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「専業主婦(せんぎょうしゅふ)」ということばがあります。

「主婦」であることを「専ら」の「業」にする女性のことを指していう語です。

結婚して家にいるようになってしばらく経ちましたが、私は未だにこのことばを自分の世界に迎え入れることをためらっています。

☆☆

「専業主婦」。ああ、なんと夢のないことばでしょう!

四角張っていて、いかめしそうで、、それで、、私にはだめなのです。

漢字が無機質に四つ並んでいて、その中に自分が入り込まなければならないのかと思うと、がっくりうなだれてしまいます。

この中にいては、歌いながら洗濯物を干したり、ルンルンと楽しく床を掃いたりできそうもないのです。

(そう感じるのは私だけなのでしょうか?みなさんはどうですか?)

☆☆

私は家にいて、創造的でdreamyな家庭づくりをしたいと思っています。

上の空になってへまをする時もしばしばありますが、日々の小さな営み一つ一つの中にいろんな夢を見いだし、美しい神さまの創造を喜びながら毎日を生きていきたいです。

そしてねがわくば、この家を訪れてくださるみなさん誰もがほっと安心できるような、そんなやさしいsanctuary(空間)がそこから生み出されていきますように。


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親愛なる日本メノナイトブラザレン教団のみなさまへ

(および日本メノナイトブラザレン教団 福音聖書神学校の先生方へ)




主の御名を賛美します。

私はメノナイトの歴史や信仰のあり方にとても共感を抱き、これまでこのブログ上でも彼らの証しなどを積極的に取り上げてきました。

さて、愛する兄弟姉妹のみなさん、私は、貴教団が、今年の3月19日に行われた教団協議会において、信仰告白を改正し、その際に、これまでの教団の基本方針を変え、女性教職を承認するという新決定をされたことを知りました。(『クリスチャン新聞』2016年4月17日号二面)

どのような経緯の末「女性教職承認」という新決定がなされるに至ったのか、まったく存じ上げておりませんが、この知らせを受け、私の心は悲しみに沈んでしまいました。

福音主義フェミニズムの影響を受け、昨今、聖書信仰の教団内でも、女性教職を認める教団が増加しております。

そんな中、貴教団は2016年3月に至るまで、その潮流に抗し、あくまで聖書に忠実であり続け、教職の門戸は男性の方々だけに開いていたとうかがっております。

だからなおさらのこと、私は今回の貴教団の方針変更の報に接し、心うちひしがれております。

また、クリスチャン・トゥデイ誌にて、次のような記事を読みました。

審議委員長を務める武田信嗣牧師(武庫川キリスト教会)は、「最近の福音派の聖書信仰の枠内での告白であることには変わりがないが、従来の福音派色の強い信仰告白から、再洗礼派を源流とするメノナイトの流れを踏まえつつ、聖書的・宣教的・平和的という日本MBの三つの特色を前面に出した新しい信仰告白となっている」と説明する。



もしも「従来の福音派色の強い信仰告白から、再洗礼派を源流とするメノナイトの流れを踏まえること」が、今回の信仰告白改正の主要因の一つであったのなら、それならなおさらのこと、ジェンダー・フェミニズム問題に関し、歴代の聖書主義メノナイト教徒が貫いてきたような妥協のない姿勢を、私は貴教団の決定の内に見たかったです。そして今も「見たい」と熱望しています。

以前に私は次のような記事を書きました。

① 福音主義フェミニズムは、リベラリズムへの新しい街道?〔価値観の変異〕

② 「リベラリズム」と、「女性牧会職についてのフェミニズム的見解」との間にみられる相関性について――アメリカ福音教会の女性牧師是認の歴史から見えてくるもの



前者の記事では、ある教団が、福音主義フェミニズムに屈し、「女性教職承認」という最初の第一歩を踏み出す。――それが、リベラリズムへの新しい街道になっていることについて考察いたしました。

