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ανατολη (anatole) 日の出




永遠の夜明け!
尽きることのない光の海からの光。
今や汝の耀きを隠すものはなにもなく、
輝かしい御力により、夜闇はことごとく消え去る。




ああ愛の朝露が
まどろむ私たちの良心に降り注がんことを。

上よりの いとも優しきこの慰めが
からからに乾いた人生の平原を流れてゆく。
ああ、日々、汝の群れに、
岩よりの水をお与えください。





熱情のような愛の輝きが
冷たき従順を溶かさんことを。

紅潮する東方の天と共に、
私たちの心を、力と喜びで目ざめさせたまえ。
さあ、いのちの落陽する前に、
われわれは高く昇天しよう。





東の空に顕れし いとも輝かしい星よ。
おお最後の朝よ 現れ出よ。

われ肉体の痛みより解き放たれ、
上に昇るとき、
わが身は
太陽のごとく
喜びの走路を駈け抜けるだろう。





主よ、彼方の世界へと導く 
われわれの光となりたまえ。

おお汝こそ 輝く恵みの太陽。
悲哀に満ちた夜を通じ
晴れ渡りし かの祝福された地へと
われわれを導きたまえ。

そこにおいて、われわれは ついに
もはやけっして朽ちることのない喜びの地へと
昇りゆくだろう。





Morgenglanz der Ewigkeit, Von Rosenroth. 1684.
trans. by Catherine Winkworth, 1855
私訳


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True Feminine Beauty Hides Herself In The Innermost Parts Of His House


詩篇128:3a


妻は家の奥にいて、豊かな房をつけるぶどうの木。

Thy wife shall be as a fruitful vine, in the innermost parts of thy house. (ASV訳)


the innermost parts:最も奥の部分、最も内奥の、中心部の、最も深い部分。





自己宣伝、自己主張、自己顕示、自己実現が奨励され、促進される時代にあって、女性らしい真の美は、この御方の家の、最も内奥の部分に身を隠そうとします。


名声やこの世の注目を渇望する騒々しい外庭から静かに身を引き、この美は秘められた部屋へと向かい行くのです。


――そこで、天の花婿である主と、秘めやかにして甘美な交わりをするために。


「汝の御前には喜びが満ちています!」と彼女は叫びます。



女性らしい真の美は、秘密の花園のようであり、また周囲の目には隠された、豊房のぶどうの木のようです。


そこでは少女のようなはにかみや恥じらい、そして控え目なつつましさが内なる美徳として庭園を飾っています。


今世紀にあって、この美を追求し、この美のうちにとどまろうとする女性たちには果断さと断固とした決意が必要とされます。


この庭園――聖書的女性像(biblical womanhood)――に入るための鍵を見い出すには、信仰と、価値観の根本的パラダイム・シフトがなければならないからです。


願わくば、私たちの存在すべてが、今よりとこしえまで、王の王イエスに捕らわれ、この方のみによって私たちの心が占められますように。アーメン。





少し前に、近所のバングラデシュ人の奥さん(スンニ派)が魚の骨を喉にひっかけ、私たちは彼女を病院に連れていきました。


それからしばらくして、その家に招かれ、夕食をごちそうになったのですが、その時、そこの家のご主人が私たちに次のような興味深いことを話してくれました。


それによると、お嫁さんが病院に行ったことを聞きつけた故郷バングラにいる彼のご両親が、「なぜ病院にわざわざ彼女を連れて行ったのか?うちのかかりつけの治療師に頼めば、すぐにでも喉に詰まった骨を取り除いてもらえたのに、、」と言ってきたというのです。


「バングラデシュにいる治療師が、どうやってギリシャにいるこの奥さんの喉に詰まっている骨を取り除けるの?」と私は唖然として、このご主人にさらなる説明を求めました。


すると彼曰く、この治療師は、イスラム教のプロの霊師でもあり、彼が「信仰によって」祈れば、地理的に何千キロ離れた所にいる患者やけが人であっても実際に癒されるというのです。


