(Kyle P, How to Choose a Bible Translation 快く日本語訳の許可を与えてくださった米国テキサス州オルセン・パーク教会のカイル師にこの場をかりてお礼申し上げます。)

満開のエゴノキ

はじめに
去る2007年、私たちは「いかにして聖書を手にしたのか(How we got the Bible)」というシリーズで学び会をしてきました。なぜ訳がそれぞれ異なるのかということを理解するにあたり、このシリーズはいわば下準備をしてくれたといえましょう。

底本(Textual Basis)

前回のシリーズで取り扱ってきた要点の一つとして、各翻訳の背後に存在する底本のことが挙げられます。つまり、昨今発見された聖書写本に、どれだけの比重がかけられているかということです。

もしある写本が、他と異なっているとしましょう。その場合、この写本はオリジナルにより近いと結論づけるべきなのでしょうか。

それとも歴史を通して保存され続けてきた標準テクストの方がオリジナルに近いという見方をすべきなのでしょうか。

もし新約聖書の翻訳が、昨今発見された写本に、より比重を置いているのなら、こういった翻訳は、底本として「クリティカル・テクスト」を用いているということができます。

その一方、ある翻訳が、歴史を通じて保存されてきた標準テクストにより依拠しているなら、これは底本として「受け入れられてきたテクスト(Textus Receptus)」を用いている、ということになります。

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なぜそれぞれの翻訳聖書に違いがあるのか

A 言語における違い(Differences in language

言語というものは、さまざまな方法で、さまざまなことを伝達します。慣用的な表現などはある特定の言語のみに見出される場合があります。

そういった独自の表現を、いったいどのようにして他の言語に言いかえることができるのでしょうか。たとい同じ言語内であっても、時の変遷とともに、ことばの意味が変化することもありえます。

B 底本における違い(A different textual basis

ある翻訳聖書が、昨今発見された写本に依拠しているのであれば、相違は起こります。

ある一語がつけ加わることもあれば、省略されることもあります。スペリングが異なっている場合もあります。ある写本では「キリスト」と記されている箇所が、別の写本では、「イエス」と記されていることもありえます。

注)ただし、こういった相違を、聖書本文の信頼性を疑わせるようなものとして考えてはなりません。相違の99%は、語順とかスペリング、同義的な言葉におけるささいな違いにすぎないのです。

C 教理的見解の違い(Different doctrinal perspectives

どんなに避けようとしても、私たちの持っている信仰体系が翻訳におよぼす影響を完全に抜き去ることはできません。

例えば、私が何かを翻訳しているとします。その中で、幾通りかの方法で表現できるような箇所に出くわします。

その際、一つの表現は私の信仰体系を裏付けるようなものであり、もう一つは、そうでないとします。この場合、私は前者の表現を選ぶ可能性がきわめて高いといえるでしょう。

D 翻訳のスタイル(Style of translation

今日の学びでは、この領域に焦点を当てたいと思っています。ご一緒に英語の翻訳聖書を調べていき、いかにそれぞれの翻訳哲学が、翻訳文に影響を与えているかということを考察していきたいと思います。

さまざまな翻訳スタイル

① パラフレーズ(意訳)

パラフレーズとは、「para(ギリシア語で「かたわらに」、の意)+phrase(言う、指摘する)」という語で構成されており、あるテクストを要約すること、もしくは、自分独自の言葉で言いかえることを意味します。

• あらゆる説教は、パラフレーズであるということができます。説教者は、自分の理解にしたがって、自分自身の言葉で、聖書のテクストを説明しなければなりません。

• Ⅰコリント2:9において、パウロは(聖霊の導きを通して)イザヤ64:4-5を意訳しました。

• タルグムと呼ばれる古代のユダヤ文献は、旧約諸書の解釈ないしはパラフレーズです。

• その働きにより欽定訳聖書(KJV)の礎石を築いたギリシア語学者エラスムスは、新訳聖書を意訳しました。

パラフレーズは厳密な意味で、翻訳ではありません。というのも、ある言語の語句や考えそのものを、他言語に移すという意図がそこにはないからです。にもかかわらず、このメソッドは、聖書および世俗テクストの翻訳に用いられています。

それ自体に罪があるということではありません。しかしながら、数ある翻訳スタイルのうちでも、このメソッドは、偏見、解釈ミス、あからさまな間違いに最もさらされやすいものであるといえます。

なぜなら、これはあくまで<神の言葉>に関する<人間の言葉>であり、<神の言葉>そのものではないからです。

現在、パラフレーズ聖書の代表的なものは以下の二つです。

A. The Living Bible (リビングバイブル、別名 The Book, The Way). (Kenneth Taylor著. Wheaton, IL: Tyndale House Pub. 1971)

The Living Bible 1971

テイラー氏はバプテスト派の信者の方であり、自分の子どもたちに聖書を説明しようと意訳しはじめたのが最初のきっかけでした。やがてそれは聖書全巻を網羅するにいたりました。テイラー氏は保守的信仰の立場をとっておられますが、氏の意訳の多くは、彼のカルヴァン主義思想を反映しています。

1. 詩篇51:5 “But I was born a sinner, yes, from the moment my mother conceived me.