それをチャートにすると以下のようになります。

段階1) 聖書が誤りのない神の言葉であることを否定する。


段階2) 女性を牧師として是認する 


段階3) 結婚における男性のリーダーシップ(headship)に関する聖書の教えを破棄する。


段階4) 女性の牧師叙任に反対の声を挙げる牧会者たちを教団から締め出す。


段階5) 「あるケースにおいては、同性愛行為は、倫理的に妥当なものである」とする。


段階6) 同性愛者を牧師として是認する。


段階7) 同性愛の牧会者を、教団内のトップ(high leadership)に任命する。


Wayne Grudem, Is Evangelical Feminism the New Path to Liberalism?より引用



そしてこれが単なる机上の空論でないことは、メノナイト教団自身の歴史をみても実証されると思います。

例えば、1973年に、Mennonite Church USA教団は女性教職を承認しました。

それでは現在、この教団はジェンダー・フェミニズムの点で、どのような位置に立っているのでしょうか。

2014年2月、この教団は、レズビアンを公言しておられる女性の方を公式の教団牧師として認可し、叙任しました註1

註1)Clark, Heather (2 January 2014). "Mennonite Church USA Ordains First Openly Homosexual ‘Pastor’". Christian News Network. Retrieved 12 July 2014..

また昨年(2015年の暮れ)、教団内のWestern District Conference は、教団牧師が、同性愛者の結婚式を執り行うことを認可する決定を出しました註2

註2 Schrag, Paul. "WDC: Same-sex marriage won't bring censure". mennoworld.org. Mennonite World. Retrieved February 23, 2016.

1973年の「女性教職承認」という第一歩から、2014年の「レズビアン牧師承認」までのタイム・スパンは41年です。

つまり41年という歳月の間に、この教団はじわじわと福音主義フェミニズムの街道を下って行き、チャートの〔段階2〕から〔段階6〕まで進んでいったということが公に示されています。

もちろん、このタイム・スパンは、それぞれの教団によって異なると思います。

ある教団では、〔段階2〕から〔段階6〕に至るまで100年以上の年月を経ることになるのかもしれません。

でも、こういった実証研究から言えることは、――スピードの速遅に関わらず――一度、ある教団が「最初の一歩」を踏み出したなら、その進行は以後、着実に「進んでいく」ということだと思います。

ある到着点に向けて「進んでいく」と。

☆☆

再洗礼派のフェリクス・マンツ(28)が、殉教する直前に言った言葉が今でも私の胸に残っています。

「我々が教え、実践してきたこの洗礼こそ、イエス・キリストおよび聖書の教える洗礼であることを、今日、私は、自分の死をもって証しする。」

Fire in the Zurich Hills, p.288



当時のポリティカル・コレクトネスであった「幼児洗礼」という非聖書的な慣習に対し、勇気をもって声を挙げ、そして自分の死をもって証ししたマンツの火のような信仰は、メノナイト派の信仰の根幹に属するものだと思います。

そしてこれは、私たちクリスチャンすべてにとっても尊い霊的遺産だと思います。

16世紀のヨーロッパで火に水に剣に切り裂かれながらも、聖書の教えに忠実であろうとしたメノナイトのクリスチャンたちの信仰に倣いたいと願い、私は数か月前に、次のような記事も書きました。

あなたは踏み絵をふみますか?―16世紀のアナバプテストの若者たちの信仰と叫び 【同性愛と福音主義教会】



16世紀の踏み絵は、「幼児洗礼」でした。

そして21世紀の踏み絵の一つは、「ジェンダー問題」だと思います。

私の祈りは、主がフェリクス・マンツのような勇敢なキリストの兵士を起こしてくださり、ジェンダー・フェミニズム問題で、妥協のない姿勢を貫く教団が、日本の各地で保たれることです。

貴教団がこれからもますます世の光、地の塩として日本の地で輝き、用いられていきますよう、心よりお祈り申し上げています。

長いお手紙になってしまいました。

読んでくださり、ありがとうございました。




  無名の聖徒たち

(The Unknown Saints)




