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暴徒に攻撃されつつも福音説教を続けるジョン・ウェスレー。1743年、英国Wednesbury市



イエスの御名の力を崇めよ!
御使いをして 汝を伏し拝ませよ。

王冠をいだき、
主の主であられる このお方に戴冠せよ!


イスラエルの選ばれし種族よ
堕落より 贖われし民よ

恵みによりあなたを救ってくださった
このお方を崇めよ

そして主の主であられる 
この方に戴冠せよ!


おお この地球上に生きる
すべての血族、
すべての民族よ、

このお方に栄光を、栄光を帰せよ。

そして主の主であられる 
この方に戴冠せよ!


おお かなたにいる聖なる群衆と共に、
主の足もとにひれ伏そう!

そして永遠の讃歌を歌いつつ

主なる主に 
王冠を捧げよう!




"All Hail the Pow'r of Jesus' name",
Edward Perronet, 1779、私訳





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エドワード・ペロネット(1721-1792)は、18世紀の英国信仰復興運動で主に用いられたしもべでした。同労者であるジョン・ウェスレーは、日記の中でエドワードの伝道とその試練について次のように記しています。

「1789年付。我々はロックデイルからボルトンへ向かった。そしてすぐさま、ロックデイルのライオン(←福音伝道に敵対する暴徒たちのこと)は、ボルトンのライオンに比べれば、むしろ子羊のようなものだということが分かった。エドワード・ペロネットは引きずり落とされ、泥沼の中で転がされた。数々の石が我々に投げつけられ、窓という窓が壊された。」(Journal of John Wesleyより)


ピリピ3:10-12

私は、キリストとその復活の力を知り、またキリストの苦しみにあずかることも知って、キリストの死と同じ状態になり、どうにかして、死者の中からの復活に達したいのです。

私は、すでに得たのでもなく、すでに完全にされているのでもありません。ただ捕えようとして、追及しているのです。そしてそれを得るようにとキリスト・イエスが私を捕えてくださったのです。















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祈りのベールの証し(アンジェラ・デッカー姉妹)

名前:アンジェラ・デッカー
年齢:19歳
所在地:カナダ、トロント市
祈りのベールを始めた時期:2015年4月


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1)読者のみなさんに自己紹介なさってください。


こんにちは!私は大学二年生です。昨年、バイブル・カレッジでの一年間の課程を修了し、その後二回に渡って、宣教旅行に行っていました。私は同胞クリスチャンのために、そして未信者の方々のためにお仕えしたいという熱い希望を持っています。そして共に救い主イエス様を深く知り成長していくことができるよう、カナダ国内外にいるクリスチャンを励ましていけたらと思っています。


2)どこの教会に通っていますか。その教会でも姉妹たちは礼拝時に、祈りのベールを被っていますか。


私は今春から地元の単立教会に集い始めたのですが、そこはブラザレン教会にとても似ています。教会の中ではほとんどすべての姉妹たちが、マンティラやスカーフ、帽子などで頭を覆っています。時々、教会を訪問される姉妹なら、被り物は課せられません。しかし、教会員になりたいと志願される方に対しては、被り物の必要性が説明されます。


3)どのようにして祈りのベールを始めるよう導かれたのですか。その経緯をお話ください。


私はこの町に移ってきてすぐその週に、(現在通っている)この教会を訪れました。初めてそこの礼拝に参加した時、私はびっくり仰天してしまいました。「うぁー、この人たちの頭の上にのってるのは、一体何なんだろう!?」

イエス様の生誕を描いた絵画などをみていたこともあり、私はそれまでずっと「被り物というのは文化的なもの」って思い込んでいたんです。(絵画の中で描かれている人たちはほぼ全員、頭に何かを被っていましたから。)

それに私は、被り物のことを、「はでな髪の形とか、金や真珠や高価な衣服によって飾り立ててはいけない」という聖句などと一緒にして考えていましたし、「コリントの売春婦に間違われないために当時の女性信者がしていた文化的な慣習だったんだ」ってずっと思っていました。

礼拝後、私の中でこの祈りのベールに関する探究心が芽生えてきました。「じゃあ、私もベールを被らなきゃいけないってことなのかな?」でもまずはしっかりリサーチする必要がありました。

家に帰り着くと、私はギリシャ語原語の聖書をひもとき、1コリント11章のこの箇所を調べ始めました。そしてその後、Youtubeで被り物の証しを検索し始めました。その過程で、私はHead Covering Movement’s videosを見つけたのです!とても分かりやすくシンプルな教えがなされていましたが、検証には深みもあり、私はついに思ったのです。「うん、これって、確かに正しい」と。

1コリント11章の箇所で、最も私に確信を与えた点は、――パウロの言及している「御使い」や「創造の秩序」のことも勿論そうですが――それだけでなく、この箇所が、私たちの常時読んでいる聖書の中に、これだけの字数を割いて書かれてあるという事実でした。

一体どうして1コリント13章の「愛」の箇所にはしっかり耳を傾けながら、同時に1コリント11章は無視する、ということができるでしょうか?


4)被り物を着けて初めて主日礼拝に集った時、どんな心境でしたか


すばらしい心境でした。ただ最初の日曜日は、ベールの事にあまりに心が集中してしまい、しかも焦ってベールが何度か頭から落ちてしまいました。でもこの教会では祈りのベールは普通のことなので、誰も私の方を凝視したりはしませんでした。その意味で、私はこの選択をしやすい環境にあったといえます。プレッシャーもなく、詰問もなく、逆に多くの人がそのことを話題にしている位ですから!


