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ギリシアのように難民に対する援助がない国では、国内外のキリスト教会が彼らの援助に大きな役割を果たしています。

ギリシア正教会、カトリック、地元のギリシア福音教会、キリスト教系のNGOなどなど、多くのクリスチャンが無料で食事を提供するなど、懸命に立ち働いています。

また、さまざまな教派の外国ミッションも、伝道活動をすると共に、難民の衣食住および医療の問題に積極的に関わっています。

これらは全てすばらしいことであり、私たちはそこに、今も生きて働いておられるイエスさまを見ています。

しかしその一方、私は、伝道と援助が(特にわたしたちプロテスタントの外国ミッション諸団体において)ある種の問題を引き起こしているのも目撃してきました。

今日は、そのことについてお分かち合いしたいと思います。

☆☆

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私たちは、時が良くても悪くてもみことばを宣べ伝えるように聖書の中で命じられています(Ⅱテモテ4:2)。

宣教史をひもといてみても、福音伝道なしの慈善事業(学校、病院などを建てる)は、たとえ一時的な解決をもたらすことができても、現地の人々の心に根本的な変化(いのちと喜びに満ち満ちた生活)をもたらすことができなかったことを物語っています。

日本でも過去、宣教師の尽力によって多くの高校や大学が建てられました。でも、ご存知のように、今、そういった学校のほとんどはキリストの精神とはほど遠い、単なる名門校になっているのが現状です。

一方、イエスさまは、マタイ25章31~46節の中で、私たちクリスチャンが、貧しい人々、宿のない人々、着る物のない人々、病にある人々、牢にいる人々に具体的な助けの手をさしのべるように言っておられます。

「まことに、あなたがたに告げます。あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、しかも最も小さな者たちのひとりにしたのは、わたしにしたのです」(マタイ25:40)。

これらのことから分かるのは、私たちクリスチャンには「福音伝道」と「援助」、その両方を果たしていく任務があるということです。

そして、この二つは切っても切れない関係にあるのです。その意味で、〈社会派〉、〈福音派〉とかいう分け方は、本来の聖書の精神にもとるものだと思います。

☆☆

さあ、ここまで述べたところで、私が現地で直面している宣教のジレンマを、実例をあげてご説明したいと思います。

以下は、私が以前、奉仕していた某外国ミッションでの様子です。

そこの団体では、一週間に二度、200名ほどが座れるイスとテーブルを用意し、難民の方々のために無料で夕食を提供していました。

定刻になると、難民の方々がぞろぞろ会場に入ってきます。そして満席になったところで、戸が閉められます。

そして戸が閉められると、まず伝道者が壇上に上がり、伝道メッセージを始めます。横にはクルド語、アラビア語、ペルシャ語等の通訳者がずらりと並んでおり、順々に訳していきます。

短期宣教チーム等がきている時は、さらにその後、証しや賛美や伝道スキットが上演されます。

そうして後、ようやく、奉仕者たちにより、食事を盛ったお皿がテーブルに配られ、難民の方々は食べ始めるのです。

みなさんは、こういったやり方について、どう思われますか。

私はある時、こう思ったのです。

〈もし、私が難民だったとしたらどうだろう。もし自分が国を失い、家族を失い、お金もなく、お腹がすいて、こういう場所にごはんを食べに来るより仕方がなかったとしたら。

たとえば、そこが共産党系の援助団体だったとする。そして毎回、食事前に、マルクス・エンゲルスの『共産党宣言』についてのレクチャーをきかせられたとしたら、、、〉

イエスさまの愛を伝えたい、いのちの福音を伝えたいというミッション側の熱意は分かります。とてもよく分かります。

現に、宣教師は、快適な祖国での生活を後にし、多くの犠牲を払いながら〈一人でも救われてほしい〉という切なる祈りをもって、日々奉仕しているのです。

でも、こういったやり方では、お腹をすかせている弱者の〈弱み〉につけ込んでいると非難されても仕方がないのではないでしょうか。

目的(福音伝道)のためなら、どんな手段を使ってもいいということにはならないと思います。

うちひしがれている異教の難民といえども、一人一人、尊厳をもった人間です。

それぞれに信教の自由があり、福音のメッセージをきく自由と共に、きかない自由もあるはずです。

数年前、別の某ミッション団体で、こんなことが起こりました。

例の食事前の伝道メッセージの最中に、ある難民が突然、「われらの神、アッラーは偉大なり。われらの神、アッラーは偉大なり」と大声で叫び出し、会場が騒然となったのです。

また別の団体では、神とサタンを同時に崇拝するクルド系の難民が50名ほど、伝道メッセージの内容に激怒し、通訳者を襲おうとする騒ぎもありました。

そういった騒動が起こると、「これだから狂信者たちは、、、」と批判の矛先は、彼ら難民に向けられがちです。

でも、問題の根は、むしろミッション団体側、そのシステム自体にあると私は思います。

騒ぎを起こす人々の肩をもつわけでは全くありませんが、彼らの心がその時点で、まだ福音に対して開かれていなかったのは事実です。

でも、彼らはひもじかった。だから教会に食事をとりにきた。

―それで十分ではないでしょうか。もしかしたら、彼らのうちの誰かは、10年、20年後、何かのきっかけで福音に心が開かれ、「そういえば、アテネにいてひもじかった時、クリスチャンたちが僕に食事を提供してくれたなあ。」と感慨深く思い出すかもしれないのです。

でも無理やりきかされた福音は、彼らのうちにかえって反動心を引き起こしてしまいます。

だから、こういった伝道集会は、食事サービスの「前」ではなく、終わった「後」か、もしくは別の日に開くべきだと私は思います。

そして、だれでも福音メッセージをききたい人は会場に残り、ききたくない人は自由に帰ることができるよう配慮してあげるべきだと思います。

でもそうすると、200人中、3人しか残らないかもしれません。

そういう状態では、「センセーショナル」な宣教レポートは書けないかもしれません。

でも、こうして残った3人は、本物の求道者です。そして神さまは、私たち奉仕者に、こういった少数の魂にとことん仕えるよう求めておられると思います。

☆☆

この世の媒介物やアトラクションを使って、人々を教会に惹きつけるやり方は、ギリシアだけに限らず、どの国でも、どの時代にも存在していたことです。

でもイエスさまがまっすぐに提示され、福音が安売りされず、奉仕者の人間的願望が十字架につけられている所では、人々は〈このお方〉ご自身に惹かれて、教会にやってくるはずです。

そしてこれは私自身の日々の祈りでもあります。

読んでくださって、ありがとうございました。
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