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対話ということばには独特のひびきがあります。

私たちは日常、多くの人と接し、言葉を交わします。

でも、〈相手〉と〈わたし〉が真に向き合って、対話をする瞬間というのは意外に少ないものです。相手の話をきくようなそぶりをしながら、その実、自分の考えや思いでいっぱいになっている場合が多くないでしょうか。

でも、それは、とても残念なことだなあと思います。

神さまは時と状況をそなえ、今、目の前にいる〈相手〉を通して、私に何かを教え、語ってくださっているかもしれないのです。その〈相手〉は、子どもかもしれないし、自分とは意見を異にするクリスチャンかもしれない。あるいはまた異教徒かもしれない。

そう考えると、私たちの周りは、実は、〈宝〉でいっぱいなのかもしれません。

そして私たちの周りには、〈歩く教材〉がここかしこにいて、私たち側の心の窓さえ開いていれば、日々、〈新しい気づき〉という祝福が与えられるのかもしれません。

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今日は、私があるムスリム婦人との対話から気づかされたことを、みなさんにお分かち合いしたいと思います。

二年ほど前のことですが、あるムスリム婦人が私たちの集会にやってきました。「姉妹、ちょっと、折り入ってお話したいことがあります」と言われ、私たちは、台所の小さなテーブルを囲んで腰を下ろしました。

「もし、私でよければ、なんなりとお話ください」と言うと、彼女は、居ずまいを正し、やがて思いきったように、話し始めました。

「わたし、イエスさまが好きです。キリスト教にも興味があります。でも、一つ問題があって、、、というのも、あの、クリスチャンの方々は、イマーム・ホセインを敬いません、、よね。でも、わたしにとって、イマーム・ホセインの存在は、すごくすごく大切なんです。だから、、、だからわたしは、クリスチャンにはなれないって思うんです、、、」

そう言うと、彼女は涙でいっぱいになった目を上げて、私をじっと見ました。

彼女の真剣な目を見ながら、私は心の中で〈ああ、主よ、今、目の前に、あなたを求めている魂がいます。でも私は今、彼女の問いにどう答えたらいいのか分かりません。どうか知恵を与えてください〉と必死に祈りました。

そしてこの婦人の肩に手をおいて、慎重に言葉を選びながら話しはじめました。

「Fさん。心を開いて、その葛藤をありのまま打ち明けてくださって、ありがとうございます。Fさんは、イエスさまが好き。でもイマーム・ホセインも好き。だから、二人の間でどちらかを選ばないといけないって思って、それで心が苦しいんですよね?」

「そう、まさに、そうなんです。」彼女は力強くうなずきました。

「わかりました。Fさん、まず知ってほしいのは、神さまは全ての人を愛しておられるということです。神さまはイマーム・ホセインをも愛しておられるのです。彼も神の被造物ですから。

だから、Fさんがイエスさまを選んだからといって、他の誰かを憎まないといけないっていうことにはならないと思います。そこはどうか安心してください。

ただ、私はイマーム・ホセインがどういう方だったのかよく知らないので、正直、Fさんのその葛藤を分かってあげることができません。ごめんなさい。でも、次に会う時までには、この方について自分なりにいろいろと調べてみますので、どうか待っていてください。」

そう言って、その日、私たちは別れました。

翌日、私はこの婦人に約束した通り、イマーム・ホセインについて調べました。

それによると、彼はシーア派第3代イマームで、アリとファーティマとの間に生まれた第2子ということでした。ウマイア朝の創始者ムアーウィアが息子ヤジードをカリフの継承者と定めると、ホセインはこれを認めずウマイア朝側と対立します。

ホセインはあくまで、宗教の純化を願っていたようです。そこで少数の同志と共に680年挙兵しましたが、カルバラー(現イラク)でウマイア朝軍に包囲され、非業の死を遂げました。

人々は彼のその痛ましい死を悲しみ、シーア派ではその後、今日に至るまで毎年、「殉教者ホセイン」の命日を固く守っているそうです。また、ホセインの戦死したカルバラーの地は、聖地となり、毎年、多くの巡礼者が当地を訪れているそうです。

こうして調べていく中で、なぜF婦人にとってイマーム・ホセインがそれほど大切な存在なのか、少し分かったような気がしました。それと同時に、イエスさまとの違いにも気づくことができました。

私は彼女に手紙をしたためました。

「、、、Fさん。イマーム・ホセインは自分の信じる宗教に忠実で、死を覚悟してまで、この宗教の純化のために戦おうとした勇敢な人だったと思います。私はそこに敬意を表します。