5)いつ祈りのベールを被っていますか。


私は今年の4月にベールを始めましたが、春夏の間は、教会の公式礼拝の時だけ被っていました。しかし、その内だんだんと、教会の外であっても、デボーションや祈りをする時などにベールを被るようになっていきました。そして今年の10月、私はフルタイムでベールをするようになりました。

でも個人的には、聖書は私たち姉妹にフルタイムでのベール着用は命じていないと考えています。にもかかわらず、どうして私はフルタイムでベールを被るようになったのでしょう。それは、祈りのベールを着けることで、一日中、イエス様のことを想うことができるからです。

またベールは私に、自分の言葉や態度に気を付ける大切さを思い出させてもくれます。さらに、神様がとても近くにおられることを思い出させてくれるという意味でも、私にとって慰めです。

また、祈りのベールは私を謙遜にします。私は自分の(美しい!)ブロンドの髪を最新型のヘアスタイルでかわいく編みたいって思います。でも、こういった美に「蓋」をすることは、私にへりくだりを教えます。

いえ、それだけではありません。この行為は、さらに美しいリアリティーへと私の目を開いてくれるのです。――そうです、(自分の美ではなく)神様ご自身が私のフォーカスになるというリアリティーです。


5)祈りのベールに関して、最もすばらしい点、逆に最も困難な点があるとしたら、それを教えてください。


最も困難な点、、は、やはり、同胞クリスチャンからの厳しい態度でしょうか。しかも私はまだ未成年なので、自分の信仰の立場はさらに軽んじられる傾向にあります。(「ああ、彼女はね、ちょっと一時的に熱くなってるだけ。時期的なものよ。」とか「あなたみたいな若者が、聖書の難解な箇所をこうだって解釈するのはちょっと早すぎ」とか言われます。)でも、そうではなく、実際にこの教えを尊守していらっしゃるクリスチャンの方は数多くいるのです。

一方、一番すばらしい点は、神様との良い関係、そして神様を近く感じることだと思います。主の前にもっとへりくだって近づくことができ、ベールを被っている時、日々のさまざまな状況の中で、私は自分の内に、周りに、主のご臨在をもっと感じます。そして自分の頭の上にある被り物の感触を通して、私が自分が誰に属しているのかを知ります。そうだ、私はこの世にではなく、神様に属しているんだって。


6)人目を恐れ、被り物をしたくてもできないでいる女性のみなさんに何かアドバイスがありますか。


(被り物に理解のない)人々のいる所で、ベールを被るのはかなり恐ろしいことです。私も例えば、教会の外でベールを着けている時、それから友だちと会う時や、他のクリスチャンの方々とこのテーマについて話す時など、すごくビクビクします。

でも、みなさん、聞いてください。自分たちの安全ゾーンを超えて、神様を求めるというのは本当にすばらしいことです。私たちが、自分の快適なポジションから一歩を踏み出す時、そこにはイエス様にあるとてつもない報いがあります。

実際、主は祈りのベールを通して、私にすばらしく報いてくださっています。個人的に言えば、例えば、自分の偶像の一つだった「髪」を覆うという自己犠牲を通して、また、(そこから導かれる)信者や未信者の方々との会話など、、多くの実が生っています。

祈りのベールに関して、私は確信を持って信仰生活をしています。私の祈りは、現在ベールを始めることを考えていらっしゃる全ての女性のみなさんもまた、主にある確信を見い出すことです。


7)どんな被り物を使っていますか。どこで購入していますか。


日曜に教会に行く時には、スペイン風の長いマンティラを被っています。私はこのマンティラをSilver Hill Treasures というオンラインのお店で買いました。(このマンティラ、かなりいいです!ある程度重さがあるので、ピンで留めたりしなくても、ずれ落ちてこないんです。)

それから家にいる時(や外にいる時)は、上の写真のように、ゆったりしたスカーフを使っています。風の強い日などはパシュミナス(pashminas:ヒジャーブ型)を使うこともあります。また寒い日には帽子も被ったりします。スカーフはBurlington Coat Factoryなどから購入しており、パシュミナスはトルコやマーケット・タイプのバザールで購入されたもので、私への贈り物でした。

ありがとうございました。




このブログを最近訪問してくださるようになった読者のみなさん、ようこそ!

みなさんの中には、このブログのカテゴリー欄に「風変りな」次の二項目を見つけ、「?」といぶかしく思った方もおられると察します。

祈りのベール(Christian Head Covering) http://christiantestimonies.blog.fc2.com/blog-category-18.html
福音主義教会の先生方への公開レター(Ⅰコリント11章の祈りのベールに関する教えについて)
http://christiantestimonies.blog.fc2.com/blog-category-20.html



そしてもしかしたら、私に対して次に挙げるような疑問や警戒心を抱かれたかもしれません。

ーこのブログの管理人は「福音派のクリスチャン」と言いつつも、もしかしたらカトリックに「改宗」しつつあるのではないか?

ーこのブログの管理人は、恵みから落ち、律法主義的な信仰に陥っているのではないか。

ーこのブログの管理人は、「祈りのベール」というキリスト教教理の中ではごくごく些細な点にこだわり、キリストの福音や愛という最も大切な部分を忘れてしまっているのではないか、、、そう、新約時代のパリサイ人のように、、、


もし、そのような疑問が湧いた方は、今週ぜひこのブログを再訪問なさってください!

今週、掲載する予定の記事をお読みになり、きっと胸をなでおろしてくださると思います。

そして安心するにとどまらず、私たち姉妹の証しや、兄弟たちの論文をお読みになることで、1コリント11章のかぶり物の箇所が、実は本当にすばらしい霊的祝福の「鍵」の一つであることを発見し、感動を覚えてくださるに違いないと思います。

下に挙げるのが私個人の証しです。

かぶり物(祈りのベール)についての私の証し My Head covering Journey (ココ)




どのようにして見分ける?


