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詩篇128:3a
妻は家の奥にいて、豊かな房をつけるぶどうの木。
Thy wife shall be as a fruitful vine, in the innermost parts of thy house. (ASV訳)
the innermost parts:最も奥の部分、最も内奥の、中心部の、最も深い部分。
1ヨハネ4章1-3節
愛する者たち。霊だからといって、みな信じてはいけません。それらの霊が神からのものかどうかを、ためしなさい。なぜなら、にせ預言者がたくさん世に出て来たからです。
人となって来たイエス・キリストを告白する霊はみな、神からのものです。それによって神からの霊を知りなさい。
イエスを告白しない霊はどれ一つとして神から出たものではありません。それは反キリストの霊です。あなたがたはそれが来ることを聞いていたのですが、今それが世に来ているのです。
人がキリストに出会い、神に従う者とされる。これ以上の奇跡はありません。
そうした意味で「イエス様を信じればこんな奇跡に恵まれる」というような奇跡の喧伝には、私は賛成しかねます。
神様との関係そのものよりも、神様が何をくれるかばかりに私たちが焦点を当てる時に、繁栄の神学への傾倒が始まるのではないかと思います。
δοκιμαζω(dokimazo)
=確かめる、見分ける(新改訳)、吟味する(新共同訳、岩波訳)、検討する、ためす(文語訳)、判別する、識別する(口語訳)、真偽を見別ける(塚本訳)、
prove, test, examine, distinguish by testing, approve after testing
1コリント13:4a
愛は寛容であり、、
Love suffereth long...(ASV訳)
Η αγαπη μακροθυμει.
μακροθυμω(makrothumeó)
=怒りを延ばす、怒ることを遅くする、長く忍苦する、辛抱強くする、耐え忍ぶ、忍耐する、忍耐強く待つ、寛容である、堪忍する,
suffer long, be patient, have patience, am forbearing, perseverance
longsuffering:
苦境――特に、他の人々によって引き起こされる苦しみ――の内にあって忍耐を示すこと
Kinuko's note:
σιτος ειμι θεου και δι΄οδοντων θηριων αληθομαι, ινα καθαρος αρτος ευρεθω του Χριστου.
(私は神の小麦であり、野獣の歯(牙)によってすりつぶされ、粉にされます。そうすることにより、私は純粋なキリストのパンとして見いだされることでしょう。)
私たちは神の小麦。人生におけるさまざまな試練、鍛錬、懲らしめ(ヘブ12:9)を通して、小麦の粒は痛みながらすりつぶされていき、やがて「平安な義の実を結ぶ」純粋なキリストのパンとして整えられていくということでしょうか。私たち一人一人の人生の道程において、ただ主のみこころだけがなりますように。
ουδε το σωμα μου ο κοσμος οψεται.
(この世は私の体(なきがら)を目にすることはなく、、)
この節を読んだとき、パウロの次のことばを思い出しました。
私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が、この世に生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。ガラテヤ2:20
Χριστω συνεσταυρωμαι. Ζω δε, ουκετι εγω, ζη δε εν εμοι Χριστος. Ο δε νυν ζω εν σαρκι, εν πιστει ζω τη του υιου του θεου, του αγαπησαντος με και παραδοντος εαυτον υπερ εμου.
「もはや私が生きているのではなく」――この世のあらゆるものに対して死んだ者、「世界に対して十字架につけられた」者として(ガラ6:14)、生き死ぬことができたらと思いました。
雲一つ秋空深く上りゆく
句集「石魂」(1953年)より
マタイ6:22
目はからだのあかりである。だから、あなたの目が澄んでおれば(=απλους)、全身も明るいだろう。
Covered glory=覆われた(人間の)光栄
Exposed glory=さらけ出された(人間の)光栄、露出された光栄、見せびらかしの光栄
黙19:11-16
11 またわたしが見ていると、天が開かれ、見よ、そこに白い馬がいた。それに乗っているかたは、「忠実で真実な者」と呼ばれ、義によってさばき、また、戦うかたである。
12 その目は燃える炎であり、その頭には多くの冠があった。また、彼以外にはだれも知らない名がその身にしるされていた。
13 彼は血染めの衣をまとい、その名は「神の言」と呼ばれた。
14 そして、天の軍勢が、純白で、汚れのない麻布の衣を着て、白い馬に乗り、彼に従った。
15 その口からは、諸国民を打つために、鋭いつるぎが出ていた。彼は、鉄のつえをもって諸国民を治め、また、全能者なる神の激しい怒りの酒ぶねを踏む。
16 その着物にも、そのももにも、「王の王、主の主」という名がしるされていた。
Kinuko's note:
ινα μη μονον λεγωμαι Χριστιανος αλλα και ευρεθω.
(私は名ばかりの「キリスト者」ではなく、実際にそのような者として見いだされることでしょう。)
「弟子たちはアンテオケで初めて、キリスト者と呼ばれるようになった。χρηματισαι τε πρωτον εν Αντιοχεια τους μαθητας Χριστιανους.」(使11:26b)。
アンテオケ教会の基礎を築いたパウロとバルナバの跡を継ぎ、牧者となったイグナティオス。この教会において初めてイエス様を信じる者がクリスチャンと呼ばれるようになったという事実を感慨深く思い出しました。
現在「クリスチャン」という名称は、別段、重みも感動もなく使われてしまっている感がありますが、イグナティオスの上記の言葉からは、聖い救い主「キリスト」につく者、その名を帯びる者としての強烈な自覚と、初々しい歓び、またそれにふさわしい生き方をしたいというひたむきな思いがひしひしと伝わってき、心動かされました。
*尚、8行目以降は、英訳版のバージョンから訳しました。ちなみに他の版は次のような原文でした。
ουδεν φαινομενον καλον. Ο γαρ θεος ημων Ιησους Χριστος εν πατρι ων μαλλον φαινεται. Ου πεισμονης το εργον, αλλα μεγεθους εστιν ο Χριστιανισμος, οταν μισηται υπο κοσμου.