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ボヘミヤ地方、チェコ共和国


はじめに


キリスト教の宣教史の中においても、「モラヴィア兄弟団」という信徒グループは実にユニークで特異な光彩を放っていると思います。

霊的な観点からみると、この兄弟団は、その源流を14世紀のジョン・ウィクリフ、および彼の教えに従ったロラード派にまで辿ることができると思います。

ローマ教会を批判し、聖書こそに信仰の基礎をおくことを唱えたウィクリフは、宗教改革の先駆者といわれています。


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ジョン・ウィクリフ (1320-1384)


そしてウィクリフに啓示されたこの真理は、当時、オックスフォード大で彼の講義を聴講していた一人の留学生の魂を震撼させました。

その留学生は受けた恵みと感動を胸に故郷ボヘミヤに帰り、周りの人々に熱くその教えを説き始めました。

それに感銘を受けたのが、プラハの神学者ヤン・フス(1369-1415)です。もともとヴァルド派という福音的な信徒グループの伝道により、福音を受け入れる心の土壌がすでに肥やされていたボヘミヤの人々は、フスの説く福音のメッセージに燃え立ちました。

やがてフスは捕えられ、異端として火あぶり刑に処せられましたが、彼の魂に宿っていた福音の炎は消されることはありませんでした。


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焚刑に処せられるヤン・フス

「どうか私の霊を強めてください。あなたがいなければ、私たちは、あなたのために残酷な死へと向かうことはできません。私に恐れなき心と正しい信仰と、確信に満ちた希望と、完全な愛を与えてください。そうすれば、私はあなたのために信仰と喜びをもって、私のいのちをささげるでしょう。アーメン」 

―処刑二週間前に書き記された、フスの獄中書簡より



こうして、そこからボヘミヤ兄弟団が誕生したのです。

この兄弟団の中からも傑出した神の僕たちが起こされ、焚書の憂き目を逃れ生き残った彼らの書物のいくつかは今も現存しています。(例えば、ペトル・ヘルチッキーの『信仰の網』(1440年)、ヤン・アーモス・コメンスキーの『世界の迷路と心の天国』など。)


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宗教権威者たちの前で、信仰を証するペトル・ヘルチッキー(Petr Chelčický, 1390-1460)

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ヤン・アーモス・コメンスキー (1592-1671)


所持品、妻子すべてを失い、故郷モラヴィアから亡命したコメンスキーは、祖国に最後の別れを告げた際、跪き、次のように祈りました。

「ああ御父よ、この民をあわれんでください。どうか彼らのうちに、隠れた種を保ち続けてください。」

(この祈りがその後、いかにしてきかれ、実を結ぶに至ったかについての証は、ここをお読みください。)



こうしてボヘミヤ兄弟団の火は、ツィンツェンドルフ伯の敷地内に逃げ込んでいた宗教難民たちの間でリバイバルの炎となって再熱し、こうしてわびしい「難民キャンプ」が一転して「世界宣教センター」へと様変わりしたのです!モラヴィア兄弟団の誕生です。

(ちなみに、ジョージア宣教で挫折し落ち込むジョン・ウェスレー青年の心に信仰復興の火が灯されたのは、彼が転覆しそうな船の中で、モラヴィア兄弟団の信徒たちの強烈な信仰に接したこと――これが直接のきっかけでした。

こうしてモラヴィアの火は、ウェスレーを通して英国に飛び火し、そして18世紀のあの英国信仰復興運動へとつながっていきました。)


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暴徒に襲われる伝道者ジョン・ウェスレー


それでは次の記事で、モラヴィア兄弟団の一青年レオナルド・ドーバー兄についてご一緒にみていこうと思います。
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北海道の自然