ウィリアム・ワーズワースは自作の詩の中で、「この世には、われわれの知る以上にずっと多くの詩人が存在してきたはずだ」と言っている。

「、、、至高の才能、幻、神聖な能力を授けられし人々。」

しかしそういう詩人たちはそれらを公に表現する賜物に欠けていたか、あるいは、し損なったため、今に至るまで無名のままであるのだと。

そして彼は次のような意味深長な言葉で文を締めくくっているのだ。

「もっとも強固な知性は、
騒々しいこの世において
もっとも軽んじられている。」

私たちの多くは、こういった事が確かに理にかなう事実であることを知ってはいる。

しかし、そういった気づきは多くの人の人生の中で、生きた人生哲学とはなっていない。その反対に、この「騒がしい世」の提供してくる浅薄で偽りに満ちた哲学によって私たちはつき動かされているのである。

☆☆

一般に人間社会は、「偉大さ」と「名声」をイコールに考えるという誤謬を犯している。

「それぞれの世代には、ある一定数の優秀な人間がいて、民主的なプロセスの中でこういった人々は確実に見いだされ、卓越した地位に置かれることになるのだ」と彼らは言う。何という誤りであろう!

もし堅実に人生を見据えようと思うなら、私たちは「偉大さ」と「名声」を等価なものとするこの偽った哲学の力を断ち切り、そこから身を引き離すよう断固たる努力をしなければならない。

然り、この両者の間には往々にして、万里の違いがあるのである。

☆☆

もしもキリスト教会がこの世の影響を全く受けていないのなら、私たちは上記のような問題を世俗の哲学者たちにお任せし、教会は教会の働きに邁進すればよかったはずである。

しかしながら事実はどうかといえば、教会もまたこの邪悪な観念に汚染されているのだ。

こうしてクリスチャンは最も騒がしく、悪質な質(たち)の人々を「最もすばらしく、偉大な人物」と仰ぐ悪習慣に陥るようになった。

☆☆

こういったクリスチャンは「人気度」を「卓越性」と一緒くたにし、山上の垂訓に真っ向から反しつつ、柔和な者ではなく、出しゃばりで自己主張の強い者に拍手を送っている。

さらには悲しむ者ではなく、自信家に、そして神を見る心の清い者ではなく、大々的に自己宣伝してやまない人気取りの者をしきりに後押ししているのである。

冒頭のワーズワースの詩をこう言いかえることができるかもしれない。

「もっとも聖い聖徒たちは、
騒々しい教会において
もっとも軽んじられている。」

これぞ、まことに真なり。深遠にして、驚くべく真なり、である。

☆☆

三十年余りに渡り、キリスト教界の諸様相を注視してきた結果、私は次のような結論を下すを余儀なくされるに至った。

つまり、「敬虔者」と、「教会の指導層」とは往々にして同義にあらずということである。

私自身これまで、非常に敬虔なクリスチャンの方々を目の前に説教したことが何度もあった。こういった聖徒たちはすでに神の甘美なる奥義を深く味わい、私などよりはるかに神に近い歩みをしていた。

にもかかわらず、彼らはおとなしく会衆席に座り、彼らよりも劣る説教者たちがやたらと目立つ場所にいで立ち、諸真理をお粗末な形で説くのに耳を傾けているのである。――彼ら自身は、すでに長い間そのような諸真理に親しみ、美しい経験をしてきたにもかかわらずである。

もちろん、彼らは講壇に立つそのような説教者の、理論ばかりで真の心的知識に欠ける説教の実質については、これを熟知していたにちがいない。

しかし彼らはそれに対しても何も言わず、そのような乏しい説教から得られる僅かな恵みをもって大いに感謝の意を表していた。

☆☆

もしも教会が、聖く、御霊に満ちたからだであり、霊的な洞察による全き導きのうちにあったのなら、もっとも聖く敬虔な男女こそ、教会内で誰よりも認められ、尊ばれていたはずだ。