ある村の家に、毒コブラが入り込んだそうです。


そこでそこの家の人はこの霊師にお金を払い、彼を呼びました。すると、彼は玄関戸をくぐるなり、霊の目で、コブラの隠れている場所を正確に見極め、目にもとまらぬ速さでコブラを退治したそうです。


☆☆


「奇跡と癒しのミニストリー」がキリスト教界をにぎわせています。


私は聖霊の顕現としての癒しや各種賜物を信じており、実際に、自分の目の前で真正なる癒しと奇跡のわざを目撃したこともあります。


その方は某国のテロ組織にいた方でしたが、夢の中で、ある声が「バプテスマを受けなさい」と彼に語りかけました。


数日後、また夢の中で同じ声が、「バプテスマを受けなさい」と彼を促しました。怖くなった彼は当時読みかけていた聖書を棚にほうり込み、もうこういう「惑わしの本」に関わり合わないことにしたそうです。


しかしそれからまた数週間して、また同じ声がし、今度は「洗礼を受けなさい。そうすれば、麻痺しているあなたの右手も癒されるだろう」と非常に具体的なことまで語られたそうです。


そこでついに彼は意を決し、キリスト教会でバプテスマを受けることにしました。10時頃、洗礼式があり、その後、兄弟姉妹と共に、わが家でお祝い会をしました。


今でも――彼の座っていたソファーの位置まではっきり覚えていますが――、お昼の3時ごろ、神経系の病気で麻痺していた彼の右手のくるぶしが動き始めたのです!


彼はその癒しを通し、イエス・キリストがまごうことなき救い主であるという信仰が強められ、信仰の試練に遭うたびに、癒された自分の右手をみて、救いの原点に立ち返ることができたとその後、証してくれました。すばらしい証だと思います。


しかしながら、聖霊さまご自身よりも、聖霊の賜物やしるしや体験の方に人のフォーカスが移っていく時、私たちの霊的識別力は澱(よど)み始め、ついには「イエスを告白しない霊」(1ヨハネ4:3a)の力による「癒しと奇跡のミニストリー」に深入りするという危険に陥ってしまうのではないかと思います。


冒頭でもお話しましたように、聖霊以外の「霊」によっても、めざましい「奇跡と癒しのミニストリー」は行われ得るからです。


先日も、イエスさまを信じた元ムスリムの女性が、(回心前に体験した)幽体離脱や、その他さまざまな霊的体験などについて語り、「これらも神様の働きだと私は信じています」と主張しておられたので、私は、1ヨハネ4章を開いて、彼女に読んでさしあげました。



1ヨハネ4章1-3節


愛する者たち。霊だからといって、みな信じてはいけません。それらの霊が神からのものかどうかを、ためしなさい。なぜなら、にせ預言者がたくさん世に出て来たからです。


人となって来たイエス・キリストを告白する霊はみな、神からのものです。それによって神からの霊を知りなさい。


イエスを告白しない霊はどれ一つとして神から出たものではありません。それは反キリストの霊です。あなたがたはそれが来ることを聞いていたのですが、今それが世に来ているのです。




ある方が、次のような思慮深いメッセージをしておられましたので、それを引用したいと思います。ある国のペンテコステ派の教会に通っておられる信徒の方です。


人がキリストに出会い、神に従う者とされる。これ以上の奇跡はありません。

そうした意味で「イエス様を信じればこんな奇跡に恵まれる」というような奇跡の喧伝には、私は賛成しかねます。

神様との関係そのものよりも、神様が何をくれるかばかりに私たちが焦点を当てる時に、繁栄の神学への傾倒が始まるのではないかと思います。





「すべてのものを識別し、、」(1テサロニケ5:21a)

παντα δε δοκιμαζετε


δοκιμαζω(dokimazo)

