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David Brainerd 1718-1747

聖められることを追い求めなさい。聖くなければ、だれも主を見ることができません。
ヘブル12:14b

Διώκετε, ,τόν ἀγιασμόν, οὗ χωρίς οὐδείς ὄψεται τόν Κύριον. (Εβρ. 12΄ 14).



愛する弟へ


私は今、すぐにも見えない世界に移されることを期待しつつ、永遠の縁に立っています。

もはや自分が地上の住民であるとは思っていません。そして時々、「世を去ってキリストと共にいること」を切望しています。

この数年間、神は私に、神にすべてを捧げることなしに、理性ある者が真の幸福を楽しむことはできないという、永遠の確信を与えてくださいました。

このことについて私は神に感謝しています。

この確信の下に、私はいくらかのことをしてきました。ああ、もっと多くのことをしていたなら!

私は聖く生きることがどんなにすばらしいことであり、重要なことであるかを知っていましたが、死の境から引き戻されたばかりのこの時ほど、このことを痛感したことはありません。

弟よ、聖潔を追い求めなさい。この幸いな目標を目ざして前進しなさい。

そして、渇いた魂に、絶えず、「御姿に似た者とされるまでは満足しません」と叫ばせなさい。

かつての私の考えには利己的なものがたくさんありました。そのことを恥ずかしく思います。それを思うたびに私の魂はへりくだされます。

しかし神をほめよ。私の関心は主として、神の栄光が顕され、この世にあって神の国が前進することにありましたので、過ぎ去った年を顧みるとき、満足を覚えるのです。

☆☆

愛する弟よ、心からお願いします。

どうか自分の聖潔を追い求め、健康の許す限り、断食と祈りに努め、一般のキリスト者の標準以上の生活をすることを切に望むとともに、伝道のわざに励み、真の宗教と偽りの宗教を区別するために労し、またそのために心に臨まれる神の御霊の働きに心を留めなさい。

あなたはこの世に偽りの宗教がどんなにたくさんあるか、十分には知らないのではないでしょうか。

死に臨んでいる働き人の名により、そして死んだことはあるが今生きておられる主の御名により、福音にふさわしく過ごし、ふさわしく歩むよう、私の民に勧めてください。

彼らに対する神の期待、神の民の期待がどんなに大きなものであるか、また、もし彼らが悪に陥るなら、他の哀れなインディアンに致命的な害を与えるばかりでなく、どんなに神の御旨を傷つけるかを語ってください。

また、もし彼らの生活の中心が霊的でも注意深くもなく、また聖いものでもないなら、たとい自分の幻想によって第三の天まで引き上げられたとしても、彼らの経験は不健全なものであり、その喜びは当てにならないものであることを強調してください。

このようなことを勧めることにより、「自分自身をも、またあなたの教えを聞く人たちをも救うこと」になるのです。

もしみこころなら、過去の年月に経験したすべての労苦と患難がなお続くとしても、私はさらに生き延びて、伝道のわざによって神にお仕えしたいと心から願っていることを、神はご存じです。

しかし今、神のみこころはそうではありませんので、私は全くそれに満足し、完全な自由をもって「主のみこころがなりますように」と言うことができます。


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あなたを罪の世に残して行くことを考えると、心が痛みます。

恵みによって私は世の嵐や試みからほとんど自由にされたと信じておりますが、こうしたものがなおあなたの前にあることを思うと気の毒でなりません。

しかし「主は生きておられます。わが岩はほむべきかな。」主は変わることのない大能の友であられます。

そして私にとってそうであられたように、あなたにとっても導き手であり助け手であられることを、私は信じております。

愛する弟よ、「私は今あなたを、神とその恵みのみことばにゆだねます。この御言葉はあなたの徳を建て、すべての聖められた人々とともに、嗣業を受けさせることができるのです。」

個人的にも、公にも、あなたが神のご臨在を楽しみ、「ヤコブの全能者の御手によって、あなたの腕が強くされますように。」

これが私の切なる願いであり、祈りです。



1747年
死に臨んで、あなたの兄
デーヴィッド・ブレイナード


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1746年5月22日 木曜日

主よ、ここに私がおります。私をお遣わしください。地の果てにまで私をお遣わしください。荒野に住む野蛮な異教の民のもとにお遣わしください。

この世にあって楽しみと呼ばれる一切のもの、この世の安楽な生活から引き出して、私をお遣わしください。

死にさえも私をお遣わしください。そのことによって、あなたのみわざが進められ、御国が拡張されるのであれば。

さようなら、友人たちよ。世の楽しみよ。その最も慕わしいものよ。もし主が要求なさるなら、私は別れを告げる。

さようなら。キリストの御国が拡張されるためであるなら、私はほら穴の中、地の深い所にあって、最後の瞬間まで命を使い果たそう。

ああ、睡眠のために時間を取らずにすむなら、どんなによいだろう。火のかたまりのようになって、最後の時まで、死ぬ瞬間まで、絶えず神のみわざのために光を発し、キリストの御国を築き上げてゆくことを切に望む。





デーヴィッド・ブレイナードの霊的日誌






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スコットランド


日々の糧 (DAILY BREAD)


神の御言葉を年間に通読するためのカレンダー


Being a Calender for reading through the Word of God in a year


ロバート・マーレイ・マクチェーン

スコットランドにて (1842年12月)


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Robert Murray M'Cheyne (1813 - 1843)

あなたのみことばは、よく練られていて、あなたのしもべは、それを愛しています。詩篇119:140



親愛なる私の群れへ。


新年が迫りつつある今日、私の心にはあなたがたの救い、またあなたがたの信仰のさらなる成長を望む新たな願いが起こされています。

「私が、キリスト・イエスの愛の心をもって、どんなにあなたがたすべてを慕っているか、そのあかしをしてくださるのは神です」(ピリピ1:8)。

来る年に一体何が起こるのか、もはや誰も想像できません。多くの敬虔な人々の魂はある種の重荷を感じており、この地に奇なる裁きがもたらされるであろうことを予感しています。

