5.どちらの立場を採るべきか決めかねている、あるいは決断を差し控えているグループ



その他のエヴァンジェリカル界は、今もってこの問題に関する明確な結論を出すことができずにいるか、もしくは、同じ団体内にあって、どちら側の見解もかまわないという決定を出しています。


多くの福音主義神学校がこのカテゴリーに入るでしょう。私が20年間教鞭を取っていたイリノイ州にあるトリニティー神学校がその一例です。


この神学校では大多数の教授陣が2ポイント相補主義(*つまり、①家庭内でも、②教会内でも、その両方で相補主義)に立っていますが、少数派ではあっても有力な対等主義者の教授たちも学内に存在します。


ゴードン・コンウェル神学校でも同様に、両方の見解を教授陣に許容しています。


しかし、新約学の教授陣としてのアイダ・スペンサー(Aida Spencer:常勤)およびカテリーン・クローガー(Catherine Kroeger:非常勤)両女史の存在が意味するところは何かと申しますと、ゴードン・コンウェル神学校では、対等主義の見解が、他の神学校に比べ、はるかに強力であるということです。(両女史は、影響力のある対等主義著述家であり、スピーカーです。)


イリノイ州にあるホィートン大学および、ミネソタ州セント・ポールにあるベテル・カレッジ/神学校も同様に、教授陣の中に、相補主義、対等主義、両方の見解の持ち主が存在します。





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4.強い指導者に影響を受けた対等主義者(Leader-influenced Egalitarians)



プロテスタント陣営内の団体の中には、一人か二人の強力な指導者の影響により、主として対等主義の立場を受け入れたグループも存在しています。


このカテゴリーに入るのは、米国のインターヴァーシティ・クリスチャン・フェローシップ(IVP)です。


この学生宣教団体は、つい最近まで会長を務めていたスティーブ・ヘイナー(Steve Hayner)氏の指揮の下、強力な対等主義路線を採るようになりました。


報告によると、ヘイナー氏の指導下にあった当時、IVPのスタッフの中で相補主義の立場に立っていた人々は、公に相補主義の立場に立った教えをすることが許されていなかったということです。(註1


また米国IVP出版社の著作類をみましても、同社の編集方針における強力な対等主義路線が露見されます。同社は数多くの対等主義に立つ著書を出版してきましたが、その反面、この20年の間、相補主義の立場から書かれた本は出版していないようです。


私はウィロー・クリーク・コミュニティー・チャーチをこのカテゴリーに入れます。なぜなら、この教会は開拓当初から、ホィートン大学神学教授であるギルバート・ビレジキアン氏(Gilbert Bilezikian:現在定年退職)の強い影響を受けてきたからです。



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ビレジキアン教授は、開拓初期からウィロー・クリーク教会の長老を務めてこられ、氏の著書であるBeyond Sex Rolesは、エヴァンジェリカル界における一連の運動の中で、最も甚大な影響力をもつ対等主義の本の一つとみなされています。


(従って、ウィロー・クリーク教会は、このカテゴリーにも、それから前項の「文化的センシティブ対等主義」のカテゴリー両方に適合しているわけです。)


最後に、Christians for Biblical Equality (CBE)のこともこの項で挙げておきます。


CBEはパラチャーチの団体ですが、この団体はエヴァンジェリカル界(福音派、カリスマ・ペンテコステ派)における対等主義の立場を定義し、擁護し、促進する目的をもって設立されました。これは相補主義を擁護するCBMW団体の対等主義ヴァージョンと言っていいでしょう。







3.体験指向の対等主義者(Experience-Oriented Egalitarians)



このカテゴリーに入るのは、――こういったグループの方々の目に、物議を醸し出す/ないしは混乱した教理の分野だと映るもの――以上に(少なくても実際面において)効果的なミニストリーや神からの強烈な召命こそ優先されるべきだと考えている立場の人々です。


(そして彼らはしばし、この「物議を醸し出す/ないしは混乱した教理の分野」のカテゴリーの中に、教会における男女の役割に関する論争を入れています。)