(見よ、わたしは不義のなかに生まれました。わたしの母は罪のうちにわたしをみごもりました。【口語訳】/ ああ、私は咎ある者として生まれ、罪ある者として母は私をみごもりました。【新改訳】/あなたに背いたことをわたしは知っています。わたしの罪は常にあなたの前に置かれています。【新共同訳】)”

ヘブライ語では「私は罪の中に生み出され(I was brought forth in sin)」と言っていますが、ここでいっている罪が彼自身のものなのか、母のものなのか、それともこの世界全体の罪なのか、明確には述べていません。

聖書は継承された罪というものについては教えていません(エゼ18:20)。同じような見解が以下の例にも表れています。

2. ローマ5:12 “When Adam sinned, sin entered the entire human race. His sin spread death throughout all the world, so everything began to grow old and die, for all sinned.”

(このようなわけで、ひとりの人によって、罪がこの世にはいり、また罪によって死がはいってきたように、こうして、すべての人が罪を犯したので、死が全人類にはいり込んだのである。【口語訳】)

ギリシア語では、「一人の人を通して罪が世界に入り、死(→肉体的な死ではなく、霊的死)」が「すべての人に広がった。なぜならすべての人が罪を犯したからです」と言っています。(ちなみに、この箇所は、ローマ3:23の「罪」と同様の使われ方をしています。)

罪が「世界world」に入ったというのと、「人類human race」に入ったというのは異なるのです。

B. The Message. (メッセージ・バイブル、Eugene Peterson著. Colorado Springs: NavPress Pub. Group. 1993).

The Message Bible

(元)長老派教会の説教者であり、ブリティッシュ・コロンビアのリージェント・カレッジの教授であるピーターソン氏は、伝道用にと、節の区切りなしのパラフレーズ聖書を独自に作りました。

上記のリビングバイブルに比べると、ずっと保守性に欠け、原典とはまったく無関係の現代的慣用句が盛り込まれています。

1. マタイ9:23で、彼は「笛吹く者たち」および「騒いでいる群衆」を「オーブン鍋を持ってきた隣人たち」と書き変えています。

2. 使徒2:41「三千人ほどが弟子に加えられた」のところを、ピーターソン氏は、「“they were baptized and were signed up. ”彼らはバプテスマを受け、(教会員として)登録された」と書いています。

福音に従うにあたり、メンバーとして登録しなければならないという教えはいったい聖書のどこにあるのでしょうか。

こういった例は、別に悪気があって書かれたものではありませんが、それにしてもパラフレーズが誤りを助長するというのは確かです。

3. マタイ16:18はピーターソン訳では、「“You are Peter, a rock. This is the rock on which I will put together my church.”」となっています。(あなたはペテロです。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てます【新改訳】)。

ペテロに関して、ローマ・カトリック教会が信じていることはまさにこれなのです。つまり、ペテロが最初の「教皇」なのだと。ピーターソン訳が明らかにすることができなかった点は、つまり、イエスが「岩」を表すにあたって、二つの異なった単語(ペトロスとペトラ)を用いておられたということです。

そしてそれによって、教会の建て上げは、ペテロその人ではなく、あくまでペテロのなした告白の上に成り立っているということをイエスは言っておられるのです。

4. またピーターソン氏はエペソ2:8「“Saving is all his idea, and all his work. All we do is trust him enough to let him do it.”」で、カルヴァン主義の傾向を明らかにしています。

こういった背後の事情を知らない人は、このような言葉を読んで、「救いは信仰のみによる。」さらには「信仰というのは神が人に押し付けるもの。」という理解を持ちかねません。

C. 聖書に関する人間の意見を参考にする上でパラフレーズ訳を用いることは可能ですが、聖書そのものとして用いることは決してすべきではありません。

② インターライナー式翻訳(行間訳文 Interlinear Translation

パラフレーズ訳が一つの極だとすると、その反対の極は、インターライナー式翻訳ということになると思います。

インタ―ライナー聖書は、原語一語一語の下に、英語の逐語訳を載せています。そして可能な限り、言語一語の下に、対応する英語一語がくるようになっています。このアプローチの難点は、、、

1. 原典の一語を、一語だけで翻訳できるとは限らない。(二語以上必要な場合もある。)
2. 語順というのは、各言語間でかなりの相違がある。
3. 原文には、英語の中に該当するものが存在せず、訳しようがないもの(例 文法標識)がある。

こういった問題点ゆえに、インターライナー式聖書は、聖書勉強の良い助けにはなっても、教えたり、読んだり、説教したりする際に用いるにはあまりに使い勝手が悪い代物だといえます。

一番入手しやすいインターライナー式聖書は、The Interlinear Bible(Jay P. Green著. Grand Rapids: Baker Book House, 1982)でしょう。著者グリーン氏は、新約聖書の底本に、「受け入れられてきたテクスト(Textus Receptus)」を用いています。

最近の版ではさらに、各原語の下にストロング式の番号振りをしています。

さて、今までパラフレーズ式、インターライナー式とみてきましたが、次に考察してみようと思うのは、これです。

③ “Dynamic Equivalence(ダイナミック等価翻訳)” (thought for thought).