伝道は、恩寵の体験の解説でなければならぬ。

その解説の最も有力にして且、自他を誤る事なきものは、個人の生活そのものである。

言葉は欺きやすい。然し生活は欺かない。

生活から迸(ほとばし)り出る言葉には、特別の権威がある。人いづくんぞ隠さんや。

己の持つ恩寵の体験を豊かにせよ。それは己自身にとっても必要欠く可らざる営養である。

或る場合には、一語も言はずともよし。一歩も出ずともよし。

只在りて活けるだけにてよし。

故に見よ。もっとも偉大なる伝道は、屡々(しばしば)瀕死の病人がしたではないか。

無力にして貧しき者、無学なる者がしたではないか。

見よ。幾多の大説教家の大雄弁が、時にキリストを宣べ伝ふべく最も無力にして貧弱なるを。

ここに真実なるイエスの僕一人を活きしめよ。

その二人また三人を相結ばしめよ。

然る時、その周囲に、イエスより発する光の波の次第々々に拡がるを見るであらう。

此少数の忠信なるイエスの僕達がイエスと共に活けるその事実は、暗夜の燈火の如く、四方に輝き出でざるを得ない。

而して多くの人々を惹きつけざるを得ない。

「山の上の町は、隠るる事なし。」

斯る忠信なる生活をだにあらしめば、人は道を求め寄る人々の多きに苦むのみであらう。

☆☆

伝道の事業化は、呪ふべきである。

事業化はすなわち人業化である。故に、事功を追ひ分量を気に病む。

呪ふべきは、伝道の人業化である。

何者ぞ神の聖業を、その大御手より簒奪(さんだつ)せんとはする。

すべての誉は、之を主にのみ帰せよ。

我らをして決して己が誉を求めしむるなかれ。

決して事功を追はしむるなかれ。

神与へ、神とり給ふ。我らをして、只神をほめたたへしめよ。

我らが為し得る唯一の伝道方法は是である。

心から神を讃める事である――心から



三谷隆正、『問題の所在』(「伝道真髄」より)


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北海道の自然


パスカルが言ふ。

「神を疑ひ、未来を疑ふと称する人たちは、真実自らさう疑ふのでなしに、他を真似て疑ふふりをしているに過ぎない。

疑ふことを見栄と心得ているのである。疑と不安とが見栄だといふ。なんたる見栄ぞ」と。

、、げに虚栄から不信を看板にし、懐疑を鼻の先にぶらさげている人が実に多い。

斯る人々に対して、余は難詰して問ひたい。「汝は真実、神を疑ふや?真剣に未来を否定せんとするや?」と。

おそらくは彼等の多くは愕然として身震いしつつ、答を曖昧にするのであらう。

小ざかしき哲学の片鱗を乳臭の口辺に漂わせて、誇りかにも神と永生とを否定し去らんと流行を追ふ若き男女よ。

汝は真に一切を空(くう)と確信せりや?

