喜びと祝福

さて私は「万人救済説に対する私たちの応答と生き方」という記事の中で、次のようなことを書きました。

もしこういう万人救済の教えが本当に正しいのなら、そして「イエス・キリストを信じても信じなくても皆救われる」のだったら、、、そしたら、私が二十代半ばで地球の裏側までやって来て、今この地にいること自体、愚の極ということになります。

もしこの教えが本当に正しいのなら、私は20代から30代という人生の一番盛んな時期を、全くムダなことのために浪費してしまったことになります。



でも実際、それはムダでないばかりか、私にとってこの十年は、まさしくこの上ない喜びであり、祝福の日々でした。

私は多くの魂のまことの新生に立ち会うという祝福をいただきました。

もっとも恵みの流れていかないような低い場所で、栄光の主が高く上げられているのを目撃しました。

そして何より私にとっての最大の奇跡は、彼らが私の家族になったことです。彼らと共に生き、苦楽を共にし合う仲間になったことです。

私は姉バカになってしまいました。入れ墨の人も、刑務所上がりの人も、薬物中毒者も、ひどくかわいい弟たちのようになりました。

また主は私を奮起させ、中央アジアの一方言を学ぶよう導かれました。

活字のない方言を習得するには耳で聞いて覚えるしかありません。しかしその方言を話す女性たちの心を理解したいという思いがそれらの困難を乗り越えさせてくれました。

最後に、私が去年書いた「ナヒードのために」という詩をもってこの証しを終わりにさせていただきます。


「ナヒードのために」


うつろな褐色の目を上げて
あなたは 私を見る


ナヒード ナヒード


アフガニスタンから イランへ
イランから トルコへ
トルコから ギリシアへ


乳飲み子をかかえ
国から国へと あなたは 放浪を続ける


ナヒード ナヒード


戦禍と労苦は
若い乙女を 老婆にした

ああ ナヒードの心に 「光あれ!」

冷たい墓の下から ラザロを呼び起こされたイエス様、
どうか ナヒードを生き返らせてください


表情のない アフガン娘
笑うことをしらない その口 その目 その頬


ああ この娘の砂漠を
潤ったオアシスの園にかえてください。


真っ暗なこの国に
一つ また 一つと 十字架の明かりがともされる


やがて その明かりは
満天の星のごとく 
国中に輝きを放つようになるでしょう


そして いつの日か きっと
いつの日か きっと


私は ナヒードと共に
花婿イエスの前で
愛の賛歌をうたうでしょう。



flower rose





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中東の人々への執り成し


その部屋に入ると、中東地域の地図を前に、三、四人の方が祈っていました。

その数の少なさは、まさにこの地域の人気のなさを象徴しているかのようでした。それでもその数人の方は私という追加者にかなり励まされたようでした。

それから週ごとに私たちはこの部屋に集まり、祈りました。

でも私は祈れませんでした。なぜなら恐れる気持ちが余りにも強く、祈るどころではなかったからです。

そこでまず私は「主よ、私の心からこの恐れを取り去ってください」と祈りました。

愛には恐れがありません。全き愛は恐れを締め出します。なぜなら恐れには刑罰が伴っているからです。恐れる者の愛は、全きものとなっていないのです。Ⅰヨハネ4:18



しかしイエス・キリストの御名による祈りには人の心を変える力があります。

それは生来愛せないものを愛することができるよう人の魂に働きかけます。

次第に主は私の心の中から恐れを取り除いてくださり、まだ会ったことも見たこともないこの地域の人々に対する思いを心に植えてくださいました。

「まだ会ったことも見たこともない人々に対する思い」――これはその後、私が実際にこの地域の人々と関わるようになった後、私を支える証しになりました。

なぜなら彼らに対する私の愛が、単なる同情や人間的な愛着によるものでないことをこの証しは私に確認させるからです。

この思いは祈りの中で主によって植えられ、育まれていったものでした。



(その4に続きます。)






