親愛なる同胞姉妹のみなさんへ。

こんにちは。はじめまして。私はキリストを信じる一介の姉妹です。

私はかつて牧会の働きにたずさわっていました。男女同席の会衆を前に説教をし、兄弟たちに聖書を教え、彼らを指導する立場にありました。

今私は、みずからの意思で、それらいっさいのことから身を引き、教会の中で奏楽の奉仕をしています。

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これからお分かち合いすることは、神学論争の類でもなく、ましてやだれかを批判するものでもありません。

私はもともと論争を好む性格ではなく、この部分での自分の内的確信も、公に言い表すつもりはありませんでした。それで10年近く、沈黙を保ってきました。

しかし、昨今、教会で指導的立場についている親しい姉妹たちから、さまざまな苦しい心情を打ち明けられるようになりました。

その中でも特に多いのが、「結婚したいのにできない」という苦悶の叫びでした。

そういう苦しみを目の前にしながらも、私は思い切って問題の根に言及できなかった。

孤立することがこわかったからです。

50年前なら、私の抱いているこういう考え・立場は、ほとんどの教会に受け入れられるものだったはずです。

でも、今現在、こういう意見をあえて公に言おうとする人は、村八分にあう覚悟をしなければならないでしょう。時代錯誤もはなはだしい偏屈な人だと言われかねません。それがこわかったのです。

でもそうこうするうちにも、私の愛してやまない姉妹たちの苦しみは増すばかりでした。

やさしく魅力ある姉妹たちが、結婚できずに、人知れず泣いています。

彼女たちが結婚できないのは、彼女たちに欠陥があるとか、魅力がないからではありません。実際、キリストにみずからを捧げ切っている彼女たちは、私の目に、ほんとうに美しいです。輝いています。

だから、問題は彼女たちにあるのではないのです。そうではなく、彼女たちの上にかぶせられている「不自然な権威」、これが男性を遠ざけているのです。

「不自然な権威」とは、つまり、姉妹が兄弟の上に霊的権威を持つことです。

姉妹が、兄弟の上に立って、説教したり、聖書を教えたりすることです。

1テモテ2:11-11や、1コリント14:34-35のみことばは、現代の神学者たちが主張するような、当時の文化に限定されたものだとか、パウロのミスだったとか、そういうものではありません。

神のみことばは、文化や時代をつきぬけ、永遠に立つ真理のことばです。

そして神さまが、教会内でのある種の役職を女性に許しておられないのは、女性を見くびっているからでもなく、束縛しているからでもなく、ただひたすら、私たち女性の幸せを願っておられるからなのです。

神さまの決断の背後には、深い知恵と、私たちに対する計り知れない大きな愛があるのです。

私は、自分が男性の上に権威をもっていた時期と、権威をもっていない今と、両方の時期を経験しました。

そして、この「権威」が、女性としての自分に及ぼす霊的、精神的、身体的影響を知っています。ここで私が証言していることは、客観的には分かりにくいものであるかもしれませんが、かつての私と同じような立場にあった(ある)姉妹は、きっと理解してくださると思います。

また、私が知っている女性指導者はことごとく従順で献身的な方々ばかりです。

彼女たちは決して意図的に「不自然な権威」を着込んだわけではなく、それぞれの教会・教派の方針にただまじめに従っていらっしゃる場合がほとんどです。

そしてそういう枠組みの中で、日々、最善を尽くしていらっしゃるのです。

だから、なおさらのこと、私は、こうした姉妹たちの苦しみに対して、もはや知らぬふりを続けていることができなくなりました。

村八分にされてもいい、人からの好意や評価を失ってもいい。私は、勇気をふりしぼって、声をあげることにしました。

そして私の心からの祈りは、長年、結婚のことを祈っていらっしゃる姉妹の方々が皆、幸せな結婚に導かれることです。

男性の愛に溢れる力強いリーダーシップの下で、私たち姉妹は、守られ、導かれ、愛されているという実感をえることができます。

そして、そういった守りといたわりの木の下で、私たちは安心して憩い、人々に奉仕することができると思うのです。



森の中を散策すると、いろんな被造物に出会います。

杉の木があり、楓の木があります。苔があり、シダがあります。

小さな花があり、大きな花があります。

みんな、文句もいわず、置かれた場で、すなおに、けなげに生を営んでいます。

秩序があるところには、美しさがあります。

大自然が、人にやすらぎと平安を与えるのは、そこに調和と秩序があるからです。

神さまの造られた男性と女性についても、同じことがいえると思います。

私たちが神さまの立てられた秩序に従っていくとき、そこに回復があり、いやしがあります。

そしてその回復といやしは、私たちに満ち満ちた生の喜びをもたらしてくれるのです。


読んでくださってありがとうございました。
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