それは汝自身の確信なりや。汝自身の体験なりや。

☆☆

、、悔悟は義への憧憬と決意とを前提する。

即ち悔悟とは悪になじまずして義を追ひ求むるの心でなければならぬ。

然らば、悔悟とは自己の醜を識認するの心であるよりは、むしろ自己の義を何処かにか求めて得んと欲するの心、斯る精進をその特色とするものでなければならぬ。

さればこそ悔いたる心は神を仰ぐ。神の義を慕ふ。

卑僕の罪を赦して、なんじの義の裡(うち)に抱き給へと祈る。

見よ。ユダは主を売りて後、その罪を知り終に首をくくって死んだ。

なぜ彼は罪の赦しとその潔めとを求めなかったか。なぜ自己に失望し切っていたか。

ユダの誇りよ。人間の誇りよ。

その誇りが幾度か人を神より遠ざけ、彼の悔改を妨げ、而して彼を滅亡の淵に陥しいれた事であらう。

神よ、なんじはこの誇りをも赦し給ふや。我らを試みにあはせず、悪より救い出し給へ。

☆☆

「お前は罪を犯した。お前の汚れは最早、言い逃るべきやうもない。お前のやうなものは、もう駄目だ。悔いたと?それはお前の言い訳だ。

なぜお前は、お前の醜さを直視してそれをそのままに受け入れる事をしないか。お前は駄目なのだ。さう悟る事が真個の悔悟だ。お前自身に絶望せよ。」

――さういう声を心の奥にきくことがある。

然しそれは悪魔の声だ。

基督はさういう風に言われなかった。彼はいつも愛に溢れて、「来れ」とのみ呼び続けられた。

神の赦免は、単なる放免ではない。抱擁である。

罪を責めないだけでない、愛の接吻である。

人ひとりひとり、その残らずが彼の愛児達である。

さうだ。余は余自身に絶望してはならない。

罪人はその罪にのみ執着し、着目してはならない。

我等は義とせられなければならない。義を追ひ求めて休んではならない。

神の賜ふ義、それを被る迄は止まってはならない。

神よ、我等を潔くしたまへ。汝の義を以て義としたまへ。

斯して誠に汝の子たることを得しめたまへ。

☆☆

然り。人は本来、神の子であるべきである。神の子は義の子、光の子であるべきである。

罪と暗きと、それは人の本質ではない。

見よ。白き輝ける衣、我等のため備へられて彼処(かしこ)にあり。

兄弟よ、希望を失ふなかれ。兄弟よ、信頼を失ふなかれ。

兄弟よ、神は我等すべてのために輝きの聖国を備へ給ふのである。ハレルヤ。

☆☆

人生において一番貴い事は、正直であること、誠実真摯、真理を追うて倦まないこと、自己一個に屈託しないことである。

道の為めの勇猛心、それにも勝(まさ)って立派な力強い堂々たる偉観があらうか。

「もはや我、活けるに非ず。基督、我に在りて活けるなり。」

さう謂うことの出来たパウロの総身にはどんなにか力が溢れ、勇気が漲った事であらう。

自己に死なんとの野心の胸中に高鳴りするを覚える時、なんだか飛び出して天下に絶叫し度いやうな勇奮を余も感じる。

余の野心はこれ以外にない。あらしめたくない。

己を全き献物として神の聖壇に上すこと、真理の為めに一切の私を投じ尽して了ふ事、余はこれ以上の偉業を考へ得ない。

余はこれ以上の野心を持ち得ない、又持ち得度くない。



三谷隆正、『問題の所在』(「感想と祈念と」)より


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τὰ κρίνα τοῦ ἀγροῦ〔タ クリナ トゥ アグルー〕
野花 (マタイ6:28)


マタイの福音書6:28では「(野の)ゆり」、それからルカの福音書12:27では「ゆりの花」と訳されているギリシャ語のクリナは、「ゆりと訳す慣例だが、必ずしもユリ科の植物ではない平凡な野花を指した」のだそうです。(織田昭『新約聖書ギリシア語小辞典』より)

ゆりの花のことを考えてみなさい。どうして育つのか。紡ぎもせず、織りもしないのです。しかし、わたしはあなたがたに言います。栄華をきわめたソロモンでさえ、このような花の一つほどにも着飾ってはいませんでした。ルカ12:27


たしかに、ここでイエスさまが思い描かれていた「クリナ」は、花屋さんの店頭に飾ってあるような「ユリ」ではなく、どちらかといえば、野に生えている雑草のような花のことだったのかもしれません。

次の節では、花ではなく、「草(ホルトス、χόρτος)」という言葉も使われています。

しかし、きょうは野にあって、あすは炉に投げ込まれる草(χόρτος)をさえ、神はこのように装ってくださるのです。

ルカ12:27a



栄華をきわめたソロモンの偉大な様子は、1列王記10章のシェバの女王の箇所に描き出されています。

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シェバの女王は、ソロモンのすべての知恵と、彼が建てた宮殿と、その食卓の料理、列席の家来たち従者たちが仕えている態度とその服装、彼の献酌官たち、および、彼が主の宮でささげた全焼のいけにえを見て、息も止まるばかりであった

彼女は王に言った。「私が国であなたの事績とあなたの知恵とについて聞き及んでおりましたことはほんとうでした。

実は、私は、自分で来て、自分の目で見るまでは、そのことを信じなかったのですが、驚いたことに、私にはその半分も知らされていなかったのです。あなたの知恵と繁栄は、私が聞いていたうわさよりはるかにまさっています。

1列王記10:4-7



私は思います。イエスさまが、どこにでもあるような平凡な野花のことを、「栄華をきわめたソロモンでさえ、このような花の一つほどにも着飾ってはいませんでした。」とおっしゃったのは、決して誇張でもなく、「詩的表現」の類でもなかったと。

創造のはじめに、主なる神が、地に植物を造られ、「それをよしとされた it was good」(創1:11-12)時、御子イエスは御父の傍らで、それらの植物をながめ、きっとお喜びになられたと思います。(箴8:30、ヘブル1:2)

でもソロモンのように自由に手足を動かすことのできない無力な野の花が「着飾る περιβάλλω〔中〕」とは、思えば不思議な表現ではないでしょうか。

でもそれは、罪と霊的闇で目の曇っている人間にとっての「不思議」であって、「御霊を無限に与えられ」ている(ヨハネ3:34b)御子イエスの澄み渡った目には、きっと、被造物の本質がそのような形で映っているのではないかと思います。

ソロモンの事績と知恵を目の当たりにしたシェバの女王が、「(それを見て)息も止まるばかりであった」、「あなたの知恵と繁栄は、私が聞いていたうわさよりはるかにまさっています。」と感嘆の声を挙げていますが、キリストの御霊に満たされた目は、一輪の素朴な野花の姿に、それ以上の驚異と神の美を見いだし、その心は創造主への讃美の思いで満たされるのではないかと思います。

中世のペルシャ詩人は、一枚の木の葉をみて、このように詠いました。

برگ درختان سبز در نظر هوشیار هر ورقش دفتری است معرفت کردگار

緑葉のひとつひとつが、――賢者の目にありては――
深遠なる神の知恵を収めし大著のごとくある。
ーサーディー



そして主イエスは、私たち人間に慈しみの目を向け、仰せられます。

きょうあっても、あすは炉に投げ込まれる野の草さえ、神はこれほどに装ってくださるのだから、ましてあなたがたに、よくしてくださらないわけがありましょうか。(マタイ6:30b)



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イエス様の目に、これらの被造世界はどのように映っているのでしょうか。

