肉親の情との闘い


しかし私たちの家族はどうなるのでしょう。

まだ救われていない家族や親せきの近くに住んで、彼らに仕えることでやがて彼らが救われる――それこそ、主が望んでおられることではないでしょうか。

Think globally, act locallyというフレーズのごとく、世界の民の救いのために執り成し祈りつつ、実家にいて家族と共に過ごしてはいけないのでしょうか。

父も母も、祖父母もだんだん老いていきます。

彼らはみな私を必要としているのではないでしょうか。親を悲しませることは罪ではないでしょうか、、

そのような悩みをもつクリスチャンにイエス様はおっしゃいました。

「わたしについて来なさい。」しかしその人は言った。「まず行って、私の父を葬ることを許してください。」

すると彼に言われた。「死人たちに彼らの中の死人たちを葬らせなさい。あなたは出て行って、神の国を言い広めなさい。」

ルカ59,60



あなたは出て行って、神の国を言い広めなさい。」

また「主よ。あなたに従います。ただその前に、家の者にいとまごいに帰らせてください」とリクエストしたクリスチャンに対し、イエス様はこうおっしゃいました。

だれでも、手を鋤につけてから、うしろを見る者は、神の国にふさわしくありません。

ルカ9:62b



しかし私たちの家族は、そうはさせません。真っ赤に目を泣きはらし、「お願いだからうしろを見て、こっちを見て!正気に戻って!」とすがりついてきます。

そして「切実なる情」というものすごい力で私たちの良心を真っ二つに切り裂きます。

ここにおいて多くの宣教師は、人生の修羅場を通らされます。

主イエスご自身も、地上での宣教をしておられた時、そういった肉親の情との闘いをされました。

イエスの身内の者たちが聞いて、イエスを連れ戻しに出て来た。「気が狂ったのだ。」という人たちがいたからである。

、、イエスの母と兄弟たちが来て、外に立っていて、人をやり、イエスを呼ばせた。

、、「ごらんなさい。あなたのおかあさんと兄弟たちが、外であなたをたずねています。」と言った。

すると、イエスは彼らに答えて言われた。「わたしの母とはだれのことですか。また、兄弟たちとはだれのことですか。」

そして、自分の回りにすわっている人たちを見回して言われた。「ご覧なさい。わたしの母、わたしの兄弟たちです。神のみこころを行なう人はだれでも、わたしの兄弟、姉妹、また母なのです。」

マルコ3:21、31-35



私は神のためだけに生まれた。キリストは自分の父よりも、母よりも、妹よりも、家族よりも近い存在、いとも慕わしき友である。だから私は喜んでこの方に従っていこう。愛していこう。

ああイエス!私が求めているのはただあなたのみです。クリスチャンとして、奉仕者として、宣教師としてこれから私が通らなければならないすべての道の先駆けとなられた方、それはあなたです。

ヘンリー・マーティン



み言葉なるキリスト
われと ともにますとは
血を分けたる親子も
およばざる つなぎなり




信仰は生死の問題


それにしても、キリストは、聖書の示すとおりに、「私たちの罪のために死なれ、葬られ、聖書に従って三日目によみがえられた」(1コリ15:3,4)のでしょうか。

本当に地獄は、永遠の滅びは存在するのでしょうか。

本当に、「この人による以外に救いはない。わたしたちを救いうる名は、これを別にしては、天下のだれにも与えられていない」(使4:12)のでしょうか。

これらの問いに対して永遠の「Yes」、永遠の「アーメン」を答えた人は、イエス・キリストへの信仰が生死の問題であることを自分に、そして公に宣言することになります。

つまり、そこに人生を賭ける、もう後には引かない、ということです。


苦しむ民の元へ


イエス様のご関心はいつも失われた罪びとにあります。罪と闇の中で苦しむ民にあります。

ですからイエスの御霊を持つ私たちの関心も、失われた罪びとに向かいます。

ああ主よ、どうか私たちがあなたの心を持って滅びゆくこの世界を、この民を見ることができますように。

福音を聞くことなく永遠の滅びに向かいつつある魂の悲惨から目をそむけることなく、私たちが彼らを祈りの内にかき抱き、彼らの元に行くことを熱望するようになりますように。



死の陰に住み、死にゆくわが民。
絶望と飢えに囚われ 泣くわが子ら。

ああ たえまない わが心の悲しみ。


われいざ立ちて、彼らの枷をはずし、
その涙をぬぐわんと欲す。


誰がわれを呼び 彼らに救いをもたらすのか。
誰がわがために行き、わが愛を伝えるのか。


その日をわれ望む
わが子らが生き返るその日を。


歓喜の賛美が天に満ち、
全地をおおう その日を。


고형원, 사망의 그늘에 앉아, 私訳



ーもしこの地上で神に課された使命が自分にあるのなら、
私はどうしても死ねない。

ーキリストの働き以外に、わが人生に他の働きはない。

ーああ、主のために我をことごとく燃焼させたまえ!

ヘンリー・マーティン



愛する兄弟、愛する姉妹、あなたは行きますか。

イエス様の大宣教命令に、心からそして永遠に「Yes」と答えますか。

そしてその道にあなたの人生すべてを賭け、注ぎ出しますか。





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特定の場所や、人、もしくは物など、、一時的な性質のものに愛着を感じ始める時はいつでも、そういったものは私の元から取り去られていった。アーメン!この地上で一介の旅びと、そして巡礼者として生きてゆかんことを。そして私たちが皆、痛ましい変遷のもはや存在しないふるさと――より良い天にある国――に導き入れられんことを。

ヘンリー・マーティン(1781 –1812)
インドおよびペルシャへの宣教師



愛する兄弟姉妹のみなさん、このブログを通してみなさんと交わることができ、とてもうれしく思っています。

さてあさってから宣教の働きのため外に出かけます。5月中旬ごろにまた戻ってくる予定です。

出発に先立ち、私はこのブログを読んでくださっている若いクリスチャンのみなさんにメッセージを残していこうと思います。

☆☆

この世のメディアは毎日のように恐ろしいニュースを流しています。

そしてサタンは私たちの恐怖心をあおり、こうささやくのです。

「ほら、あそこは、住民を食い尽くす地だ。あそこにいる民はみな、背の高い者たちだ。彼らに比べれば、お前たちはいなごのような存在だ(民13:32、33参)」と。

そうすると、私たちは自分を守ることに精一杯になり、弱気になってこう言うのです。「ああ、私たちはあの民のところに攻め上れない。あの民は私たちより強いから」(民13:31)。