アッセンブリー・オブ・ゴッドがこのカテゴリーに入り、また、International Church of the Four Square Gospelもそれに該当します。(註1


また、聖霊の力の個人的体験に非常に力点を置いているトロント・エアポート・クリスチャン・フェローシップ(元ビンヤード教会)もこのカテゴリーに入るでしょう。


私はここでキリスト教雑誌『カリスマ』もこのカテゴリーに入れようと思います。


なぜなら、少なくとも1997年ないし98年以降、『カリスマ』誌、および姉妹雑誌である『Ministry Today』は、女性牧師等に特集記事が組まれるようになったからです。(註2


ビンヤード教会連合もこのカテゴリーに入るでしょう。ジョン・ウィンバーがビンヤード運動を率いていた当時、彼はビンヤード教会内で、女性たちが長老として奉仕することを認めていませんでした。(註3


しかしながら、1997年のジョン・ウィンバー氏の死後、それぞれの系列教会や指導者の間で見解にばらつきが生じるようになりました。


2001年10月18日、ビンヤード全国委員会は、「(女性のミニストリーに関しては)それぞれの枝派教会が、それぞれ独自の政策決定をすることを承認する」という声明文を出し、それによってビンヤード運動内において女性牧師や長老が許容される効果的な足台が築かれました。(註4


その他、神からの個人的召命およびミニストリーでの実りの経験に高い価値を置いているグループとして挙げられるのが、ウェスレアン・チャーチ、ナザレン・チャーチ、フリー・メソディストなどです。




註1)アッセンブリー教団の「ミニストリ―の中における女性の働きについて」の宣言文に関しては、Appendix 8, p.705-10をお読みください。

注意していただきたいのは、アッセンブリー教団は「これらの聖句に関してはさまざまな異なった見解があり、そのため我々教団委員会としては、その中のどの見解を採用していいのか決定することができない」と主張することによって、見事に本来の問いを中性化しているということです。(この声明文に関するさらなる検証;本書のp.371-76をお読みください。)


註2)一例を挙げますと、シンディー・ジェイコブスの "Women Of God, Arise!" (『カリスマ』誌1998年5月号、p76-79、110)

ラリー・キーファウヴァー(Larry Keefauver)の "Empower the Women" (『Ministry Today』誌1998年5月・6月号、p9、"Women of the Word" 同誌1997年3月号)。

尚、『カリスマ』誌の編集者であるJ・リー・グラディー氏は、対等主義の立場を促進させる二冊の著書を記しておられます。(①Ten Lies the Church Tells Women, 2000. ②Twenty-Five Tough Questions About Women and the Church, 2003)


註3)この事実に関しては、"Vineyard Restricts Elders to Men" (Council of Biblical Manhood and Womanhood, News 1.1, Aug, 1995 at www.cbmw.org)をご参照ください。その中でウィンバー氏は次のように言っています。

「私が信じるところによりますと、神は教会においてジェンダーを基にした牧師/長老職をお立てになりました。私は伝統的(かつ自分の見解によると聖書的な)見解――つまり、結婚、家庭、教会における男性のユニークなリーダーシップの役割を是認しています。従って、私個人としては、地域教会の中で女性を牧会職に就任させることに関しては賛成しておりません。」



(しかしながら、その一方において、ウィンバー氏は、「地域教会の(男性)牧師・長老の権威の下でなら、女性たちも男女混合の会衆に向かって説教することを許可する」との説明も加えていました。)


註4)ビンヤード教会の現行のポリシーに関するこの声明文は、Appendix 8, p. 711をお読みください。ビンヤードの牧師たちによって記された対等主義関係の著作の一例。Nathan, Who Is My Enemy (2002) Williams, The Apostles Paul and Women in the Church (1979)







2.文化的センシティブ対等主義者(Culturally Sensitive Egalitarians)



一方、その他の対等主義諸グループは神学的にはリベラルではないのですが、その他さまざまな理由から対等主義の立場を採っています。


一つの理由として挙げられるのは、周囲の文化に効果的に関わっていくことに力点を置いているグループは、他の諸グループ以上に、現代文化の中における対等主義的傾向に魅力を感じるきらいがあります。


