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保守キリスト教雑誌 『ゴスペル・トゥデイ』 2008年9月号



Albert Mohler on Why He Changed His Mind on Women Pastors



アルバート・モーラー氏の証し (南部バプテスト神学校 学長)

2010年9月28日






それは1980年代の半ばのことでした。

その時期、私の所属している南部バプテスト連盟(Southern Baptist Convention)は、非常な論争と嵐のただ中にありました。

そうです、教会における女性の役割―女性の牧会職のことが―論争の中核にあったのです。

1984年、南部バプテスト連盟は、女性の役割に関し、一つの決議を出しました。(それは、とてつもなく緊張に満ちた瞬間でした。)

この時、私たちの教団ははじめて、年次会議という公の場で、「牧会職は聖書の適性条件を満たす男性だけに限られます」という宣言を出したのです。

そしてこれこそ、――70年代、80年代、90年代における教団大論争の中でも、もっとも熾烈な論争を引き起こすものとなったのです。

☆☆

多くの人が、その宣言に憤りを覚えました。

南バプテスト連盟が「女性は牧師になることはできない」と宣言したことで、多くの人が傷つき、激怒し、そして茫然自失となりました。

かくいう私も、その中の一人でした。

☆☆

私は当時、教団神学校(SBTS)の学生でした。

この神学校は、当時、女性は――男性と全く同じように――牧会職につくことができるし、また、そうでなければならないと一貫して教えていました。

当時、CBMW(Council of Biblical Manhood and Womanhood:聖書的男性像・女性像協議会)もまだ存在していませんでしたし、そういった聖書的男性像・女性像の回復を取り扱った書籍もほとんど皆無でした。

ええ、説教者や聖書教師が、往々にして自分の間違った観念でもって、他人をそれと同じ方向に引きずっていく――、

そういった悪影響のことがよく言われますが、それに関し、私は自分の目でそれを目撃していました。

☆☆

1984年に教団がこの決議を出した際、私は猛然と抗議に出ました。

私たち抗議者は、クーリエ新聞の広告欄を買い、そこに「神は、雇用機会平等のお方です」という旨の宣言を書き出しました。

(ちなみに、私は当時も、聖書の無謬を堅く信じていました。)

☆☆

そうした中、ある日、カール・ヘンリー氏がうちの神学校を訪問されたのです。



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Carl F.H. Henry (1913 –2003)



そして神の摂理の下、なんと私が彼の案内役となりました。

これは自分にとってものすごい特権でした。

というのも、著作を通し、彼はすでに私の精神的メンターの位置を占めていたからです。

根本的教義の面においても、聖書の無謬性においても、彼の著作により、私は多くの助けを受けていました。

☆☆

こうして私はヘンリー博士をお連れして、キャンパス内を案内することになりました。

共にそぞり歩きながら、その時ふいに、氏が、女性牧師の是非をめぐる話題を持ち出してこられたのです。

そして「この問題に関して、あなたはどう思っていますか。あなたはどのような立場に立っていますか?」と私に訊いてこられました。

若気の至りや無頓着さもあり、私は堰切ったような勢いで自分の見解を彼に述べました。

すると、ヘンリー氏は、私を驚かせるようなある表情をたたえた目でこちらを見、そしてこう言われたのです。

やがて君は、この事で、自ら大いに恥じ入るようになるだろう」と。

彼は言ったのはただこの一言でした。

しかしこの一言は私を震撼させました。

☆☆

「やがて君は、この事で、自ら大いに恥じ入るようになるだろう、、、」

私は、その後、まっすぐに図書館に入りました。

そしてこの問題を取り扱っているような書籍を手あたり次第探し始めたのです。

はっきり言って、その時の私は、「自分がなぜ将来、この事で大いに恥じ入るようになるのか」――

その理由を突き止めるまでは、もう食べることも何もまったく手につかない、そんな状態にありました。

どうしよう。目を上げてキャンパスを行き交う人々をながめました。

でも、この人たちは、この問題で全然、「恥じ入っている」ようには見えないじゃないか、、、?

☆☆

図書館にはほとんど助けになるような資料はありませんでした。

幸い、ステフェン・クラークという人の書いたMan and Woman in Christという本を見つけ、それを通してある程度、御言葉の学びをするよう導かれました。

そして結局、その日、私は徹夜で真相究明に乗り出すことになったのです。

これを解決せずにはとても眠ることなどできませんでした。

こうして東の空が明け始めた頃、この問題に関する私の立場は、一夜にして、完全に変化を遂げていたのです。

☆☆

たしかに私の見解の変化に、カール・ヘンリーはかなりの影響を及ぼしました。

しかし私の見解を変えたものは、聖書の御言葉でした。

そして今思うと、本当にあの時、カール・ヘンリー氏の言ったことは正しかったのです。

あの時点での方向転換がなければ、きっと今頃、私は大いに恥じ入ることになっていたと思います。

こうして翌日の朝、ヘンリー氏にお会いした時、私はすでに別の世界の人となっていたのです。



―証しおわり―




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女性牧師の是非に関する関連記事です




① ストレスを抱え傷つき苦しんでいる女性の牧師先生および教職のみなさまへ(ココ


② 教会での献身生活の挫折から学んだこと(ココ


③ 「相補主義」と「対等主義」(その6)―女性は牧師として教会で奉仕することができるのでしょうか?(ココ


④ 「リベラリズム」と、「女性牧会職についてのフェミニズム的見解」との間にみられる相関性について――アメリカ福音教会の女性牧師是認の歴史から見えてくるもの(ココ


⑤ 「万人祭司説が女性牧師を正当化するのです」という主張は正しい?―福音主義フェミニストへの応答【前篇】【後篇


⑥ 「女性牧師によってすばらしい実が教会にもたらされています。だから神様は女性牧師を良しとされているのです」という主張はどうでしょうか?(ココ


⑦ 親愛なる日本メノナイトブラザレン教団のみなさまへの公開レター〔2016年3月女性教職承認の新決定について〕(ココ


⑧ アンドレアス・J・コステンバーガー師へのインタビュー記事(1テモテ2:12に関して)【福音主義教会とフェミニズム問題】(ココ


⑨ コステンバーガー師へのインタビュー続編(1テモテ2:12)【福音主義教会とフェミニズム問題】(ココ


⑩ 1テモテ2章12節とフェミニズム―NIV聖書2011度版の訳を検証 (ココ





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宣教学校にいた時、オランダから一人の講師の方がやって来られました。

