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私が学んだことは以下の三点です。

1)今後、私たち聖書信仰のクリスチャンの歩む道はますます険しくなっていく。
2)私はとても弱い。
3)でも助けが来る。

ほむべきかな、主。主は包囲された町の中で私にくすしい恵みを施されました。詩篇31:21



ポストモダンの世界では、ヨハネ14:6、Ⅰテモテ2:5、使徒4:12等は「タブー聖句」です。

それをあえて、童話の中のあの子のように「王様は裸だよ!」と叫ぼうものなら、とたんに頭上にハンマーが振り下ろされます。

そして「ふかふかの羽毛布団」の下からギッと鋭い「牙」が向けられます。

私はこのリアリティーを小規模ながらも実体験しました。

もし世があなたがたを憎むなら、世はあなたがたよりもわたしを先に憎んだことを知っておきなさい。ヨハネ15:18



そして改めて、クリスチャンにとってこの世は住みにくい仮の宿であり、私たちの国籍は天にあること、最終的な安息は、地上でのレースを終え、愛する主にまみえる時に与えられるものであることを知りました。


私は弱い。でも助けが来る


小2の時、(担任の先生がその時間帯に用事があったため)大学を出たての、ある若い男の先生(H)がその時間を受け持ってくれました。

でも教室に入ってくると、その先生はおもむろに「幽霊の話」を私たちにし始めたのです。

H先生によれば、私たちの学校のトイレの四番目には幽霊がいるというのです。私にとって生まれて初めて聞く「お化けの話」でした。

私は息もつかずその話に聞き入り、それを真に受け、そしてぶるぶると震え始めました。それからたまらなくなって、ついに声を上げて泣き始めました。

驚いたH先生が私の元に駆け寄り、なんとか私をなだめすかそうとしてくれましたが、恐怖に取りつかれた私の泣きは止むどころか、ますます激しくなっていきました。

すると誰かが「私が泣いている」ということを担任のO先生に伝えに行ってくれたらしく、しばらくすると、O先生が職員室から駆けつけてくれました。

O先生(年配の男の先生)は私の状態を一目見るなり、私を丸ごと抱き上げてくれました。

そして「大丈夫、大丈夫」と言いながら私の背中をやさしくさすってくださいました。

あれから何十年経った今でも、私はあの時、先生の胸の中で感じた平安と「守られている」という安堵感を忘れることができません。

そしてクリスチャンになった今、私は遠いあの日の出来事を、御父・御子・御霊の愛の象徴のように思うことがあります。

☆☆

今週、主は兄弟姉妹の心に働きかけてくださり、弱い土の器である私をあらゆる方向から助けてくださいました。

ある方は、

私は、(一連の出来事を通し)、このように、主の体の肢体が絶妙に機能し合うのを見せていただくことができ、本当に嬉しく思っています。この時代にあって、少人数の主の民、エクレシアの真実が確かにあることを知って、大いに励まされました。


という感想を寄せてくださいました。

また米国の姉妹は私にⅡコリント12章9節の御言葉を贈ってくれました。

しかし、主は「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現れるからである。」と言われたのです。ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。



弱い器を通して何かがなされる時、人々は「この測り知れない力がのものであって、この人(この人たち)から出たものではない」(Ⅱコリ4:7参)ことを目の当たりにし、それによって、生きて働かれる主にご栄光が帰されると思います。



わたしを透きとおる空気にしてください。
どんな色をも通して、
歪めることのない空気にしてください。

あってない わたしという空気を通して、
神の愛の美しさが輝きますように。




読んでくださってありがとうございました。










親愛なる読者のみなさま、こんにちは。一昨日私が書いた記事に対していろいろなコメントが寄せられました。それらに目を通していて一つだけ、ぜひみなさんに分かっていただきたいと思うことがありました。それで今この追伸を書いています。


☆私は「福音右派」ではありません


記事の中で、「たとい偏狭なファンダメンタリストと言われても私はそのレッテルに甘んじようと思います」というような事を書きましたが、どうか誤解なさらないでください。私はジョージ・ブッシュ元大統領に代表されるような「福音右派」ではありません

米国福音右派の人々の中にも、たとえば、女性牧師や同性愛が非聖書的と考えている人がおり、フェミニスト神学に対する見解も私と立場の近い方々がおられます。

しかし米国福音右派の人々の間には、それらの聖書的見解を、法律、制度にも反映させていこう、それらを施行させるべく政治的なアクションを起こそうとする傾向がみられます

私は彼らのそういった示威行動に反対しています。また、彼らの「正義の戦争論(Just War Theory)」にも反対しています。

ですから私は神学的には保守ですが、国家や政治とのかかわりといった面においては、アーミッシュや保守メノナイトの立場に非常に近いといえます。

最初からこういう考えだったわけではなく、聖書および歴史研究を通して、段階を踏みつつ、徐々にこのような立場をとるようになっていきました。


☆私は怖い人ではありません


おそらく私の取り扱っている記事の内容や文章を読んで、「この人はさぞかし怖い形相で、かなり威圧的な雰囲気の人なんじゃないか」と想像しておられる方がいるかもしれません。

でも実際はそうじゃないんです。私は小柄で丸顔でテディベアの好きな、いたって平凡な女性です。


以上が追伸でした。読んでくださってありがとうございます。







無題 (5)



おお 私の静けさであられる主。わが深いやすらぎ。


舌の争いからの 避け所、

わが聖なる丘。



汝の隠れ場で 私は静まることができます。



喧しい敵から
 
その舌から

私をお守りください。



混乱が増しています



押し迫るものから 私は逃れ

汝のうちに 身を隠します。



暴虐が過ぎ去るまで

汝の御手は 私を堅く支えてくださいます。



嵐がはげしさを増すとも、


おお主よ、

汝のしもべに 力をお与えください。



そして しもべを平安で祝してください。




詩篇31

Amy Carmichael, My Quietness
私訳









愛する妻よ。死に至るまで主に忠実でいよう。なぜなら冠は、初めでもなく、半ばでもなく、最期に与えられるものだから。

ジェローム・セガース兄の獄中書簡より(1551年、オランダ・アントワープ)



フィエスタ


前回の記事に対して、いろいろなコメントが寄せられました。その中で、次のような指摘をされた方がおられました。

キリスト教が様々な宗教的迫害を行った歴史はご存じでしょうか?



