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Η ΚΥΡΙΑΚΗ ΠΡΟΣΕΥΧΗ`(=主の祈り)

天にいます私たちの父よ。御名があがめられますように。

御国が来ますように。みこころが天で行なわれるように地でも行なわれますように。

私たちの日ごとの糧をきょうもお与えください。私たちの負いめをお赦しください。

私たちも、私たちに負いめのある人たちを赦しました。

私たちを試みに会わせないで、悪からお救いください。

国と力と栄えは、とこしえにあなたのものだからです。


一日に三回、このように祈りなさい。


ディダケー(Διδαχή) 第8章より



ディダケー(12使徒の遺訓)というのは、1世紀後半から2世紀初頭に書かれた初代教会の教え集のことです。

これを読むと、初代教会のクリスチャンたちは、「一日に三回、『主の祈り』を祈りなさい」という指導を受けていたことが分かります。

☆☆

イエスさまご自身が、「だからこう祈りなさい After this manner therefore pray ye.」(マタイ6:9a)と直々に仰せになられた「主の祈り」。

ギリシャでは、主日の朝、プロテスタント教会の会堂からも、正教会の会堂からも、次のような会衆の祈りの声が聞こえてきます。



Πάτερ ημών
ο εν τοις ουρανοίς,,
,


パテル イモーン、
オ エン ティース ウラニース、、

(=天にましますわれらの父よ、)




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私たちは様式や教理の点で何百年もお互いに分裂したままですが、この祈りは、そんな隔ての壁、時空の壁を突き抜け、使徒時代から今日に至るまで、ずっとずっとずっーと変わることなく、この地で捧げられ続けてきました。



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主日朝、ギリシャ人クリスチャンと共に、「パテル イモーン」の祈りを捧げる時、その時、私は、古のキリスト降臨の時から、現在に至り、そして将来やがて起こるキリストの再臨という神の壮大な歴史の中に、自分たちがたしかに「入れられて」おり、従って、私たちは永遠の〈今〉を生きているんだ!という言葉にならない感動を覚えます。


マタイ24:35

この天地は滅び去ります。しかし、わたしのことばは決して滅びることがありません。



ヘブル12:1a

このように多くの証人たちが、雲のように私たちを取り巻いているのですから、



黙示録7:9-10

その後、私は見た。見よ。あらゆる国民、部族、民族、国語のうちから、だれにも数えきれぬほどの大ぜいの群衆が、白い衣を着、しゅろの枝を手に持って、御座と小羊との前に立っていた。

彼らは、大声で叫んで言った。
「救いは、御座にある私たちの神にあり、小羊にある。」



☆☆

初期キリスト教の著述を読むと、この「主の祈り」がどれほど畏敬と敬虔の念をもって取り扱われ、聖徒一人一人の霊的生活に深い影響を与えていたのかに驚かされます。

たとえば、3世紀のカルタゴに生きたキプリアヌスは、On the Lord's Prayer の中で、次のように言っています。

平和の師であり、一致の主であるイエスは、この祈りを、単己で個人的な祈りとしては望まれませんでした。

そうです、主は私たちが自分のためだけに祈ることを望まれなかったのです。

見てください、私たちは、「天にまします私の父よ」とか、「私の日ごとの糧を今日もお与えください」とは祈りません。

また私たちクリスチャンは、自分の負い目だけが赦されるようにとは嘆願せず、自分だけが試みに会わず、悪から救い出されるようにとも祈りません。

そうではなく、私たちの祈りは、全ての人々を含んだものであり、そして全ての教会のために捧げられるものです。なぜなら――キリスト教会である――私たちは、一つだからです



なぜイエスさまは、「天にいます私の父よ」ではなく、「天にいます私たちの父よ」と祈るよう仰せられたのでしょうか?――キプリアヌスのこういった所感と併せ、このことを深く黙想していく時、私たちの心の地平線は、縦にも横にも、前にも後ろにも、果てしなくどんどん伸びていくように思います。

太陽の光線を、光の本体から分離することはできません。

というのも、その一致と統一性は、光の流れが遮断されることを許さないからです。木から枝をへし折ってみなさい。折られた枝からはもはや芽が出てこれなくなります。

泉から小川をせき止めてごらんなさい。せき止められたその小川はじきに干上がってしまうでしょう。

それと同じように、主の光に彩られたキリスト教会もまた、その光線を全世界いたるところに放っているのです。

にもかかわらず、各地で輝いているのはただ一つの光です。そうです、みからだの一致というのは分け隔てられることがないのです。




その2につづきます。



おまけ


①「主の祈り」のコイネー・ギリシャ語(+英語)