今こそ次のような厳かな問いをする時ではないでしょうか。「もし安全な地で、あなたが倒れるなら、ヨルダンの密林では、どうするつもりか」(エレミヤ12:5b)。

☆☆

こういった信仰者たちは、自分自身にも被造物にも寄り頼まず、ひたすらに私たちの義なる主に信頼を置き、堅く立つに違いありません。

このような悪しき日に立ち向かうに当たり、私たちは今まで以上に聖書に立ち返り、贖いの座に近づく必要があります。

そうすれば、私たちはダビデと共にこう言うことができるでしょう。「高ぶる者は大いにわたしをあざ笑います。しかしわたしはあなたのおきてを離れません」(詩119:51)。

「君主らは、ゆえもなく私を迫害しています。しかし私の心は、あなたのことばを恐れています」(詩119:161)。

日々の聖書日課を用意することは長い間、私の心にありました。

これに従えば、あなたは一年間のうちに聖書全巻を通読することができ、また皆が同時に、緑の牧場である同じ聖書箇所から霊的糧を得ることができます。

しかしこのような聖書日課には以下に挙げるような危険性が伴うことを私はよく承知しています。


危険性


1.形式的になってしまう


私たちは実に弱い被造物であるゆえ、規則正しい日課というのは――それがどんな種類のものであれ――命のない形式へと退化していきがちです。

「このようにきっちり定まった規則に従い聖書を通読していくことは、その意味で骸骨のように中身のない信仰生活を生じさせるのではないか」と懸念される方もおられることでしょう。

確かに、「信心深い様子をしながら、その実を捨てる者になる」(Ⅱテモテ3:5a)というのは、終わりの時にとみにみられる罪です。

ですからこの傾向に気を付けてください。この錆(さび)によってあなたの魂がむしばまれるよりは、むしろこの聖書日課が消え去ることを私は願います。


2.自己欺瞞


またある人々には次のような徴候が表れるかもしれません。

すなわち、御言葉を規則正しく読み進めていくうちに、自分に対するひとりよがりな思いにふけり始めるのです。

しかし(私は確信しています)多くの人々は実際のところ、魂に神聖なる取り扱いを受けることなしに生きており、彼らは――未だ赦されておらず、聖められてもおらず、滅びに向かっているにも関わらず――個人的デボーションや家庭礼拝を行なっています。

こういった徴候は「わが右の手に偽りがあるではないか」(イザヤ44:20b)という御言葉の如く、打ち捨てなければなりません。



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3.いいかげんに読んでしまう


神の言葉の前に「畏れおののく tremble」人はごく僅かです。そして御言葉を読みながら、荘厳さに満ちたヤーウェの御声を聞くことのできる人もごく僅かです。

ある人々は、多くの章を読まなければならないことに倦怠感を覚え、イスラエルの民が日々の糧であるマナに対して愚痴をこぼしたように、こう言い始めるかもしれません。

「私たちは、このみじめな食物に飽き飽きした」(民21:5b)。そして軽々しくいいかげんな態度で御言葉を読むようになるかもしれません。

しかしこのような態度は非常に神を怒らせるものです。

次のような状態に陥らないよう気を付けていようではありませんか。「あなたがたはまた、『見よ。なんとうるさいことか。』と言って、それを軽蔑する。――万軍の主は仰せられる――」(マラキ1:13a)。



4.背負いきれないほどの重荷となってきた



ある人々は、この聖書日課を溌剌とスタートさせましたが、次第にそれが重荷に感じ始め、読むのがむしろ憂鬱にさえなってきました。

良心の呵責からなんとか読み続けようと努めますが、もはやそこに天的糧を楽しむ余地はありません。

もしあなたがこのような状況に陥っているのなら、どうぞその足かせを外し、脇に置いてください。そして神の甘美な庭の中で自由に糧を得るようにしてください。

あなたを罠にかけ束縛するのではなく、あなたの喜びの助け手となりたい――そう私は願っています。



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☆☆

以上、危険性について書いてきましたが、「なぜこれほど多くの危険があるにも関わらず、尚、聖書日課を提案しようとしているのか」とあなたはいぶかしく思っておられるかもしれません。

この疑問に関し、私は次のように答えようと思います。――最良のものには、危険性が付き物です、と。もっとも美しい花がしばし危険な絶壁の裂け目に見いだされるのと同じです。

それでは、次に聖書日課がもたらす有益な点を挙げてみようと思います。


有益な点


1.年間を通し、聖書全巻を秩序正しく読むことができる


旧約聖書を一読し、新約聖書と詩篇を二読することができます。

あなたがたの多くは今まで一度も聖書を完読したことがないのではないかと私は憂いています。しかし聖書はどの書も皆、神の言葉なのです。

「聖書はすべて、神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益です。それは、神の人が、すべての良い働きのためにふさわしい十分に整えられた者となるためです」(Ⅱテモテ3:16-17)。



もし私たちが選り好み的な聖書の読み方をしているのなら、私たちは中途半端なクリスチャンと言わざるをえないでしょう。


2.どの章を読もうかと迷う時間を省くことができる


聖書を前に私たちクリスチャンは、どこから読み始めていいものやら迷うことがしばしばあります。こういった問題に、聖書日課はシンプルに答えてくれるのです。


3.家庭礼拝における益


みなさんの家庭礼拝が、もっと教えに富むものであるよう私は願っています。

無味乾燥な通読は、地面にこぼれる水のようです。毎日の章を、家庭礼拝の席で、家族全員の前で声に出し読み上げてください。

そしてその後、簡単なQ&Aという形を取りつつ、聖句の意味を解き明かし、その適用について家族に説明してあげてください。その意味で、こういった聖書日課は役に立つでしょう。

また友人と共にこの聖書日課を使うのも良いでしょう。そうすれば、その日読んだ聖句について、友だちと有益な会話をすることができるでしょう。

難解な聖句があったら、賢明でより成熟したクリスチャンに訊いてください。こうして御言葉の香りが放たれていくようになるでしょう。


4.牧師は羊の群れが今どこの牧場(まきば)で糧を得ているのかを知ることができる


こうして牧師は主日礼拝の際、羊のために、よりふさわしい内容を語ってきかせることができるようになるでしょう。また、牧師および長老たちが、信者の家々を個別訪問し、そういった聖句から光と慰めに満ちた言葉を彼らに提供されるなら、より望ましいでしょう。



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5.「クリスチャン同士の愛と一致」という麗しい絆がより一層強められます。


地理的に私たちが近くにいるにしても遠くにいるにしても、私たちは、日々、同じ聖書箇所を読んでいる兄弟姉妹のことを、より頻繁に思い出すようになります。

またある事で、心を合わせ祈り求めるようにも導かれていきます。さらに同じ御言葉の約束を握って祈り、同じ(弱さや罪の)告白に共に悲しみ、同じ賛美の内に神をほめたたえ、永遠のいのちである同じ御言葉によって養われていくようになります。



ーおわりー
(出典:http://www.mcheyne.info/calendar.pdf) 私訳


マクチェイン式聖書通読(日本語サイト)はココです。









あらゆる存在の主、


はるか彼方で

御座についておられる主よ。



汝の栄光は、

照り映えし太陽や星の光で

赤々と燃えています。



あらゆる天空の中心であり真髄でありながら、

汝を慕う一人ひとりの心に、

汝はなんと近くあられるでしょう!