たしかにこの方がご指摘されたように、キリスト教は様々な宗教的迫害を行なってきました。

その事実に関しては本当に頭を垂れて「主よ、私たちの教会の犯してきた、これらの恐ろしい罪を赦してください」と祈るしかないように思います。

私がキリスト者として政治に関わらない立場をとっているのも、そういった過去の負の歴史(教会が政治権力を握った時に犯してきた多くの殺人、抑圧、圧制の迫害史)から学び知ったことが大きな一因です。

☆☆

最近、あるオランダ人夫婦の間で交わされた獄中書簡を読みました。

冒頭に挙げたジェローム・セガース兄と彼の妻リジュケン・ディルクスの間で取り交わされた数通の手紙が、Martyrs Mirrorという本の中(p.504-521)に収められています。

この夫婦は、幼児洗礼の非聖書性を悟り、カトリック教会を離れ、危険を冒して再洗礼派(アナバプテスト)の礼拝に集うようになっていました。

しかしついに1551年、この若い夫婦はもう一人の兄弟(ヘンリー)と共に、官憲の手に捕えられ、狭く汚い獄中に入れられてしまいます。

しかもその当時、奥さんのリジュケンはお腹に赤ちゃんを宿していたのです。

他の記録を読むと、投獄された再洗礼派の姉妹が妊娠していた場合、獄中で出産するまで刑は執行せず、赤ちゃんが生まれた後に、女性たちを処刑していたようです。

官憲の手に捕えられた時点で、ジェロームもリジュケンも、もはや避けることのできないこういった悲惨な「結末」を覚悟したことでしょう。

地上的に考えれば、こんな悲劇はないと思います。

でも今からご紹介する二人のやり取りをお読みください。彼らは祈り、賛美し、互いに励まし合い、そして御霊による喜びに溢れていました。

手紙のどの部分もすばらしく、全てをご紹介したい位なのですが、分量がとても多いので、部分的に抜粋しながら訳していこうと思います。

☆☆


オランダ、アントワープの獄中にて。

ジェローム・セガースが、女子監獄にいる妻リジュケンに宛てて書いた手紙(1551年)



常に神を畏れなさい

厳重な管理の下、狭い牢獄の中に横たわる。キリストゆえに私は証しをした。激しい苦しみに遭っている。しかしそれらは主から来たものであり、主は耐える力を与えてくださっている。




母を通して、君の手紙を受け取った。僕はそれを泣きながら読んだ。こんなにもやさしく僕を慰めてくれてありがとう。君が今置かれている状態に満足しているという事を聞いてうれしい。

、、だから愛する妻、リジュケン。今の時を生かして用いよう。困難の中にあっても耐え忍び、絶えず祈ろう。そして与えられている主の美しい御約束を片時も忘れず見つめ続けよう。

そして宝を大切に守っていくことだ。なぜなら、僕たちはこの宝を土の器の中に持っているのだから(Ⅱコリ4:7)。

、、だから僕たちはこんなにも喜びに溢れている。主にとこしえまでも誉れあれ。僕たちは共に主を呼び、共に歌い、お互いに励まし力づけ合っている。

主がこれほどまでに僕たちに力を与えてくださったことに関し、僕はその恵みに感謝してもしきれない。マラキ3:16

だから愛しい妻よ、心を尽くして主なる神に仕え続けなさい。マルコ12:30、1ペテロ2:21、Ⅱコリ5:1、2、4、6

もし君が主に忠実であり続けるなら、主は君を放さず、やがていのちの冠を与え、御国に導き入れてくださる。ヤコブ1:12.主は君に栄光と誉れの冠を与え、君の目から涙を拭きとってくださる。

リジュケン、やがて主は涙を拭きとってくださるのだから、今ここでそれは流されなければならない。マタイ5:4.

主はやがてこの苦しみから僕たちを解放してくださる。だから、今僕たちはこの世で苦しみを受けなければならない。

さあ、パウロと共に信仰の戦いを戦っていこう。

僕は愛する妻であり主にある姉妹を、今、力強い万能の主と、恵みに溢れた御言葉に委ねたいと思う。そうすれば、君は地獄の門を前にしても立ち向かえるだろう。アーメン。


〔別の日付の手紙〕


、、おお、君の分まで苦しみを受けることができたらどんなにいいかと思う。君のためなら、僕の肉体を喜んで差し出したい。

済まないが今日はもう、ここで手紙を終わりにしなくてはならない。主の御手に君をゆだねる。

僕たちの子(胎児)のことを心配してはいけないよ。おそらく友人たちがこの子を育ててくれるだろう。そう。主がこの子のことを考えてくださる。

(同じく獄中にいる)デヴェンターのヘンドリック兄が主にあって君によろしくと言っている。彼は、君が最後まで忠実であり続けることができるよう、昼も夜も主に執り成してくれている。


妻リジュケンから夫ジェロームに宛てた手紙


、、私のことで悲しまれたということを聞いて、私は泣きました。、、

、、ですから勇気を出してください。主にあって愛する方、これまでのように主にあって喜び感謝を捧げてください。

なぜなら私たちが御名のために、長い期間に渡って獄に入れられるのを主は良しとし、それにふさわしい者と見てくださったからです。そこには主の御目的があると思います。

イスラエルの民は長い間、荒野にいました。もし彼らが主の御声に従順だったら、ヨシュアやカレブのように約束に地に入ることができていたでしょうに。

、、ですから、主にあって満足しましょう。そして喜びと忍耐を持って十字架を背負い、主が私たちに与えてくださった約束を疑わず、確信を持って待ち望みましょう。

なぜなら約束してくださった方は誠実な方だからです。やがて私たちは天にあるシオンの山で冠をいただき、シュロを手に持ち、小羊について行く者になるでしょう。


ジェロームから妻リジュケンへ


、、主にあって愛する妻よ。君が泣いたということを聞いて以来、僕はこれまで以上に熱心に昼も夜も君のために祈りを捧げている。

どうか知ってほしい。主はひとみのように君を見守ってくださる。僕たちが共に、御名のために苦しむにふさわしい者とされたこと僕はいつも主に感謝している。

手紙の中で、「十字架につけられたキリスト」を私に望むと書いてくれたね。

その部分を読んだ時、僕の魂は喜びに舞い上がったんだ。そして手紙を最後まで読むことさえできず、その場にひざまずいて主を賛美し感謝した(エペソ3:14)。

僕たちの兄弟たちと君のことで、僕の心には苦しみがある。君はこんなにも長く獄につながれている、、

でも君とそれから僕たちの実(胎児)を主の御手に委ねようと思う。

ああ、僕がこの心を切り裂いて、君や教会の兄弟たちに与えることができたらとどんなにいいかと思う!