しかし実際、今のキリスト教界には、さまざまな偽りの教えが氾濫しています。

そんな中、「1コリント11章の被り物が今日にも適用されるべき聖書の掟である」という教えが、果たして本当に聖書的な教えなのか、それとも偽りの教えなのか、私たちはどのように識別することができるのでしょう。

いろいろな答えがあると思いますが、ここでは私が「大事かな」と思った二点をみなさんとお分かち合いしていきたいと思います。


リサーチの大切さ


一つは徹底的なリサーチをはじめることが大切だと思いました。

この教えに「賛成」もしくは「反対」している方々の論文をできるだけ広範囲に渡って読み、冷静に検証することが肝要だと思います。

そしてその際に気を付けなければならないことは、一次資料(primary sources)に基を置いていない主張をそのまま鵜呑みにしないことだと思います。

こと「祈りのベール」の記事や論文に関しては、信頼できる史実や一次資料に根拠を置かないフィクションがかった「推論」があたかも「事実」であるかのように断定され主張されている場合が多いので、要注意です。(*「福音主義教会の先生方への公開レター」のカテゴリーの中でも幾つかの論文を日本語で掲載しています。ココ


御霊の実による見分け


そして二番目として、御霊の実(ガラテヤ5:22、23)を入念にチェックすることが大切だと思います。

ある教えが真に聖書的なものなら、それを尊守する人々のキリスト信仰、人生、人間関係を通して、そこに御霊の実が生っていくはずです。

「祈りのベール(Christian Head Covering)」のカテゴリー項目の中で、私が(ベールを尊守するよう導かれた)福音信仰の姉妹たちの証しを多く取り上げているのはそのためです。

これをお読みになると、国も文化も年齢も生育環境も違う姉妹たちの間にみられる、「普遍的 universal」かつ「超文化的 trans-cultural」な共通点が見いだされるはずです。

それは例えば、内面的・外面的な慎み深さ、恭順さだったり、御言葉に対する姿勢だったり、父親や夫に対する敬愛(参照記事 「父と娘」シリーズその2 高校生ケイガンのお父さんとの関係 ココ)だったりします。

イエス様のおっしゃる通り、良い木が悪い実をならせることはできないし、また悪い木が良い実をならせることもできません。

その意味で、祈りのベールを実践している姉妹たちの生き方や信仰、証しを読むことは、「実」を見分ける良い材料になると思います。


祈り

天のお父様、私は自分がいつの日か、1コリント11章の被り物を、文字通りに実践するようになるなどとは想像もしていませんでした。

あなたが私や他のベールの姉妹たちの人生の中で現在なしてくださっている事は、言葉で表現することができないほど素晴らしいものです。私は、そして私たちは、この喜びと感動を世界に証していきたいと願っています。

この数十年、1コリント11章のベールの教えはこの世のイデオロギーに押され、ないがしろにされてきました。

しかしあなたは現在、世界各地で、あなたを愛し、あなたの御言葉を愛する兄弟姉妹の心に働きかけ、この聖書の教えを回復させてくださっています。

どうか、日本の兄弟姉妹の心にも働きかけてください。

そして日本の地からも多くの生きた証しを起こしてください。イエス様の御名を通してお祈りします。アーメン。





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『神へのあこがれ(The Pursuit of God)』



第六章 語りかける神の声




(前回のつづき)


誰であれ神の御声に耳を傾ける者は、「語りかける天国」の体験するでしょう。

しかし悲しいかな、今日、「静まって神の声を聴く」というのは、教会の中で人気のない教えとなっています。

むしろ私たちはその対極にいるといっても過言ではないと思います。キリスト教会は、騒がしさ、規模、活動、おおげさなパフォーマンスといったものを神の前に良しとする、恐ろしい異端の教えを受け入れてしまっています。

しかし失望しないでください。たいへんな苦しみと葛藤のさなかにいる人々に対し、神はこう仰せられます。

「静まって、わたしこそ神であることを知れ」(詩篇46:10a)。

そして今日も主はそう言われます。――あたかも「私たちの力や安定は、騒がしさの中にではなく、静寂の中にこそあるのだ」とおっしゃっているかのように。

☆☆

静まって神を待ち望むことは大切です。

一番望ましいのは、一人になれる時間帯を選び、できれば目の前に聖書を広げるのがよいでしょう。そうして後、私たちは神に近づき、主が私たちの心に語ってくださり始めるのです。

おそらく普通の方なら、この過程は次のように進んでいくでしょう。

1)あたかも神の臨在が庭の中を歩いておられるかのような、なにがしかの「音」が聞こえてきます。

2)次には「声」が聞こえてきます。(1)の段階によりも神の御声はもっと理解しやすいものになっていますが、依然としてまだ明瞭ではありません。

3)しかしついに、御霊が聖書に啓示の光を当て始めるという幸いな瞬間がやってきます。



最初は音だけでした。もしくはせいぜい不明瞭な声でしかありませんでした。しかし今やそれは理解できる言葉となり、大好きな友達の言葉のごとく、あたたかく、親密ではっきりした言葉として聞こえてくるのです。

そうした後、命と光が来、ついに救い主であり、主であり、全ての全てであるイエス・キリストを見、主の内に安らぎ、主を包み込み受け入れることが可能とされていきます。

☆☆

神が、ご自身の宇宙の中で「今も語っておられる存在である」ということに確信が持てない限り、聖書は私たちにとって決して生ける本とはならないでしょう。

大半の人にとって、「死せる機械的な世界」から「ドグマチックな聖書」への移行など、あまりにしんどく、受け入れがたいものです。

彼らは頭では知っています。――聖書は神の言葉である。だからそう信じなくてはいけない。でも実際問題、聖書のページの上の言葉が自分のために書かれているということは到底信じられない、、これが彼らの現状です。

あるクリスチャンは言うでしょう。「これこれの御言葉は私に対して語られたものです」と。でも彼の心はそう感じることができておらず、確信もありません。

彼は分裂化した心理学の犠牲者といえます。神はどこに在ても沈黙しておられ、ただ書物の中でだけお語りになる方なのだと彼は思い込んでしまっているのです。

私たちの不信仰の大部分は、真理の御言葉に対する間違った概念ないしは、誤った感情にあるではないかと私は考えています。

彼らはこう考えているのです。

――いつもはだんまりを決め込んでおられた神が、書物の中で突然話し始めた。でも本が終わりにさしかかるや、またもや神は沈黙してしまった、、永久に。だから私たちが聖書を読むというのは、つまり、神が話す気分でいらっしゃったほんの束の間に言われたことの記録書――これを読むということなのだ、と。

