雪と小鳥

1725年、ボヘミアのとある寒村。

その日は特に凍てつくような寒さでした。

夜中の1時になって、ニッチマン家の人々は、戸を開け、音を立てないようにそぉーと外に出ました。

「神さまに信頼しましょうね。主は私たちを追っ手から守ってくださるから。」母さんは、10才のアンナに繰り返し言い聞かせました。

一家は官憲の目を逃れつつ、森を抜け、丘を越え、逃避行をつづけました。

そうして歩き続けること3週間。ついに、彼らはドイツのヘルンフート避難所にたどり着いたのです。

☆☆

アン・ニッチマン

アンナ・ニッチマン(Anna Nitschmann)は、1715年11月24日ボヘミアのクンワルドという村で生まれました。

村の羊飼いだったアンナは、くすしい神のご計画により、やがてモラヴィア兄弟団(Herrnhuter Brüdergemeine)屈指の宣教師として、世界中を駈けめぐることになります。

今、私はわくわくしながら、この原稿を書いています。アンナの人生のうちにも、またその周辺にも興味深いことが山ほどあって、何から書き始めていいのか分からないほどです。

冒頭で、ニッチマン一家の逃避行のことに触れましたが、まずは、ニッチマン一家とはどんな人々だったのか。なぜ、逃げる必要があったのか、モラヴィア兄弟団とは何なのか、そういったところからお話をすすめていくことにしようと思います。

舞台の背景

英国オックスフォードで、ウィクリフの講義を聴講していたプラハ出身の留学生たちによって、宗教改革の思想は、ボヘミアに伝わりました。ヤン・フスもその教えに深く感銘を受けた一人でした。

John Huss
(↑ヤン・フス)

やがてヤン・フスはローマ教会の手によって火あぶり刑に処されますが、彼の思想はボヘミアの人々の魂にますます深く根をおろしていきました。もともと、ボヘミア地方(現チェコ共和国)にはヴァルド派等の非常に福音的な信徒グループが以前から存在していたこともあり、人々の心は福音に対し開かれていたのです。

ボヘミア兄弟団(のちルター派と合流しモラヴィア兄弟団に)は、こういった土壌の中から生まれてきたのです。

しかしそれに続く時代は、カトリックとプロテスタントの間の痛ましい戦争となります。

ボヘミア兄弟団も、政治や戦争に関世するか否かをめぐって分裂します。

そんな苦難の時代にあって、兄弟団の中に、ヤン・アーモス・コメンスキー(Jan Ámos Komenský)という逸材がでます。

Jan Amos Komensky
(ヤン・ア―モス・コメンスキー)

コメンスキーは、兄弟団が政治や戦争に関わることを認めませんでした。

1620年の白山の戦闘とそれに続く、カトリック側からのプロテスタント民衆に対する大虐殺が起こった時、彼はモラヴィアのフルネックにある兄弟団の牧師を務めていました。

その後、スペイン軍の攻撃により、彼は逃亡を余儀なくされ、ゼロティンにあるカールの城に避難しました。

しかし、その後、彼および亡命者たちはゼロティンからも追われ、ついに祖国を永久に去らなければならなくなります。コメンスキーは、全ての所持品を失い、妻子も困窮のためにすでに死んでいました。