主に引き上げられて


「あなたは私を敵の手に渡さず、私の足を広い所に立たせてくださいました。」詩篇31:8

「主よ、私はあなたをあがめます。あなたが私を引き上げ、私の敵を喜ばせることはされなかったからです。」詩篇30:1



しかし停滞し、もがいていた私に思わぬ所から助けが来ました。

今は亡き祖母(ノン・クリスチャン)が学費支援をしてくれ、私は突如として、北ヨーロッパにある宣教師訓練のための学校に入学することになったのです。

この展開は実に驚くべきものでした。

こうして一か月前には故郷でしょんぼりしていた私が、翌月にはヨーロッパの学生寮の前に立っていたのです。

その学校には世界中から宣教のビジョンに燃えた若者たちが集まっており、共に共同生活をしながら宣教訓練を受けていました。

このような環境に移され、私はまた水を得た魚のように、どんどん元気になっていきました。


中東の人々


その学校では週に一回、「大陸ごとの執り成しの祈り」というものがありました。

これは「ラテン・アメリカ地域の部屋」「アフリカ地域の部屋」という風に各大陸ごとにグループに分かれ、その地域の魂が救われるよう祈っていくものでした。

私はヨーロッパの人々の救いのために祈りたいなと思い、そう申請欄に書き込みました。

ところがその執り成しの祈りが始まる前、司会をしていた方がアナウンスしました。

「すみません。中東地域のための申請者がとても少ないのです。どなたかそこに行ってくださいませんか?」

私はそれを聞いて〈そうなんだ。やっぱり少ないだろうな。誰か行ってくれればいいのに。〉と思いました。

でもその「誰か」の中にもちろん、「」は含まれていませんでした。

私は元々中東全体に関心がなく、ただもう「恐ろしい」というイメージしかありませんでした。中東の人と直接話したこともなく、文化や慣習に関しても全く無知でした。

しばらくすると、再度、アナウンスがなされました。「すみません。誰か、中東地域のための執り成しに加わってくださいませんか?」

するとその時、自分でも説明のつかない不思議な事が起こりました。

私は右手を上げ、「はい。私、行きます。」と言ったのです。



(その3に続きます。)







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来週からまた出かける用事があり、一か月ほど留守にします。

出発前に、私は愛する兄弟姉妹、特にこのブログを読んでくださっている若いクリスチャンの方への励ましを込め、自分の証しを書こうと思います。


☆☆

「教会での献身生活の挫折から学んだこと」(ここ)の中でお証したように、私は奉仕者として挫折し、故郷に帰りました。

心配した家族が私のためにカウンセラーを雇い、週に一回その方が家に来てくださいました。

私はキリストにある他の肢体と離れて一人っきりになった時、自分がとても攻撃にさらされやすい状態に陥ってしまったことを悟りました。


世に押し流されて


故郷でも必死に教会を探し、実際にその地においても主は私に教会を与えてくださいました。

しかし地理的な距離の問題もあり、以前の教会ほどコミットすることができず、私は霊的に停滞していました。

また知らぬ間に、信じる以前の習慣や音楽、交友関係などが再び私の人生に入り込んでくるようにもなりました。

またこの時期、未信者の男性が私にアプローチして来ました。この方とは明らかに人生観も価値観も違っていたにも関わらず、私はその誘いに断固としてNoという力を失いかけていました。

そして「このまま田舎に落ち着くのもありかもしれない」とさえ思うようになっていきました。

一言でいえば、私は世に引きずられ、かつての信仰の灯が消えようとしていたのです。


主に助けを求めて


しかしその反面、私の魂は声にならない呻きをもって主に助けを求めていました。

私は自分を救いに導いてくれた敬虔な姉妹等を通して、「聖霊に満たされた信仰者」のあり方・生き方を知っていました。

そして私は、自分がそこの方向を向いて生きていない限り、決して幸せにはなれないことも知っていました。

私は自分もあの敬虔な姉妹のように、イエス様を知らない異邦人のために仕える宣教者としての人生を送りたいと願いました。

でもそういった祈りは、現実という壁の前でむなしく地に落ちていくかのようでした。

世は波のように私に押し迫り、私にはそれに抗していく力がありませんでした。


「私は深い泥沼に沈み、足がかりもありません。私は大水の底に陥り、奔流が私を押し流しています。」詩篇69:2


「どうか、御顔を私に隠さないでください。あなたのしもべを、怒って、押しのけないでください。あなたは私の助けです。私を見放さないでください。見捨てないください、私の救いの神。」詩篇27:9



(その2に続きます。)








