家庭に召されている娘たち

ー非協力的な環境の中で、家庭志向をもって生きようとしている若い女性たちに送る励ましのことば


(Anna.T, Dedicated Daughters, Encouragement for the home-focused young woman in an unsupportive environment, Nov,2007 アンナ婦人の許可をいただいた上で、2014年7月日本語訳いたしました。)


このエッセーを書いた目的は、家族、家庭、女性らしさ(womanhood)といったものを熱心に追い求めている若い女性、ならびに――未婚期間、家庭づくりのための学びをしたいと熱望していながらも、自分を取り巻く人々から理解やサポートを得ることなど到底望むべくもない環境にある女性たち――を励まし、支援することにあります。

近代フェミニズムが誕生して40数年経った今日、この運動のもたらす弊害をいやというほど見せつけられてきた若い女性たちの世代が存在します。

また、――将来、妻になり母親になるための準備をしたり、家庭づくりのスキルに磨きをかけたり、年配の女性たちから学んだりといった――かつて、数え切れないほど多くの女性たちがやってきたことと同じことを自分もぜひやりたい、と願う若い女性たちがいます。

しかし、祖母の時代と比べると、こういったタスクは、年若い純粋な女性たちにとって、そうたやすいことではないと言えます。家庭づくりのためのスキルは失われ、家庭の切り盛りといったこと自体、もはやまともに評価されていません。それに、ふさわしい男性はなかなか現れず、おまけに友だちは(そして両親でさえも時には)いろいろとプレッシャーをかけてきます。

独立と自己実現(言いかえれば、自己中心と無責任)が強調され、それは大学の学位を取得し、競争が激しく、高収入かつ多大な時間を要するキャリアを求めることを通してのみ得られるのだというのです。こうして私たちは、フェミニズム思想の蒔いた種の刈り取りをしています。

このような環境の下、「平和な家庭生活を築き、女性らしく生きていきたい」というビジョンを持っている若い女性たちは誰からもかえりみられていないのです。彼女たちがモヤモヤしたものを抱え、希望さえ失ったような状態に置かれているのも無理はないといえます。

以下に挙げるのは私の元に寄せられた若い女性たちからの手紙の一節です。

「私は、家に残って、家庭づくりの技術を身につけたいって思っているのですが、両親は私を都会の大学に進学させようとしています。」

「最近、結婚したんですが、料理とか、家の切り回しの仕方についてこれまで私に教えてくれる人は誰もいなかったんです。それで毎日、私は散らかった部屋で目覚め、主人はお腹をすかせイライラしています。どうしたらいいんでしょう。」

「私は自分が家庭に召されている(=homemakerに召されている)ことを自覚していますが、神さまは同時に両親に従うように私におっしゃっています。ということは、私はその両方のバランスをとっていかなければならないということなのでしょうか。」

私は、こうした問いに対する究極的な答えをもっているわけではありません。でもこのエッセーを通して、自分自身の経験、および家庭生活の経験豊かな女性たちからいただいた貴重な知恵をお分かち合いできたらと思います。

私は以前、頑強なフェミニストでした。しかしいろいろな変遷を経て、家庭志向に生きる娘へと変えられました。

本エッセーの中で、若い女性の生活におけるさまざまな側面に触れるつもりです。願わくば、このメッセージが、家庭に献身したいけれど、自分の家族からも友人からも理解してもらえない、そんなつらい状況にある娘さんにとって励ましを与えるものとなりますように。

☆☆

パート1 家庭に召されている娘たち――娘たちは家で何をするのか

娘時代というのは、私たちの将来の召しのために自らを修練することのできる格好の時期です。

もし箴言31章に描かれているような女性、もしくは「自分の家を建てた(箴14:1)」女性のようになりたいと望むなら、若い、未婚の時期に、将来の家庭づくりのスキルを高めるようなhomemakerとしての仕事を熱心に学んでいくことが大切です。