ただ、ここで一つ、申し上げなくてはならないことがあります。それは、キリスト教の中では、《目的は手段を正当化しない》ということです。

たとえ、高尚な目的(→宗教純化運動)があったとしても、それを実現するために、武器を取って蜂起するというのは、イエスさまの望まないことです。

イエスさまは「悪い者に手向かってはいけません。あなたの右の頬を打つような者には、左の頬も向けなさい」また、「自分の敵を愛しなさい」とおっしゃいました。

だからキリスト教においては、目的だけでなく、手段もまた聖く平和的なものでなければならないのです。」

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私にとってF婦人との対話は、イエスさまの教え―特に山上の垂訓―のすばらしさを再発見するきっかけとなりました。

やっぱり、イエスさまの教えはすごい。その愛の教えは、どの側面からみても、筋が通っている、と私は改めて感動を覚えました。

しかしそれと同時に、その愛の教えに生きてこなかったキリスト教の血に染まった歴史は、それまで以上に私の良心を揺さぶりました。

私はF婦人に、キリスト教では、《目的は手段を正当化しない》と書き送りましたが、私たちのキリスト教の歴史はむしろ、それとは反対のことを証ししています。

クリスチャンは、4世紀のコンスタンティヌス帝以来、みずからの〈高尚な〉目的を果たすために、ありとあらゆる残酷な手段を用いてきました。

例えば、「正義の戦争論(Just War Theory)」というのは、そういうプロセスの中で生み出され、神学者たちの巧妙なレトリックによって正当化され理論付けられてきた、悲しむべき私たちの負の遺産です。

例えば、アウグスティヌスは、クリスチャンが戦争で人を殺していいということを正当化するために、次のようなレトリックを用いました。

「、、主イエス・キリストは、『しかし、わたしはあなたがたに言う。悪人に手向かうな。もし、だれかがあなたの右の頬を打つなら、ほかの頬をも向けてやりなさい』と仰せられたことから、神は戦争行為を是認しえないとみなす向きがあるだろう。しかし、それに対する答えを言うなら、ここで要求されているのは、肉体的行為ではなく、内的(心の)傾向のことなのである(Augustine, ch.75; Schaff, Fathers, vol.4, 301)。」

つまり、あるクリスチャン兵士が、戦場で、敵の誰かを銃剣でグサッと刺しても、その兵士が心の中で、その敵を「愛していれば」それでOKという論理なのです。良心の呵責を感じることなく安心して殺していいよ、というわけなのです。

そして、敵国の人々を心の中で「愛していれば」、たとい上空から焼夷弾を落としても、それによって何百という命が瞬時に失われることが分かっていてもOKだよ、というのです。

というのも、「敵を愛しなさい」というイエスさまの教えは内的心の傾向のことを言っているのであって、肉体的行為(爆弾を落とすという行為)のことを言っているわけじゃないのだからと。

同じように、アウグスティヌスは、異端(=非カトリック)を教会の教えに引き戻すという高尚な目的のためには、「鞭の恐怖ないし鞭の痛み」という手段を使ってもいいという理論付けをしました。

その結果は、ご存知のように、中世全体を通し、キリストの御名の下に行なわれた残酷な異端審問、拷問、火あぶり、集団虐殺、、、の数々でした。

ではこの理論は、中世だけのものだったのでしょうか。

いいえ。とてもとても残念なことに、この理論は近代に入っても生き続け、今日に至るまで、私たち福音主義教会のただ中に温存されているのです。

わたしたちキリスト教会のこういう状況をかんがみた時、「まず自分の目から梁を取りのけなさい。そうすれば、はっきり見えて、兄弟の目からも、ちりを取り除くことができます(マタイ7:5)」というイエスさまの御言葉が新しい光をもって心に迫ってきます。

イエスさまのリアリティーを、ムスリムに、この世の人々に証ししていくためには、まずもって、自分たちの目から梁を取りのける真摯な努力が必要だと思うのです。

それでは、私はなにができるのだろう?私はどうしたらいいのだろう?

小さなことかもしれませんが、私は、このブログを通して、こういった理論が、歴史的キリスト教(ニカイア公会議以前の初代教会の信仰と生き方)ではないということを、証ししていこうと思いました。

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F婦人との対話を通して、主は私にさまざまなことを教えてくださいました。

ああ主よ、これからもあなたのくすしき教えをしもべに授けてください。

主イエスさま、あなたの教えは真実です。あなたの教えは愛そのものです。

「敵を愛しなさい」と言われたあなたのことばは、レトリックでもなく、条件つきのものでもありませんでした。あなたは本気でこの言葉をおっしゃいました。そしてその言葉通りに、敵を愛しつつ、十字架上で死んでくださいました。

イエスさま、あなたの跡に従うわたしたちクリスチャンを、あらゆる惑わしから守ってくださり、あなたの真理の光の下に歩んでいくことができるように助けてください。

イエス・キリストの尊い御名によって祈ります。アーメン。

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