命の太陽であられる主よ、


活き活きとした汝の光線は、

私たちの道を

輝く真昼のように照らします。




希望の星であられる主よ、


やわらかい汝の光は、

眠られぬ永い夜に慰めを与えます。



私たちの真夜中は、引っ込められた汝の笑顔、

夜半は、汝の恵み深き夜明け、


そして 虹のアーチは、

汝の憐れみを示す徴です。



全てのもの――罪の雲を除くすべてのもの――が、

汝のものです。



上にある命、下にある命、

あらゆるいのちの主。


その光は真理、

そのあたたかさは愛です。



まばゆい汝の御座の前にあって、

私たちは自身に

どんな名声も求めません。



どうか私たちが自由になれるよう、

汝の真理をお与えください。



そして汝のために燃焼せんとする、

熱い心をお与えください。



そうすれば、やがて

生ける汝の祭壇がこぞって、


唯一の聖なる光、

ただ一つの天的炎を求めるようになるでしょう。





Lord of All Being, Oliver.W.Holmes

私訳

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Oliver.W. Holmes, 1809 –1894







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今日は、「万軍の主。あなたのお住まいは、なんと慕わしいことでしょう」で始まる詩篇84篇の1節から7節までを、みなさんと共に歌い、そして味わっていきたいと思います。




詩篇84:1-7 (Psalter 227番)

1.O Lord of Hosts, how lovely
Thy tabernacles are;
For them my heart is yearning
In banishment afar.
My soul is longing, fainting,
Thy sacred courts to see;
My heart and flesh are crying,
O living God, for Thee.

万軍の主。あなたのお住まいはなんと、慕わしいことでしょう。
私のたましいは、主の大庭を恋い慕って絶え入るばかりです。私の心も、身も、生ける神に喜びの歌を歌います。


2. Beneath Thy care the sparrow
Finds place for peaceful rest;
To keep her young in safety
The swallow finds a nest;
Then, Lord, my King Almighty,
Thy love will shelter me;
Beside Thy holy altar
My dwelling place shall be.

雀さえも、住みかを見つけました。つばめも、ひなを入れる巣、あなたの祭壇を見つけました。万軍の主。私の王、私の神よ。


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3. Blest they who dwell in Zion,
Whose joy and strength Thou art;
Forever they will praise Thee,
Thy ways are in their heart.
Tho' tried, their tears like showers
Shall fill the springs of peace,
And all the way to Zion
Their strength shall still increase.

なんと幸いなことでしょう。あなたの家に住む人たちは。彼らは、いつも、あなたをほめたたえています。
なんと幸いなことでしょう。その力が、あなたにあり、その心の中にシオンへの大路のある人は。
彼らは涙の谷を過ぎるときも、そこを泉のわく所とします。初めの雨もまたそこを祝福でおおいます。
彼らは、力から力へと進み、シオンにおいて、神の御前に現われます。



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詩篇84:1
Gill's Exposition of the Entire Bibleより
 私訳

ここの聖句はダビデの時代に書かれたものである。というのも、この時まだ神殿は建てられておらず、(複数の部分を言い表すべく)「あなたのお住まい(「天幕」tabernacles)」と複数形で呼ばれているからである。

それゆえ、私たちはここに第一と第二の幕屋を読み取ることができる(ヘブル9:2参照)。そこには、庭の横に、聖所と至聖所が存在していた。

この箇所は、ダビデがシオンで契約の箱のために建てた天幕およびギベオンにあった古い天幕(Ⅱサム6:17)のことを言及していると考えられるが、それと同時に、この箇所全体は、神の教会およびそこで行なわれる儀式(ordinances)を表している。

――それは御父、御子、御霊という三位一体の神のお住まいになる場所であり、この場所において主は礼拝をお受けになり、そのご臨在が喜びのうちに尊ばれ、御言葉が宣べ伝えられ、もろもろの儀式が執り行われ、祈りと賛美のいけにえが捧げられるのである。そしてそれら全てが、「なんと慕わしいことでしょう」と表現されているのだ。

モーセの天幕を麗しいものにしていたのは外面的なものではなかった。というのも天幕の外側は極めて粗野であったから。そしてそれは――迫害、苦しみ、貧しさを通した――神の教会の外面にも当てはまる。

しかし、内面的にみれば、そこには多くの金の器具があり、祭司たちが祭服を身にまとい、奉仕に当たっていたのだ。

、、しかし、それ以上に麗しいのは、新約時代における神の教会である。そこでは偉大な大祭司であるキリストが、彼のご人格という栄光の内に、恵みの完全なる豊かさの内に顕されている。

そこではシオンの祭司たち、すなわち福音の宣教者たちが、救いの良きおとずれの知らせを携え、衣服に身を包み立っているのだ。彼らは十字架につけられ屠られたキリストを、御言葉の奉仕の中で、また教会の儀式の中で大胆に宣言する。

ここにおいて福音のラッパは高らかに鳴らされ、その喜ばしき音は各地にこだまし、信者たちは愛と恵みの賛美を歌うのである。いや、それだけではない。この天幕を何にも増して麗しいものにしているのは、神のご臨在そのものであり、この場所こそ神の家、天の門に他ならないのだ。






それゆえ、見よ、わたしは彼女をいざなって、荒野に導いて行き、、、その所でわたしは彼女にそのぶどう畑を与え、アコルの谷を望みの門として与える。ホセア2:14-15a



荒野(あらの)の中にぶどう畑?――なんと奇妙な組み合わせでしょう!