こうして民はパニック状態になっていました。

しかしその時、一人の男が立ち上がり、信仰によってこう宣言したのです。

私たちはぜひとも、上って行って、そこを占領しよう。必ずそれができるから。

民13:30



口語訳では、「わたしたちはすぐにのぼって(go up at once)、攻め取りましょう。わたしたちは必ず勝つことができます」となっています。

神の人カレブはここで「そうですねー、えーと、しばらく様子をみて、じっくり祈ってから、どうするのか決めましょう」とは言わず、「すぐに(at once)上って攻め取ろう」と仲間たちを鼓舞したのです。

また各地を巡回していたパウロはある晩、一つの幻を見ました。

ここで夜、パウロは一つの幻を見た。ひとりのマケドニヤ人が立って、「マケドニヤに渡ってきて、わたしたちを助けて下さい」と、彼に懇願するのであった。

パウロがこの幻を見た時、これは彼らに福音を伝えるために、神がわたしたちをお招きになったのだと確信して、わたしたちは、ただちに(immediately, εὐθέως)マケドニヤに渡って行くことにした。

使徒16:9-10



きっと前日までは、パウロの脳裏の中にマケドニアの「マ」の字もなかったと思います。彼としてはビテニヤに行きたかったのです。

しかしイエスの御霊はそれを禁じ(使16:7)、その代りに幻を通して、マケドニア・ミッションが示されました。

その際も、パウロは「えーと、これからじっくり祈って、黙想して、いろいろな方に相談して、fund-raising(宣教基金カンパ)の可能性を検討して、、、」ともたもたすることなく、ただちにマケドニアに渡って行くことにしました。

ガリラヤ湖で網を打っていたシモンとアンデレにも、ある日、突然、生涯を一転させるような出会いと召命が与えられました。

イエスは彼らに言われた。「わたしについてきなさい。あなたがたを、人間をとる漁師にしてあげよう。」

すると、彼らはすぐに(straightway, εὐθέως)網を捨てて、イエスに従った。

マルコ1:17、18



イエスの召しに答えるべく、彼らは少しの躊躇もなく、「Yes!」と即答し、きっぱり仕事をやめ、人間をとる漁師(宣教者)になる道を選び取りました。

日常から非日常へ、安定から(この世的な意味での)不安定、慣れ親しんだ環境から未知の領域へと、彼らは飛び込んで行きました。



つぎに続きます。


宣教地での学びは人生の学びです。

どうしても本の理論だけに傾きがちな私を修正・訓練するために、主は次から次に奇想天外(!)で愛すべき魂を私の周りに送ってくださいました。

そして彼らと共に生きることを通し、私は、一個の人間の信じられないほどのユニーク性、価値を知ると共に、それぞれの魂のたどる霊的旅路、各人に対する主のお取り扱いの無比性に言いようのない感動を覚えてきました。

☆☆

イスラム教の背景を持つ人々との生活レベルでの接触は、その中でも最も尊い気づきや学びの場となっています。

彼らの特異な言動は、「こうだから、こうあるべきなの」という私の固定観念や律儀さを無遠慮にうち壊し、(時にいらだたせ)、、でもそうした先に、全く思いがけず美しい渓谷を見い出すこともしばしばありました。

Iという年若いホームレスの難民がしばらくうちに寝泊まりしていたことがありました。

彼は保守的な都市の中の、これまた保守的な家庭で生まれ育った、保守的なイスラム青年でした。

倫理的にも品行方正で、礼儀正しく、年長者を敬い、神を畏れ、ナマーズ(イスラム教の日々の祈祷)を唱えることに関しても「この家でナマーズを捧げてもよろしいでしょうか?」と私たちに恭しく許可を求めてくるような謙遜な若者でした。

アテネの猛暑とも合わせ、飲まず食わずのラマザン(断食)はさぞかし大変だったろうと思いますが、それでもI君は一人、それを律儀に遵守していました。

でも夕食前には、「えーと、僕にとってこれはエフタール(iftar:断食明けの食事)なので、他の人たちよりも大盛りでお願いします!」とちゃっかり台所にお願いに来るなど、なかなかかわいらしい様子も見せていました。

しかし告白しますが、私は心の中で「彼のような人は一番救われにくいだろう。クリスチャンに囲まれて生活しながらここまで堅くイスラムを貫き通せる人の心に福音は届きにくいだろう」と推測していました。

主よ、それぞれの魂にユニークに働くあなたのみわざを限定し、狭い判断をくだしていた私の不信仰をおゆるしください。

☆☆

ある日、台所で夕食を作っていると、壁を隔てて、マグリーブの祈り(日没の祈祷)を唱えるI君の声が聞こえてきました。

しかしアラビア語での定型の祈祷が終わった後、彼はそこから引き続き、自分の言葉でなにかを切実に祈りはじめたのです。

もちろん、イスラム教徒もオプションとしてそういう自由な祈りをすることもありますが、その時のI君のそれは、なんというか非常に「クリスチャン的」なものを感じさせる祈りでした。

私はメッカの方向を向きミニ絨毯の上に跪いているこの青年の魂に、今まさに聖霊が臨んでいることを感じ、生きて働かれる神の御働きに心がうち震えました。

その後、I君は北ヨーロッパに渡りました。

そしてその地でイエス・キリストに信仰を持ち、洗礼を受けたという知らせを受けました。

☆☆

またRさんがイエス・キリストに信仰告白した時のことも忘れられません。

この方は告白前に、自分をキリストに導いてくれた兄弟に言いました。

「確かにこれまでの私の道は間違っていました。でもそんな中でも神は私に憐れみ深くありました。ですから私は最後にもう一度だけナマーズの祈祷を唱え、これまで私の祈りに耳を傾けてくださった神に感謝と別れを告げたいのです。」

そしてRさんはおごそかに水浄し、メッカの方向に跪き、起き上がると今度は、全身全霊でイエス・キリストに生涯を明け渡す祈りをしました。

現在、Rさんは炎の伝道者となり北ヨーロッパで用いられています。

また十年前、イラクで新約聖書を渡されたFさんは、怒り、それをごみ箱に放り投げました。

その彼も今や、キリスト教会で人々に福音を伝え、美しい信仰詩を書き、涙を流しながら主を賛美しています。

☆☆

生命の誕生と同じで、人の魂の救いも人知を越えた神のみわざであり神秘だと思います。

救いは主のものです。Salvation belongeth unto the LORD.