彼らは山道を歩き、スィレスィア地方を通って、ポーランドに向かって逃避行を続けていました。

1628年1月の寒い夜、コメンスキー率いる一行は、ボヘミアを見渡すことのできる最後の峠で歩みを止め、食い入るような目で、もう一度、愛する故郷をながめました。

そして彼らはそこで賛美歌を歌い、ひざまずいて祈りました。

コメンスキーは、絞り出すような声で天の父に、「ああ父よ、この民をあわれんでください。どうか彼らのうちに、隠れた種を保ち続けてください。」と祈りました。

The Map of Moravia


〈隠れた種〉

はたしてコメンスキーの祈りはむなしく地に落ちることはありませんでした。

激しいカトリックの統制の下にあっても、少数の家族は、福音書を隠し持ち、秘密裏に集会を持ち続けました。マルティン・シュナイダー(アンナの高祖父)もその一人でした。

その後も、アンナの祖父サムエル、父デイヴィッドと、それぞれが伝道者として地下の集会を守り続けました。


病床にあったゲオルグじいさんの預言


また、近郊の村にはゲオルグ・ヤスフクという老信者がいました。ゲオルグじいさんは、最後まで「バアルに膝をかがめなかった」一人として皆に尊敬されていました。

そのじいさんが、亡くなる直前、皆を前にこのようなことを語ったのです。

多くの信者はこの世に自分を売り渡し、教皇の宗教は、彼らを食い尽くしている。もはや兄弟団のいのちは燃え尽きているかのようにみえる。

しかし、子どもたちよ、聞きなさい。今に偉大な解放の時がくる。残されし者は救われるのだ!

この解放がモラヴィアで起こるのか、それともお前たちが、『バビロンから出て行かなければならない』のか、それははっきり分からない。

でも、これはそう遠くない未来に起こるだろう、、、解放の時がきたら、即行動に移しなさい!ぐずぐずしていてはならない。




神の選びし器 


ゲオルグじいさんが亡くなってすぐ後、モラヴィアの山間でヤギ飼いをしていた一人の少年が、大工の手伝いとして町に出てきました。彼の名はクリスチャン・デイヴィッドといいました。

彼の親方はドイツ系の兄弟団のメンバーでした。読み書きのできなかったクリスチャン・ディヴィッドは、親方の8才になる息子にアルファベットの読み方を教えてくれるよう頼みました。

そんなある日、彼は自分の屋根裏部屋の軒の下に、ほこりをかぶった古い小冊子を見つけました。―それは昔々、兄弟団の出版した福音トラクトでした。

クリスチャン・デイヴィッドは、来る日も来る日もその小冊子を読み続けました。生まれてはじめて、彼はキリストの道と神の国についての福音を知ったのです!

そしてすぐさま周りの人々に、福音について語り始めました。しかし人々は「黙った方がいい。さもなきゃ、お前の首はチョキンって切られるよ。」と警告しました。

キリストに対する飢え渇きでどうしようもなくなった彼は、その後、数年というもの、スロバキア、オーストリア、ハンガリー、ポーランド、ドイツの各地を徒歩で移動しつつ、主を敬う兄弟姉妹を求めて放浪しました。

どこにいっても彼は笑い物にされ、その旅は失望の連続でしたが、ついに彼は、ドイツのゴルリッツで、フィリップ・ヤコブ・スペンサーに影響を受けた真摯な敬虔派の人々に出会ったのです。

そして彼はそこで出会った敬虔な信者であるツィンツェンドルフ伯爵に、母国モラヴィアの信者たちの悲惨な境遇について話しました。

すると、伯爵は、「自分の領地にはずいぶんと空きがあるから、そこに迫害されているモラヴィアの信者たちは移り住んだらいい」と言ってくれたのです!

それを聞くや、勇敢な青年クリスチャン・デイヴィッドは、立ち上がり、モラヴィアに向かって300キロ以上の山道を徒歩で進んでいったのです。

当時、「異端(=非カトリック)」の教えをひろめる者は、官憲に見つかり次第、殺されていましたので、彼のモラヴィア行きは、文字通り、命をかけたものでした。

1722年5月26日夜10時、クリスチャンは、最初のモラヴィア信者の一行を率いて、決死の国境越えをしました。(その後も彼は、10回余にわたり、モラヴィア信者救出のためにこの危険なタスクを敢行しました。)

1724年、ついにクリスチャン・デイヴィッドがアンナの住む村にもやって来ました。当時、アンナは8才でした。

クリスチャン・デイヴィッドの出現により、うちひしがれていたクンワルド村の信者は大いに励まされ、信者の間に霊的復興が起こりました。特に、アンナの兄メルヒオールの信仰は赤々と燃え上がりました。