②「主の祈り」の賛美 by レーナ・マリアさん




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詩篇107:2-7

主に贖われた者はこのように言え。

主は彼らを敵の手から贖い、
彼らを国々から、
東から、西から、北から、南から、集められた。

彼らは荒野や荒れ地をさまよい、
住むべき町へ行く道を見つけなかった。

飢えと渇きに彼らのたましいは衰え果てた。

この苦しみのときに、彼らが主に向かって叫ぶと、
主は彼らを苦悩から救い出された。

また彼らをまっすぐな道に導き、
住むべき町へ行かせられた。


Matthew Henry Commentaryより


彼らは追放者として各地に散り散りになっていた。

しかし神は、雲と暗闇の日に散らされたすべての所から彼らを救い出し、こうして彼らは再び一つ所に集められるようになる。(申30:4、エゼ34:12)

神はご自分に属する者をご存知であり、どこに彼らを探すべきかもご存知であられる。

彼らは彷徨い、旅する道を見い出せず、休むべき宿り場をも見つけることができなかった(4節)。

敵の手から贖い出され、国々から集められ(3節)、彼らはいざ故郷に帰ろうとしていた。

しかしそんな最中にあって、彼らは、乾き荒涼とした砂漠の中で朽ち果ててしまうという危機に見舞われたのだ。

人の歩いた道はなく、同伴の連れもなかった。そこに彼はただひとり、孤独な道を歩み、そしてさまよっていた。しかし、神はそんな彼を「まっすぐな道に導かれた」(7節)。

時に神は私たちを遠回りさせるように思われる。しかし、神は最終的に私たちを「まっすぐな道」に導かれるのである。



イザヤ40:11

主は羊飼いのように、その群れを飼い、
御腕に子羊を引き寄せ、ふところに抱き、
乳を飲ませる羊を優しく導く。



空虚な展示の世界、

せわしなく、不毛な問いのあれこれ。

暗く荒々しい世界。



おお神よ、

どこに行っても、

それらが私の周りを取り囲んでいます。


ただ汝の内に、そして汝と共にあることだけが、

わが安息です。




百家争鳴。

あらゆる人の思想を見聞きし、

そうして、おお、

疲れた子どもが
母の元に駆けよるように、

私は汝の元に逃れます。



おお こどもであることは、なんと甘美なことだろう!

それは永遠のいのちに満ちている。



困難な日々、そして歳月が過ぎゆく中、

騒ぎや争いから 離され


静寂のうちに

私は、汝の御腕の中に

横たわる。




汝の御腕!

乾き切ったわが魂は

汝を慕いあえぎつつ、

御腕にすがりつきます。



雨が牧場に歌を奏でさせるごとく、

ああわが主よ、

私にとって、汝は

かくの如くあられます。



Gerhard Tersteegen, At Rest
私訳




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主よ、どうか試練の中にいる友を助けてください!





各地に散らばっている信仰の友一人一人のことを想いながら、、、

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荒野で御民を導かれた方に。その恵みはとこしえまで。

詩篇136:16




来なさい、こどもたち。

前を向いて まっすぐに進んでいこう!


私たちと共に 御父が進んで行かれる。



何千という敵が私たちを取り囲む

そのただ中にあって、

主は私たちを守り、

導きつづけてくださる。



主のまなざしから溢れる甘美さと栄光は、

わびしい荒野の地を

パラダイスのように輝かせる。



見よ。道なき漆黒の夜に

燃えたつ火の柱。


そして前方には魂の牧者がいて、

群れを養っておられる。



疑わず、

恐れることもせず、

こひつじたちは、この方の後について行く。


静けさと確かさの内に

彼らの目はこの方にのみ注がれている。




来なさい、こどもたち。

前を向いて まっすぐに進んでいこう!


手に手を取り合って、私たちは旅を続けていく。



それぞれが隣にいる兄弟を励まし、

そうやって、

見知らぬこの地を 歩き渡っていくのだ。



いと高き神の御使いたちも

巡礼する私たちの傍らを 共に進んでいる。



私たちの歌声が夜通し

音楽を奏でるとしたら、

それはなんとすばらしいことだろうか。




来なさい、こどもたち。

前を向いて まっすぐに進んでいこう!


刻一刻と 故郷に近づいているのだから!



巡礼をつづける日々は、いよよ早く過ぎゆき、

そうして すぐに終わりの時がくる。


おお、黄金の都よ!



光輝く塔がどんなに近くにあることだろう。

御父の神殿が透明にきらめいている。


そう、あの光華な家が、

私たちの宿り場なのだ。



さあ進み行こう!