この方は「異文化圏の人々に対する伝道」というテーマで授業をしてくださったのですが、印象深かったのが、この先生の「突飛な」行動でした。

先生は初日、教室に入ってくるなり、いきなり小さな絨毯を敷き、その上に座ったかと思いきや、おもむろに額を床にすりつけ、祈り始めたのです!

そしてしばらくすると、唖然とする私たちに、先生は訊ねました。「私は今、何をしましたか?」

それに対し、私たちは、「モスクで祈るイスラム教徒の姿を真似たのだと思います。」と答えました。

(ちなみに、この先生は、宗教的なパキスタン人男性のような、白く丈の長い服を着ていました。)

しかし先生は聖書を開きつつ、私たちにこう言ったのです。

「いいえ、私はヨハネの黙示録に書いてある礼拝行為を今、みなさんの前でしてみせたのです!」


黙11:16

神の御前で自分たちの座に着いている二十四人の長老たちも、地にひれ伏し(προσεκύνησαν)、神を礼拝して、、



黙4:10

二十四人の長老は御座に着いている方の御前にひれ伏して(προσκυνήσουσι)、、



黙19:4

二十四人の長老と四つの生き物はひれ伏し(προσεκύνησαν)、御座についておられる神を拝んで、「アーメン。ハレルヤ。」と言った。




προσκυνέω(proskynéō:プロスキネオ)

(<πρός、向かって+ κυνέω、接吻する、平伏して敬意を表する)


① ~に敬意を表する。(行為により)尊崇の意を表す。敬礼する。~の前にひざまずく。~の前にひれ伏す。

② 伏し拝む、拝する、礼拝する。

(織田昭 『新約聖書ギリシア語小辞典』より)




旧約聖書の中では、「ひれ伏す(bow down)、礼拝する」という動詞は、שָׁחָה(shachah:シャハー)となっており、170回も使われています。

(*ちなみに、現代ヘブライ語では、このシャハーは、「おじぎをする、身をかがめる」という意味はあっても、「礼拝する」という意味は、もはやないそうです。Vine's Complete Expository Dictionary of Old and New Testamentより)


詩篇5:7

しかし、私は、豊かな恵みによって、
あなたの家に行き、あなたを恐れつつ、
あなたの聖なる宮に向かってひれ伏します(אֶשְׁתַּחֲוֶ֥ה)。




アラビア語の聖書では、ここの詩篇の「ひれ伏す」は、أَسْجُدُ(アスジョド)と訳されており、この行為は、私たちのイメージするモスクでのイスラム教徒たちのあの平伏姿勢にも当てはまると思います。

冒頭の話に戻りますが、先生が私たち生徒に伝えたかったのは、「みなさんは、偏見のレンズで見ていますが、その実、『ひれ伏し祈る』というポーズは、決してイスラム教徒特有のものではないのです。これは新約聖書にも記されている立派な聖書的祈りの姿勢でもあるのです」ということでした。



礼拝の中でひれ伏し祈る


しかしイスラム教徒と違い、私たちクリスチャンにはもちろん、規定された「祈りの姿勢」というのは一切ありません。

私たちに求められているのは、「霊とまこと」(ヨハネ4:23)による神礼拝です。ピリピ3:3には「神の御霊によって礼拝し、、」とも書いてあります。

そう、それはそうなのですが、でも、よくよく気を付けて新約聖書を読んでみると、黙示録以外にも、神礼拝や祈りや賛美の行為に、「ひれ伏す、ひざをかがめる」という具体的なポーズが伴っていることを記す箇所がたしかに存在しているのです。


ピリピ2:9-11(新改訳)

それゆえ、神は、キリストを高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになりました。

それは、イエスの御名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるものすべてが、ひざをかがめ(γόνυ κάμψη)、

すべての口が、「イエス・キリストは主である。」と告白して、父なる神がほめたたえられるためです。



マタイ26:39(新共同訳)

少し進んで行って、うつ伏せになり(ἒπεσεν ἐπὶ πρόσωπον、顔を〔大地につけて〕ひれ伏し[岩波訳])、祈って言われた。

「父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願いどおりではなく、御心のままに。」



マタイ28:16、17a(新共同訳)

さて、十一人の弟子たちはガリラヤに行き、イエスが指示しておかれた山に登った。

そして、イエスに会い、ひれ伏した(προσεκύνησαν)。



マタイ28:8,9(新共同訳)

婦人たちは、恐れながらも大いに喜び、急いで墓を立ち去り、弟子たちに知らせるために走って行った。

すると、イエスが行く手に立っていて、「おはよう」と言われたので、婦人たちは近寄り、イエスの足を抱き、その前にひれ伏した(προσεκύνησαν)。

(新改訳は、「御足を抱いてイエスを拝んだ。」)





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モラビア兄弟団の礼拝の様子(18世紀ドイツ)



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西インド諸島におけるモラビア兄弟団の礼拝の様子(1757年、セント・トーマス島)



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正教会のクリスチャン



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中東地域のキリスト教会




みなさんはどう思いますか?