しかしこのような前提があっては、私たちはいかにして信じることなどできましょう。

しかし実際には、神は沈黙しておらず、これまでも決して沈黙されてこなかったのです。

お語りになるという行為は神のご性質そのものです。三位一体の第二格はロゴス(ことば)と言われています。

聖書は絶え間なく話される神の御声の生み出した必然的結実であると言えます。

そして、これは――私たちになじみのある人間の言葉で表現され――私たちに対する主の思いを述べた、誤ることのない宣言なのです。

☆☆

聖書というのが、かつて(過去のある時点で)話された本であるにとどまらず、今現在も話し続けまた語り続けている本である、ということを念頭に置いた上でこの書物に臨むなら、宗教的霧の中からやがて、くっきりと新しい世界がひろがってくるに違いありません。

預言者たちは繰り返しこう言いました。「主はこう言われる。」

こう言う時、彼ら預言者は聴衆に対し、「神の語りかけは、継続する現在という時の中でなされている」ということを伝えていたのです。

過去のある一時点で、ある神の言葉が話されたことを伝えるのに、確かに私たちは過去形を使います。

しかし、かつて語られた神の言葉は、その後も継続して語られ続けています。――それはたとえて言うなら、(過去のある一時点において)生まれた子供がその後も生き続ける様、あるいは、かつて創造された世界が、その後も継続して存在し続けている様などになぞらえることができるかもしれません。

しかしこういった例は不完全な説明でしかありません。というのも、子どもたちもいつの日か死に、世界もやがては焼き尽くされるからです。しかし、私たちの神の言葉はとこしえまでも生きながらえます。

☆☆

あなたが神を知りたいと渇望しておられるのなら、今すぐにでも聖書をお開けなさい。

そして聖書があなたに語りかけるのを待ち望んでください。聖書があたかも〈もの〉であるかのように、自分勝手に取り扱ってはいけません。

この書物は〈もの〉以上のものです。そうです、これは声、ことば、そして生ける神のことばに他ならないのです。



主よ、汝の御声に耳を傾けることを教えてください。

この世はかまびすしく
私の耳は、
絶えまなく襲ってくる 何千という騒音によって
疲れ果てています。


私に幼な子サムエルの霊をお与えください。

「お話しください。しもべは聞いております」と
汝に申しあげた彼の霊を。

どうぞ私の心の中でお話しください。
汝の御声のひびきに
慣れ親しみたいのです。


――地上にある 
もろもろの音が消え去り、

私に語りかける
汝の御声の調べだけが
ただひとつの音となるほどに。

アーメン。





『神へのあこがれ』第六章 終わり
私訳, picture from here







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『神へのあこがれ(The Pursuit of God)』


第六章 語りかける神の声



(前回のつづき)


こういった普遍的神のみ声のことを、古代ヘブル人はしばし「知恵」と呼びならわしていました。

彼らによれば、この「知恵」は、いたる所で鳴り響き、全地をくまなく巡りながら、人の子からの応答を待ち望んでいるというのです。箴言の八章は次のように始まっています。

知恵は呼ばわらないだろうか。英知はその声をあげないだろうか。箴言8:1



そしてさらに、箴言記者は知恵を、「丘の頂、道のかたわら、通り道の四つかどに立つ(8:2)」美しい女性になぞらえます。彼女はあらゆる町かどに立ち、誰も聞き逃すことのないよう、声を張り上げて言います。

人々よ、わたしはあなたがたに呼ばわり、声をあげて人の子らを呼ぶ。箴言8:4



そして彼女はわきまえのない者、愚かな者に対し、自分のことばに耳を傾けるよう嘆願しています。

これは神の「知恵」が私たちに求めている霊的応答であり、彼女がいつもそれを切望しながらも、残念ながらほとんど得られることのない応答なのです。

私たちの永遠の福利は、実にこの「聞く力」にかかっているにもかかわらず、悲劇的なことに、私たちの耳は、むしろそういうものを受け付けず、遮断してしまっています。

☆☆

この普遍的「神の声」は、今に至るまで鳴り響いており、(たとい人が自らの抱いている恐れの源が一体何なのか理解していなかったとしても)それでもしばし、そのは、人の心に呵責の念を起こさせています。

人の心を覆いし生露の滴るがごとく――この「声」こそが、呵責に苦しむ良心の隠れた主因、そして(歴史が始まって以来、無数の人々によって求められてきた)不死に対する渇望ではないでしょうか。

私たちはこの事に直面することを恐れる必要はありません。語りかける神の声というのはれっきとした事実だからです。

☆☆

神が天から、主イエスにお語りになられた時、それを聞いた自己中心的な人間たちは、その「声」を自然的原因に帰して言いました。

「雷がなったのだ」(ヨハネ12:29)。

神の声を説明するのに、自然法則に訴えるやり方というのは、近代科学の根源ともいうべきものです。

生き息づく宇宙の中には、ある神秘的な「何者か」がおられます。そして、このお方はあまりに偉大かつ驚異的であり、人間理性の理解をはるかに超えているのです。

信仰者は、是が非でもこれらを「掌握してやろう」ともがいたりはせず、むしろ膝をかがめ、こう囁くのです。「おお神よ!」と。

この世に属する人間も跪きますが、それは神を礼拝するためではなく、あくまで、そういったものの原因や諸現象を調べ、突き止め、発見すべく彼らは跪くのです。

そうです、私たちは世俗時代のただ中に生きており、それゆえ、私たちの思考様式も、科学者のようであって、礼拝者のそれではない、というのが現状です。

私たちは驚異の念に打たれ神を崇めるよりはむしろ、それを「説明」しようとする傾向を強く持っています。そして「雷が鳴ったのだ」(ヨハネ12:29)と言いつつ、そのまま地上的な道を進んでいきます。

しかしそんな中でも依然として神の声は鳴り響き、今も私たちを探しておられます。

世界の秩序および命が、このお方の「声」に依拠しているにもかかわらず、私たちは余りにも多忙すぎるためか、もしくは頑迷すぎるためか、その声に注意を向けようとしないのです。

☆☆

しかし私たちの内誰もが、言葉では表現できないある種の経験をしているはずです。

――例えば、突然襲ってくる孤独感、宇宙の広大さを前にした畏敬の念、、もしくは、、次のような経験はありませんか。

あたかも別の太陽から放たれているようなまばゆい光を受け、その瞬間、自分がこの世に属さないよそ者であること、私たちの源は神よりくるものである事、、などを確かに知るのです。