苦しみや困難よ、来るなら来い。



この道をあともう少し進んだところに、

すばらしい歓迎の言葉が

私たちを待っており、


神の御顔がそこにある。




おお 世よ、

お前はなんと小さく、むなしいものだろう!


われわれの目はひたすら主の上に注がれている。




今や強大な太陽が昇りゆき、

ろうそくの微光はかすんできた。



天の深遠をはるかに行き巡り、

私たちのイエスが、ご自身の民を率いておられる。



もっとも偉大な方。もっとも聖い方。

とこしえのキリスト。そして唯一のキリスト。




さあ、主の甘美さによって捕えられ、

主の至福の内に浸かろう。



永久(とわ)に主は私たちのもの。


そして、永久に私たちは

主のものなのだから。



Gerhard Tersteegen, Pilgrim Song
私訳




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みなさん、応援しています!!今日も元気でいてください。








その1)からの続きです。

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3世紀のキリスト信者による碑文 source


新生の喜びに与ったキプリアヌスは、財産を貧しい人々に施し、物資的な縛りから解放され、喜びに躍りました。そして彼は献身の道を選びました。

カルタゴ教会の監督になったキプリアヌスは、信者の友に宛てて次のような手紙を書いています。

真に安らかで、信じ寄り頼むことのできる平安、そして真に揺るがず、確かで、けっして変わることのない安心感とは何でしょう?

それは、この世の喧噪から身を引き、救いの固い土台の上に自分自身をしっかり据えることです。

そして地上から天に目を上げることです。

真の意味でこの世より偉大な者は、この世から何をも欲さず、何をも望みません。

ああ、こういった主の守りは、なんと安定し、なんと揺るぎないものでしょうか!

そして永遠につづく祝福の中にあり、なんと天的でありましょう!

それにより、私たちは、この混沌とした世の罠から自由にされ、地の汚れから清められ、

そして、とこしえの命の光にふさわしいものとされるのです。

Cyprian, Ad Donatum, 14




キプリアヌスの残した霊的遺産


キプリアヌスは教会の牧者として、魂のことに気を配り、また他の牧師たちとも密に連絡を取っていました。

彼の残した大量の書簡集を読むと、当時のキリスト教会の日々の懸念や問題がどのようなものであったのかがよく分かります。

たとえば、妥協せずイエスにつき従っていくと同時に、クリスチャンの間における兄弟愛をいかに純粋に保っていくのか――。

これは、3世紀の初代教会だけが抱えていた問題では決してないと思います。

たとえば、キプリアヌスが牧会していた教会の近くのキリスト教会で、次のような問題が生じました。


不道徳な職業をやめたい


ある異教徒の男性がイエス・キリストを信じ、クリスチャンになりました。

その男性の職業は、舞台俳優でした。

回心後、彼は、「私は職種を変えるべきではないか?」と考え始めました。

というのも、当時の芝居のほとんどが、不道徳を助長するような内容であり、こういった演劇は、異教の偶像崇拝にも深く関わっていたからです。

また、当時、役者たちが舞台で女役をうまく演じられるよう、演劇界は時に、少年の役者たちを意図的に同性愛者にならせようと仕向けたりもしていたのです。

「ああでも、私には舞台俳優以外、他に何ら職歴がない。転職しようにも、他に技術がないのだから、、、」と、この男性信者は悩みました。

「あっ、それなら、未信者を対象に演劇を『教える』というのはどうだろう?そうしたら、私自身は、直接、この世界に入り込まずにすむし、生活の糧も得ることができる。うーん、でもいまいち、確信が持てない。」

そこで彼は、そういった悩みや葛藤を、教会の長老たちに正直に打ち明けることにしました。

☆☆

長老たちは彼からの相談を受け、熟考した後、次のように答えました。

「そうですね、うーん、役者業が不道徳な職業であるなら、人を役者に『養成して』、その道に『入らせる』こともやはり良くないことだと言わなければならないように思います。

でも、これはかなり稀なケースですから、私たちはこの件を、近くの教会におられるキプリアヌス監督にも相談することにします。」

相談を受けたキプリアヌスもやはり、彼らに同意して言いました。

つまり、たとえ役者業が、彼の生計を立てる唯一の手段だとしても、キリスト信者にふさわしくない職業を他人に『教える』こと――これもまた、信者にふさわしくないあり方だと思います、と。