魂が必要としている霊的宝は、孤独な場所を象徴する「荒野」の中においてこそ得られるものなのでしょうか。

そうなのかもしれません。いえ、それだけでなく、苦々しさや苦痛を意味する「アコルの谷」が、望みの門と呼ばれているのです。

そしてそこで彼女は若かった日のように、歌うのです。-Crumbs


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砂漠の地にいざなわれた。
神と二人きりで、人里離れた所で。
そこでは霊と霊が邂逅(かいこう)し、
心と心が互いに言葉を交わし合う。


はるか遠くにある あの人跡のない岸で
私は神の秘められた場所をみつけた。
最も近い人をも後にして
ただ独り 黄金色のその戸をくぐり抜ける。


そこには神と私以外――他に誰もいない。
おお 人込みから 遠く離れて!
否、喧噪のさなかにあっても、
依然として、主よ、私は汝とのみ共にいます。


汝の御胸に寄りかかりつつ、
野でも、市場でも、道端においても、
全きその安息
わが内の甘美な孤絶は 
乱されることがありません。


おお神よ、汝は人が夢想したり、教示してきた神像とは
まるで異なるお方です。
どんな言葉でも言い表すことができず、
どんなに高尚な思想でもっても描き出すことができません。


神を想い歓喜する心が彼のうちに燃えるとき、人ははじめて
汝のその偉大な御名の本質を知ることができるでしょう。
なぜなら、彼は汝と共に歩んでいるからです。


そのすばらしいご臨在、
優しさにあふれたその抱擁により 心静められ、


こうして
長い間の切望の旅がついにおわり、
私たちは汝の御顔を仰ぐのです。


私たちは汝がくださるものの他、何も求めません。
優美な幻も求めません。
汝の尊い血潮によって、天は開かれ、
私たちはそこに汝を見い出すからです。


おお 憔悴した魂よ、主の近くにおいでなさい。

私が あなたに差し上げることのできるものは、
あの偉大な海洋の一滴、
春から摘む 一輪の花きり他にありません。


主の口づけにより 私の唇は封じられ
崇敬の思いに満たされたわが魂には 静けさがあります。

渇いている人は来なさい。
そして主の杯から心ゆくまでお飲みなさい。




---Allured into the Desert, Gerhard Tersteegen
私訳 picture from here








言語に絶する荘厳さ。


わが魂は 汝を仰がんと切望し

ちりの中から 汝に向かって叫んでいます。




しかし汝の御名を尋ね求めようとするも、

それは秘められています。



汝は光の内に隠れておいでになり、

そこに近づくことのできる人間は

誰ひとりとしていません。



汝のご本質は、人間の思考や言語をもっては

把握することのできないものです。



なぜなら、汝の栄光は、口にするのをはばかられるほど

あまりに聖いからです。



にもかかわらず、私は、古の預言者や詩編記者、

使徒や聖徒たちに励まされ、


この自分も、いくらかは汝を知ることができるという

信仰をいただきました。




ですから、私は祈ります。


汝ご自身に関わる何であれ――

それらの真理を啓示することを汝が良しとみなされるのなら、


私がそれらを、

紅玉や良質の金よりも尊い宝として探求していくことができますよう

助けてください。




なぜなら、薄明りの星々がもはや姿を消し、

上天がくずれ去り、

ただ汝だけがとどまられる その時、



私は汝と共に

生きるようになるからです。


アーメン。



A.W.Tozer
私訳





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全てのことは神のご裁量下にあり、「救い」ないし「死」の決定は主に属している。主は万事をご自身の意図に従って定め命じておられる。それゆえ、ある人々は、母の胎にいる時より確実な死に定められているのである。――そういった彼らの破滅により、主の御名に栄光が帰されるためである(that His name may be glorified in their destruction)。

John Allen, ed., Institutes of the Christian Religion. Ioannis Calvini Institutio Christianae religionis (Philadelphia: Presbyterian Board of Publication, 1841), p. 169, 私訳



これは本当なのでしょうか。Aさんという人は、母の胎にいる時から永遠の滅びに定められているので、たとえ彼女が、救いを求めて教会に行き、十字架の前で罪を悔い改め、祈っても、やっぱり滅びてしまうのでしょうか。

私は、カルヴァンの二重予定説の中の、この「永遠の滅び eternal damnation」の教えを未だに受け入れることができずにいます。

私は、カルヴァンのように「彼らの破滅により、主の御名に栄光が帰される。」と言うことができないのです。人が福音を受け入れず滅んでいくことは、神の栄光ではなく、むしろ神の御心に深い悲しみをもたらすものではないでしょうか。

でもカルヴァンにしても、カルヴァン主義を奉じる方々にしても、頭脳明晰な方々が多く、私は自分が二重予定説などを受け入れられないのは、とどのつまり自分に理解力が欠けているためなのではないかと疑い、葛藤していました。


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でも、下のような文章を読む時、「やっぱりダメだ。自分には受け入れられない。」と、その思いはまた波のように打ち寄せてきました。

予定説とは、――すべての人に関し主がご自身の望むように決定されたという――神の永遠の定め(decree)のことを意味している。

すべての人が同じ条件で造られたわけではない。ある人は永遠のいのちに予定(preordained)されており、また別のある人は、永遠の滅びに予定されている。従って、各人は、(永遠のいのちか永遠の滅びか)二つの終点のうちどちらかに行くよう創造されているのである。つまり、各人は、命ないしは死へと、それぞれ予定されているのである。」

John Calvin, Institutes of the Christian Religion3:21:5, 私訳

 

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聖書は明らかに証明している。すなわち、神は永遠にして不変のご計画により、次のことをはっきりとお定めになった。――ある人々を救いへと認める一方、他の人々を破滅へと定めるのが主のご意志であると。この選ばれた者に関するこの御計画は、人間の価値に関わりなく、ただ主の全き憐れみに基づくものである。

その一方、主が滅びに定めた人間は、――義にして欠点なく、かつ人知を超える神の裁きによって――命への接近から締め出されている

John Calvin, Institutes of the Christian Religion 3:21:7 私訳



先日、ある「穏健」カルヴァン主義者の方の書かれた記事を読みました。この方の説明の多くは、私にとって、参考になるものでした。私と同じような葛藤を抱えている方はお読みになってみてください。



カルヴァン主義は危険であろうか?
R. L. ハイマース, Jr. 神学博士 著


IS CALVINISM DANGEROUS? by R. L. Hymers, Jr., M.Div., D.Min., Th.D., Litt.D.