しかし現実はその反対である。

敬虔さというのはもはや尊ばれなくなっており、神を畏れる清い魂は、かまびすしい宗教活動の渦の中で忘却のかなたにうち置かれている。

その代りに、やたらと騒がしく、出しゃばりで、エンターテイメントの余興で人を興じさせてくれるような人々がもてはやされ、大衆の人気を勝ち取り、富と名声をわが物としている。


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その一方で、キリストの似姿に変えられ、無私で、天的な人は、脇に押しのけられているのだ。

永遠にかかわる本質をないがしろにする一方、浅薄で卑小なことにはやたらに重きを置くという近視眼的な哲学全般は、それ自体、不信仰の形状である。

そういった哲学を身に着けているクリスチャンは、現世の報いを得ることに余念がない。主の時をじっと耐え忍ぶことなど彼らにはできない。

そして、キリストがあらゆる人間の心の隠れた秘密を明らかにし、それぞれのしわざに応じて報いをする日を待ち望みつつ生きることが彼らにはできないのだ。

しかし真の聖徒はそれよりはるかに遠方を仰ぎ見ている。

彼は、過ぎゆく諸価値については、これを些末なものとみなし、永遠の諸物がついに自らのものとして顕され、神への信心に関することが万事のすべてとなるその日を熱心に待望しているのである。

☆☆

奇妙に感じられるかもしれないが、歴代の最も崇高な魂は、みな一様に、「悲観的すぎる」という評価を受けるが常であった。

世の魅惑に対する彼らの朗らかな無関心および、そういった諸誘惑に対する彼らの頑として変わらない抵抗ぶりは、浅薄な思想家たちによって常に誤解されるところとなり、結局、「あの人は、非社会的な御仁さまだ。人類に対する愛にも欠けるときている」と揶揄されてはばからない。

しかし、そういった世人たちにとっての盲点は、彼らの揶揄するあの「変わり者たち」が、目に見えぬ都市を一心に見つめ続けていたという事実である。

彼らは日々、この世のものではない、永遠の王国の光の下を歩んでいたのである。

そして彼らはすでにやがて来る世界の力を味わい、キリストの勝利と新創造の榮光の輝きとを遥かに仰ぎ見、これを享受していたのだ。

☆☆

無名の聖徒たちは、行き過ぎた悲観主義者でもなく、人間嫌いでもない。否、その敬虔な信仰により、むしろ彼らこそが、この世の生み出しし唯一の真正なる楽観家である。

彼らの信仰信条はノリッチのジュリアンの言った次の言葉によって簡潔にまとめられるだろう。

「しかしながらやがて全てが回復されます。全てが回復されます。そして万物が回復されるのです。」

「この世には未だ罪が存在し、わたしどもは恐ろしい刑罰をも予期しなければならないでしょう」と彼女は言う。

しかし、御子によってなされた贖いは疑いようもなく全きものであるため、やがてあらゆる悪が根こそぎにされ、すべてがキリストの内にある天初の美へと再び回復される時が必ず来るでしょうと。

その時、「全てが回復されます。そして万物が回復されるのです。」

☆☆

賢明なキリスト者は安寧の内にかの日を待ち望むだろう。そして、さしあたっての今のこの時期、彼は神のご意思の中で自らの世代に仕えていくことになろう。

宗教的人気スター・コンテストの場で軽んじられようと無視されようと、彼にはそんなことなど一向に気にする様子がない。

彼は自分が仕えお喜ばせしようとしている方が誰かを知っており、むしろその事実を世に知ってもらいたいと願っている。

それにどのみち、彼が地上にいる期間もそう長くはない。

然り、いずれ彼の行く場所において、人はその「アクセス数」や「会員数」ではなく、人格の聖さをもって知られるようになるのだから。



A. W. Tozer, The Unknown Saints
私訳




見よ。わたしはすぐに来る。
(ιδου ερχομαι ταχυ)

黙示録22:12a



見よ=ιδου(イズー)
すぐに=ταχυ(タヒ)
来る=ερχομαι(エルホメ)