さて、「ひれ伏し祈る」というクリスチャンの礼拝行為について、ご一緒にみてきました。

どうでしょう。みなさんは、このことについてどう思いますか?

礼拝の中で、または個人の祈りの生活の中で、「ひれ伏す」という心と体の姿勢が、みなさんの霊性に影響を与えたことはありますか。

なにかご感想やお証しがありましたら、ぜひお聞かせください!

楽しみに待っています。





 
神をみることにより、

この世の色彩は失われます。




御使いたちのいる はるか上空の野には、

生ける水が

おだやかに流れている。




わが思いが高く舞い上がり、

飛翔することができたらどんなにかいいでしょう。



しかしああ、

罪がわが魂の上に重くのしかかっています。




おお十字架の上で死にゆく

麗しきキリスト、


汝の流されし血潮によって、

この咎の重荷は取り除かれます。




そして、ご自身の羽ばたいておられるところに、

汝は私をも連れていくことがおできになります。



そうです、天的な鳩!

――汝のやさしき翼に乗って。




おお たった一度でいい、


駈け上り、

永久(とわ)に拡がる天空の栄光を

目にすることができたなら!




そうしたなら、

この世の一切の有様は、

なんと卑小なものに思われることでしょう。



そして、わが目に、どんなにか

卑しむべきものと映るでしょう!




わが神よ、汝を仰ぐ

その一瞥さえ与えられるなら、


地上の国々や人間の諸事象は、

またたくまに消え去ってしまうはずです。




おぼろげなろうそくの灯が

昼間に絶えてしまうがごとく、


そのようなものは、

幻のように はかなく消えてしまうでしょう。




そうするなら、


たとい彼らが怒り狂い、戦い、うなりを上げようとも、

たとい怖ろしい雷鳴が轟音をたてようとも、



それらは揺れる一枚の葉の音のごとく、


わが耳に 

もはや無音なものとなるでしょう。




すべてのすべてであられる方、

永遠なる王よ。



どうか汝のその美しい御顔を

仰ぎ見させてください。




おお 私は汝の前にひれ伏し、

力の限りを尽くし、


とこしえなる汝の壮麗さと、恵みを

歌い続けるでしょう!




Isaac Watts, HYMN 41
私訳



礼拝者の祈り


私はまずしく裸であなたのみ前に立ち、恵みを呼び求め、あわれみを請い願います。

あなたの飢えたこじきを養い、私の冷たい心をあなたの愛の火で燃やし、わたしの見えない目を、あなたのご臨在の輝きで照らしてください。

どうかすべてのこの世のものを、私にとってにがいものに変わらせ、すべての苦しく不利なことを、忍耐を強めるものとし、すべての低い造られたものを軽んじて、忘れるべきものとしてください。

私を追いやって地をさまようことなく(創4:12、14)、心をあげて、天にいますあなたに向かわせてください。

あなただけが、これから先、いつまでもわたしにとっての甘美の対象となりますように。


イエスさまの御名によって、

アーメン。


―『キリストにならいて』より






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朝露(あさつゆ)


周りの人々から、「まだお腹に赤ちゃんはいないの?」と訊かれることがあります。

「いないです」と答えると、「病院に検査に行ったらどう?」と心からの善意をもって、提案してくださる方もいます。

また、先日、東京にいる姉妹からメールがきて、「○○姉妹も、△△姉妹も皆、結婚したいのに相手が与えられず、かわいそうに、今もまだずっと一人でいる。祈ってほしい。」と彼女たちの苦境を訴えてこられました。

☆☆

1テモテ2:15

しかし、女が慎みをもって、信仰と愛と聖さとを保つなら、子を産むことによって救われます。



「子を産むことによって救われるであろう」の解釈



上の記事をお読みになってくださればはっきりすると思いますが、ここでパウロのいう「子を産むことによって救われます」を、救いの功績や手段として解釈するのは、福音が啓示する「信仰のみのよる義認」の真理から外れるので、それは違います。

この箇所には複数の解釈が存在しますが、チャールズ・パウエル師は、


⑥女性は母親の役割に忠実であることにより、その報いを天に帰ったときに受ける

⑦女性は母親の役割に忠実であることにより、男女の役割を逆転させる惑わしから解放される

(これは⑤と似ているが、教会という領域を超えて述べられている)



という意味ではないかと捉えており、

子供を産み、子育てを忠実にすることによって、女性は女性ならではの役割を果たすことになり、教会の中でリーダーシップを取らなくても自らの存在価値を十分に高めることになり、役割逆転の惑わしから守られるという意味で、「救われる」と言っているのです。



と解釈しておられます。

(以上「ダビデの日記」「子を産むことによって救われる」とは?1テモテ2:11~15より引用させていただきました。)


私は個人的に、パウエル氏の解釈は正しいのではないかと考えています。

また、たとい氏の説明が「的外れ」だったとしても、1テモテ2章の文脈全体を考えた時、女性が「子どもを産むこと」には、やはり、神様のすばらしい奥義があり、その意味で、ここで使われている「救われる」という動詞には重みと深さがあると思います。

ですから、子どもをお産みになった姉妹のみなさん、よかったですね!そして、これから出産しようとしておられるみなさん、どうぞこのすばらしい務めを喜んでください。応援しています。

☆☆

しかしながら、その一方、さまざまな事情から結婚に導かれていない方や、私のように子どものいない女性たちは、どうすればいいのでしょう。

結婚も、出産も、究極的には主の御手の内にあり、そこには往々にして、私たちにはどうすることもできない状況があります。

このエッセーの中で、私は自分自身の辿ってきた信仰の歩みから、そういった状況の下で悲しみ、うちひしがれている女性のみなさんに一つのsecret(秘伝!)をお伝えしようと思います。