ロサンゼルスのバプテストタバナクル教会にて
2006年7月22日、土曜日の晩に説かれた説教



すると彼らはますます驚いて、互に言った、「それでは、だれが救われることができるのだろう」。イエスは彼らを見つめて言われた、「人にはできないが、神にはできる。神はなんでもできるからである」。(マルコによる福音書第10章26‐27節)



インターネットで私の説教を読んだある人達は、私はカルヴァン主義者であると言っています。

彼らは、説教の中で私が過去のカルヴァン主義者達、たとえば18世紀の偉大な聖書注釈者であるジョン・ギル博士(Dr. John Gill)、『天路歴程』( Pilgrim’s Progress)の著者であるジョン・バニヤン(John Bunyan)、そして、特に「説教者のプリンス」と呼ばれるスポルジョン(C.H. Spurgeon)をしばしば引用していることを知っています。 


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John Bunyan

これらの三人はすべてバプテストでした。そして、三人とも神学上の立場は、完全なカルヴァン主義的なものでした。

私の説教を読んだ人達は、私はこれらの三人を大いに尊敬していることに気づきます。彼らはまた、私が高い尊敬の念を、英語圏でもっとも偉大な福音伝道者である、ジョージ・ホイットフィールド(George Whitefield)に抱いていることにも気づきます。 


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George Whitefield

ホイットフィールドは、ファイブ・ポイント・カルヴァン主義者でした。

また、私はよく草分け的な宣教師である、ウイリアム・ケアリー(William Carey)、アドニラム・ジャドソン(Adoniram Judson)、そして、ディビッド・リビングストン(David Livingstone)を引き合いにだしますが、彼らもファイブ・ポイント・カルヴァン主義者でした。

しかし、私はこれらの先駆者達、ならびに清教徒(彼らもまたカルヴァン主義者でした)をたいへん深く賞賛していますが、自分自身私はファイブ・ポイント・カルヴァン主義者であるとは思っていません。(ブログ管理人註:Five-point Calvinistとは、カルヴァンの主要5教理をすべて信じている人のこと)


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カルヴァンの5ポイント


私は、カルヴァン主義の最初と最後の教旨(ポイント)でカルヴァン主義を支持しますが、第二、第三、第四の教旨を全面的には支持しません。しかるに、私は「穏健カルヴァン主義者」とときには呼ばれています。

この立場をふまえ、私はカルヴァン主義の五つの教旨(ファイブ・ポイント)を上げ、どうして私は完全にはそれらの三つの教旨を支持しないかを簡単に述べてみたいと思います。 

英語の頭文字をとって、カルヴァン主義の五つの教旨をTULIPとしましょう。私の説明は、すべての人達に満足されるものではないと理解しています。事実、だれも好まないかもしれません! 

それはどうであれ、カルヴァン主義の基本的な中核を擁護する前に、TULIPについて自分の見解を述べるべきである、と私は思います。


1. 全堕落(Total depravity)  


この教旨は、完全に聖書に忠実であると私は思います。 

これは、改心していない人々は、「自分の罪過と罪とによって死んでいた」(エペソ人への手紙第2章1節)と教え、改心していない者は、「罪過によって死んでいた」(エペソ人への手紙第2章5節)のであり、そして彼らは、「彼らの知力は暗くなり、その内なる無知と心の硬化とにより、神のいのちから遠く離れ」(エペソ人への手紙第4章18節)ていると教えています。 

これらの聖書の言葉は、多くのものと同様、人は完全に堕落しており、罪に死んでいるがために、その堕落した状態では、神に応対することができないことを語っています。 

十二使徒がイエスに、「それでは、だれが救われることができるのだろう」と尋ねたとき、イエスは、「人にはできないが」(マルコによる福音書第10章27節)と答えられました。

しかるに、私はこの教旨-全堕落、に関して、完全にカルヴァン主義に同意します。私は、聖書の中で述べられるこの教旨は、真実の、人の状態である、と信じます。


2. 絶対的選び(Unconditional election)  


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このカルヴァン主義の教旨を、私は信じません。

選びは、誰が改心するかの神の予知によるものである、と私は確信します。良かれ悪しかれ、罪人は「父なる神の予知されたところによって選ばれ」(ペテロへの第一の手紙第1章2節)ると私は信じます。 

私は、誰が福音に応じ、キリストに来て救われのかを神は前もって知っており、その者達を神は事前に選ばれる(救いに選ばれる)、と信じます。 

第二の教旨に関する私の見解は、厳格なカルヴァン主義者にとっては、私は「アルミニウス主義者(Arminian)」のように映るかもしれません。 

しかし、私はアルミニウス主義者の堕落に関する見解に同意はしません。人は病気ではありません。人は死んでいるのです。 

人は、不相応の神の恩恵から離れて、救いの望みを持ち合わせている、と私は思いません。

「わたしたちの行った義のわざによってではなく、ただ神のあわれみによって、・・・わたしたちは救われたのである。」(テトスへの手紙第3章5節) 



ですから、私は絶対的選びの教旨を支持はしませんが、また、人はキリストへの従順のいかんによって選ばれる、というアルミニウス主義者の見解にも同意はしません。 

それは、「神人協力説(synergism)」の誤りであるのでしょう。神のみが改心における能動的な代行者であり、人は受動的であり、神のみにより人は改心される、とう事実は、神唯一説(monergism)と知られています。 

人は、わずかかもしれないが、何かを提供できる、という学説は、神人協力説と呼ばれています。福音に応答する、という意味は、神の恩恵に反対することを止めるという意味です。 

人は止めることはできますが、堕落した状態では、福音に応じることはできません。

人は「自分の罪過と罪とによって死んでいた」(エペソ人への手紙第2章1節)者であるのに、どうして、キリストに従うことができるのでしょうか?あるいは、自分の救いに何かを施すことができるのでしょうか?