ここに私たちは、この世の価値観に妥協せず、キリストの弟子の道を歩んでいこうとする初代教会のクリスチャンたちの強い信仰をみることができると思います。

しかし話はここで終わったわけではありません。

キプリアヌスは、さらにここから愛に満ちた牧会的配慮をもって、長老たちに言いました。

――もし、この役者が、他に生計の手段を持っていないのであれば、孤児ややもめ、貧しい人々を支援しているのと同様、教会は進んで彼を支援すべきです。

そしてさらに次のような言葉もつけ加えています。

もし、あなたがたの教会で、彼を支援するのが経済的に無理ならば、彼をこちらの教会に送ってよこしなさい。こちらで彼は必要な食べ物、着る物なんでも受け取ることができます。

Cyprian, Letter to Euchratius, epis.60



キプリアヌスにとっても、彼の監督する教会にとっても、この役者は、一面識もない人でした。

しかし、どこの教会に属していようが、彼は主にあって愛する兄弟であり、霊の家族でした。

ですから、キプリアヌスは自分たちの教会で彼を養う覚悟を持って、このような書簡を書き送ったのです。

クリスチャンの間に溢れるこのような愛をみて、彼らをけなし迫害する敵でさえも、こう叫ばずにはいられませんでした。


見よ。彼らはなんと互いに愛し合っていることか!


テルトゥリアヌス『護教論』第39章7




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もしあなたがたの互いの間に愛があるなら、それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるのです。

ヨハネ13:35




おわりに


キプリアヌスの時代には、カルタゴ地域の教会に激しい迫害が加えられていました。そのため、彼の牧会生活は、地下に潜ってせざるを得ない切迫した状況にありました。

しかし、彼はそのような苦難をものともせず、委ねられた羊の群れのために、力を注ぎ出し、そして究極的には、自らの命そのものをも注ぎ出しました。

258年、ついに彼はローマ人に捕えられ、打ち首にされ、殉教の死を遂げたのでした。

それでは最後に、キプリアヌスの言葉を引用して、おわりにさせていただきます。

「キリストに従う」とは何を意味するのでしょう。

そうです、それはキリストの掟の内に立ち続けることを意味します。

そしてキリストの教えの内に歩み続けることを意味します。

そしてそれは、キリストの足跡と主の歩まれた道に従い続けることを意味します。


ーキプリアヌス





〈参考文献〉

Philip Schaff, ANF05. Fathers of the Third Century: Hippolytus, Cyprian, Caius, Novatian, Appendix
Alban Butler, The Lives of the Saints,Volume IX
デイヴィッド・ベルソー著『初代キリスト教徒は語る――初代教会に照らして見た今日の福音主義教会』



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キプリアヌス、紀元3世紀


今、アウグスティヌスのA Treatise On the Predestination of the Saints(『聖徒の予定説について』)を、少しずつ読み進めています。

1章からていねいに読んでいくと、彼の考え方のプロセスがよく分かり、また「なぜ」そのような考え方・解釈に至るようになったのかが生き生きと伝わってきます。また、その他、今まで知らなかったいろいろな発見があって楽しいです。


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☆☆

そういった思わぬ発見の一つが、カルタゴの牧師キプリアヌス(3世紀)に関するものでした。

アウグスティヌスはこの書の中で、何回か尊敬の気持ちを込め、「I speak of the most blessed Cyprian(もっとも祝福されしキプリアヌスについてお話しますと、、)」と彼について触れていました。

私は二人がそういう風につながっていたことは全然知らなかったので、「へぇー、アウグスティヌスは、キプリアヌス牧師のことを尊敬していたんだ。ふーん、なるほど。」と心は遥か4世紀のカルタゴへと飛び立っていきました。

その時分、アウグスティヌス自身も、神の主権と人間の自由意志の問題についていろいろ葛藤していたということを告白しています。

そんな時、キプリアヌスの「私たちは決して何をも誇ってはならない。なぜなら、何物といえども、それは自分自身のものではないのだから。」という言葉がアウグスティヌスの心に刺さったそうです。

この記事では、キリストを信じ、カルタゴ教会の牧師となり、最後には殉教の道をたどった神の人であるキプリアヌスの生涯と信仰について、みなさんとご一緒にみていきたいと思います。

☆☆

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北アフリカに、Carthage(カルタゴ)と書かれた濃い青の部分がみえますか?この図をみると、キプリアヌスが生きた3世紀には、この地域に多くのクリスチャンがいたことが分かります。


キプリアヌスは、3世紀の初め頃、北アフリカのカルタゴで生まれました。

父親は、ローマ帝国の評議員の一人であり、裕福な異教徒でした。

キプリアヌスは、そんな家庭の御曹司(おんぞうし)として当時一流の教育を受け、育っていったのです。

回心前、彼は、修辞学の教師を修め、また演説家、カルタゴ法曹界の有力メンバーとして活動し、しかし、(回心後の)彼自身の言葉を借りると、「当時、私は、暗やみと陰鬱な夜の中に横たわっていました。」