それは、今日みなさんがその状況下にあることは、神のご主権(Sovereignty)から決して外れていないということなんです。


また、もう一つ私が学んだこと――それは、「欠け」はむしろ恵みであり、天への門だということです。

人生になんらかの欠けがある時、それは私たちの心に悲しみをもたらします。

そして、その悲しみは、私たちをしてイエス様の懐へと向かわしめます。なぜなら、そこにおいて、その人は真に慰められるからです。


悲しむ者は幸いです。その人は慰められるからです。マタイ5:4




またそういった「欠け」は、私たちに地上の生の不完全さを否が応でも自覚させます。

そして、その自覚は、嘆きという翼を帯びつつ、もはや欠けのない全き世界――上にあるもの、天にあるもの(コロ3:1、2)――へと私たちの思いを引き上げてくれます。

☆☆

ですから、私は喜んで、御言葉に「裁かれ、打ち砕かれ」、御言葉の前に「敗北」しようと思います。

なぜ私はこのようなことを言うのでしょうか?

それは、ここにこそ、「フェミニズムの道」と「聖書的女性の道」を分かつ分岐点があるからです。

「フェミニズムの道」も、傷ついた女性たちの道であることには変わりがありません。

しかしフェミニズムは、私たちを悲しみの人イエスへと導く、こういった命のみことばの前にへりくだることをせず、その反対に、神の言葉に対し――ひそやかな、あるいは大胆な――反旗を翻します。

それは神様の采配に対する、漠然とした「心の苦々しさ」「鬱積(うっせき)感」「ゆううつ」という形を取る場合もあれば、こぶしを突き上げ神に絶叫するような「憤怒」という形を取って現われる場合もあります。

「『女が慎みをもって、信仰と愛と聖さとを保つなら、子を産むことによって救われます』ですって?これこそ家父長的な愚の骨頂さじゃない!いいかげんにしてよ!」と。

私自身、もしもこういう受け取り方をしていたら、今頃は、対岸の岸で反旗の論陣を張り、「情報処理能力」をフルに生かしつつ、保守男性陣のダビデさんたちなんかを「やっつけるような」反論記事を書いたりしていたかもしれません(笑)。


ところが、神の恵みによって、私は今の私になりました。

1コリント15:10a




☆☆


子どもを産むことができないのは悲しみです。

そして、結婚したくてもできない状況――これもまた悲しみです。

私たちはハンナのように主の前に、心を注ぎ出したいと思います(1サム1:15)。

繁栄の神学は、私たちに現世的な報いと満たしを約束します。

しかし、イエスさまの福音は、悲しむ者に、天の希望となぐさめを与えます。

主よ、私たちの人生の「欠け」が、御手の中で、あなたの聖さと美しさを映し出し、やがて他の魂をもなぐさめ富ます、祝福の泉とされていきますように。

アーメン。




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私は前回の記事で、アンドレアス・J・コステンバーガー師へのインタビュー記事を取り上げました。

五つの質問の内、三つを翻訳した後、「うーん、後の二つはちょっと細かい説明だから、、、」と思い、翻訳はやめにしました。

でも、今日、やっぱり残りの二つの説明のことが頭から離れず、結局、ぜんぶ訳することにしました。

どなたかのお役に立てれば幸いです。

☆☆

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3.それでは、1テモテ2:12の検証においては、語彙研究のメソッドそれ自体だけでは、決定的な結論が出ないということでしょうか。


ええ、そう思います。

この場合における語彙研究では、限られたデータに負っていることもあり、どうしても決定的な結論が出しにくいという面があります。

そのため、次の章で、私が、1テモテ2:12の文構造を取り扱う運びとなったのです。

まず私は分かりやすい単語の検証から始めました。

ギリシア語の等位接続詞oude("or")とつながっている動詞didaskei(教える)は、牧会書簡の中で頻繁に登場する語です。

またこの語はほぼ常に、肯定的な含みを持つ語であり、教会の牧師や長老から会衆への指導のことを指しています。(例:Ⅰテモテ4:11、6:2、Ⅱテモテ2:2)。


統語パターンで言いますと、私は新約聖書および聖書外のギリシア文学の中におけるoudeの用法について詳細な検証をしました。

そして100以上の並列的統語構造を見つけました。

そして各事例において、oudeは、等位接続詞として、類似の含みを持つ動詞をつなぐ働きをしていました。

――そのどちらも肯定的である場合もあれば、両者とも否定的である場合もありました。

例えば、マタイ6:20で、イエスはこう言われました。

自分の宝は、天にたくわえなさい、、、、盗人が穴をあけて盗むことも(oude)ありません。



ここで注意していただきたいのは、「穴をあけること」も「盗むこと」も共に、否定的意味合いを持っているということです。

そして連続的パターン(まず盗人が穴を開けて侵入する→そして次に盗む)に従っています。

そこから次のような結論が導き出されます。

もしも、didaskein(教える)が、

1)肯定的含み(positive connotation)を持っており、
2)oude(“or”)が常に、類似の意味合いの動詞をつなぐものだとしたら、

それならば、必然的に(そして統語法的に)、authentein(権威を行使する)も肯定的含みを持つと言わねばならないわけです

よって、大半の福音主義フェミニストの方々の主張は無効にされます。

☆☆

パウロは、教会内において、男性に対する女性の「否定的な意味での権威の行使」を禁じているだけでなく、「正統的な権威の行使」でさえも禁じています。

簡潔に言うなら、パウロは、女性ではなく、男性が長老として仕えることを求めているのです。

(これは、監督の資格に言及した箇所で、パウロが、1テモテ3:2「ひとりの妻の夫、faithful husbands」と述べている直接的文脈の中でも[その正当性を]裏付けることができます。)



