[相補主義] ブログ村キーワード

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written by Jeremy Gardiner (source)




私は「男性と女性は、それぞれ異なるアイデンティティーと役割を持った存在として、互いに補う合う関係である」という考え方・立場にたつ福音派キリスト者(complementarian〈相補主義者〉)です。


つまり、男性と女性は共に神のかたちに創造され、その価値において平等であるけれども、それぞれが異なる役割を持っているということを私は信じています。


家庭の中においては、夫には妻を導く権威(authority/headship)が与えられており、その一方、妻は夫を助け、夫のリーダーシップに従う(submission)よう造られています。


私は、家庭におけるこういった権威と従順は、キリストと主の教会の関係を描写するものであると考えています。


またこれは神がお考えになった元々の構想図ないしデザインだと理解しています。


つまり、これは罪による堕落前にすでに存在していた傑作であって、堕落後の災難ではないということです。


私はこういった立場にたち、この真理を擁護しようとしているキリスト者(complementarians〈相補主義者〉)および聖書学者の方々が昨今とみに増えてきていることに励まされています。


こういった方々は家庭における男性の権威および女性の従順を尊守しており、また牧師職は男性だけに開かれているという理解に立っています。


さて、私はこの相補主義キリスト者の陣営の中にあって、現在、少数派とみなされている立場にたっています。


私は、信者が礼拝のために集まる時、男女間の役割としての違いが――人に対しても御使いに対しても――象徴されるべきだと考えているのです。


つまり、Ⅰコリント11章で教示されているようにかぶり物(祈りのベール)というのは新しい契約下にあって、クリスチャンのための、時代を超えた超文化的なシンボルであるということを信じているのです。


教会の歴史を通しても、祈りのベールに関するこの理解は、常に多数派を占める立場でした。


米国においても、――フェミニズムが大衆の支持を得るようになる1960年頃までは――祈りのベールはずっと尊守されてきていました。


「フェミニズム」と「かぶり物の衰退」との相関性については、クリスチャン側からも一般論者の間からも同様の指摘がなされています。


例えば、ニューヨーク・タイムズは、婦人用帽子業界の閉鎖の主要因は、フェミニズム運動にあったことを記事にしており、次のように言っています。


しかし(ハチの巣形の)女性の髪型が1960年代に流行し始め、女性が帽子を家に置いて外出するということをフェミニズム運動が容認可能なものとしたことにより、この業界は衰退していった。1)





フェミニズムの勃興と共に、上述したような、男女間における相補的な立場をとらない考え方が教会に浸透し、「家庭において男性と女性はなんら異なる役割を持たない」という思想を広めていきました。


男性には、導くという、神より与えられし責任はなく、女性は自分の夫に従う必要はないというのです。


また教会内においては、すべての役職が女性に開かれることになりました。


最近の歴史をみると、相補的な立場にたつキリスト者たちが、男女の聖書的な役割を回復させるべく奮闘してきました。


1987年、「聖書的男性像および女性像回復のための協議会」(Council for Biblical Manhood and Womanhood)が設立され、ウェイン・グルデム氏等が多くの時間を割いて、反対論者たちに対する応答を続けてきました。


私はこういった方々の努力に感謝しており、これを支持しています。


しかしこと祈りのベールに関しては、相補的な立場にたつ方々の大部分は、これを回復させるべく努めてきませんでした。


ウェイン・グルーデム、トーマス・シュライナー、ジョン・マッカーサーといった、この陣営の指導者の方々は、「男性がかしらであるという原則は存続しているものの、かぶり物の象徴は文化的な慣習であった」と主張しています。





なぜこれが問題となるのか。




かぶり物の原則というのはパウロがコリントの信者に理解してもらおうとしていたことでしたが(Ⅰコリント11:3)、パウロが彼らに望んでいたのは、かぶり物の実践でした(Ⅰコリント11:4-6)。


それゆえ、「相補主義的な立場」と、それから「かぶり物の拒絶」というこの二つを同時に受け入れるというのは、一貫性に欠けていると私は考えます。


私の懸念は、未来の世代がこの矛盾をみて、聖書的男性像・女性像をもろともに捨て去ってしまうことです。


私たち相補的な立場をとるキリスト者がかぶり物についてどのような姿勢をとるかということが今後、試金石となっていくと思います。


前述したウェイン・グルーデム氏ですが、彼は祈りのベールが教会にとって時代を超越したシンボルであるとは考えていません。


しかしその一方、彼は相補的な立場に異議を唱える考え方(egalitarianism)に対し、その一貫性の欠如を公に指摘しています。


男女の役割に関する聖句に再解釈を加えることは、聖書を損ずる行為であり、リベラリズムへの下り坂につながっていくとグルーデムはみています。


その一方、――相補的な立場をとってはいないけれども――福音主義キリスト者である方々(egalitarians)の多くが、リベラル的な聖書の見方を退けている、とそのことにグルーデムは感謝しています。


「しかしそうは言っても」と、彼は続けて言います。


「たしかに今の時点で、対等主義クリスチャンの多くはまだ、保守的な聖書神学を堅守している。しかし未来の世代はきっとそうでなくなるだろう」と懸念し、次のように述べています。


ある人がこういった対等主義的な主張点の一つを受容したにもかかわらず、その後一生涯に渡って、――下り坂へと続くその一歩以外には――リベラリズムへの道を下降しなかったということはありえます。


現に多くの指導者たちがそのような道を歩んできました。


しかし私は思います。彼らがそれ以上リベラル化しなかった理由は、


)彼らが自分たちの展開しているその種の議論が「包含」している内容にまではタッチしなかったこと、それから、


)自分たちの信じる、その他の(神学的・信仰的)領域には、それを適用させなかったこと。


この二点が挙げられると思います。


しかし、そういった指導者に現在従っている人々となると話は違ってきます。


これに関し、何年も前にフランシス・シェーファーは次のように警告していました。


「教理的に教会を横道にそらせた一世代目のキリスト者たちは、その教理的立場において、ただ一つのキーポイントを変えただけで、それ以外には何も変更を加えなかった。


だから、当面の間は、その変化が別段害のないもののように思えもしたのだ。


しかし、次世代に続く者たちは、その議論のロジックをさらに推し進め、さらに甚大な誤謬を推奨していくようになるのだ。」 2)