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シリア難民キャンプのこどもたち source

そしてイエス様の目に、ひとりひとりの人間はどのように映っているのでしょうか。

「人とは、何者なのでしょう。あなたがこれを心に留められるとは。」(詩8:4a)


祈り

おお主よ、どうかこの「目」を私たちに与えてください。あなたの心と目で、被造界を、そして人間をみることができますように。

私たちが異邦人が切に求めているもろもろの地上的こだわりや心配(マタイ6:31-32)から解き放たれ、神の国とその義を一心に求めていくことができますよう助けてください。イエス・キリストの御名によってお祈りします。アーメン。



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初代教会の時期の男性 (ペルシャ地域)

男女双方に対し、勧告したいことがあります。それは、神のわざ、ならびに神の造られたありさまに勝手に手を加えてはならないということです。――そう、黄色の染め物、黒粉、ルージュ、その他あらゆる種類の化粧品のことを私は言っています。

神は言っておられます。「われわれに似るように、われわれのかたちに、人を造ろう。」

私たちはおこがましくも、神がお造りになられたものをいじり、変更を加えようとしているのでしょうか?

キプリアヌス(AD250年)、Ante-Nicene Fathers, vol.5, p.434 私訳



キプリアヌス(200-258)は、北アフリカのカルタゴにある教会の牧師でした。彼は当時、激しい迫害下にあったカルタゴ教会を十年以上にわたり、命がけで牧会した後、ついにローマ人の手に捕えられ、殉教しました。

それではこれから皆さんとご一緒に、初代教会のクリスチャンがメイクや装飾品についてどのように考え、どのような姿勢で臨んでいたのか見てみることにしましょう。

同じように女も、つつましい身なりで、控えめに慎み深く身を飾り、はでな髪の形とか、金や真珠や高価な衣服によってではなく、むしろ、神を敬うと言っている女にふさわしく、良い行ないを自分の飾りとしなさい。
1テモテ2:9,10

あなたがたは、髪を編んだり、金の飾りをつけたり、着物を着飾るような外面的なものでなく、むしろ、柔和で穏やかな霊という朽ちることのないものを持つ、心の中の隠れた人がらを飾りにしなさい。これこそ神の御前に価値あるものです。
1ペテロ3:3,4



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19世紀のクリスチャン信徒

婦人たちよ、あなたの着る物ではなく、あなた自身の善い人柄によって、夫に認められるようになりなさい。おお善良な女性たち、「虚栄」という装いから逃げ去りなさい。そういった飾りは、売春宿の女性たちにふさわしいものです。悪しき者に打ち勝ちなさい、おおキリストに属する慎み深い女性たちよ!

コモディアヌス(AD240)、ANF 4. p.214



誠実なクリスチャン女性が装飾するというのは、神の御前に正しいことではありません。あなたは髪を染めています。あなたは目じりに黒でアイシャドーを塗っています。髪をアップにし、眉染めしています。また頬を赤みがかったルージュで染めています。この世のご機嫌を取ろうとしているあなたは、キリストの律法を拒絶しているのです。

コモディアヌス(AD240)、ANF.4, p.215



いくら肉体的に処女性を保っていても、他人の妄想をかき立てるような装いをしている人は、慎み深い女性とはいえません。外見の美にこだわることは、悪しき考えから生み出された巧であるだけでなく、「ゆがみ」であるからです、、なぜ彼女の髪の色は変わったのでしょう。なぜ彼女の目じりは黒みがかっているのでしょう。なぜ彼女の顔は人為的に違ったものへと変えられたのでしょう。

ノヴァティアヌス(AD235)、ANF. 5, p.591



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宗教改革期のクリスチャン女性

「スザンナ〔*LXX聖書の中に登場する女性〕は非常にデリケートな女性でした。」これは彼女がけばけばしい装いをしていたとか、イゼベルのように、さまざまな色のアイシャドーを凝らしていたとか、そういう意味ではありません。ここで意味するデリケートというのは、彼女が、信仰、純潔、清さという心の中にある内なる飾りを持していたということです。

ヒッポリトゥス(AD205)、ANF.5, p.193



おおキリストを信じる女性たち。あなたがたは、この世の女性たちに同化しようとしています。あなたはゴールドやシルク製品で身を包み、、、虚栄心が助長されています。また額に垂れ下がるカールした自分の髪をいじろうと鏡の前にいます。

さらに、あなたはいつわりのメイクをしています。また目の所に吐酒石(antimony、古代の皮膚刺激用軟膏)を塗っています。またいつも黒髪でいられるようにと、白髪染めをしています。しかし、こういったものは、慎み深い女性にとって必要なものではありません。

