Pink Peonies in Jar20160125



あなたに対する わが愛を 告白させてください。


主の御翼の陰の下に身を寄せつつ 
わが目はあなたを見上げています。


主の御言葉が宣明されるとき、天も地も揺らぎます。


ああ あなたに対する愛を告白します。
わが救い主、わが友イエス。



あの御方が やさしく 私の名を呼んでくださっている。


どうかあなたの御力、栄光を顕してくださり、
聖霊を注いでください。


そして砂漠の地が聖なる地となるほど、
切にあなたを求める者とさせてください。


わがすべてをあなたにお捧げします。
わが救い主、わが友イエス。



全身全霊であなたを仰ぎ見つつ、わが愛を告白します。


主よ、私はあなたのその大いなる愛を
切に知りたいと望んでいます。


あなたの恵みによってわが罪は赦され、
私はあなたの子とされました。


おお、わが救い主、わが友イエスよ!




주를향한 나의 사랑을
私訳



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今日、ふいにこの賛美が口をついて出てきました。ソウルにいた2000年の春、イエス様を信じたばかりの私が好んで歌っていた賛美です。聖書のこともイエス様のこともほとんど知らなかったあの当時。

でも、そんな私の素朴な愛の告白をも主が受け入れてくださっていたことを感動をもって思い出しました。また再びこの賛美を捧げる中で、「あなたに対するわたしの愛はあの当時から少しも変わっていないのだよ」ということを主は私に語ってくださいました。なんという愛、なんというご慈愛でしょうか。

人知をはるかに越えたキリストの愛を知ることができますように。エペソ3:19a











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大雪20(16)20160129


単刀直入に書きます。心身共に打ちひしがれていた私を「奮起」させてくれたのは、H氏という、定期的に私に嫌がらせコメントを送ってくる方の本日付のコメントによってでした。(もちろんその背後にみなさんの執り成しの祈りがあったことは言うまでもありません。ありがとうございます。)

主の知恵はすばらしいと思います。なぜなら、主は弱っている私をさらに「弱らせよう」という目的で送られてきた負の物を用いて、逆に私に元気を取り戻させ、闘志を燃え立たせてくださったからです!

このコメントによって私は再度、私たちクリスチャンが戦場にいるのだという現実に目を覚まされ、――強いクリスチャンであろうが、弱いクリスチャンであろうが、御霊の人であろうが、生まれながらの人であろうが――とにかくキリストにつく者は皆、「総動員体制」でこの壮大な戦いを戦っていなければならないことを再認識しました。

そこに緩衝地帯はなく、泣き寝入りする洞窟もないのです。

また主はカイザリヤの百人隊長であったコルネリオ(使徒10章)のことを思い出させてくださいました。彼は「神を恐れかしこみ、いつも神に祈りをしていた」(2節)けれども、聖霊を受けた力強いクリスチャンではありませんでした。それでも、聖書記者は、その「祈りと施しは神の前に立ち上って、覚えられています」(4節)と記しています。

たぶん、現在の私は、この章の前半部分のみのクリスチャンで、後半部分は未だ与えられていない状態の信仰者なのだと思います。しかし、聖霊を受けていない状態のコルネリオの祈りも「神の前に立ち上って、覚えられていた」という部分に非常に慰められました。





そこでペテロは彼らに答えた。「悔い改めなさい。そして、それぞれ罪を赦していただくために、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けるでしょう。

なぜなら、この約束は、あなたがたと、その子どもたち、ならびにすべての遠くにいる人々、すなわち、私たちの神である主がお召しになる人々に与えられているからです。
使徒2:38、39

ふたりは下って行って、人々が聖霊を受けるように祈った。彼らは主イエスの御名によってバプテスマを受けていただけで、聖霊がまだだれにも下っておられなかったからである。ふたりが彼らの上に手を置くと、彼らは聖霊を受けた。
使徒8:15-17