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私が学んだことは以下の三点です。

1)今後、私たち聖書信仰のクリスチャンの歩む道はますます険しくなっていく。
2)私はとても弱い。
3)でも助けが来る。

ほむべきかな、主。主は包囲された町の中で私にくすしい恵みを施されました。詩篇31:21



ポストモダンの世界では、ヨハネ14:6、Ⅰテモテ2:5、使徒4:12等は「タブー聖句」です。

それをあえて、童話の中のあの子のように「王様は裸だよ!」と叫ぼうものなら、とたんに頭上にハンマーが振り下ろされます。

そして「ふかふかの羽毛布団」の下からギッと鋭い「牙」が向けられます。

私はこのリアリティーを小規模ながらも実体験しました。

もし世があなたがたを憎むなら、世はあなたがたよりもわたしを先に憎んだことを知っておきなさい。ヨハネ15:18



そして改めて、クリスチャンにとってこの世は住みにくい仮の宿であり、私たちの国籍は天にあること、最終的な安息は、地上でのレースを終え、愛する主にまみえる時に与えられるものであることを知りました。


私は弱い。でも助けが来る


小2の時、(担任の先生がその時間帯に用事があったため)大学を出たての、ある若い男の先生(H)がその時間を受け持ってくれました。

でも教室に入ってくると、その先生はおもむろに「幽霊の話」を私たちにし始めたのです。

H先生によれば、私たちの学校のトイレの四番目には幽霊がいるというのです。私にとって生まれて初めて聞く「お化けの話」でした。

私は息もつかずその話に聞き入り、それを真に受け、そしてぶるぶると震え始めました。それからたまらなくなって、ついに声を上げて泣き始めました。

驚いたH先生が私の元に駆け寄り、なんとか私をなだめすかそうとしてくれましたが、恐怖に取りつかれた私の泣きは止むどころか、ますます激しくなっていきました。

すると誰かが「私が泣いている」ということを担任のO先生に伝えに行ってくれたらしく、しばらくすると、O先生が職員室から駆けつけてくれました。

O先生(年配の男の先生)は私の状態を一目見るなり、私を丸ごと抱き上げてくれました。

そして「大丈夫、大丈夫」と言いながら私の背中をやさしくさすってくださいました。

あれから何十年経った今でも、私はあの時、先生の胸の中で感じた平安と「守られている」という安堵感を忘れることができません。

そしてクリスチャンになった今、私は遠いあの日の出来事を、御父・御子・御霊の愛の象徴のように思うことがあります。

☆☆

今週、主は兄弟姉妹の心に働きかけてくださり、弱い土の器である私をあらゆる方向から助けてくださいました。

ある方は、

私は、(一連の出来事を通し)、このように、主の体の肢体が絶妙に機能し合うのを見せていただくことができ、本当に嬉しく思っています。この時代にあって、少人数の主の民、エクレシアの真実が確かにあることを知って、大いに励まされました。


という感想を寄せてくださいました。

また米国の姉妹は私にⅡコリント12章9節の御言葉を贈ってくれました。

しかし、主は「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現れるからである。」と言われたのです。ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。



弱い器を通して何かがなされる時、人々は「この測り知れない力がのものであって、この人(この人たち)から出たものではない」(Ⅱコリ4:7参)ことを目の当たりにし、それによって、生きて働かれる主にご栄光が帰されると思います。



わたしを透きとおる空気にしてください。
どんな色をも通して、
歪めることのない空気にしてください。

あってない わたしという空気を通して、
神の愛の美しさが輝きますように。




読んでくださってありがとうございました。










親愛なる読者のみなさま、こんにちは。一昨日私が書いた記事に対していろいろなコメントが寄せられました。それらに目を通していて一つだけ、ぜひみなさんに分かっていただきたいと思うことがありました。それで今この追伸を書いています。


☆私は「福音右派」ではありません


記事の中で、「たとい偏狭なファンダメンタリストと言われても私はそのレッテルに甘んじようと思います」というような事を書きましたが、どうか誤解なさらないでください。私はジョージ・ブッシュ元大統領に代表されるような「福音右派」ではありません