詩篇3:8a



だからこそ、主は人間の作り出す伝道プログラムや「救いのステップ」といった定式、もしくは個人的な偏見に基づく諸判断を時に大きくくつがえし、それを通して、一人一人の魂の救いがただ主ご自身にのみ属していることを明示してくださるのだと思います。

主はくりかえし、くりかえし、肉の視点で魂を判断することの愚を私に教えてくださっています。またたとい自分の霊的「常識」から外れているようにみえる現象を目の前にしても、先走ったさばきをすることのないよう教えられています。

また主は、魂がどれほどの暗闇や絶望の底にいようとも、すべてを照らすまことの光であるイエス・キリストはその魂の小部屋をも照らし出すことがおできになる――そのことを私に示してくださっています。

そして、そこから上よりの希望をいただいています。

上よりの希望で心が満たされるとき、たといどんなにわずかなきざしであっても、私たちはまわりにいる人々すべての中に御働きの萌芽をみ、失望することなくその人をいたわり、祈りつづけることができると思います。

キリスト教会の迫害者であったサウロを救いパウロとしてくださった主が、今日も永遠の御霊を通し、それと同じみわざを現代のサウロたちの魂になしてくださっていることを覚え、全能の主なる神をほめたたえます。

また宣教が非常に困難だといわれている日本の地においても、同じ御霊がうめきをもって執り成し、一人また一人と魂が主の元に立ち返っていることを覚え、感謝します。

なかなか目に見える結果がみえず、うちひしがれ元気を失っている兄弟姉妹がいましたら、私はその方のために祈ります。

主よどうか、その方が今必要としているものをその方の心に注いでください。

その方の蒔いたみことばの種、愛の労苦の種が、けっしてむなしく地に落ちることなく、やがて芽を出し、青々とした葉を天に伸ばすようになることをその方の心に語り励ましてください。イエス・キリストの御名によってお祈りします。アーメン。


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その9)からのつづき。


実践を伴う愛


そういった目に見える愛を示す美しい二つの実例をここで紹介したいと思う。

一つ目の事例は、第二次大戦直後に、ドイツにあるブラザレンの群れの中で起こった。

教会を統制するべく、ヒットラーはドイツ内にあったあらゆる宗教団体を合併させる法令を出した。

そしてこの問題をめぐり、ブラザレン教会の中で分裂が起こったのだ。

教会の半分はヒットラーの法令を受諾し、残りの半分はそれを拒んだ。

こうしてヒットラーの命に屈した側の教会員たちはもちろん、その後ずっと楽な行程を歩むことができた。

しかし、リベラル諸団体と組織的に合併する中で、次第に、彼ら独自の教理的鋭利さや霊的生活は衰え、弱体化していった。

その一方、合併をこばんだ人々は霊的な強さを保ち続けたが、結果として、非常に多くの人がドイツの強制収容所で命を落とすことになったのだ。

☆☆

こうして両者の間に深刻な感情的軋轢が生じた。

やがて戦争が終わり、彼らは再び顔を合わせることになった。彼らは同じ教理を信じ、一世代以上に渡り、共に働いてきたのだ。

さあ、これからどうなるのだろう。

ある人は自分の父親が強制収容所で死んだことを今でも生々しく覚えており、その一方で、今目の前にいる人々は(ヒットラーの指示通りに合併の道を選んだゆえ)その間、安楽に暮らしていたことを知っているのである。

☆☆

その内に、兄弟たちはこのままの状態ではいけないと痛感するようになった。

そこでついに二つのグループの長老たちは一か所に集まり、修養会を開くことにしたのである。

この話をしてくれた人に私は尋ねた。「それであなたがたは何をしたのですか?」

すると彼は答えた。「ええ、私たちは一堂に会し、それから数日の間、それぞれが自分自身の心を調べることにしたのです。」

すると実際、この期間に、それぞれの心の内に潜んでいたさまざまな感情が深く、深く取り扱われたのだ。

「私の父は強制収容所に送られ、母は無理やり引き離されました。」――こういった事は感情の中にあるもののごく一部にすぎなかった。それらは実に、人間の諸感情の深い源泉にまで到達していったのである。

しかし彼らはここにおいて、キリストの掟を理解し、数日の間、各人がただひたすら自分の心と向き合い、自分自身の失敗や過ち、そしてキリストの掟について黙想したのである。

その後、再び彼らは一堂に会した。


私は彼に訊ねた。「それでどうなりましたか?」

彼は言った。「私たちはその時点ですでに一つとされていたのです。」


これこそまさにイエスが語っておられることではないだろうか。

そう、御父はたしかに御子を遣わされたのである!