最近私は、兄弟姉妹のみなさんと共に、聖霊の内住および聖霊のバプテスマについて話し合ったり、意見を聞く貴重な機会をいただいています。

そしてみなさんのやり取りを読んでいく中で、「私ははたして聖霊のバプテスマを受けたのだろうか」という疑問が湧いてきました。そしてそのことを朝から晩まで考え、祈りの中でも、主に尋ねていました。

そうして考えれば考えるほど、祈れば祈るほど、自分はやはり聖書の中に書いてある「聖霊のバプテスマ」を受けていないのだろうという確信の方が強まっていきました。

そしてそれと同時に、まだ聖霊のバプテスマを受けていないと思われる自分が、聖書や信仰のことについて公に書いたりすることに非常なためらいを覚えるようになりました。

もちろん、すでに聖霊のバプテスマを受けている方々も、この地上に生きている限り、聖書解釈や理解の上で誤謬を犯す可能性は十分にあるでしょう。

しかし、自分がもしそれを受けていないのだとしたら、そういう人の犯す誤謬の可能性はさらに高いのではないかと恐れます。非常に恐れます。

自分としては精一杯、聖書に忠実に記事を書いてきたつもりですが、もしも意に反して間違ったことを書いたり、翻訳してきたのなら、私は御父・御子・御霊の前に、そして読者のみなさんの前に赦しを乞わなければならないです。

聖霊のバプテスマに関し、主のみこころがなりますよう、私のことを祈りに覚えていただければ幸いです。

ありがとうございます。




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霊的な渇きにうめきつつ
陰気な砂漠を 横切っていた。



すると道はずれのところで
六つの翼をもつセラフィムが顕れた。



まるで夢のごとく、その指が
私の瞳に触れる。



驚愕した鷲の目のように、わが眼は
大きく開かれた。



セラフィムは私の耳に触れた。――すると
耳もとでつんざくような鐘の音が聞こえてきた。


天空の震える音、
はばたく御使いの崇高な飛翔音。


海底の道をうごめく生き物、
はるか遠くにあるぶどうの木の 花開く音。




セラフィムはまた、私の唇のところにかがみ、
罪にまみれしわが舌を裂いた。

――悪意に満ち、
無益な話に終始していたこの舌を。




そうして後、死体のように

私は 砂漠のまんなかに
横たわっていた。




すると神の声に呼び覚まされた。



「起きよ。おお、主の預言者。

聖なる神の御言葉に心を留め、
わたしの意思に応ぜよ。


行け。――海を越え、地をめぐり、
わたしの言葉により、人の魂を燃え立たせよ。」




A.S.Pushkin, The prophet
私訳










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名前:レイチェル・エーンスト
年齢:25歳
所在地:韓国ソウル市
祈りのベールを始めた時期:2015年1月28日


1)読者のみなさんに自己紹介してください。

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レイチェル・エーンストと申します。私は最近結婚したばかりの妻で、軍人の夫と共に、現在、韓国に住んでいます。もともと南カロライナ州の出身なのですが、結婚前の二年間はワシントンDCで働いており、そこで現在の夫であるリチャードに出会いました。

大学では歴史と音楽を専攻し、現在は、通信で、改革派神学校の聖書学修士課程を履修しているところです。またパートでも編集の仕事をしています。

私はクリスチャンホームで育ちましたが、自分の信仰が成長し始めたのは、高校・大学時代です。大学の時には一年間休学して、南アジアで6カ月、ホームレスの女の子たちのために奉仕活動をしました。そしてこの体験が私の人生コースを大きく変えたのです。

私はムスリムの女性たちに対して特別な思いを持っています。そして彼女たちがキリストの愛によって解放され、強められることを祈っています。


2)どこの教会に通っていますか。そこの教会では、姉妹たちは祈りのベールをかぶっていますか。

私は現在、ソウルにあるカベナント教会という教会に通っています。これは改革派の、福音主義教会であり、「繁栄の神学」の氾濫するこの国にあって、光として輝いている教会です。