米国福音右派の人々の中にも、たとえば、女性牧師や同性愛が非聖書的と考えている人がおり、フェミニスト神学に対する見解も私と立場の近い方々がおられます。

しかし米国福音右派の人々の間には、それらの聖書的見解を、法律、制度にも反映させていこう、それらを施行させるべく政治的なアクションを起こそうとする傾向がみられます

私は彼らのそういった示威行動に反対しています。また、彼らの「正義の戦争論(Just War Theory)」にも反対しています。

ですから私は神学的には保守ですが、国家や政治とのかかわりといった面においては、アーミッシュや保守メノナイトの立場に非常に近いといえます。

最初からこういう考えだったわけではなく、聖書および歴史研究を通して、段階を踏みつつ、徐々にこのような立場をとるようになっていきました。


☆私は怖い人ではありません


おそらく私の取り扱っている記事の内容や文章を読んで、「この人はさぞかし怖い形相で、かなり威圧的な雰囲気の人なんじゃないか」と想像しておられる方がいるかもしれません。

でも実際はそうじゃないんです。私は小柄で丸顔でテディベアの好きな、いたって平凡な女性です。


以上が追伸でした。読んでくださってありがとうございます。







無題 (5)



おお 私の静けさであられる主。わが深いやすらぎ。


舌の争いからの 避け所、

わが聖なる丘。



汝の隠れ場で 私は静まることができます。



喧しい敵から
 
その舌から

私をお守りください。



混乱が増しています



押し迫るものから 私は逃れ

汝のうちに 身を隠します。



暴虐が過ぎ去るまで

汝の御手は 私を堅く支えてくださいます。



嵐がはげしさを増すとも、


おお主よ、

汝のしもべに 力をお与えください。



そして しもべを平安で祝してください。




詩篇31

Amy Carmichael, My Quietness
私訳









愛する妻よ。死に至るまで主に忠実でいよう。なぜなら冠は、初めでもなく、半ばでもなく、最期に与えられるものだから。

ジェローム・セガース兄の獄中書簡より(1551年、オランダ・アントワープ)



フィエスタ


前回の記事に対して、いろいろなコメントが寄せられました。その中で、次のような指摘をされた方がおられました。

キリスト教が様々な宗教的迫害を行った歴史はご存じでしょうか?



たしかにこの方がご指摘されたように、キリスト教は様々な宗教的迫害を行なってきました。

その事実に関しては本当に頭を垂れて「主よ、私たちの教会の犯してきた、これらの恐ろしい罪を赦してください」と祈るしかないように思います。

私がキリスト者として政治に関わらない立場をとっているのも、そういった過去の負の歴史(教会が政治権力を握った時に犯してきた多くの殺人、抑圧、圧制の迫害史)から学び知ったことが大きな一因です。

☆☆

最近、あるオランダ人夫婦の間で交わされた獄中書簡を読みました。

冒頭に挙げたジェローム・セガース兄と彼の妻リジュケン・ディルクスの間で取り交わされた数通の手紙が、Martyrs Mirrorという本の中(p.504-521)に収められています。

この夫婦は、幼児洗礼の非聖書性を悟り、カトリック教会を離れ、危険を冒して再洗礼派(アナバプテスト)の礼拝に集うようになっていました。

しかしついに1551年、この若い夫婦はもう一人の兄弟(ヘンリー)と共に、官憲の手に捕えられ、狭く汚い獄中に入れられてしまいます。

しかもその当時、奥さんのリジュケンはお腹に赤ちゃんを宿していたのです。

他の記録を読むと、投獄された再洗礼派の姉妹が妊娠していた場合、獄中で出産するまで刑は執行せず、赤ちゃんが生まれた後に、女性たちを処刑していたようです。

官憲の手に捕えられた時点で、ジェロームもリジュケンも、もはや避けることのできないこういった悲惨な「結末」を覚悟したことでしょう。

地上的に考えれば、こんな悲劇はないと思います。

でも今からご紹介する二人のやり取りをお読みください。彼らは祈り、賛美し、互いに励まし合い、そして御霊による喜びに溢れていました。

手紙のどの部分もすばらしく、全てをご紹介したい位なのですが、分量がとても多いので、部分的に抜粋しながら訳していこうと思います。

☆☆


オランダ、アントワープの獄中にて。

ジェローム・セガースが、女子監獄にいる妻リジュケンに宛てて書いた手紙(1551年)



常に神を畏れなさい

厳重な管理の下、狭い牢獄の中に横たわる。キリストゆえに私は証しをした。激しい苦しみに遭っている。しかしそれらは主から来たものであり、主は耐える力を与えてくださっている。