その際に、私たちがそこで目にしたり、感じたり、耳にしたりするものは、自分たちがこれまで学校で教わってきたものとはまるで正反対の現象かもしれませんし、これまでの信念や考えともかなり異なる種類のものであるかもしれません。

しかしこれらの現象に対する私たちの素朴な疑問は無理やりもみ消され、そうこうしているうちに、また雲が頭上を覆ってしまうのです。

このような事を説明しようとするに当たり、私たちがぜひとも覚えておかなければならない事があります。それは、少なくとも次に挙げる二点、つまり、

ーこういった経験は、この世界に存在しておられる神の臨在より来たものかもしれない。
ーこれは人間と意思疎通を図ろうとしておられる主のたゆみない努力と願いによるものであるかもしれない。

という事がもしかしたら可能性としてあり得るかもしれない、と私たちが受け入れようとしない限り、私たちは諸事実に対して公平な態度を取ることができないという事です。ですから、こういった仮説を、あまりに軽率に斥けるのは慎むようにしましょう。

☆☆

次に述べるのはあくまで私個人の見解です。

――つまり、この世界で人類が作り出してきたあらゆる良き物、美しい物は、全地に響き渡っている創造的な神の「声」に対する、人間側の、(罪で塞がれた)不完全な応答だということです。

美徳に関する高尚な理想に夢を抱いた倫理学者、神および不死についての思索にふけった宗教思想家、ありふれた物から純粋で永続する美を造り出そうとした詩人や芸術家たち、、、彼らのことを一体どう説明すればよいのでしょうか。

「どうせ、あの人たちは天才だったんですよ」と言うのではあまりにも短絡すぎます。

それでは天才とは何なのでしょう。

もしかしたら天才とは、語りかける御声にとりつかれたようになった人――漠然としか理解できていない目的をなんとか達成しようと、労し努力している人間のことを指すのかもしれません。

もちろん、こういった偉人の中には、神のことを見落としてきた人もいるでしょうし、あるいは神に敵対するような事を言ったり書いたりしてきた人もいるでしょう。

しかしたといそのような事実があるにしても、依然としてこれまで私が述べてきた論点を崩すことはできません。

聖書の中に記されている贖罪の啓示は、救われるための信仰および神との平和を持つに当たって必要不可欠です。

不死に対する漠然とした憧れが私たちを神との平安にして満たされた交わりへと導いていくのだとするなら、復活された救い主イエス・キリストへの信仰はその過程で不可欠なのです。

☆☆

神の御声はやさしく親しみやすい声です。

(人がその御声に何が何でも抵抗しようと決意しているのでない限り)、御声を聞くのに恐れる必要はまったくありません。

イエスの血潮は人類を覆っているだけでなく、あらゆる被造物をも覆っているのです。

その十字架の血によって平和をつくり、御子によって万物を、ご自分と和解させてくださったからです。地にあるものも天にあるものも、ただ御子によって和解させてくださったのです。(コロサイ1:20)



こうして私たちはやさしく親しみやすい天国について説くことができるのです。天も地も主の善きみこころで満ちています。キリストの贖いの全き血潮が、これを永遠に確かなものとしているのです。




(その3につづきます。)
picture from here





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神へのあこがれ
The Pursuit of God




第六章 語りかける神の声
6. The Speaking Voice



初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。ヨハネ1:1

In the beginning was the Word, and the Word was with God, and the Word was God. John 1:1




キリスト教の真理については無知な、ごくごく普通の教養人が、上の聖句を遭遇したと仮定してみましょう。そうすると、おそらくこの人は次のように結論づけるだろうと思います。

「えーと、つまり、ここでヨハネが言っているのは、『――語り、そして自分の考えを他者に伝達しようとするのが神の性質』っていうことじゃありませんか?」と。

確かに、その人の指摘は正しいと言えます。ことばというのは、思想や考えが言い表されるための媒介物です。

そして、この「ことば」(Word)という部分を永遠の御子に当てはめて考えるなら、私たちは次のような結論に導かれるでしょう。

――つまり、自己表現というのは神性(Godhead)に本来備わっているものであり、神はとこしえにご自身のことを被造物にお語りになりたいと願っておられるのだと。

聖書全体もこの考えを後押ししています。神は今もお語りになっておられると。

「神は語った」という過去形ではなく、「語っておられる(God is speaking)」という現在進行形なのです。

神はそのご性質により、今も絶え間なく明瞭にお語りになっておられます。そうです、神はご自身の発せられるその御声で、この世界を満たしておられるのです。

私たちが考えなければならない大いなるリアリティーとはまさに、この方の世界に満ち満ちる「神の声」に他ならないのです。もっとも簡潔にして唯一満足のいく宇宙起源説とはこれです。「神は仰せられた。するとそのようになった。」

自然法則の因は、ご自身の被造物の中に内在する、生ける神の御声です。

また全世界を存在するにいたらしめた神のこの言葉をもって、それをそのまま「聖書」と解釈することはできません。

なぜなら、ここで私が言っている生ける神の御声とは、成文化もしくは印刷された言葉ではなく、あらゆる物の構造の中に語り込まれた「神のご意思の表現」だからです。

この神の言葉は、生き生きとした潜在性をもってこの世界を満たしている神の息です。

神の声というのは自然界の中において最も強力なパワーであり、実に自然界における唯一の力なのです。なぜなら、あらゆるエネルギーというのは、力に満ちた御言葉が語られたゆえに、今ここに存在しているからです。

聖書は成文化された神の言葉です。そして、それが「書かれたもの」であるゆえ必然的に、聖書はインクや紙やなめし革等によって閉じ込められ、制限された状態にあります。

一方、神の御声というのは、主権者なる神が自由であるように、生きており自由です。「わたしがあなたがたに話したことばは、霊であり、またいのちです」(ヨハネ6:63b)。