教会にはさまざまな人生経路をたどって来られた人々が集まっていますが、皆、福音により一つに結ばれています。私以外に祈りのベールをしている女性はいませんが、自分自身これまでベールが聖書の教えとして教えられている教会に行ったことが一度もないので、一人であることにそれほど苦痛を覚えていません。


3)どのような経緯で祈りのベールをするよう導かれたのですか。

主人と私が交際しはじめて数週間経ったある日、彼が不安げに、1コリント11章の被り物に関する彼の関心と確信について私に打ち明けてくれたのです。

彼は、「僕がこんなことを言ったら、彼女は怖がって、僕の元を離れていくかもしれない」とかなりビクビクしていたそうです。でも、(後で聞いたのですが)、その話に「引かず」、むしろ心を開いて彼の話に聞き入った私の姿をみて、彼は「この女性と結婚したい!」と願うようになったそうです。実は、主人も、被り物を実践している教会で育ったわけではなかったのです。

私がそれまでの人生の中でベールの女性たちを見かけたのは、次の二つの場所でした。一つは、大学の近くにあったメノナイト・コミュニティー。

それからもう一つは、南アジアにいた時に、です。そこでは大半のクリスチャン女性はベールをかぶっていましたが、その理由は、ムスリムの隣人たちに対する敬意や礼儀上のものだったようです。(この「ベール=イスラム教」という固定観念が、実のところ、私の被り物への理解を妨げていた最も大きな障害物でした。)

それからいろいろと熟考し、祈った末、これは私が「彼のために」やるようなものではないことをリチャードに話しました。当時、私たちはまだ交際していただけですし、それに私たちはワシントンDCという、アメリカの中でも最もリベラルな都市に住んでいたのです。

もしも本当に被り物を教会で始めるのなら、私は「どうしよう、どうしよう」と周囲の目を気にしながらではなく、しっかり確信を持ち、そして覚悟して始める必要がありました。それに他の女性たちは、ベールをしている私をみて、「彼女はただボーイフレンドに影響されているだけ」と受け取らないとも限りません。

だから、祈りのベールを実践するのなら、それは(ボーイフレンドのご機嫌を取るためでなく)純粋に、主の栄光のため、そして神のお造りになられた創造の秩序に敬意を示すためでなければならない、そう思いました。

その後、私はネットで多くの論文を読み、またこのテーマに関する説教を聞きました。でも最終的な決定打となったのは、私が霊的リーダーとあおいでいる数人の方々の助言でした。

私はこれまでの人生の中でお世話になった何組かの牧師夫妻にメールを出し、自分が1コリント11章の祈りのベールの教えのことで葛藤していることを打ち明けました。そしてなぜ今日キリスト教会がこの教えを遵守しなくなっているのか、それを正当化する論拠をぜひ挙げてくださいとお願いしました。

私はこういった方々を尊敬しており、きっと彼らは、「祈りのベールは今日にも適用される掟である」という主張をくつがえすに足りる、しっかりした論拠を挙げてくださるに違いないと期待していたのです!

しかし驚愕したことに、ある一人の方を除き、他の方は全員、「これはクリスチャンの選択の自由であり、もしあなたがそのように確信を持ったのなら、ぜひすべきです」と書いてこられたのです!(ちなみに、残りの一人の方は強烈なベール反対論者でしたが、その論拠となると、「ここの箇所はあくまで隠喩なのです」という非常にあいまいな主張しかすることができていませんでした。)

まさか、このような肯定的な回答がくるとは思ってもいませんでした。そしてその時、「よし、実践しよう!」と心に決めたのです。その週の水曜の小グループでの学び会の時、私は初めてベールをかぶりました。

その時以来、祈りのベールは、キリストとの個人的な歩みの中でも、また結婚生活の中でも、私にとって大きな祝福になっています。


4)ベールをかぶって初めて礼拝に参加した時、どんな気持ちでしたか。

前に申しあげましたように、私が初めてベールを始めたのが、水曜の学び会の時でした。その日、私は青色のバンダナをしていましたので、おそらく、私が「ベール」をしていると思った人は誰もいなかったかもしれません。

