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「ああ、あの人のようなクリスチャンになりたい!」そう思ったことはありますか。

私にはそういう模範となるべき人が少なからずいます。

自分を最初にキリストに導いてくれた韓国の姉妹がそうですし、アテネの貧民街で無私の奉仕をしておられるシスター・Eなどがそうです。

いえ、それだけではありません。うれしいことに、私は、過去の世紀に生きた信仰の先人たちの中にも、そういう人物をみいだしてきました。

ヘスター・ギボンは、私にとってそんな一人です。

ヘスターは、歴史的にはまったく無名な人です。彼女は、『ローマ帝国衰亡史』の著者である英国の歴史家エドワード・ギボン(1737~1794年)の叔母さんにあたる人なので、そのつながりで少々名前がでてきますが、ただそれだけです。

彼女に関する伝記があるわけでもなく、彼女が何か後世のために書物を残したわけでもありません。

それにもかかわらず、ヘスター婦人は、死後300年余り経った今に至るまで、世界中のクリスチャンの心をとらえつづけているのです。なぜでしょうか。

それは、彼女の霊的指導者(ウィリアム・ロー)の著した不朽の名作A Serious call to a devout and holy life(=『敬虔で聖い生活への厳粛な招き』1728年)の中で、ヘスターの信仰生活のことが生き生きと描き出されているからです。

私がヘスター・ギボンにはじめて「出会った」頃、アテネは暴動のただ中にありました。

中心部は封鎖され、いっさいの交通機関がストップしていました。さらに清掃業者の長期ストライキで、いたるところ、ゴミが散乱していました。

この先、どうなっていくのだろうという不安が、重ぐるしい雲のように、社会全体を覆っていました。

そんな中、私は自室で、静かにページを繰っていました。

時空を超え、ヘスター・ギボンの清らかな生涯は私の心に訴えかけてきたのです。

さあ、これから、ごいっしょに、ヘスターの人となりについて、みていくことにしましょう。

ウィリアム・ローのこの作品は、すでに著作権切れとなっていますので、所々、私訳(意訳)していきます。なお、ヘスターは、本書の中で、ミランダという名で登場しています。


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ミランダは、落ち着いた、分別あるクリスチャンです。

両親の死後、彼女自身が、みずからの時間や財産を管理する立場におかれましたが、その時、彼女がまず考えたことはこうでした。

『この短い人生の中で、神さまに託されたこれらの時間とお金を、いかに用いてゆくべきなのでしょう。』

彼女は、主の仰せられた〈どうしても必要な一つのこと“one thing needful”〉(ルカ10:42)という真理に目を留め、自分の人生全体を、そのみことばに従わせることにしました。

彼女にとって――何かをする・しない、何かを好む・もしくは好まない――唯一の理由はただひたすら「神のみこころ」にありました。

彼女は、謙遜さ、愛、献身、節制、そういったものを通して、キリストに従うべく、この世を否んだのでした。

☆☆
彼女がまだ母親の管理の下にあった時のことですが、当初、彼女は、上流社会の淑女としてのふるまいを強いられていました。

さまざまな祝賀会に明け暮れ、夜更かしし、流行ファッションに身をつつみました。
日曜日は、お化粧して身を飾りたくった上で教会に行き、秘蹟にあずかりました。
さまざまな社交上の会話、劇場やオペラ通い。
舞踏会で踊れば、キザ男たちが彼女の美しい体とその優美な動きに魅了されました。

こういった前半生を思うとき、彼女は、「残りの半生、私は新しく生きよう」と固く決心したのでした。

ミランダは、自分の献身を――神、隣人、自分自身――と三分するようなことはせず、全てを神に対する奉仕と考えました。

そして全てのことを、主の御名により、主ご自身ゆえに行なったのです。

それゆえに、彼女は、自分の財産を神さまからの贈り物と考え、それを賢明な目的のために用いること、それが敬虔なクリスチャンとしての生涯を送る上で、不可欠なことだと思いました。

それで、彼女の財産は、自分と、幾人かの貧しい人々の間に分配されました。そして自分自身、必要な分しか受け取りませんでした。

他の人にお金を与えても、もしその人たちがそれをむだに浪費してしまうなら、それは愚かなことですが、ミランダは、それを自分自身にも適用したのです。つまり、彼女自身、むだな浪費をみずからにゆるさなかったのです。

ミランダはこう言いました。「ある貧しい人が、衣食にも事欠いているのに、施されたお金をつまらないことに浪費してしまうのは、愚かであり、罪でもあります。

しかし、私が自分の手の内にあるお金を、意味のない娯楽のために使うことはどうでしょうか。私は、かの貧しい人よりも、愚かでもなく、罪もないということができるでしょうか。いえ、そんなことはありません。

浪費してしまった私のお金は、神さまのご用のために、隣人への愛の行ないのために善用できていたはずなのです。」

これがミランダの精神でした。

食費を除き、彼女が一年間に、自分自身のために使うお金は10ポンドにも満たないほどでした。

彼女を見る人は、彼女の質素な様子に驚くかもしれません。しかし、ミランダは質素ではあっても、おどろくほど清潔にきちんと身をつつんでいました。

服装にかんして、彼女にはただひとつの基準がありました。それは〈いつも清潔に、そしてできるだけ安い物を〉でした。

彼女にまつわるすべてのものは、彼女のたましいの清らかさを物語っていました。そして外見的にみて、彼女はいつも清潔でした。というのも、彼女の内側がいつも清らかだったからです。