僕の血でもって彼らを助けることができたら。彼らのために喜んで苦しみたい!


妻リジュケンから夫ジェロームへ


、、主にあって愛する夫。あなたはこれまで試練をくぐり抜け、忠実であり続けました。この偉大な恵みゆえに主をほめ讃えます。

そして今、私も涙を持って主に嘆願します。私をも御名のために苦しむにふさわしい者としてください。黙14:4.

パウロが言うように、もし私たちが主と共に苦しむなら、やがて主と共に治めるようになります。そしてもし主と共に死ぬなら、主と共に生き続けることになります。Ⅱテモ2:11,12.

ですから、主の懲らしめを軽んじないようにしましょう。なぜなら、パウロが言うように、主はご自分の愛する者を懲らしめられるからです。ヘブル12:5,6


☆次の手紙は、ジェロームに対し、火あぶり刑の宣告が出された日の夜に書かれた手紙です。これが彼が妻に宛てて書いた、地上での最期の手紙となりました。




、、僕は君を、十字架につけられたキリストに花婿として差し出したい。

主は君を娘として、花嫁として、王妃として選んでくださった。このいと高き王、永遠の父、愛の神に、僕は今、君のことを委ねる。

これからはこの方が君の慰め主となり、花婿となるんだ。なぜなら、主はまず先に僕をお呼びになったから。

そしてこれが御心だと悟った。だからその事に関し、僕は満足している。主の偉大な御力ゆえに、とこしえまでも主に栄光を!

だから、主にあって最も愛する者よ、悲しんではいけない。

なぜなら主はまず僕をお取りになることで、君に模範を示したいと思っておられるからだ。そしたら君も僕に倣って雄々しくついて来ることができる。

おお愛しい子羊リジュケン、僕は君に嘆願する。どうか教皇主義者や詭弁家たちに耳を貸さないでほしい。

そしてしっかり立って、天の花婿、この揺るぎないお方だけにつき従ってほしい。

主の足跡に従い、彼らの脅しにひるんではいけない。また拷問を恐れてはいけない。

なぜなら彼らは、主がお許しになる以上の害を君に加えることはできないから。マタイ10:30.

だから、恐れてはいけない。そしてキリストの教え、そして真理の中に堅くとどまり続けなさい。、、

勇気をもってほしい。このライオンの巣穴に君はまだもう少しいなければならない。

でも君の解放は近い。それは遅くなることはない。必ず来る。

やがて主が御力をもって来られ、君を花嫁、そして王妃として受け取ってくださる。主の日は近い。ハバクク2:3、詩篇45:14、イザヤ13:6

、、僕は今、君をこの地上に残して去っていかねばならない。もう君の顔を見ることはできないだろうと思う。

でもすぐに、キリストの祭壇の下で君に会いたいと願っている。

、、主に信頼し続ける者を主はお見捨てにならない。

だから僕は喜んで行こうと思う。主に賛美のいけにえを捧げながら。

さようなら、妻よ。祭壇の下でまた会おう。君を主に委ねる。

さあ、別れなければならない時が来た。僕は大きな喜びを持って先に行く。

君の御父であり、僕の御父である方の元に(ヨハネ20:17)。

どうか悲しまないでほしい。そして僕と一緒に喜んでほしい。ローマ12:15.

でも一つだけ辛いことがある。それは君を狼の間に一人残さなくてはならないということだ。

でも君と胎の実である子を主に委ねる。主は必ず最後まで君を守ってくださるから。だから僕は平安のうちに憩おう。

主にあって勇敢でありなさい。




ー手紙終わりー


*ジェローム兄のこの祈りは聞かれ、妻もその後、死に至るまで勇敢に主に従い続け、殉教という形で地上でのレースを全うしました。




しかし、私たちは、神の約束に従って、正義の住む新しい天と新しい地を待ち望んでいます。そういうわけで、愛する人たち。このようなことを待ち望んでいるあなたがたですから、しみも傷もない者として、平安をもって御前に出られるように、励みなさい。Ⅱペテロ3:13ー14






昨日の記事「『神の小屋』現象から見えてくるもの―福音主義教会の〈新しい神〉」を読んだ読者の方が、次のような感想を寄せてくださいました。

「イエス・キリストを信じなければ救われないというのは、あまりに偏狭。イエスの御名も御言葉も聞く機会もなく生涯を終える人々が、地獄行きというのはおかしい。」

クリスチャンを含めた多くの人々が、このような思いや疑問を持っておられるのではないかと思います。この小説(『神の小屋』)はこの思いや疑問に答える神学を、ある意味クリスチャンも満足出来るような形で見事に提示しています。それゆえここまで成功したのでしょう。



「イエス・キリストが道(the Way)であり、真理であり、いのちであり、この方を通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはできない」というヨハネ14章6節の御言葉を、文字通り「神の真理」として受け取るか、それともそれを「偏狭」と捉え、『神の小屋』的なスタンスを取るか――――。


分け登る麓の道は多けれど同じ高嶺の月を見るかな、、、


上の言い回しのごとく、イエスの道を通ろうが、モハンマドの道を通ろうが、仏教の道を通ろうが、結局、皆同じ神にたどり着くのでしょうか?

その問いに対して、YESと答えるのが、万人救済説(universalism)の立場であり、『神の小屋』の著者ヤング氏の立場です。

私はこの万人救済説を考える時、頭の中に「ふわふわの羽毛布団」のイメージが浮かびます。

うん。いかにも寝心地が良さそう。その中にくるまったら、ポカポカと体も暖まってくるだろうな。それに表面もガザガザしてないし、カバーの彩りもすごくいい感じ。これならきっとぐっすり眠れるはず、、、、

ねえ、「あの人はまだ救われていない」とか「イエス・キリストだけが神に至る唯一の道」とか、そういう愛のない発言するのはよそうよ。三位一体の神の教理がどうのこうのってうるさく議論したりするの、もういいかげんにやめようよ。

ほら、Interfaith(他宗教間対話)っていうのが最近すごく盛んになってきている。世界の宗教指導者たちが一緒に神を礼拝しよう、世界平和のために共に祈ろうって頑張ってる。これって、すごくいい事じゃない?違う?