章を進めていく前に、ここで一つ申し上げておきたいことがあります。それは、男性(父親)が一家のかしらとして立ち、(娘が結婚し、夫の守りの下に入るまで)娘を養う責任があるという前提に私は立っているということです。

でも、このエッセーを読んでくださっている若い女性の中には、そういう観点に立つような父親を持っていない人も多いことでしょう。

父親なしで育った方も多いでしょう。実は私もそういう片親家庭で育った一人です。でも、だからといって、私たちのような者に希望がないかといったら、そうじゃありません。(そのことに関してはパート2でさらに詳しく述べるつもりです。)

若い女性が「親元を離れて、どこかよその地で気ままに暮らす」というのは、数世代前には考えられないことでした。年齢に関係なく、娘たちというのは普通、父親の権威と守りの下、さまざまな有益かつ生産的なことに打ち込み、家の中でいそがしくも楽しい時を過ごしていました。

彼女たちは家庭づくり(homemaking)の手法を学び、それらに磨きをかけ、やがてふさわしい男性と結婚していったのですが、その時まで、彼女たちは、家族にとっても地域共同体にとってもいろんな意味で祝福をもたらす存在でした。

基本的に、娘は未婚時代に、将来妻となり母親となる上で大切になってくる領域において自らを養い育てるべきです。

ここで言っているのは単に実際的な家庭づくりのスキルではありません。それ以上に大切なことは、貞淑な妻として必要とされる人格形成です。そしてこれは、現代文化が主張しているものとは反対をいく性質のものです。

すなわち、反逆ではなく、おだやかさと従順さ、
わがままな自己実現ではなく、寛大さと私心のなさ、

そして、なにがなんでも自分の思う通りにしたいと突っ走る態度ではなく、立てられた権威を成熟した心で受け入れることなどです。

家の中で取り組むことのできる創造的で興味深い、しかも有益なプログラムというのはいくらでもあるのです。独学でできる学びから、果物や野菜のびん詰めまで、本当にいろいろあります。あなた自身のビジョンさえ明確になれば、やることはそれこそ無限大にあります!

でも、ここで大事なのはビジョンがあるかないかです。20代の女性でいまだにゆで卵の作り方が分からなかったり、洗濯機の使い方を知らなかったりする人を知っています。また時々いきあたりばったりにそうじしたかと思うと、後はもう家の中で死ぬほど退屈している人もいます。

どうしてこういうことになるのでしょうか。そうです、模範の欠如。学びとビジョンの欠如が原因なのです。かくいう私もそういう人間の一人でした。

ほとんどの若い女性は、高校卒業後すぐに大学に入学し、だらしのない放らつなキャンパス生活をスタートさせます。この傾向は、親元を離れ、下宿しながら大学生活を送る若い女性、それも性的乱れの激しい一般大学に入学した女性において特に顕著です。

考えてもみてください。若い女性が大人へと成長していくこの重要きわまりない時期に、そして彼女がはじめて真剣に結婚のことを考え始め、その備えをしていくべき時期に、このようなひどい環境に置かれるとは。

若い娘を数年間、こういう堕落した環境に送り出しておきながら、結婚や母親業のビジョンをしっかり持て、聖さを保てと期待するのはあまりに酷な話です。

独身女性を無理やり大学やキャリアの世界に押し出したことにより、私たちの社会は破滅的な影響をこうむりました。

かつて、未婚の娘は(いろいろとやるべきことは多かったものの)夫や子どものいる既婚女性よりは自由に動ける時間がありました。

そうして未婚女性は、助けを必要としている人々――病に苦しむ人、孤独な人、悲しんでいる人――のそばにいて、彼らのために時間を注ぐことができました。またそういう人々の元を訪れ、なぐさめ、助けや励ましを与える時間とエネルギーが彼女たちにはありました。

その可能性を考えてみてください。そして現在、私たちの失ってしまったものの大きさを。

そして女性(特に若い未婚の女性)が、家庭から追い出されてしまって後、どれだけのストレス、せわしなさ、いらだち、不安、失望が私たちの生活を襲うようになったか、、それを考えてみてください。