 
3. 限定的贖い(Limited atonement) 


カルヴァン主義全体にあって、これはもっとも軟弱な教旨であると私は思います。


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限定的贖いの教理 


聖書は明白にこう語っています。 

「彼は、わたしたちの罪のための、あがないの供え物である。ただ、わたしたちの罪のためばかりではなく、全世界の罪のためである。」(ヨハネの第一の手紙第2章2節) 

「神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。」(ヨハネによる福音書第3章16節) 



カルヴァン主義者は、これらの節そして同様な節に対して、答えを持ち合わせていることを私は知っていますが、彼らの答えに納得したことはありません。 

カルヴァン主義的清教徒で説教者であり作者である、ジョン・グッドウィン(John Goodwin, 1593-1665)は、限定的贖いに反対する本、『贖いによる救い』 Redemption Redeemed: A Puritan Defence of Unlimited Atonement (Wipf and Stock Publishers, 2004 reprint)を書いています。 

彼の限定的贖いに反対する姿勢は、十分に読むに値するものです。私は、「神の恵みによって、すべての人のために死を[味わわれる]」(ヘブル人への手紙第2章9節)キリストを信じます。


4. 不可抗的な恵み(Irresistible grace) 


ルターは、意志の束縛を強く信じていました。事実、彼は、彼のもっとも重要な著書、意志の束縛( The Bondage of the Will)を残しています。 


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彼は、その人自身の不改心でいようとする意志の中では、決定する力、受ける力、そして救いの恵みに応じる力をもつ人は誰もいない、と言っています。 

しかし、ルターはまた、人はそれを拒否する力を持ち合わせている、と信じていました。これは、ルターとカルヴァン主義の主要な異なる点です。 

ルターは正しかったと思います。この点では、カルヴァン主義は誤りです。 

どうか私はルターが言ったすべてのことを支持すると勘違いをしないでください。私はもちろん支持をしません!しかし、これに関して彼は正しかったと思います。 

なぜある人は恵みを得、他の人は得ないのか、という質問に対して、ルターは単純に、それはミステリーであり、聖書では明らかにされていない、と述べています。 

私は、聖書はなぜこのことがあるのかを明らかにしていない、という彼の見解に同意しようと思います。それゆえ、私は不可抗的な恵み(Irresistible grace)を信じません。 

恵みは拒否されることができますが、生まれ変わっていない人々の意志によって、受けられたり、受諾されたりはできません。なぜなら、救いは神の働きだけによるからです。 

「それでは、だれが救われることができるのだろう」(マルコによる福音書第10章26節)。 

「人にはできないが、神にはできる。神はなんでもできるからである」(マルコによる福音書第10章27節)。 



人は救いを拒否することができますが、神のみが救いを与えることができるのです。ルターは、「不信心者は神の意志を拒否する」と言いました。 

聖書は、「あなたがたは、いつも聖霊に逆らっている」(使徒行伝第7章51節)と語っています。それゆえ、恵みは不可抗的なものではないのです。

(*ブログ管理人註:この記事の中では、Irresistible graceは「絶対的な恵み」と訳されていましたが、Irresistibleは「不可抗的」と訳す方が適切ではないかと思い、また一般の神学書の中でも、「不可抗的な恵み」と翻訳されているようですので、勝手ながらこの箇所を「絶対的」から「不可抗的」に変更いたしました。)


5. 神の選民の堅忍(Perseverance of the saints) 


これはカルヴァン主義の最後の教旨です。私は、心からこれを信じます。 

というのは、これは明らかに聖書に忠実であるからです。「御子を信じる者は永遠の命をもつ[現在形]」(ヨハネによる福音書第3章36節)。 

イエスはこう言われました。

「わたしの羊はわたしの声に聞き従う。わたしは彼らを知っており、彼らはわたしについて来る。わたしは、彼らに永遠の命を与える。 だから、彼らはいつまでも滅びることがない」(ヨハネによる福音書第10章27‐28節)。 



人が一旦永遠の命をもてば、その人からそれを取ることはできないし、あるいは、その人がそれを失うこともない。人が一旦本当に改心したのであれば、その人は、「不改心」いることができない。 

よって、私は真に改心した者の、カルヴァン主義的「永遠の確保」の教旨を全面的に信じます。

これが、「ミスター清教徒」と呼ばれたリチャード・バクスター(Richard Baxter, 1615-1691)が使った、「純粋キリスト教(mere Christianity)」が意味しているところなのだと思います。 


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Richard Baxter

「この見解は、彼を・・・カルヴァン主義とアルミニウス主義との仲介の地位に置くものである。」(Elgin S. Moyer, Ph.D., Who Was Who in Church History, Moody Press, 1974, p. 33) 

「バクスターが望んだものは、英語圏の宗教生活の中の極端主義者の間の仲介となることであった。」(J. D. Douglas and Philip W. Comfort, Who’s Who in Christian History, Tyndale House Publishers, 1992, p. 69) 

私は、カルヴァン主義の五つの教旨で、第二、第三、そして第四の教旨に関して、ルター、清教徒のジョン・グッドウィン、そしてリチャード・バクスターのそれぞれの見解にある同意をみました。
 
これで、私はアルミニウス主義者ということになるのでしょうか?現代の意味合いでは違います。 

現代のアルミニウス主義者は、全堕落、人からの何らの手助けがいらない恵みだけによる救い、に重きを置きません。そして、アルミニウス主義者は、ふつうには真に改心した者の永遠の確保についての聖書の教えを拒否します。

ある人は、実際には私は「穏健カルヴァン主義者」であると言っています。もちろん、私は超カルヴァン主義者ではありません。というのは、すべての人達への、率直な、救いの説教を信じるからです。 

ですから、よい言い方を望めば、私は「穏健カルヴァン主義者」なのでしょうか。というのは、「それでは、だれが救われることができるのだろう」という問いに対してのイエスの答えに、私は完全に同意するからです。 

イエスは正しかったのです。彼はこう言ったのです。「人にはできないが、神にはできる。神はなんでもできるからである」(マルコによる福音書第10章26‐27節)。


(引用元:ココより一部抜粋)







私は渇いています。

おお御傷のある神の小羊よ。


汝の血潮により、私を洗い清めてください。



汝の御傷のうちに宿るとき、苦痛は甘美なものとなり、

生も死も、私にとって益となります。



貧弱なわが心をお受けになってくださり、

どうか永遠に堅く 汝と結び合わせてください。



汝の存在でわが胸に証印を押し、

私がその愛の証(あかし)を

とこしえまでも保つことができますように。



滴り落ちる汝の血潮のうちに、今もとどまり続け、

そこを避難所としている人は なんと幸いでしょう。



そこより、彼らはいのちと力を得、

汝によって動き、彼らは汝の中で生きるのです。



汝により、命を与えし霊が吹き込まれるまでは、

私たちの働きは、ただ罪と死に染まっています。



しかし汝は、恵みの御力を与えてくださいました。

それにより、私たちは立ち働くことができます。


おおすばらしい恵み!おお無限の愛よ!