その他の特徴を挙げると、彼らは周囲の文化に対し肯定的な影響を及ぼしたいと願う余り、――


1)自分たちが正しい教理を持しているかどうかという検証作業や、


2)彼らの目に、主要教理とは映らない二次的な教理に対し、はたして自分たちが聖書に忠実であるかという確認作業(*そして彼らは教会における女性の役割をめぐる論争をこの2)のカテゴリーに入れ込んでいます。)――


――こういったもの以上に、ミニストリーにおける効果的結果により高い価値を置いています。


このような文化的センシティブ対等主義グループの一例を挙げると、イリノイ州にあるウィロー・クリーク・コミュニティー教会(註1)、カリフォルニア州のフラー神学校などが挙げられます。(この神学校は、1947年の創立当初より、リベラル諸教派およびリベラルな学会で支持を受け、影響力を持つことに力点を置いてきました。)


その他、圧倒的に対等主義路線の機関として挙げられるのは、カナダのブリティッシュ・コロンビア州バンクーバーにあるリージェント・カレッジです。


そしてこの神学校もまた、周囲の文化を理解し、特に、アカデミックおよびプロフェッショナルなレベルにおいて効果的に関わっていくことに高い価値を置いています。(註2




註1)本書のAppendix 8, pp.759-60に、ウィロー・クリーク教会の政策声明の文書を掲載しています。


註2)相補主義者の教員であるJ・I・パッカーおよび、ブルース・ウォルケ(Brice Waltke)の二人は、今でもリージェント・カレッジと提携していますが、二人共、定年に達し、現在は非常勤で教えておられます。


何人かの学生たちの報告によれば、ゴードン・フィー教授、スタンリー・グレンズ教授等の対等主義の立場が、リージェントのクラスの中で学生たちの耳にする支配的見解であるということです。(とはいっても、フィー氏もすでに定年を迎え、非常勤でしか教えておらず、グレンズ氏はもうリージェントでは教えておられません。)


1994年5月、私(Wayne Grudem)は、リージェント・カレッジ学生会の招待を受け、土曜の午後のセミナーの席で、80名ほどの聴衆を前に、教会内における男女それぞれの役割について講演しました。


ある学生会長の話によれば、私の講演はあくまで平和的になされたため、多くの人々の共感を得たということでした。


しかし、次の学期になり、学生たちが再度を私を招待すべく動き出したとき、一騒動が起こりました。大学当局が学内での私の講演を認可しない方向で応答してきたのです。それに対し、百人以上の学生が嘆願書にサインをし、私の講演を望みました。


しかしながら、1994年12月に明らかになったのは、今後、大学当局は、私や外部の講演者が、ミニストリーにおける女性の役割について話すことを認めないということでした。






死ぬ時がきたら、もはや死ぬ事より他にやり残したことはないと言い切れるようにしておきたい。


~ジム・エリオットの日誌より抜粋




祈り

主よ、心は死にますが、私は自分に課された使命を果たしてからこの地上を去りたい。最後までこの戦いを戦い抜く勇気と力をこの者に与えたまえ。



Wayne Grudem, Evangelical Feminism and Biblical Truth, chap 14より一部抜粋



目次

はじめに

.リベラル諸教団

.文化的センシティブ対等主義者(Culturally Sensitive Egalitarians)

.体験指向の対等主義者(Experience-Oriented Egalitarians)

.指導者に影響された対等主義者(Leader-influenced Egalitarians)

.どちらの立場を採るべきか決めかねている、あるいは決断を差し控えているグループ





はじめに


14章2項 対等主義のグループ



対等主義の諸グループは、次のような考えを支持しています。


――つまり、①男女はその価値において同等の存在である。②しかし、家庭および教会におけるすべての役割は、賜物、能力、趣向によって決定されるのであって、性別によって決定されるのではない。


本項において私は、あるグループ(組織)の優勢な強調点が対等主義的見解にある場合、そのグループを「対等主義」のカテゴリーに入れています。


(しかしあるグループではその中に相補主義的見解を持った人々も混じっています。その一方、対等主義的な立場だけが是認されている団体もあります。)