パラフレーズとは少々意を異にするのが、「ダイナミック等価翻訳」ないしは「thought for thought」翻訳として知られるアプローチ方法です。

このアプローチは、パラフレーズ訳に比べて原語での実際の文献に、より依拠しているのですが、意味(もしくは『これが意味しているところだ』と翻訳者が信じるところの意味)を表す際に、より柔軟性をゆるしています。

実際、あらゆる翻訳にはこういった要素が含まれているのです。

例えば、Ⅱヨハネ2:12「あなたがたのところに行って、顔を合わせて語りたいと思います。」という箇所ですが、ギリシア語の原語では「顔を合わせて」ではなく「口を合わせてστόμα πρὸς στόμα」という表現になっています。

こういった点に関し、どこまで柔軟性の幅をきかせるかという翻訳者の判断によって、翻訳は、パラフレーズの方に接近したり、逆に遠ざかったりするのです。

翻訳者が訳に柔軟性をゆるせばゆるすほど、テクストは偏見、解釈ミス、誤りを犯す可能性にさらされやすくなるのです。

ではまず、このアプローチの中でもかなり極端な例から始めて、その後、徐々に逐語訳に近いアプローチの例をみていくことにしましょう。

A. The Voice New Testament. (ヴォイス新約聖書 Nashville: Thomas Nelson Pub. 2008.)

The voice new testament

多くのダイナミック等価翻訳の抱えている問題の一つは、聴衆を惹きつけんがために人間的な仕掛けに頼っていることです。比較的最近出版された『ヴォイス聖書』は、新約本文を、脚本式フォーマットで提示しています。

1. 「キリスト」のところを「解放王(“Liberating King”)」という単語に置き換えています。

2. 「バプテスマ」の代わりに、「儀式的洗い(“ceremonial washing”)」という言葉を使っています。

そしてこの語が出てくるたびに、その下に脚注をつけ、「文字通りの意味は、『浸す(“immerse”)』だ」と記しています。たしかに、バプテスマは浸礼ですが、バプテスマのことを「儀式的洗い」と呼んだからといって、それに関する誤解が解けるわけではありません。

3. この聖書はパラフレーズ訳を自称しているわけではありませんが、聖書本文にあまりにもたくさんの注釈を取り入れているために、事実上、パラフレーズ訳となっています。

例えば、翻訳者が語句を挿入する際、ふつう、イタリック体が使われるのですが、以下にあげる例をみてください。

使徒20:7 “The Sunday night before our Monday departure, we gathered to celebrate the breaking of bread. Many wondrous events happened as Paul traveled, ministering among the churches. One evening a most unusual event occurred.”

(→月曜日の出発前である日曜の夜に、私たちはパンを裂いて祝うために集まった。パウロが諸教会の間を奉仕しつつ旅する中で、多くの驚くべきことが起こったある夜、もっとも尋常でない出来事が起こったのだ。) 

なんと、まるごと二文が、イタリック体で挿入されているのです!これはもう、翻訳ではなく、注解書です!

B. The Amplified Bible. ( アンプリファイド・バイブルFrancis E. Siewert編 (他12 人の学者)。Lockman Foundation. Grand Rapids: Zondervan Pub. 1965. )

The Amplified Bible


この訳は、原語の中の、ある文法構造の中にみられる微妙なニュアンスを明確にしようという目的で生み出されました。これには有用な点もあります。例えば、、、

1. マタイ 18:18: “Truly I tell you, whatever you forbid and declare to be improper and unlawful on earth must be what is already forbidden in heaven(ἔσται δεδεμένα), and whatever you permit and declare proper and lawful on earth must be what is already permitted in heaven(ἔσται λελυμένα).”

ここではεἰμίの未来形+完了分詞が使われているのですが、この英訳はそういった細かいニュアンスをうまく訳出しています。しかし、あまりに注釈が多くなっている箇所もあります。例えば、、、

2. 詩篇51:5: “Behold, I was brought forth in [a state of] iniquity; my mother was sinful who conceived me [and I too am sinful].”

(わたしの母は罪のうちにわたしをみごもりました、という原文だけでなく、その後につづくカッコの中に〔そして私もまた罪深いのです〕という一文が挿入されています。)

3. 1 ペテロ 3:21: “And baptism, which is a figure [of their deliverance], does now also save you [from inward questionings and fears], not by the removing of outward body filth [bathing], but by [providing you with] the answer of a good and clear conscience (inward cleanness and peace) before God [because you are demonstrating what you believe to be yours] through the resurrection of Jesus Christ.”

