第十章
   つづく獄中生活


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25人もの男たちが去ってしまったゾリコン村は一変してしまった。雲のように、恐怖がその影を投げかけ、村にこびりついていた。

レグラ・ボシャートはほとんど食べず、まるで夢の中にあるように動き回っていた。最悪の点は、不確かさ――つまり、夫の身に何が起こっているのか、またどのくらい牢獄に監禁されることになるのか分からないこと――にあった。

ルディー・トーマンは家に戻ったが、彼の存在も慰めにはならなかった。レグラが恐れていたように、父親はかなり失望していた。

彼はまずツヴィングリを非難し、それから今度はゾリコンの人々を――自分のように、役人たちが来た時に家を離れているという気転がきいていなかったこと――非難した。そしてそう話す父の声には苦々しさがあった。

レグラは父親のことが心配だった。父は自ら進んで洗礼を受けたはずだった。彼はすでにそのことを後悔しているのだろうか。

目の下にできたくまは、一連の出来事が彼にとっていかにつらいものであるか、そしてこのところ彼がまともに眠れないでいることを物語っていた。

囚人たちが連行されてから三日目の夕方、若造ルディー・ミューラーが伝達を持ってきた。レグラは家畜小屋に乳絞りに行くところであったが、ミューラーの出現にびっくりした。

「チューリッヒから伝達が届いた。」彼は言った。
レグラの息はせわしくなり、心臓の鼓動が速くなるのを感じた。「どんな伝達なの?」彼女は尋ねた。

この若造は内容についてあまり知らなかった。「なんでも、ハンス・ホッティンガーがたった今チューリッヒから戻ってきたらしい。そして彼は囚人たちと話してきたようだ。でも僕が聞いたのはこれだけだ。みんな僕らの家に来るようにってことだ。ハンスが説明するって。」

「分かった、行くわ。」レグラは約束した。
「お父さんも来られるかい。」
「父にも言っとくわ。」

すばやくレグラは身支度を整えたが、彼女の思いは散り散りに乱れていた。彼女はいますぐにでも丘を駆け下りて、ミューラー宅に行きたかったが、若造のルディーが言うには、ハンス・ホッティンガーは準備にまだ三十分かかるという。だから早く行っても何にもならないのだった。

ハンス・ホッティンガーは町の見張り役だった。ハンスはどうやって囚人たちの言葉を取り次ぐことができたのだろう、とレグラは不思議に思った。

ハンスはホッティンガー一族の厄介者だったが、賢くもあった。飲んだくれだったが、しらふの時は頭が切れた。おそらく彼には看守のうちに友人がいたのだろう。もしそうでなかったら、彼は看守の誰かを買収したのだろう、とレグラは考えた。

ルディー・トーマンは階下に降りてきて、外套を着た。「準備はいいかい、レグラ。」彼は尋ねた。
「ええ。」

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二人は暗闇の中に足を踏み入れ、湖岸沿いにあるミューラー宅に急いだ。遅れたくなかったからだ。
ルディーは無言だった。彼が考え込んでいるのだということはレグラにも分かっていた。洗礼を受けたことを彼は本当に後悔しているのだろうか。もう一度先週に戻れるのだったら、父はどうするだろうか。マルクスはどうするだろうか。

レグラはとめどなく考え続けた。気がついてみると、以前のような生活をしたいと望んでいる自分がいた。

――マルクスが家にいて、生活が元の日常に戻るのだ。はたしてこの新しい信仰は、これだけの困難と苦痛に本当に値するものなのであろうか。

ミューラーの家に近づくにつれ、半開きの窓から、ハンス・ホッティンガーの大きな声が聞こえてきた。
「私たち、遅れてしまったのかしら」と息を切らしながら、がっかりしてレグラは言った。

父がドアを開け、二人は中に入った。部屋はほとんど満杯であり、その中の大半は囚人の妻たちであったが、十数名の男たちもいた。ハンスは部屋の上座にもったいぶって立っており、聴衆の質問に答えようとうずうずしていた。

彼はルディー・トーマンとレグラにうなずいてみせ、話を再開した。

「僕がどうやって今晩夕食前に、アウグスティヌス修道院に入り、囚人たちと話したかについて、ちょうど話していたところなんだ。」彼は説明した。「自分たちが元気で、よい待遇も受けているという事を伝えるようにとの、彼らからの言づてがあった。そして僕は彼らからの伝言をこうして皆に伝えているんだ。皆勇気を出すべきで、失望してはならない。なぜなら彼らは勇敢だからだ。」