かぶり物を拒絶している相補的な立場のキリスト者についても私は同じ懸念を抱いています。


残念なことに、これは仮想上の懸念ではないのです。


現にレイチェル・ヘルド・エヴァンズをはじめとするクリスチャン・フェミニストは、私たちのこういった矛盾点を取り上げているのです。


『エペソにいる女性たちに関するパウロの教示は普遍的に拘束力がある。なぜなら、彼はこの主張をする上でその理由を創造の秩序に訴えているからだ』と言っている人たちは、次のことを実践した時はじめて、その立場において一貫性があるといえます。


――つまり、彼らが自分の教会にいる女性たちに対しかぶり物を着用するよう要求するなら、です。


というのも、上記の点を推奨する上で、パウロはまさにこれと同じ線上の議論を展開しているからです。(Ⅰコリント11章を参照)




また、相補主義的な立場の人々の中には、「かぶり物の問題に照らしてみた場合、男性の牧師職に関する議論を創造の秩序に訴えていいものかどうか」と次のように疑問を抱き始めている人もいます。


私は次第に自分自身の、――例えばⅠテモテ2:9-15などに対する取り扱いが、対等主義的解釈に対し敏感に応答するものではなかったのではないかという認識にいたっている。


例えば、これまで私は、パウロがここで言っている命令は明らかに超文化的なものだと考えてきた。なぜなら、それは彼の創造の教理に基づくものであるからだ。


しかし、Ⅰコリント11章におけるパウロの指示――私はいつもここの箇所を文化的に条件づけられたものと受け取ってきた――もまた、創造の教えに基づくものであることに気づいた。


それならば、原則として、『創造の教理に基づいた勧告は必ず超文化的なものである』と主張する理由はなくなってしまうではないか!




今後、この矛盾点に気づく人々がさらに増え、そういった人たちが、かぶり物を受け入れる代わりに、むしろ相補主義的な立場もろとも捨て去ってしまうのではないかと私は懸念しています。


でも変化を起こすのに遅すぎるということはありません。


もしかぶり物の慣習が回復すれば、相補的な立場はさらに多くの人々によって受容され、後に続く教会史を通しても長く存続していくだろうと私は信じています。


聖餐は主を思い起こさせるものとして私たちに与えられています。


それにあずかる時、十字架上でイエスが私たちのためになしてくださったことを私たちは思い出します。


同じように、かぶり物は聖徒が集まる教会において、――神が異なる役割を果たすため男性と女性をお造りになられたということを――思い出させ、ビジュアルな形でそれを教えてくれるのです。


Head Covering Movementには、かぶり物というこのシンボルを受容した後、この真理をさらに生き生きと想起するようになったという女性たちの証しがよく寄せられています。


一例を挙げると、ワシントン在住のローラ姉妹(testimony)は、次のように言っています。


教会の中でささげる私の祈りに変化が表れました。なぜなら今、私は目に見えるシンボルであり、神さま及び夫に対する従順を思い起こさせるかぶり物を着けて祈り礼拝を捧げているからです。


悪魔は私が神様に従順でないように、また夫に対しても従順でないよう誘惑してきますが、権威のシンボルであるかぶり物を着ける時、このことについて思い出さざるをえず、私は謙遜にされます。




ですから、相補主義の立場にたつ兄弟姉妹のみなさん、この問題について少し時間をお取りになり再考してみてくださいませんか。


そして開かれた心を持って、時代を超越するかぶり物の教えについて考察してみませんか。


私の願いはあなたがそうしてくださることです。


なぜなら、この問題をめぐっては、シンボル以上のものがかかっているからです





ーおわりー


1. Carrie Budoff – Headgear as a Footnote to History (New York Times, April 6, 1997)
2. Wayne Grudem – Evangelical Feminism: A New Path to Liberalism? (Crossway, 2006)






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1コリント11章の「祈りのベールの教え」についてさらに詳しくお調べになりたい方へ



①「ないがしろにされている」教えへの道案内(1コリント11章) An Introduction To A Neglected Doctrineココ


②なぜ被り物?――理由その1 【創造の秩序】(ココ


③なぜ被り物?――理由その2 【御使いたちのため】(ココ


④なぜ被り物?――理由その3 【自然】(ココ


⑤なぜ被り物?――理由その4 【教会の慣習】(ココ


⑥どのようにして同性愛を肯定する方々は「1コリント11章の被り物の聖句」を自らの立場の擁護のために用いているのでしょうか?――福音主義教会に突きつけられる「ジェンダー挑戦状」と私たちの応答(ココ


⑦「祈りのベールは文化的なもの?コリントの売春婦のことはどうなんですか?」――1コリント11章のかぶり物について (ココ


⑧「女性の長い髪=かぶり物ではないのですか?」――Ⅰコリント11章 祈りのベール問答シリーズその2 (ココ


⑨被り物と聖書解釈(Head Covering and Hermeneutics)R・C・スプロール (ココ


⑩被り物と聖書解釈―実際的な指針について(R・C・スプロール)その2 (ココ


⑪ベールの教えをするよう導かれた、福音主義教会の牧師の証し(ロビン・バッサム師、ノルウェー) (ココ


⑫姉妹のみなさんへの応援レター(パート3) パイオニアになろう!道なき道を切り開いていこう!(ココ




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Head Covering: A Forgotten Christian Practice for Modern Times (English Edition)

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An Open Letter to Egalitarians about Liberalism, June 12, 2013




私が本書(Evangelical Feminism: A New Path to Liberalism)の中で挙げている著者、神学校、出版社に関わっておられる方の多くは、個人的には自分の友人です。


そして私は友人であるみなさんに一つ伝えたいメッセージがあります。


みなさんの多くは、私が本書で述べたように、リベラリズムの街道を下って行ってはおられません。


(さまざまな理由から)みなさんは、「聖書は女性が牧師や長老になることを禁じているとは教えていない」と判断を下され、そしてその点を除けば、みなさんの神学システムは全く以前のままです。


そして実際、みなさんはリベラル化した方向へは進んでおられないわけですから、なぜ私が本書の中で、「福音主義フェミニズムは、リベラリズムにつながる」と主張しているのか、いぶかしく思っておられるかもしれません。


また私は、キリスト教会の中で、女性たちの賜物やミニストリーがますます奨励されることを、みなさんと共に望む者ですし、他の書の中において、男女両方に開かれるべきだと自分の考える重要なミニストリ―の数々についても列挙いたしました。


