sakura10.jpg


アテネも日増しに暑くなってきています。先日、大学前でバスを降り、大勢の学生の後ろに続いて、私も高台にあるキャンパスへと坂を上って行きました。

と、前方を歩いていく学生のみなさんを見ながら、私はこんな思いにとらわれたのです。

〈今、私はほんとに大学に向かっているの?それともここは海水浴場?〉

すぐ前を歩いていた若い女子学生は、短パンに、上は、背中が全開の、前掛けのようなタンクトップを着ていました。

もちろん個人差はありましたが、右を見ても、左を見ても、露出度においては皆、似たり寄ったりでした。夏の服と、水着との区別がすでにぼやけてきているのです。

〈ああ、どんどん変わっていく、、、〉

3年前より、2年前、そして去年より今年、、とアテネ大の女子大生のファッションが急激に変化していっているのを改めて私は驚きの目でみました。

私自身の罪の告白

でもどうか誤解しないでください。私は、こういったことを、裁きの高台から見下ろすようにして言っているのではありません。

もし私が裁きの矢をだれかに射るのだとしたら、それはまず、他でもない自分自身に突き刺さるでしょう。

というのも、私は過去、自分の服装のことで、教会の兄弟をつまずかせてしまったからです。その事で、ある一人の姉妹が個人的に、私をいさめてくださったことさえありました。

でも私は「自分には罪を犯しているという自覚がない」と答え、かたくなにも自分流のファッションを続けたのです。

海外でも一度、ある姉妹に、同じような事で忠告をうけました。しかしこの時も私は心を低くして、忠告に耳を傾けることをしませんでした。

そんな私を、主は忍耐し続けてくださいました。そしてある日ついに、主ご自身が直接、私を叱ってくださったのです。それは次のことばによってでした。

イエスは弟子たちにこう言われた。

つまずきが起こるのは避けられない。だが、つまずきを起こさせる者は、忌まわしいものです。この小さい者たちのひとりに、つまずきを与えるようであったら、そんな者は石臼を首にゆわえつけられて、海に投げ込まれたほうがましです」(ルカ17:1,2)。

このみことばによって、一人の兄弟をつまずかせることの罪の大きさ、その深刻さが、その時、はじめて分かったのです。

何年も前に、姉妹から戒められた時には、涙一つ流さず、平然としていた私ですが、その日の夜、私は自分の犯してきた罪を嘆き悲しみました。

その後、タンスを開け、自分の服を一着、一着、主の前に広げ、「あなたに喜ばれない服、そして兄弟たちを(性的に)挑発するような服を示してください」と祈りました。

そして示された服をことごとくビニール袋に詰め、可燃物用のゴミ箱に捨てに行きました。

神よ。御恵みによって、私に情けをかけ、あなたの豊かなあわれみによって、私のそむきの罪をぬぐい去ってください。

どうか私の咎を、私から全く洗い去り、私の罪から、私をきよめてください。

(詩篇51:1,2)

さまざまな反応

こうして悔い改めに導かれたのですが、その後、こうした私の内面的・外面的変化は、周囲にいろんな反応を引き起こしました。

ほめてくれる人もいれば、非難してくる人もいました。

「成長した」と言ってくれる人もいれば、「律法主義者」だとけなす人もいました。

「若いのに、おばあさんみたいな格好をして!」と笑われたこともあります。なかには、「あなた、イスラム化したね」と言ってくる人もいました。

人はさまざまなことを言います。でも、神さまは私たちの心をご存じです。

ただ、〈イスラム化〉というコメントには、一言説明をしておく必要があるように思います。

服装におけるイスラムの慎みは、modesty by force (強いられた慎み)と表現できるように思います。それに対して、私たちクリスチャンのそれは、modesty by (or out of ) love (愛による・愛を動機とした慎み)といえましょう。

両者は似て非なるものです。根本の動機において異なっているからです。

私たちが強制されてではなく、隣人である兄弟を愛する心から、進んで自発的にみ旨に従ってほしいと主は願っておられるはずです。

あなたがたは、自由を与えられるために召されたのです。ただ、その自由を肉の働く機会としないで、愛をもって互いに仕えなさい。

律法の全体は、「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。」という一語をもって全うされるのです。

ガラテヤ5:13,14

sakura9.jpg


おわりに

〈姉妹の服装〉や〈慎み深さ〉とかいったテーマは、今日、教会でほとんど説かれることがなくなりました。耳ざわりの悪い話だと、タブー視されている感さえあるほどです。

でも私は思うのです。現在ほど、こういったメッセージが必要とされている時代はないと。

世俗文化は、ごうごうと激しい音をたて、おどろくべき早さで、下流の方へ流れ込んでいっています。そして、その濁流は、右に左に拡がる一方です。

ヨーロッパや北米で始まる新しいファッションは、少し間をおいた後に、必ず日本にもやってきます。アテネで今、私が目にしているファッションは、近い将来、日本でも流行っていくものなのです。

そんな中で、罪深い文化に染まらず、みことば通りに生きようとするクリスチャンは、あたかも、濁流に逆らいつつ上流に向かって泳いでいこうとするちっちゃな稚魚のようです。

でも稚魚はひとりぼっちじゃありません。

稚魚は、なかまの稚魚たちと肩を寄せ合い、はげまし合いながら、いっしょに前進していくのです。

ああ主よ、わたしたちをどうぞ助けてください。この世の濁流に押し流されることがないよう、一人一人に勇気と力を与えてください。

私は、今日、特に愛する同胞の姉妹たちのために祈ります。

どうか私たち姉妹が、この世の基準と妥協することなく、あなたへの愛ゆえ、隣人(兄弟)への愛ゆえ、慎み深さをもって身を包むことができますように。

そして願わくば、そういった慎み深さを通し、この世の人々が、あなたの聖さ、あなたの麗しさを見、あなたに引き寄せられますように。そして、あなたの御名がほめたたえられますように。

イエスさまの御名によって祈ります。アーメン。

宣教現場で思うことーミッションのあり方についてー

♪マラナタ 主が来られる日まで(마라나타 고형원)