=確かめる、見分ける(新改訳)、吟味する(新共同訳、岩波訳)、検討する、ためす(文語訳)、判別する、識別する(口語訳)、真偽を見別ける(塚本訳)、

prove, test, examine, distinguish by testing, approve after testing





祈り

天のお父様、イエス・キリストの御名によって奇跡を行ない、悪霊を追い出し、癒しを行なう教師やネットを通したミニストリーが、教会内外に溢れています。

それらの教師が本当に、十字架を背負いイエス・キリストの足跡に従う、へりくだりの人であるのかどうかを見分ける識別力を私たち一人一人にお与えください。

また、私たちを十字架の道に導かないあらゆる偽りの霊およびそれらの霊の虜になっている教師たちと、私たちがはっきり袂を分かつことができるよう助けてください。イエス・キリストの御名によってお祈りします。アーメン。





1コリント13:4a



愛は寛容であり、、

Love suffereth long...(ASV訳)

Η αγαπη μακροθυμει.



μακροθυμω(makrothumeó)

=怒りを延ばす、怒ることを遅くする、長く忍苦する、辛抱強くする、耐え忍ぶ、忍耐する、忍耐強く待つ、寛容である、堪忍する,

suffer long, be patient, have patience, am forbearing, perseverance


longsuffering:

苦境――特に、他の人々によって引き起こされる苦しみ――の内にあって忍耐を示すこと





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悲嘆や哀しみの日々も あともう少し。


どんなに夜闇が濃くとも、
やがて 雲ひとつない 
晴れ渡った明日が来る。





暗い影や悲哀の日々も あともう少し。


その後に訪れる 

永遠に沈むことのない
太陽の光と喜び。





あともう少し。



そうした後、河の向こうにある家にたどり着く。

やすらぎと、勝利と、いのちと、喜びの尽きない
永遠の家に――。




Fanny Crosby, Blest, Blest Forever
私訳






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第4章 



純粋なキリストのパンとして






私は、すべての教会に宛てて〔この手紙を〕書いており、すべての方々に使信を伝えますが、あなたがたによる妨げがない限り、私は自ら進んで神のために死のうと思っています。


あなたがたに嘆願します。どうか、時期に適わない好意を私に示さないでください。そして私が野獣のえじきとなるがままにさせてください。――これにより、私はついに神の元に到達することができるのです。


私は神の小麦であり、野獣の牙によってすりつぶされ、粉にされます。そうすることにより、私は純粋なキリストのパンとして見いだされることでしょう。


むしろ野獣をおびき寄せてください。そうすれば、そこが私の墓となり、わが肉体は跡形もなくなるので、〔死において〕眠りにつく時、私は誰にも迷惑をかけることがないでしょう。


こうしてこの世は私の体(なきがら)を目にすることはなく、私はイエス・キリストの真の弟子になるでしょう。


私のために主に祈り求めてください。――これらの〔野獣という〕手段により、私が神への犠牲として見いだされんことを。


私は、ペテロやパウロのように、あなたがたに掟を出しはしません。彼らは使徒たちですが、私は囚人です。彼らは自由人でしたが、私は今に至るまで奴隷です。


しかし、もしも苦しむなら、私はイエス・キリストにある自由人となり、主にあって解放された者として、やがて復活するでしょう。


今、私は主のために囚われの身となっていますが、この世のどんなものにも心惹かれない術を学んでいます。






Kinuko's note:



σιτος ειμι θεου και δι΄οδοντων θηριων αληθομαι, ινα καθαρος αρτος ευρεθω του Χριστου.

(私は神の小麦であり、野獣の歯(牙)によってすりつぶされ、粉にされます。そうすることにより、私は純粋なキリストのパンとして見いだされることでしょう。)


私たちは神の小麦。人生におけるさまざまな試練、鍛錬、懲らしめ(ヘブ12:9)を通して、小麦の粒は痛みながらすりつぶされていき、やがて「平安な義の実を結ぶ」純粋なキリストのパンとして整えられていくということでしょうか。私たち一人一人の人生の道程において、ただ主のみこころだけがなりますように。





ουδε το σωμα μου ο κοσμος οψεται.