☆☆


パート2 家庭に召されている娘たち――反対勢力について

パート1で申し上げましたように、家庭志向の強い娘にとって、「娘は家で何をするのか」といった問いは取り立てて難しいものではありません。しかし、このエッセーの副題を、〈非協力的な環境の中で、家庭志向をもって生きようとしている若い女性たちに送る励ましのことば〉としたのには理由があるのです。

うれしいことに、昨今、家庭の中における神さま中心の文化を再び見直す動きがみられます。家族のきずなや一致について多くのことが言及され、特に、父親と娘の関係のことが取り上げられるようになっています。すばらしいことだと思います。

しかし一方で、こんな現実にも直面します。つまり、今日、若い女性のうち相当数は、父親に保護されてこなかったという事実です。

多くは父親の顔をみたことさえないのです。こういった女性たちは特に困難を抱えています。

私がこのエッセーを書いている目的は、――たとい父親不在の家庭で育った、あるいは、父親がふさわしい(父としての)権威を用いてこなかったとしても――それでも一生懸命、敬虔な生活をしようとしている娘たちを励ますことにあります。

でも私は人生バラ色といったような空想の世界に住んでいるわけではありません。今日、多くの若い女性が自活する必要に迫られていること、多くの人々の心が固くなり、傷つき、喜びにあふれる家庭志向なくして結婚していく事実をも承知しています。

それはあたかも、私たちが集中しようとしているものから、皆が皆、なんとかして注意を逸らしてやろうと、結束して挑んでいるかのごとくあります。

そしてそういう重圧は、私たちを囲むメインストリーム文化からだけでなく、友人、そしてなにより両親からもくる場合が多いのです。

今日一般に当たり前と考えられていること――つまり、上京して、大学に行って、その後、フルタイムで競争の激しいキャリアを得なさい――と、私たちはそそのかされたり、期待されたり、重圧をかけられたり、嘆願されたりと、とにかくすごいプレッシャーにさらされています。

最近、大学を卒業したばかりの私は、この道に横たわる危険性について、もう一言二言付け加える必要性を感じています。

もちろん、今日、大学やキャリアまっしぐらの若い女性はたくさんいます。しかしその一方で、長年、親元を離れていること、学生ローンで借金ができたこと、大学で懸命に勉強した結果、有益でないばかりか、かえって罪深い知識ばかり背負いこんでしまったこと――こういったことに心地悪さを感じている女性が多くいることも事実です。

フェミニズムが提供するものは、すべてがすべてバラ色のものじゃないということに多くの人はうすうす気づきはじめているのです。そしてそれに代わって、自分の知性、創造性、スキルを伸ばすなにかを探しています。

それでは大学とは常に悪いものなのでしょうか。いいえ。また私は大学で絶えず、苦しめられたのでしょうか。これに対する答えも、いいえです。

では、自分の家族に仕えることや、神さまの召しに答えていくこと、こういった分野で私は成長できたのでしょうか。大切な技術を取得することができたのでしょうか。

はい。でも私は心底こう言う事ができます。つまり、もし、そういうことができたのだとしたら、それは、大学教育の「おかげ」ではなく、むしろ大学教育を受けた「にもかかわらず」だったと。

公衆衛生のクラスを受け持っていた先生は、人口増加ゼロを熱烈に信奉する、筋金入りのフェミニストの方でした。この先生は、中絶強制を、公衆衛生システムの最善モデルと考えていました。

でも少なくとも、彼女の首尾一貫性には敬意を表さなければならないと思います。というのも、彼女は、中絶は女性に害をもたらさないとも主張していたからです。

私は休み時間にこの先生の所へ行き、次のような質問をしました。「先生は個人的に、中絶を体験した女性のことを知っていらっしゃいますか。それが長期的なスパンでみた場合、女性に身体的、情緒的影響を及ぼさないなどといったい誰がいえるでしょうか」と。