4.残りの章ではどのようなことが取り扱われているのでしょうか。


第4章では、T・R・シュレイナーが、1テモテ2:9-15の解釈に関する多くの釈義上の問題に取り組んでいます。


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Thomas R. Schreiner


特に、彼は1テモテ2:12に続く聖句に注目しています。

後に続く聖句において、パウロは、なぜ教会で、女性が男性を教えたり支配したりしたりしてはならないのかについての根拠を明確に述べています。

――それは

1)初めに男が造られ、その次に女が造られたという秩序(13節)、そして

2)罪による堕落の際に起こり、悲惨な結果をもたらした権威の逆転ゆえ(14節)

だと言っています。

シュレイナーが指摘しているように、大半の福音主義フェミニストの方々は、「こういった聖句が12節でのパウロの禁止[の理由]を明確化している」という事に対し、適切な釈明をしていません。

また彼らは、「1テモテ2:12というのは、孤立した、難しい聖句であるから、パウロの明確な対等主義的教え(と彼らはガラテヤ3:28を引用しつつ)の光の下で、12節のこの聖句は解釈されなければならない」と言っています。

しかしながら、彼らが見誤っているのは次の点です。

つまり、1テモテ2:13-14において証言されているように、パウロ自身、教会における男女の役割の区別を、――創世記2章と3章という――創造のはじめにまでルーツを溯り、見い出しているということです。

☆☆

第5章では、文化研究の専門家であるR・W・ヤーブロー(Yarbrough)が、歴史的・解釈学的コンテクストの中で考察を進めています。

その中で彼は、多くの福音主義フェミニストの方々の議論は、「文脈批判」の中にそのルーツを見い出すことができるということを示しています。

ここでいう「文脈批判」というのは、つまり、正当性に問題あるなにがしかの基準をもとに、聖書の諸聖句の間に、恣意的な区別を設けようとする試みのことを言います。

こういった解釈をする人々は、現代のモーレス(道徳規範)にとって納得できる聖句を好む一方、自分たちに受け入れがたく思われるような聖句は脇にうちやります。

そうです、これこそまさに、ガラテヤ3:28(「男も女もない」)をパラダイム聖句と主張しつつ、1テモテ2:12は「一次的で制限された妥当性しかない」と脇にうちやっている人々の現実なのです。

(この問題について私は、この論文を書きました。)

☆☆

最後に、D・K・パッターソン女史が、ご自身の証しを述べた後、今日の女性が自分たちの生の中で、1テモテ2:12の教えをどのように適用させていくことができるのかについての実際的な方法について書いておられます。

以上のことから総括して言えるのは、歴史的文脈、語彙的・統語的考慮、釈義的・解釈学的ファクター、適用の問題――、

こういった全ての要素が、〈非〉フェミニスト的な1テモテ2:12の読み方の妥当性を示唆している、ということではないかと思います。


ーおわりー






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名前:ヴィアン・エリザベス
年齢:23歳
所在地:ノルウェー
ベールを始めた時期:2014年夏



1)読者のみなさんに自己紹介してください。



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こんにちは。私はノルウェー人で、長女です。

私はクリスチャン・スクールで教師兼アシスタントとして働いています。また聖書翻訳の勉強もしています。

私は2013年の暮れにイエス様を信じました。

そしてそれ以来、人生の中での私の望み、そして目標はただ一つとなりました。

――それは、主のため、そして主の働きのため、聖別された人生を生きることです。

私は宣教師の伝記を読むのが大好きです。また、ピアノを弾くこと、歌うこと、刺繍・編み物、お料理なども大好きです!



2)どこの教会に通っていらっしゃいますか。そこの教会で、祈りのベールを実践している姉妹の方々は他にもおられますか?


私は保守的なルーテル教会に通っています。

多くの誠実な信仰者の集うすばらしい教会です。また、数人の女性たちが被り物を実践しておられます。



3)どのような経緯で、祈りのベールを実践するよう導かれたのですか?


それまで私は被り物についてあまり深く考えたことはありませんでした。

でも本当にイエス様を信じて、信仰者になった時、私は初めて「開かれた目をもって」聖書を通読し始めたのです。

そして1コリント11章にさしかかった時、そこに書いてある御言葉がぱっと目の前に現われてきました。

こうして私は御言葉によって確信に導かれました。

また、祈りのベールの慣習が、教会の歴史を通してこれまでずっと保持されてきたクリスチャンの慣習であることも勉強し、こうして私は確信に導かれたのです。



4)被り物をして最初に主日礼拝にのぞんだ時、どんな心境でしたか?


それほど他の主日と変わったことはありませんでした。また他の方々も別段、奇妙に思っている風ではありませんでした。

それどころか、何人かの方々がわざわざ私の所へやって来て、「今も、被り物という聖書的慣習を守ろうとしている人がいることを知ってうれしい!」と声をかけてくださったんです。とても励まされました!

また何人かの子ども達も私に「ねえ、頭の上にのっているのはナニ?」と訊いてきました。

おもしろいことに、私が祈りのベールのことについて子ども達に説明すると、たいてい、みんな、「かわいいね!」と言ってくれるんです。

ですから、私のベール体験は、かなり肯定的なものだといっていいと思います。



5)ノルウェーにおける被り物の状況について少しお話くださいませんか。ベールを実践している教団・教派はありますか。一般的な福音派教会で――数人ではあってもとにかくベールを実践している女性がいる――というのは日常光景なのでしょうか。