新しく生まれるとはどういうこと?―彼の葛藤


30歳の過ぎたある年、キプリアヌスにとって人生を揺さぶるような出来事が起こります。

カルタゴ教会の老聖徒であり、長老であったセシリウスとの出会いがそれです。

セシリウスの天的な生き方と信仰は、キプリアヌスの魂の内に大いなる葛藤を生じさせました。

また彼は、聖書の中には「新生」という概念があることも聞きました。

しかし「そんなことが一体可能であろうか?」と彼は疑い悩みます。

そういった内的告白を彼はAd Donatumという著述の中に残していますので、その部分を訳そうと思います。

私がまだ暗やみと陰鬱な夜の中に横たわっていた時分のことです。

その当時私は、神のご慈愛が私に要求していることを実行するのはまったく至難の業だと考えていました、、

自分自身、その当時、数えきれないほどの過失と罪に縛られていましたし、そういったものから解放されるなど、どだい無理な話だと思い込んでいたのです。

こうして私は、悪徳に引きづられ、また数々の罪にふけっていました。




新しく生まれ変わった!


しかし、そんな彼についに喜ばしき救いが訪れました。

そうです、彼はキリストを信じる信仰により新しく生まれ変わったのです。そのことを彼は次のように告白しています。

しかし、その後、新生の水の助けにより、これまでの人生の汚点が洗い流されたのです。

そして天よりの光が――そうです、清澄で聖い光が――神と和解した我が心の中に注ぎ込まれ、満ち溢れました、、

この新生が私をして新しい人間へとなさせしめたのです。

そうすると、どうでしょう。まったくすばらしい仕方で、これまで自分の内でくすぶっていたあらゆる疑いが私の内から消えていったのです、、

ええ、今の自分にははっきり分かります。――肉の悪徳により奴隷となっていた自分の内に当時生きていたものは地上的なものであったことを。

そして、聖霊が私の内でなしてくださった事こそ、神聖かつ天的なものであるということを。

— Cyprian, Ad Donatum, 3-4




さて、新生したキプリアヌスはその後どのような道を歩んでいったのでしょうか?


その2につづきます。



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今年の大雪で玄関前のチロリアンランプが枯れました。

枯れた枝を切っていたとき、根元の一部が何か生きているような気がしたので、

5本の根元のうち、その何か生きているよな根元1本だけ30センチくらい残しました。

そしたらなんと芽が出てきました。

うれしかった。


~父から私への手紙より(一部抜粋)



チロリアンランプというのは、アオイ科に属する植物で、和名は「浮釣木(うきつりぼく)」というのだそうです。

和名の由来は、「花が空中に浮かんで吊り下がっているように見える」ことからきているそうです。


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私は父から届いたこの五行の文章の中に、私たち人間に対する天の御父のいとも慈愛深き愛――その映しをみる気がしました。

天は神の栄光を語り告げ、大空は御手のわざを告げ知らせる。
詩篇19:1


自然や、周りの被造物、そして日常の小さな出来事一つ一つに、心の目を向け、静かに耳を澄ませるとき、私たちは、今この瞬間もたえず私たちに何かを「語っておられる」神のご臨在と愛に、圧倒されるような畏敬と感動を覚えるだろうと思います。

神はとこしえにご自身のことを被造物に語りたいと願っておられます。

聖書全体もこの考えを後押ししています。神は今もお語りになっておられると。

「神は語った」という過去形ではなく、「語っておられる(God is speaking)」という現在進行形なのです。

神はそのご性質により、今も絶え間なく明瞭にお語りになっておられます。

そうです、神はご自身の発せられるその御声で、この世界を満たしておられるのです。


『神へのあこがれ(The Pursuit Of God)』 A・W・トーザー 第六章 語りかける神の声(その1)より



浮釣木は、大雪の重さと冷たさにおされ、がっくり力を落としていたと思います。

それは彼女の目に確かに「枯れて」しまっていました。

しかしそこに自分ではない「もう一つの視線」が注がれていることを彼女は知りませんでした。

そうです、彼女のことを大切に思い、慈しんでいたこの「視線」は、「根元の一部が何か生きているように」感じ、「その何か生きているような根元1本だけを30センチくらい残そう」と決心したのです。

こうして、人の目にも自分の目にも死んだように見えていた、その根元から緑の芽が出てきました。

「うれしかった。」

蘇生した彼女をみて、御父はこのように喜びの声をあげました。

私たちが神の子どもと呼ばれるために、――事実、いま私たちは神の子どもです。――御父はどんなにすばらしい愛を与えてくださったことでしょう。世が私たちを知らないのは、御父を知らないからです。