でもそれからすぐ、私は一目で「ベールだ」と分かるようなタイプの被り物をするようになりました。それでも特に、周りの人から変に扱われるようなことはありませんでした。


5)いつベールをかぶっていますか。

私は教会の公的集まりの時にベールをしています。私にとってそれはつまり、他の信者と集まって祈ったり、御言葉を学んだりする時はいつでも、ということです。実際的にいえば、それは主日礼拝、水曜の女性の集い、木曜の祈祷会などです。

家で主人とよく讃美歌を歌うのですが、その時にもベールをかぶっています。私の場合は、神礼拝をそのような形で聖別したいという思いがあるため、それ以外の普通のイベントの時などはベールは使用していません。


6)人目を恐れる余り、ベールを始めたくても始めることのできない女性たちに対して、何かアドバイスがありますか。

祈ってください。そして助言を求めてください。そして何よりも、キリストの内にご自分のアイデンティティーを見い出してください。私は、ベールの実践に行きつくまでの自分の経緯を主に感謝しています。なぜなら、実際に始めたとき、私はすでに心の準備ができており、恐怖を克服できていたからです。

私にのしかかっていた恐怖の多くは、自分の尊敬する牧師さんたちの聖書解釈のことでした。私は自分の決心によって、こういった方々の聖書解釈に「反旗を翻す」ようなことはしたくありませんでしたし、一致を壊したくなかったのです。

でも大半のクリスチャンは被り物のことに対し、どうやら反感は抱いていないようだという事に気づき、その部分においての恐怖は克服できるようになっていきました。

そうして最後に残ったのが、「人への恐れ」でした。でも、「人への恐れのせいで、創造の秩序に基づく主の掟に従えないというのはダメだ。それではいけない」という思いがあり、神の恵みによって、私はそこで立ち止まることをしませんでした。

でもみなさんに勧めます。疑いや恐れがあるのでしたら、それに向き合ってください。被り物は、その意味を熟考し、なぜそれを実践する必要があるのかという点をしっかり学んだ上で始めるなら、さらに大きな喜びと平安が与えられると思います。


7)祈りのベールに関し、最もすばらしい点、または最も困難な点は何でしょうか。

私の義理の兄が、その点について語ってくれたことがあります。――それは、私たちの夫に対するインパクトの大きさです。私たち女性は、一度被り物をかぶると、自分ではそれが見えませんので、そこまで意識しないかもしれません。

でも、夫となると話が違います。彼はそれを目の前に「見ている」ので、それはリーダーとしての自分の責任を具体的な形で常に思い起こさせる象徴となるわけです。

祈りのベールというシンボルは、聖書の中で命じられている夫のあるべき姿を主人に思い起こさせるだけでなく、――自分の妻が、全幅の信頼をもち、彼女をリードしケアすることを夫に委ねているという――目に見える印ともなり、それは彼を励ますものとなります。

現在どなたかと交際している姉妹の方、あるいはすでに婚約・結婚されている姉妹の方々は、被り物に関して、彼に率直に打ち明けるのがいいと思います。なぜなら、1コリント11章のベールの教えの箇所は、女性だけでなく男性にも指示を与えている箇所だからです。

ありがとうございました。




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小さなテレサが8才の時、お父さんが家を出ていった。


牧師になろうとしていた父、

母と共に教会を建て上げようとしていた父。



父の中でイエスさまが亡き人となったのは

いつの頃だったのだろう。



父の中でなにかが死んでしまった。


でも私は ずっとずっと、父の〈帰り〉を待っていた。




昨年、20年前に父が捨てた教会に行ってみた。

そしてそこにつながるようになった。




私の出現は、

かつての父と、

その痛ましい教会の傷を抱えるしもべたちにとって、

〈再生〉と〈回復〉の徴となったのだそう。



そうなのかしら。私にはわからない。



ただ、私は今、自分たちが

帰るべき原点に戻ってきたような――、そんな気もちがしている。


この神の家で、かつて 父の信仰に火が灯された。




私はここでじっと待とうと思う。


愛する父の帰りと、再生を祈り求めつつ。










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Gerhard Tersteegen, God, our true lifeより(私訳)