それに対して先生は、その点に関しての研究はすでになされたと言い、一般的なスケールでみた場合、中絶はほんの短期間、女性に不快感をもよおさせるが、その後、長期にわたって苦しむというような科学的証拠はないと答えました。

この点について、これ以上、何かいうことがあるでしょうか。私はこの先生のコースをやっとこさパスしました。「多くの子どもを持つことでどれだけ女性の生活が破壊されるか」というテーマで論文を書かせられましたが、私はペンを取ることができませんでした。

これは、極端な例だと思われますか。いいえ。これは、今一般の大学にみられる典型的風景です。プロパガンダが荒れ狂っているのです。

私たちに押し付けられた破壊的アジェンダは、多くの命を破滅におとしいれています。若い女性およびご両親は、情報に基づく選択(→十分な説明を受け、よく考えた上での選択informed choice)をすべきだと思います。

くりかえし、くりかえし、私は自問します。今日の大学は、若い女性にとってふさわしい場所なのでしょうか、と。

私は批判的でありたくありません。「はい」とも「いいえ」とも言うつもりはありません。ただ自分自身の経験から得た事実をお話しているのみです。

時として、両親の願いにそむきたくないと考える娘が、(そういった両親の意思が)自分の意思とどれほど根本的に違っているとしても、大学に進学したり、家の外で働かねばならない、、、それについてはどうでしょうか。こういった娘たちは親に従うべきなのでしょうか。

その場合、娘は両親の意思に従うべきだと私は思います。というのも、私たちの高尚な目標は、反逆や反抗を通しては、成し遂げられえないし、またそうすべきでない、というのが私の信じているところだからです。

☆☆

パート3 家庭に召されている娘たち――あなたは一人じゃない

親愛なる娘たち。私はこのエッセーをあなたを励まし、支えるために書いています。

時としてあなたはさみしさに襲われることでしょう。あなたと同じような志向をもっている若い女性は、周りに誰もいないかもしれません。でもこれは断言できます。――あなたは一人じゃないということを。

あなたが現在置かれている状況がどうであろうと、そこには希望があるのです。

あなたは今15才かもしれないし、35才かもしれません。
家にいるのかもしれないし、どこか遠隔地の大学にいるのかもしれません。

あるいは外で働いておられるのかもしれません。

敬虔な男性と交際しているのかもしれないし、今のところ、結婚の見通しはたっていないのかもしれません。

でも現在あなたがどこに立っていようと、あなたは自分の確信しているところに従って生きていくことが可能だということを申し上げたいのです。

今私たちの世代の中で、新しい革命が起こっています。それは――権威や家族や聖書といったものを打倒しようとした――前世代とはまったく異なる動きです。

そうです。私たちは共に立ち上がり、神に逆らおうとするこの世の傾向をきっぱり拒むのです。

家族を大切にする価値観に挑む勢力をきっぱり拒むのです。

そしてながいながい間、先代の母親たちが大事に守ってきたものを捨て去ろうという動きに対し、これをきっぱり拒むのです。

でもそれは容易なことではありません。特に、自分の家族から理解をえることができない私たちのような者はなおさらです。

もしあなたが今そういう状況に置かれているのでしたら、私は次のようなアドバイスをさしあげます。それは「独創的に考えよう!」です。

あなたの住む地域で、あなたのことを理解してくれるのは年配の女性たちだけかもしれません。―それなら、彼女たちに積極的に近づいていってみてください。真実な交わりに、年齢差は関係ないのです!

それにブログや、フォーラム、メッセージ・ボードなど、インターネットを通しても交わりを求めることができます。そして地元に同じような志向を持つ若い女性がいないか探してみてください。たといそれが可能でなかったとしても、遠距離での友情も、大きな励ましとなります。

娘たち、あなたは一人じゃありません。そして周りの人が何と言おうとも、あなたはきわめて正常な娘なのです。

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