それにそもそも、みなさんのほとんどは、ご自分が教会や神学校をリベラリズムの方向に誘導しているなどとは全く考えておられないと思います。


実際、みなさんは心からイエス・キリストを愛しておられ、神の言葉を愛し、それをよく教えておられます。


「いったい、私の下した決定のどこが、リベラル化を促進させるものなのですか?」とみなさんは問うでしょう。


それに、みなさんの知り合いの方々も同じような路線を踏んでおられると思いますが、その方々にしたところで、誰もリベラルにはなっていない。――そう考えていらっしゃるかもしれません。


事実、対等主義の私の友人たちの多くは、――この一点を除く――他のすべての教理的確信において、1mmだにリベラリズムの方向に進んでいませんし、今に至るまで聖書の無謬性を堅く信じ、またそれを擁護しておられます。


そういった友人の一例を挙げますと、スタン・ガンドライ(ゾンダーヴァン出版社の編集者)、ジャック・ヘイフォード(チャーチ・オン・ザ・ウェイの牧師)、


ウォルター・カイサー(ゴードン・コンウェル神学校の元学長)、ロジャー・ニコル(ゴードン・コンウェル神学校および改革派神学校オーランド校の元教授)、グラント・オスボーン(トリニティー神学校の教授)の方々などです。


そしてこういった方々はエヴァンジェリカル界で重んじられている神学者であり、指導者であられます。


「こういった指導者たちは、福音主義フェミニズムおよび対等主義の立場を採りながらも、なおかつ自らはリベラリズムの方向には進んでおられないじゃないですか。


それなのに、あなたはどうして、『福音主義フェミニズムがリベラリズムにつながる新しい街道である』と主張しているのですか?」


ええ、私がそう主張しているのは、福音主義フェミニストの方々が用いている諸議論の性質そのもの故です。(これについては後の章で詳述いたします。)


ある人がこういった対等主義的な主張点の一つを受容したにもかかわらず、その後一生涯に渡って、――下り坂へと続くその一歩以外には――リベラリズムへの道を下降しなかったということはありえます。


現に多くの指導者たちがそのような道を歩んできました。


しかし私は思います。彼らがそれ以上リベラル化しなかった理由は、



)彼らが自分たちの展開しているその種の議論が「包含」している内容にまではタッチしなかったこと、それから、


)自分たちの信じる、その他の(神学的・信仰的)領域には、それを適用させなかったこと。





この二点が挙げられると思います。


しかし、そういった指導者に現在従っている人々となると話は違ってきます。


これに関し、何年も前にフランシス・シェーファーは次のように警告していました。



教理的に教会を横道にそらせた一世代目のキリスト者たちは、その教理的立場において、ただ一つのキーポイントを変えただけで、それ以外には何も変更を加えなかった。


だから、当面の間は、その変化が別段害のないもののように思えもしたのだ。


しかし、次世代に続く者たちは、その議論のロジックをさらに推し進め、さらに甚大な誤謬を推奨していくようになるのだ





そしてこの警告通りのことが、現在、福音主義フェミニズムの中で起こっているわけです。


本書の中で私はそれに関する証左資料を提供したしました。


ですから、対等主義の友人のみなさん、私はみなさんにお願いします。


どうか本書の中で私が申し上げている議論、そしてそういった議論のパターンについて熟考なさってください。


みなさんはこの点についてご自分は何ら問題を犯していないと考えていらっしゃるかもしれません。


あるいは、ここそこに、少々不確かな解釈を採用したからといって、大局的見地からはそう問題ないと思っておられるかもしれません。


しかしみなさん、ここで今しばらく立ち止まり、現在、福音主義フェミニスト運動全般において、実際に何が起こっているのか――その現実を直視してみてください。


みなさんがこの現実に向き合うなら、この運動が、再三にわたり、――この聖句やあの句、もしくはこの章やあの文脈において――いかに聖書の権威をないがしろにしてきたのか、その事実に直面することでしょう。


でもあなたはこう考えるかもしれません。


「いや、私の持ち場はあくまで小さい。だから私の対等主義的立場が他にもたらす影響はたかが知れている。」


しかし、戦線において、「自分のポジションはさほど重要ではない」と考えている兵士のごとく、


あなたが自分のその持ち場という「一点」を譲歩してしまったがゆえに、敵に対し、大きな突破口を提供してしまう結果となり、それによって、結果的にあなたの教会の大きなセクションが損なわれる――


そんなことになってしまわないでしょうか。


新しい論文や本を拾い上げ、そこで展開されている議論をさらさらと流し読みしながら、


「うーん、まあ、確かにこの聖句についての著者の説明には納得できないものを感じるが、、、


でも、少なくとも、この本は『牧会職を含めたすべてのミニストリーに女性を入れる』という自分の意見をサポートはしてくれている。


ここでの議論や解釈自体は、ちょっと受け入れられないけど、でもまあ、結果論から言うと私はそれに同意できるわけだから、、、」


そう言われるかもしれません。


、、、こうして、次から次へと、本書で取り上げた対等主義側の諸議論が積み上げられてゆき、そして、一般信徒たちもそれらの諸説を受け入れていっています。


しかしながら、もしもそこで提示されている諸前提や、解釈の原則が、実際には聖書の権威をないがしろにするものであるのなら、


そしてそれが一度や二度ではなく、何度も何度も繰り返されているのなら、、


――それでもみなさんは平気でいられますか。


「間違った理由を持ちだしてはいるけれど、結果論としては自分と同じだから」という理由で、そのような議論をあなたが許容するのなら、


それはとどのつまり、あなたの教会の将来、そしてその土台を腐食することにならないでしょうか。


もし、聖書の権威を弱体化させるような、そのような主張が、あなたの現在所属しているその輪の中で今、真正面から取り上げられないのなら、


それなら、将来的に、あなたは一体どのようにして、ご自分の教会および宣教団体を守っていくことができるのでしょう。


あなたご自身は、諸信条においてほとんど変化をみせておられないかもしれませんが、現在、あなたの指導下にあって、あなたから教えを受けている学生たちは、これまであなたが用いてきた諸原則をさらに数歩推し進め、


こうして、――あなたが想像される以上に――今後、彼らは、〔教会・教団で〕保持されてきたものを破棄していくでしょう。




―おわり―







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私たちは、北米に住むご夫妻を親しくしています。


そして、この家のご主人は相補主義の教会の長老(牧師)をしておられます。


さて先日、あるテーマでそのご主人に意見をうかがったのですが、彼はとても洞察力に富んだ返答をよこしてくださいました。


そこで私はこの方に、「もしもよろしければ、兄弟のお書きになったこの論文を私のブログに掲載してもよろしいでしょうか?」と許可を求めるメールを出したのですが、彼からは、ていねいに断りのメールが来、