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「我々は、他宗教間対話を推し進めていかなくてはならない。」―スリランカで行なわれた「宗派を超えた集い(Interfaith meeting)」での教皇フランシスの言葉。写真右はヒンドゥー教の祭司。情報源

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同じくスリランカにて仏教寺院を表敬訪問する教皇フランシス。2015年1月。情報源

問題はその神学が本当に真実であるかという一点です

この小説で書かれた神学は、多くの点で聖書と異なっています。たとえ多くの人々の心のニーズに添うものであっても真実でなければ、まことの糧をそこから得られることはなく、結局は美しい嘘に過ぎません。

この小説は反キリスト的ではありませんが、聖書とは異なるキリストを提示しています。ここが危険なところではないかと思います。反キリストなのが明らかであれば、クリスチャンはきっと読まないでしょうから。 ー昨日のコメント欄より



もしこういう万人救済の教えが本当に正しいのなら、そして「イエス・キリストを信じても信じなくても皆救われる」のだったら、、、そしたら、私が二十代半ばで地球の裏側までやって来て、今この地にいること自体、愚の極ということになります。

もしこの教えが本当に正しいのなら、私は20代から30代という人生の一番盛んな時期を、全くムダなことのために浪費してしまったことになります。

エミー・カーマイケル(1867-1951)は宣教師として(一度も祖国に帰ることなしに)53年間を南インドで過ごし、インド人の救いのために一生を捧げました。


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彼女は日記の中で、(英国の波止場での、養父ウィルソン氏との今生の別れのことに触れ)、「あれほど辛い思いは二度とできるものではないと思いました」と述懐しています。

このように、これまでに数えきれないほどの宣教師が、愛する家族の元を離れ、望郷・肉親の情を涙と共に十字架に付け、福音宣教のために旅立って行きました。

もし万人救済説が正しいのなら、彼らはまことに無為な犠牲を払ってしまったことになります。

イエス・キリストへの信仰のために14年間、牢獄と拷問に耐えたルーマニアの牧師リチャード・ウルムブランド、キリスト信仰を否まなかったために20年間投獄され、一人孤独の内に殉教の死を遂げたウォッチマン・ニー、

、、ペルシャ人への伝道のために人生をかけ、トルコで客死したヘンリー・マーティン、幸せなアメリカでの生活を捨て、夫と共にビルマに宣教に赴き、多くの苦難をなめた末、若くで亡くなったアン・ジャドソン、、、

おお彼らはなんとムダな生涯を送ったことでしょう!

耐える必要のない事をムダに耐え、世の誉、富、名声をムダに捨て、大切な人生を丸ごとムダにしてしまいました。そうです。もし、万人救済説が正しいなら、彼らほど哀れな人たちがこの世にいるでしょうか?


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↑リチャード・ウルムブランド(1909–2001)
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↑ウォッチマン・ニー(1903-1972)
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↑ヘンリー・マーティン(1781-1812)
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↑アン・ジャドソン(1789-1826)


さらに、使徒パウロはどうでしょう。ペテロ、マタイ、アンドレ、ピリポ、ヨハネ、トマス、マタイ、ステパノ、ヤコブはどうでしょう?

十二使徒のほとんどが殉教の死を遂げたと言われていますが、これもまた、万人救済説のレンズで見るなら、ムダな死でしかないでしょう。

そして私たちの主イエス・キリストはどうでしょう?

もしダライ・ラマの道でも人が罪と死と呪いから救われるのなら、イエス・キリストはムダに地上に遣わされ、ムダに苦しみ、ムダに十字架上での死を遂げたことになります。そんな大きな犠牲を払わなくても良かったはずだからです。


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ゲッセマネで「苦しみもだえ、、、汗が血のしずくのように地に落ちる」(ルカ22:44)ほど、なぜイエスは苦悶する必要があったのでしょう?

それは実に、イエスが「すべての人を照らすまことの光」(ヨハネ1:9)であり、「世の罪を取り除く神の小羊」(ヨハネ1:29)であられるからです。

そしてイエス・キリスト以外には、誰によっても救いはないのです。世界中でこの御名のほかには、私たちが救われるべき名としては、どのような名も、人間に与えられていないからです(使徒4:12)。

そして神と人との間の仲介者も、唯一であって、それは人としてのキリスト・イエスです(1テモテ2:5)。

もしこういった御言葉を宣言することが、私を「偏狭なファンダメンタリスト」にするなら、私は喜んでわが身にそのレッテルを貼りましょう。

いま私は人に取り入ろうとしているのでしょうか。いや。神に、でしょう。あるいはまた、人の歓心を買おうと努めているのでしょうか。もし私がいまなお人の歓心を買おうとするようなら、私はキリストのしもべとは言えません。ガラテヤ1:10



冒頭の問題提起に戻ります。「イエス・キリストを信じなければ救われない」というメッセージを「偏狭」と取るか、それとも「聖書の真理」と取るか。

万人救済説に対する真のアンチテーゼは、私たち信仰者の生き方だと思います。

私たちがそのように信じ、本気でそのように生きることを通し、この世に証ししていくものだと思います。

それが己の人生をひっさげた、主イエスに対する私たちの愛の告白です。



長くなりました。読んでくださってありがとうございます。





この記事の中で取り上げた信仰者の伝記をお読みになりたい方へ

1)鉄のカーテンの向こうから~ リチャード&サビナ・ウルムブランドの生涯(ルーマニア)ココ

2)ビルマの白百合―アン・ジャドソン宣教師の生涯と信仰 ココ

3)ヘンリー・マーティンの生涯 その1その2 





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信仰は 肉眼を越えるものについての
もっとも明らかな証拠。


肉体と感覚という雲を突き抜け、
天的な光の中に宿るもの。


信仰は 過ぎ去った過去を 現在のうちに見、
かなたの未来を 展望する。


――それが一千年前のことであれ、
何千年後のことであれ。



信仰により 私たちは世界が
神の言葉で造られたことを知る。


未知の国々へと導かれたアブラム。
――信仰により 主に従いつつ。


彼は 永遠の手により建てられし
高く美しい都を待ち望んでいた。



私たちはやがて死ぬ。


しかし、信仰は確信をもって私たちに語る

――天的な建物は とこしえに残ると。





ヘブル11:1、3、8、10


Isaac Watts's poem : Hymn 1:120, Faith Is The Brightest Evidence 私訳


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(イサク・ワッツ 1674-1748)




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昨日、The Shackが『神の小屋』(いのちのことば社)という邦訳名で出版されたことと、その本に関するアルバート・モーラー師の検証記事をみなさんにご紹介しました。