いのちは、語られている言葉のただ中にあります。聖書の中の神の言葉は、それが宇宙における神の言葉と調和しているゆえに、力を持ち得ているのです。

それは「今まさにここに在る」御声であり、それが成文化された御言葉を全能のものにしています。そうでなければ、それは書物の扉の中に閉じ込められ、力なく横たわるしかなくなってしまうはずです。

私たちは、創造時に、物質と接触をもたれた神のことを考える際、あたかも神が大工のように、物を形作ったり、備え付けたり、建てたり、、という風に、それらを低く原始的な見方でとらえがちです。

しかし聖書の見方はそうではありません。

主のことばによって、天は造られた。天の万象もすべて、御口のいぶきによって。詩篇33:6

まことに、主が仰せられると、そのようになり、主が命じられると、それは堅く立つ。詩篇33:9

信仰によって、私たちは、この世界が神のことばで造られたことを悟り、 ヘブル11:3a



留意しなければならない点は、神がこういった箇所で言及しておられるのは、成文化された神の言葉ではなく、今もお語りになっている御声(His Speaking Voice)のことだという事です。

全世界を満たす主の御声は、次のことを意味しています。

ーそれは、聖書に先行し存在してきたものであり、
ー創造の黎明以来、けっして沈黙することなく、今に至るまで宇宙の隅々まで鳴り響いている声である、ということです。

神のことばは生きていて、力があります。

はじめに神は無に対して仰せられました。そうすると、それは(有形の)なにかになりました。

カオス(混沌)がそのことばを聞くと、それは秩序と化し、
暗闇がそれを聞くと、それは光となりました。

そして神は仰せられた(said)。するとそのようになった(it was so)。



――原因と結果を言いあらわす、この双子のような対句は、創世記における、創造の記述の箇所全体に記されています。

「仰せられた(said)」は「そのようになった(so)」を説明しており、一方、「そのようになった(so)」は途切れずに今も続いている「現在」という時を表現する神の言明(said)なのです。

神はここに在られ、今も語っておられます。そして、この真理は、他のあらゆる聖書真理の背後に存在しています。そうです、これなしには、啓示というものは存在しえないのです。

はたして神は書物を記された後、それをほいと使者に託したまま何もされず、読む人が何の助けも得られないような状態に私たちを放置されたのでしょうか。いいえ、そんなことはありません。

主は聖書に仰せられ、語られたことばの中に生きておられます。そして絶えず私たちにことばを語っておられ、その御言葉の力が時を超えて保たれるよう、取り計らっておられるのです。

神が土のかたまりに息を吹き込むと、それは人となりました。主は今も人に息を吹き込んでおられ、(やがてその営みがなくなると)人はまた土になります。

「立ち帰れ、人の子らよ」というのが、堕落時に主が仰せられたことばであり、それにより、神はすべての人に死を定められました。――それに対し、どんな付け足しの言葉も必要とはされませんでした。

誕生から墓場まで、人類の織りなすこういった一連の悲しい営みは、結局、神が最初に仰せられたこの言葉の充足性を証明しているものであります。

まことの光があった。それは世に来て、すべての人を照らすものである。ヨハネ1:9



この聖句については次の別訳もありますが(「すべての人を照らすそのまことの光が世に来ようとしていた。」)、いずれにしても、依然として真理がそこにあります。

つまり、神のことばは、魂の中を照らす光としてすべての人の心に感化をもたらしているということです。

すべての人の心の内で、この光は輝き、神のことばは鳴り響き、そこから逃れ得るものはありません。

もし神が実際に生きておられ、この世に存在しておられるのなら、必然的にそのようであるはずです。それに対しヨハネも然りと言っています。

聖書のことを一度も耳にしたことのない人であってさえも、依然としてこのことばは彼らの心に十分な明瞭性をもって語られており、それは、彼らの心から永久に弁解の言葉を取り除くためなのです。

彼らは、このようにして、律法の命じる行ないが彼らの心に書かれていることを示しています。彼らの良心もいっしょになってあかしし、また、彼らの思いは互いに責め合ったり、また、弁明し合ったりしています。ローマ2:15



神の、目に見えない本性、すなわち神の永遠の力と神性は、世界の創造された時からこのかた、被造物によって知られ、はっきりと認められるのであって、彼らに弁解の余地はないのです。ローマ1:20







(その2につづきます。)
私訳, picture from here


ドイツのラッツェル牧師の証(ココ)やイランのK兄の証(ココ)等を通し、最近私は、キリストを信じる者が、「時が良くても悪くても」みずからの信仰を、そして御言葉の真理を公に「告白 confess, testify, proclaim, witness」していくことの重要性をひしひしと感じています。

親しくしているある姉妹は、「クリスチャンの私がイエスさまや聖書のことを紹介しなければ、悩みを持つママ友達は、違う宗教や倫理の会などに流れて行ってしまう」と言い、現在、彼女のできる最善を尽くし、周囲にいるお友達に福音を伝える働きをしておられます。

伝道者の書には、「黙るに時があり、語るに時があり」(2:7b)と記されていますが、今ほど福音の真理のためにもはや「黙る」のをやめ、「語る」こと、擁護すること、証すること、公に告白することが私たち信仰者に課せられている時代はないように思います。

「わたしが暗やみであなたがたに話すことを明るみで言いなさい。
また、あなたがたが耳もとで聞くことを屋上で言い広めなさい。」(マタイ10:27)



☆☆

私たちの罪の赦しのためにあれほど悶絶の苦しみをされた御子の十字架上での贖罪の死が教会の中で公然かつ冷然と否定され、イエスの神性が否定され、「万人救済論」という偽りのオブラーゼで包まれた闇のパッケージが、「良書」としてキリスト教書店の店頭に山積みされています。

しかし、ラッツェル師がおっしゃっていたように、私たちが福音の真理を擁護しようと立ち上がると、なにかしら周囲との間に不調和音が生じるようになります。(ローマ12:18、Ⅱテモテ2:24のような御言葉をできる限り尊守しようとしていても、です。)

マタイ10章でイエス様は十二人の弟子に、遣わされた者としての使命や、彼らの行く手に待ち受けているであろう世や家族との分離・衝突・迫害のリアリティーをはっきり語っておられます。