母を通して、君の手紙を受け取った。僕はそれを泣きながら読んだ。こんなにもやさしく僕を慰めてくれてありがとう。君が今置かれている状態に満足しているという事を聞いてうれしい。

、、だから愛する妻、リジュケン。今の時を生かして用いよう。困難の中にあっても耐え忍び、絶えず祈ろう。そして与えられている主の美しい御約束を片時も忘れず見つめ続けよう。

そして宝を大切に守っていくことだ。なぜなら、僕たちはこの宝を土の器の中に持っているのだから(Ⅱコリ4:7)。

、、だから僕たちはこんなにも喜びに溢れている。主にとこしえまでも誉れあれ。僕たちは共に主を呼び、共に歌い、お互いに励まし力づけ合っている。

主がこれほどまでに僕たちに力を与えてくださったことに関し、僕はその恵みに感謝してもしきれない。マラキ3:16

だから愛しい妻よ、心を尽くして主なる神に仕え続けなさい。マルコ12:30、1ペテロ2:21、Ⅱコリ5:1、2、4、6

もし君が主に忠実であり続けるなら、主は君を放さず、やがていのちの冠を与え、御国に導き入れてくださる。ヤコブ1:12.主は君に栄光と誉れの冠を与え、君の目から涙を拭きとってくださる。

リジュケン、やがて主は涙を拭きとってくださるのだから、今ここでそれは流されなければならない。マタイ5:4.

主はやがてこの苦しみから僕たちを解放してくださる。だから、今僕たちはこの世で苦しみを受けなければならない。

さあ、パウロと共に信仰の戦いを戦っていこう。

僕は愛する妻であり主にある姉妹を、今、力強い万能の主と、恵みに溢れた御言葉に委ねたいと思う。そうすれば、君は地獄の門を前にしても立ち向かえるだろう。アーメン。


〔別の日付の手紙〕


、、おお、君の分まで苦しみを受けることができたらどんなにいいかと思う。君のためなら、僕の肉体を喜んで差し出したい。

済まないが今日はもう、ここで手紙を終わりにしなくてはならない。主の御手に君をゆだねる。

僕たちの子(胎児)のことを心配してはいけないよ。おそらく友人たちがこの子を育ててくれるだろう。そう。主がこの子のことを考えてくださる。

(同じく獄中にいる)デヴェンターのヘンドリック兄が主にあって君によろしくと言っている。彼は、君が最後まで忠実であり続けることができるよう、昼も夜も主に執り成してくれている。


妻リジュケンから夫ジェロームに宛てた手紙


、、私のことで悲しまれたということを聞いて、私は泣きました。、、

、、ですから勇気を出してください。主にあって愛する方、これまでのように主にあって喜び感謝を捧げてください。

なぜなら私たちが御名のために、長い期間に渡って獄に入れられるのを主は良しとし、それにふさわしい者と見てくださったからです。そこには主の御目的があると思います。

イスラエルの民は長い間、荒野にいました。もし彼らが主の御声に従順だったら、ヨシュアやカレブのように約束に地に入ることができていたでしょうに。

、、ですから、主にあって満足しましょう。そして喜びと忍耐を持って十字架を背負い、主が私たちに与えてくださった約束を疑わず、確信を持って待ち望みましょう。

なぜなら約束してくださった方は誠実な方だからです。やがて私たちは天にあるシオンの山で冠をいただき、シュロを手に持ち、小羊について行く者になるでしょう。


ジェロームから妻リジュケンへ


、、主にあって愛する妻よ。君が泣いたということを聞いて以来、僕はこれまで以上に熱心に昼も夜も君のために祈りを捧げている。

どうか知ってほしい。主はひとみのように君を見守ってくださる。僕たちが共に、御名のために苦しむにふさわしい者とされたこと僕はいつも主に感謝している。

手紙の中で、「十字架につけられたキリスト」を私に望むと書いてくれたね。

その部分を読んだ時、僕の魂は喜びに舞い上がったんだ。そして手紙を最後まで読むことさえできず、その場にひざまずいて主を賛美し感謝した(エペソ3:14)。

僕たちの兄弟たちと君のことで、僕の心には苦しみがある。君はこんなにも長く獄につながれている、、

でも君とそれから僕たちの実(胎児)を主の御手に委ねようと思う。

ああ、僕がこの心を切り裂いて、君や教会の兄弟たちに与えることができたらとどんなにいいかと思う!