(→そして〔彼らの解放を〕象徴するバプテスマは、今やあなたがたをも〔内的問いや恐れから〕救うのであって、からだの汚れ〔入浴〕を除くことではなく、明らかな良心〔内なる聖潔さおよび平安〕を、イエス・キリストの復活を通して〔なぜならあなた自身のものであると信じていることを表しているから〕神に願い求めているのである。)

〔〕の中は、一見、聖書本文に存在する語句であるようにみえますが、実際はそうではないのです。こうなると、一種の教派用【注解書】になってしまいます。

B. 主要な海外聖書翻訳協会である、The American (and United) Bible Societyは以下に挙げる二つのダイナミック等価翻訳を出版しました。

The Good News Bible (グッド・ニュース・バイブル、別称 Today’s English Version). Robert Bratcher (新約担当) and six others (旧約担当). New York: American Bible Society, 1976.

The Good News Bible

この訳は、小学校6年生程度の読解レベルで書かれており、広範囲にわたって、翻訳よりもむしろ解釈がなされています。
例えば、使徒20:7では“On Saturday evening we gathered together for the fellowship meal.”とありますが、原典には「安息日のはじめ」と書かれてあります。

またこれを「交わりの食事」と呼ぶことで、クリスチャンが完全な食事と主の晩餐をいっしょにしていたかのような印象を与えています。実際、Ⅰコリント11:17-34でそのことは非難されているのです。

The Contemporary English Version. (現代英語版 New York: American Bible Society, 1995. )

The contemporary English version

この訳を仕上げるに当たり、①のグッド・ニュース訳(TEV)よりも多くの翻訳者が起用されましたが、依然として子どもの読解力レベルを目指すにとどまっています。

この訳は、フェミニスト側からの増大する圧力に屈する形で、聖書の中で性別が明記してある箇所を削除してしまいました。

• エペソ5:22「自分の夫に従いなさい(submit)」という、妻に対する掟の部分が「夫を第一に置きなさい」と書き換えられました。

• Ⅰコリント11:10かぶり物に関してパウロが言及している箇所ですが、「権威のしるし」が、「彼女の権威のしるし」と書き換えられました。

• Ⅰテモテ3:3および3:12。本来、「ひとりの妻の夫」に制限されている教会の役職が、「結婚生活において誠実な者(faithful in marriage)」に開かれていると書き換えられました。

しかし聖書本文ではそんなことは言っていません。これは聖句の改ざんです。

C. New Living Translation. (新リビング訳 Wheaton, IL: Tyndale House Pub. 1996 (2004年改訂版).)

New Living Translation

1996年、テンダル出版社は、マーク・テイラー氏(ケネス・テイラー氏の息子)の指導下、New Living Translationという名の新訳を出版しました。この新訳では、従来のリビングバイブルの読みやすさを保持しつつも、パラフレーズ訳だという汚名を晴らそうとしています。

1. 初版当初、そういった努力により、ある程度、この訳は成功した感がありました。

しかし2004年、テンダル出版社は新リビング訳(NLT)の改訂版を出しました。残念なことに、この改訂版は(場合によっては)、元々のリビングバイブルよりもさらにパラフレーズ化してしまったと言えます。

2. 元来のリビングバイブル(LB)も1996年度版の新リビング訳も、使2:38の箇所をかなり文字通り書き記していました。そのどちらも、バプテスマを「罪のゆるし」と述べています。

しかし、2004年の新リビング訳改訂版では、もはやパラフレーズの域を超え、独自の偏った注釈を聖書本文に入れ込んでいます。

この訳の中でなんとペテロは人々にこう命じているのです。「罪の赦しを受けたということを示すために、イエス・キリストの御名によってバプテスマを受けなさい。」

これは、いくらなんでもひどすぎます!

D. Holman Christian Standard Bible. (ホルマン・クリスチャン標準訳 Nashville: Holman Bible Publishers, 2004. )

Holman Christian Standard Bible

ダイナミック等価翻訳のもたらす偏見や誤訳の危険性を考慮し、ある人々は「逐語訳“word-for-word”」と「意訳“thought-for-thought”」の間のバランスを取ろうとし始めました。

南部バプテスト・コンヴェンションの影響下、ホルマン出版社はいわゆる「最適等価“optimal equivalence”」式の翻訳聖書を発行しました。しかし実際には、依然として教派的偏見が訳の中に現れているのが現状です。

1. 詩 51:5: “Indeed, I was guilty [when I] was born; I was sinful when my mother conceived me.”

人が「罪ある者」として生まれるとは、聖書は教えていません。その少し前の詩篇22:10を、この訳は“I was given over to You at birth; You have been my God from my mother’s womb”と言っています。

いったいどうして、ダビデは「罪ある者」でありつつ、同時に神に「ゆだねられた」者であることがありえるでしょうか?