しかし今、私たちがいのちのメッセージを発信しなければ他の誰がその事を発信していくのでしょう。

人々が「万人救済論」という麻酔薬を注射されて、救われていないのにもかかわらず救われたと思い込んでいる現状を見て、そして魂が怒涛のように下へ下へと転落していっている惨状を見て、私たちは果たして「黙って」いることができるでしょうか。

結局、誰かが声を挙げなければならない、

どんなに言いにくいトピックであっても、それが聖書の真理なら(そしてそれが現在ないがしろにされたり、歪曲されようとしているのなら尚さら)、やはり主イエスさまのために声を挙げなければならない。

黙っていてはいけない、、

モルデカイのエステルへのあの強い言葉も思い出されました。

あなたがもし、このような時に黙っているならば、ほかの所から、助けと救いがユダヤ人のために起こるでしょう。しかし、あなたとあなたの父の家とは滅びるでしょう。あなたがこの国に迎えられたのは、このような時のためでなかったとだれが知りましょう。
」エステル4:14



☆☆

先日、私たちが、ある家庭に滞在していた時、退院したばかりのご老人(88歳、中東圏)をお見舞いに行きました。

その後、このご老人は数回、私たちに会いに来てくださり、私たちがその地方を発つ日の昼食時にも来てくださいました。

最初の日にある兄弟がこの方に少し聖書の話をしたところ、「もうこの年になって新しい宗教に改宗する気はない」とおっしゃいました。

こう言っては失礼かもしれませんが、見るからに固定観念の強そうな(でも、とってもやさしい)おじいちゃんでした。

テーブルを囲んで最後の昼食を共にしている時、私は重苦しい気持ちで、このご老人の方を見ました。この方以外、テーブルについている人々は皆クリスチャンでした。

この方が心臓発作に遭いながらも一命をとりとめ、今、生きているのは、彼の魂を救おうとしている主のご慈愛に他ならないのではないかと思いました。

私たちがクリスチャンであることを知りながらも何度も訪問してくださったこと、遠隔地にいる彼の息子さんがクリスチャンであること、父親の救いを祈っておられること、、これらの事実を前に、私の心はますますコーナーに追いつめられていきました。

ご老人は陽気に冗談を連発し、皆楽しく笑っていましたが、私の前に見えるのは、天国と地獄のはざまに立っている一人の魂の「今」でした。

こういうなごやかな雰囲気をぶちこわしたくない、

でも、もしかしたら、彼が存命中に福音を聞くことができるのは、これが最後のチャンスかもしれない。

「あなたがもし、このような時に黙っているならば、、、」それで私は意を決して行動を起こすことにしました。

私が直接、高齢のこの男性に何かを申し上げるのは礼儀に反すると思いましたので、私は主人を介して、メッセージを伝えてもらうことにしました。

しかしご老人は「いや、あなたの口から直接話を聞きたい。」と寛大に発言を許可してくださいましたので、私は謹んで思いのたけを申し上げることにしました。

「Aさん、私にとってイエス・キリストの福音は生死にかかわる問題です。Aさんは私にとっておじいちゃんのような存在です。だから、Aさんが私たちと一緒に天国に行くことがはっきり確認されるまでは、私はあなたと一緒に冗談を言ったり笑い合ったりすることができません。私はAさんと一緒に天国に行きたいです。」

とそこまで言い切ると、張りつめていた緊張の糸がついに切れ、涙がどっと溢れてきました。

恐れていたように、おだやかな会食の席は、私のこの発言で台無しになったかのようでした。

しかし人間の理性や常識や思いを超えたところで聖霊が働くということを私たちはこの時、体験しました。

ぶちこわしになったのは、おだやかな雰囲気だけではなかったのです。おじいちゃんの「固定観念」もまたその瞬間、聖霊によってぶちこわしになったのです。

その後、兄弟が彼に福音を説明すると、彼はイエス・キリストが神の子であること、私たちの罪のために十字架の上で死に復活されたことを信じると告白したのです。

☆☆

Ideas have consequences(=思想・考えが結果をもたらす)という言葉があります。

もし私が「イエス様を信じても信じなくても皆救われる」という万人救済論を信じていたのなら、上に挙げたような発言はまずしなかったはずです。そして、あのようなAさんの応答もなかったはずです。

しかし聖書に書いてあることはことごとく真理であり、イエス様が真理であり(ヨハネ14:6)、ただこの真理だけが人の魂に語りかけ、悔い改めに導く力があることを体験しました。

沈黙を破って私たちが「語り」、「証し」する時、聖霊が働くのです。



読んでくださってありがとうございました。





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私が目ざめるとき、
私はなおも、あなたとともにいます。詩篇139:18b