被り物が当たり前の教会というのがノルウェーに存在するのかどうかはよく知りません。でも福音主義教会の中で、今もベールの慣習を守っている女性たちはいるにはいます。



6)人目を恐れるあまり、ベールを実践したくても、そうすることができないでいる女性たちに何か励ましのメッセージがありましたら、どうぞ。


聖書は私たち女性に、「恐れてはいけない。主に信頼しなさい。」と言っています。

「祈りのベールは確かに聖書の言う教えだ」と確信したのなら、あとは実践あるのみです。とにかくやってください。

主の掟が厄介に感じられたり、従うのが難しく感じられたりする時、「とにかくやる!」――これが私のモットーにしていることです。

とにかく主に従うのです。そうすると、後のことは主がなんとかしてくださいます。

また反抗的・挑戦的な心の姿勢でベールを始めることもお勧めできません。

それはいわば、「美しいが、たしなみのない女は、金の輪が豚の鼻にあるようだ」(箴11:22)と描写されている女性のようだと思います。



7)被り物に関して、もっともすばらしい点、あるいはもっとも困難な点があるとしたら、それはどういう所でしょう。


私にとって、被り物は、謙遜であることの大切さを常に思い起こさせてくれるものです。

また、ベールをかぶっている時、私は自分が女性であること、それから女性であるがゆえの属性といったものについての思いが与えられます。

もっとも困難な点は、、、そうですねぇ、自分のベール姿を、(クリスチャンになる前の自分のことを知っている)人々に見られる時でしょうか。

私はちょっと恥ずかしがりやなので、その点で、みなの注目にあってしまうのが苦手です。

でもそれは同時に、主が私の心の中でなしてくださったことについての、目に見える可視的な証しでもあるのかもしれません。



8)どんなベールを使っていますか。どこで購入していますか。


私はGarlands of Graceで買っています。ここのお店のベールはとてもフェミニンです。いろいろな型を使っていますが、今は、スヌード型のベールを使用しています。



ーインタビュー記事おわりー




ちょっと息抜き

最近、日本の若い姉妹の方から、「私も祈りのベールに興味があります」というお便りをいただきました。

思うのですが、日本で「ベール」というと、やはり次のようなイメージが主なのではないでしょうか。


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↑こんな感じかな?


でも、誰もベールなんかしていない教会で、いきなりこういう姿になれといわれても、とてもできませんよね!

でも、みなさん、安心してください。

1コリント11章で神様が言われているのは「女性は祈りや預言をする時、頭を覆いなさい」であって、「どんな素材の物で覆うのか」とか「どんなスタイルや型や色や大きさのベールで覆うのか」といったことは、私たち女性の自由裁量に任せられているのです

つまり、私たちはクリエイティブに楽しく自分に合ったベールを選ぶことができるわけです。

できるだけ目立たないような型や色を選ぶこともできますし、逆にキュート路線でいきたい女性のみなさんもいるかもしれません。


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Garlands of Grace

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Garlands of Grace

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Garlands of Grace

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Liturgical Time

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Liturgical Time


また、覆う部分にしても、ある人は、頭の一部をメノナイト風capやカトリックのミニ・ベールのように覆っていますし、また別のある人は、保守的なユダヤ人女性のように完全に頭を覆うスタイル(Tichel式)が心にフィットすると言っています。



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Tichelスタイル


また、私の友人のカロリーヌさん(フランス)は、公同礼拝の時、ヒジャーブ式の覆い方で臨む時、一番、心に平安があると私に打ち明けてくれました。

ですから、みな、それぞれ違うのです。そしてすばらしいことに、神様は私たちのその多様性を良しとしてくださっているのです!うれしいですね。

それでは、みなさん、Happy Covering!

参考までに↓のVTRを貼っておきますね。







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オーストラリアで初の女性司教(聖公会) 2008年、パース市、source





アンドレアス・J・コステンバーガー師へのインタビュー記事 (1テモテ2:12に関して)


Interview with Andreas J. Köstenberger on 1 Timothy 2:12



(インタビュー聞き手:アンディー・ナセリ氏、ベツレヘム神学校新約学、2008年7月30日)



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アンドレアス・J・コステンバーガー(Andreas J. Köstenberger)氏は、ノース・カロライナ州ウェイク・フォーレストにある南東バプテスト神学校の新約学教授であり、1996年より教鞭を取っておられます。

氏はトリニティー神学校で、D・A・カーソンの指導の下、新約学博士号を取得し(1993年)、1999年以降、Journal of the Evangelical Theological Society の編集員を務めておられます。

氏のブログは、ココです。

また、(ジェンダー問題を含めた)論文リストは、ココ、そして、説教・講演MP3はココです。



このインタビューはコステンバーガー師の論文“A Complex Sentence: The Syntax of 1 Timothy 2:12,” in Women in the Church: An Analysis and Application of 1 Timothy 2:9-15(『教会の中の女性―1テモテ2:9-15の分析および適用』の中の一章「複雑なセンテンス:1テモテ2:12の構文論」)を基になされています。


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1テモテ2:12a

私は、女が教えたり男を支配したりすることを許しません。(新改訳)

女が教えたり、男の上に立ったりすることを、わたしは許さない。(口語訳)

婦人が教えたり、男の上に立ったりするのを、わたしは許しません。(新共同訳)

女が教えることを私は許さないし、また男に指図することも〔許さない〕。(岩波訳)

わたしは女性が教えたり男性を押えたりすることを許しません。(前田訳)

(教会で)婦人が教えたり、男子の上に立ったりすることは許さない。(塚本訳)

われ女の教ふることと男の上に権を執ることとを許さず。(文語訳)

διδάσκειν δὲ γυναικὶ οὐκ ἐπιτρέπω οὐδὲ αὐθεντεῖν ἀνδρός

I do not permit a woman to teach or to exercise authority over a man.(ESV訳)





1.著書『教会における女性』は、ヘンリー・スコット・ボールドウィン氏の研究論文を引き継いだ形で書かれていますね。この本の中で、主に何を取り扱っているのか、教えてください。