1.リベラル諸教団



ある教団が「リベラル」だと言う時、私が意味しているのは、リベラル主義が支配的な神学的見解である、ということです。


したがってもちろん、その中には、ほとんどと言っていいほど、より保守的な信者の方々も混じっておられる場合が多く、そういった方々は自教団のリベラル化を嘆き、そこに留まりつつ、内部改革を目指しておられます。


本書の11章と13章で説明した通り、対等主義というのは、神学的にリベラルな教団すべてにおいて、支配的な見解であり、その教団がさらにリベラル化傾向を深めるに従い、対等主義もまたその内部で勢力を増していきます。註1


註1) Evangelical Feminism and Biblical Truth, chapter 11, section 11.2, pp. 469-72, chapter 13, pp.500-505において、リベラリズムと対等主義の相関性についての考察がなされています。




しかしながらことわっておきたいのは、すべての対等主義者がリベラル者ではないということです。


いくつかの教団では、その他の理由から、女性を牧会職に就かせています。(それについては後の項で取り扱います。)


それにもかかわらず、ここに不動の事実があります。それは何かと申しますと、神学的リベラリズムは必ず女性の牧会者承認の方向に向かうという事実です。


すべての対等主義者がリベラル者である訳ではありませんが、リベラル者は皆一様に、対等主義者です。


今日、米国内において神学的にリベラルな教団ないし神学校の中で、女性教職就任に反対の声を挙げている機関は皆無です。










気がつくと 真っ暗なトンネルの中にいた。


ここは幽閉された場所なんだろうか?




支えの杖がここにあると思っていた。

でも それは幻想だった。




いつか 一人は 二人になり

二人は 四人になると思っていた。


でも それも幻想だった。






この道は 

横並びして歩くことができないほど狭い。




だから、

だから、各自が 孤独に耐えながら 

進んでいかねばならない。




ーーーーー

エピローグ:


このトンネルの先には なにがあるのだろう。







今朝、聖書主義のペンテコステ派の教会に通われる方からとても考えさせられる有益なコメントをいただきましたので、その内容をみなさんとシェアさせていただきたいと思います。


この方の通われる教会では、リベラル神学やフェミニズム神学を拒否し、創造の秩序を認め結婚の掟を固く支持しつつも女性の説教を容認しているそうです。


「これらのあり方は伝統的相補主義を支持される方からすると、ある種矛盾しているように見えているのではないかとも思います。」とこの方はおっしゃっておられました。


また、この方のメッセージを読んでよく心に伝わってきたのは、カリスマ・ペンテコステ派諸教会で説教をされている多くの女性の方々の心の動機が、心底、「主に従いたい。神の栄光を証したい」という真摯なものであるということです。これは本当にその通りだと思います。



神様からメッセージを託された女性は語るべき・・大半の聖霊派はそうした哲学を持っています。


彼女たちの殆どは「男性のように」活躍するために、女性の教える賜物を誇示するために、夫や男性から権威を奪おうとして説教者になっているのではありません。





ですから、以前にコメント欄でも書きましたが、女性牧師を認める個人や教会を、十把ひとからげに、またよく彼らの背景を調べもせず、「フェミニズムに妥協している」とカテゴライズするのは、まったくフェアーではなく、また正しい判断でもないと私は考えます。


他の倫理的イシューと同様、女性牧師の問題も、聖書の真理という点ではあくまでそこに堅く立ち続け、それを公言することをやめるべきではないと私は思います。


しかしながらその一方で、具体的なお顔とお名前と人格と心をもった個々人の方々に対しては、限りない慈愛と理解とmercifulnessと、そして何より偽りのない同胞愛をもち対話していく――そのような全人格的な向き合いのプロセスが不可欠だと思います。


ここで一つみなさんとご一緒に考えてみたいことがあります。


2016年現在、「女性牧師問題」の是非をめぐり、キリスト教界は揺れています。


しかしながら、今後、10-20年のうちには、この「女性牧師」の部分が、今度は「同性愛牧師」に置き換わるのではないかと思います。


次の場面を想定してみてください。


みなさんの親しい友人が、ある同性愛牧師の方の牧会される教会で救われました。そこの牧師は、本当に真摯な動機をもって、主の栄光のために奉仕し、牧会をされ、そして多くの実を結んでおられます。