「すぐに」を意味するコイネー・ギリシャ語ταχυ(タヒ)は、現在でもταχέως(タへオス:【副】早く、迅速に、すぐに)、ταχύς(タヒス:【形】速い、スピーディーな)、 ταχύτητα(タヒティタ:【名】スピード)という形でギリシャ社会に生きています。

また、このταχυ(タヒ)と、走路/行程を意味するδρόμος(ドゥロモス)が合わさってできた言葉、ταχυδρομείο(タヒドゥロミオ)は、「郵便局」を表す現代ギリシャ語です。


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ギリシャの田舎にあるταχυδρομείο(郵便局)

おそらく、「スピーディーでταχυな行程(δρόμος)」という事で、元々、「飛脚」のような意味がそこに含まれていたのではないかと想像しています。

☆☆

しかし何より、みなさんに今日、お分ち合いしたいのが、「わたしはすぐに来る。」の「来る」に当たるコイネー・ギリシャ語ερχομαι(エルホメ)についてです。

主イエスの来臨を待望する私たちクリスチャンにとって、このερχομαι(エルホメ)という語はまさしく希望に満ちた語なのです。

この動詞は現在でも全く同じ風に使われています。つまり、「今まさに、来つつあります。I am coming!」というニュアンスなんです!

でも、この動詞にはちゃんと未来形もあります。ελεύσομαι(エレフソメ)です。(ちなみに、現代語の未来形ヴァージョンは θα έρθωです。)

では、なぜイエス様は未来形を使わず、現在形のこのερχομαι(エルホメ)を使っておられるのでしょうか?

☆☆

たとえば、玄関の外であなたの友達がドアをノックしています。しかし、あなたはまだ洗面所にいて、歯をみがいているとします。

「ああ、友だちを待たせては悪い」と思い、あなたは洗面所のドアを半開きにして、玄関の方に向かって大声でこう言います。「ちょっと待って。今行くから!」

この時の「今行くから!」はネイティブのギリシャ語では必ず現在形のερχομαι(エルホメ)です。θα έρθω(サエルソー, I'll come.)と未来形を使う人はまずいません。

じゃあ、どういう時に未来形を使うかといいますと、例えば、「来月、うちのお店に来てください。」と誰かに言われ、「ええ、そうします。うかがおうと思います(θα έρθω)。」という場合などです。

つまり、現在形のερχομαι(エルホメ)よりも、確実性の点でいまいちなのです。

「行こうとは思っているけど、来月、もし急用ができたら、その時には、『急用で行けなくなりました。』と電話すればいいっか、、」というような微妙な「不確かさ」がこの未来表現には潜んでいるのかもしれません。そんなニュアンスを感じます。

でもそれに対し、ερχομαι(エルホメ)は違います。エルホメと言う時、私やあなたには(精神的にであれ、物理的にであれ)、今まさに目的の場所に「行きつつある・行こうとしている」という力強い確信・意志があるのです

渋滞中の車の中から、待ちぼうけを食らっている相手に電話し、「ああ、ごめん、ごめん。今行くから!」というその「今行くから!」なのです。

ちなみに、さつま方言では、このερχομαι(エルホメ)に該当する動詞の用法があります。それは「来よる・行きよる, I am coming」です。「(動詞の語幹)+よる」で「今まさにその動作をしつつある」という躍動感を伴った表現をすることができるのです。

☆☆

ですから、ερχομαι ταχυ(エルホメ タヒ)とおっしゃったイエス様は、まさにそのような確実性と躍動感を伴う心的状況の中でこの言葉を発せられたのだと思います。

「子たちよ。私はまさに今来ようとしています。確実に来ようとしています」と。

これは静的な動詞でもなく、「いずれ来ようと思っています、、」というような不確かな表現でもありません。

ερχομαι(エルホメ)という時、この言葉を発する人は自分が100%そこに到着することを見通しています。積極的で、力強い確信に満ちた動詞です。

見よ。わたしはすぐに来る(ερχομαι ταχυ)。

わたしはそれぞれのしわざに応じて報いるために、わたしの報いを携えて来る。

黙示録22:12



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驚異に満ちて 上をあおぎ
 
天に開いている戸を、
その御座についておられる御方を、
一心に見つめます。

そして 手をさしのばし
汝ご自身に 触れんとします。

おおキリスト、われらが王、われらが主
汝を崇めます。

エミー・カーマイケル



マラナタ。主よ、来てください!