特定の聖句に関して、互いに異なる解釈が導き出されてしまう理由は、往々にして、聖書解釈における妥当な原則に私たちが従っていないことに因ると思います。

例えば、「文脈を無視して一聖句を取り出す」、「歴史的・文化的背景を曲解する」、「語彙的・文法的事項にしっかり注意を払っていない」、、などです。


*この問題について私は以前、次のような論文を書きました。

“Gender Passages in the New Testament: Hermeneutical Fallacies Critiqued,” Westminster Theological Journal 56 [1994]: 259-83; reprinted in Studies in John and Gender and available as a PDF




ですから、1テモテ2:9-15のように、重要かつ論争の焦点になっているような箇所を取り扱う際には尚更、私たちは、聖書解釈における正当なステップを自分がはたして全て踏んでいるのか否か、しっかりと確認する必要があると思います。

そこを踏まえた上で、以下のような6つの論述がなされたのです。


.歴史的背景(S. M. Baugh)

.語彙研究("authentein”[権威を持つ・行使する]という語について。H. S. Baldwin)

.文構造(1テモテ2:12において「教える」と「権威を持つ」をつなぐ語 "oude"[ないしは]について。A. J. Köstenberger)

.文脈における釈義(T. R. Schreiner)

.解釈学(R. W. Yarbrough)

.適用(D. K. Patterson)


[*各章の要約を読みたい方は、“The Crux of the Matter: Paul’s Pastoral Pronouncements Regarding Women’s Roles in 1 Timothy 2:9-15,” Faith and Mission 14 (1997): 24-48をお読みください。]





2.この本の主要テーマは一言でいうと何ですか?



そうですね、一言でいえば、ここの聖書箇所を自然に読むなら、パウロは、女性が教会で牧師や長老になることをやはり禁じている、ということです。

――なぜなら、パウロは女性が教えたり男性の上に権力を持つことを許していないからです。

そしてこういった理解こそ、2000年近くに渡り、キリスト教会でなされてきた聖句理解だったのです。

実に、1960年代に現代フェミニズム運動が勃興し、ここの聖句を深刻に疑問視するようになるまでは、教会はずっと上記のような理解をしてきたのです。

しかしながら、福音主義フェミニストの方々は、「正しく解釈するなら、聖書は――個人としての価値、尊厳、そしてキリストにある救い、ということだけでなく――教会的な役割においても完全なジェンダー『平等』を説いている」と主張しておられます。

そうすると、当然のことながら、彼らはここの聖句の自然な読み方を受け入れることができない訳です。

その結果、こういった人々は、さまざまな仕方で、この箇所を再解釈しようと試みています。

そしてそういった再解釈の試みは、上に挙げた6つの側面すべてに及んでいます。


当時のエペソの女性たちに対してだけ?


背景に関していいますと、彼らは、「パウロがテモテへの手紙を書いた当初、問題になっていたのは、特にエペソにいる女性たちのことだったのです。だから、ここでの教えは、今日には適用されないのです。」と主張しています。

(*ただし、この説に関しては、フェミニストの間でも、多種多様な説明がなされており、ばらつきがみられます。)

『教会における女性』の1章で、S・M・Baugh氏(1世紀エペソ碑文の専門家)は、こういったフェミニストたちの主張が無効であることを示し、「1テモテ2:12におけるパウロの教えは、1世紀のエペソだけに限定されたものだった」という彼らの主張に関しては、学術的にも、その他の理由においてもそこに根拠を見い出すことができない、ということを述べておられます。



Authentein(権威を行使する)の動詞に関して



次に、H・S・Balwin氏は、"authentein”(αὐθεντεῖν:権威を行使する、支配する)の意味をめぐっての問題に取り組んでいます。

欽定訳は、この語を「権威を侵害する(“usurp authority”)」と訳しており、最近になって、多くのフェミニスト(例えば、I・H・マーシャル氏など)が、この語は否定的な含みを持つ語だと主張するようになってきています。

「もしそうなら」と彼らは言うのです。

「パウロがここで禁じていたのは、教会の中における女性の『否定的』権威の行使、それから女性の説く誤った教えに限ったことであり、それらの機能における彼女たちの[権力の]行使ではなかったのです」と。

しかしながら、Baldwinの研究が明らかにしているのは、authentein(権威を行使する、支配する)という動詞は、新約期における非常に稀な語だったということです。

(新約の中でこの語が出てくるのは、1テモテ2:12のこの箇所だけで、あとは1テモテ書以前に、一、二回登場するだけのレアーな語です。)

(中略)

もちろん、こういったこと[=牧会職が男性だけに開かれているという聖書の主張]は、対等主義の浸透している現代文化の中にあっては、アナテマでしょう。

多くの人々は、「聖書が、そんなやり方で、女性に対し『差別』をするなんて、とうてい受け入れられない!」と考えています。

このようにして、聖書と、(全ての文化ではないにしても)多くの文化は、互いに衝突し、両者の間に軋轢が生じます。

そして私たちはどちらの道に従うのか決断しなければなりません。

――1)周囲の文化か、それとも、

2)聖書か、

そのどちらかです。

(しかしもちろん、福音主義フェミニストの方々は、この両者の間に『衝突がある』ということを認めたがりません。

彼らによれば、イエスもパウロも、彼らと同じような対等主義的思想を持った人なのです。

――1テモテ2:12に関するパウロの教えがあるにも関わらず。)



5.なぜこのイシューが、今日の教会にとって重要なのでしょうか?