また実際、この教会で救われた友人も、その同性愛牧師の方の、愛にあふれる訓育により、日々霊的に成長し、イエスさまを愛する愛が増し加えられていっています。


さて、この友人が、どこかであなたが「同性愛は非聖書的です」と公言していることを聞き、葛藤を覚えつつ、あなたの所にやって来て苦しげに次のように問いかけました。


「本当に同性愛は非聖書的なんだろうか。でも実際、私はこの教会でたくさん恵まれてきたし、牧師先生は心から主を愛し、また私たちを愛してくださっている。


もしも同性愛が非聖書的なのなら、このような真実な実は生らないんじゃないかって思う。でもどうなんだろう。。。。自信がない。。。。」


みなさんなら、葛藤しているこの友人にどのような言葉をかけてあげますか?





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中東の姉妹のみなさんに、聖書の示す女性像(womanhood)および創造の秩序の中における教会・家庭の中での女性の役割について、どのように真理を証していったらいいのか、私は長い間立ち往生していました。


彼女たちが日々接しているキリスト教はその大部分が対等主義ベースのものです。相補主義は、提示の仕方を誤ると、たちまちの内に中東の宗教のあの「女性抑圧」と混同され、猛反発を招きます。


こういった背景を持つ女性たちの話を聞いていて私が痛感したのは、――キリスト教リベラル派やフェミニストの方々と同様――中東宗教の背景を持つ女性たちもまた、


本質における男女の完全な平等と、役割・機能における違い

(equal in nature but different in order/function)




という点で大いに混同しているということでした。



その三者の違いを分かりやすく下に書いてみます。



① 中東宗教の男女観


Different in nature and different in order
本質における違い・不平等と、秩序・役割における違い)




② フェミニズム(<対等主義)の男女観


Equal in nature and equal in order
本質における平等と、秩序・役割における均一性)




③ 聖書的な男女観


Equal in nature and different in order
本質における平等と、秩序・役割における違い)




中東出身の女性たちは、①のシステムの下で抑圧感や不平等感を覚えながら育ってきました。


そんな彼女たちがイエスさまを信じました。


すると、今度は、多くのキリスト教会の対等主義的教えによって②のシステムが彼女たちに「聖書的なもの」として教え込まれます。


つまり、それまで完全に左に振り切れていた振り子が、今度は、一気に右の右まで振り切れてしまうのです。



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そして①と②、そのどちらも非聖書的な教えです。


私はこれまで②のシステムの下で不可避的に生じてくるさまざまな問題(教会・家庭における男性リーダーシップの欠如、妻の不従順、夫の中毒、夫婦間の不和、別居、離婚など)で苦しむ中東の姉妹たちに直接的にかかわってきました。


しかしながらやはり、それらの助けは応急手当としての一時的効用はあっても、根本的な解決をもたらす上で必要な「腫瘍除去」には至らないのです。


そこが宣教師として、また一姉妹として私の葛藤してきた部分でしたし、今もそうです。




その2につづきます。




関連記事:


夫に従うことは、女性としての価値を貶めること?―男女平等の聖書的意味―

中東女性とフェミニズム―聖書的女性解放を求めて―







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19世紀のロシアのある農村に、マリアという若い女性がいました。