2. 使徒 22:16: “And now, why delay? Get up and be baptized, and wash away your sins by calling on His name.(→御名を呼ぶことによって、自分の罪を洗い流しなさい。)”

主の御名を呼ぶことは、単に言葉を発すること以上の意味があります。それは全きコミットメント(ローマ10:13参照)なのです。しかし、多くの教派では、これは祈りであり、「御名を呼ぶ」ことによって人は救われると教えています。

E. The New International Version. (新国際訳 International Bible Society. Grand Rapids: Zondervan Pub. 1978.)

NIV Bible

これは米国のプロテスタントの間で最も人気のある翻訳聖書となっています。

この訳は「受け入れられたテクスト(Textus Receptus)」を完全に拒んだわけではありませんが、ギリシア語新約聖書のクリティカル・バージョンにかなり比重を置いています。

この聖書は、さまざまな教派的見解を持つ翻訳者たちによって仕上げられた翻訳だという売り込みに一応なっていますが、実際には、かなりカルヴァン主義の色彩が強い翻訳です。

1. ローマ 8:5: “Those who live according to the sinful nature have their minds set on what that nature desires…”
ギリシア語σάρξ(sarx)は単に「肉」を意味します。ここで「肉flesh」を「罪深い性質sinful nature」と言い変えているのは、カルヴァン神学の全的堕落(Total Depravity)教義を反映したものです。

イエスさまは人類と同じ肉(sarx)をお持ちになりましたが、主には「罪深い性質」はありませんでした(ヘブル2:14参照)。

2. 新国際訳(NIV)委員会は、ここ数十年に渡り、ジェンダー中立語(gender-neutral language)をめぐっての論争に巻き込まれてしまっています。

1996年、NIV訳委員会は、〈男女包括用語版〉聖書(“inclusive language edition”)を発行しましたが、多くの米国クリスチャン指導者によって反対に遭いました。

• 詩篇8:4は元々新国際訳では“What is man that you are mindful of him, the son of man that you care for him?” となっていました。

• しかし1994年発行の子ども向け聖書New International Reader’s Editionでは、“What is a human being that you think about him? What is a son of man that you take care of him?”と言いかえられています。

• 2005年発行のToday’s New International Version に至っては、ついに性別区別の聖書箇所がことごとく姿を消しました。“What are mere mortals that you are mindful of them, human beings that you care for them?” (TNIV)

この箇所をみる限りにおいては、それほど害毒があるようには見えないかもしれません。しかしそこには、原文には存在している、性の区別、役割、言及といったものを拒絶しようという、ある意志が働いているのです。

なぜそうするかというと、現代の偏向や好みにおべっかを使おうとしているからです。しかし、私たち人間に、神の言葉を改ざんする権利はありません!

F. The Dangers of Dynamic Equivalent Translation. ダイナミック等価翻訳の危険性

レランド・ライケン(Leland Ryken)は著書Choosing a Bibleの中で、「ダイナミック等価翻訳のもたらす5つの否定的影響」について言及しています。

その5つの否定的影響とは、1)翻訳の中での勝手な変更 2)聖書本文の不安定化 3)聖書が「意味」していることvs.聖書が言っていること 4)私たちが期待すべきことに至らないこと 5)論理的かつ言語学的な不可能性、です。

この章の中で著者は次のようなことを言っています。

1. ダイナミック等価の翻訳者たちは、自分たちには、無知な読者のために解釈の決定をしてあげるという任務があると考えています。

例えば、ユージン・ナイダは「一般読者は、翻訳者と比べると、いくつか複数の意味を持つような単語について、正しい解釈をするという能力がはるかに乏しい。一方、翻訳者は、不明瞭な聖句について最良の学的判断をすることができるのです。」

しかし、もしそれが本当なら、なぜ、信頼のおける優れた知識を持っているとされている当の翻訳者たちの間に、見解の一致がないのでしょうか。

ダイナミック等価の翻訳者たちは、聖書を読んでいる一般読者が、原文をよりよく理解することができるよう導くのではなく、むしろその反対に、さまざまな聖句を多種多様に訳すことで、かえって読者を混乱に陥れているのです。」(15)

2. レイ・ヴァン・レウウェン(Ray Van Leeuwen)は、「我々は本当に他の翻訳聖書を必要としている(“We Really Do Need Another Translation”)」という論文の中で、ダイナミック等価の翻訳者たちが、聖書本文の中の実際の語句を取り去ってしまっていることに言及しつつ、このように言っています。

「聖書が何と言っているか不明瞭なら、聖書が何を意味しているかを知るのはさらに難しいことといえます、、、

〔機能的等価〕翻訳(すなわち現代の翻訳聖書の大半)の問題は、こういった翻訳により、読者が、もはや聖書的意味を察することができなくなっていることです。

なぜなら、彼ら翻訳者が、聖書が言っていることに変更を加えてしまったからです。」(17)

まさにその通りだと思います!