1ヨハネ3:1



私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして、御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがありましょう。

ローマ8:32



神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。

ヨハネ3:16



私たちに今日も注がれている御父の愛と語りかけに、私たちがもっともっと敏感になっていきますように。







For Mari

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ふとした折に、

真珠のようにきらめく一筋の光に出会うことがある。



「神様はみんなを呼ぶ。

呼びかけて、

それに答える人は選ばれる。」




山を越え、丘を越え、

私はあなたを探し求めてきました。

ずっと、ずっと。




いかめしく 厳かな巨塔の下で

身を震わせ 泣く 小さな娘。



「子どもたちを、わたしのところに来させなさい。」




深い深い心の芯奥に、

この方の呼びかけを感じる。




ああ、でも主よ、混沌としていて

なにも見えません。



どこですか。

どこにおられますか。



「ラボニ!」




かざされた手は天に、

泣き声のような祈りがほとばしる。



「おお花婿イエスよ、来てください!」



ーーーーー


忽然と開かれし 覆幕。


天的な臨在が 

わが心室を満たす。


ああ、光、光、光!




「愛は死のように強く。」



おお愛の炎よ、わがうちで燃えよ。

わが花婿に 

とこしえの讃歌をささげよ。




おお麗しきわが王よ、


たとい この身朽ちゆくとも、

御胸に抱かれ、


汝と共に

永生を生きんことを!



汝と共に

永生を生きんことを!








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南フランスの自然


:カロリーヌさん、こんにちは。(彼女の自己紹介はこの記事の中にあります。)


カロ:Kinuko、私はあなたの書いた記事(=「クリスチャン女性が神学的な意見を述べたり書いたりすることは、望ましくない行為なのでしょうか?」(ココ)(here))を読みました。

おお、あなたがこの記事の中で吐露している葛藤こそ、まさに自分の抱えていた葛藤でした。

私は自分のフランス語ブログの中で、聖書的な女性らしさや恭順について書いていました。

でもその大切さを求めていく過程で、――例えば、「慎み深さ」「恭順」「祈りのベール」といったテーマで――どうしても神学的な内容に触れざるを得ず、それに関連する聖書の学びについても書く必要を感じました。

こうして私の中に葛藤が始まりました。そしてついに昨年、私はブログを閉じることに決心したのです。

☆☆

その一方、私はまた別のことも考え始めていました。

それは、男性だけでなく、女性も預言者として召されているのではないかということです。

そして、、、そして、、預言者は黙っていることなどできないのです!!

預言者は神さまからいただいた幻に心燃やされ、キリストのみからだに警告を与え、霊的真理を知らせ、人々の心に覚醒を起こす使命を帯びていると思います。

でも、そういった点(女性が沈黙すべき時とそうでない時)がいったいどこに境界線を持っているのか、、、それを識別することは容易ではありません。

でも私は次のことを信じています。――それは、男性の方々を支配することなしに、私たち女性が自分たちの知的能力や霊的な賜物をフルに主に用いていただく、、そのような「神の道」があるはずだということです。

主よ、どうか私たちを迷いの内にとどめないでください。そして私たちの問いに答えてください。


:ルーシーさんのインタビュー記事を読みましたね。この記事を読んでカロリーヌさんはどう思いましたか?率直な感想を教えてください。


カロ:ええ、「私たちがたどり着いた結論は、やはり、女性が神学的な議論にかかわるのは聖書的ではないということです。」という姉妹のお言葉を、私は神様を畏れる心を持ち、謹んで聞きました。

しかし、私はこの点に関するさらなる説明を求め、心が飢え渇いています。

この点で私はもっと話し合いやディスカッションを求めており、聖句を求めています。

なぜなら、この見解を支えている基盤がどこにあるのかが分からなければ、私はこの結論を受け入れることができないからです。

姉妹はおっしゃいました。「導き、リーダーシップを取るのは男性の役割です」と。私はこれに完全に同意します。

しかし、「神学的な議論や話し合いというのがとりもなおさずリーダーシップの問題に直結する」というその主張の根拠がどこにあるのか、私にはよく分かりません。

ですから、「女性にはリーダーシップを取ることが許されていないから、女性は神学的な議論や話し合いに参じることはできない」という理由づけだけでは私には不十分なのです。

ですから、繰り返しになりますが、神学上の議論というのがはたしてリーダーシップの問題と直結している行為であるのかどうか、まずその点に対するさらなる説明を私は欲しています。