彼女の実家は裕福な農家だったそうです。彼女はイエスさまを救い主として信じた後、隣人や友人に救い主について熱心に語り始めました。


しかしその事が当局に発覚し、彼女はシベリアへの永久追放を宣告されました。こうして彼女は幌馬車で護送されることになりました。


マリアが乗っている囚人用の馬車が彼女の家の近くの駅に到着した時、親族や彼女に同情する友人たちは、護送馬車の回りを取り囲んだそうです。


マリアは太い格子にある小さなすき間に顔を押しつけ、愛する家族や友人たちをじっと見つめていましたが、やがて口を開き、次のように言ったそうです。


「お父さん、お母さん、兄弟、姉妹、友だち。私は、あなたがたを愛しています。でも、もう二度と再び、みなさんに会うことはないと思います。


でも私は自分がしたことを後悔してはいません。私は、自分のためにすべての苦しみを味わってくださった救い主キリストの苦しみにあずかることを喜んでいます。」


そうこうするうちに、馬車は動き出し、やがて彼女の声も聞こえなくなりました。


しかしそこにひとりの少年がいました。群衆に混じり、彼女の最後のことばと証を耳にしたこの少年は、むせび泣きながら家に戻っていきました。


そしてまもなく彼自身、キリストに従うことを決心したのです。


後に、成長したこの少年は、御霊に満たされた力強い福音伝道者となり、彼を通して多くの魂が信仰の従順に導かれたと記録に記してあります。


(参照:E.H.Broadbent, The Pilgrim Church, chap. 15, 1935)



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上の証は私たちに大きな励ましを与えるものだと思います。


主は本当に私たちのすべてを用い――そして多くの場合、私たちがまったく思いもしない方法によって――ご自身が今も生きておられるまことの神であることを証してくださるということを心に覚えます。


そして私からみなさんへの励ましはこれです。


――ある方は今、言うに言えない苦しい状況の中に置かれ、「主にお仕えしたい。福音を伝える器として用いられたい」という尊い願いを持ちながらも、自分が本来いるべきところにおらず、おれず、その八方ふさがりのような状況を人知れず嘆いておられるかもしれません。


しかし今日も誰かがあなたによって――あなたのその生きる姿をみて――なんらかのメッセージを受け取り、こうして目に見えない神の国が拡大していっているということを忘れないでください。


あなたが苦境に耐えつつ、キリストの内にじっととどまっているその姿自体が、μαρτυρια(marturia; あかし)であり、天の香りです。


ですからどうか元気を出してください。そして今週もまた主にあって共に歩んでいきましょう。







関東にお住まいのエレミヤ兄が『神の小屋』の詳細なレビューを送ってくださいました。


この小説に共感を覚えていらっしゃる方々に深い理解を示しつつも、さまざまな角度からウィリアム・ヤング氏のこの著作について、有益な指摘をしておられます。この場をかりて、エレミヤ兄にお礼申し上げます。




ブックレビュー




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『神の小屋』(ウィリアム・ポール・ヤング著 結城絵美子訳 いのちのことば社発行)を図書館で借りて、読んでみました。


全米で400万部、世界39ヶ国で1800万部のベストセラー。さらに映画化され、俳優石田純一さんの娘であるタレントのすみれさんが、サラユー(聖霊)役でハリウッドデビューするそうです。


映画は、今年2016年11月18日にアメリカで公開されるとの事。


いのちのことば社からの発売で、日本でも有名な牧師さんが推薦したりしています。その一方で、本書に対する批判的な声も聞いていました。


いづれにしても、1800万部も売れているということは、世界のキリスト教会に多大な影響を与えていることは、確かであり、私も祈りつつこの本を読みました。以下感想を述べます。




なぜこれほど売れているのか




はじめに、どうしても気になるのは、何故この本がこんなにも売れているのかということです。


人はだれもが、その度合いは様々でしょうが、この主人公マックのように、「大いなる悲嘆」があります。キリスト者であっても人生がすべて順調ではありません。


悩み・苦しみ・悲しみ・病気・死・人間関係のもつれ・艱難・迫害・貧困・自然災害・事故・・・・「神様どうしてですか」と心の底から呻くような叫びをあげたくなる出来事に遭遇することがあります。



ところが、クリスチャンが教会で、これらの答えを得ていないのではないでしょうか。さらに最悪なのは、「それはあなたの信仰が足りない」とか「あなたの罪のせいです」と言われ、もっと苦しんでいる人がいます。


そういう方々が、この本で、癒された、救われた、解放された、希望を見出した、と感じるのだと思います。


この本に登場する神は、あなたの名前を呼び、愛していると何度も言い、何度も抱きしめ、キスをし、微笑み、ウインクをし、共に食事をし、作業をし、散歩し、星空を見あげ、自然の美しさを楽しみ、一緒に笑い、しっかりと向き合って会話をしてくれます。