兄メルヒオールは週に三回、自宅で集会を開きましたが、200人もの村人が押し寄せるというかつてない活気ぶりでした。

当時の様子についてアンナはこう書き記しています。

私の魂はおおいに鼓舞され、私は公の集会でも祈りはじめました、、、父と兄メルヒオールは、しょっちゅう、当局に召喚され、集会を開いていたかどで投獄されました。私はそれを喜びました。そして自分にはその枷を共に負うことが許されていないことが悲しくて仕方がありませんでした。



しかし迫害もまたさらに激しさを増し、アンナの父をも含めた多くの信者が再投獄されました。


奇跡の脱出


1725年1月24日木曜の夜。冷たい監獄の床に座っていたアンナの父は、「今夜、自分は出獄する」という内なる示しを受けました。

その時のことを、アンナの父は回想して、次のように証言しています。

私たち(→アンナの父と仲間のシュナイダー兄弟)は、夜の11時までじっと待っていました。この鎖をどうやって断ち切るか、私は思いあぐねていました。私は右手でナイフをつかみ、左手で、頑丈かつ新品の錠を持ち上げました。でもなんと、錠はすでにはずれていたのです!歓喜の涙があふれました。

私はシュナイダー兄に言いました。『ここから出るというのは確かに主のみこころだと思う。』

それから私たちは鉄製の足かせを取り外し、無言のうちに仲間の囚人たちに別れを告げました。

そしてはしごを探しに中庭に出ました。私は門の方に向かいました。―そこは毎晩、二つ別々のドアで閉ざされていました。

ところが、一番目のドアが開いているではありませんか!そして廊下に出ると、さらに二番目のドアも開いていたのです。-これは「そのまま進みなさい」という主からの、もう一つのサインでした。



こうして奇跡的に脱獄したアンナの父でしたが、折しも、クリスチャン・ディヴィッドが再び村にやって来て、この一家の逃避行を助けたのでした。冒頭のアンナと母との会話は、その晩になされたものです。


世の誘惑とつまずき


1725年、ニッチマン一家は、ツィンツェンドルフ伯爵領ヘルンフートにたどり着きました。

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この頃、思春期を迎えつつあったアンナは、神さまから離れて、次第に世的になっていく自分のことを両親と兄メルヒオールが心配していたと書き記しています。

それに加え、ヘルンフートに逃れてきたさまざまな教派のクリスチャン(モラヴィア兄弟団、ルター派、改革派、敬虔派等)の間で教義をめぐったいざこざが起こり、口先ばかりで愛のない大人たちの姿に少女アンナはつまずきを覚えたようです。

しかしその間中、兄メルヒオールは妹の救いのためにとりなし続けていました。アンナはこう書き記しています。

でも、ときおり、兄のメルヒオールが夜中に祈っている声が聞こえてきました。兄は、『主よ、どうかアンナの心を変えてください。そして妹をあなたのはしためにしてください』と切に祈っていたのです。こうした兄の祈りに私の心は打たれました。




1727年リバイバル


そんな中、主は驚くべきみ業をなしてくださいました。

いさかいと意見の衝突で共同体崩壊寸前にあったヘルンフートに、1727年、一大リバイバルが起こったのです。

ツィンツェンドルフの指導の下、5月頃から、人々の間で悔い改めが起こり、それにつづいて特別祈祷会がはじめられました。人々は公に罪を告白し、いがみあっていた人々はお互いに赦しをこい、いたるところに和解がもたらされました。

そして8月13日、感動の聖餐式が行われました。会衆の上には、圧倒的な主の愛がのぞみ、賛美の声と泣く声が会場を満たしました。

皆、小羊イエスの前に、心くずおれ、一つ心で主を礼拝したのです。「ここが天国なのか地上なのかわからないほどだった」と信者の一人は記しています。

そしてこの日、モラヴィア兄弟団は事実上、「再生」し、息を吹き返したのでした。

ルター派とのかかわりをどうするかという課題に対しても、ツィンツェンドルフは、教会の中の共同体(church within the church)としてモラヴィア兄弟団がルター派のフレームの中で、独自の存在として存続しつづけることを寛容にも認めてくれました。