周りの人が外面的なものに囚われ、むなしく無益なことに耳を傾けたり、見たり、話したりする時、あなたは、自分の心を閉じられた園のようにしなさい。

そしてあらゆる被造的な事物に対し、あなたの心を封じられた泉のようにし、ただ一途に、あなたの魂が慕い求めてやまないあのお方、主イエスだけに心を開くようにしなさい。

私たちは霊的な祭司として、昼も夜も、主の戸の所で待機していなければならない。

私たちには責務がある。なぜなら、私たちの心の中の神殿には主がご臨在しておられるのだから。

☆☆

あなたは主なる神と親しく交わるために召されている。ああ、これはなんという恵みであろう。

従ってあなたは、何としてでも不必要な雑談の一切を避けるようにしなければならない。

このことは強調し過ぎてもし過ぎない。なぜなら、私たちは依然として弱い存在であるからだ。

私たちは何としてでも敵から逃れ、世俗的な物の見方や被造物に必要以上に近づくことを警戒しなければならない。

――これは創造主に対する心の親密さを失うことのないためである。


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そして何より祈りを愛しなさい。

朝から寝床につくまで一日中、祈りがあなたと共にあるようにしなさい。

あなたの心と願いが絶えず、幼な子のような単純性のうちに、神との語り合いの内にあるようにしなさい。

なぜなら、主の喜びは、神の子どもたちと共にある事の内に存在するからである。

☆☆

おお、親愛なる友よ。もしも根柢にイエスとの交わりがないのなら、私たちの有徳や敬虔さは一体何になろう。

私たちは自分だけではただの一瞬たりとも存在し得ない者なのだから、祈りというこの喜ばしい務めにもっと熱心に取り組もうではないか。

あらゆる誤りや堕落は、私たちが内におられるキリストと共に生きていないことに因を発しているのである。

☆☆

私は心の底から涙と嘆きを持って言う。おお何という人の盲目さよ!

彼らは当てにならない幻想や、瑣末で取るに足りないことを「本質的な事」とみなす一方、御霊に関わる真に本質的なことに関しては、これを「想像によるもの」だとか「誤謬」だと断定している。

しかし(御言葉も言うように)、生まれながらの人間は、御霊の人とは反対に、神の御霊に属する事柄について全く悟ることができないのである。

☆☆

親愛なる一人の兄弟が私に便りをくれた。

手紙の中で彼は自分が現在、多くの心ない敵対者により、ひどい扱いを受け、最低限の尊厳でさえはぎ取られていると、窮状を打ち明けてくれた。

しかしこれは良い出発であると思う。垣(かき)は彼を守っており、攻撃から防いでくれている。

しかし、この際、私たちにとって個的で大切なものは何もかも朽ち果ててしまうように願おうではないか!

すべての世界がわれわれのために死に、あらゆる被造物がわれわれを見捨てるがままにさせようではないか。

それにより、私たちはますます自由になり、ますます主に聴き、つき従い、――内なる独居(inner solitude)という麗しい荒野において――主を味わうにふさわしい者として整えられていくのである。

おお、私たちの全存在がただひたすらに、主のみを見つめ続けることができるなら!

しかし私たちが他者からの尊敬、あるいは、知識、(肉的ないしは霊的領域における)能力などをひそかに誇っているのなら、そういったものは、私たちの神との交わりの中に、ある種の「横領物」を持ち込むようになるだろう。

しかしそれは正規の「商品」ではないのである。

☆☆

私たちは裸で主の前に出ていかなくてはならない。

そして自分自身を完全に愛なるこのお方に明け渡し、自分の意志、活動をむなしいものとし、このお方の御手に自分を委ね切ることが必要である。

そうすることにより、主はご自身の目的に合わせ、私たちを形作り、命じ、用いることができるのである。

こういった訓練を通らされれば通らされるほど、私たちは、神の愛の、祝福された「峻厳さ」を体験していくことになる。

――そう、いかに主が、ご自身の働きではないあらゆるものを無と化し、壊し、拒絶されるかということを。

そしていかに主がすべてをご自身の元に引き寄せ、包含し、そうしてついに、主ご自身が、私たちの内でそして私たちを通して、生き、働かれ、王として統べ治めてくださるようになるか、ということを。

そのような主の取り扱いを拒まず、全てを主のご意思のままに委ね切っている魂の、なんと幸いなことよ!