(この世は私の体(なきがら)を目にすることはなく、、)



この節を読んだとき、パウロの次のことばを思い出しました。


私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が、この世に生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。ガラテヤ2:20

Χριστω συνεσταυρωμαι. Ζω δε, ουκετι εγω, ζη δε εν εμοι Χριστος. Ο δε νυν ζω εν σαρκι, εν πιστει ζω τη του υιου του θεου, του αγαπησαντος με και παραδοντος εαυτον υπερ εμου.



「もはや私が生きているのではなく」――この世のあらゆるものに対して死んだ者、「世界に対して十字架につけられた」者として(ガラ6:14)、生き死ぬことができたらと思いました。




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コスモス開き、さざんか咲き、もくせい匂い、菊花かおる。灯前、夜静かにして筆勢急なり。知る、天啓豊かにて秋たけなわなるを。ー内村鑑三



秋霖(しゅうりん)ということばがあります。


秋の初めに降りつづく雨のことです。ギリシャではこの時期もほとんど雨は降りませんが、今朝、窓を開けて外をみると、めずらしく小雨が降っていました。


このような秋霖の後、空が澄み高く感じられるさまを、日本語の季語では、秋高し(あきたかし)というそうです。


雲一つ秋空深く上りゆく


句集「石魂」(1953年)より




天空がこのように澄んでいるように、私の目も澄んでいれば、どんなにかいいだろうと思いました。


マタイ6:22

目はからだのあかりである。だから、あなたの目が澄んでおれば(=απλους)、全身も明るいだろう。




απλους (haplous) 

=単純な、単一な(心が一つである、一つのものに集中している)、純一な、一途な、健全な、single, clear, sound, healthy, unclouded



外なるものに閉じて、内なるものに開いている目は幸いである。-ケンピス



祈り
主よ、私たちの心の目をあなたから逸らそうとするものは、内に外に多くあります。どうか、この世のどんなものによっても曇らされない、一途で、ひたむきで、純一で、澄んだ信仰の目をお与えください。日々、秋霖のようなあなたの恵みの雨によって、心や思いの濁りが残らず洗い流され、清められますように。イエスさまの御名によってお祈りします。アーメン。




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Covered glory=覆われた(人間の)光栄


Exposed glory=さらけ出された(人間の)光栄、露出された光栄、見せびらかしの光栄






奇跡の宣伝、
癒しの宣伝、
ビジョンの宣伝。



かまびすしい人間の騒音と
ラッパの音。






覆われ
秘められるべきもの、


神秘のヴェールが
はぎとられ、


無慙(むざん)な姿を 
白昼にさらしている。





「まことに、あなたがたに告げます。
彼らはすでに自分の報いを受け取っているのです。」






奥まった部屋、
隠れた所、
ちいさき者の道、





おお主よ、

私たちを岩の裂け目、
十字架の御蔭に
隠してください。








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キリストの模範



私たちはキリストの模範から真の男らしさを学ぶことができると思います。ええ、たしかに主イエスは、病人を癒し、子どもを抱き上げ、ご自身のことを「良い羊飼い」とおっしゃった通り、いとも深き優しさ、謙遜、そしていつくしみの心をお示しになりました。


しかしその一方で、主は超自然的な力と強さをもお示しになられました。


――風や波を鎮め、水の上を歩き、宮で商売をしていた両替人たちを鞭で追い出し、崖から突き落とそうとしていた怒り狂う群衆の真ん中を抜け、この世の咎をご自分の身に背負い、罪と死を征服され、そして三日目に復活されました。