すると私の予想していた以上に反響があり、読者のみなさんの多くがこの問題を真剣に考えておられることを知りました。


〈新しい神様〉 


22歳のクリスチャンの女の子(米国)が、『神の小屋』を読んだ後、感動を抑えきれず、お母さんの元に駆け寄って、こう言ったそうです。

「ねぇママ!これまで信じて来た〈古い神様〉にサヨナラして、この〈新しい神様〉と結婚してもいい?」

この子は鋭くも、『神の小屋』の中で描かれている神が、これまで信じていた聖書の神とは本質的に違う〈新しい神〉であることを見抜いたのです。

そしてこの〈新しい神〉の虜になったのです。


新しい神――絶対に裁かず、罪を罪として指摘せず、従順を要求せず、人間に対して恭順で、何でも、どんな考えでも「うん、うん」って受け入れてくれる神。甘くやさしく「クールな」癒し系の神。



『神の小屋』、もろ手を挙げて歓迎される


私にとって(そしておそらく読者のみなさんにとっても)ショックなのは、この本が、福音主義教会を代表するリーダーたちにより大々的に推薦され、広められていることです。

以下、私は自分が集めた資料を基に、その事実を列挙していきます。

私がこれを列挙するのは個人を攻撃するためではありません。

そうではなく、私たちの乗っている福音船が、今どのような状況に置かれているのかということを悟り、ますます「心を引き締め、身を慎み」(1ペテロ1:13)、「すべてのことを見分けて、ほんとうに良いものを堅く守り」(1テサ5:21)、「目をさまし」「死にかけているほかの人たちを力づける」(黙3:2)ためです。

特に私は最後のこの「力づける」の部分を強調したいと思います。

私たちは皆、この地上にあって旅人であり、信仰の仲間ですから、私たちは自分に与えられているもの全てをもって、仲間を励まし、必要な情報を提供し、共に地上のレースを全うできるよう助け合うことが求められていると思います。


事実


『神の小屋』を公に推薦している著名人の一例:

ー700Clubのパット・ロバートソン
ー代表的なCCM歌手マイケル・W・スミス、
ーマーク・バターソン(ワシントンDC)、
ーウェイン・ジャコブソン(イマージング、著者ヤング氏の協力者)、
ーガイル・エルウィン、
ージェイムス・ライル(ヴィニヤード教会)、
ーグローリア・ガイサー
ーグレッグ・アルブレヒト(Plain Truth誌の編集長)

ーパーパス・ドリブン・コネクション誌(この中で「『神の小屋』は注目すべきベストセラー・クリスチャン小説」(p24)と言及されています。)

ーフランク・ヴィオラ(イマージングの代表的指導者)
ーレオナルド・スウィート(イマージングの代表的指導者)

ーユージン・ピーターソン(リージェント・カレッジ教授、The Messageバイブル著者)

(以上、情報源:ココ)  

―また2013年3月、クリスティアニティ・トゥデイ誌が著者ヤング氏とのインタビュー記事を掲載しましたが、そこでもこの本は肯定的に取り扱われています。(“The Love Shack,” Christianity Today, March 4, 2013)


保守的な「バイブル・ベルト」でも歓迎される


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赤い部分が一般に、バイブル・ベルトと呼ばれ、福音派の篤信地帯とされています。


「ロック音楽が私の人生に及ぼした影響―救いの証し」の筆者であるデイヴィッド・クラウド牧師は、ある同僚の牧師から次のようなおそろしい内容のメールをもらったそうです。

『神の小屋』についてですが、私は自分が以前所属していた南バプテスト連盟の友人たちの多くがこの本を絶賛している様子にショックを受けています。

あなたもご存知のように、この本で描かれている「神」は聖書的な神ではありません。これだけ大多数の人々にこの本が受け入れられているという事実は、やはり識別力の深刻な欠如を示すものではないかと思います。

今日、霊的な識別力というのは、おそろしい勢いで失われていっているように思います。

私は何人かの同僚に、この本の問題点について直接話し、また問いかけてみました。でも彼らの応答は、「でも、とにかくこの本は、『どんなに神が私たちを愛しているか』ということについて、真理を教えてくれていると思う」でした。

これこそまさしく、現代の「教会成長運動」のもたらした負の実ではないでしょうか。

そうです。こういった運動は、もっぱら「神の愛」ばかりに終始し、主の聖さ、義、裁きといってものは「重要ではないもの」としてこれらを二の次、三の次にしているのです。

(Marty Wynn, Lighthouse Baptist Church, Columbus, Georgia, e-mail to D. Cloud, May 21, 2011).




全米牧会者会議(National Pastor’s Convention)でも大歓迎される


2009年にサンディエゴ市で開催された全米牧会者会議において、著者ヤング氏はスピーカーの一人として招かれました。


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全米牧会者会議の様子 情報源


これはゾンダーヴァン出版社とインター・ヴァーシティ・フェローシップ(IVF)の後援によって開催されており、この年には、全米から1500人もの牧会者が集まりました。

ちなみに、その他の講演者は、ウィロークリーク教会のビル・ハイベルズ師、レントン・フォード師、イマージングの代表的指導者ブライアン・マクラレン師ならびにロブ・ベル師等でした。

その時の調べによると、1500人中、57%に当たる参加者が『神の小屋』を読んでおり、この会議においてもヤング氏は熱狂的に歓迎されたとのことです。


以上のことから教えられること


こういった厳しい現実を前に、みなさんはそれぞれ今、様々な事を考えておられると思います。

私が示されたのは、「健全な福音信仰に根づく」という定評の高い出版社の発行する書籍=聖書的な書籍、という図式はもはや成り立たなくなってきたということです。

イマージング運動や、フェミニスト神学は、そういった大型福音出版社や、代表的キリスト教メディアの内部にも賛同者を得つつあり、その影響は今、私たちの教会やお茶の間にもリアルな形で流れてきています。

私の友人のジェシカ姉妹は、自分の教会のCCM礼拝が若者たちに及ぼしている精神的影響について次のような感想を述べていました。

アップ・テンポな音楽とドラムのビートと共に、単純な歌詞の一節が「これでもか、これでもか」と繰り返されます。こうして次第に、会場全体がハイな雰囲気になっていきます。