分かれても一つ


諸事情により、もはや共に働くことのできなくなった二つの新生信者たちのグループが、お互いにひどい言葉をぶつけ合うことなく平和的に分離する――私は長年、そのことを望んできた。

また二つの群れが、組織的一致を続けていくことがもはや不可能となったことを悟った後もなお、互いの間に存在する愛をこの世に示し続けていく姿を私は待望してきた。

ここで話している原則は普遍的かつ、どの時代・場所においても適用されうるものである。

それでは二番目の事例を話そう。――今回の例は、同じ原則の異なる実践ヴァージョンである。

☆☆

最近、アメリカ中西部の大都市にある教会で、ある問題が生じた。

「現代的な」人々がその教会には多く通っていたのだが、そこの牧師は次第に、教会内に存在する二つのグループを同時に牧会していくことに困難を覚え始めたのだ。

「他の牧会者ならできるかもしれないが、私個人には、――長髪の人々や彼らが連れてくる『個性的な』人々と同時に、教会近郊に住む人々に仕えていくことはできない」と彼は感じた。

その後も長い間、共に働くことができるよう試行錯誤をつづけた末についに、長老たちは集まり、教会を二つにする決断を下したのである。

そして彼らは「私たちが分離するのは、教理が異なるからではなく、あくまで教会運営の実際性(a matter of practicability)を考慮した結果そうするのです」ということを明確にしたのだ。

旧来の群れの一人が新しい群れに行き、こうして彼らは秩序ある移行が完了するまで、その間ずっと共に働いたのであった。

こうして彼らは二つの教会となったが、その後も意識して、互いに対する愛を実践しようとしているのである。

ここに私たちは、組織的な一致なくして、尚且つ真実なる愛と一致を見るのだ。

そしてそれはこの世がはっきりと見て取れるものである。

そう、御父はたしかに御子を遣わされたのだ!


ただ一つのまことの標(しるし)


ここで再び、クリスチャンの標について実に明瞭に指し示している聖書箇所を読んでみよう。

わたしは、新しいいましめをあなたがたに与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。互いに愛し合うならば、それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての者が認めるであろう。

ヨハネ13:34-35



父よ、それは、あなたがわたしのうちにおられ、わたしがあなたのうちにいるように、みんなの者が一つとなるためであります。すなわち、彼らをもわたしたちのうちにおらせるためであり、それによって、あなたがわたしをおつかわしになったことを、世が信じるようになるためであります。

ヨハネ17:21



それでは以上のことから何が結論づけられるのだろう。

そう、良きサマリヤ人が傷を負った男を愛した如く、クリスチャンとしての私たちも、すべての人を隣人として愛すよう召されているのだ。

そして二番目に、私たちはこの世にはっきりと分かる形で、真のクリスチャンである兄弟たちを皆、愛さなければならない。

これは自分たちの間に――事の大小にかかわらず――相違点や食い違いがある時においても、それでも相手を愛し続けていくことを意味する。

たといそれが私たちに何らかの犠牲を伴わせるものであったとしても、そして、そのために自分が非常な精神的葛藤の下におかれているその時でさえも――尚、相手の兄弟たちを愛し続けていくことを意味する。

そしてこの世が見ることのできる形で彼らを愛し続けていくのである。

要約しよう。私たちは神の神聖さと神の愛、この両方を実践し、示していかねばならないのだ。

なぜなら、これなしには私たちは御霊を悲しませてしまうからである。

愛――そしてそれを立証する一致――は、この世の前で付着するよう、キリストがクリスチャンにお与えになった標(しるし)である。

そしてただこの標によってのみ、この世は、「クリスチャン」という人たちが本当にクリスチャンであり、イエスが御父から遣わされた方であることを知るのだ。



ー完―




その8)からのつづき。



違いの「違い」


自分の兄弟の誤りや過失に加担(share:共有、同意)することなく愛を示す五番目の方法――それは、私たちが、

1)妥協してしまい、誤りを是とみなすようになる事が大いにあり得ると同時に、

2)キリストにある一致を示すことも往々にしてないがしろにされやすい。



という二点を認識し、たえず意識的にこのことを覚え、互いに注意し合い助け合うことである。

そしてこれは真のクリスチャンの間に意見の相違が起こる前に、言及しておくべき内容である。

――自分たちを見つめる世の前で――真のクリスチャンたちが、いかに実際的な形で神の神聖さに対する忠誠を示すと同時に、神の愛に対する忠誠を示していくことができるのか?

ありとあらゆる種類の会議が開かれるが、こういったテーマに取り組むクリスチャンの集まりがいったいどれほどあるだろう。

また、1)教理と生活における(可視的)教会の聖さを実践していく上での原則、2)すべての真のクリスチャンの間における目に見える形での愛および一致を実践していく上での原則、こういう一見して相反するようにみえる二つの原則を入念に提示しているような説教や書籍はどこにあるだろう。

☆☆

私たちを見つめる世の前で、意見の相違にもかかわらずこういった目に見える愛が表されていく時、クリスチャンの取り扱う「相違」と、世の人々の取り扱う「相違」との違いが浮き彫りにされるのだ。

この世はおそらく、何のことでクリスチャンたちが互いに意見を違わせているのか理解しないだろう。

しかし彼らはこの世の「食い違い・相違」とクリスチャンのそれとの間の違いをすぐに見抜くのだ。

――そう、実際的なレベルにおいて、もしもそういった私たちの相違点が、目に見える率直な愛の中で取り扱われているのをこの世が目の当たりにするなら、である。

☆☆

たしかにここに違いがあるのだ。

なぜ「この世が注目するのは実にこの点なのだ」とイエスは言われたのだろうか?

教理的違いをこの世に理解してもらうことは望むべくもない。

特に今日においてはなおさらそうである。というのも、現代のこの世においては、まことの真理や絶対的なものの存在自体が――概念としてでさえ――あり得ないものとして捉えられているからである。

また、「神の神聖さに基づき、私たちには、この世とは違う種類の『意見の相違』があるのです。なぜなら、私たちは神の絶対性を取り扱っているからです」と私たちが世に言ったところで、この世はそういった事を理解してはくれない。

しかし意見を異にしながらも尚、互いの間に存在する一致を私たちが示していくその時、彼らは、キリスト教の真実性および、「御父が御子を遣わした」というキリストの言葉について真剣に考え始めるだろう。

そしてその時こそ――つまり、私たちの間に意見の相違があるその時こそ――平穏な時以上に、ここでイエスの語っておられる事を世に示すことができるのだ。

☆☆

とは言え、もちろん、あえて互いの違いを見つけ出そうとはすべきでないし、それに、努力して探さなくとも、相違点というのはもうすでに互いの間に十分すぎるほどある。

しかしそういう意見の相違のただ中にあって、私たちはすばらしい機会を見出すことができるのである。

すべてが順調にいき、皆が皆、小さなサークルの中にきちんと納まっている時には、この世は別段私たちに関心を持っているわけではない。

しかし、いざ私たちの間にまことの相違が生じ、その中で私たちが妥協のない原則を示しつつも同時に、目に見える形で愛を示していくなら、その時、この世は私たちの間に「なにか」を見るのである。