黙示録には次のようなことが書いてあります。



黙19:11-16


11 またわたしが見ていると、天が開かれ、見よ、そこに白い馬がいた。それに乗っているかたは、「忠実で真実な者」と呼ばれ、義によってさばき、また、戦うかたである。

12 その目は燃える炎であり、その頭には多くの冠があった。また、彼以外にはだれも知らない名がその身にしるされていた。

13 彼は血染めの衣をまとい、その名は「神の言」と呼ばれた。

14 そして、天の軍勢が、純白で、汚れのない麻布の衣を着て、白い馬に乗り、彼に従った。

15 その口からは、諸国民を打つために、鋭いつるぎが出ていた。彼は、鉄のつえをもって諸国民を治め、また、全能者なる神の激しい怒りの酒ぶねを踏む。

16 その着物にも、そのももにも、「王の王、主の主」という名がしるされていた。




これが私たちのイエス様です。――究極的な男性、究極的な王。主イエスほど偉大にして、力強く、強靭で、勇猛なお方は他にいません。


このような荘大な威厳と威光を前にして、私たちは、「イエス様は打たれ弱く、軟(やわ)なお方だったのだから、僕たちだって、そうであっていいじゃない」と言うことはできるでしょうか。


キリストにおいて、私たちは真の「強さ」と「繊細さ」の究極的融合をみることができます。


主は鉄の杖をもって国々を治められる一方、平和の君でもあられます。主は激しく風や波に命じ、それらを従わせましたが、その一方で、幼い子供たちは主の御腕の中に優しい隠れ家を見い出したのです。また主こそ真の従軍詩人です。


そして1ペテロ2:21に書いてあるように、キリストは、その足跡に従うようにと、私たちに模範を残してくださいました。(兄弟のみなさんにとっては)従うべきこの模範の中に「男らしさ」という要素も含まれていると思います。


この世の文化ではなく、キリストの模範――これに男性たちは従うよう召されていると信じます。イエス様はまったくメトロ的男性ではありませんでした。今こそ、私たちは、男性のみなさんが王の王である主イエスの基準に従うことができるよう励ましていくべきだと思います。


しかし誤解しないでください。私は「一つのことにしか興味を示さない専門おたく的な男性」のことを奨励しているわけではありません。現在よく見られる自己中心的で、獣欲主義的な若い男性たちの姿は、本物の神の戦士像の見せかけ・偽造にすぎません。


そうではなく今こそ、私たちは神のお持ちになっている男らしさのビジョン――キリストのような力強さと、キリストのような繊細さの融合――を掴み直す時期に来ていると思います。


純潔を踏みにじるのではなく、それを守ってくれる男性。


現代の社会的コレクトネスに迎合しようとやっきになるのではなく、あくまで真理のために立ち上がろうとする男性。


わが身の定評や人気や願望以上にイエス・キリストを第一にする男性。




おわりに




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source




今日の男性たちの間に、こういった種類の真の男らしさの兆しがみえた時、私たちはそれが女性的なやさしさを帯びていないからといって不満を言ってはいけないと思います。また、少々無骨に聞こえるかもしれない彼らの声のトーンに気分を害したりしてもいけないと思います。


覚えておきたいのは、神様は男性たちを女性にお造りになったわけではないという事実です。そうです、神様は男性をあくまで男性としてお造りになったのです!


男性たちが立ち上がり、神の御霊による喊声(battle cry)に勇ましく応答することができるよう――そのためのスペースを、私たちは今こそ彼らのために造ってあげるべきです。


男性たちが、真理のために堅く立ち、大胆に雄々しく自らの確信を表明し、神の授与された男性的な力の限りを尽くし神の戦場で戦う――そのことが許され、奨励されなければなりません。


女性のみなさん、今日、神様はそのような強靭な神の男性たちをお立てになろうとしておられます。どうか私たちがそのご計画の邪魔をする者ではなく、むしろそれに進んで協力していく者となることができますように。