こういった偏見、誤訳、誤りの危険ゆえに、ダイナミック等価翻訳の聖書は、教えたり、説教したり、公の場で読み上げたり、もしくは聖書勉強の主要テクストとして用いるべきではないでしょう。

④“Formal Equivalence(フォーマル等価翻訳)” (word for word)

フォーマル等価(もしくは逐語)翻訳というのは、原文の実際的内容を表しつつも、インターライナー式翻訳のぎこちなさを克服しようとつとめている訳のことです。

語句が明瞭な箇所ではできる限り、逐語的等価が行なわれていますが、それは原文の内容に沿って行なわれています。

本文がこの一致をどれくらい保っているかという度合いによって、パラフレーズとインターライナーを左右にのせた天びんは上に下に動くのです。

もちろん完璧な翻訳というのはありませんが、それでもフォーマル等価の路線で翻訳を進めていこうとしている訳は、偏見や誤訳、あきらかな間違いなどに陥りにくいということができます。

前回の学び会(“How We Got the Bible”)ではどのような経過で、欽定訳聖書が発行されたかということについて考察しました。近年、欽定訳より前の時代の翻訳に新しい関心が集まっていますが、まずは、欽定訳からみていくことにしましょう。

A. King James Version (欽定訳 Authorized Version).

King James Version

欽定訳は、1611年に、ジェームズ1世の権威の下、64名の学者によって作られた聖書です。1873年、英国国教会は、改訂版を出しましたが、それが現在一般に使われているものです。

欽定訳が、史上もっとも影響力のあった(ある)英語聖書であることは周知の事実です。

この訳は、新約では「受け入れられてきたテクスト」をベースに置き、セクト主義的注釈やウルガタ聖書への過度な依拠を避けつつ、ウィリアム・テンダル等の初期翻訳の上に完成させました。

今でも数え切れないほどの聖書勉強資料の基礎となっており、またキリスト教用語(英語)を形成するのに貢献してきました。この訳は、原語の内容および基本構造を保つ、すばらしい逐語訳聖書です。しかしそこには独自の問題もあります。

1. 一貫してハデスやシェオルを「“hell”地獄」と訳しています。

使2:31“…of the resurrection of Christ, that his soul was not left in hell…(→キリストの復活について、、彼は地獄に捨てて置かれず、、)” 

ギリシア語のハデスは、最後の審判のことを言っているのではなく、審判に先立つ死者の場所(黄泉、冥府)を指しています(黙20:13-14参照)。

2. 時代錯誤的な名称や表現が時折使われています。

使12:4“…intending after Easter to bring him forth to the people.(→復活祭の後に、民の前に引き出す)”

ギリシア語のπάσχα(pascha)は、ユダヤの過越の祭りのことを指しているのであって、キリストの死を覚えるために新約以後できた復活祭のことではないのです。

3. 不確かな聖句が含まれています。1 ヨハネ 5:7 (いわゆるJohnannine Comma) :

“For there are three that bear record in heaven, the Father, the Word, and the Holy Ghost: and these three are one.”(←この句は口語訳にも新共同訳にも新改訳にも含まれていません。訳者註)

この句は新約聖書で説かれている真理を反映したものではありますが、(11世紀以前の)ギリシア語写本にも存在していない句です。

これはエラスムスのギリシア語新約聖書の第一版にはなく、後代の写本(おそらくラテン語聖書から挿入されたと思われます)が彼の元に持ってこられて後はじめて挿入されました。

4. 最初に発行されて以来、400年の歳月が経つうちに、意味が変わってしまった言葉が今も使われています。例えば、ルイス・フォスターは著書Selecting a Translation of the Bibleの中で以下のような言葉を挙げています。

もはや使われていない言葉(廃語)
Carriages (使徒 21:15) は手荷物を意味します。
Script (マルコ 6:8) は財布もしくはカバンを意味します。
Fetched a compass (使徒28:13)は船で回ることを意味します。

意味の変わってしまった言葉
Letteth (2 テ2:7) 「制限する」
Prevent (1 テサ4:15) 「先行する」
Charger (マルコ6:25) 「大皿」
Conversation (ヤコブ 3:13) 「行ない」

私の書棚には、『欽定訳聖書のことば』という本があるのですが、これは実質的な事典であり、現代の英語読者のために中世英語の意味を説き明かしています。

こういう事典が必要とされるような欽定訳の難解さは、教えたり、説教したり、個人的な学びをする上で深刻な妨げとなります。

こういった問題を解決すべく、欽定訳の現代語バージョンが数多く、出版されました。その中でももっとも有名なものが次にあげる新欽定訳です。

5. The New King James Version. (新欽定訳 Nashville: Thomas Nelson Pub. , 1982. )

New King James Version

この訳はもはや使われなくなった言葉や表現を排除しつつも、欽定訳のスタイルや流れを保っています。これは旧来の欽定訳にかなり近いので、読者は混乱することなく、欽定訳にベースを置いた補助教材などを使うことができます。