とはいえ、ある種の「神学的議論(意見交換)」は実際に、男性の方々のみに適しているのかもしれません。

しかしながら、また別の神学的テーマについて言えば、これは女性にも適しているのかもしれません。

つまり、このイシューは、100%「黒」、ないしは100%「白」という感じでは割り切れない種類の問題なのかもしれないと思います。

そして、、、私は思うんです。この問題に関して、神様はあえてそれが「グレー」の領域であるように意図されたのではないかしらと。

☆☆

おそらくこれを明確なる「黒」路線でおし進めていくと、その教会には自発性のない、消極的な女性が増えていくかもしれません。

その一方、ある教会が今度は明確なる「白」路線(つまり、『教会の女性たちは境界や制限を取っ払い、御霊の導きによって何だってできるんです!』という路線)をおし進めていくとすると、その教会では、女性たちが男性たちを治めるようになっていくと思います。

そしてその両方とも、聖書の教えから逸脱していると私は思います。

最後に。私はみなさんと共にこの霊的旅路を歩むことができ、本当に感謝しています。

主よ、どうか私たちの問いに答えてください!




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追伸です


カロリーヌ姉妹のこの問いに対して、なにか応答メッセージがある方は、hereに書き込みをお願いします。

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「クリスチャン女性が神学的な意見を述べたり書いたりすることは、望ましくない行為なのでしょうか?」という記事をきっかけに、主はみなさんとのすばらしい分かち合いの時を与えてくださいました。そして、気づいたのが、

)この点で葛藤しているのは自分だけではないということ、

)同じ相補主義、同じベールの姉妹同士であっても、この領域においては若干、それぞれに意見のヴァリエーション(多様性)がある、そして、

)どの姉妹も皆、例外なく、神を畏れ、聖書の教えに忠実でありたいと心から願っている、



という事でした。

またある読者の方が「無理せず、ゆったりと」と言ってくださったことからも、私は時にかなった助けを受けました。(ありがとうございます!)

ですから、こういったグレーゾーンの領域の問題に関しては、なるだけ即断は避け、あわてたdecisionも避け、他の女性たちの視点に耳を傾けつつ、(そして、ちゃっかり彼女たちとの会話も楽しみつつ)、「無理せず、ゆったりと」、御霊の導きを求めていこうと思っています。

この点で、私は今回、ちょっぴり成長できたかも、、しれません。

それでは、これから楽しい二つのインタビュー記事をご紹介します。

最初の姉妹は、50代の既婚女性(アメリカ)、そして次の姉妹は、20代の独身女性(フランス)です。

二人とも、聖書信仰、そして(教会および家庭における男性のリーダーシップを認める)相補的な信仰、そして祈りのベールを実践しているすてきな女性たちです。

視点の異なるお二人のインタビュー記事を、私は今日あえてパラレルにみなさんにご紹介しますね。


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アメリカの美しい自然、ヨセミテ自然公園


:ルーシーさん、読者のみなさんに自己紹介してくださいますか?


:こんにちは。ルーシーと申します。私は米国在住のクリスチャンの妻であり母です。夫ブライアンと結婚して28年になります。

子どもは6人です。男の子が5人と、女の子1人。一番の上の子は26歳で、そして一番下は13歳です。

私たちは小さな無教派の教会に通っています。聖書信仰の教会です。

この教会が真理として保持しているものの一つは「かしら headship」に関する相補的な聖書の教えです。そして、その教えを実生活の中でどのように適用させ、生きていくことができるのかを祈り求めています。

二年ほど前、私はheadcoveringmovement.comというサイトに出会いました。

そこでは1コリント11章1-16節に基づく「かしら」や「被り物」に関する聖書の教えの深い学びがなされています。

そこでKinukoのような被り物を実践する姉妹たちに出会い、彼女たちと友情を深めてきました。

またこういった領域(聖書的男性像・女性像や被り物)で葛藤を覚えている方々が祈りリクエストを提出してくださっており、私たちは毎週月曜日に皆で心を合わせとりなしの祈りをしています。


:ルーシーさん、最近、仲間のみなさんから、「女性はインフォーマルなセッティングであっても(例:ブログ)、神学的な書き物や議論は控えるべきではないでしょうか?」という建設的な批判が私に対してなされています。

私は、本当に心から、神様が元々デザインされた女性へと変えられていきたい、そして聖書的女性像を求めたいって思っています。

でも、自分はクリスチャン・ホームで育ったわけでもなく、これまで身近な所で、相補的なクリスチャン女性の模範をみたこともほとんどありません。

そのため、多くの領域で、正直、ほんと、どうしていいか分からないって思うことがよくあるんです。

そこで、ルーシーさん、私に正直に言ってください。

慎み深いクリスチャン・レディーが、神学的な議論に参じることはやっぱり有害(harmful)なのでしょうか。そうすることで、私たちの女性らしさ(femininity)はダメージを受けるのでしょうか。


