛盾がありません。全ては神より出ており、ヴォン・ヒューゲルの言うように、神は常に「先行する方(previous)」だからです。

しかし実際には(つまり、神の先行する働きが、人間の現在の応答と交わる場において、という意味で)人は神を追い求めなければならないのです。

私たちの側として考えてみると、もしこの、神の秘かな引き寄せというものが、結果的に聖なる方を経験するという事を生じさせるのだとしたら、そこには肯定的な「相互性(reciprocation)」があるわけです。

こういった事をあたたかく私的な感情を込め、詩編42篇は次のように記しています。

「鹿が谷川の流れを慕いあえぐように、神よ。私のたましいはあなたを慕いあえぎます。私のたましいは、神を、生ける神を求めて渇いています。いつ、私は行って、神の御前に出ましょうか。」

これは「淵が淵を呼び起こす」ものであり、神を切に求めている心にはこれが理解できます。



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信仰義認の教え――これはれっきとした聖書的真理であり、不毛な律法主義やむなしい自己救済からの喜ばしい救いです――は、残念なことに現在、悪い者たちの手中に陥り、多くの人はこれを「神を知る知識を求めてはいけないという意味なのだ」とさえ解釈してしまっている有様です。

その結果、回心の行程は、機械的なもの、そして命のないものへと変貌していきました。

信仰は今や、倫理生活なしに、そして古いアダムのエゴに対する羞恥心なしに、表明されるようになりました。

キリストは――受け入れる側の魂の中に主に対する特別な愛を生じさせることなしに――「受け入れられて」います。

ある人が「救われた」と言っても、その人の内には神に対する飢え渇きがありません。いや、むしろ、こういった人々は、「そのままの状態で満足しなさい」「(そのわずかなもので)満ち足りることが大切」とはっきり教え込まれているのです。



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現代の科学者が――神の創造された世界の神秘のただ中に置かれていながらも、神を見失ってしまったのなら――、私たちクリスチャンは、神の御言葉という神秘のただ中に置かれていながらも神を見失いつつある、という切迫した危険にあると言えましょう。

神は人格をもったパーソンであり、それ故、人間の場合と同様、(関係において)育み育まれる存在だということを、私たちはほとんど忘れ去ってしまっています。

「他の人格を知ることができる」という属性は、元々人格に内在するものですが、一つの人格が他の人格を完全に知るようになるのは、ただ一回の出会いと交わりによってはなされ得ません。

それはむしろ、長期的で、かつ愛情に満ちた精神的交流を通し、互いの内に内在する可能性がくまなく見つけ出されていくものなのです。


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社会的な人間関係はすべて、人格の人格に対する応答によって成り立っています。そしてそれは、もっとも軽い、うわべだけの接触というレベルから、人間の魂がなしうる最も完全にして親密な交わりというレベルまで実にさまざまです。

宗教というのは、それが純粋なものである限り、その本質において、「創造された人格の、創造する御人格(=神)に対する応答」ということができます。

その永遠のいのちとは、彼らが唯一のまことの神であるあなたと、あなたの遣わされたイエス・キリストとを知ることです。(ヨハネ17:3)





(2)につづきます。〔私訳〕








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おお!この喜び、この天的な喜びよ


イエスがご自身の溢れる恵みにより照らす 

この輝かしい光で満ちる栄光



甘美な威光と 大いなる愛

この方が 微笑みを浮かべ座しておられ


天にいる大いなる者たちも

身を低くし 主を拝礼する




諸王たちは このお方の御名の前に

きらびやかな笏を傾け


すべての王権、権勢、力が

主の戴冠を見、歓喜する。



大天使たちが 高尚な賛美を奏でつつ

天の街道を 行き巡る


そして 自らの偉大な栄誉を 投げ出し

主の足もとに へりくだる




ああ 柔らかく 麗しい 主の御足

かつて 残酷な鉄の鞭で 引き裂かれたその御足



今や それは 光輝く王座に立ち

すべての聖徒たちの憧憬となっている




尊く 威厳に満ちた 主の御頭。

かつて 茨の棘によって 傷つけられた その御頭。



見よ。今や それは 朽ちぬ栄光によって輝き

四方を照らしている



このお方、栄光を受けし このお方。

我々は まだ見ぬこの方を 崇め 賛美する



しかし 我々の目が
 
この方の御顔を一心に凝視するとき


われらが心は より一層 

主への愛に駆り立てられる



主よ、我らの魂は
 
なんと赤く燃えていることでしょう

汝の御住まいを見し わが身は!



われらが舌は 受肉された神に向かい

賛美の調べに歓喜する



こうして 我々の信仰は 

天的な光景を喜び

地の衣を脱ぐことを ますます切望する。



ああ主よ、汝の火の車が

われらの魂を 

天に引き上げてくださらんことを。




Isaac Watts, The glory of Christ in heaven 私訳




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(イサク・ワッツ 1674-1748)

すこし前に、「何を読むか」というテーマで書かれたA.W.Tozerのエッセーを読んでいました。「全てのクリスチャンは、時間をかけ、年月をかけ、聖書を熟読すべきである。それもジョージ・ミュラーのように『黙想する』姿勢を持って。」とアドバイスした後、続けて彼はこう言っていました。「聖書の次に有益な本は、良質な『讃美歌集』である。若いクリスチャンは、少なくとも一年間、イサク・ワッツおよびウェスレーの讃美歌を祈りの心を持ち黙想すべきです」と。私はこの教示を受け、ワッツとウェスレーの讃美歌に注目することにしました。








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