そして「この人たちは本物のクリスチャンであり、本当にイエスは御父から遣わされた方なのかもしれない」と、彼らはその「なにか」を通し、そのように判断していくだろう。




(最終回)につづきます。







(その7)からのつづき。



犠牲の伴う愛


三番目に、私たちはこういったディレンマの最中にあって、――たといそれが犠牲を伴うものだとしても――実際的な愛を示していかねばならない。

愛という言葉が単なるスローガンであってはならない。

つまり、たとえどんな代価を払うことになろうとも、この愛を示すべく、為されるべきことは万事を尽くし為されなければならないということである。

口先で「愛しています」と言っておきながら、その後、相手を攻撃するような真似は断じてしてはならない。


そして聖書はこういったことを許してはいない。1コリント6:1-7には次のように書いてある。

6:1 あなたがたの中のひとりが、仲間の者と何か争いを起した場合、それを聖徒に訴えないで、正しくない者に訴え出るようなことをするのか。

6:2 それとも、聖徒は世をさばくものであることを、あなたがたは知らないのか。そして、世があなたがたによってさばかれるべきであるのに、きわめて小さい事件でもさばく力がないのか。

6:3 あなたがたは知らないのか、わたしたちは御使をさえさばく者である。ましてこの世の事件などは、いうまでもないではないか。

6:4 それだのに、この世の事件が起ると、教会で軽んじられている人たちを、裁判の席につかせるのか。

6:5 わたしがこう言うのは、あなたがたをはずかしめるためである。いったい、あなたがたの中には、兄弟の間の争いを仲裁することができるほどの知者は、ひとりもいないのか。

6:6 しかるに、兄弟が兄弟を訴え、しかもそれを不信者の前に持ち出すのか。

6:7 そもそも、互に訴え合うこと自体が、すでにあなたがたの敗北なのだ。なぜ、むしろ不義を受けないのか。なぜ、むしろだまされていないのか。



これは何を意味しているのか。

教会は悪をそのまま見過ごしにしてはいけない。

しかし、クリスチャンは他の真のクリスチャンを訴訟するよりはむしろ、――真のクリスチャン同士が持つべき一致を示すべく――実際的、そして金銭的な損失をも甘受すべきであるということなのだ。

なぜなら、相手のクリスチャンを訴え出ることはとりもなおさず、私たちをじっと見つめている世の前で、こういった目に見える一致をぶち壊すものだからである。

これは犠牲を伴う愛である。

しかしこの世に顕され見ることのできる愛というのは、実践を伴うそのような愛をおいて他にはないのである。

☆☆

パウロはここで目に見えるなにか、実にリアルな形でのなにかについて語っている。

つまり、一キリスト者は、自分の兄弟との間の不可避的意見の食い違いがある最中にあっても愛を示す必要があり、その愛が彼をして損失をも自ら進んで甘受せしめるのだと。

またその損失とは金銭的なものだけにとどまらず、あらゆる種類の損失を含むのだ。

(しかし残念なことに、大半のクリスチャンは事がいざ金銭がらみになると、とたんに愛も一致も何もかも忘れ去ってしまうようにみえる。)

☆☆

さて、自分たちの兄弟の誤りや過失に加担(share:共有、同意)することなく愛を示す四番目の方法であるが、それは、相手を打ち負かそうという動機ではなく、なんとか問題を解決したいという願いを以てアプローチすることである。

負けたい、敗北したいと思う人は誰もいない。

実際、神学者ほど、何が何でも勝利を得たいと熱望している人々はいないだろう。

神学の歴史は、――勝利をめぐっての――こうした小競り合い史であると言っても過言ではない。

☆☆

しかし私たちが肝に命じておかなければならないのは、こういった相違点をめぐっての私たちの働きはあくまで「解決」を求めての取り組みであるということだ。

――そう、神に栄光を帰し聖書に忠実な解決、そして尚且つ、神の「神聖さ」と「愛」、その両方を示していくという解決である。

意見の相違について自分の兄弟と話し合う時、あるいはグループの一員として他のグループと話し合う時、その時、私たちの態度はどんなであろう。

もしそこに愛を求める願いがあるなら、私たちは相違点について議論する際にも、単に自分たちの正当性を明かしたいという思いだけでなく、解決を求める願いをもそこに見いだすことだろう。



(その9)につづきます。





その6)からのつづき。



クリスチャンの間で意見の相違がある時


しかしながら、私たちがキリストにある他の兄弟たちとどうしても意見を異にしなければならない状態になった時、――教理において、また生き方の面において、神の神聖さを表さなければならない状況にさらされた時――、その時、私たちはどうすればいいのだろう。

生き方や生活に関する事柄において、パウロはコリント人への手紙第一と第二の中で、はっきりとバランスを示してくれている。同じことが教理の領域にも適用されるだろう。

まず、1コリント5:1-5の中で、パウロはコリント教会を叱責している。

――なぜ戒規することなく、不品行の罪を犯し続けている者を教会にとどめているのかと。

神の神聖さゆえ、そして教会をじっと見ているこの世に対しこの神聖さを示すという必要性ゆえ、そして啓示された神の掟を基としたそのような裁きは神の御目に正しいことであるゆえ、パウロはこの人に戒規を行使しなかった教会を叱責しているのだ。

☆☆

そして彼らがこの人に対し戒規を施した後、パウロは再びⅡコリント2:6-8の中で彼らに手紙を書き、今度は、彼らがこの人に愛を示していないことで彼らを叱責しているのだ。

この二つの事は合わせて考えられなければならない。

私はパウロが最初の手紙と二番目の書簡の中でこのように手紙を書いたことを感謝している。

なぜなら、ここで私たちは時間の経過をみることができるからだ。

コリントの人々はパウロの助言を受け入れ、実際にそのクリスチャンを戒規し、そして今パウロは彼らに書き送っているのだ。「あなたがたは確かに彼を戒規している。しかし今彼に愛を示したらどうか」と。