「ガリラヤの人たち。なぜ天を見上げて立っているのですか。

あなたがたを離れて天に上げられたこのイエス(this same Jesusは、天に上って行かれるのをあなたがたが見たときと同じ有様で、またおいでになります。」

使徒1:11




「このイエス('This same Jesus')」!

おお、なんと甘美に
この言葉が耳に聞こえてくることでしょう!


もの寂しく、
しんと静まり返った夜警の時間に聞こえてくる
はるか彼方の調べのように。



「このイエス」!

かの日、かの荘厳な日の幻が、
真夜中の閃光のように
ひれ伏し祈る魂の内にぱっときらめく。



かつておぼろげにしか理解していなかったことが
今やあらゆる恐ろしさをもって啓示され、

ラッパの音と燃え立つような天と、
そして裁きの書の封印が解かれる。



その時、
私たちは「このイエス」を見る。


これまでずっと愛し、慕い求めてきたこの方を。

いとも麗しき救い主が
大いなる白い御座に着いておられる。



「別の人」ではない。

そう、この方ご自身が、
私たちの心の愛してやまない主イエスご自身が、

長い長い待望の年月の末に、
贖われたご自身の民のために戻ってこられる!



おお、「このイエス」を、私たちは讃えます。
不動なる私たちの主の御名を。


きのうも、今日も、とこしえまで。


おおイエス・キリスト、
あなたは永遠に変わることのないお方です。




Frances Ridley Havergal, 'This Same Jesus' —Acts 1:11
私訳


そこで、子どもたちよ。キリストのうちにとどまっていなさい。

それは、キリストが現れるとき、私たちが信頼を持ち、その来臨のときに、御前で恥じ入るということのないためです。

Ⅰヨハネ2:28



以前に私は内村鑑三の小エッセー「われの求むる友」をご紹介しました。

さて、みなさんは、どんなお友だちを求めていますか?

内村鑑三は次のような友を求めていると言っています。

友人、友人、、世の言う友人とは何であるか。遊戯を戦わすの友人、時世を共に談ずるの友人、事業を共にするの友人、、、されどもこれ、われらの特別に要求する友人ではない。

われらは真理を交換するの友人がほしい。

われらはこれに接触してわが全性に新光明を伝受するの友人がほしい。

われらは救われんための真理を探究せんために、常に神と角闘しつつある友人がほしい。

われらの欲する友は「独りで強き者」である。すなわち神に頼むがゆえに運動に加わらずして、独りで活動する者である。

すなわち完成せる個人である。すなわち友を求めざる人である。

これ、われらの求むべき、頼むべき友人である。



私は、荒野にいる「バプテスマのヨハネ」のような人が好きです。

私が内村鑑三を好きなのも、彼が洗礼者ヨハネのように、ひとり荒野で叫ぶ「声」のような人だったからです。

彼は水による洗礼は必要なしと説きました。そしてこの点において私は彼の見解に同意していません。

でも彼は聖書を検証した上で受け入れたその教えに生きるためなら、たとい教会を追い出されても、無銭になっても、己の信じる信仰のあり方に忠実であろうとしました。

私はこういう信仰者を尊敬しています。そして人間としてそういう人に強く惹かれます。

つまり、「私の好きなお友だち」の類型に当てはまるのです。

☆☆

現在も、各地に、「バプテスマのヨハネ」がいます。

こういう方々は、一般にメインストリームからちょっと「外れた」所におられる場合が多いです。そしてバプテスマのヨハネと同じく、同時代の人々からほとんど理解されていないのが常です。

ヨハネは、らくだの毛で織った物を着て、腰に皮の帯を締め、いなごと野蜜を食べていた。

マルコ1:6



こういった「ヨハネたち」は、何といっても「変わり者」です。彼らの特性を何といって形容できるものやら分かりません。教団名や教派名でくくれるようなものでもありません。