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ヒンドゥー教のマントラなども、同じ句を繰り返していくことで、やがてトランス状態になっていきますが、私が危ぶんでいるのは、最近のCCM賛美礼拝に見られるこういった執拗な「繰り返し」と歌詞の内容の乏しさが相まって、若者たちの識別力や冷静な判断力が弱められていくことです。

こうしてハイになった若者たちの頭に、さまざまな異種のメッセージが苦もなく吹き込まれていきます。



アルバート・モーラー師は、『神の小屋』は福音主義キリスト教の警鐘です、と言っておられます。

この警鐘を、私たち信仰者がそれぞれの場で、どのように受け取り、どのように応答していくのかが今後、試金石となっていくのかもしれません。

わたしは、すぐに来る。あなたの冠をだれにも奪われないように、あなたの持っているものをしっかりと持っていなさい。黙3:11





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イエスの十字架の下に

私は立ちたい。


おお やせた地にある

巨大な岩の陰、


荒野の中にある住み処、

そして 道程にある安らぎ。


それは激しい日差しと

日々の重荷から 私を かくまい守ってくれます。




イエスの十字架を 上に仰ぐ時

わが目は時に見ます。


――わがために苦しんでくださった

あの御方の 死にゆく姿を 



心打たれ 涙を流しつつ

私は 二つの事を告白します。


――汝の贖いの愛という驚嘆。

そして わが無価値さを。




おお十字架

私は汝の御影を わが隠れ家とします。



主の御顔の輝き以外には

どんな光をも求めません。



過ぎ行くこの世を ただ過ぎ行くものとみなし

そこに 益も損失も見出さない。



罪ぶかい自己だけが わが唯一の恥であり、


わが栄光

それはただ十字架にのみあります。




Elizabeth C. Clephane, Beneath the Cross of Jesus, 1868
私訳













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原書のタイトル名:The Shack


『神の小屋』(ウィリアム・ポール・ヤング著)
―失われつつある福音主義クリスチャンの識別力


The Shack — The Missing Art of Evangelical Discernment
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執筆者:アルバート・モーラー(南部バプテスト神学大学 学長)


2010年1月27日


☆☆


出版業界においても「超大ヒット作」に当たる本というのはそう多くはありませんが、ウィリアム・ポール・ヤングのThe Shack(邦訳名『神の小屋』)はもはやそういう段階をも超えた売れ行きを示しています。

この本は元々、ヤングおよび彼の友人二人によって自費出版された本ですが、(2010年1月の時点で)売り上げは、1000万部を超え、30か国以上の言語に訳されています。

実に空前のベストセラーであり、読者は大いに沸いています。


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ヤング氏によれば、この本は元々、彼の子どもたちのために書かれたものだそうです。

一言でいうなら、これは「物語風の神義論」と言い表せるかもしれません。

つまり、ストーリーの形をとりつつ、悪の存在について、神のご性質についての問いに答えるという試みなのです。

この話の中で、7歳になる自分の娘が誘拐され殺されたことを嘆く主人公マックは、ある日、神にある場所に来るよう招きを受けます。

その〈ある場所〉とは、実に、この人の娘が殺された山小屋でした。そしてそこでマックは神に「出会う」のです。

主人公マックは三位一体の神に、〈パパ〉(=アフリカ系アメリカ人女性)、〈イエス〉(=ユダヤ人の大工)、そして〈サラユ〉(=アジア人女性、聖霊を表す。)という形で出会います。

ですから本書は主として、マック、パパ、イエス、そしてサラユとの間の対話形式を取っています。

こういった対話から浮き彫りにされる神は、聖書の神とは非常に異なっています

〈パパ〉は全く裁くことをしない方として描かれており、「全ての人類は(キリストの福音を受け入れることなしに)すでに贖われている」といった主張をしています。

☆☆

『神の小屋』の神学は、ストーリーについている付随的・二次的なものではありません。実際のところ、〈語り〉の部分は、対話のための構成としての役割を果たしているのです。

そしてこの対話というのは、よくてもせいぜい「異例の教え(unconventional)」、しかしある点においては疑いなく異端的な性質を表しています。



奇怪な三位一体の神



神のご人格についての異例な「三位一体論」についての擬人化表現という事自体、危険な試みですが、その神学的説明にいたってはなおさらです。

例えば、〈パパ〉はマックに、三位一体の神が「神の子として、人間存在の中にわれわれ自身を表した」時のことを語っています。

しかし御父や御霊が、人間存在の形をとったという描写は、聖書のどこにも出てきません



キリスト論


本書のキリスト論にも混乱がみられます。

〈パパ〉はマックに、イエスは完全に神であるけれども、

イエスは神としてのご性質に寄り頼んでいたわけでは決してなかった。

イエスはただわたしとの関係で生きており――わたしが全ての人間との関係において望んでいるのと全く同じ仕方で――、イエスはわたしと関係しているのだ。


と言っています。

また、イエスが盲目の人をお癒しになった時、

イエスは、依存した、限界ある人間としてのみそれをなしたのであり、彼自身のうちに、そして彼を通して働くわたしの命および力に信頼していたのだ。

人間としてのイエスは、ご自身のうちに人を癒す力を全く持っていなかった



もちろんここには十分すぎる位、神学的な混乱が見受けられますが、実際、キリスト教会は、何世紀にも渡って、まさにこういった混乱を避けんがために、三位一体の神の誠実な理解に努めてきたのです。

――なぜなら、キリスト者の信仰それ自体がここにかかっているからです。



イエス・キリストが神に至る唯一の道か



また本書の中で〈イエス〉はマックにこう言います。

(わたしは)人間が、〈パパ〉もしくは〈サラヤ〉とつながりを持つためのベストな道です。



唯一の道」ではなく、ただ単に「ベストな道」と言っているのです。

他の章で、〈パパ〉はマックの神学を修正し、こう言っています。

人を罪ゆえに罰する必要はないのだよ。わたしにはそうする必要がない。罪はそれ自体で――君を内側から食い物にしようとしている――懲罰なんだ。だからそれを罰するのはわたしの目的じゃない。それを癒すことこそ、わたしの喜びだ。



もちろん、神の喜びは、御子によって成し遂げられた贖いのうちにあります。

しかし、聖書はまた一貫して、神が聖にして義なる審判者であることも啓示しており、この御方は罪びとを実際、お裁きになるのです。

罪が単に「それ自体において懲罰」という考えは、東洋のカルマ思想とは一致しますが、クリスチャンの福音ではありません。



三位一体の関係について――恭順(submission)