また彼は手紙を続け、イエスの御言葉を引用しながら次のように言うこともできたかもしれない。

「あなたがたを取り巻くコリントの異教徒たちに、『イエスは御父から遣わされなかった』と言われて当然ではありませんか。というのも、あなたがたはきちんと戒規処置を施したあの人に対して愛を示していないからです」と。

☆☆

ここで非常に重要な問いが持ち上がってくる。

「私たちはいかにして、相手の誤りや過失に加担(share:共有、同意)することなく、尚且つ、キリストの命じておられる一致を示していくことができるだろうか。」

私はここで二、三の方法を提示したいと思う。

それにより、自分たちが意を異にしなければならないラインを超えた所にあってさえも、引き続きこの一致を実践し、示していくことができればと願う。


遺憾の念


まず第一に、私たちは、真のクリスチャンたちとの間のそのような相違に対峙しなければならなくなった際、遺憾の念なしにそれらを行なってはならないということである。

単純なことのように聞こえるかもしれない。

しかし福音主義クリスチャンはしばしこの点で失敗している。

私たちはここぞとばかりに――そして多くの場合、非常に嬉々としつつ――相手側の誤りや荒探しをするのだ。

そして相手側をけなし粉砕することによって、自らを打ち建てようとする。

そしてこのような姿勢からは決してクリスチャンの間の真の一致は見い出し得ない。

☆☆

真のクリスチャン同士の間で、やむを得ぬ意見の対峙があった場合、この世の目に私たちは次のように映る必要がある。

つまり、私たちが互いに対峙しているのは、自分たちが血の臭い、円形闘技場の臭い、闘牛の臭いを愛好しているからではなく、ひとえに神のためにそうせざるを得なくなったからなのだと。

そしてどうしても声を挙げなければならなくなった際、そこに涙が伴うなら、その時そこに美しいなにかが見いだされるかもしれない。

☆☆

二番目に、真のクリスチャン同士の間の問題の深刻さに比例し、私たちは意識してこの世に可視的な愛を示していくことが大切である。

クリスチャン間に存在する相違点すべてが同質という訳ではない。

いたってマイナーな違いもあれば、きわめて深刻な相違というのも存在する。

間違いや誤謬が深刻であればあるほど、神の神聖さをはっきりと示し、何が間違っているのかを公に指摘することがますます肝要になってくる。

それと同時に、そういった相違点が深刻化していけばいくほど、私たちはますます、相手側の真のクリスチャンたちに対し愛を示していくことができるよう聖霊に寄り頼んでいく必要がある。

もしこれがささいな違いであれば、愛を示していくことはさほど深慮するに及ばない。

しかし相違点が非常に深刻なものとなるなら、それに比例し、神の神聖さゆえに、ますます大胆に声を挙げていくことが重要になってくる。

そしてその時点においても、私たちは依然として互いに愛し合っているということを世に示していくことがより一層肝要になってくるのである。

☆☆

それゆえ、次のことを考えてみよう。

キリストにあるあの兄弟と私との間に横たわる相違点は本当に深刻きわまりないものだろうか。

もしそうなら、なおさらのこと、私は主の前に跪き、「私や私の属する群れを通し、主よ、あなたが働いてください」と御霊に、そしてキリストに祈り求めることが重要だ。

そうすることにより、私(私たち)は、キリストにあるあの兄弟もしくは、他のグループに属する真のクリスチャンたちとの間に生じたこういう大きな相違のただ中にあっても、依然として彼らに愛を示していくことができるのである。



(その8)につづきます。









その5)からのつづき。



赦し


しかし目に見える形での愛というのは、「ごめんなさい」と謝ること以上のものである。

そこには公の赦しというのもまたなければならないのだ。

人に謝罪することはたやすいことではない。しかし人を許すことにはそれに輪をかけた難しさがある。

しかし「この世は神の民の間にこうした赦しの精神を見なければならない」と聖書ははっきり言っているのである。

☆☆

主の祈りの中で、イエスは私たちに次のような祈りを教えておられる。

わたしたちに負債のある者をゆるしましたように、わたしたちの負債をもおゆるしください。



もちろん、この祈りは救いのためのものではない。また私たちはただキリストの成し遂げられた御業ゆえに新生したのであるから、この祈りは新生とも無関係である。

しかし、これはクリスチャンの持つ、神との実存的にして毎瞬間の経験的関係にたしかに関わるものである。

私たちは義とされるべく一度限りにして永続する(once-for-all)赦しが必要であると共に、キリストの御業を基とした罪のための赦し――瞬間瞬間(moment-by-moment)の赦し――をも必要としている。

それにより神との開かれた交わりを持つためである。

主が教えてくださったこの祈りは、日々の生活の中で、私たちクリスチャンを非常に厳粛にせしめる。

なぜなら、私たちは他の人々を赦しつつ、ご自身との交わりの経験的リアリティーを自分たちに示してくださるよう、主に祈り求めているからである。

☆☆

「主の祈りは今の時代に向けられたものではない」と言うクリスチャンも中にはいるが、私たちの大半は、それが自分たちにも向けられていることを信じている。

しかしそうでありながらも、私たちは、自分に対する神の赦しに比べ、自分にはいかに赦しの心が欠けているかということについてほとんど考えてみようとしない。

確かに多くのクリスチャンは毎週の礼拝時、形式的に主の祈りを唱えてはいる。

しかし「なぜ自分には、神との交わりにおけるリアリティーが欠けているのか」という問いを、人への赦しに欠ける自分の姿と結びつけて考えてみる人はほとんどいないのである。