彼・彼女の関心の所在は、周りの人とあまりにも違っているため、彼らは遅かれ早かれ「荒野」へと導かれます(あるいは追いやられます。)

無骨で、愛想がなく、友もほとんどなく、正直すぎるため不器用な世渡りしかできません。

そして荒野で何をしているかと言えば、彼らはそこで「叫んでいる」(マルコ1:3参)のです。

荒野で叫ぶ者の声がする。
「主の道を用意し、
主の通られる道をまっすぐにせよ。」

マルコ1:3



彼はポリティカル・コレクトネスの圧力などものともせず、人々に悔い改めを説き、宗教指導者たちに対して面と向かい、「まむしのすえたち。だれが必ず来る御怒りをのがれるよう教えたのか」(マタイ3:7b)と叱責しました。

そして最後には、キリスト教倫理の問題に関し、ヘロデの罪を罪として名指しで指摘したため、殉教の死を遂げました(マタイ14章)。

☆☆

私はこういった「ヨハネたち」をこよなく愛しています。

そして散在する「ヨハネたち」を心の友として大切にしています。

これが私の好きなお友だちです。読んでくださってありがとうございました。




ここ数日、仲間のクリスチャンのみなさんから貴重なアドバイスや助言をいただいています。

私という一つのちいさな器の建て上げのために、御霊は、キリストの他の肢体を用い、現在進行形で働いてくださっています。

今朝は、別のある姉妹からメールがきて、彼女は愛の内に、しかしストレートに、私が再考しなければならない点について書いてこられました。

そうすれば、彼女たちは、若い婦人たちに向かって、夫を愛し、子どもを愛し、慎み深く、貞潔で、家事に励み、優しく、自分の夫に従順であるようにと、さとすことができるのです。それは、神のことばがそしられるようなことのないためです。

テトス2:4,5



この姉妹は、上の聖句を私にくださり、「神を信じる婦人として、もう少し、あなたのフォーカスを、(教義上の考察以上に)上に挙げたような点に当てるべきではないかと思います。どうでしょうか。」と提案してくださいました。

箴言の中に、「わきまえのない者は何でも言われたことを信じ」(箴14:15a)と書いてありますので、私はこの方のおっしゃってくださった内容と訓戒の言葉について静かに思いを巡らせてみました。

そして、確かにこの方の言うことには一理あるのではないかと反省せざるを得ませんでした。

彼女は、「教義上の考察をしてはいけない」とか、「あなたは女性なんだから、教理的なことには頭を突っ込まない方がいい」とか、そういうことを言っているのではなく、「あなたのフォーカスはどこにありますか?」と問いかけていたのです。

☆☆

たとえば、「家事に励み(keepers at home)」(5節)という一点においても十分に反省の余地があります。

わが家には、炊飯器はなく、昔の日本のように、コンロでお米を炊いています。まずインディカ米を熱湯で茹でて、ザルに切って、それから油をしいたお鍋に(空気穴を開けた)薄型のアラビア風ナンをしきます。

その上にピラミッド型にお米をのせ、そのお米の山にいくつか空気穴を開け、その上から少量の熱湯とオリーブ油をかけ、そして弱火で半時間ほど蒸します。蒸す時に、豆や香草類を混ぜることもあります。

このように結構手の込んだ調理法なので、台所に立つ婦人は、お米の固さや茹で具合、こげの付け目など、注意を怠ってはならないのです。

しかし、教義上の考察に余念のない時期、私は往々にして台所で失敗します。ついつい上の空になり、それではっと我に返ると、いったい何分お米を茹でたのか、何分蒸したのか、、すっかり忘れてしまう有様です。

カルヴァン神学のことに集中していた時期にも、ズッキーニを思いっきり焦がしてしまいました。それで「これじゃいけない。台所にカルヴァンを持ち込むのはやめよう」と決心しました(笑)。