: ええ、あなたからのこの問いを受けて、私自身、深く自分の心を探ってみました。

そして主人にもそのことを話しました。そして主人とも話し合った結果、私たちがたどり着いた結論は、やはり、女性が神学的な議論にかかわるのは聖書的ではないということです。

たしかに神さまの目に、私たち女性は非常に価値ある存在であり、聖書全体を通して女性も男性と同じように尊く用いられています。

しかしながら、聖書を断片的にではなく、全体的にみた時、導きリードするのは男性の役割で、恭順であるのが女性の役割だということが御言葉から示されることではないかと私たちは考えています。

「それは有害なのでしょうか?」「それは私の女性らしさ(femininity)にダメージを与えるものなのでしょうか?」・・・・

私の乏しい経験から申し上げますと、、そうですねぇ、、、ええ、神学的なテーマであなたが議論に熱くなることで、やはりあなたの中の女性らしさはダメージを受ける可能性があると思います。

そして議論好きな女性だとみなされてしまうかもしれません。

あるいは主人の言うことに耳を貸さない女性、何が何でも自分の意見を押し通そうとする勝ち気な女性、、、だと。

そしてそれはあなたのご主人に不名誉をもたらしかねません。

また、「彼女のご主人は弱いリーダーシップしか取れないのではないか」という定評を受けるかもしれません。

このテーマは本当に多くの聖書教義を包含していると思います。

私たちがここで触れているのは、聖書の中で述べられている男性および女性の役割に関する非常に広範囲に渡るテーマ領域の一つにすぎないでしょう。

これはとても興味深い学びであり、今日のキリスト教会で今後より一層必要とされてくる教えではないかと思います。

今日の文化潮流にあって、「恭順なクリスチャン女性」というのは大衆受けするスタンスではありません。

しかし私たちは人を喜ばそうとするのではなく、やはり私たちの神様を喜ばすことに心を注ぐべきだと思います。

それを可能にする一つの方法は、主の御言葉に従うことにあると思います。


:率直なご意見をありがとうございます。さて、話はがらっと変わりますが、ルーシーさんのご主人と息子さんたちは、野に行って、食用のためにシカを狩猟しているそうですね!

前から訊こうと思っていたのですが、シカの肉はいったいどんな味がするのでしょう?


:うちの主人も息子たちも皆、ハンターなんです!シカ狩りがほとんどですが、野ウサギや七面鳥を捕る時もあります。

一般に野生の動物の肉は、お店で買う肉類と同じだけの脂肪分は含まれていません。なぜなら、野生動物は草原でとれるものだけを食べているからです。

シカ肉というのは脂身のない肉で、ちょっとドライで独特のにおいがする感じです。

私はたいがい、シカ肉を脂身のある他の肉(例えばベーコン、ロースト・ビーフ)と一緒に調理しています。

そうするとおいしさが増します。そうねえ、ビーフに一番味が似ているかしら?

少しくせのある味なので、なじむのにやや時間がかかるかもしれませんが、一度慣れるや、とってもおいしく感じられるようになりますよ!


:ルーシーさん、ありがとうございました!


(その2)につづきます。

Beautiful oil paintings20160615



主よ、

汝の御顔の美しさから輝き出でし

救いの恵みは

なんと天的でありましょう!



そしてどれほど私たちの情熱を

燃え立たせることでしょう!


主よ、麗しい汝の御名を愛しています。




「わが神は私のもの」と告白するとき、

そして、汝の輝く栄光を感じるとき、



私はこの世を、そして、

偉大と称されし地の物すべてを

足元に踏みつけています。



そのような聖き喜びの光景に

恍惚とした眼と魂がひたるとき、



私たちは、ここに座し、

いつまでも終わることのない永遠の日を

見つめ続けることができます。




もうまもなく、夜は過ぎ去り、

私たちは全き光に満ちた晴岸へと移ります。



その時、喜ばしいわれらが思いは

愛の対象であるこのお方の上に

ひたとどまるのです。




そこで私たちは至福の杯を心ゆくまで飲み、

天的な木々より、新しいいのちを摘むことでしょう。



しかし主よ、今は、下にいる私たち虫けらのために、

どうか天の一滴をお与えください。




おお、荒れ果てたこの地を旅する間、

汝の右の御手より慰めをお送りください。



そして汝の神殿にて、

愛をひと目、汝をひと目、

見させてください。




Isaac Watts, The enjoyment of Christ
私訳



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