コモディアヌス(AD240)、ANF.4, p.214



女性たちは、人を誘惑に陥れるような狡猾なもので顔に装いをしてはなりません。むしろ荘重なつつしみ深さをもって、それを、自らの飾りとしなさい。

アレクサンドリアのクレメンス(AD195)、ANF.2, p.286



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17世紀のオランダの家族

〔メイクやファッション問題に関し〕この厳格な対処をゆるめるべき状況があることも確かです。例えば、夫が敬虔ではなく、妻に外的装いを求める場合などがそうです。その場合、妻たちは夫を喜ばせるために身を飾ります。しかしその際においても、女性たちがそうする唯一の動機は、「自分の夫を喜ばせるため」という目的に限られるべきです。

アレクサンドリアのクレメンス(AD195)、ANF.2, p.285



妻が外面的な装いをしなくなったら、夫の憎しみ反感を買うようになると考えてはいけません。、、信仰ある夫は、そのような美を要求してはいません。なぜなら、私たちは異邦人が美と考えるようなものに対し、彼らと一緒になって、それらに魅了されるようなことはないからです。

テルトゥリアヌス(AD198)、ANF.4, p.20



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初期クェーカーの男性、17世紀

何であれ生まれつきのもの、天来のものは、神のわざです。その一方、人為的に手が加えられたものは、悪魔のわざです。偽りの顔に自分を装うという行為は、クリスチャンの名を名乗る私たちにとって、なんとふさわしくないものでしょう。

私たちには、あらゆる形において、シンプル性が求められているのです。舌でもって偽ることが不法であるように、外見でもって偽ることもまた不法なのです。

テルトゥリアヌス(AD198)、ANF.4, p.21



宝石・ジュエリー等について

宝石類やゴールドにお金をつぎこむより、人間に対してお金を使う方が、どれほど賢明なことでしょうか。、、なぜなら、女性は内なる人がらを飾りとすべきであり、〈内なる女性〉こそが美しくあるべきだからです。

アレクサンドリアのクレメンス(AD195)、ANF.2, p.268



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アナバプテストの家族、17世紀

聖書のシンボリズムを理解しない女性たちは、なんとしてでも宝石から離れまいとします。そして次のような驚くべき議論を展開するのです。「神様がせっかく見せてくださっているものを、私が使用してはいけないという法があるのでしょうか?」と。

アレクサンドリアのクレメンス(AD195)、ANF.2, p.268



ピアスをするために、耳に穴を開けてはいけません。それは自然にもとる行為です。

アレクサンドリアのクレメンス(AD195)、ANF.2, p.270



贅沢さがここまでひどく浸透してきたために、女性だけでなく、今や男性たちも、この病に憑かれ、浅薄な欲求にうつつを抜かしている状態です。

アレクサンドリアのクレメンス(AD195)、ANF.2, p.275



以前には存在してた、あれほど望ましい結婚生活は今、どこに行ってしまったのでしょう。600年余りに渡り、私たちローマ人の間に、離婚はほとんど見られませんでした。しかし現在、女性たちは体中、関節中に、重いゴールドをひっさげているのです。

テルトゥリアヌス(AD198)、ANF.3, p.23



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16-18世紀のクリスチャン女性

なぜ人々の首は、奇妙な石で重くなり、もはや首が隠れんばかりになっているのでしょうか。こういった宝石類の価格は、多くの人の全財産をも上回る高額なものです。

ノヴァティアヌス(AD235)、ANF.5, p.591



宝石類、ドレス、美の誘惑物は、売春婦や慎みのない女性以外、誰にもふさわしくないものです。

キプリアヌス(AD250)、ANF.5, p.433



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メソディストの女性(1912年、アメリカ)



天に故郷を持つ民として生きる


AD130年に、ローマ人に向けクリスチャンのことを説明した文が残っています。最後にこれを引用し、この記事を終わりにさせていただきます。

彼ら(クリスチャン)は、それぞれの国に、ただ単に寄留者として宿っている、、肉にあっても、肉に従って生きてはいない。地上で暮らしてはいるが、彼らは天の民だ。

彼らは定められた法律を遵守していると同時に、その生き方によって、法をはるかに凌いでいる。万民を愛しているが、すべての人に迫害されている。世に知られず、また非難を受けている。

殺されているが、彼らはやがてよみがえる。貧しいようで、多くの者を富ませている。ほとんど何も持っていないが、彼らはすべてにおいて満ち満ちている。

辱しめられているが、まさにその恥辱のうちに栄光を受けている。そして、彼らを憎悪する者は、その憎しむ何らの理由を挙げることができないでいるのだ。

Letter to Diognetus, Chap.5



わたしは彼らにあなたのみことばを与えました。しかし、世は彼らを憎みました。わたしがこの世のものでないように、彼らもこの世のものでないからです。

真理によって彼らを聖め別ってください。あなたのみことばは真理です。

ヨハネ17:14、17




数か月前、ある牧師夫妻の家に滞在していた時、奥さま(中東出身の女性牧師の方)が「なぜあなたはメイクをしていないのですか」と訊いてこられました。

簡潔に理由を申し上げたところ、その方は黙って考えにふけっておられました。翌朝、奥さまにお会いしたところ、非常に薄化粧になっておられました。

この奥さまとはメイクのことだけでなく、さまざまな意味で深い精神的交わりの時が与えられ、数日の滞在の間に、私たちの間に深い友情が結ばれた感がありました。

☆☆

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メイクは、一人の女性の霊的・精神的旅路の中で少なからぬ意味をもつ「物」であり「行為」であり「人生哲学」だと思います。