僕の血でもって彼らを助けることができたら。彼らのために喜んで苦しみたい!


妻リジュケンから夫ジェロームへ


、、主にあって愛する夫。あなたはこれまで試練をくぐり抜け、忠実であり続けました。この偉大な恵みゆえに主をほめ讃えます。

そして今、私も涙を持って主に嘆願します。私をも御名のために苦しむにふさわしい者としてください。黙14:4.

パウロが言うように、もし私たちが主と共に苦しむなら、やがて主と共に治めるようになります。そしてもし主と共に死ぬなら、主と共に生き続けることになります。Ⅱテモ2:11,12.

ですから、主の懲らしめを軽んじないようにしましょう。なぜなら、パウロが言うように、主はご自分の愛する者を懲らしめられるからです。ヘブル12:5,6


☆次の手紙は、ジェロームに対し、火あぶり刑の宣告が出された日の夜に書かれた手紙です。これが彼が妻に宛てて書いた、地上での最期の手紙となりました。




、、僕は君を、十字架につけられたキリストに花婿として差し出したい。

主は君を娘として、花嫁として、王妃として選んでくださった。このいと高き王、永遠の父、愛の神に、僕は今、君のことを委ねる。

これからはこの方が君の慰め主となり、花婿となるんだ。なぜなら、主はまず先に僕をお呼びになったから。

そしてこれが御心だと悟った。だからその事に関し、僕は満足している。主の偉大な御力ゆえに、とこしえまでも主に栄光を!

だから、主にあって最も愛する者よ、悲しんではいけない。

なぜなら主はまず僕をお取りになることで、君に模範を示したいと思っておられるからだ。そしたら君も僕に倣って雄々しくついて来ることができる。

おお愛しい子羊リジュケン、僕は君に嘆願する。どうか教皇主義者や詭弁家たちに耳を貸さないでほしい。

そしてしっかり立って、天の花婿、この揺るぎないお方だけにつき従ってほしい。

主の足跡に従い、彼らの脅しにひるんではいけない。また拷問を恐れてはいけない。

なぜなら彼らは、主がお許しになる以上の害を君に加えることはできないから。マタイ10:30.

だから、恐れてはいけない。そしてキリストの教え、そして真理の中に堅くとどまり続けなさい。、、

勇気をもってほしい。このライオンの巣穴に君はまだもう少しいなければならない。

でも君の解放は近い。それは遅くなることはない。必ず来る。

やがて主が御力をもって来られ、君を花嫁、そして王妃として受け取ってくださる。主の日は近い。ハバクク2:3、詩篇45:14、イザヤ13:6

、、僕は今、君をこの地上に残して去っていかねばならない。もう君の顔を見ることはできないだろうと思う。

でもすぐに、キリストの祭壇の下で君に会いたいと願っている。

、、主に信頼し続ける者を主はお見捨てにならない。

だから僕は喜んで行こうと思う。主に賛美のいけにえを捧げながら。

さようなら、妻よ。祭壇の下でまた会おう。君を主に委ねる。

さあ、別れなければならない時が来た。僕は大きな喜びを持って先に行く。

君の御父であり、僕の御父である方の元に(ヨハネ20:17)。

どうか悲しまないでほしい。そして僕と一緒に喜んでほしい。ローマ12:15.

でも一つだけ辛いことがある。それは君を狼の間に一人残さなくてはならないということだ。

でも君と胎の実である子を主に委ねる。主は必ず最後まで君を守ってくださるから。だから僕は平安のうちに憩おう。

主にあって勇敢でありなさい。




ー手紙終わりー


*ジェローム兄のこの祈りは聞かれ、妻もその後、死に至るまで勇敢に主に従い続け、殉教という形で地上でのレースを全うしました。




しかし、私たちは、神の約束に従って、正義の住む新しい天と新しい地を待ち望んでいます。そういうわけで、愛する人たち。このようなことを待ち望んでいるあなたがたですから、しみも傷もない者として、平安をもって御前に出られるように、励みなさい。Ⅱペテロ3:13ー14