「私の良心は、ブログ掲載を望んでおりません。しかし、なぜ私がそれを望んでいないのか、理由をお知りになりたいのでしたら、その時には謹んで理由を申し上げたいと思います」と律儀な返答がありました。


そこで私は、「どうかその理由をおっしゃってください。包み隠さず、あなたが信じていることをそのままおっしゃってください。」と兄弟に頼んだのです。


すると、今朝、その方から長文の返答がありました。


「あなたにこれを書くのが非常にはばかれ、躊躇しているのですが、、」と前置きがあった後、それでも彼は真っ正直に、ご自分の信じておられることを私に語ってくださいました。




長老の探求と結論



それを要約すると次のようになります。


この尊い主のしもべは、今年、ジェンダー・フェミニズム問題、およびheadshipの問題に正面から取り組み、聖書を熟読し、祈り、研究し、奥さまと共に彼の家庭における聖書的ガイドラインを作ったそうです。


しかし、その中でも難航した部分が、女性のblogging issueだったそうです。


どこにラインを引くのがみこころなんだろう?


女性のTV・ラジオ説教行為がアウトだということは容易に分かる。


でも、「電子文書活動」によって聖書を説明している女性ブロガーたちは、headshipの「枠内」にはたしているのだろうか。


結局、「音声」がないだけで、形は違えど、彼女たちもまた、電子版「講壇」に立って聖書を説いている、という風に考えられないだろうか?


こうして半年以上に渡って祈りと熟考を重ねた末、彼は「やはり(私を含めた)女性ブロガーたちは、聖書の指し示すheadshipの枠を超えている。」という理解に達したそうです。


それゆえに、彼は私のブログを読まないし、自分の書いた論文も女性である私のブログには載せない、ということに方針を決めたということでした。


(*私の主人は、この点で、この兄弟と意見を異にしており、クリスチャン女性のbloggingと、講壇/TV/ラジオ説教は二つ別々のものであり、bloggingとpreachingは違う、という見解に立っています。)


私がこの長老の意見を重んじ尊んでいる理由は、彼が長年、際立って聖く潔白な生き方をしている聖徒であるということ以外にも、


聖書の見方・解釈における「思想のスペクトル(幅)」という点で、彼のような立場に現在も尚とどまっている人はとりわけ注目に値し、その見解を傾聴すべきだと思うからです。



☆☆


少し脱線しますが、礼拝賛美のあり方の一つとしてExclusive psalmodyという立場があります。


これは公同礼拝の中で歌われる賛美を、みことば(=詩篇歌)だけに限定するという立場です。


現在でも、保守的なオランダ改革派教会、スコットランド長老教会などでは、(一般讃美歌をも奨励したルターと違い)、Exclusive psalmodyを重んじたジャン・カルヴァンに倣い、公同礼拝の時には詩篇歌だけが歌われています。




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さて、この立場の人たちはちょっと「行き過ぎ」「狭すぎ」「厳格すぎ」なのでしょうか。


私自身は、exclusive psalmodistではなく、通っている教会でも、一般讃美歌を歌っています。


しかしながら、500年以上に渡り、なぜ真摯な聖書主義クリスチャンたちの間で、exclusive psalmodyという立場が消えないのでしょうか。


私はそこの部分に関心を持ちました。


そして彼らの論文をいろいろ読み始め、彼らの主張に直接、耳を傾けてみることにしたのです。


そしてそこから分かったことが二つありました。


)確かに、使徒時代、初代教会時代の礼拝賛美の主体は、一貫して「詩篇歌」であった。


)彼らが詩篇歌だけを公同礼拝で用いたいと願う根本には、

キリスト礼拝においてできるだけ人間的なもの(人間のことば、人間の考え等)を排除し、純粋なる神の御言葉だけが宣言され、また聖徒の口から歌われることを望む――、

そのような神中心・みことば中心の礼拝を熱望する聖徒たちの心があったのです。




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Exclusive psalmodyが実践されている北米の保守改革派教会 (source




またそういった教会は一般に、「リベラリズムに傾きにくい」という共通した特徴を持っていることにも私は気づきました。


繁栄の神学、フェミニズム、○○運動、○○神学といった流行の波がわっと押し寄せてきても、こういった教会はぐらつかず、そうそう容易に同化もしません。



☆☆


おわりに



話が逸れてしまいましたが、私はこの長老を、exclusive psalmodyのような稀有な人物だと考え、彼のような人をとりわけ尊敬しています。


彼は私のblogging行為が、聖書の示すheadshipの枠を超えている、よろしくないと考えています。


人は、そして私は、自分が今見えている範囲でしか行動することができません。


私は主人と長らく話し合い、祈った結果、現在にいたるまで一応、女性ブロガーとして聖書のみことばやその周辺のテーマをこの世に発信しています。


しかしながら、私は同時に、自分が女性として、男性よりも惑わされやすい存在であり、その意味で誤謬を犯す可能性がより高いのではないかと感じています。


(しかしこれは他の女性の方々に適応されるものではなく、あくまで私という一女性の個人的所感です。)


ですから、他の方々に教理の検証を頼まれた際にも、いつも、自分の調べたその検証内容を、さらに、信頼できる男性教師(牧師)の方々に再検証していただくことをみなさんにお勧めしています。


同じコンプリメンタリアンの陣営内にもスペクトルがあり、幅があります。


そして私はこの「幅」を愛しています。


なぜなら、この幅は、聖書を神の言葉を信じ、それに忠実に従っていこうと最善を尽くしておられる聖徒たちの努力と誠実、そして人間としての有限性を表わす「幅」であると思うからです。


そして私も主人も、日々、主にあって、主を知る知識において成長したいと願っています。


もしかしたら、5年後、10年後、主人の見解に変化が生じ、長老と同様の結論に達するかもしれませんし、そうでないかもしれません。


ただ私としては、自分の上に立てられている地上の権威である主人が主に祈り、聖書を調べた結果、導かれた諸結論に、いつも「はい。そう致します。」と従える者でありたいと願っています。


読んでくださってありがとうございました。





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神は今ここにご臨在しておられる。


さあ、ひれ伏し、敬拝しよう。
ここは聖なる場。


神はわれらのただ中におられる。
われらの魂は黙し、
御顔の前にひれ伏す。



主よ、
神聖なるご慈愛に慄きつつ、
われらは汝の前に跪きます。


ああ本来、汝にふさわしくない私たちが
汝のものとされているとは!