この〈教会の中の共同体〉というコンセプトは、その後、ジョン・ウェスレーが、英国国教会の中にメソディスト・ソサエティを設立した際にも活かされました。


子どもリバイバルとアンナの回心


そしてこの霊的復興の火は、スザンナという一人の子どもを通じて、ヘルンフートの子どもたちにも飛び火しました。

スザンナ・クーフネルは11才になる女の子でしたが、彼女のお母さんが5月に亡くなりました。

天国を待ち望みつつ、喜びに満ちて召されていった母の姿をみたスザンナは、その日から三日三晩、主の前にひざまずき、主をひたすら求め続けました。

そして8月のある日、スザンナは父の所へ駈けていって、こう言ったのです。「パパ。ついに私も神の子にされたよ。ママが感じていたこと、そして今も感じていることーそれが今、私にも分かるの!」

そして翌日、スザンナはアンナをはじめとする、友だちにも力強く証しを始めたのです。その時のことをアンナはこう記しています。

あの時期、共同体全体に、大きな霊的覚醒が起こり、それは特に子どもたちの間において顕著でした。子どもたちは夜、野や森の中に行って、主を求め続けました、、、

私の心は溶かされました。涙があふれて止まりませんでした。私は全身全霊で救い主を求め、主の赦しを切に請い始めました。




100年続いた「祈りのチェーン」


その後すぐ、教会の有志14名によって、24時間体制のとりなしの祈りが提案されました。数日後には、志願者は72名に増え、彼らは、1時間ごとのシフトを組み、祈っていきました。

そしてその祈りのチェーンは、途切れることなく、なんとその後、100年にも渡って続いていったのです!

ちなみに、アンナのシフトは、午後2時から3時まで、でした。


アンナの成長


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アンナと9人の少女たちは、小さな祈り会を結成し、お互いに励まし合いつつ、奉仕していきました。この時期の気持ちを彼女は次のように述べています。

感謝と愛にあふれ、私の心は、主にお仕えしたいという熱い願いで燃え立っています。この世のすべては私にとって、意味をもたないもののように思われます。

永遠―これだけが私の唯一の思いであり、あこがれです。



1730年3月17日、思いがけず、アンナは15才という若さで、コミュニティーの女子部のリーダーに選ばれます。

「このあわれなはしために、主が力を与えてくださり、主が歩まれたように歩むことができますように」というのが彼女の祈りであり、願いでした。


霊的スランプとそこからの回復


しかしその後、アンナは数年間、霊的にも精神的にもつらい時期をすごします。

その原因が何だったのか詳しくは分かりませんが、一つには、霊的プライドの問題、もう一つは、いわゆる「うつ病」に悩まされたのではないかと思われます。

やがて、そんなアンナに転機が訪れます。

モラヴィア兄弟団には、宣教のビジョンが与えられ、早い時期から西インド諸島や、グリーンランド等に宣教師を送り出していましたが、アンナはロンネベルグ城を拠点とした地域に派遣されることになったのです。

アンナはそこでの使命に奮起しました。

私は周辺に住む貧しい少女たちとお友だちになるよう努めました。そしてすぐさま彼女たちの信頼を得ることができたのです。

少女たちの家族は、彼女たちの教育を私に託してくださり、私はこの機会を用いて、救い主の愛を彼女たちに伝えました、、、主は私たちと共におられました。奉仕をする中で、私は本来の明るさと自分を取り戻すことができたのです。



これは私たちにとっても励ましとなる証しではないでしょうか。私たちの霊的旅路においても、時にはつらくてもう一歩も進めないような時期があると思います。

でも、そんな時でも、いや、そんな時だからこそ、私たちは同じような苦しみの中にある同胞に心から寄り添い、彼らを励ますことができるのです。

神は、どのような苦しみのときにも、私たちを慰めてくださいます。こうして、私たちも、自分自身が神から受ける慰めによって、どのような苦しみの中にいる人をも慰めることができるのです。
Ⅱコリント1:4