• 新欽定訳(NKJV)も完璧ではありません。この聖書にも例のⅠヨハネ5:7の句が含まれています。

• 新欽定訳が「受け入れられてきたテクスト(Textus Receptus)」を使用していることを「弱点」とみなす人がいます。しかしある写本が古ければ古いほど、原本に近いのだと決めつけるのは、ちょっと早計だと思います。

それだと不備があったり、もしくは改造された写本も、正確な写本と同様の取り扱いを受けることになります。これは危険な想定だと思います。

• 新欽定訳は、最近の写本発見から引き出される妥当な証拠をことごとく、下の脚注部分に書き出しています。

• 新欽定訳は、欽定訳の語彙、影響を保ちつつも、原本の語句および構造に直接対応するような現代英語を使っています。逐語訳で、尚且つ、ぎこちない文体ではありません。原本の内容を保持しつつも読みやすいです。

B. American Standard Version 1901. (アメリカ標準版)

American Standard Version

これは、欽定訳の改訂として、19世紀の写本発見を取り入れた初の米国翻訳聖書です。

これはかつてないほど、厳格な逐語訳であり、いくぶん文体としてはぎこちなさがあるほどです。

それまでは慣例として神をあらわすヘブライ語の名はLORDと訳されてきましたが、この聖書ではJehovahと言及されています。

二人称単数、複数を区別すべく、“theeなんじ” “yeなんじら” という古英語を保持しています。20世紀、広範囲に渡り、多くの信者が、この聖書を使用しました。

最近は入手するのがむずかしくなってきました。現在、この訳を出版しているのはスター聖書出版社だけです。しかしインターネットでは容易に見つけることができます。

1. New American Standard Bible. (新アメリカ標準訳聖書 Lockman Foundation.1971, 1995年改訂.)

New American Standard Bible

上記のアメリカ標準版(ASV)の文体のぎこちなさを克服し、さらにアメリカ標準版が発行された後に発見された写本も考慮にいれ用いるべく、新アメリカ標準版は発行されました。

厳格な逐語訳でありながらも、現代の語彙も取り入れることでアメリカ標準版(ASV)よりも読みやすくなっています。

• この訳は非常にすぐれた訳ですが、「受け入れられてきたテクスト」のいくつかは脚注に移されました。

C. Revised Standard.( 改定標準訳 Nashville: Thomas Nelson Pub. 1952. )

Revised Standard

この訳は、NCC(キリスト教協議会)の影響を受けたリベラル派の学者たちによって作られた、テンダル‐欽定訳‐アメリカ標準版路線の初の改訂版です。

こういった学者たちは、聖書が神の霊感をもって書かれた書であるという見解をもっていません。

マタイの福音書の注解書を書いた福音伝道者H・レオ・ボレスは、この翻訳委員会に参加を求められましたが、一回目の会合の後、参加を辞退しました。

この訳のリベラル主義は、例えばイザヤ7:14などにはっきり出ています。(マタイ1:23で引用されている)処女降誕の預言を認めず、次のように言っています。

Therefore the Lord himself will give you a sign. Behold, a young woman(←若い女性がみごもる、となっています。) shall conceive and bear a son, and shall call his name Imman'u-el.”

1. New Revised Standard Version. (新改定標準版)

New revised Standard version

1989年、NCC(キリスト教協議会)は、改定標準版以降に発見された写本を考慮に入れ、上記の改定標準訳(RSV)聖書の改訂版を出版しました。

イザヤ7:14「若い女性」にみられるようなRSV聖書のリベラル的要素を保持し、さらにダイナミック等価翻訳の方向へ近づきました。――神に関しては依然として男性言及を保持しつつも、人間に対しては、ジェンダー中立語を取り込みました。

D. English Standard Version. (英語標準版Standard Bible Society. Wheaton, IL: Crossway Books and Bibles, 2001. )

English Standard Version

この訳は、みずから「原本に対して透明」であるよう心掛けつつ、「本質的に逐語訳である」と表現しているように、最新の逐語訳聖書です。

1. 英語標準版(ESV)は、前述の新アメリカ標準版聖書と非常に似通っています。同じ底本を使い、原文に一語一語対応するような保守性を保持しています。

2. 「ジェンダー中立語を本文に入れろ」という圧力に対し、意図的に抵抗しています。

3. 英語標準版の編集者たちは、翻訳者によって挿入された言葉をイタリック体で表すという従来の慣習に従わないという不幸な決定をしてしまいました。これにより、読者は、ある語や句が実際には原文に存在しないのに、それを存在しているものであるかのように思い込んでしまう可能性があります。

例えば、ローマ8:5 “For those who live according to the flesh set their minds on the things of the flesh, but those who live according to the Spirit set their minds on the things of the Spirit.”