ヨハネの福音書17章において啓示されている御父の御子に対する関係は、――著者の、三位一体の位格間における〈絶対的平等〉という独自の見解ゆえに――退けられてしまっています。

〈パパ〉は説明します。

われわれの間には、最終的権威などという考えはない。そこにあるのはただ一致だけなんだ。



本書の中でも最も奇怪な箇所の一つに、以下に挙げる〈イエス〉のセリフがあります。

〔マックに向かって〕:〈パパ〉は――わたしが〈パパ〉に従っているのを全く同じように――わたしにも恭順している。そしてそれは〈サラヤ〉のわたしへの恭順、〈パパ〉の〈サラヤ〉への恭順においても同じなんだ。

恭順というのは、権威に関することではなく、それは従順でもない。それはただ、愛と尊敬の関係なんだ。事実、わたしたちは、それと同じ仕方で、あなた(という人間)に恭順しているんだよ



三位一体の神が人間に――もしくは全ての人類に――恭順しているという理論は、神学的導入の中でも、最も極端にして危険な種類のものです。

偶像礼拝の本質は自己崇拝であり、この「三位一体の神が人類に恭順している」という思想は、偶像礼拝的なものであると言わざるを得ません。



イエス・キリストを信じても信じなくても皆救われる?―万人救済説


しかし『神の小屋』の発信しているメッセージの中でも最も問題とされている点は、「万人救済説(universalism)」、普遍的贖罪、そして究極的な和解といった物を中心に展開しています。

〈イエス〉はマックに言います。

わたしを愛する人々は、存在するあらゆるシステムから来る。

彼らは仏教徒であったかもしれないし、あるいはモルモン教徒、バプテスト、イスラム教徒、民主党員、共和党員、あるいは投票しない人、主日の朝礼拝や宗教機関に関わっていない人々かもしれない。



そして〈イエス〉は付け加えます。

わたしはこういった人々がクリスチャンになってほしいとは思っていない

でもわたしは願う。それは彼らがわたしのパパの息子や娘として変えられ、わたしの愛する者であるわたしの兄弟や姉妹として変えられてほしいって。



そうするとマックは極めて自然な問いを発します。――それじゃあ、全ての道はキリストにつながるものなの?と。

それに対し、〈イエス〉は答えます。

ほとんどの道は、どこにも(人を)導かない。でも強調したいのは、わたしは君を見い出すために、そういった全ての道を旅するということなんだ。



このような文脈から考慮してみるに、著者ヤング氏が、実質的に、万人救済的もしくは包括主義的な結論を出している――これを否定することはできないでしょう。


全世界と和解?


〈パパ〉はマックをたしなめつつ、「わたしは今、全世界と和解した」と言います。

マックは驚いて訊き返します。「えっ、全世界だって??も、もちろん、それって、『あなたに信仰を持った人』っていう意味ですよね?」

〈パパ〉は答えます。「いや、全世界なんだ、マック。」



リベラルな見解―和解論



ここから総合的に言えるのは、本書の思想が、カール・バルトによって提示された「和解論」に非常に近いということです。

(ヤング氏の協力者であるウェイン・ジャコブソンは「自称〈教理〉特高警察」が本書を、究極和解論を説いているとして糾弾していると嘆きつつも)、ヤング氏の初稿は――部分的にではあれ――究極和解論に過度に影響されていたことを認めています

〔*究極和解論というのは、キリストの十字架と復活がただちに、全ての罪びと(そして全ての被造物)の、神との一方的和解を成し遂げたという説です。〕

ウェスタン神学大のジェイムス・B・デヤング教授は、新約学者であり、長年にわたり、著者ウィリアム・ヤング氏のことを知っています。

そのデヤング教授が、ヤング氏の「クリスチャン万人救済主義」受容を、文書で立証し、

『神の小屋』は普遍的和解論の土台の上に据えられた作品である


と結んでいます。

確かに、ウェイン・ジェコブソンその他の論客は、『神の小屋』の中に異端的教えがあると言っている人々に対して遺憾の意を表しています。

しかし事実はどうかと言いますと、キリスト教会はこれまでずっと、この種の教えを、やはり明確に「異端」と認定してきたのです


なぜ?


ここでなされる問いは次のものです。

なぜこれほど多くの福音主義クリスチャンが、ストーリーだけにとどまらず、この〈語り〉の中で提示されている神学に惹かれているのか?



しかも、この神学というのは、実に多くの点で、福音主義の信仰内容と食い違っているにも関わらずです

こういった問いを投げかけているのは福音派の論客だけにとどまりません。

ケイス・ウェスタン大学のティモシー・ベアル教授はThe Chronicle of Higher Educationの中で、

『神の小屋』が人気を博している現象は、現在、福音主義クリスチャンが自らの神学に変更を加えつつあることを表しているのではないか。


と指摘しています。



変貌しつつある福音主義キリスト教



ベアル教授は、『神の小屋』の

1)「非聖書的な神の隠喩的モデル」、
2)三位一体の「非ヒエラルキー」モデル、そして最も肝要な点として
3)「普遍(万人)救済の神学」

のことを取り上げています。 

またベアル氏は、こういった神学はこれまで決して「メインストリームの福音主義神学」ではなかったということを指摘し、次のように説明しています。

事実、上に挙げた三点は、1970年代から80年代にかけての(アカデミックな分野における)リベラルそしてラディカルな神学言説の基づくものです。――そして、こういった神学は現代フェミニストおよび「解放の神学」に深い影響を与えてきました。

しかしこれまでのところ、アカデミックの外――特に福音主義のメインストリーム内――における神学にはほとんど影響が見られませんでした。



そしてベアル氏は問うています。「福音派の大衆フィクションの一角で、こういった〈進歩的な〉神学思想は何をしているのだろう?」

そう、大半の人々の知らぬ間に、ここ数十年に渡り、福音主義思想の端っこに、こういうリベラルな要素が存在し続けていたのです。

そして今や、『神の小屋』が紹介され、人気商品として売り出されることを通し、こういったリベラルな考えが――メインストリームの保守信者の間にさえ――浸透しつつあるのです