喜んで汝の御前に、あらゆるこの世的な楽しみや快楽、
富財を投げ出します。



主よ、われらの心、魂、体を見てください。

私たちはここにおります。

もはや自分のものではなく、
われらは汝のものです。



汝こそ万物を満たすお方であり、
汝のうちで、すべてのものは生き、動いています。


岸のない永遠なる海――音なく、秘められ、神秘に満つ。

汝のうちにわが魂は深く沈みます。


そう、汝の内に――

ああ、もはや自己の暗い監獄に閉じ込められておらず、

よみがえられたキリストのいのちが私を動かし、
私を満たしている。




汝は終わりなき天空を満たす光であられ、

その御光でもってわが顔を照らしておられる。





可憐な花々が、

喜びの内に、

そして静寂の中にある恵みのうちに 花開き、

義の太陽がそれをやさしく見つめている。



こうしてわが魂は静けさの中に憩う。





輝かしい御力は汝のもの。

力強い御意思も汝のもの。




一方、わたしの務めはシンプルであること。


天的な草原の中で、

はち切れんばかりの喜びをもって

無邪気に歌う子どものごとく、

愛し、ただひたすらに喜ぶ――。

これだけが甘美な私の務め。





鷲が光輝く大空に、

どこまでも高く舞い上がるように、



ああ主よ、今この時にも、

わが魂は汝を探し求め、

汝のおられる天に飛翔します!





-Gerhard Tersteegen, Within the Veil
私訳







for my protestant readers




for my orthodox/traditional church readers










おお魂よ、静まりなさい。



汝の神、栄光の王であるキリストが、

汝のために十字架に架かっておられる。




御父の懐を離れ、

さまよう魂を、ふるさとに導き入れるために

主は来られた。




イエスがあなたを愛しておられるのか知りたいのですか。


本当に愛しておられるのかどうか。。。




それならば、心引き裂かれ、

御苦しみに遭われしこの方をみなさい。




あらゆる地獄の痛みを極まで味わわれ、

打ち叩かれ、

汝の咎、罪過を忍ばれたこの方をみなさい。




誰からも見捨てられし主。




ああ、この方の悲痛な叫びがあなたに聞こえるだろうか。




沈黙の空の暗闇の中を報われることなく歩まれた主。



汝を神の元に帰すために、流されし

血の泉を見よ。





おお、偉大なる救い主イエス、

わが罪、そうです、

わが罪が、汝の上に置かれたのです。





汝の十字架の中に

私はわが永劫の刑罰をみます。





そして本来ならわが負うべき呪いを――

汝の神性なる御苦しみのうちに見ています。





主よ、汝はわがために、

勝利を勝ち取ってくださいました。





こうしてとこしえに義は満たされ、

神の御心が成し遂げられたのです。




それゆえに、おお、打ち叩かれし岩なる主よ!

汝より、とこしえの命が流れ出で、


卑しむべき、咎ある者に、

生ける水が注がれているのです!





敵であった私は、汝の尊い血潮によって

贖われました。





今、沈黙のうちに私は、汝の足もとに額づき、

汝の無限の愛のうちに

忘我しています。





Gerhard Tersteegen, The Sin-Offering,
私訳





十字架につけられたキリスト

ああ、わが救い主は血を流されたのでしょうか―イサク・ワッツの信仰詩














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Ms.Rachel Held Evans


イエスさまはフェミストだった!」―2013年に発刊されたサラ・べッスィー女史による著『Jesus Feminist: An Invitation to Revisit the Bible’s View of Women』によって主張・社会キャンペーン化されている説。

(本書のはしがきは、有名なクリスチャン・フェミニストであるレイチェル・エヴァンズ女史が書いておられ、上の写真にみられるように、ジーザス・フェミニスト運動として、欧米のエヴァンジェリカル界に広がりを見せています。」 source




IamaJFA1127.jpg
source



―――――


Mary Kassian, The Feminist Gospel: The Movement To Unite Feminism With The Churchより一部抜粋




フェミニズムというのは、ニュートラルなトピックではありません。


多くの方々にとり、これは苦々しい思い、怒り、そして反抗心を掻き立てるなにかです。


またある方々はフェミニズムを娯楽、軽蔑、あるいは嫌悪感をもたらすなにかであると感じているかもしれません。


フェミニスト哲学は、女性・男性としての私たちの存在に関するある深遠にして重要な問いを発しています。


そして私たちの生きる理由および目的を定義すべくあるフレームワークを差し出しているのです。


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Christian Feminist Network, source






フェミニズムは物議を醸し出すものです。


というのも、それは実際的なレベルにおいて私たち自身の日々の存在そのものに触れるものだからです。


またそれは、強い感情反応を引き起こすなにかでもあります。


なぜならフェミニズムは私たち自身、そして私たちを取り巻く世界、そして究極的には私たちの神に対する私たちの個人的見解に真っ向から対峙してくるからです。


フェミニスト哲学のインパクトは、北米社会において顕著にみられます。


両性の役割、マイノリティー優遇措置、再生産テクノロジー、中絶、レイプ、虐待、デイケア、賃金の平等、、といった事柄に関し、私たちは日常的に、フェミニスト的観点に触れています。


またフェミニスト・イデオロギーはキリスト教会の中でも露見されます。


多くのキリスト教書籍、論文が発行され、「聖書は、教会の中における男女の役割に差異を設けてはいない」という主張を繰り広げています。


教会の中のリーダーシップのポジションに女性が就任することも今日では当たり前のこととなっています。


多くの教団・教派において、神学校での女性学のコース、フェミニスト神学、ジェンダー包括語、フェミニスト儀式などは寛大に受け入れられています。


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確実にいえるのは、フェミニズムは今日着実に、キリスト教界に影響を及ぼし続けているということです


しかしその影響とはすべてがすべてネガティブなものなのでしょうか。


あるいはフェミニスト哲学のある側面などはキリスト教と正当に融合することが可なのでしょうか。


聖書的フェミニスト(biblical feminist)は、「聖書はフェミニスト哲学の中枢思想を支持しつつ、しっかり解釈できる」と主張しています。


また彼らは聖書が、信仰や実践分野すべてにおける最終的な権威であることを認めています。


リベラル派の宗教フェミニストとは対照的に、聖書的フェミニストは聖書本文の抜本的な修正や、救い・贖いといったキリスト教教理の中核の変更について、これらを拒否しています。