その後もアンナはツィンツェンドルフ伯爵の妻であるドロシーと共にオランダ、フランス、イギリスへと宣教旅行に赴き、さらに新大陸にも伝道者として派遣されました。

ペンシルバニア州ベツレヘムに移動したモラヴィア宣教団は、自分たちで建てた、小さな掘立小屋の中で、貧しくも愛あふれる共同生活をスタートさせました。アンナはこう書き記しています。

ここベツレヘムがどんなにすばらしいか言葉で表現できないほどです。こんなに幸せを感じたのは生まれてはじめてです。みんな子どものようにお互いを愛しく思っています。

私たち罪びとを、これほど祝福された恵みの子にしてくださったのは、神の小羊に他なりません。



アンナはヨハンナ・モルセールという姉妹と共に、ペンシルバニアのドイツ人移住区を訪れ、そこにいた多くの女性たちをキリストの元に導きました。ヨハンナは貴族の出でしたが、福音のために自分の高い地位を投げ捨て、献身の人生を送った女性です。

こうして、アンナという羊飼いの娘と、貴族出のヨハンナは、キリストにあって、文字通り、「一つ」にされ、同労者として、共に福音伝道に励んだのです。なんとうるわしい姿でしょうか。

さらにアパラチア山脈を越え、険しい山道を登り下りし、アンナたちはアメリカ先住民にも福音を伝えに行きました。宣教団を率いるツィンツェンドルフは、日誌の中で、アンナのことを「我々のうちで、最も勇敢な人」と称賛しています。

少し脱線しますが、ここで、ツィンツェンドルフ伯爵についてすこしお話したいと思います。

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(↑ツィンツェンドルフ伯爵)

というのも、教会史の中でも、これほど個性的で、味のある人物はそういないと思うからです。

確かに、彼の神学には少しバランスの取れていないところもありました(例えば、イエスの血潮と御傷をあまりに強調しすぎた時期がありました)。

でも、キリストに対する彼の献身およびその忠誠心を疑う人はだれもいないと思います。

なんといいましょうか、彼は、情熱と善意のかたまりのような人なのです。壮大なスケールで物事を考え、また、それを実行に移す人でもありました。

詩心にも富んでおり、即興で賛美歌を作って、歌ったりもしていたそうです。(その分、事務的な作業はちょっと苦手だったようです)。

こんなほほえましいエピソードも残っています。インディアン居住地に伝道に行った時のことですが、現地のインディアンが伯爵の服のボタンに興味を持ち、「おみやげにぜひくれ」というのです。

寛容なツィンツェンドルフは「はい、いいですよ、お好きなだけ、どうぞ」と言いつつ、結局、すべてのボタンや留め金をあげてしまい、帰りには、糸で服を結びつけなければならなかったそうです。

でも本人はいっこうに気にせず、相変わらず、うれしそうにしていたということです。

また、これはヨミング渓谷に野宿した時のエピソードですが、おっちょこちょいの伯爵は、へびのねぐらの上に自分のテントを張ったらしいのです。

夜、書き物をしていた伯爵の足の間を、へびがくねくね動き回っていたそうですが、無我夢中でペンを走らせていた伯爵はぜんぜん気づかなかったそうです。

そんな伯爵でしたが、妻ドロシーの死後、ひどい喪失感に苦しみました。

その後、周りの兄弟たちの勧めもあり、ツィンツェンドルフはアンナに結婚を申し込み、2人は1757年、結婚しました。

伯爵階級の者が、農民出身の娘と結婚するというのは当時の社会では、考えられないことでしたが、キリストにある二人にとっては、そんなことは障害になりませんでした。

その後も二人は精力的にヨーロッパ各地のモラヴィア教会を巡回し、兄弟姉妹を励ましつづけました。


おわりに


結婚後わずか三年後、二人は急病にかかり、ツィンツェンドルフは1760年5月9日に、アンナは二週間後の5月21日に召されました。アンナ44歳でした。

アンナは自分の家族についてこのように書いています。

私がイギリスに滞在していた時、私の父は西インド諸島からヘルンフートに戻ってきました。母は、(西インド諸島で奉仕中)当地で亡くなりました。

兄のメルヒオールは、ボヘミアの地で絞首刑(殉教)となりました。兄は、主イエスゆえに、1729年、シルドベルグ刑務所にて生涯を終えました。(享年27歳)