私がこのブログの中で、お化粧のことや慎み深い服装のことを、別カテゴリー化することなく、あくまで「クリスチャン女性の生き方・価値観」のカテゴリーの中に収め続けている理由もそこにあります。

そのすべては有機的につながっており、「化粧は化粧」「内面のことは内面のこと」というようにぶつ切りにはできないと思うからです。

これもその他のテーマと同様、全人格的なかかわりの中において取り組んでいく課題であり、探求だと思います。

☆☆

聖書には、ルツという女性が「(主の)翼の下に避け所を求めて来た」(ルツ2:12b)と描写されています。

私たちの多くは、人には言えない深い劣等感、コンプレックスを内に抱え苦しんでいます。比較、競争、せわしく移り変わる流行、、これらは私たちの心にたえまない不安、焦り、不安定感(insecurity)をもたらします。

しかし、ここに一つの翼があります。不安でどうしようもない私たちを包み込んでくれる力強い翼があります。

この翼は、私たちを無情なこの世の価値基準・レッテル・裁きから守り、私たちの魂をすっぽりと覆ってくれます。

そして御翼に抱かれ、子どものようになった私たちが顔を上げると、そこには慈愛に満ちた主の目があります。なんら偏見をもたず、透きとおったその御目は、あなたを、あなたの魂を見つめておられます。

キリストが十字架にかかり流された血によって義とされ、神の子とされた私たち娘に、この方は語りかけられます。「わが愛する者、美しいひとよ」(雅2:10)。

〈どうせ私はブス。私は不細工でみっともない。私はつまらなく、魅力がない。誰も私のことなんか気にかけてくれない、、、〉

どうか傷ついた娘たちの魂に、「わが愛する者、美しいひとよ」という主の語りかけがありますように。

はかなく表層的なこの世やこの世の価値観ではなく、いつまでも変わらない永遠の岩であるイエス・キリストの内に私たちが真の安定、そしてアイデンティティーを見い出すことができますように。アーメン。




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風はまだ寒くある

土はまだ堅く凍る


青きはまだ野を飾らない

清きはまだ空に響かない


冬はまだ、われらを去らない

彼の威力は今なお、われらを圧する



されど日はやや長くなった

暖かき風は時には来たる


せりは泉のほとりに生えて

魚は時々、巣を出て遊ぶ


冬の威力はすでに、くじけた

春の到来は遠くはない



ー内村鑑三、「二月中旬」より



地の果てなるもろもろの人よ。わたしを仰ぎのぞめ。
そうすれば、救われる。
わたしは神であって、ほかに神はないからだ。

イザヤ45:22




外を見よ。内を省みるなかれ。

日に三たび神を仰ぎ見て、おのれを省みるなかれ。



健康は蒼(あお)き空にあり。

清き空気にあり。

広濶(こうかつ)きわまりなき神の恵みにあり。



狭き室内に、臭気多し。

狭き胸裡(きょうり)に何の善きことあるなし。



清風をして臭気を排(はら)わしめよ。

聖霊をして邪欲をしりぞけしめよ。



戸を開いて外気を入れよ。

室内に蟄居(ちっきょ)して、そこに無益の工風を凝らして、

小君子たらんと努むるなかれ。



これに神の正義を入れて、

聖き宇宙の人となれよ。




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おお なにかが 風の中をさまよっている。

なにかが 森の中で ささやいている。
これは何かしら?


太陽に向かって歌っている川、、これは何なのかしら。


そして、あらゆる喜びの感覚の中にあって 

いつも感じる ばくぜんとしたこの痛み。


この呻き。求め。張りつめたようなこの揺れ。

これは何なのかしら。




流れゆく衣を よく目にします。

――ふさべりの部分だけを。


それは黄褐色にそまり,

ふんわりした深緑の上に
羽のようなシダの上に、

そっと横たわっています。



そして それは

山露で白くなった
ブルーベルの おぼろげな碧色のように、

森の中にも あります。




山緑の中に 私はひくく 横たわりました。

川べりのシダの間に ひくく 横たわりました。



森の中にじっと身をひそめ、

その愛らしく不可思議なものを とらえよう、

しっかり握ってはなさないようにしようと
思いました。



でも それは お日様の光のように、

夢中になってつかもうとする私の手から

すべり出てしまいます。



細かい花粉のように それは粉になってしまいます。

黄金(こがね)色のやわらかい粉、ふっくらとした触感。

でも、、私にとらえることができるのは それだけです。



消えてしまった黄金色のものは 私の手にあり、

風のこの息により、私の髪はゆらいでいます。



なにかが近くで、とても近くで――でも遠くで――

揺れ動いているのを感じます。



色の移ろいゆく尊さの間で かすかに光っている

――衣のふさべり。



おお この衣を着ておられるお方!