しかしながら、結局のところにおいて、こういった保守的な聖書的フェミニストたちは、リベラル派フェミニストたちとそれほど異なっているのでしょうか(訳者註)


彼らの解釈上の前提(presuppositions)や解釈方法は、はたして彼らの信じる聖書の教えを守る役割を果たしているのでしょうか。


これらは今日のプロテスタント諸教会が真剣に向き合わなければならない重要な問いだと考えます。


といいますのも、もしもフェミニズムとキリスト教が共存可能なのだとしたら、私たちクリスチャンは、両者を融合させようと試みるフェミニスト運動に抵抗すべきではないからです。


しかしもしも両者が共存可能でないとするなら――もしもどんな程度であれ、フェミニズムの存在が妥協を促すのなら――それならば、キリスト教会は、フェミニズムの提供する福音を断じて受け入れるべきではありません。




Mary Kassian, The Feminist Gospel: The Movement To Unite Feminism With The Churchより一部抜粋






訳者註: 「結局のところにおいて、こういった保守的な聖書的フェミニストたちは、リベラル派フェミニストたちとそれほど異なっているのでしょうか」という問いにおいて、ヴァージニア・モレンコット(1932-)女史の半世紀の歩みと変節は、私たち福音主義信仰に立つクリスチャンに大きな反省と警戒を促すものではないかと思います。

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決して交わることのない二つの川―私たちの応答【福音とフェミニズム問題】(最終回)







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サラ・べッスィー女史の『ジーザス・フェミニスト』に対する、相補主義クリスチャン側からの応答記事(Book Review):


Courtney Relssig, Jesus Feminist by Sarah Bessey


(*この書評の中でも述べられていますが、サラ・べッスィー女史は、その主張の根拠として、William Webb氏の「贖罪的な運動としての解釈法("redemptive movement hermeneutic")」や、相互恭順(mutual submission)の教えといった、典型的な対等主義の解釈を土台にしており、

その意味で、「イエスはフェミニストだった」という結論自体は斬新であっても、そこに至る解釈自体は、オーソドックスな福音主義フェミニズム路線であることがわかります。)



*「贖罪的な運動としての解釈法("redemptive movement hermeneutic")」についての詳説は次の記事をご参照ください。

ウェイン・グルーデム、「なぜ対等主義が前進しているのか?【中篇】 E 聖書の権威を拒絶し、リベラリズムへ向かわせる解釈メソッド


それから、対等主義者の主張する「相互恭順」についてさらに詳しくお調べになりたい方は、この記事をお読みください。







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神なき世界に生きる人間は、主権者なる神に代わり、われこそが人生における決定者そして主権者になろうとします。


それは一見、私たち個々人に自由と解放をもたらすものであるかのような印象を与えるでしょう。


しかし聖書、およびこれまでの人類の歴史が証明しているのは、人が神を主権者と認めず、神・人の「主従」が逆転するところにおいては、逆説的にも、自由の破壊がなされ、そして最終的な全体主義体制(totalitarianism)への道が開かれてゆくということです。


そのことを私たちは肝に銘じるべきだと思います。



新しい外観を装った全体主義への下り坂(ガブリエラ・クビー)【フェミニズム問題】

Peter J. Leithart, Gender Totalitarianism




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美しいフランスの巡礼道




愛する読者のみなさん、次のことを想像してみてください。


みなさんは今年、ある町に引っ越してきました。


さて、その町には五つの教会があります。


最初の二つの教会は、完全にリベラル派のプロテスタント教会で、聖書を神の言葉と信じていません。


残りの二つの教会はリベラルではないのですが、一つは、ロックンロール系でSeeker friendlyなモダン・バプテスト教会、


もう一つは繁栄の神学を盛んに説くペンテコステ教会。


そして五番目の教会は、カトリック教会でそこには神を畏れる祭司がおられるとのことです。


もし、みなさんが聖書信仰でプロテスタントの信仰者でいらっしゃるのなら、これら五つの教会の内、どの教会に行くことを選びますか?


難しい選択ですよね!


しかもこれは単なる空想上の問いではなく、実際に、フランスのある町で、真摯な信仰者たちが直面している生々しい現実問題なのです。


ですから、こういう事例からも、現在、フランスの地で主イエスを信じている私たちの兄弟姉妹が、どれほど大変な霊的環境に置かれているのか、どれほどの霊的闘いがあるのか、お分かりいただけると思います。


しかし、そんな霊的砂漠のただ中にあっても、御霊は働いておられ、新しい主の若芽が地上に姿を現してきています。




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そんな主の若芽の一人、カロリーヌ姉妹(27)が、今日、待望のクリスチャン賛美のyoutube channelをフランス語で立ち上げました!


チャンネルの名前は、"Richesses du répertoire chrétien"(=クリスチャン賛美の豊かさ)です。


そして彼女はさっそく、Mission Timothée作詞・作曲の美しい賛美曲"♪ Si Jésus quelqu’un veut te suivre"(♪イエス、もしあなたに従っていくなら)をアップロードしてくれました。


(ミッション・テモテは、フランス国内で1972年に誕生した聖書主義プロテスタント教会です。神学的には保守改革派だと思います。詳しくは「力と清さ Mission Timothéeの賛美の霊性」の記事をお読みください。)










日本語訳


.イエスよ、もしあなたに従っていくことを望むなら、

その人は常に自らの十字架を負わなければなりません。


そして自らのいのちを否みつつ、

あなたのためになら全てを失う覚悟を持って

生きてゆかねばならないのです。



くりかえし


おお主よ、私があなたを愛していることをあなたはご存知です。

私はもう自分自身のことに囚われていたくないのです。


ですから、私は喜びをもってあなたの道程を進んでゆくべく、

自分を否みます。


「わたしのために自分のいのちを失った者は、

それを自分のものとする」という

御約束が私の支えです。



信仰により、私はあなたの御言葉に寄り頼みます。

そうしてあなたの愛は成就されるのです。



.あなたはわたしのこと以上に、

自分の父や母、妻や子供のことに

心を囚われているのでしょうか。


そしてもし、あなたが自分自身のいのちを優先しているのなら、

あなたはわたしの弟子にふさわしい者として

生きることはできないでしょう。



.この世に対して十字架にかかり、

この世がますます私たちにとって

味気のないものとなってゆきますように。


そうした時、キリストのいのちが満ち満ちるのです。


おお、どうか私たちが十字架の敵となることが

ありませんように。





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祈り


天のお父様。私たちは聖なる畏れと甘美なる崇敬の心をもってあなたを賛美いたします。


あなたはフランスやベルギー、その他のフランス語圏の地において、現在、どれほど切迫した霊的ニーズがあるかをご存知です。多くの真摯な信仰者たちが、あなたの聖所の中における聖さと純潔を求め、祈り叫んでいます。