ポップ文化は今後も、女性化され、気概なく、誰の気分も害さず、ふわふわ「皆に好かれるタイプの」男性像を普及させていこうとするでしょう。


しかし主よ、私たちに、気骨と根性と力、そして戦場での鬨声を鳴り響かせる、そのような男性たちをお与えください。


なぜなら、男性が真の男性である時、おとぎ話は現実のものとなるからです。


そうです。男性が真の男性として生きる時、その時、世界はイエス・キリストゆえに、ひっくり返ることになるのです。





ーおわりー





Letting Guys be Guys: Making Room for Strong Masculinity by Leslie Ludy, 2012


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Leslie Ludy




最近、私は、ある女性集会でお話をしたのですが、その席で私は主人のエリックにもスピーチを頼みました。


そこで、集会の締めとして主人が、情熱と権威をもち真理を語ってくれたのです。彼の言葉は愛と憐れみに満ちていましたが、それと同時に力に満ちたものでもあり、多くの女性たちが感銘を受けたそうです。


しかしながら、そんな彼のメッセージにひどく憤慨された女性たちもおられました。彼女たちの憤慨は、主人の語った真理そのものに向けられていたのではなく、彼が力をもってそれを語った、その行為に気分を害されたのでした。


端的にいうと、問題は主人の語り口が、ちょっと「男らしすぎた(too masculine)」ことにありました。もちろん、これは女性の集会だったので、こんなに「男性的な」何かを聞くことになるとは予想していなかった方もおられたのかもしれません。


しかし、一人の女性として私は個人的に、福音の真理をこのように力強く、権威の満ちた仕方で語ろうとしている男性の姿に、励ましと感銘を受けます。


しかし現代の多くの女性たちは私とは違った見解を持っていらっしゃいます。彼女たちは、気骨があり、剛毅な男性よりは、やんわりしたソフトな話し方の、ちょっと及び腰の男性の方を好んでいるようなのです。





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でもよくよく考えてみると、それは皮肉なことだと思います。女性たちは男性が立ち上がり、誉と尊敬を受けるふさわしい勇猛で英雄的な姿を見たいと強く望んでいるのです。それなのに、いざ真に男らしい男性に遭遇するや、私たちの女性感覚はそれに苛立ちを覚えてしまうことがよくあります。


なぜでしょう?なぜなら、私たちの女性感覚は、世俗文化によって「教育」を受け、仕込まれてきているからです。そしてその文化は、「男性が真の意味で男性になることは社会的によろしくない」というメッセージを私たちに発し続けているのです。


メディア、ファッション業界、ゲイ社会、そして大半の女性界は一丸となって、現代の男性たちから「ごつごつした気概」を抜き去ろうとしています。その結果、――通常、「メトロ男性像(Metro Manhood)」と呼ばれている――偽の男性像が生み出されてしまったのです。





メトロ男性像とは何か?




メトロ男性というのは、男性というよりはむしろ女性に近いような行動をとる男の人たちのことを指していう言葉です。


たしかに最近の流行りでは、女性たちはひどく繊細で当たりの柔らかい男性を称賛する傾向にあると言われていますが、実際には、メトロ版の男性性というのは、女性が真に望んでいるものとしては、はるかに物足りないものなのです。


ある若い男性が私に言ってくださったように、もしも、男らしさ(masculinity)から「男性的なもの」を取り除いてしまうなら、そこに残る社会は「脆弱な男性と、無防備な女性」ということになってしまうかもしれません。


若い娘たちなら誰でも(その子がこの世の差し出すフェミニスト・アジェンダによって洗脳されるまでは)次のような夢を胸に抱いています。


――目の前には英雄的な騎士がいて、彼は彼女を守るために邪悪な竜をやっつけ、そしてその後、さっそうと彼女をお城へと運び入れてくれるのです。


しかしメトロ男性はそうではありません。彼らは洗ったばかりの自分のジーンズやムースで固めた髪が乱されることを気にする余り、一人の女性を守るために、自分の手を泥で汚してまでアクションを起こそうとはしません。