昨日の記事「『神の小屋』現象から見えてくるもの―福音主義教会の〈新しい神〉」を読んだ読者の方が、次のような感想を寄せてくださいました。

「イエス・キリストを信じなければ救われないというのは、あまりに偏狭。イエスの御名も御言葉も聞く機会もなく生涯を終える人々が、地獄行きというのはおかしい。」

クリスチャンを含めた多くの人々が、このような思いや疑問を持っておられるのではないかと思います。この小説(『神の小屋』)はこの思いや疑問に答える神学を、ある意味クリスチャンも満足出来るような形で見事に提示しています。それゆえここまで成功したのでしょう。



「イエス・キリストが道(the Way)であり、真理であり、いのちであり、この方を通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはできない」というヨハネ14章6節の御言葉を、文字通り「神の真理」として受け取るか、それともそれを「偏狭」と捉え、『神の小屋』的なスタンスを取るか――――。


分け登る麓の道は多けれど同じ高嶺の月を見るかな、、、


上の言い回しのごとく、イエスの道を通ろうが、モハンマドの道を通ろうが、仏教の道を通ろうが、結局、皆同じ神にたどり着くのでしょうか?

その問いに対して、YESと答えるのが、万人救済説(universalism)の立場であり、『神の小屋』の著者ヤング氏の立場です。

私はこの万人救済説を考える時、頭の中に「ふわふわの羽毛布団」のイメージが浮かびます。

うん。いかにも寝心地が良さそう。その中にくるまったら、ポカポカと体も暖まってくるだろうな。それに表面もガザガザしてないし、カバーの彩りもすごくいい感じ。これならきっとぐっすり眠れるはず、、、、

ねえ、「あの人はまだ救われていない」とか「イエス・キリストだけが神に至る唯一の道」とか、そういう愛のない発言するのはよそうよ。三位一体の神の教理がどうのこうのってうるさく議論したりするの、もういいかげんにやめようよ。

ほら、Interfaith(他宗教間対話)っていうのが最近すごく盛んになってきている。世界の宗教指導者たちが一緒に神を礼拝しよう、世界平和のために共に祈ろうって頑張ってる。これって、すごくいい事じゃない?違う?


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「我々は、他宗教間対話を推し進めていかなくてはならない。」―スリランカで行なわれた「宗派を超えた集い(Interfaith meeting)」での教皇フランシスの言葉。写真右はヒンドゥー教の祭司。情報源

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同じくスリランカにて仏教寺院を表敬訪問する教皇フランシス。2015年1月。情報源

問題はその神学が本当に真実であるかという一点です

この小説で書かれた神学は、多くの点で聖書と異なっています。たとえ多くの人々の心のニーズに添うものであっても真実でなければ、まことの糧をそこから得られることはなく、結局は美しい嘘に過ぎません。

この小説は反キリスト的ではありませんが、聖書とは異なるキリストを提示しています。ここが危険なところではないかと思います。反キリストなのが明らかであれば、クリスチャンはきっと読まないでしょうから。 ー昨日のコメント欄より



もしこういう万人救済の教えが本当に正しいのなら、そして「イエス・キリストを信じても信じなくても皆救われる」のだったら、、、そしたら、私が二十代半ばで地球の裏側までやって来て、今この地にいること自体、愚の極ということになります。

もしこの教えが本当に正しいのなら、私は20代から30代という人生の一番盛んな時期を、全くムダなことのために浪費してしまったことになります。

エミー・カーマイケル(1867-1951)は宣教師として(一度も祖国に帰ることなしに)53年間を南インドで過ごし、インド人の救いのために一生を捧げました。


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彼女は日記の中で、(英国の波止場での、養父ウィルソン氏との今生の別れのことに触れ)、「あれほど辛い思いは二度とできるものではないと思いました」と述懐しています。

このように、これまでに数えきれないほどの宣教師が、愛する家族の元を離れ、望郷・肉親の情を涙と共に十字架に付け、福音宣教のために旅立って行きました。

もし万人救済説が正しいのなら、彼らはまことに無為な犠牲を払ってしまったことになります。

イエス・キリストへの信仰のために14年間、牢獄と拷問に耐えたルーマニアの牧師リチャード・ウルムブランド、キリスト信仰を否まなかったために20年間投獄され、一人孤独の内に殉教の死を遂げたウォッチマン・ニー、

、、ペルシャ人への伝道のために人生をかけ、トルコで客死したヘンリー・マーティン、幸せなアメリカでの生活を捨て、夫と共にビルマに宣教に赴き、多くの苦難をなめた末、若くで亡くなったアン・ジャドソン、、、

おお彼らはなんとムダな生涯を送ったことでしょう!