☆☆

私たちは、本来持つべき赦しの心に生きていないという事実を絶えず認識する必要があると思う。

しかし依然として祈りは、「わたしたちに負債のある者をゆるしましたように、わたしたちの負債をもおゆるしください。」である。

また私たちは相手が自分の非を認め謝罪してくるのを待つまでもなく、それ以前にすでに赦しの心を持っていなければならない。

「相手に反省の色がみられた後、あなたがたは赦しの精神をもって相手に歩み寄りなさい」とは、主の祈りは提示していない。

そうではなく、相手がまだ最初の一歩さえ踏み出すこをしていない時点で、赦しの精神を持つよう私たちは召されているのだ。

もちろん、今もって私たちは彼が悪いと言うかもしれない。

しかし「彼に非がある」と言っているその最中にあってさえ、私たちは彼を赦し、赦しつづけなければならないのだ。

☆☆

もちろん私たちは、この赦しの精神をクリスチャンに対してだけでなく、すべての人に持つべきである。

しかし、もしそれがすべての人に向けられているものだとするなら、それがクリスチャンに向けられていることはやはり重要なことだと言わざるをえない。

そのような赦しの精神は、他者に対する愛ある態度として外に表れ出る。

しかしたといそれが「姿勢」と呼ばれるようなものであったにしても、やはり依然として、真の赦しは目に見えるなにかである。

信じてほしい。――赦しに関する限り――その人の顔をみるだけで、私たちは彼が現在どこにいるのかが分かるのだ。

そしてこの世は、はたして私たちが自分の派やグループを超えた愛を持っているのか、自分の主義・陣営を超えた愛を持っているのかを観察するよう求められているのである。

彼らは私たちの内に、謝罪し、赦す精神を見い出すことができているだろうか。

繰り返して言わせていただきたい。

私たちの愛は今もこれからも完璧なものではない。

しかしそれはこの世が観察することのできる実体を持ったものでなければならないのだ。

そうでなければ、ヨハネ13章と17章で語られている聖句の構造に符合しない。

そしてもしこの世がそれを真のクリスチャンの間に見いだすことができないのなら、これらの聖句の示す二つの恐ろしい裁きを下す権利がこの世には与えられているのである。

――そう、私たちはクリスチャンではなく、キリストも御父から遣われた方ではないと。



(その7)につづきます。





その4)からのつづき。



まことの一致


ヨハネ13章と17章において、イエスは、すべての真のクリスチャンの間での、真に目に見える形での一致、実践する一致、あらゆる境界線を超えた実際的な一致について語っておられる。

キリスト者には実に二重の責務が課せられているのだ。

私たちは神の神聖さ神の愛、その両方を実践しなければならない。

神が無限にして個人的な(infinite-personal)方として存在しておられることを世に示さねばならず、それと同時に、聖さと愛という神のご性質をも表していかなければならない。

愛なしの神聖さではない。――それはただの冷厳にすぎない。

また神聖さなしの愛でもない。――それはただの妥協にすぎない。

御言葉およびキリストの教えによれば、表される愛というのは、非常に強烈なものでなければならない。

そしてそれは、時折、ただ口先だけで言うような種類のものではないのだ。


可視的な愛


それでは、この愛とは何を意味しているのだろうか。

どのようにすれば、それは可視的なものになるのだろうか。

まず第一に、これは非常にシンプルなことを意味する。

つまり、私が過ちを犯し、自分の同胞クリスチャンを愛すことができなかった時に、彼の所に言って、「ごめんなさい」と謝ることである。

これがまずやるべき事である。

「こんなに単純なことが第一のもの?」と期待外れに思った方がいるかもしれない。

しかしそれがたやすい事だと思ったのなら、あなたはまだそれを真剣に実践しようとしたことがないのかもしれない。

内輪のグループの中で、クリスチャンの集いの中で、あるいは家庭の中でさえ、お互いに対する愛に欠けていたことに気づかされる時、クリスチャンとして私たちは自動的に相手の所に行き、「ごめんなさい」と言うだろうか。

そう、もっとも身近なレベルであってさえも、それは決して容易な事ではないのだ。

☆☆

「ごめんなさい」そして「赦してください」と言う事。

こんなことは当たり前過ぎるのだろうか。

しかし実際はそうではない。

夫と妻の間であれ、親子、クリスチャンの集まり、ないしはグループ内の関係であれ、それは回復されし交わりへの道なのである。

相手に十分な愛を示すことができなかった時、私たちは相手の所に行き、「ごめんなさい、、、本当にごめんなさい」と謝るよう神に呼ばれているのである。

☆☆

私が誰かに対して過ちを犯し、しかもその彼を愛していなかった場合、そして彼に「ごめんなさい」と謝りに行くことを自分が拒む時、そんな時私は、「世の人が見ることのできるクリスチャンの一致」という意味について、考え始めることさえ未だしていないのかもしれない。

そんな自分がはたしてクリスチャンなのかとこの世がいぶかしがるのも不思議ではなく、世の人には実際、そのような疑問を抱く権利があるのである。

それだけでない。

繰り返して言うが、もし私がこんな初歩的なことの実践をさえ拒むなら、その時、世の人は、「イエスは、はたして神から遣わされたのか」、「キリスト教はほんとうに真理なのか」と疑問を投げかけて当然なのである。

☆☆

これまで多くの国で、真のクリスチャン同士の間にもちあがる相違点をめぐったいざこざを私は目の当たりにしてきた。

真のクリスチャンという個々人や群れを分裂させ、隔てているもの、――20年、30年、40年経ってもまだ癒えないわだかまりや苦々しさを残しているもの――これは、教理や信条の相違がもともとの原因ではないのだ。

そう、例外なくきまって、その原因は、愛の欠如――そして、相違点をめぐる議論のさなかで相手側の真のクリスチャンから言われたひどい言葉――にあるのだ。

そして投げつけられたそういう言葉は、私たちの脳裏にこびりついて離れようとしない。

歳月が経ち、そういった相違点がやや緩和されたかにみえる時であっても、そこには、(公明正大な話し合いの場だと思っていたあの時に)私たちが相手に言い放った、辛辣でむごい言葉の数々が依然として残っているのである。

そしてこれが――こういった愛のない態度や言葉――が、イエス・キリストの教会に悪臭を放たせ、この世はそういった「本物のクリスチャンである人々」の間に漂うその悪臭に気づくのだ。