レグラは、父が肩をまっすぐに伸ばすのを見た。あたかも、重荷が肩から取れたかのようだった。

「ハンスよ。」ルディーは尋ねた。「彼らはどうやってツヴィングリと折り合ったんだ。うわさによれば、ウルリヒ卿が彼らと話しにやって来たということだが。」

「おう、ツヴィングリ卿かい!」ハンスは胸を反りかえらせながら答えた。    
「ツヴィングリが何様だっていうんだ。僕の聞いたところでは、ゾリコンの男たちは議論で彼を打ち負かしたそうだ。ツヴィングリは返す言葉なく黙ったんだ。本当だ。」

「本当にそれは確かなのか?」ミューラーが嘲って言った。「それとも酒の瓶から得た、酔っ払い情報なのかい。」

ハンスの顔は赤くなり、彼は言い返した。「本当だとも。囚人たちがそれについて僕に語ってくれたんだ。それに僕はしらふだ、、えーっと、だが、いつからしらふだっけな?えーと。」

「つべこべ言わず、彼らが何て言ったのか言いなさい。」ルディーは命じた。

ハンスは背筋をピンと伸ばした。「そうさな、こんな具合だった。ツヴィングリ卿が、聖書のどこにも、人が二回洗礼を受けるなどと書いてないと言ったんだ。でもルドルフ・リッチマンは彼にこう言った。『えっ、書いてありませんか。新約聖書のここにまさしくその例がありますけど』と。

おそらくツヴィングリはその箇所のことをうっかり忘れていたんだと思う。でも、あんなに大っぴらに言い切ってしまった後では引っ込みがつかなくなったんだな。兄弟たちは、はっきり彼にそれを示したんだが、彼はそれでも自説を撤回しようとしなかったんだ。」

ハンス・ホッティンガーは落ち着きを取り戻し、自分の与えているインパクトにすこぶる満足しているようだった。

「それが起きたのは昨日だった。」彼は説明した。「今日、ツヴィングリは子羊のようにおとなしくなって戻ってきたんだ。そして次の復活祭の時期には、彼も敬虔な生活を始めたいとさえ言った。考えてもごらん、ウルリヒ・ツヴィングリが再洗礼派に加わるってさ!」

「おい、ハンス。」ルディー・トーマンは彼を叱った。「そうやって浮かれるのはやめるがいい。お前が励みになる知らせを伝えてくれたことは認めるが、最後に言った言葉にはちと疑いを感じるぞ。」

「確かにそうかもしれない」と聴衆を喜ばせたい思いで一杯のハンスは言った。彼はじっと天井を見上げ、それから再び聴衆の方に向き直った。

「ツヴィングリの言うことにいつも信用を置くことはできないって思う。というのも、彼は今日この事を言ったと思いきや、明日はまるで正反対の事を説教しているからな。数年前、赤ん坊に洗礼を受けさせるべきじゃないと彼は言ってなかったか。でも今彼は洗礼を受けさせなきゃいけないって言っているんだ。」

彼は目をギョロギョロさせ、前に乗り出した。彼の声はしわがれた、ささやきになった。「でももし赤ん坊に洗礼を施すよう神が命じられたのなら、なんで彼は小さなガキのように嘘をつくんだ。」

「でもお前はたった今、『ツヴィングリは僕たちの群れに加わる』って言ったように僕は思うんだが」と、部屋の後方から困惑した声が挙がった。

ハンスの声は再び大きくなった。「まさに、そうなんだ」と彼は向こう見ずに叫んだ。「もし一度嘘をつくなら、彼はニ度三度、嘘をつくさ。だから誰が彼を信頼できるっていうんだい。どうやって信じられるかって、」

「ハンス!」ルディー・トーマン小爺の容赦ない叱責の声が、見張り人ハンスの言葉を真二つに切った。「ハンス・ホッティンガー!もうたくさんだ。そんな事を言って、お前は我々皆を危険に落とし込んだんだぞ。」

見張り人は目に見えて小さくなった。「でも僕は真実を語っただけなんだ。」彼は泣き言を言った。「僕が囚人から言伝を持ってきたことに対して、皆喜ぶべきだと思う。」

「皆喜んでいる。まったく本当にありがとうな!」ルディーは言った。「お前が言わなくちゃならないことは皆言ったのだから、我々は家に帰らなくてはならない。」そう言って彼は帰る用意をし始めた。他の一行も戸口に向かった。

レグラはハンス・ホッティンガーのもとに忍び寄った。彼女は恥ずかしそうにささやいた。「ハンス。マルクスは何か特別な伝言を、わ、わたしによこしてくれなかったかしら。」

見張り人ハンスはレグラを見た。彼の顔に笑みが戻った。「いいや、レグラ。個別にマルクスと話す機会はなかったんだ。ただグループとしてしか話せなかった。それも数分に過ぎなかったんだ。」

レグラはがっかりしてその場を退いた。

父親が呼び、彼女の腕を取った。「おいで。もう遅い時間だ。家に戻らなくちゃならん。」



第11章 『チューリッヒ丘を駆け抜けた情熱』 

第9章 『チューリッヒ丘を駆け抜けた情熱』