兄はまことの主のしもべでした。多くの人々が今も彼のことを追憶しています。

姉はフットベルグに埋葬されています。

唯一生き残っている兄ジョンは、最近、ラップランド宣教から戻ってきて、今はロンネベルグで奉仕しています。(その後ロシアのサレプタに宣教に行き、当地で亡くなりました。)

いつの日か、小羊の御座の前で、みんなと再会できますように。



主は、モラヴィアの羊飼い娘を引き上げ、おどろくべきみ業をなしてくださいました。

モラヴィアの村からヘルンフートへ、そしてヘルンフートから世界各地へと、アンナおよびアンナの家族は、文字通り、主の使命に生き抜いたのです。

主は、弱い者をちりから起こし、貧しい人を、あくたから引き上げ、高貴な者とともに、すわらせ、彼らに栄光の位を継がせます。サムエル記Ⅰ2:8



また、アンナの生涯を通して教えられるのは、私たち信仰者が時空を超えて、お互いにつながっているということです。

アンナの救いの背後には、兄メルヒオールの切なるとりなしの祈りがありました。

また兄メルヒオールを霊的に目覚めさせるにあたって、主は、ヤギ飼いの青年クリスチャン・デイヴィッドを尊く用いられました。

そのクリスチャン・デイヴィッドの救いは、モラヴィア派の信者である親方の家で、小さな福音トラクトを見つけたことにより始まったのです。

そしてそれは、祖国を追われ、逃避行を続けていたアーモス・コメンスキーの祈りの答えでもありました。

主は確かに、モラヴィアの地に〈隠れた種〉を保っていてくださったのです。

その他、ヤン・フス、ウィクリフ、、、とこのリストはどこまでも続いていきます。

こうして信仰のともしびは、いにしえより、一人からまた一人へと手渡され、現在に至っているのです。

そして、今、このともしびは私たちの手にあります。

さあ、私たちは誰の心に、このともしびをともしていくのでしょうか。

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(おわり)


付録

モラヴィア兄弟団についてもっとくわしく知りたい方へ

オンラインで読める本(英語)

Mike Atnip, Handmaiden of the Lamb, the story of Anna Nitschmannココをクリック

Peter Hoover, Behold the Lamb, the story of the Moraviansココをクリック

Mike Antip, Scenes of the life of David Zeisbergerココをクリック


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ユダヤ人青年I君からの便りー中東の平和を祈りつつー

宣教現場で思うことーミッションのあり方についてー

comment iconコメント ( -3 )

 初めまして。岡本信一と申します。
Author:Kinukoさんがお書きになった「モラビア兄弟団」の記事を読ませて頂きました。実は、今夏一週間ドイツ、チェコの当地を訪ねて、その後ギリシャに立ち寄ります。私は、昔アテネ大学でギリシャ語を学びました。その友人たちをお訪ねするのですが、もし許されるのならAuthor:Kinukoさんにもお会いしたいのですが。連絡先を教えて頂ければ幸いです。

名前: 岡本信一 [Edit] 2016-06-23 10:06

こんにちは。


岡本信一さま、
こんにちは。ご連絡くださりありがとうございます。今夏、ヨーロッパにいらっしゃるのですね。ようこそ!ドイツではヘルンフートにも行かれるのでしょうか?またチェコには、モラビア兄弟団を偲ばせる史跡や資料館があるのでしょうか。いろいろと楽しみですね。それでは、教えていただいたアドレスに別箇、ご連絡さしあげますので、今しばらくお待ちくださいませ。

名前: Kinuko [Edit] 2016-06-23 21:00

岡本さま、
こんにちは。教えていただいたアドレスにメールを送ろうとしていますが、なぜかDelivery to the following recipients failedと表示されたメールが返ってきます。おそらく私の出したメールは、岡本さんに届いていないと思います。もしよろしければ、もう一度アドレスを送信してくださいますか?ありがとうございます。

名前: Kinuko [Edit] 2016-06-24 16:54

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