☆☆

創造の秩序に基づき、神様がお定めになりデザインされた女性へと日々変えられていきたいです。このような女性像のことをBiblical Womanhood(聖書的女性像)といいます。

フェミニズムという体系を頭で拒むだけでは聖書の指し示す女性にはなれないことを私は痛感しています。

御霊の働きにより、内側から日々変えられていくことを通し、また御言葉に素直に従っていくことを通し、私たちは柔和で穏やかな霊(1ペテロ3:4a)を持つ、サラの娘たち(daughters of Sarah,1ペテロ3:6)へと変えられていくのだと思います。

回復の道はまだまだ続いています。

私はこのブログを読んでくださっている女性のみなさんと共に今日もその道を進んでいきたいです。これからもよろしくお願いします。



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遠き太古のことにあらず。

新緑五月の春の野なり。



天地は新たに造られて、栄光、全地に満つ。


神の霊、こずえを払い、

翼を持てる者、みぎわに下る。




緑蔭涼しき所に 神の声聞こゆ。


聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな、

万軍のエホバと、セラピム、ケラビムは

飛びかけりつつ歌う(イザヤ6章)。




誰か言う、地はすでにのろわれたりと。


新緑、山野をおおう時に、

余輩はその決して、

しかあらざるを知る(創2-3章)。





おお わが救い主、
私を助けてください。


私はいつまで経っても学ぶことができず、
すぐに忘れてしまい、
登ろうにも その力のない弱い者です。


今はもう山頂にいるべき時ですが、
私はいまだに山のふもとにいます。



私は、
自分の恵みなき心、
祈りに欠ける日々、
愛のなさ、

天的な競走にたいする怠惰、
汚れた良心、
無為に過ごしてしまった多くの時間、
用いようとしなかった数々の機会、、

こういったことを思い、
心痛めています。



辺り一面、光が照らしだされているのに、
私は盲目です。


どうか私の目からおおいを取り除いてください。
そして不信仰という悪しき心を砕いてください。



ああ、汝のことを深く学び、
汝のことを黙想し、
汝を見つめつづけることが

他の何にもまして 
私の喜びとなりますように。



マリアのように汝の足もとに座り、
ヨハネのように汝の御胸に寄りかかり、
ペテロのように汝の愛を慕い求め、

パウロのようにすべてのものを
ちりあくたとみなすことができますように。



主よ、恵みが増し加わり、
その中でさらに前進していくことができるよう助けてください。


そうすれば、

わが人格は、より堅実なものとなり、
より精力をもって物事に取り組むことができ、
生き方においても、高尚さが増し加わり、


汝への献身にさらなる炎がともされ、
わが情熱の中に
よりいっそうの忠実さがみられるようになるでしょう。



この世において私になにがしかの地位があるとしても、
どうか、この世自体がわが地位となることがありませんように。


そして 創造主なる主の内にのみ見い出されるものを
被造物の中に求めようとすることが決してありませんように。



信仰により、たえず汝を求めさせてください。
ああ、王の王、主の主、わが内でお働きください。


そうすれば、私は勝利のうちを歩み、
わが使命を全うすることができるでしょう。




"A Disciple's Renewal"
The Puritan Prayers and Devotions
私訳




「真理はあなたを自由にします」と、

イエス様、あなたは仰せられます。



しかし主よ、

真理とはなんとこわいものでしょう。



それはあらゆる愛着に対する死刑宣告。

逃げまわる肉に 

とどめの一撃を加えます。




だから、真理には

適度にベールがかぶされている方がいい。



荒削りの十字架も

適度に覆われている方がいい。



そうすれば、 

直視せず、
傷つかず、
裂かれずに済みますから。



しかし、ああ、汝のまなざしをいかに逃れ得ましょう。

どうしてそれを拒むことなどできましょう。



それは そこにあり、

じっと私を見つめています。



おお主よ、み手もて ひかせたまえ。
ただわが主の 道をあゆまん。
いかに暗く けわしくとも、
みむねならば われ いとわじ。



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