耐える必要のない事をムダに耐え、世の誉、富、名声をムダに捨て、大切な人生を丸ごとムダにしてしまいました。そうです。もし、万人救済説が正しいなら、彼らほど哀れな人たちがこの世にいるでしょうか?


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↑リチャード・ウルムブランド(1909–2001)
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↑ウォッチマン・ニー(1903-1972)
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↑ヘンリー・マーティン(1781-1812)
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↑アン・ジャドソン(1789-1826)


さらに、使徒パウロはどうでしょう。ペテロ、マタイ、アンドレ、ピリポ、ヨハネ、トマス、マタイ、ステパノ、ヤコブはどうでしょう?

十二使徒のほとんどが殉教の死を遂げたと言われていますが、これもまた、万人救済説のレンズで見るなら、ムダな死でしかないでしょう。

そして私たちの主イエス・キリストはどうでしょう?

もしダライ・ラマの道でも人が罪と死と呪いから救われるのなら、イエス・キリストはムダに地上に遣わされ、ムダに苦しみ、ムダに十字架上での死を遂げたことになります。そんな大きな犠牲を払わなくても良かったはずだからです。


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ゲッセマネで「苦しみもだえ、、、汗が血のしずくのように地に落ちる」(ルカ22:44)ほど、なぜイエスは苦悶する必要があったのでしょう?

それは実に、イエスが「すべての人を照らすまことの光」(ヨハネ1:9)であり、「世の罪を取り除く神の小羊」(ヨハネ1:29)であられるからです。

そしてイエス・キリスト以外には、誰によっても救いはないのです。世界中でこの御名のほかには、私たちが救われるべき名としては、どのような名も、人間に与えられていないからです(使徒4:12)。

そして神と人との間の仲介者も、唯一であって、それは人としてのキリスト・イエスです(1テモテ2:5)。

もしこういった御言葉を宣言することが、私を「偏狭なファンダメンタリスト」にするなら、私は喜んでわが身にそのレッテルを貼りましょう。

いま私は人に取り入ろうとしているのでしょうか。いや。神に、でしょう。あるいはまた、人の歓心を買おうと努めているのでしょうか。もし私がいまなお人の歓心を買おうとするようなら、私はキリストのしもべとは言えません。ガラテヤ1:10



冒頭の問題提起に戻ります。「イエス・キリストを信じなければ救われない」というメッセージを「偏狭」と取るか、それとも「聖書の真理」と取るか。

万人救済説に対する真のアンチテーゼは、私たち信仰者の生き方だと思います。

私たちがそのように信じ、本気でそのように生きることを通し、この世に証ししていくものだと思います。

それが己の人生をひっさげた、主イエスに対する私たちの愛の告白です。



長くなりました。読んでくださってありがとうございます。





この記事の中で取り上げた信仰者の伝記をお読みになりたい方へ

1)鉄のカーテンの向こうから~ リチャード&サビナ・ウルムブランドの生涯(ルーマニア)ココ

2)ビルマの白百合―アン・ジャドソン宣教師の生涯と信仰 ココ

3)ヘンリー・マーティンの生涯 その1その2 





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信仰は 肉眼を越えるものについての
もっとも明らかな証拠。


肉体と感覚という雲を突き抜け、
天的な光の中に宿るもの。


信仰は 過ぎ去った過去を 現在のうちに見、
かなたの未来を 展望する。


――それが一千年前のことであれ、
何千年後のことであれ。



信仰により 私たちは世界が
神の言葉で造られたことを知る。


未知の国々へと導かれたアブラム。
――信仰により 主に従いつつ。


彼は 永遠の手により建てられし
高く美しい都を待ち望んでいた。



私たちはやがて死ぬ。


しかし、信仰は確信をもって私たちに語る

――天的な建物は とこしえに残ると。





ヘブル11:1、3、8、10


Isaac Watts's poem : Hymn 1:120, Faith Is The Brightest Evidence 私訳


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(イサク・ワッツ 1674-1748)




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