カロリーヌ姉妹の一途でまっすぐな信仰とあなたに対する燃えるような情熱ゆえに感謝します。


どうか彼女のそういった心を祝福してくださり、今日、あなたの御名によって立ち上げたYoutubeチャンネルRichesses du répertoire chrétienを祝福してください。


そして願わくば、このチャンネルから流れ出る聖く、神を畏れる賛美とメロディーが、山々や丘を満たし、そして遠くの国々にいる数多くの魂の霊的砂漠を満たすものとなりますように。


またミッション・テモテ教会の賛美と霊性が、21世紀におけるフランス宗教改革の口火を切るものとなりますように。


愛する日本の兄弟姉妹と心を合わせ、この祈りをイエス・キリストの御名によって御前にお捧げいたします。アーメン。









ディミトリスと申します。私は20歳の見習いコックです。私は1996年、ギリシャ中部にあるヴォロスという所で生まれました。




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母は10年近く子どもが欲しかったけど与えられず、体外受精を望んでいましたがお金がありませんでした。


ところがある時、宝くじを引いたらそれが見事に当選し、それで、めでたく僕が生まれることになりました。




両親の不和



母は一応、福音派のプロテスタント教会に通う信者でしたが、父は未信者でした。


両親の仲は悪く、私が15歳の時、父と母は別居を始めました。


その頃から私もタバコやお酒を始めました。煙草は一日二箱、そしてウィスキー三昧の毎日でした。


ハーリー・デイビッドソンに憧れ、あちこちにピアスもしていました。


一時的に、両親はよりを戻し、再び同居を始めたりもしていましたが、結局、私が18歳の年に(つまり二年前)二人は正式に離婚しました。




父への怒りが爆発する




父との関係は最初から悪かったのですが、二年前、それは最悪の状態になっていました。


ある日、父の家にいた時、ささいなことがきっかけで口論になり、積もり積もった父への怒りがついに爆発してしまいました。


私は玄関の戸を渾身の力をこめてへし折り、外に飛び出しました。


そして父に電話し、「お前は僕をこの世に送り出した。それなのに、お前のせいで僕は今殺されかかっている。それが分かっているのか!」と絶叫しました。


そして携帯を地面に叩きつけ、粉々に破壊しました。そして車に乗り込みました。


過度の怒りで呼吸もできないほどの状態になっており、この先、あと2、3分、この状態が続いたら、自分はきっと死ぬだろうと思いました。




神への叫び




2015年11月9日、下宿先に戻った私にある重大な出来事が起こりました。


何かに押し出されるかのように、私は地べたに跪き、「神よ、私を救いたまえ!」と泣きながら、叫んだのです。


すると、信じがたいことが起こりました。


イエス・キリストの聖なる血が頭の上から私の全身に注がれ、その瞬間、ある強い手が私の後ろ首のあたりを掴み、しばらくすると、その御手は私の頭の上に置かれました。


まるですべての宇宙が私に臨んでいるかのようでした。


そして私の心は愛の火山で燃え上がりました。


これまでの重く、沈んだ心が今や去り、私は「主に栄光あれ、主に栄光あれ」と歓喜の内に、主を讃えていました。


私は母や叔母に電話し、自分の身に起こったことを話しました。また、父を赦す心も与えられ、父にも安否を尋ねる電話をかけました。




聖霊のバプテスマ



それから約1カ月後の2015年12月4日、私の魂は、その日、自分が聖霊の注ぎを受けるということを内に知りました。


どうしてそれを知ったのか口でうまく説明することはできませんが、とにかくそれが分かったのです。


そして私の魂は聖霊の注ぎを熱望していました。


そこで寝る前、いつもならパジャマを着るところですが、その晩、私は白いワイシャツを着込み、一番上等のズボンを履き、そして香水もつけ、聖霊なる神様を迎える準備をしました。


そして跪き、祈り始めました。


すると、聖霊がくだり、私はアラビア語やロシア語など自分の知らない外国語で神を賛美し始めました。




テルミ市の教会に導かれる



その頃、私は下宿先から遠く離れたところにある福音派教会に通っていました。


ある日、バスに乗っていたら、同じ福音派教会に通う兄弟にばったり会い、私たちは会話を始めました。


その兄弟は私がテルミ市に下宿しているということを聞くと、「あそこにはΑποστολικη Εκκλησια Πεντηκοστης(Apostolic Pentecostal Church in Greece)という教会があるはず。近くだし、そこにも一度行ってみたら?」と勧めてくれました。


こうして私はテルミ市のこの教会に導かれ、今年の1月25日、そこの教会で水の洗礼を受けました。




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テサロニケ地方のテルミにある聖書主義ペンテコステ教会の主日礼拝の様子。ディミトリス君はここの教会で洗礼を受けました。