なぜなら、これを通してのみ、われわれの働きは、神の内にあってますますなされていくことになるからである。

☆☆

私たち自身のなすことは、本当にどんな価値も持ちえない。

われわれの活動の中に、「自分自身」がなければないだけ、その働きはますます純粋かつ有益なものになっていく。

主に聞き従うことは、いけにえにまさる。

私たちは、自己流でなく、神ご自身の方法により、主に仕えなければならない。

私は今、痛感している。

――自分のやる事は役に立たないものであるが、私が神にそれをやっていただくよう委ねる時、全ては意味を成すものになっていく、ということを。



ーおわりー









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主よ、私は自分のとがを告白いたします(詩32:5)。

自分の弱いことをあなたに告白いたします。

勇気をもって行動しようと決心しますが、小さな誘惑でも来ますと、私はすぐひどく窮するのです。

主よ、私のいやしいさまと、私の弱さを見てください。

あなたをそれをすべて知っておられます。

私を憐れんで、泥の中に沈まぬように助け出してください(詩69:14)。

私がそこに深くはまり込み、いつまでも全く打ち捨てられることがありませんように。

このように日々戦いのうちに生きるのは全くいやになります。

いまわしい考えが私に入り込んでくるのが、出てゆくよりもずっと容易なのです。


イスラエルのいとも強き神よ、あなたのしもべの労苦と悲哀とを顧み、そのなすすべての事を助けてください。

天からの勇気で私を強めてください。

古き人(エペソ4:22)、すなわち、まだ十分に霊に服しないみじめな肉が支配して勝を占めることがありませんように。

このみじめな世に生きる限りは、私はこれに対して戦わねばなりません。


主よ、あなたの御名をとこしえにほめ讃えます。

この試練と苦難が私に来ることは、あなたの御心であるからです。

私はこれを逃れることはできません。

ただあなたのみもとに逃げて行かねばなりません。

それはあなたが私を助けて、これを私の益とせられるためです。

主よ、私は今苦難の中にあって、心が安らかではありません。

私は今この苦難によってひどく悩んでおります。

そして苦しい立場に陥っています。この時から私を救ってください。

しかし私がこの時にあったのは、大いに低くせられて、あなたに救われ、あなたが崇められるためです。

主よ、みこころならば、私をお救いください(詩40:13)。

あなたなしには、この憐れむべき私は何をなし、どこに行くことができましょう。

主よ、今のこの試練においても私に忍耐を与えてください。

わが神よ、私を助けてください。

そうすれば、どんなにひどく苦しめられようとも、私は恐れません。


ー『キリストにならいて』より





詩篇46:1-5

God is our refuge and our strength, in straits a present aid;

神はわれらの避け所、また力。
苦しむとき、そこにある助け。


Therefore, although the earth remove, we will not be afraid:

それゆえ、われらは恐れない。
たとい、地は変わり、山々が海のまなかに移ろうとも。


Though hills amidst the seas be cast; Though waters roaring make,
And troubled be; yea, though the hills, by swelling seas do shake.

たとい、その水が立ち騒ぎ、あわだっても、
その水かさが増して山々が揺れ動いても。


A river is, whose streams do glad the city of our God;
The holy place, wherein the Lord most high hath his abode.

川がある。
その流れは、いと高き方の聖なる住まい、神の都を喜ばせる。


God in the midst of her doth dwell; nothing shall her remove:
The Lord to her an helper will, and that right early, prove.