もしも その縁(へり)でさえも 

ほとんどとらえることのできないものだとするなら、


その織り主、その着主であられる汝を

どうして見ることなどできましょう。



主よ、汝はどこにおられますか。

おお どうか私に言ってください。

どこにおられますか。




山緑は、黄金色の頭をそむけ、

シダはしりごみし、物悲しそうに立っています。

ちいさな花々は、困惑したような目でこちらを見上げています。



ただ川は――私の川だけは――、

それでも 私を見捨てずにいてくれています。



でも川の奏でる調べは

私の泣き声と混ざっていました。



すると、

ほとんど奥に引っ込んでしまっていたかのような森の
どこからか、


なじみのある あの足音が聞こえてきました。


おお、これは汝の音ですか?


主よ、あなたはどこにおられますか。

おお私に話してください。




すると、、主は言われました。

「来て、見なさい。」




Amy Carmichael, Where Dwellest Thou?
私訳





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インドのアクセサリー店


ビルマに遣わされたアメリカ初のプロテスタント宣教師であるアドニラム・ジャドソンは、この問題を正面からとらえ、母国アメリカにいるクリスチャン女性たちに長い嘆願のレターをしたためました。


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Adniram Judson (1788 –1850) 伝記はココ


1831年10月付のこの手紙の中からは、ジャドソン宣教師の苦悶と、聖潔を求める誠実な思いが伝わってきます。

彼の苦しみは、――イエスさまを信じ、この世の装飾やファッションからも解放されたカレン族の女性たちが、北米から派遣されてくる「着飾った」女性宣教師たちの姿を見て、再び虚栄の穴に落ち込んでしまっているという――宣教地での厳しい現実に対するものでした。

その一部をここに引用したいと思います。

、、あるカレン族の女性がバプテスマを受けたいと申し出てきました。私は彼女にいくつかの質問をした後、「あなたはキリストのために、装飾・アクセサリー類をあきらめることができますか?」と尋ねました。彼女は驚愕していました。

私は福音のスピリットについて彼女に語りました。私は彼女自身の内にある虚栄について語り、それについての使徒の言葉を読み聞かせました。

彼女は何度も何度も、自分のネックレスを見つめていました。、、、そしてしばらくした後、それを静かに外し、言いました。「私はこのネックレス以上に、キリストを愛しています。」

このニュースは広まり始めました。反対する女性たちも数人いましたが、他のクリスチャン女性たちはためらわず、その模範に倣い始めたのです。

Francis Wayland, A Memoir of the Life and Labors of the Rev.Adoniram Judson: Volume II, Philips, Sampson, and Company, 1853



しかしここで嘆かわしい事態が発生しました、とジャドソン宣教師は続けます。


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――すでに母国アメリカで蔓延っている――あのファッションで身を着飾った女性宣教師たちが(ビルマに)到着し、、、私はおびただしいアクセサリー類を目の当たりにしました。

そして、虚栄という悪霊が今、女性宣教師たちの宣教ベースを荒らし回っていることに気づきました。

私はこれに関し、どのように対処すべきか迷いました。またこれに関し、何か行動を起こすにしても、自分はきっと支持されないだろう、いや、支持されないどころか、敵対さえされるだろうと思いました。

そこで個人的に勧告するだけにしました。しかし、勧告してもほとんど効果はありませんでした。

、、私は眠れぬ夜を過ごしました。



、、そしてついに最も恐れていたことが起こりました。

カレン族の人々とアクセサリーの悪について話し合っていた時、一人の現地人クリスチャンがこう言い放ったのです。「私は、あのすばらしい女性宣教師が、首からゴールドのネックレスをさげているのをこの目で見ましたよ」と。

現地の女性改宗者たちは、(そういった女性宣教師たちの)周りに群がり、「この人こそ、栄光に花咲くキリスト教国から来られた真のクリスチャン女性。」と思い込みます。

そして宣教師たちの金や宝石、イヤリング、ネックレス、ダイアモンドやルビーの指輪、手の込んだヘアー・スタイルなどを見、その後、(アクセサリーを使わないよう指導してきた)古臭い聖書教師の方を、とがめるような、そして勝ち誇ったような目つきで見るのです。