メトロ男性像は、男性のソフトな面だけを強調し、創造主により男性に与えられている生来の力を完全にないがしろにしています。


また、この男性像は――神さまが男性のためにデザインされた繊細さ、崇高さ、威厳といったものを定義するのに――キリストに模範を仰ぐ以上に、ファッション業界やポップ文化にその模範を求めています


その結果、骨抜きで可もなく不可もないような種類の「男らしさ」が生み出され、そこに、若い男性たちは自分たちの身勝手さ、怠惰、根性のなさ、軟弱さの隠れ蓑を見い出していると思います。


私たちを取り巻く現代文化は、真理のために堅く立ち、己の信じるところに堅固な男性を疎んじようとします。


その結果、見てください。実際に善戦している男性、何かのために大胆に立ち上がろうとしている男性の何と少ないことでしょう!


こうして多くの男性は、闘う代わりに、ソファーにゆったりと腰かけ、Haloゲームやアクション映画に興じています。


――その一方で、真の命に溢れた勇敢な戦士たちがいないために、今この瞬間にも死にゆくこの世は滅びに向かっているのです。



(後篇)につづきます。






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第3章
 

真のキリスト者として見いだされたい!





あなたがたは決して誰かを妬みの眼でみたことはなく、これまで他の人々に教示を与えてきました。


そういった事が[あなたの行ないによって]確かなものとされ、あなたの教えによって[他の人々も]あなたの行ないに倣うようになることを望みます。


内的そして外的力により自分として願う唯一のことは、口先だけで言うのにとどまらず、[真に]意志し望むことです。そうすれば、私は名ばかりの「キリスト者」ではなく、実際にそのような者として見いだされることでしょう。


なぜなら、もし〔キリスト者として〕真に見いだされるなら、そのように呼ばれることにもなるでしょう。そして、もはや自分がこの世に姿を現さない時、その時、私は忠実な者とみなされるでしょう。


目に見えるものは何ひとつとして永遠ではありません。「見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。」クリスチャンは説得〔の言葉〕によるものではなく、力によって生み出されます。


世に憎まれる時、クリスチャンは神に愛されているのです。なぜなら〔聖書は〕こう言っているからです。


「もしあなたがたがこの世のものであったなら、世は自分のものを愛したでしょう。しかし、あなたがたは世のものではなく、かえってわたしが世からあなたがたを選び出したのです。」ですから「わたしとの交わりの内にとどまりなさい」と。




Kinuko's note:


ινα μη μονον λεγωμαι Χριστιανος αλλα και ευρεθω.

(私は名ばかりの「キリスト者」ではなく、実際にそのような者として見いだされることでしょう。)


「弟子たちはアンテオケで初めて、キリスト者と呼ばれるようになった。χρηματισαι τε πρωτον εν Αντιοχεια τους μαθητας Χριστιανους.」(使11:26b)。


アンテオケ教会の基礎を築いたパウロとバルナバの跡を継ぎ、牧者となったイグナティオス。この教会において初めてイエス様を信じる者がクリスチャンと呼ばれるようになったという事実を感慨深く思い出しました。


現在「クリスチャン」という名称は、別段、重みも感動もなく使われてしまっている感がありますが、イグナティオスの上記の言葉からは、聖い救い主「キリスト」につく者、その名を帯びる者としての強烈な自覚と、初々しい歓び、またそれにふさわしい生き方をしたいというひたむきな思いがひしひしと伝わってき、心動かされました。


*尚、8行目以降は、英訳版のバージョンから訳しました。ちなみに他の版は次のような原文でした。

ουδεν φαινομενον καλον. Ο γαρ θεος ημων Ιησους Χριστος εν πατρι ων μαλλον φαινεται. Ου πεισμονης το εργον, αλλα μεγεθους εστιν ο Χριστιανισμος, οταν μισηται υπο κοσμου.


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