こういった指摘をしているティモシー・ベアル教授を「保守派の異端狩りだ」と批判する方がおられるかもしれませんが、それは事実に反します。

彼は保守派の信者ではなく、むしろ、こういった「進歩的な神学思想」が「『神の小屋』を通して、世俗文化に沁み渡っていっていること」を喜んでいるのです。

同様に、キャサリーン・ジェフリー女史はBooks & Cultureの中で、こう結論付けています。

『神の小屋』はポストモダンで、ポスト・聖書的弁神論を提示しています。




重要な問い



この本を評価する上で念頭に置かねばならないことは、『神の小屋』はあくまでフィクション小説だということです。

しかし、それはまた、ある神学思想を反映したものでもあり、その事は否定できない事実です。

著名な文学作品の中にも、異常な神学思想――さらには異端思想――を反映したものが数多くあります。

しかしここで問わなければならない重要な問いはこれです。

すなわち、そういった異常な教えは、ストーリーの「特色」なのか、それとも、その作品の「メッセージ」なのか、ということです。

こと『神の小屋』に関して言えば、真に憂うべき事実として、非常に多くの読者が、この本の「神学的メッセージ」自体に惹かれているということです

そして彼らは、この本がどれだけ多くの主要な点で、聖書と矛盾しているかということを認識できずにいるのです。



失われつつある聖書的識別力


これは何を表しているのでしょうか。

そうです、この現象は、現在、福音主義クリスチャンが悲劇的なレベルで識別力を失いつつあることを表示しているのです。

アメリカの福音主義クリスチャンの間における、神学的な識別力というのはもはや「失われた技巧」となってしまった――こう結論付けざるを得ない状況に私たちは置かれています。

そしてこの喪失は、やがて神学的大惨事を招く結果につながっていくでしょう。



私たちは何をすべきか


こういった問題に対する解決は、『神の小屋』を禁書扱いにすることでもなく、読者の手から無理に引き離すことでもありません。

私たちはこういった種類の本を恐れる必要はありません。――むしろ、それらに対し、しっかり答える用意ができていなければならないのです

私たちは今、切実に神学的な回復を必要としています。

これは聖書的な識別力を実際に培っていき、実践することによってのみ、もたらされるものです。

その過程においては、もちろん、『神の小屋』の持つ教理的危険性を突き止めることも求められるでしょう。

しかし私たちがやるべき真の責務は、(『神の小屋』の中で誤って提示されている)こういった教えについての聖書本来の教えを、福音主義クリスチャンにしっかり再提示していくことです

そして個々の信者がそういった聖書的教えの内に育まれるようにすることです。



おわりに



『神の小屋』は、福音主義キリスト教にとっての警鐘です。

その意味で、前述のティモシー・ベアル教授の指摘は傾聴に値するでしょう。

福音主義クリスチャンの間におけるこの本の人気は、私たちの間にもはや基本的な聖書の知識さえ欠けていることを雄弁に物語っています。

そして、その失敗は、悲しむべきことに、キリストの福音理解それ自体にも及んでしまっています。

福音主義クリスチャンの間で聖書的識別力が失われつつあるという悲劇は、――聖書の知識のおどろくべき喪失という――この事実に因を辿ることができます。

なぜなら、識別力は、聖書の教えなしには生き残ることができないからです。


ー終わりー




≪その他の検証記事および書評のご案内≫


万人救済説についての詳しい検証 その1その2その3その4その5

Katherine Jeffrey, “‘I Am Not Who You Think I Am’ — Situating The Shack in a Christian Literary Landscape,” Books & Culture (January/February 2010), pages 33-34.
http://www.christianitytoday.com/bc/2010/janfeb/iamnotwhoyouthinkiam.html

Tim Challies, “A Reader’s Review of The Shack,” http://www.challies.com/archives/book-reviews/the-shack-by-william-p-young.php

James B. DeYoung, “Book Review: The Shack by William Paul Young,” [pdf file].

Wayne Jacobson, “Is The Shack Heresy?,”
http://www.windblownmedia.com/about-wbm/is-the-shack-heresy.html

I discussed The Shack on the April 11, 2008 edition of The Albert Mohler Program. [Listen here].



無題8
William P. Young, The Shack

私は先月、「押し寄せる『イマージング・チャーチ・ムーブメント』という波」という記事を書き、その中で、近年話題になっている「The Shack(シャック)」というクリスチャン・ノンフィクション小説とその危険性について、みなさんにお知らせしました。

さて今朝、日本在住のさなえ姉妹が次のような情報を寄せてくださいました。

今日いのちのことば社から通信販売のカタログが届いたのですが、この「シャック」という小説の邦訳が出たようです。「神の小屋」というタイトルで出版され、2016年公開を目途にハリウッドでも映画製作が進められているようです。(「日本人女優のすみれが重要な役で抜擢されている」と書かれていましたので、おそらく「サラユ」の役を彼女が演じるのでしょう。)

この本の帯には「全世界39カ国、1800万人が涙した感動のロングセラー小説」とあります。それほどまでにこの小説が大きく受け入れられていた事を今日初めて知りました。



調べてみると、確かに『神の小屋』(いのちのことば社)という邦訳名で出版されていることが分かりました。

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神の小屋 (Forest books) 単行本(ソフトカバー) – 2015/6/5
ウィリアム・ポール・ヤング (著)


おそらくこれから全国のキリスト教書店の店舗に配置されていくのでしょう。

親愛なる読者のみなさん、イマージングの波がついに日本にも上陸します。(すでにしています。)

『シャック(山の小屋)』の一例を見ても明らかなように、グローバルなマスメディアの働きを通し、異種の教えが「ノン・フィクション」や「映画」という形を取って、私たちの信仰のテリトリーに、教会のテリトリーに入り込んできています。

どうか、私たち一人一人がこの惑わしから守られますように。

この本の中に潜む危険性を知る私たち信仰者が、それぞれの持ち場において、キリストの愛を持ち、同胞クリスチャンに注意喚起していくことができますように。

イエス・キリストの御名によってお祈りします。アーメン。


追記です)

『山の小屋』の思想の背後にある「イマージング・チャーチ・ムーブメント」という新しいキリスト教の流れとその問題点について、私は過去に4つの記事を書きました。ご関心のある方は、お読みください。



1)押し寄せる「イマージング・チャーチ・ムーブメント」という波
http://christiantestimonies.blog.fc2.com/blog-entry-408.html

2)写真とキーワードでたどるイマージング・チャーチ・ムーブメント
http://christiantestimonies.blog.fc2.com/blog-entry-409.html

3)イマージング・チャーチ・ムーブメント―福音主義教会における新しい波
http://christiantestimonies.blog.fc2.com/blog-entry-411.html

4)「不確かさ」から「恵みの確かさ」へ
http://christiantestimonies.blog.fc2.com/blog-entry-416.html