神はそのまなかにいまし、その都はゆるがない。
神は夜明け前にこれを助けられる。








praying hands



教会のただ一つの土台、それはイエス・キリスト。

水と御言葉によって新しく造られたエクレシア。



天より降りしキリストは、

ご自身の血潮によって彼女(教会)を買い取り、

彼女の命のために死なれた。

――ご自身の聖い花嫁とするために。




あらゆる国から選ばれし民。

全地に散らばりつつも一つのからだ。

主は一つ。信仰は一つ。バプテスマは一つ。




彼女はただ一つの聖なる御名をたたえ、

一つの聖なる糧に与り、

恵みの下に 一つの希望に向かって前進している。




圧迫され、

分裂と仲たがいによって裂かれ、

あらゆる異端により苦しめられる彼女をみて、

この世はあざ笑う。



しかし聖徒たちはたゆまず見張り、

「いつまでですか?」との彼らの叫びは

天に立ち昇っている。


――涙の夜は、やがて必ず

歌声に満ちた朝となることを信じて。




労苦と患難、

彼女の内外を襲う混乱のただ中で、

彼女はじっと待つ。


――やがて訪れる永遠なる平和の成就を。



勝利をおさめし偉大なる教会、

それが安息を得たエクレシアとなるのだから。




しかし地上にありてすでに、

彼女は三つ(みつ)にして一つなる神とひとつにされた。



そして安息をいただいた聖徒たちは

神秘の内に 主との甘美な交わりをいただいている。


おお そのような聖徒はなんと幸いであろう!



主よ、どうか私たちを

柔和でへりくだった者、そして

永遠に生きる民とさせたまえ!




S. J. Stone, The church’s one foundation, 1866
私訳











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前の記事でH兄の救いの証しを載せました。

実は私の主人も、H兄と同じような所から救われた人です。回心前の「マフィアぶり」も「犯罪者ぶり」も「前科」も同じような感じです。

私たちは生育環境も、文化も、バックグラウンドも何もかも全て異なっています。

「前科のある人からのプロポーズをよく受諾する気になりましたね」とたいがいの方は驚愕されます。

でもキリストにあって問題なのは、その人が誰であったか(who he was)ではなく、今、その人が誰であるか(who he is now)だと思います。

だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古い者は過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。Ⅱコリント5:17



彼の犯罪も、そして私の罪も、キリストの十字架の贖いによって赦されました。

キリストが私たちの罪を帳消しにしてくださったのですから、彼も私も赦しを受けた恵みの子として、十字架の下に同じように跪いているわけです。そこになんら差異はありません。

国籍がどこか、どの文化圏から来たか、どんな教育を受けてきたのか(あるいはこなかったのか)、どんな過去を背負ってきたのか、背が高いのか低いのか、色が黒いのか白いのか、健常なのか病弱なのか、、

そういったもの全てはキリストにあってもはや「壁」ではなくなりました。

あらゆる人間的偏見、階級、差別、レイシズムはキリストの愛の大波に飲み込まれ、跡形もなくなりました。

そのことを私は自分たちの結婚という結び付きを通してもこの世に証したいと思います。

そしてキリストにあって、私たちは本当に「兄弟」となり「姉妹」となることができるということ、あらゆる地上的な違いを乗り越えて互いに愛し合うことができるということをこの世に証したいと思います。


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そして今晩、私はあなたを励ましたいです。

あなたはクリスチャンではないかもしれません。あるいは、いろいろと辛く重い過去を背負ってこられた方かもしれません。

そしてそのせいで人からいろんな形でレッテルを貼られてこられたかもしれません。前科がある方かもしれません。

しかし聖書は「キリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者」だと宣言しています。また、キリストを信じた人の国籍は、「天にある」とも聖書は宣言しています。

過去の重い重い荷を苦しみながら引きずっておられる方、どうかキリストの元に来てください。

この方のうちに再生があり、新しい出発があり、そして朽ちることのない永遠のいのちがあります。


読んでくださってありがとうございました。






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