クレテ島へ




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クレテ島




2016年6月、私は料理学校の夏季実地研修生として、クレテ島のヘラクリオ市にある厨房に送られました。


私は主にある兄弟姉妹を探し求めました。すると、クレテ島においても、主は私に兄弟姉妹および教会を与えてくださったのです。


しかし厨房から教会までは片道2時間半かかりました。


そこで私は主に祈りました。「主よ、どうか私の仕事が午後の3時で終わるようにしてください。そうすれば毎晩、教会の集いに参加することができます。」


すると、主はその願いを聞き入れてくださり、こうして私は、教会の祈祷会や集いに欠かさず参加することができるようになったのです。



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コック長に伝道する



厨房のコック長は、ひわいな話をすることが好きな人で、いつも私をそういった話に巻き込もうとしていました。


私は彼の所に行き、「静かにしてほしい。そしてそういう話はしないでほしい」と頼みました。


しかしコック長は全然、話を聞き入れてくれませんでした。


そこでまた別のある日、私は彼に言いました。「あなたの人生の目的は何ですか。あなたは何をしたいのですか?」


すると彼は私に、「実のところ、僕は正教会のパパス(聖職者)になりたかった」と言いました。


そこで翌日、私は新約聖書を厨房に持参し、彼にそれを手渡しつつ言いました。「これを読んで、いのちを得てください。」


すると彼は「昔、ヨハネの黙示録を読んだのだが、怖くて途中で読むのをやめてしまった」と告白しました。


そこで私は「それなら、マタイの福音書から始めるといいですよ。」と彼に勧めました。





イエスの御名によって誘惑に打ち勝つ




ある時、厨房に隣接したホテルの入り口に三人の女性が現れ、私の体に触りながら、私を性的に誘惑しようと忍び寄ってきました。


20歳の若者にとってこのような誘惑に打ち勝つのは至難の業です。


しかし私は聖霊に満たされ、三人の女性をホテルの入り口の方までぐいぐい押し返し、「Don't touch me. Jesus is ALIVE!(=私に触れるな。イエス様は生きておられる!)」と宣言しました。




:ディミトリス兄弟、日本にいる10代、20代の若者たちに応援メッセージがありましたら、どうぞ!



:もしあなたがこの世にあって呼吸したい(breathe)なら、それなら、神を信じてください。


そして覚えていてください。神様の外側にあるすべてのものは、やがてあなたを死に導く、ということを。




ーおわりー




関連記事:

ミシシッピ便り―日本宣教に燃える16歳の少女ケイガンの証し(インタビューしました!)


おお、炎よ (ケイガンの詩と祈り)


「教会の偽教師につまずき傷つけられても、僕は最後までイエス様につき従っていきます!」―ジョエル・ホースト兄弟(26)にインタビューしました。


ジョエル・ホースト君の作った賛美 A Radical For Jesusを聴いてみよう!(前回のインタビュー記事のつづき)








ある日、窓の外をみると、




いかにも造りの悪い 一台の小型戦車が、



あちらにドシン、こちらにドシンと


ぶつかりながら、




坂道を 


駈け上っていくのがみえた。







ゴトゴトいう音と、砂埃で、


おだやかな牧草たちも 



おっかなびっくり 顔を上げている。







目を凝らしてみると、



例のオンボロ戦車は、


丘の中腹くらいのところで、



ついに カーブを曲がり損ね、



ひっくり返ってしまっているのがみえた。






車体の背を下に



オンボロ戦車は 


足をばたつかせ、泣きじゃくりながら、



必死に起き上がろうとしていた。






どこまでも広がる青空と、きらめく太陽。




銀色になびく草原の風の間を 


ライチョウの親子が すべってゆく。






こんなにすべてが 美しく 整っているのに、




それなのに 



この戦車は 丘陵のまんなかで


ひっくり返っている。






見ている私は、はたして



この光景を 笑っていいものか、


嘆いていいものか


分からずにいた。







そうして でも、



知らないうちに



いつしか このオンボロさんと


いっしょに泣いている自分に気づいた。




―――




人間存在の哀しさとこっけいさ




そして



信じられないほどの尊さ。


血の贖い。






主よ、


私たち人間を 


どうか憐れんでください。








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そして彼らに言われた。「わたしは悲しみのあまり死ぬほどです。ここを離れないで("Tarry ye here")、目をさましていなさい。」


それから、イエスは少し進んで行って、地面にひれ伏し、もしできることなら、この時が自分から過ぎ去るようにと祈り、、


マルコ14:34、35


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"Tarry ye here!"
「ここを離れないで。」



おお、悲しみの人が呼んでいる。


暗きこの時、わたしの傍に立つのは誰かと。





おお いざ来たりて われと共に嘆け。
そして 十字架の傍にとどまらんことを。


おお 来て、共に嘆こう。
われわれの救い主イエスが十字架に付けられた。





嘆き告白というのは、今日西洋のクリスチャンの間ではもはや忘れ去られたものとなっています。


そしてそれに代わり、私たちを取り囲む世俗世界の態度を反映するかのごとく、プラグマティックな見解に則ったクリスチャンの行ないが私たちを圧倒しています。


「神に知られている者でありたい」という願い以上に、単なる知識追及がもてはやされているため、〔心砕かれ、罪を嘆く〕告白の姿勢というのは、私たちの間にみられません。




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キリスト教聖画をみますと、両腕を天にかかげ必死に助けを求める姿、嘆願しつつ跪く礼拝者、地のちりの中につっぷし、主の前にくずおれている姿など――


公に、全身全霊でわが身の悲しみ・嘆きを主の前に注ぎ出す姿が見いだされます。



Bruce K. Waltke, The Psalms as Christian Lament, A Historical Commentary






祈り


神の御子、主イエス・キリスト。このような罪びとを憐れみたまえ。


Κυριε Ιησου Χριστε, Υιε του Θεου, ελεησον με την αμαρτωλον!







自分の知り、歌い、詠唱する

あらゆる種類の祈りの中にあって、


一つの祈りが、

たぐいなき力をもって私の内に息づいている。



そう、すばらしいこの一言の祈り。

主よ、憐れみたまえ!




単一にして、切なる嘆願が込められたこの祈り。


私は慈愛に満ちた神に祈る。



ああ、汝の偉大なる御力によって、

この罪びとを救いたまえと。


主よ、憐れみたまえ!




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私は、暴風で荒れ狂う人生の航路を

一人進んでいる。




人生で遭遇する喜び、

そして胸を裂かれるような悲しみの数々。




このような嵐から誰が私を救ってくれようか?



私は一言のこの祈りを祈る。


主よ、憐れみたまえ!」と。





深い絶望の谷の内で慟哭する時、


数々の欲情が私を圧倒する時、




私は心を振り絞り、

力の限り祈り、叫び求める。


主よ、憐れみたまえ!」と。





そしてこの地上での旅路を終える時、


わが魂は、なおもこの祈りを祈ろう。




墓を越え、

永遠の希望をみつめつつ、


主よ、憐れみたまえ!」と。




-Lord Have Mercy,
translated from Russian by Natalia Sheniloff (source)





イエス、わが最愛の救い主。



我を、汝の聖き足跡――

苦悶のうちに汝が泣かれたその道――に

つき従う者とさせたまえ。



おお主よ、


わが人生すべてを汝に捧げさせたまえ。



わがために、かくまで苦しみを忍ばれた汝に

わがすべてを捧げさせたまえ!










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