これは正確な訳ですが、“set their minds on”という表現が重複しています。(ギリシア語原文では重複していません。)もしこれがイタリック体で書いてあれば、そこらへんがクリアーになっていたと思います。

4. ESV聖書は少々、言葉の選択に一貫性がないところがあります。

例えば、マタイ16:18では、hadesを不正確にも「地獄」と訳していますが、使2:31、ルカ16:23などではちゃんとハデスと訳しているのです。

とはいえ、ESV聖書は、論争中の聖句などに偏見に基づいた訳語を当てることなどは避け、あくまで原文の内容に細心の注意と敬意を払っています。

≪結論≫

翻訳というのはなかなか難しい問題です。もし聖書を学ぶすべての方がコイネー・ギリシア語と聖書ヘブライ語を学ぶことができたら、それにこしたことはありません。しかしそれは現実にはありえないことです。

自分の聖書を選ぶに当たって、聖書を学ぶ者は細心の注意をはらう必要がありますが、だからといって、神の御言葉が平易さの中では理解しえないと考えるのは間違っています。

最もひどい翻訳聖書であったとしても、依然としてこの平易さより来る力を宿しているのです。

パラフレーズ訳や「ダイナミック等価」翻訳が、聖書本文にもたらすかもしれない偏見、誤訳、誤りといった危険性ゆえ、そういった訳の聖書は、学びや教え、説教、もしくは公の場での使用には決して使うべきではありません。

フォーマル等価翻訳聖書の中では、Revised Standard(改定基準版)およびNew Revised Standard(新改定基準版)は聖書の霊感やジェンダーの区別といった領域で、あまりにリベラル色が強いといえましょう。

English Standard Version(英語標準版)は、翻訳者の挿入であることを示すイタリック体があったらさらに良かっただろうと思いますが、それでも、欽定訳、アメリカ標準訳、新アメリカ標準訳、新欽定訳と並んで、学びや読解、説教、教えといった用途に用いることのできるすぐれた訳であることは確かです。

私の個人的見解では、「受け入れられてきたテクスト」を保持しつつ、脚注には異本を記している新欽定訳(NKJV)が、現在入手できる、もっとも有益なフォーマル等価翻訳であると思います。

2010年 カイル・ポープ

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訳者あとがきと祈り

悪魔が嫌いなことは、人が御言葉を読んで、永遠の救いに導き入れられることです。

そのため、中世を通して、サタンは何とかして聖書が翻訳されるのを防ごうと立ち働いてきました。

しかし宗教改革を口火に聖書は堰を切ったように各国語に訳され始めました。

さあ、サタンは劣勢に立たされました。そして考えたのです。

〈くやしいが、もう、この流れを止めることはできない。だが、このままでは引き下がらないぞ。あっ、そうだ、いい考えがある!〉

これまで外から攻撃してきたサタンでしたが、今度は作戦を変え、内側から御言葉の破壊工作にかかり出したのです。

サタンは、神を敬わず、みことばを畏れない不敬虔な人々の心にインスピレーションを与え、彼らを通して、御言葉を改ざんし始めました。

そして、その改ざん作業は今日も、したたかに、着実に進んでいっています。


しかしまたここに、主の御言葉を心から愛し、御言葉の真理を日々求めている一群の信者がいます。

どこの大陸にも、そういった一群のキリスト者が存在します。

彼らは全身全霊で、主の御言葉を守ろうとしています。そして破壊工作により壊れてしまった部分を修復しています。

彼らは雨に打たれ、風に吹き悩まされても、修復作業をやめることをしません。

そして妥協のない真実の御言葉を、まっすぐに説き明かしています。


主よ、私は祈ります。

どうか私たちの国に、この世界に、神を畏れ、神の御言葉を心から愛する、敬虔な聖書学徒をたくさん起こしてください。

彼らを通して、純粋な御言葉がこれからの後も、保たれますように。

彼らにダニエルの知恵を与え、エリヤの勇気を与えてください。

「あなたがたは正義の種を蒔き、

誠実の実を刈り入れよ。

あなたがたは耕地を開拓せよ。

今が、主を求める時だ。

ついに主は来て、正義をあなたがたに注がれる。ホセア10:12」

イエス・キリストの御名を通して祈ります。アーメン。





追加資料) 2015年6月
2011年NIV (新国際訳)についての注意喚起




新国際訳(NIV)の問題について、さらに徹底的にお調べになりたい方へ。

The NIV Reportという論文をネットで読むことができます。

筆者である父親は、かつて家族と共に、この訳の聖書を使っていたそうですが、やがてこの訳にひそむ問題に気づくようになりました。

「子どもたちの聖書教育のため、家族の霊的成長のため、いったい、どの聖書を用いたらいいのか?」という切実な問いをもって、この父親はNIV訳の検証に乗り出しました!
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なんのために書くのか

宣教地で実感している聖書選択の大切さ

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