そして彼女たちは新鮮な渇望心に燃え、かつて捨て去ったはずの、あのアクセサリー類に再び飛びついていくのです。



そしてジャドソン宣教師は、母国にいる姉妹たちに次のように語っています。

ですから、姉妹のみなさん。あなたは今、暖炉の傍で静かに座っているかもしれません。あるいは礼拝の場を敬虔につくろっておられるのかもしれません。

しかしあなたはその悪い模範により、山を越え、海を越え、このジャングルの僻地まで、「虚栄」という毒をまき散らしているのです。あなたは贖い主の御国が建て上げられるよう、心から熱心に祈っておられます。

しかし軽率にも、あなたは、その行ないにより、悪魔の国を建て上げる介添えをしているのです。





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source


リチャード・バクスターの記事を書き、さらにその当時の歴史を調べていた時、ふとした折に私は、17世紀のピューリタンの女性たちがノーメイク、ノーアクセサリーであったということを知りました。

彼女たちが唯一使用していた「cosmetics」は、石鹸だったそうです。1テモテ2:9-10や1ペテロ3:3-4等の聖句はもちろんそうですが、ピューリタンの教会が断固としてクリスチャン女性のお化粧に反対していた理由の根源には「神のみこころを敬い、受け入れる」という彼らの強い信仰があったようです。

つまり、神様は主権をもって私たち人間をお造りになられた。それゆえ、それぞれの個人は、神がお造りになられたそのままの姿を喜び、尊ぶべきである。しかしもし女性が、メイクアップをするなら、それはその実、神の創造されたありのままの自分の姿・かたちに満足できていないことを意味しており、従って、(間接的にではあっても)神のご意思に抗っていることになる、、と。

(もちろん、異性につまずきを与えない。派手さを避け、質素・つつましさを求めるといった理由もあったようです。)


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初代教会のクリスチャンたちが、当時の豪奢で華美なローマの美容・ファッション文化に真っ向から反対し、妥協することなく、クリスチャン女性たちにノーメイクを勧告していたことは歴史資料からも明らかですが*〔シリーズ4〕を参照してください)、ピューリタンもこの点で初代教会と同じ立場をとっていたことを知りました。

すると、私たちの心に疑問が生じてきます。それならば、、

どうして、現在のプロテスタント諸教会では、その教えがなされていないのでしょう。また、

いつ頃からその教えがなされなくなっていったのでしょうか。



1)と2)について、今私はまだ調べている途中です。

しかし、19世紀に書かれた幾つかの資料を読む中で分かってきたのは、少なくともこの時期までは、講壇で説教者たちが大胆に、女性のメイクやファッションのことについて説教し、世俗文化の流入に必死に抵抗していたということです。

例えばバプテスト教会のチャールズ・スポルジョン(1834-1892)は、次のように説教しています。

真理につく善良な女性たちは、頬紅を塗ったり、イゼベルのように流行を追って、髪を飾り立てたりはしない。こういった女性たちは、そのままの自然な美の内に安らいでおり、その意味で、昨日も、今日も、とこしえまで同じ美を宿しているのだ。

(The Sword and Trowel, vol. 4, pg. 91)



あなたの頬にほんのひと吹きでもチークをはたこうなどと思ってはいけない。そして血色が良いように見せかけたりしてはいけない。そのままのあなたの姿で、素直に来てください。

“Honest Dealing with God,” 1241, Lord’s Day Morning, June 20, 1875



真理は化粧をしない。頬紅をはたかない。もっとも自己を飾り立てていない時にこそ、彼女は真に光彩を放っているのだ。彼女は、虚飾や見せかけ、うわべだけの飾りを拒んでいる。彼女の光栄は彼女自身であり、彼女の美は、彼女自身の全き姿にある。だから、彼女には、けばけばしい装飾など必要ないのだ。

The Sword and Trowel, vol. 1, pg. 118



インドで50年以上、人々に仕えたエミー・カーマイケルは次のように書いています。


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服装

この世とその賞賛に死にます。
そしてあらゆる習俗、ファッション、ならわしに。
へりくだりに導く十字架を憎む、これら全てに死にます。」

こういった言葉はもはや古すぎるのでしょうか。私にはそう思えないのです。

十字架につけられた私たちの主の元に行き、主がこの事についてどのように考えておられるのか訊いてみましょう。

そしてもしこの分野においても、主が私たちに変化を望んでおられるのなら、、主のために、そして私たちがもう少し気をつけることによって、より多くの方々を助けることができるのなら、、。

そして、それにより、私たちの窓が、どんな地上的都市にも向けられず、ただひたすらエルサレムに向けられるのだとしたら、、

それなら、私たちはそれを拒むことなどできるでしょうか。

Amy Carmichael, God's Missionaryより




(その2)につづきます。


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