なにゆえ、天の王であられる汝が

私たちのような者を

栄光に導き入れてくださろうとしているのでしょうか?



奴隷たちを、天の召しに共にあずからせ、

決して朽ちることのない冠で飾ってくださるとは!



ゆえに 私たちの心は溶かされ、目は涙にあふれ、

いっさいの言葉は失われます。




おお もはや他に何を知ろうというのでしょう。

もはや他の何を想おうというのでしょう。



――「わが主、わが愛が十字架につけられた。」という事以外に。






I thirst, Thou wounded Lamb of God, John Wesley
私訳





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キリストは、本物の模型にすぎない、手で造った聖所にはいられたのではなく、天そのものにはいられたのです。そして、今、私たちのために神の御前に現われてくださるのです。ヘブル9:24




キリストは、天にある聖所に入られた。

死を以って証された愛のしるし――
あの無数の傷に覆われて。


栄光に包まれた私たちの大祭司。

主の愛は、あの木の上に顕され、
主はご自身の神性を私に啓示された。


御座の前に、わが救い主は立っておられる。
――わが友、わが弁護者。

私の名は主の御手に刻まれている。


そして御父は、絶えず御子に耳を傾け――

私がイエスの十字架の前に
低く額(ぬか)ずくさなかにも、

御父は滴り落ちる血潮の音を聞いておられる。


今この瞬間、私は主の力強い祈りの答えを
受けるでしょう。


今この瞬間、この方によって 私は生かされています。

おお 神と共にある主の御力を高らかに宣言せよ。


そしてまもなく、私の魂は、御手の中で、

わが先駆者である方の立っておられる所に
立つようになるでしょう。




Entered the Holy Place Above, Charles Wesley
私訳、picture here






Hail The Day That Sees Him Rise (1739)
- チャールズ・ウェスレー(聖歌175「うまれしくにに」)













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クルディスターン


クルド人S牧師の救いの証しを読んだ方は、史上はじめてのクルド人教会(イラク)が、ハーゼムという名のアッシリア人クリスチャンの愛の働きを通して誕生したという感動的な出来事を今も記憶にとどめておられることと思います。

私は何人ものクルド人やペルシャ人の口から、この兄弟の名前が敬意と愛情を込めて出されるのを耳にしてきました。そしていつの日か、この方に直接お話をうかがうことができたらと願っていました。

感謝なことに、主はその願いを聞き入れてくださり、先日、ハーゼム兄から直接、救いの証しを聞くことができました。

☆☆

:こんにちは、ハーゼム兄。あなたのことは多くの兄弟姉妹から伺っております。まず、どのようにしてイエス・キリストに信仰を持つようになったのか、その経緯をお話ください。


:私たちの神に全ての栄光をささげます。私はイラク北部のクルド人自治区で生まれました。民族的には私たちの家族は、アッシリア・アラム人(Asshuri Aramaie)です。

生まれて一年ほど経った頃、私たち家族は自治区の首都Erbilに移り住みました。家族の宗教は、Chaldean Catholic(カルデア・カトリック)でした。

この「カルデア・カトリック」という名称について。調べてみると、18世紀にローマ教会が中東のこの地域に進出した際、競合する当地のアッシリア東方教会との間に差異をつけようと、カトリックに改宗したアッシリア人のことを意図的に「カルデア・カトリック教徒」と新しい名称で呼び始めたことが名前の起源だそうです。ですから、彼らは民族的にはあくまで「アッシリア人」であり、紀元前10世紀以降にメソポタミア地方に移り住んだセム系遊牧民カルデア人とは関係がないそうです



話は1995年にさかのぼります。M市では姉が大学生活を送っていました。彼女はキャンパス内で某宣教師によって福音を聞き、イエス・キリストに信仰を持つようになっていました。

ある日、姉は私の所に来てこう言いました。「ハーゼム。私は、あなたに最高の贈り物をあげようって思う。だから、全てを捨てて、これを受け入れて!」そして彼女は一冊の本を私にくれました。見ると、アラビア語で書かれたインジール(新約聖書)でした。

当時、私は自分の生死に関わるような深刻な問題におびやかされていました。私はこの問題から逃れようと必死にもがいていましたが、自分の力では抜け出ることができませんでした。


逃亡


そしてついに、私はErbilを去り、Mosel地方の小さな村に住む叔父の家に身を寄せることになりました。人里離れた村の中で、私は「死にたい。死にたい」とそればかり考えて日を過ごしました。

ある日私は、村にある丘に登り、頂に腰を下ろし、一人物思いにふけっていました。するとその時、急に「私はなんとしても生きなければならない」という強い思いが湧き上がってきたのです。

そして私は神に向かって語りかけました。「もし生きるとしたら、これから私は、ただあなたのためだけに生きようと思います。」

その日は春日和で、丘に到着したのは午後の三時過ぎだったと思います。その祈りをし終えた後、私はそのまま地面に横たわり深い眠りにつきました。


新生


目が覚めると辺りは真っ暗になっていました。私は急いで叔父の家に向かいました。

表情の明るい私に気づき、叔父がどうしたのかと尋ねてきたので、私は、「私の問題は、神様ご自身が解決してくださるのです!今、私にその信仰が与えられました。」と言いました。それを聞いた叔父たちはあまりの事にあっけにとられていました。

そして朝が明けるや否や、私はErbilに向かって帰途に就いたのです。

実家に辿りつくと、私は以前、姉にもらったあのインジールを部屋から取り出してきました。そして家族に「この本の中に解決があります!」と宣言しました。

父は「お前は頭がおかしくなったのか?」と言いましたが、姉は、私の味方になってくれて、「お父さん、そうなんです。主なる神はハーゼムの問題を解決おできになります。」と擁護してくれました。


あなたのために生き、死にます


こうして私は聖書を読み始めました。みことばは私に語りかけ、私は一行ごとに、「アーメン!」と応答しながら、読み進めていきました。そのうちに悔い改めが起こされ、私は主の前に自分の罪を告白し、イエス・キリストを救い主として心に受け入れました。