When I awake, I am still with Thee. Psalm 139:18b





赤紫色に染まりし 暁(あかつき)の空。

小鳥たちが目を覚まし
暗闇が消え去るとき

私はなおも、あなたと共にいます。



神秘的な暗がりの中で ただ汝とのみ交わる時。

そこより生まれ出る 自然のおごそかな静寂さ。



汝とのみ交わる その時

しとやかな露と 朝のみずみずしさの内に

息もつけず 恍惚として汝を見上げます。



重荷に耐えかね 魂が沈みこむ時、

私は横たわり、

目を閉じたまま 
祈りのうちに 汝を見上げます。


御翼の下におおわれ、
静寂のうちに憩う わが魂。


しかし 目ざめてなお あなたがそこに
おられることを知るとき

わが心は いよよ 平安に満たされるでしょう。



そして、
 
かの光り輝く朝がやって来る その時、

目覚めた魂は知るでしょう。


わが人生の暗闇が もはや完全に去ったことを。



おお その栄光の時を想うとき、

その時もなお 汝と共にいることを想うとき、


わが魂は 

はるか上に舞い上がります。





Still, Still With Thee, Harriet B. Stowe, 1855
私訳
















↑本詩「雨のしずく、قطره های باران」の朗読です。ただし朗読はK兄ではなく別のクリスチャンの方がなさっています。




時おり、夜中に
 
天より降りし 雨のしずくが
部屋の窓ガラスに
パタパタと打ちつけ、

私は目覚める。


雨滴は 
陰気なわが心の部屋を濡らし、


打ちつける音ひとつひとつが
私を呼び起しているかのよう。


ぽたっ、ぽたっ。

しずくの音は
深黒の夜から私を呼び覚まし、

遠く 過ぎ去った日々を
私に想起させる。


この音は
わが存在と混じりあった〈追憶〉に、

以前にはなき光を灯し、
私にこう語りかける。


暗く 孤独だった あの晩にさえも
お前のことを心に留めている方がおられたのだ、と。


その語りかけは 私の魂に静けさをもたらした。

静けさ―。


しずくの音のリズム、
その美しい調べの中に、

人生の美に対する感覚と
 
永い間 忘れ去られていた 
あの麗しき日々が
甦る。


しずくの音。

ああ この素朴な音が
わが内にある追憶を呼び覚ました!


いや、おそらく
この素朴さ、一律さゆえにこそ

心に静けさがもたらされたのかもしれない。


シンプルで、粉飾なく、
偽善なく、地に属さない調べ。


あなたのために 天より来、

最上にして 
もっとも心和む人生歌を奏でてくれるもの。


どんな子守歌よりも あなたの心を安らがせてくれるもの。


部屋の窓ガラスのように 
ちりと埃だらけだった私の心が
 
流れる雨滴により、
清く 透き通るものへと変えられた。


今、私は何をすべきか。
何をすべきか。


耳を澄ませなさい。あの方の御声に耳を傾けなさい。


霊の安らぎ――その中に永遠があり、
いのちは その中で波打っている。


そこより来(きた)る御声に耳を傾けなさい。


天より来、わが内に注がれるもの。


耳を傾けよう。耳を傾けよう。

――流れゆく雨滴のうちに
神の御声を。


主は愛といつくしみを持ってあなたに臨み、
あなたに仰せられる。


わたしは あなたの悲しみを知り、
あなたの悲哀に涙を流している。


主は御涙の香油をもって 
あなたの傷と痛みを癒し、清められる。


そして、
美しく沁みわたる御声により、

わが心は比類なき歓喜に包まれる。

――雨上がりの空に舞う小鳥の歌声のように 



主は言われる。

わが子よ。

最も暗き夜に、
痛みのうちに、

数々の苦難のうちに、
憂いの中に、

あなたを苦しめ困憊させているあらゆるもののただ中にあって、


わたしはあなたと共にいる。


そしてあなたの存在の深淵に、
霊と魂に、
平安を与える。


あなたを清められた窓ガラスのようにしよう。


こうしてあなたは透き通った目で外を、
被造物を見るようになる。

自由にそして軽やかに。


わが子よ。

窓ガラスに打ちつける雨滴の音を聞くたびに、
わたしを覚えなさい。


――天に、あなたを愛する御父がいるということを。


あなたを愛する御父がいることを。





قطره های باران、私訳











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おお 汝の存在は天的です。おお 汝のご臨在には喜びが溢れています。
おお耀きに満ちた希望の光。おお汝は 暗く冷たき心をあたためる太陽であられます!

―キリスト者による現代ペルシャ信仰詩より



K兄はイランのキリスト者であり、献身者として某プロテスタント教会で奉仕しておられる方です。

彼は約十年前にイエス・キリストを救い主として受け入れ、信仰を持ちました。

今年、主の導きにより、この兄弟はクリスチャンの信仰詩を音声にしてyoutube上に流し、それを通してイエス様の愛と福音のメッセージを分かち合おうと尽力しておられます。


☆☆

:K兄、こんにちは。今年に入って、Nedaye Doost(=友の声、ندای دوست)というチャンネルを立ち上げられましたね。そもそも「友の声」とは何を意味しているのでしょう。どのような思いでこの名前をお付けになったのですか。


:祈りの中でこの名前が与えられました。「友の声」の「」はキリストを指しています。つまり「キリストの御声」です。

私にとってキリストは牧者であると同時に、誠実でもっとも親しい友でもあります。またこの「声」(Neda)はイザヤ40:3の聖句にも基づいています。御霊の中で、その深い御臨在の中で、神の御声にじっと耳を澄ませたいという願いが私の中にあります。


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Nedaye Doost (*この書体は、ナスターリーク体です。日本書道でいう「行書体」です。)


:なぜNedaye Doostを始めようと決意なさったのですか。


:最近のキリスト教番組や放送を見ていますと、さまざまな装飾の中で、キリストにではなく、「人」にスポットライトが当てられているように思います。

私はできるだけそのような人間的な技巧を避け、シンプルに声による朗読だけでキリストの栄光を証していきたいと思いました。

その詩詠を聴く人が一人であろうが、一万人いようが、神の前に数は問題ではないと思います。なぜなら、主は魂をひとりひとり愛してくださっているからです。


:この地上におけるあなたの情熱は何ですか。


:キリストの愛が私を引き寄せました。今、私の心を占めているのはキリストの御国です。

私は多くの男女の心が御霊の火によって燃え上がり、御国の拡大のために、神の栄光のために立ち上がることを夢見ています。

現在、多くの教会において神の栄光は覆われた状態にあり、私たちは輝かしいその栄光を見ることができないでいます。しかしその覆いが取り払われる時、偉大なる御霊の顕現があることでしょう。



:何か祈りの課題があったらおっしゃってください。日本の兄弟姉妹が執り成しの祈り捧げてくださると思います。


:主によって導かれている召命の道が塞がれることのないよう、どうぞお祈りください。障害物に足を捕らわれることなく、私がその道を進んでいくことができるように。

御霊の流れは自由ですが、人間がその自由な動きを制限してしまう場合があります。しかしその制限が取り払われるなら、御霊はいよいよその歩みを速め、力強く前進していくようになります。

何に対しても恐れることなく、召された道をひたすら進んでいくことができますようお祈りください。ありがとうございます。



次につづく記事で、K兄弟のお書きになった信仰詩を一つ紹介させていただきます。