現在、キリスト教会は、周囲の世俗文化からの圧力にさらされています。

こういった文化は、「自分たちが『良し』と認める慣習に自らを順応させよ!」と教会に圧力をかけてくるのです。

その結果、「教会におけるある種の教えや牧会の役割が、男性だけに限られている」という聖書の教えを保持することは、ますます困難になってきているのです。

近年、特に世界のアングリカン・チャーチ(聖公会)において、私たちは重要な変遷を目の当たりにしています。




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聖公会(アングリカン・チャーチ)



また少なくとも、ある事例においては、女性の牧師叙任の擁護やその寛容を含め、「個人の選択」を強調するイデオロギーがそこに露見されます。

さらに――擁護とまではいかなくても――、教会内における同性愛行為についても同様の動きが見られます。

そしてそれは教会員の間だけではなく、指導者層の間でもそうなのです。

こういった事から明らかに言えること――、それは、「教会での女性の役割」というイシューは、孤立した事項ではなく、今後教会が直面し続けていくであろう、互いに関連を持つ一連の大きな問題の一部であるということです

もちろん、これは救いに関する一次的な問題ではありません。

(教会における女性の役割に関する見解をベースに人は救われるわけではありませんから。)

にもかかわらず、これは、実際的にも、また教義の面でも、教会の今後に少なからぬ影響をもたらす、重要な問題であるといえるでしょう。



―インタビュー記事抄訳おわり―


ココ


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主はよみがえられた。Χριστός Ανέστη!



キリストは死者の中からよみがえって、もはや死ぬことはなく、
死はもはやキリストを支配しないことを、
私たちは知っています。

ローマ6:9





死のかせの中に主は横たわり、

われわれの咎のために屠られた。



しかし、今日、この方は蘇られた!



そう、キリストは再び、私たちにいのちをもたらしてくださったのだ。



だから、皆、喜ぼう。

そして歓喜の声を挙げ、高らかに歌おう。


ハレルヤ!




今や、われわれの過越しの小羊は、主ご自身である。


そして主によってのみ、

われわれは生きるのだ。



木に架けられ、

われらのために、ご自身を捧げられたイエス。



信仰により、われわれは、みずからの戸に主の血潮を塗る。




そう、死はもはや

われわれを害することなど

決してできないのだ。


ハレルヤ!





主の晩餐に招かれ、

今日、喜びつつ、そこに向かおう。



平和のことばが今や回復され、

古いパン種は

取り除かれた。



そして、これからは、

キリストだけがわれわれの糧となるのだ。



さあ、信仰により、

他のなにものでもない、

主のいのちだけを持し、

生きていこうではないか。


ハレルヤ!





Martin Luther, Christ lag in Todesbanden, 1524
trans. by Catherine Winkworth, 1855
私訳





おまけです

↓日本語の聖歌では172番「はかのなかに」に該当する賛美です。
これを聴いてみなさんも元気になってください!








幻が色あせ、

さまざまな事への感覚や力が、

空気の色のように

はかなく消え去ってしまうとき、



そして、

汝にささげ物を

携えてゆく力を

もはや失ってしまったとき、



祈ることもできないとき、、、





そんな時、

パラダイスから吹きよせてくる

よそ風のように、



私の耳に、魂を癒すことばが

ふっと入ってくる。



「私が手を上げることが、

夕べのささげ物として

立ち上りますように。」



そう、主はたしかに聞いてくださる。





Amy Carmichael, No Strength to Pray
私訳






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神よ。私を救ってください。
水が、私ののどにまで、はいって来ましたから。

私は深い泥沼に沈み、足がかりもありません。
私は大水の底に陥り、
奔流が私を押し流しています。

詩篇69:1,2




The Pilgrim's Progress(『天路歴程』)

~主人公のクリスチャン、落胆の沼に落ち込む~
(私訳)



私は夢の中で、クリスチャンと優柔君が、大野の真ん中にある、たいそうぬかるみの深い泥沼のそばに近づいているのを見ました。

そして、ああ、気を取られていたので、二人とも、たちまち、その沼の中に落ちてしまいました。

この泥沼の名前は、「落胆」でした。



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泥沼の中で必死にもがくクリスチャンと優柔君



落ち込んだ彼らはそこでのたうち廻り、ひどく泥まみれになりました。

クリスチャンは背中に背負っていた荷物のために、ぬかるみの中に沈み始めました。



(中略)[沼から這い上がった優柔君、あがき廻るクリスチャンを見捨てて去ってしまう。]



こうして、クリスチャンはひとり残されて「落胆の泥沼」の中で転げ回っていました。

しかしながら、夢の中で見ていると、ヘルプ氏という名の一人の男が彼の所へやって来ました。


ヘルプ:「そこでいったい何をしているのですか?」


:「私は、エヴァンジェリスト[=宣教者]という方に『この道を行け』と言われたんです。

その方はまた、来るべき神の怒りを逃れるために、向こうの門へ行くよう、私に教えてくださいました。

で、そちらへ向かって歩いているうちに、ここへ落ち込んでしまったのです。」


ヘルプ:「でも、どうして踏み石を探されなかったのです?」


:「恐怖がものすごい勢いで迫ってきましたので、近道をして逃げ出し、そこで、落っこちてしまいました。」

ヘルプ:「さあ、手をこちらにおかしなさい。」



そこでクリスチャンは彼に手を差し出し、ヘルプ氏は彼を沼から引き出しました。

そうして、しっかりした地面に彼を置きました。

それからまた「この道を進んで行きなさい」とクリスチャンに言いました。



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助け出されるクリスチャン


詩篇40:1,2

私は切なる思いで主を待ち望んだ。
主は、私のほうに身を傾け、私の叫びをお聞きになり、

私を滅びの穴から、泥沼から、
引き上げてくださった。

そして私の足を巌の上に置き、
私の歩みを確かにされた





祈り

主よ、落胆の沼に落ち込み、もがき苦しんでいる方々の元に、今日、「ヘルプ氏」を送ってください。

そしてその方を再び、堅い巌(いわお)の上に置いてください。

イエス様の御名によってお祈りします。アーメン。