そして私は主に言いました。「生きるのなら、私はただあなたのためだけに生きます。もし死なねばならないのでしたら、その時もただあなたのために死にます。」


クルド人伝道の幻


それから一年後、主は幻の中で私に顕れてくださり、私はクルド人を始めとするムスリムの人々にもイエス・キリストの福音を宣べ伝え始めました。

1997年当時のクルド自治区においては、ムスリムへの福音伝道は死罪に当たる大罪でした。そのため、恐れた父は、「お前が伝道をやめるまでは、今後一切わが家にお前を入れるわけにはいかない。」と言い、私を家から追い出しました。

私は宿り場を求めて、親戚や友人の家に行きましたが、皆、トラブルに巻き込まれることを恐れ、私を受け入れてくれませんでした。

そのため、私は昼間は公園で過ごし、夜はひそかに実家の庭に隠れ、そこで休眠をとりました。(私が庭で寝ているということを母だけは知っていました。)


御使い


ある晩、庭で寝ていた私に御使いが現れ、「行って、福音を宣べ伝えなさい。恐れてはいけない。そして明日、父親の所に行きなさい。彼はあなたを受け入れるでしょう。」と言いました。

私はその声に従い、朝の五時に玄関にまっすぐ向かい、「お父さん、僕は家に戻りました。」と言いました。すると、父は私を抱きしめ、「これからはお前の良いと思うようになさい」とさえ言ってくれたのです。

こうして私は道端でも人々に聖書を配り、伝道を続けていきました。救われる人々も起こされていきました。


逮捕


2000年、私は伝道をしていたかどで、警察に逮捕されました。

逮捕の知らせを受け、国連も私の安否を知ろうと、警察に問い合わせていましたが、クルド警察は、「そのような人物は刑務所にはいない」と答え、逮捕の事実を否定したため、家族も他の兄弟姉妹も私の行方を知ることができずにいました。

私はその時、手を縛られ、目隠しをされた状態にありましたが、耳から入ってくる看吏たちの話し声により、その事を知りました。警察は誓約書を私の前に置き、「今後は、福音をイスラム教徒に伝えません」という項にサインをするよう強要してきました。

私は彼らに答えました。「私はクルド人を愛しています。しかも私が彼らに伝えようとしているのは良い知らせなのです。そして私は決して彼らにそれを強要しません。受け入れるか受けないかは彼らの選択次第です。」

この発言により、私はいつも以上に暴行を受けました。


祈り


独房に戻された後、私は両手を壁につけ、祈り始めました。

「生けるキリスト、あなたが私をここに導いてくださったことを信じます。あなたはここで何かを私に示してくださるのでしょう。私は今、最大の試練に遭っています。しかし、このただ中にあって、私はただあなたの御名だけを呼びます。アーメン。」

すると私に啓示があり、主は、「あなたは今日、釈放されます」と仰せられました。

しかし刑務所の業務時間は、午後3時までであり、その時、すでに時刻は夜の7時を過ぎていました。また釈放には、書類による手続きが必要であり、3時以降はそういった手続きは行われていませんでした。

夜の9時に、一人の看吏がやって来ました。「お前はハーゼムか?」と訊かれたので、「そうです。」と答えると、その看吏は、「釈放だ」と言いました。

こうして私は主の啓示通り、その日、(書類手続きもない状態のまま)釈放されました。

その後も、逮捕・釈放が繰り返されましたが、教会は成長していきました。


:ハーゼム兄、イラクにいるアッシリア人とクルド人の間には、長年に渡って宗教的、民族的壁が存在してきたと聞いています。しかしあなたはクルド人を愛し、彼らの教会の牧者として魂に仕えておられます。何がそれを可能にしたのでしょうか。


:答えは「キリスト」です。ただただキリストのゆえです。

キリストの目に、私たちは皆同じです。私は、クルド人にも、トルコ人にも、ペルシャ人にも、ムスリムにも、(福音を聞く必要のある)キリスト教徒にも、すべての人に福音を伝えています。

伝道をする時、私たちは、目の前にいる人の民族や国籍や言語といったもの以上に、まずその人を「一人の人間」として見ることが大切だと思います。


民族の違いを超えて


使徒パウロは、自分の民族を愛していました。しかし救われた後、むしろ彼は異邦人のために多くの働きをするようになりました。シリア、トルコ、ギリシャ、ローマと当時の聖書地図をみると、パウロがどれだけ異邦人の住む世界に出て行って、彼らの救いのために立ち働いていたかに驚かされます。

キリストの愛に満たされたパウロは、民族の違いを超え、異邦人に福音を宣べ伝えたのです。

地上に引力のような自然法則があるのと同様、霊の世界にも原則があります。それは全ての人が罪を犯し、神の栄光を受けられなくなっているという普遍的事実であり、従って、皆、救いを必要としていることです。

そこに民族的えこひいきはありませんし、罪の大小もありません。


:ハーゼム兄、日本の兄弟姉妹に何か応援メッセージがありましたら、どうぞ。


:日本の方々は不正を行なわず、礼儀正しいです。私は日本のみなさんを愛しています。あなたという日本人がイエス・キリストに信仰を持つことで、多くの国々の民が祝福を受けるようになるでしょう。

どうか、どうか決してキリストを否まないでください。一人一人がイエス・キリストを受け入れる必要があります。

ルカ1:30-33を読み上げます。

すると御使いが言った。「こわがることはない。マリヤ。あなたは神から恵みを受けたのです。ご覧なさい。あなたはみごもって、男の子を産みます。名をイエスとつけなさい。その子はすぐれた者となり、いと高き方の子と呼ばれます。また、神である主は彼にその父ダビデの王位をお与えになります。彼はとこしえにヤコブの家を治め、その国は終わることがありません。(His Kingdom there shall be no end.)」



どれほど秩序があり、安定した国であっても、地上の国は一時的です。しかしキリストの王国は決して終わることがありません。どうか、この王国に生きる人になってください。

日本人は美しい民です。私はその美しい民がキリストを受け入れず滅んでほしくない――そう心から願い、あなたがたに嘆願します。どうかキリストを受け入れ、キリストと共に生きてください。


:ありがとうございました。


―インタビュー終わり―




↓ハーゼム兄の母語で歌われている「主の祈り」です。