パパ(父なる神は、黒人女性として登場)が音楽を聴いたり、歌ったり、食事をつくったり、イエスはジーンズ姿で登場し、食材のはいったボウルをひっくり返したり、サラユー(聖霊 アジア系女性)はよい香りを放ち、涙をあつめてくれる。とても神様を身近に感じることができるのでしょう。


神様がとてもリアルな存在として、視覚・嗅覚・聴覚・触覚・味覚にせまります。


そして、神様との交わり、会話を通じて、マックの心の深い部分の、怒り・苦しみ・憎しみ・傷が、徐々に癒され、変えられていく姿に、読む人も励まされ、読者の抱える問題を解決にむかわせてくれる力があるのだと思います。


ソフィアとの対面で神を有罪だとしたマックが、神を信頼するものへと変えられ、祝祭において確執のあった父と和解し、愛娘ミッシーを殺した犯人を赦す・・・そんなストーリーに涙する人も多いのではないでしょうか。


もうひとつ、この本が売れている理由は、特にアメリカで、主人公マックと同じように、自分の子供が誘拐され行方不明となり、苦しんでおられる方が非常に多いという事です。


「残念ながら、ミッシーが行方不明になったあの事件のようなことは、最近ではめずらしいことではない」(P29)と本書でも述べています。


サタニストが悪魔礼拝で子供を捧げるために誘拐している、あるいはマインドコントロールをして、彼らの目的にかなう人材を養成するために組織だって誘拐をしている。そのようなことが、「多重人格はこうして作られる」(徳間書店)という本に書かれていました。このような被害者が、この「神の小屋」に救いを求めるのではないでしょうか。




問題点




しかしながら、この本は、様々な問題があると思いました。


神様を第一とするのではなく、神様をすべてとせよ、神様を信頼すること、神様との関係を大切にすることを薦めています。これは正しいでしょう。


けれども本書に描かれている神様が、聖書が教えている神様と同じかというとそうではありません。そこが問題です。


また本書には、読者を、聖書のみことばから遠ざけようとしている意図が感じられます。


「父は酔いが醒めるたびに酒瓶を置いてマックをベルトで打ちすえ、聖書のことばを投げつけた。」(P7)


「神学校では、現代においては神が人間とそのような直接的なコミュニケーションをとることはなく、むしろ人間はただ、適切な注釈とともに聖書を読んで、それに聞き従うことが求められていると教えられた。神のことばは聖書の中にのみ閉じ込められ、その聖書もしかるべき権威と知識によって吟味され、解釈されなければならない。」(P86)


「神学校で習ったことなどまるで役に立たない。」(P121)




と、このようにマックに言わせ、聖書・神学を否定的にとらえようとしています。


「聖書をほんの二節読んだところで、だれかが彼の手から聖書を取り上げ、部屋の電気を消し、頬にキスした。」(P157)




これは、小屋に来て、一日目の夜、マックが部屋にもどったところの記述です。まるで、聖書を読んでも仕方がないと主張している感じです。


「神の小屋」は小説(空想話)であって、その神学は論じるべきではないと考える方もいらっしゃるかもしれませんが、クリスチャンであれば、聖書のみことばをもって、吟味・識別するのは当然だと思います。


気になった箇所をいくつか挙げてみたいと思います。



十字架について


「彼は十字架を通して、自分自身を完全にあたしの手にゆだねる道を見出したんだよ。ああ、あれは最高の瞬間だったね。」(P130)


「ああ、大したことじゃないよ。ただ、世界が造られる前から愛がそうしようと決めていたことのすべてさ。」(P276)


「イエスは十字架の上で何を成し遂げたのかって聞いたね。いいかい。よくお聞き。彼の死とよみがえりを通して、あたしは今、世界と完全に和解することができたのさ。」(P277)