☆☆

真のクリスチャンとして、私たちはどうしても同意できないと感じる時があるだろう。

しかしそんな時であっても、私たちは舌を制御し、もっと愛をもって語れたのではないだろうか。

そうしたならば、わだかまりや苦々しさは5年や10年のうちに消えてなくなっていたかもしれない。

しかし私たちはそうする代わりに、相手の内に傷跡を残していくのである。

――そう、何世代にもわたって続く呪いを。

そしてこの呪いは教会内だけにとどまらず、この世における呪いともなっていくのである。

☆☆

そんな私たちを見て、この世の人々は身をすくめ、そして立ち去ってしまう。

この世は、死にゆく文化のただ中にある生ける教会の始まりさえ見ていないのだ。

そしてこの世は、イエスの最後の弁証――キリストにある真の兄弟である、本物のクリスチャンの間に可視的にみられる一致――の始まりさえ見ていない。

真のクリスチャンの間に存在する相違点そのものではなく、むしろ、辛辣な舌、私たちの間の愛の欠如こそが、この世にひどいつまずきを与えているのだ。

そしてこれはイエス・キリストのまっすぐで直接的な掟からなんと隔たっていることだろう。

――そう、私たちのことをじっと見ているこの世に分かる形で、はっきりと観察されうる一致を表していきなさいというイエスのあの掟から。




(その6)につづきます。




その3)からのつづき。



「一致」に対する誤った考え


しかしこの「一致」が何を意味するのかについて、ここで明確にしておきたい。

それではまず、それに関する誤った考えを取り除いていくことから始めよう。

第一に、イエスが語っておられる一致というのは、単なる組織的一致ではないという点だ。

その古典的な例は、歴代のローマ・カトリック教会である。

ローマ・カトリック教会はこれまで偉大な外面的一致を保ってきた。

おそらくこの世界に存在してきた団体のうち、これほどの外的・組織的一致を保ってきた団体はかつて存在しなかっただろう。

しかしそれと同時に、この教会の中には、巨大にして憎悪に満ちた内部権力抗争――これが今までずっと続いてきた。

今日においても、古典的ローマ・カトリシズムと、漸進的ローマ・カトリシズムの間には相当の違いがみられる。

ローマ・カトリック教会は今もなお、組織的一致の中に立とうとしてはいるが、それは単なる組織的団結にすぎない。

なぜなら、そこには二つの完全に異なる宗教、二つの異なる神概念、二つの異なる真理概念が存在するからである。

☆☆

そしてまさしくそれと同じことが、プロテスタントのエキュメニカル運動についても言えるのだ。

イエスの言葉を根拠に、組織的に人を連合させようという試みであるが、そこに真の一致はない。

なぜなら、そこには二つの全く異なる宗教――

1)聖書的キリスト教、そして

2)「キリスト教」(しかし実のところ、これはキリスト教では全くない)



が入れ混じっているからだ。

それゆえ、組織的一致のために一生涯をそこに投資した挙句、でも実際には、イエスがヨハネ17章で語っておられる領域には全く至っていなかった、ということも大いにあり得るのだ。

☆☆

キリストがここで語っておられる一致を「組織的なもの」と解釈できない理由はまだ他にもある。

そう、ここでイエスは、「みんなの者が一つとなるため」という聖句通り、――すべてのクリスチャンが一つとならなければならないと言っておられるのだ。

この世に散らばっている新生したクリスチャン全てを含んでいる組織的一致というのはもちろん存在し得ない。

それは全く不可能な話である。

例えば、新生した真のクリスチャンの中には、どの組織にも属していない人々がいる。

また迫害によって外界から遮断された所に置かれている真のクリスチャンたちを一つの組織がいかに網羅できるというのだろう。

組織的一致というのが答えでないことは明らかである。

☆☆

また一致に関する誤った概念は他にもある。

この見解は福音主義クリスチャンがしばし自身の隠れ家としてきたものである。

彼らは言う。「イエス様がここで言っておられるのは、もちろん、目に見えない教会の神秘的結合についてですよ」と。

そして彼らはそれで一件落着とばかりに、それ以上はもう何も――もう一切何も――考えようとしないのである。

☆☆

神学的な用語にはもちろん、「可視的な教会」と、「不可視的な教会」という二語が存在する。

そして後者の「不可視的な教会」というのが真の教会(Church)であり、ある意味、唯一大文字のCで綴る権利を有する教会である。

なぜなら、それは、キリストを救い主として信じ受け入れてきた全ての信仰者で構成され、最も重要なものであるからだ。これこそキリストの教会(Church)である。

クリスチャンになり、キリストを信じた瞬間、人はこの(目に見えない)教会の一員になる。

そしてそこには他の全てのメンバーとその人を結ぶ神秘的一致というのが存在するのだ。それはその通りである。

しかしイエスがヨハネ13章および17章で言及しておられるのは、そういう意味における一致ではない。

なぜなら、目に見えないこの一致は、私たちが何をしたところで、決して壊され得ないものだからである。

それゆえ、ここでのキリストの言葉を、不可視的な教会の神秘的一致に関連づけることは、とりもなおさず、キリストの言葉を意味のない空言にしてしまうことに他ならない。

☆☆

三番目の点であるが、イエスはここでキリストにある私たちの地位的一致(positional unity)についても言及はしておられない。

もちろん、キリストにある地位的一致は存在するし、キリストを救い主として信じ受け入れた時点で私たちには、一つの主、一つのバプテスマ、一つの誕生(そして二度目の誕生)が与えられ、私たちはキリストの義を着るようになるのだ。

しかしそれはここでの要点ではない。

福音主義クリスチャンが、目に見えない教会の概念やそれに関連するその他の「一致」の概念の中に逃げ込もうとする姿勢は望ましくないと思う。

ヨハネ13章と17章の中の聖句を、ただ単に、不可視的教会の存在とだけ結びつけて考えることは、イエスの言明をナンセンスなものとしてしまう。

そう、イエスが何か可視的なものについて語っておられたと理解しない限り、私たちは事実、イエスの言っておられることをなぶり物にしてしまう結果にさえなってしまうのだ。

これが主要点である。

つまり、この世は、はっきりと観察される形での何かを根拠に、イエスが御父によって遣わされた方であるか否かを判断するのである。



(その5)につづきます。