毎日、夜明け前に、彼女はすでに祈っていました。共に住んでいる人々にとって、彼女はあたかも守護天使のようでした。というのも、彼女は自分の住んでいる場所を祝福しつつ、眠っている人々のためにとりなしの祈りをしていたからです。

☆☆

立ち働いている彼女をみると、そういった知恵が、他のすべての行為をも治めていることに気づきます。彼女はいつも、自分の必要、もしくは助けを必要としている人々の必要のために何かを行なっていました。

近所の貧しい家庭で、彼女の編んだ服を着ていない人はほとんど皆無でした。彼女の賢く、敬虔な心は、この世の娯楽を求めることなく、意味のない愚かなことにかかわることをいさぎよしとしませんでした。

食事に関しても、ミランダは、「あなたがたは、食べるにも、飲むにも、何をするにも、ただ神の栄光を現わすためにしなさい」(Ⅰコリント10:31)という聖書のルールに従っておごそかに生きていました。

彼女にとっては、食事も、献身の行為の一つでした。彼女の日々の食事にはただ一つの目的がありました。それは、自分の肉体を、この霊的レース(聖さ、清らかさ、天的な愛を求めるレース)のために、よりふさわしいものにすることでした。

☆☆

聖書――とりわけ新約聖書は――、彼女の日々の糧でした。彼女は注意深く、みことばを読み、そこで語られている教えに自分自身を照らし合わせました。

新約聖書を手に取る彼女は、自分自身が、あたかも救い主や使徒たちの足元にいるように考えました。そしてそこから学んだことを一つ残らず、人生の掟として生活の中で適用していこうとしました。

☆☆

彼女の愛の行為(施し)についてですが、それは20年間途切れることなくつづいた、日々の実践の歴史といってもよいでしょう。というのも、今日にいたるまで、彼女のお金はそのように用いられてきたからです。

彼女は事業に失敗し、貧困にあえぐ小売商人を20名余りも助け、その他、多くの商人を破産の危機から救いました。

彼女は幾人かのストリート・チルドレンを引き取り、彼らに教育を施しました。

ある労働者が病床についているという知らせを聞くや、ミランダは彼が回復するまで、この人の給与の二倍額にあたるお金を送りつづけました。

そうすることで、これまで通り、彼は自分の家族を養うことができ、また残りのお金で薬などを買うことができるからでした。

大家族を十分に養うことのできない貧しい労働者のために、彼女は家賃を払ってあげ、毎年、衣類を送ってあげました。

心がねじけ、周囲から疎んじられている貧者に対しても、ミランダは気を配りました。そしてこういった人々が困難の中にあるということを聞くや、すぐに助けに走りました。

ミランダのうちに見られる、このような性質ほど称賛に値するものはありません。というのも、もっともなおざりにされている罪人に対する、こういったやさしい思いやりこそ、敬虔なたましいの極みだからです。

☆☆

彼女は引退した高齢者の方々に対しても、非常な愛情を注いでいました。教区の年金だけではまともな暮らしをしていけない方々が多くいました。そのため、彼らはミランダの絶えざるケアの対象でした。

そこには、彼らが生活の心配から解放され、平安と静寂のうちに神に仕えることができるようにという彼女の配慮がありました。

実際に、彼女の愛の行為と励ましにより、余生を敬虔と祈りのうちに過ごした方々も少なくありませんでした。

また、貧しく年老いた旅人が「私には力もなく、お金も、食べ物もないのです」と言ってきた場合、彼女はこういった旅人を追い返すこともなく、彼が詐欺師ではないかと疑ったり、自分の知らない人だからという理由で拒んだりすることはありませんでした。

逆に彼女はこの人が見知らぬ人であるという理由ゆえに、あえて彼を受け入れてあげました。

というのも、私たちがこれまで会ったこともない人、そしておそらくこれから二度と会うこともないだろう人に対して親切を尽くすというのは、愛の行為の中でも、もっとも気高いものだからです。

、、、神のために生きること、時間とお金の使い方、食べること、働くこと、着ること、言葉を交わすこと――それらを実際するにあたりミランダがみずからに課した規律は、デボーションや祈りといったものと同じように、敬虔な人生に欠かせないものでした。


☆☆

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おわりに

この本を読んだ18世紀のイギリスに霊的覚醒が起こりました。

この本の中で触れられている、ヘスター・ギボン(ミランダ)をはじめとする敬虔なクリスチャンの記録は、ジョン・ウェスレー、チャールズ・ウェスレー、ジョージ・ウィットフィールド、ウィルバーフォースといった人々の人生に絶大な影響を及ぼしました。

20世紀に入ってからも、C.S,ルイス、アンドリュー・マーレ―、ジョン・パイパー等、この書から感化を受けた人は少なくありません。

しかし、後世への影響など、ヘスターにはさして重要ではなかったと思います。

彼女にとって、唯一大切だったのは、ひたすら主を愛し、主に喜ばれる人生を送ることだったのです。

「自分の口ではなく、ほかの者にあなたをほめさせよ。自分のくちびるでではなく、よその人によって」(箴言27:2)。

今日も、日本の、そして世界のいたるところで、ヘスター・ギボンのような姉妹(兄弟)が、静かに祈りをささげつつ、神のため、隣人のため、奔走しておられます。

そして、こうした方々は、〈どうしても必要な一つのこと〉だけに目を注ぎつつ、(本人は自覚していなくても)それぞれ置かれた場所で、「光」として輝いているのです。


この記事を読んでくださったみなさんを心から応援しつつ。

(おわり)

中東の人々を熱く愛していくために

『ヤギかいのモニ』(ヨハンナ・スピリ作)第5章