「息子よ、私はおまえを辱めようとしているのではない。おまえに恥や罪悪感や非難を与えるつもりはないんだよ。そんなものは、完全な義のためには何の役にもたたないからね。だからこそイエスはそういうものを十字架に釘づけにしたんだ。」(P321)




イエス様の癒し


「人間としてのイエスの中には、誰かを癒す力はなかった。」(P135)



赦し


「マック、私は神だ。何も忘れたりはしないよ。それにすべてを知っている。だから、私にとって赦すとは、自分に敢えて制限をかけることなのさ、息子よ。」(P322)


「イエスにおいて、私はすべての人間を赦した。」(P323)







「あたしは罪のために人間を罰する必要はないのさ。罪はそれ自体が罰になる。・・・あたしの喜びは、罪に蝕まれた人を癒すことなんだよ。」(P163)




仕える神


「仕える神、か」「うん、これこそ本当に神だ。-僕に仕えてくださる方―」(P339)




男性と女性


「僕たちは男性と女性を、異なる機能を持つ同等のパートナーとして造った。対等に向かい合い、それぞれに個性と違いがあり、性差があり、互いに補い合う関係で、それぞれが個別にサラユーから力を与えられる存在として造ったんだよ。」(P207)


「地球は女性に治められたほうがもっと穏やかで優しい場所だったろうね。」(P206)




三位一体


「私たちの間には最終権限というような概念はないの。あるのは一致だけ。私たちの関係は輪のようなもので指揮系統とか・・・・ないのよ。・・・私たちの間ではヒエラルキーなんて意味をなさないわ。」(P167)



夢・神話


「夢っていうのはほら、時々とても大切な役割を果たすからね。心の窓を開いて、中の悪い空気を外に出してくれたりするのさ。」(P161)


「栄光を伝える話というものは、人が神話やおとぎ話だとしか思っていないところに隠されていることもよくあるのよ。」(P184)




宗教・政治・経済・その他


「僕は宗教があまり好きじゃないし、政治も経済もすきではないね。・・・その三つは人間が作り出した三位一体で、地球を荒廃させ、僕の大切な人たちを欺く・・・」(P256)


「聖書はルールを守るようになんて教えてないわよ」(P284)


「人間は、生き生きとして恵みに満ちている動詞を、いのちのない名詞やルールという悪臭を放つ原則に変えてしまう・・・」(P294)


「聖書には責任ということばがないのよ。」(P295)


「イエスにおいて、あなたは律法から解放されているんだから、すべてのことは合法よ。」(P292)




擬人化


本書では、神様を擬人化して登場させている。これ事態、私は好まないが、父なる神様を女性として登場させる(最後は男性になる)のは非常に違和感を覚えます。


またソフィアなる女性(パパの知恵を人格化した存在P243)を登場させている。おそらくは箴言2章の「知恵」を擬人化したと思われます。





おわりに



最後にもう一つ警鐘を鳴らします。


この本で恵まれた、癒された、救われたと感じたキリスト者に、襲い掛かる危険があります。それは、既存の教会に対する不満の思いに駆り立てられる罠です。


「マックは「神」や「宗教」にうんざりしていた。」(P87)


「うんざりするほどたくさんの奉仕活動でもなく、あれもこれもときりがないほどの要求でもなく、知りもしない人々の後頭部を眺めながら延々と座っているいつ終わるともしれない集会でもない。」(P254)


「宗教的な組織っていうのは人をのみ込んでしまうことがある。」(P255)


「あなたは教会のことをあなたの愛する女性にたとえたけど、僕はそういう教会に出会ったことはないと断言できる。」(P253)




本書は、既存のキリストの教会の制度や権威について否定的であり、既存の教会に対する不満を生み出す悪い種のように感じました。


この本の信奉者があらわれ、教会を荒らさないように祈ります。私が感じたことが、いらぬ心配であればと願っています。


本書を読んだキリスト者が、「単に小説としておもしろかった。」と思うのではなく、この小説のどこが問題なのかを、見分けることが出来るようにと祈ります。


それにしても何故いのちのことば社から、このような本が発売されたのでしょうか。いのちのことば社の働きのためにも、祈りたいと思います。




―レビューおわり―





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